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青年に無限の力あり「立正安国」「正を立て、国を安んず」という不滅の金言は、大聖人の全く独創であられた。「立正安国」とは、全民衆救済へ妙法を掲げて、ただ一人立ちあがられた大慈悲の師子吼にほかならないのだ。当時、「天変地夭・飢饉疫癘(えきれい)」など打ち続く災難のために、庶民は悲惨の極みにあった。現在、コロナ禍と戦う人類の苦境とも相通ずる。「立正安国論」の冒頭には、「悲しまざるの族(やから)敢(あえ)て一人も無し」(御書一七㌻)と記されている。大聖人の眼差しは、愛する家族や友を失い慟哭する庶民の姿にこそ注がれてていた。渦巻く民衆の苦悩を直視し、わが事と同苦し抜かれたのだ。大聖人は「安国」の「国」を、「囗(くにがまえ)」に「民」とも書かれておられた。人間の顔の見えない国家の安泰ではなくして、何よりも民衆が日々の生活を営む場としての国土の安穏であり、民衆の安心安全を祈られていたお心が拝されてならない。この御本仏の大精神のままに、先師・牧口常三郎先生と恩師・戸田城聖先生は、戦時下にあって「今こそ国家諌暁の時なり」と正義の行動を貫き、一九四三年(昭和一八年)の七月六日、軍部政府の弾圧により逮捕された。牧口先生は翌年、殉教の五句詩を告げられ、不二の戸田先生は二年の東国を超え、終戦直前の七月三日、〝妙法の巌窟王〟の心で出獄された。この日この時、戦争の残酷と悲惨に覆いつくされた闇の底から、太陽の仏法が昇りゆかんとする「立正安国の黎明」が告げられたといってよい。戸田先生は四十五歳。戦前の幹部たちは、法難に臆して退転した。信じられるのは正義の青年だと、「旗持つ若人」を祈り、待たれた。そして、敗戦の荒廃しきった大地に題目を打ち込みながら、一歩また一歩、足を運び、一人また一人、若き地涌の弟子を呼び出していかれたのである。 【随筆「人間革命」光りあれ】聖教新聞2020.7.7
May 31, 2021
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自然災害に世界で初めて対応名古屋大学 減災連携研究センター 武村 雅之日本赤十字社中央病院病棟㊤博物館明治村のほぼ中央、市電寝小屋駅のすぐ近くの4丁目35番地にある木造平屋建ての建物が日本赤十字社中央病院病棟である。入口を入ると木製の大きなレリーフが迎えてくれる。日本赤十字社の社章となっている桐と竹の枝に鳳凰がデザインされた「桐竹鳳凰」が描かれたものである。日本赤十字社の始まりは、明治10年(1877年)の西南戦争の際、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった博愛社であるとされる。明治19年に日本政府がジュネーブ条約に加盟、翌年に日本赤十字社と名を改めた。その際に、当時の社長の差の常民が、初代名誉総裁を務めた昭憲皇太后(明治天皇の御后)に拝謁し、その際に頂いたのが正倉院の宝物中にもあるという皇室ゆかりの「桐竹鳳凰」の紋章であった。もともと、病院は博愛社病院として東京市麹町区飯田町(現代の千代田区飯田橋)にあったが、日本赤十字社に社名が変更したのに伴い、日本赤十字社病院と改称、その折に皇室から渋谷の御料地の一部と建設費10万円が下賜され、明治24年に病院を現在地の渋谷区広尾(当時は東京府南豊島渋谷村)に新築移転した。その際、建築された病院本館は広大壮麗で偉観を放つものだった。その本館屋上の装飾として置かれていたのがこのレリーフである。なお、日本赤十字社中央病院と改称するようになるのは昭和16年(1941年)のことである。日赤が誕生した翌年の明治21年7月に福島県磐梯山の噴火が発生した。その際、国際紛争解決に向けた人道組織だった赤十字社を自然災害にも活用すべく政府に願い出て、戦時以外の活動が実現。救護班を現地に派遣し救護活動を行った。日赤は、その翌年に日本赤十字社看護婦養成規則を制定し、看護婦を養成することを決め、明治23年に1期生10人が入学、翌年に発生した濃尾震災では、1期生の10人と従来いた看護婦10人が救護班に加わり、医師と共に救護活動に当たった。その写真は館内に展示されている。その後、日清戦争(明治27-28年)、日露戦争(明治37-38年)、第1次大戦(大正3-7年)に救護班を派遣し、提唱12年(1923年)の関東大震災を迎えることになった。その間、大正11年に日本赤十字社産院が解説されている。日本赤十字社は事前災害への対応を世界で初めて行った赤十字社なのである。 【復興へのまなざし―建物が語る災害の実相23】聖教新聞2020.7.7
May 30, 2021
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戦後「社会科学」の思想森 政稔著 「75年」を辿り、今を考え直す成蹊大学教授 野口 雅弘評 著者の森政稔氏はこれまでも、『変貌する民主主義』『迷走する民主主義』(共にちくま新書)などの著作で、多様な思想潮流についてのスリリングな整理と考察を提供してきた。東京大学教養学部の授業ノートをもとにした本書では、丸山眞男から近代化、大衆社会論、ニューレフト、ポストモダン、そして新保守主義まで、「戦後「社会科学」の思想」が論じられている。本書は関連科目の教科書や勉強会のテキストに最適である。しかし注目するべきはそこではない。「おわりに」で、アジアからの留学生に「日本閉塞感」について質問を受ける、と著者はいう。そして「本書全体がある種の答えになっていると言えるかもしれない」と述べている。森氏は「ニーチェの政治学」などの論文を執筆し、日本の政治理論研究に「ポストモダン」を導入する先駆的な役割を果たしてきた。そうした自身の研究歴を背負いながら、彼は「意図せざる結果」としての今と真摯に向き合っている。かつて日本でも存在して「ラディカルな動きが新保守主義・新自由主義的な動向の中に巧妙に取り込まれていった」のはなぜなのか。「丸山のような戦後政治学と、どう見てもそれとは異質の新自由主義とが、奇妙に手を結ぶ」状況をどう考えたらよいのか。本書は、この閉塞感へと至る、必然的ではないが「相応の理由がある」道筋を辿る。思想系の本を読みなれていない読者には、いくぶん難しいところがあるかもしれない。しかし『公明新聞』の読者にこそ本書を薦めたい。いわば、〈一九六〇年代に、ニューレフトとは明確に一線を隠しつつも、「疎外」というモチーフを共有し、平和と福祉を強調する中道政党として出発した政党が、「自公連立政権」を形成するに至った、この道程をどう考えたらよいのか〉。この本で問われているのは、要するにこういうことである。今だけを見ていては、今は分からない。本書は、「七五年」という時代の単位で、この閉塞した今を考え直すための一冊である。◇もり・まさとし 一九五九年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。 【読書】公明新聞2020.7.6
May 29, 2021
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人類と病託摩 佳代著 国際政治から見る健康課題日本国際保健医療学会理事長、東京大学教授 神馬 征峰評 「混乱の時代に、真の意思決定するのは難しい」。WHOが誇る天然痘撲滅に尽力した蟻田功博士の言葉である。科学的根拠が乏しい中、命を守る意思決定が必要な時、政治的判断は重要な役割を果たす。新型コロナウイルス感染症が世界を震撼させているこの時、本書は、「国際政治」というレンズで過去から現在にわたる地球規模の健康課題をとりあげている。国際政治の混乱期にあって、保健協力が成功した事例が最もよく描かれているのは第2章「感染症の根絶」である。とりわけ、「天然痘撲滅」のイニシアチブをとったソ連が、冷戦下でいかに米国からの協力を得てそのイニシアチブを成功に導くことができたか。また、米ソのはざまで撲滅対策のディレクターとなったアメリカ人ドナルド・ヘンダーソン博士が、いかにソ連をなだめたか。そのあたりの展開が実に面白く描かれている。WHOが国際政治に振り回されるのは今に始まったことではない。第5章にもあるようにWHOが政治的に中立でいることは難しい。国際政治の影響を受けざるを得ない。そんな中、WHOは「政治的な影響力を、人類の健康を確保するために利用すればよい……そこが国際機関の腕のみせどころ」と筆者は主張する。ではいかに? 蟻田功博士の言葉を再度紹介したい。「私たちは意思決定に困った時、いつも申し合わせていたことがあります。それは『この意思決定医が本当に根絶のためになるのか』ということです。例えば、『天然痘患者の出た政府相手に不都合なことをいうと、WHOはその政府から協力を得られなくなるのではないか、だからこれは黙っておこう』、といった『言わざるの意思決定』はしない、そういうことをしっかりやったので、10年間で天然痘患者がゼロになりました。理念が非常に大切なのです……」(『公衆衛生』68巻2号)。健康格差の是正という国際保健の使命を果たすべく、強い理念を以て、混乱の時代にあっても意思決定ができるWHOであってほしいと思う。◇たくま・かよ 1981年広島県生まれ。東京都立大学法学政治学研究科教授。 【読書】高名新聞020.7.6
May 28, 2021
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夏に聴きたい清々しい人情噺落語評論家 広瀬 和生唐茄子屋政談夏の人情噺の傑作に『唐茄子屋政談』がある。近年では古今亭志ん朝が得意とした。大店の若旦那の徳三郎が、吉原通いが目に余ると勘当になった。あちこちに居候したあげく行き場がなくなり、いっそ死んでしまおうと川へ飛び込もうとする。それを助けたのが、幼い頃から徳三郎に目を掛けていた叔父だった。伯父の家に泊まった徳三郎は、翌朝「今日から唐茄子(かぼちゃ)を売り歩け」と棒手振りの八百屋道具一式を与えられた。だが力仕事などしたこともない若旦那育ちの徳三郎、重い荷を担いで炎天下を歩く辛さに耐えかね、道端で倒れ込んでしまう。そこへ通りがかった若い男が同情し、片っ端から声をかけて唐茄子を売り捌いてくれた。二つ残った唐茄子を売ろうと、売り声を稽古しながら歩きまわる徳三郎。誓願寺店の瓶房長屋には入っていくと、乳飲み子を背負ったおかみさんに、一つ買いたいと声を掛けられた。徳三郎はもう一つおまけして荷を空にし、弁当を使わせてもらう。すると奥から五つか六つくらいの男の子が出てきて「ご飯だ、食べてぇなぁ」としきりに欲しがる。おかみさんはそれをたしなめるが、見かねた徳三郎は弁当を男の子に与えた。分けを聞くと、もとは武家で今は浪人をしている夫が旅に出て商いをしているが、行方知れずで送金も滞り、この子に三日も食べさせていないという。それを聞いた徳三郎は売り上げを渡して帰る。話を聞いた叔父は、それが本当か確かめるため、徳三郎を連れて誓願寺店へ。行ってみると、その金を大家が「家賃の足しに」と横取りしてしまったため、絶望して首をくくってしまったという。すぐに医者に診せて命は取り留めたものの、怒り心頭の徳三郎は大家の家に殴り込む。この一件で調べを受けた強欲な大家は思い咎めを受け、若旦那は勘当が許される。この噺で胸に沁みるのは、甘えて育った徳三郎の性根を叩き直そうとする叔父の、厳しくも愛情に満ちた人間像。徳三郎のために友だちと喧嘩までして唐茄子を売り捌く男にも、江戸っ子ならではの気持ちの良さがある。志ん朝はこうした人々を魅力的に描くことで、この噺を清々しい美談として磨き上げた。夏に聴きたい名作落語の代表格だ。 【落語を楽しもう‣⑥】公明新聞2020.7.4
May 27, 2021
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口の健康保ち豊かな人生を歯科医 磯辺 昌継 私たちの口には、食べたり、飲んだり、話したりなど、生きていく上で大事な機能が備わっています。口の中でそれ他の機能を担い、重要な役割を果たすのが、歯や舌です。もしも、病気によって葉や舌の働きが損なわれると、食べ物をしっかりかんで飲み込むことができなくなったり、人と会話をしてもうまく伝わらず、ストレスを抱えたりすることにもなるでしょう。仏法では「色心不二」と説き、肉体と精神が密接に関連し、相互に影響し合っていることを教えています。健康長寿の人生を送るためには、食事や人との会話が大切です。その意味でも、口のなかの健康は、心身にわたる健康の〝窓口〟であるといえます。口のなかの健康を維持するために、日頃から次のような病気に気を付けておくことが大切です。歯を失う二大疾患といえば、虫歯と歯周病です。公益財団法人「8020(はちまるにまる)推進財団」の「永久歯抜歯原因調査」(平成30年)では、歯を抜く原因になった病気の第1位は歯周病(37.1%)、第2位は虫歯(29.2%)と報告されています。虫歯と歯周病は共に、口の中に存在する細菌が原因で起ります。虫歯は虫歯菌がダスキンによって、歯の表面を覆う固いエナメル質や、その内側の象牙質が溶かされて進行します。また、歯周病は歯と歯肉の隙間(歯周ポケット)に存在する歯周病菌が歯肉に炎症を起し、さらに歯を支える歯槽骨まで破壊していくことで病状が進行します。したがって、虫歯や歯周病を予防するためには、毎日の丁寧な歯磨きが大切で、歯の溝や歯周ポケットなどに付着した細菌の塊であるプラーク(歯垢)を、しっかり除去することが大事なポイントです。歯を失う原因の第3位は、歯の破折(17.8%)です。慢性的な要因として、歯ぎしり・食いしばりが原因で歯を損傷することがあります。歯ぎしり・食いしばりをしているときに歯にかかる力は、通常かむときの力に比べると、数倍以上の力がかかっているといわれています。そのため、歯の著しい動揺や歯折をまねき、歯を失うことにつながります。歯ぎしり・食いしばりに対しては、歯を保護するためのマウスピースによる治療が一般的に行われていますので、かかりつけの歯科医院に相談することも考慮してください。 早期の処置が鍵一方、歯以外にも口の中で重要な役割を果たすのが、舌です。口の中に生じるがんの総称を「口腔がん」と言いますが、その中でもっとも多く発症するのが舌がんです。原因は明らかではありませんが、飲酒や喫煙による舌表面の刺激や、歯または補綴物(ほてつぶつ)(被せ物、入れ歯など)の鋭縁部分による下へのくりかえしの刺激により、誘発されると考えられています。