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大分以前に担当した、小学生の男の子が「家のおかあちゃんは冷たいですよ。まるで雪のように、とても冷たいですよ、先生」と私に対して、怖るべき発言をした事があります。とても理知的で子供思いの優しい母親―、私はその様にその生徒のお母さんを理解して受け止めていましたから、突然のその子の発言に、戸惑い、一体どういうことなのだろうかと、暫く思考停止状態で、任務である「学習の指導」に専念していたのでした。やがて、信じられないような真相が男の子の口から明らかにされていき、その子と母親とのとても厳しく、また救いの無いような現実が現れてきて、私はしばし茫然とさせられたのであります。プライバシィーの問題がありますので、これ以上は具体的にお話しするわけには行かないのでお許しいただきたいのですが、子供は、大人が考える程、子供ではない。何もかも、大人以上に「知っている」のであります。知っていて、大人とは全く違った、現実への対応をしているのですね。それが、結果として教育している筈の大人を、逆に「教育する」結果を齎したりしている。本当の本当の話でありますよ。子供を、「神から授かる」と言う事の本当の意味はそういうところに隠れていたりするので、夢、仇や疎かに子供と接してはそれこそ天罰を受けることになりかねません。白金も黄金も玉も何せんに、勝れる宝、子にしかめやも、と歌った万葉歌人は誠に神の御心を熟知した、賢く真っ直ぐな心ねを備えた、真の益荒男(ますらお)であった証拠ですが、現代の文明を誇る私達・大人はどれ程か賢く、また進歩を遂げる事が出来ているのでありましょう。 子供をまるで自分の専有物の如く考え扱っている、貴方、貴女。天に唾するに等しい自分の所業に、猛省をして、神に、天に、そして宝である子供さんに対して感謝をするべきであります。親から本当に「宝物」として感謝されている子供達が大勢いれば、いじめなどと言う残酷な行為は、減少の一途を辿るに相違ないのですから。世の大人たちよ、総懺悔せよ、子供の無邪気な寝顔を眺めて涙を流した方が良いのです、実際。子供は大人などの手に負える代物では断じてないのであります。感謝し、正しく、子供の教えに、神の諭しに素直に従おうではありませんか、今からでも、明日からでも、是非とも。
2013年08月25日
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言葉と言うものは不思議な働きをするものでたとえば生徒に対して何気無く投げかけた、その同じ言葉が後になって、自分自身に違った意味合いを帯びて跳ね返って来る。まるでブーメランのように。「あの時あの生徒に、あんな風に言っていたが、おまえ自身の場合にはどうなんだ」と。「あんまり頑張り過ぎなくても良いけれど、人間と言うものは兎角、楽な方へ、楽な方へと、逸れてしまいがちなものだから、ちょっとだけは努力してみようか」と激励したとしましょうか。 すると、翌日になって、ふと目が覚めた時などに、「ところでお前さんは前の日より一寸だけましな事をしようと、努力しているのか」と、生徒に投げかけて済んでしまった言葉が、突然に我が身を襲ってくる。自分はもう毎日が日曜状態の、世間から邪魔者扱いされ、忘れ去られるだけの余計者なのだから、今更頑張る必要も、努力する張り合いも無いなどとどこかで考えていやしないかい―、とまあ、ひゅっと天井のほうから恐ろしい手裏剣さながら、言葉のブーメランが胸を掠めて、はっとなる。 前半生は「俺が、俺がの自己中心の考えで遣ってきたが、六十歳を過ぎてからは、世の為、他人のためを標榜して、一隅を照らす精神で、自分に可能な範囲で、世間様に恩返しをしてから、あの世に向かいたい」と、一見すると「恰好よさそうな」言辞を弄したりしているが、本当にその気があるのかい?根がクソ真面目な性分なので、そんな極端なところまで、一気に自分を追い詰めてしまったりする。出来たら、可能なら、その様に生ききってみたい。単なる願望に過ぎない。所詮、己はその程度の器なのさ、仕方が無い……。などと、自分を見限っていると、私を背後から叱咤激励してくださっている神様が、天が、「まだまだ、自己理解が浅いね」、「頑張りが足りないね」などとものぐさな私の背中を優しく、そっと「押して下さる」のであります。本当に有難いいことでありますよ、実際。「神懸かり状態」の私には、自分には無かった筈の「不思議な力」が、一種「霊気」のような作用が加わって、「蛮勇」を奮う仕儀に立ち至る。現在の私には、「自己理解」とはこのように一種茫漠とした掴みどころの無い奥深さを蔵するものとして、映っているのですが、皆さんの場合には如何でしょう?あなたご自身が、自己を余りに小さく限定しすぎてはいないでしょうか。老婆心ながら、反省を促しておきたいと思うのであります。
2013年08月18日
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私・草加の爺は現在、私の人生で一番多忙で尚且つ充実した時間を生きています。そして、それが不思議な事とも、特別な経験だとも実感せずに、ごくごくの、自然体で過ごす事が出来ているのが、自分自身でとても不可思議千万なことと、逆に感じたりしているのですから自分のことながら本当に面白い。他人ごとのように、そんな風に感じたりもしています。つまり、私は七十歳の誕生日を前にして、全く新しい自分自身を発見して、今更ながらに感動したり、神に感謝したり、社会との係わり合いの有難さに、その不思議に、新鮮な感動を覚えている。人は、他人様は多く「余生」などと呼び、自分自身も己の老後を侘しく、孤独な、そして退屈窮まる時間の連続と、何となく予想していたのですが……。あに図らんや、嬉しくも「予想が外れて」只今表現したような多忙にして、充実した、望外の幸せを噛み締める毎日、日常を送迎できているのであります。 それはお前さんが、もともと「おめでたい」生まれの性格だから普通人の感覚からすれば、嬉しくもなんとも感じない対象に対して過剰に反応しすぎているだけで、「嬉しい」とか「充実している」とかの表現が、つまり形容詞の遣い方が間違っているだけの事にしか過ぎない。とまあ、自分で反省してみるのですが、そうだとしても、そんなへんてこりんな自分の性格や、低能振りが、今のわたしには滅法有難く感じられるのですから人様に迷惑をかけているわけでもないし、世の中の厄介者扱いされている老人が一人で「自己救済」しているわけで、大袈裟に言えば、社会のためにもなっている。つまり、言うところの「自立」「自律」が達成できているので申し分はないのですね。反省癖はこのくらいにして、「余生」と言うような表現に代表される後ろ向きな「生き方」は過去のものにしたい。とつくづく感じるのであります。後ろ向きで暗く、ネガティブで、希望が見えないではありませんか。良い習慣を身につけて、健康な後半生を生きる。これは心がけ次第では可能な生き方なのでありますよ、誰にでも。 私の通っている学習塾の、講師控え室のホワイトボードに次の様な書き込みがありました。「我々は何処から来たのか?我々は一体何者なのか?そして、我々は何処へ行くのか?」と。精神年齢十歳を誇っている草加の爺めはすぐさま反応して、「我々とは、此処から来た。我々は、此処に居る者である。そして、どこへも行かない。此処に永遠に留まる者である」と書き加えましたよ。「此処」とは、注を加えれば「銀河系の惑星・地球が太陽をめぐるその公道周辺」と言う事になります。これが、科学的にも正確な、哲学的な模範解答であります。皆さん、ご安心下さい。死者たちは私たちが見捨てない限り、永遠に私たちのごく身近にいて、常に私たちと共に有る「有難い存在者」なのでありますから。
2013年08月12日
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