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国鉄型電気機関車 EF1565:高崎第二機関区EF15型電気機関車シリーズで、今回は高崎第二機関区のEF1565です。昭和51年頃 赤羽~川口間にて EF1565牽引(再掲)レサ5000を連ねた貨物列車で、夕方に近い時間の下り列車と思われます。東北方面への列車と考えられますが、高崎第二機関区のカマは黒磯までの運用がありました。昭和56年頃 蕨駅にて EF1565牽引蕨駅で撮った写真で、カブられ際に強引に撮ったようです。同機はこの後すぐに廃車になってしまったようなので、既にEF15が貴重な時代に入っていたのかもしれません。65号機は、重装備ではありませんが、スノープラウやホイッスルカバーを装備していました。前面は黒Hゴム化されていますが、側面はHゴム化されなかったようです。EF1565昭和28年 9月29日 落成 日立製 新鶴見区新製配置昭和31年 8月28日 高崎第二機関区へ移動異動昭和56年 5月 8日 廃車KATOのレサ5000はまだ在庫があるようです。8023 レサ5000(再販)[KATO]《11月予約》レサ5000 [8023]](JAN:4949727667348)KATO|カトー 【Nゲージ】8023 レサ5000【発売日以降のお届け】
2023.11.30
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DD51ディーゼル機関車:佐倉機関区編DD51と言えば、SL引退後における主要非電化幹線の重責を担うディーゼル機関車として活躍しておりましたが、総武本線では、全線が電化された後も長らく残され、殊に貨物列車や臨時客車列車の牽引にあっては。電気機関車の方がむしろ珍しかったような印象があります。今回は、あまり撮影枚数がないのですが、総武線関係のDD51をご紹介いたします。昭和55年頃 佐倉駅にて DD51691ほか重連単機昭和56年9月 成田駅?にて DD51898ほか重連とDE10573房総の貨物列車と言えば、鹿島関係と成田のジェット燃料輸送、そして、東京湾岸の石油関係が主たるところでしたが、国鉄時代は電気機関車の入線が殆どなく、全線電化後も専らDD51やDE10が牽引に当たっていました。詳しくは知りませんが、非電化時代から続く組合関係が大きく作用していたのではないかと個人的に思っています。房総関係の写真撮影は大体が錦糸町だったのですが、高校生になって大回り乗車を何回かしたときに、東金線から総武本線を通って成田線に抜けるルートを使用したことがありました。せいぜい3回くらいだったと思いますけど。この2枚の写真もその接続待ちの間に撮影したと思われます。昭和56年12月 平井駅にて DD51625牽引 小名木川行 コンテナ貨物現在もレール運搬専用路線みたいに残る総武本線越中島支線ですが、かつては途中の小名木川駅で比較的規模の大きいコンテナ扱いが行われていました。近くに江東区立の体育館があり、高校時代は友人の名を借りてバレーボールの練習に通ったものです。その体育館の直ぐ手前に小名木川駅があり、時折この駅前に掛かる古~い小名木川の橋梁をコンテナ貨物が渡っていくところに出くわしました。ただ、当時はあまり貨物列車に興味は無く、まして全国的にどこにでもいるようなDD51とか、個性の無いコンテナ列車なんてどうでも良かったんです。だから、この路線の貨物列車の写真なんて1枚も撮った記憶はありませんでした。しかし、時は流れて貨物の大合理化が始まり、小名木川駅もいつの間にか廃止され、もちろん、この支線にコンテナ列車もDD51型も走ることはなくなってしまいました。鉄道遺産にもなりそうな古い橋梁と、コンテナを牽いてゆっくりと橋を渡るDD51。あのシーンを撮っていなかったこと・・・悔やんでも悔やみきれません。そんな中、平井駅で撮った小名木川貨物の列車写真が出てきました。妙にコントラストが強くて怪しい仕上がりになってしまいましたが、紛れも無く総武線平井駅にて撮影した小名木川行きの貨物列車です。
2023.11.29
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秩父鉄道:500系秩父鉄道の500系電車は、昭和32年から37年にかけて日本車両で製造された同社オリジナルの普通列車用電車です。旧型車オンリーの同社の中に新性能車として18両が投入されています。秩父鉄道における標準塗装で長らく活躍しましたが、1000系(元国鉄101系)導入の頃から黄色ベースの新塗装に変更されています。湘南スタイルのなかなか良いデザインでした。昭和63年3月21日 秩父鉄道500形写真は活躍晩年の頃ですので、塗装は1000形入線時に塗り替えられた黄色に茶色帯になっています。湘南形にこの塗装は勿体無い感じがします。やはり塗装はオリジナルがいいですね。当時は新性能車にそれほど興味を持っていませんでしたので、殆ど同系は撮影していませんでした。旧塗装も機会はあった筈ですので、非常に勿体無いことをしました。平成3年頃から2000系(元東急7000系)が導入され、これに伴って全廃となっています。
2023.11.28
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キハ25:大隅線大隅線は、昭和47年に日豊本線国分駅から志布志駅を結ぶ路線として開業しました。鹿児島湾と桜島を望む風光明媚な路線でありました。私が訪れたのは昭和57年、国鉄職員の正職員になって初めて全国パスを交付してもらえる資格を得た直後でした。しかし、同年10月に資格を得て、直ぐに全国パスが廃止されてしまったので、先輩とこの九州旅行に来たのが最初で最後の全国パスの使用でした。短い期間で九州をほぼ1週したため、ローカル線をゆっくり撮影する暇もなく、鹿児島からフェリーで桜島へ抜け、桜島の付け根にある垂水駅から、小倉へ向かうべく国分駅までと、乗車したのはわずかな区間だけでした。昭和57年11月25日 大隅線 垂水駅にて キハ257+キハ47このとき乗ったのは、タラコ色のキハ20系と40系の2両編成でした。正直このタラコ色というのは好きになれず、この頃はあまり写真を撮りたがらなかったのですが、折りしも「国鉄解体」「赤字ローカル線の切捨て」の声がかなり大きくなっていた頃でしたので、2度と訪れることも無いと予測して写真を撮っておきました。バス窓の初期車でしたし、もうチョットキハ20系らしい写真を撮っておけば良かったと思います。同上 キハ25 7 のナンバーとサボこの頃からローカル線はこのような写真を撮るようにしていました。駅名標などが丁度良く入る場所にないと、何線だったかも判らなくなってしまうので、記録用としての最後の手段でした。特に、当時でも相当貴重となってきたキハ20系でしたので、バス窓と初期ナンバーは垂涎ものでした。記録によれば、同「大隅線」はその後の経営改善も見られず、奇しくも私が国鉄を去ることになった昭和62年3月31日をもって廃線となりました。
2023.11.27
