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東京に行った時、幼稚園からの友人と酒を飲みに行きました。お互い実家は100メートルも離れていないのに、何百キロも離れたところで、ただ携帯のボタンをいくつか押しただけでその時、その場所で会えるっていうのはすごいですよね。時代と共に自分たちも成長したな!と思っちゃいました。つまんないことですが、すごいことですよきっと。話の内容もがらりと変わって、仕事や哲学、宗教など様々でした。おもしろいんですよこれがまた!お互い真剣ですしね。昔はお菓子の話、ちょっと大きくなって女の話(笑)部活の話、などなどからここまでくるか!と成長っていうより、お互い真剣に生きるようになったので、どんなつまらない話でも、そこから、底から芽を出し、花を咲かせることができるようになりました。というよりつまらない話なんてないんでしょうね。なんでも真剣に考えると面白いな~と思いました。二人に共通した意見が、大学生になって、少したって身にしみたのが、「数学ができなければいけない、論理を追わなければいけない」ということでした。数字で語り、論理的に考える。そうすることにより、何もかも変わってくるんだと思います。国語は数学であり、逆もまたしかりだと思います。気づけてよかったです。まだまだ数字が苦手ですが、克服しようと思います!
2004.01.31
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昨日の面接では、本当に勉強になりました。東京が、というわけではありませんが、東京に行って面接を受けて、学生の意識の低さにびっくりしました。待合室ではしゃべりまくり、姿勢をくずし、挨拶もせず、マナーもなってなく、ひたすら雑談をしていました。関西というか、少なくとも僕の周りやいままでも選考会などでは見たこともないくらいひどかったと思います。何を考えて仕事をしようとしているかもわからない人たちでした。言葉は汚く、人の言っていることにも、見当違いな返答をしていました。正直腹が立って仕方がありませんでした。しかし、それをうまく注意する人事の方、そんな学生にも笑顔で接し、根気強く伝えようとする社員さんなど、本当に勉強になり、それに腹を立てていた自分が情けなくなりました。自分でも少し注意したんですが、聞いてもらえない状態でしたから。別にいーじゃん。って言われました。それで、ほっとこうと思ってしまいました。そんなんでは駄目ですね。そして、終わったあと、引き止められ、色々と案内してくださったり、オフィスについての説明をしてくださったりしました。その言動の一つ一つが、とても洗練されていて、常に相手の視点で、相手にわかるよう気をつかっておられるのが伝わってきました。そして、「笑顔」を絶やさず、その笑顔も、場によって違う笑顔でした。自然なのでしょうね。本当に自然でした。自分の小ささが身にしみた出来事でした。
2004.01.30
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あまりに忙しく書き込めなかったので、覚えている範囲で、30日まで書きます!いえい!29日は、新幹線で東京に向かったのですが、これまで何度も東京に行っているにも関わらず、富士山を新幹線から見たことがありませんでした。しかし、つい目に浜名湖が飛び込んできました。当然もうすこし行くと富士山だ!と気づき、ずっと車窓から外を眺めていました。すると遠くに富士山が!はじめてみた。。。しかも、西から東へ行く新幹線で富士山をみると、だんだん近くに行くんです。そして、一番近くからは、ちょうど一望できるんです。まるで絵画のようでした。車窓が額縁となっているかのように、綺麗に収まって、そして収まりきれない壮大さがありました。それまでの、だんだん大きくなっていく一連の時間もまさに演出でした。日本人はやはり、あの山を見るとなんともいえない気持ちになるんでしょうね。どうにもいえない気分でした。遺伝子に染み付いているんだと思います。日本人でよかった!まわりのおっさんも口あけて観てました。そりゃそーだ!完璧です。標高の問題じゃないですねあの山は。
2004.01.29
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今日は第一志望の企業Pの面接です!緊張!というか変なテンションです。こういうときはうまくいく確立5割くらいなんですよね僕。とにかく頑張ります!でも東京まで行くのが辛い。。。。。今から出発します!
2004.01.28
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王貞治は868本のホームランを打った。が、1319回三振したそうです。でもそれはあまりしられていません。だから努力が見えないんですよね。もちろん三振の数は他の選手に比べたら少ないのですが、そういうことではなくて。そして、メディアがあまりそのことに触れないのもその情報のニーズが無いんでしょうね。結果がすべてだからなんですが、それもまた結果ですし。なにか、情報って立法体の正面しか写していないような気がします。でもそれは当然で、そこから読み解く力が必要とされているんでしょうね。でも、あまりにもマスに振り回されている人が多いんじゃないかと思います。それは仕方の無いことですが、時々立ち止まって考えることをすべきですよね。みんながそうすればメディアの在り方だって変わるはずですし。そう思うと今回の自衛隊の派遣に50%以上の国民が賛成しているのはいい傾向だと思いました。賛否は別として。自分の意思で判断したという一つの結果ですしね。
2004.01.27
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徹夜明けです!眠いです!しかし日記をかく自分を勝手に褒める。寝てから書けばいいのに今書いている自分を頑張っていると勘違いさせ頑張っています。夜電話がかかってきて、いろんな相談をされました。ひとから相談されることが多いのですが、最近本当に責任転嫁する人が多いと思ってしまいます。そう考えると僕もかなりの部分で何かと理由をつけて自分を説得しているなと反省しています。言葉足らずだから、引っ込み思案だから、おとなしい性格だから、、、 だから何?分かるんですよ本当に。分かりますよ。辛いのも、性格も。でも、まったく抜け出す努力もせず、自分の性格のせいにするのは親と自分に失礼ってやつではないでしょうか。「人見知りするんです。」なんて第一声言う前にその第一声を「こんにちわ」にする努力をなぜしないのか。人見知りという性格に責任転嫁しているだけでは?「人見知りするんです。」と自己紹介できるなら、自分に気付いているはずでは?それを気にかけている素振りがそのような人からはまったくみえません。少なくとも僕には。人見知りが悪いと言っているわけではありません。僕もその一人です。いろんなことのリーダーをやることがおおいので、よくしっかりしてるなどと言われますが、こっちは必死です。それすら、見ようともせずに、あたかも生まれつきできないからしょうがないかのように。バイトを始めた同期の友人に、僕がアルバイトリーダーになった時、「いいよねリーダーシップがあって仕事覚えるの早くて」と言われました。バイトを始めてから常に何か問題意識を持って働き、メモを片手にがむしゃらに頑張った僕に、惰性で働いていた太陽系の恥さらしは「メモなんか持ってやるき満々やん!」と言いました。少しわらって。話は変わってこの少し笑うという行動が僕は本当に嫌いです。この行為で、日本中のいくつもの非凡な才能が影に隠れているのだと思います。そりゃ出る杭は打たれるの世間の問題かもしれません。打たれない杭になればいいだけかもしれません。が、「人に笑われる」という行為は人を後ろに向けると僕は思います。信念があればとも思いますが、誰だって笑われたくはないと思います。「おいしい」とは違いますよ 笑普通に笑うのはいいのですが、真剣な人や、頑張った人、挑戦した人などに向かってよくやるよねみらいな笑いかたをすることが、どれだけその人の次の可能性を狭めているか。笑われるべき人が笑うというのは許せません。たとえ最後に笑うのが頑張った人であっても、そんな権利は無いと思うからです。大人にならなあかん!とよく言われるのですが、「言ってあげるのが大人」だと思います。「だまって流すのが大人」なのでしょうか。まあケースバイケースでしょうけれど。さあ、テストに行って来ます!
