全30件 (30件中 1-30件目)
1
我が農園のジャガイモ・『インカのめざめ』を掘り出し収穫しました。インカのめざめは原産地・南米アンデスのジャガイモを日本向けに改良したもの。やや小ぶりなものも多いですが今年もまあまあの収穫量。早速、小粒のものを選び茹でて、バターを絡めて見ました。鮮やかな黄色と、コロコロと小粒な姿、栗かサツマイモを思わせるホクホク感。アメリカでは、ナッツ類に味が似ている事から"ナッティポテト"と呼ばれたり、スウェーデンでは"アーモンドポテトと呼ばれているとのこと。身の黄色にはβーカロテンが豊富に含まれ、粘膜を強化し風邪予防や肌に潤いを。ゼアキサンチンと言う成分も多く、強い抗酸化作用でアンチエイジング効果が一般的なじゃがいもの7倍あるとのこと。大いに食べてアンチエイジング効果→老化防止効果 に期待したいのです。
2012.06.30
コメント(0)
我が家の庭に、今年も各種の百合の花が開花を始めています。花の時期は、 梅雨の始まる 6/ 初旬~ 8/ 中頃。 いろいろ種類があり、我が家の百合も開花時期もそれぞれ少しずつ違うようです。細い茎に大きな花がつくので風に揺れることから 「ゆる(揺)」、それが変化して「ゆり」になった。漢字の「百合」は漢名からで、葉や鱗茎(りんけい)が多数重なり合うことからとのこと。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」 と言う言葉があります。 "シャクヤクのように風情があり、牡丹のように華麗で、百合のよう清楚" という、女性の美しさを形容する言葉なのです。我が家にも、いろいろな色の庭の花の他に、百合!!いやシャクヤク!!が1輪、家の中を揺れ動いているのです。昔からの山百合も。毎年、朝日新聞さんがプレゼントしてくれるので、この時期同じ百合の花が庭に咲いていると同じ新聞を購読されていることが解るのです。花が咲いてそのままにしておくと、種がついてしまいます。すると、種の方に栄養分が行ってしまうので、球根の充実させるには花後の処理をしっかりやる必要があるのです。また、開花期が終わったら、礼肥を与えています。遅花後の礼肥は、球根の充実の為になるのです。今年も忘れないようにしないといけません。本当は数年に一度植え替えすと良いと解ってはいるのですがなかなか・・・・・・・。
2012.06.29
コメント(0)
天草への出張の前日は、福岡支社の同僚が支社の近くの中洲川端にホテルを予約してくれていました。部屋に入るとビックリ。一般的なビジネスホテルとはちょっと違った雰囲気!!。トイレとベッドルームが透明のガラスで仕切られているのでした。そして入り口右のシャワールームも透明ガラス。バスタブはなし。トイレから入り口ドアが見えるのです。と言うことはドアロックをかけ忘れ、他の宿泊客が部屋を間違え私の部屋に入ってきたら、そしてその瞬間、私がトイレで頑張っていたら・・・。チョット考えすぎなのですが・・・・・。トイレ内部からのベッドルーム。部屋は、清潔感があり、色使いは落ち着けたのですが・・・・・・。若者は喜ぶのでしょうか?還暦過ぎのオジサンにはキツイのでした。トイレ内部からテレビも見ることが出来るのでした。また、利用したいと思います??????
2012.06.28
コメント(1)
トルコ旅行から帰った週末は九州・熊本・天草へ出張しました。営業の出向依頼が以前からあったのですが、トルコ旅行との関係でこの日まで延ばしてもらっていたのです。博多に前夜泊し、福岡空港から飛行機で天草空港へ朝一番の飛行機で向かいました。利用したのは『天草エアーライン』。天草エアラインは熊本県を拠点とする第三セクターのコミューター航空会社。飛行機はDHC-8 ボンバルディア 双発機。プロペラの飛行機に乗るのは何年ぶりか?徒歩にて飛行機に乗り込む。座席の窓の直近には黒いプロペラが。 飛行コースは有明海沿いを飛び、熊本県・三角半島付け根から右に旋回し天草空港へ。右席眼下には雲仙普賢岳が見えた。1991年(平成3年)6月に発生した火砕流で多くの犠牲者が出たことは周知の事実。雲仙が過去から何度も噴火し海へと溶岩が流れ出たことが上空から理解できた。南島原市上空。そして天草市上空。ここで写真撮影禁止。座席最後部からの機内。45人?乗りであるが乗客は半分以下であった。最後部はバス式で5列シート、そして最前方にはボックス席に!。飛行機では初めてボックス席を見たのでした。天草空港。ボーディングブリッジは設置されておらず旅客は直接、飛行機より徒歩にて空港ターミナルへ。天草空港のマスコット、天空流(てんくる)君が出迎えてくれました! そして仕事の途中で、昼食へ。刺身定食を注文。黒鯛のかぶと煮と刺身の7種類と量にビックリ。仕事を終え、帰路に。外は午後から天候が急変し豪雨。福岡からの飛行機は着陸出来ず熊本空港へ着陸とのことで半分この日は天草にて宿泊の覚悟をしたが、幸い熊本空港から天草空港へ飛んできてくれたのであった。18:00発の最終便で福岡空港へ。搭乗用のドアが閉まると内側はタラップになっていることが解ったのであった。雨に濡れた窓から再びプロペラ。頼むぞ!!!離陸はしたものの福岡空港までの30分は久しぶりの大揺れを体験。お尻が浮く間隔は久しぶりの緊張感。しかし無事福岡空港へ着陸。降機時の飛行機嫌いの同僚の顔が忘れられないのであった。福岡空港から羽田空港への飛行機に乗り換え23時過ぎに帰宅したのであった。
2012.06.27
コメント(1)
トルコ旅行記もとりあえず完了したので、いつもの『つれづれなるまゝに、日ぐらしパソコンに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。』の再開です。 旅行から帰った週末の土曜日は妻の誕生日そして還暦。と言うことで、妻の還暦祝い、息子のロンドン転勤壮行会、そして私のトルコ旅行報告会そして・・・・・・を兼ねて家族で食事に出かけました。向かったのは相鉄線、立場駅近くの店。以前から気になっていた店。入り口。鎌倉の寺の入り口の如し。コースを注文。そしてビールも。前妻いや前菜の小鉢3種。すずきの昆布〆。 名物とうふしゅうまい。還暦祝いとのことで店からは赤飯のサービス。鰹の刺身。冬瓜の海老そぼろあん掛け。鮎の塩焼き。いろどり冷やし豆腐。夏野菜と鱧のチリ酢。もろこしと黒米の炊き込みご飯。デザート2種。店の方が家族写真を撮ってくれました。そのままアップ出来なくて残念。チョット目の部分にモザイクを。すいません。『貫禄』の いや 『還暦』の妻へ還暦おめでとうございます。そして33年間夫婦として付き合ってくれて有難う!!。3人の子どもたちも立派に育って頑張ってくれています。これからもう2年ほど年金が出る近くまで私も現役で頑張るつもりです。これからも健康に留意し、互いの天寿を全うするまで?(貴女は少なくとも私より1日遅くまで)宜しくお付き合いをお願い申し上げます。これから二人とも、ただ老後として無為に過ごすことなく、充実した有意義な人生にするために、貴女の還暦を機にもう一度、残る長い生涯の人生設計を『それぞれ、それなりに』立てて、新たな歩みを始めましょう。今後ともよろしく!!
2012.06.26
コメント(6)
【6月10日】~【6月11日】クルージングを終え、とうとうイスタンブールともお別れ。日本に帰る時がやって来たのだ。過ぎ去ればあっという間の時間。いろいろな我がTOUR仲間、皆さん旅慣れているのか聞いてはいけない個人情報は決して聞かない、名前も良く解らないままお互いに親しく会話し、それぞれ皆さん、夫婦そして自分のやり方で楽しんでいたのであった。バスでアタチュルク国際空港へ向かう。管制塔。そしてターミナルに到着。絨毯やトルコ石を土産に買った者は、簡単な税金に関する手続きを行った後、現地添乗員のZEKIさんとの別れを惜しみながらチェックイン。目指すは往路と反対のカタール・ドーハ→関空→成田空港。アタチュルク空港ともお別れ。そして離陸後2時間ほどで機内食。そしてドーハ到着は深夜。ドーハ離陸後1時間の爆睡から醒めると再び。そして再び爆睡後、日本食のうなぎを選択。そして韓国上空を横断し日本海から日本上空へ。 そして関空へ17時前に着陸。1時間のトランジットであるが手荷物全てを持ち、一端降機後、再搭乗し成田空港へ。あと30分で成田空港到着。飛行機を降り出国手続きに向かう。そして3人とも無事元気に通関手続き完了後、添乗員のIさん、旅友と別れの挨拶をしてSさんの車で、そしてSさんの運転で我が家に立ち寄ってもらい帰宅したのであった。 トルコをバスで3500Kmを慌ただしく巡る旅であった。トルコ、そしてイスタンブールの街で一番目についたのが信号機。ここでは日本でも雪国に行くとお目にかかる縦長の信号機ばかり、そしてタクシーは黄色一色、観光バスは白一色と統一されていたのであった。また乗用車も大型は少なく中型の乗用車が多かった。横断歩道の青信号は時間が短い。これは車の渋滞対策?そしてエレベーターのドアも。そして、先日も触れたが、トルコ国内、街には猫が何処に行っても日向ぼっこを。しかも近寄っても決して逃げない猫たち。そして田舎では鎖の無いままにあちこちで犬が歩いていた。 トルコ料理は私の口にはまあまあ。野菜類とアイスクリーム、ヨーグルトは旨かった。菓子類は、全てが甘く出来ており、味は悪くは無いが何しろ甘かったのであった。 そしてトルコはヨーロッパとアジアの文化がミックスした独特な魅力あふれる国であった。美しいブルーモスクをはじめとするイスタンブール歴史地区、トロイ遺跡、カッパドキア、パムッカレ、サフランボルなどイスラムの国トルコには10の世界遺産が。今回の旅ではそのうちの5つの世界遺産と遺跡などを巡って来たのだ。そして連日好天に恵まれボスフォラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡、エーゲ海の素晴らしい光景と海の青さに感動した旅であったのだ。 今回も毎朝5時前に起床し、旅友のSさんとホテル周辺を歩き回ったのであった。それにしても散歩する先々でトルコの人々は日本人にはフレンドリーに接してくれたのだ。親日というのはその国の文化や伝統に興味を持つというのがひとつの尺度、小学校では日本に関する授業も行われていると。トルコは日本語学習熱の高い国なのだろうか?なにしろ土産物屋の店員の日本語は素晴らしいのであった!!。 そして今回の旅行で、トルコは日本人が想像する以上に、世界史の中の立役者であり大国であったことを知ったのであった。エジプトからギリシャは、そしてもちろん東欧もオスマントルコ帝国の領土であったのだ。今でも、旧オスマントルコ圏の文化には色濃くトルコの影響が見られるのだと。ブルガリアといえばヨーグルトだが、これもトルコが本場とのガイドの説明。更にエジプト人などはイタリア人以上にピザを食べるらしいが、これもトルコの文化と。 そして何より感動したのはイスタンブールの街並みとボスフォラス海峡。ローマ時代の遺構や新市街の近代的ビル群がヨーロッパを思わせる一方、活気あふれるバザールや巨大なモスクがアジアを彷彿させる不思議の街、イスタンブールであったのだ。そして古都、古代遺跡、自然遺産をバランスよく見ることができた印象深い旅であった。そして今回の土産、記念品。カッパドキアの風景を刻み込んだ陶器に入ったワイン。アルコール濃度45%もトルコ名物『ラク酒』。水で割ると牛乳のごとく白くなるのだ。チョコレート。そして玄関マット用絨毯と小物の数々。既にプレゼントしているので残り少なくなっては来ているが。その他にはTシャツ、帽子も。来年はチェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリアの中欧4ヵ国を予定しているのである。今回も6日間の有給休暇をもらっての旅立ち。何とか首が『飛んでイスタンブール』にならずに現場に復帰している還暦過ぎのオジサンなのである。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★ 完 ★★★★★★★★★★★★★★★★
