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11月25日の続き…学校教育では「達成志向的」「目標志向的」であることに価値を置くので学校で成績がよかったお母さんほど、目標志向的、達成志向的能力を子育てに活かそうとし必然的に母親主導で過干渉な子育てになる、と永久氏が述べているように子育てに達成すべき「目標」を求め、親として「できるだけのこと」をしてやろうと「努力」する。そして、その努力が目に見える形となって表れ周囲からの評価も得られるのが「お受験」ということになるのだろう。子育てが母親の代理達成となる状況が子どもにとっって過剰な負担であることは言うまでもない。(中略)目標達成志向の能力を子育てに活かそうとするとき子どもは自ら試行錯誤して育つ自由や意欲を失うのではなかろうか?そんな試行錯誤して育つ自由を奪われた子の1人が秋葉原事件の犯人だ!私は、少し前に読んだ犯罪者の心理臨床に詳しい長谷川博一教授の記事に書かれていたこの犯人が携帯電話の掲示板に残した自分の子ども時代の思いを書いた文面を思い出した。「親が書いた作文で賞を取り、親が描いた絵で賞を取り 親に無理やり勉強させられたから勉強は完璧」「親が周りに自分の息子を自慢したいから、 完璧に仕上げたわけだ。」小学生の発達段階では、「よい子」は親の期待に素直に応えているだけで、自分がそのような生き方を選択しているとは気づかない。「よい子をやらされていた」ことに気づくのは長谷川教授が述べているように、ずっと後になってからだろう。勉強やしつけをめぐる軋轢から家庭内殺人を起こしたり通り魔事件を起こすのは、ほとんどが男の子だと不思議に思っていたが「よい子」を振る舞えば振る舞うほど「悪い子」は自分でも見ないように深層に追いやり自分の中の「悪い子」の心は、蓄積していき思春期以降なにかのきっかけで、爆発的に放出するということであり、女の子は「よい子」の裏でうごめく深層の「悪い子」の心を思春期以降、「私はいけない子だから、よい子にならなくちゃ」「よい子になれなかったから、私はやっぱり悪い子」と自分を責めるようになり、自傷行為に及ぶという。確かに「先生、よい子ってどういう子?」「お母さんの言うことを素直にきけない私はよい子じゃないよね?」という類の質問やリストカットなどの自傷行為を告白したのはすべて女の子だ。自傷行為に耽けリストカットを繰り返す女の子たちは、リストカットした瞬間に「気持ちが楽になる」「ほっとする」と言うそうだ。長谷川教授は、一般的な「よい子」のイメージは第1に「勉強ができる」こと、第二に「大人の手を患わせない=すなおである」ことだと述べ「よい子」を救うためには、「よい子」を期待する心と闘わなければならない。「よい子の破綻」は子どものトピックスではなく親や教師といった身近な大人の「心の誘惑」の問題なのである。いかなるときも、けっして「子どものために」と合理化してしまわないことだ。と、記事を結んでいる。無意識のうちによい子の鎧を着せてはいないか十分に注意して生徒たちと向き合っていきたいと思う。
2009年11月30日
昨日から小1の生徒達と南房総に来ています。参加者にとって、また親御さんにとっても初めての宿泊研修となるこのプログラムでは他のどの研修よりさまざまな事態を想定して臨んでいて研修所に入り、階段を見つけるや否や二階へと駆け上がり、家中を探検寝袋がしまえない、たためないと可哀想だと親御さんが思われたのか身体の半分ほどあるバックに寝袋(大人用)を入れてきた自宅での事前練習が十分でなかった為に結局自分ではしまうことができないばかりかバックが重くて動かすこともできず投げだし他の参加者が協力してしまって移動し、本人はただそれを眺めていた…温泉のお風呂で泳いではいけないと言われているにもかかわらず、3度注意されても再び泳ぎだし引率していたスタッフに脱衣場へつまみ出されたなど、今回もほとんどの参加者がそれぞれにお目玉やらお小言を貰い多少のことでは、こちらも驚かないのだが、前代未聞想定外の行動にしばし呆然…叱るのも忘れて笑い出してしまった出来事があった。このプログラムでは近くの温泉で入浴することになっていて講師が、「お風呂に入りに行くから、お風呂の支度をしなさい。」と言って生徒たちに用意をさせているのが台所で夕食の用意をしている私にも聞こえていたのだが、突然、台所にある給湯システムのパネルから「もうすぐお風呂がわきます」とアナウンスが流れびっくり!