2004.01.26
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時々感じるのですが、僕も含めて、行動が理想の自分をトレースしているのではないかと思ってしまいます。もちろん立ち振る舞いや言動に注意し、意識して行動することは必要なのですが、自分の意見を求められた時、人に何か言わなければならない時、ある「理想の形」をイメージして、それを演じているだけではないかと思うことがあります。大切なことかもしれません。でももっと大切なものをなくしているかもしれません。理想の自分を描くことは重要ですが、それが多数に賛同を得るかたちを意識していたり、自分の本意に反するものであればやはり考えを改め自分らしく、しかし意識はしっかりとしなければならないと思います。例えば吐き気を催したとき、怪我をしたときなど、必要なのは必要最低限の看護であると思います。そして、もし僕が吐きそうなときは、だれも見ないで欲しいです。しかし、ほとんどの人は背中をさするなどの行動をとります。あきらかに大丈夫でない僕に向かい、「大丈夫か?」と声をかけてすらきます。吐きそうなときだけでなく、様々な人間関係においてそれは自分が安心したいだけのような気がします。そんな気も利かないあなたのオツムは大丈夫かと言いたくなります。もちろん本気で心配してくれるひとが多いのもわかります。ただ、僕であれば一人にして欲しいと思います。そして僕のケースであればそれが何より気をつかっていることになるでしょう。もちろん人それぞれです。だけど、何より大切なのは相手の視点に立って考えるという思いやりであり、それを意識して、トレースしなければいけないと考えています。今のところは。。。
2004.01.25
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今日は会社説明会に行って来ました。大阪ビジネスパークというところに行ったんですが、今日だけでなく、いつもどこに行っても僕は迷ったことがありません。地下にいてもどちらが北かわかります。まえの日記にも書きましたが親の教育のおかげなんですが、地図の上が北な限り僕は迷わないでしょう。何故かよく道を聞かれるので、その都度思うのですが、地図って多分、目的地、自分の位置、移動手段の三点と方角さえきっちり見る人って迷わないんですよね。そして、それは人生でも同じだと思いました。自分の位置と目的地を定める順番は人それぞれかもしれませんが、地図と同様に今の自分、なりたい自分、なる方法、仕事をしっかりと考える必要があるんだなと、痛感。実は、時に僕は未来予測がへたくそです。一年くらいは完璧に計画を立て、修正しながらきっちり自分をコントロールできます。まさに、plan-do-check-actionですよね。しかし、そのスパンが10年、20年となるととたんに曖昧に。よく「10年後何をしていますか?」と聞かれるのですが、「さあ?」としか言えません。まあそれはおいておいて「10年後何をしていたいですか?」と聞かれると、僕はそれがうまくイメージできません。ぼんやりとはできますし、一応人にしゃべれるだけのレベルにはまとまるのですが、イマイチなんですよね。でもこういうイメージというか想像力って大事だと思うんです。だからいい加減なのは駄目だと思いました。どうやったら上手く自分の10年後をイメージできるのか、試行錯誤中です。
2004.01.24
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今日夕食を作っているときに、調理器具がなくなっていたり、軽量カップが無かったりしました。そして。ピキーンと思いました。 「必要なものは、必要な時、無い。」と。今思えば自分の不注意や用意不足、節約になっていない節約などで必要な時にあるべきものがないことがよくあります。後悔です。しっかりと考え、支出、出て行くものは最小限、入手、入ってくるものは必要最低限、しかしちゃんと。そして満足は最大。という生き方をしたいとますます思いました。まさにリッチ・シンプル・ライフですね。でもでもでもでもでもでもでも、さらに思ったんです。必要な時に必要なものがないのではなく、必要な時に加え、必要でないときまで、モノがあふれすぎていると。そして、ヒトは堕落するのだと。まさに今日の出来事はいいキッカケでした。「あたりまえ」だと思っていたものは「あたりまえ」じゃないんです。当然ですよね。それこそ原始人なんか超不便。今のは言い過ぎですが、ほんの何十年か前など贅沢品、奢侈品とされていたものが今では当たり前。テレビが映ってもラジオが流れても、CDから音が出ても、車が走っても、電気がついても、病気が治っても、誰も何も思いません。ありえないですよね。今一度いろんなものに感謝しなければと思いました。
2004.01.23
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よく~の語源は。。。とか聞くじゃないですか。「夢」という字の語源を聞いたのですが、一言で言うとなにかもやもやしたものだということでした。やはり語源って考えさせられますよね。そしてそれを知ることで他の言葉も深く見えてくるから不思議ですよね。常に考えながら物事をみつめることは本当に大切なことで、その逆はほんとうに時間がもったいないと思いました。そんなこんなで、今日は小論文を書かなければならなくて、シオニズムについてだったのですが、「出来る」という言葉をつかっていてふと思いました。(ここからはなんの根拠もないただのこじつけです)シオニズム自体そんなに詳しくなかったのですが、一応まとめて、のんびりと読み返していました。そこで「出来る」ということばが目にとまりました。なんで「出 来 る」なのだろうと。今広辞苑を調べてみると「できること」と最初に説明されていました。ふりがなやん。。。。まあそれはおいておいて、「出て来る⇒出来る」となったのかなと思ったんです。シオニズムという苦手なテーマの論文がけっこううまくかけたことも影響しているのだと思います。「自分の中から出て来る事」。それが「出来る事」なのかなとふと勝手に思い込み、ブラッシュアップをしていると、プラス思考をしている自分に気付きました。僕はいつもマイナス思考なのですが、妙に気分が良く、いつもより頭が回転している気がしました。ものは考えようですね。
2004.01.22