舌がんは、初期の段階では舌表面に阿神やただれ、痛みなどが出現することから口内炎と勘違いされ、放置されることがよくあります。しかしがん細胞が進行すると舌の中まで広がり、さらには首のリンパ節や肺へと転移する恐ろしい病気です。早期発見・治療によって、再発や転移のリスク、また術後の障害も少なくなりますので、下に痛みや硬いしこりなどを自覚した場合には、早めに専門施設で診察を受けるように心掛けてください。舌がんの治療は主に外科手術、放射線照射、抗がん剤によって行われていますが、治療後は嚥下障害(うまく飲み込めない)や口腔乾燥や味覚障害、口腔粘膜炎など、さまざまな後遺症が起ることがあります。また、飲み込む訓練や発声訓練などのリハビリが長期に及ぶこともあり、社会復帰を目指す患者さんにとっては大変な苦労が強いられます。私も、大学病院の口腔外科で臨床に従事した十数年間、多くの舌がん患者の方々の診療に携わりました。困難を乗り越えて社会復帰を果たされた患者さん方と接する中で、いかに自身の生命力が必要であるかということを実感しました。 妙とは蘇生の義なり人は生きているうちに、病気になることもあれば、さまざまな苦境に直面することもあるでしょう。御書には「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」(947㌻)とあります。仏法は、人生の難局を乗り越え、蘇生していく力の源泉です。私は、この御聖訓を、長女の闘病を通して心に刻みました。長女が生後7カ月の時、自己で脳出血を起し、緊急手術を。何とか一命は取り留めましたが、左半身が完全に麻痺しました。しかし、長女の脳細胞一つ一つに題目を送る思いで真剣に祈り抜くと、長女の手足が少しずつ動くように。その後も懸命なリハビリ治療により、手足の運動機能は着実に向上。事故から20年経った現在、軽度の障害はありますが、長女は蘇生の実証を示し、私の歯科医院で歯科補助手として元気に働いています。日蓮大聖人は、ドクター部の先達ともいうべき四条金吾に「真実一歳南無妙法蓮華経なり」(御書1170㌻)と仰せです。題目こそ、あらゆる困難を打ち破る「秘術」です。私自身、どこまでも題目根本に、ドクター部の誇りを胸に、今後も地域医療に献身していきます。 [ポロフィル]いそべ・まさつぐ 東京都東村山市にある武蔵野デンタルクリニックで院長を務める。歯学博士。54歳。1965年(昭和40年)入会。東村山市在住。副本部長。第2総東京ドクター部長。 視点楽観主義健康は、幸福の大事な要素ですが、病気だから即、吹こうというわけではありません。仏法の眼では、病気を「忌むべきもの」ではなく「深い人生を開く契機」と捉えます。日蓮大聖人は、「病によりて道心はをこり候なり」(御書1480㌻)と仰せになり、病気という苦難を糧にして、自分自身の境涯をさらに広げていく、深い生き方を教えられました。池田先生は語っています。「病気との闘いは、妙法に照らして、永遠の次元から見れば、全てが幸福になり、勝利するために試練です。健康は、何があっても負けない自分自身の前向きな生き方の中にこそあるのです」いかなる状況の中からでも、希望を生み出す――これが仏法の楽観主義の哲理です。 【紙上セミナー「仏法思想の輝き」】聖教新聞2020.7.4
May 26, 2021
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感染問題と例外状態評論家 宇波 彰ドイツ法学者シュミットの概念から考える。世界中での新型コロナウイルスの感染拡大によって、国境が閉鎖され、都市封鎖などの処置がとられた国もある。日本でも緊急事態宣言が発せられた。いたるところで、個人の日常的・基本的な行動に制限が加えられたのであり、これは異常な事態である。そこからさまざまな問題があらわになった。こうした状況から、にわかに「国家」の役割が見直されつつあるように見える。ポーランド出身のイギリスの社会学者ジグムント・バウマンなどが指摘していたように、今日の日の国家は国民との関係が薄くなって、「液状化」しているといわれていた。しかし、今回の異常な事態においては、個人に対する国家の介入が不可避となり、いわば「国家の固体化」が進行している。それに関連して、100年前に示された、ドイツの宝学者カール・シュミットの「例外状態」の概念がにわかに注目されている。シュミットは、ヒトラー政権の独裁を正当化した学者と見なされている。しかし、そうした批判にもかかわらず、「例外状態」と、それに関連する「主権者」についての彼の考えは、その後、ベンアミン、デリダ、アガンベンなどによって、継承・展開された。それが今日の新型コロナウイルスの跳梁(ちょうりょう)に関して参照されているのである。ローマ共和政では、期限付きの独裁官が状況対処1921年に刊行されたシュミットの『独裁』は、「例外状態」がローマ共和政(紀元前509年~同27年)以降のヨーロッパの史実の検討から生まれた概念であることを示している。「例外状態』は、外敵との戦い、内乱、大きな自然災害などによって生ずる状態のことであるが、古代の共和政ローマでは、六カ月という期限付きの「独裁者」が任命され、そうした状況に対処した。「主権者とは例外状態に置いて決断する者のことである」というシュミットの有名な考えは、まさに例外状態論を基礎として作られたものである。しかし古代のローマ人は、その独裁官に「期限」を設定する知恵を持っていたのである。古代・中世においてであれば、自然災害が生じたり、疫病が流行すれば、民衆は神や仏に祈るほかなかったであろう。しかし、医学が進歩し、情報が容易に伝達される現代では、とにかく感染者を隔離し、可能な限りの医学的治療をするのが原則である。そのためには、「国家」が主導権をとって対応しなければならない。すでにフランスの思想家ミシェル・フーコーは、現代が「監視社会」へと向かいつつあると警告していた。新型コロナウイルスの感染防止を口実にして、国家が新しいテクノロジーを使って個人の領域に介入し、新たな「監視社会」の到来を招く恐れがないとはいえない。例外状態を日常化させてはならないのである。(うのみ・あきら) 【文化】公明新聞2020.7.3
May 25, 2021
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たとえ失敗してもへこたれず「もともと僕は、落語家になるつもりなんて、少しもなかった」と語るのは、林家木久翁氏。18歳で会社に就職するも、4カ月で退社。漫画家に弟子入りした ▼作品が雑誌に掲載され、漫画家として歩み始めた4年目のこと。師匠から、「絵が描けてしゃべれたら売れるぞ、ちょっと落語をやってみたら」と言われた。漫画の取材のつもりで、三代目桂三木助に入門。そして、そのまま落語家になった ▼収入の少ない前座時代は、雑誌の挿絵を描き、生活費を工面したことも。苦労はあったが、後悔はないという。「飛び込んだ後で、状況や環境を自分の意に沿うようにしちゃえばいい。『ああ、こっちでよかったんだ』と思える生き方を、自分でつくっちゃえばいいんですよ」と氏。本年、高座生活60周年を迎えた(「イライラしたら豆を買いなさい」文春新書) ▼人生思ってもみなかった道に進むことがある。それを〝なぜこんなことに〟と嘆くより、〝新しい自分になるための舞台〟と捉えれば、その瞬間から可能性の扉は開いていく ▼池田先生は「たとえ失敗しても、へこたれずに努力したことが、全部、自分自身の揺るぎない根っことなる」と。根が深いほど、木はたくましく育つ。青年の心で挑戦し、強い根を張る7月に。 【名字の言】聖教新聞2020.7.2
May 24, 2021
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逆境に「心の財」輝く生き方仕事と向き合う男子部長 西方 光雄 働くという難題北海道の会合を終え、10分後に沖縄の集い。時には一日の間に東北、東京、関東、九州へ――。距離を超えるオンライン会合の利点を生かし、日々、全国の男子部員との語らいの場を持っている。 各地に共通して、皆が近況として語るのは、やはり仕事環境の変化である。 日本では近年「働き方改革」が叫ばれてきた。コロナ禍という切迫した事態により、フィジカルディスタンス(身体的距離)に配慮して〝改革〟は進んだようである。だがもちろん一部に過ぎない。 在宅勤務などのリモートワークに対応できない企業は多く、エッセンシャルワーカー(社会の維持に不可欠な仕事の従事者)は心身ともに緊張のなかで働く。先行きが見通せない分野もあれば、業態を変える試みもある。その休業や失職の方もいる。ウイルスが労働現場にもたらした影響は、不条理なほどバラバラである。 ほんの数か月前には想像できなかった目まぐるしい状況変化の中で、青年世代の私たちが直面するのは、「働き方」の課題以前に、「働くこと」自体の難題かもしれない。 利・美・善の理想働く目的は何か。生活のため、自己表現のため、自己実現のため、親孝行のため、社会貢献のため、趣味の充実のためなど、答えは十人十色である。 アメリカの細菌学者ルネ・デュポス博士が寓話を紹介していた。 ――通行人が、レンガを運ぶ3人に何をしているのかを問うと、返事が異なっていた。一人目は「石運び」。二人目は「壁を積んでいる」、三人目は「聖堂を立てている」と(『生命の灯』思索社)。 同じ作業をしていても、目的観や志の高さによって、業務の質や量、スキルアップ、成長の度合いは変わると感じる。 そして仕事とは何かを考えるとき、初代会長・牧口先生が『価値論』で示された、人生の上に創造すべき「利・美・善」の価値が思い浮かぶ。利(経済的価値)は基本として、美(好き嫌いなどの感覚的価値)があれば充実感は増し、さらに善(社会的価値)を職場や世の中にもたらすことができれば、これ以上ない理想的な仕事といえよう。 現実には、三つの価値が申し分なくそろう仕事と出会うことは、感染症の流行に直面し、その困難さは増しているように思う。 自己を磨く場所仕事に悩んでいた日蓮大聖人の門下に、四条金吾がいる。 主君に仕える武士だった金吾は、同僚によるう讒言などのせいで、主君から理不尽にも遠ざけられてしまう。現代的にいえば、職場の人間関係のなかでハラスメントを受け、まさに八方ふさがりだった。 弱音を吐く金吾は、主君のもとをさり、より信仰にいそしむことができる入道の立場になろうと決意する。しかし大聖人は思いとどまらせた。悩みから逃げてはいけないことを教えられた。大聖人の仏法は、生活に生きる信仰なのである。 苦境と向き合った金吾は信心を全うするなかで、さらなる危機に陥るが、やがて主君からの信頼を回復することができた。そんな金吾に大聖人は指針を送られる。 「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書1173㌻) 物質的な財産(蔵の財)、技術・地位など(身の財)も大事だが、心の豊かさ(心の財)だ第一である――。事態が好転しつつあっても、本当の勝負はこれからという局面での言葉である。仕事の悩みから逃げそうになったところを包み込むように励まし、そこから立ち上がって信心根本に進んでいく門下に対して、信仰と人生の本質を語られたと思えてならない。 心の財は、根本的には信仰を通して磨かれるものであり、仕事の次元で見れば、どんな業務であれ、お金や技術等を得るとともに、心を豊かにすることが最高の働き方ということになろう。むしろ、蔵の財闇の宝は労働環境によって左右されてしまうのに対し、心の財はどんな時や職場でも積めるうえに、何があっても失われないのである。 大聖人は〝何事においても人々から称賛されるようになりなさい〟と金吾に願われている。心の財の具体的な現れが、あつい信仰であり、深い人格であるといえよう。 仕事に関して、大聖人は、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(同1295㌻)とも仰せである。「御みやづかい」、すなわち自分の仕事を、単なるビジネスではなく仏道修行と捉えるのである。 そう思えば、職場で悩むことも、業務で行き詰ることも、ともすれば休業や失職という事態に陥ることがあっても、その中でもがき、奮闘すること自体が自身を磨き高め、心の財を積むことになるのではないだろうか。 三人前の責任感「信心は一人前、仕事は三人前」とは、第2代会長・戸田先生の指針である。「仕事は三人前」の意味について、かつて池田先生はこうつづられた。 「大きな仕事を成し遂げるには、自分だけでなく、周囲にも目を配り、皆の仕事がうまくいくように心を砕くことが大切である。また、後輩も育て上げなければならない。さらに善大観に立ち、未来を見すえ、仕事の革新、向上に取り組むことも望まれる」(『随筆 人間世紀の光』(我が社会部の友に贈る)、『池田大作全集』第135巻所収)と。 この学会精神とも言うべき責任感に燃えるドラマが、聖教電子版の投稿企画「青年部員と仕事」に寄せられている。 兵庫のある男子部員は、かばんの設計の仕事をしていたが、コロナ禍で流通が止まり、売り上げが落ち込んだ。そんな中、マスク不足の解消のために技術を生かそうと決意。現在の設備で可能な法制方法と、最適なマスク記事の研究を重ねた末、近隣特産の布地を使用した商品を開発できた。いっぱい販売はもちろん、地元の子ども園や小学校に無償配布し、社会貢献を果たせたという。 池田先生は「苦しい時、大変な時こそ、不屈の負けじ魂で挑戦を続ければ、思いもよらぬ英知の底力が発揮される。必ず新しい価値を想像することができる」(2015年11月、創価学園「英知の日」へのメッセージ)と語られている。 仕事にはその人の生き方が現れると思う。それは業種や職種、会社の規模などで決まるのではない。自分には何ができるか。現状をどう改善していくか。その責任感が強ければ強いほど、善の価値をもたらす創造と智慧が生まれる。ましてや、私たちには無限の希望を湧き出せる信仰の力がある。 あまりに不安定な世の中のなかで、「だからこそ」と前を向き、変毒為薬(毒を変じて薬となす)の誓願と確信を持って働く創価の同志の姿に、心の財の輝きを見る。目の前の仕事を通して、職場や社会に光を送る一人一人でありたい。 【青年想5】聖教新聞2020.7.2
May 23, 2021
