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第 三百九十九 回 目 「徒然草」に次ぎの一段がある。「因幡の國に、何の入道とかやいふ者の娘容美(かたちよ)しと聞きて、人數多言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米(よね)の類を食はざりければ、斯る異様(ことやふ)の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(四十段) 日本の近代批評を確立した偉人・小林秀雄は「徒然草は批評と観察との冒険ばかりだ。鈍刀を使って彫られた名作揃い」と激賞し、上の文を引用した上で、「これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに澤山な事を感じ、どんなに澤山なことを言わずに我慢したか」と非常に鋭い切っ先を読者に突き付けた。 私は私の流儀で作者の吉田兼好の言わずに我慢した所を敷衍してみようと思います。栗だけを食して誰もが普通にしているご飯を食べなかった。為に親は娘に結婚を許さなかった。異様(ことやふ)は平たく言って普通でない事ですから、娘に対して絶対の力を有する親は、娘の普通ではない行為を理由に、普通にしている結婚を禁じた。つまり、要約すればそういう趣旨になる。 さてそこで、私はセリフ劇という劇を「異様」に確立しようとしている。しかも世間で常識として通用している手段や手法を完全に無視して。常識を背景に何事もなく成立している筈の事柄を常軌を逸脱したコンセプトや内容で置き換える計画のようだ。これには世間の権威者や強い影響力を発揮する人々は、当然の如く強烈に反発する。何故なら、普通ではないことを普通の事の如く実行しようと企図しているから。 ここで私は古典の一節を野辺地での町興しへ向けての自己の行動、セリフ劇の構築の謂わば 枕 に利用すれば足りる。確かに、そうには違いないわけなのですが、様々な人生の諸相を考察する上で非常に参考になると思われますので、暫らくは兼好法師と共に学びを実行してみたい。その様に思います。急がば廻れと言う諺もあることですから。 因みに、この諺の解説から述べておきましょうか。何事かをしなければならないと、心が急いている。早く、一刻でも早く、一足でも早く目的地に到着しなくてはと、今心が逸りに逸り、焦りに焦っている。そういう場合に人はとかく、早道と思われる道を無理やり、遮二無二突き進もうと考える。そしてその考えに急かされて行動を起こしてしまう。だから却って近道と当初思えた道がとんでもない遠回りになり、遠回りと思えていた道が一番の近道だったと、知れる。この平凡な事実が私達の生活では意外なほど多く起こっている。 扨てそこで、又徒然草の文章に戻ります。栗と米の比喩は天才とか非凡、更にはアウトサイダーと常識人との対比と捉えることが可能ですよ。異常、異端と通常と言い換えてもよい。ですから当然にこのテーマから様々な論評が可能であり、本が何冊でも書ける。しかし冒頭にもお断りしたように、ここでは単に劇を語るための切っ掛けを作りたいだけでありましたから、あまり深入りはしないでおきます。 それでも、人に依っては余りに拡大解釈が過ぎるのではないかとの、意見が出て来る可能性が多いにあるかも知れませんね。私としてはそうした声をむしろ期待していた、正直のところ。 そうなのです、拡大解釈や誤解はむしろ積極的にするべきもの。特に芸術作品にあっては。誤鑑賞や見当違いの受容は大歓迎しなくてはいけない。古典や傑作が本当の意味で完成し、創造が十分に完了するのは、そいう受容者の側の創造的な参画がなされた瞬間、まさにその刹那、刹那に於いてなのだから。詩や散文が現に生きている証しは、その拡大解釈や新鮮な読みが加わるからであり、誤読を誘っているのが傑作の傑作たる所以だと、主張しても過言ではないのですよ。 劇もまた同様の特色を顕著に持っている。ゲスト各人の好意的な「誤った見方」こそ劇の内容を益々豊富にし、味わい深いものとする。傑作は、観巧者の心の中でその瞬間瞬間に新たに生まれ出る、完結する。それを可能にし、促す役割を舞台上の俳優達は担っている。 しかしながら、世の中の在り方として誤解や間違ったスタンダードが、幅を利かすようになつては困りますよ。世の中全体としては非常識が常識を圧倒するような事になっては、どの様な観点からも許されてはならない。大原則としてはそうに間違いはない、当然です。 が世の中全体が著しくあらぬ方向にねじ曲がって、異常を来たしてしまったなら、歴史を概観するとそういう偏向が皆無ではない。全体の中の一部分を取り上げて考察すると、偏向や偏りが通常ではない現象はかなり頻繁に継起している。少なくとも後世から眺めた景色が普通ではないと、判断される部分的な「異常現象」が見られる場合が厳存する。普通と異常が逆転しているのに、誰もその事実を「異常」だと感じなくなってしまった。 そうした著しい逸脱状態を正常な状態に戻す行為や努力は、並々ではあり得ませんね。それどころか不可能に近い困難さを伴う。少なくとも途轍もない困難さが容易に予想される。 奥歯にものの挟まったような物の言い方に聞こえるでしょうか。ハッキリと申上げたい。劇と私達の健全な関係が非常な異常を来たして久しい。為に、私達の健康な生活が大きく阻害されている。人間を愛し、劇を愛好する者の一人として座視するに堪えない。 ここで、劇とは何か? そして演戯とは何か? という本質的な命題について御一緒に理解を深めてみたいと思います。どうかお付合い下さい。 私達、人間と言う物はただ生きて呼吸しているだけの存在ではありません。自分に与えられた生命・命をエンジョイしたいと願っている、非常に「慾の深い」生物であります。それを象徴的に語っているのが、私達と芸術一般との関係であります。 人間は何故に絵を描くのか、どういう理由で音楽を愛好するのか。理由は簡単明瞭です。それが無性に楽しいからであります。純粋に生きることを楽しみたい、心の底からエンジョイしたいからなのでありますね。ただ闇雲に生きるだけでは飽き足らずに、生を、生命エネルギーを直視ながら遊び、楽しもうとする。そうした生命体でありますよ。 ですから芸術の本質部分にはそうした「遊戯」への強い、強い願望・衝動が隠されて有る。確かにそう言える。更にもっと言えば、とても人間的と思える欲望なのですが、その様に生きている自分達の姿を「眼前に据えて」意識的に演じ戯れようとさえする。それが演戯することの意味です。つまり、人間は本来的に「劇的な存在」なのでありました、実に。 更に、更に、もっと言えば人生そのものが「舞台」であり、私達一人一人は名優揃いの俳優なのだ、実に驚くべき発見でありますが、そうも言える。いや、そう言った方が正しいでしょう。 但し、現実の名優達は、自分が俳優であるとも、ましてや名優であるなどとは夢にも思わない、自覚が欠如しているだけにしか過ぎない。 そこで、そもそも私・草加の爺はこのような「牽強付会」の説を、何故敢えて持ち出したのか、という事ですが、現在ただ今の情勢では自分で自らを解説するより手がないので、自己解説致します。 今、人生という晴れの現実舞台が「荒れに荒れ、すさびにすさんでいる」からであります。人類全体の在り方がとても「健全」であると思えないような、一種の惨状を呈している。これに対処するには根本からの「手当」が、本質からの治療・療治法が必要だと感じられた。 それには劇しかない、もっとも人間的で、平和的で、友好的で、協調を旨とする劇を正すに如くはない。劇を正道に戻すことで、人類の異常状態を匡す糸口・端緒としたい、最低でも。その様に愚考致した次第であります。 此処で諄いようですが、念を押しておきたいことがありますよ。それは此処に書き連ねている文章の意味合いに就いてでありますが、これは飽くまでも自分自身を納得させる為にしていることでで、その外のことは少なくとも私の眼中には御座いません。他人様を説得する芸当など、私の柄ではないし、た易く説得される他者もいらっしゃらないと、心得ても居りますので。 ですから、長男の貴信から忠告を受けた事柄、「神とか啓示とか、絶対者」などという誤解を主じ易い表現は極力避けた方が、賢明だと言う趣旨のアドバイスも、その意図する好意だけを受け止めて正当に理解した上で、尚且つ無視する、採用しない。その理由は自己説得、乃至は、自身での納得が、それだけが目的だからなのです。 以前の私なら、そうした表現を誰か他の人が用いたならば、先ず「胡散臭い」と感じ、悪意は仮にないにしてもこちらを煙に巻くような、気色の悪い印象を持ったに相違ないからです。と言うことは、今は、家内と出会った経験を有する現在は、様々な「有意義な教育的な影響」を受けて来た当然の帰結として、そうした表現以外には適当な言葉が見つからない。従って、そうした表現を使うのがもっともぴったりと来る、わけなのですね、真実の所で。 またまた、全体が非常識一色に染まった際に、常識は「一見して非常識」に見えても仕方がない。そう強く思うのですね。確信する、と言い換えてもよい。 私の野辺地への働き掛けの本意を一言で表現すれば、楽しい劇・演劇へのインビテーション・誘い・勧誘という事になるわけです。 楽しい事をして、元気を体内に蓄えて、そのエレルギーを傾注して楽しく面白いお芝居を興行して、皆してお祭り騒ぎをして大いに盛り上がり、よその人達も巻き込んで楽しみましょうよ。そうしているうちに自然に大きな人の交流が生れ、楽しみの輪が増々広がる。町も発展するのは当然なら、祭りの評判を聞いてやって来る外国人も時間と共に増大する一方…。 そんな上手い話が、そんな信じ難い美味しい事が、一寸した心掛け次第で可能なのだ。可能どころかこれ程に確かな成り行きも珍しい。誰が仕組んだのかは、分かりませんが、或る確かな気づきが有った事だけは間違いない。 ここでもう一度、コロンブスの卵の譬えを、その意味深長な含蓄ある内容を篤とご検討あれ!
