全5件 (5件中 1-5件目)
1
二十三回目 10 四つの幸せ 私たちは誰でも、この世に生まれてくるに際して、非常に大きくて、掛替えの無い四つの幸せを持っています。一つ目は天の配剤です。配剤とは、薬を調合する事。また、調合された薬の意味ですが、天は私達の一人ひとりに合致するようにと、どんな名医も及ばない絶妙の 配剤 を、予め用意してくれているのですね。本当に、有難いことではありませんか。如何です? 二つ目は、地の恵みです。お解かりですか?文字通りに母なる大地は限りなく大きな慈愛をもって、例外なく、私達皆を、何の分け隔てもなくいつでも、どこにいても、どの様な時でも、無条件で優しく受け入れようと待ち構えていてくれる。言うまでもなく、その愛は広大無辺ですよ。 三つ目は、人の和。和はまた輪でもあり、つまり英語のサークルをもその意味の中に含んでいます。漢字の「人」と言う字をよく見てください。二つの画が互いに相手の画を支えあうようになっていますね。つまり人間として生きる以上、誰でも一人ぽっちでは生きられないのですよ。人である、私たちの生存のためには、人の輪・和が絶対的に必要で、不可欠な条件なのです、実際のところ。――ここの所を、どうか、よくよく考えに考えて戴きたいのです。そして、どうかそんな世の中の仕組みなんか、私には、俺には関係ないよ、なんて横を向くような真似はしないで下さいネ。 最後の四つ目は、自分が自分である事、ですが、これは少し考えてみる時に実に「凄い」ことだと気付きます。だって、そうでしょう。機械で大量生産される商品は、どれを取ってみても皆同じようなもので「詰まらない」のですが、私達人間は一人ひとりがみな違っていて……、顔も性格も、考え方も、何もかもが全部同じではないものですよ。改めて、凄い事だと思いませんか。如何? この「自分が自分であること」、英語でアイデンティティーの有難さが、ある意味では一番分かりずらい事なのかも知れません。特に、現代と言う時代においては……。何故みんな、口では個性・個性と唱えながら、猿のように他人の真似を、―例えば、成功した実業家を或いは人気のある美人女優を、真似しようと躍起になるのでしょうか。それも本気で、それこそ命懸けで、一所懸命に後追いするのならマシなのでしょうが、どう見ても「不真面目」としか言えない手抜きで一体全体、何を望み、何物を得ようとしているのでしょうかね、ほんとに。少なくとも、私・草加の爺には、到底その真意の程が理解できないのです。 一番手抜きをして、楽をして、その結果に一番の得を、最大の利益を手にしたい。今、世の中に蔓延している便利主義とは、所詮その程度の底の極めて浅い、それ故にこそ、頭の弱い愚か者の耳には入りやすい「哲学」なのでしょうよ。『楽は苦の種、苦は楽の種』と、昔の人は実に深みのある真実を、これまたサラリと明快に・簡潔に言ってのけたものですね、心から感服するばかりであります。
2013年01月30日
コメント(0)
9 いびつに歪められている子供・その五 渥美さんの話を始めたのは、次のことを言いたかったからです。贔屓の引き倒し、という言葉がありますね。相手に対して尋常ではない愛情を感じているからこそ、その強い愛情が災いして、却って、当の相手にとってはとても辛い仕打ちを強いてしまう。結果から見れば非常に酷(むご)い事を強いている癖に、当事者にはその自覚がまるでない。そんな世間にはよくあることが、親と子の間にありはしないか。いえ、私はあると思っている。それも大問題があるのだと主張したいのですよ。 親の側、大人の側の「贔屓の引き倒し」的愛情の行使が、子供たちのあり方に悪影響を及ぼし、結果、いびつに歪められた子供たちが本当に目に余るほどに、数多く生み出されている。そんな風に言明したい。声を大にして言いたいのであります、はい。 外国の詩人は、「子供は親達の所有物ではない。神からの預りもの」だと歌いました。日本にも、昔は「子供は天からの授かりもの」とする正しい考え方が生きていましたが、今日では全くの死語と化してしまったのでしょうか。