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日本会議内部での神社本庁の役割明治の政治体制とイデオロギーを復活させる――そう願っているとケネス・オルフが指摘する神社本庁は日本会議に参加しており、繰り返すが、その巨大な支柱の一つとなっている。また、神社神道の頂点に君臨する神社本庁は自らも神道政治連盟(神政連)を結成して保守政界を支援していて、神政連の訴えに呼応する国会議員懇親会も置かれている。神政連によれば、神政連国会議員懇談会メンバーの総数は衆参両院を合わせて304人――衆院223人、参院81人、これは日本会議国会議員懇談会の加入議員数を上回っており、首相・安倍晋三らも幹部職についてきた。また、双方の懇談会メンバーはかなりの部分で重なっていて、本稿執筆時点での安倍内閣――第3次安倍海造内閣の閣僚20人のうち実に17人が神政連国会議員懇談会に名を連ねている。政権そのものが神政連と一体化しているといっても過言ではない。そして神政連は、次のような政策目標を自らのホームページなどに掲げている。 ・世界に誇る皇室と文化伝統を大切にする社会づくりを目指す。・日本の歴史と国柄を踏まえた、誇りの持てる新憲法の制定を目指す。・日本のために尊い命を捧げられた、靖国の英霊に対する国家儀礼の確立を目指す。・日本の未来に希望を持てる、心豊かな子どもたちを育む教育の実現を目指す。・世界から尊敬される道義国家、世界に貢献できる国家の確立を目指す。 皇室尊崇の社会づくりと新憲法の制定、そして靖国神社への国家関与の強化――。言葉遣いはかなりマイルドだが、「明治の政治体制とイデオロギーの復活」とまでいえるかどうかはともかく、戦前体制への回帰願望が如実に刻まれていると評されるのも無理はない。そんな神社本庁と日本会議の関係はいったいどうなっているのか。その圧倒的な動員力と資金力はいかほどのものであり、日本会議の中でどのような役割を演じているのか――。実態を捉えようと各方面へのアプローチを試みたが、取材はきわめて難航した。別に神社関係に限った話ではないのだが、日本会議の当事者や関係者は今回、私たちの取材の申し入れを次々と拒絶された。どうやら日本会議の事務局から指示も発せられていたらしく、ある神政連幹部は私の知人と通じていったんは取材に応じる姿勢を示してもらったのだが、「日本会議から取材には応じるなと言われた」と取材を突如キャンセルされたこともあった。 【日本会議の正体】青木理著/平凡社新書
May 22, 2021
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平安びとが信じた疫病デマ京都先端技術大学教授 山本 淳子正暦(しょうりゃく)五(994)年、平安京が疫病に見舞われた時のことである。左京三条南油小路西に小さな井戸があり、「この水を飲めば感染しない」と言いだす者がいて、都人はこぞって井戸に集まり、水を汲んだという。史料『日本記略』の記す事実である。今回のコロナ禍でもいくつかのデマが飛んだが、感染の恐怖におびえる人の心は千年前から変わらない。ところで、この噂の現場となった三条油小路の辻付近は、高級住宅街の一画であったにもかかわらず、妙に怪異が伝えられる場所だ。すぐ側に、藤原(ふじわらの)朝(あさ)成(ひろ)なる人物の「鬼殿」と呼ばれる邸宅があったのだ。事の経緯はこうだ。当時の貴族たちの出世競争は熾烈を極めており、朝成は競争相手である藤原伊尹(これまさ)より先に参議になろうと、伊尹の悪評をふれ回った。参議とは現代でいう閣僚にあたる公暁の末席である。ネガティブキャンペーンが奏功したのか否かは置いて、彼は伊尹より先に参議になることができた。だがそれから二年遅く参議となった伊尹の方が、以後の出世は早く、やがて摂政となって権力の頂点に立つ。朝成が、今度は大納言の地位を望んだ時、彼は伊尹に陳情しなくてはならなかった。だが、昔の恨みを忘れていなかった伊尹は、朝成を何時間も待たせたうえ、強烈な嫌味を放った。これを逆恨みした朝成は、生霊となって伊尹を早世させたというのである。怒りを胸に抱いた朝成は、持っていた笏(しゃく)を投げつけて割ったとも、憤怒のあまり足が腫れ上がって沓(くつ)が履(は)けなかったとも伝えられる。彼は死後も伊尹の子孫に祟る悪霊となり、伊尹一族は決して朝成宅へ出入りすることはなかった。こうして彼の邸宅は「鬼殿」となった(『古事談』巻二)。ちなみにこの藤原朝成は、紫式部の大おじにあたる。冒頭の疫病デマの井戸は「鬼殿」の斜め向かい。紫式部も来てその水を飲んだのだろうか。 【言葉の遠近法】公明新聞2020.7.1
May 21, 2021
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隠居後の偉人たちの生き方歴史作家 河合 敦現役時代の奮闘あってこその輝き人生100年時代を前に、定年後の人生、晩年をどう過ごすのか、関心が高まっている。江戸時代の人気絵師・葛飾北斎は、19歳で浮世絵師に弟子入りしてから画業一筋に生き、絵の数は優に3万点を超える。あの富嶽三十六景シリーズは、何と70歳を過ぎてからの作品だ。ただ、ずぼらな性格で描くこと以外は何もせず、部屋の中はゴミだらけだったという。89歳のとき「90歳になったら画風を一新し、100歳以降は画道の改革に邁進する」と述べていた。残念ながら90歳で病にかかり臨終を迎えるが、その時「天があと10年、いや5年、命を長らえさせてくれたら、私は申請の画家になれたのに」と悔やみながら死んだという。その向上心には敬服のほかはない。来年のNHK大河ドラマの主人公で、2024年から新一万円札の肖像になる渋沢栄一。生涯に500以上の会社の創業や経営に関わった大実業家で、日本資本主義の父とも呼ばれている。渋沢栄一は69歳で経営の第一線から身を引き、77歳で完全に引退した。だが、悠々自適な生活はせず。その後も精力的に行動した。大正時代、「都市と農村の結婚」を理念とする理想的な住宅地「田園調布」を分譲したのも栄一の功績が大きい。晩年の栄一が社会・公共事業に莫大な資材を提供したのは、それが富豪の社会的責任だと考えていたからだ。だから、関東大震災では自宅と事業所が全焼したのにもかかわれず、近隣の炊き出しを支援し、震災復興関係の委員を熱心に勤め、多額の資材を提供している。日米関係が悪化するとアメリカの事業化を招いて親善に勤め、自らも団長として実業家たちを率いてアメリカへ渡って親睦を深めた。最晩年には、日米の人形を互いに子どもたちに送る活動を推進した。91歳で死去するが、一実業家の枠に収まりきらない偉人だった。同じく新千円札の顔になる北里柴三郎は、所長をつとめる伝染病研究所が内務省から文部省の管轄となり、東大の付属にさせられてしまった。柴三郎は「伝染病予防を目的とする研究所を教育機関に付属させるのはおかしい」と反対したが、政府が強行したので退職した。このとき61歳。当時としては老齢なので隠居を考えたが全員、柴三郎の後を追って退職したのである。これに奮い立った柴三郎は、新たに研究所を立ち上げる。この北里研究所はやがて、伝染病研究において輝かしい成果を出すことになった。このように晩年の過ごし方は、偉人もさまざまである。死ぬまで道を突き詰めた葛飾北斎。現役時代に社会から受けた恩を返すため、世のために尽くした渋沢栄一。組織を離れ、積み上げたスキルを生かして独立した北里柴三郎。ただ、三者が共通しているのは、現役中に手を抜かずに仕事に打ち込み続けたことである。定年後が充実した人生になるか否かは、実は現役時代の生き方にかかっているといえるのではないだろうか。 かわい・あつし 1965年、東京生まれ。多摩大学客員教授。青山学院大学卒、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。著書に『禁断の江戸史』(扶桑社)、『晩年の研究 偉人・賢人の「その後」』(幻冬舎)など多数。 【文化】2020.7.1
May 20, 2021
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良き統治――大統領化する民主主義ピエール・ロザンヴァロン著古城毅、赤羽悠、稲水佑介、永見瑞木、中村督 訳 宇野重規 解説 「真実」と「高潔さ」が支配する政治空間を北海道大学教授 吉田 徹 評今ほど各国指導者の意挙手一投足に視線が注がれる時代はないだろう。既存の制度や利益が大きく揺らぐ時、次なる展望を切り開くことが政治の果たす役割であり、それゆえ政治指導者への期待、そして落胆は、当然なのかもしれない。本書は、世界で進む「大統領制化」の歴史的起源と制度的特徴を説き明かすものだ。「大統領制化」とは、一極集中のことを指す。対照的に、立法府やそしき政党阿衰退の一途を辿っており、それを推し進めるのは、著者のいう「特異性に基づく個人主義」、すなわち「社会的条件」よりも「個人史」が意味を持つようになった時代的特性である。議会や中間組織が個人の包摂する「認証の民主主義」のもとでは、有権者は大きな改革を求めることはない。しかし19世紀以降の選挙権の拡大、代表制の改善、国民投票の導入といった民主化の進展は、より実効性のある「行使の民主主義」を求めるようになる。かくして、二度の世界大戦とそのもとでの総動員体制を通じて、民衆的正当性を持つ指導者が希求されるようになったという。現在世界を騒がすポピュリズム政治は、いうなれば数世紀にもわたる長い民主化の不可避の帰結でもあるのだ。もっとも、統治する者(指導者)と統治される者(有権者)は、非対称的な関係にある。恣意的な権力を回避するのに必要となるのは「信頼の民主主義」だ。この新たな民主主義においては、執政府の応答責任などは引き出す制度的改革に加え、為政者に「真実を語ること」と「高潔さ」(一貫性や透明性と言い変えても良い)の資質が重視されるべきだという。こうして、真実と高潔が支配する政治空間作り上げられれば、人びとは民主政治がそもそも~内在させている不確定性に立ち向かうための勇気と知恵を授けられるようになる。そして、統治者と被統治者との間の相互的な信頼が生まれていくことになるのだ。歴史と思想を縦横無尽に往来しつつ、本書に通ていしているのは実践への強い関心だ。著者は、もともとキリスト教民主主義系の労働組合に属し、フランスの社会民主主義にコミットしてきた実務家だ。民衆化を推し進める不可避的な世界史的潮流の中で、民主主義という理想をいかに手放さず、現実を理想に近づけていくかという粘り強い思索の産物でもある。コロナ・ショックで不確実性が一層増している現下において、虚偽と言い逃れが跋扈するようになった民主主義おいかにバージョンアップさせることができるのか――そのヒントが山のように詰まっている。◇ピエール・ロザンヴァロン 1948年生まれ。フランスの歴史家・政治学者。フランス民主労働総同盟の経済顧問などを経て、現在、コレージュ・ド・フランス教授。翻訳された著書に『自主管理の時代』『ユートピア的資本主義』『連帯の新たなる哲学』『カウンター・デモクラシー』。 【読書】公明新聞2020.6.29
May 19, 2021
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アジア文学の萌芽<作家・村上政彦さんに聞く>アジアの物語作家を標榜する村上政彦さん。台湾に住む日本語俳人・劉秋日と、若い娘・秀麗の二人の関係を通し、日本と台湾の知られざる歴史、俳句を通した心の交流などを描いていく。近著『台湾聖母』(コールサック社)を巡り、話を聞いた。 台湾を観光旅行する若い人たちが、台湾について「ひどく懐かしい気がする」「昔の日本に出会ったような感じがする」と、割とすんなり話しているのを耳にします。それはごく当たり前のことで、台湾には数十年にわたる日本統治の歴史があります。だから、街の風景などにその名残が残っていないわけがないのです。ただ、そういう若い人たちが、その歴史を知らないと、台湾の人たちと向き合ったときに恥ずかしいと思うんです。『台湾聖母』は2003年、前半部分が「文学界」という文芸誌に掲載になりました。当時は、これで完結だと思っていたのですが、今回、書籍化の話をいただいたときに、続編を書きたいと思い立ちました。この17年間、アジアの物語作家として活動する中で、主人公である劉秋日と秀麗の二人が、台湾でどうしているだろうかと、思いだすことが何度かあったのです。この二人は、僕が造形した人物。実在するわけでもないのに、まるで台湾で生活しているかのようです。そんなこともあり、なんとなく、この作品はまだ終わっていないと感じていました。それで話をいただいたとき、続きを書きたいと思ったのです。もしかしたら今の形になるのを、作品自体が求めていたのかもしれません。 台湾には、劉秋日のように日本語を話す老人がたくさんいます。実は02年に、別の取材で台湾を訪れました。その時驚いたのは、当時、70代前半の人たちが日本語を流暢に話せるということ。中には、日本語の方が話しやすいという人も。その時、「そうか、植民地になるってことは、こういうことなんだ」と、まさに肌身で感じました。彼らの日本語に対する思いはさまざまです。日本語を嫌悪している人もいれば、愛情を持っている人もいます。当時、日本の天下だから、日本人のやりたいようにさせておけばいい、と思っていた人も。日本語教育を受けて、自分たちは日本人だと思っていた少年少女もいただろうと思います。特に、このような日本語教育に侵されて、日本人化させられてしまった人たちのことを、きちんと考えなければいけない。彼らは、ある意味、教育によって洗脳され、戦争が終わって、はしごを外されて取り残されてしまったのです。こう言った人たちに対して、どう思いをはせ、どのように総括していくか。それは彼らを抑圧した日本語の作家として、しっかり考えていかなければいけないと思います。 日本語教育から生まれた各地の作品 アジア・太平洋戦争によって、日本は、台湾や朝鮮半島、満州などを植民地化しました。満州は建前としては独立国になっていますが、実質的な植民地です。ここでは日本語教育が行われ、結果として各地で日本語の文学が生まれていました。現地の人たちが日本語を学んで作品を書き、最終的には「アジア文学」とでもいうべきものが形成されつつあったのです。そこには、小説や詩、短歌、エッセイなど、いろいろな作品がありました。ところが戦争によって、アジア主義的な思想が東亜共栄圏という侵略のためのイデオロギーに転嫁してしまい、戦後になると、一切顧みられなくなってしまいました。当時の文学について調べたことがあります。すごく興味深い作品ばかりでした。支配者側から見ている作品があれば、支配される側からの作品もあります。でも、作品が作られた風土が異なるので、おのずと違った作風になります。世界中を席巻しているグローバリゼーションにどう対応するか、文学にはこれまで二つの方法がありました。一つは流れを取り入れて、積極的に乗っかっていこうとする。作家でいえば村上春樹です。それに対して、強い大局を提示して対抗する方も。作家としては三島由紀夫でしょうか。これに対して、「アジア文学」というのは、第3極になると思うのです。かつてのアジア文学の萌芽は、戦争という巨悪の中から生まれたものだけれども、探れば歴史に学ぶことができるのではないかと思います。 むらかみ・まさひこ 1958年、三重県生まれ。87年に「純愛」で海燕新人文学賞を受賞。芥川賞候補に5度選出される。『ナイスボール』『トキオ・ウイルス』『「君が世少年」を探して』『台湾聖母』など著書多数。 【文化Culture】聖教新聞20206.30
