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読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 19
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鶴見俊輔「思想をつむぐ人たち」(河出文庫・鶴見俊輔コレクション1) 2024年の始まりに鶴見俊輔「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫・鶴見俊輔コレクション2)の読書案内を始めました。 で、それならコレクションの1からちゃうの?! という気分が湧いてしまって、鶴見俊輔コレクション1「思想をつむぐ人たち」(河出文庫)をいじり始めてしまいました。そういうわけで、とりあえず、目次です。目次Ⅰ 自分の足で立って歩く「イシが伝えてくれたこと」(1996年「頓智」)「イシャウッド―小さな政治に光をあてたひと」(1991年「鶴見俊輔集 第2巻」)「鯨の腹の中のオーウェル」(1995年「オーウェル評論集3」「金子文子ー無籍者として生きる」(1972年「ひとが生まれる 五人の日本人の肖像」)「ラナルドの漂流」(1963年「ディズニーの国」)「ハヴェロック・エリスー生の舞踏」(1949年「思想の科学」)「モラエスー徳島に没したポルトガル人の随筆家」(1969年「モラエス全集4」「亡命について」(1979年「抵抗と持続」)Ⅱ 方法としての伝記「戦後の新たな思想家たち 森崎和江 河合隼雄 澤地久枝 谷川俊太郎 原笙子 天野祐吉 井上ひさし 和田春樹 藤原新也 椎名誠 南伸坊 加藤展洋 津村喬 糸井重里 坂本龍一」(1985年「思想の科学」)「戸坂潤―獄死した哲学者」(1962年「戸坂潤全集1」)「花田清輝の戦後」(1971年「思想の科学」)「加藤芳郎―無意味にめざめよ」(1969年「現代漫画」)「動揺するガンジー」(1970年「思想の科学」)「新島襄―大洋上の思索」(1965年「同志社の思想家たち」)「難破と周航」(1971年「図書」)「伝記について」(1976年「朝日新聞」)「白夜のラップランド―スウェーデン」(1983年「TBS調査情報」)Ⅲ 家のなかの夢「伸六と父」(1970年「家」)「義円の母」(1970年「柏木義円全集1」)「親子相撲」(1989年「京都新聞」)「二木靖武『戦塵』を読んで」(1982年「文藝春秋」)「さまざまな対―例解結婚学入門」(1988年「思想の科学」)「家の内と外ーミヤコ蝶々と南都雄二」(1978年「月刊百科」)Ⅳ 名残のおもかげ「ヤングさんのこと」(1977年「共同研究・占領」)「大臣の民主主義と由比忠之進」(1967年「朝日ジャーナル」)「山鹿泰治のこと」(1977年「思想の科学」)「武谷三男ー完全無欠の国体観にひとり対する」(2000年「潮」)「秋山清ー自分の経験をくりかえし吟味する」(2000年「潮」)「加太こうじー黄金バットの生きている江戸」(2001年「潮」)「葦津珍彦―日本民族を深く愛した人」(2001年「潮」)「柴田道子―記憶に焼きつけられた大人の裏切り」(2001年「潮」)「本多秋五―自分の死後の世界から自分を見る」(2001年「潮」)「ゲーリー・スナイダー ―人間の原型に帰ろうとした詩人」(2002年「潮」)「能登恵美子さん」(2012年「射こまれた矢」)「四十年たって耳にとどく」(1978年「図書」)解題 黒川創ひとりの読者として 坪内祐三 というわけで、とりあえず目次です。その昔、「構造と力」(勁草書房)の浅田彰さんが「目次を読めば内容は、ほぼ、わかる」とか何とか、どこかでおっしゃっていたことがありましたが、 いかがでしょうか(笑)。 個々の内容の「案内」はおって追加したいと思います。
2024.01.14