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今日は筆記テスト対策に弟に数学を教えてもらいました。僕はほんっっっっっっっっっとうに数学が苦手です。必要なものは必要な時に身につける!と勝手に自分に言い訳をすることも激しく多いです。笑生まれて初めて弟に何か教えてもらいました。いつも僕が弟の人生指南をしているのですが、教えてもらうのも悪くないですね。また、変な兄貴感情を捨て、照れもなく弟に質問することも10年前の僕ならできなかったでしょう。年齢なんか関係ない!とおもえるようになったんだなと自分を少し褒めてやりました。恥ずかしながら僕は数学が大の苦手で、2時間ほど前、人生初の因数分解を習得したくらいの数音痴なんです。逆に弟と父は超理系です。料理学校に通った母も調理系です。そして、電話とFAXを使い30分ほど数学を教えてもらいました。それがわかりやすいのなんのって。。。そして、全ての問題を暗算で解き、一度言っただけで問題文も覚えていました。さらに回答速度は激早。そして僕は思った。思ったよ。遺伝子同じか???????????????????さらに、僕のオヤジもかなり脳みそスパークしています。小学校のころなど、僕はいろんなことを疑問に思っていたんですが、すべての質問にいつも最高の形で応えてくれました。水平の取り方について、建物がなぜまっすぐ建つか、つり橋をつくる理由、トンネルを掘る理由、なぜそらが青いか、海が青いか、山に木がたくさんある意味、相対性理論、宇宙のこと、飛行機は何故とぶか、船は何故浮くか、サンタはいるか、などなどです。それらはすべて今の僕の中で活きています。地図の読み方や、方向感覚などは、父が身につけてくれたものだと断言できます。だから「生まれつき方向音痴」なんていないはずです。あんなんうそです。地図を見て、太陽をみて、建物を見て、自分を見て、方向なんてわかるはずです。。。。となると僕の数学音痴もただの努力不足です。がんばらなあかん!そこから思うのですが、僕はいつもせっかく生まれたのだからこの一生一度の人生何か残して死にたいと思っていました。それは本当につまらないものかもしれません。いや、つまらないものでしょう。例えば僕の父が教えてくれたことは僕の中でいきています。そして父の欠点も多かった(思いやりなどがかなりない)んですがそれを見てここはよくないから自分は気をつけようと思ったこと。それもやはり「父が教えてくれたこと」だと思います。もちろん母も同様です。そして、僕はそれを自分の子や、後輩に伝えていくでしょう。それは僕の父が教えたことにはなりませんが、ヒトはそうやって発展してきたし、いくのだと思います。「誰がしたか」が重要なのではなく「何をしたか」が重要なんですね。きっと。そうやって、以前のヒトが残してくれたものをさらに昇華し、次世代に繋ぐ。それこそヒトがいる最大の意味なのかもしれません。人間という単位で考えると、その人間の功績は、きっとみんなの功績です。そう考えると、みんな生きる意味があるのだと思います。ちょっと偏っていますが。。。「賢者は歴史から学ぶ」といいますがまったくその通りですね。前のヒトの失敗から学ばなければ意味がありません。成功からも同様です。もちろん時代と共に「ただしい」ことは変化しますが、歴史から学ぶべきことは多いですし、また学ばなければならないものだと思います。そうすることで、そこに「意味」もついくるのでしょう。さらに、「愚者は経験から学ぶ」というのもそうでしょう。その経験は「失敗は成功のもと」なのかもしれません。しかし、失敗というのは同じ失敗ではなく、新たなチャレンジにおける失敗なんだと思います。。。。と今日は何故か真面目に考えてみました。========================今日友人からアイデアをくれ!と電話がありました。何か学生ビジネスをやりたいらしく、アイデアをくれと言ってきたのです。勝手にしてくれと思いましたが、暇でしたし話を聞いていました。するとなんも考えてないんです。できるわけない。。。でも暇だったので何がすきなの?と聞きました。するとコンマ2秒で「競馬!」なので、アイデアを出せといわれ無理やりひねり出しました。ぽっくぽっくぽっくぽくぽくぽくぽくぽくぽくぽくぽくどぼーん!2つ出ました。其の一「競馬場の前に競馬新聞の出馬表のようなものをつけたフリーペーパーを置く。これならだれでも取るんじゃないか?さらに広告収入とかあるんちゃう?んで周辺の店舗も集客にもなるし設置のニーズはありそうちゃう?」其の二「競馬の出馬表を載せたHPをつくり、クリック一つで人気投票ができるのはどうか?すると、オッズや新聞、テレビ以外にも、ある層に人気のある馬が分かったりするんじゃないか?そしてそれをメルマガにして流したら結構おもしろいんじゃないか?」以上の2点でした。即出しにしては悪くないと思ったのですが、友人の二言目。。。「どうすればいいか調べてくれない?」ありえね~~~~~~~~~~でも就職活動終わったらそのバカトモダチはほっといて考えてみようと思います。もし読んでくれた方いたら感想など聞かせてくれたらうれしいです。というかもう他にあったりして。。。。まあいいや。
2004.01.21
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もう定型文が脳みそに出来ているとしか思えないことを毎度毎度企業説明会で。。。「企画とかが通りやすいですか?風通しがいいですか?提案できますか?」何度聞いたかこの台詞。ノーとは言えないですよね企業さん。まあそんなことはどうでもいいんですが。それよりなにより何が腹立つかというと、通るほどのものなら企画は通るだろうということ、そして、そんな学生の頭の中で考えているモヤモヤ程度をどうやって具現化するのかです。企業もそんなにバカじゃない、というかはるかに頭がいい。「やらない」のではなく「出来ない理由がある」のでしょう。そして、それを凌駕するほどのものが初めて企画として成り立つんじゃないでしょうか。僕は企画なんてどうでもいいし、企画課志望でもないので知りませんがそれこそインターフェースにいる営業職こそ企画職だと思います。ニーズを読みとって初めて必要なものがわかるのでしょうし。提案したい、企画がしたいという人に限ってニッチなことをやりたがりません。そのフィールドがどれだけ大きいかも確かめようとせず。そして、必ず社会に出せるものが通らないのであれば、出て行けばいいだけです。それだけのものが創出できるのであれば、どこへ言っても、自分で起業しても大丈夫でしょう。(たぶん)とにかく言いたいことは、まず、「出来る」人間になるのが先だということです。マテリアルがしっかりしてないと企画書すら通らないでしょうしね。今日はまたまた愚痴っぽくなってしまいました。短気すぎますね。直します。。。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー昨日鞄を買いに言った時ショップの店員さんに言われました。「学生さんみたいですね。センスが若いです!」友人爆笑。学生です。
2004.01.20