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京成電鉄:赤電3200形(非冷房時代)京成電鉄の3200形は、京成電鉄では初めて両開き式扉を採用した車両。登場時はもちろん非冷房であり、前面の行き先幕などさえも備えていませんでした。後に更新工事が施工され、方向幕や種別幕の設置、ヘッドライトの幕板部への移設などが行われ、3300形更新車と同じような姿になっています。昭和54年5月頃 3248晩年の頃とはかなり印象が違ってしまいます。すべてがアナログ、マニュアル操作の時代ですね。行先板がパタパタなのも味わいがあります。平成19年11月を以って全廃、廃形式となっています。京成電鉄:赤電3100形(非冷房時代)
2023.11.26
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京浜急行電鉄ほか:エアポート急行羽田空港に発着する京浜急行電鉄の「エアポート急行」の種別ですが、令和5年11月24日の運転をもって、登場から13年の歴史に幕を下ろすということです。今回消滅の要因として、空港発の逆方向への列車もエアポート急行を名乗っていることから、途中駅から見た✈マークで外国人の誤乗発生が問題となっているようです。日本人からすれば行先と種別から判断するので誤乗ということはないと思います。しかし、漢字を知らない外国人には、飛行機マークだけで空港へ行けるという判断をしてしまうのでしょう。なかなか縁のない路線ですが、過去に現場に行った際、偶然にも何枚か撮ったものがありましたので、まとめておきたいと思います。平成23年8月1日 立会川駅にて 北総鉄道 7260形平成23年7月8日 梅屋敷~京急蒲田間にて 千葉ニュータウン鉄道 9008F平成23年7月8日 品川~北品川間にて 北総鉄道 7808F平成24年11月13日 京急川崎駅にて 2041平成24年11月15日 青物横丁駅にて 千葉ニュータウン鉄道 9008F平成24年11月15日 青物横丁駅にて 東京都交通局 5327F平成29年6月26日 青物横丁駅にて 606F意識して撮っていたわけではありませんでしたが、意外とコマ数がありました。それも、肝心の京急車両より他社からの乗り入れ車両が多いところも意外。1000形とか比較的にスルーしていたことも要因かもしれません。
2023.11.25
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E217系:快速「エアポート成田」※本記事は、2018-03-04に投稿したもので、当時の表現になっています。平成30年春のダイヤ改正が近づいてきました。JR東日本だけが走っている地元では、ダイヤ改正で大きな動きが起こるようなネタは既に無く、やはり車両の交代があるくらいにしか見えなくなってきました。そんな中、名称として消えてしまうものがあります。横須賀線~総武本線・成田線を直通し、成田空港へ向かう快速「エアポート成田」です。従来から、列車名称は上下ともに同じものを用いることが通例であり、臨時列車のように行先や運転形態から上下列車で名前を使い分ける例はあるものの、この「エアポート成田」のように片道にしか名称を使用しないという例はあまり存在しないと思われます。2020年東京オリンピックを控え、首都圏を中心として来日外国人に理解してもらう(誘導する?)ために分かりやすく施設の整備や列車名の変更を行う例が活発になってきました。日本人には理解しやすい「エアポート成田」という愛称であっても、外国人からすれば「RAPID FOR NARITA-AIRPORT」の方が単純で分かりやすいのかもしれません。平成20年5月3日 物井~佐倉間にて 1545F平成20年5月3日 物井~佐倉間にて 1589F初めて撮影したE217系快速「エアポート成田」。教えられるまで愛称が表示されていることさえ知りませんでした。平成22年7月17日 西船橋~船橋間にて253系「成田エクスプレス」の最終日を撮影に行った際に捉えたもの。愛称は表示されているものの、小さいうえに薄暗いブルーカラーであるため、昼間でその表示を明確に捉えるのは非常に難しい。平成22年10月8日 市川駅にて 1069F現場回りの際、たまたま横浜から乗車した列車が快速「エアポート成田」でした。下車した市川駅で後部のみ強引に撮影。このくらいの大きさだと愛称がハッキリします。この頃までは、未更新車と更新車が混ざっていました。平成29年12月18日 東京地下駅にて 1634S月日は流れ、愛称消滅のアナウンスにより記念写真を撮影に東京地下駅へ。油断していてバッテリー切れになってしまい、電池を温めてなんとか1枚のみ撮影。発車のためドアが閉まり始めているが、列車番号は横須賀線のまま。直し忘れか?平成29年12月18日 東京地下駅にて 1635Fバッテリーを十分に充電し、翌日にリベンジ。今度は落ち着いて、ズーム調節もしながら理想の大きさで撮影。もう1本の「エアポート成田」を待って、横サボも撮影。この表示もまもなくお別れです。
2023.11.24
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秩父鉄道:デハ100形デハ100形は、秩父鉄道生え抜きの普通列車用の電車です。車体長は17mで、釣り掛け式モーターを使用していました。1M1Tの2両編成で、電動車は「デハ100」の1形式のみ。これに対して制御車は、クハ60形、クハニ20形、クハユ30がありました。※私は、クハユ30を見た記憶はありません。昭和51年7月31日 秩父鉄道 デハ100形の交換風景確か、中学生になって間もない頃、長瀞に行ったときに撮った写真。撮影場所が長瀞だったかどうかの記憶はありません。この頃、リコーの「オートハーフ」というカメラを使っていたのですが、レンズシャッターの上にスピードが遅いため、停まってる列車の写真を撮ってもブレるようなヤツで泣かされました。昭和56年8月28日 秩父鉄道 熊谷駅にて 側線でお休み中のデハ105昭和56年8月28日 秩父鉄道 熊谷駅にて 同上クハニ242枚とも同じ日ですが、東武熊谷線の写真を撮りに行ったときに、ついでに撮っておいたものです。あまり好みの型ではなかったので、「古い車輌」という認識だけで取り敢えず撮影しておいたくらいの感じでした。昭和63年3月21日 秩父鉄道 引退間近のデハ100形撮影地の記録が無いのですが、確か寄居に近いところだったと思います。この時、あくまでもメインはC58だったのですが、100形も運用離脱間近で、1日2往復しか走っていなかったと記憶しています。デハ100形は、秩父鉄道古参の電車でありながら、新製増備された500形や小田急から転入してきた800形が配置になってからも、しばらくの間は働き続けました。そして、JRから1000形(旧101系)が転入となると、活躍の場は急速になくなっていき、500形共々廃車となりました。
2023.11.23