2019年01月29日
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三方 一両の 得 の展開 こそ セリフ劇の 最大の 醍醐味 なのだ 第 三百九十八 回 目 ご承知のように元々は「三方、一両損」であったのを、私が敢えて「 三方が一両ずつ得をする 」ともじって言い換えたもの。元の形は落語などでお馴染みのお話ですね。左官の金太郎は三両の大金の入った財布を拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎は一旦落とした以上は自分のものではないと受け取らない。大岡越前守は名奉行ですから、一両を足して二両ずつ両人に渡し三方一両の損として事件を見事解決した。めでたし、目出度し! 私たちの目指すセリフ劇では三方、つまり三者とは客、役者、この両者を支える町の人々を言いますよ。客とは人間でありさえすれば老若男女を問わず、人種や国の異同を言いません。役者も当初こそ野辺地町の住人に限られますが、直ぐに客と同様に誰彼を不問にする。町の人々という範疇にしても町おこしの当面の課題をクリアーした暁には、人類一般へと大幅に範囲を拡張して解釈して頂けばよろしい。 そして、一両の得という意味合いですが、これも同様に金銭上の価値だけに留まることはありませんで、雪だるま式に時間の経過とともに際限もなく膨らみ、天井知らずの様相を呈する。 これは音読励行からスタートする大きな発展の姿を外観した場合の見取り図であり、人間とストレスと劇のエッセンス・本質との関係を外側から眺めたスナップ写真であります。 勿論、現行の世間で行われている劇の形態がこうした理想の姿を呈しているわけではありませんので、私が述べるような簡単極まりないものではありません、その事実は言い出しっぺの私・草加の爺が一番よく心得ている、つもりであります。しかしながら、理想のコンセプトが完成し、それに向けての努力と協力があるならば、必然として最も望ましい仕事の基礎・土台は揺るぎなく確定するでありましょう。 という事は、セリフ劇は単なるセリフ劇にとどまらないで更なる発展が無限に期待されている。具体的に申せば、音楽とか舞踊、絵画、建築などとの関係性の再構築に関連して様々な可能性や、新たな方向性が模索されて然るべきなのです。それは取りも直さず「正の方向」に向けての人間性の限りない豊かさや優しさの涵養・醸成に、根底のところで役立ち、支え、寄与する。人類全体にとってがえのない宝・財産となる。 そして私が自らに与えた大きな課題が、人間と劇との正しい関係を取戻す仕事。正に、野辺地での新しいコンセプトに依るセリフ劇の構築こそそれであり、もっと言えば劇の台本を根本から匡し改めること、劇の機能を本道に帰し、歪みや偏向を矯正する事業・仕事がそれであります。 これは固より個人の手には負えない一大事業でありますが、少なくともその方向性だけは、明確なベクトルの提示だけは手掛けなければならない。私が最初にしり込みしていたのは、実はこの事の重大性を具体的に悟ったからであります、確かに。 そして納得したのです、ベストを尽くすのみ。結果や目標に目が眩み平常心を失わずに、自分に可能な範囲でのベストを心掛け、直向きに邁進する、一切の雑念・邪念を払って…。 ここで少し劇に関して本質的な考察を加えておきましょうか。ごく浅く、関心の薄い人々にも解り易く、可能な限りかみ砕いた表現で。 小説も詩もドラマも、その元をたどれば一つです。神々や英雄や偉大な人物についてのストーリーが語られ、登場人物の思いや感情が詩という形式でまとめられた。音楽もストーリーの効果をより解り易く直截に伝わる様に工夫された。ですから根っこには語られるストーリーが存在していたと言えるでしょう。 基本形では語られるのは神、もしくは神に近い英雄がストーリーの中心にいた。時代が下るにつれて主人公に私達に近い通常人が選ばれ、その非凡と思われる行為や事績などが主に題材の中に取り入れられ、近代からは平凡人の常軌を逸した異常事がテーマとなって今日に及んでいる。 乱暴な言い方をすれば、ドラマの主題が偉大な人物から、平凡人の異常な思考や行動に向けられる傾向を辿っている。そして、人間の行動よりも内面の心理や性格などに重点が移り、心理・性格の大きな段差やギャップへと注目や関心が移動する傾向が顕著になった。 私達には偉大なる英雄的な人物をヒエラルキーの頂点に据え、そのピラミッド型の権力構造の適当な位置に自分を置き、頂点から裾野へと流れる権力の流れに身を浸して満足する、英雄崇拝の願望があるとされます。アイドルとかアスリートという現代の疑似英雄を、一時的な仮想現実の場で満足させているファンたちの熱狂ぶりを目にすると、その仮説も首肯出来る。 舞台からも感情移入しやすい英雄的な人物が姿を消してしまった現代にあって、新たな舞台上のヒーローやヒロインの出現は必須の条件でありましょう。また、古典や近代傑作戯曲のアレンジや再構成も喫緊の課題でありましょう。新しい時代の要請に応えるべき作業は数多くあるのですが、私達はこれを天与のチャンスと捉えて果敢にチャレンジする覚悟で居ります。 そこで、今度は劇の本質や劇的効果についてカタルシスというキーワードを、気が済むという日本語に置き換えて考察を加えてみようと思います。 先に私は、私達が人生を生きて行く上で私達の毎日の行動が、常に中途半端に終わってしまい、何の脈絡もなく次々と別の行動に移らざるを得ない。そういう決まりのつかない思いが積もりに積もって、ストレスが意識されないで心の奥底に蓄積されている。その様に断定して置きました。 これは申すまでも無く、私・草加の爺一個の勝手な独断などではなく、科学的な裏付けのある今日の常識化された定説となっているものであります。これを私は用心深く一応は仮説として取り扱うつもりですが、それによって少なくとも劇の本質が私達にとって、より理解しやすいものになればと言う期待が込められている。 さて、「気が済む」という和語ですが、気が澄む(清む)でもあり、気が行くと言い換えても佳い。兎に角自分なりの(当事者なりの)満足が得られる、或いはそうした心の状態と心得ておきましょう。カタルシスなどと言うと、人によっては何か「御大層な、迂遠な」表現と敬遠されてしまうかも、知れませんから。 そこで劇の中では主人公たる「客」が心の中で「気が済めば」よい。それを手助けする舞台の俳優が、ハムレット劇ではヒーローたるハムレットが本懐を遂げて、父王の無念を晴らす行動が行き着く處まで行く。この基本構造こそ大切な要素なのです。 私達にお馴染みの大相撲を例に採ってお話します。御承知の如くに相撲という国技は、土俵と言う丸の中で廻しだけを身に附けた力士が、勝負を競うものであります。殆どの勝負が数秒と言う短時間に決着がつく。明瞭に、はっきりと気が行く、力士も応援の観客も。極めて劇的なのですね。原理は単純明快でありながら、本物の人生さながらに奥が深い。今日では若い女性ファンも急増していると聞く。相撲の「気の済む」効果は抜群ですから。つまり、土俵上の力士に合わせて見物人も心の中で相撲をとっている。 序でながら申上げると、私はセリフ劇の目指す目標として「日本で言えば宝塚歌劇、外国で譬えればブロードウェイのミュージカル」と言うのですが、当面は大相撲を目指すと言い換えても好いのですよ。 また本筋に戻りましょうか。「オイディプス王」では、テーバイの王オイディプスは国に災いを齎した先王殺害犯を追求するが、それが実は自分自身であったと知る。しかも産みの母親と交わって子まで儲けていた事実を知るに至る。その結果は母親の自害であり、自らは自分の両目を潰すという惨劇に終わる。余りと言えば余りの「気の行き方」ではあるが、ヒーローが当初の気を済ませるにはこれより外の手段はなかった。これが悲劇の傑作たる所以なのですね。 近代劇の場合を見てみましょう。イプセンの「人形の家」は現状に満足していたノラが本当は「気の済む」ような生活ではなかったと知って、家出という暴挙を敢えてする。近代女性の自立のドラマだと世間では持て囃されますが、果たしてそれだけの内容でしょうか。ここではこの指摘だけに留めて置きましょう。 チェーホフのケースではどうか。「三人姉妹」を例に採ってみます。これは従来のドラマトゥルギーでは律し切れない新鮮で深みのある傑作で、解説に窮する部分もあるのですが、無理矢理に遣って退けましょう。自分の気の済む理想の行動が許されていない、不満足な環境の中で、それでも自分の「気の済む」行動を模索しながら生きる三人の姉妹の、精一杯に生きたいと足掻く葛藤を科学者の合理性を以って、中立的に描いている。無論、作中の人物たちの気は済まないのですが、「観劇者たる主役」の心の中では気が済む。その様に巧みに構成されている。劇的カタルシスは十分に計量され果たされている。 以上、本当に駆け足で述べた劇の骨格・真髄の描写ですが、実際の姿はこれに多彩な肉付けや更には様々な衣装が付加され、豪華絢爛の 生命や人生の祝宴 が準備され整えられている。 そうです、劇の場は人生その物、生命エネルギーの祭典・儀式という性格を持っている。参加者の誰もがその喜び、歓喜に参画できる。のみならず、観客、俳優、劇作家、その他の劇を有形無形で支えている人々が優先的に祭りの恩恵に浴し、エンジョイ出来る最高の芸術なのですよ、少なくともその理想のパフォーマンスに於いては。 と言う事は、理想の観客、理想の俳優、理想の劇作家達が本質的に要請される。それは人生そのものの写し絵と言ってよく、完成への弛まぬ不断の努力が必要なのですね、根本の所では。
2019年01月25日