自分の勝手な考え一つでどうにでもなる占有物と見做して、自信のない自らの「惨め」な半生から引き出した、誤った人生観に基づいた「偏見」のみを、さながら暴君のようにわが子に強制して、恥じない。そんな有様が罷り通っていると、私には見えるのです、実に。 子供たちは、何も知らないようでいて、実は何もかも知っている。そう私が言ったら皆さんは信じては下さらないでしょうか?もしそうなら先ずご自身の胸にじっと手を当てて、静かに考えてみた下さい……。如何ですか、少しは御自分がまだ幼い子供だった頃の事を蘇らせることに成功したでしょうかね。現に、この私は、その様にしたし、その様なマインドを持って、一人の教師として、また学習塾の講師として生徒達に接し、一人ひとりの生徒達からどのように教えたらよいかを教えられながらその「指示・指導」に従って、多大な成果をあげています。要は、子供に対する大人の側の問題に尽きるのではないでしょうか、本当のところは。 極貧の生活苦に喘ぎ、時には翼があったならばこの世から逃げ出す事が出来るのに、と嘆きつつも妻と子を心から愛し、この世のどんな素晴らしい財宝よりも、わが子のほうが勝っていると言い切った万葉歌人・山上憶良のとても人間臭い想いを、今に生きる私たちはもう一度、よく噛み締めて味わう必要があるのではないでさようか。因みに、万葉集巻五、802、803を以下に引用しておきますよ。「子等を思ふ歌一首、序を併せたり― (以下は古屋の要約です)釈迦如来が口ずから説かれたことには、多くの人々を等しく思う私の愛情の深さは、わが子を思う深さと同等である。また、愛情の深さは、子供を思う親の愛情に勝るものはない、とも御釈迦様は仰っておられる。人民が皆一様に尊崇して止まない大聖ですら、わが子を愛する心をお持ちです。まして我々一般の者は、誰だって自分の子を可愛いと心底思っているのだ。 瓜食(は)めば 子(こ)ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ 何處(いづく)より 來(きた)りしものそ 眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(― 美味しい瓜を口にすると、これを子供に食べさせてあげたいと先ず思う。滅多に食べる事のない栗を食する時には、一層子供を思う。この強くも烈しい感情は、一体何処からやってくるのだろう。何時だって胸の中にしっかりと存在していて、夜中に眠っているいる時でさえ想いが途絶える事は、少しもないのだ) 銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる寶(たから) 子に及(し)かめやも(― この世の最高の財宝とされる、銀・金・宝玉など比べようもないではないか、わが子という大切な、愛しい寶物に比べたら。全く比較にもならない)
2013年01月22日
コメント(0)
9 いびつに歪められている子供・その四 「渥美 清のスーパーマン」――ここで少し脇道にそれた話を致します。先年亡くなられた俳優の渥美 清さんとは不思議なご縁がありまして、私がテレビドラマのプロデューサーを目指して入社した国際放映(映画製作会社の東宝から分裂して出来た新東宝がが倒産して、国産のテレビドラマ専門の制作プロダクションとして再起した会社)の撮影所のセットでは、当時売り出しの人気コメディアン・渥美 清の主演するテレビドラマの撮影が行われていました。そんな関係で、私とも共通の友人であったチーフ助監督を始めスタッフたちと親しく談笑する渥美さんと、いわば身内の一員として接する機会を持ちましたし、後には、ドキュメンタリー番組のナレーション録りをする試写室で、二人きりの作業をするというような滅多に無い体験もしました。