May 18, 2021
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世界を結ぶ地涌の絆三國 秀夫 学生部教学室長 激動の時代――〝先駆〟の実践で社会を照らすパソコンやスマートフォンの画面上に、就職活動の悩みを打ち明けるメンバーや、友人への激励に奮闘するメンバーの顔が映し出される。身ぶり手ぶりを交えて近況を語る、友の明るい表情に、こちらも元気をもらう。オンライン上で喜びを分かち合い、励まし合う――今、全国各地の学生部で見られる光景だ。コロナ禍により、社会の〝当たり前〟も大きく変わった。感染拡大防止のための「新しい生活様式」に移行しつつある中、これまでの〝常識〟が問い直され、社会の様々な分野で思いもよらない変化が次々と起きていることを、日々感じている。 知勇兼備の闘将の集いきょう6月30日は「学生部結成記念日」。1957年(昭和32年)のこの日、男女学生部の代表約500人が集い、結成大会が開催された。その直前には、北海道・夕張で炭鉱労働組合が学会員が不当に弾圧した。「夕張炭労事件」が起った。直後の7月3日には、池田先生が不当逮捕される。「大阪事件」である。学生部は、権力の魔性と熾烈な闘争の渦中で産声を上げたのである。かつて先生は、「学生部こそ、無名の民衆を守り抜くことを使命として誕生した、知勇兼備の闘将の集いである」とつづられた。学生部の使命――それは、いかなる激動の時代にあろうとも、常に広宣流布に先駆し、英知の光で社会を照らしゆくことにほかならない。この誇りを胸に、私たち学生部は、社会が揺れ動くなかでも、常に前を向く。ウイルスの感染が広がり、緊急事態宣言が発令された4月は、ちょうど入学・進級のシーズンだった。学生部でも、例年であれば侵入性など、新たな友とつながる時期だったが、直接会えない、集まれないという状況が続いていた。しかし、各地のメンバーは知恵を湧かせ、工夫を凝らしながらも、電話やSNSなどを活用して、〝つながる〟挑戦を重ねてきた。こうした状況の中で、私自身、あらためて気づかされたのは、「同志との〝心の絆〟は、試練のときほど強靭さを増す」というまぎれもない事実だ。 心は瞬時につながる〝心の絆〟で思い起こすのは、日蓮大聖人が身延の地から、遠く離れた佐渡の門下・千日尼に送られたお手紙である。「譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ」(御書1316㌻)千日尼は、身延に入る大聖人に御供養を届けるため、夫の阿仏房を送り出し、佐渡の地で留守を預かっていた。その千日尼に対して、大聖人は、天空の月が瞬時に池に影を浮かべるように、また、古代中国の「雷門の鼓」の音が遠い距離を超えて直ちに伝わったとされるように、千日尼の身は佐渡に遭っても、その心は、私(大聖人)のいる身延にまで届いていると励まされた。物理的な距離は離れていても、心は瞬時につながっている――この慈愛の励ましに、千日尼は深く勇気づけられたに違いない。心の絆に、距離や時間は関係ない。相手を想う心は〝いつか〟ではなく、〝今この瞬間〟に必ず伝わるのだ。だらに大聖人は、「我らは穢土に候へども霊山に住すべし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」(同㌻)――私たちは、けがれた国土におりますが、心は霊山浄土に住んでいるのです。お会いしたからといって、どうなりましょう。心こそ大切なのです――と仰せである。仏法の眼から見れば、私たちの絆は、〝会う・会わない〟の次元を超え、生命の次元で深い宿縁によって結ばれた、久遠からの〝地涌の絆〟なのである。また、「御義口伝」には、「霊山一会顕然未散」(霊山一会厳然として未だ散らず=同757㌻)との一節がある。これは、法華経が説かれた霊鷲山の会座は、いまだなお厳然として散らず、永遠に常住しているとの意味である。「会座」とは、仏の説法を聞くために仏弟子達が集まった場所・儀式のことだ。このことについて池田先生は、「広く言えば、日蓮大聖人の門下として、異体同心で広宣流布に向かって進んでいる創価学会の姿そのものだが、『霊山一会顕然未散』と言えます」と述べられた。深い縁で結ばれた創価の同志の心は、どんなに離れていても、いずこの地にいたとしても、一つである。目には見えなくても、心の絆は厳然としてあるのだ。私たちは今、〝何としてもあのメンバーを励まそう〟〝あの友人に希望を送りたい〟と、オンラインを活用して、一人また一人と心を通わせ、絆を結び広げている。ウイルスとの闘いで物理的な距離は離れようと、心の距離は絶対に離れない――この思いが脈打つ創価の絆の真価は、あらゆる分野で、〝分断〟が広がる混迷の世界であって、今後ますます光っていくだろう。思えば、自然災害や疫病などが打ち続いた鎌倉時代、苦悩にあえぐ民衆に蘇生の励ましを送られたのが、大聖人である。たとえ直接会えずとも、手紙をしたため、会われたのと同じように心をこめて、多くの門下を激励された。手紙を受け取った門下もまた、文字を通して大聖人のお心を感じ、師の心を我が心として、苦難に立ち向かっていった。善なる人と人によって織り成される心の絆は、未曽有の災禍に遭っても変わらない。いやむしろ、世界中、同じ状況にある今こそ、さらに強く輝く希望となるに違いない。 「誓い」の共有ではなぜ、これほど強固な心の絆が、日本中、世界中で強く結ばれてきたのだろうか。私自身、信心に目覚めたのは、学生部の先輩の励ましがあったからだ。大学に進学すると、学生部の先輩は私のもとへ頻繁に訪れるようになり、私もやがて、学生部の集まりに参加した。そこで、池田先生の偉大さを語り合う同志の生き生きとした姿に触発を受け、「自分も、学生部の仲間たちと一緒に、広宣流布のために戦おう!」と決意したことを覚えている。特別なことは何もない。ただ、「師と共に広布に生き抜く」との誓いに燃え立つ一人から一人へ、いわば「誓い」が共有されていく中で、私たちの絆は結ばれてきたのだ。この方程式は、世界のどの地でも、また、いかなる時代になろうと、変わらないことだろう。妙法が、地涌の使命を自覚した一人から、「二人・三人・百人」(御書1360㌻)と唱え伝えられ、未来にまで続いていく――これが「地涌の義」である大聖人が示された通りである。 学生部の使命とは今、学生は大きな不安と向き合う。授業や就職活動などの先行きは見通せず、すぐ近くで励まし合える仲間にも会えない。しかしそれでも、自宅の机で、パソコンの画面に向かって、自身の未来を開こうと、学業に励む。日本だけでなく、世界の学生もまた、同じだろう。状況は異なるが、2011年(平成23年)を思い出す。東日本大震災が日本を襲った、あの日だ。当時、創価高校の3年制で卒業を控えていた私は、戦災を報じるテレビを前に、「これから先、どうなるのか」と大きな不安に襲われた。その5日後の3月16日。池田先生が、創価学園の卒業式に寄せられたメッセージは、今も私の心に刻まれている。「これから、どこにいようとも、私の心は常に、皆さんと一緒です。いつも成長を見守っています」その後も、困難に直面するたび、先生の励ましを思い起こし、自らを鼓舞して、挑み抜いてくることができた。1962年(昭和37年)、学生部への本格的な薫陶のため、先生は「大白蓮華」4月号の巻頭言で「学生部に与う」をつづり、呼びかけられた。「青年のなかにあって、特に学生部は、その先駆をきるべき責任と自覚をもつべきである」この〝先駆〟の誇りを胸に、私たち学生部は、広布を誓う絆を結びながら、希望の哲学を社会へ大きく広げゆく実践に、ともどもに挑んでいきたい。 【教学随想 日蓮仏法の視座】聖教新聞2020.6.30
May 17, 2021
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年こそ安心と確信の柱大田乗明下総地域で富木常忍、曾谷教信らと共に奮闘大聖人から重要な御抄を頂くなど信頼厚き門下壮年には、社会の荒波をくぐりぬけてきた政権がある。度胸がある。風格がある。一家も職場も地域も、重鎮たる壮年世代に覇気があれば、活気があふれ、隆々と発展していく。日蓮大聖人の御在世当時、多くの男性門下が信心の歩みを重ね、「広布の黄金柱」の壮年として活躍した。その一人が大田乗明である。大聖人の励ましを胸に、自らの苦難と立ち向かいながら、妙法流布に生き抜いた。大聖人のお手紙からは、その求道の姿勢に対する信頼や期待の大きさをうかがうことができる。 妻と共に真心の供養を行う大田乗明は、下総国葛飾郡八幡荘中山(現在の千葉県市川市中山)に住んでいた門下である。生年は大聖人と同じ貞応元年(1222年)考えられている。早い時期から大聖人に帰依したとされ、下総方面(現在の千葉県などの一部)の中心的門下だった富木常忍や曾谷教信らと支え合いながら、純真な信心に励んだ。大聖人が乗明、教信ら3人の門下に宛てられた「転重軽受法門」の内容から、文永8年(1271年)の竜の口の法難の直度、相模国の依智(現在の神奈川県厚木市)に留め置かれた大聖人のもとに、お見舞いを申し上げていることがわかる。この時、3人一緒に大聖人を訪ねたかどうかは定かではないが、師匠の最大の難にあっても信心を貫いたのである。また、大聖人が身延に入山された翌年の道12年(1275年)3月、乗明は教信との連名でお手紙を頂いている。(御執筆年を、これ以前とする説もある)。当時、あらゆる難との闘争の中で、大聖人が所持されていた聖教(教釈などの書籍)の多くが失われていた。大聖人は、こうした経典類の収集を二人に依頼された。大聖人はその際、「両人共に、大檀那なり」(御書1038㌻)と記されている。「檀那」とは、在家の有力な信仰者と言う意味で、仏教教団を経済的に支える人を指す。「大檀那」との仰せに、いかに大聖人が、この二人の門下を重んじられていたかを拝することができる。そんな乗明に試練が襲い掛かったのは、同じ年の建治元年(1275年)11月頃。病気に悩まされていることを、大聖人に御報告している。これに対する御返事の中で大聖人は、乗明の病気は、今までの真言の信仰を悔い改める心を起したゆえに、未来世に受ける苦しみを今、軽く受けているのであり、病を治して長寿にならないことがあるだろうか(同1011㌻、趣旨)と、万感の励ましを送られている。また、大聖人の身延入山後も、乗明は夫人と共に、米や銭、衣服などの御供養を続けている。大聖人はそのたびに心からの感謝の念を表わされると共に、供養の功徳は、計り知れないほど偉大であることを教えられている。例えば、建治3年(1277年)11月に、乗明の夫人が小袖(袖の短い衣服)を御供養した際には、後生(未来世)において極寒に責められるという苦しみを免れるだけでなく、今生には種々の大きな難を払い、男女の子どもたちにまでその功徳が及ぶ(1013㌻、趣旨)ロ仰せになっている。頂いたお手紙の内容から、乗明の夫人が、信心や法門の理解のうえでもすぐれた女性であることがうかがえる。真心の御供養をはじめ、師匠のために尽くし抜き、懸命に信心に励む功徳は、自らを包み守ることはもちろんのこと、子供達までも及んでいく――大聖人の確信の言葉に、偉大な師匠と最極の妙法を持つ人生の喜びを実感したに違いない。 師匠の精神を後生に伝える大聖人は、求道心あふれた乗明の信心の姿勢を、最大に称賛されている。弘安元年(1278年)4月に送られたお手紙の中で、次のように述べられている。「あなた(乗明)が、私(大聖人)の教えを聞いてからは、それまで信仰していた真言宗への執着をさっぱり捨てて法華経に帰依し、ついには自己の身命よりも法華経を思うほど、強盛な信心を確立するまでになった。これはまことに不思議なことである」(同1015㌻、趣旨)このような仰せからも、乗明が確固たる信仰の基盤を築いていたことが分かる。他の御抄では「聖人」や「上人」とまでたたえられている。ところで、このお手紙を頂く前に、乗明は「厄年に当たっており、そのためか、心身共に苦悩が多くなりました」(同1014㌻、趣旨)と、大聖人に報告したようだ。これに対して大聖人は、「法華経を受持する者は教主釈尊の御子であるので、どうして梵天・帝釈・日月・星々も、昼夜に、朝夕に守られないことがあろうか。厄の年の災難を払う秘法として法華経にすぎるものはない。まことに頼もしいことである」(同1017㌻、通解)と仰せになっている。法華経を持つ者は、諸天善神に必ず守られる。いかなる難も法華経の進行で免れることができる――師の励ましに、大きな勇気を得た乗明は、一層、信心を深めていっただろう。その後、乗明は「三大秘法禀承事(三大秘法抄)」を与えられている。三大秘法とは、大聖人が明かされた前代未聞の三つの重要な法理であり、大聖人の仏法における根幹である。この住所を後生へと託されたこと自体が、乗明に対する大聖人の深い信頼の表れであるといえよう。乗明は、大聖人が弘安5年(1282年)10月13日に御入滅になられた後、その翌年の同6年(1283年)4月26日に亡くなったとされている。(他の説もある)。師匠から重要な御抄を頂くとともに、最後まで、それを後世に伝えゆく、使命の生涯を送ったのである。池田先生は、下総地域で奮闘した三人の男性門下について、次のようにつづっている。「下総方面の中心であった、富木常忍、大田乗明、曾谷教信も壮年である。(中略)この壮年たちが、今こそ立ち上がろうと、勇猛果敢に戦い、同志を励ましていったからこそ、大法難のなかでも確信の柱を得て、多くの人々が、信仰を貫き通せたに違いない。壮年がいれば、皆が安心する。壮年が立てば、皆が勇気を燃え上がらせる。壮年の存在は重い。その力はあまりにも大きい」一人の壮年が揺るぎなき信心で立ち上がり、師匠のため、広布のために尽くす実践は、全てが福徳となり、自身のみならず、一家の勝利を築いていく。そして、周囲の人々にも励ましの輪を幾重にも広げていけるのである。 【日蓮大聖人の慈愛の眼差し】聖教新聞2020.6.29