2012.06.25
コメント(1)
【6月10日】ホテルに戻り、徒歩で15分程度の場所にあるスーパーマーケットに向かう。ここはMさんの奥様が是非訪ねて土産物をスーパーで安く購入したいとの希望から。 日本のスーパーの野菜売り場と同様に見事に商品が整理され並べられていた。これは何かと言う知らない野菜は並べられていなかったが、日本の野菜に比べて大きいのが特徴か。各種トウガラシが販売されていた。巨大なスイカと赤キャベツ。私はピッサチオとアーモンドの2種類を購入しただけでホテルに戻る。トランクのパッキングを終えチェックアウト。12時にバスはホテルを出発し昼食のレストランへ。 バスに戻り最後のイベントであるボスフォラス海峡のクルージングに向かう。運転席横にはバスの運転手の安全運転宣言書が掲げられていた。今回は1台の同一バスでトルコを周遊。200km以上の長距離移動の場合は必ず2人のドライバーが乗り込み交代運転。どこかの国の廉価バスツアーとは違っていたのだ。併せてバスはGPS機能でツアー会社の本社で常時監視されており、スピードオーバーが継続するとアラームがなり、本社から警告の電話が添乗員の携帯にかかって来る仕組みであるとの事。そしてバスがスタートする度に、添乗員からシートベルト着用の指示が出たのであった。そして我々のツアー専用のクルージング船でガラタ橋近くから出発。アタチュルク橋。その奥に金角湾が続く。この朝訪ねたガラタ塔が青空に向かって聳え立っていた。ガラタ橋の下を通過。この時間も多くの釣り人が糸を。こんな大都会の中心の橋で釣りが24時間出来るのは世界でもこのイスタンブール・ガラタ橋だけではないだろうか。シュレイマニエ・ジャミイ。旧市街地にあるイスタンブール最大にしてトルコ最大のモスクで、イスタンブールのランドマークになっている堂々たるモスクであった。カラキョイ桟橋には豪華客船が停泊中。船名は 『LOUIS CRISTAL 』。エーゲ海やトルコ湾岸を周遊する客船で全長:162m 全幅:25.6mであると。新市街の斜面には多くの建物が。岸辺のピンクの印象的な建物も。ドルマバフチェフ ・ジャミイ。ドルマバフチェ・ジャーミィは、1853年、宮殿をトプカピからドルマバフチェに遷した際、アブデュルメジト1世が自分の母のために建てたモスク。ボ スポラス海峡に突き出すように建っているのだ。ドームの四隅の塔はドルマバフチェ宮殿と同じくバロック式、折れそうなほど細いミナレット(尖塔)は、アカ ンサスの葉をあしらったコリント式とのこと。ドルマバフチェ宮殿近くの白き建物。午前中冷や汗をかいたドルマバフチェ宮殿をボスフォラス海峡から見る。初代トルコ共和国大統領のムスタファ・ケマル・アタチュルクは、イスタンブールに滞在するときは、ドルマバフチェ宮殿のかつてはハレムだった一室で公務に当たり、執務中に亡くなった。その部屋は現在も「アタチュルクの部屋」として、そのときのまま保管され、公開されているのだ。彼の偉業を偲ぶために、ドルマバフチェ宮殿内の時計は、彼の死亡した9時5分のままになっているとのこと。残念ながら見ることは出来なかったが・・・・・。トルコ随一、つまり、トルコでもっとも宿泊料金が高いと言われている高級ホテル、チュラーン・パレス・ケンピンスキー・イスタンブール。ボスフォラス大橋が見えてきた。ヨーロッパ側。アジア側。真下を通過。トルコ国旗とボスフォラス大橋。イスタンブール エジプト領事館 。山の斜面に多くの高級別荘が立ち並んでいた。左手にルメル・ヒサル。ボスポラス海峡の要衝に位置するルメリ・ヒサルは見通しが良く、風光明媚であることから、廃墟が修復されて一般に公開され、観光客で賑わっているが、対岸のアナドル・ヒサルは、廃墟のまま放置されているのだ。トルコ語でルメリとはヨーロッパ、アナドルとはアナトリア(小アジア)を意味し、ヒサルは要塞。ルメリ・ヒサルはヨーロッパ側の要塞、アナドル・ヒサルはアジア側の要塞ということになるのだ。そして海峡最狭部に架かる第2ボスポラス橋。イスタンブルを征服し、「征服者(ファーティフ Fatih)」と呼ばれたオスマン帝国の皇帝、メフメト2世に因んでファーティフ・スルタン・メフメト橋が正式名称。全長:1,510m。日本の政府開発援助のもと、石川島播磨重工業(現IHI)や三菱重工業などにより建設され、1988年に完成。同年に開通した瀬戸大橋とは姉妹橋の関係にあるとのこと。この手前で船はUターンし帰路へ。赤線が船旅のコース。
2012.06.24
コメント(0)
【6月10日】この日はトルコ旅行観光の最終日。帰国日でもあるので午前中は自由行動。よってこの日も早朝からイスタンブールリ市内散策に5名で向かう。この日もホテルからタクシーで新市街地にあるガラタ塔まで行く。5~6世紀に灯台として建てられたのが始まりで、その後、この地に居留していたジェノバ人が地中海貿易のライバルであったベネチアや宗教の異なるビサンチンの攻撃に備えるため、1348年に監視塔として再建したものといわれるのだ。ガラタ塔は12階建て、高さ61mの塔であるが、その最上階に高さ53mの展望テラスがあり、360度のパノラマが楽しめるとのこと。ここから見る夜景がイスタンブール随一といわれ、必見のスポットであると。しかしながら開門は9:00から。入り口の門にはたくさんのパンが入ったビニール袋がぶら下げられていた。中にある売店で販売するパンが配達されてきたのであろうか?次の目的地はタクシム広場。イスティクラル通りに向かう途中、道端には多くの猫が我々を歓迎してくれた。本当にイスタンブールの街はネコだらけ。あちらこちらで、野良猫たちの姿を見かけたのだ。目を細めて日だまりで丸まっているネコ、近づいても逃げることもなく、撫でてもまったく動じない、逆にネコが走り寄って足にスリスリと甘えて来たのだ。追い払われることもない、優しい住人たちに食べ物をいつでも貰えるネコたちにとって、イスタンブールは世界一住みやすいネコ天国の街?そしてトラムの走るイスティクラル通りを歩く。イスティクラル通りに来ると、ほとんどがアジア大陸に横たわるトルコであるが、トルコはやはりヨーロッパの一部であると言うことを強く感じたのだ。洒落た通りといっても、日本の近代的なビルの立ち並ぶショッピングストリートとは違い建物そのものが明らかにヨーロッパ風。しかし人の数はほとんど無し。途中反対方向からは旅友の二人ずれが。我々とは逆コースで早朝散歩とのこと。この日は日曜日でもあり、昨夜のゴミが道路の至るところに散乱。ビール瓶が割れて道路の上に散乱していたのであった。 このゴミを一気に片付ける強き味方が大活躍中。テュネル駅~タクシム広場を往復しているトラム。途中、中学生であろうか、数人の学生達が一緒に写真を撮って欲しいと。そしてメールで送って欲しいと。あくまでも日本人に親しみを持つ若者達。 タクシム広場に到着。新市街のタクシム広場一帯は、5星、4星クラスの、日本人の泊まるホテルが集中していると。タクシム広場中央に立つ銅像は、共和国建国の父、アタチュルク(中央)と仲間たち。タクシム公園内を歩き海岸へ向かう下り坂を進むと高層ホテル前へ。リッツ・カールトン。ボスポラス海峡に面している部屋は眺めも素晴らしいそう。多くの日本人観光客が泊まっているのであろう。ホテル前には数台の観光バスが留まっていた。アタテュルク・オリンピック・スタジアム。2008年の夏季オリンピック招致を目的に建設。2004年にUEFAの5つ星スタジアムに認定されたと。2005年にはUEFAチャンピオンズリーグ決勝が行われたとのこと。イスタンブールは2020年夏季オリンピックの開催地選考で東京、スペインのマドリードと共に正式立候補都市に選出され、1次選考を通過しているのだ。そして海岸に到着。目の前に大きなドームが。ドルマバフチェ・ジャミィ。1853年につくられたモスクで、ドルマバフチェ宮殿のすぐ横にあった。そしてドルマパフチェ宮殿入り口。イスタンブルを征服したオスマン帝国のメフメト2世によって造成された庭園に、1843年にアブデュルメジト1世の命によって宮廷に仕えるアルメニア人建築家が設計、従来あった木造宮殿を取り壊して建てられた。1843年に着工され1856年に完成。以降、1922年に最後の皇帝メフメト6世が退去するまで、トプカプ宮殿にかわってオスマン帝国の王宮として利用された宮殿。入場券を買い中に入ると見事な庭園が眼前に拡がった。宮殿の前にはあっという間に観光客の列が2列。豪華絢爛な数々の部屋、アタチュルクの寝室、庭園など見所がたくさんのはずであったが。9:30開場とのことで庭園を散策。庭園横からはボスフォラス大橋が見えた。9:30になったので列に並ぶ。列は2列。団体用と個人用。個人用には看板が。『English』と『Turkish』の2文字が書いてありそれぞれに時間が。そして入場は予約の団体客が優先。我々の入場は遅れて9:50。漸く靴にビニール袋を履き入場するも中でも長蛇の列。そして中の掲示板には2時間かかり途中退場は禁止の文字が!!遅くとも10:30にはこの宮殿を出てタクシーでホテルに戻らないといけない、そして休日のイスタンブール渋滞に引っかかったらアウト。よってせっかく入場券を購入(1500円)して入っては見たが、入り口の大きな見事なシャンデリアだけ見ただけで宮殿内は諦めて外に出たのであった。実は時計を見ながら見学し、時間が来たらその後の見学は諦め途中退場は覚悟していたのであったが・・・。後でガイドブックをきちんと読んでみるとチャンと書いてあるではないか。『見学は英語、トルコ語のガイド付きグループで30分毎に出発。全部見ると2時間。観光客の多い夏期には、待ち時間も考えておくのが良い』と。ここで初めてEnglishとTurkishの2文字が解ったのであった。何故イギリス人、トルコ人に区別するのであろうか不思議に思っていた愚かな私であった。 宮殿の時計台タクシーを拾い急ぎ足でホテルに向かう。タクシーの中で事前調査不足を旅友に詫びる。この宮殿見学は土日は1日をつぶす覚悟がなければ観光は無理な宮殿だったのだ。日本からのツアーの訪問地に入っていない理由が解ったのであった。これも旅の楽しみと旅友に励まされたのであったが・・・・・・。危なかった、宮殿内で途中で見学を止め、帰ろうにも宮殿内は迷路の如きであろうし・・・・・・案内してくれることもなく、そして稚拙な私の英語では・・。やれやれ。 タクシーで冷や汗を拭きながら帰る途中、車前方に大きな壁が。ヴァレンス水道橋。ローマ帝国時代の水道橋の遺構。イスタンブール旧市街のおよそ中央部、ファーティフの丘とエミノニュの丘の間にかけられており、北西郊外の森にある水源から引かれた上水を旧市街東部のスルタンアフメト地区にある地下貯水池へと中継する役割を果たしたのだ。本来の全長はおよそ1kmあったが、現存するのは800mほどの部分。そして無事ホテルに予定時間を少し過ぎ到着。この旅行最大の危機であったのだ。