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鶴見俊輔「身ぶり手ぶりから始めよう(その2)」(「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫・鶴見俊輔コレクション2) 「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫・鶴見俊輔コレクション2)という本の案内をしようと、2024年のお正月に思い立って、とりあえず、その1で目次とかを紹介したのですが、で、どうしようです。 芸がないのですが、ボクなりに読みながら、これは、今、読んで身に染みるなあ! という文章を引用・紹介しようという段取りに、とりあえず、落ち着きました。文章が長くて、とても手に負えないものは、部分的になりますが、ああ、そうだよな、と感じた一節の引用です。 で、今回は2011年の3月31日に「朝日新聞」に掲載された記事「身ぶり手ぶりから始めよう」です。 2011年の3月に何があったか。10年以上も昔の話ですから、さあ、なんだったっけ、という反応もあるかもしれませんが、2024年の1月1日、震度7を超える地震が、北陸、能登地方を襲ったことは、さすがに、まだお忘れではないでしょう。身ぶり手ぶりから始めよう あれとって。それではない、あれ。というような家の中のやりとりが、地震以来、力を取り戻した。身ぶりはさらに重要だ。被災地ではそれらが主なお互いのやりとりになる。この歴史的意味は大きい。なぜならそれは一五〇年以前の表現の姿であるからだ。身ぶり手ぶりで伝わる遺産の上に私たち未来をさがす他はない。※ かつて政府は内乱をふせぐという目的を掲げて、軍国主義に押し切られ、大東亜戦争敗北まできた。当初の目的は実現したが、この統一は、支払った費用に見合う効果だったか? 欧米本位の学問をキリスト教抜きで受け継いだ。岩倉使節団以来の日本の大学内の思想では、フランスとイギリスのやりかたが正統だと考えがちだが、フランスで王の首を切り、イギリスでもおなじことをし、両国ともにその反動の揺り戻しで長いあいだ苦しみ、それぞれに民主主義の習慣を定着させた。※ 日本では、西郷隆盛の内乱の後、明治天皇は西郷に対する少年のころからの自分の敬意を捨てることなく、観菊の宴で、西郷をそしらずに歌を詠めと、注文をつけた。少年のころの記憶を捨てることのない明治天皇の態度は、明治末までは貫かれた。明治末に至って、つくりあげた落とし穴だった大逆事件が正されることなく新しい弾圧の時代をつくり、昭和に入って、軍国主義に押し切られて敗北に至った。 そうした成り行きを分析しないまま、米国従属の六十五年を越える統一は続いていて、地震・原子炉損傷の災害に見舞われた。※長い戦後、自民党政権に負ぶさってきたことに触れずに、菅、仙谷の揚げ足取りに集中した評論家と新聞記者による日本の近過去忘却。これと対置して私があげたいのは、ハナ肇を指導者とするクレージー・キャッツだ。休止した谷啓をふくめて、米国ゆずりのジャズの受け答えに、日本語もともとの擬音語を盛りこんだ。 特に植木等の「スーダラ節」は筋が通っている。アメリカ黒人のジャズの調子ではなく、日本の伝統の復活である。「あれ・それ」の日常語。身ぶりの取り入れ。その底にある法然、親鸞、一遍。 はじめに軍国主義に押し切られた大東亜戦争あった。その終わりに米国が軍事上の必要なく日本に落とした原爆二つ。これは、国家間の戦争が人類の終末を導く、もはやあまり長くない人間の未来を照らすものである。このことから出発しようと考える日本人はいたか。そのことに気がつく米国人はいたか。その二つの記憶が今回の惨害のすぐ前に置かれる。 軍事上の必要もなく二つの原爆を落とされた日本人の「敗北力」が、六十五年の空白を置いて問われている。※ 言語にさえならない身ぶりを通してお互いのあいだにあらわれる世界。それはかつて米国が滅ぼしたハワイ王朝の文化。太平洋に点在する島々が数千年来、国家をつくらないでお互いの必要を弁じる交易の世界である。文字文化・技術文化はこの伝統を、脱ぎ捨てるだけの文化として見ることを選ぶのか。もともと地震と津波にさらされている条件から離れることのない日本に原子炉は必要か。退行を許さない文明とは、果たしてなにか。(P60~P63)朝日新聞2011年3月31日夕刊 先日、2024年の1月4日のことです。神戸の地震の後で元町の高架下で古本屋を始めて、おそらく、高架下の再開発計画のせいでしょう、今は、元町商店街あたりで店を出していらっしゃる古本屋さんのご主人と、文庫本を買い求めるついでにおしゃべりしました。「初めて、店を出したのが震災の後だったので、新聞社の方がいろいろ取材してくださったのですが、あの人たちは、ご自分の、まあ、なんというか、あつらえてきた物語のストーリーに沿って、記事をお書きになるということがよくわかりましたね。私が店を始めたのは、バブルの破綻の影響で会社が倒産して、何かできることをという結果だったのですが、みんな、震災の結果のようにお書きになって、困りましたね。 