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自分の顔を、自分は見ることが出来ない。だから、自己以外の存在から、自然から、多くを学ばなければならない。このことを、肝に銘じて置こう。 人類はこれまでに色々な偉大な功績を挙げてきている。しかし、反面で様々な醜悪な側面を自他に対して示していることも又、紛れもない事実である。驕りも、昂ぶりもそれなりの根拠があったにもせよ、あまり褒められた評価は、少なくとも神の目からは、厳しくも公平な絶対者からは、得られないであろう。 だから、我々は謙虚に他者から学ばなければならない。己を厳しく律して、向上させる努力を一瞬たりとも怠ってはならないのだ。 悠久の大宇宙の時間の流れの中で、太陽系の発展と終焉とはそれこそ瞬きする程の瞬間的な出来事にしか過ぎない。それを我々人類は浅知恵ながら知っている。 とすれば、我々の存在など、全人類の生存を考えた場合でも、取るにもたりない時間の内側での、実に些細なものにしか過ぎない。何を齷齪と 永生 などという詰まらない夢とも言えない夢に拘泥して、悪あがきを続ける愚を、演じる必要があろうか。考えてみるまでもない。 問題は長さなどではなく質、中身の内容なのだ。それも人類全体としてのそれ。一人や二人の傑出した人間が出たからと言って、猿の一種としての人類への評価は動かない。ゆらいだりしない。 人類と共に顕著な戦争という野蛮極まりない行為は、生物全体を俯瞰して眺めて見た場合でも、正気の沙汰とは断じて言えない。それを人類は飽きることもなく、歴史と共に繰り返し行って、夜も日も明けない如くに振舞ってきたし、これからも種の存続する限り、テロリズムと言った形態を取りながら、継続するに相違ない。 人類と殺戮行為。これはどう考えても切っても切れない相関関係の仲で、極めて強固に結び付けられている、らしい。仲間、同胞、友人から派生した同じ種の生物を、無闇矢鱈と殺し、血を流させることに無類の興味と関心とを持ち続ける、不可思議な生命体。確かに、人類はこの一点で、ユニークであり、生命体全体の中でも、独自な、非常に目立った特徴を有する。 私も紛れもなくこの 狂った生物 の末席に名を連ねる一人である。私の生まれた1943年は日本がアメリカ合衆国と激烈な殺し合いを続けていた、まさにその最中であった。 私が人間として、日本人として、極東の島国に生まれたのも、すべてが運命・宿命であって、どうにもならない事柄であった。個人にはどうにもならないことが、決定的に受身でしかいられない事柄が全部、とまでは言わないが、すべてが既定の、あらかじめ定められたレールの上に置かれていて、その上で、私も他の人と同じように 生かされて 在る。今を「仕方なく」生きてある。 そんな私に本当の意味の自由が果たしてあるのだろうか? 私に出来た事と言えば、悦子の理由の分からない激しく、強烈な愛情を受け止めたこと。それも、かろうじて、なのだが。私には、事の真相は何一つ明らかにはされていない。私に出来ている事と言えば、悦子の身に過ぎた愛情を有難かったと、感謝し、無我夢中ながらも精一杯、命を懸けて悦子の愛情に応じたこと。それだけだ。 狂った猿の仲間であっても、わずかではあっても、真実に美しい行為は可能なのだと、砂漠でオアシスに憩うつかの間の慰安の如く、平安を、心の底からの慰めを感じることが出来る。有難いと思う。 所で、我々が他者から学ばねばならないという事に戻ると、自己とはそもそも自分以外の他者の存在があってこそ、明瞭に自己を規定出来るのであって、自己をより良く知る手掛かりとなるのが、他者と呼べる物の存在であろう。 生物であると否とに拘らず、他者は色々な教えを我々に与えてくれている。唯我独尊的なナルシストには、自惚れ鏡がただ一つあればそれで済むが、謙虚に、そしてより正しくありたいと願う者にとって、己とは様々な点で相違する他者の存在が、必要にして不可欠なものとなる。生物もその最小単位を考えれば無機質、無生物なのだから、多種多様な無生物のあり方からも、我々は多くを学ぶ必要があることが分かる。 