2012.06.23
コメント(0)
【6月9日】トプカプ宮殿からの帰り道、黒い布で体を覆う女性達。イスラム教の聖典コーランによれば女性は顔と手以外を隠し、近親者以外には目立たないようにしなけらばならないことから、保守的なイスラム社会では女性は頭をふくめた体を隠す服装をすることが多いのだ。この服装はチャードルと呼ばれ、トルコの女性が外出して公衆の面前に出る際、伝統的に身に着けてきた衣装。そして土産物屋の店頭で陶器に絵付けをする美人女性。私のカメラに笑顔を。そして地下宮殿の見学へ。地下宮殿の通称で知られるバシリカ・シスタン (Basilica Cistern) は、イスタンブールにある東ローマ帝国の大貯水槽。現存する東ローマ帝国の貯水池としては最大のものである。現在は一般にも公開され、イスタンブルの歴史地区として世界遺産にも登録されているのだ。貯水槽は長さ138m・幅65mの長方形の空間で、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石円柱を備え、それぞれが煉瓦造の交差ヴォールトを支える。これによって78,000m³の水を貯えることができるとのこと。黒海に近い水源から19キロかけて水が運びこまれ、ここからアヤソフィアやトプカプ宮殿などに供給されていたのだとか。ローマ時代から残る、何本ものコリント式やイオニア式の柱がオレンジ色の照明でほのかにライトアップされている様は、確かに厳かな宮殿そのもの。涙の柱。柱のモチーフが、逆向きの涙のしずく模様な上に、常にしっとりと濡れているからこう呼ばれているのだとか。ただしこの模様については諸説あり、クジャクの羽根模様だという説もあれば魔除けの目模様との説も。そしてこれがトルコ中で売っている、ガラス細工の飾り物のデザインのモチーフらしい。フラッシュにて撮影したり、いろいろと素人写真家には地下は難しい撮影場所。目玉のメドゥーサの頭部は一番奥に。歩くところは濡れているところも多く、滑りやすかったので慎重に歩く。中には(鯉のような)大きな魚がたくさん泳いでいた。たくさんある柱の中で、奥のほうにメデューサの頭が2つ。ひとつは横向き。柱の基礎になっていた。もう一つは真っ逆さま。東ローマ(ビザンティン)帝国はすっかりキリスト教国だったので、異教徒の神であるメデューサの扱いは見るも無惨。コケが生えた姿も恨めしい。見学を終わり外に出ると、イスラム教の割礼を終えた男の子が二人。王子様のような格好、白い衣装に派手な王冠。手には、また派手に装飾されたスティックを持って得意気!割礼(かつれい)とは、男子の性器の包皮の一部を切除する風習。成年男子への通過儀礼としての儀式とはえ、痛そう・・・・・・。ホテルに戻り、1時間弱の休憩後、ベリーダンスを見学しながらの夕食へ。GARガルは、民族舞踊とベリーダンスを鑑賞しながら食事のできる郊外レストラン。まずは夕食。トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハーレムに深いルーツを持つとのこと。トルコ人ダンサーによるエネルギッシュで強壮な(体操的ですらあった)ダンスがスタート。真っ赤な衣装で情熱的に。官能的な表情で。ダンスを終え笑顔で挨拶。若いダンサー。それにしても、お腹とお尻がどうしてあの様に動かすことが出来るのであろうか?練習のたまもの?。そして、あっという間に時間は22時を過ぎていたのだ。
2012.06.22
コメント(0)
【6月9日】トプカプ宮殿に到着。15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置していた。宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されていた。トプカプ宮殿の名前の由来は、ボスポラス海峡を警備する為に、丘の上に大砲を据付けていたので、トプ(大砲)カプ(門)と呼ばれるようになったとのこと。入り口には結婚式を終えたばかりのカップルが観光客のデジカメにポーズを。トプカプ宮殿の入り口、皇帝の門。皇帝の門は1478年に立てられ、当初は門の上に見張り塔のある館があったと。先に進むと表敬の門が見えて来た。この門は、トプカプ宮殿の中央門で、バービュス・セーラムと呼ばれている。この門を馬に乗ったまま通れたのはスルタンだけで、宰相や高官、各国大使などはここからは歩いて宮殿内に入る事になっていたとのこと。この門をくぐる際には、簡単な持ち物検査が行われた。 門の上にはアラビヤ文字とその下には、オスマン帝国のシンボル的なマークが飾られていた。ト音記号みたいな『トゥグラ』。日本の花押のように、個人によって形状や文言が異なるとのこと。オスマン朝マフムト2世の署名。「アブデュルハミトの息子マフムト・ハン、永遠の勝利者」と読めるとのこと。正義の塔。ドーム下の広間ではスレイマン1世時代以降、帝国の最高政策決定機関である、御前会議が開かれた。この部屋のハレム側に尖り屋根の塔があり「正義の塔」と呼ばれていた。トプカプ宮殿は1467年にメフメット2世により造られ1856年にアブドゥネ・メジットが、ドルマバフチェ宮殿に移るまでの約370年間、歴代スルタンの住居として使用されていたと。この宮殿内には約4000人が住んでいたと言われていると。ドームの間の見事な装飾。広いトプカプ宮殿を歩きまわった中で、奇麗だと思ったタイルの写真。 トプカプ宮殿は、三大陸を支配したオスマン朝トルコのスルタンの居城だが、建物自体は贅の限りを尽くしたヨーロッパの城に比べると意外に質素な印象。ただ、内外装に使われた青を貴重としたタイルや、アラビア文字の飾り文字はとても美しい。そして美しいステンドグラスの数々も。 聖遺物の間。このトプカプ宮殿でもまたまた重要な場所で ムハンマド(マホメット)の遺物が展示されていた。宝物殿。日本でも展示された巨大なエメラルドで有名な「トプカプの短剣」や「スプーン職人のダイヤモンド」と呼ばれる86カラットもある大きなダイヤの周囲を49個のダイヤで取巻いたものが展示されていたが、撮影禁止で残念。 スルタンの大広間の天蓋付き玉座。ここに座り、絨毯の上で舞う女性たちの踊りや2階で奏でられる宮廷楽士たちの音楽を楽しんだと。玉座に向かって左側の壁の鏡はスルタンがいつでも避難できるように隠し扉の工夫がされていたのだ。トプカプ宮殿のテラスより、ボスポラス海峡を望む。対岸左側はヨーロッパ側新市街、右側はアジア側。両地区を結んでいるのはボスポラス大橋。宮殿の立地が、いかに戦略上重要な場所だったかわかるのであった。ボスフォラス海峡を大きな貨物船も航行。帆を下ろした帆船も。豪華客船 船名は『SEABOURN ODYSSEY』32,000総トン 2009年建造 全長:198m 幅: 25.6m とのこと。
2012.06.21
コメント(0)
【6月9日】グランドバザールにバスで到着。トルコ語で"Kapali Carsi(カパル・チャルシュ)"、「屋内市場」という意味をもつグランドバザール 。さかのぼることオスマントルコ帝国時代の1461年から続く歴史的建造物で、時代と共に増築が繰り返されたため、奥へ奥へと果てしなく続く通りはまるで迷路そのもの。そしてやはりバザールの中を2~3回曲がると方向感覚を失って行く自分がいたのであった。 18の入り口をもつこのバザールには64のストリート、22もある出入り口、合計4000店以上の店があると。イスタンブールのみならず、トルコでも、または世界でも最も大きなバザールのうちの一つ。グランドバザールは独特の雰囲気を持ち、トルコ国内ならず海外からの観光客にも大変人気のある場所であると。金製品の売り場。私には『禁』の指輪。オスマン帝国時代には、何度も大地震や火事がおこり、そのたびにこのバザールは修復。今日ではバザールはその販売されている品物の種類によってだいたい区画分けされているが、これはオスマン時代から残るシステムであると。グランドバザールは合計でオリジナルの二つのバザールを含む合計13のバザール(ハン)から構成されていると。グランド・バザールはどこもかしこも色彩豊か。これはイスラム文化特有のオイルランプ。土産に買おうかどうしようか迷ったが、持って帰るには小さいのが良いし、割れてしまう可能性もあるので断念。絵皿販売店。少し前まで地元のマーケットとして活況してたグランド・バザール。今は土産物がいっぱいで観光客がメイン。価格表示がない店もかなり多い。これもこの国の文化。値段交渉が必須。ひたすら交渉、交渉・・・・・・・・・・・。続いてエジプシャンバザール(ムスルチャルシュ)に移動。昔、エジプトの品を多く扱っていたことからこの名が付いたとのこと。ここは庶民の市場。 エミノニュ地区のイエニ・ジャミイの裏手のごちゃごちゃとした界隈にあって、内部にはスパイスや生鮮食料品、お茶など、日常で必要になるものが売られていた。大規模なグランドバザールに比べてこちらの規模は少し小さめ。土産物も売られていたが、グランドバザールよりもリーズナブル?。グランドバザールは見る市場、ここは買う市場? これは何?スパイス類の量り売り。 地元密着型のイスタンブールの生活がわかる楽しい市場。ジャスミン・ティーのジャスミンをきれいな球形にして売っていた。ジャスミン・ティーは我がミツバチのダニ、スムシ対策に有効とのことでこれを購入。 アップルティーも購入。店員がお茶を入れてご馳走してくれた。トルココーヒーというのもあるが、トルコ人は紅茶をよく飲むそうだ.トルコ人気分で、トルコ風ティーカップでアップルティーを.取っ手がないので、アッチッチ。 バスで移動中、放水車が道路脇に。この国でもデモ等が頻繁に起こっているのであろうか。地下鉄乗り場に向かっている折、カフェテラスでお茶を楽しんでいる女性達。私のカメラに向かってポーズ。地下鉄乗り場入り口。ヨーロッパ側(ボスポラス海峡西岸)の新市街の地下を走る。テュネル広場駅からガラタ橋近くのカラキョイ駅までの全長573メートルで、高低差60メートルの勾配を1分半かけて時速約25kmで上下しているのだ。1875年にできた世界一短い地下鉄「テュネル」は、2両編成。通常の利用客は1円玉より小さいジェトンという専用コインを0.9YTLで買って、自動改札機に入れ、回転バーを押してホームに入る。あっという間に着いたが、地下鉄というよりケーブルカーの如し。徒歩にて再びガラタ橋を歩く。遠くにスレイマニエ・モスクの姿も。あまり有名ではないモスクのようであるが,ドームがブルーモスクに迫るほどの大きさ。こんな巨大なモスクが,イスタンブールにはゴロゴロ。キリスト教国を圧倒したオスマントルコがイスラム文化の中心地として栄華を誇っていた事が解るのであった。アタチュルク橋が遠くに見えた。アタチュルク橋の手前にコンクリート製の橋脚が出来ていた。アタチュルク橋が老朽化し新たな橋を建設予定?