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キロ59系:サロンエクスプレスアルカディア「サロンエクスプレスアルカディア」(通称「アルカディア」)は、国鉄末期の昭和62年3月25日に竣工。実際に営業運転に就いたのは分割民営化後という、国鉄生まれか、JR生まれなのか、非常に分かりづらい珍しい車両です。北海道で「アルファ・コンチネンタルエクスプレス」から始まった、えらく激しい造りの展望室をもつ欧風タイプの団体用グリーン車。そのデザインの元となったのは、おそらく名鉄の「パノラマスーパー」かと思われますが、その後の経済成長に伴って豪華さが売りの欧風車両が次々と誕生し、九州・四国を除く全国に波及していったスタイルです。特に、短編成で小回りの利く気動車に採用されています。アルカディアも分割民営化とともに営業運転に就き、配置区の新潟を中心として活躍を始めたわけですが・・・昭和62年11月22日 磐越西線 山都~喜多方間にてその矢先、わずか1年後の昭和63年3月30日、上越線の越後中里~岩原スキー場前を走行中、1号車(キロ59 508)の排気管過熱により同車が全焼してしまうという、大変不幸な出来事が起きてしまいました。その後、片側先頭車を廃車により失って運行できなくなってしまった「アルカディア」は、残り2両も休車となってしまいました。しかし、約4年後の平成4年、先頭車を追加で改造して組成、普通車に格下げした上で盛岡へと活躍の場を変え、「Kenji」として生まれ変わることになります。改造車とはいえ、たった1年では改造費の減価償却も出来ませんから、なんとか残り2両を活かしたかったところでしょう。不運なスタートとなったにもかかわらず、東日本に残る最後のキハ58系として活躍しました。写真は、鉄橋を渡ってくるところを正面から狙っていたところ、不覚にもフィルムの巻上げを忘れてしまったために撮影することが出来ず、慌てて三脚からカメラを外して後追いで撮ったものなんです。あわよくば、一切記録に残すことが出来なかったおそれもあった「アルカディア」ですが、残念な構図とはいえ、1枚でも記録に残せたことは私としても不幸中の幸いでした。
2023.11.22
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209系500番台:京浜東北線現在はE233系1000番台で形式統一が図られた京浜東北線ですが、かつては殆どの時代において複数の形式が存在していました。平成になってからは209系の時代が長かったですが、この間、103系から209系に変わった際も、205系が存在したり、今回ご紹介いたします209系500番台がありました。209系500番台はE231系が完成するまでの過渡的形式であり、システム的な部分を209系としているものの、車体はその後の標準とすべく広幅を採用したものです。殆どが中央・総武緩行線用として製造・配置されましたが、最終の2編成は京浜東北線への転用も考慮されていました。また、追加で転入した分を含め、京浜東北線では最大で5編成、50両が活躍していました。平成19年10月7日 ウラ82編成平成20年9月23日 ウラ83編成平成21年2月22日平成21年3月25日5編成もありましたので、乗車する機会は比較的ありましたが、最後の頃は1編成のみとなったため、その機会も貴重となってきました。平成21年4月4日 ウラ80編成 818A平成21年4月4日 ウラ80編成 1019A平成21年4月4日 ウラ80編成 1418A目撃情報から運用を割り出し、1日中追いかけたこともあります。大体は目的外に出会ったものしか撮影していませんので、見られる写真が全然無かったためです。そんなこともあって、この日だけは地元の定番アングルでじっくり構えたものです。平成21年7月4日 ウラ80編成これも偶然撮影したものですが、結果的にコレが最後の撮影となりました。京浜東北線に導入されたのが平成12年末、最終的に全面撤退となったのが209系よりも一足早い平成21年でしたので、その活躍は10年にも満たないものでした。
2023.11.21
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JR東日本 211系:東海道本線(東京口)211系は、国鉄時代の昭和60年に製造されたステンレス車両。ステンレス製の国鉄車両の中でも当時としては国鉄初の量産車205系に続くもので、近郊型3扉車としては例を見ないものでした。ボルスタレス台車の採用も含め、新時代という感じがしました。東海道線用は0・2000番台となり、上野口の1000・3000番台と区別され、暖地仕様となっています。当時から銀色の新型車として捉えており、全く興味を示さなかったために殆ど写真に撮っていませんでした。たまたま「ふじぶさ」撮影の際に撮影したものだけといった状態です。平成20年3月9日 東戸塚駅付近にてまだ世代交代の足音は聞こえていなかった頃だと思いますが、デジカメと言う損を感じない手段が手に入ったところでしたので、遠慮なく撮影していました。それでも真剣さは無く、構図は全然でしたね。やはりついでの域からは脱していません。平成20年3月9日この撮影の際、乗り合わせたのは偶然にもサハ211-1トップナンバーでした。このような写真もフィルム時代だったら絶対に撮っていなかったですね。平成24年3月13日 青森車両センターにて時は過ぎ、E233系の増備により、211系が続々と撤退するようになりました。もちろん転用されることになりますが、改造が追い付かないためか、長期間にわたって東日本各地に疎開するようになりました。疎開にあたっては、転用に不要となるサロ・サハを含めたままとなっているものが殆どです。先頭車はすべて転用されるため、海外へ売り飛ばすこともできません。「日本海」などの撮影で青森へ行った際、211系が留置されている光景には本当に驚いたものです。近代稀に見る大雪となり、屋根には凄まじい高さの積雪。交流電化という慣れない遠隔地で、雪に埋もれて出番を待つことになるとは思ってもみなかったことでしょう。昭和62年2月14日 早川~根府川間?にてフィルム時代に撮った唯一の東海道本線211系の写真です。地元でも211系は見ることができましたし、全く興味がありませんでした。なんでこの1枚だけ撮ったのかすら不思議です。こうしてみると、上野口の211系とは異なり、方向幕やスカート、パンタグラフに至るまで、誕生時から最後まで殆ど変らずにいたんですね。東海道線の211系は、平成24年4月をもって定期運用から離脱し、新たな出番を待つことになります。113系:東海道本線 普通列車JR東日本 211系:東海道本線(東京口)E217系:東海道本線 普通列車
2023.11.20
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EF6439牽引:12系お座敷客車「江戸」品川客車区に所属していたスロ81系お座敷編成が引退するにあたり、後継として登場したのが12系お座敷客車「江戸」です。当時流行(と言うか、当たり前?)になっていた展望室を取り付けて竣工し、関東圏の団体列車に活躍しました。当時は全国にジョイフルトレインが氾濫し、別にどれを撮ろうとか記録しておこうという意識は全くなく、撮っていたというのもEF58が牽引していると、車両にこだわった撮影はしていませんでした。過去ログ『EF5861牽引12系お座敷客車「江戸」:団体列車「ジパング倶楽部」』『ED75重連牽引:12系お座敷客車「江戸」』で2点ご紹介済みですが、撮影コマ数の少ない「江戸」から最後の1点をご紹介したいと思います。平成5年6月13日 蓮田~東大宮間にて EF6439牽引 12系お座敷客車「江戸」別の被写体を狙いに行った時ですが、同じ日に偶然に運転されていた団体列車を撮影していました。東北本線でEF64基本番台が牽引するというのは国鉄時代にはあり得ませんでしたが、JR化後は宇都宮運転所のEF65PFが大挙して高崎に移動し、またJR貨物に継承されてしまったようで、カマ数の減った東北本線にも高崎のカマがPFと区別なく運用されるようになったようです。[鉄道模型]マイクロエース (Nゲージ) A1124 12系 和式客車 「江戸」 6両セット12系 和式客車「江戸」6両セット【マイクロエース・A1124】「鉄道模型 Nゲージ」