つまりそれは、多面的に自己という不可思議な存在をより多く、より深く、より正しく理解する道へと我々を導くに相違ない。急がば廻れ。 我々は無垢の幼子の如くに現世に投げ入れられ、ボケ老人の如くに忘我状態で、何処ともなく連れ去られる。それしか、有り様を与えられていない役者なのだ。それぞれが名優の筈なのだが、それすら自覚できずに大海のような薄明の中に、姿を消してしまい、酔生夢死、でくのぼうか痴呆のごとく、生きていながらその生きてある自覚も持てずに、意味もなくさすらう影法師のような 人でなし の群れの、何と多いことであろうか。目覚めよう。そして、慈悲の羊水に保護されて、己を正しく成長させよう。 それが、人間としてこの世に生を享けた幸福者の、まさしく生きる唯一の方法なのだ。 ただ、覚醒しよう。その後のことは 神 がお導き下さる。間違いなく。
2020年01月28日
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艱難汝を珠にする、という言葉があるが、今回はこの事について考えてみることにします。 艱難とは、目的を達成するまでに経験した、大変な苦労を意味する。艱難辛苦という成語があったが、今日では殆ど使われることもなく、辞書の中の索引の一つとして眠ったままの感がある。 しかし、人生では好むと好まざるとに拘らず、艱難は我々の生活に常に付き纏うことは、現代と言えども何ら変わることがない。そう、艱難辛苦は私たちが生きる上での必然的な宿命のようなもの。 例えば、今更のごとくに世間を騒がせている虐め・苛めの問題一つをとりあげても、被害者にとっては「大変な苦労」どころか、それこそ人生を大きく狂わしかねない一大問題として、突如頭上に襲いかかる非常な災厄なのだ。 ところが、加害者には単なるその場の気晴らし程度の意味しか持たない場合がしばしばであろう。それどころか、イジメをしたという積極的な認識すら希薄な場合も多々あるようである。 この被害者と加害者のあまりに大きな意識の断絶が、問題を複雑で、面倒至極なものにして、「我が校には苛めはありません」などという極めて素頓狂な校長の発言として、現わされたりする。 今はイジめ問題にはこれ以上は深入りしないが、人生にはかくのごとき目にはっきりと見えない種々の陥穽がいたるところに身を潜めていて、私達をいやが上にも生き難くしている。 備えあれば憂いなしとは、大地震、津波、台風などの自然災害に対処する心構えだけではない。常に様々な外界の「迫害」にあらかじめ備えて、それにしっかりと対処する賢明さを求められている。 だからこそ、可愛い子にこそ旅をさせる、親としての心構えが必須となるのである。 こういう事があった。とても育ちの良いお嬢さん育ちの母親がいた。最寄駅から自宅までの道のりで徒歩では十分程度の暗い道がある。可愛い娘に危険な思いをさせないために、車で必ず学習塾からの送り迎えをしなければ心配でたまらない、と学習塾教師の私に、当然のこととして語った。 私は面談の際に、何気なくその優しい母親に言ったものだ。「そのくらいの危険は、体験させておいたほうが、お嬢さんの将来の為には有益なのではないでしょうか」と。すると、そのお母さんは「とんでもない、そんなことは考えただけでできません」と、天から問題外で、議論の余地などないと言うように頭を横に振ったものです。勿論、私は親を指導する越権行為を犯すつもりなどありませんので、それ以上は深追いせず、その事はそのままで済ませてしまった。 仮にその優しいお母さんが私の娘であるか、ごく親しい懇意の方であったならば、そして私に本当の意味の親切心があったならば、もっともっとこの問題にこだわって、真剣に議論を戦わせ、場合によっては相手を説得するまで追求するべきであったのです。 世のお母さん方、子供が可愛いのは人情の自然であり、お好きなだけ可愛がったら宜しい。けれど、説教がましい言い草に聞こえるかも知れませんが、世の中には世にも恐ろしい危険が、いたるところにあり、何時、如何なる場合に危険が待ち受けていて、私たちの身に降りかかってくるのか、知れないのですよ。