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劇は 無条件に 楽しいもの、楽しむもの 第 三百九十七 回 目 これからしばらくは、シェークスピアの「ハムレット」と「作中人物のフォルスタッフ」、ギリシャ悲劇の「オイディプス王」を題材として具体的に劇の魅力とその特質について、幾つか思いつくままに出来る限り面白く、楽しく話を進めて参る所存です。どうぞご協力をお願い致します。つまり参考となるご意見なり批評なり、その他自由で闊達な発言を心待ちに致して居ります。出来れば、予定しているセリフ劇の構築に積極的に活かして行けたらと、愚考致して居りますので。 さて、天才沙翁の有名な傑作とされる「ハムレット」ですが、私・草加の爺めは恥ずかしいことでありますが、長い間その真の魅力を把握出来ないでいた。新劇界で何故そんなにもハムレットが持て囃され、ハムレット役者が憧れの的になるのか? 深い意味はなく、ただ単純に理解が浅かっただけに過ぎないのですがね。もっとも、私は演劇に限らず、クラシック音楽やピカソの絵などに対しても理解が浅かったというよりも、「音痴」であり「目がなかった」のですから、偉そうな顔など誰に対してもできない。敢えて言えば晩熟(おくて)の最たる者であります。その人間が劇・ドラマ・芝居について理解の浅い方々にささやかなプレゼントとしてお贈りする、初心者用の手引きのような事柄と、まずは御承知おき下さい。 「ハムレット」は一言で言えば復讐劇である。忠臣蔵が主君の無念を晴らすそれであれば、ハムレットは父親の仇を、叔父であり生母を卑劣にも寝取った卑劣極まりない悪党に、正義の刃を振り下ろして倒し、自らも毒刃にかかって死ぬ。典型的な悲劇であります。 劇作家沙翁の素晴らしさは、題材を如何に見事に描いたか、その表現の見事さにあります。才能ある若き王子、その恋人オフィ―リア、敵役のデンマーク王クローディアス、道化役の宰相で美貌のオフィ―リアの父親ポローニアスといった在り来たりの人物を配して、天才がどの様な健筆を揮い如何なる筆致で劇的な興趣を盛り上げ、最後にカタルシスを齎してくれるのか。観所、読みどころ、演出の妙はこの一点にある事は誰もが承知している。頓珍漢な解釈や誤解が混入するのは、この作劇上の約束事を弁えていないから、に過ぎない。 世界中の演劇史の中でも最も上演回数が多く、成功間違いないとされる芝居の傑作は、基本的には単純極まる解り易いテーマと、無類の起伏に富んだ内容とに因っている。to be , or not to beなどの名セリフも数多い。そして文句なく無類に面白い、演出さえ間違えなければという但し書きがつきますが。勝手に問題劇として過度に深刻化したり、近代的な心理や性格描写を持ち込んだりしなければよい。素直に演じ、自然に原作通りに演出すれば、素晴らしい舞台が保証される。 続いて騎士のフォールスタッフについて述べましょう。御存知の如く「ヘンリー四世」の脇筋の喜劇的な人物ですが、一種の怪物なのですが飛び抜けて、傑出して魅力的な人物であります。 福田恒存は言う。あらゆる負を一手に掻き集めて正に化してしまった様な人物で、俗物である事は勿論、臆病であり、卑劣であり、狡猾であり、見え坊であり、破廉恥であり、好色であり、貪欲であり、ありとあらゆる悪徳を身に附けてゐる。もし彼に無い悪徳があるとすれば偽善であるが、その偽善でさえ必要とあらば徹底的にやってのけるであらう。フォールスタッフは他人に何と思はれようと、どう呼ばれようと恐れない。生きる為には何にでもなる。それでゐて一片の暗さも無い。世にこれほど屈託の無い人物は存在し得まい。彼の魅力はそこに盡きる、と。 彼、フォ-ルスタッフはまさに人間であることの極限に居る。現実には存在し得ない 怪物 に相違ないが、余りにリアルであり、あらゆる人間の中にフォールスタッフの影が見え隠れして見えると、少なくとも私には感じられるし、恐らく「神」の視点からすれば「無垢な赤子」の如く無条件で愛さずには居られない程に、「愛らしく」もあるのだろう。それに較べると現実の人間は少しだけ謙虚だったり、少しだけ賢さを発揮したり、少しだけ「善」を自他に向かってけち臭くひけらかす様に存在している、何故か。それは、その不思議に関してはセリフ劇を発展させる過程で、皆さまと御一緒に考察を深めて参りたい課題のひとつに挙げておくに、ここでは留めて置くことにします。 古代ギリシャ悲劇の代表作の「オイディプス王」の説明に移ります。この劇には悪人は一人も登場しない。善人たちの善意が最後には恐るべき大惨劇を実現させてしまう。人間の善意の行為が不可避的に主人公始めとする人々の頭上に、世にも恐ろしい運命として降りかかる。王自身のみならず、王の后も、二人の羊飼いもすべて善意をもって、人間らしく行動する。二人の羊飼いの赤児に対する憐れみの情が、その後の恐るべき悲劇の発端となっている。 オイディプスとイオカステとの神託( お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなす、というもの )の実現を避けようとする、あらゆる努力はすべて空しい。此処に見られるのは人間の虚しさと、どうしても逃れられぬ運命の 不可避性 とである。しかも、第三者からすれば、これらはちょっとした弾みで、避けることが可能なのだ。 それ故にもたらされるカタルシス効果は、最高のものとなる。「観巧者の観客」がその場に居合わせれば確実に。 これからの時代は、A I とかロボットが人々の仕事の分野に大きく進出して、人間に取って代わろうとしている。しかし劇の世界にだけは人間以外の何者も入って来ることは許されない。劇は徹頭徹尾に人間の世界であり、人間だけが主役の座を永遠に占め続ける、人間の為の人間に依る人間だけの最高に素晴らしい世界であり続けて止まない、決してそれ以外にはならない、断じて…。 人生意気に感ず、功名誰か論ぜん ―― 人というものは心の触れ合いが最も大切なのだ、積極的に何かをしようとする気持ちや意気込みこそがその人間の真の価値を決定づける故に、その結果である功名(手柄を立てて有名になる事)は枝葉末節の事柄にしか過ぎない、たとえばこのような境地は機械には理解出来ない、人間にだけ通じ合う心の交流の有難さを強調した言葉だから。 身近な例を挙げてみましょう。昨日(1月20日)センター試験が終わった。今年もまた私の担当する生徒が受験した。彼にも私・草加の爺は自分の言葉で同様趣旨の事柄を述べました。君は既に大学受験の準備というプロセスに於いて十分に立派だった。日頃の実力を発揮すれば合格する可能性は大である。人は、親は結果だけを重視する。けれど既に君は人生と言う大きな試験に合格したも同然の成果を示した。一番身近で私、公平にして同情心に溢れた同伴者たる私は、しっかりとそれを見届け、合格点を出している。何も恐れる事はないので、平常心で試験に臨むがよい、と。中学受験の生徒にも同様のことを、彼女に通じる言葉で伝えています、まさに「人生は意気に感じる」ことこそ一番の大事なのであります。後は、神様の言う通り、に従い、素直に努力を継続すればよいのでありますね。 オリンピックで言えば、メダルを取る取らないは二の次、三の次のこと。自分のベストを尽くそうと決意し、その為の努力の姿勢を固める事。その努力が継続出来たとき、その人は既に人生と言う場・フィールドで最高のメダルを手にしている。 私に則して申せば、私は野辺地でのセリフ劇の構築を決意出来た瞬間から、様々な御褒美という人生競技場裡での色々な過褒なメダルを次から次へと与えられている、手にできている、有難いことに。 くもりガラスを 手で拭いて / あなた明日が 見えますか / 愛しても愛しても ああ他人(ひと)の妻 / 赤く咲いても 冬の花 / 咲いてさびしい さざんかも宿 ぬいた指輪の 罪のあと / かんでください 思いきり /燃えたって燃えたって ああ他人の妻 / 運命かなしい 冬の花 / 明日はいらない さざんかの宿 せめて朝まで 腕の中 / 夢を見させて くれますか/ つくしてもつくしても ああ他人の妻 / ふたり咲いても 冬の花 / 春はいつくる さざんかの宿 嘗て大ヒットした「さざんかの宿」の歌詞ですが、ストレス解消の例としてわかりやすいと考えましたので唐突で恐縮ですが、引用しました。不倫の唄ですから、道徳上からも「けしかぬ」、「言語道断だ」と議論の余地もなく頭から否定されるべきこと。実人生では、という但し書きが附くのですが。それが大勢の人々から愛唱される。単なる、罪もない流行歌に過ぎないから。そうです、実人生で許されない欲望や衝動をフィクションという架空の次元で満足させ存分に味わい尽くし昇華させる。単に否定する、押さえつけるだけでなく、悪の悦楽に溺れこませ、とことんまでしゃぶり、満腹の極みまで行着きさせる、敢えて。そして、無理なく捨て去ることを可能とさせる。人は禁止されればされるほど、その対象に惹きつけられ、のめり込もうとする悪業のような習性・傾向があるので。 一口に悪の誘惑とか、悪徳の愉悦などと簡単に言うのですが、何故に悪や悪徳がこれほどに人々を魅了して止まないのか。真相は誰にもわかりません、恐らくは永遠に。 これはここだけの話に止めておくべき秘密ですが、そして私・草加の爺一人のとんでもない謬見ですが、参考に供する意味で申し上げます。 人は悪や悪徳が闇雲に楽しく、汲み尽くせない快楽を与えてくれるので、それをするのであります。人殺しは愚か、弱い者虐め、盗み、姦淫、詐欺、ペテン、暴力、嘘、裏切り、貪欲、などなどかず限りもない悪行が純粋に楽しい行為なのであります、よだれが自然に垂れて止まらない程に美味しそうな対象物なわけですよ、ありていに言ってしまえば。 それに比べれば、所謂善と呼ばれる行為には苦痛が伴う。自己抑制が必須であります。それゆえに大人たちが躍起になって、例えば道徳教育などと言う物を強制しようと目論む。要するに、良いことや望ましい事柄には困難や苦痛と言った、一見して避けたくなるような「望ましくない」前提の条件が要求される。 従って、衝動的・刹那的に走りがちな人間の習性として、どうしても善よりも悪が優勢を占めてしまう。悪貨は良貨を駆逐する、のでありますね。これは飽くまでもひとつの解釈にしか過ぎない、現在のあるがままの現実に対する。 問題なのは、積もりに積もり、溜まりに溜まっていく「無意識」なストレスの処理方法なのでありまして、現状では個人の対処すべき範疇をはるかに凌駕して、既に限界を突破してしまっていることは、誰の目にも明らかでありましょう。この時代の、人類に共通した大きな課題にオーソドックスと言えばこれほどに正統的な手法もないと思われる、待望の処方箋が私たちの目指すセリフ劇なのであります。