May 16, 2021
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世界が希求する内なる変革の教育創価大学 高橋 強 教授新型コロナウイルスの感染が広がる中、創価大学では、いち早くオンラインを活用した授業を取り入れ、4月から新学期がスタートしました。大学のみならず小・中学・高校の学校現場など、さまざまな場面で、オンライン授業の導入をはじめとした教育環境の劇的な変化が起きています。今後も、教育の形は必要に応じて変わっていくでしょう。ゆえに今こそ〝いかなる変化の中でも「変わらない・変えてはいけない」教育の価値とは何か〟を追求すべき時であると実感しています。私は長年にわたり、創立者・池田先生の思想を研究する中国の学者らと交流してきました。本稿では、教育に携わる方々の思索の一助になればとの思いで、私なりの「創価教育」の考察や中国の研究者の視点を紹介させていただければと思います。 海外の学識者が池田思想を研究「創価教育」とは何は?――創価大学世教壇に立つ中に自身で問い続けてきました。しかし、「自身に問い掛ける」だけでなく、「世界へ発信する」使命を自覚した大きな転換点が訪れました。それは、2001年12月に「池田大作研究会」を北京大学に設立した賈蕙萓(かけいけん)教授との出会いでした。賈教授が好感教員として創大に滞在された当時、私は創大国際部の副部長として賈教授とよく語り合いました。池田先生のことについて、それはそれは多くのことを聞かれました。或る時、賈教授から「池田先生が一番よく使う言葉は何だと思いますか?」と尋ねられました。そして、「それは『勝つ』『勝利』ですよ」と言うのです。賈教授は日中友好に尽くす池田先生の功績を、よく知られていました。その上で、先生の思想は、幸福の人生を勝ち取るための実践の哲学であると見いだし、深めていかれたのです。賈教授によって北京大学の池田大作研究会は設立されると、中国各地の大学に池田先生の思想を研究する機関や学生団体が、次々と誕生。そして、各地の研究者が池田思想の研究成果を発表し合う国際学術シンポジウムが開催されるようになったのです。創大が共催し、中国前途の研究者が集まるシンポジウムは2005年に始まり、現在までに10回を数えています。私も創大の一教員として、創立者の人間教育について発表する機会を得ました。これが、創価教育について本格的に整理・試作するきっかけとなりました。 三代に継承され発展した理念賈教授をはじめ中国高官教員から、創価教育や池田先生の教育思想について問われた時には、私は次のように応えています。牧口先生と池田先生の教育の目的は同じであり、池田先生の教育思想は、牧口先生の価値論、戸田先生の生命論を受け継ぎ、自身の人間革命論を通して発展させたものである、と。つまり、1人間の内なる無限の可能性を開き鍛え(生命論)、2そのエネルギーを価値への創造へと導き(価値論)、3社会を築き、時代を決する根源の力を引き出す(人間革命論)――これこそが創価教育であると捉えています。その要諦は、人間を基準とし、人間の〝内なる変革〟を促す教育です。池田先生は、中国教育学会の顧(こ)明遠(めいえん)名誉会長との対談集『平和の架け橋――人間教育を語る』でこう述べられています。〝創価教育の目的は、美・利・善の価値を実生活の中で創造しゆく人格を育むことである。創価教育を人間教育と表現するのは、こうした人格を育てていく作業を重視しているからである。〟と。池田先生の教育理念の大きな特徴は、創価教育学の理論を教育現場や日常生活の上で実践できるように展開されたことにあります。そして、自身の振る舞いでその理念を体現される「知行合一(知識と行動の一致)」の姿に皆、納得と共感を示すのです。 多彩な分野に展開される哲学研究が進むにつれ、あらためて実感することは、池田先生の思想が、いかに偉大で深遠であるかということです。それぞれの学者が自身の専攻する学問を通して池田先生の思想を深め、現代社会に新たな価値を展開しているのです。この中国の学者による視点の一端を紹介したいと思います。牧口先生は「教育の目的は子どもの幸福」と厳然と叫ばれました。「人格を育む教育」とは、どこまでも「目の前の一人の子どもの幸福」に尽くすということにほかなりません。中山(ちゅうざん)大学「池田大作とアジア教育研究センター」副所長の王麗栄教授は「人格を育む」との観点から、「道徳教育」の側面に注目しました。「子どもを育む上では、単に知識を与えるだけではなく、人格的な成長を促し、健全に発育していくことが大事です。そのために何が美しく、人としての価値があることなのかを教える『美育』が有効です」「(言葉や振る舞い、表情などを通して聴衆や対話の相手の善性を引き出す)池田先生の焦点は、常に『人間』です。自身の全人格を通して目の前の一人を励まし、育てる。この先生が実践してこられた人間主義の教育は、まさに美育のお手本なのです」と語っています。一方、佛山(ぶつざん)科学技術学院「池田大作思想研究所」副所長の李(り)鋒(ほう)講師は、池田先生の「世界市民教育」に大きな共感を示しています。牧口先生は著書『人生地理学』で、郷土こそ「自己の立脚地点」であることに着目しました。そして、一人の人間は地域に根差す「郷土民」であると同時に、国家に属する「国民」であり、世界を舞台とする「世界民」であり、この三つの自覚を併せ持つことで、人生の可能性を豊かに開花できると訴えました。世界市民教育の魂があります。池田先生はコロンビア大学ティーチャーズカレッジでの講演(1996年6月)で、世界市民の三つの条件として、1生命の相関性を認識する「智慧」2差異を尊重し、成長の糧とする「勇気」3苦しむ人に同苦し、連帯する「慈悲」――を示しています。異文化コミュニケーションを研究する李講師は、〝池田先生の世界市民教育は、異文化理解の教育に大きな示唆を与え、地域や民族等に対する偏見や差別を取り除き、世界の平和促進に有益である〟と考察しています。また、陝西師範大学「池田大作・池田香峯子研究センター」副センター長の曹婷副教授は、〝全盛の開発を目標とする人間主義の教育は、民族やイデオロギーの壁を克服し、智慧を引き出し、真の文化を創出することができる〟と述べています。さらに、「子どもたちにとって、最大の教育環境は教師自身である」とは池田先生が示された指針です。肇慶(ちょうけい)学院「池田大作研究所」副所長である蒋(しょう)菊(きく)副教授は、この指針から「教師論」を展開します。「教師と子どもの生命の触発こそが教育の原点である」とし、教師自身の人生観、人間観の確立をはじめとした〝人間的成長〟が大切であると結論付けました。 変化の時代に挑む教育実践を今、中国をはじめ海外の研究者が注目しているのが、池田先生の提案によって創価学会の教育本部が推進している、人間教育の「実践記録」です。膨大な教育実践の記録が残っているという事業は驚嘆を持って受け止められています。教育本部の皆さまの使命は本当に大きいと思います。私自身も常に、小説『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章に描かれる山本伸一の姿を模範として、自分なりに実践してきました。オンライン授業という新しい環境の中でも、池田先生の一人を大切にする理念を実践へ移そうと、自宅などでも受講する学生たちが孤独を感じて居ないか、一人で悩んでいないかに気を配りながら、グループディスカッションを多く取り入れたり、なるべく学生の名前を直接呼びかけたりするなど知恵を絞り、工夫をこらす毎日です。三代にわたって受け継がれてきた創価教育は、今度は私たちの実践によって未来へと受け継がれていきます。未曽有のコロナ禍の中での教育実践は、政界の見えない、逡巡と決断の連続かもしれません。しかし「子どもの幸福」を追求してきた創価三代の人間教育も、激動の時代に挑み抜いた激闘によって現在の発展があります。その意味で、私たち教育者の日々の実践は、〝私の小説『新・人間革命』〟の新たな「人間教育」の章をつづりゆく挑戦である、とも言えるのではないでしょうか。10年後の創価教育100周年に向けて、共々に歩みを進めていこうではありませんか。 【寄稿 牧口先生の生誕の月に寄せて】聖教新聞2020.6.28
May 15, 2021
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水車の時代を想う法政大学 名誉教授 石神 隆一定の強さ持つ重要な動力流域の産業・文化を形成コトン、コトンと回るなぜか人懐っこい水車の音。今では実物の音を聞くこともまれになってしまった。かつて広く各地で使われた水車は、水の流れのエネルギーに変換する装置である。用途として、動力を精米や製粉など各種の仕事に使う動力水車と、農業用などに水を汲み上げる揚水水車の二つに大別される。火力による蒸気機関が出現するまで、動力といえば人力か牛馬の畜力、あるいは風力か水力しかなく、その中で水車は一定した強さを持つとりわけ重要な動力装置であった。水車動力は地域産業の歴史とも関係が深く、各地にその例を見い出すことができる。兵庫県灘地域における酒造業の発祥は、六甲山地からの急流を使った水車による精米能力の存在が決め手の一つであった。江戸後期に急増した清酒需要への対応には、元の伊丹山地などでの足踏み精米による酒造では間に合わなくなったからである。美しく強い有田焼の原料は、硬い陶石である。石を砕いて微紛化し磁気材料の陶土を造るのには多大な動力が要る。佐賀県有田から出荷され全国に行き渡るほどの地域産品になったのは、同県塩田川に沿う多数の水車が陶土生産に対応していたからである。今日、東大阪市には、金属加工をはじめハイテクなモノづくり産業が集積している。そのルーツの一つが、生駒山地からの渓流を利用した水車である。綿実油、薬種粉末製造等を経て、伸銅・伸線という比較的難しい金属加工に動力が使われ、その熟練技術の伝統が現在の東大阪に流れている。群馬県桐生地域は伝統的な絹織物の一大産地である。江戸後期から大正にかけ、同地には利根川水系の桐生川や渡良瀬川の水を利用した織物水車が立ち並んでいた。中でも複雑な機構を持つ撚糸水車には、江戸期からの高度な地域技術の蓄積があった。いくつかの例のように、近世から近代前期にかけ水車動力は産業の大きな立地要素となり、地域経済や文化を形づくっていったといえる。いうまでもなく水車には水流が必要であり、その水流は地域の自然である気象や地形によって生じる。水車の生み出す回転動力は遠くに持っていくわけにはいかず、その場で直接使う以外にない。結果として、地域の自然と地域の産業経済や文化が深くつながっていったのである。この構図は、蒸気や内燃機関などの火力の時代になって変化していくことになる。動力の立地が自由になるからである。規模も自然条件の制約が少なくなり、集中あるいは大型化が可能になる。どちらかといえば内陸から海岸部への産業の重心移行が進んでいった。20世紀には入っての工業拡大の時代、集中が加速し、国の姿は変貌していった。 自然の共生する国土創造の時代水車の時代を辿っていくと、かつて盛んに展開した全国各地での分散型の多彩勝つ独特な地域産業や、生き生きとした各地域の姿を掘り起こすことができるものである。これ等の国土利用、自然強盛、居住選択などの関係で、多様な技術革新、新しいインフラ、加速する情報化の中で、あらためて次代の国づくりや人々のライフスタイルを考え直す時代が来ている。のどかに回る水車の姿と人懐っこい音を思うと、将来への考えを巡らす潤滑油のようなものが身体の中に出てくるかもしれない。(いしがみ・たかし) 【文化】公明新聞2020.6.27
May 14, 2021
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小説で読む 土方歳三文芸評論家 細谷 正充幕末最大のフリー素材として次々と作品が今年の五月、私が編纂した歴史小説のアンソロジー『土方歳三がゆく』が集英社文庫から刊行された。収録してあるのは、新撰組副長の土方歳三を扱った短編六作だ。俳優の岡田准一が土方歳三を演じた新作映画『燃えよ剣』の公開に合わせて出版したのだが、頃中の影響で公開延期、近日公開になったのは残念であった。それでも売れ行きは悪くないようで、編者としてはホッとしている。これも土方の人気が高いお陰だろう。周知の事実だが、土方が広範なファンを獲得するようになったのは、司馬遼太郎の『新撰組血風録』(角川文庫)『燃えよ剣』(文藝春秋、新潮文庫)が書かれたことによってである。従来の土方は、冷酷非情な新撰組の副長というイメージでとらえられていいた。それが司馬作品により、豊かな人間性を与えられ、魅力的なキャラクターとして屹立したのである。以後、この司馬版土方のイメージが定着した。それから現代まで、司馬作品の影響は大きい。土方を描く作家は、否応なく意識せずにはいられないのだ。それだからこそ、さまざまな土方像が模索されてきた。一例として挙げると、アンソロジーの冒頭に収録した、門井慶喜の『よわむし歳三』だ。まだ何者でもない土方が、試衛館に入門する場面から、物語は始まる。強者揃いの試衛館のメンバーに囲まれ、決して強いとはいえない土方。新撰組の副長にして、用兵の才能を発揮しながらも、彼は自分の弱さにコンプレックスを抱き、何かしようと足掻くのである。幕末の京洛から箱館戦争まで戦い抜き、壮烈な戦死を遂げる。そうした軌跡から、土方は県も達者だったと思いがちである。だが作者は、彼の事績をきちんと検証して、斬新なキャラクターに仕立てた。そこに作品の魅力があるのだ。これは長編作品にもいえる。京極夏彦の『ヒトごろし』(新潮社、Kindle版)は、幼い頃に見た殺人が切っかけになり、人殺しという行為に魅了され、特異な殺人鬼になっていく土方が描かれている。新撰組という組織を作ったのも、誰にも文句をつけられることなく人を殺せるシステムがほしかったからだ。才能を見込んで何度も勝海舟が忠告するが、〝ヒトごろし〟の道を突っ走る。このようなキャラクターが成立するのは、新撰組以後も戦い続けた土方の人生が、多彩な物語を成立させるだけの膨らみを持っているからだろう。さらにいえば、逢坂剛の『果てしなき追跡』(中公文庫)は、箱館戦争を生き延びた土方が、アメリカに渡り戦いを繰り広げる。その他にも、土方が密かに生き延びていたという作品は意外とあるのだ。司馬作品から遠く離れた大勢の現代の作家によって、土方歳三は自由自在に扱われている。つまり、幕末最大のフリー素材になったのだ。だからこそ次々と、面白い作品が生まれているのである。 (ほそや・まさみつ) 【文化】公明新聞2020.626
