F&B 腐向け転生パラレル二次創作小説:Rewrite The Stars 6
薄桜鬼 昼ドラオメガバースパラレル二次創作小説:羅刹の檻 10
黒執事 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧の騎士 2
天上の愛 地上の恋 転生現代パラレル二次創作小説:祝福の華 10
黒執事 転生パラレル二次創作小説:あなたに出会わなければ 5
YOI火宵の月パロ二次創作小説:蒼き月は真紅の太陽の愛を乞う 2
薄桜鬼 現代ハーレクインパラレル二次創作小説:甘い恋の魔法 7
火宵の月 転生オメガバースパラレル 二次創作小説:その花の名は 10
薄桜鬼異民族ファンタジー風パラレル二次創作小説:贄の花嫁 12
薄桜鬼ハリポタパラレル二次創作小説:その愛は、魔法にも似て 5
天上の愛地上の恋 大河転生パラレル二次創作小説:愛別離苦 0
火宵の月 BLOOD+パラレル二次創作小説:炎の月の子守唄 1
PEACEMAKER鐵 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:蒼い華 14
黒執事 異民族ファンタジーパラレル二次創作小説:海の花嫁 1
火宵の月 韓流時代劇ファンタジーパラレル 二次創作小説:華夜 18
火宵の月×呪術廻戦 クロスオーバーパラレル二次創作小説:踊 1
薔薇王韓流時代劇パラレル 二次創作小説:白い華、紅い月 10
薄桜鬼 ハーレクイン風昼ドラパラレル 二次小説:紫の瞳の人魚姫 20
天上の愛地上の恋 転生昼ドラパラレル二次創作小説:アイタイノエンド 6
鬼滅の刃×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:麗しき華 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳳凰の系譜 1
薄桜鬼腐向け西洋風ファンタジーパラレル二次創作小説:瓦礫の聖母 13
コナン×薄桜鬼クロスオーバー二次創作小説:土方さんと安室さん 6
薄桜鬼×火宵の月 平安パラレルクロスオーバー二次創作小説:火喰鳥 7
天上の愛地上の恋 転生オメガバースパラレル二次創作小説:囚われの愛 8
天上の愛地上の恋 昼ドラ風時代パラレル二次創作小説:綾なして咲く華 2
ツイステ×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:闇の鏡と陰陽師 4
天愛×腐滅の刃クロスオーバーパラレル二次創作小説:夢幻の果て~soranji~ 0
ハリポタ×天上の愛地上の恋 クロスオーバー二次創作小説:光と闇の邂逅 2
魔道祖師×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想うは、あなたひとり 1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:月の国、炎の国 1
天愛×火宵の月 異民族クロスオーバーパラレル二次創作小説:蒼と翠の邂逅 0
陰陽師×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:君は僕に似ている 3
黒執事×ツイステ 現代パラレルクロスオーバー二次創作小説:戀セヨ人魚 2
黒執事×薔薇王中世パラレルクロスオーバー二次創作小説:薔薇と駒鳥 27
薄桜鬼×刀剣乱舞 腐向けクロスオーバー二次創作小説:輪廻の砂時計 9
火宵の月×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想いを繋ぐ紅玉 54
天上の愛地上の恋 昼ドラ転生パラレル二次創作小説:最愛~僕を見つけて~ 1
バチ官腐向け時代物パラレル二次創作小説:運命の花嫁~Famme Fatale~ 6
FLESH&BLOOD×黒執事 転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:碧の器 1
腐滅の刃 平安風ファンタジーパラレル二次創作小説:鬼の花嫁~紅ノ絲~ 1
天愛×薄桜鬼×火宵の月 吸血鬼クロスオーバ―パラレル二次創作小説:金と黒 4
黒執事×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:悪魔と陰陽師 1
火宵の月 戦国風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:泥中に咲く 1
火宵の月 地獄先生ぬ~べ~パラレル二次創作小説:誰かの心臓になれたなら 2
PEACEMAKER鐵 ファンタジーパラレル二次創作小説:勿忘草が咲く丘で 9
FLESH&BLOOD ハーレクイン風パラレル二次創作小説:翠の瞳に恋して 20
火宵の月 異世界ファンタジーロマンスパラレル二次創作小説:月下の恋人達 1
天上の愛地上の恋 現代転生パラレル二次創作小説:愛唄〜君に伝えたいこと〜 1
天上の愛地上の恋 現代昼ドラ風パラレル二次創作小説:黒髪の天使~約束~ 2
火宵の月 異世界軍事風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:奈落の花 2
天上の愛 地上の恋 転生昼ドラ寄宿学校パラレル二次創作小説:天使の箱庭 5
天上の愛地上の恋 現代昼ドラ転生パラレル二次創作小説:何度生まれ変わっても… 0
天上の愛地上の恋 昼ドラ転生遊郭パラレル二次創作小説:蜜愛~ふたつの唇~ 0
天上の愛地上の恋 帝国昼ドラ転生パラレル二次創作小説:蒼穹の王 翠の天使 1
名探偵コナン腐向け火宵の月パラレル二次創作小説:蒼き焔~運命の恋~ 1
FLESH&BLOOD ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の花嫁と金髪の悪魔 6
火宵の月 和風ファンタジーパラレル二次創作小説:紅の花嫁~妖狐異譚~ 3
天上の愛地上の恋 昼ドラ風パラレル二次創作小説:愛の炎~愛し君へ・・~ 1
黒執事 昼ドラ風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:君の神様になりたい 4
火宵の月 昼ドラハーレクイン風ファンタジーパラレル二次創作小説:夢の華 0
薄桜鬼腐向け転生刑事パラレル二次創作小説 :警視庁の姫!!~螺旋の輪廻~ 15
FLESH&BLOOD ハーレクイロマンスパラレル二次創作小説:愛の炎に抱かれて 10
PEACEMAKER鐵 オメガバースパラレル二次創作小説:愛しい人へ、ありがとう 8
天愛×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:翼がなくてもーvestigeー 2
薄桜鬼腐向け転生愛憎劇パラレル二次創作小説:鬼哭琴抄(きこくきんしょう) 10
薄桜鬼×天上の愛地上の恋 転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:玉響の夢 5
黒執事×天上の愛地上の恋 吸血鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:蒼に沈む 0
天愛×F&B 昼ドラ転生ハーレクインクロスオーパラレル二次創作小説:獅子と不死鳥 1
天上の愛地上の恋 現代転生ハーレクイン風パラレル二次創作小説:最高の片想い 4
バチ官×天上の愛地上の恋 クロスオーバーパラレル二次創作小説:二人の天使 3
FLESH&BLOOD 現代転生パラレル二次創作小説:◇マリーゴールドに恋して◇ 2
YOI×天上の愛地上の恋 クロスオーバーパラレル二次創作小説:皇帝の愛しき真珠 6
火宵の月×刀剣乱舞転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:たゆたえども沈まず 2
薔薇王の葬列×天上の愛地上の恋クロスオーバーパラレル二次創作小説:黒衣の聖母 3
火宵の月×薄桜鬼 和風ファンタジークロスオーバーパラレル二次創作小説:百合と鳳凰 2
薄桜鬼×天官賜福×火宵の月 旅館昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:炎の宿 2
薄桜鬼×火宵の月 遊郭転生昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:不死鳥の花嫁 1
天愛×火宵の月陰陽師クロスオーバパラレル二次創作小説:雪月花~また、あの場所で~ 0
薄桜鬼×天上の愛地上の恋腐向け昼ドラクロスオーバー二次創作小説:元皇子の仕立屋 2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧き竜と炎の姫君~愛の果て~ 1
F&B×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:海賊と陰陽師~嵐の果て~ 1
F&B×天愛 昼ドラハーレクインクロスオーバ―パラレル二次創作小説:金糸雀と獅子 1
天愛 異世界ハーレクイン転生ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の巫女 氷の皇子 0
相棒×名探偵コナン×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:名探偵と陰陽師 1
F&B×天愛吸血鬼ハーレクインクロスオーバーパラレル二次創作小説:白銀の夜明け 2
名探偵コナン×天上の愛地上の恋 クロスオーバーパラレル二次創作小説:碧に融ける 0
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「皆さんに、残念なお知らせがあります。土原興輔君が、お父様のお仕事の都合で東京の学校に転校することになりました。土原君、みんなにお別れの挨拶をしなさい。」「みんな、今まで遊んでくれてありがとう。東京の学校に行っても僕はみんなのことを忘れません。」興輔はそう言うと、クラスメイト達に頭を下げた。「興輔、元気でな!」「うん、今度の連休に遊びに行くからね!」「必ずだぞ!」「わかった!」数日後、京都駅のホームで東京行きの新幹線に乗る前、興輔は見送りに来てくれたクラスメイト達と話した後、彼らに手を振って新幹線へと乗った。「泣きたかったら、泣いていいんだぞ?」「でもお祖父ちゃんは、男は泣くなって・・」「我慢しないで泣け。祖父ちゃんには黙ってやるから。」歳介の言葉を聞いて安心したのか、興輔は彼の胸に顔を埋めて泣いた。「真那美ちゃん、なんやえらい元気ないなぁ。どないしたん?」「何でも、クラスで一番仲が良かった男の子が東京に転校したんだそうです。」「そうか。またどこかご縁があるかもしれへんなぁ。それよりも華凛ちゃん、来週の金曜のことやけど、うちの代わりに会合に出てくれへん?」「わかりました。でも、先方に失礼のないようにいたします。」「大丈夫や、あんたのことを知ってはる方もおられるさかい、心配せんでええ。」「はい・・」「それにしても、和美は家を出てから連絡ひとつ寄越さんと、何をしてるんやろう?」「もうそろそろ大学が始まる頃ですから、学業とバイトの両立で忙しいんじゃないんですか?便りがないのは元気の証拠っていうでしょう?」「そやけど・・」淑子がそう言葉を濁した時、玄関の戸を誰かが叩く音がした。「何やろか、こないな時間に?」「わたしが出ます。」そう言うと華凛は座布団から立ち上がり、玄関先へと向かった。「どちら様ですか?」「あの・・こちらは篠華さんのお宅ですか?」「ええ、そうですけど・・そちらは?」「申し遅れました、わたしは和美さんとお付き合いしている、長瀬裕也と申します。今日こんな時間に伺ったのは、和美さんの事でお話したい事があるからです。」「そうですか、暫くお待ちください。」玄関先に和美の交際相手と名乗る長瀬裕也を待たせ、華凛は淑子を呼びに行った。「和美の交際相手とおっしゃる方が、伯母さまと話がしたいと・・」「そうか、お通しして。」「お待たせいたしました、こちらです。」「あの、あなたは・・」「わたしは和美さんの従兄で、正英華凛と申します。」「正英・・もしかして、正英流の・・」「あの、わたしのことをご存知なのですか?」「ええ。」「伯母は、奥の部屋に居ります。」 数分後、裕也と淑子は、向かい合わせに座った。「伯母さま、わたしはお茶を・・」「あんたもここに居てや、華凛ちゃん。長瀬さんといわはりましたな。和美のことで、何の話があるんどすか?」「実は・・和美さんは、最近体調を崩していて・・病院に行ったら、妊娠していることがわかりました。」「それは、確かなんか?だとしたら、和美のお腹の子の父親は、あんたに間違いないんか?」「いえ・・それは・・」裕也は急に言葉を濁すと、しきりに目を泳がせた。
2013年09月05日
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「そんな・・それは本当なの、お父様?」「ああ。」「もう、歳介さんとはやり直せないのね?」病院で療養中の佳織は、父から潔子の死と、彼女が起こした事件を知った。「佳織、もう歳介君を解放してやれ。」「わかったわ・・」佳織はそう言うと、俯いた。 数日後、歳介の元に佳織の署名・捺印がされた離婚届が郵送されてきた。「これで、けじめがついたね。」「ああ。親権については、後日双方の弁護士を交えて話し合うつもりだ。」「そうか・・まぁ、盆休みが終わったら、また寂しくなるな。」亮輔はそうこぼすと、肩を落とした。佳織との離婚への手続きがスムーズに進んでいるとはいえ、興輔が今の学校から東京の学校へと転校をするのは変わらなかった。「ねぇお父さん、どうして京都に戻るの?」「俺はお前の母さんと別れることを決めた。だから、お前ぇは好きな子に自分の気持ちを伝えろ、いいな?」「わかった!」 盆休みが終わり、歳介は興輔を連れて京都へと戻った。「あなた、興輔の親権はあなたに譲ります。今まであなたにした事を振り返ると、あなたにわたしは酷い事ばかりしてきたわね・・」「佳織・・」「わたしは、もうあなたを自分の我がままで振り回すのは止めます。わたしが早くあなたとの離婚に踏み切っていたら、興輔が誘拐される事も、潔子さんが自殺する程の罪を犯す事もなかったでしょう・・」 JR京都駅前にあるホテルのカフェで、佳織はそう言って歳介を見るとコーヒーを一口飲んだ。「後悔しないのか?」「いいえ。わたしはもう、あなたに執着しません。潔子さんは、自分の命を以ってわたしがおかしなことをしないようにしてくれたんです。彼女の気持ちに、わたしは報いねばなりません。もう、二度と興輔にも、あなたにもお会いする事はないでyそう、お元気で。」「ああ、元気でな・・」カフェから去って行く佳織の後を、歳介は追わなかった。こうして、7年間にも及ぶ佳織との結婚生活を、歳介は無事にピリオドを打った。「真那美ちゃん、今いい?」「いいよ、どうしたの興ちゃん?」 興輔は真那美が通っている日舞教室で彼女が出て来るのを見た彼は、そう言って真那美を人気のない所へと連れ出した。「あのね、僕真那美ちゃんの事が好きなんだ。付き合ってくれる?」「ごめんなさい・・わたし、興ちゃんの事は友達として付き合いたいと思っているの。」「そう。あのね、僕お父さんと一緒に東京に行く事になったんだ。だから、学校も向こうの学校に転校することになったの。」「じゃぁ、会えないね。」「でも、毎日メール出来るでしょう?だから寂しくないよ。ごめんね、話はそれだけ。」「始業式には来るんでしょ?」「うん・・」「じゃぁ、また新学期にね!」興輔は晴れやかな顔で真那美と別れると、歳介が待つホテルへと戻った。「ただいま。」「どうだった?ちゃんと真那美ちゃんに、自分の気持ち伝えられたか?」「うん。」「そうか、良かったな興輔。」 二学期の始業式が始まり、興輔は久しぶりに聖愛学園の制服に袖を通した。「真那美ちゃん、おはよう。」「興ちゃん、おはよう。」
2013年09月05日
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(お父さん、お祖父ちゃん・・) どうして自分はここに居るんだろう―興輔は暖炉の火に照らされた潔子に恐怖を抱きながら、彼は数時間前の事を思い出していた。父や祖父母がまた寝ている時、興輔は総太への手紙を出しに、コンビニの前にあるポストへと向かった。その時、一台の軽乗用車が彼の前に停まり、潔子が中から出て来た。「お母様の元へ行きますよ。」「やだ、行きたくない!」「強情な子ね!」潔子は舌打ちすると、興輔の口元を何かの液体を染み込ませたハンカチで押さえて気絶させ、拉致したのだった。「気が付いたのね。」「どうして、僕・・」「あなたが、悪いのですよ。あなたが産まれて来たから、お嬢様は苦しんだ。あなたさえいなければ、わたくしは石秀家を追い出されることはなかった。全て、あなたの所為です!」潔子は呪詛の言葉を興輔に吐きながら、エプロンのポケットからナイフを取り出した。「あなたは、この場で死んで貰わないと困ります。」「誰か、助けて!」「何処へ行こうというの、逃がしはしませんよ!?」潔子は興輔に迫ると、彼は一瞬の隙を突いて石膏像を彼女に投げつけ、彼女が怯んだすきに別荘から外へと飛び出した。「待ちなさい!」興輔が後ろを振り返ると、鬼のような形相を浮かべた潔子が自分に迫って来る。興輔は脇目も振らずに必死で森の中を逃げた。その時、パトカーのサイレンが遠くから聞こえて来た。助かる―興輔がそう思って安心した時、彼は雨でぬかるんだ地面に足を取られ、そのまま険しい斜面から転落した。「興輔、何処だ~!」「興ちゃん~!」「興輔~、居たら返事してぇ!」興輔が見つかったという連絡を受けた歳介達は、石秀家の別荘がある軽井沢へと向かった。暗闇の中、歳介達は懐中電灯片手に興輔の名を呼びながら森の中を歩いた。「居たか?」「居ない・・もしかしたら・・」「大丈夫だ、あいつは無事だよ。」「済まねぇ歳、俺の所為で・・」「親父の所為じゃねぇ。」自分の所為で興輔の身を危険に晒してしまったと自責の念にかられている亮輔に歳介がそう言って慰めていると、警察犬が向こうで突然吠えだした。「おい、居たぞ~!」「誰か担架を持って来い!」「興輔、興輔!」 警察官たちが集まっている場所へと歳介達が向かうと、そこには担架に載せられ、傷だらけになり全身泥にまみれた興輔の姿があった。「興輔、しっかりしろ!」「興ちゃん!」歳介が興輔の元へと駆け寄ると、彼は微かだか息をしていた。「よかった・・無事でよかった・・」「お巡りさん、あの女は?うちの孫をこんな酷い目に遭わせたあの婆は何処に?」「吉沢潔子は、奥の雑木林の中で服毒自殺を図っていました。遺体の傍に、遺書が置いてありました。」「それは、彼女の雇用主だった石秀さんに渡してください。俺ぁ、孫が無事だったことだけでいいんです。」「そうですか・・」 病院へと向かう救急車の中で、歳介はそっと興輔の小さな手を握り締めた。彼は、その手を握り返してきた。
2013年09月05日
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病院での一件を聞いた喜助が土原家に謝罪に来たのは、一週間後のことだった。「本当に、あなた方には済まない事をしました。」「土下座なんてのは、たとえ心から済まねぇと思ってなくてもできらぁ。あの女が俺に頭を下げるまで、俺はあんたらには会いたくねぇ。」「潔子は暇を出しました。」「長年仕えてきた家政婦をはした金で追い出すたぁ、金持ちってのは傲慢だな?それよりもあんたん所のお嬢さん、どうなんだい?」「佳織は意識を取り戻しましたが、精神的なショックが大きくてまだ退院は出来ません。」「そうかい。それよりも、佳織はうちの倅の息子を妊娠したと言ったが、倅は身に覚えがねぇと言っているんだよ。」「それはわたしも初耳です。」「そうかい、じゃぁあんたとはもう話したくねぇや。」「失礼致しました。」喜助は肩を落とし、土原家から出て行った。「まぁ、あの婆さんが今何処で何をしてるのか、俺には関係のねぇこった。だが、この騒動であいつに損害賠償でも請求しねぇと、怒りが収まらねぇ。」「親父、落ち着けよ。」「そうよあんた、また血圧上がってぶっ倒れたらどうすんの?」「ったく、お前ぇは男の癖に母ちゃんに似てきやがったな、歳。」「さてと、こんな所で油売ってる暇はねぇや!親父、配達行ってくらぁ。」「気ぃつけて行けよ!」「おう!」 喜助が裏で手を回したのかどうかはわからないが、「つちはら」への嫌がらせ行為は突然止んだ。「どうしたんだ、気味が悪い。」「そうだねぇ。まぁ、お客さんが戻って来てくれてよかったけど。」騒動の所為で一時客足が遠のいていたが、嫌がらせがパッタリとなくなった後、再び客が戻ってきた。「まぁいいじゃねぇか。また普通に仕事が出来る。」「そうだな。」一連の騒動の後、インターネット上ではアルバイト先のファーストフード店の冷凍庫に入った写真をツィッターに載せた大学生に対して「祭り」と呼ばれるバッシングが広まり、「つちはら」での騒動は瞬く間にネットユーザー達の間では忘れ去られていった。「あ~あ、人生詰んだね、こいつ。」「最近では常識を知らねぇ馬鹿が、ネットで馬鹿な事をしやがるな。」「興輔にもネットの使い方教えてやれよ、兄貴。あいつに携帯を持たせてないって?」「ああ、あいつにはまだ早すぎんだよ。匿名ってだけで馬鹿な事をしやがる連中が多い中、いつあいつがそんな奴らの餌食にされるかもしれねぇと思うとな・・」「兄貴は心配性なんだよ。ただむやみにネットを禁止しても、子どもらは親の目を盗んでやるもんなんだよ。禁止するんじゃなくて、マナーを学ばせればいいんだよ。今ネットなしで生きてはいけないんだからさ。」「まぁ、そうかもなぁ・・興輔と一度、話し合ってみる。」「そうしろよ。」 翌朝、歳介はリビングで興輔が起きて来るのを待っていたが、いつまで経っても彼が起きて来る気配がなかった。「俺、見て来る。」 歳介は興輔が寝ている2階にある自分の部屋へと向かい、ドアをノックした。「興輔、起きてるか?」中から返事がないことに不審に思い、歳介が部屋の中へと入ると、そこには興輔の姿は何処にもなかった。彼の着替えや学用品、貴重品などが入ったリュックもなかった。「どうした、歳?」「興輔が何処にも居ねぇんだ!」「何だって!おい瑛子、警察呼べ!」「わかった!」 一方、潔子は石秀家が所有している軽井沢の山荘に居た。ロッキングチェアを揺らしながら、彼女は暖炉の前で眠っている興輔を見た。
2013年09月05日
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だが、事態は亮輔が思っているほど甘くはなかった。いつの間にか、あの監視カメラの映像がインターネット上に流出し、歳介が店のホームページをチェックすると、掲示板には亮輔への誹謗中傷の言葉で溢れていた。“たかり屋”“そこまでして金が欲しいか?”“死ね”「こいつはぁ、酷ぇな・・」「親父、一旦ホームページを閉鎖した方が良くねぇか?店の住所が載ってるし、変な奴らが嫌がらせをするかもしれねぇぜ?」「そうだな。」歳介の提案を亮輔は呑み、ホームページを閉鎖することにした。だが閉鎖したところで、インターネット上に載った情報はそう簡単に消えることはなかった。 店の住所を知った心ないユーザー達が、店の前に排泄物が詰まったビニール袋を置いたり、中傷のビラを店のシャッターに貼ったりと、陰湿な嫌がらせをしてきた。「畜生、いつまで続くんだ・・」「親父は何も悪いこたぁしてねぇ。ここは我慢して耐えてくれよ。」「わかったよ。」いつ終わるのかわからぬ嫌がらせに決して屈する事はなかった亮輔達だったが、そんな中決定的な事件が起きた。 それは、ある日の昼下がりのこと、歳介が弁当を配達しにある会社に向かい、給湯室に弁当を置こうとした時、その会社の社員の一人から声を掛けられた。「あのさぁ、それ持って帰ってくれない?」「配達の注文を受けて、こちらにお届けしたのですけど・・」「こっちは配達した覚えがないの。だから持って帰ってよ。」そんな筈はない。確かに電話で配達の注文を受けた際、ちゃんとこの会社名で領収書を書いた筈だ。「では、この領収書は御社のものではないと?」歳介がジャケットの胸ポケットから二つ折にした領収書を社員に見せると、彼はムッとした顔をして上司を呼んで来ようとしたのか、給湯室から出て行った。「部下の者がとんだ失礼な事を申しまして、大変申し訳ございません。」「いえ・・」「弁当は給湯室に置いていってください。」「わかりました・・」何だか腑に落ちないと思いながら歳介が給湯室の前を通りかかると、先程の社員が同僚と給湯室での歳介との遣り取りを面白おかしく話していた。「大体さぁ、こんなもん食えるかよ!」「確かに。クソが混じっているかもしれねぇのに。」「こんなもん食べるくらいなら、コンビニの方がマシだっての!」彼はそう叫ぶと、弁当を蹴り飛ばした。その衝撃で、弁当の中身が溢れ、給湯室の床に飛び散った。毎日亮輔と瑛子が早起きして、真心を込めて作った弁当が床に飛び散るのを見た歳介は、怒りの余りその社員の胸倉を掴むと、ドスの利いた声でこう言った。「拾え。」「な、なんだよ・・」「うちの弁当は、クソなんか混じってねぇよ!クソなのは、てめぇの頭だ!わかったら、さっさと拾え!」「け、警察呼ぶぞ!」「呼びたかったら呼べ。俺は痛くも痒くもねぇ!」歳介の剣幕に押され、その社員は彼から解放された後、恐怖のあまり床に蹲ったまま動けなくなった。「兄貴、今日配達先でキレたんだって?」「ああ。弁当を蹴り飛ばされて黙っていられるかってんだ。」