2019年01月22日
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「 目指すものは、商売にして 商売にあらず 」 第 三百九十六 回 目 町興し・地域振興の一助として「セリフ劇」を根付かせる方策を、私・草加の爺は野辺地の町に対して提案してその協力を仰ごうとしています。国の政策と同様に、経済的な裏付け、商売繁盛・諸産業の発展や進展の為には外部から人々が大勢やって来て、同時にお金を町に落して貰う必要がある。その為の自力での、自前での強力企業・優良産業の育成計画であります。 ただ単に娯楽としても有力な産業として、劇・ドラマ・芝居というエンターテイメントのジャンルがありますが、それに新しい工夫を施して世界中の人々にとって魅力のある「癒しと活力を無尽蔵に与える」セリフ劇という新製品に仕立て上げて売り出す。しかも、町の財政的な予算は零に限りなく近いので、現時点ではゼロと見做してよい、問題がない。但し、人々の意欲的な協力は不可欠である。 商売という従来の観点からすれば 「無謀極まりない」 と見えもし、感じられもする「絵に描いた餅」と思われる事柄ですが、実はそうではない事を、これから可能な限り説得力を持たせて、お話する所存です。何度も繰り返すようですが、論より証拠で一歩、いや、半歩でも踏み出して頂ければ直ぐに納得の行くことですが、前例が極めて稀少なケースですので、とにもかくにも、説得に邁進いたす所存であります。どうか、暫らくお付き合いをお願い致します。 私は商売としてセリフ劇を売り出すと表現しましたが、実は商売とは本質を異にする、と言うよも商売の持っている弱点を根本的に否定し、改める発想をコア・核の部分に隠し持っている。商売的な性質を克服して、人々の幸福と平和に直接に貢献する事業なのでありますが、現在の経済的な在り方からすれば貨幣価値に換算した評定を除外して物事の重要性を、即座に理解してもらうのが至難だからなので、已むを得ずこの表現を借用するのですよ。ですから、その様にご承知おき下さい。 野辺地と言う、地上の一点から始まるこの運動・ムーブメントでは最初からターゲットは地球村の住人全体でありますので、理窟から言えば世界企業並みの発展が想定され、世界企業が当たり前の事のようにして実行している「税金逃れ」の手法を将来において採用することは、当然の成り行きとして考えられます。 が、この様な流れには絶対にしない、断じて。 それは発想のスタート時から商売・ビジネスとはまるで異質な所から発しているこの企画・発想独自の性質によるのであります。取らぬ狸の皮算用などと茶々を入れたりせず、まあ、お聞き下さいませ。始まりに全てがありますし、一事が万事です。 ごく一部の少数者の収益に収斂されてしまうのは、一将功成って万骨枯る、であっては困るのであります。ウインウインの関係どころか、観客も俳優も、劇団を支える様々な人々が、地球上の全員が幸福と言う利益を、恩恵を等しく分け合う参加者全員が「勝者」である、地上が文字通りに人々の楽園と化す、そういうコンセプトに終始しなければ、苦労を重ねる意味がない、張り合いが無いというもの。 それから、唐突な印象を与えるかも知れませんが、付言します。 私の意見ではやがて外国人も「大挙して」押し寄せ、千客万来方式でやって来る予定になっているようだが、セリフが主体である劇で日本語を解さない外国人に、如何にして劇の面白さを伝えることが出来るのか、非常に疑問に思う。と言う至極ご尤もな質問が届きましたので、取り敢えず手短にお答えします。少なくと最初の段階では従来の娯楽の一種としてデヴューしますが、娯楽は娯楽でもショーや見物するだけのイヴェント類似の物ではありません。カタルシスを体験する治癒や治療の場であり、主役たる客・ゲスト・顧客と心の交流を深めることがより重要な要素となります。また、セリフ劇を契機とした複数のゲストたちの、無言・有言・挨拶を含めたボディーランゲージに依る相互の交流こそが治療の効果を高める要素となります。粗筋を前以ってパンフレットその他の手段でゲスト達に伝えて置く。一種の御存知物を中心に演目・レパートリーを構成する。 シェークスピアの「リア王」であれば荒野で老王が怒りの叫びを発する場面を中心に、触りを前面に押し出して一部分の短編として公演する。 などなどの工夫を凝らしてカタルシス効果にフォウカスします。 何故ならば、新陳代謝、つまり新しいものと古いものとの入れ替えと言うよりは、心理的な不要物や老廃物を体外に排出し、捨て去る行為だからなのです。捨て去るのはストレス全般。 新しい知識や情報を積極的に身内に取り入れる行為ではないから、それが可能なのですね。むしろあらゆる可能性を蔵したゼロの状態に復帰する心の運動と規定してもよい。 さて、昨日一月十八日に大船に住む長男から電話がありました。息子の貴信は私の野辺地への働き掛けの現時点に於ける最大の理解者でありますので、私を気遣ってアドバイスしてくれたのです。「神とか、幸福などのフレーズを多用しない方がよいのではないか。読む人が引いてしまうから」というもの。私は「有難う」とだけ答えておきました。 貴信の心配は尤もだと首肯出来る、素直に。だが、であります。この際、「誤解」を怖れていてはいけない、とも強く思うのだ。彼が心配している事は神だとか幸福とかをやたらと強調する狂信的な新興宗教まがいの折伏の一種ではあるまいか、とのあらぬ疑いの目を受ける事への警戒心からの大人の知恵から発したもの。 人を見たら詐欺師か殺人者と思えと、無警戒で不用心な人々に対する、社会的弱者に対する、過剰ではない親切心からの声掛けが、むしろ必要とさえ感じられる一種異様な社会情勢であります。白を白だと念押しする、そして黒は飽くまでも黒だと言い張ることも、あながち意固地とも言えないご時世であります。神からの声掛けがあった、人間存在を遥かに超えた絶対的存在者からの啓示が示されたから、正直にそう吐露する事が何故いけないこと、悪いことと無下に否定されなければならなのか。どの様な事であっても誤解が必須であるならば、誤解を恐れてはいけない。 天は今、明らかに私にそう命じて居られる、己の信じる道を勇気を持って行け、間違い様もなくそのように明示された。どうしてその正しい指示に従わない理由があろうか。 目明き千人に目暗が千人、と言う言葉がありますし、棄てる神があれば拾う神もある、とも言いますね。蛮勇なのか、真の勇気なのかは時間の経過が直ぐに答えを出してくれる筈。恐れたり、心配したりすることは何もないのです。ただ只管に人事を尽くそうと腐心すればそれでよいのだから。それが当面私に与えられた仕事であり、役割なのだから。 ――― この様に書いて来てふと気づいた、私はいま思わず知らず「私自身を 演戯 している」事実に…。まるでシェークスピア作のハムレットが父王の復讐に立ち向かった折の如くに。 読者にはあるいは唐突な印象を与えているかも知れない。それ故に、戸惑ったり当惑したり、理解に苦しむ方が大多数なのでしょう、さぞかし。 劇の運び手である俳優を可能な限り説明しようと勉めていた私に、突如閃くように与えられたヒントなのですが、平易に説明したり、要領よく解説したりするのが困難である。しかし出来るだけ解り易くお伝えしたいと考えます。 非常に乱暴で図式的な伝え方になってしまうのですが、劇・ドラマの効果という重要な事柄を御理解頂くのには却って、好都合かも知れない。詰り現在の私の立場をハムレットに準えることがであります。それは一体どういうことを意味するか。デンマークの王子ハムレットにとって復讐を遂げることが目的でありますが、劇的な効果を考える際には、目的を果たすその事よりもプロセスが大切なのだ、要するにカタルシスを充分に体験するには。同様に、私は町おこしの目的の為に行動するのだが、私の人生を完成させる大きな目的と完全にクロスし、ぴったりと重なっている為に、どちらが主たる目的・目標なのか分からなくなってしまっている、自他共になのだ。つまりは行動その物に大半の価値が移動してしまっている。野辺地の町の人々に働き掛ける行動によって私にカタルシスがもたらされる。プロセスが適切に遂行されれば自然に果実・好結果が生れ出る、間違いなく。 私の身ぶり・演戯は大切に違いないが、もっと重要なのは、真の主役は( 客席に座っている )野辺地の町の人々なのだ、人々の心の中で鬱勃と意欲がわき上がって或る強力な行動へと移行する、その結実が新たな行動意欲へと高まり、素晴らしい現実が招き寄せられる。正に 劇的な効果 なのであります。 私・草加の爺の説明は稚拙そのものでありますが、それを棚上げにして、話を先に進めますが大切なのはストーリーや筋書を知ることではなくて、カタルシスを実感し、体感する、そのプロセスなので、カタルシスが完全に果たされたか否かだけが、問題とされるべきなのだ。 そして人間はこのカタルシスを何度でも、繰り返し、繰り返し経験したいと待ち望んでいる存在なのであります。命の完全燃焼を希求している。その結果のゼロから、健全な日常へと旅立ち、再び三度、カタルシスを求めて劇の場に戻って来る、あたかも疲れ果てた「兵士」の如く。人生という戦場へと新たな心身をひっさげて還って行く。零であるがゆえにあらゆる可能性を胸に秘めて…。 一時的な人工の仮死を経験する儀式を通過して、再生する巧みな装置こそ劇・ドラマ・芝居のエッセンス・醍醐味であります。その完全版を目指すのがセリフ劇なのでありますね、間違いなく。 同じ健康を保証する仕組みであっても、医学は、命を創り出せない現代医学は完璧を期せないがが、劇は完全無欠を目指すことが可能なのですよ、少なくとも理論上は。その目指す完全無欠は、パーフェクトな台本・シナリオによってこそ実現する。よって、私の実質的な役割の大半は傑作台本をものする事に懸っている。そう、今の段階では言えるのであります。