慌ててお風呂場に走って行くと、バスタブには蓋がしてあり、めくってみるとお風呂が沸いていた!一瞬どうしてこんな事態に、と唖然としたが、「誰かお風呂のスイッチをいじったの?」と生徒たちに声をかけると男の子二人が青ざめた顔でやって来てもじもじと「お風呂の支度っていうから」お風呂を沸かした!!! お腹が痛い…それまで度々お小言を頂戴していたので彼らなりに汚名挽回とばかりに気を利かしたのだろう。だが、こういう行動が火事などに繋がることもあるので「先生やお母さん、お父さんの話しは最後まできちんと聞く。 そして教えてもらっていない事は やる前にしてもいいか訊いてから行動すること わかった?」と注意する。褒められると思ってした行動がそうではなかったと知った涙目の二人は頷いた。少し前に近くの海岸に講師と一緒に遊びに出かけた6人の1年生さすがに泳ぎ出すことはないだろうが、水浴びくらいしてくる生徒がいるかもしれない(笑)
2009年11月29日
小学校受験、中学受験、高校受験、大学受験…例年のこととはいえ、顔で笑って心で泣く受験シーズンはこちらもこまめな気分転換が大切となる。今年は国立大学を目指している生徒がいるので3月上旬までの長丁場である。2008年度の調査で幼児期から受験準備が必要な私立・国立小学校に通う割合は、東京都では20人に1人にのぼり、20人に1人の合格者の背後では、その何倍もの親子が幼児期から受験準備をしていることになる。という記事を目にした。筆者である文京学院大学准教授の永久氏は、大学卒で仕事もバリバリとこなしていた女性が、出産を機に退職し、子育てに専念した場合、学校生活や職業生活で、目標達成の為の努力をし評価を得てきたように子育てに目標を求め、そのための努力を惜しまず評価を求めるが、子育ては、目標も結果も見えにくいばかりか親の努力が裏目に出ることすら少なくなく、結果や評価が結びつかないほうが多い。そのような母親にとって、早期教育や低年齢での受験は、格好の目的になり得る。大卒で管理職に就いていたもののやっと恵まれた子どものため、子育て専業になることを選択した母親は、「自分の仲間がいい仕事をしているのを見聞きすると 自分が辞めていなければ、自分もそこにいたと思う。 自分が子育てのために退職したことを納得するためにも 目に見える形で自分の子育ての成果が欲しかった。 最初はそんな軽い気持ちで小学校受験を決めた」という。幼児教室は、今やゼロ歳までもが対象で、受験に限らず、音楽、英語、能力開発まで百花繚乱である。これらには、頑張れば何かが目に見える形でできるようになるという目標と親の努力が目に見える形で結果になり、到達度を評価できる点に共通性がある。子どもの育ちに求められる母親役割と学校生活や職業生活で求められる役割とは求められる態度や能力が根本的に異なる。早期教育の是非はともあれ、子どもは自ら試行錯誤して、自ら育っていく存在である。そこが生きる面白さであり、生きる意欲につながる。そこでの親の役割は、子どもの失敗を見守ること、子どもが戻る場を作っておくくらいしかないのではなかろうか。ここまで読んで私の頭によぎったのは、「よい子」と言われる子どもたちが抱える心の問題について書かれた記事だった。次回に続く
2009年11月25日
昨日の朝、インドネシアから帰ってきました。生徒を含めて日本では、週に1度か月に数回合う人に対して話しをするのがほとんどなのに対して出張中は、会議、打ち合わせ、商談、面接など短期間に初対面や初対面に近い人たちに対して話し続けることになり、テンションを高く保ちつづける為に大量のエネルギーを放出する(笑)せいか帰国便に乗るために空港へと向かう時はのびきったゴムのような精神状態で今回、出発ロビーに入る為に行うX線検査場で脱いだコートとパーカーを取り忘れたことをチェックイン、空港税の支払い、出国手続きを終えラウンジへと向かう途中で気がつくという大失敗をやらかした。もう誰かのものになっている可能性も高く一度は、免税店の店頭に並ぶポロのマークのついた長袖のセーターを買おうかとも考えたが本物であるはずがないものに1万円近く払うのもしゃくで(笑)空港係官に英語で事情を説明し出国カウンターを通してもらい出発ロビーに降り、検査場へと向かった。確か、二番目のレーンだったと2番目の機械の周辺に目をやるとX線の映像をチェックしている係官の隣のイスに私のコートとパーカーが置いてあるのを発見!係官に英語で、「すみません。私のコートとパーカー…」と声をかけるも、反応はなく(しかと…?)