2013年09月05日
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「歳、事故ったって?」「怪我はないかい!?」 歳介が潔子に佳織の病室から追い出された後、彼が事故を起こしたという報せを受けた亮輔と瑛子が彼の方へと駆け寄ってきた。「親父、お袋、心配掛けて済まねぇな。俺は大丈夫だ。」「何だ、何か不味い事でも?」「実は、交差点の前に佳織が飛び出してきて、俺は咄嗟にブレーキをかけたんだが、間に合わなくて・・」「なんだって?あいつはぁ京都に居るんじゃねぇのか?」「俺もそう思ってた・・さっき店に掛かって来た電話、あれは佳織からだったんだよ。俺の子を妊娠してるってさ・・」「そんな訳ねぇだろう?お前ぇは最近、あの女を抱いてねぇと俺達に言ったよな?」「ああ。だからわからねぇんだよ、あいつが妊娠していた腹の子が俺の子なのかどうか・・」「あんな女の言う事なんざ、信じちゃならねぇ!あいつは天性の嘘吐きだ!」亮輔がそう叫んだ時、潔子が病室から出て来た。「またあなたは、そうやってお嬢様を公の場で中傷なさるのですね?まったく、この親にしてこの子ありとはよく言ったものだわ!」「お言葉を返すようだが、あんたの大事なお嬢様を嘘吐きに育てたのは、母親代わりのあんただぜ?人の子育てを否定する前に、てめぇの子育てを一度振り返ってみるんだな!」「ま・・」潔子が怒りで顔を赤く染めると、亮輔は不快そうに鼻を鳴らした。「歳、帰るぞ。こんな所にずっといたって、時間の無駄だ。」「お待ちなさい、あなたはまだお嬢様の夫ですよ!お嬢様の意識が戻るまで、付き添うのが夫の義務というものでしょう?」「てやんでい、うちとあんたん家とはとうに縁が切れてんだ!大体、歳が抱いてねぇのにお嬢様が妊娠したっていう腹の子はどこのどいつの子かわからねぇってのに!」「よくもお嬢様を侮辱しましたね!」潔子は金切り声を上げたかと思うと、亮輔の顔を爪で引っ掻いた。「何しやがる、このクソアマ!」「それはこちらの台詞です、お嬢様に謝りなさい!」「落ち着いて下さい、二人とも!ここは病院ですよ!」たまたまそこへ通りかかった看護師がそう言って二人の間に割って入ったが、興奮した潔子は彼女の顔を平手で打った。ほどなくして、屈強な警備員が数人二人の元へとやって来て、漸く騒ぎが収まった。「これで済むと思ったら大間違いですよ!」「先に喧嘩を仕掛けてきたのはそっちだろうが!」「あんた、いい加減にしなさいよ!」 数分後、病院が警察に通報し、やって来た警官に事件の経緯を亮輔は説明した。「お巡りさんよ、あの女が先に手ぇ出してきたんだぜ?証拠なら、廊下に監視カメラがあるだろ?それを見りゃぁわかるだろ?」「それは本当ですか?」「間違いねぇよ。」潔子が暴力を振るってきてそれに応戦しただけという亮輔の主張と、亮輔が殴って来たので反撃したという潔子の主張は食い違った。埒が明かなくなった警察は、廊下の天井に設置されている監視カメラの映像を確かめ、潔子が亮輔の顔を引っ掻いた様子を見て、亮輔の主張が正しい事を認めた。「被害届は出されますか?」「当然よ!こりゃぁ立派な傷害罪だぜ。見逃しておくわけにはおかねぇよ!」歳介と瑛子に付き添われ、最寄りの警察署へと向かった亮輔は、そこで被害届を提出した。「大事にならないといいけどねぇ。」「そんなことにはならねぇよ。こっちは被害者なんだから。」
2013年09月05日
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「歳、電話鳴ってるぞ。」「おお、すまねぇな。」 歳介が亮輔と瑛子が営んでいる食堂の手伝いをしていると、壁に備え付けられている電話が鳴り響き、彼は慌てて受話器を取った。「もしもし、定食つちはらです。」『あなた、お久しぶりね。佳織です。』「・・こんな時間に何の用だ?今忙しいんだよ。」『あのね、今度会わない?あなたに話したい事があるのよ。』「断る。」歳介はそう言うと、受話器を乱暴に置いた。「誰からだった?」「ただの悪戯電話だよ。忙しいってのに、迷惑なこった。」歳介は亮輔にそう誤魔化すと、店の手伝いへと戻った。「じゃぁ俺、配達に行ってくるわ。」「おう、気をつけてな。」「わかってらぁ。」店先に停めてあるバイクに跨り、弁当を配達用のトランクに入れた歳介はバイクのエンジンを掛け、店から配達先へと向かった。 その日は快晴で、見通しが良い道路を歳介は渋滞にも嵌らずに快適にバイクを走らせていた。配達先まであと数メートルというところで、交差点の前に一人の女性が歳介の前に飛び出してきた。「うわっ!」慌てて歳介はバイクを急停止させたが間に合わず、女性はバイクにぶつかった衝撃でアスファルトの道路に全身を打ちつけ、倒れたまま動かなくなった。「おい、誰か救急車呼べ!」近くの通行人にそう言った歳介は、女性の方へと駆け寄った。「おいあんた、大丈夫か!?」歳介が女性に応急処置を施そうとした時、その女性が京都に居る筈の佳織であることに彼は気づいた。「佳織、お前・・」「あなた、妊娠したの・・あなたの所為で赤ちゃんが死んだら、わたしあなたを一生恨みますからね・・」朦朧とした意識の中で佳織は歳介にそう言うと、じろりと彼を睨みつけた。やがて遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。「先程運ばれた女性は、あなたの奥様ですか?」「はい・・あの、あいつは妊娠していたんですが、お腹の子はどうなったのでしょうか?」「奥様に命には別条はありませんが、残念ながら・・」救急隊員の言葉を聞いた歳介は、彼に頭を下げると佳織の病室へと向かった。彼女はまだ意識を取り戻しておらず、酸素マスクをつけられ、傍には心電図が一定のリズムを刻んでいた。「お嬢様!」入口で誰かが叫んだかと思うと、歳介は勢いよくその人物に突き飛ばされた。「歳介さん、あなたの所為ですよ!このままお嬢様がお亡くなりになったら・・」潔子はそう言うと、キッと歳介を睨んだ。「済まねぇ・・」「謝って済む問題ですか!?お嬢様には、あなたの子が・・」「腹の子は、駄目だった。」潔子は歳介の言葉を聞いた途端、彼に掴みかかって来た。「お前みたいな貧乏人を、石秀家に入れるのではなかったわ!」そう潔子に罵倒されても、歳介は何も言い返す事ができなかった。
2013年09月05日
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背後から突然そう呼び止められ、華凛が振り向くと、そこには花束を持った久坂美香が立っていた。「久坂さん、どうしてここへ?」「親戚が入院しちゃって。先輩は?」「高校時代の恩師のお見舞いだよ。それじゃぁ、俺はこれで。」美香にそう言うと、華凛は病院から去っていった。「わざわざすまないわね、美香ちゃん。」「いえ・・それよりも、義姉さんは以前、正英流の門下生だったそうですね?」 数分後、美香は産婦人科病棟に入院している義姉・かおりの元を見舞い、彼女にそう尋ねると、彼女は静かに頷いた。「ええ。花嫁修業として日舞を習おうと思ってね。でも、あんなに立派な流派がなくなるだなんて思いもしなかったわ。」「あのね、わたしと同じ大学に通っている一学年上の先輩・・正英流の方なんです。」「まぁ、そうなの。」かおりはそう言うと、美香が花瓶に活けた花を見た。「香りが強い花をなるべく避けました。お気に召さなかったら捨てましょうか?」「いえ、いいわ。それよりもごめんなさいね、美香ちゃんに気を遣わせちゃって。」「いいえ。兄は来ましたか?」「あの人は仕事で忙しいから・・」そう言ったかおりの表情は少し暗かった。彼女は初めての子どもを流産し、入院しているところだった。「わたし、あの人に申し訳なくて。結婚してからずっと子どもが出来ない事に悩んで、やっと妊娠したっていうのに・・漸く授かった子どもを・・」「義姉さんの所為じゃないですよ、気を落とさないでください。」「ありがとう、美香ちゃん。」 義妹の励ましの言葉に、かおりは涙を流しそうになった。「じゃぁ、また来ますね。」「ええ、待っているわ。」 かおりを見舞った後、美香はテニスサークルのOBである佳織と偶然病院の前で会った。「佳織先輩!」「あら、美香ちゃん。こんな所で会うなんて、奇遇だわ。」佳織はそう言うと、美香に微笑んだ。「どうされたんですか?お身体の具合でも・・」「まぁ、そうだけど・・わたし、どうやら妊娠したみたいなの。」「え?」「まだ確かじゃないけど・・市販の検査薬で陽性反応が出たのよ。」「そうですか・・おめでとうございます。」「ありがとう。それじゃぁね。」流産した義姉を見舞った後だっただけに、美香は佳織の妊娠を素直に喜ぶ事が出来なかった。「おめでとうございます、現在7週目に入っています。」「本当ですか、先生?」「ええ。妊娠初期は流産しやすい時期なので、くれぐれもストレスに気をつけてくださいね。」「わかりました、ありがとうございます。」(これで、あの人との離婚は避けられる!) 病院から出た佳織は、昏い笑みを口元に湛えながら、まだ目立ち始めていない下腹をそっと撫でた。「お嬢様、お帰りなさいませ。」「潔子さん、わたし妊娠したの。あの人との子よ。」「まぁ、それはおめでとうございます。」「ありがとう。」
2013年09月05日
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俊輔の言葉を聞いて、歳介は佳織の恐ろしさを思い出した。彼女はいつも、自分の思い通りに事が進まないとヒステリーを起こす。 自分が興輔を連れて実家に帰って来たのは、佳織が離婚に同意しない事に腹を立て、暫く距離を置こうと思ったからだった。「まぁ、あの女は一筋縄ではいかないよなぁ。だってさぁ、自分は悪くない、自分は被害者だって思い込んでいるような女だぜ?」「・・てめぇ、何が言いてぇんだ?」「あの女は、兄貴や興輔に手出しできねぇとわかると、兄貴が大切に思ってる連中を傷つけるってことさ。」「まさか、そんな事出来るわけが・・」「現に、総太さんの病室に乱入して、大暴れしたんだろう、あの女?だったら、総太さんを殺すまでとはいかないけど、大怪我を負わせようとしているかもしれないぜ?」俊輔は真顔でそう言うと、煙草を咥えた。「総太が危ねぇってことか?」「まぁ、そういうこと。だから兄貴、今の内に総太さんに言っておいた方がいいぜ?よく言うじゃん、追い詰められた人間は何をしでかすかわからないって。」呆然としている歳介の肩を叩いて、俊輔はベランダから去っていった。 一方、京都の病院で未だに入院中の総太は、見舞いに来てくれた華凛と楽しく話をしていた。「へぇ、真那美ちゃん日舞習ってるんだぁ。」「そうなんですよ。あの子、日舞に突然興味を持ちだして。やっぱり、血なのかなぁって。」「そうかもしれないね。でも、正英流のことは残念だったね。三代続いた、立派なところだったのに・・」「今は伝統芸能だけでは食べていけませんよ。歌舞伎役者の方や狂言師の方だって、タレントや俳優さんとして活動されているでしょう?」「そうだねぇ。今はインターネットありき、テレビありきだもんね。ネットもテレビもないと、生きていけないし。」「真那美には、日舞を通して礼儀作法を学んでくれたらいいなと思ってます。あの子はどんどん伸びる子ですから。」「正英君は、しっかりとお父さんしているね。」「いえ、まだまだです。今までお父さんや菊さんが助けてくださったから・・もう、二人とも居なくなってしまいましたけど。」華凛はそう言うと、長年正英家に仕えてくれた家政婦・菊のことを思い出していた。彼女は今何処に居るのだろうか。出来る事ならば、会いたい。「伯母さんの家はどう?」「居心地がいいとは言えません。まぁ、和美ちゃんが大学進学と同時に家を出たので、彼女と顔を合わせることがなくなったからいいですが。」 母方の従妹・和美と華凛は反りが合わず、和美は母親に構われている華凛に嫉妬し、顔を合わせれば嫌味ばかり言ってきた。その和美は口煩い母親を嫌い、高校卒業後、東京の大学へと進学すると同時に家を出た。「従兄妹同士でも、色々あるんだね。僕はそんなの、なかったけど。」「そうですか。」「まぁ、未だに母親との確執は続いているけどね。お父さんからは、早く実家に戻ってくるようにって言われてるんだけど・・」「先生、実家と縁を切られているんですか?」「色々とあってね。親子間って、遠慮がないからちょっとした些細な事が原因で、複雑に拗れてしまうことってあるんだよ。」「そうですね・・」華凛はそう言うと、腹違いの妹・優菜(ゆうな)のことを思い出した。彼女のことを未だに認めていないし、父の遺産も彼女にはやらなかった。一方的に華凛が彼女を憎むのは、やはり母親が彼女の存在を知ったから自殺したと思い込んでいるからだった。「それじゃぁ、もう帰りますね。」「うん、また来てね。今度は真那美ちゃんも連れて。」 総太の病室から出た華凛は、意外な人物と病院の廊下ですれ違った。「先輩、先輩じゃないですか?」
2013年09月05日
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「ええ、娘さんとは離婚するつもりです。もう彼女の我が儘に振り回されるのは疲れました。」「まぁ、何と言う身勝手なことを!」歳介の言葉を聞いた潔子(きよこ)は、そう叫ぶと歳介の頬を平手で打った。「お父さん!」「おいあんた、うちの倅に手ぇ出さないでくれねぇか?あんたんとこのお嬢様が、倅のプライバシーを侵害したんだぜ?」「お嬢様はご自分の地位を守る為に、当然のことをしたまでです!」「よく言うぜ!あのお嬢様は何処かおかしいとここに倅が連れて来た時から思ってたんだよ!臨月間近になって海外旅行に行きたいだの、赤ん坊に自分の時間を奪われたくねぇとその世話を倅と乳母に丸投げして、ご自分は友達と優雅にフレンチでランチ?そんなふざけたことしやがったのは、全てあんたん所のお嬢様だろうが!」「娘の事で、あなた方に大変ご迷惑をお掛けしたことは謝ります。ですが、離婚は考え直していただけないでしょうか?」「それは倅が決める事だ、俺達が決めることじゃねぇ。だがな、俺ぁあんたらに振り回されるのはもう御免だぜ!興輔は俺達がちゃんと育てるから、心配すんな!」「興輔お坊ちゃまは石秀家の跡取りですよ!あなた方のような方に、お坊ちゃまを任せる事などできません!」「はん、お前ぇさえいなければよかったと興輔に抜かしやがった癖に、よく言うぜ!そりゃぁうちはあんたらみてぇにご大層な家柄じゃねぇけどな、お天道(てんとう)さまに恥じるような事は何ひとつしてねぇぜ!」亮輔がそう啖呵を切ると、潔子は悔しそうに唇を歪めた。「今日の所は、これで失礼致します。」「あのなぁ、俺達はもうあんたらに会うつもりはねぇんだよ。わかったらさっさと帰りやがれ!おい瑛子、塩持って来い!」瑛子が慌ててキッチンから塩を取り、それを亮輔に手渡すと、彼は容赦なく喜助と潔子に塩をぶつけた。「二度と来んな、この疫病神め!」「これはれっきとした傷害罪ですよ、訴えますからね!」「おうよ、やってみな!そん時きゃぁあんたんところのお嬢様がうちの倅にした仕打ちを、世間に暴露してやるからな!」 亮輔は喜助達が帰った後、リビングの椅子にどかりと腰を下ろした。「ったく、何でいあの婆は。こっちの言う事も聞かずに、一方的に俺達を悪者扱いしやがる。あのお嬢様が変になったのは、あいつの所為だな。」「あんた、そう興奮しないで頂戴よ。血圧が高いんだから。」「倅を馬鹿にされて、黙っていられるかい。さてと、疲れたから一眠りしてくらぁ。」「全くもう、あんたがばら撒いた塩はあたしが片づけなきゃなんないのにねぇ。」瑛子はそうぶつぶつと亮輔に向かって文句を言いながら、箒とちり取りを持って玄関先へと向かった。「お父さん、あの人達帰ったの?」「ああ、祖父ちゃんが追い払ってくれた。それよりも興輔、ここで本当に暮らしたいか?」「うん。もうあの家には帰りたくない。真那美ちゃんと会えなくなるのは寂しいけど、お母さんや潔子さんにいじめられるよりはマシだもん。」「興輔、ごめんな・・もっと俺が早くお前の気持ちに気づいてやれば、こんなにお前ぇのことを傷つけずに済んだのにな・・」歳介は自分の不甲斐なさと、興輔を傷つけてしまった情けなさで、涙を流した。「お父さん、泣かないで。僕、お父さん達が離婚しても平気だよ。」「そうか・・」興輔は父親を励ます為に、無理に笑顔を作った。その様子を、俊輔はじっとドアの隙間から見ていた。「健気だねぇ、興輔。兄貴に気を遣って、泣かないようにしてたぜ、さっき。」「てめぇ、覗き見していやがったな!」「人聞きの悪い事言うなよぉ。人間観察と言ってくれよ。」「んなもん、同じじゃねぇか。」ベランダで煙草を吸っていた歳介は、隣に立っている俊輔を睨みつけた後、彼の頭を軽くはたいた。「まぁ、兄貴が離婚するって決めたんなら、俺は止めないけどさ・・問題は、あの女がどう出るかだよなぁ。」「どういう意味だ、それ?」「あの女と一緒に暮らしてて、ヒステリー起こす時はどんな時か、知ってんだろう?」
2013年09月05日
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はじめ、歳介はその親子が自分達に声を掛けて来たのかがわからなかった。フードコート内は空いており、自分達の他に数人の客しかいなかった。「あの・・」「何で俺達がここを譲らねぇといけねぇんだ?他にも空いている席あるだろう?」「ここじゃないと駄目なんです!」「はぁ!?」自分達に席を譲れと歳介達に要求する親子に、歳介は頑なに断った。「おい、どうした?」「親父・・」「あんた、うちの倅と孫に何か用かい?いちいちこいつらに絡んでいる暇があったら、他の席でも探すんだな。」亮輔がそう言ってジロリと親子を睨むと、母親は負けじと彼を睨みかえしてこう言った。「何よ、ケチ!」彼女は苛立ち紛れに近くの椅子を蹴り飛ばすと、子どもの手をひいて何処かへと行ってしまった。「まったく、今年の夏は暑いから変な輩が湧いていやがるな。」「親父、助かったよ。」「なぁに、俺だって客商売長くやってんだ。あの親子みてぇな奴は可愛い部類に入るぜ。」亮輔はそう言うと、紙コップに入れた水を一口飲んだ。「暑い時には冷たい水が一番だ!」「興輔、何食べたい?」「ハンバーグ!」「俺はうどんな。」「親父、俺をパシリにすんじゃねぇ!」「うるせぇ、誰のお蔭でスカイツリーに行けたと思っていやがる!」亮輔には口では敵わないと思った歳介は、舌打ちしながら料理を注文しに行った。「興輔、ちゃんと荷物見張ってろよ。」「わかった。」興輔は歳介が席を離れていくのを確認した後、亮輔の方へと向き直った。「ねぇお祖父ちゃん、どうしてお父さんとお母さんは離婚するの?」「それはなぁ、俺にもわからねぇよ。男と女の間には、色々とあるんだよ。」「色々って?」「そりゃぁ大きくなったらわかる。大体恋愛なんざ、理由なんてもんはねぇんだよ。誰かを好きになって一緒になったり、別れたりなんてぇのは当たり前ぇだ。」「ふぅん、そうなんだ・・ねぇ、僕の所為で、お父さん達は離婚するんじゃないよね?」「そんなこたぁねぇよ。そんな事、誰に言われたんだ?」「潔子(きよこ)さんに・・お母さんの実家に居る家政婦のおばさんに言われたの。僕が居なかったら、こんなにお母さんは苦しい思いをしなくて済んだって。だから僕を妊娠した時、お母さんは中絶すべきだったって・・」「酷ぇことを言いやがるな。まぁ祖父ちゃんにその女は任せときな。とっちめてやるからよ。」「ありがとう、気持ちだけでも嬉しいよ。」「なぁに遠慮してやがる。お前ぇは俺の可愛い孫なんだから、孫の為に身体を張るのは当然のことよ。」(興輔が笑った顔、見るの初めてだな・・) 歳介が席に戻ると、そこには和気藹藹とした様子で亮輔と話す興輔の姿があった。石秀の家では滅多に笑顔を見せなかった興輔だったが、実家に来てから彼は良く笑うようになった。子どもながらに彼は、両親の不和を感じ取っていたのだろう。(あいつには、悪い事をしたな・・あいつを口実にして、離婚に踏み切れなかった・・)やはり佳織と離婚し、けじめをつけなければ―歳介はそう決意を新たにした。 数日後、歳介の実家に潔子と喜助がやって来た。「話とは何でしょうか、お義父さん?」「歳介君、本当にうちの娘と離婚するつもりなのか?」
2013年09月05日
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「興輔、真那美って誰なんだ?」「ねぇお父さん、ここから今の学校に通う事はできないの?」「そりゃぁ無理だろ。新幹線で片道二時間半もかかるんだぞ?学校の授業が始まるまで、毎朝早起きしねぇといけねぇんだぞ?」「それでもいい、転校はしたくない!」「興輔、泣いてばっかりで理由を話してくれねぇとわからねぇだろうが!」「おいどうした、朝っぱらからそんな大声出しやがって。折角の休みだって、おちおちと寝られやしねぇ。」騒ぎを聞きつけた亮輔がそう言って興輔と歳介を交互に見ると、興輔の泣き腫らした目を見るなり、亮輔は彼の手をひいて自分の部屋へと戻っていった。「あら、興輔は?」「あいつなら、親父の部屋さ。」「何かあったの?さっき、あの子が泣き叫ぶ声が聞こえたから・・」「それがなぁ・・」歳介は瑛子に、学校から連絡があったことを話した。「あいつ理由も話さねぇで、転校したくねぇって言い張るんだ。もうどうしたらいいのかわからねぇ。」「まぁ、お父さんに任せておきなさいよ。きっとあんたには言えない理由なんだろうよ。」「何だ、それ?」瑛子と歳介がリビングでそんな話をしていると、亮輔が興輔とともにリビングに入って来た。「そりゃぁ転校したくねぇよなぁ、興輔?好きな女の子が居るからなぁ。」「うん・・」「興輔、転校したくねぇ理由はそれだったのか?」歳介が少し拍子抜けした声を出しながらそう言って興輔を見ると、彼は恥ずかしそうに俯いた。「こいつはぁ、まだ好きな女の子に告白してねぇんだと。だから中途半端なままで転校したくはねぇそうだ。」「ふぅん、そういうことだったのか。じゃぁ、その子に告白したら転校するっていうんだな?」「うん・・」「なぁに、その子にどう告白するかなんて、時間はたっぷりとあんだからじっくりと考えりゃぁいい。」亮輔はそう言って豪快に笑うと、興輔の肩を叩いた。「あの子もそんな年頃になったんだねぇ。前にうちに来た時はまだ赤ちゃんだったのにさ。」「俺に一言も理由を話さねぇで、親父には話したのかよ・・」歳介は少し落胆したような顔でそう言うと、味噌汁を一口啜った。「あんただって、初めて好きな女の子が出来た時に父さんじゃなく、あたしに話したろう?何処か照れ臭いんだろうよ。」瑛子はそう言って笑いながら、興輔のお椀にご飯をよそおった。 新学期までまだ時間があるので、残りの夏休み、興輔は歳介の実家で過ごすこととなった。「さてと、出掛けるか。」「出掛けるって何処へ?」「決まってんだろ、スカイツリーだよ。東京の新名所は一度見ないとなぁ。」「ったく、ちゃんと予約はしたのかよ?」「俺を年寄り扱いするんじゃねぇ!お前ぇ達が来ると思って、ちゃんとチケット予約したんだよ。」 数時間後、歳介達はスカイツリーの展望台に居た。夏休みとあってか、そこには沢山の観光客で溢れていた。「やっぱり、混んでるなぁ。こりゃぁ景色見るよりも人を見に来たってもんだ。」亮輔はそう言いながらも、興輔とともに外の景色を見えた。「うわぁ、綺麗!」「来て良かったか?」「うん!」「さてと、昼飯は早い内に取らないとな。」「そうだな。」スカイツリーを後にした歳介達は、スカイツリーに隣接しているショッピングモールへと向かった。 フードコートで歳介と興輔が5人分の席を取り、亮輔が来るのを待っていると、彼らの前に一組の親子がやって来た。「すいません、そこ譲って頂けないでしょうか?」
2013年09月05日