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今日でセンター試験終了ですね。僕は弟が受験したんですが、かなりいいとのこと。兄貴もホッとしています。今日知ったのですが、弟は県3位の頭脳の持ち主だったらしい。。。恐ろしい。遺伝子同じか?しかし、相対評価のなかで、日本人は本当によく頑張ると思います。それが高度経済成長を支え、ソ連や中国など社会主義国家のお膝元ということでアメリカからの支援も受け大成長を遂げる際役立ったのも良くわかります。そして、そんな世代の方々が死ぬ気で頑張った結果その上に生きていることも理解しているつもりです。しかし実感はできないでしょう。一生。そのすばらしい教育制度も、偏差値教育、詰め込み教育の中、その傾向は弱まったとはいえ未だにブランド大学への人気は衰えを知らず、夢や目標の前に「偏差値の高い大学」を目指す始末。親は親でわかってはいるが自分の子どもはいい大学に入れたいという理不尽な対応を見せている始末。危機感を感じ「ゆとり教育」を打ち出すも事実上前言撤回の国の対応。こんな時こそ「自分」が頼りなのに、責任をどこかに押し付ける全てのアクター。もちろんいい大学にはそれなりの教授や設備、教育システム、レベルの高い学生(偏差値のことではない)がいます。さらに、難関を突破して入学したその学生たちはやはりそれだけ「頑張れる人」として評価されるべきだとは思います。(腐ってる学生も多いですが)しかし、その時に怠けて、惰性で大学に入った人たちを除き、そんなことは本来どうでもいいことです。要は成長できたか、何ができるか、何を学生生活で得たか、です。絶対。ただ思います!そのブランド意識を崩さなければいけないのはブランド大学ではありません。様々な交流会や就職活動の場、研究発表の場、大学同士のプレゼンの場などで、概してです。概してですがかなりの確立で有名な大学の方がレベルが高いんです。あきれることを言う学生も多いです。経済学部の学生に「機会損失ってなに?」などと先日も聞かれました。人間性、ヒューマンスキルなどはおいておいて、そのレベルの差を埋めて初めて「大学名で差別をするな」と言う資格があると思います。どんなに無名の大学でも、すごい研究や活動をしている人はいます。そのような人たちにヒアリングすると、大学名など気にしている人は一人もいませんでした。だって気にする必要ないんです。一応僕も有名大学といわれている大学に通ってはいますがみんな自分の大学や仲間にプライドは持っているものの、大学名など気にしていません。あくまで僕の周りの人の話ですが、みんなそんなことより「自分磨き」「自己実現」の為に必死です。もし、誰もがこのように頑張っているのであれば、そもそも「差」は生まれないはずなんです。追い抜かれる、追いついて抜き返す、というサイクルの中で人は、大学は成長していくのだと思います。
2004.01.19
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先日、就職活動で説明会、面談をした企業の人事の方から封書が届きました。もちろんどこからでも届くのですが、それは手書きの文でした。DMやはがき、封書など一日に何件も送られてきます。でも、手書きというのは初めてでした。その企業は、業界トップということもあり、志望する学生も少なくないはずです。なのに手書きで、さらに僕個人のことにも触れてあり、本当に会いたいということが伝わって着ました。恐らく誰にでもしていることではないでしょうし、もし誰にでもそのようなことをしていたとしても、僕が得た嬉しさは変わらないのだと思います。そんな手書きのメッセージの大切さは、パソコンが普及しないとわからなかったことかもしれません。その意味でも、パソコンが普及することの恩恵はあるのだと思います。加えて、その書体は正直綺麗なものではありませんでした。しかし、丁寧に、本当に丁寧に時間をかけて書いてくださったのだと分かるくらい丁寧に書かれたメッセージでした。そのように書かれた文というのは綺麗にみえるんですね。そして、これを機会に、年賀状などではなく、僕もメッセージを書体にまで籠めることができるようになりたいと思いました。メッセージを送ることで、誰かに何かを贈ることができたら、本当に素晴らしいことですよね。なんて感じた今日でした。
2004.01.18
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最近いろんな人と夢について話すことが多いです。やはり就職活動中だからでしょうね。そこで本当に多いのが「何か」と「大きなこと」という表現です。もちろん夢は大きく!ということでアリでしょう。しかし、何を?どんな大きな事を?どうやって?どこで?いつ?なんでしたいの?などなどなどなどなどなどかなり疑問だらけです。そして本当の「夢が大きい」ということの意味は「夢に対するエネルギーが大きい」ということではないかと思ったんです。そのエネルギーは作り出すものかもしれませんし、他のものを犠牲にして傾けるものかもしれません。というよりもそのどちらかでしょう。人のエネルギーを借りるのはこのカテゴリーではない気がします。それも必要なんですが、人を動かすことができる人は、人のエネルギーは最後あるものだと思っているのではないでしょうか。でも、やりたいことであれば、リスクは生じるはずです。それは時間や、趣味や、家庭だったりするのかもしれません。しかし、それを犠牲にしないで得ることができるものは少ないと思います。犠牲にしなければならないのではなくて、犠牲になってしまうのではないかと思います。しかし、その犠牲を補う方法だって逆にあるはずです。そして、それを分かってくれる人もいるはずです。それこを、なにも犠牲にしないで得れるものがあるのであれば、そんなものは何の価値もないような。。。山も他にも無いドラマを見ているような感じがします。何かに打ち込む時、他の何かに打ち込めません。わかってはいますが、それを言い訳にしている人が多いと思います。「しょうがない」とはこんなときこそ使うべき言葉なのかなと今思いました。だってそれだけの価値があることですし。すべてのことに手を出すわけにはいきません。そう思うと本当に人間の人生っていうのはよく出来ていると感心します。興味関心のあるフィールドでさえ、すべてを知ることはできません。どう頑張っても、情報量が多すぎます。しかし、だからこそ、自分の場所をみつけ、やりたいことを見つけ、夢を見つけ、目標を設定することができることに価値があるのだと思います。もし人間が1万年生きることができたら、なんでもわかってしまったら、そんなの楽しくない気がします。みんな打率10割!の野球が面白くないように。ピッチャーやりがいなすぎですし。笑っとだらだらだらだら書いてしまいましたが、まとめると、夢に対するエネルギーが多い人、大きな夢を持つ人ほど、具体的に、将来の予想図を描くのではないかということです。そして、そんな人は例外なくそのリスクとリターンの狭間で苦しんでいる人ではないかと思いました。
2004.01.17