親が可愛い子供を庇うのは極めて限られた、特殊な条件が整った際にだけに限られるので、九十%以上の場合に、本人がその危険に対処するしか方法はない。それが人生という危険に満ち満ちた戦場なのです。親の教育の範囲は、極端なレアーケースで子供に手を貸すことではなく、子供本人が様々なケースに臨機応変に適切に対処出来る能力をつけさせることに主力を注ぐことしか出来ない。そのことを、親も、そして子供にもよくよく認識させるしか、手はないのですね。どうしても。 一から十まで自分の子供の面倒を見て、可愛い我が子を安全地帯に置きたいと願う親心は理解できる。しかし、それは誤りである。それはある種の危険思想に近い。そう断言せざるを得ない。残念ながら。 今日の全体的にひ弱で、生命力の希薄な世相を身近にしていると、大人や親の世代の過剰な過保護意識が、子供達の正常な発達や成長を根本の所で阻害している危険性を感じてならない。 人生は危険に満ち充ちた修羅の戦場、食うか食われるかの闘争場なのだ。表面がいかに平和で、柔和な表情をしていても、である。その本質を見誤らない限り、お上品で、優雅、エレガントな世界観を保持しようと、各人の勝手なのだが。 さて、初めの備えあれば憂いなしに戻ろう。有り体に言えば、備えには限度があり、真の意味の憂いは残るのである。その真実の覚悟を固める為に、謂わば実相を見極める目的で、様々に「備え」を工夫したり、危険に対処する万全を期そうと考えを巡らしてみる。結果、我々に出来ることには限度があり、万全はとても期し難いと、悟る者は悟であろう。悟らない者は、いつまでたっても悟りには至らずに、右往左往するであろう。 つまりは、備えはあっても、憂いは去らない。それどころか、賢い者ほど憂いが逆に増すことに気づくであろう。そして、どうなるか? どうにもならない。根本の所で、人力などという柔な物をもってしてはどうにもならないことを骨の髄まで知るにいたる。世にこれを解脱の境地、本当の悟りと称する。 解脱、悟りの後で何が起こるか? 何も起こらない。真の意味の覚悟が定まる。 そして、苦は楽の種と肝に銘じて知り、人生をエンジョイする道に自ずから進むことになるだけだ。一休禅師の狂逸をそう解釈する者は幸いである…。 旧約聖書を「申命記」まで読み進んだ段階である。
2020年01月22日
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昨日の夜、次男夫婦と食事をしながら話題にした、永劫回帰について私なりの見解を述べることから今回は始めたいと思う。 言葉としてはフィリードリッヒ・ニーチェが使ったものであるが、当然の如く理論的な反駁も現実になされている。が、しかし、である。これに関しても客観的な論証は私にとっては、あまり意味のないことなので、極めて個人的な体験から、希望的に永劫回帰を冀求したいものとの、切ない願望をこの言葉に込めているに過ぎない。 極めて個人的な体験、それは結婚する前の妻・悦子の私を見た際の「あの意味有りげな視線」に込められた、何とも形容しがたい懐かしさの情感にある。次の瞬間に、悦子に先を越された、そう明瞭にその瞬間に何事かを悟ったと言うよりは、後になって何度もその当時のことを振り返って、反省的にそのように感じる。そう表現した方がより正しいのであろうが、今では、私の「先を越された」印象は、妻となった人の愛情の強さ、大きさに起因するものと考えれれるので、気づきの遅かった私が、ああそうか、悦子は永劫の時間の中でも、一瞬たりとも私のことを忘れることなく、ずっと思いを温め続けていたのだと、首肯出来るからだ。悦子の愛情の猛烈さが非凡なのであって、私はその非凡なエネルギーに及ばなかっただけで、甘んじて悦子に、その偉大なる愛情のあり方に脱帽すればよいのだ。 理由とか、原因などといった事柄は、ここでは一切不問に付すべきなのであって、私にとって果報に過ぎる異様な愛の在り方が実在し、今もなおその存在は継続中なのだという、事実を確認すればよい。 