2012.06.20
コメント(1)
【6月9日】この日も3人での早朝散歩を決行。Mさんご夫妻もこの日は参加。よってホテルから6時に5人で2台のタクシーに分乗しトラムの終点駅のカバタシ駅に向かう。約10分で到着。すでにボスフォラス大橋の後ろから朝日が昇っていた。時間は6:13。ボスフォラス海峡で朝の釣りをするオジサンの姿。何と言う魚であろうか豊漁。クルチ・アリ・パシャ・ジャーミイ(モスク)。16世紀、スュレイマン大帝に仕え、名建築家の名をほしいままにしたミマール・シナンの作品の一つで、同時代に海軍提督として勇名を馳せたクルチ・アリ・パシャの要請で建てられたものであるとのこと。トルコでもパンは基本食。トルコ人はパンが大好き。いろんな種類のパンがある。ベーグルは正にスタンダードのパン。ガラタ橋まで戻る。ガラタ橋は、イスタンブールの金角湾に架かる可動橋。長さ490m、主橋脚間80m、幅42mで片側3車線と歩道を備え、市街電車も通る。橋上の朝は釣り人でごった返していた。釣り竿の固定装置も本格的。市販品それとも自家製? 大量!!。自宅に持ち帰り家族で食べるのであろうか。小型の鰺?それとも売る?船が通行する中央部以外は上下二層になっており、上層が車道、下層がレストラン街となっているのだ。中央部は船が通行するため、魚釣りは禁止されている模様。未だ開店していない下層レストラン街から見上げると多くの釣り竿が顔を覗かせていた。スレイマニエジャミイも見えた。オスマン帝国の絶頂期にあって、偉大なるスルタン・スレイマン1世のモスク。天才建築家スナインの手による最高傑作として名高く、イスタンブール旧市街の一番高い丘に立つその姿は、オスマン帝国時代の象徴ともいえる存在。ガラタ橋の近くの船着き場には超豪華な小型クルーズ船?が停泊。しかし実はこの船は名物サバサンドを売る屋台船 らしいと後で判ったのであった。その場で絞ってくれるフレッシュオレンジジュースを購入し喉を潤す。 人力ジュース絞り器。 約2時間の早朝散策を終え、帰りもタクシーに分乗しホテルへ戻り朝食。この日の最初の訪問場所はトルコの革製品販売店、KIRCILARクルジュラル。 かっこいいモデルさんがファッションショーを見せてくれました。 着ている商品には番号札が付いていて気に入った商品があったら、テーブルの上に置かれた用紙にチェックしてくださ~い、と。 我が旅友もファションショーに飛び入り参加。そして製品売り場に案内され強烈な勧誘が待ち受けていたのだ。そして昼食は和風弁当を味わう。
2012.06.19
コメント(1)
【6月8日】サフランボルのバザールを見学後はイスタンブールまでの大移動に備えて近くのレストランで昼食。そして高速道路を利用して再び最後のイスタンブール観光が待っているのである。車窓には再び一面の菜の花畑。途中トイレ休憩のドライブインには各種香料も販売されていた。 そして各種の蜂蜜も。価格が安いのに驚き。これで6~700円程度。日本では2~3000円。 『巣蜜』も大小のものが販売されていた。蜂蜜のたっぷり入った蜂の巣そのもの。巣のハニカム構造の中に蜜がギッシリと詰まっていました。日本ではほとんど手に入らない松の実の蜂蜜も。松の実から蜜が・・・・?たぶん松の実のハチミツ漬け。 低い山の裾野を利用してクネクネと高速道路が続く。トルコではトンネルは極めて少ないのであった。サカリヤ県にあるトヨタの工場。イスタンブールに近づき大きなビル群が見えてきた。イスタンブールではヨーロッパ側に多くの会社のオフィースビルがあり、その 社員はコストの安いアジア側に居住し、車で通勤しているとのこと。そして車窓左側にはマルマラ海が見えてきた。そしてボスフォラス大橋手前でイスタンブール名物の夕方の大渋滞は始まった。勤務を終えアジア側に帰宅する人の車、車そして車。 ボスフォラス大橋の橋脚が見えてきた。大橋を渡り始める。その瞬間、バス内には庄野真代の『飛んでイスタンブール』の曲が流れた。現地添乗員の心憎い気遣いに感激する。大橋を通過すると渋滞も解消されバスは順調に進む。振り返るとボスフォラス大橋の美しい橋脚が。ボスフォラス大橋の全景が。 そして再び市内渋滞に。 渋滞の中、渋滞車両に近づきゴマパンを売る商魂逞しきトルコ人のオジサン。 イスタンブール市内には路面電車(トラム)が走っていた。ブルーモスクやガラタ橋、新市街方面へと観光で利用するのに便利。電車は平均10分弱間隔で走り、運賃は均一1乗車2トルコリラ(100円弱)。 明日尋ねるガラダ橋も見えた。多くの人々は橋上から釣り糸を垂らしている姿も。ガラダ塔も斜面の中腹に。夕食は賑やかなレストラン街にて。多くの市民や観光客が道路に出たテーブルでアルコールや食事を楽しんでいました。店の名は『KARIDES』 。カリデスKARIDESは海老の意味。メニュー看板。名前を忘れました。
2012.06.18
コメント(0)
【6月8日】この日もホテル周辺の早朝散歩にSさんと出発。まずはトルコの首都アンカラ 国会議事堂前。時間は5:17。中央門に刻み込まれている彫刻。 国会議事堂の裏の八百屋が既に開店していた。未だ6時前。様々な野菜・果物が並べられていた。その中で見慣れぬ白い果実が皿の上に。店員に尋ねても私の英語では理解されないと思いデジカメで写真撮影。ホテルに戻り、後にトルコ人添乗員に尋ねてみると桑の実とのこと。ホワイトマルベリーと呼ばれ、和名は白実桑であることが判ったのだ。桑の実と言えば紫色と思っていたが、世界各地にはいろいろな種類の果実があるのである。 ホテル手前の十字路の角に立てられている彫像。労働者の姿か。こちらはトルコ国旗を掲げる青年の姿が。初代大統領アタチュルクの若き日?騎馬にまたがるアタチュルク? そしてロータリーの中では、鳩にパンをあげるオバサンの姿も。ホテルに戻りこの日の朝食。 そしてこれもカジって見たが、激辛で暫く口を開けっぱなしであった。なぜこのようなものが単品で置かれているのか理解に苦しむ。そしてこの日の最初の目的地、サフランボルに向かう。途中、空軍の飛行場横を通る。この日も途中でトイレ休憩。土産物の中に見つけたよくわからない品物。大きな数珠?そして横の公園で遊んでいたトルコの少年。日本人に対しては人見知りしない少年。途中トルコ内での最大の規模の製鉄所の横を通過。サフランボル(世界遺産の街、サフランの名前の由来の古都)近くカラビュック製鉄所。この製鉄所は、1931年にソ連の援助で建設されたもの。周辺の空気がもやっていた。環境汚染対策はまだまだの様子。そして世界遺産、サフランボルに到着しフドゥルルックの丘で下車。世界遺産にも登録されているサフランボルだが、町の南東にあるこの丘からなら、サフランボルの街全体を見渡すことができ、すばらしい眺めが楽しめるのだ。人口僅か1万7000人の町。オスマン朝トルコの時代、14~17世紀にシルクロードの商業都市として栄えていた。木造家屋、木枠の窓、土壁の町並みが、世界文化遺産に登録されているのだ。現在は、観光と、カラビュックの製鉄所で成り立っていると。サフランボルの中でも古い建物が残っている旧市街チャルシュ。高台から見渡す景色はまるでおとぎ話の街。チャルシュにある家々はほとんどが100年以上前に建てられたもの。木と土壁を基本に作られていて、夏は涼しく冬は暖かいとか。手前に火災にあった家。世界遺産地域であるため家の改築には大幅な制限があり手をつけられない情況との説明あり。丘の上の店先には水たばこの装置が。 再びバスに乗り丘を下りアラスタ・バザールへ。30分程の自由時間をもありバザール内を散策。各種の色とりどりの土産物が販売されていた。アラスタバザールでは、ブドウの木陰でトルココーヒーを飲ませてくれる喫茶スペースがあり名物のトルココーヒーを頼む旅友も。 名物のトルココーヒー。靴屋さん。 途中、旅友の女性二人連れがこの地の名物サフランを購入すべくネゴ交渉中の場に出くわす。タフなネゴ金額に店主はNOとの答え。私も応援したが店主は首を立てに振らなかった。 誰が書いたか日本語のカタカナで。 女性人は店の店主の提示金額では日本で売っている金額とほぼ同じと諦めたのであったが後から全くの勘違いであって、かなり安く!!買えばよかったと・・・・。しかし後の祭り。
2012.06.17
コメント(0)
【6月7日】更に瀬戸物販売所への拉致が続いた。絵皿。 トルコ石は手が出なかったが、キュタフヤ陶器のコーヒーカップを妻の土産に購入。トルコの陶器は、15世紀末~16世紀のオスマントルコ時代に隆盛を極め、タイルはモスク(イスラム寺院)や宮殿を飾り、絵皿や器は宮殿で愛用されて来たとのこと。キュタフヤはその流れを汲むトルコ最大の陶器の産地。今でも手描きの陶器は一つ一つ職人の手で絵付けされているとのこと。トルコの土産にぴったりな手ごろプリントタイルのマグネット、コースターから、本格手描きの大皿まで、数々の商品が展示されていた。絵皿もカラフルで美しいがじっと我慢であった。カッパドキア観光を終え、一路トルコの首都アンカラへのバス移動。トイレ休憩時にトルコ人の青年二人が立ち話しをする姿。何故か二人がやけに近寄っていると感じたのであった。添乗員のZEKIさんに聞くと普通の間隔であり、怪しい関係ではないとのこと。再び草原をひたすら走る。そして19:30過ぎにこの日のアンカラのホテル『ANKARA DEDEMAN』に到着。このホテルも★★★★★。そしてアンカラの塔。
2012.06.16
コメント(0)
絨毯販売店を後にし、カッパドキアでもう1つ有名な岩の三姉妹の岩を訪ねる。三姉妹が並んでいるようでもあり、しめじのようでもあり?。下の部分が凝灰岩で上の部分が玄武岩とのこと。3姉妹の近くに今にも落ちそうな岩が。右を向いている人の顔にも。続いてギョレメ野外博物館を訪ねた。ギョレメ野外博物館は世界遺産に登録されたギョレメ国立公園内に位置している。イスラム教徒による迫害を逃れて、キリスト教徒が造った岩窟教会や修道院がある。そのうち30あまりの教会が集まるギョレメの谷を野外博物館として公開されているのだ。聖バジル教会、林檎の教会、聖バルバラ教会、蛇の教会、暗闇の教会など、鮮やかなフレスコ画で装飾された教会が残っているのだ。聖バジル教会入り口。「○○教会」とかと言ってもすべてが岩をくり抜いて造った教会であり,岩なのか建物なのかはわからないが,入り口があり,そこから入って初めて教会とわかるのであった。教会内は1グループ3~5分の見学であったが、超過するグループもあり見学にはしばしの我慢が必要であった。教会内部からの風景。 見学を終え、トルコ名物の伸びるアイスクリームを購入。これをTRYせずに帰れるものか。早速4トルコリラを払って食べてみました。濃くのある味で美味しく、ガムのようによく伸びる。この伸びる理由がこの店に掲示してある広告に記載されていた。トルコ語でよく解らなかったが、Marasという山蘭の根や茎に含まれる粘液・サーレップ(ネバネバ成分)を粉末にしたものを入れるとこのようにアイスクリームの伸びがよくなると。伸びるだけでなく、アイスクリームが溶け出し垂れるのも防ぐメリットもあるとのこと。「ドンドルマ」。トルコ語で「凍らせたもの」の意味とのこと。ギョレメ野外博物館をでて、昼食は洞窟内レストラン、『URANOS SARIKAYA』へ。カッパドキアのレストランには、リーズナブルなレストランが多く、洞窟や岩山を改造したレストランや、奇岩を眺められるレストランなどがあるのが特徴とのこと。レストランの通路の壁には、芸術的な壁彫刻が展示されていた。中央のステージには演奏者がいて、食事中に現地の音楽を演奏してくれたのであった。レストラン内は円形状の洞窟になっていて中央のステージを囲むように、その周りに階段状の席が用意されていた。昼食のスープ。 メインディッシュの魚。 デザート。 厨房。腹を膨らませた後は、トルコ石販売所へ拉致されました。 トルコ石は人類が愛用した宝石の中でも最も古い歴史があるのだ。古代エジプトの 遺跡より紀元前5000年程前のブレスレットが出土されており、おそらく最古のジュエ リーだと考えられているとのこと。 トルコ石はトルコの商人によりシルクロードを使ってヨーロッパに運ばれて来たもの。よってトルコの商人が扱っていたので『トルコ石』。最初は " turceis " 後にフランス語にて " turquois " 英語圏ではそれに " e " を付けて" turquoise (ターコイズ)" となったと。ここで注意しなければならないのは、トルコ石はトルコでは出土しないという事実。中近東のシナイ半島(現在エジプト)にて採掘されたトルコ石が最も古く、後にペル シャ(現在のイラン北東部の町メシェッド)がその後の主な採掘場所となっているとのこと。現在の主な産地はアメリカ、イラン、中国、チベット、アフガニスタン、オーストラ リア、イスラエル、タンザニア、チリ、メキシコなどですが、良質の物はアメリカと イランにてほとんど採掘されているとのこと。ターコイズとして売られている物は大きく分けて以下の5つに分けられると思います。1) 完全に自然のままのナチュラルなターコイズ。2) 1)のナチュラルなターコイズに強度を持たせるために透明な樹脂をしみこませた物。(スタビライズド)3) 1)のナチュラルなターコイズに着色して樹脂をしみこませた物。(スタビライズド)4) ターコイズを粉末状にして固め直した物。5) ターコイズではない石(ハウライトなどの白い石が多い)を青く着色した物そして説明員が、この店の商品は全て1)ナチュラルターコイズであることを強調したのでした。妻に1個土産をとも思いましたが、一桁違うので早々にgive up。せめて写真だけでも妻への土産にと。そしてカッパドキア最後の見学場所はデウレントの谷の『ラクダ岩』谷に囲まれたカッパドキアの絶景の中でも、ここは息をのむようなすばらしい眺め。カッパドキアならではの奇観だ。他の奇岩も何かに似て見えてくるのが不思議なのであった。晴天の中、数々の奇岩を堪能したカッパドキア巡りであったのだ。