同じことは私のインドネシア語力では言えないので3/4ほどやって放置状態になっているインドネシア語の教本の一番最初のユニットで学んだ文法を使って「すみません。それらは私のものです。」とインドネシア語で声をかけると係官がニヤリと笑って「お土産にください」注:私が聞き取れたインドネシア語と係官のジェスチャーから 私が想像した内容です (笑)あわてて 2番目のユニットにあった助動詞のルールを使って「だめです。日本はとても寒いです。」とインドネシア語で返すと、笑いながらコートとパーカーを返してくれた。インドネシア語が少しでもできてよかった。少なくとも1万円を使うことはなかったし(笑)帰ったら本棚の片隅で1年以上眠っている教本を開いて残りの1/4をやろうと考えた。来月プルミエで効果的と言われている英語の学習法についての第二言語習得研究の専門家と私の意見を書くことにしているが、外国語の習得過程と指導法について学んだ目で学習者(それも熱心ではない)である自分の習得過程を見ると、実に様々なことが見えて面白い。これらを、第二言語習得に影響があると言われる統合的動機付け(integrative motivation)なのか道具的動機付け(instrumental motivation)のどちらと言えばいいのかわからないが、少なくとも、ここ最近ゼロだった学習時間が15分から30分程度増えるのだから白畑教授が著書で述べているように動機づけが高いと学習時間が長くなる。よって第二言語能力が伸びるのであれば、私のインドネシア語力も今より少しは向上する可能性があるということだろう。(笑)
2009年11月23日
昨日の日記に書いた専門誌にこんな話しが載っていた。某私立高校の三年生が校内で禁煙しているのを教師に見つかりあと一ヶ月足らずで大学入試センター試験というときに退学処分を受けた。成績優秀な生徒だったが、高校中退では受験資格を失う。両親は学校に懇願したが、以前にも喫煙による停学の前科があるためつっぱねられてしまう。そこで学年保護者会に退学撤回の署名運動を頼んできたのである。「ここまで日夜親子でがんばってきました。 準備万端、今回受験すれば志望校に受かる自信がありますが、 一浪では精神的、経済的負担がおもくなります。 どうぞ皆様のお力で…(あとは涙)」保護者たちは一様に同情して学校側に撤回を申し入れたという。ちょう連日高校3年生の生徒たちのマーク模試の、志望校判定やら偏差値を見て一喜一憂している生徒達と向かいあっていることもあって私ならどうするだろうかと考えた。処分を撤回したら教育者として失格である。では親として署名活動を求めるという行動はどうなのだろうか?教師たちの回答はいいですか、いま大事なのは一流大学に合格するか否か親の気力が続くか否か、経歴に傷がつくか否かという話しではありません。彼が校則を破れば一度目なら停学、二度目は退学処分と知った上で校内喫煙をしたという一連の行動が問題なのです。もしここでわれわれが変節すれば、この生徒はおとなというものを、世間というものを、社会というものを国や規則や法律というものをすべてナメてかかってしまう。なんでも簡単にやりなおせるとみくびって長い人生で大きな間違いをするかもしれません。自分のやったことの結果に責任をとり挫折を味わい、何のために学問をするのかを再考しそのあとに自分の判断で大験(高卒認定試験)を受けて再挑戦すればよいことです。まだ頭の柔らかい時期にこのような経験をする1年は本校で学んだ約3年よりはるかに貴重なものになるでしょう。私どもは教育のプロです。熟考したうえで生徒によかれと思う処断をしたのであって教師が親の私情や都合に流されることはありません。という明快なもので、一同目からウロコが落ちる思いで聞き入ったと、家庭問題評論家の宮本氏は書いている。素晴らしい。学校名が書かれていない(当然だが…)ことが、とても残念。
2009年11月18日
価値観の違いから生じる親の温度差で本音で他の幼稚園ママや同級生のお母さんと話しができない、というお母さんの話をよく耳にする。男の子はうるさくて学習の妨げになるので英語教室では男の子のいないクラスを選んだと幼児の女の子を持つお母さんが言えば、小学校6年生の男の子を持つお母さんは、6年生の男の子の半数以上が女子のいない中学校に通いたいと言っていると、女の子の傍若無人ぶりを訴える。教育専門誌の中で土井教授は、親が自己肯定感を支える安定した羅針盤を自らの内面に持てなくなっているとし子どもの教育環境の不備に過敏に反応する親の態度は、子どもの人生に依存する心性の反映だとも言える。