2023.11.19
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東武鉄道 8000系:東武東上線(ツートン塗装時代)私とほぼ同い年で、未だ活躍を続けている東武8000系。武蔵野線が旅客営業を開始した当初、まだ小学生でしたが良く遊び場として乗っていました。その際、東武東上線で写真を撮ったことがあるのですが、既に活躍していた8000系はもちろん非冷房車で、塗装簡略されたセイジクリーム色でさえ登場する前でした。昭和48年? 東上線 朝霞~新座間にて上の写真は準急ですが「池袋←→???」が不鮮明で判読できません。下の写真は上り急行池袋行きで、こちらは矢印式ではありません。この時代の8000系はもちろん非冷房車のみで、列車種別は板サボによるものでした。上の写真の準急は、後部ながら通過表示灯が点灯している様子が見て取れます。撮影の場所は、現在の朝霞台駅に当たる場所です。武蔵野線の旅客営業化直後であり、北朝霞駅はできていましたが、駅前は広大なニンジン畑のみと言った様相で、利用者がいるとはおおよそ予想がつかない状況でした。でも、下の写真を良く見ると、左側には用地買収済みのようなフェンスが写っており、既に接続駅の新駅設置の準備が整っている様子が判ります。平成になってからはこの辺りに足を踏み入れたことがありませんが、どのようになっているのか、写真とか撮れるのか、まったく想像が付きません。参考までに、過去ログ『東武鉄道:7300系・7800系』にて、その後昭和59年頃のほぼ同じ地点での撮影の様子をご紹介しています。
2023.11.18
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205系1100番台:鶴見線(大川支線)鶴見線の205系1100番台撮影のつづきで、今回は鶴見駅より大川支線大川行に乗車したところからをご紹介したいと思います。大川支線は武蔵白石駅から分岐するちょうど1kmしかない盲腸線。隣の大川駅まで1区間です。歩いても15分程ですが、そこから先の工場へ通勤する方からすれば、この15分も節約したいところでしょう。かつては武蔵白石駅に1両分の長さしかない3・4番線があり、クモハ12が単行で往来していました。→旧型国電 クモハ12:鶴見線 大川支線(武蔵白石駅)※撮影は、令和5年11月11日、T11編成。大川駅にて鶴見からの直通でも13分程で着いてしまう大川駅。クモハ12が走っている時代に武蔵白石駅には来たことがありますが、日中は運転していないので、実は今回が初踏破です。同列車は安善駅を出ると直ぐに上り線を逆走し、支線へと入って行きます。かつて存在した急カーブ上の短いホームは既に無く、面影もない感じでした。武蔵白石駅方踏切から都会に存在する辺境の駅ですが、これといって見どころがある訳でもなく。もちろん、商店や食事処なんてまったく無縁。工業地帯ならではの立地です。このような場所だと直ぐに折り返すケースが多いのですが、同列車は15分以上も停車しているため、歩いて武蔵白石駅へ戻ることにしました。大川~武蔵白石間にてこの区間は柵が高く、片側は工場敷地となっているため、クリアに撮れる場所は皆無でした。線路際は草も茫々で、踏切辺りからも無理。唯一、なんとか姿が撮れそうだったのがこの運河上の橋梁でした。ここだけは歩道があるので安全ですが、それ以外の区間は歩道がありません。超大型のトラックがえらいスピードでかっ飛んできますので、反対側の歩道で移動しましょう。大川支線では、この往復で午前中の運転は最終です。あとは夕方までありませんので、武蔵白石駅へ。しかし、次にすぐ来る列車は浜川崎止まり。扇町行は20分後までありませんので、浜川崎まで歩くことにしました。歩き出すと直ぐに浜川崎行が。工業地帯の雰囲気で撮ってみようと思ったら、目の前にトラックが乱入・・・。アナログスリットカメラのごとく、良くこんなスペースに電車が入ってくれたものです。この時点でもまだ8時半過ぎ。最終目的地の終着扇町駅へと足を進めます。103系:鶴見線旧型国電 73系:鶴見線JR東日本 鶴見駅:鶴見線乗換口発行 区間変更券
2023.11.17
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485系(T18編成):特急「あいづ」特急「あいづ」運転上野口から特急「あいづ」が消滅してから久しく、突然、2009年夏に夏臨が設定されました。折しも国鉄型電車がブームになっており、ほぼイベントのような設定となっており、新潟のT18編成をわざわざ持ってくるという力の入れようでした。平成21年7月4日 西川口~蕨間にて平成21年7月5日 土呂~大宮間にて平成21年7月4日下りと同月5日上りの片道設定です。新潟のT18編成が使用され、1500番台の「あいづ」を見ることもできました。現役時代には1500番台の「あいづ」を見たことはなかったのですが、秋田運転所へ移管された後、同運転所へ1500番台が配置されたこともあったため、稀に運用に入って上野へ顔を題していたことがあったようです。私にとっては貴重なシチュエーションだったのですが、逆向き体勢であったりカブられたりと、結果を残すことができなかったのが残念です。485系(非貫通型編):特急「あいづ」485系(ボンネット型クハ編):特急「あいづ」485系(クロ481):特急「あいづ」485系(あかべぇ):臨時特急「あいづ」485系:特急「ビバあいづ」485系(T18編成):特急「あいづ」
2023.11.16
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JR東日本 キハ40系:「き・ら・き・ら みちのく」平成14年12月、東北新幹線の八戸延伸開業に際し、下北や津軽方面への観光輸送を目的として誕生したのが、キハ40系を改造したジョイフルトレイン「き・ら・き・ら みちのく」です。列車名では「きらきらみちのく」で、「・」は入らないようです。種車は、キハ40系キハ48形の1505・1506・1534を改造したもので、改番はされずに使用されました。時刻表に載る列車で捉えやすい車両でしたが、わざわざ撮りに行くほどでもなく、しかし、尾久車両センターの公開展示のために上京したことがあるため、1度だけ実物を見たことがありました。平成21年11月14日 尾久車両センター公開にて平成21年度の尾久公開のために遥々やってきた「き・ら・き・ら みちのく」。「リゾートしらかみ」に共通するデザインで、キハ40系らしさはありません。趣きが残っているのはドアと中間運転台くらいでしょうか。公開時は天気が悪く、鮮やかには写りませんでしたが、迫力のあるねぶたのデザインが青森らしさを演出しています。この公開の1年後、平成22年11月18日に「きらきらみちのく」としての運行を終了し、臨時列車などにも使用されましたが、リニューアル改造を受け、平成24年春季から「リゾートうみねこ」として再出発しました。