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「誰から聞いたんだよ、それ。」「んなもん、美津子に決まってらぁ。女の勘ってのは恐ろしいもんだよなぁ。」歳介の父、亮輔はそう言って笑った。「親父、俺ぁ佳織と別れて、ここで興輔と暮らすつもりだ。」「そうか。まぁ、お前ぇははなっから都の暮らしが肌に合わねぇだろうと思ってたよ。ま、戻ってくる分、俺の手足となって働いて貰うぜ?」「わかってらぁ、そんなこたぁ。」「まぁ、興輔はこれから俺らが面倒見るからよ。お前ぇはあの女とちゃんとけじめ着けんだぞ?」「ああ・・」「それにしてもまぁ、7年前にここから出て行ったお前ぇが、ガキ連れて帰ってきたのは当然だなぁ。一番落ち着くのは、我が家ってことだ。」亮輔はそういいながら冷蔵庫の中から缶ビールを1本取り出した。「親父、酒やめろって医者から言われてんだろ?」「んなもん、簡単にやめられるかってんだよ。お前ぇだって、禁煙毎年失敗してるじゃねぇかよ?」「ったく、人の痛いところを突きやがる・・」「はん、俺ぁ口から先に生まれた男でい。それになぁ、お前ぇよりも潜った修羅場の数は多いんだよ。」亮輔はプルタブを引っ張ると、美味そうにビールを飲んだ。「かぁ、美味ぇ!」「あんた、またビール飲んでるね!あたしが寝てる隙に飲んで!」歳介の母、瑛子がそう言って亮輔の手からすかさず缶ビールを取り上げた。「何でぇ、少しくらいいいじゃねぇか。」「あんた、いい加減にしとくれよ!あんたが去年倒れちまった時、あたしゃ寿命が縮まると思ったんだからね!」「へっ、俺ぁすぐには死なねぇよ。折角倅が可愛い孫連れて帰ってきたんだ。」「まったく、あんたって人は・・」瑛子がそう言って亮輔を呆れた顔で見ていると、突然玄関のガラス扉を誰かが叩く音がした。「一体誰だ、こんな夜中に?」「俺が出る。」 玄関先に置いてあるサンダルを履き、歳介がガラス扉を少し開けると、そこには髪を振り乱し、涙と汗で崩れた化粧を直しもせずに恐ろしい形相を浮かべた佳織が立っていた。「別れるなんて嘘よね!ねぇ、帰ってきてよ!」「てめぇ・・」「お願い、興輔に会いたいの!」「帰れ、てめぇにはもう興輔は会わせねぇ!」「何でよ、何で~!」佳織は突然金切り声で叫んだかと思うと、歳介の胸を叩きながら泣き喚いた。 住民達が何事かとこちらの様子を窺っていることに気づいた歳介は、何とか彼女を宥めようとしたが、無駄だった。「いってぇ何の騒ぎだ!?」「親父・・」「近所迷惑になるんだから、佳織さんをうちに入れろ。」泣き疲れて地面にへたり込んだまま動かない佳織を無理やり立たせ、歳介は亮輔とともに家の中へと戻った。「佳織さんよぉ、あんた一体こんな夜中に騒いで倅があんたん所に戻ってくると思ってんのかい?」「だって、わたしは何も悪くない・・」「あんた、うちの孫を一睡もさせねぇで、勉強させてたそうじゃねぇか?あいつが問題をひとつでも間違えると、竹の物差しで叩いたんだって?」「そんな・・あなた、お義父さんに話したの?」「歳介が俺に話したも何も、興輔が俺に話してくれたんだよ。母ちゃんはいつも怒ってばかりいて怖いってな。悪いこたぁ言わねぇから、このまま帰ってくれねぇか?」「わかったわよ、帰ればいいんでしょ!こんな貧乏臭い家、二度と来ない!」佳織はそう叫んでガラス扉を力任せに閉めると、外から出て行った。「ったく、夜中に勝手にぎゃぁぎゃぁ騒ぎやがって・・いくら金持ちのお嬢さんだからってあんなに常識がねぇ女ははじめてだ。」「済まねぇな、親父・・」「もうあの女のこたぁ忘れろ、歳。やっぱり美津子が言ってた通りになったなぁ。まぁあいつはぁ、お前ぇがあの女をここに連れてきたときから気に入らなかったんだからな。総坊のこたぁ実の弟のように可愛がってたけど。」「親父、京都で総太に会ったんだ。あいつはぁ、肺を悪くして入院してんだ。」「そうか・・昔っから気管支だの何だのと弱かったからなぁ、あいつ。何でも美津子の前で血ぃ吐いたっていうじゃねぇか?大丈夫なのか?」「ああ。けどよ、あいつはぁ自分のことよりも、俺の事ばっかり心配していやがんだよ・・」「それほどてめぇに惚れてるって証拠じゃねぇか。興輔と総坊は知り合いみてぇだし、この際ヨリを戻しちまえよ。」「うるせぇ、言われなくともそうすらぁ。」「まぁ、俺ぁもうあの女とは会いたくねぇからな。」亮輔はそう言うと、寝室へと引っ込んでいった。 歳介が実家へと戻ってから一週間が経った頃、興輔が通っていた学校から連絡があった。『転校されるというのは、本当ですか?』「はい。こちらで手続きをいたしますので、書類を郵送してください。」『わかりました。』受話器を置いた歳介が溜息を吐きながらリビングへと戻ろうとしていると、興輔がじっと歳介を見つめていることに気づいた。「どうした、興輔?」「お父さん、学校転校することになるの?」「そうだ。ここからじゃ今の学校には通えねぇだろ?」「転校するの嫌だ!僕、真奈美ちゃんと同じ学校に通いたい!」興輔は突然そう大声で叫ぶと、泣き出した。
2013年08月30日
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「総太、一体何があったんだ!?」 数分後、歳介が総太の病室に入ると、床には割れた花瓶やビリビリに引き裂かれた本などが散らばっていた。「さっき、奥さんが来て・・」「佳織が?お前、あいつに殴られたのか!?」「ええ・・彼女はまだ僕と土方さんが付き合っているって疑っているようです。」「ったく、あいつ・・ここは俺が片付けるから、お前は寝ていろ。」「いえ、わたしもやります。」総太はそう言ってベッドから降りて立ち上がろうとしたとき、急に立ちくらみがして彼は蹲った。「ほら、言わんこっちゃない。」「迷惑掛けてばかりですね、僕・・」「気にすんなよ。それよりも佳織の奴、わざわざここまで乗り込んでくるたぁ、焦っていやがるな・・」「焦ってる、佳織さんが?」「ああ、俺があいつに離婚を言い出したとき、あいつ俺が不倫の事を知ってるんじゃねぇかって疑ってんだよ。だから探偵に浮気調査依頼して、ありもしない浮気の証拠をでっち上げて・・」「危険ですよ、それ。土方さん、ICレコーダーとか持ってます?」「ああ、仕事用に持ってるぜ。佳織と居るときもな。」「そうですか。佳織さんがかなり追い詰められた状態だとしたら、何をするのかわかりません。土方さん、今日はもう帰ってください。」「そうだな・・総太、言っておくが・・」「わかってますよ、“鬼副長さん”。」「うるせぇな、その呼び方やめろ!」顔を真っ赤にして怒る歳介を見てクスクス笑いながら、総太はベッドに横たわった。「沖原さん、さっき誰かが騒いでいたようですが、何かありましたか?」「ええ。実は・・」 帰宅した歳介がリビングへと入ると、そこでは佳織が興輔に勉強を教えていた。「そこ、違うって言ってるでしょ!何度言っても解らないの!?」「・・ごめんなさい。」「謝れば警察は要らないの!この問題集全部やるまで、寝たら駄目だからね!」「おい、いい加減にしろ!」歳介は竹の物差しで息子を打とうとする佳織の手からそれをもぎ取ると、興輔に寝るように言った。「あなた、邪魔しないでよ!」「佳織、てめぇ病院で騒ぎを起こしたそうだな!?」「だってあいつが悪いのよ、あなたとまだ付き合っているから!」「もうお前には付き合いきれねぇよ!」 歳介は意味不明な言葉を喚き散らしている佳織をリビングに残すと、寝室へと入ってクローゼットの中の着替えを全て大きめのスーツケースに詰め込んだ。「興輔、まだ起きてるか?」「うん・・ねぇ、何処か行くの?」「ああ。祖父ちゃん家に行くぞ。眠いと思うが、我慢できるか?」「うん、出来るよ。」興輔はそういうとベッドから降りて、クローゼットの中から誕生日にプレゼントされたスーツケースを引っ張り出した。「ちょっと、何処行くのよ、まだ話は終わってないわよ!」「実家に帰るんだよ。お義父さんにはお前からそう伝えといてくれ。行くぞ、興輔。」興輔の手を引いて、歳介は石秀邸から出て行った。 タクシーで京都駅へと向かい、どうにか最終の新幹線に間に合った歳介は、自分と向かい合って座る興輔が寝息を立てているのを見て、そっとスーツの上着を彼の膝に掛けた。窓から外の風景を見ていると、スーツの上着にしまっていたスマートフォンが鳴った。歳介は興輔を起こさないようにそっとそれを上着の胸ポケットから取ると、液晶画面に表示された名前を見て電源を切った。「お父様、彼電話に出ない!」「放っておけ、佳織。歳介君は何か考えがあって実家に帰ったんだろう。」「ねぇ、どうしたら彼は帰ってくる?」「もう二度と帰ってこんかもしれんな。」「そんな・・」歳介と絶対に離婚したくない佳織は、しきりに爪を噛んでいた。「あらぁ、あんた急に帰ってきてどうしたの?」「まぁ、ちょっとな・・」「外で立ち話もなんだから、入りなさいよ。」「じゃぁ・・」玄関先で母親とそんな会話を交し、歳介は興輔と久しぶりに実家へと入った。「あれ、兄ちゃん帰ってたの?」「帰ったら悪ぃかよ。お前ぇこそ何でここに居んだよ?」リビングで寛いでいる弟・俊輔を睨みつけた歳介は、冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。「何って、まだ学校が夏休みだから仙台からわざわざ来てやったんだよ。」「偉そうによく言うぜ。」「あれ、あのヒス女は来てないの?」「来るわけねぇだろ、離婚するしないで揉めてるって時に。」「兄貴、とうとうヒス女と離婚するのか。別れちゃえ、別れちゃえ。つーか、いつまでいんの?」「そんなのわからねぇよ。まぁ、興輔の学校の事もあるし、弁護士を通してじっくりと話さねぇとな。」「財閥会長の娘婿の地位、簡単に手放せんの?」「あんな女とこれ以上暮らしてたら、俺がおかしくならぁ。この際だからスッパリあいつとの悪縁を断ち切ってやるよ。」「その意気だよ、兄貴!」俊輔はそういうと、歳介の肩をポンポンと叩いた。「てめぇ、何か企んでるだろ?」「あのさぁ、今月ちょっとピンチなんだ・・」「バイトでもしろ、馬鹿。」歳介は馴れ馴れしく自分の肩に手を置いている俊輔をにらみつけると、興輔が居る両親の寝室へと向かった。「親父、興輔は?」「もう寝たよ。それよりも歳、お前ぇとうとうあの女と離婚するんだってな?」
2013年08月30日
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「話って何だ?」「あなた、浮気してるでしょ!」佳織はそう言うと、探偵社からの報告書を歳介に投げつけた。そこには、同僚の女性と歳介が腕を組んでいる写真があった。「これ、一体どういうことなの!?」「お前ぇ、勘違いしているようだがな、俺はこいつの相談に乗っていただけだ。腕を組んでるのは、こいつが転びそうになったから支えてやっただけのことだ。」「本当に、そうなの?」「ああ。話はそれだけか?」「ええ。」「じゃぁ俺からの話だが・・佳織、離婚しよう。」「どうして、そんな事言うの!?」佳織が爪を噛み始めるのを見た歳介は、それがヒステリーを起こす前兆だということに気づいた。「お前ぇ、興輔を東大に入れたいようだが、あいつにはあいつの人生があるんだよ!」「そんな・・わたしは、あの子の為に・・」「お前ぇが誰かの為に行動したことがあるのか!?いっつもお前ぇは自分がしたいようにして、俺達の迷惑を考えねぇだろうが!」「あなた、本気で離婚するつもりなの?」佳織はそう言うと、歳介を睨みつけた。「ああ、本気だ。興輔は俺が育てる。」「あなた・・誰のお蔭でうちの会社の営業部長になれたと思ってるのよ!あなたがわたしと結婚していなかったら、うちみたいな大企業には就職できなかったのよ!お父様にわたしが頭を下げてあなたをうちの会社に入れてあげたっていうのに、恩を仇で返すつもり!?」「俺ぁ、お前ぇに心から感謝したことなんか一度もねぇよ!」「勝手にしてよ、あなたとなんかもう二度と暮らせない!」冷静に佳織と離婚について話し合おうとしたが、無駄だった。「お父さん、またお母さんと喧嘩してたの?」「聞いてたのか、興輔?」興輔の部屋に行くと、ベッドに横たわった彼はそう言って不安そうな顔をして歳介を見ていた。「興輔、もしお父さんとお母さんが離婚したら・・」「僕、お父さんと暮らす。学校を転校する事になってもいい、お父さんとお祖父ちゃん達と暮らしたいよ。」「わかった・・」歳介は興輔を抱き締めた。彼が小さな背中を震わせて泣いていることに気づいて、歳介はもうこれ以上彼を傷つけまいと誓った。「ねぇお父さん、明日の夏祭り、楽しみだね。」「ああ。」「総太先生も来るの?」「あいつはまだ無理だ。今年は三人で行くのは無理だが、来年は三人で行こうな。」「うん!」 数日後、総太が病室で読書をしていると、誰かが廊下を歩いて来る足音が聞こえた。「土原さん?」「あなた、こんな所に居たのね?」病室のドアが開き、佳織が病室に入って来た。「佳織さん・・どうしてここがわかったんですか?」「探偵を雇って、あなたの素行調査を依頼したのよ。一昨日、主人から離婚しようって言われたのよ。あなたが主人を唆したんじゃないの?」「いいえ、僕はそんなことは・・」「嘘おっしゃい!あんた、この期に及んで図々しいわよ!あんたには絶対に、主人は渡さないわよ!」佳織はそう言って総太を睨み付けると、彼の頬を何発か拳で打つと、傍に置いてあった花瓶を床に叩きつけて病室から去っていった。
2013年08月29日
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「おい総司、お前ぇ本当に大丈夫なんだろうな?」「もう大丈夫ですから。それに、僕は総司じゃないですって。」「済まねぇ・・つい昔の名前で呼んじまった。」歳介はそう言うと、照れ臭そうに頭を掻いた。「お父さん、その人誰?」不意に甲高い声が病室の外から聞こえたかと思うと、総太と歳介の前に興輔がやって来た。「あの、その子は・・」「俺の息子の、興輔だ。興輔、こいつは・・」「もしかして、あなた沖原総太先生ですか?」「うん、そうだけど・・どうして君、僕を知っているの?」「だって、一度僕とあなた会ってるんだもん!」興輔は少し興奮した様子でそう言うと、総太の手を握った。「これ、覚えてますか!?」興輔がリュックの中から取り出したのは、一枚の写真だった。それは、興輔がまだ幼稚園に通っていた頃、彼が一時期習っていた剣道教室が主催したキャンプでの集合写真だった。そこには、子ども達の指導役としてキャンプに参加していた総太も写っていた。「思い出した、あの時の・・ちょっと見ない内に、大きくなったね。剣道はまだ続けているの?」「はい。でも、お母さんは“そんなことしないで勉強なさい。受験まで時間がないんだから”って・・」「受験?中学受験するの?」「いいえ、違います・・」興輔はそう言うと、俯いた。「あいつはな―佳織は、興輔を東大に入れたがってんだよ。勉強以外のことは無駄だって思ってんだ。」「そんな・・まだ7歳なのに。」「興輔、お父さんは先生と話があるから、暫く席を外してくれねぇか?」「うん、わかった・・」 数分後、興輔が病室から出て行くのを確認すると、歳介は総太の方へと向き直った。「俺、佳織と離婚しようと思ってるんだ。あいつは、自分さえよければそれでいいと思っている女だ。あいつと結婚して興輔が産まれても、あいつは母親らしいこと何ひとつしないで、自分の理想ばかり興輔に押し付けていやがんだ。夜遅くまで勉強させて、テストの点が悪いとあいつを罵倒して、食事も睡眠も取らせねぇ。」「酷い・・」歳介の話を聞きながら、総太の脳裏に学生時代の辛い記憶が甦った。母・和美は小学校に入学した総太を塾や習い事をさせ、1番しか認めなかった。勉強で躓いたり、テストの点が悪かったりすると「馬鹿」「アホ」「間抜け」と、汚い言葉で罵倒した。「俺ぁ、あいつが俺達の顔色を窺ってビクビクしてる姿を見てると、可哀想に思えてくるんだ。あいつを佳織から救えるのは、俺しかいねぇ。」「土原さん、僕は口出しできる問題じゃないけれど・・僕と母みたいな関係に陥らない為に、興輔君を・・」「わかってるよ、お前ぇが言いたい事は。離婚するまで暫く時間がかかるだろうが、頑張る。」「その言葉を聞いて、安心しました。土原さん、もう興輔君と一緒に帰ってください。僕はもう大丈夫ですから。」「わかった・・余り無理するんじゃねぇぞ。」「もう、心配性なのは昔からですね!」「う、うるせぇよ!」照れ臭そうな顔をしながら、歳介は病室から出て行った。 一方、石秀家では佳織が探偵社から届いた報告書を読んでいた。「ただいま。」「お帰りなさい、あなた。」「佳織、少し話がある、いいか?」「ええ、いいわよ。丁度わたしも、話があるの。」
2013年08月29日
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※BGMとともにお楽しみください。 総太は学を助けようとして手を伸ばしたが、遅すぎた。学の身体はコンクリートの地面に叩きつけられ、頭からは血が流れ出した。「誰か、救急車!」「おい、しっかりしろ、安西!」数分後、学は搬送先の病院で死亡した。「どうして、こんなことに!」霊安室で息子の遺体と対面し、学の母親はそう叫んで息子の遺体に縋(すが)りついて泣いた。「この度は、誠に申し訳ございません・・」「謝って済むと思っているの、この人殺し!」学の母親は、無抵抗の総太に向かって何度も拳を振り下ろした。「あんた、何てことしてくれたのよ!?生徒を死なせるだなんて・・人殺しは、この家には要らないわ、さっさと荷物を纏めて出て行きなさい!」学の事件を知った母・和美は一方的にそう総太に怒鳴りつけ、汚い言葉で彼を罵倒した。「・・わかったよ、もうこんな家出て行ってやるよ!」実家を飛び出した総太は、安アパートを借り、アルバイトを幾つも掛け持ちして大学卒業までの学費と生活費を稼いだ。だが無理が祟り、彼はファミリーレストランでアルバイト中に過労で倒れてしまった。「おい、大丈夫か?」「すいません、先輩に迷惑かけちゃって・・」当時総太と同じファミリーレストランで働いていた歳介に謝った彼だったが、歳介はこんな言葉を総太に掛けた。「なぁに、困った時はお互い様だ。」その時、彼の中で何かが吹っ切れたような気がした。「はじめてだったんです・・僕の事を本当に心配してくれた人は。今まで僕は、母親の顔色を窺う毎日を送っていましたから・・」「総ちゃん、ごめんね。あたし何にも知らなかった。総ちゃんが、そんな辛い過去を持ってたなんて。あんたは、うちの弟に救われたのね。」「ええ。でも土原さんは、あの人と結婚した。僕は、あの人の幸せを遠くで願うしかないんです。叶わない恋だったから・・」総太はそう言って俯いていた顔を上げると、空になったマグカップを洗おうと、シンクへと向かった。その時、何かが胸の底から迫(せ)り上がってくるような感覚がしたかと思うと、総太は床に膝を突き、激しく咳き込んだ。「どうしたの、総ちゃん?」「すいません・・ちょっと・・」呼吸を整えようとした総太だったが、咳は治まるどころかますます激しくなってゆく。そして彼はとうとう、喀血した。「総ちゃん、今救急車呼んだからね!大丈夫だからね!」「すい・・ません・・」「しゃべったら余計に苦しくなるから、楽にして!」遠のいてゆく意識の中、総太は前にもこんなことがあったなと、前世のことを思い出していた。“総司、しっかりしろ、死ぬんじゃねぇ!” 血を吐き、半ば意識を失った自分を抱き抱えながら、愛しい人はそう叫びながら涙を流していた。いつか来世では、彼と幸せになろうと思っていたのに、結果はこのザマだ。また自分は一人で死ぬしかないのか―そう思いながら総太が目を開けると、そこは見慣れた病院の無機質で殺風景な白い天井だった。「総司、総司!」幻聴まで聞こえてきたのだろうかと総太がそう思っていると、誰かが自分の身体を揺さ振っていることに彼は気づいた。「総司、大丈夫か?」「土方・・さん?」そう言って総太が自分の身体を揺すっている男の顔を見ると、それは紛れもなく7年前に別れた恋人、土方歳三こと土原歳介だった。「土方さん・・どうして・・」「姉貴からメール貰って飛んできたんだよ!てめぇ、何で・・」歳介はそう言うと、総太の胸に顔を埋めた。彼の涙で胸が濡れる感覚がし、総太はそっと彼の頭を撫でた。「ごめんなさい、土方さん・・また心配掛けて、ごめんなさい。」「謝るんじゃねぇ、馬鹿野郎!謝るのは俺の方だ!」(この人は、昔から変わっていない・・)
2013年08月29日
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「ねぇ総ちゃん、一度ご両親に会ってきたら?」「そんなの出来ません。母は、僕の事をもう忘れていると思っていますから。」総太はそう言って美津子を見ると、彼女は何だか納得がいかないといった顔をしていた。「あんたがお母さんを憎んでいるのはわかるよ。でもねぇ、いつまでも憎しみや恨みを抱いたままじゃぁ、いつまでたっても前には進めないと思うよ?」「・・美津子さんには、わからないんです。僕達の家は、普通じゃないんです。」「普通じゃないって、どういうこと?」「大学の教育実習で、ある中学校に行きました。そこは中高一貫の、所謂エリート進学校だったんですけど、気になる生徒が一人、居たんです。」「その子がどうして気になったの?」「僕が育って来た環境と似ているからです。その子には二人の姉が居て、母親は一人息子である彼に過剰な期待を寄せ、幼い頃からピアノやスイミングといった習い事をさせていました。彼を東大へ行かせ、自分が“東大生の母”であるという夢を、彼に一方的に押しつけていたんです。」「そう・・その子、どんな子なの?」「優等生でしたよ、表の顔はね。でも、裏ではクラスメイトに気に入らない生徒を仲間外れにするよう命じたり、万引きをしたり・・それに、平気で人を傷つけるような事を言ったりして、周囲から煙たがられていました。」総太は、滔々と大学時代の苦い思い出を美津子に語りだした。 大学四年の時、教育実習先で出会った一人の生徒―安西学は、その学校に通う生徒の中でも一番裕福な家庭の出身だった。 父親は国会議員で、母親は世界的に有名なピアニスト、姉二人はそれぞれ欧州を拠点として母親同様に世界的に活躍しているヴァイオリニストとハーピストという、音楽一家だった。 だが学の母親は、漸く授かった安西家の跡取りである彼に過剰な期待を寄せ、彼が物ごころついた頃には、彼にピアノやヴァイオリン、スイミングなど、沢山の習い事をさせていた。小学校に上がった頃になるとそれに進学塾が加わり、彼は家と塾、スイミングスクールを往復するだけの日々を6年間送っていた。 勉強漬けの生活を送っていた学だったが、同じ塾に通う友達と仲良くなり、彼らと同じ学校を受験して合格し、学級委員長としてクラス内で一目置かれる存在となった。だが、総太はある事に気づいていた。彼は無理をしていると。「ねぇ安西君、ちょっといいかな?」「いいですよ、何ですか?」「最近さぁ・・クラスで変わったことない?ほら、噂なんだけど・・安西君のクラスで、いじめがあるって聞いたんだ。」「いじめなんてありませんよ、うちのクラスには。だってこの僕がクラスを上手く纏めているんですから。先生、余計な心配をしてないで教員採用試験の勉強でもしたらどうですか?」学は目上である総太に対してそう生意気な口を利くと、不機嫌そうに彼に背中を向けてその場から去っていった。彼の言葉を信じ、総太はクラスにはいじめがないと勝手に思い込んでいた。 しかし、それは大きな間違いだった。数日後、学校にほど近い多摩川の河川敷で、一人の中学生の遺体が発見された。彼は全身を50箇所も殴られており、髪の毛は剃られ、顔は原形を留めないほど腫れあがっていた。警察は他殺と判断し、殺人事件として捜査を開始してから数日後、総太が朝のHRをしていると、学校に警察がやって来た。「何か、ご用ですか?」「安西学君に、ちょっと今回の事情について尋ねたいことがありましてね・・」刑事の一人がそう言って学の方をチラリと見た瞬間、彼は恐怖に顔を引き攣らせたかと思うと、金切り声を上げて教室から飛び出していった。「安西君、待って!」「うるせぇ、離せよ!」 屋上で学と激しく揉み合っていた総太は、前方へと躓(つまづ)いた反動で、彼の胸を押してしまった。あっと総太が気づいた時には、学の身体は宙を舞っていた。
2013年08月29日
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興輔を出産してからも、佳織の自己中心的な性格は直らなかった。「もう、いい加減泣き止んでよ!」ある日の夜のこと、歳介が残業を終えて帰宅すると、佳織が赤ん坊の興輔にそう向かって怒鳴っていた。「どうした?」「この子ったら、夜中に突然泣き出したのよ!わたしがぐっすりと眠っているっていうのに、酷過ぎない!?」「興輔腹減ってんじゃねぇのか?ミルクは?」佳織は母乳が出たが、“胸の形が崩れるから嫌だ”という理由で、興輔をミルクで育てていた。「こんな時間にあるわけないじゃないの。それよりもわたし、もう寝たいのよ。後は宜しくね。」佳織はそう言うなり興輔を歳介に押し付けると、さっさと寝室へと戻っていってしまった。顔を真っ赤にして空腹を訴える興輔をあやしながら、歳介は彼の為にミルクを作った。「夜遅くにうるさいと思っていたら・・興輔か?佳織はどうした?」「もう寝たいといって、寝室に戻っていきました。」「どうしようもないな、あいつは。」喜助は母親になっても自分本位な佳織に怒りを通り越して呆れていた。「わたしは、あいつの教育を間違ったかもしれん・・いつも仕事を口実にして、家の事は全て潔子さんに任せていたからな・・」「お義父さんの所為じゃありませんよ、どうかお気にならさず。」 佳織は母親となってからも、独身時代と変わらない生活を送っていた。興輔の世話を潔子と専属の乳母に任せ、一日中ショッピングや友人達と遊びに行き、帰りは深夜を回る事も多かった。「これから興輔の世話は俺がする。だからお前はその代わりに家事をしろ。」「嫌よ、家事をするなんて使用人の仕事よ!わたしは、そんな事はしたくはないの!」 佳織は興輔の世話を歳介に任せ、母親としての役目を完全に放棄した。歳介はどんなに仕事が忙しくても、幼稚園の行事やPTAの会合には必ず出席し、運動会にも出た。母親同士の付き合いも、そつなくこなした。その結果、興輔は自然と歳介に懐いた。「ねぇ興ちゃん、パパとママ、どっちが好き?」「お父さん!」母の日に幼稚園に行った佳織は、自分の似顔絵を描いている興輔にそう聞くと、彼は悪気もなくそう答えた。すると彼女は突然金切り声を上げたかと思うと、興輔が描いていた画用紙を掴みそれをビリビリと引き裂いた。「今日は母の日でしょぉ!何でママが好きだって言わないのよ!」興輔は母の豹変ぶりを目の当たりにし、パニックと恐怖のあまり過呼吸を起こして病院に運ばれた。「あなた、あの子に変な事を吹き込んだのね!?」「そんな事する訳ねぇだろう、お前何処かおかしいぞ!?」夫婦仲は、この“似顔絵事件”以来急速に冷え込んでいった。(あいつが、女だったらよかったのにな・・)総太と佳織の性別が逆だったら、今頃総太と結婚し、彼や自分に似た子どもと囲まれて幸せな暮らしを送っていたことだろう。いつ間違ってしまったのだろうか―そう思いながら、歳介はゆっくりと目を閉じて眠った。「総ちゃん、ごめんねぇ、突然押しかけて来ちゃって!」「いえ、いいんですよ。どうぞ、上がってください。」 仕事の出張で京都へとやって来た歳介の姉・美津子と道端で会った総太は、彼女を自宅があるマンションの一室へと招待した。「へぇ、綺麗に片付いてるわねぇ~、やっぱり家事が出来る男っていいわね!」「いえ、そんな・・今、お茶淹れますね。」「ありがとう。やっぱり歳が総ちゃんと別れたのは間違いだったわねぇ。総ちゃんとあの女の性別が逆だったら、今頃総ちゃんはあたしの義妹として可愛がってあげてるのになぁ~」「何か、あったんですか?」「うん・・まぁ、ちょっとねぇ。それよりも総ちゃん、ご両親とは連絡取ってるの?」「ええ・・父とだけは。母は、僕が京都に居ることすら知りません。」「そうなの・・あ、あたし総ちゃんの為にロールケーキ買ってきたのよ!二人で頂きましょう!」「ありがとうございます。」総太は美津子と話していると、何故か自然とリラックスしていた。