と、指摘している。多様な生き方が認められ、価値観が多様化してきたことで、評価の一貫した指針を見いだしづらい社会になりどれほど正しく感じられる意見であろうと別の観点から見れば正当性は揺らいでしまう。そして、価値の多元化した社会だからこそ相手の考え方を推察し、許容範囲を見通す力としっかりとした羅針盤を持ち、針が示す方向へと自己肯定感を持って進んでいく力が必要とされる。同じ本の中で馬居教授はこう述べていてる。自分の子しか見ない親がいるのも事実。だが、自分の子しか見ていない親こそ、我が子の成長を阻む元凶であることを教えるのが教師の役割。親が育てられない子どもの多様な面(隠れた才能)を育ててくれるのが先生とクラスのともだち。わが子を心豊かに成長させる鍵は、友だち関係を含む我が子を取り巻く「ひと、もの、こと」環境を豊かにできるかどうかである。多様な親との間で、我が子ではなく他人の子を育てることの大切さのコンセンサスづくりを試みることから教師の学級づくり始まる。開講3ヶ月目を迎え、そろそろ慣れてきた年少さんのクラスで昨日、レッスン中に男の子3人がふざけて騒ぎ出した。「悪ノリ」である(笑)ところがこの男のたちの「悪ノリ」がなかなかアクティビティをこなすだけで、外国人講師とのやりとりを楽しめない女の子たちに外国人と笑い合い、アクティビティに積極的に参加するきっかけを与え、レッスンに活気が出た。もちろんレッスンの流れを止めてしまう「悪ノリ」は許されることではないので、「ふざけたいなら、外でやりなさい」と腕を掴んで言えば十分ニュアンスは伝わりクビを横に振りながら「ごめんなさい」とその後は、「悪ノリ」することはなかった。(おまけとして、OUTという言葉は 深くインパクトを持って彼らに刻みこまれただろう(笑))もちろん子どもなので、また「悪ノリ」をして私に叱られることもあるだろう。しかし、そのような経験を共有することで女の子も「程度」を学んでいき、自分とは異なった行動を取る男の子たちを学び仲間として受け入れることで許容範囲を広げることができ成長していくのではないだろうか?
2009年11月17日
実教室では、宿泊研修に参加すると日記や感想などを日本語で書かせることが多いのだが、作文が苦手というだけではなく、文字を書くことが嫌いと書くことに問題を抱えている生徒が少なくない。字を書くことが苦手、嫌いな子の中には視覚的な情報処理や微細運動が苦手で文字を正しく書くことができないケースがあるという記事を専門書で読んで一見同じような乱雑な文字を書いていても「丁寧に書いて」「よく見て書いて」と一概には注意することは危険であることを知った。低学年で習得する文字(ひらがな、カタカナ、漢字)の数は約340。人と入は、ほぼ同じ要素の二つの線分で構成されているので部分的にどこが違うのかを瞬時に見分ける力や見たとおりの文字の形を認識し脳の中で見なくても思い出すという再構成する力、そして、実際に書く動作を再現して書くという運動想起の力これらの力が弱いと書くことに躓きやすくなると書かれていた。利き手と反対の手で文字を書くとそのような子どもたちの状況が理解できるというので早速やってみたのだが、丁寧に書こうとしても無理で頭の中に文字のイメージがあっても思った通りに字が書けないというストレスを感じる。文字とは、複数の線分が一定のルールに従って組み合わされたものであり、字のバランスが崩れてしまうのはある一本の線分を書き始めるための始点のコントロールが難しかったり線分の書き終わりを示す終点のブレーキがききにくかったりすることが原因であると推察でき1つの文字を書きあげるのに必要な動かし方や力の入れ方の実感が乏しいと川上先生は指摘し、字を書くときのポイントはね、とめる、はらいなどの動作を鉛筆に止まれ、と言ってみようなどと言葉にして伝えたり手を添えて手の動かし方を伝える取り組みを勧めている。ガチガチに力が入って利き手側の肩があがっているのも長時間書き続けることができないし鉛筆の先の方をにぎりしめて書いている子は微細運動が苦手なために鉛筆の先がブレるのを必死で押さえているという。筆圧が強すぎるのも過剰に力が入っている証拠だそうだ。身体を安定させる、書くマスを大きめにする鉛筆の長さをチェックする、そしてノートをまっすぐに置けるだけの場所を机の上につくることも重要だと言う。そして何より、「うまく書けたら、その場で一緒に喜ぶ」が、大切だそうだ。最近では、細くて丸いものを握る力が十分に備わっていない幼児の段階から鉛筆を持たせることで誤った鉛筆の持ち方が定着してしまい高学年になっても、きれいに素早く書くことができず書くことが苦手、嫌いになる子が増えているという。平仮名の獲得は名前の文字を含む10文字程度がわかると一気に獲得が進み、小学校入学時に平仮名をほとんど習得していていなくても半年ほどの間に、入学前に獲得している子どもたちとの差はほとんどない状態になる。と荻野教授は指摘している。文字を書く力には、運動能力が深く関わっていて発達に沿った導入、指導が必要なのだと感じた。