2023.11.15
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団体企画列車 「オリエント・エクスプレス '88」(オリエント急行)昭和63年、フジテレビ開局30周年及びJRグループ発足1周年の記念事業として、各国政府及び鉄道各社(者)の協力により、パリ→東京間でORIENT EXPRESS'88(オリエント急行)が運行されました。(プロジェクトの正式名称は"HITACHIカルチャースペシャル・ORIENT EXPRESS'88")東京に到着後は、日本全国を巡る団体列車という大規模な企画となりました。新聞や報道でも大々的に取り上げられ、一大ブームになっていたような記憶もあります。地方まで出掛けて撮ることはもちろんしませんでしたが、関東に来たときは何が何でも撮ろうという意気込みはあったように思います。昭和63年11月14日 栗橋~東鷲宮間にて EF651017牽引外国の列車が日本中を走って話題となった「オリエント急行」。外国規格の大型車両が日本を走れるとは思っても見ませんでした。様々な苦労があったようです。昭和63年12月6日 倉賀野~新町間にて EF651030牽引線路規格が違うので、船下ろしに際してTR47台車に履き替え、連結器が違うために片側にバッファー連結器を付けた控車でサンドイッチし、かなり長い期間に亘って日本を走りました。昭和63年12月23日 西川口~蕨間にて D51498+EF5861牽引中でも一番の話題となったのがD51が牽引を果たした「オリエント急行」。D51498の復活記念運転で、上野~高崎間をEF5861の補機付で運転されました。このように、普段の運転ではトップスターである61号機も、このときばかりは脇役に回りました。D51は上野~大宮のわずかな区間のみの運用となりましたが、夕刻の運転でさらに区間が短かったことから、報道の煽りも手伝って、沿線は大変な人出となりました。昭和63年12月24日 撮影区間不詳 EF5861牽引翌日の返し運転です。「オリエント急行」を捉えた最後の写真となりました。
2023.11.14
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205系1100番台:鶴見線(鶴見駅)首都圏では205系最後の牙城となった川崎・鶴見地区。南武線浜川崎支線では一足早くE127系に置き換えられたところですが、残る鶴見線のE131系新製車も8編成が到着し、令和5年12月24日から運用に入ることが発表されました。すべてがいっぺんに置き換わるのかは微妙ですが、それも時間の問題と言えるでしょう。鶴見線には103系最後の頃に訪れてから20年が経ちます。205系自体はそれほど関心がある訳でもないのですが、73系時代から記録をしていた路線ですので、一念発起して出掛けてきました。滞在は半日にも満たない時間ですが、それなりにコマ数を撮ってきましたので、分割でアーカイブしておきたいと思います。※撮影は、令和5年11月11日、鶴見駅にて。7:22発 扇町行 T19土日ダイヤですが、土曜日の乗車率はかなり良く、この列車は定員以上の乗車率がありそうな感じでした。もう3分程早ければ大川行一番を撮れたのですが、京浜東北線大宮駅でのドア点検で延発を喰らい、間に合いませんでした。7:32発 海芝浦行 T15この列車も乗車率が良かったですね。海芝浦行は行先表示が緑色に区別されています。7:42 扇町行 T181本置いてまた扇町行き。普段は使用しない4番線側にあるちょー長椅子が気に入って撮っておきました。7:42 扇町行 T18土休ダイヤでは3往復しかない貴重な大川支線の列車。昔は直通していなかったと思うんですが、クモハ12が引退したことで単行運転ができなくなってしまったため、鶴見からの直通運転となっています。昭和前半の風情を未だに維持する鶴見駅。国道駅と合わせて私鉄時代を彷彿させる貴重な構造物。維持には問題もあると思いますが、このまま保ってほしいですね。乗換改札もなくなり、行き来のしやすくなった鶴見線。E131系に馴染むことができるでしょうか?ここからは大川支線直通の大川駅に乗り込みます。103系:鶴見線旧型国電 73系:鶴見線JR東日本 鶴見駅:鶴見線乗換口発行 区間変更券
2023.11.13
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205系1000番台:南武線浜川崎支線JR東日本において、電化区間で最も車両の置換えが難しい南武線浜川崎支線。2両編成であるが故、長編成の多い管内路線では適当な車両が発生しづらい点で、国鉄時代から置換えが遅くなってしまう路線でした。過去ログ『旧型国電 クモハ11・クモハ12+クハ16:南武線浜川崎支線』でもご紹介いたしていますが、旧国時代は1M方式だったので問題なかったものの、やはり適当な車両の捻出は難しく、結果として使用されたのが101系でした。103系化することができずに全国で最後まで残った101系も、その時代の波に逆らうことはできず、205系化されることになりました。205系化に当たっては、最低が4両編成単位となるため、MMユニットに運転台を設ける改造を施し、一族としては唯一の2両編成として活躍しました。※撮影は、平成19年11月18日、浜川崎駅にて。クモハ204-1001205系になって初めての撮影。バスコレを買いに行った際、本当に101系撮影以来の訪問でした。短編成化のために、中間車に運転台を取付け、2両編成とした姿が不気味でした。本来なら丈夫な車体であるはずの彼らも、おそらくはメンテナンスフリーの都合だと思われますが、世代交代を迎えることになりました。しかし、まさか地方から来た中古車、しかも3ドア車来るとは予想もしていなかったと思います。
2023.11.12
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583系:特急「はつかり」その2『583系:特急「はつかり」その1』の続きで、今回は昭和53年10月改正後、ヘッドマークがイラスト化されて以降、撮りためてあったものをご紹介いたします。昭和54年 尾久駅にて高校生になった頃でしょうか。昭和53年10月改正後、ヘッドマークがイラスト化されました。SL牽引時代にヘッドマークがありましたが、夕焼けのカラーが入ったため、印象はかなり異なります。当時の尾久駅は、階段の部分くらいしか屋根はなく、大宮方はこのように空いっぱいに見えるホームでした。一部は玉砂利敷きで、雨の日は歩きづらかった思い出があります。昭和56年1月5日 白坂~豊原間にて田舎に行く際、寄り道途中下車して写真を撮ってきました。雪景色を行く「はつかり」を撮る機会は殆どありませんでした。昭和57年1月4日 白坂~豊原間にて1年後、田舎の母方のおばあちゃんが亡くなり、田舎に行く機会もなくなってしまいました。国鉄への就職を目前に、休みには遠出する機会も多くなった頃です。