May 12, 2021
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熱源 日本近代文学研究者 上田 正行 426頁に亘(わた)る大作『熱源』を読み終えた。直木賞の受賞作という興味から入ったわけではない。書評で、アイヌ研究者でポーランド人のブロニスワフ・ピウツキの名を見つけたからである。この名は二葉亭全集や中村光夫の『二葉亭四迷伝』でお馴染みであったので、強く惹かれたわけである。ロシア文学には「非常に真面目な、真摯な、子供のやうな純粋正直な人間」がいて、我々を驚かすが、そのような人物が自分の目の前に現れた。西比(しべ)利(り)亜(あ)で苦役に服し、40歳にして家をなさず、「アイヌ救済を一生の大責任と心得て、東京まで出て来た」(「露西亜文学断片」)と二葉亭は述べている。シベリアで苦役に遭ったのは弟のユゼフの方で、兄はサハリンに流刑となった。共にロシア皇帝暗殺未遂事件に関わった咎(とが)による。ロシア革命と並行して祖国ポーランドでの独立運動に加わる兄弟であるが、弟の方は「ポーランド独立の英雄にして独裁者」となり、兄は弟の政敵側についたためか、1918年(大正7年)5月、セーヌ川で死体となって発見された。第一次世界大戦終結の半年前であり、51歳であった。作品はこの独立運動に主眼があるのではなく、兄のサハリンでの生活にある。そこの原住民であるギリヤーク、アイヌ、オロッコへの興味をもって、その言語、民俗の研究に没頭し、やがてアイヌの娘と結ばれる。北海道帰りのアイヌも加わり、島を襲う疫病や日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争を通して、島の帰属や言語で揺れる住民の生活を活写しながら、適者生存という線化論に阿羅がい少数民族の存在意識を主張しようとする一大ロマンとまとめられようか。アイヌ研究者の金田一京助や南極探検隊の白瀬中尉も登場し、話題に事欠かないが、サハリン(樺太)は凍原、湿原ではなく「熱源」であるというのが作家、川越宗一の主張である。 【言葉の遠近法】公明新聞2020.6.24
May 11, 2021
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童謡詩人 野口雨情のシャボン玉野口雨情の生家・資料館 館長 野口 不二子 子どもの心を大切に「シャボン玉 きえた とばずに消えたうまれてすぐに こわれて消えたかぜかぜ 吹くな シャボン玉 とばそ」 この歌は約百年前に、詩人・野口雨情が書いた童謡です。雨情は北海道時代に、生後七日にして娘ミドリを亡くしています。その悲しみをシャボン玉に託し読んだのです。空に向かって子どもの夢がいつまでも健やかにありますように、「その夢が天まで届くまで風よ 吹かないでおくれ」と訴えているようです。そして「今は悲しいけれども人はいずれ乗り越えて幸せになっていけるんだよ」と喜びを破壊する抵抗が込められています。だから、この歌には希望も感じられます。今年は雨情没後七十五年になります。三大童話詩人といわれる、北原白秋、西條八十と共に野口雨情(一八八二~一九四五)は大正・昭和の時代に三千詩近い民謡・童謡を発表しています。雨情は明治三三年(一九〇〇)、一八歳で東京専門学校(現・早稲田大学)の文科に進学し、坪内逍遥と出会い、それによって詩人として進む道に大きな影響を受けます。生涯を導いていただいた恩師であり、「詩人たるものはいかなる時でも地味で謙虚でなくてはならない」という逍遥からの哲学を雨情は貫いています。雨情という名は、二十歳ごろから雅号として用い、「雲恨雨情」という、しとしと降る春の雨の趣を中国の古文にある詞の中からとったものです。雨は巌をも通すほどやさしいという意味です。雨情の詩の基は、故郷の農・漁村生活から生まれた自然詩であり、虚飾のない素朴さと美しい叙情にあふれ、貧しい人々の生活や弱者に対する限りない温かいまなざしが内在しています。雨情は童謡の真髄である「童心」について深い考察を残しています。童謡とは、子どもの心に映ったそのままの感情を、子ども自身の持っている優しい言葉を大切にして歌われています。幼い時から感情豊かで心優しい性質を養っていくことで、やがて大人になった時に人情味豊かで責任観念の強い人間に成長するのです。すなわち童心とは永遠の児童性であり、時代や生活環境が変わっても変わることのない思想感情のことです。人がんが生きていく上で、「変わらないものがあっても良いはず」と雨情は言い切っているのです。 苦難乗り越える希望を「童謡は童心の宿り木」と言って生涯「童心芸術」を貫いた人です。コロナ禍に見舞われた未曽有の社会は、重くて辛くて心を抉(えぐ)られる日々です。雨情の詩の行間の中を胸いっぱい吸って、吐いて読んでみてください。幼くして亡くなった娘に「いつまでもお前のことを忘れないよ」と祈っているようです。いつの時代にあっても生命の尊厳が一番大切なことと、慈雨のことば、心の滋養が伝わってくるようです。機会を作って歌ってみてください。 【文化】公明新聞2020.6.24
May 10, 2021
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運というものは、いたずらに怠惰を貪るものへは転がり込んで来ない。つねに上の地平をめざし、命を賭けて闘い続ける者の前にこそ、道はひらける……【臥竜の天】火坂雅志著/祥伝社文庫
May 9, 2021
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第30回 池上兄弟・中池上兄弟夫妻の信心の団結によって、兄・宗仲の勘当は解かれました。日蓮大聖人は、建治3年(1277年)8月に弟・宗長へ送られたお手紙(「兵衛志殿御返事〈鎌足造仏事〉」)の中で、兄弟に対し、「世間の人たちは兄弟で二人が、すでに信心を捨てたと見ていたのに、このように立派に信心を全うしてこられたのは、ひとえに釈迦仏・法華経の御力であると思っていることでしょう。私もそう思っています。後生の頼もしさはもうすまでもありません」(1089ページ、通解)と褒めたたえられています。このお手紙の冒頭には、御供養に対するお礼が認められています。また、同年11月には宗長の妻が、大聖人に銅の器を御供養しています(1097㌻、参照)。これらのことから、兄の勘当で信心が揺らぐことが心配された宗長でしたが、その後も夫婦して信心に励んだことがうかがえます。ところが、この年、兄・宗仲は、再び勘当されてしまったのです。その裏には、父・康光が信奉する極楽寺良観の卑劣な謀略がありました。 良観が父をそそのかす建治3年6月に、極楽寺良観と密接な関係があった竜象房という僧が、鎌倉の桑ヶ谷(現在の鎌倉市長谷)で行われた「桑ヶ谷問答」で大聖人の弟子の三位房に敗れます。そもそも良観は、この6年前、文永8年(1271年)の祈雨の勝負で大聖人に敗北して以来、その恨みを募らせていました。文永11年(1274年)3月に流罪されていた佐渡の地から大聖人が戻ってきた時、良観は、怒りと悔しさのあまり、地団駄を踏んでいたに違いありません。そしてその3年後、桑ヶ谷問答によって、すっかり面目をつぶされた格好となった良観は、大聖人と門下に対する激しい憎しみの心燃え上らせたのでしょう。今度は、大聖人に新ではなく、門下を狙って弾圧を企てます。良観は、自身の信奉者である父・康光をあおり立て、池上兄弟を追い詰めようとしたのです。大聖人は、そうした良観の策謀を見抜かれ、「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わ(和)どの(殿)ばら二人を失はせんとし」(1095㌻)と、良観ら天魔の法師が、康光をそそのかしたと糾弾されています。同じ頃、桑ヶ谷問答に同席していただけの四条金吾もまた、良観を信奉していた主君の江間氏から、法華経の信仰を捨てるよう迫られています。 2度目の勘当を予見実は大聖人は、2度目の勘当以前に、弟・宗長の夫人が身延を訪れた際、兄・宗仲が必ずもう一度勘当されると予見した上で、そうなった時の、宗長の信心が気掛かりなので、夫人がくれぐれもしっかりするようにと、激励されていました(1090㌻参照)。夫の信心を揺るがすような事態にあった時には、夫人の信心が大事であることを改めて教えられます。建治3年3月に宗長の妻に送られたお手紙(「兵衛志殿女房御書」)では、尼御前を載せて大事な馬を遣わせたことなどについて、「兵衛志殿のお志は言うまでもありませんが、むしろ女房殿のお心遣いでありましょう」(1094㌻、通解)と述べられています。夫を支えゆく婦人の真心に思いをはせて励ましを送られる大聖人の慈愛を感じる一節です。宗長の信心が試される時に、宗長の妻に対して、特に心を砕かれていたことが拝察されます。大聖人はまた、宗長にお手紙(鎌足造仏事)を送り、「此れより後も・いまなる事ありとも・すこしもたゆ(弛)む事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設(たと)ひ命に及ぶとも少しも・ひるむ事なかれ」(1090㌻)と、兄弟がこれから先も大きな難に遭うことを想定され、たとえ命に及ぶようなことがあったとしても、ひるんではいけないと、兄弟を強く励まされました。 「第一の大事」兄・宗仲の2度目の勘当の報を受けられた大聖人は、同年11月20日、弟・宗長にお手紙を認められます。(「兵衛志殿御返事〈三障四魔事〉」、このお手紙は、「何よりも、あなたのために、第一の大事なことを申しましょう」(同㌻、通解)との仰せから始まります。それは1回目の勘当の時と同様、宗仲ではなく宗長の信心を気に掛けておられたからです。兄が勘当されれば、弟が家督を継ぐのが道理といえます。ところが、兄弟そろって勘当されることになれば、池上家は養子を迎えるなどしなければ、家を存続させることはできなくなります。宗長は、実子に家督を継がせたいであろう親の気持ちを思いやったことでしょう。信仰か親孝行か――宗長は、再び選択を迫られているように感じたかもしれません。 不退転の決意を促すそのような親を思う宗長の心を分かっておられたからこそ、大聖人は、宗長の迷いを振り払うため、あえて厳しく戒められます。まず、「師と主と親とに随っては悪いときに、これを諌めるならば、かえって孝行となる」(同㌻、通解)ことを確認されます。このことは、1回目の勘当の際に送られた「兄弟抄」でも仰せです。「三障四魔事」の後半でも、「あい難い法華経の友から離れなかったならば、わが身が仏になるだけでなく、背いた親をも導くことができるでしょう」(1092㌻、通解)と重ねて示されています。この仰せは、信心を貫くために、常に立ち返るべき重要な原理といえます。その上で、大聖人は兄の宗仲について、「今度、法華経の行者になるでしょう」(1091㌻、通解)と仰せになる一方、弟の宗長については、「あなたは目先のことばかりを思って、親に従ってしまうでしょう。そして、物事の道理のわからない人びとは、これを褒めるでしょう」(同㌻、通解)と心配されています。さらには、「今度は、あなたは必ず退転してしまうと思われます」(同㌻、通解)等と繰り返し仰せです。そして,『百二一つ、千に一つでも日蓮の教えを信じようと思うならば、親に向かって言い切りなさい」(同㌻、趣意)と、毅然とした態度で、父に不退転の決意を示すべきであると、指導されます。「一筋に思い切って兄と同じように仏道を行じなさい」「『私は親を捨てて兄につきます。兄を勘当されるのならば、私も兄と同じと思ってください」と言い切りなさい』(同㌻)――まるで、方を抱えて力強く揺さぶるかのように、大聖人は何度も何度も、宗長の勇気と覚悟の信心を奮い起こそうとされます。あいまいな態度ではなく、兄と行動を同じくすることを、決然と言い切ることができるかどうか――ここが、宗長の信心の分岐点でした。〝幸福への道を断じて踏み外させまい〟。門下を思う慈愛に満ちた大聖人の激励に呼応するように、宗長の胸中には、兄と共に信心の貫く決意が固まっていったことでしょう。 賢者は喜び、愚者は退く大聖人は、続けられます。「潮の満ち引き、月の出入り、また季節の節目には、大きな変化があるのは自然の道理です。同じように、仏道修行が進んできて、凡夫がいよいよ仏になろうとするその境目には、必ずそれを妨げようとする大きな障害(三障四魔)が立ちはだかるのです」(同㌻、趣意)そして、「必ず三障四魔と申す障りいできたれば賢者はよろこび愚者は退く」(同㌻)と、〝難に遭ったことは、いよいよ大きく境涯を開くチャンスだ〟と、喜んで立ち向かう「賢者」であれと、信心の姿勢を教えてくださっています。〝あなたは今、まさに仏になろうとしているのです!〟との確信の大激励です。信心根本に難と戦えば、仏界の生命は涌現します。この「難即悟逹」こそ、大聖人御自身が、数々の大難を勝ち越えて示してくださった大境涯です。また、三障四魔は、紛らわしい姿で法華経の行者の信心を破壊しようと迫ります。あたかも信心を捨てることが正しいかのように思わせるのです。だからこそ大聖人は、魔を競い起させるほどの純真な信心を貫いてきた兄弟、なかんずく宗長を、退転させるものかと心を砕かれたと拝せます。池田先生は、「多くの人が仏になれないのも、遠い過去から今に至るまで、せっかく法華経を信じながらも障魔に敗れてしまったからだと仰せです。障魔が起った『今、この時』が肝要であると教えられています。三障四魔は成仏への関門です。ここを乗り越えれば必ず仏になれる」(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第13巻)と講義されています。大聖人は、宗長が兄の勘当お報告しる使いお送ったことから、「あなたが退転してしまうものならば、まさかこのお使いがあるわけがないと思いますので、もしかしたらあなたも信心の全うできるかもしれない」(同㌻、通解)と、宗長の思いを汲み取り、温かな励ましも送られています。 現証を示して諭される「三障四魔事」の最後では、念仏の強信者で、執権・北条時頼の連署(執権の補佐役)を務めた北条重時が、大聖人の伊豆流罪(弘長元年〈1261年〉)の1カ月後に病に倒れ、一度は回復するも半年後に亡くなり、将来を期待した子息が、越後守の業時を除いて死去や遁世してしまうなど、正法を誹謗した一族に現れた苦しみを示されています。たとえ弟・宗長画家と苦を継いだとしても、法華経の信心を捨ててしまえば、結局は池上家も滅んでしまうかもしれないと、現証の上から厳しく諭されているのです。このお手紙は、「このようにいっても、無駄な手紙になるであろう思うと、書くのも気が進まないけれども、後々に思い出すために記しておきます」(1093㌻、趣意)との言葉で結ばれています。これほどまでに一貫した、〝宗長は退転するに違いない〟との仰せは、弟子の奮起を願い、信じる慈悲の言葉にほかなりません。あえて厳しく叱咤される師匠の深い信頼を感じ、宗長は宗を厚くしながら、試練に打ち勝つ勇気を漲らせたに違いありません。兄弟二人は前回の勘当の時にもまして心を合わせて信心に励み、父親に極楽寺良観の誤りを粘り強く指摘し続けたことでしょう。その陰に、妻たちの揺るぎない信心による励ましがあったことは間違いありません。こうして、大聖人のご指導のままに兄弟ならびに妻が団結して信心を貫いたことで、2度にわたって兄弟を襲った魔も、ついに退散するときがくるのです。(つづく) 【日蓮門下の人間群像――師弟の絆、広布の旅路】大白蓮華2020年7月号