2012.06.15
コメント(0)
【6月7日】カッパドキア見学のスタートはウチヒサール周辺に向かう。ウチヒサールとは「3つの要塞」と意味。他の2つの要塞はユルギュップとオルタヒサールにあるとのこと。 数百m離れたオルタヒサールの要塞とは地下で繋がっていると。城跡にはたくさんの穴が開いていて、これらは岩をくりぬいて造った部屋の跡であると。戦争時は食料と水を持って、 住民たちがここに数ヶ月立てこもり敵と戦ったという。また、多くの岩の表面には数多くの穴が開いているが、これは「鳩の家」と言われる鳩の巣で、住民は昔から鳩の糞を集め、 火山性でやせた土地に肥料として役立て、ブドウ畑を作っていたそうだ。この説明を聞き、人間の知恵の偉大さに感服しきり。ウチヒサールの城塞の内部は上ることができ、ここから眺めるパノラマは絶景だと。バスから降りカメラタイム。 2000万年前に起きたカッパドキアの3つの山、(エルジイェス、ハサン、ギュルル)火山の噴火によって火山灰(凝灰岩)が降り積もり形成されたカッパドキアの台地上図の右が長い年月かけて水に溶解しやすい石灰岩などの岩石のみ溶けて、台地がけずれるように浸食される図。特異なカルスト地形の帽子をのせたような奇岩はこうして生まれたとのこと。確かに人が住んでいるのであろう。ウチヒサール城砦を別の角度から。奇岩がの光景がスタート。軟らかい地形が形成され、そのあとに雨、風による浸食で長い間をかけて形成された事が解る光景。 キノコ岩がにょきにょき並んでいる奇岩。穴も自然のなせる技?それとも人のなせる技? パシャバー地区(Pasabagi)は、妖精の谷とか妖精の煙突などとも呼ばれるようだ。キノコの笠の部分と下の部分の溶岩?の硬さが違うからこんな形になったらしい。 この後、ウルギュップの絨毯販売店に案内される。トルコ絨毯の製作工程を目の前で女性の織り手が実演。トルコ絨毯といえばトルコが誇る芸術品!絨毯の織り方には一重結びと二重結び(ダブルノット方式)の2通りがあり、二重結びの織り方をしているのはトルコの絨毯だけだと。結び糸を縦糸に2重にかけるために丈夫にできており、最低でも100年は使えると。素材には、100%ウール、100%シルク、ウールと綿の混紡などさまざまな種類が金額に応じてとのこと。そして別室に案内されて絨毯SHOWの開始。案内者は日本語ペラペラでジョークも巧みなオジサン(社長?)。係員は見事な手さばきとテンポで絨毯を拡げていく。我々の座っている部屋の中央には30枚以上の大小絨毯が見事に拡げられたのであった。そして私が購入した玄関マット。かなりの方が大小の絨毯を購入した模様。日本への送料は無料がこの会社のビジネスモデル。いや、トルコと日本の間の貿易不均衡は9:1でトルコの大幅な輸入超過だそうで、輸出振興のために、トルコ国内で買った場合は送料は政府持ちとのこと。また消費税(18%)もかからない。そのため、輸出された絨毯を日本で購入する場合の半額以下で買えるとのことであったが・・。トルコ絨毯の中でもヘレケ絨毯(Hereke)は世界で最も高品質で芸術性の高いものだと。シルクのヘレケ絨毯の場合、1平方センチメートルの中に100~120もの結び目があり、強度や品質の良さだけでなく絵画のように繊細な模様が芸術作品として評価されていると。トルコの絨毯の歴史は古く中央アジアの遊牧民生活の時代に遡ると。その後、アナトリアに定住し始めるようになると、込み入ったデザイン(主に幾何学模様)のものが織られるようになったと。トルコの伝統的芸術作品としてヘレケのシルク製絨毯は過去に日本を始めとするロシア、イギリス他の多くのロイヤルファミリーやアメリカ、ドイツ他の大統領等へ贈呈されているとのこと。現在ヘレケ絨毯は、トプカプ宮殿やドルマバフチェ宮殿や博物館等に多く展示されていたのであった。勿論私の購入した玄関マット用絨毯がヘレケのシルク製絨毯では無いことは価格から間違いなしなのである。そして、購入した絨毯は手荷物として持ち帰ることを決断。
2012.06.14
コメント(0)
【6月7日】この度も漸く6日目となり後半戦に突入。3人とも極めて元気にトルコを駆け巡っているのである。この日もモーニングコール5:30、朝食6:00、出発7:00と何時もの?通り。今回のトルコ旅行のメインイベントの一つ世界遺産カッパドキアを巡る日である。この日も朝食前にSさんとホテル近くを早朝散歩。時間は5:45。朝陽を浴びたカッパドキアの街並み。岩壁の洞窟ホテルにも漸く陽射しが。歩いていると道端の壁の上にカッパドキアの奇岩のミニチュアが飾られていた。岩壁の至る所に洞窟が見える。全てが民家、ホテルとして利用されているのであろうか?そしてこの家々にも初夏の暖かい朝の陽光が訪れていた。そしてホテルに戻りこの日も慌ただしく朝食。ホテルの食堂の屋上からはカッパドキアを空から見学する気球が上がり始めていた。先ほどの早朝散歩では見えなかったので、朝の6時以降で気流が安定している時間のみの飛行のようだ。何人が乗っているのだろうか?そして慌てて部屋に戻り出発の準備をし、バスに乗り込んだが、薄手の赤いジャンパーを部屋に置き忘れた事に気がつき慌てて部屋に戻り回収。そしてカッパドキア観光のスタート。
2012.06.13
コメント(0)
【6月6日】ホテルに向かう途中カッパドキアの奇岩と洞窟があちこちに姿を現したのだ。この日のホテルは『TEMENNI EVI CAVE』。すなわち洞窟ホテル。 バスを降りホテルへの坂道を上りながら振り返った景色。数々の洞窟ホテルやその岩壁の下に民家やホテル群が。ホテル玄関。 ツアーディレクターのIさんから、今晩のホテルはシングル、ツイン毎に抽選で決定すると。洞窟ホテルのため部屋毎に構造が異なる為と。私が取ったROOOM KEY は112号室。部屋のドアを開けてみるとビックリ仰天。何しろ広く奥が深い部屋構造。手前は6畳程度の部屋にシングルベッドが2個。ツアー仲間が我々の部屋の豪華さを聞きつけて、部屋を訪れること頻り。中には『部屋を変えて欲しい』との声も。勿論『NO THANK YOU』。我がGOLD HANDで引き当てた部屋。よって私がダブルベッド使用の我が儘をSさんが聞いてくれたのであった。そしてその奥は8畳の広さの部屋にダブルベッドが1つ。最奥から入口方面。そして床には見事な彩色の大きな絨毯が。 部屋の壁には絵画が。見事な室内テーブルそして壁には至る所に絵画や絵皿が。洗面所。 トイレ、シャワー室。 部屋からの眺め。灯りが灯りだした街並み。 夕食も部屋の話題で持ちきり。久しぶりにバイキングではなかった。 勿論夕食後は我が豪華な館で反省会。訪ねてくる人多くワインも進んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.12
コメント(0)
【6月6日】この日はモーニングコール5:30、朝食6:00、出発7:00とハードスケジュール。慌ただしく朝食を済ます。 目指すはコンヤ経由カッパドキア。移動距離430km、6時間のバス移動。ホテルのローケーションもありこの日の早朝散歩は諦めた。バス移動中、前方に羊の群れが道路を塞ぐ。バスも最徐行で追い抜く。コンヤまでの道はひたすら左右草原の中。大理石の切り出し場が車窓から見えた。途中道路脇のレストランでトイレ休憩。ここの名物のヨーグルトにはちみつ、ケシの実をかけたものに挑戦。しっかりした味。 そして昼食。あまり代わり映えしない!! ビールは必須の主食。 そしてコンヤ市内のメブラーナ博物館に入場。メブラーナ博物館は施舞集団として知られるイスラーム神秘主義の一派、メブレヴィー教団の創始者メブラーナの霊廟。敷地内は、僧院、ジャミィ、修行場も。緑色のタイルで覆われた円錐形の屋根を持つ霊廟は、13世紀に造られたものと。メブラーナの死後、1925年にアタテュルクによって修行場は閉鎖、教団も解散させられたと。 ユニークな形と色の尖塔。トルコ石の色に似た緑タイルのとんがり屋根を持つ塔が印象的で、コンヤのシンボルとして親しまれているとのこと。青空に青タイルの屋根がより一層映えていた。園内は多くの種類、色のバラが満開。トルコの名所はどこもバラが大切に育てられていたのであった。青空の下で赤、ピンク、白、黄色、紫・・・・・と様々なバラの庭園。メブラーナ博物館内に入る為に入口に向かう。博物館の中は土足厳禁なので、入り口で靴に青いビニール袋を被せて入場。博物館内はそれほど広くは無かったが高さはかなりあった。残念ながら館内は写真撮影禁止とのこと。メブラーナ博物館の中に入るとまずメブラーナ教の発展に力を尽くした名僧(聖人)の棺が並んでいた。棺はきらびやかでターバンが乗っていた。いちばん奥にメブラーナの棺が。全ての遺体は棺の中の地中に埋葬されていると。隣の部屋にはメブラーナが着ていた服や手書きの詩の本、コーランの分厚い写本、13世紀頃の祈り用絨毯などが展示されていた。そして出口付近の中央部にはイスラム教の開祖、ムハマンドのあごひげが入っているという銀の小箱も展示されていた。メブラーナ教というと独特の旋回舞踊、「セナ」で有名とのこと。セナは太鼓と笛の単調な音楽にのせて、真っ白な衣装と高い帽子を身に付けた聖人たちがクルクルと回り続ける踊りで音楽がだんだん速くなるにつれて、クルクル度も激しくなり、自分の心を忘れて紙の世界に入ると。旋舞の儀式は3時間以上も踊り続けるとのこと。夜はライトアップされて、幻想的な景色になるそとのこと。最後にドームだけシャッターを。 更にバスはカッパドキア目指して進む。220km/3時間の更なる移動。途中目の前に、日本の東名高速を移動していると錯覚するような富士山そっくりの山の姿が。山の名前はエルジェス火山で標高が3916m。富士山よりは140mほど高いと。冠雪も見られ正に「トルコ富士」と呼ぶにふさわしい火山。車が進むにつれて、コニーデ型の対象性がずれて来たが、それにしても綺麗な山。早朝出発が功を奏したため、明日最初の見学予定地の地下都市カイマルクをこの日に訪ねた。入り口の両脇には土産物売り場が。見事な日本語の売り込みの声が姦しい。カッパドキアで確認されている36ヶ所の地下都市の一つで、1964年に発見。 都市の広がりは4km2 ほど、地下8階まで確認されており、深さ65mに及び、通気孔の深さは85メートル、家畜部屋、地下1階のワイン製造所や地下2階の食堂、寝室、穀物貯蔵室、学校など様々な部屋があり、地下7階には教会まで造られているが、現在は地下4階まで一般公開されていた。チケットをもらい入口へ。 カイマルク地下都市は、ヒッタイトによって建造され、その後キリスト教徒がアタブ人の迫害から逃れるため地下に移り住んだと。地下案内図。 カイマルク地下都市は、約15000人が暮らしていたと推測されているが、この数字も様々な説が唱えられているとのガイドの説明。中に入ると地上よりもかなり涼しい。4.5畳から10畳くらいの居住区や、食堂、教会も。通路もやや屈まないと通れない高さの場所も。何人でどれ位の時間でアリの巣のような迷路と居室を完成させたのであろうか?考えると気が遠くなるのであった。これは敵の侵入を防ぐためか、石の扉が通路には残っていた。何人で開閉したのであろうか?見学を終え、更にこの日のホテルに向かっているともう一つの富士山の様な山が。霊峰『エルジェス山』。大昔は火山として活動していた山で、数億年前のこの山の再三の噴火によって生じた火山灰や溶岩が中央アナトリア地方に何層も堆積し、その後、気の遠くなるほど長い地球の歴史の中で侵食を繰り返し、出来上がったのが、カッパドキア。すなわちエルジェス山はカッパドキアの生みの親。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.11
コメント(0)