2009年11月13日
昨日の続き…そして二人目は、すでに笑顔で実教室に通い始めている1年生のAちゃん。Aちゃんは、全く学習経験がない状態で先月実教室にやってきた。本来であれば、すでに開講半年以上が経過している今年4月に開講した1年生のクラスにも参加できないのだが、夏休み後に3つある1年生クラスを習得度別に再編成したことと9月からやはり同じように学習経験がない状態で一番下のレベルのクラスに参加し始めた2年生と同じように、すでに英語慣れしている生徒達に気後れすることなくレッスンを楽しみ、やってみたい、という強い意志を体験レッスンで示したので受け入れを決めた。担当講師によれば、Aちゃんのお母さんは、Aちゃんが小学校に入学したら実教室で英語を習わせようとAちゃんが幼児の時から考えていらしたのだが、実教室の新1年生の募集が開始する時期、入学の数ヶ月前にAちゃんのお父さんが重い病であることが判明わずか1ヶ月ほどの闘病生活で帰らぬ人となってしまい4月の時点では、とても英語を始めることなど考えられない状態になってしまった。ところが、Aちゃんは「英語は?英語を習いたい。」とお母さんにアピールし続け、お母さんも生活が落ち着いたこともあり、思い切って実教室を訪ねてらしたという。英語だけではなく、実教室の先輩たちが築いた暖かい輪の中で時に癒され、力強く成長して欲しいと願っている。三人目は、四年生のM君M君は、都心の英語教室に幼児の時から通っていて実教室に通っている生徒の保育園仲間でもあり小学校の同級生でもある。レベルチェックで、外国人講師は、M君を決まり文句的なやり取りはできるという英語に慣れている程度の習得と判断し日本人講師は、よく目にする単語は読めるがPhonix学習を経験していないのではないかと判断した。情緒レベルが大きく異なる4年生と2年生を同じクラスで教えることはできないのでW君と同じクラスに入れるというわけにもいかない。担当講師には、親御さんに少しお時間をいただきたいと連絡するように伝えたが、私としては、受け入れは無理だろうと考えていた。ところがその翌日、4年生のクラスを指導していたらNちゃんが、「先生、M君ってこの教室に入ったんですか?」と突然、尋ねてきた。「M君が入った。って言ったの?」「はい。」確かに、レベルチェックを受けて入れないことは子どもの習い事の場合、殆ど存在しないだろうからM君が「入った」と思ってしまっても仕方がないし今更、入れなかったという経験をさせるのも彼の気持ちを傷つける可能性が高く、気が進まない。さて、どうしたものかと頭を悩ませていたら日本人講師が、4年生の習得度が一番下のクラスであればまだセンテンス読みがおぼつかない状況なので1月のPhonix研修にM君を参加させてPhonixを理解させればレッスンについていけるかもしれない、と提案してきた。今の英語教室から実教室に編入していただいても、年齢的に習得度にそれほどの変化は見られないかもしれないと明確に親御さんに伝えるように指示をして返事を待っていたところ親御さんから、それでも編入させたいと連絡が入り明日、M君が4年生のクラスを体験した結果と本人の気持ちを確認して決めることになった。明日、M君がどのような判断を下すことになっても親御さんには、彼の判断がたとえ自分たちが望んでいるものと異なっていてもしっかりその判断を受け入れ、理解を示していただきたいと思う。
2009年11月11日