2019年01月19日
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私、草加の爺の場合の 人事を尽くして、天命を俟(ま)つ 意味とは? 第 三百九十五 回 目 前回の続きです。私は前回「舞台の上から主役が、劇の真の主役が、平土間の客席に移る事で、あらゆる事が違ってくる」と書きました。 そして、プロでなくとも役者・俳優役が素人でも、直ちに「治癒者」としての役割を十全に果たすことが出来ると、主張致しました。視覚優位の時代のゆがみを矯正する、イマジネーション・想像力に専ら訴える劇・ドラマ・芝居の本道に立ち帰る、オーソドックスなあり方をセリフ劇は確立するのだとも、説明した心算です。 始めに 言葉 があった。言葉は「光」として闇を照らし明るくする ―― 新約聖書の一節であります。言葉は神そのものと解釈出来ますね、無理なく。 セリフ劇はそうした意味合いでの「言葉」本来の持つ偉大な力を、何物にも増して大切にする精神から始まり、その健全な力を、有難い恵みを、最大限に享受して私達の人生に役立てようと努力する営みの最良のもの、なのです。 神と共にある言葉を健全に活用すれば、一つの企業・産業を創設する事など、いともたやすく実現出来る道理であります。ここで念の為に申し添えますが、私は読者を説得しようとして「虎の威」を借りているわけではありませんで、単に事実を述べて参考に供そうとしているに過ぎません。なにしろ今のところは私は野辺地の町の大多数の方々にとっては、単なる一人の不審人物にしか過ぎないわけでありますので。先人・賢人の虎の威をお借りし、今また町役場のお役人の方々の「虎の威」をお借りしなくては、全く身動きさえ取れないでいる現状であります、故に。どうぞ見苦しく映りましたなら、暫らく御容赦をお願い致します、平に。 さて、私は60歳を過ぎた以降の十五年間を専ら教師の真似ごとをして過ごしました。真似事にしても先生であり、講師でしたから諸教科の指導をしたのですが、私は生徒に教える事よりも遥かに多くの事柄を生徒達から教えられた。その最大の物は何かと自問自答してみると、理解しようと目指している対象なり相手なりと、まさしく正対する事の大切さ。それは、別言すれば基本中の基本である 姿勢を正しくして相手と真正面から向き合う 事をまさに意味するのですが、それが出来た時には、目指している目標の半ば以上は既に達成されたも同然だ、と言うことでした。 言葉にすればいとも簡単そうに感じられるが、言うは易く、行うに難い、難事中の難事なのであります、実際問題としては。 そして、この事を私は生徒達にも解り易い表現を選んで、次の様に伝えた。高い建物を建てる場合に建築する人が最初にすることは、土台を、基礎を固める事である。建物にばかり気を取られている人にはなかなか気づかない事だが、建築物その物よりこの基礎工事が一番大事だと、勝れた建築士は知っているので、ここに一番力を注ぐのだ。高いビルを建築する場合程、基礎の杭は地中深く、しかも何本も打ち込んでゆるぎないものにすることが大切だと、経験上熟知しているから。 恐らく、この知恵を人々は自然界から学んだのだと思う。鬱蒼と繁る樹木に注目してみると、空高く背を伸ばしている樹程その根を、地中深く、深く、用心深く張り巡らしているから。 この、言葉で表現してしまえば簡単な事柄が実は、実際に行動を始めてみるとなかなか簡単にはいかない。頭ではその通りだと理解出来る。しかし自分で実行することは殆ど至難と変ずる。何故か? これも答えは簡単です。誰もが功を急ぎ、その為に焦って心が急いてしまうから。 何事にしても何か大事な事を成し遂げようとするならば、その足元を固める作業、基礎工事・基本の工作が非常に重要だという教えの尊さを、肝に銘じて忘れまい。更に言えば、対象と真正面から向き合ってまさしく 正対 することの大切さを常に念頭に置くことは、もっと重要なポイントなのだ。これが私の拙い半生から学び取った人生に臨む心構えの結論なのです。 古代人を現代人は正当な理由も無く「野蛮だ」とか「知性に欠ける未開人」などと、とかく気安く軽蔑する傾向が強いのですが、愚見では「野蛮で、知性に欠ける存在」なのは、むしろ我々現代人の方なのだと感じる度合いが強い。その正否はここでは置いておくとして、古代人は判断に迷う重大な決断に迫られた場合に、人知を超えた神的な存在者にその判断を仰いだ。これは洋の東西を問わない普遍的な事実であったようです。彼等は果たして幼稚であり迷妄の世界に低迷していたのでありましょうか。現代ではこの様なケースで一体如何なる態度を採っているか。勿論、多数決によって決する。数の多いのが何時いかなる場合にも正しいと言えるのか? 一事が万事でありますよ。 古代人は例えば、木や石が時に物を言う声を聴いた。そして、それが正しいと信じたなら敢然として命を賭ける事すら辞さなかった。幼稚でありましょうか、叡智に満ちているでしょうか? もうお判りでしょう、少なくとも決断の成否は信じり切るその信念の強さに懸っている。その結果が仮に最初に望んだ当の物でなかったとしても、少なくともはっきりとした達成感は得られる筈であります、失敗するにせよ、成功するにせよ、であります。そこからまた新たな気持ちでの再スタートが可能なのでありまして、最悪失敗しても、もう失敗とは言えない事態が、新たな展望が拓けているに相違ないから。 ここまで書き進めて来て気付いた事がありますので、少し遠回りになるようですが述べてみます。それは劇・ドラマ・芝居の本質に係わること事柄なのですが、「遊び」ということ。英語でplay すること。つまり、一義的な生活の為、生存の為に必須な場から一時的に逃れて、生命それ自体を「浪費・乱費・無駄に使う」行為そのものを意味する。褻・け の平生に対する 晴れ の原始の状態、もしくは行動、と受け止めて下さい。 遊びは、昨今では子供達の生活からも締め出されて、ごく限られた片隅の方に追いやられてしまった感があります。プレイヤーと言えば選手、特別に選ばれた各種スポーツのエリートを普通に意味するようになって久しい。 しかし、遊びや遊ぶ事は人生を生きるその中心部に位置を占めるべきもの。生きる事だけで汲々(きゅうきゅう)としている野生動物が実はその齷齪とした日常行為の最中に「遊んでいる」のであります。ですから、遊びは生きる営みの中核に本来はあるべき筈のもの。そしてもう一つ大事なことがあります。仲間と共に、一緒に遊ぶ事の大切さです。一人遊びとは言葉の矛盾で、そう見えるけれども「神」と共に遊んでいる。或いは神によって遊ばされている。そう考えるのがどうも正しい認識のようであります。 であれば、遊びとは純粋に生命の有難さを実感する行為だと、定義することもできる。そして、その遊びの中心に「神遊び」である劇・ドラマ・芝居が据えられるのは極めて自然な事であります。日常という場を一時的に離れて、フィクションという次元に我と人とが共に身を置き遊ぶ事によって、生命そのものの根源に還り心身の健康を奪還する。いや、生命のエネルギーを完全燃焼させることで人間であることの幸福を余すところなく自分たちの所有にする。自覚する、覚醒する、酩酊する、陶酔する、豊饒にして限りない平安を齎す、そうした最高に嬉しい場・次元・時間空間こそ劇なのですよ、実に。 私が今申し上げたい事は、辛く、苦しい作業を野辺地の方々に押し付けようとしているのでは断じてない。それどころか、御一緒に楽しみ且つ幸福になりながら、ついでに町興しの商売にもし、おまけには地球村に蔓延している悪い傾向を根本から正す、実際のお手本を示そうという善い事尽くめの「遊びへの勧め」なのであります、はい、それだけのこと。 私は決して巫山戯ているのではありません。それどころか、大真面目であります。日本神話にある天の岩戸のエピソードを想い出してください。太陽神の天照大御神が姿を隠して世界中が真っ暗になった絶望状態の際に、天の鈿女の命がストリップまがいの踊りを踊って見せ、八百万の神々が大笑いした。それがきっかけとなって天照大御神が再び姿を現した。この神事という託宣が既に私達の前に示されている。また、明治の初めの大動乱期に福沢諭吉は「一身にして二世に生きる僥倖」と時代の大きな悲劇を、見事に喝破しているではありませんか。大ピンチは実は「大なるチャンス・絶好の好機」と受け止める事が可能なのであります。事態がピンチかチャンスかは本当は私達の気持ち次第なのでありますから。 誰にも可能な事でも最初に行うのは難しい、ということの譬えです。ゆで卵を机の上に立てることは不可能と思われますが、ポンとばかり殻を割れば簡単に立てられます。先例があれば後に続く者は容易に難事をこなすことが出来る。原理はまさしくこれと同様なのですが、セリフ劇の場合には肝腎のこの先例が稀少である。現代に在っては、皆無であるので、説明や解説に窮してしまう。兎に角、実地に取り掛かってみれば直ぐに実感できる、体感可能である。しかも楽しくて為になる。余りに良い事ずくめなので、無関心な者にはとりわけ疑わしい思いが湧く。ただ、それだけの事にしか過ぎないのです。 但し、言い出しっぺの私は当事者ではない。飽くまでもコーチ役を務める「お節介焼き」にしか過ぎません。町の人々と膝を突き合わせての相互理解が、どうしても欠かせない先決条件として私の内部でクローズアップされて来た所以です。その為に、どうしたらよいかは自ずから答えが出て参ります。そしてその前提条件として、私は自分の気持ちを整理して十分の用意を固めなければならないわけであります。 そして何にもまして言えることは、今度の野辺地での試みに限らず、何時いかなる場所での、どの様なケースであっても天からの命は既に下されているのであります。後に残されるのは地上の人間である我々がそれを正しく受け止めて、人事を尽くすこと。この一事に全てが懸っている。自己評価はこの一点、ベストを尽くして悔いは残らないか、なのでありますね、実際の話が。 如何でしょうか?