2013年08月28日
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佳織と結婚して半年が経った頃、臨月に入った彼女が突然海外旅行へ行きたいと言い出したのは、病院の健診に行った帰り道でのことだった。「子供が生まれたら、当分海外旅行できないでしょう?だからこの際、ヨーロッパにでも行こうと思うの。」「おい、冗談だろ!?今にも生まれるかもしれねぇって時に、海外旅行はねぇだろ?」「だって、行きたいんだもの!安定期を過ぎてから行きたいって言ったのに、あなた反対したじゃないの!」「安定期っつってもなぁ、お前ぇの身体は普通じゃねぇんだよ!それに、旅行中怪我や病気をしたら、母体や胎児に何か悪影響があったらどうするんだ!?」「新婚旅行に行けなかったのよ、わたし達!あなたが止めたから・・」「それは、お前が勝手に決めて強行しようとしたからじゃねぇか!」 佳織と結婚するとき、既に彼女のお腹には興輔が居た。妊娠初期であるのに、ヨーロッパ4ヶ国周遊ツアーを申し込んだ佳織に対し歳介は、彼女を説得させて新婚旅行を中止させたのだった。それを未だに彼女は根に持っているらしく、短大時代の友人の結婚式に出席し、彼女達の新婚家庭の話を聞く度に、“わたしは新婚旅行すら行っていない・・”と、歳介にあてつけるかのように言うのだった。「一度くらい、わたしの好きにしたっていいでしょう!?どうしてわかってくれないのよ!?」「俺はお前ぇの為に言ってるんだ、それがわからねぇのか!」帰宅するまで歳介は佳織と激しく口論した。「お父様、何とか彼を説得してよ!」「佳織、妊婦であるお前が旅行に行けるわけがないだろうが!子供が生まれたからでもいいだろう?」「嫌よ、わたしは今行きたいの!」どうしても海外旅行に行きたいと言い張る佳織に、喜助は溜息を吐いてこう言った。「今回は諦めろ。」「何で、わたしばっかり我慢しなくちゃならないの?不公平じゃない!」 自分の思い通りにいかないとわかった佳織は、ヒステリーを起こしてリビングにある物を手当たり次第喜助に投げつけた。「お父様の馬鹿~!」「落ち着きなさい、佳織!」「旅行くらいいいじゃない、妊婦だからって関係ないわ!」結局潔子が駆けつけて佳織を宥めるまで、彼女は20分もの間リビングで泣き喚き、暴れた。「旦那様、今回はお嬢様のさせたいようになさったら如何ですか?このままでは、お嬢様が余りにもお可哀想です。」潔子は泣き喚き疲れた佳織の背中を優しく擦りながら、そう言って喜助を見た。「潔子、お前とて人の親ならばわかるだろう?臨月の妊婦が海外旅行へ行ってどうなると思う?もし旅先や行き帰りの飛行機内で産気づきでもしたら、周囲の迷惑になるのだぞ!」「それを承知で申し上げているのです!旦那様は、お嬢様を愛していらっしゃらないのですか!?」「わしは、佳織の為に言っているんだ!」「お可哀想なお嬢様・・」 潔子はジロリと喜助を睨みつけてそういうと、再び佳織の背を優しく擦った。 「若旦那様、あなたはいつまでこの家にいらっしゃるおつもりなのですか?」「どういう意味だ、そりゃぁ?」「言葉通りの意味です。あなた様は、お嬢様の夫には相応しくありません。お嬢様が妊娠されていなかったらよかったものを。お嬢様はわたくしがお守りいたします。」潔子は歳介と初めて会ったとき、開口一番かれにこう告げると、敵愾心に満ちた目で歳介を睨んだ。それから歳介は潔子とは必要最低限の会話しか交さなかったが、それすらも彼女は無視した。使用人のヒエラルキーの頂点に立っている潔子の言葉に自然と使用人たちは従い、彼らは潔子に倣って歳介を無視し始めた。「なぁ佳織、潔子さんに俺を蔑ろにするなと言っておいてくれねぇか?」「あら、あなたが悪いんじゃないの。潔子さんは、間違ったことなどしてないわ。」「お前なぁ・・」「何よ、またわたしを責めるつもりなの!?」海外旅行の話が流れ、不機嫌な佳織はそう言って再びヒステリーを起こした。「歳、あんたまた痩せたわね?向こうの家でちゃんとご飯食べてるの?」「まぁな・・ただ、向こうの家に居る使用人ども、俺のことを無視しやがるんだよ。潔子って女が使用人どもに俺を無視するよう命じたらしい・・」「何よそれ、あんたそんな事されてよく黙っていられるわね!?」「佳織に潔子を何とかしてくれるよう言ったさ。けどあいつ、“潔子さんは間違っていない、間違っているのはあなたの方”の一点張りで、話にもならねぇよ・・」 佳織が興輔を出産し、入院している時、歳介は久しぶりに実家へと帰省して婚家で受けている仕打ちを姉に愚痴った。「その潔子さんって人、佳織さんのお母さん代わりなんでしょう?」「ああ。あいつの母親はあいつが2歳のときに死んで、潔子さんがあいつを育てたようなもんだからな。同じ赤の他人でも、母親代わりの家政婦と夫の俺とじゃ、佳織は家政婦の方を自然と選んじまうんだろうよ・・」自嘲めいた笑みを浮かべながらそんな言葉を紫煙とともに歳介が吐き出すと、美津子もつられて溜息を吐いた。「あんたやっぱり、あの子と別れるべきじゃなかったわねぇ。」「総太のこと、知ってんのか?」「あんたねぇ、何年あんたの姉をやってると思ってんの?弟が誰と付き合っていたかなんて、あたしには全てお見通しなんだからね。総太君は、男にしちゃぁ出来た子だったわね。気配りも良く出来るし、家事も嫌な顔ひとつもせずに手伝ってくれるし・・あの子が女だったら、土原家の嫁として歓迎したんだけどねぇ・・残念なことしたわねぇ、あんた。あんな良い子と別れてさぁ。滅多にあんな子居ないわよ?」「うるせぇ、わかってるよ・・」「あんた達夫婦がこれからどうなろうが、あたしには関係ない。兄弟といえども半分他人のようなもんだしね。姉だからって弟夫婦の生活に干渉はしないわよ。“親しき仲にも礼儀あり”っていうしね。でもまぁ、あの女との結婚であんたが人生を詰んだことは間違いないわねぇ。」歯に衣着せぬそんな姉の言葉に、歳介はぐうの音も出なかった。
2013年08月28日
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その夜、歳介は予約していたUSJのオフィシャルホテルに興輔(こうすけ)と泊まった。「お父さん、ひとつ聞きたい事があるんだけど、いい?」「どうした、そんな真剣な顔をして?」「お父さんとお母さん、離婚するの?」「・・誰に聞いたんだ、そんなこと。」息子の口から“離婚”などという言葉が飛び出してきたので、歳介はそう言って彼を睨んだ。「潔子(きよこ)さんたちが・・」興輔がいう“潔子”というのは、石秀家に長年仕えている家政婦の名前で、彼女は石秀家で働いている使用人の女中頭のような役目を兼任していた。「潔子さんがどうしたんだ?」「僕・・昨夜トイレに行こうとしたら、女中部屋のドアが半開きになってて・・中から潔子さん達の話し声が聞こえたんだ。」「興輔、怒らないからゆっくりと、俺に話せ。」歳介は腰を屈め、興輔と同じ目線になると、そう言って彼の目を見た。「“奥様と若旦那様の離婚は秒読みね。”って言ったんだ、潔子さん・・そしたら、誰かが、“まぁ、無理もないわよねぇ。若旦那様はまともな家柄の出身ではないのだもの”って・・」「それで、お前はどうしたんだ?」「トイレで泣いたよ。お父さんに、どうしても言えなかったんだ。黙っていて、ごめんなさい。」興輔はそう言葉を切ると、涙を流した。「よく話してくれたな、興輔。」「僕に・・怒ってないの?」「怒るわけねぇだろ。お前ぇはちゃんと俺に話してくれた。それだけで充分だ。」そっと歳介は息子の頭を撫でると、彼は安堵の表情を浮かべた。「もう遅いから、寝ろ。」「お父さんは?」「俺はまだ眠たくないが・・よかったら一緒に寝るか?」「うん!」 先に自分の隣で眠り始めた息子の寝顔を見ながら、歳介は次第に潔子への怒りが湧いてきた。彼女は歳介が佳織と結婚したときから、どこか彼を見下しているかのような態度を取った。まるで、“お前はこの家に相応しくない人間だ、さっさと出て行け”とでも言うように。歳介も潔子が苦手で、何か用事があるときは自分で済ませていた。それを見た佳織は、何故女中を使わないのかと尋ねてきたのは、歳介が石秀家に婿入りして数ヶ月がたった頃だった。「彼らは、わたし達に仕えるのが仕事なの。それなのにあなたったら、彼らの仕事を奪うような真似ばかりするじゃない。そんなの、彼らに失礼だわ。」「俺ぁ、お前みてぇに生まれたときから人に傅かれて育ったんじゃねぇんだ。理解してくれ。」「ねぇ、その野蛮な言葉遣い、何とかならないの?この家に婿入りしたからには、上品な言葉で話して欲しいわ。あなたの言葉遣いって、まるでヤクザみたい。」「今更かしこまって、“僕”なんざ自分のこと言えるかよ?それに、俺ぁかしこまった言葉遣いがどうも苦手でねぇ。」「何よ、もう知らない!」佳織は自分の思い通りにならないと、いつもヒステリーを起こした。 日本を代表する財閥の会長令嬢として幼少期から経済的に豊かな生活を送り、父親からは溺愛されて育った佳織は、傲慢で“いつも自分が正しい”という考えの持ち主だった。それ故に、他人の気持ちを慮ったりすることがなく、臆面なく言いたい事を言っては、周囲とトラブルを幾度となく起こしていた。 それは、歳介が実家に佳織を連れてきた日もそうだった。「佳織さん、うちの料理、どうかしら?お口に合うといいけれど・・」「大丈夫です、不味くありませんし。」「あら、そう・・良かったわ・・」佳織が料理の感想を言っているとき、母の顔が引き攣っていることに歳介は気づいていたが、佳織は全く気づいていなかった。「お義姉(ねえ)さん、ご結婚は?」「今は仕事が楽しくて、当分考えていないわ。」「あら、駄目ですよ!そんな事をいつまでも思っていると、いつの間にかいき遅れちゃいますよ!もしかして、お義父(とう)さんたちに面倒見て貰おうなんて思ってませんよね?」「・・そんな事、思ってないわよ。それに、わたしは老後のためのお金をちゃんと貯めているし、母さん達の面倒になるつもりはないわ。」姉・美津子は佳織に笑顔でそう言った後、歳介を台所へと呼び出した。「ねぇ、あの人少しおかしくない?初対面の相手に向かって余りにも失礼すぎると思わない?」「なぁ姉貴、俺に免じて今回は許してやってくれよ。」「あんたの為に余り波風は立てたくないんだけどねぇ・・今であんな調子だと、子供が生まれたらもっと大変なことになるかもしれないわよ?ほら、“お母さん”同士の世界って案外複雑でしょう?あの人みたいに人が気にしていることを言うタイプって、嫌われやすそう。」「それは俺がちゃんとフォローするから、心配要らねぇよ。」姉の予言じみた言葉を聞いた歳介はそう言ったものの、佳織がこれから母親となったらどうなるのかという一抹の不安を抱いた。「今日は楽しかったわね。」「ああ。なぁ佳織、人が気にしていることをはっきりと言わないほうがいいぞ?時と場合によっちゃぁ、それは相手にとって失礼に当たるんだから・・」「どうして?人の顔色を窺って本音が言えないなんておかしいわ。わたし、そんなの嫌よ。」「俺は、そんな事を言ってるんじゃないんだよ。偶には人の気持ちを考えろって・・」「何よ、わたしの気持ちはどうでもいいってわけ!?」佳織は突然そう叫んだかと思うとヒステリーを起こし、自宅に着くまで泣き喚いた。「歳介君、佳織のことをあれこれ言うのは止してくれないか?あの子だって初めての妊娠で神経質になっているんだ。余計なストレスを与えないでくれ。」「すいません・・」娘を溺愛する舅と、自己中心的な妻の間で板挟みとなった歳介は、何故あの時総太と別れてしまったのだろうかと後悔し始めていた。
2013年08月28日
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「申し訳ございません、西岡先生。わざわざお忙しいお時間を割いてご出席してくださったのに、夫がとんだ失礼を・・」「いやいや、息子さんと遊園地に行くなんていうのは、わたしと会うよりもよっぽど貴重な体験だと思うよ。だから、余り気に病むことはないよ。」国会議員・西岡勝は、そう言って自分に平謝りする佳織を見た。「後でわたくしが夫に厳しく言い聞かせますので、どうか・・」「わたしがこんな事を根に持つ男だと思っているのかね?」西岡は柔和な笑みを佳織に浮かべたまま、そう彼女に尋ねた。「よさないか、佳織。これ以上恥を晒すんじゃない。」「お父様・・」父・喜助にそう窘められた佳織は、西岡に再び一礼した。「西岡先生、娘がとんだ無礼な事をして申し訳ございません。」「いやいや、わたしはちっとも気にしてなどおらんよ。それに、お宅のお婿さんとは会う約束を前もって取りつけていなかったんだからね。」「そうですか・・歳介君は、まだ石秀家に婿入りして日が浅いので・・こういった集まりに出ない事が度々ありましてねぇ・・」「大人同士でご機嫌取りをするよりも、息子さんにいい思い出を作ってあげる、素敵なお父様ではありませんか、お宅の婿殿は。いやぁ、うちの息子にも婿殿の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですなぁ。」 その後、西岡は終始上機嫌な様子でパーティーを楽しんでいた。「全く、どうしてわたくしが西岡先生に頭を下げなければならないのかしら!」「それはお前が歳介君の妻だからだろう?それよりも歳介君は一体こんな時間まで何処をほっつき歩いとるんだ・・」喜助はそう言うと、ドカリと椅子に腰を下ろした。「あの人は、興輔と遊園地に行ってるわ。遅くに出たから、まだ帰らないんじゃないかしら?」佳織はイヤリングを外すと、それを乱暴にテーブルの上に置いた。「最近あの人、わたしよりも興輔のことを優先するのよ。夏休みの宿題だって、つきっきりで手伝っていたわ。」「歳介君は父親として当然の事をしているまでだ。何故それが気に喰わないんだ、佳織?」「だって彼、わたしのことを全然見てくれないもの・・」「馬鹿を言うな!お前は母親としての自覚が足らん!家政婦から聞いたが、お前は興輔の世話を家政婦に丸投げして独身時代と変わらずに遊び歩いているようだな!?」「たまには息抜きが必要でしょう!?一日中あの子と一緒に居ると、疲れて仕方がないのよ。」「まったく、お前という奴は・・」我が子ながら情けないと喜助はそう思いながら、溜息を吐いた。「ねぇお父様、あいつが今何処に居るのか知ってる?」「あいつとは、誰だ?」「決まっているでしょう、歳介さんと7年前に付き合っていた男よ。わたしと結婚したんだから、当然歳介さんの事は諦めているわよね?」「それをわしに聞いてどうする?そんなにそやつの事が気になるのなら、探偵でも雇ったらどうだ?」「もうあいつの調査を依頼したわよ。明日、調査結果を郵送するって言ってたわ。」佳織は、まだ総太が歳介につき纏っているのではないのかと疑っていた。7年前、彼から歳介を略奪したような形で結婚した彼女であったが、それまで総太と歳介は相思相愛の仲だった。(あいつがまだ、歳介さんと付き合っていたら・・絶対に許さないわ!)「佳織、どうした?怖い顔をして。」「いいえ、何でもないわお父様。もうわたし、部屋で休むわ。」テーブルの上に置いていたイヤリングを掴んだ佳織は、そのままリビングルームから出て行った。 寝室に入り、ベッドに横たわっても、佳織はなかなか眠ることが出来なかった。
2013年08月28日
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※BGMとともにお楽しみください。「お父さん、さっき道端で会った人、お父さんの知り合いなの?」「まぁな・・」大阪行きの特急に揺られながら、歳介はそう言って興輔(こうすけ)を見た。「お父さん、お母さんと結婚する前は東京に住んでたんでしょう?」「ああ、お母さんと結婚する前、お父さんは学校の先生をしていたんだ。さっきお前が会ったのは、その時の教え子だよ。」「かっこいいなぁ~!」興輔が少し興奮した様子でそう言うと、周りの乗客たちが迷惑そうな顔をした。「興輔、電車の中では静かにしろよ。じゃないと遊園地行くのなしだからな。」「わかった・・」歳三に叱られしゅんとした興輔は、ステンレス製の水筒の口を捻り、そこから麦茶を一口飲んだ。「興輔、夏休みの宿題はもう終わったんだろうな?」「うん。あとは、読書感想文だけだよ。ねぇお父さん、お母さんはどうして一緒に来てくれないの?」「お母さんは、用事があって行けなくなったんだよ。」歳介はそう言いながら、自宅を出る前に佳織と喧嘩した事を思い出していた。「あなた、今夜のパーティーを欠席するですって!?」「ああ。今日は興輔と遊園地に行くって約束してたんだ。」「そんな・・今夜のパーティーには、あの西岡先生がわざわざあなたの為に時間を割いてくださってご出席してくださるのよ!遊園地なんて、いつでも行けるじゃないの!?」「約束は必ず守らないと男が廃る。」息子との約束を反故にして、パーティーに出席しろと迫る佳織を無視し、歳介は興輔とともに家を出た。「お母さん、怒ってないかなぁ?」「何でそう思うんだ?」「だって、お父さん今夜、偉い人と会う筈だったんでしょう?それなのに、僕が遊園地に行きたいって言ったから・・」「お前がそんな事気にしなくてもいいんだよ。」自分が我が儘を言った所為で、また父と母が喧嘩するのではないかと不安がる興輔に対し、歳介はそんな言葉を彼に掛けた。「もうすぐ着くから、降りる準備をしろよ。」「うん、わかった・・」「なぁ、そんなシケた面すんなよ?これからパァッと遊びに行くんだから。」「でも・・」「興輔、お前ぇは何も心配しなくてもいいんだよ。今は俺と遊園地を楽しむ事だけを考えろ、な?」「わかった・・」(子どもだからって、馬鹿にしちゃいけねぇな・・興輔は、俺達夫婦が上手くいっていないことを知ってやがる・・) 佳織が興輔を妊娠し、半ば彼女と強引に結婚してから7年目、歳介は仕事を口実にして殆ど家に帰らず、佳織は佳織で同級生の男と浮気している。何度彼女と離婚したいと思った歳介だったが、その度に興輔の存在を心の支えにしていた。よく“子は鎹(かすがい)”といわれるが、まさにそうだ。興輔は自分の命よりも大事な存在だ。それは、佳織も同じだろう。「お父さん、早く~!」「ああ、わかったよ。だからそんなに引っ張んなって。」USJに着いた途端、あれほど暗い顔をしていた興輔が今は興奮した様子で歳介の手を引っ張り、ジェットコースターの方へと歩いていく。「お前、あれに乗って泣かないか?」「泣く訳ないじゃん!」だが興輔はコースターが動き出した途端、もう降りると泣き叫んだ。「俺がついてるから大丈夫だったろ?」「うん・・」コースターから降りた興輔は、半ば放心状態で近くにあったベンチに座り込んだ。「ちょっとお子様には刺激が強すぎたかな?」「もう、子ども扱いして!」 プライドが高いのは自分に似たか―歳介はそう思い、笑った。
2013年08月27日
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「良く来てくれたね。」「すいません、なかなかお見舞いに行けなくて。」7年前、華凛が総太の元へとお見舞いに行くと、彼はそう言って嬉しそうに微笑んでくれた。「身体の具合は如何ですか?」「まぁまぁかな。それよりも、最近どうしているの?学校にはちゃんと行ってる?」「はい。今度の学校でも友達が出来たし、楽しいです。」「そう・・良かった。」「先生、土原先生のことは聞かないんですか?」「別に、聞かなくてもわかるから。」そう言った総太の顔は、何処か悲しそうだった。 彼が前に勤務していた聖ステファノ学院を追い出された原因を作った女―佳織は、わざと歳介の避妊具に穴を開け、計画的に妊娠した後に彼と結婚した。「女って、怖いよね・・」「先生、ごめんなさい・・」「ううん。ねぇ、今度いつになるかわからないけど、その時は病院じゃない所で会おうね。」「わかりました。」「約束だよ?」「ええ、約束です。」 7年後の今、総太と交わした約束を、華凛は果たそうとしていた。「お久しぶりです、先生。」「久しぶり。」こぢんまりとして落ち着いた雰囲気のイタリアンレストランにある奥の席で、総太はそう言って華凛に微笑んだ。「先生、お元気そうですね。」「まぁね。でもお医者様からは余り無理しないようにって言われているんだよ。それよりも正英君、今日はバイトだったの?」「はい。今日は休みだったんですけど、ピンチヒッターで呼び出されちゃって・・どうしてわかったんですか?」「さっき君が入って来た時、調理油の匂いが微かにしたんだよね。」「へぇ、気がつかなかったなぁ。」それから二人は楽しく食事をした後、食後のコーヒーを飲んでいた。「ご馳走様でした、先生。会計、俺が払いますね。」「いいよ、君はまだ学生なんだから。こんな時は先生に任せなさい。」「じゃぁ、お言葉に甘えて・・」 レストランから出た二人は、四条通をあてもなく歩いた。「7年も京都に暮らしているけど、まだまだわからないことが多いです。」「それは僕も同じだよ。特に、食事の味付けとか、すき焼きが豚肉じゃなくて牛肉を使って作ったり。」「まぁ、豚肉よりも牛肉の方が美味しいですよね、すき焼き。」「ああ、何だか急にすき焼き食べたくなっちゃった!」「もう無理でしょう。」「そうだね。」 華凛と総太が顔を見合わせて笑った。その時、向こうから一組の親子がやって来た。「土原さん・・」彼らが近づいてくるにつれ、総太がそう言って顔を強張らせた。華凛がちらりとその親子を見ると、歳介が一人の男の子と手を繋いで歩いていた。「土原先生、お久しぶりです。」「おう、正英じゃねぇか。元気してたか?」「ええ。これから何処かへお出かけですか?」「息子が遊園地行きたいっていうから、今から行こうと思ってな。」「そうなんですか・・」華凛はそう言って歳介と手を繋いでいる少年を見ると、彼は華凛に向かって頭を下げると、自己紹介した。「いしひでこうすけです。」「こうすけ君っていうんだ。パパに似てハンサムだねぇ~」「じゃぁ、またな。」「ええ、遊園地、楽しんでくださいね。」歳介達が去った後、総太は通りの裏から出て来た。「何だか、幸せそうだったな・・」「先生、大丈夫ですか?」「うん・・もう、帰るね。」
2013年08月27日
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「今日の講義はここまで。レポートはちゃんと学務課に提出して下さいね。」一時間目の講義が終わり、華凛が教室から出ようとした時、久雄が彼の肩を叩いた。「なぁ、レポート・・」「ちゃんと自分で書け、馬鹿。」華凛は久雄をそう冷たく突き放すと、教室から出て行った。「正英、いつも安達に集られてるな?」「ええ。困ったもんですよ・・先輩、この後講義は?」「二時限目は休講になったから、図書館で時間を潰すよ。そろそろ卒論の資料集めに取りかからないとな。」華凛が所属している剣道部部長・木村秀人は、そう言って華凛の肩を叩くと図書館がある方へと走っていった。(さてと、そろそろ俺も卒論書き始めないとな・・)華凛はそう思いながら、PC実習室へと向かった。授業が少ない金曜の昼だからか、いつもは混雑している実習室はガランと静まり返っていた。華凛はパソコンの電源を入れた後、鞄の中から卒論のデータが入ったUSBメモリを挿し込んだ。誤字脱字を彼が確認していると、PC実習室のドアが開いて一人の女子学生が入って来た。「先輩、ここに居たんですか。」「久坂さん・・」華凛は女子学生の顔を見ると、内心溜息を吐いた。 彼女の名は久坂美香といって、大手アパレルメーカー・久坂ブランドの社長令嬢である。テニスサークルに所属しており、剣道部の華凛とは一切接触がないが、何故か美香は華凛に絡んで来る。一体彼女は何しに来たのだろう―そう思いながら華凛がUSBメモリを外すと、美香が隣に座って来た。「どうしたの?」「あの・・今日のお昼、一緒に食べませんか?」「え?」「もっと知りたいんです、先輩の事。」「ごめん、今日はバイトがあるから。」華凛はそう言って、鞄の中にUSBメモリをしまうと、PC実習室から出て行った。「何だ、つれないなぁ・・」美香は溜息を吐くと、慌てて華凛の後を追った。「おはようございます。」「正英君、悪いね。今忙しい時なのに。」「いいえ。今日の講義は一時限目だけですから。」華凛はバイト先の弁当屋へと向かうと、手洗いをして制服に着替えた。「のり弁当三つ、お願いします!」「はい、わかりました!」 学生街のど真ん中にあるこの弁当屋は、昼時になると客が沢山入って来て忙しくなる。今日は華凛はバイトが休みだったが、昼のシフトに出勤する予定のパートさんが体調不良の為休むこととなったので、ピンチヒッターとして出勤していた。「ありがとうございました!」店から出て行く客一人一人に笑顔を浮かべながらそう言った華凛は、また厨房へと戻っていった。「正英君、休憩したら?少し疲れてるんじゃないの?」「すいません・・」「後は俺がやっとくから。」休憩室で缶コーヒーを飲みながら、華凛が昼食に作ったサンドイッチを齧っていると、彼のスマートフォンに一通のメールが入った。【今夜、会えますか?大事なお話があります。 総太】総太からのメールに、華凛は動揺した。(沖原先生、退院したのかな?) 7年前、肺の持病が悪化し、授業中に倒れた総太は、病院に緊急搬送され、そのまま入院することとなった。