もちろん、私も震災を体験したんですが、それとこれとは違いますよと今でも言いたいですね。 今回も、この寒空の下で避難所暮らしをしておられること思うと、たとえ1円でも、何か手助けをと思うのですが、ネットや新聞の記事というのは、今一、信用できませんね。」 同年輩のご主人の、とつとつとした語りに引き込まれて、お話を伺いながら、そういえば、あのあたりには、ボクらよりも年上の方たちが大勢暮らしていらっしゃるだろうし、生き埋めになったり倒壊したりの救助作業はもちろんだけれど、無事に家が残った方たちだって、家の中の後片付けの人手だって、ままならないにちがいなし、大きな話をすれば、あのあたりには片手を越える原子力発電所があるはずだし・・・・「それはどうなっているのか?」 何にも伝わってこないなあと思いながら、十何年か前のこの文章を読みました。テレビ画面やSNSの画像の中に映る、人々の「身ぶり」に目を凝らして見守りたいという心境になりました。笑えませんね。
2024.01.09
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鶴見俊輔「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫・鶴見俊輔コレクション2)その1 2024年のお正月です。「読書案内」とかいって、ブログとかに投稿し始めて8年くらいたちました。案内したい本は山のようにあるのですが、いったい自分が、ダレに向かって、どんな気持ちを伝えたくて、そういうことをやっているのか。まあ、自己満足でいいじゃないか。オレはこんな本を読んだぞ、エライだろ!オレは生きているぞ! でいいじゃないか。そうは思うのですが、こうやって新しい年とかを迎えたりすると、やっぱり、なにやってんだよ、あんた?! という気持ちが湧いてきたりするのですね。 結局、何をやっているんだかわかりませんが、今年も続けようと思います。 で、今回の案内は昨秋からの、まあ、個人的懸案事項、鶴見俊輔「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫・鶴見俊輔コレクション2)です。 若い人のために、少し紹介すると、鶴見俊輔というのは2015年に93歳でなくなった哲学者です。まあ、ここから、もう、ご存知ではないかもしれませんが、「思想の科学」を主宰し、「べ平連」を牽引した(まあ、こういうふうにいうと、彼は怒らはるかもしれませんが)行動の人ですが、その思想の在り方は2000年くらいに出た「鶴見俊輔集」(全12巻・補巻5巻・筑摩書房)、90年代の半ばにまとめられた「鶴見俊輔座談」(全10巻・晶文社 )、2007年の「鶴見俊輔書評集成」(全3巻・みすず書房)という、三つの集成によって、おおよそ知ることができます。 もっとも、これだけの著作、対談の山ですから、よほどのもの好きでなければ、ちょっと覗いてみようかというわけにはいきません。しかし、日本の近代、あるいは戦後思想の核心を考えた人だという意味で、読まずに忘れてしまうのは、あまりにも惜しいという人物でもあります。 まあ、出版社の人だってそう考えているようで、「鶴見俊輔伝」(新潮社)を描いた黒川創が編集した「鶴見俊輔コレクション全4巻」(河出文庫)と、気鋭の編集者、松田哲夫が編集した「鶴見俊輔全漫画論・全2巻」(ちくま学芸文庫)という文庫による、ダイジェスト、集成があって、まあ、こっちは、ちょっと手に取ってみようか?! が可能かもしれません。 というわけで、今回は「鶴見俊輔コレクション全4巻」(河出文庫)の中からコレクション2「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫)の案内です。 ここまで、うだうだと書いて長くなったので、今回は、とりあえず目次の案内です。