2019年01月17日
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第 三百九十四 回 目 「 セリフ劇の確立は 企業誘致 に匹敵する 」 しかも財政的な 予算はゼロ からのスタート 今回は、切り口を変えて町への企業誘致が無理ならば、自前で新しい産業や企業と同等の物を自力で造り出してしまおう。そうした意味合いの説明を、町役場の地域戦略課の担当者に一種のシュミレーションとして提示し、その協力を仰ぐ。そいう設定、もしくは前提で「セリフ劇」の育成と劇団設立について理解を求める。すると、これまでより分かり易く、より明確な叙述が可能なのではなかろうか、という私・草加の爺の思惑であります。 そして、その際に是非とも申し上げたい事柄があります。このブログのサブタイトルの 神慮に依る と形容詞を冠した時から私の胸中に蟠っていた「或る不安の感情」、なのですが、現在ではその感情は払拭されました。それで明言致しますが、こんどのトライアル・試みには野辺地町の町興しを遥かに超えた、敢えて申せば「人類的な規模での大きな意義・意味合いが有る」ということであります。一言で申せば、金銭や物質よりも人間の心・魂の働きがより勝るのであり、強力なのだという事実を実地に示す。この事は是非とも申し上げずにはいられない真実でありますし、私達の計画の成否に係わりなく人類と共に「永遠の真理」であります。 人は、人間はパンや御飯だけによって生かされているのではない、精神の力、心や魂の働きによってより人間らしさを発揮し、その尊厳を増す。また、ペンの力、言葉の発揮する作用は短期的には剣(現代ではそれを金銭と言い換えても良い)という強力な武器の前に無力と見えもしようが、長い年月の経過を経てみると、結局、もっとも人間を人間らしく活かし、輝かす「最強の武器」と変ずるのだ。古人・先人もそう教えています。私達もそれを信じないではいられません。 さあ、勇気を鼓して、人々の為に、我々自身の為にも、立ち上がり「正義」の為に結束して協力し、最大限の尽力をしようではありませんか、御一緒に! 私は企業誘致が無理なら自力で一つの産業を興し育成すればよい、と申し上げたい。それも初期段階では限りなく予算ゼロで。 そんな馬鹿な話が世の中に有るものか。世間の常識と言われるものは、言下に私の「放言」を真っ向から否定し、相手にしないかも知れません。 論より証拠、と言います。本当は理窟をこねているよりも先ずは実践するのが、本来なのですが現状では様々な諸事情や諸条件が重なって、思うに任せませんが、愚痴や不平を溢(こぼ)していても始まりませんので一通りの理解と認識を頂戴する為に、出来るだけの御紹介に努めてみましょう。 では「セリフ劇々団」という企業は商品として何を扱うか? 良質の娯楽というオブラートに包んだ 心の癒やしと和み に特効薬として作用する「健康商品」のようなもの、であります。 原材料は言葉であり、人の心の持つ温かさ、とであります。そして、その製法は「企業秘密」ですから本来なら部外秘なのですが、この企業は従来型を敢えて無視するのが基本の理念ですから、ご要望があれば、幾らでも丁寧に、細部にわたってご説明いたします。 何を隠しましょう、その製法の説明がしたいが為の、この前口上なのでありますから。喜んで訊かれない事まで微に入り細にわたって、手取り、脚取して、納得の行くまで実演入りでお話させて頂くつもりであります。 「手当て」という言葉がありますが、御承知の如く「治療する」という意味で、非常に素朴で原初的な「医術行為の始まり」と思われます。私達にはそうした能力と、身体的・心理的な免疫機能が最初から備わっている。この文字通りの手を当てる行為を、手の代わりに言葉・言語を心を籠めて、真心を絡めて発語・発声する技術によって、人々の心に直接に届ける事で、弱って衰弱した魂のエネルギーに喝を入れ、元気を回復させる。この最も解り易く便利で重宝な使用法が「セリフ劇」であると、お考え下さい。 セリフ劇の「場」では、従来型のドラマ・芝居・劇で観客と呼ばれ、舞台で演じられる劇を受動的に鑑賞・観劇していた人々が、真の主役の座に就くことになります。主客が真逆になるとお考え下さい。セリフ劇では専らこの真の主役の心中、心理的なイマジネーションに訴え、働き掛ける手法によって心の健康が回復され、強化される仕組みが主眼となります。 これだけの違い、つまり主役が舞台上にではなく、桟敷席や平土間にいる。たったこれだけの違いで何が一体変わるのか、と思われるかもしれません。実は、何もかも相違する。意外にお思いでしょうか。 先ず、治療の場を創出する意味からは、直ちに治療が開始できる。専門家、プロフェッショナルを全く必要としない。セリフ劇やその目的その他に対すマインドさえ出来て居れば。意欲や情熱や暖かな気持ちさえ持ってもらえれば、「俳優」の役は素人、つまり訓練されていないズブの素人が好都合ですし、「観客」の役は何処にでも見つかるし、既に存在している。 ですから、将来プロになるとかならないとかに関係なく、誰でもが候補者たり得るのであります。即ち、劇に対する正当な理解とそれに伴うマインドは後から、自然に養われ、醸成されるでしょうから、ちょっとした個人の意欲と、その人に可能な空き時間を少しだけ、町おこしの為に振り向けて頂くだけで好都合なわけであります。空き時間などとてもとても、毎日の生活に追われて、そんな余裕など金輪際出来っこないと思われるお方は、お気持ちの中で少しだけセリフ劇に対する理解と、好意とを示して頂くだけで有難いのです。それが、そのほんの僅かな想いが結集して吃驚するような結果、文字通りの好成果が実現する筈なのですから。 ここで、私としてはまたまた自己紹介の必要性に迫られる。現在の私は野辺地の大多数の人々にとって「不審者」でしかありません。 私は大学卒業後、テレビドラマのプロデューサーとして三十年以上の実績があります。これは例えばウエブ上で古屋克征、もしくは草加の爺で検索して頂ければ御理解頂けるでしょう。プロデューサーとは一口に言ってプロジェクトの責任者を意味します。プロデューサーと申しましてもピンからキリまで御座いまして、私の場合はテレビドラマ制作の世界に於ける「中小企業の社長役」を果たして来たと説明するのが、解り易いと考えます。と言いますのは、私も制作会社の社員として働いたわけですが、発注側の東京のキー局の責任者から「この仕事は貴方の会社に発注するのではありませんで、古屋さん個人にお任せしたいのです」と何度も念を押された経験があります。企画の立案に始まり、セールス、受注、制作、納品、オンエアー、視聴率の判定、これが悪ければその後の受注は愚か、プロデューサー稼業は立ちゆきません。それを曲りなりにも長年継続出来たのですから、少なくとも業界での信用は絶大だった。何が言いたいかと申しますと、商売人としても一流だった証明があるのです。 そして、テレビドラマの企画者は別名を「千三つ屋」(千の内で僅かに三つ実現すれば益・ましな商売だ、の意味)とか、現代の錬金術師(つまり、ペテン師)と自嘲的に自分達を表現する、非常にリスクの大きな職種なのです。一つの企画で何億、何千万の巨額なお金が動くのですから、それを支える個人的な信用は容易に御想像頂ける程に、大きく揺るぎの無いものである必然性があった。何故、私がこの事実を殊更に強調致すかと申しますと、昨今ではペテン師を中心にした悪質な巨悪が跋扈している御時世でありますから、念には念を入れて御説明致して居る次第です。 そこで、とにもかくにも私はダイレクトに私のセリフ劇設立に懸ける熱い想いを、町の人々の可能な限り多数の方々にアピールしたいのであります。 御多忙な日常を送っていらっしゃる皆様方には大変に恐縮で御座いますが、一度話だけでも聞いてみようかと町興しの熱情をお持ちの何人かの人々が、取り敢えず一時間程度の時間を特別に割いて下さり、私との質疑応答のコミュニケーションに参加頂けたら有難いのです。 ご納得頂けたなら、ご自身での参加が無理であっても、周囲の人々、ご家族や友人・知人、隣人の方々に御吹聴頂き、私・古屋との接触を推奨・勧誘して頂きたいのであります。 私は既に75歳の後期高齢者の仲間に属する老人ですが、命の許されている限りは、野辺地町の方々への働き掛けを止めない覚悟を固めております。何故ならば、それは私自身がこの世に生を享けた理由でもあった、から、つまり、他人の為ではなく私自身の命を輝かす事に、直結しているからでありまして、その他の他意はほんの少しも御座いません。 私は、義を看てせざるは勇無き也、を実践する者でもあり、示された一筋の径を勇躍して前に進むだけなのであります。天に感謝の念を捧げながら。
2019年01月13日