今生で愛妻を失った悲しみは、永劫の未来の中で再会が保証されている事に比べれば、何ほどのこともないのであるから。約束された再会を確信できている以上は、我慢できないことでは決してないのだからね、そうでしょう、悦子さん。そして何事も無かったように、綺麗さっぱりと忘れてしまえばよいのだ。その方が、私のキャラクターとしてはむしろふさわしい、と強がりでも言っておこうか。 今更、自分の人間としての未熟さや、ヤクザな性格など、反省したり、恐縮したりする必要も、感じさせない。それ程に、克征を想う悦子の愛の熱量は度外れに巨大であり、法外なのだから。 永劫の時間の経過の末に、再び相まみえる時のことを、私たちは既に「経験」してしまっている。それを今になってみると、涙が出て止まらない程に、有難く、勿体なく、かたじけない事と、ただただ感謝感激するばかりなのだ。 完璧な論理構造を誇る 仏教 的に申せば、一 即 全 なのであるから、無尽蔵な時間の満ち満ちた永劫の中で、繰り返し回帰する体験は、そのままで一回こっきりの現象として把握しても、真実を枉げているとは言われまい。 芝居の方でも言うではないか。全てを知っていて、知らぬ気持ちで芝居をするようにと。何度も稽古を重ねて来て、本番の舞台では初めての如くに演じよ、と。 夢の如くに感じられる人生でも、生きる我々の心得は、一回こっきりの、実に切実で、大切な時間を生かされていると心得て、生きるのが正解なのだ。無限に永劫回帰するなどとは、おくびにも出さずにだ。 そういう意味からも、人生を生きている誰もが、人生を名優として現に生きているのだし、その限りにおいて正しいのだ。 だから、だから、悦子さん、再会を確信しながらも、「ただ に、直接に、たった今会えない血の悲しみを味わっている、惨めで哀れな私の実存は、神によって根本から支持され、保証を、尊い肯定を忝くしているというわけなのです。誠に、誠に、誠に、感謝の念に耐えないのであります。 感謝の念に耐えないのであります。( 蛇足の如くに付記しますが、私一個を祝福するのではなく、生きとし生きるもの全てを強く肯定する、何者かを、その存在と有難い愛・慈悲の心に向かって深甚なる敬意と正しい畏怖を感じる気持ちを、以上の如き表現で表したものであります ) 愚かな私の独断と盲信を笑う人がいるのならば、笑うがよいだろうさ。人様の思惑など今の私にはどうでもよい。そしてこれは、自分だけが幸せならほかの人の事など、どうでもよい、と独善を欲しいままにする得手勝手な態度や思考とも異なっている。 自分が現に生きてみた人生が悲しみや、苦しみもひっくるめて、全肯定出来る有難さをフォーカスしているのであって、それはそのままで、全人類の祝福に直結するもの。そうした性質のベクトルを見据えての発言と自分では心得ている。 諄い様だが、私は、悦子と出会うまでの私は少なくとも極端に厭世的で暗い人生観を抱懐していた、消極的な男であった。それが、それこそ手の裏を返したように、楽天的で、両手を上げての人生積極肯定派へと変身を遂げた、奇跡をいつの間にか成し遂げてしまっていた。知らず知らずの間になのだ。 実に、驚異であり、摩訶不思議のいたりなので、自分自身が一番に驚いている。実際のところが。 人生は、生きて、体験してみないと分からないのであります。自分の中の何も変わっていないのに、感じ方が、受容の態度が百八十度の方向転換をしてしまう。ごく自然な成り行きで。大きな愛情という特効薬がじわじわと浸透した結果なのだと、後にして自覚すること。 要するに、驚異、ミラクル、不可思議の連続なのだ。実際の話がである。ああ、嬉しい、楽しい、ワクワクとおのずからに胸が躍るようだ。これが真の信仰の、神の御力が、私の場合には、悦子という素晴らしい神の使い姫の媒によって開示された不思議なのだった。
2020年01月15日