2013年08月26日
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第2部 7年後―2018年、京都。父・脩平が亡くなり、正英流が断絶してから、華凛は京都に住む母方の伯母・篠華淑子の元へ身を寄せていた。「真那美ちゃん、早う起きよし。学校に遅れるえ。」「わかった・・」「最近寝坊するなぁ、真那美ちゃん。昨日は夜遅くまで何してたん?」箸を握りながらも、まだ舟を漕いでいる真那美は、淑子の問いには答えなかった。「真那美、伯母さんが聞いているんだから、ちゃんと答えなさい。」「宿題をしてました・・」「夜遅うまで宿題せんでも、学校から帰って来てから夜寝るまで、充分時間はあったはずや。」「だってぇ・・」「真那美ちゃん、世の中にはなぁ、優先順位っていうもんがあるんえ。真那美ちゃんが学校から帰ってすぐにすることは、宿題する事や。勉強をなまけたらあかんえ。」「わかりました。」「わかればええわ。さ、朝ごはんちゃんと食べて元気出しよし。華凛ちゃんも。」「伯母さん、申し訳ありません。真那美が・・」「いいんよ。」「真那美、グズグズしてると置いていくよ!」「わかったよ~」 玄関先でまだ眠そうな顔をしている真那美に、華凛はそう言って一足先に玄関から外へと出た。「おじちゃん、待ってえ~」「真那美、ランドセルは?」「玄関先に置いたままだった。」「全く、真那美は何処か抜けているんだから・・」 華凛はそうブツブツと言いながら、真那美にランドセルを背負わせた。「先生、おはようございます。」「おはよう。」 京都市内にある私立、聖愛学園の正門前では、理事長・西田渉と教師達が、生徒達一人一人に挨拶をしていた。そこへ、慌てた様子で走ってくる華凛と真那美の姿を見た渉は、彼らの方へと駆け寄った。「先生、遅れてしまって申し訳ありません。真那美、先生にご挨拶は?」「理事長先生、おはようございます。」真那美がそう言って渉に頭を下げると、彼はニッコリと彼女に微笑んで彼女の頭を撫でた。「先生、どうか真那美の事を宜しくお願い致します。」「正英さん、いつもご苦労さまです。」「いいえ・・それでは、わたしはこれで。」 華凛は渉に一礼すると、背を向けて元来た道へと戻っていった。「若いのに、しっかりしてますねぇ、真那美ちゃんのパパ。」「正英さんは真那美ちゃんの叔父さんだよ。」「え・・」「真那美ちゃんの両親は、彼女が赤ん坊の時に交通事故で亡くなって、高校生だった正英さんが姪っ子の父親代わりになったんだよ。」「そうだったんですか・・わたし、知らなくて・・」「彼がしっかりしているのは、そうせざるおえない事情があったからだろうね・・」 華凛が一時間目の講義が始まる前に教室に入ると、そこには文学部の安達久雄が斜め前の席に座っていた。安達と華凛は学科が違うが、同じ学年なので受ける科目が被ることが多い。どうか彼が自分に気づきませんように―華凛がそう思いながらノートを鞄から取り出すと、安達が不意に華凛の方へと振り向いた。「なぁ、ノート貸して?」「ノートくらい自分でとれ。他人をあてにするな。」「ちぇ、何だよケチ!」安達は舌打ちすると、ホワイトボードの方へと向き直った。
2013年08月26日
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正英華凛(まさひで かりん)真那美の叔父。かつては正英流次期家元であったが、父・脩平の死とともに正英流は断絶し、建築家を目指す為京都市内の大学に通っている。正英真那美(まさひで まなみ)華凛の姪。赤ん坊の時に両親を交通事故で亡くし、華凛と淑子の手によって育てられる。天真爛漫な性格。篠華淑子(しのはな よしこ)華凛の伯母で、京舞・篠華流家元。篠華家に身を寄せる華凛のことを溺愛している。篠華和美(しのはな かずみ)淑子の一人娘。母とは確執があったが、高校卒業とともに上京している。吉田瞳(よしだ ひとみ)真那美の担任。初めてクラス担任を任された新米教師で、何処か頼りない。西田渉(にしだ わたる)真那美が通う聖愛学園理事長。生徒のことを心から愛し、親身になってくれるベテラン教師。石秀興輔(いしひで こうすけ)佳織と歳介の長男。真那美と同じクラスで、彼女の事が気になっている。石秀喜助(いしひで きすけ)佳織の父で、石秀コンツェルン会長。仕事には厳しいが、娘には甘い。鈴久彗(すずひさ けい)国会議員・高生の孫。家庭の事情で、父親と離れて暮らしている。安達久雄(あだち ひさお)華凛と同じ大学に通う文学部の四年生。いつも他人をあてにしている。木村秀人(きむら ひでと)華凛が所属する剣道部部長。久坂美香(くさか みか)テニスサークルに所属する、文学部三年。華凛に想いを寄せている。
2013年08月26日
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「これだけは言っておきますが、あなたに父の遺産を分けようなどとわたしはこれっぽっちも考えていませんからね。」「わかっています・・」優菜はそういうと、スカートが裂けんばかりにそれを両手で握り締めた。「先生、宜しくお願いします。」「はい。ではお父様の遺産についてですが・・」正英家の顧問弁護士・波多野はそういうと、書類鞄から書類を取り出した。「生前、正英脩平さんから財産分与の事で、わたくしに相談がありました。その結果、次男の華凛さんにはこの家屋敷と土地、舞踊会館の権利を譲渡する。そして優菜さんには、正英流の門下生として華凛さんと暮らす事・・以上です。」「先生、待ってください!その遺言書は本当に父が書いたものなのですか!」「ええ。脩平さんの署名・捺印がありますから、間違いありません。」「信じられません、父がこんな事をするだなんて・・わたしが、この子をどんなに憎んでいたのか父は知らないはずはないのに・・」華凛はそう言うと、憎悪が籠もった目で優菜を睨みつけた。「華凛さん、落ち着いてください。」「先生・・たとえ父の遺言といえども、この子と一緒に暮らせません!それに、わたしは近々京都の伯母の家に世話になるつもりです。」「そうですか・・では、優菜さんだけがこの家に住むというのは・・」「それも出来ません。ここはわたし達家族の思い出が詰まった家です。売るのならともかく、この子にだけはこの家は渡したくありません!」「では、どうするのですか?」頑として優菜を拒絶する華凛に、波多野は少し困惑気味に彼を見ていた。「この家屋敷は売ります。」「じゃぁ、わたしはどうすれば?」「そんなこと、自分で考えなさい!そもそも、あなたが我が物顔してこの家に住む事など、許されませんよ!あなたとあなたの母親の所為で、わたし達がどんな思いをしたのか、忘れたのではないでしょうね!?」「それは・・」 優菜の母親は、百合子が死んでから数年後に過労で亡くなった。その時まだ彼女は幼かったので、母親が脩平の愛人であることを知らなかった。「とにかく、わたしにとってあなたは唾棄すべき存在であることは確かです。お願いですから、今すぐここから出て行ってください。」「お兄さん・・」「あなたに、“兄”と呼ばれたくありません。菊さん、この人をこの家から摘み出して!」「は、はい・・」 年嵩の家政婦が戸惑った様子で優菜へと近づく前に、彼女は部屋から飛び出していった。「優菜、どうしたの?顔が真っ青よ?」「何でもないわ・・」「そう・・その様子だと、またあの人に酷い事言われたのね?」「ねぇ、わたしは生まれちゃいけない子だったの?」「どうして、そんな事言うの?」「だって、向こうの家の人に、わたしは唾棄すべき存在だって言われたんだもの。」「そんな・・」 家の外で待っていた遠縁の伯母は、優菜の言葉を聞いて絶句した。愛人の娘である彼女の存在を、正妻の息子である華凛が疎ましがっているのは知っていたが、面と向かって彼女を罵るとは思わなかった。「優菜、気にする事ないわよ。もう、この家の人とは会わない方がいいわ。会っても、酷い言葉を投げつけられるだけよ?」「でも、わたしにとっては半分血が繋がっている兄さんだし・・」「馬鹿ね、もっと自分を大事になさい。さぁ、行くわよ。」伯母に手を引っ張られながら、優菜は正英邸を後にした。「華凛さん、あれは言い過ぎでは・・」「あれくらい言わないと、わたしの気が済みません。先生、後のことはどうぞ宜しくお願いしますね。」「はい、わかりました。」 四十九日の法要を終えた華凛は、波多野に家屋敷の処分を任せ、京都へと発とうとしていた。「華凛さん、向こうでもお元気で。」「はい。先生、力になっていただいてありがとうございました。」「いいえ。脩平さんと暮らしたこの家を離れるのは、辛いですか?」「ええ。少し、一人にしていただけませんか?」「はい、わかりました。」 波多野が去った後、華凛は稽古場へと向かった。目を閉じると、兄とともに稽古をしていた幼少の頃を思い出した。父はいつも稽古の時には厳しかったが、自分と兄を深い愛情で包んでくれた。兄も、自分のことを守ってくれた。だが、その兄も父も、もう居ない。 華凛は目を開け、稽古場を見渡した。「今まで、お世話になりました!」そう言った彼は長年世話になった稽古場に深く一礼すると、思い出が詰まった我が家を後にした。「先生、お元気で。」「また、会いましょうね。」「はい・・」 東京駅まで見送りに来た波多野とホームで華凛がそんな会話を交わしていると、歳介が彼の方へと駆け寄ってきた。「正英、元気でな。」「先生も、お元気で。今までお世話になりました。」 新幹線の発車ベルがホームにけたたましく鳴り響いたので、華凛は波多野と歳介に向かって一礼すると、新幹線へと乗り込んだ。やがて新幹線は静かにホームから離れていった。徐々に遠ざかる東京の街をデッキ越しに眺めながら、華凛は真那美をあやした。―第一部・完―
2013年07月19日
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「な、何なの、あなた方!?」「勝手に入ってくるな!」「うるせぇんだよ、クソ爺!」 突然部屋に乱入した数人の男女達はそう言って吉枝達を威嚇するように睨みつけると、ゆっくりと華凛の前へと立った。「あなた方は、どなたです?」「俺ぁ、あんたの親父に借金をしてたんだよ。その金、ここできっちり耳を揃えて返して貰おうか!」「借金?お幾らですか?」「3000万よ、3000万!こっちだって生活に困ってるのよ、さっさと返してよ!」どう見ても闇金といったいかつい風貌をした男と、水商売風の女は華凛を恫喝した。だが華凛はそれに動じずに、バッグの中から脩平の通帳を取りだした。「ここに、3000万入っています。あなた方がそれで満足するのなら、どうぞ。」「ふん、話がわかるじゃん、あんた。」「それは、脩平さんが華凛ちゃん達の為に貯めていたお金でしょう!?こんな人達に渡すことないわよ、華凛ちゃん!」「うるせぇ、婆、退け!」「誰か、警察呼んで!」吉枝は男に通帳を奪われまいと彼と揉み合いになり、苛立った男は彼女の胸倉を掴んで乱暴に突き飛ばした。「警察呼びましたよ!もうすぐ来ますから!」「クソ・・おい、行くぞ!」畳の上に落ちた通帳を男が拾い上げようとしたのを見た華凛がそれを拾おうとした時、穣が素早く男の顔を拳で殴った。「クソガキ、何しやがる!」「叔父貴の葬式を汚すな、この禿鷹どもっ!これ以上ふざけたことしやがったら、ぶっ殺すぞ!」穣は男達に向かって睨みをきかせると、彼らはすごすごと退散していった。「ありがとう、穣・・」「俺はてめぇに感謝されるおぼえはねぇ。俺は叔父貴に対して恩がある。それを返しただけだ。」いつも仲たがいばかりしている従弟が、自分を助けてくれたことに驚きを隠せなかった華凛だったが、彼に感謝の言葉を述べると、彼は照れ臭そうな顔をしながら部屋から出て行った。「穣ったら、また乱暴な事して・・」「でも、あの子のお蔭であの人達を追い払えたからいいじゃないの。」「そうよ。あの子だって、やる時にはやるじゃないの。」「吉枝さん、いい息子を持ったわね。」「あら、ありがとう・・」 告別式の日、華凛が親族席に座って弔問客に一礼していると、父の訃報を知ったのか、優菜が親族と思しき男性ととともに線香を上げに来た。「この度は、ご愁傷さまでした・・」「ありがとうございます。」母親は違えども、実の兄妹が久しぶりに会ったというのに、交わした会話はその一言だけだった。呆気ないほどの、短い時間だった。「華凛ちゃん、あの子はどないするん?」「あの子は、もううちとは関係ありません。父も亡くなりましたし・・」「そやけどなぁ、脩平さんの遺産を寄越せ言うん違うか?妾の子やけど、権利があるさかいなぁ。」「その事については、弁護士を通してきちんと話していこうと思います。伯母さん、色々と手伝って下さってありがとうございました。」「別に謝ることはあらへん。“親しき仲にも礼儀あり”っていうけど、こんなときに畏まらんでもええ。」「はい・・」 初七日の法要が済んだ後、華凛は弁護士を挟んで優菜と父の遺産のことで話し合うことになった。
2013年07月19日
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脩平の遺体は、離れの仏間に北枕で寝かされていた。「華凛ちゃん、少し休んだら?余り無理すると、倒れてしまうえ?」「ええ、そうします・・」淑子からそう気遣われ、華凛は寝室で少し休むことにした。「なぁ、これからどないなるんやろか?」「義兄さんが亡くなって、華凛ちゃんと赤ん坊の真那美ちゃんだけになっちゃったじゃない?このまま、この家に住むってわけにはいかないわよね。」「そうやなぁ。学校かて、私立やさかい学費がかかるやろう?真那美ちゃんのことで色々とこれからお金がかかるのに・・」 襖を隔てて、淑子達が今後の事をひそひそと話し合っている声を華凛は聞いていた。父が死に、この先この邸で暮らしながら、聖ステファノへと通う事はもう出来ないだろうと、彼はそう思い始めていた。「華凛ちゃん、起きてるか?」「ええ。さっきのお話、聞いてました。ここから、出ていかなければならないんですよね?」「そうや。あんたはまだ未成年やさかい、うちの所か、他の親戚の家に行かなあかんようになる。」「そうですか・・では淑子伯母さん、これから宜しくお願いいたします。」父方の叔母の元へと身を寄せようと最初は思っていたが、穣とひとつ屋根の下で暮らすのは気がひけた。淑子の元に行っても、そこには仲の悪い従妹・和美と暮らすことになるので、居心地の悪さは仕方がないと思うが、こんな状況下で我が儘など言っていられない。「そうか。和美の方からは、うちがちゃんと言い聞かせておくさかい。」「わかりました。そろそろ、お通夜の時間ですね。」華凛はそう言うと、浴衣から喪服に着替えた。 日本舞踊・正英流家元、正英脩平の告別式には、彼と生前親しくしていた政財界の大物政治家や実業家達をはじめ、梨園の者達が参列し、マスコミが取り上げるほど盛大なものとなった。 喪主である華凛は、親族席に座り、弔問客一人一人に頭を下げていた。「華凛ちゃん、若いのにしっかりしてるわねぇ。」「やっぱり、あの子は次期家元にふさわしい器の持ち主やねぇ。」「寿輝さんと祥愛(さちえ)さんが亡くなって、今度は脩平さんまで・・本当は悲しい筈なのに、気丈に振る舞っている姿を見ると、何だかわたしの方が泣けてしまうわ。」吉枝はそう言うと、ハンカチで目元を覆った。「この度はお父様のこと、ご愁傷さまでした。」「ありがとうございます、葛藤先生。」弔問にやってきた斎吾に対し、華凛はそう言って彼に頭を下げた。「あんまり無理しちゃ駄目だよ。君は気丈に振る舞っているけれど、本当はお父さんを亡くして辛い筈だ。」「そうですけど・・わたしが取り乱しでもしたら、周りに迷惑をかけます。それだけは、絶対にしたくないんです。父を静かに、送ってあげたいんです。」「・・厨房は何処?親族席に座れなくても、給仕の手伝いなら僕にもできるよ。」「ありがとうございます、先生。そのお気持ちだけで充分です。」「そう言わないで。甘えたい時は、思いっきり甘えてもいいんだよ?」「はい・・」 弔問客達が帰り、その後寺の境内で漸く華凛たちは遅い夕食を取ることができた。「華凛ちゃん、大丈夫?疲れてない?」「少し、目まいがしましたが、今はもう大丈夫です。」「華凛ちゃん、告別式が終わったら、うちに来る話をじっくりしような?」「はい。」「真那美ちゃんは?」「真那美なら菊さんに見て貰っています。わたしだけでは、どうにも世話が出来ませんから。」「そう。こんなときに女手があるといいわね。華凛ちゃん、ここはわたし達に任せて、一旦家に戻って・・」 吉枝がそう言って華凛を見た時、乱暴に襖が開けられたかと思うと、数人の男女が部屋に入ってきた。
2013年07月19日
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「お父さん、聞こえますか、お父さん!」「華凛か・・」 脩平はゆっくりと目を開けると、そっと華凛の手を握った。「まだ、逝かないでください。あなたには、教えて貰いたいことが沢山あるんです!」「華凛、お前は強くなったな・・」脩平は今にも泣き出しそうな華凛の顔を見ると、そう言ってそっと彼の頭を撫でた。「正英流は、お前に託す。だから・・」「そんな・・まだわたしには、あなたが必要なんです!」「もう、わたしの心臓はもたない・・だから、お前の力で正英流の伝統を守ってくれ・・頼むぞ・・」脩平はそう言うと、再び目を閉じた。「お父さん、しっかりしてください!」 華凛は脩平の心拍が下がっていくのを見て、ナースコールを押した。「下がっていてください!」「お願いです先生、父を助けてください!」「外に出ていてください!」医師や看護師に病室から締め出された華凛は、どうか父の命を助けてくれと、亡き兄に頼んだ。だが数分後、医師は華凛に向かってこういった。「手を尽くしましたが、どうすることもできませんでした。最期に、声を掛けてやってください。」「父は・・もう助からないんですね?」「ええ。」 病室に再び入った華凛は、ベッドに横たわる父の手を握ると、今まで堪えていた涙を流した。「悲しむな、華凛・・わたしは、死んでもお前の傍にいるから・・」「お父さん・・」「先に、兄さんと待っているからな。」脩平は華凛に微笑んで彼の頬を撫でると、眠るように静かに逝った。「先生、ありがとうございました。」「気を落とさないでください。」「はい・・」父の最期を看取った華凛は、ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩き、屋上へと向かった。まだ父の死が実感できずに居る彼は、病院の何処かに父が居るのではないかという錯覚に襲われていた。“華凛。”「お父さん?」ふと父の声がして華凛が周囲を見渡すと、屋上の柵の向こうに、父の姿があった。“こっちへおいで、華凛。”「待って・・すぐ行くから。」華凛は父に微笑んで、柵を乗り越えようとしていた。その時、誰かに腰を掴まれ、強い力で地面のほうへと引き寄せられた。「てめぇ、何してやがる!」「離してください、先生!父が、父がそこに・・」「正気に戻れ!」歳介に平手を食らわされ、華凛は先ほどまで父が居た場所を見たが、そこには誰も居なかった。「父が、死にました。」「現実を受け入れるのは、嫌だろうな・・特に、肉親を亡くした後は。」「本当にさっき、父の姿が見えたんです。」「わかってる・・」「どうして、わたしの周りから次々と親しい人が居なくなるんだろう?最初は母、そして兄夫婦、最後は父・・いつもみんな、わたしを置いて届かない場所へと逝ってしまう!」そう叫んで自分の胸に顔を埋めて泣く華凛の姿に、歳介は総司の姿を重ねた。“どうして、いつもわたしだけ・・どうして!”胸に秘めた思いを吐露する事ができずに、ただ咽び泣くことしかできなかった彼と、今の華凛は良く似ていた。歳介に今できる事は、そっと華凛の背中を擦ってやることだけだった。「正英、お前は一人じゃない。」「先生・・」「俺が居るから、心配するな。」「ありがとう、ございます・・」 乾いた咳が何処からか聞こえて、総太は目を覚ました。ベッドの傍に置いてある時計を見ると、それはまだ午前2時を指していた。一体さっきの咳は誰がしていたのだろうかと訝しがりながらも、彼が再び寝ようとしたとき、また咳が聞こえた。その時、総太は初めて自分が咳をしていることに気づいた。(まさか、そんな・・)もう、結核で命を奪われる事がないと思っていたのに。嫌な予感が、総太の胸を過ぎった。大丈夫だ、この咳は結核なんかじゃない。きっとそうだ、そうに決まっている。 総太は一抹の不安を抱えながら、眠れぬ夜を過ごした。
2013年07月19日
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「土原先生、お久しぶりです。」「あなたは、正英さんの・・」 歳介が院内を散歩していると、突然華凛の父・脩平(しゅうへい)に声を掛けられた。「どうして、病院に?」「少し心臓が悪くて・・先ほど、かかりつけの先生に診てもらったところです。先生は?」「怪我で入院しておりまして・・こんなところでは何ですから、何処か話せるところで・・」数分後、歳介は脩平とともに院内にあるカフェテリアで向かい合わせに座りながら、コーヒーを飲んでいた。「心臓が悪い事は、正英は・・」「華凛は、知りません。あいつは近々行われる襲名披露公演を控えて、色々と神経質になっていますから、余計な心配を掛けさせたくないのです。」「ですが・・」「先生、どうかこの事は秘密にしてください。もうわたしの役目は終わりだと思っております。あとは、若い華凛がわたしの跡を引き継いで、正英流を守ってくれることでしょう。」「正英さん・・」脩平の、何処か死を覚悟しているかのような顔を見た歳介は、彼に何も言えなかった。「いよいよですね、華凛坊ちゃま。」「ああ。」 襲名披露公演を数日後に控えた華凛は、衣桁(いこう)に掛けられた豪華な打掛を眺めながら、感慨に耽っていた。兄・寿輝が死に、彼の遺児である真那美を育てながら学業と家業、そして育児を両立する忙しい日々を過ごしながら、とうとう正英流の次期家元としてデビューする事になると思うと、自然と彼は涙を流していた。「坊ちゃま、今までの苦労が漸く報われる日が来ましたね。」「ああ。菊さんのお蔭だよ。いつも俺を支えてくれて、ありがとう。」「いいえ。わたしは、坊ちゃまを陰からお支えすることしかできませんから・・」「これからも、わたしを助けてね。」「ええ。」父が心臓に爆弾を抱えていることなど知らず、華凛は再び豪華な打掛を見つめた。 数日後、正英流時期家元の襲名披露公演が舞踏会館で開かれ、豪華な衣装を纏った華凛は、優美な舞で観客達を魅了した。「良かったぞ、華凛。」「ありがとう、父さん。」「これでもう、正英流はお前に任せられるな。」「まだまだわたしは半人前です。お父さんの助けがなければ・・」「そうか、そうだな・・まだまだ頑張らないといけないな・・」脩平は苦しそうな表情を浮かべながら、息子に労いの言葉をかけた。襲名披露公演が行われた日の夜に開かれた祝賀パーティーで、彼は倒れた。「お父さん、しっかりしてください!」「ご家族の方は、こちらでお待ちください。」 搬送された病院で、華凛は長椅子に座りながら父の無事を祈った。「正英・・」「土原先生・・父が、父が・・」「お前の親父さんは、心臓が悪かったんだ。でも、お前が次期家元として襲名披露公演を臨むその日まで、言わないでおこうと決めてたんだと。」「どうして・・そんなこと・・」「親父さんは、それほどお前ぇのことを愛していたんだろう。愛しているからこそ、お前に病気のことを隠していた。親父さんの気持ちを、汲んでやれ。」「父が死んだら、わたしはどうすればいいんです?まだ父に教えてもらわなければならないことが、沢山あるのに・・」「親父さんは、もう自分の役目は終わりだと言ってた。お前なら、正英流を守ってくれるだろうってさ。」「お父さん・・」華凛は両手で顔を覆った。「今回は助かりましたが、今度発作が起きたら、命の保障はないと思ってください。」「そうですか・・」「お父様の心臓はかなり弱っていますから、余りストレスをかけないでやってください。」「わかりました。」医師から父の病状を説明された後、集中治療室のベッドに横たわる脩平を見た。その横顔は、何処かやつれて見えた。「土原先生・・」「親父さん、まだ意識は戻らねぇのか?」「ええ。今夜が峠だろうと・・」「正英、親父さんと過ごす時間は余り残されていねぇんだ。お前は一人で何でも張り切って、抱え込み過ぎて、周りが時々見えなくなっているところがある。いい機会だ、この際思い切り親父さんに甘えろ。弱さを全て曝(さら)け出せるのは、親だけだからな。無償の愛を与えてくれるのも、親だけだ。」「先生、ありがとうございました・・」「いいって事よ。父親っていうのは、背中で語るもんだからな。お前は、その親父さんの背中を見て育ってきたんだろ?今度はお前の背中を、姪っ子に見せてやればいい。」「はい・・」 脩平は三ヶ月の入院生活を経て退院したが、公の場に姿を見せる事はなく、自宅で療養生活を送った。「お父さん、どうぞ。」「ありがとう。お前がいれてくれた茶は美味しいな。」「茶道を習った甲斐がありました。」「華凛、忙しいというのに済まないな。」「いいえ。お父さんには少しでも長生きして貰いたいんです。今まで早足で歩いてきた分、これからはゆっくりと歩いていきましょう、わたしと。」「あぁ、そうだな・・」脩平はそう言うと、華凛の手をそっと握った。 彼が二度目の発作を起こしたのは、東京が寒波に襲われた冬のことだった。「父は、どうなるんですか?」「もう・・長くはもたないでしょう。覚悟しておいてください。」