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ああ。。。。。。昨日の日記は今までのなかで一番あかんっすね!なんかいかん!もっと考えないといかん!はらりんさんが掲示板に感想書いてくれなかったら凹みあげて穴があったらさらに深く掘って入ってました!そして思いました。誰かが見てくれているってありがたいことです。と。感謝、感謝です。今日はうそについて回想しようと思います。僕は自分の彼女ににうそをつかれるとどうしても許せません。もちろん表面的にも心理的にも許しているつもりなんです。でも100%許しているというとそれこそうそになってしまいます。そもそも許すという上から下の表現をしている時点で僕は横柄ですね。笑高校の時とかよくありました。僕がどうしてうそをついたのか聞くと、彼女は、「嫌われたくなかった」といいます。それはそれでいいと思うんですが、その時のうその内容は、明らかについてはならないものでした。その後、二度とうそをつかないと約束し、僕たちは一応仲直りをしたんですが、また何ヵ月後かに同じうそをつかれました。(浮気とかじゃないですよ。爆)すると、私はうそをつかずにはいられない。僕は正直に生きてるから楽だ。といいます。それはそうかもしれませんが、僕から見るとまったく逆の言葉になります。どちらがいいとか悪いではありません。うそをついたということが悪いと思っているんです。しかし、彼女は数日後けろっとすぎたことは仕方が無い。もうしないからとそっけなく僕に言いました。僕はそこで何故かぷちっとキレてしまいました。だったらなぜ2回目が起こるのか?ともうしないのであれば起こらないはずだし、なぜ、僕が凹んでいるのもわからないのかとすると彼女は泣き出しました。僕は意味が分からず、ただ卑怯だなとしか思えませんでした。まず、最善の注意をしておけばつかなくてもいいうそでしたし、2度同じことをしています。そしてなにより許せなかったのは、「過ぎたことは仕方が無い」と思っていたことです。うそは残りませんが、傷は残ります。直しはききませんが、治しは出来るはずです。謝れという意味ではなく、気を使えと思いました。凹んでいるのは僕ですし、へこませたのは彼女だと。。。当時は思っていました。今でもそれが完璧に間違っているとは思いませんが、今では少し(かなり)反省しています。あの時、「なぜうそをつかせてしまったのか?僕は正直であれる環境づくりをしてあげれていたか?」と僕が考えることが出来たなら、2度目はなかったのかもしれません。まああったでしょうけど 笑でも、そうやって一つ一つ理解しようとすることを一つ一つ積み重ねていくことは、小さなことだけど、何より大きいことだと思いました。辛いときは辛いでしょうけど、常にそう考えることによって、いつかは自分にいいことが返ってくると信じたいです。正直者はバカを見るとは言いますが、人を欺いていい思いをするよりはマシだな!と少し、ほんの少し変な意識から脱却した気がしました。
2004.01.16
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ちゃむさん、WAKU☆WAKUクリエイター「ふじい」さんの会話に刺激を受けて、許すということがほんとに苦手な僕は耳がいたかったです。そして勉強になりました。僕は「うそをつかれる」ことが、人が死ぬよりキライです。これは本当です。正直「世の中に必要なうそ」なんて絶対無い!と自分に言い聞かせています。あくまでいい聞かせて。。もちろんうそをつかなければならないこともありますでしょうし、結果的にうそになってしまうことなどあると思います。例えば、インフォームドコンセント。どうだろう。癌だとしたら知る権利があるとかないとか。。。どうでもいい。僕は知りたい。僕ならですが。現実を受け入れて、もうどうせ死んでしまうのであればその世界を知りたい。もしそうなったのであれば。自分がそうじゃないからこそ言えるのかもしれませんが、人間の人生を時間や充実感、仕事など色々加味して数字で表すとみんな10とすると、今みんな10もっていると思います。8になるのも2になるのもそれはその人の生き方しだいというか。。。100歳まで生きて10だと思っていた人が30歳で余命1年になったとします。でもその人の心持次第で、その一年は誰も味わうことの出来ない、様々なことがこれまでにない視点で見えてくることもあると思います。その結果、誰よりも濃い一年間を、誰よりも誰よりも生き抜いたのであれば、10になるのではないでしょうか?いや、そんな考え方だってあるはずです。表現できませんが、「だからこそ」ということもあるはずです。鮎は一年で死ぬが、亀は100年生きる。でも命の重みははかれません。でも一年で死ぬからと言って短いわけではなく、鮎の一年、それは亀が感じる100年だと思うんです。こんなこと言ってはいけないんですが、そう思います。だから、病気などは、20歳の時や、何年かに一回、国に申告する制度を作ったらいいんです!と思います。私は知りたくない。知りたい。や、~なら教えて欲しい。でも癌なら知らずに死にたい。などを。そうしないと家族や大事な人を悩ませてしまうと思います。病気になるよりそのほうがよっぽど酷です。残される方が辛いということもあるでしょうし。。。まあうその話からかけ離れてしまいましたので戻ります。うそがいやというのは「何を言ってくれてもいい」と言ってるのと同じで、結局、なんらかのリスクというか重み背負う責任を伴うと思います。ただそれが僕の場合、うそをつかれるのと、自分にとってつらいことを天秤にかけた時、余裕でうそをつかれるほうに傾くということだということです。その天秤は人それぞれ。だからこそひとそれぞれの価値観を探り、個々人はそれを極力示すようにすべきだと思います。あまりに極論ですが、多分僕は以上のように考えているのだと思います。なにも隠し事無く、コンプレックスさえも飲み込んであげることができるなら、言っても言われてもなんともないと思います。(あくまで僕は)僕はそんな関係をいつも望んでいます。本当に悪いことは隠す心のような気がするので。。。言う「やさしさ」はあまりみかけたことがありません。でも、言わない「やさしさ」は良くみかけます。それはそれでいいと思うんですが。。。。わかりません 笑例えば体臭のせいで、自分が制限されている人に、薬などでなんとかなるのであれば言ってあげるのがやさしさだと思うんです。その結果、それからそれを注意して、気持ちよく生きていくほうがよっぽど効用が大きいと思います。自分も回りも。いつか体臭に気付く方がよっぽど辛いでしょう。「みんな我慢していたのだろうか?」などと思わせるほうが残酷です。こんな場合「言わないやさしさ」なんて認めたくありません。もちろんトモダチじゃないといえないでしょうが、トモダチなら言うべきだと思います。今日はかなり偏ってしまって気分を害された方がいたらすいません!