May 9, 2021
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日蓮の弟子と名乗りなさい南条兵衛七郎 一族で大聖人に帰依した広布の父 最後まで信心を貫き後継の日を開いた「広宣流布は、『一人立つ』ことから始まる。そして一人ひとりが、自分の場所をば、使命を果たすべき『広布の天地』として立ち上がるところに、『人間革命』があることを、絶対に忘れてはならない」かつて池田先生は、こうつづった。日蓮大聖人の御在世当時、駿河の天地を舞台に、南条家の人々は強盛な信心に励み、広布史に名を刻んだ。その一家の信心の起点となった人物がいる。その人こそ、南条時光の父・南条兵衛七郎である。一族で最初に大聖人に帰依し、病魔と戦いつつ、最後まで信心を貫いた。広布に一人立つ勇者によって、いかなる未来が築かれていくのか――その答えは、兵衛七郎の人生が克明に物語る。 真心あふれる一通のお手紙南条兵衛七郎は、駿河国富士上方上野郷(静岡県富士宮市下条)に住んでいた武士で、「上野殿」とも呼ばれた。先祖が伊豆国田方郡南条郷(静岡県伊豆の国市南条周辺)を本拠地とする一族であることから、「南条」の名字を名乗った。もとは一族で念仏を信仰していたが、兵衛七郎はおそらく鎌倉にいた時に大聖人に帰依し、法華経の信仰に励むようになったと考えられる。駿河国は、北条得宗家が守護として支配した地域であり、特に上野郷がある富士方面は、念仏の強信者である北条重時の娘で、北条時頼の妻の御家尼御前らの影響が強い地域であった。兵衛七郎が法華経を持ったことに対し、身内は癡地域住民からも、驚きや反対が起ったことは容易に想像ができる。そうした中、信心に励んでいた兵衛七郎だが、文永元年(1264年)12月、思い病に伏していた。まだ働き盛りで、これからという年齢だったろう。親類からは〝これを機に、念仏に再び帰依せよ〟と勧められたかもしれない。大聖人は、兵衛七郎が病に伏していたことを聞かれるやいなや、お手紙(「南条兵衛七郎殿御書」)を送られた。兵衛七郎に宛てられたお手紙は、この一通しか伝わっていないものの、この一ツウこそが、兵衛七郎の心に渦巻く恐れや迷いを打ち払い、揺るぎない信心の一念を確立された。また、妻の上野尼御前や息子の時光ら家族が正法弘通に献身していく道を開いていったのである。このお手紙が送られる1カ月前、大聖人は「小松原の法難」に遭われ、額に傷を被り、左手を打ち折られている。傷も癒えぬ中で認められたお手紙は、御書全集で9ページ、400字詰め原稿用紙にして15枚に相当する長文であり、病床の門下を全力で励まされようとする大聖人の大慈大悲を感じられてならない。お手紙には小松原の法難についても克明に記され、命懸けで広宣流布を進める「日本第一の法華経の行者」(御書1498㌻)の御確信がつづられている。また大聖人は、念仏信仰を破淅し、法華経こそが釈尊の真意を説いた教えであることを明かされ、破邪顕正の精神を打ち込まれる。 「どのような大善を作り、法華経を十万部読み、書写し、一年三千の観法の道を得た人であっても、法華経の敵(かたき)を攻めなければ仏の道を得ることはむずかしいのである」(同1494㌻、通解) この御文は、初代会長・牧口常三郎先生の御書にも強く赤い線が引かれていた一節である。大聖人は法然の念仏を破淅されるが、現代で言えば、「法華経の敵」とは、浅い教えに執着し、万人成仏を説く法華経に敵対する者のことである。法華誹謗という根源の悪と戦い、不幸の流転の根元を断ち切る――兵衛七郎は病床で、一生成仏の急所を師から教わり、周囲の反対に屈せず、師が呼び掛けた「大信心」(同1497㌻)を奮い起こすことを誓ったであろう。 「師弟」こそ仏法の精神兵衛七郎の病状は大変に重かったようで、大聖人は、このお手紙の終わりに次のようにつづられた。 「もし日蓮より先に旅立たれるなら、梵天・帝釈天・四大天皇・閻魔大王らに申し上げなさい。『日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子である』とお名乗りなさい。よもや粗雑な扱いはなされないだろう」(同1498㌻、通解) この力強い大聖人の励ましを受け、〝今世も、そして来世も、師匠と一緒に生き抜くのだ!〟との思いが兵衛七郎の心を満たしたであろう。池田先生は、本抄の講義で呼び掛けられている。「いざという時に、胸を張って『日蓮の弟子』と言い切ることができるかどうか。日蓮仏法の根幹は、どこまでも師弟です。三世にわたって師弟に生き抜く誓願と実践が、一切を開きます。私たちの日々の実践に即するなら、『我、創価学会員なり!』と喜びの唱題を重ね、広布の活動に励むことです。その信心があれば、三世十方の仏・菩薩・諸天善神が動きます。そして、その人自身が、未来永遠に『仏』と輝くのです。日蓮仏法の根幹を教えられた兵衛七郎は、病床にあって、大聖人のお手紙を幾度となく拝したであろう。そして最後まで師弟の道を歩み抜いたに違いない。お手紙を頂いてから3カ月後の文永2年(1265年)3月8日、兵衛七郎は霊山に旅立った。兵衛七郎が「臨終正念」(同1508㌻)の姿を厳然と示したことを、大聖人は伝え聞かれている。この時、時光は7歳、末っ子の五郎は上野尼御前のおなかの中にいた。しばらくして大聖人は、鎌倉からはるばる上野郷に出向かれ、墓参なされる。この時、幼い時光は大聖人と初めての出会いを結んだ。時光は父の願い、母の祈り、そして師匠の期待を一身に受け、立派に成長を遂げる。さらに、時光だけでなく、他のきょうだいも続き、兵衛七郎の強盛な信心は多くの子が受け継いだ。広布大願に立つ「一人」がいなければ、仏法は必ずや二人、三人、百人と唱え伝わっていく――大聖人が示された「地涌の義」を、南条兵衛七郎はその人生を通して示しきったのである。 【日蓮大聖人の慈愛の眼差し】聖教新聞2020.6.22
May 8, 2021
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二十世紀の短歌界を牽引「アララギ」の系譜歌 人 大辻 隆弘 大正期は知的な青年らを魅了戦後は民衆に開かれた結社に 二十世紀の短歌は結社を基盤として発展してきた。志を同じくする歌人が集まり、機関誌を持ち、相互批判をする。その結社の理念に賛同する者が集い、自分の短歌の技量を高めていく。そのような形が、短歌享受の一般的な形態となった。アララギは、二十世紀を通じて最も大きな影響を持ち、最も多くの歌人を輩出した結社であった。アララギの源は、正岡子規が短歌革新運動の拠点として、結成した根岸短歌会である。一九〇〇(明治33)年に作られたこの短歌会には、伊藤左千夫・長塚節(たかし)などが集い、「万葉集」の文体を継承した「万葉調」と、「写生」を標榜した新しい歌が模索されてゆく。子規の死後、伊藤左千夫は、一九〇八(明治41)年に機関誌「阿羅々木」(のちに「アララギ」と改題)を発刊した。この機関誌には斎藤茂吉・島木赤彦・中村憲吉・古泉千(ち)樫(かし)・土屋文明(ぶんめい)など若い歌人たちが集まり、左千夫と対峙し内部議論を活性化していった。大正期に入ると、島木赤彦が編集の中心となる。彼は作歌を「鍛錬道」として捉え、清らかな目で自然の寂しさを捉えることを会員に求めた。その真摯な姿勢は、大正期の人格主義に合致し、知的な青年たちを魅了した。彼の主導によってアララギは、大正末期には短歌会で最大の勢力を持つ結社となった。赤彦の死後、昭和期に入ると、斎藤茂吉と土屋文明がアララギの中心となる。彼らはそれぞれ選歌欄を受け持ち、柴(しぼ)生田(うた)稔・吉田正俊・五味保義・山口茂吉・佐藤佐太郎・中島栄一ら、個性あふれる人材を育てた。昭和十年代末期には、アララギのは約一万人の会員を擁する大結社となった。戦後のアララギは文明を中心に「生活即短歌」という理念を掲げ、民衆に開かれた結社となっていく。そのなかから近藤芳美・高安国世・岡井隆ら戦後短歌を牽引する人材が登場してきた。が、文明の死を契機に、アララギは歴史的使命を終え、一九九七(平成9)年、九〇年に及ぶ歴史に幕を下ろした。アララギの歌はリアリズムを基本とする。自然や社会を写実的に捉え、そこに作者自身の心情や思想を滲ませる。それによって、うたの背後に肉厚で思索的な作家像が浮かび上がってくる。 おりたちて今朝こそ噛む差を驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く伊藤左千夫 白埴(しらはに)の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみんけり長塚節 みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ島木赤彦 沈黙のわれに見よとぞ百房(ひゃくふさ)の黒き葡萄に雨ふりそそぐ斎藤茂吉 垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ土屋文明 今しばし麦うごかしてゐる風を追憶を吹く風とおもひし佐藤佐太郎 たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思いき近藤芳美 眼前の状況を歌いながら、そこに深い心情が滲ませたこのような歌は、二十世紀の短歌の主流となっていく。アララギのリアリズムは、短歌を近代文学にまで高めるための原動力となったのである。(おおつじ・たかひろ) 【文化Culture】聖教新聞2020.6.21
May 7, 2021
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異例の出世した歌舞伎役者の苦心譚落語評論家 広瀬 和生 中村仲蔵歌舞伎の世界を題材にした人情噺の名作に『中村仲蔵』がある。後に名人といわれる初代中村仲蔵の苦心譚だ。中村伝九郎の弟子の中村仲蔵が苦労を重ねて名題へと上り詰めた。名門の出ではない仲蔵がここまで出世したのは異例中の異例。仲蔵に目を掛けた四代目市川團十郎の後押しあっての昇進だった。名題になった仲蔵に初めて来た役は『忠臣蔵』五段目の斧定九郎。判官切腹の四段目は誰もが集中して観るが、それに続く五段目は見る価値がないとされ、四段目の緊張から解放された観客はろくに舞台を見ずに弁当を食べていたので「弁当幕」と呼ばれていた。まして当時の斧定九郎は山賊姿の冴えない役で、名題が演(えん)るなどあり得ない。「出る杭は打たれるということだ」と腐る仲蔵。だが女房は「これは團十郎親方が、あなたなら何か工夫してくれるんじゃないかと謎をかけたんだろうと思う」と励ます。発奮した仲蔵は今までにない定九郎を創作しようと決意。雨宿りをした蕎麦屋で出会った浪人の姿をヒントに、後世に残る錦絵のような素晴らしい定九郎を作り上げた。だが、あまりに見事な定九郎を始めて見た観客は声も出せず、ただ唸るのみ。それを「しくじった」と勘違いした仲蔵は「もう江戸にはいられない」と旅立つが、「あの定九郎には惚れ惚れした。さすが仲蔵、凄い役者だ」と称賛の町の声を聞く。そこに師匠の伝九郎からの使いが来る。急いでいくと、伝九郎は「お前の定九郎は江戸中で大変な評判だ。私のようなものからよくぞ、お前のような者が出た」と誉め、家宝の煙草入れを仲蔵に渡す。仲蔵は帰宅して「師匠に誉められた、旅に行かなくていいんだ」と女房に告げる。それを聞いて涙を流す女房……。三代目中村仲蔵の聞き書き芸談集『手前味噌』を元にした演目で、八代目林家正蔵が得意とし、五代目三遊亭圓楽が「夫婦の愛情」にスポットを当てて現代人が共感する人情噺として磨き上げた。さらに工夫を加えて独自のサゲも考案した五街道雲助や柳家花禄といった演者もいる。ちなみに六代目三遊亭圓生は名題になるまでの仲蔵の逸話を盛り込んで演じ、立川志の輔、立川志らくはそれを部分的に取り入れている。 【落語を楽しもう‣⑤】公明新聞2020.6.20
May 6, 2021
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西宮砲台と英国海岸武庫川女子大学教授 丸山 健夫 阪神電車香(こう)櫨園(ろえん)駅から夙(しゅく)川(がわ)沿いを南に歩けば、御前浜(おまえはま)という海岸に出る。ここはかつて、日本の草分けの海水浴場があった。この浜の東端に風がわりな円形の塔がひとつある。幕末に勝海舟がつくらせたという西宮砲台だ。周囲が海水浴場になると、その屋上はビアガーデンにもなった。だが、こんな嘲笑の噂もささやかれる。試しに空砲を撃ったら内部に煙が充満し、使い物にならなかった。実践では役立たずだろう。この砲台の設計者は、勝海舟の一番弟子、佐藤与之助だ。庄内藩出身で神戸海軍操練所の責任者であり勝塾の塾頭。竜馬ファンならお馴染みの人物だろう。佐藤は維新後には新政府の鉄道助にまでになり、日本最初の新橋横浜間、二番目の神戸大阪京都を結ぶ鉄道建設で大活躍をする。そんな優秀な技術者が、使い物にならない砲台お設計するだろうか。そんな疑問が湧いた私は、佐藤の汚名を晴らそうと二年前、一つのテレビ番組を制作した。そしてそのリサーチで、英国南部の海岸線に西宮砲台とよく似た円筒形の砲台を見つけた。マーテロ―タワーという名前のその砲台群は、ナポレオンの上陸に備えて英国の海岸沿いに数珠つなぎに百三個も建設された。その使用法をみて謎が解けた。大砲は屋上に設置されるべきものだ。噂の試射ではお城の大砲隊のように、大砲を建物内部に据えて撃っていた。こうして佐藤与之助の濡れ衣は晴れたが、その名はあまりにも知られていない。幕府側に付いた藩の出身だからか。いや、彼が技術者であったことが大きな原因だろう。日本の技術者はどうも浮かばれない。もっと正当な光が理系の人々に当たる社会になれば、日本の未来はさらに明るくなるだろう。 【すなどけい】公明新聞2020.6.19