2013年07月18日
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「それで佳織さん、お話って何かしら?」 病院内の食堂でコーヒーを飲みながら、歳介の母・恵理子がそう佳織に尋ねると、彼女は溜息を吐いた後、恵理子の質問にこう答えた。「わたし、どうしても歳介さんと結婚したいんです。お義母様、力を貸してくださいませんか?」「まぁ、そんなことで悩んでいたの。」恵理子は佳織の手をそっと握ると、彼女に微笑んだ。「歳介のことなら心配要らないわ、わたしが何とかするから。」「ありがとうございます、お義母様!」「佳織さん、息子を宜しくね。」「ええ。歳介さんを誰よりも幸せにしますわ。」「あの子、最近失恋したばかりなの。その所為かいつも塞ぎ込んでしまって・・」「そうなんですか・・それは大変ですね。でも、わたしにお任せください。わたしが、歳介さんの失恋した心を癒してさしあげますから。」「お願いするわ。」「任せてください。」 母親と佳織がそんな会話を交わしているとは知らずに、歳介は病室から出て病院内にある売店へと向かった。傷口は完全に塞がったものの、いつ開くかわからないので、余り無理しないようにと医師から言われていたが、一日中ベッドで横になっていては身体が鈍ってしまって仕方がなかった。売店に入った歳介は、煙草を買おうとしたが、病院内が禁煙だということに気づいて舌打ちした。結局店内をウロウロした後、何も買わずに売店から出て行った。(あ~、つまんねぇな。)病院の屋上で歳介は溜息を吐きながら外を眺めていると、不意に屋上のドアが開き、一人の看護師がやって来た。「土原さん、どうして屋上にいらっしゃるんですか?」「気分転換だ。ベッドの中に居ても面白くねぇしな。」「そうですか。余り無理なさらないでくださいね。」「ああ、わかったよ。」看護師とそんな会話を交しながら、歳介は屋上を後にした。「歳介、丁度良かったわ。」「お袋、どうしたんだ?嬉しそうな顔して・・」「嬉しいに決まってるじゃないの。あんたと佳織さんの結婚が決まったんだから。」「俺はあの女とは結婚するつもりはねぇと言ったつもりだぜ?」「あんた、まだあの総太って奴に未練があるの?」「そ、それは・・」「もうあんな奴のことなんか忘れなさい。今回の事は、向こうにも責任があるんだから。」「何だよ、それ・・」 自分が刺されて入院したのは、佳織が総太を襲おうとしたからだ。今回の出来事は佳織に原因があるというのに、恵理子は彼女の肩を持つような言い方をしたので、歳介は少し苛立った。「ねぇ歳介、あんたもう30になるんだから、いい加減身を固めたらどう?あたし達だって、いつまでも元気で居るわけじゃないんだから・・」「早く孫を抱かせてくれってか?悪ぃが、俺はあの女と結婚するつもりなら一生独身を貫いた方がマシだ!」「歳介、待ちなさい!」母の怒声を背に受けながら、歳介は病室に駆け込んだ。「困ったわね、あの子あなたと結婚するくらいなら、一生独身でいるっていうのよ。」「心配なさらないでください、お義母様。わたしに考えがありますから。」佳織はそう言うと、口端を歪めて笑った。 その日の夜、歳介は面会時間を過ぎているというのに懲りもせずに病室にやって来た佳織に対してあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。「てめえ、帰りやがれ。」「そんなに冷たくしないでよ。」佳織はそう言うと、睡眠薬入りの清涼飲料水のペットボトルを歳介に渡した。「これを飲んだら、少しは眠れるわよ?」「ふん・・」歳介は佳織からひったくるようにしてペットボトルを奪うと、素早くキャップを外してその中身を一気に飲み干した。「どう?」「別に・・」急激に睡魔に襲われた歳介は、そのまま深い眠りへと落ちていった。 彼が寝入ったことを確認した佳織は、病室の鍵を内側から掛けると、着ていたワンピースを床に脱ぎ捨て下着姿となって歳介の上に跨った。彼女は歳介の浴衣の裾を捲り上げ、下着を一気に引きおろした後、彼のものを口に含んだ。「う・・」 翌朝、妙な倦怠感に襲われながらも歳介が目を覚ますと、隣には全裸の佳織が寝ていた。「あら、起きちゃった?」「てめぇ、俺に何しやがった?」「別に何も。あなたとのセックスは最高だったわ。」佳織はそう言うと、歳介にしなだれかかった。「好きよ、歳介さん。これからはずっと一緒ね。」「触るな、汚らわしい!」歳介は佳織の頬を平手で打ったが、それで怯む佳織ではなかった。「もう遅いわよ。どのみちあなたはわたしと結婚しなければならない状況に陥るわ。」佳織は素早くワンピースを着ると、病室から出て行った。「あら佳織さん、また来てくださったのね。」「おはようございます、お義母様。歳介さんなら、今起きてきたところです。」「そう。ごめんなさいね、あなたにばかり歳介の看病をさせてしまって。」「いいえ、婚約者として当たり前のことですもの、気にしていませんわ。」 佳織はニコニコと恵理子にそう言った後、病院から去っていった。「もうすぐ、夏が終わるわね・・」
2013年07月18日
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校長から電話があったのは、華凛と図書館で話した日の夜のことだった。『君には、京都の学校に行って貰う。』「そうですか。」『君のような優秀な人材を失うのは惜しいが、向こうでも頑張ってくれよ。』「はい・・では、失礼いたします。」総太はそっと受話器を置くと、深い溜息を吐いて部屋中を見渡した。もう荷造りは終わっており、転居先のアパートも決まっている。後は身の回りの物が詰まったスーツケースを持って向こうに行くだけだ。「坊ちゃま、沖原先生が出発される日は、今日ですね。」「うん・・」「それにしても、酷いですねぇ学校は。沖原先生は何も悪いことをしていないというのに、一方的に責任を負わされて、学校から追い出されて・・」「悔しいよ・・何も出来なかった自分が。」「気を落とさないでくださいませ。」「これから、先生の見送りに行ってくる。」「お気をつけて。」 タクシーで東京駅へと向かった華凛は、急いで新幹線のホームへと向かった。するとそこには、丁度総太が新大阪行きの新幹線へと乗り込むところだった。「来てくれたんだね。」「先生・・お元気で。」「君も、元気でね。どんなことがあっても、負けないで。」「はい!」涙を堪えながら、華凛は総太に笑顔を浮かべた。「じゃぁ、もう行くね。」総太はそっと華凛を抱きしめると、ゆっくりと新幹線へと乗り込んでいった。ほどなくして、発車を告げるベルが鳴った。ドアが閉まり、新幹線がゆっくりとホームから動き出した時、総太の背中が震えていることに華凛は気づいた。(先生、お元気で・・) 次第に遠ざかってゆく新幹線に向かって、華凛は静かに一礼した。東京駅を出た華凛は、その足で歳介が入院している病院へと向かった。受付に歳介の病室を聞き、10階の病棟へと向かうと、華凛は一人の女性とすれ違った。「あなた、歳介さんに何かご用なの?」「ええ、お見舞いに・・」「歳介さんとはどんなご関係なの?」「わたしは土原先生の教え子です。」「そう・・それなら、大丈夫ね。」女性はそう言うと、華凛に背を向けて廊下の角へと消えていった。「土原先生、お邪魔いたします。」「おう、来たか。」「もうお怪我は大丈夫なんですか?」「ああ。忙しい中来てくれて有難うな。」歳介はゆっくりとベッドから起き上がりながら、そう言って華凛を見た。「先生、沖原先生がこれを先生に渡してくれって・・」「総太が?」「はい。沖原先生は、今回の事で、京都の学校に異動することになりました。今朝の新幹線で、発たれました。」「畜生・・」歳介は悔しそうに唇を噛み締めると、華凛の手から封筒を奪った。「じゃぁ、わたしはこれで。」華凛は歳介に一礼すると、病室から出て行った。【歳さんへ、もうこの手紙を読む頃には、もう僕はあなたの傍にはいられなくなっているのかもしれません。今回の事で、僕は納得がいきませんでしたが、誰かが罪人にならなくてはならない理不尽な世に生きているということを実感しました。僕は京都で、新しい生活を送りますから、歳さんはどうぞお元気で。僕の代わりに、可愛い生徒達を守ってください。 総太より】「馬鹿野郎、こんな手紙寄越しやがって・・俺が、どんな気持ちでこれを読んでいるのか、知らねぇ癖に!」総太の手紙を握り潰しながら、歳介は彼を守れなかった自分に対して怒りを抱いた。「土原さん、さっきの方、土原さんの生徒なんですって?」「それがどうした、お前ぇに関係あんのか?」「いえ・・」「用がねぇならさっさとここから出て行け。」佳織はしゅんとした顔をしながら、病室から出て行った。(どうして、わたくしはあの人に愛されないのかしら?) 自分の所為で歳介が恋人を失ったというのに、佳織はその事に罪悪感を抱くことがなかった。寧ろ、何故歳介に疎まれているのか、わからなかった。「あら、佳織さん。」「お義母様。」「今日も歳介のお見舞いに来てくれたの?」「ええ。でも追い出されてしまいました。」「あら、困ったわね。お昼まだなのよ、宜しかったらご一緒しないこと?」「わかりました。」 歳介の母と病院内にある食堂へと向かうと、歳介の心を掴むためには彼の母親に接近するのが一番の近道だと佳織は考え、歳介の母にそう答えた後、彼女と共に食堂の中へと入っていった。「お義母様、お願いがあるのですけれど・・」「何かしら?あなたのお願いなら、いくらでも聞くわよ?」
2013年07月17日
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『ごめんね、こんな時間に電話して。』「いえ・・先生、どうしたんですか?」『夕方、土原先生が入院したって言ったでしょう?実はね、土原先生は僕を庇って女の人に刺されたんだよ。』「それ、本当ですか?」『本当。土原先生のご両親には、その事は伝えなかったけど、僕が先生とお付き合いしていることを、正直に話したよ。』「そうですか・・」総太と歳介が恋人同士であることを、華凛は知っていた。『まぁ、あちらのご両親からは拒絶されたからね。当たり前だよね・・』「気を落とさないでください、先生。」『ありがとう、そう言ってくれるのは正英君だけだよ。詳しい話は明日、学校で話そうと思うんだけど、いいかな?』「ええ、大丈夫ですよ。」『そう、じゃぁ明日学校で。』総太にお休みなさいと言って携帯を閉じた華凛は、再び目を閉じて眠った。 翌日、華凛は総太と学院内にある図書館で会った。「お話って、なんですか?」「実はね、僕は新学期が始まる前にここを去るかもしれないんだ。」「え・・」余りにも突然のことで、華凛は思わず椅子から身を乗り出してしまった。「今回の事で、校長先生達が責任には僕にあるって一方的に決めつけていて・・まぁ、現に土原先生は僕を庇って刺されたんだから、仕方ないよね。」「おかしいです、そんなの!本当に悪いのは、土原先生を刺した人じゃないですか!それなのに、どうして・・」華凛が抗議の声を上げると、二人のテーブルに居た他の利用者達が迷惑そうな顔をした。「僕だって、納得いかないよ。でもね、世の中にはどう足掻いても変えられない、理不尽なものが罷り通っていることがあるんだよ。君が間違っていると声高に叫んでも、現実は何も変わりはしない。」総太はどこか諦めたかのような笑みを浮かべながら、そっと華凛の手を握った。「・・先生は、この学院を去ることに、未練はないんですか?」「ないって言ったら嘘になる。ここで君と、土方さんに会えたから・・君が卒業するその日まで、ずっと君の事を見守ってやりたかったけど、それは無理みたいだ。」総太の琥珀色の双眸が、憂いを帯びていることに華凛は気づいた。「君とは、二度と会えないと思っていたけれど、縁って本当にあるんだね。昔は敵同士だった僕達が、今の世ではこうして仲良く暮らしている。すごいことだと思わない?」「そうですね・・」華凛は、泣くのをグッと堪えて唇を噛んだ。「何処に、行かれるんですか?」「それはまだわからない。けど、二度とここには戻って来られないと思う。」総太はそう言うと、そっと華凛の手に何かを握らせた。それは、彼が住んでいるマンションの鍵だった。「これ、土方さんに・・土原先生に渡しておいて。彼が目覚める時、僕はもうあの人の隣には居ないだろうから。あと、これも。」総太は上着の胸ポケットから一枚の封筒を出すと、それを華凛に手渡した。「いつ、発たれるんですか?」「明後日。今夜あたりに、校長から連絡があると思う。まぁ、もう彼らは僕を何処に飛ばすのか決めているのだろうけどね。」「沖原先生、こんなの悲し過ぎます・・」華凛は、ハンカチで乱暴に涙を拭った。何故総太は悪くないのに、学校を追われなければならないのか。華凛は一方的に彼を悪者にしようとする校長に怒鳴りこんでやろうかと一瞬思ったが、やめた。「先生、先生と一緒に居られる時間は短かったけど、楽しかったです。」「僕もだよ。」「これ、わたしだと思って持っていてください。」華凛はそう言うと、髪に挿していた簪を抜いて、総太にそれを手渡した。「ありがとう、大事にするね。」自分に向けられた総太の笑顔は、太陽のように眩しかった。
2013年07月17日
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「沖原先生、お久しぶりです。」「正英君、久しぶり。今日は何かの帰りなの?」「ええ、夏祭りで踊りの発表会が終わった後、お弟子さん達でご飯を食べようって、ここに来たんです。先生は?」「家で一人でご飯を食べるのが嫌だから、賑やかな所で食べようと思ってね。土原さんが、入院しているし。」「土原先生、入院されているんですか?」「うん、色々あってね・・」総太はそう言うと、気まずそうに華凛から離れていった。「先生、さっき話していらっしゃった方、どなたですか?」「わたしが通っている学校の先生です。それよりも皆さん、今日はお疲れ様でした!」「先生、これからもご指導、宜しくお願いいたしますね。」華凛はお弟子さん達とファミレスで楽しく夕食をとった後、彼らとファミレスの前で別れた。「先生、さようなら!」「さようなら。」華凛は夕闇に包まれた街の中を歩きながら、総太が何故自分を避けているのかがわからずにいた。彼は、土原が入院したとだけ言ったが、詳細がわからないので、怪我か病気で入院したのかどうかさえわからなかった。見舞いに行くにしても、土原の容態がわからないので暫くは控えた方が良さそうだ。「正英さん?」 あと少しで自宅に着くといった距離で、華凛は突然背後から声を掛けられた。彼が振り向くと、そこにはスーツ姿の男が立っていた。「あの、どちら様でしょうか?」「初めまして、わたしはこういう者です。」男はそう言うと、華凛に一枚の名刺を手渡した。そこには、“月刊日報 下山勝哉”と印刷されていた。「記者の方が、わたしに何のご用でしょうか?」「君のお母さん・・百合子さんは、7年前に自殺したよね?でも、その死には幾つかの謎がある。」「母は、自殺ではないと言いたいんですか?」「それは、僕が勝手にそう思ってるだけだ。そこで、百合子さんの息子である君に直接話を聞きたいと思って、君を追ってきたんだ。」「そうですか・・何しろ、わたしは母が死んだ時まだ8歳だったので、詳しく憶えているのかどうかわかりません・・」「そう。じゃぁ、何か思い出したらここに書かれている携帯の番号に連絡をくれ。待ってるから。」 一方的に下山勝哉は華凛をそう言うと、その場から去っていった。「坊ちゃま、お帰りなさいませ。」「ただいま。」「そのお顔だと、夏祭りは大成功だったようですね?」「ああ。それよりも、高橋さんが色々と言ってきたが、無視したよ。」「高橋さんというと・・この前、こちらにいらしていた方ですね?」「ああ。菊さん、あの人から何を言われても無視して。」「わかりました。それよりもご夕飯はもうお済みでしょうから、デザートに羊羹(ようかん)をご用意しております。」「ありがとう。」「いえいえ、わたくしはこんな事しかできませんから。」菊は少し照れ臭そうに笑うと、部屋の奥へと引っ込んでいった。“百合子さんは、7年前に自殺したよね?でも、その死には幾つかの謎がある。” 深夜、寝返りを打ちながら、華凛は何度も下山の言葉を思い出していた。彼には母が死んだ時のことを詳しく憶えていないと言ったが、あれは嘘だ。華凛は、母の死体を最初に発見したのだから。 その日、学校から帰った彼は、母の姿が見えないことを不審に思い、離れへと向かった。そこには、亡くなった華凛の祖母の部屋があり、現在は仏間となっていた。縁側に母が愛用している草履を見つけたので、華凛は靴を脱いでそっと仏間の襖を開いた。「お母さん?」 襖を開けると、そこには天井の梁からぶら下がっている母の遺体があった。目は血走り、結い上げた黒髪はおどろに乱れ、弛緩した筋肉により溢れ出た排泄物や体液が凄まじい悪臭を放っていた。華凛は母の惨たらしい姿を目撃し、恐怖の所為で一瞬硬直していたが、我に返ると彼は悲鳴を上げながら仏間から飛び出した。「どうなさったのですか、坊ちゃん?」「菊さん、お母さんが、お母さんが・・」震える指で仏間を指しながら、華凛はそう言うと菊に抱きついた。「大丈夫ですよ、坊ちゃん・・菊がついておりますからね。」菊は華凛の震えが止まるまで、そっと背中を撫でてくれた。やがて彼女の通報により警察が邸に到着し、周囲は騒然となった。華凛は、菊に付き添って貰いながら、警官の聴取を受けた。「百合子さんが、自殺だなんて・・」「えらいこっちゃ・・」「あの女の所為や、あの泥棒猫が、百合子を追い詰めたのよ。」 告別式の席で父方、母方の親族が百合子が自殺した原因をあれこれ言い合っているのを襖越しに聞きながら、華凛はこれからどうなるのだろうかと不安を抱いていた。「華凛、こんなところにいたのか。」急に視界が暗くなったかと思うと、いつの間にか華凛の前には兄・寿輝が立っていた。「父さんが探してたぞ、行こう。」「うん・・」兄の手を握りながら、これからは父と兄、三人で支えあいながら暮らしていこうと思ったのだった。 母の死から7年が経っても、未だに母が死んだ時のことがふと脳裏に浮かび、そして何故母の自殺を止められなかったのかと、華凛は自分を責め続けていたのだった。 深夜2時過ぎ、突然枕元に置いていた携帯が鳴り、華凛が液晶画面を見ると、そこには“沖原先生”と表示されていた。(沖原先生、こんな時間に一体何の用だろう?) 華凛は総太からの着信を訝しがりながらも、通話ボタンを押して携帯を耳に押し当てた。
2013年07月17日
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「本日の稽古は、ここまでにいたしましょう。」「先生、ありがとうございました。」 東京へと戻った華凛は、いつものようにお弟子さん達に稽古をつけていた。「先生、夏祭りはどうなさるんですか?」「そうですねぇ、うちは参加しないことにしたんですが、自治会の方達がどうしてもと頼まれてしまいましたので、夏祭りに発表会をすることになりました。」「夏祭りまであと2週間ですよね?間に合うかしら?」「大丈夫、皆さん筋がいいですから、無理しないようにご自宅で練習しておいてくださいね。では、あちらでお茶でも・・」「はい、お言葉に甘えさせていただきます。」 数分後、茶室でお弟子さん達と華凛が午後のティータイムを楽しんでいると、インターホンが鳴った。「坊ちゃま、基山さんがいらっしゃいました。」「そう。皆さん、少々お待ちください。」お弟子さん達にそう言うと、華凛は茶室から出て、玄関へと向かった。「こんにちは。」「基山さん、ようこそいらっしゃいました。丁度お茶の時間ですので、よろしかったらどうぞ。」「いえ・・夏祭りのことで、少しお話したいことが・・」「お話したいこと?」「込み入った話なので、余り大勢の方の前でお話しするのはどうかと・・」「そうですか。では、わたしの部屋ではどうでしょうか?」華凛がそう言って基山を見ると、彼女は安堵の表情を浮かべた。「では、こちらへ。」「お邪魔いたします。」 華凛は基山を自室に通すと、彼女と向かい合うような形で座布団の上に腰を下ろした。「それで?お話とは何でしょうか?」「実は・・夏祭りのことで、わたしが住む地域で揉め事が・・」「揉め事、といいますと?」「夏祭りの参加を巡って、ある方が正英さんの参加を認めないと言い張って・・その理由が、自分の子どものお受験に協力しないからといって・・」「ああ、あの方ですか・・」華凛の脳裏に、子供向けの教室を作って貰えないかということを自分に聞いた母親の顔が浮かんだ。「他の方は、何とおっしゃっているんですか?」「その方以外は、全員正英さんの参加に賛成しています。それよりも正英さんが住まれておられる地域と、わたし達が住む地域で、諍いが起こらなければいいのですが・・」「そんな事はないでしょう。」「そうでしょうか・・」基山は不安げな表情を浮かべながらも、正英邸を後にした。「もうすぐですね、夏祭り。」「ああ。これから、忙しくなるな。」「余り無理なさらないでください。」「わかってる。」 2週間後、華凛達が住む地域にある公民館の中庭で、夏祭りが開かれた。会場には食べ物の屋台などが出て、賑わいを見せていた。「先生、緊張してしまいます・・」「大丈夫ですよ。皆さん、自信を持ってください。」『それでは、正英流の皆さんによる、納涼の舞です。』司会者の挨拶で、煌びやかな衣装を纏った華凛達が舞台に上がると、新興住宅地に住む母親グループが、鬼の形相を浮かべながら彼を睨みつけた。だがそんな事に臆することなく、華凛は静かに踊り始めた。華凛の舞が始まった途端、それまでざわついていた会場が、急に水を打ったかのようにシンと静まり返った。「先生、上手くできました!」「先生のご指導のお蔭です!」 滞りなく舞台が終わった後、舞台袖で生徒達がそう言って華凛に礼を述べていると、彼はゆっくりと首を横に振った。「いいえ、皆さんの努力の賜物です。これからも精進いたしましょう。」「はい。」「随分といい気なものね、あれだけ出るなと言ったのに。」華凛の背後で冷たい声が聞こえて彼が振り向くと、そこにはあの母親グループのリーダー格・高橋が数人の取り巻きたちを従えて立っていた。「あら、わたしの参加は既に決まっていたことです。あなたが気に入らないからといって、辞退することなどありえません。」「まぁ、生意気な口を利くのねぇ。そんなに次期家元様はお偉いのかしら?」「あなたこそ、一体何の権利があってわたし達を参加させるなと言い張ったんですか?個人的な恨みを晴らしたいのなら、このような卑怯な手を使わなくてもいいでしょう?」「あなた、うちの子が受験に失敗したらどう責任を取ってくださるの?」「わたしがいつ、あなたのお子さんの受験に協力すると言いましたか?一方的にそちらがわたしを逆恨みするようなことは、やめてください。親として、見苦しい姿を見せない方がよろしいですよ。」高橋は華凛の言葉を聞いた途端、怒りで顔を赤くし、華凛達に背を向けて会場から出て行った。「先生・・」「あなた達は何も心配しなくてもいいのですよ。さぁ皆さん、暑い中お疲れでしょう?今夜はわたしが奢りますから、何処か食べに行きましょうか?」「本当に、いいんですか?」「ええ。ただし、余り高い店には行けませんけど・・」「ファミレスでも構いませんよ。先生の奢りなら!」「それじゃぁ、行きましょう!」 夏祭りが終わった後、華凛はお弟子さん達を連れて国道沿いにあるファミレスへと向かった。そこで彼は、意外な人物と再会した。
2013年07月16日
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自宅へと戻ると、総太は溜息を吐きながらリビングのソファに腰を下ろした。“お前と母さんには仲直りして欲しいんだよ。”総太の脳裏に、勝次郎の言葉が突如浮かんだ。 母・知美とは、物心ついた頃から軋轢があった。何故か知美は、二人の姉達には優しかったが、総太を冷遇した。まだ父方の祖母が存命中だった頃、知美が些細な理由で姑と激しく口論しているのを何度も目撃したことがある。 夫を早くに喪い、女手ひとつで父を育て上げてきた祖母にとって、嫁は自分と息子の縄張りに入ってきた、“余所者”でしかなかった。知美と祖母の激しい罵り合いを聞きながら、総太や姉達は“またか”という顔をしつつも、学校の宿題をしたり、友達と遊んだりしていた。 嫁姑問題に関して、父は何も言わなかった。知美と祖母によって家庭内の空気はギスギスし、結局総太が中学1年の頃に祖母が亡くなるまで、彼や姉達にとって家は、“安らげる場所”ではなかった。 祖母の死後、知美の性格が丸くなることはなく、始終子供達に向かって怒鳴り散らしていた。「総太、走る音がうるさい!」「早く寝なさい!」「まだ宿題終わってないの!?」知美にヒステリックに怒鳴られるのはいつも総太で、姉達に向かって彼女が一度も怒鳴ったことなど見たことがなかった。一体何故、自分だけが知美に冷遇されているのか―そんな疑問を抱き始めた頃、父が自分の部屋に総太を呼んで、こう言った。「母さんがお前に冷たくするのはな、お祖母ちゃんの所為なんだよ。」「それ、どういう意味?」「お祖母ちゃんは、お前が産まれた時に、母さんにこう言ったんだ。“これで嫁の務めを果たせたね、ご苦労様”ってね。」産後間もない母親に向かって言うのは、酷な言葉だ。姉二人を産んだ時、祖母は知美に向かって何を言ったのか、総太は容易に想像できた。「お祖母ちゃんはいつも母さんにお前の躾について口出しをした。母さんはあんな性格だから、いつも罵り合っていたんだ・・あの二人は。」「そう・・」父の話は、総太にとって納得がいかないものだった。 中学を卒業し、総太は寄宿制の高校へと進学し、それ以来実家から遠ざかっていった。自分の家は、普通じゃない―そう思い始めた彼は、母の元から離れたかった。『総太、どうして家に帰って来ないの?お姉ちゃんの結婚がもうじき決まるっていうのに。』「そんなこと言われても、今は忙しいんだよ。もう切るね。」『待ちなさい、総太!』家の電話番号を着信拒否に設定して携帯の電源を切った総太は、机に座って勉強を再開した。 高校に入ってから、総太は卒業するまで一度も実家に戻らなかった。それは、大学の時も同じだった。母にとって、自分の存在は何だったのだろうか。祖母に見栄を張る為の道具だったのか。待望の一人息子に、自分の未来を託そうとしたのか。それとも、母は―そんなことを考えていると、突然リビングの電話がけたたましく鳴った。弾かれたようにソファから立ち上がった総太は、素早く電話を取った。「もしもし、土原です。」『あら、すっかり奥さんみたいに振る舞っちゃって。』「佳織さん・・」『今から会えない?』「あなたとは、お話しすることはありません。」総太は胸がざわつくのを感じながら、受話器を置いた。