2004.01.15
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先日興味深い県知事の講和を聞いていました。「だれでも自分が一番好きだ!」と言い切るその県知事はまっすぐな方で、プレゼンテーションも本当に気持ちがよいものでした。もちろんまっすぐすぎて批判も受けてましたが。笑そのお話の中で、写真をみたら、集合写真などでなくても、だれでもまず自分を見るということに気付いたというお話がありました。あっ そうかも!と思ったのは僕だけではないはずです。もちろんイコール自分が一番好きの理由にするにはいささか強引でしたが。。。でもそんな当たり前の動作を当たり前だと思わず、客観的にみると、不思議な気分というか新たな発見があるものだなとしみじみ感じました。だからなんやねん!って話かもしれませんが、いつか、いつかまた写真を見る時に思い出したいと思います。
2004.01.14
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最近情報の扱い方で困っています。僕は、部屋の片付けの際など「捨てれない」人間なんですが、情報も捨てれなくて困っています。就職の情報もそうですが、ネットから得た情報など、ついついストックしてしまいます。いかんいかんと思いながらフロッピーが増えて行きます。情報は取捨選択しなければいけない!と思い、やはり、「いるかもしれないけどいらないかもしれない。」と思う情報は捨てよう!と思い捨てるようにはしてるんですが、なごりおしすぎます!それだけではなく、あまりに時間が無すぎて、読みたい本が溜まって読みたくない本になりつつあります。これは最低で、もちろん読み始めると楽しくなるんですが、その時間をつくることも怠ってしまいます。その結果、「読まなければならない本」を読むのが苦痛で苦痛でしかたありません。そうすると、やはり、好きなことを好きなことにする努力はしないといけないなぁと実感しています。解決策は、一つ一つ片付けていくことしかないのですが、そんな時に限って「いつもどうでもいいこと」が興味深くなってしまいます。僕の中の弱い部分がそれから逃げようとしているのはわかるんですが、その戦いは壮絶なるもので、その戦いの結果、勝っても負けても「じかん」という最も重要なものを失ってしまいます。いかんいかん!もっとしっかりせねば!と思う深夜0時でした。
2004.01.13
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harachi-さんが同窓会のことを掲示板に書き込んで下さったので、僕の中で、色々と走馬灯のように考えることがありました。ので日記にしようと思います。僕はharachi-さんほど努力していませんし、まだまだ甘えて生きている人間なんですが、harachi-さんと似たようなことを感じることが多くあります。僕は大学を編入したのですが、その際一日何時間も勉強し、欲を経ち、一年間勉強を続け合格しました。そして、前の大学に遊びに行くと、「就職の勝ち組だね(これは論外ですが)」とか「よかったね、すごいね行けて」などと言われます。まるで宝くじに当たったかのように。世の中を「普通の人」と「ごく少数の特別な人」と考えてるとしか思えないほどです。あの人は~だから。と理由をつけて、その背景にある努力を何も考えない人が本当に多いと思います。それこそ努力している人ほど、羨ましがられる人ほど悩んでいるのではないでしょうか。例えばサッカーがうまい人を「プロだから」と当たり前のようにいう人が多い気がします。でもそれはプロだからではなく努力したからであって、才能を羨むならまだしも、自分がしてない努力をした人を、自分との違いを平然と自分が何もしなかったことをほったらかして言うのはちょっとちがうと思います。それは結果だけではなく、「姿勢」「意志」のことです。頭がいいとか能力があるないではなく、自分がどれだけの意思を持ち、努力する姿勢があるかということだと思います。社会的な評価などではなく、自己万足かもしれませんが、それでも自分の軸で、自分の考えで、そのために努力を続けているのならその形は関係ないと思います。こんな奇麗事が通用しない世界の方が多いのは分かりますが、でも考えなければいけないことだと思いました。先日、自動車の整備士の友人が僕におまえはやりたいことがあってやれて幸せといいました。でも、その友人はずっとあぞび続けて、どうしようもなく、知人の整備工場に行きました。それを悪いとは思いませんしいいませんが、何かおかしいと思いました。友人が遊び呆けている間僕は机にかじりついて頭痛と戦ってました。何よりおかしいと思うのは、そんな姿勢で働いていて整備工場の方に申し訳ないと思わないのかです。う~~~~ん。わかんなくなってきました。もう少し考えてまたしっかりとこの問題を自分なりに消化しようと思います。今日も支離滅裂ですいません~~~!!!
2004.01.12
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昨日は昔のバイトの同窓会に行って来ました。僕のただの思いつきで、話がどんどん膨らんでいき、関西全域に散らばったメンバーが15人も集まりました。会ってなかった期間の話など、興味深いものも多く、離れるのって悪くないなと思う一つの理由が増えました。幸せそうに毎日を送っているひと、本当に毎日辛いと嘆くひとなど様々でしたが、みんなで共有して少し薄めているような、それをみんなで自然に楽にしているような空気もあり、色々考えながらその時間を過ごすと得るものも多いんだなと実感しました。そんなことを考えることができたのもつかの間、ひさしぶりなのもあり、テンションも上がり、大盛り上がりで朝まで飲み明かしました。何も気にしなくていい仲間が集まるのはたまらん!となんとも不思議なノリでみんなが春再会することを決めて解散しました。疲れましたが、それをはるかに上回る充実感でいっぱいでした。たまにだからいいんでしょうが、こんな「たまに」をたまに続けて行きたいと思いました!今日はなんか日記っぽい!うん。
2004.01.11
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昨日は人を褒めてしまうことを勝手に考えたんですが、今日はその中で自分の汚い部分?から考えてみようと思います。いつも自分は劣等感をエネルギーにして生きていると感じます。人と比べてしまうのは悪いことのような気がするんですが、でも、このままじゃいかん!と頑張る時のエネルギーは劣等感が大きい気がします。だから、人を褒めて、人が良く見えてしまいます。もちろんそれは事実なんですが、過大評価しすぎて自分が何も出来ないように思ってしまうときがあるのが難点です。回りがみんな遊んで見えることが昔よくありましたが、実は一人一人はそんなに遊んでなかったりするんですよね。なのに、まわりが一人のことのように思えてしまって、こんどは自分をそれと比べてしまいます。最悪のマイナス循環が始まる瞬間です。人が良く見えるのはいいことかもしれませんが、もっと客観的に多角的に物事を捉えなければ!と思う今日この頃です。
2004.01.10
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先日、メールを何度かやりとりした方がいまして、ずっとお互い褒めあっていました。そのおかげで話は遅々として進みませんでしたが、やはり人を褒める、褒められるというのは悪いものではないな~と感じることができた経験でした。「ありがとう」ということばっていいな~と感じることが多いのですが、本当にいいことばだなぁといつも思います。なぜか「ありがとう」というと「こちらこそありがとう」と言いたくなるのも分かる気がします。いいですよね~そういうの!特に自分が感謝することではないことでも、自分が人に何かしてあげた時でも、「頼りにしてくれてありがとう」とでも言えるようになりたいと願う超眠い深夜2時でありました。明日は、自分の汚い面からこのことを考えてみようと思います!