【6月5日】エフェソス観光を汗をビッショリかきながら終了しバスに乗り込む。途中バスの横にトルコの救急車が止まった。電話番号は『112』であると解った。因みにガイドブックによると警察『155』、交通警察『154』、火事『110』とのこと。かなりの時間走行後、車窓にはトルコに来てから初めて見る白き山が姿を現した。次第に車窓の風景が緑から茶色に、そして丘の形が変化して来た。 そして突然目の前に白き塊が姿を現した。この旅行の目玉の一つのパムッカレに到着。時間は既に18:30。しかしまだ太陽は高い位置に。大地から湧き出した温泉に含まれる炭酸カルシウムが、険しい崖に美しい棚を作り出す。棚をなでる水の流れはアナトリア高原の冷たい大気に触れて白い蒸気を立ち昇らせて、棚は風に吹かれるまっ白な綿花のように、幻想的に揺れ踊る。綿(パムック)の城(カレ)。太陽が棚の水面に反射し幻想的な光景も。まるで雪景色のようだが、勿論白いのは石灰によるもの。まるで人の手によって造られたような、美しい白の大きな棚。丘陵地帯の石灰棚が弱酸性の雨によって溶け、地熱によって温泉となり沈殿した石灰が固まった結果、この芸術的な景観が生まれたのだ。高さ200mにわたって形成されたパムッカレの光景。棚の数は100以上あることは確実。棚の下には青き池と温泉が見えた。私も靴、靴下を脱ぎこれをビニール袋に入れ棚を慎重に歩く。 子供が棚田のお湯に気持ちよさそうに浸かっていた。棚の表面には見事な波紋が。こういう場所は歩き易いが、濡れて表面に僅かに茶色い藻が映えている場所は滑りやすく要注意であった。ツアー仲間のカップルの女性は滑り、顔面の右頬を強打し負傷したのであった。遠き山の頂上の白は雪、そして目の前の白は石灰棚。しかし世界遺産のこの石灰棚に入れる事が摩訶不思議。日本では絶対考えられないこと。そしてこの棚田を作った温泉の水量も年と共に減少し、白さを保てなくなっているとのこと。そしてこの温泉が絶える日も近いのではとの説明。現在では下まで下った温泉水をポンプでくみ上げ最上部から流しているとも。いつまでもこの石灰棚の奇観を後生に残していって欲しいと思わざるを得なかったのである。そしてパムッカレ近くのこの日のホテルに20:00着。『COLOSSAE THERMAL』。この日も★★★★★。ホテル内のプールサイドでは既に夕食を済ませ寛いでいる多くの客が。夕食はいつものバイキング。そして夕食後は温泉プールへ。海水パンツは日本で購入し持参。そしてヘアーキャップは温泉プール受付で購入。30分程であったが『トルコ風呂』を混浴で楽しんだのであった。 そしてこの日も旅友を招待し反省会で盛り上がる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.10
コメント(0)
【6月5日】175km/3時間の移動でエフェソス遺跡に到着。エフェソス遺跡入り口。 遺跡のチケット&配置図をもらう。 トルコの南西、エーゲ海を近くに望む丘陵地帯にある小アジア最大の古代都市遺跡:エフェソス。紀元前11世紀に、イオニア人が建設した良港の都市国家だったが、港が土砂に埋まったり、伝染病が発生したため、山間部に遷都。ここで再び街は繁栄し、人口25万人を数えるほどの大都市へと発展したと。街には野外劇場、図書館、体育場のほか、売春宿や公衆トイレ、公衆浴場の跡なども見られ、当時の繁栄ぶりがよく伺えるとのこと。ヴァリウスの浴場。エフェソスの紀元前2世紀に建設されたハマム(浴場)、その後の 時代では、体育館として使用されていたとのこと。オデオン。遺跡での序盤のハイライトは、1,400人収容の音楽堂。150年に建設された当時は、屋根が付いていたとのこと。勝利の女神 NIKE。ギリシャ神話に出てくる天使の翼。ご存知ナイキのマークは彼女の翼からイメージされたもの。ポリオの泉。紀元後1世紀にオフィリウス・プロクルスがC.セクスティリウスに捧げる為に造ったもので、 泉の全面は大理石で覆われた像で装飾されていたらしい。プリタネイオン(市議会堂)。クレテス通り。トラヤヌスの泉の前辺りから撮ったもので、正面に遠くセルシウス図書館が見える。クレテス通りの左(西)側に美しいモザイクのテラスがある。この辺りは豊かなローマ人の豪邸(山手の館)が並んでいたところで、2000年前のモザイクが今も色失せることなく残っているのは、奇跡か。ハドリアヌスの神殿。更にクレテス通りを下ると、右(東)側にコリント式の柱とアーチが印象的なハドリアヌスの神殿(138年頃)が。裕福な市民クインティリウスが皇帝ハドリアヌスに献上した神殿で、美しく繊細な装飾が施された2つのアーチの頂上部には、女神ティケ(前)とメドゥーサ(後)が彫られ、壁面にはエフェソス建国の伝説やそれに因む猪やアルテミスなどが描かれていた。ヘラクレスの門クレテス通りに建つヘラクレスの彫刻を施した左右対の門である。下の写真の勝利の女神ニケのレリーフは、 本来この門のアーチとして飾られていたものだそうだ 。 レリーフが美しく残っていた。大理石の水洗式公衆トイレ。ハドリアヌスの神殿の北側に1世紀に作られたという水洗式の公衆トイレがあった。真ん中にプールがあり、その部分の天井が吹き抜けなっていて、臭気を排出するという。壁に沿ってベンチ状に側溝の蓋のような石板が並んでいて、その上に大きな鍵穴状の便座がある。このベンチ式の洋式トイレには木製の屋根があり、床にはモザイクが施されていたという。セルシウス図書館。セルシウス図書館は、エフェソス遺跡で最も有名で優美な建物。135年、C・ユリウスがアジア州の総督だった父C・セルシウスの死後、父に捧げるために墓室の上に造った図書館で、1万冊の蔵書があり、アレクサンドリアの図書館と肩を並べるほどの規模だったとのこと。図書館の壁に「知識・学識・聡明・高潔」を象徴する4体の女神像があるが、ここにあるのは全て複製で、本物はウィーンにあるとのこと。 図書館の正面右側にあるマゼウスとミトリダテスの門。ガイドブックによると、「アウグストゥス帝の解放奴隷であるマゼウスとミトリダテスが、アウグストゥスへの感謝のしるしとしてこれを建てた」と。大理石の石畳に彫られた娼館の方角を示す足形。マーブル・ストリートの中ほど、商業アゴラ付近の大理石で出来た石畳に娼館への道案内図が刻まれている場所が。足形は方向をあらわし、女性は娼婦、ハートは愛を意味するといわれているとのこと。25,000人の観客を収容できる大劇場。マーブル・ストリートとハーバー・ストリートの交差点の東側には、ピオン山の斜面に造られた25,000人の観客を収容できる大劇場が。演劇の上演だけでなく、市民の集会場としての機能を有していたと。半円形の大劇場は22段の客席を持ち、直径154m、高さ38mもある大規模なもの。 漸く出口に到着。ツアー仲間は木陰で一休みそしてトイレに駆け込む人多し。現在のエフェソスは、トルコの小村アヤソルクの一部。世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂『聖母マリアの家』、聖ヨハネ教会、考古学博物館などがあり、トルコの重要な観光地の1つになっているとの説明。もっともっとゆっくりと訪れてみたいと思ったのは私ばかりでは無かろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.09
コメント(0)
【6月5日】この朝も早朝散歩にスタート。この日も美しい5:59の日の出が。ホテルの全景。朝陽にピンク色に染まる。 ホテルのプール。早朝のため泳ぐ人なし。青い鏡の如き水面が周囲の緑、白きホテルを映していた。朝食後この日の最初の訪問地ベルガモン王国のベルガマ遺跡観光に8:00に出発。ベルガマのアクロポリスは、小さな街ベルガマの山の上に展開されていた。頂上にある遺跡までは、山の中腹からリフトで。6人乗りでかなりのスピード。ベルガマ遺跡に到着。見晴らしの良い山の頂上に遺跡は拡がっていた。ベルガマ遺跡はペルガモン遺跡とも言われ、紀元前300年ごろから約500年間、アッタロス朝ペルガモン王国の都として栄えた都市の遺跡。アレキサンダー大王の死後、彼が征服した広大な領土はいくつかに分割され、そのひとつがペルガモン王国。紀元前1世頃にペルガモンはローマの支配下となったが、その後もこの地方の中心都市として栄えたとのこと。 トラヤヌス神殿。トラヤヌス神殿は、ベルガマ遺跡のシンボル的存在で、全て純白の大理石で建立されていた。コリント式列柱とアーチ部分、基盤、その背後にイオニア式列柱などが残っていた。トラヤヌス神殿。トラヤヌス神殿は周柱式建築で、コリント式柱が6×10本並び、3方を回廊が取巻いていた。この神殿は現在、オリジナルに沿って修復作業が進められているとのこと。 遺跡から眼下の街並み。劇場。ペルガモンでは、その長い歴史を通じて、3つの劇場が建設されたと。最も重要なのがこのヘレニズム時代の劇場。ローマ帝国時代に改修されているが、扇形に上に向けて広がっていた。 収容人員は1万人とのこと。下の方に設けられた貴賓席は大理石造りで、一般席は租面岩と安山岩で出来ていると。音響が非常に良いように造られており、また、眺望を遮らないために、舞台は催物の時だけに組まれる木製のものだったとのこと。現在はこの劇場を下に降りていくのは禁止されているとのことで諦めた。事故があった?ベルガマの遺跡はドイツ人考古学者コンツェとフーマンによって発掘された。そのゼウスの大祭壇は、ベルリンのペルガモン博物館に再現されていると。下の街にも病院等数々の遺跡があるとのこと。見事なアーチ型の通路が続く。真ん中の楔石がこの構造の要。ペルガモン遺跡は、トルコで一番有名な遺跡であったが、主なものはヒットラーがベルリンに持ち去ってしまったの説明はショック。 ベルガモン神殿の観光を終え、次のエフェソスまで3時間の移動。途中、石油基地の街ALIAGAを通過。イズミールの手前約50キロ(31マイル)に位置。北イズミルと経済活動を中心とする石油精製所、船舶だけでなく、観光も産業の中心の街と。そしてイズミールを通過。イスタンブールに次いでトルコ第2の規模の港湾施設を持ち、人口ではトルコ第3の都市。会社の同期にIさんが若き頃仕事で来たことのある街。高速道路の料金所。トルコの高速道路の自動料金徴収システムはOGSが乗用車用、一番右側のKGSが貨物車両用とのこと。HGSと車種ごとになぜ分かれているのか聞き逃しました。途中、道路沿いのレストランで昼食。料理はケバブ丼?羊肉のチョップ・シシ。 オープンスペースでの昼食。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.08
コメント(0)
【6月4日】再びバスに乗り今度はダーダネルス海峡を右手に見ながらトロイに向かう。この日はヨーロッパ→アジアへのグレートジャーニー。漸く6時間以上をかけてトロイ遺跡に到着。入場券をもらい入場すると目の前には、真っ白なそして甘い香りの花が満開を迎えていた。そして花にはたくさんの蜂や虫たちが訪花していた。素人養蜂家としてはこの樹木の名前が気になり辺りを見回すと名前が判明。『KATALPA』との表示。インターネットで調べてみると、この木は日本にあまり存在しない木とのこと。このカタルパ、実はとても歴史のある木なのである。明治を代表するジャーナリスト、日本のこの木は徳富蘇峰の恩師である新島襄が明治10年頃に北アメリカから持ち帰った種子から育ったと言われいると。そして開花期間が極めて短いとも。遠きトルコの地でこの花の開花の瞬間に巡り会えたことに感謝。そしてトロイ遺跡の見学。トロイの遺跡はエーゲ海北部の、マルマラ海沿岸地方のビガ半島に在る、低くて小さなヒサルルクの丘にあるのだ。ここに集落が作られた時代は丘のすぐ近くが海岸線であったが、現在では海岸線が後退して、丘と海岸の間には畑や草原が広がっていた。トロイの遺跡は初期青銅器文明の紀元前3000年から、ローマ時代の紀元前334年まで、9層からなる複雑な都市遺跡。この中でホメロスが描いたプリアモス王(トロイ最後の王)のトロイは一般的に「第7a市(紀元前1275~1240年)」と言われていると。しかし考古学的には、木馬どころかトロイ戦争(紀元前1200年頃)そのものが有ったのか、そして"トロイ人"とはどんな民族なのかも、まだ解っていないとのこと。彼のシュリーマンは「トロイの財宝」に目が眩み、素人なので、闇雲に掘り進み、他の時代層を破壊してしまったのだと。そして彼の手にした財宝は、エーゲ海交易の中心地として繁栄した「第2市(紀元前2500~2200年)」時代の物で、その為に「第3市」「第4市」「第5市」は崩され、其の時代の出土品が極めて少なくなってしまったと。トロイの遺跡は直径約600m程の小さな城塞。円形の城塞の石垣。この石垣はトロイが一番繁栄していた「第6市(紀元前1800~1275年)」の物とのこと。ほぼ円形に二重に城壁を巡らし、ここに造られた歴代の城塞都市としては最大規模。トロイの石垣や城壁はいずれも低くて薄いという感じで、日本の城よりも、更に脆弱で、本格的な籠城などが出来る城塞とは考えにくいのであったが。レンガの石積み。世界最古の日干しレンガ。5000年前?石畳の坂道。比較的新しい物で、完全な状態でしっかりと残っていた。まるで最近作られた物の様に見え、時代を感じさせないもの。石畳の坂道は荷馬車や騎馬などがそのまま城塞の上段のテラスへ登れるように造られたものとのガイドの説明。ローマ時代の小オデオン。第4市(紀元前500~334年)」時代のオデオン。さしずめ現代で言う処の小劇場。この規模からしてこの町のおおよその人口が察せられると。これぞトロイの木馬。