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年齢を重ねたせいか、最近は神(勿論、私の感じ、又信じてもいる絶対的な存在者を意味するのだが)の私に対する 演出 の手振りの様なものを、感じることが多い。それは、誠に自然で絶妙であり、人間の演出家の遠く及ぶ所ではない。その力量は当然ながら、人間離れして傑出しているのだ。 だから、私は自分自身の意思と選択で、自ら自由感を失うことなく、己の欲するままに自在に振舞って生きている如くに感じている。若い頃から今日に至るまでずっとである。 それでいながら、自分の意志や考え、判断だけではどうしようも無かった「運命・宿命」の如き或る絶対的な力・影響力に支配されていた。そう、後になって過去を振り返った際に、強く感じるのだ。 自分はあの時に、どうしてあの様な行動を取ってしまったのか。自分ながら不思議な気持ちにさせられる。つまりは、神の演出の手腕は絶妙を極めているわけだ。 それと同時に或る人生のターニングポイントで、とんでもない失敗・過失を犯すのであるが、それが後から考えた時には、過失どころか、大切な、欠くべからざる重要な「一歩」であったことを知る。知らされて唖然としてしまう。当時の自分は自分が考えていた進路を大きく外れたと、がっくりしていたわけだが、そのがっかりする失策がなかったならば、今よりは遥かに価値の少ない、袋小路に紛れ込んでいたかも知れないと判明する。実際の話が。 それと、人との出会いという事。これも絶妙のタイミングで、私にとって必要欠くべからざる人と出会うように「仕組まれていた」のだから。まさに、神業の一語に尽きる。そして、有り難いことだとしみじみ感じるのである。 「大失策」やら「大きなミス」がなかったなら、その後の分に過ぎた僥倖や、素晴らしい人との出会いは起こり得なかったのに相違ない。しかし、当時の私の思いとは別に、運命の歯車は着実に、正確に然るべき方向を目指していた事になる。 禍福は糾える縄の如しと言う。実に複雑微妙な摂理が作用して、私達の人生を興味深く、起伏に富んだ魅力あるものにしてくれている。 そして出会いは何も人とのそれだけとは限らない。犬や猫との忘れがたい出会いと交流もある。それからまた、物や植物、風景との出会いもある。 こういう経験があった。若い頃に、桜の花は美しいと人がしばしば言うのを耳にしていた。文章で読んだこともあった。桜の花が美しくないとは言わないけれど、ことさら桜に限るまいと、漠然と思っていた。ところがである。或るとき、とても心が落ち込んでいたことがあった。そして、或る住宅街の一角で極ありふれたソメイヨシノが満開に開花しているのを目にした。すると、突然、何の理由もなく「ああ、この桜の花は美しい」と感じた。絶対的な美との偶然の出会いである。ああ、桜の花が美しいとは、こういうことを言うのかと、突然に了解した。そして、春の空を背景にして咲き誇っていた桜花の、何と美しく清楚であったことか…。決して忘れられない。 序でと言っては何だが、人形との奇しき縁についても、述べておこうか。亡き母親が孫たち、私の長男と次男とのために買ってくれた、高価な五月人形である。もうかれこれ四十年ほど、私の部屋に飾ってある。以前はガラスケースに入っていたのだが、今は剥き出しで、私の寝室の窓際に置かれている。置いてあると言うべきなのだが、他人事のように表現したのは、忘れるともなく失念して、普段は過ごしているからなので、有り体にに言えば、捨てるに捨てられずに、剥き出しで放置しているわけである。 私には人形を慈しむ趣味はない。しかしこの人形は、母親の形見でもあり、正直捨てがたい思いでいる。そういう次第で、長年身近にあった物は、もう単なる物では無くなっている。積極的に廃棄する気になれないので、置いてあるけれども、ある種の愛着の感情は、自ずからに湧いているのだ。 何事も縁があってのこと。消極的にでも、愛は愛であろうから、それなりに大切にしたいと、考えるともなく、考えている次第である。 今回の結論めいた事を書けば、我々は万有引力で引かれあっているいる如くに、愛という絆でしっかりと結びついているのであって、孤独とか、孤絶などという寂しく、絶望的な「思い・情感」は錯覚乃至、思い違いなのだと理解すべき事なのだ。今は、はっきりとそう思うのだ。
2020年01月11日