2004.01.09
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一昨日上記のタイトルの日記をつけたんですが、まとめるのを忘れていました。最低ですね。なので今日はしっかり考えをまとめようと思います。「興味」「夢」などは、本当にその人の才能を表しているものかということが僕の中の最大の葛藤です。例えばですが、世の中の全ての職を知ることは不可能ですし、新たに職を創りだすこともあるでしょう。しかし、その中で、英語を勉強してきたから英語を使える職などではあまりにも悲しいと思いました。そしてさらに思ったのが、興味なんてそれまでの人生で学んだこと、多くの時間をかけて調べたもの、ウエイトをかけたものになっているのではないかといことです。英語に興味がある人が環境問題について学んでいれば、環境問題についても興味を持った可能性が高いと思うんです。概してですが。要するに、興味って、どんなことでももてるんでしょうね。しかし、前述のように、全てを知ることは不可能です。僕が人材コンサルタントを目指す理由の一つですが、3つの選択肢から人生を選ぶのではなく、10の選択肢から選んだ人生の方がより自分の興味に近づけ、理想の形になり、後悔もすくないのではないかと思うんです。もちろんなにをしても、後悔することはあるでしょう。しかし、より沢山の道を見てから人生を決めたいと思う人も多いはずです。これでいいのか?などと思わないために。後悔というのは出来ない時ではなく、やらないときに生じるものだと僕は思っています。現実にそんなことばっかりですし。。。。。なんて凹んでいる暇もなく、やはり「あの時調べておけば、努力しておけば。。。」なんて思いたくありません。絶対にみんなそうだと思います。だから、「可能な限り」努力することが大切だと思います。そして、全ての職を知るのは不可能ですが、逆にその中で出会えた職なんだから、素敵な出会いですよね。運命みたいなことばを使いたくなるような仕事に就けるように、またそう思えたらといつも考えてしまいます。支離滅裂でまとめれませんでした。読んでくださったかたすいません。。。。
2004.01.08
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就職活動中なので、どうも、この話題の日記が多くなってしまうのですが、最近よく友人たちと飲んでいるときに、男女差別の話になります。男女差別。現段階では「ある」と言い切れます。僕は男ですが 笑本当に差別されていると思います。しかし、その中でも男女がまったく平等で、託児所も企業内にあり、育児休暇も夫婦どちらもとれる企業をこの目で見たことが何社かあります。それもまた事実です。今、世の中も、企業も変わろうとしているときに男女の差別の文句を言うのがどうかと思うんです。もちろん反感は覚悟の上でこの日記を書いています。でも、ここまでいうからには理由があります。たとえば「男だったら理想の職に就けるのか?」と聞きたいです。というよりも、おおくの人には「男だったら就職が決まるか?」という方がより正しいかもしれません。僕が言いたいのは唯一つです。現在の制度を批判する前にやるべきことはできているか?です。もちろん僕自身に一番問いかけています。まず、僕はNOです。まだまだやらなければならないことはたくさんあります。女性は不利。の前に自分を高めるのが先ではないでしょうか?本当に女性だから理想の職に就けないのでしょうか?少なくとも僕は何人もの自己実現された女性の方にお会いした記憶があります。確かに女性の方が厳しいのはわかります。もちろんぼくは男なので、女性ほどわかれないことも確かです。しかし、失敗を「女性だから」にするのはおかしいと思います。そうすることにより、女性自身を自分で下げているのはその本人そのひとだと思うからです。現実にそこに受かった女性もいるのですから。何度も言いいますが不利なのは事実です。でも不利なフリは許せません。どうしても。例えばその仕事には10の能力がいる。現在5しかない。しかし、伸びしろは15まである。でも8までしか伸ばす努力をしなかった。それでは女性ではなく「自分」のせいではないでしょうか?そこで10以上まで伸ばせていたのなら、あとはマッチングが良く、フィーリングが合えば落ちるなど無いはずです。落ちたとしても文句をいう権利はありますし。文句を言うべきだと思います。加えて、そんな企業には行きたくないと思うはずです。それがわかっただけでも一つの素晴らしい結果だと思います。ぼくが人事ならそんな人放っておきません!人事ではないですが。爆僕がこんな愚痴を言ってしまうのは、本気で努力している友人がいるからです。「女性だから?だからなんやねん」と。感化されるべきだと思います。女性もですが特に男性が。
2004.01.07
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よく、「英語を勉強してきたから英語関連の職に就きたい」と言う人をみかけます。ん?と疑問点がたくさんあります。まず、貿易?翻訳?通訳?などです。さらに貿易ならば相手国やインターフェースとして働きたいのかなどです。「英語に関連する職」というありえないほど広い枠で何が言いたいのかと思います。それが悪いと思っているわけではありません。それこそ僕自身に言っているところもあるのですが、英語関連の職に就きたいと思ったのなら、なぜそれをもっと考えないのか!?と思ってしまいます。それを平然と言えるのはやっぱりおかしいと思います。先日同じ事を言った友人がいたので、何がしたいの?と聞きました。すると、それは就職してからかんがえるという答えが返ってきました。それでいいのか?と思ってしまいました。学校に行くようなことを平気で言う。自分が経営者だったら、そんなことに投資をするわけないと気付かないのだろうか?その時思いました「ひとごとではない」と。これから、もっともっといろいろ考えなければと思います。今日はそんな愚痴になってしまいました 泣明日はまとめてみようと思います!!まとめます!