この時は1日中冷たい雨で、駅間踏破も結構つらいものがありましたが、その辺りはまだ10代の若さがみなぎっており、あまり苦には感じていなかったかもしれません。昭和57年?月 上野駅にて東北新幹線開業を目前に控え、遠出しないまでも学校に近い上野駅で記念写真を撮ることが多くなりました。昭和57年2月 上野駅にて15番線に停車中の「はつかり」。まだ通勤車の100%冷房化は程遠い時代で、デカ目の115系も懐かしい。昭和57年6月 大宮駅にて東北新幹線大宮暫定開業直前、右側には現在と同じ位置に新幹線駅がそびえ立つ。在来線ホームはリニューアルされておらず、屋根は延長されていない。ホームもガタガタのまま。右側には貨物列車の通過線と、非電化のままの川越線も残っています。昭和57年6月22日 金谷川構内にて昭和57年6月22日 福島駅にて東北新幹線開業前日、最終の「やまびこ」を撮影するために福島へと遠征しました。まだED71牽引の客車列車や貨物列車も若干残っており、客車列車はすべて旧型でした。2枚目のショットは普通列車の最後部から撮影したもの。昭和57年10月頃 上野駅にて 583系「はつかり」&185系「新幹線リレー号」新幹線開業後、「やまびこ」は全廃となったが、大宮暫定でアクセスが不便になったことから、本格的なダイヤ改正を実施する昭和57年11月の上越新幹線開業まで、「はつかり」は4往復が残りました。そのため、東北新幹線暫定開業から上越新幹線暫定開業までの約5か月間、写真のように185系「新幹線リレー号」との顔合わせが日常的に行われていました。昭和57年11月14日 上野駅にて新幹線開業前日、既に国鉄で働いていましたが、休みだったか非番で時間があったため、日中から夜にかけて上野駅、両国駅などをレポしていました。どの列車も最後となることから大混雑であり、撮影はままなりません。記念になる具材は、誰も撮らないこんなところにもありました。もう、明日から上野に来ることはありません。昭和62年12月12日 盛岡駅にて昭和60年3月、東北・上越新幹線は晴れて上野駅への乗り入れを達成しました。北海道へ撮影に行く際、往路は新幹線+「はつかり」の組み合わせが定番となりました。写真の583系は、左に見える485系定期「はつかり」の後発となる臨時の「はつかり」で、編成の長い583系編成は供給過剰でガラガラ状態だった。その後、583系は老朽化により撤退し、東北地方で初めての昼夜両用特急である583系「はつかり」は、青函トンネルを潜ることなく廃止されました。
2023.11.11
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189系彩野編成:東武鉄道直通特急「日光」前記事で485系の東武直通特急「日光」をご紹介いたしましたが、今回は189系彩野編成による臨時特急「日光」をご紹介したいと思います。東武鉄道との直通運転に関しては、東武鉄道側が100系スペーシアを3編成用意し、JR東日本は485系1編成のみとなっています。検査時における肩代わりは東武鉄道側が主に負うこととなりますが、繁忙期による臨時増発にも対応することとなるため、189系彩野編成を東武直通用に改造し、臨時列車及び検査時の代走に充てることになりました。485系と違い、189系彩野編成はヘッドマークが用意され、さらには懐かしい国鉄時代風の文字マークでしたので、個人的には非常に好きでした。平成19年5月5日 臨時特急「日光83号」横浜乗り入れ開始だかで、記念ステッカーみたいなのを付けてました。平成20年5月5日 臨時特急「日光83号」平成21年7月26日 臨時特急「日光81号」平成21年9月5日 臨時特急「日光81号」平成21年9月20日 臨時特急「日光83号」平成22年10月16日 臨時特急「日光81号」「日光」の臨時は、地元の撮影で「北斗星」と競合するダイヤのため、あまり撮っていなかったようです。まして、当時は臨時列車の設定が多くありましたので、189系彩野編成と言えどもあまり希少感がありませんでした。結局、終わってみればまともな写真が残っていなかったです。
2023.11.10
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485系:東武鉄道直通特急「日光」それまで熾烈な争いであった日光争奪戦争。結果としては東武圧勝となり、国鉄の日光線直通列車は繁忙期の臨時列車を除き、消えていきました。しかし、平成18年、それまでの歴史が大きく動きます。なんと、JR~栗橋~東武鉄道という、貨物列車以外では想定の出来なかった乗り入れが実施されることになりました。東武鉄道100系スペーシアがJR線、しかも地元を通るなんて、想像を絶するものでした。JR東日本では、直流区間のみの走行にも拘わらず、485系を改造することによって車両を用意しました。改造前には磐越西線「あいづ」として1年ほど使用していた編成であり、この辺りもかなりのサプライズでした。直通編成は1編成しかなかったため、予備車として189系彩野が用意されました。平成19年5月4日 東大宮~蓮田間にて 「日光1号」 直通1周年のヘッドマークが飾られました。平成19年9月29日 「日光1号」バックに映る209系や211系も懐かしい。平成20年5月18日 「日光1号」送込み回送平成21年7月26日 「日光1号」送込み回送平成22年3月20日 「日光1号」送込み回送平成23年3月6日 「日光1号」送込み回送485系を使用した「日光」は早朝の1本と夜着となり、さらに1号は逆光になってしまう関係もありましたので、送り込み回送の写真が殆どでした。これは、撮影時間帯が寝台特急「あけぼの」~快速「フェアーウェイ」という流れの途中にあったのも大きな要因でした。平成23年春のダイヤ改正後、同年4月16日に後進253系1000番代に置き換わる予定でしたが、東日本大震災の影響により、6月3日まで同編成が使用されることになります。
2023.11.09
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東武鉄道 7300系・7800系東武7300系は、昭和22年に導入された東武鉄道初の20m級電車で、戦後の混乱期に運輸省が各私鉄に割り当てた国鉄63系電車と同型車の東武鉄道における形式です。導入当初は63系そのものといったスタイルだったようですが、その後各種車体更新が実施され、後の標準型となる7800系と同様のスタイルとなります。また、東武7800系は、7300系の実績を元に、昭和28年に登場した東武鉄道における戦後初の独自設計による通勤形電車です。いずれの形式も後の標準型で現在も活躍している8000系が登場するまで、東武線の支線を除く幹線で活躍していました。外観からは区別の付けづらい形式ですが、例外を除き、グローブ型ベンチレータが7300系、押し込み型ベンチレータが7800系となります。また、7800系には仕様の違いにより番台区分があるようです。私が写真を撮った頃には既に活躍が末期となっており、枚数はそれほど多くありませんが、とりあえず並べてみます。昭和53年3月12日 東武宇都宮線車内より 7800系との交換私が撮影した唯一の宇都宮線です。すれ違うのは7800系で、乗っている車輌は旧5000系(のちの3000系となる車輌)だそうです。