また、浅草出身の多くの芸人が出入りした居酒屋「三條」の常連の末席ににも連なり、おまけに結婚した相手が大の「寅さん」ファンで、「男はつらいよ」シリーズの殆ど全作品を劇場まで足を運んで一緒に観るという羽目になり、その上に長男が誕生した直後から三十年近い年月を送ることになった葛飾区の金町は、「男はつらいよ」のメイン舞台の柴又帝釈天とは目と鼻の立地。と言った具合で、私の方からは、本当に不思議なえにしとしか言いようの無い俳優さんです。 その渥美さんの最晩年、癌の病魔に侵されて車寅次郎ことフーテンの寅を演じる渥美さんを、テレビのカメラが狙うテレビ番組がありました。そのテレビの番組の中で渥美さんが言っていました。「ハリウッドのスーパーマン役者を街で見かけたファンが言うのね。あっ、スーパーマンだ!スーパーマン、空を飛べって。でも、その役者はワイヤーで吊るされていないから、飛びたくっても空を飛べないやネ。でも、ファンはスーパーマン、空を飛べって言い続けるんだ。」――この言葉で渥美さんが言いたかったのは、今の自分はワイヤーで吊られていないスーパーマン役者と同じで、カメラの前に立った時だけ、辛うじて役者・渥美 清として「フーテンの寅」を演じるのが精一杯であり、ファンの声援に笑顔で応えるファン・サービスまでは、とても手が回らない。病魔によって「目に見えないワイヤー」が切断された状態の当時の自分の切ない心境を必死で伝えようとした、渥美さんの辛さが、私には痛いほどよく理解できたのですが、彼を取り巻く周囲の人の殆どが、本心を掴み兼ねていたようです。現に、映画で共演している親友でさえ、「渥美ヤン、ロケ現場に来てくれたファンの方々があんなに熱心に声援を贈ってくれているのに、あの仏頂面はないぜ。笑顔で手を振るくらい、何てことないじゃないか」と、強く非難したそうですよ。 本名は、田所康雄の渥美 清は、世間一般の人々からは特別に大きな存在の俳優さんです。その有名俳優が演じたフーテンの寅こと車 寅次郎は庶民の英雄ですね。田所康雄から庶民の英雄までの距離は並大抵のものではありません。無名の人「田所康雄」にとって天空の高みに君臨する庶民の英雄までの距離に飛び上がるには「鋼鉄製のワイヤー」がどうしても必要だったのです、本当のところ。しかし、その目には見えないワイヤーが切断されてしまった。と、最晩年の田所康雄は強く感じたのです。しかしながら彼は、映画のカメラの前に立った時だけは、俳優・渥美 清としての意地を見せて、それこそ命懸けの演技をファンの為に演じて見せたのであります。これが今の俺に出来るぎりぎりの精一杯だ!心の中で、田所康雄はそう叫んでいたに相違ないのです、実際の話。
2013年01月18日
コメント(0)
9 いびつに歪められている子供・その三 子供たちの話に戻りましょう。プライバシーの問題がありますのでここでは具体的なお話は出来ないのですが、現在のニッポンの子供たちが「いびつに歪められている」のは、どうも事実と言わざるを得ないようですね。加害者は誰か?勿論、私を含めた大人たち全員だと答えないわけにはいかないようです。私は今の日本社会について考える際に、「満員電車の比喩」を思い浮かべるのですよ。東京で生まれ東京で育った私には、ラッシュ・アワーのあの非人間的な、過酷な体験を繰り返し強いられる電車の中の時間が、強烈な印象を伴って思い出される。それは決して私だけの事ではなく、多くの人々が毎日繰り返し体験していることです。車両の中に一歩足を踏み込んだ瞬間から、我々は一個の物体と化さなければならない。定員オーバーなどという生易しい表現など役に立ちません。前後左右から、車両の全員が猛烈な、そして「理不尽」な力で押され続ける。誰もが加害者であり同時にまた被害者でもある不思議な空間であり、時間なのです、実際。子供の頃の私には「地獄」と思われましたよ……。一体全体、誰が悪いのだ。そんな事を詮索する事自体が、全く野暮というもの。電車を走らせている側も誠心誠意の努力を傾注しての、その結果なのですから。