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この年まで生きて来て、強く感じることがある。 それは相互の生きた交流ということだ。当たり前と言えば、これ程当たり前なこともなく、今更何を言うのだと感じる向きもあろう。が、しかし、である。 人間同士の間での交流でもそうだが、人間と自然や動植物との血の通った、生きた交流が大切だと、しみじみと感じる。一方通行では、結局血の通った本当の交流は生まれないのだ。 神、絶対者との交流でも殊更にそのことを思う。 仏教で、自力とか他力とか言う表現が用いられるが、結局のところ、自力だけでも他力だけでも駄目なのであって、自力の真実と他力の本願(阿弥陀如来の本願)とが正しく合致する機縁が無いと、無意味になってしまう。それも、半分と半分ではいけないので、百パーセントと百パーセントのまさしく絶妙な出会がないと、奇跡の輝きは生まれ出ない。 それと、私が自分をこの世で最高の果報者と規定する時、そこには他者との比較は全く除外されている。と言う事は、誰もが皆、等しくこの果報の可能性を身内に蔵して、この世に生まれ出てくるのだと、いうことを意味する。つまり、誰もが等しく、最高の果報者と実感する「権利と義務」とを有している事を意味しているのだ。 私は自分のブログで、又教育の実践の場で、他者と比較する事の無意味さを強調して来た。つまり、他人は他人、自分は自分だということの深い意味合いを、理解して貰いたかったから。 大馬鹿者に生まれた私は、自分の馬鹿さを無自覚のうちに、磨きに、磨きを掛けてきた。その究極の成れの果てが今の私なのだ。その私が、人生の謂わば総括として、世界で一番の幸福者だと、有難く、勿体なく感謝を、強く感じている。そういう次第なのです、実のところは。 だから、私は仮に「自分は容貌が醜く生まれついたから、不幸せなのだ」と心底思っている人がいたとしたら、私は美容整形で美人に生まれ変わる安易な発想は持たずに、その「ブスさ」に自分の努力によって磨きを掛ける事を、断然お薦めする。どうやって磨きを掛けるのかと訊かれたら、生きることに、目前の自分のなさなければならないことに、ベストを尽くして、一心に努力する。自分を忘れる程に、他人の為を第一に心掛けて、無我夢中で生きてみる。現在只今に全てを懸けて完全燃焼してみる。それだけの事。言うは易しく、行うのは決して生易しくはない行動に粉骨砕身、猪突猛進すること。 気がついた時には、その人はいつの間にか、生まれ変わって、ひと皮剥けている事に気づくに相違ない。ブスが美人に変化するのではないが、同じブス振りが相違する。と言うか、同じブスでもどこか味のあるプラス・アルファの何かになるのだ。それを、繰り返し何度も継続しているうちに、最後にはもう一口にブスなどとは形容出来ない、別の表現が必要なジャンルの魅力ある人へと変身している事実に、周囲が気付かせてくれる。その周囲の反応によって、醜いアヒルの子は自分が「白鳥の子だった」事実に驚きながら気付かされる。そういう次第なのだから。 自分はオンリーワンなのだ、最初から。今は最悪と自らを規定した極端な例を上げて、説明したのだが、大多数が自分を「普通」と見做しているのだから、ただの普通に満足せずに、プラス・アルファの付く普通を目指せばよい。それはもう普通などとは表現出来ない、或る特別な存在に変化しているに相違なく、ユニークな故に限りなく特別に近い、独自なパーソナリティを持った、魅力ある人に変身・メタモルフォーゼを遂げた別の何者かに、成長を遂げたことを、正しく意味している。 誰もが、自分の努力次第で驚異的な成長が期待できる、大きな可能性を身内に秘めている。生まれながらそう仕組まれている。生きていることの不思議を実感せずに、何としようか。宝の持ち腐れに終わったら、宇宙の悲劇ではないだろうか。そう、あなたは、君は神秘に満ち満ちた世界に、今現在、有難くも生かされてあるのだ。それを、強く信じよう。それを真の信仰心と呼ぶのであるからね。
2020年01月05日