写真が傾いてしまっていますが、古き良き時代の写真です。昭和56年6月6日 新大平下~新栃木間にて 7800系 準急写真は7800系準急列車で、「準急」の種別サボが付いています。行先札も時代を感じさせます。昭和56年6月6日 新大平下~新栃木間にて 7800系 普通こちらも準急浅草行き。国鉄で言うとクモハ42の4扉改造車「クモハ31」に似たイメージです。昭和56年6月6日 春日部電車区にて 7800系 モハ7865(事故復旧車)モハ7865は、踏切事故により破損した前面を、復旧に際して高運転台化された車輌。他の7800系では見られないスタイルで、同系随一の異端児でした。昭和58年4月頃 東武東上線 朝霞台~朝霞間にて 7800系2連+7300系4連東武の7300系と7800系が少数ながら最期の活躍をしていた頃です。もうほとんど運用がなくなってきており、7800系2両と7300系4両の計6連のパターンで運転されていました。昭和58年では風前の灯状態で、確かこの東上線だけになっていたと思います。現在は武蔵野線効果で大発展を遂げた朝霞台付近ですが、写真は複々線化の工事が始まった頃で、武蔵野線北朝霞駅との乗換えすらできない状況でした。今となっては貴重な時代の記録になりました。
2023.11.08
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京成電鉄:赤電3100形(非冷房時代)京成電鉄3100形は、昭和35年に誕生した新性能電車です。登場時はもちろん非冷房車であり、後に冷房改造が行われています。更新工事の施工により行先表示幕が設置されましたが、幕板部へのヘッドライトの移設は行われなかったようです。京成津田沼駅にて 31043101~3116は1次車であり、コイルバネ台車を採用しています。京成津田沼駅にて 31223021~3036は昭和36年以降に誕生した2次車となっており、京成電鉄では初めて空気バネ台車を採用しました。写真を見ると、ドア窓の大きさが1次車は大型で、2次車は小型になっているようです。登場からしばらくの間は2両編成のみとなっていましたが、半数の先頭車が中間車化され、4両編成に変更されました。この写真を見る限り、すべてが2両編成で組成されているようで、更新前の貴重な姿となっています。
2023.11.07
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12系改お座敷客車:「ふれあいみちのく」「ふれあいみちのく」は、国鉄分割民営化間近の昭和61年、盛岡鉄道管理局が余剰となっている12系客車を改造して導入したお座敷客車です。当時は景気云々よりも国鉄としての増収対策のため、様々なジョイフルトレインが誕生しました。東北地域ではキハ58改造の小単位のものがいくつか誕生していますが、仙台と盛岡では12系6両編成が専属していました。滅多に東京に姿を見せることがないため、撮影する機会はほとんどありませんでしたが、偶然にも2度だけ会ったことがありました。昭和62年12月12日 盛岡駅にて北海道に撮影に行く際、新幹線から「はつかり」への乗り継ぎのタイミングで、留置中の「ふれあいみちのく」に遭遇しました。青森へは、写真の583系「はつかり」に乗りました。臨時だったか忘れましたが、時間の外れた続行列車で、9両編成の車内はガラガラでした。平成2年10月21日 陸羽東線 立小路~羽前赤倉間にてSL撮影のために登山した際、偶然にも「ふれあいみちのく」がDE10に牽かれてやってきました。もっと大きく撮りたいところですが、これでも645判で300mmの限界値でした。逆光で見づらいのも残念ですが、自分にとっては貴重な記録となりました。その後バブルの勢いもあったのか、地方の割には平成14年まで永らく活躍できたようです。
2023.11.06
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小田急電鉄 60000形MSE:特急「あさぎり」前記事と同じような題名ですが、今回は単独で走る正規の特急「あさぎり」です。国鉄が民営化後の平成3年3月ダイヤ改正において、老朽化したSSEの引退に伴い、「あさぎり」は沼津まで運転区間を延伸した上で、JR線内を特急列車に格上げすることになります。特急列車化に際し、小田急電鉄では新型の20000形RSEを用意するとともに、JR東海でも共通性能を持つ371系電車を導入することになりました。さらに、平成24年3月のダイヤ改正において、バリアフリー法の犠牲となったRSEや371系が引退することになったため、現在のMSE60000形に変更されています。なお、この改正で沼津まで到達していた運転区間が新宿~御殿場に戻ってしまいました。そして、平成30年3月の改正において改名されることになり、ロマンスカー「あさぎり」の歴史に終止符が打たれることになります。平成30年2月17日 豪徳寺駅にて 「あさぎり2号」「あさぎり」は基本的に併結がないため6両編成で運転され、新宿方は付属編成のない貫通型の顔となります。平成30年2月17日 梅ヶ丘駅にて 「あさぎり3号」RSEの引退以来、小田急線への撮影は行っていなかったため、MSEの「あさぎり」は全く撮ったことがありませんでした。あまり縁のない小田急ですが、「あさぎり」ではSSE連絡急行時代に撮影したこともあり、帰りに乗車しています。また、RSE時代にも往きにお別れ乗車を兼ね、1日撮影に興じたこともありました。そんな過去もあり、「あさぎり」最後の形式を記録しないのも勿体ないと思い、1日だけ撮影に出掛けたのがこの2枚の写真です。前記事の『小田急電鉄 60000形MSE:特急「あさぎり/えのしま」』も同じ日のものです。列車そのものが無くなったわけではありませんが、「はこね」と負けないくらいに歴史のある名前でもあり、消滅してしまうのはやはり寂しいものです。しかも、外国人受けな名称であるため、なんか馴染まない感じがしてなりません。小田急電鉄 60000形MSE:特急「あさぎり/えのしま」小田急電鉄 20000形RSE車:特急「あさぎり」小田急電鉄 20000形RSE車:特急「あさぎり」(乗車編)セイコー 小田急線開業95周年記念 特急ロマンスカーMSE ウオッチ 数量限定5,000点
2023.11.05