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第 三百九十三 回 目 ばば物の 試作 「 夢の 中で 」 時代:現代 場所:夢の中 人物:ババ 男 その他 ババが一人で誰かを探すようにきょろきょろと周囲を見回している。何処からともなく姿を現した男がババに親し気に話し掛けて来た。 男「大変遅くなりました。大分お待ちになられましたか?」 ババ「(きょとんとしている)吾のことですか、吾はあなたの事を知りませんが…」 男「どう致しまして、私は貴女の事をよく存じ上げて居りますよ」 ババ「吾をですか? やっぱり何かの御間違いでは、つまり人違いしているのではありませんか」 男「いいえ、人違いなどはしていませんよ、柴田さん」 ババ「おや、貴方さんは吾の名前を御存知だったのですか。これは失礼を申上げまして、相済みません。で、貴方さまはどなたでしたかしら、近頃ではとんと物忘れが激しくて、自分が誰を探していたのかさえ、直ぐには思い出せないでいるのでから…」 男「その探し人の件で、私は貴女から呼び出されたわけです」 ババ「私が、あなたを呼び出した?」 男「はい、その通りです」 ババ「(まるで狐にでもつままれたようである)はあ…」 男「ずばりお訊ねします、貴女はかぐや姫に会いたかったのですよね」 ババ「はい、仰る通りですが、どうしてその事をあなた様が知ってらっしゃるのですか?」 男「こちらから逆に質問させてください、何故今、かぐや姫に会いたいなどと希望されるのでしょう、男性ならまだ分からない事もないのですが」 ババ「吾がかぐや姫に一目逢いたいと心を焦がしては何故いけないのですか?」 男「いけないなどとは私は一言も申し上げておりませんで、不思議だと思うだけなのです」 ババ「逢いたいから逢いたいので、何か特別な理由でも必要だという心算なのですか」 男「いえ、いえ、決してそんな心算はありませんで、私はただ嬉しかった。それで貴女様にその、かぐや姫に会いたいと思う気持ちをお尋ねしたわけで、深い意味はありませんので、どうか気を悪くなさらないで下さい」 ババ「いえいえ、吾の方こそ感情的に聞こえる言い方をしたようで、お詫びしなければいけないようです。ところで貴方様は今、嬉しかった、と仰ったのですが、何故嬉しかったのでしょうかしら?」 男「ああ、その事ですか、申し遅れましたが私はあの物語の出来(いでき)始めの祖(おや)と讃えられる 竹取の翁の物語 の作者だからなのです」 ババ「えっ、それではあなた様があの、かぐや姫の産みの親でいらっしゃいますか」 男「はあ、そうなのです」 ババ「まあ、ブラヴォー。感謝感激、雨あられです。これは夢ではないかしら」 男「(嬉しそうに笑っている)」 ババ「それで、かぐや姫は現在何処で、どうしているのでしょうか。逢う前にその事が気懸りで吾は仕方ないのです」 男「勿論、月の世界で幸せに暮らしていますよ。年と共に益々美貌に磨きさえかかって…」 ババ「あんたさん、嘘も休み休み言いなさい。月には人間は愚か草木の一本すら生えて居ない死の世界だって事くらい、今では小学校の低学年生でも知っている事実ですからね」 男「ああ、やっぱり。貴女までがそんな夢の無い事を信じて居るのですか、やはり世も末の末と言われるわけですね」 ババ「あんたさん、吾が年寄りだと思って馬鹿にして、心の中では笑っているのですね」 男「いえ、いえ、けしてそんなことはありません。私は大昔の人間ですから、ロマンや夢をとても大切に考えています。現代人とはまるで違った別世界を信じている」 ババ「あんたさん、本当にそんな子供だましを主張するのですか。竹の中から子供が生まれて、瞬く間に成人して、この世の男という男を全部袖にして、満月の晩に天人達に迎えられて月の世界に帰って行った、などと」 男「はい、深く信じて居ります。柴田さん、貴女も本当は夢とロマンをこよなく愛し、心の底から信じているのでは、ありませんか、いや、きっとそうに違いない。だから、かぐや姫に会いたいなどと、突拍子もない事を願ったりした」 ババ「(顔を赧くして、もじもじしながら)だって本当の事を喋ったらみんなからバカにされて、軽蔑されてしまうもの」 男「軽蔑されても、バカにされてもいいじゃありませんか」 ババ「そう言われてみれば、あんたさんの言うのが正しいような気もしますよ。でも、作者だとご自分で名乗っているので質問しますが…」 男「はい、何なりとお尋ねください。正直にお答え致しましょう」 ババ「お言葉に甘えて言いますが、かぐや姫は結婚を申し込んできた貴公子達に無理難題を持ちかけて、結局は拒絶することに成功するのですが、もしも、の話ですよ、万が一彼等の内の誰かが難問をクリアした場合には、結婚したのでしょうかね、かぐや姫は」 男「中々鋭い御質問ですね。そこまでは考えにありませんでした。これは一本取られましたね」 ババ「この疑問は女性なら誰だって考えますよ、だって、初めから彼女には地上の男とは結婚する意志が毛頭なかったわけですから」 男「あの、お言葉ですが、それは違いますね。貴公子の誰かが誠実に難問を自力で解決した暁には、勿論作者の想定外の事柄ですが、恐らくかぐや姫はその相手と約束通りに結婚したと、私は確信します」 ババ「(信じられないという面もちで)そうでしょうか?」 男「はい、敢えて断言致しましょうか、彼女は約束した事は絶対に反故にはしません」 ババ「それを聞いてやっと安心しました、吾は。益々、かぐや姫本人に会いたいと思う気持ちが強くなりました」 男「御安い御用です、即刻お呼びしましょう。ただし、何故彼女に会いたいのか、その本当の理由をお教えくださいませんか」 ババ「会いたいから、合いたいのだ、と吾はさっき申し上げましたよ」 男「そうでした、確かにそう承りました。それでは…」と、男は何か呪文のような物を口の中で唱え始めた。それを見たババが、 ババ「ちょっと待ってください、一寸」 男「どうかされましたか?」 ババ「あのォ―、何とも申し難い事ことなのですが、やっぱり吾、止めておきます」 男「と言うことは、かぐや姫を此処に呼ばなくてもよいと」 ババ「はい、左様です。勝手を申して大変申し訳も御座いません」 男「いえいえ、どう致しまして。私は貴女様の手助けが少しでも出来れば嬉しいと、こうしてやって参りましたが、もうこれで役目も済んだようですから、退散致すことにしましょう」と何処へともなく姿を消した。 ――― 夢から現実に戻ったババは、深々とお辞儀をして最敬礼状態の儘でいる。その後ろからジジが立ち止まって暫く様子を窺っていたが、頭を元に戻したババの目元を両手で優しく隠して、 ジジ「だーれだ」 ババ「(さも嬉しそうに)おめェーの来るのがあんまり遅いので、吾、退屈してしまったじゃ」 ジジ「ごめん、ごめん。少し用足しをして来たものだから…」 ババ「吾を、おめえのかぐや姫を、ほっといてか」 ジジ「ほっといた訳じゃないが、遅れて御免」 ババ「(なぜか上機嫌である)まあ、今回は許して上げましょう。それでどんな用事で遅れて来たの」 ジジ「本当の事を言うと、遅れて来たわけではないのだよ。あんたが誰かと話をしていたから俺は遠慮して、声を掛けるのを暫らく遠慮していただけなんだ」 ババ「そうだったの、それは悪い事をしたね、御免よ。あの人はおめえが遠慮する事などない相手だったのに」 ジジ「じゃあ訊くけど、あの人はどういう人で、あんたとはどういう関係なの?」 ババ「わぁー、おめえ、嫉妬してるわけ」と何故か嬉し気である。 ジジ「(むきになって)俺は嫉妬なんかしていないよ」 ババ「そうむきになるのが怪しい、でも、吾は嫉妬されて嬉しいよ。実はね、昔話のかぐや姫に無性に会いたくなったわけよ」 ジジ「そう言えば、さっきもかぐや姫の名前を口にしたね。そのかぐや姫がどうかしたの」 ババ「どうもしない、どうもしないよ。これは内緒の話だけど、おめえだから特別に打明けるけど、吾はもっと綺麗になりたかった。それで、世界中の男からプロポーズされた美人の代表として、かぐや姫から美しさの秘訣を伝授して貰おうと、思ったの」 ジジ「ふうーん、成程ね。でもあんたはもう十分に別嬪さんだと、俺は思うけど」 ババ「それは十分に解っているの。じれったいねぇ、おめえは女心と言う物を何も分かろうとはしないのだから」 ジジ「それは悪かった。それで、かぐや姫には何時会う事になったの」 ババ「バカだね、会わない事にしたの」 ジジ「それはまた、何故?」 ババ「おめえの為だよ。吾がこれ以上美人になって大勢の若いイケメンからプロポーズされたりしたら、悲しむのは一体誰なんだい」 ジジ「吾だよ、無論」 ババ「だから、だから止めにしたのよ。分かった」 ジジ「有難う、優しいね、あんたっていう人は」 二人はどちらからともなく手を取りあって、その場を去って行く。 《 おわり 》 この様な駄作、凡作で本当に 町興しの起爆剤 になるのかと御懸念には及びません。私・草加の爺の提唱する「セリフ劇々団の設立」には一歩、また一歩と堅実な歩みが必要だと想定されます。そして、全く新しいコンセプトに依る劇・ドラマ・芝居の実現ですから、それに応じた新しい「観客」、「新しい役者」の育成が必要不可欠な条件となります。と申しても格別に難しい事が要求されるわけではなく、先入観無しの、全く白紙状態からのスタートを切って下さるだけでよいのあります。 そもそも劇(ドラマ・芝居)の本来の役割はカタルシス・心の浄化作用にあります。これは万人の認める所でありますが、現状ではそうはなっていない。もしくは非常に不十分な状態になってしまっている。原因としては様々な事が考えられますが、それに関してはまた別の機会に譲ることとして、ここでは話を先進めます。 視覚優位の近・現代にあっては劇は、映画でもテレビドラマでも舞台の芝居でも同様に、観て楽しむだけの単なる娯楽やショーと化して、だれもそれを怪しむ風もありません。 いや、むしろ人気のスポーツやアイドルやスターによるライブステージでファンたちは熱狂して満足を得て居る。それで何が悪い、と開き直る人がいても結構ですが、俯瞰して現代を概観する時には決して健全で、理想的な在り方とは言えないでありましょう。 ストレス社会にあって、そのストレスの清掃・浄化を専ら目指す「セリフ劇」が必須である社会状況が既に現出している。設立や維持に莫大な費用を必要としない。劇場などという巨大な施設も要らない。誰でもが、何時でも、気軽に必要に応じて「劇」という場に参加が可能で、心の底から癒やされ心が和む。 言葉という私達の生活にとって大切な手段を用いて、人と人の心を繋ぎ、温かさや優しさを実感する事が出来る。そうした待望のチャンスが私の提唱するセリフ劇で実現する、確実に。 その亊について次回から書いてみる予定です。どうぞ、御期待下さい。