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最近、特に感じることがある。 ドラマや小説の世界を通じて感じる、生きている人間の限りない 美しさ と言う点だ。 今も昔も、悪い人間がいるし、醜悪な罪を厚顔無恥に犯して恥じない輩がいる。しかし、昔の人間はしみじみ美しかったと思う。感傷的な懐古趣味にしか過ぎないと、或いは人は言うであろう。感傷でも、懐古趣味でも構わない。 人間は生まれながらにして、誰もが美しく輝いている。そう、心底から信じられる事は良いことだ。誰が何と言おうとも、良いことだ。美しい人間の存在が無条件に信じられ、確信できるとき、老人である私は無性に涙が流れて仕方がなくなってしまう。滂沱の涙である。血の涙である。貧しくとも、心が限りなく満たされている豊かさの極致なのだ。涙を流しなが、私はこの上もなく幸せなことを、実感している。 現代に対する最大の不満は、人間の素晴らしさがもはや信じられなくなってしまったことだろう。 子供たちに教えなくてはならないことは、人を見たら泥棒と思え。また、人殺しだと思え。殺人鬼が羊の仮面をかぶっているのだから、夢々、油断したり、隙を見せてはいけない。毎日のメディアによる報道がそのことを証明するかの如くに、書き立て、喧伝しているかのような有様。 その地獄図さながらの娑婆世界にあって、私は何と恵まれた人生を、送ることが出来たのであろうか。まさに奇跡と呼ばずに、何としようか。以下に、以前に 「 魂の叫び声 」と題して発表済みの記事を再掲載します。 魂 詞 の 第一号 「 野 の 花 」 名もない草花たち、雑草などと十把ひとからげにされて、多くの人々からは無視され、時に乱暴に、無神経に、踏みつけにされ、時には鎌で刈り払われたりする、いじらしい、愛らしい、野原に咲く小さな草達と、その可憐な花々……。 或ものは春に先駆けて、黄色に、いかにも可憐に、その蕾を楚々として開き、そして或るものは、仲秋の名月の美しい光に照らし出されて、得も言われぬ色彩の、紫色の衣を、含羞のポーズで示す。 嘗て、イエス・キリストはいみじくも言われたと聞く、「 かの、栄華を極めたソロモン王でさえ、野に咲く白百合ほどの豪奢な衣装を、身に纏ったことはなかった 」と。 実に、実に、万物の霊長などと、自らを誇示し、驕り高ぶる人類は、その余りの心の高慢さ故に、謙虚で、素直な心根をすっかり失ってしまったがために、それまでは人の目に触れずに、隠されていた醜悪至極な一面を、自身の手で以て拡大し、思わず知らず顔を背けたくなるほどに、膨張・肥満させてしまった。自分たちをみずから苦境・窮地に追い込んでしまっている。残念至極にも……。 無視され、蔑視され続けている、野の花、里の花たちは、ひたすらに沈黙を守りながらも、私達愚かな人間に、その厭わしい事実を、教え、諭そうとしている、かのように見える、感じられる、あたかも ―― その小さな、小さな、聞こえるか聞こえないか分からない程に微かな、そして秘めやかな声に、心して耳を傾けようではないか、どうだろう…。 第二号 「 善知鳥(うとう) の 空 」 その名にあるように、善き知識を人々に知らせ、告げる鳥・ウトウよ 空高く 飛べ。空高く飛翔して、ウトウよ、ウトウよ、 遥かなる紺碧の蒼穹の只中に、姿を消せ。 若者よ、そして老人よ、力強く生きてみずからの輝く明日を、希望に満ち満ちた未来を、その手に掴みとろう。そしてまた、じょっぱり娘や、健気なオガサマ、アネサマだち、優しい心を全開にして、ワラサドを大切に育てよう。ホカノフトを向かい入れよう、ワ共の町さ。 身体は小さくても、敏捷で、賢く、めんこい、ウトウよ、ウトウよ 海を渡れ 北から南へ そしてまた 時が来たら 季節と共に南からふるさとの北の国に、帰れ、山を越え、青々と茂る緑深き連山・八甲田の山々を 目指して、飛べ、 飛翔しろ! 懐かしい 山背 の声を聴け、小蕪にエールを送り、陸奥湾でホタテやヒラメを育む風たちの、山背の元気いっぱいな声に、耳を澄まし、耳を傾けろ!
2020年01月02日
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