トロイ戦争の時に、トロイを攻めあぐねたギリシア軍が、トロイの木馬に兵士50人を密かに忍ばせて、トロイ城の前に置いて、退却したと見せかけて、船を出発させて、島影に隠れて、夜を待ち、トロイの人たちが、勝利の酒で、酔いつぶれるのを待って、木馬から兵士が出て、城門をあけ、ギリシア軍を引き入れトロイの城を落としたとされてるとのことだが、これにも、別の説もあると。トロイの城壁は、地震で、崩れて、そこから、ギリシア軍が侵入して、トロイを打ち破ったもので、木馬は、その後、海の神ポセイドンに捧げたというもの。私は城壁を見学して後者派。木馬が極めて新しいのがこの場に不似合い。映画に使用したという木馬の方が本物らしいとのことであるが、その木馬は、チャナッカレの港近くにあるとのこと。トロイ遺跡の観光を終え、この日のホテルのあるアイワルクまで150km/3時間の移動。途中、貯水湖の擁壁にDSIの文字が。翌日にも同じ文字を見たので、日本の国土交通省に相当するものかとその場では理解したが、帰宅してインターネットで調べてみるとやはり『トルコ国家水利庁』とのこと。そしてトルコの家屋にはほとんどの家やビルに太陽熱温水器が載っているのである。日照時間が長いし、石油は高い(税金が高い?)し、イスラムの掟で、毎日体を清潔にしてから祈らなくてならないから、温水器が普及するわけも解ったのであった。部屋の数だけ乗っているのだろうか、異様な数。アパートや一戸建ての家の区別無く至るところで。国民の義務?ではなさそうだが。そしてパラボラアンテナも1軒で3個も違った向きに。ヨーロッパ、アジアそして中東のそれぞれテレビ局用?電波の十字路でもあるのだろうか?そしてアイワルクの街の海岸沿いにあるホテルに到着。アイワルクはトルコ西部の港町。エーゲ海に面し、沖合にギリシャ領のレスボス島が浮かぶ街。近隣には白い砂浜が広がり、海岸保養地として知られる街。添乗員のZEKIさんの説明によると、古代ギリシアの文人にはレスボス島ゆかりの者も多く、レスボス島出身者として、詩人のサッポーがいると。サッポーが女性に対する愛を謳った作品を多く遺したことから、英語では、もともと「レスボス人」を指した Lesbian という語は、後に女性同性愛者(レズビアン)を意味するようになったと。女性同性愛の意味での lesbianism というこの表現は20世紀以降、この言葉は世界各国に借用され、広まったと何故か熱く語っていたのだ。遠く、かすかに、このギリシャ領のレスボス島が見えた。そしてホテルに到着。この日のホテルは『GRAND TEMIZEL』。夕飯はこの日もバイキングスタイル。あまり代わり映えしないメニュー。野菜サラダが旨い。そして食後には海岸に出て夕焼け鑑賞。エーゲ海が赤く染まっていた。そして爽やかな風が。そしてふとこの歌がエーゲ海(Aegean)を眺めながら頭をよぎった。『南に向いてる、窓を開け 一人で見ている、海の色美しすぎると、怖くなる 若さによく似た、真昼の蜃気楼Wind is blowing from the Aegean 女は海好きな男の、腕の中でも 違う男の、夢をみるUh─、Ah─、Uh─、Ah─ 私の中で、お眠りなさいWind is blowing from the Aegean 女は恋昨夜(ゆうべ)の余韻が、隅々に 気怠(けだる)い甘さを、残してるレースのカーテン、ひきちぎり 体に巻きつけ、踊ってみたくなるWind is blowing from the Aegean 女は海やさしい人に、抱かれながらも 強い男に、ひかれてくUh─、Ah─、Uh─、Ah─ 私の中で、お眠りなさいWind is blowing from the Aegean 女は海好きな男の、腕の中でも 違う男の、夢をみるUh─、Ah─、Uh─、Ah─ 私の中で、お眠りなさいWind is blowing from the Aegean 女は恋』もちろんジュデイ・オングの『魅せられて』。エーゲ海の砂浜に立つ、アルコールのせいかやけに感傷的な還暦過ぎのオヤジがいたのであった。そして部屋に戻り、この日も旅友との反省会。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.07
コメント(0)
【6月4日】この朝も同室のSさんと6時からホテル周辺の早朝散歩に。クラブツーリズムから送られてきた『旅のしおり』から宿泊するホテル名、住所を確認し『google earth 』で検索し、ホテルを中心とした地図を入手しこれを印刷し持参しているのである。よってこれを片手に出発。ホテル入り口からの朝日に光るマルマラ海と沿岸の街並み。テレビ塔上空を飛行する旅客機からは一筋の飛行機雲が朝の空に。道端に咲く野アザミの巨大な花。ビルのコンクリート基礎杭が法面に露出。これで地震に耐えられるとは到底思えないのであったが・・・・・。テレビ等の上部の展望台?も朝の青空に映えていた。ホテルに戻り朝食。この朝もバイキング。我が蜂蜜を持参したためこれをパンに。パンの味はイマイチ。デザートはヨーグルトのフルーツ乗せ。そして8時にこの日の観光地トロイ遺跡に向けて出発。左手にマルマダ海を見ながら海岸沿いをバスは進む。車窓風景を楽しむ。途中小柄ながら一面の菜の花畑も。我がミツバチ達は元気に留守番をしてくれているであろうかと・・・・・。途中のトイレ休憩。旅友のお二人もオチャメにポーズ。 早めの昼食は鯖をパンに挟みサバサンドを楽しむ。 ポテトフライはチーズを載せて。スープとデザートのスイカ。スイカは甘さがイマイチ。勿論我が農園のスイカの甘さは抜群。 そしてバスは更に進む。この日はアジアとヨーロッパを隔てるダーダネルス海峡をフェリーで渡るのだ。ダーダネルス海峡は別名チャナッカレ海峡とま呼ばれ、地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡。ボスポラス海峡とともにヨーロッパとアジアの境界をなすのだ。ゲリボルの名前の由来はギリシア語のカリポリスであり、「美しい町」という意味とのこと。船を下り屋上デッキに陣取る。船からは山の斜面に『GELIBOLU』の白き文字と真っ赤なトルコ国旗が見えた。 マストノ上では名前の解らぬ海鳥が我々異邦人を歓迎してくれた。晴天の下絶景を楽しみながら、すがすがしい風を感じてわたるダーダネルス海峡。30分ほどで対岸のラプセキの街の船着き場に到着。この海峡を渡ることで、ヨーロッパからアジアへと移動したのだ。普段はアジアの極東に住んでいる自分が、今は極西にいるということで、まさにアジアを股にかけるという感じのしている男がここにいたのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.06
コメント(0)
【6月3日】アヤソフィアの見学を終え外に出ると目の前にはブルーモスクが。古都イスタンブールには様々な歴史的建造物があるが、その多くはビザンティン帝国時代からのものとオスマントルコ帝国時代のもの。その中で、スルタンアフメットモスク、通称ブルーモスク はオスマントルコ帝国時代から残る建築物としては一番の必見ポイント。振り返ると先ほど見学したアヤソフィアのピンクの姿が。ブルーモスク入り口へ移動。通常、モスクの周囲にはその規模によってミナレットと呼ばれる尖塔が1~4基設置されているのだ。一番大きいモスクでも4基が普通だが、このスルタンアフメットモスクにはなんと6基のミナレットが。これには、当時スルタンの命令の「アルトゥン(金)」を「アルトゥ(6)」を聞き間違えた建築家が、金のミナレットを建てる代わりに6本のミナレットを建ててしまったという話も伝わっていると。しかし地上からは6基のミナレットを同時に見える場所を歩くことは出来なかった。ここでも見えるのは4基。 ブルーモスクの入り口の門。 中庭。庭には26本の柱があり、30もの小ドームが連なる回廊で囲まれていた。 スルタンアフメットモスク、、「ブルーモスク 」の名の方がひろく知られるこのモスク。その云われは内部の壁、天井、柱を覆う文様がほんのり青を帯びていることから。昔は全体的にもっと青みが強かったものの、近年の改修で天井などはより抑えられた色彩になっており、全体的に優しい色調で覆われていた。一方で昔から残っている壁のイズニックタイルなどははっきりとした青が美しく、これもまた見どころの一つ。ステンドグラス。偶像崇拝禁止のイスラム教会のステンドグラスは花の模様。こちらのステンドグラスも繊細で美しい。ステンドグラスと一面の赤い絨毯。 51m x 53mの広さを誇るというブルーモスクの内部は、巨大な空間で、床には赤い色調の絹の絨毯が敷き詰められていた。この絨毯は、絹で織られた宮殿御用達のヘレケ絨毯とのこと。ヘレケ絨毯は、イスタンブールの南東60kmほどにあるマルマラ海に面するヘレケという小さな村で古くから織られている手織りの絨毯で、世界で最も高品質で芸術性の高いものだと。思わず絨毯の上に座り込みしばし休憩。メッカに向かい祈る人々の姿も。高さ43mのドームは直径5mの巨大な4本の柱(象の足)で支えられていた。ブルーモスクの見学を終え外に出る。目指すはピッポドローム。ヒッポドロームとは、古代ローマ時代の戦車競技場。馬に車を引かせて、競争をするシーンが映画『ベンハー』にも映像化されていたと。この競技場は4世紀にコンスタンティヌス帝によって造られたのだ。コンスタンティヌスはローマ帝国の都をここビザンティオンに移し、自分の名前をとって、コンスタンティノープルと改めたのだ。これが現在、イスタンブルとさらに改称。競技場跡は現在では、長方形の広場となって、ブルーモスクのすぐ近く、北西側に。この広場には現在3本のオベリスクが残されていた。一番奥には 切り石積みのオベリスクが。これについては詳しいことはわかってまいなが、切り石の表面は元来は青銅で覆われていたと。しかし、現在は切り石がむき出し。これは、13世紀初頭のヴェネチア商人の侵入(第4回十字軍)に際して、彼らが貨幣鋳造のために削り取ったためとも言われているとのこと。そして『蛇の柱』。ギリシアがペルシアを打ち負かしたペルシア戦争において、ギリシア軍が決定的勝利を収めたのがプラタイアの戦い。その勝利を記念して、ギリシアのデルフォイのアポロン神殿に立てられていた記念碑。これをコンスタンティヌス帝の頃(4世紀前半)、この地に運び込まれたと。そして『テオドシウスのオベリスク』。ローマ帝国最後の皇帝、テオドシウス帝がエジプトのカルナック神殿から運んで来たもの。古代エジプトのヒエログリフ(神聖文字)が彫られていた。そこには紀元前15世紀のエジプトのファラオ、トトメス3世を讃える碑文が刻まれていると。近くに8角形の『ドイツの泉』。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が1898年にイスタンブールを訪問したのを記念し、 1900年にドイツ政府により建てらたとのこと。 この日の見学を終えバスでホテルに向かう。この旅行で最初のホテルは『KAYA RAMADA PLAZA ISUTANBUL』ブルーモスク、アヤソフィア博物館があるイスタンブルの歴史的中心部から35kmの距離にある★★★★★のホテル。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.05
コメント(2)
【6月3日】空港からツアーバスにて最初の観光場所アヤ・ソフィア大聖堂に向かう。しばらくすると青いマルマラ海沿いを走る。この日は日曜日、海岸沿いの緑地では青い空、青い海の下、家族で休暇を楽しんでいた。30分ほど走りアヤ・ソフィア大聖堂に到着。アヤ・ソフィア大聖堂は、ビザンツ帝国(キリスト教)から、オスマン帝国(イスラム教)へと支配が移っていったイスタンブールの歴史を象徴する建築物。ビザンツ時代にキリスト教の大聖堂として建てられ、オスマン帝国占領後は改築してイスラム教徒の礼拝場所であるモスクとして使われたと。その歴史の変遷が見てとれるアヤソフィアは、現在、無宗教の博物館として公開されていた。巨大なドームを有した大聖堂はビザンツ建築の最高傑作と称されているとのこと。オスマン帝国占領後には、建物の周囲に4つのミナレット(尖塔)を付け加えるなどモスク仕様に改良が施され、イスラム教の礼拝所として活用されたとのガイドの説明。入場券をもらって内部へ。 屋根を見上げて。415年にテオドシウス2世によって再建された聖堂の一部。聖堂内に6つある黒の地に金色の文字が書かれた円盤が印象的。この黒は駱駝(らくだ)の皮で出来ているのだと。この丸い円盤は四隅にありアッラーやムハンマドの名が金文字で書かれていると。 巨大なドームに圧倒された。聖母子像。このモザイクは漆喰の中から発見されたのだ。オスマントルコがこの教会を征服後はモスクに改造。ギリシャ正教会時代のものは全て漆喰の中に葬り去れたのだ。しかし、漆喰を剥がすとビザンチン帝国時代のものが出現。トルコ政府が偉いのはイスラムでありながら、この歴史的建造物を博物館、美術館として修復、保存に努力をされている事。このモザイクは9世紀に出来たとのこと。残念なことに、1204年に十字軍がイスタンブールを略奪したときにアヤ・ソフィアの祭壇は砕かれてしまい、金銀の装飾物はほとんど略奪されてしまったと。普通モスクはこのミフラーブ(メッカの方をさししめす窪み)がメッカに向いて建物の中央配置されているのであるが、このアヤソフィアは元々教会だったため、メッカの方向を向いていないため、右側にずれているのだ。2Fから大聖堂を望む。内装がダーク系のため余計暗い感じが。13世紀後半に描かれたと思われる「デイシス」。かなり大きなもので、上まで3メートルくらいあり、下半分がなくなっていた。「デイシス」とは、願い、祈りという意味。真ん中にキリストいて、左側にマリア、右側は洗礼者ヨハネが。マリアとヨハネが、キリストに対して「どうぞ1人でも多くの人間を救ってやってください」とお願いしている姿だとの説明。洗礼者ヨハネ。こちらは『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』。 アヤソフィア2階の回廊の柱の下の方にある穴。「聖母マリアの手形」と呼ばれるもの。この穴に親指を入れて、残り4本の指を指先を柱につけたままぐるりと一周できると願い事がかなうという言い伝えがあると。旅友も挑戦。ステンドグラスも美しかった。下部にはアラビア文字らしきものも確認できた。青と緑が鮮やかであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.04
