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一月某日 実は、ここで 佐伯一麦 と同時に受賞したと紹介されている評論 「国境 完全版」(河出書房新社) は、ぼくが 「黒川創の仕事」 と勝手に題をつけてシリーズで案内しようとしている作品群の中で、今のところトリをとる予定の著書です。今回は 「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社) という、おそらく「国境」という仕事から生まれた一冊を 「案内」 しようと書きあぐねていたのですが、そこに 佐伯 のこの記事がやってきたというわけです。
評論家で小説家でもある 黒川創 さん が、奥さんで編集者の 滝口夕美 さん、娘さんの たみちゃん (二歳)妹さんの画家の 北沢街子さん と、その旦那さんで地球物理学者の 片桐修一郎さん とともに来訪する。さながら 黒川組 といった面々。
二年前の六月に小樽で授賞式があった最後の 伊藤整文学賞 を、私は 「渡良瀬」 で小説部門、 黒川氏 は 「国境 完全版」 で評論部門の受賞者となった縁で、付き合いが生まれた。北沢街子さんは現在仙台に住んでおり、二月にご主人の勤務先が変わり、福岡県に引っ越してしまうので、その前に一度妹がすむ街を訪れたい、ということだったらしい。
小学生の 吉屋信子 は、梅雨空の夕暮れどき、自宅のからたちの垣の前に立っていた。こちらに入ってくる人がいて、蓑を着て菅笠をかぶっていた。当時、それらはすでに古風な農村の雨具だったが、強い印象を受けたのは、この客人の顔だちだった。 足尾銅山 から流れ出した鉱毒が 渡良瀬川 流域を汚染した対策として、鉱毒沈殿のために広大な 遊水地が 作られました。その過程で、 全村水没の悲劇 に抵抗した 谷中村の戦い を支えたのが 田中正造 であり、政府から派遣された郡長として計画を実行したのが、吉屋の父 、吉屋雄一 だったというのです。
老顔に白いひげが下がった。ぎろっとした目のこわいおじさん だった。あわてて逃げ出そうとすると、いきなり、おかっぱの頭をなでられた。節くれだった太い指の手で、なでるというより、つかまれた感触だった。
母親は、蓑笠姿のおじさんを平伏して迎えた。役所から帰っていた父親も、奥から現れた。母はお酒の支度をした。客の好物の青トウガラシをあぶるために、女中は八百屋へ走らされた。こうやって大騒ぎでもてなした客が、 田中正造 という天下の義人とされている人だった。
けれど、円満解決はえられなかった。やがて年を経て、 谷中村 を水底に沈めるために強制的に土地を買収、村民立退きの執行官吏として、父がその村に出張したまま一か月も帰宅できずにいる留守に、幼い弟は疫痢にかかって危篤状態に陥った。
弟が亡骸となってから、父はやっと帰宅した。夏で、白ズボン、脚絆、わらじ履きの土足のまま座敷に駆け込み、 死児を抱き上げて、うろうろと畳の上を歩きまわった 。それも束の間、小さな蒲団にわが子のの遺体を戻すと、待たせていた人力車に乗り込み、再び 谷中村 へと引き返してゆく。
夫を見送ると、母はその場で気を失い、しばらく動かなかった。父が急いで村にまた戻ったのは、強制立ち退きに最後まで応じない農家十三戸を、家屋を破壊しても追い立てる、残酷な仕事が残っていたからだった。やがて、さらなる父の転任で一家がその土地を去ったのち、一九一三年(大正二)、 田中正造翁 の逝去が伝えられた。
仏壇に線香をあげて、母は言った。
「人のために働いた偉い人だったねえ…」
その人の好物。トウガラシが色づく初秋だった。》
夏目漱石という作家は、二〇世紀初頭のたった一〇年間を、創作に心血を注いでいき、そして死んでしまった。彼は時代への参加者でありながら、優れた傍観者でもあった。私には、その人柄が、ほほえましく感じられる。森鴎外という人が、支配体制の枠組みの中に辛抱してとどまりながら、つい、時々は、崖っぷちのぎりぎりまで覗きに行って、また戻ってくる、そうした態度を示すことについても、また。 「鴎外と漱石のあいだで」 は 1894年 、日清戦争後の台湾軍事統治の現場にいる軍医、 森鴎外 の姿から書きはじめられています。 鴎外 は大日本帝国の東アジア進出の当事者としてそこにいるわけです。
1904年 日露戦争 日本のみならず、東アジアの近代史を揺るがす大事件が立て続けに世間を騒がせ続ける中にあって、 洋行帰りの 夏目金之助 は 1907年 朝日新聞社に入社し、小説という新しい表現の 「創作に心血を注ぎ」 始めるのです。
1905年 ポーツマス条約
1907年 足尾鉱毒事件
1909年 伊藤博文暗殺
1910年 大逆事件・韓国併合
1911年 辛亥革命
黒川創さんの手つき ですね、ぼくにはそこがエラク面白かった。(S)
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