2004.01.06
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昨日の続き⇒夢を探すことが目標でもいいと本当に思うんですが、目標と目的の違いについて考えると少し頭が整理できた覚えがあります。そんなクラリカル的な頭の作業もたまには必要だなあと思った記憶があります。就職というものについてですが、べつに起業したって、フリーターとして生きていっても、それは個々人の自由だと感じます。大学生をしていて思うのですが「企業の歯車になりたくない」的なことを言う人が本当に多いです。しかし、そんなことないと本当に思います。そんなことないです。よね?だって、車を作りたい人が自動車会社に勤め、自動車の開発に携われるなんて素晴らしいですよ!車掌さんになりたいひとが、就職して企業の車掌になってもそれは歯車なんていうべきではないですよ!立派な「自己実現」だと思います。もちろん言ってしまえば歯車でしょうが、社会に対しての自分の位置と思えばいいのではないのでしょうか?人は自分が期待されて始めて「やりがい」を感じると聞いたことがありますが、まったくその通りですね。サッカー選手が、誰もいないスタジアムで、相手のいないゴールにシュートを決めてもうれしくない。。。でも、そんな「社会」のなかで、自分のスタンス、ビューポイントを持って生きていきたいと思います。そこから見えるもの、そうして初めて感じられるものもあると思います。現にそういう経験を少ししたことがあり、その「うまみ」がわかるからいえるのかもしれませんが、たかが学生でさえそんな充実した気分が味わえるんだから、将来はどれだけすごいことが待っているのか、楽しみです。(不安はその100倍ですが、、、、、)
2004.01.05
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人材ビジネスに携わりたいと思っているので、とにかくほとんどすべての職についての知識をつけたいと考えて日々過ごしています。もちろん現在就職活動中なのもあり、自分探し(というより軸を持ちながらさらにもっと可能性を広げていく感じ)を続けています。よく就職活動が辛いっていいますがそんなことはないと思います。こんなに自分のことを考えることが出来、様々な経営者の方などとお話できる機会もそう無いと断言できるからです。僕は夢も目標もあり、進路も決まっており、あまりガツガツ就職活動をすることはないのですが、周りの友人たちは「とにかく決まれば良い」だとか、「ソニー、松下、三井、などなど大企業で働きたい」などと口々にします。もちろんそれがわるいことだとは思いません。ノートパソコンを創造した三井物産など、商社だからこそ出来たのでしょうし、それは本当にすばらしいと思います。しかし、何がしたいのでしょうか?一応僕の通っている大学は日本一就職に有利な大学とよく言われています。その学内でさえ、たくさんの企業に行って、沢山受けて、「持ち駒」を増やせ!と豪語しています。そこにやりがいや生きがいなどなにも介入する余地はありません。みんな自分についてあせっています。その時「不安」で尻をたたかれたら誰だってそれが正しいと思ってしまいます。僕も例外ではなく、多少の不安はあります。ですが、就職浪人したって、自分の「楽しい」と思える人生を送りたいと思います。自分の目標が叶う、やりたい職に就きたいと思いますというか就きます。そして、「就職」だけが全てではないことも最近になってですがようやく分かってきました。よくそんなの無理みたいなことを言われます。でも、実際自分なりの生き方をしている人が沢山いることも事実です。それはSOHOなどに限らず、企業にいても、フリーターでも、なんでもです。フリーターや無職が悪いなんて思いません。もちろん何の努力もなしに惰性でフリーターなどの選択をする人には激しく否定しますが。笑太く短く?いや、太く、長く生きたいと思います。「特別」なんて意識をすて敷居を下げ、生きて生きたいです。人は死を意識した時から本当の人生が始まるといいますが本当にそうかもと思いました。話を就職活動に戻すと、やはり大学や回りに惑わされず、自分の正しいと思ったことをやるべきだと思います。そのためにまずやらなければならないことは、会社訪問やエントリー、面接などではなく、自分とはどのようなにんげんか、何をやりたいのかをしっかり掘り下げる必要があるんでは?と思います。僕は幸運にも自分の夢があるのでいいのですが20年そこらしか生きていないのに自分の人生の選択をするっていうことは本当に難しいことだと感じます。でも、夢を探すことが夢、目標を探すことが目標でも「いいのではないでしょうか?と僕は思います。長くなったので、また明日続き書きます。もし、これを読んでくださった方で、何か感じる方、同世代の方などいたら是非ご連絡ください。色々アドバイスやお話などしていただきたいです。
2004.01.04
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先日から掲示板に嬉しい書き込みをして下さる方が多く、おかげで幸せな気分で新年の時間が過ぎていきます。そこで、思いました。「しゃべり場」なる番組がありますが私はイライラしてしまいいつも最後まで見ることはありません。ですが、あのような場所っていいな~と思いながらいつも見ています。いつか、いつかでかまいませんが、僕の目指している職業にも関係があってある理想を描いています。それは、みんなが「楽しく、自分の可能性にふたをせず、生きていくためのなにかができれば・・・できなくてもなにか歯車にでも、次へ繋ぐだけでもできたら」と考えています。まあ理想は理想で絶対にこれからも努力を続けます。それに加えてこうやって知り合った方々と、もっと楽しく、ネット上でもどこかのカフェででものんびり一緒に過ごせる空間が欲しいと思いました。そして、だれでもそこに参加でき、同じベクトルを持ち、お互いを高めあえるような、ミックスアップのような関係がいつもそこにあるような空間が創れないかと思いました。あくまで理想ですが、そこにはいろいろな障害があることも分かります。「信用」の問題が一番大きいでしょう。しかし、IDやPASSを発行するのではなく、人伝いにでもいいですから、本当の信用のフィルターを何枚もかけて、みんなで話ができるようあ空間みたいなものが理想だなと思います。僕がこの日記を知り、いろんな方とお話しする機会があり、さらにその中には本当に尊敬できる方ばかりでした。そのようなリンクーリンクーリンクーリンキング?笑のような・・・うーん。分からなくなってきた。とにかく、今以上にもっともっとみんなが楽しくあれる空間が欲しい!と思いました。もちろん今が限界かもしれませんし、今でも十分便利ですし、僕がしらないもっと便利なこともあるでしょうが、それを考えるだけでも意味があると捉え、これからも色々考えていこうと思いました。かなり支離滅裂な文になってしまいまして読んでくださったかたすいません!
2004.01.03
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あけましておめでとうございます。去年は沢山の方におせわになりました。ありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。この日記を見ていただいた方々にとって良い年になるよう祈っております。さて、昨日は提出しなければならない書類提出のため元旦から駆けずりまわっていました。そして帰りに近くの神社で初詣を済まして、そのまま就寝、そして朝起きて即バイトというなんとも正月を感じることができない年明けとなってしまいました。そんなことを考えながらふと思ったのですが、毎年毎年、年を重ねるごとに(といっても20年しか生きていませんが)「お正月」という感じやありがたみが少なくなっていっているような気がします。なぜかと考えてもわからないのですが、こんなことが大人になったということとは考えたくないので、色々自分なりに考えてみました。もちろん自分が子どもだったころの親の気持ちも少し分かるようにはなってきたのですが、なんともいえない感じです。一人暮らしをはじめたので、家族で正月をここ三年すごしてないというのもあるんでしょうが、なにか物足りない感じは隠せません。よく、一度通った道や帰り道は、一度見たことがあるから時間が早く感じると思いますがそんなもんなんでしょうか。加えて、テレビなどの影響もあるのではないかと思いました。昔とはやはりテレビ番組も変わったように思います。でも、今小学生の人たちは、20歳になったら今の僕が感じたことと同じようなことを感じるのでしょうね。そう思ってしまうと悲しくなり、なおさら来年の年越しはしっかりとお正月しようと心に決めました。
2004.01.02
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