コメント(0)
【6月2日~3日】成田空港に到着し第1ターミナル南ウイングに到着。クラブツーリズムの受付場所に向かう。一時間ほどフロアー内のレストランでビール片手に時間待ち。そして定刻の18:50にフロントに行くとすでに多くの旅友が到着していた。今回の添乗員のIさんからeチケットをもらいカタール航空カウンターでチェックイン。ANAカードのマイレイジが付くとのこと。eチケットのクラスはエコノミークラスで往路U、復路Eとあるので50%が付くということなのでは。再び集合し出国手続きについて説明を受けた後、セキュリティー⇒税関手続き⇒出国審査を受け目的のゲートへ向かう。 メンバーは男性11人、女性18人、それと添乗員Iさんの合計30人。カタール航空QR803便。関西空港経由ドーハ行きのFLIGHT。出発時間は21:10。カタール航空は1994年設立の新興ながら、急成長を遂げているエアライン。設立当初は4機だった機材が、現在では62機に到達。2013年には現在の約2倍の110機になる予定とのこと。2005年3月には関空-ドーハ線で日本に乗り入れた。エアバスA340やA330、A320と新鋭機を使用し、エコノミークラスにもシートテレビを導入するなど、充実の設備を誇ると。国際運輸調査機関であるスカイトラックス社から「5つ星」ランキングを受賞するなど、サービスにも定評のあるエアライン。定刻を僅かに遅れて離陸し1時間30分弱で関西国際空港に到着。機内のTVはタッチパネルのオンデマンドで、邦画も充実しており、この後も退屈しないですみそう。関西空港で1時間ほどのトランジットの後DOHAに向けて出発。離陸後1時間ほどして最初の機内食。恐怖のフォアグラ状態がいよいよスタート。震えでピントもやや合わず。しかし食事の後は爆睡。気がつくとインド上空。関空から早7時間強。どこでもアッという間に眠れることが私の強みか?暫くすると2回目の食事。今回は和食を注文。機外は朝焼けが飛行機を追い抜いてゆくのであった。時間は明らかに進んでいるのに、現地の時間は戻っているという不思議な体験を再び。ようやくドーハ空港への着陸態勢に。砂漠の中のドーハの街。ドーハ国際空港に到着。カタール唯一の国際空港。『ドーハの悲劇』を思い出す。ドーハの悲劇とは、1993年10月、このドーハのスタジアムで行われた日本代表とイラク代表のアメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の日本代表最終戦で、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本のFIFAワールドカップ初出場が確定するまでわずかな時間を残すだけの状況から一転して予選敗退が決まった事を指す日本での『悲劇』の通称。ターミナルビルには、ボーディング・ブリッジは無く我々乗客は専用バスにより駐機場とターミナルビルの間を移動。ターミナルビル内の免税店はトランジットの乗客で賑わっていた。ここからイスタンブールまで最後の4.5時間のFLIGHT。出発は7:50。QR482便。アラビア半島→イラク上空→シリア上空を通過しトルコへ。そしてドーハ離陸後に目の前にまたまた食事が。そして漸く目的地のトルコ・イスタンブール空港に到着。別名アタテュルク国際空港。トルコ建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルクから名づけられているのだ。イスタンブルのヨーロッパ側にあり、市街地中心部から南西に約15km離れている。もちろんトルコ航空の本拠地。全員のトランクも無事到着。出口には多くの出迎えのトルコ人が様々な表情で。そして我々がこの旅行で利用するバスに案内される。白いベンツ製の大型バスが我々の長旅からの無事の到着を歓迎してくれたのであった。それにしても今回も長時間のFLIGHT。成田→イスタンブール直行便であれば約9000kmのFLIGHTであるが、関空、ドーハ経由の為+2000km以上長い約11000kmのグレート&タフジャーニーであったのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2012.06.03
コメント(0)
【6月2日】トルコ旅行出発の日、旅友のSさんが愛車デュークで我が家まで迎えに来てくれた。この車で成田空港まで行き車を帰国まで預ける計画。定刻過ぎに到着し、我妻に見送られ小田急線の駅まで向かう。ここでもう一人の旅友Hさんをピックアップ。愛甲石田にお住まいだが、娘さんが車で我が駅まで送ってくれたとのことで3人で成田に向けてスタート。時間は12時過ぎ。横浜新道を利用して順調に車は進む。首都高を経由して東関東道を利用し成田へ。この旅行の集合時間は18:50。早めに出発したのは3人で成田山新勝寺に立ち寄り、旅の安全祈願をするのが目的。東関東自動車道成田ICでおり一般道を利用して成田山新勝寺へ。自宅から1時間半強で到着。まずは腹こしらえと成田山の名物、老舗のうなぎ屋に入りうなぎ丼を注文。しばらくは日本食とはお別れ、おいしいうなぎで元気をつけたのであった。うなぎの味に満足し、その後成田山新勝寺へ向かう。成田の駅から新勝寺まで約1Kmにわたる参道。昔の雰囲気をよく残していると思われる参道は、もっとも参道らしい参道。その沿道には昔ながらの土産物屋が所狭しと。うなぎ屋、笊屋、唐辛子やせんべい。昔の雰囲気をよく残していた。そして成田山新勝寺に到着。成田山新勝寺は、真言宗智山派の寺であり、同派の大本山のひとつである。本尊は不動明王。関東地方では有数の参詣人を集める著名寺院で、家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷のために訪れる人も多いのである。巨大な総門。 総門をくぐって、境内に入ると大きな赤い提灯のある仁王門が。成田山の境内には、数多くの建造物が立ち並んでいるのであった。 仁王門から東海道五十三次にならった53段の石段を上がると、成田山のシンボルである大本堂が現れた。境内にある、三重塔は開基1070年祭にあわせて周囲の修復が行われ、建立された200年前と同じ鮮やかな極彩色の姿が現代によみがえったとのこと。大本堂に向かって右側に建つ三重塔。 色彩豊かな重要文化財。 成田山新勝寺大本堂裏の丘地に広がる約5万坪の大公園。遠く成田山大塔 の姿も見えた。弘法大師1150年遠忌記念として昭和59年完成とのこと。集合時間にまだまだ余裕があるので成田・航空科学博物館に車を走らせた。入り口には、セスナ195 JA3007 朝日新聞社 朝風号が展示されていた。展示室案内板も。大きな地球儀。青い惑星。これから訪問するトルコ共和国に思いをはせシャッターを。館外の庭には各種の歴史ある飛行機やヘリコプターも展示されていた。 海上保安庁で活躍したヘリコプター、シコルスキーS-62。 5階は展望室となっていて、係員の飛行機の解説を聞きながら離着陸する飛行機を見ることが出来るのであった。見学を終え成田空港近くの予約済みの駐車場に向かう。ここに9日間、7500円弱にて車を預け、マイクロバスにて空港ターミナルへ送ってもらえるのです。そして帰国時は出国手続き完了後TELすれば、到着ロビー前へ預けた車が洗車され届く仕組み。よって帰宅が非常に楽で早いのです。そして集合場所へ定刻の1時間前に到着したのでした。
2012.06.02
コメント(0)
【海外旅行 ブログリスト】👈リンク今年も明日6月2日(土)から会社の先輩二人とトルコ旅行に行くこととなりました。当初は4名でしたが、残念ながら1名は仕事の関係上キャンセルとなりました。クラブツーリズムの『文明の十字路エキゾチック・トルコ10日間』の旅。先日ツアーコンダクターの女性から携帯に連絡があり参加総数は29名とのこと。その中で我々3人といつもの旅友Mさんご夫妻の5名がおそらく最大多数派。何しろ廉価ツアーの為、成田からカタール航空で関西空港→カタール・ドーハ→イスタンブールと20時間以上のグレート?タフ!ジャーニー。ツアー名ともなっているように、トルコは東西文明の十字路。地理的に三方を黒海、エーゲ海、地中海に囲まれたトルコ共和国。古くから「東西文明の十字路」として栄え、ヒッタイト帝国、古代ギリシャ・ローマ、ビザンチン帝国、セルジューク朝、オスマン帝国などが興亡した場所。国土は日本の約2倍、人口は7,200万人、『中東』地域を代表する大国。しかし、トルコの国土の大半を占めるアナトリア半島は言うまでもなくアジアに含まれる。ボスポラス海峡の西部のわずかな地域がヨーロッパに含まれるのであるが、かつて、オスマン帝国の領域(バルガン半島やアナトリア半島など)は近東(Near East)と呼ばれ、ヨーロッパから見て近くの東方地域とみなされていたとのこと。そして、イラン・アフガニスタン及び周辺国を中東(Middle East )と呼び、日本を含む東アジアや東南アジアは極東(Far East)と呼ばれていたと。日本における概念としてはキリスト教の地域をヨーロッパ、イスラム教の地域を中東となっているため、外務省のWebサイトでは、トルコを中東に含めているのである。まさしく、ヨーロッパ、アジア、中東、・・・の『文明の十字路』なのである。そしてトルコと日本の間には、120年にもおよぶ友好の歴史があるのだ。そのエピソードは、1887年、日本の皇族がオスマン帝国皇帝に謁見し、その答礼として、1889年、650名の使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号を日本へ派遣したことから始まるのである。使節団は1890年、横浜に到着後、明治天皇に謁見して、同年9月にトルコへの帰路へと着いたが、折しも日本は台風の季節。和歌山県沖で、強風と高波に襲われ、沈没してしまったのだ。この時、使節団587人が死亡する大惨事となった一方で、近くの村人たちが総出で救出にあたり、69人の命が救われたのであった。これとは逆に、イラン・イラク戦争が続いていた1985年、イラクの空爆を目前にイランの首都テヘランに取り残されていた日本人約250人が、トルコ航空機によって奇跡的に救出されるという出来事も。この2つの出来事は多くの人の心を打ち、今でもトルコと日本の友好のきずなとして語り継がれて、トルコ人には親日家が多いとのこと。 訪れる場所は、イスタンブール(【ブルーモスク、アヤ・ソフィア、ヒッポドローム)⇒トロイ⇒ベルガマ(ペルガモン王国)⇒エフェソス遺跡⇒パムッカレ(石灰棚、ヒエラポリス)⇒コンヤ(メブラーナ博物館)⇒カッパドキア(ギョレメ野外博物館、地下都市カイマクル、ゼルベの谷、デヴレント、ウチヒサール、三姉妹の岩、じゅんたん工場)⇒アンカラ⇒サフランボル(バザール、フドゥルルックの丘)⇒そして再びイスタンブール(トプカプ宮殿、グランドバザール、地下宮殿とトルコ周遊の旅。すべてバスによる移動でオプショナルツアー無しの今回も強行軍の旅。準備もほぼ完了。気温は日本とほぼ同じとのことで半袖中心の衣類を準備。温泉にも入りたいので海水パンツも準備したのだ。トルコはイスラム教徒の国となった後でも、キリスト教の遺産と共存、調和する社会を築いており、ここにトルコ人の寛容さが想像できるのです。今回もトルコの人たちとの一期一会の出会いを、そして世界遺産にもなっているカッパドキア、パムッカレの奇跡の自然風景を楽しみながら、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがるトルコ共和国を肌で感じてきたいのである。そして『ベリーダンス』も学んできたいと思っているのであるが・・・・・・・・。 ・・・つづく・・・
2012.06.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1