2013年07月15日
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「おい総太、どういうことだ?」「彼女、僕に土原さんと別れろって言ってきたんですよ。勿論、断りましたけど。そうですよね、佳織さん?」総太がそう言って佳織を見ると、彼女は憎悪に満ちた視線を彼に送った。「しつこい奴だな、あんたも。」「あなたはわたしの運命の人なの、簡単に諦めるわけ、ないじゃないの!」美しい顔を醜く歪ませた佳織に、歳介はそっぽを向いた。「もう帰るぞ。」「は、はい・・」車へと乗ろうとする二人の方へと佳織は突進すると、バッグからナイフを取り出してそれを総太の頭上に振り翳した。「危ない!」 一瞬、何が起こったのかわからなかった。「歳介・・さん?」いきなり誰かに突き飛ばされたかと思うと、自分の上には歳介が覆い被さっていることに、総太は気づいた。「誰か、警察呼べ!」「嫌よ、触らないで~!」男達の怒号と、佳織の金切り声で、頭が割れるように痛い。「歳さん、大丈夫ですか?」「ああ・・こんなもん、大したことねぇよ・・」歳介はそう言って笑っていたが、彼の腹には深々とナイフが突き刺さっていた。「誰か、救急車!」「総太、俺は大丈夫だから、心配するな・・」「でも・・」「こんな傷で、俺は死にゃしねぇよ・・」歳介はナイフが刺さった腹部に手を当てながら、意識が徐々に遠のいていくのを感じた。目の前に立っている総太が、涙で顔を濡らしながら必死に自分に何かを呼びかけている。その背後では、ナイフを振り回す佳織を取り押さえる教職員の姿が見えた。「この裏切り者~!」 病院に搬送された歳介は一命を取り留めたが、意識はまだ戻らないままだった。「歳さん・・」総太は集中治療室のガラス越しに、酸素マスクをつけられた歳介の姿を見ながら涙ぐんだ。彼は、自分を守ろうとしてこんな目に遭ったのだ。「トシ、トシ!」廊下から数人分の慌しい足音が聞こえたかと思うと、総太の前に夫婦と思しき一組の男女が現れた。「トシ、どうしてこんなことに!」「一体何があったんだ!?」ガラスを平手でたたきながら、最愛の息子の身に何があったのかがわからずに、彼らはそんなことを言いながら泣き叫んだ。「あの・・」総太が彼らに声を掛けると、妻らしき女性がゆっくりと彼の方を振り向いた。「あなたは?」「初めまして、僕は沖原総太と申します。歳・・歳介さんと同じ学校に勤めております。」「ねぇ、トシはどうして、こんな所に居るの!?一体何があったの!?」「実は・・駐車場へと向かうとき、通り魔に襲われそうになった僕を、土原さんが助けてくださいました。」佳織にしつこく歳介がつきまとわれていたこと、そして総太との関係を彼女が勘付いて殺そうとしたことを伏せながら、総太はそう歳介の両親に事件の経緯を説明した。「沖原さん、とおっしゃいましたよね?失礼ですが、うちの息子とは一体どういうご関係で?」母親からそう聞かれた時、総太は覚悟を決めて彼女の質問にこう答えた。「実は・・息子さんと、お付き合いしています。」 その言葉を聞いた瞬間、歳介の母親はショックを受けて泣き崩れた。「そんな・・なんてこと・・」「大丈夫ですか、お義母様?」床に蹲り泣き崩れる彼女を抱き起こそうとした総太だったが、彼女はそんな彼の手を邪険に振り払った。「触らないで、汚らわしい!あなたの顔など二度と見たくないわ、さっさとここから出て行って!」「ですが・・」「申し訳ないが、妻は今混乱しているのです。暫く、そっとしておいてくださいませんか?」歳介の父親が慌てて妻を抱き起こして総太にそう言ったが、彼に対して妻同様、嫌悪の視線を向けていた。「わかりました・・これで、失礼いたします。」総太は歳介の両親に向かって頭を下げると、病院から出て行った。(歳さんのご両親が僕達のこと、認めてくださらないことくらいわかってた。けど・・) いずれ歳介の両親にも、自分の両親にも二人の関係が知られることとなるのは時間の問題だと思っていた。その上で覚悟して、総太は歳介の両親に自分達の関係を打ち明けた。侮蔑と嫌悪が入り混じった視線を彼らに送られ、何故か総太は自分がとてつもなく汚らわしい存在に思えてきてしまった。歳介と居るときは、こんなことは一度もなかったのに。 総太が意気消沈しながら病院から出てタクシー乗り場へと向かっていると、一人の男が彼に近づいた。「総太、久しぶりだな。」「父さん・・」「お前、ここへは何しに来た?」「何しにって・・同僚のお見舞いに来たんだよ。父さんは?」「俺は母さんの見舞いに来たんだ。」「母さんの?」父・勝次郎の言葉を受け、総太の琥珀色の目が大きく見開かれた。「母さん、ここに入院してるの?」「何だ、知らなかったのか?あいつはもう、癌で余命いくばくもないんだ。お前、今まで知らなかったのか?」勝次郎はそう言うと、総太の肩を叩いた。「お前と母さんとの間には、蟠りがあることを俺は知ってるぞ。だからこそ、お前と母さんには仲直りして欲しいんだよ。」「無理だよ、そんなの!」 父の手を振り払い、総太は丁度やって来たタクシーに乗り込んだ。
2013年07月13日
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「たかくん、どうして万引きなんかしたの!」「母さん、ごめん・・」彼女は事務所に入るなり、そう言って俯く生徒の頬を平手で打った。「まったく、こんなことが公になったら、パパの選挙にどんな影響を与えるのか、あなたは考えたことがないの!?」「お母さん、落ち着いてください。たかし君は自分の罪をちゃんと認めていますし・・」「まさか、警察に連絡するんじゃないんでしょうね?」「ええ。どんな物を盗んだにせよ、窃盗罪には変わりありません。」「やめてください、もうすぐ主人が選挙を控えているんですよ!こんな事が公になりにでもしたら、後援会の皆さんや、主人を推してくださった先生方の顔に泥を塗るようなものだわ!」「お母さん、あなた方の事情は知ったこっちゃないですよ。今大事なのは、ここで悪事を見逃したら、息子さんは懲りずに万引きを繰り返すということです。数学の方程式で一度間違った解き方を教えられるのと同じで、『お前は政治家の息子なんだから、何をしても許される』と、あなたは今息子さんにそう教えているのと同じことなんですよ、わかりますか?」歳介の言葉に、母親は俯いた。結局、生徒達は警察に連行された。「この度は、本校の生徒がこちらに多大なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません。」「お宅の学校はこの辺りじゃぁ名門校と伺っていますけれど、あんな事件が起きるし、今度は不祥事まで・・堕ちたものですなぁ。」スーパーの店長がそう言ってバカにしたような目で歳介を見た後、事務所から出て行った。「よく我慢しましたね。昔のあなたならあんな事言われて、すぐに相手を殴りかかってたのに。」「俺ぁもう青臭い中坊のガキじゃねぇんだ、バカにすんな。」「はいはい、わかりましたよ。それよりもお昼まだですよね?あそこでスタミナでもつけません?」そう言って総太が指したのは、牛丼屋だった。「つくづく、俺は教師に向いてねぇって思うんだよな。」「まぁ、人には向き、不向きがありますからねぇ。僕だって、教師になるとしたら小学校の先生になりたかったんですよ、本当は。でも、大学の時、小学校へ教育実習に行ってる同じゼミの子が実態を話してくれて、止めようかなと思ったんですよ。」「実態?」「ええ。なんでも、今じゃ子供達の方が先生より偉いそうで、授業中に塾の宿題をしているのを先生が注意しても、“お前の教え方が悪いからだ”と生意気なことを言う子が居るんですって。まぁ、大抵そんな子の保護者も、少し変わってるっていうか・・」「少子化が進んできて、威厳があるべき学校の先生が、今じゃ子供を殿様扱いするのか・・嘆かわしい現状だよ、まったく。」二杯目の麦茶を飲みながら、歳介はそう言って溜息を吐いた。「それよりも土原さん、昼休みの前に佳織さんって方が僕に会いに来ましたよ。」「ああ、あの女はしつこいんだよ。こっちにはその気がないってのに・・」「ちゃんとお断りしたんですよね?それなのに、どうして土原さんにつきまとうんでしょうね?」「そんなの知るかよ。俺は超能力者じゃねぇんだ。」 二人が学校に戻ったのは、午後2時過ぎだった。「今日は色々と大変でしたねぇ。」「お前、口動かしてねぇでちったぁ手を動かせ、手を!」「はいはい、わかりましたよ。あ~あ、うるさいなぁ。」職員室で歳介にそう言いながら、総太は溜まっていた仕事を再開した。「これ、家に持ち帰って仕上げないと無理ですね。」「まぁ、そうした方がいいだろう。個人情報が詰まったパソコン、絶対に失くすんじゃねぇぞ。」「わかりましたよ。さぁ土原さん、帰りましょう!」 夕暮れ時、駐車場へと向かう二人の前に、佳織が現れた。「話が違うじゃないの、沖原さん。土原さんと別れてくださるんじゃなかったの?」
2013年07月13日
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総太は、一体彼女が何を言っているのかが、わからなかった。「あの、別れて欲しいとは、どういうことですか?」「言葉通りです。わたしは、あなたの恋人と結婚する気でいるのです。」日傘に隠れて表情が良く見えなかったものの、そう総太に告げる佳織の声は、落ち着いたものだった。「たった一度会っただけで、結婚を決めるだなんて・・変な人ですね、あなたって。」これは佳織の、自分に対する宣戦布告だと思った総太は、そう言って彼女を睨んだ。すると、彼女もそれに臆することなく総太を睨み返してきた。「わたし、あなたから土原さんを奪うことに決めました。」「申し訳ないですけど、僕はあなたに土原さんを渡したくありません。それじゃぁ、仕事があるので失礼。」 職員室へと戻った総太は、溜息を吐くと仕事へと戻った。「沖原先生、どうぞ。」「ありがとう。」昼休み、机の前に冷たい麦茶が入ったグラスを事務員の里田舞子が総太の机の前に置いたので、彼はそう言って舞子に微笑んだ。「今日も暑いですね。」「ええ。ここや教室はクーラーが入っているからいいんですけど、道場や体育館は蒸し風呂状態でしょう?熱中症にならないようにこまめに水分補給するように生徒達に言ってるんですけど、顧問である僕達がつい生徒の指導に熱が入って、忘れてしまうことがあるんですよぉ。」「そうなんですか。先生達も、夏休みだっていうのに大変ですね?」「まぁ、夏休みや冬休みといった長期休暇中は、トラブルが頻発しますから。最近じゃぁ、中高生相手にドラッグを売りつける輩も居ますからねぇ。」「わざわざ繁華街に行かなくても、最近はインターネットで買えますからね。ホント、便利になったのか、不便になっているのかわからないわ。」舞子がそう言って溜息を吐いたとき、内線電話が鳴り響いた。「はい、聖ステファノ学院高等部です。」『お宅は一体生徒達にどういう教育をしているんだ!』受話器越しに怒鳴られ、総太は思わず顔を顰めた。心配そうに自分を見ている舞子に対し、総太は大丈夫だというように彼女に笑みを浮かべた。「落ち着いてください、わたくしどもの生徒が、一体何をなさったんでしょうか?まずは、あなたがどちら様なのか、お名前をおっしゃってくださらないと、こちらとしても対応できませんので・・」あくまで冷静に、且つ低姿勢に電話の相手に向かってそう言いながら、総太はメモ帳に電話の相手の氏名と住所を控えた。「はい、後日ご自宅の方まで伺いますので・・はい、失礼いたします。」「どんな電話だったんですか?」「何でも、うちの生徒が近くのスーパーで万引きしたって、店長さんから電話があったんだよねぇ。里田さん、申し訳ないけど土原先生を呼んで貰えないかな?たぶん、道場に居ると思うから。」「わかりました。」 舞子が道場へと向かうと、総太の言葉通り、そこには剣道部の部員達を指導している歳介の姿があった。彼女が歳介に声を掛けようとしたとき、ワンピースを着た女性が彼の方へと駆け寄ってきた。「何だ、またあんたか?」「土原さん、今度こそあなたのお答えを・・」「職場にまで押しかけてくるたぁ、非常識な女だな、あんたって。俺は忙しいんだ、お前を相手にしているほど、暇じゃねぇんだよ。」歳介は女性にそう言うと、舞子に気づいて彼女に声を掛けた。「どうした?」「沖原先生がお呼びです。何やら、生徒がトラブルを起こしたようでして・・」「わかった、すぐ行く。」舞子が歳介と道場を後にする際、鬼のような形相を浮かべながら女性が自分を睨みつけていることに気づいた。「総太、トラブルってどういうことだ?」「実は・・さっきスーパーの店長さんから電話がありまして・・何でも、うちの生徒がそこで万引きをしたとか。」「万引きだと!?すぐにスーパーへ向かって、事実を確認しねぇとな。」「僕が運転しますよ。今のあなたは頭の血が上っているでしょうし。」「済まねぇな・・」 数分後、駐車場に車を停めた二人は、すぐさまスーパーの事務所へと向かった。そこには、制服姿の数人の生徒達が深く項垂れたままパイプ椅子に腰を下ろしていた。「お電話いただきました、この子達の担任の土原と、副担任の沖原です。うちの生徒達が万引きしたというのは本当ですか?」「ええ。三人ともこれを堂々と外へと持って行こうとしてましたよ。」三人の生徒達が万引きしたものは、消しゴムやノートなど、100円未満の文房具類だった。「てめぇら、自分が何したのかわかってんのか!?」「すいません・・」「警察には連絡しましたか?」「いいえ、親御さんの方には連絡しましたが、こちらにお任せしますとだけ・・」「ったく、責任放棄も甚だしいな。権利ばかり主張しやがる癖に、面倒なことは全て学校に押し付けるってか・・」歳介はそう言って舌打ちしながら、前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。「少し生徒達と話がしたいので、席を外していただけませんか?」「ええ。」 店長が事務所から出て行くと、歳介は生徒達をジロリと睨みつけた。「大した物じゃぇねぇとタカをくくって盗んだのかもしれねぇが、人様の物を盗むのは、立派な犯罪だ!てめぇらは、警察にしょっぴかれても文句は言えねぇからな!」「そんな・・じゃぁ僕達の将来はどうなるんですか?」「お前ぇは、てめぇの将来を自分で潰しちまったんだ!」「そんな・・」歳介の言葉を聞きショックを受け蒼褪めた生徒の背後で事務所のドアが開いたかと思うと、彼の母親と思しき女性が慌てふためいた様子で入ってきた。
2013年07月13日
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「毎日こう暑いと、気が滅入っちゃいますよねぇ。」「そうだなあ・・」 盆休みに入り、梅雨明けとともに日本全国を襲った熱波は、その勢いを日に日に増してゆくばかりだった。 歳介と総太は、額の汗をハンカチで拭いながら、蝉時雨の中を歩いた。「あ~、疲れたぁ。」「まだ仕事してねぇってのにそんなこと抜かしてんじゃねぇよ。」「職員室に入ってクーラーが効いてると、蒸し風呂状態の体育館に行くのは気がひけるなぁ。」「ったく、しょうがねぇなぁ。俺が部活を指導するから、お前ぇは職員室でデスクワークでもしとけ!」「ありがとうございます、助かります~」総太は悪びれもせずにそう言って歳介に笑うと、ノートパソコンの電源を入れた。 一方、新千歳空港では、華凛と高史が東京に帰る前に空港内にあるカフェでコーヒーを飲みながら前世の話をしていた。「漸く君の事を思い出したよ、英人。」「何処で、わたしの事を思い出してくれたんですか?」「五稜郭で。何だか、自然に五稜郭へと足が向いたんだ。そしたら、急に思い出したんだよ・・前世でお世話になった、土方さんの最期を。」「土方さんの?」「ああ。あの人は、今何をしておられるんだろうか?」「実は、土方さんはわたしが通っている学校で教師をしているんです。」「そうなのか・・一度、お会いしてみたいな。」「高史さん・・これから、どうしますか?珠洲城さんにわたし達の関係を知られてしまった以上、いずれあの人の耳にも届くことでしょう・・」「桂さん・・橘さんのことか・・」「ええ。いつも学校の中で会うのですから、気まずいだろうなと・・」「大丈夫だよ、珠洲城さんは公私の区別をきちんと弁えていらっしゃる方なんだろ?私情を挟んで君に嫌がらせをするような人ではないよ。」「そうですね・・」高史の言葉に励まされながらも、華凛は一抹の不安を抱いていた。 もし彼との関係が公になってしまったら、鈴久家に傷をつけてしまうのではないか。「僕の事は心配しなくていい。鈴久の家には、何の未練も執着も感じないから。」「そうですか・・」二人が手を握り合った時、東京行の便の搭乗案内を告げるアナウンスが空港内に流れた。「そろそろ、行こうか。」「はい。」華凛は椅子から立ち上がり、そっと高史の手を握った。「沖原先生、お客様ですよ。」「え?どんな人?」「女性の方です。」「そう・・」 仕事が一段落した総太が外へと向かうと、そこには白い日傘を差した女性が校門の前に立っていた。彼女は総太の姿に気づくと、彼に向かって深々と頭を下げた。「あなた、昨夜の・・」「昨夜は突然押し掛けてきてしまって、申し訳ございません。わたくし、佳織と申します。」「佳織さん、僕に一体何の用でしょうか?」「沖原さんは、土原さんとお付き合いされていますよね?」「ええ・・それが何か?」「実はわたくし、昨夜土原さんとお見合いをして、彼に振られてしまいました。」「それじゃぁ、土原さんが話していた見合い相手って・・あなたのことだったんですか!」総太が驚愕の表情を浮かべながら女性―佳織を見ると、彼女はそっと総太の手を握った。「沖原さん、あなたにお願いがございまして、こうして伺いました。」「僕に、お願い?」「こんなことを申し上げるのは失礼だと思うのですが・・土原さんと、別れてくださいませんか?」 蝉の声が、やけにうるさく聞こえた。
2013年07月12日
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「遅いなぁ、土原さん・・今日は早く帰るって言ってたのに。」 歳介が家路を急いでいる頃、一足先に帰宅した総太は、キッチンで夕飯を作っていた。「これでよしっと・・」鍋の中からスープを小さじ一杯分おたまで取り出し、総太はそれを味見しながらそう呟くと、コンロの火を止めた。その時、玄関のチャイムが鳴った。「どちら様ですか?」歳介が帰ってきたのだろうかと思いながら、総太がそう言ってインターホンの画面を覗き込むと、そこには見知らぬ女性が一人立っていた。『あの、こちらは土原さんのお宅でしょうか?』「はい、そうですが・・あなたは?」『土原さんは、ご在宅でしょうか?』「いいえ、歳さんならまだ帰ってきてませんけど・・」女性と会話をしている内に、彼女が何か歳介に用があってわざわざこのオートロックのマンションまで訪ねてきたことに総太は気づき始めていた。彼女の目的は一体何なのかを知りたくて、総太は画面越しに女性と向き合いながらこう彼女に尋ねた。「あの、何か歳さんにご用ですか?何でしたら、わたしがご用件を承りますが・・」『いえ、結構です。失礼いたしました!』そう女性は会話を途中で切り上げると、ハイヒールの音を響かせながらエレベーターホールまで走り去ってしまった。(変な人・・) エレベーターがなかなかロビーに下りて来ないので、歳介は少し苛立ちながらそれを待っていた。すると、鞄の中にしまっていた携帯がけたたましい着信音をロビー中に響かせた。「もしもし。」『あんた、途中で帰って何様のつもりなの?ちゃんと先方とはお話したんでしょうね?』「ああ。当分結婚する気はありませんと、ちゃんとお断りをしておいたから、心配すんな。」『ちゃんとわたし達にわかるように、説明なさい!』「ごめん、俺今忙しいんで、切るわ。」耳元で姦(かしま)しく騒ぐ母親との会話を一方的に打ち切った歳介が携帯の電源を切ろうとしたとき、漸くエレベーターがやって来た。やれやれと思いながら彼がエレベーターへと乗り込もうとしたとき、ハイヒールを鳴らしながら一人の女性がすれ違いざまに歳介にぶつかった。「おい、危ねぇじゃねぇか!」咄嗟に女性に注意したが、彼女は既に路上でタクシーを拾い、それに乗ってしまった後だった。「ったく、今日はツイてねえな・・」歳介は溜息をつきながらエレベーターに乗り込むと、部屋がある18階のボタンを押した。「ただいま。」「お帰りなさい。ご飯もう出来てますよ。」「この匂い、カレーか?」「ピンポン~!」 やっとのことで帰宅した彼をリビングで待っていたものは、芳しいカレーの匂いだった。「今日は遅かったですね?何かトラブルでもありました?」「いや・・帰ろうとしたらお袋から電話があってさ、急に見合いさせられたんだよ。」「お見合いって・・まさか・・」「ちゃんと相手には当分結婚するつもりはねぇって、断っておいた。俺には一人しかいねぇからな、生涯を共にする奴は。」歳介はそういうと、じっと総太の顔を見た。「今の言葉、プロポーズとして受け止ってもいいんでしょうか?」「プロポーズじゃなきゃ、俺がこんなクサイ台詞吐くかよ、馬鹿。」歳介はそう言うと、総太の頭を軽く小突いた。「近いうちに指輪でも買おうか。戸籍上は夫婦にはなれなくても、結婚指輪さえしていれば大丈夫だろ?」「そうですね・・お互いの都合が良いときに買いに行きましょうね、指輪!」総太はその後始終上機嫌な様子で夕食を食べ終えたかと思うと、皿を洗いながら鼻歌を歌っていた。「歳さん、僕の指のサイズ、7号ですからねぇ。」「ああ、わかったよ。それよりも総司、お前の両親には・・」「もう、僕は総太ですよ、歳さん!」「済まねぇな、こうしてると昔のことをつい思い出しちまって・・」「長かったなぁ、こうしてあなたと二人で恋人同士になって、一緒に暮らせるまでが。昔は叶うことがなかった恋が、漸く100年以上経って叶うことが出来たんだなぁと思うと、何だか嬉しくて涙が出そう・・」総太はそう言うと、エプロンの端で涙を拭った。「本当に、長かったな。昔、お前には色々と酷なことをしたな。」歳介は、そっと背後から総太を抱きしめると、彼が震えていることに気づいた。「本当、僕を置いて一人で蝦夷地に行っちゃうなんて、酷いですよね・・僕が、どんな気持ちであなたを見送ったのか、わからなかったんでしょう?」「いや、違う。本当ならお前を蝦夷地まで連れて行きたかったさ・・お前が労咳を患っていても、僅かな時間しかお前には残されていないことを知っていても、俺はただ、お前と最期の時まで一緒に居たかったんだ。だが、俺にはそれが出来なかった・・」「でも、こうして会えたじゃないですか、平和な世に。僕は労咳を患っていないし、戦だってないんですよ?もう誰も、傷つかずに済むんですよ?それでいいじゃないですか?」「そうだな・・もう、終わったことを振り返るのは止そう。」歳介はそういうと、そっと目を閉じた。“でかしたな、トシ。今度こそ総司を幸せにしてやれよ。”未だこの平和な世で会えていない、“あの人”に、歳介は少し背中を押されたような気がした。“過去を振り返るな、前を向いて歩け”と。
2013年07月12日