そんなことは皆分かっていながら、腹立たしい怒りが(― いまでは大半の人がまるで諦めきったような表情を浮かべて、無感動の様子ですが)涌いてくるのですね、実際のところ。これとソックリ同じ事が、どうも現在の日本社会にも当てはまるのではないか、アナロジーとして。これが私の率直な感想なのです。弱者として、最も大きなダメージを受けている子供たちが発しているSOSは、様々・色々な事象・事件として、世の皆の注目を集め、解決策や対策が真にかまびすしく言い立てられているのですが、改善がみられるどころか、事態は一層悪化の一途を辿って、まるで歯止めが利かない様相を呈しています、はい。決め手がない、手立てが見つからない。大人たちには全く言ってよいほど、加害者意識、つまり罪の意識がない。それどころか、日々被害者意識を必要以上に肥大化させているかのような有様。実際、大人たちは大人たちで、それはもう一所懸命なのですから。ある意味では本当に被害者であり、責めを負わせるのは酷というもの。可哀相の一語に尽きるのです。が、しかしそれでは真実「罪」はないのか、と深く自らを反省するとき、真相の在り様は明らかであると言わざるを得ませんでしょう。 昔から、衣食足りて礼節を知る、と言いますが、経済的な発展だけでは社会全体は上手く回って行かない。そして戦後の日本人は、そのことを非常に痛切に、身をもって生きることで、骨身に徹して学んだ筈なのですが。どうなのでしょう。
2013年01月14日
コメント(0)
9 いびつに歪められている子供・その二 私は今、教師の真似事をして暮らしています。そして、ほんの少しばかりの知識を生徒達に与える代わりとして、何がしかの金銭と、子供の世界からの大きな、実に大きなプレゼントを、日々、手にしつつある。その体験と実感が、前述の様な少々トゲのある文章を書かせている原因です。悪意は全くありませんよ。 子供たちは(私が現在、毎日のように接している生徒達は、小学校の二三年生から高校三年生までですが)、実に驚くほど多くのことを、講師、または教師役の私に教えてくれるのですね。しかし、彼らには私に教えているという意識はまるでないでしょう。私も最初は彼ら生徒から学ぼうなどとは全く意識していませんでした。ただ虚心坦懐に、心の「めせん」を可能な限り生徒の側に近づけようという、努力だけは怠らなかった。それは事実です。すると、どうでしょう。驚くべきことが起こってきたのですよ。彼らは、教えている私に極自然に、しかも巧妙な方法で、逆に教え始めたではありませんか!実に雄弁に語り始めたのであります。 ― この辺の事実を語ること、或いは、分かり易く他人に説明するのが、ひどく困難なのですね。どうしてか?相手が理解していること、相手の中に既に明瞭にあるもの、について「あれ」ですとか「これ」ですと指差すこと。あるいは、指し示すことはた易いのですが、そうでない事柄に関して明確に、相手が十分に納得出来る様にするのは、殆ど不可能のさえ感じられることがあります。「井の中の蛙、大海を知らず」なる、陳腐と思っていた諺の意味が、その真意が俄かに、奥深い先人の叡智として了解される瞬間であります、まさに。世の中とは、所詮は井戸の中、目に見え、手に触れる範囲と決め込んでいる人に、見たことも、聞いたこともない「大海」の話を持って来ても、相手はこちらを馬鹿にするだけで、説得するなどとは夢の様な難事でしょう。この様な局面が、私の人生の中でもしばしば訪れて来ています。ソクラテスの例を持ち出すまでもなく、己の無知に目を瞑って、自分こそは何でも知っていると勝手に決め込んでいる御仁の、世の中には何と数の多いことでしょうか。 こんな風に書いてくると、「それじゃあ、お前さんは、その大海とやらを知っているとでも言うのかい、偉そうに……」と、理不尽に絡んでくる性質(たち)の悪い声があちこちから飛んでくるように思われて、本当に始末に終えません、実に、全く。
2013年01月04日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1