2019年01月10日
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時代:現代 場所:日本の都会、マンションの内部 人物:ババ 若い男 と その仲間 或る高級そうなマンションの内部の部屋にババが一人で留守番をしている。チャイムが鳴ってババがインターホンの受話器を取る。 ババ「はい、そうです。今、玄関のカギを開けますので…」と玄関の方に向かう。直ぐに若い男を後に連れて戻って来るババ。若い男は何故かそわそわとして落ち着きがない。 男「あのォー、僕は荷物を受取りに来ただけですので、お部屋にまでお邪魔する心算では」 ババ「まあ、そう仰らずにどうぞ椅子にお掛けになって。いまお茶を差上げますので」 男は何故か落ち着きなく、不安げである。 男「あのォー、僕は急いでいますので、その、荷物を早く受け取りたいだけなのです」 ババ「はい、どうぞ召し上がれ。イギリスから届いた高級な紅茶ですので、どうぞ、さ、どうぞ」と頻りに相手に勧める。男は仕方なく前に置かれたお茶を急いで飲む。 男「御馳走さまでした。それでは荷物を…」 ババ「(相手の言葉を遮って)まあ、美味しそうに飲んで頂いてお淹れした甲斐がありました。もう一杯、御替わりはいかがでしょう、遠慮などなさらずに」 男「(急にイライラとして)お婆さん、いい加減にしてくださいよ。僕は最初から荷物を受取りに来ただけだからって言っているのです。早く、荷物を出してくださいよ」 ババ「(依然として呑気に構えている)分かりました。こんな年寄りが相手ではつまらないって言うのでしょう」 男「(半ば呆れている)あのね、お婆さん、僕の言ってるのはそんな事とは何の関係もない事なのですよ。早く荷物を受取って帰らないと、僕の役割が果たせないで困った事になっしまう、その恐れがあるのですよ」 ババ「ちょっとあんたさんにお訊ねしますけど、荷物、荷物って、あんたさんは何処かの宅配便の集配人のお方なのですか?」 男「(むっとして)荷物と婉曲に言っているだけで、中身は言わなくとも解っている筈ですよね」 ババ「いいえ、ちっとも分かりませんよ、吾は」 男「えっ、何だって!(本気で慌てている)貴女は此処の家の御主人様ご本人ですよね」 ババ「いいえ、どういたしまして。唯の留守番役です」と澄ましている。若い男は上着の内ポケットからスマホを取り出すと、慌てて誰かと連絡し、何事かを相談していたが、 男「あのね、留守番のお婆さん、この部屋の住人の中村良子さんは何処に行ったの?」 ババ「中村良子は私ですよ」と、あっけらかんとしている。男は一旦しまったスマホを再び取り出して、再び誰かと相談している様子。 男「あのね、中村さん。認知症の程度が相当酷いので、今僕のボス、いや、上司に来てもらう事にしたので、少し冷静になって対応して呉れないと、本当に困りますよ」 ババ「吾は最初から冷静に、あんたさんに応対しておりますよ。それで、あんたさんの上司の方は何時来て下さるのかしら」 男「直ぐに来ますよ、直ぐに」と困り切っている。間もなく、ピンポンとチャイムの鳴る音。素早くインタホンの受話器を手に取るババ。 ババ「はい、はい、お持ち致して居りました。直ぐにドアを開けますから」と玄関に向かった。そして、見るからに怖そうな目付きの悪い中年の男を案内して、再び部屋に戻って来る。 ババ「今、美味しい紅茶を差上げますので、少々お待ちくださいな」といそいそと紅茶の準備を始めた。若い男は中年の男に最初から威圧されて、縮み上がっている。 中年男「中村さん、あんたはどの位状況を理解出来ているのか分からないが、昨日電話で伝えた様に大至急解決しないと、大変な事になるんだよ、お婆さん」 ババ「あら、そうなんですか」 中年男「あら、そうですかあ!早くお金を持って示談に持ち込まないと、あんたの息子の将来は滅茶苦茶になってしまうんだよ」 ババ「私に息子はいませんよ」 中年男「私に息子はいませんよーお、だと」 ババ「はい、だから、いない息子の将来がどうのこうのと言う事も、無いわけよ。お解り」 中年男と若い男は顔を見合わせて、呆れかえっている。 中年男「この惚け婆アが!」 ババ「私は惚けても、認知症でもありませんよ」と平然としている。 中年男「おい、こら、早く金を出せ。出さないと絞め殺すぞ」と凄む中年男。 ババ「おやまあ、悪党が、本性を現したね」 中年男「おい、俺は冗談を言っているのではないぞ」とババに詰め寄った。 ババ「私は根が正直者だから言って上げるけど、此処は億ションと呼ばれる超高級マンションなんだよ。防犯カメラを始めセキュリティ装置は完備しているんだよ。その上に、今回は特別に警察とは直通の回線が引かれていて、私が一言叫べばお巡りさんが大挙して此処に駆け付ける手筈が取られているのさ」 男達「(同時に)げっ、何だって!?」 ババ「(愉快そうに笑って)やっと、事情を呑み込めたようだね。あんたたちは袋の鼠も同然の立場に居るんだよ、どうだい恐れ入ったかい」 男二人は吃驚仰天して、目を白黒させている。ババは落ち着き払って二通の書類を二人の前のテーブルの上に置いた。 ババ「さあ、此処にあんたたちの名前と住所、連絡先を正直に書き出しておくれ。そうしないと直ぐに大声を出してお巡りさんに来て貰うからね」 男達は素直にババの言葉に従う。 ババ「書けたら、最後にもう二度と悪い事は致しません、と書き添えてこの朱肉で拇印を押して頂戴な。そう、それでいいよ」 半日後の同じ場所。ババが知人の中村良子と楽し気に談笑している。 良子「色々とお世話になって、本当に有難う」 ババ「お安い御用です、と言いたいのは山々ですが、正直に言うと吾も内心では肝を冷やしていたのよ。何しろ相手は札付きの悪ですからね」 良子「そうですってね。それで後腐れはないのかしら、後になってペテンにかけられたと知って、復讐にやって来るなんてことにはならないでしょうね」 ババ「その点は大丈夫。その為に偽の書類まで準備して、指紋だけではなく、筆跡まで確かな証拠として残させたのですから。それにしても現代の悪魔の様な悪党だけど、智能程度は幼稚な子供並みのものしか持っていなかったから、こちらの企みにまんまと引っかかって、ここ当分の間は少なくとも同じ悪さはしないと思うわ」 良子「そうだといいのだけれど、それにしても、ババ様、お主も悪よのう」 ババ「目には目を、歯には歯をって言うけれど、石川五右衛門のセリフじゃないけれども、世の中が続く限り金輪際、泥棒と詐欺師は跡を絶たないのでしょうね」 良子「同感だわね、困ったことですね」 ババ「困った、困った。でもか弱い老人や女性はもっと賢くなって、上手に自衛策を講じなくてはいけないわよ」 良子「老人よ、もっと賢くなって、世間の悪共と断固戦いましょう、頭を使って、賢くね」 ババ「頭を使って、少しだけ勇気を奮い起こして、頑張りましょう」 良子「頑張りましょう、お互いに」 ババ「そうです、その心意気が大切なのですよ。私達の知恵と努力で オレオレ詐欺 を社会から一掃しよう」と意気軒昂のババである。 《 おわり 》 これは元日に宿酔状態で書いたもので駄作であり、凡作でありますが、セリフ劇で最初に狙うターゲットの台本草稿としては、明確に目指している所は理解して頂けるのではないでしょうか。 また、全くの素人が手掛ける物としては手頃なものだとも思っています。 つまり、私が先ず目指すのは「松竹新喜劇の阿呆の藤山寛美」( これについての詳しい説明はいずれ適当な機会に致すつもりです )役者の育成なのですが、私の場合にはババ物、明快な笑いをもたらすストレートな喜劇であり、誰でもが素直に笑えるコントからスタートを切るのがよいと、勝手に決めて掛かっています。ババ物と言っても役者や俳優には必ずしも女性を予定しているわけではなく、男性は勿論のこと子供でも、若い人でも誰でもが意欲的にチャレンジして貰いたいと期待して居る。 そもそも、私の提案するセリフ劇での役者・俳優は性別や年齢を超越したオールラウンダ―が理想であり、誰もがどの様な役柄でも演じ熟(こな)すことが必須であり、必要となります。主としてイマジネーションに訴えて、 豊かで自由な想像力を掻き立てるのが、目指すセリフ劇の最大の特徴となるからでありますから。そもそもが人間の役柄を同じ人間が演じるわけでありますから、基本的には誰でもが台本の人物になり切って演じ切る必然性があるのです。そうしてこそ、人間のあらゆる可能性が開花出来るのですね。そして、様々な人間の様々な彩が如実に眼前に具現化され、体験し得ることになる。この事がとても大切なことなのであります、実際。 セリフ劇では、ドラマ本来の主役が舞台上にではなく客席に居ます。そしてその真の主役の心の中で真のドラマが演じられ、カタルシスの効果が発揮され、ストレスが発散・昇華されて本当の意味の浄化作用が完成するのですが、そればかりではありません。 十全に行われる真の劇場では、当然セリフ劇はそれを目指すわけですが、観客の側だけではなく、舞台上で観客席の心の浄化・癒しを促進し、補助する立場の役者達の心の中でも、同様のカタルシス効果が同時進行的に完成しなければならず、現にその理想の実現を目指すのが在るべき劇の在るべき姿であり、形なのであります。 これに就いては追々、詳しく、具体的に御説明する予定で居りますので、ここではごく大掴みな概略、略図的な解説に止めて措きたいと思います。
2019年01月03日
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