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教師という仕事柄、子供らにとって良い手本になるよう、常に心がけて来た歳介であったが、マナー違反を注意しても改める者と、そうではない者が居る―そう身につまされた出来事であった。だが、見て見ぬふりをすることは、歳介には決して出来なかった。 曲がったことが大嫌いで、幼少の頃から相手に非があり、教師達から謝れと言われるような理不尽な目に遭っても、歳介は頑としてそれを拒否してきた。向こうが悪いのに、何故自分が謝らなければならないのだと、教師達に歯向かい、歳介はいつしか彼らから、“問題児”というレッテルを貼られた。他人に対する、自分の評価など気にしていては、己の人生を無駄にするようなものではないか―そう歳介が思い始めたのは、中学1年の頃だった。代々美男美女の土原家の末っ子として生まれた歳介は、白皙の美貌を持つ故か、男女問わずモテた。見た目の麗しさと、内側の美しさが相まってか、彼は所属していた剣道部で1年にして副部長を任されるまでとなっていた。周囲からは、“客寄せパンダ”、“マスコット”と揶揄されたが、三年の部長や顧問の教師は、歳介の実力と、部を纏めるリーダーシップを認めて彼を副部長という地位に抜擢したのだった。 だが、彼の人気が校内で上昇するにつれ、そのことをやっかむ連中が少なからず居たことも事実であった。 剣道部の連中には幸いそのような者はいなかったが、同級生の中には歳介を妬んで彼の悪い噂をばら撒いたり、中間・期末テストで彼にカンニング疑惑を掛けたりしていた。 だが歳介はそんな陰湿な嫌がらせに負けるどころか、ますます我武者羅になって勉学や部活に励んだ。一見近寄り難い雰囲気であるものの、ひとたび話をして心が通じ合えば、土原歳介という少年は己の美貌や優秀さを決して鼻にかけたりしない、“良い奴”であることに皆気づくのだった。「土原先輩って、どうしてそんなに自然体でいられるんですか?」「別に。俺ぁ何も特別な人間じゃねぇ。ただそれだけだ。」 ある日、部活からの帰り道で、歳介は後輩からそんなことを尋ねられてそう答えると、彼は憧憬の目で歳介を見た。「先輩、格好いいですね!先輩みたいな男、目指します!」「やめとけ、俺なんて他人の目標になれるような奴じゃねぇよ。」そう言って歳介は後輩相手にいきがってみたものの、内心彼らに慕われるのは嬉しかったのだった。 彼が中学2年へと進級して間もない頃、歳介達のクラスに一人の転校生がやって来た。「沖原総太です、宜しくお願いします。」まだ声変わりもしていない、ボーイソプラノの声が教室に響いたかと思うと、色素の薄いポニーテールの髪を揺らしながら、担任教師とともに入ってきた少年は、そう言ってクラスメイトに挨拶した。まるでフランス人形のような愛らしい容貌に、歳介のみならず男子生徒は一斉に彼を見るなりどよめき立った。「沖原、お前は土原の隣で良いな?あいつに任せておけば、大丈夫だろ。」「はい、わかりました。」そう言った少年―総太は、ゆっくりと歳介の隣へと腰を下ろすと、琥珀色の瞳で彼をみつめた。「宜しくね。」「あぁ、宜しく・・」 これが、総太と歳介の出会いだった。あれからもう10年以上もの歳月が経っているが、総太はあの頃とちっとも変わっていなかった。いつも何を考えているのかわからなくて、ひょうきんな彼の性格に振り回されてばかりいる歳介だったが、総太のことは嫌いになれないでいた。寧ろ、ここ数年間恋人同士として一緒に暮らすようになってからは、彼のことが愛おしいと思うようになってきた。(いつまでもこのままの状態でもいいが・・腹を括るべき時が来たな。) 両親はきっと、歳介が何度見合いを断っても、自分達の望みを叶えるまで絶対に諦めようとはしないだろう。総太との事をはっきりさせなければならない―そう思った歳介は、車を一路マンションまで走らせた。
2013年07月11日
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(ったく、結婚なんて冗談じゃねぇ・・) ホテルから自宅へと車を走らせながら、歳介は溜息を吐いた後ネクタイを緩めた。“一度でいいから会ってみなさい”と、両親からそう言われて見合いをしたものの、相手は歳介の好みのタイプの女性ではなかった。見合い以前に、彼はまだ結婚する気はなかった。気ままな独身生活というのは、そうそう捨てられるようなものではない。それに、歳介には心に決めた相手が居るのだ。だが問題は、その相手が同性であるということだった。 両親の望みは、歳介が結婚し、孫を腕に抱く事だ。しかし歳介は、結婚する気もないのならこのまま独身を貫いた方がいいとさえ思っていた。総太とこのまま、“気が合う同居人”として同じマンションの部屋で暮らすのも悪くはないだろうと歳介がそう思いながら交差点を左折しようとした時、一台の自転車が車の前を横切ってきて、危うく衝突しそうになった。「危ねぇだろう!」思わず車の窓から顔を出して自転車に乗っている男にそう歳介が怒鳴りつけると、相手は謝りもせずに彼をジロリと睨むと、そのまま去っていった。(ったく、近頃の大人は自転車も走る凶器だってことがわかってねぇのか・・) 再び車をマンションまで走らせながら、最近この近辺で自転車同士による衝突事故が頻繁に起きていることを、歳介は思い出した。自転車というのは、車のように免許が要らないし、ホームセンターで手軽に購入できるから、一部の利用者はしばしばそれが凶器であることの自覚を忘れて曲芸のような乗り方をしたり、スマートフォンや携帯の画面ばかりを注視したまま運転し、歩行者やほかの利用者の危険を顧みない輩が最近多くなっているように歳介は思った。 それは自転車に限ったことではない。電車やバスといった公共の交通機関で、まるで我が家のように座席にふんぞり返って座り、傍若無人に化粧をしたり、大声で携帯で喋ったり、通路に座り込んだりと、他人の迷惑を顧みない連中が徐々に多くなっている。そういった連中を見かけるたびに、歳介は声を荒げ、いかに他人が迷惑しているかを注意し、相手が己の非を認めるまで一歩も退かなかったが、その事が原因で警察沙汰になりそうだったことがあった。相手はベビーカーを持った若い母親で、ベビーカーの中には生後半年の赤ん坊が乗っていた。通勤・通学ラッシュの時間帯はとうに過ぎたものの、休日とあってか車内は混んでいた。家族連れの姿を見かけたが、周囲に気を遣ってか、彼らはベビーカーを折り畳んで赤ん坊を抱っこ紐やクーハンといった布状のもので抱いていた。だが、件の母親は違った。彼女はまるで、“子を産んだわたしは功労者である”といった横柄かつ高慢な態度を全面的に出し、歳介が高齢の夫婦に席を譲った直後、彼女はあろうことか歳介の脛にベビーカーをぶつけてきたのだった。「あんた、一体どういうつもりなの?あたしは子供を連れてるんだから、あたしに譲るべきでしょう?」「見たところ、あんたはピンピンしてるじゃねぇか?それにあんた、さっき俺の足をそのデカイ車輪でひいた癖に謝ろうともしなかったじゃねぇか?そんなんで他人に席を譲られると思ってんのか?」「何よ、あんた子供が居ないからそんなことが言えんのよ!」「子供連れてるから、あたしのことを敬え、気遣えって思ってんのか、クソ婆!いいか、他人に気遣われるには、それなりの気配りってもんが必要なんだよ。お前ぇと同じように赤ん坊を連れてる奴らを見てみろ、ベビーカーを乗り入れて堂々と狭い通路を我が物顔で歩いてねぇだろうが!他人に気遣えと言う前に、まずは自分が気遣われるべき人間なのかどうか、自分の胸に聞いてみるんだな!」歳介の言葉に、ぐうの音も出なくなったその母親は、怒りで顔を紅潮させたかと思うと、ネイルを施した右手を振り翳して彼に殴りかかろうとした。その時、彼女の夫と思しき男が歳介に詫びながら、何かを喚き散らしている彼女を半ば強引に電車から降ろしたのだった。「兄ちゃん、あんたが言う事は間違ってないだろうけど、いつかは刺されるかもしれないよ?」電車のドアが閉まり、ゆっくりとホームから離れた時、二人の一部始終を見ていた一人の老婦人が、そうやんわりと歳介に注意した。
2013年07月11日
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華凛をホテルの部屋に残しておいてよかったのか、高史は函館市内を歩きながらそう思い、溜息を吐いた。あの珠洲城(すずしろ)とかいう男、正英流の門下生だということはホームページを見て知っていた。だが華凛とどういう関係にあるのか全く解らないので、あの後彼とどういう話をしたのかが気になって仕方がなかった。観光はもう済ませたし、これから土産物でも買おうかと思いながら高史が市場を歩いていると、不意に誰かが自分の腕を掴んできた。「鈴、鈴じゃないか?」「どなたです?」高史は怪訝そうな顔をして、自分の腕を掴んでいる男を見た。彼とは一度も会ったことがないが、向こうは違うらしい。「もしかしてお前、憶えていないのか?」「憶えていないって・・何をです?」男が高史の言葉に落胆していると、数人の男女が自分達の方へと駆け寄ってきた。「山田、どうした?」「この人、知り合いなの?」「いや・・どうやら人違いみたいだった。」男はそう言って、彼らとともに元来た道を戻っていった。自分に背を向けた男を見た時、一瞬誰かの面影が重なった。 それが誰なのか、高史は解らなかった。 いつの間にか高史の足は自然と五稜郭へと向かっていた。自分とは全く馴染みのない場所であるにも関わらず、何故かここに懐かしさを感じるのだ。目を閉じると、再びあの戦場の光景が脳裏に浮かんだ。刀を振るい、銃器に立ち向かう味方と、それを迎え撃つ敵兵の姿。 味方の中で一際目立っているのは、白馬に跨り刀を振り上げる一人の男の姿。『逃げる者は俺が斬り捨てる!』敵の砲撃にも怯まず、男は馬上で敵兵を斬り伏せていった。だがその時、彼の右脇腹を銃弾が炸裂した。『副長!』堪らず銃弾の雨の中、高史は地面に倒れる男へと駆け寄った。『しっかりしてください、副長!』『生きろ・・お前は生きて、新しい時代を見るんだ。』男はそう言ってうっすらと黒い瞳を開けると、そっと自分の頬を撫でた。『生きろ、鈴。』 その時、高史は全てのことを思い出した。自分が生まれる前の、全ての記憶を。そして、華凛―英人との出会いと別れを。(思い出した・・) あのパーティーの夜、華凛が自分を見て涙を流したのは、転生した自分と再会した喜びからだったのだ。自分がこの地を訪れた理由も、懐かしさを感じる理由も、全ては前世の記憶だったのだ。今からでも遅くはない、華凛に自分の思いを伝えよう―そう決した高史はベンチから立ち上がり、ホテルへと戻っていった。 一方東京では、土原歳介が浮かない顔でホテルのティーラウンジに居た。「どうしたのよ、何処か気分でも悪いの?」「いや・・」歳介は溜息を吐くと、自分の前に座っている振袖姿の女性を見た。彼女は歳介の視線に気づくと、恥ずかしそうに俯いた。「さてと、後は若いお二人にお任せしましょう。」「そうね。」姉達が何処かへ行ってしまい、歳介は見合い相手の女性を連れてホテルの中庭へと向かった。「何だか浮かない顔をしていらっしゃいますけど・・」「たいしたことありませんよ。単刀直入に申し上げます、俺はあなたと結婚する気はありません。」歳介の言葉を聞き、絶句した女性を中庭に残し、彼はホテルを後にした。
2013年07月09日
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「高史さん、少し彼と話してきます。待って貰えますか?」華凛はそう言うなり、聡(あきら)の後を追った。「珠洲城さん、待って下さい!」ホテルから出ようとしていた聡に追いついた華凛は、そう叫ぶと彼を呼び留めた。「話をしませんか?」「わかりました。」聡は華凛の手を掴むと、ホテル内のカフェへと入った。「お話しというのは、鈴久さんとの事ですね?」「はい。珠洲城さん、鈴久さんとわたしが函館を旅行していることや、一緒に同じ部屋で泊まっている事は、黙っていて欲しいんです。」華凛がそう言って俯いていた顔を上げると、そこには聡の冷たい目が自分を見下ろしていることに彼は気づいた。「わたしが、誰の味方なのかはご存知の筈でしょう、華凛さん?」「誰って・・」「わたしは密かに、友人の恋を応援していました。」聡は言葉を選ぶかのように、ゆっくりと息を吐きだすと同時に、運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ。「ですが、あなたは彼を裏切った上に犯罪者にもした。それなのにあなたは、彼に何の謝罪もしていない。」「謝罪だなんて・・桂さんはただ一方的にわたしの事を付け回していただけで」「華凛さん、いい加減自分の罪を認めたらどうですか!?」周囲の客が振り向くほどの大声を出し、聡は美しい顔を怒りで歪ませながら、半ばカップをテーブルに叩きつけるように置いた。「あなたは桂檎の気持ちを知りながら、それに応えようとせずに他の男と付き合いだした。あなたは知らず知らずの内に桂檎を・・わたしの友人を追い詰めていたんだ!」「追い詰めるなんて、そんな・・」確かに今まで華凛は桂檎が向ける自分への想いに気づきながらも、それを黙殺していた。桂檎―“桂”との関係は前世でとうに切れていると思っていたので、未だに彼が自分に想いを寄せていることを知り、華凛は彼に冷たくする事で彼が自分を諦めてくれるだろうと思ってしたことだった。だが、それが裏目に出るなんて、思ってもみなかった。「わたしはあなたを許さない。わたしの大事な友人を傷つけたあなたを、絶対に許さない。」「す、珠洲城さん・・」初めて見せる聡の怒りに満ちた顔を、華凛は恐怖に怯えながら見ていた。「まぁ、公私の区別はちゃんとつけますから、学校でも稽古場でもあなたに突っかかったりはしませんから、安心して下さい。わたしが言いたかったことはそれだけです。」聡はさっとソファー席から立ち上がり、伝票を取ってレジへと向かった。1人ソファ席に残された華凛は、込み上げてくる涙を堪えながら、震える指先でコーヒーカップを持った。コーヒーを一口飲むと、口の中に泥水のような味が広がり、思わず華凛は吐き出しそうになった。「華凛さん、どうしましたか?」先程まで聡が座っていたソファ席に、高史が腰を下ろして華凛を心配そうに見つめていた。「大丈夫です、少し気分が悪くて・・」「部屋で休んでください。わたしが土産物を買ってきますんで。」「すいません・・せっかくの旅行なのに、迷惑を掛けてしまって・・」カフェを高史とともに出た華凛は、エレベーターホールの前で高史と別れ、部屋へと向かっていた。部屋のある階数までゆっくりと上昇するエレベーターの中で、華凛は壁にもたれかかり溜息を吐き、高史から貰ったネックレスを指先で弄った。一角獣に象られたルビーのネックレスは、高史にプレゼントされた時と変わらず、美しい輝きを放っていた。彼が一生“鈴”としての記憶がなくても、彼と共に居られるだけでも、華凛にとっては幸せの筈だった―聡からあんな言葉を聞く前は。(今暗い事を考えても仕方がない。)函館に居る間は、高史とともに居られる幸せを感じるだけでいい。そう思いなおした華凛がエレベーターの扉が開くと同時にそこから降りようとした時、誰かが自分を見つめていることに気づいた。「あら、正英さん。」華凛が顔を上げると、そこには小さい子どもを連れた女性が立っていた。「どなたですか?」「西崎ですよ、正英さん。新興住宅地に住んでいる・・」「ああ、思い出しました。どうして函館へ?」「家族旅行ですわ。じゃぁ、夏祭りに。」「ええ。」部屋に入ると、華凛は何の夢も見ずに泥のように眠った。
2013年07月09日
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久しぶりに、楽しい夢を見た。遠い昔―幕末に、鈴と京見物をした頃の夢だ。あの頃は互いの素性も知らず、女子の姿をして彼と色々な名所を巡った。思えば、出逢った頃が唯一幸せだったのかもしれない。「ん・・」浴室の方でシャワーの水音が聞こえたので、華凛はゆっくりと目を開けてベッドから身を起こした。白いシーツが素肌に纏わりつき、自分が一糸まとわぬ姿であることに気づいた華凛は、羞恥で頬を赤らめた。「起きたのか?」不意に浴室のドアが開き、バスローブ姿の高史が華凛を見て微笑んだ。「はい・・あの、朝食はどうなさいますか?」「ルームサービスを頼もうか。丁度今の時間帯だと下のレストランは混んでいるようだし。それに、支度をするのに時間がかかるだろう?」「ええ・・」華凛は高史とまともに顔が合わせられず、彼から逃げるようにして浴室へと駆けこんだ。冷水を頭から浴びて目を閉じると、昨夜の激しい情交の光景が浮かんできて慌ててそれを忘れようと頭を振った。シャワーを浴び終え、濡れた髪をドライヤーで乾かしていると、自分の首筋や胸元に紅い痣が残っていることに、華凛は気づいた。昨夜高史と結ばれたのは、夢ではないのだ。これからどうするか、函館から帰った後に考えなければならない。「ルームサービスが来たよ。」浴室から華凛が出ると、テーブルの上にはスクランブルエッグが載せられた皿が2つ、置かれていた。「そうですか。鈴久さん・・」「まだそんな他人行儀な呼び方をするつもりなのかな? 名前で呼んで。」「じゃぁ・・高史さん。あなたは今後、俺とどうしたいおつもりなんですか?」華凛の言葉を聞いた途端、高史は弾かれたように笑い始めた。「どうするって、君と付き合うに決まっているじゃないか。君の純潔を奪ったのだから。」高史はそう言うと、華凛の頬を撫でた。「華凛、わたしは君の事を離さない。だから君も、わたしから離れないでくれ。」「はい。」華凛はそっと腕を、高史の首の後ろに回した。「函館から帰ったら、色々と面倒な事が待っていると思う。子どもの事や家の事・・一筋縄では解決できない問題ばかりだけれど、君と幸せになる為ならどんな苦労でもするつもりだ。」「ありがとうございます、高史さん。」その後、2人でハムエッグを食べながら、他愛のない話に花を咲かせていた。「今日はどうする? 大体の観光名所は行ったし、お土産でも買おうか?」「そうですね。」高史と華凛は身支度をして、部屋を出るとエレベーターホールへと向かった。「なかなか来ませんね。」「ああ。やっぱり北海道土産は蟹を買った方が良いかなぁ?」「さぁ、解らないですね。それよりもクッキーとか、焼き菓子の方が皆さんに配れるしいいと思うんですが。」「クッキーかぁ・・給湯室にバスケットがあるからそこに置くのもいいね。生物(なまもの)は腐るからね。」高史がそう言った時、エレベーターがホールに到着し、ゆっくりと扉が開いた。「久しぶりだね、先生。」そこには、橘桂檎の友人、珠洲城聡(すずしろあきら)が立っていた。「珠洲城さん、お久しぶりです。」「奇遇だね、こんな所で会えるなんて。そちらの方は?」聡の視線が華凛から高史へと移った。「珠洲城さん、紹介します。わたしの恋人の、鈴久高史さんです。高史さん、こちらはわたしの知人の、珠洲城さんです。」「初めまして、珠洲城聡です。」そう言って聡は高史に笑ったが、その目は笑っていなかった。「こちらこそ。」「じゃぁまた。」聡は去り際に華凛の手を掴んだ。「後で詳しくお話を、聞かせて貰いますよ?」華凛は彼を見ると、彼の氷のような冷たい光を宿した瞳で自分を見つめていることに気づいた。
2013年07月09日
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公園の近くのベンチで暫く休んだ華凛と高史は、函館観光を楽しんだ後ホテルへと戻った。「今日は疲れたね。」「ええ。鈴久さん、初めてなのに函館の事お詳しかったですね。」「まぁね・・色々と下調べしたから。」自分の隣で微笑む華凛を見て、高史は先程脳裡に浮かんだ光景を彼に話すまいかどうか迷っていた。五稜郭公園でふと脳裡に浮かんだ、血と硝煙が煙る中戦う己の姿。ここが戊辰戦争時の激戦地であった事は知っていたが、脳裡に浮かんできた映像はまるでその戦場の只中に居るかのようなものだった。「鈴久さん?」「済まない、ボーっとして。それよりも最近、どうだい?」「姪っ子の育児や稽古や部活で色々と大変ですが、何とかやっていますよ。」「そうか。お兄さん達、事故でお亡くなりになられたんだな。」「ええ。突然の事でまだ信じられないです。」華凛はそう言って空を仰いだ。「家族や友人が急に死んで、まだその死を実感できずに居る事って、何度か経験したんですよ、俺。そんな時っていつも夜には悲しみが押し寄せてきて息が出来なくなるほど辛いんです。母親が死んだ時も、そうでした。」華凛の言葉に、高史は静かに耳を傾けていた。「わたしも母親を亡くしたが、その時はまだ幼稚園にも上がっていない頃だったからね。それに、母親が死んだ後に継母が父と再婚してよくしてくれたし。」「そうなんですか・・俺にとっては、母が居なくても家政婦の菊さんが母親や祖母代わりをしてくれましたから、母親の居ない寂しさなんて感じなかったんです。でも・・」華凛は次の言葉を継ごうとした時に、溜息を吐いた。彼の脳裡に、忘れたくても忘れられない光景が浮かんだ。鴨居に下がった母の遺体を彼女の部屋で見つけたあの日の事を。あれから8年経った今でも、あの日の事を夢に見る。「でも時々思い出してしまうんです。母が・・鴨居で首を吊っていたのを。」華凛は瘧(おこり)でもかかったかのように震えだしそうになるのを必死に堪えながら、そう言葉を切って高史を見ると、彼はそっと華凛を抱き締めてくれた。「大丈夫、嫌な事は無理に思い出さなくてもいい。」(鈴久さん、あなたはそう言うけれど、俺はあなたと居たあの頃の事を憶えているんです。それなのに、どうしてあなたは・・)振り向けば高史に恨み事を言ってしまいそうで、華凛は彼の優しい手に包まれ涙を流した。「君でも、泣く事があるんだな。」「俺の事を鉄面皮だと思っているんですか? 酷いなぁ。」涙を手の甲で拭うと、華凛は高史の方を振り返った。「君はいつも凛としていて、決して弱味を見せないから、君が泣く顔なんて初めて見たななんて思って。」高史は華凛に照れ臭そうに笑いながら、先ほどまで暗い顔だった華凛に笑顔が戻ったことに気づいた。「君には涙よりも、笑顔が似合うよ。」「そうですか?」「涙が出ても、その涙をわたしがこれから拭ってあげる。だから泣かないで。」「はい・・」たとえ前世の記憶を高史が失くしているとしても、思い出さないとしても、華凛は彼の隣に居るだけで良かった。それだけで、幸せな気持ちに満たされるのだから。華凛はそっと、高史の心臓の鼓動を聞いた。「鈴久さん、好きです。」心が落ち着き、華凛は高史に告白した。「わたしも、君の事が好きだ。」高史と華凛は、そっと互いの唇を塞いだ。その口付けは小鳥が啄ばむようなものから、激しく貪り合うようなものへと変わった。「鈴久さん・・」華凛から離れると、高史は呼吸を整えた。対する華凛は、息を荒げて彼を見ていた。「華凛さん・・いや、華凛。君を抱いても、いいかい?」「ずっと、その言葉を待っていました。」華凛はそう言うと、高史を抱き締めた。彼にベッドに寝かせられた後、華凛は静かに高史のキスと愛撫を受け入れた。華凛の脳裡に、雨の日の京で初めて“鈴”と結ばれた夜の事を思い出した。 あの時と同じ心からの幸福感が、再び胸に込み上げてきて華凛は涙を流し、静かに目を閉じた。
2013年07月09日
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「その簪、良く似合ってますよ。」「ありがとうございます。」函館空港から宿泊先のホテルへとタクシーで向かう中、高史は華凛の髪に挿している簪を褒めると、彼は嬉しそうに笑った。「ホテルに荷物を預けたら、朝市に行ってみようか。」「ええ。」宿泊先のホテルに到着してタクシーから2人が降りてロビーへと向かうと、夏休み中なのか家族連れや若いカップルでひしめき合っていた。「混んでいるね。まぁこんな時期だから仕方ないか。」「ええ。」チェックインの順番を待つ列に並びながら、華凛は高史と函館観光のプランを話し合った。「朝市の後は五稜郭に行きましょうか? 史跡巡りをするの、好きなんですよ。」「五稜郭か・・何だか懐かしく感じるな。」「え?」高史の言葉を聞いて、華凛の胸が少し高鳴った。もしかして、彼に前世の記憶が甦ってきているのだろうか?「鈴久さん、もしかして・・」「あ、あそこが空いていますよ。」高史はそう言ってチェックインカウンターへと向かったので、華凛は慌ててその後を追った。「さっき言ったことなんですけど・・」「え?」「五稜郭がどこか懐かしく感じるって・・」「ああ。何度かネットで函館の事を調べていると、何だか初めて行くところなのに何処か懐かしいっていうか、変な感覚がしてね。」「そうですか。」鈴久さん、函館(ここ)はかつてあなたが戦っていた場所ですよ―華凛は喉元までそんな言葉が出そうになるのを、ぐっと堪えた。高史は、“鈴”の記憶を徐々に取り戻していっている。だがそんな事で喜んではいられない。完全に彼が“鈴”としての記憶を取り戻す確証はないのだから。 ホテルの部屋に荷物を置き、華凛は高史とともに函館市内を観光した。五稜郭公園に行くと、高史は突然公園の入り口で立ち止まった。「どうしました?」「いや、何でもない。行こうか?」先程脳裡に浮かんだ光景を振り払うかのように、高史は鬱陶しそうに前髪を掻き上げると、華凛とともに公園の中へと入った。 公園内には観光客や歴史ファンなどが居て賑わっており、華凛と高史は今夏に復興された函館奉行所の中を見学した。(何だろう、ここは・・懐かしい感じがする。)初めて来たところだというのに、高史は激しい既視感に襲われた。「どうしました?」「いや、何でもない・・」公園を出て近くの土産物店に入った高史は、そこである人物の写真が使われている下敷きを取った。「この人・・」「鈴久さん、どうし・・」高史の様子がおかしいことに気づいた華凛が、彼の肩越しに商品を見ると、そこには土方歳三の写真が使われていた。「これ、いくらですか?」「300円になります。」華凛は店員に下敷きの代金を払うと、今にも吐きそうな顔をしている高史の肩を支えながら店を後にした。「気分が優れないようですね。一旦ホテルに戻った方が・・」「いや、大丈夫だ。それよりも華凛さん、下敷きを見せて貰えないかな?」「ええ、いいですけれど・・」土産物店で買った下敷きを高史に見せると、彼はじっと土方の写真を見ていた。「この人、何処かで会ったような気がするんだ。解らないけれど、何だか懐かしいんだ・・おかしいかな?」「いいえ。」高史が顔を上げると、華凛はにっこりと自分に微笑んでいた。「君はこの人を、知っているのか?」「ええ、知っていますよ。」そう言って土方の写真が印刷されている下敷きを見つめる華凛の姿に、高史は誰かの面影を重ね合わせた。
2013年07月09日
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