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国鉄旧型電機 EF1832(大宮工場)EF18は、EF58として製造されながらも、他車とは違う運命を辿った機関車です。EF58は戦時設計であり、戦前製の~EF57までと同様に先台車・デッキ付きとして誕生しましたが、その時代背景から製造が中止され、打ち切り後は暖房装置を搭載した箱型に変わりました。さらに、製造途中であった旧車体の2両(35・36号機)は、車体の頭部分を挿げ替えて変形機として誕生しています。さらに、既にほぼ完成していた3両(32~34号機)については、車体をほぼそのままに歯車比をEF15と同様とし、不足していた貨物用機に転用することになりました。ただし、将来的にEF58への編入を考慮したためか、別形式としながらも車号は32~34号機そのままとして誕生しています。性能の特殊性からか汎用として使用できなかったようで、静岡周辺のローカル貨物運用に終始し、わずか30年ほどで生涯を終えています。昭和54年 大宮工場解体線にて EF1832詳細の記憶は定かではありませんが、友人から「大宮工場で茶色い機関車が解体するところにいた」という情報を聞いて訪れたと思います。小雨降る中、1時間駆けて自転車で行き、高い塀の外から自転車の荷台に乗りって傘を差しながら撮ったような記憶があります。そこに居たのはEF1832号機で、パンタグラフも外されておらず、まだ手が付けられていないようでした。他に複数のEF80も居り、当時はあまり記憶していませんが、EF80も淘汰され始まっていたようです。その陰からクハ181「とき」がちらっと。EF18が現役の頃、静岡方面に写真を撮りに行ったことがありますが、EF18には逢えませんでした。他に、どのタイミングだったか忘れましたが、新幹線車窓から駅にて停車中のEF18牽引貨物列車を追い越した光景が目に焼き付いており、飛び降りて写真を撮りたかったという衝動に駆られた記憶が今でも残っています。EF58の旧車体を完全な姿で残す生き証人的存在であったEF18。その姿を活躍中に記録することができなかったのが非常に残念です。特にEF1833は引っ掛け式のテールライトが存置されていて、凄く会いたいカマでしたが、いずれも実現しませんでした。EF1832昭和26年 5月31日落成 東芝製 沼津機関区昭和54年 1月12日廃車 浜松機関区
2023.11.04
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国鉄NC1形コンテナ(日通ペリカン便)今回はコンテナです。かつてはトミックスのNゲージストラクチャとして製品化されていたペリカン便デザインのNC1コンテナ。昔、まだ若かりし頃に情景用として購入してあった同コンテナを1組だけ所有していましたが、模型談義の中で絶版になっていたことを知りました。今では再販されることが見込めなくなってしまったペリカン便コンテナ。同じく絶版となってしまった日本たばこCABINとの懐かしいコラボです。タバコのデザインと言うだけで闇に葬られてしまった気の毒なコンテナ模型。自分が30年以上もCABINを吸っていたので、特に思い入れがあって購入していたものです。これも激レア? 日通ペリカン便コンテナ NC-1平成24年11月13日 川崎貨物駅にて NC1-185 NC1-575遥か昔のコンテナなので、もうこの世には存在していないと思っていました。この日、珍しく都外の現場があり、地図を見ると川崎貨物駅の近くでした。本来なら川崎駅からバスで行けば楽なのですが、どうしても初めての川崎貨物駅を見たくて早めに出発。京急の小島新田駅からグルっと川崎貨物駅を歩きました。そして中の様子を見ながら歩いて行くと、あろうことかこのような光景に出会ったわけです。国鉄コンテナ塗装だけでも十分貴重な年代ですが、まさかペリカン便コンテナが2個もあるとは、夢にも思いませんでした。光線や風雨に晒されてしまっており、塗装もかなり褪せてしまっていますが、懐かしいペリカン便コンテナであることは十分に判ります。しかも、番号も完全に判別できるため、現在残っているのかどうか分かりませんが、大変貴重な資料となっています。本当にこの光景を捉えることが出来たのは非常にラッキーでした。模型の方をアップで見ると、現在の製品レベルと比較するとかなり落ちてしまうディテールですが、塗装デザインそのものの精度がかなり高いことが判ります。
2023.11.03
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583系:団体列車「リバイバル津軽号」(2013)前年に続き、583系秋田車を使用した団体列車「リバイバル津軽号」が運転されました。時刻は送込み回送も含め、大幅に変更されています。行先も青森から弘前に変更されました。※撮影は、平成25年10月25日です。583系 回9724M 送込み回送昨年と上野到着は全く同じ時刻ですが、季節が1か月違っていますので暗闇とはなりませんでした。しかし、台風前の雨模様であり、明るさは足りません。この時間に雨が止んでいただけでも良しとしますが、肝心のヘッドマークが「臨時」表示となり、ガッカリです。通例では出庫時に用意されるヘッドマークがなかったため、まさかの取り付け中止が危惧されました。583系 9713M 団体列車「リバイバル津軽」発車時刻が大幅に繰り上がったものの、この季節では18時でも夜と同じ状況です。東十条で駅の明かりを頼りに撮影しようと思いましたが、京浜東北線が運転手交代で停車する可能性が高く、まったく写らないことが判明したため、急きょ赤羽駅へと向かいました。しかし、ここでも問題。時間が退社時間と重なるため、ホームが混雑します。客をかわして撮影するのが難しいため、構図と明りの安心な通過ホームを諦めて、湘南新宿ラインホームからの撮影に切り替えました。危惧されたヘッドマークはきちんと取り付けられていて安心しました。でも・・・いやらしい位置にテツが三脚をセッティング。さらに・・・シャッターを切る瞬間に画面内におっさん乱入。派手に入って来なかっただけまだ良かった。まあ、記録ということで。参考までに運転記録を記しておきます。団体列車「リバイバル津軽号」 上野 平成25年10月25日発上野 17:44~9713M・9813M~弘前 8:35送込み回送 秋田 平成25年10月24日発秋田 20:42~回9824・回9724M~上野 6:30※いずれも新潟経由、列車番号は新潟で変更。
2023.11.02
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583系:団体列車「リバイバル津軽号」(2012)かつては出世列車として名を馳せた急行「津軽」。「津軽」というと夜行客車列車の印象が強いですが、東北新幹線開業後の平成2年9月~平成4年7月の間、583系を使用し、改軌工事で通れなくなった福島~山形間を仙山線経由で運転していました。平成24年11月23日、583系秋田車を使用した団体臨時列車「リバイバル津軽号」が設定され、経由は大幅に異なりますが、上野~青森間に運転されました。※撮影は、平成24年11月23日です。回9824M 「リバイバル津軽号」 送込み回送ヘッドマークを付けたままの回送となりました。ヘッドマークの形が合っておらず、また、かなり透けてしまっていて印象がよくありません。もっとも、現役時代は「急行」表示であった記憶がありますが・・・。後部を大きめに撮ってみようと思ったのですが、蕨駅ヨコから加速を始めてしまい、タイミングが合いませんでした。本番の運転も蕨駅まで撮りに行きましたが、ある程度覚悟はしていたものの、本当に京浜東北線北行にドンピシャでカブられてしまいました。おまけに闇に隠れていたテツにも邪魔され、まったく手も足も出ずでした。せめて夏場だと有難かったですね。参考までに運転記録を記しておきます。団体列車「リバイバル津軽号」 上野 平成24年11月23日発上野 21:56~9813M~青森 12:42送込み回送 秋田 平成24年11月22日発秋田 22:42~9613M~上野 6:30
2023.11.01
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