テニス協会の新規イベントを任され(押しつけられ?)てその準備に振り回されている状態が続きついつい更新が滞りがちに…レベルチェック、体験を経て今月から3人の小学生が実教室に参加することになった。まず最初にお母さんに連れられて教室にやってきたのは、幼児時代は幼稚園ではなくプリスクール+アフターに通い、小学校入学後は、大手、準大手の英語教室を転々としながら塾に併設された英語教室にも通っているという2年生のW君。経験的には2年生の一番上のAクラスに編入してもおかしくないのだが外国人講師、日本人講師がレベルチェックをした結果Phonixを理解しておらず、読めないことが判明。お母さんも息子が単語を殆ど読めない状態を目の当たりにして愕然「どの英語教室でもよくできる、と言われていたのに…」実教室の2年生クラスでphonixをまだ学習していないクラスは昨年の4月に開講したCクラスしかなく彼の習得レベルに合っていない。しかし、レベル違いのクラスで受け入れることよりお母さんの腕い身体を委ねて甘えている彼の姿に帰国子女と同じように英語に長時間触れることで英語を身につけているW君が習得の為の努力が必要だということを理解し努力することができるのだろうか?という疑問がわき課題をやらなければならないという状況が彼を英語嫌いにしてしまう可能性もあり受け入れはお断りするべきではないかと考えていた。担当の日本人講師も、課題、宿題について最初からお子さん一人ではできないので、お母さんがついてやらせる必要があるが大丈夫か、と何度も念を押し、お父さんとも相談してよく考えていただきたいと伝えたのだが、翌日、HPに書かれた実教室の主旨にお父さんも賛同しているので編入させていだきたい、という連絡がお母さんから入った。後日、お母さんの希望もありAクラスを体験したW君。お母さんの「大丈夫だった?わかった?」という質問に「わかった。」と答えていたのだが、レッスンに通い始める前日に「本当はわからなかった。 できなかった。」とお母さんに訴えた。「どうしてそう言わなかったの?」「わからなかった、と言ったら 通わせない、って言われると思ったから」他の子がわかっている、できるのに自分は、できない、わからない、という経験を初めて英語でし、自分と向き合ったW君。新しい学び仲間と一緒に実教室でわかるようになる、できるようになる、という英語習得の階段を自分の力で昇り英語力と自信をつけていって欲しいと思う。次回に続く
2009年11月10日
仕事、テニス協会、プライベートのイベントが集中し先月末からとにかく時間に、準備に追われていてバタバタの状態気がつけば、このブログも一週間以上放置状態に…通っているグループレッスンに新しい子が入ってきて、レッスンをかき回しクラスの雰囲気が一変したので英語教室を変えるか、プライベートレッスンに変えたいという相談を受けた。グループにはグループのプライベートには、プライベートの良さがあるが私は言語力(対話力)を向上されることが英語習得においても重要だと考えているのと明確な習得目的を持たない年齢の学習者にとって学び仲間の存在はとても大切であると考えているので実教室ではグループレッスンが主体で特に幼児、小学生に対しては、プライベートレッスンは、通院や受験準備の通塾の為に通常のレッスンに通えなくなったものの代わりに参加できるクラスもない、という状況の時のみあくまでの一時しのぎ的に行っているだけである。修業時代に「崩壊」してしまったクラスの立て直しの講師指導を数多くやった(やらされた?)が7割方講師側のレッスン内容を含むクラスコントロール力の問題で残りの3割は家庭や学校など教室外の問題を生徒が教室に持ち込んだことが原因だった。実教室では入会前の体験レッスンやレベルチェックでお母さんのダメに従えない場合はお断りするものの同じグループレッスンであっても実教室では、レッスンを成り立たせるレベルでクラスコントロールに悩むことはないのは、ロビーでレッスン待ちをしている生徒同士が揉めそうになった時、いたずらをしようとした時や困った時一人で寂しそうにしている時に我が子に接するように生徒たちに対応してくださる親御さんの我が子の学び仲間を育てるという感覚に残りの3割の部分を支えられているからである。自分のことを気にかけてくれる人が多ければ多いほど子どもの「良くなろうとする芽」は真っすぐに伸びていくことができる。問題行動を取る子以外の問題もあって教室を変えたいなら別だが、そうでないのなら、是非、問題解決の為に問題行動を取っているお子さんに声をかけて欲しいと思う。外国語の習得には、特に過程が大切なだけに私でも、体験レッスンを見てや教室の中を覗いて、その雰囲気でという限られた情報から、そのレッスンや教室の良し悪しといったおおまかな判断はできても数年先の習得レベルや教室の状況を読み取り習得の良し悪しを判断するのはかなり難しい。教える側から考えれば、教室を変えることのマイナスも大きく流浪の民になってしまっては、もったいないと思えるのだが…。
2009年11月06日
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