May 5, 2021
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ドイツ地質学者 ウェゲナー 大陸は海を移動する京都大学教授 鎌田 浩毅最近の日本では地震が頻繁に発生しており、首都直下地震や南海トラフ巨大地震の前触れではないかと心配する声がよく聞かれる。私の専門である地球科学では、それらの前兆現象という科学的な根拠はまだ得られていない。実は、地震現象の根底には「プレート・テクニクス」という地球科学の理論があるのだが、その基礎を今から100年ほど前に独力で築き上げた科学者がいる。ドイツの地質学者アルフレッド・ウェゲナーは、一九一五年に『大陸と海洋の起源』という本を刊行した。ここには、地球上の大陸は海の上をすべるように移動する、という大胆な考え方が記されていた。後に「大陸移動説」と呼ばれる仮説だが、巨大な大陸が漂うというアイデアはあまりに奇抜すぎたため、同時代の学者は全く受け入れることはできなかった。ウェゲナーは大陸が動いたという地質学上の証拠を続々と集め、第一次世界大戦のさなかにも加筆を繰り返して第四版まで刊行した。それにもかかわらず大陸移動説は認められず、彼は変人扱いされた。その後、ウェゲナーはグリーンランドの探索中に行方不明となり、大陸移動説は半世紀のあいだ、地球科学の表舞台から姿を消すことになる。状況を変えたのは戦争だった。第二次世界大戦の副産物として開発された音波発生装置を用いて、海底の詳細な地形図が描かれた。同時に、海底でマグマと近くが大量に生産されており、それらが大陸を動かす原動力であることが分かった。ウェゲナーの生前に評価されなかった大陸移動説は、膨大なデータに裏打ちされて劇的に復活した。さらに彼仮説は大きく進展し、プレート・テクトニクスとして結実した。すなわち、プレートと呼ばれる地下深部の熱い岩板の動きから、地震や噴火を起すメカニズムが判明したのだ。これによって、九年前に発生した東日本大震災の原因も明らかになり、これから起きることが確実視される都市直下地震と南海トラフ巨大地震への防災に役立てられている。このたび私は長らく絶版となっていた『大陸と海洋の起源』の日本語訳を復刊した【写真】。訳者は小松左京原作の映画「日本沈没」にも出演した竹内均東京大学理学部教授(当時)である。さらに原著を分かりやすく読み説くため、現代の視点から見た解説を末巻に三〇㌻ほど載せた。地球科学には「過去は未来を解く鍵」というフレーズがあるが、過去に起きた現象をくわしく調べることで未来の予測が可能になる。こうした基本的な地球科学の考え方も本書から読み解くことができる。新型コロナウイルスのための.部屋で過ごす時間が増えたが、こういうときこそ「地球科学の革命」お導いた名著を繙(ひもと)いていただきたい。(かまた・ひろき) 【文化】公明新聞2020.6.19
May 4, 2021
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第3回 継承・発展させたい研究課題東京学芸大学 名誉教授 斎藤 毅 「人生地理学」からの出発自己を知り、豊かな世界像を築くために 評価の紆余曲折を経て前回(第2回=5月31日付8面掲載)お話ししたように、『人生地理学』は極めてユニークで示唆に富んだ地理書です。そのためもあって、この百年間の地理学会の動向を反映し、その評価にはさまざまな曲折がありました。今回は、その流れを踏まえながら、特に現在に求められている地理学や地理教育論の視点をっ含め、今後さらに発展させたい研究課題を中心に『人生地理学』の新たな意義を述べたいと思います。手元の文庫版には、当時、京都帝国大学教授の小川琢治氏(ノーベル賞物理学者、湯川秀樹の父)の好意的ながら〝『人生地理学』の書名にはなじみにくい〟との書票が収録され、これに対する牧口常三郎師のコメントも見られます。(『人生地理学5』に「人生に及ぼす地理学的影響」とのタイトルで所収)刊行当初から他にも多くの好意的な書票が寄せられました。昭和初期には日本民俗学の研究者にも注目されます。この名著に関する人々の関心は高く、版が重ねられ、論評も多く見られたものです。しかし、第2次世界大戦後はほとんど忘れ去られ、私が偶然『人生地理学』を知ったのは1960年代のことです。そのささやかな成果を、76年の鹿児島大学の公開講座で、牧口師を柳田國男と共に「教育の革新的実践者」として紹介。他の講演者の記録と一緒に出版したのを思いだします。その後、78年には茨城大学や専修大学などで地理学の教授を歴任した國松久爾氏が、「『人生地理学』概論」なる書物を第三文明社から刊行しました。ただ、この本には、「『人生地理学』のうちに前提されていると思われる哲学的、教育学的な思想や、見解については全く触れるところがない」と、「はしがき」で断わっています。確かに、前回、紹介した「太陽」についての記述を始め、いわば伝統的思想や文化を通してみた自然の意味付けを随所で取り上げているのが『人生地理学』の大きな特色です。そのため、こうした特色を取り去ると、いわば〝骸論〟(=魂の抜けたもの)になってしまいますが、これが当時の地理学会の一般的な風潮でした。 志賀重昂の理論深める当時の物理学会でも、一般に自然環境の人間への関わりは重視しますが、その自然とは、いわば物理的な存在としての自然です。『日本風景論』を著した志賀重昂は、特に山岳などの自然環境を「風景」としてとらえ、西欧の新しい「風景観」で日本列島を見直してみました。彼に私淑していた牧口師は、その考えをさらに一歩深め、真正面から徹底的に深めたいといえそうです。しかし、自然環境に感情移入することは、戦後しばらくの日本の地理学会ではあまり肯定的には見られなかったのです。師ウした中にあって、70年代にアメリカの中国系地理学者、イーフー・トウァンが提起した「トポフィリア」の概念が日本でも紹介され、地理学の思想が大きく変わりました。 トポフィリアの先駆者「トポフィリア」とは、一種の合成語です。「トポス(topos)」はギリシャ語で「場所」を意味します。「フィリア(philia)は、ここでは「偏愛」でしょうか。誰でも故郷や長く住んでいた街には、何か特別な愛着があるはずです。これは、母国にまで拡大するでしょう。一方、何か忌まわしい言い伝えのある山や森なども、ネガティブな「トポフィリア」に当たります。要は、ある土地に対する人々の情緒的なつながり、あるいは思い入れにほかなりません。日本地理学会元会長の竹内啓一氏(一橋大学名誉教授)が2003年、東洋哲学研究所主催の『人生地理学』発刊100周年記念の講演で指摘したのはこのことです。すなわち、牧口師は百年前に、すでにトポフィリアの思想を大胆に展開したというのです。実は、これは「世界像」の形成と関わる、とても大事な問題なので、後ほど再度述べたいと思います。『人生地理学』とともに、これは牧口師の思想を継承・発展させるための重要な課題の一つなのです。 地理教育の経験を反映もう一つ、『人生地理学』から継承・発展させたい大きな課題は、なんといっても地理教育論に関する問題です。地理学的な知見や手法は行政や外交ばかりでなく、身近な災害対策や防火・減災など、その応用面は広がります。同時に、地理教育は人間形成とも関わる、初等・中等教育にも欠かせない応用分野です。長年にわたる教育現場で得られた、多様な地理教育の経験を反映した教育諸説――これこそが『人生地理学』とともに、その後に続く牧口師の諸著作の最も貴重な部分かと思われます。 郷土研究への強い関心『人生地理学』では地理教育の効用やその改革が述べられていますが、その後、『教授の統合中心としての郷土科研究』の刊行に見られるように、牧口師の郷土研究への関心は非常に強いものがありました。強度をすべての分野にわたって調査・研究すれば、世の中がおのずと分かってくるとの主張です。確かに、これは一理あると思われます。しかし、人口移動が激しく、都市化が急速に進んだ現在、都市機能は複雑で、少なくとも大都市の子どもたちにとっては手に負えないものです。一方、過疎化の進む農山漁村も、明治・大正期とは大きく異なり、かりに教材化しても、皮相的な理解にとどまるでしょう。 机上から野外の学習へこのような郷土研究を野外調査に置き換えて考えると、大きな可能性が見えてきます。机上の研究や学習から実際の現場、あるいは野外への転換です。実は、地理学や考古学はもちろんですが、現代の地理学も、生殖学や文化人類学と同様、研究に不可欠なのが、通常、フィールド枠と呼ばれる、野外調査です。分かりやすい例を、つぎに示しましょう。 人気番組のブラタモリNHKの人気番組「ブラタモリ」は、このフィールドワークの意義や手法を楽しく伝えてくれます。番組では全国の諸地域、時には海外に出掛け、地元の各分野の研究者の協力を得ながら進めます。その際、あらかじめ結論を〝なぜ?〟と示し、具体的な資料をもとに解き明かしていくもの。地形や地質の観察を始め、ふだん、人々があまり気付かずにいるわずかな土地の高まりや道路の変化にも見逃しません。こうして久しく埋もれていた事実を掘り起こし、その地域に対する新たな視点なり、特色なりお浮き上がらせていくものです。是は、まさに仮説を検証するためのフィールドワークにほかなりません。番組では、その土地の多数の研究者が前もって資料を準備していますが、もちろん、実際の研究では個人やグループがみずから手掛かりとなる資料を掘り出し、観察・分析していくことになります。確かに学校教育でのフィールドワークでは、児童・生徒の発達段階に応じた多様な指導技術が必要です。その具体的な手法については、日本地理教育学会等で多くの低減や研究成果が報告されていますが、小・中学校の「社会科」の枠の中ではその実験が制約され、期待通りに運べないのが残念です。 【文化Culture】聖教新聞2020.6.19
May 3, 2021
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大事なことは何かを見直す生命倫理研究者 橳島 次郎コロナウイルス禍のなかで昨年1月から9月まで、先端医療の発展が私たちの生老病死にもたらす、さまざまな問題を考える論説を連載させていただいた。今般の新型コロナウイルス感染拡大防止の取り組みのなかで、連載で取り上げた先端医療にも影響が及んだ。3月初めに日本移植学会は、期待が可能な臓器移植は停止するよう勧告する基本方針を出した。人工透析で命をつなげる腎臓の移植が主な想定対象だ。命に関わり期待が困難な心臓や肝臓の意匠句は、リスクを検討したうえで実施の可否を判断するとされた。移植を受ける患者は免疫抑制をしなければならないので、感染するリスクが一般の人より大きい。移植する臓器を運ぶために大勢の医師から全国を飛び回ることで、感染リスクが広がる懸念もある。そのために自粛が求められたのだ。5月末、緊急事態宣言が全国で解除されると、再開を認める新指針が出された。また、日本生殖医学会は4月の初め、三回に、人工授精や体外受精を行う生殖補助医療(不妊治療)の延期を患者に提示するよう求める声明を出した。不妊治療を続けて妊娠すると、万一感染した場合、治療薬は胎児への副作用の恐れもあって妊婦には投与できないので、リスクが大きいからだ。不妊治療は命に関わる医療ではないが、年齢が進むと妊娠できる可能性が減っていく。75年半は、首都圏や京阪神などを除く地域で緊急事態宣言が解除されると、生殖医学会は延期した不妊治療の再開を検討してよいとする通知を出した。コロナウイルス禍のなかで、私たちは不要不急の活動を控えるよう求められた。自分の暮らしが何が大事で何がそうでもないか、見直すいい機会だ。常にそうした仕分を心が蹴ることが、コロナ後の新しい生活様式の基本だと私は思う。自粛が求められた臓器移植や生殖補助医療も、すべて元通りに戻すのがよいか、改めて自分のこととして考えてみてほしい。先端医療には、知っておくべきさまざまな問題がある。それらを分かりやすくまとめた本を、このたび出すことができた。本紙での連載に大幅に加筆したものだ。今後も私たちは感染防止に努めなければならない。だが生老病死を巡っては、他にも大事なことがたくさんある。コロナ対応に追われる日々にあっても、それが忘れられてはならない。今度出した本では、どんな事態のもとでも変わらず問いかけるべきことを、丁寧に示してみた。多くの方にお読みいただければ幸いである。 【生老病死を巡る問い掛け番外編】聖教新聞2020.6.16
May 2, 2021
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私たちのルーツは〝地涌の菩薩〟アメリカの作家ヘイリーの小説『ルーツ』は、アフリカ系アメリカ人一家の歴史を描いたもの。黒人の奴隷問題を扱った物語で、1970年代のアメリカ社会に、最も影響を与えた作品の一つといわれる ▼小説はテレビドラマ化され、日本でも放映された。多くの人々が自身の「ルーツ探し」を始め、社会現象にもなった。「ルーツ」には「根」という意味もある。「自分のルーツ」を追い求めることは、〝魂のよりどころ〟を探すことでもあろう ▼小説『新・人間革命』第1巻「錦秋」の章に、山本伸一がアメリカ・シカゴの座談会で質問に答える場面がある。肌の色の違いなど、「ルーツ」にこだわっていた青年に対して、〝私たちの究極のルーツとは、「地涌の菩薩」である〟と訴えた ▼法華経には「地涌の菩薩」について「其の心に畏るる所無し」と説かれる。「畏るる」とは、自分と他者との間に「壁」をつくる心の働き。人種や民族など、あらゆる差異を超え、自他共の幸福と世界平和の実現へ行動するのが「地涌の菩薩」といえよう ▼仏法の思想から見れば、誰もが尊い使命を持った同じ「人間」だ。だからこそ、一切の差別、一切の暴力を否定する――それは、「地涌の菩薩」をルーツとする、私たちの変わらぬ信念である。 【名字の言】聖教新聞2020.6.18
May 1, 2021
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