目次Ⅰ わたしのなかの根拠 (11~152)「殺されたくない」を根拠に(2003年「朝日新聞」)「遠い記憶としてではなく」(1981年「安保拒否百人委員会」)「方法としてのアナキズム」(1970年「展望」)「日本好戦詩集について」(1992年「思想の科学」)「君が代強制に反対するいくつかの立場」(1988年「また、いけん君が代」)「身ぶり手ぶりから始めよう」(2011年「朝日新聞」)「五十年、九十年、五千年」(1997年「むすびの家物語」)Ⅱ 日付を帯びた行動 (153~228) 「いくつもの太鼓のあいだにもっと見事な調和を」(1960年「世界」)「すわりこみまで―反戦の非暴力直接行動」(1966年「朝日ジャーナル」)「おくれた署名」(1967年「平和を呼ぶ声」)「二十四年目の八月十五日」(1968年「毎日新聞」)「坂西志保」(1977年「坂西志保さん」)「小林トミ」(2003年「声なき声のたより」)「高畠通敏」(2004年「朝日新聞」)「飯沼二郎」(2005年「琉球新報」)「小田実」(2007年「朝日新聞」)Ⅲ 脱走兵たちの横顔 (229~312)「脱走兵の肖像」(1969年「脱走兵の思想」)「ポールののこしたもの」(1971年「脱走兵ポールのこと」)「アメリカの軍事法廷に立って」(1970年「朝日ジャーナル」)「ちちははが頼りないとき」(1971年「朝日ジャーナル」)「岩国」(1971年「北米体験再考」)「憲法の約束と弱い個人の運動」(1994年「帰ってきた脱走兵」)「私を支えた夢」(2007年「評伝 高野長英」)「多田道太郎」(2007年「毎日新聞」)Ⅳ 隣人としてのコリアン (313~399)「詩人と民衆」(1972年「展望」)「朝鮮人の登場する小説」(1967年「文学理論の研究」)「金石範『鴉の死』」(1985年「講談社文庫『鴉の死』解説) 「金時鐘『猪飼野詩集』」(1979年「文学」)「金鶴泳『凍える口』」(2006年「図書」)「雑誌『朝鮮人』の終わりに」(1992年「思想の科学」)「金芝河」(2002年「潮」)Ⅴ 先を行くひとと歩む (400~468)「コンラッド再考」(1971年「展望」)「田中正造―農民の初心をつらぬいた抵抗」(1972年「人が生まれる」)「明石順三と灯台社」(1970年「朝日新聞」)解題 黒川創 (477~485)ひとりの読者として 川上弘美 (487~492) ネット上の書名検索ではわからない、初出一覧を書き込んでみました。内容についての案内は、おいおいということで、今後に期待(?)してくださいね。ということで、本日はこれで、バイバイ(笑)。
2024.01.07
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鶴見俊輔「鶴見俊輔、詩を語る・(聞き手谷川俊太郎・正津勉)」(作品社) まさか、この人の新刊本が出るとは思いませんでした。哲学者鶴見俊輔の対談「鶴見俊輔、詩を語る」が2022年の8月15日作品社から出ていました。 鶴見俊輔が2015年、93歳で亡くなって7年経ちました。彼は1922年、大正11年生まれだそうですから、今年が生誕100年なのだそうです。 2003年、「midnight pres」という詩の雑誌で行われた対談原稿の書籍化だそうです。詩人の谷川俊太郎と、彼も詩人ですが、鶴見俊輔の同志社大学での教え子、「へんな生徒」だった正津勉と、時々登場する編集者の三人が聞き手で、雑誌掲載時は「歌学の力」という題だったそうですが、本書では「詩を語る」と改題されています。 鶴見俊輔には、たとえば「詩と自由」(思潮社・詩の森文庫)などの新書版の詩論がすでにありますが、本書は三人の語り合いの面白さが、実に新鮮で一気に読めました。二つの著作集、書評集、対談集、マンガ論、まあ膨大な書籍が残されている鶴見俊輔ですが、彼の足跡をたどってきたような人にとっても、読んで損はない「新著」だと思いました。 鶴見俊輔は、一応哲学者というわけですから、彼がどんな詩を書いていたのかというと、こんな詩です。KAKI NO KIKaki no Ki waKaki no ki de aruKoto ni yotteBasswrarete iru no niNaze sono kaki no ki niKizu o tsuke yo toSuru no daroKaki no ki no kawa niTsume ato ga nokore baUtukushiku naru to omotte iru no kaBasserareruKoto ni yotteYoku naru to demo omotte iru no ka(「鶴見俊輔全詩集」編集グループSURE2014年所収) 本書の談話の中では、正津勉が鶴見俊輔の詩の中では「KAKI NO KI」という詩が好きだということをいっていて、引用されています。 で、巻末というか、本書の後半の「鶴見さんの詩心をより深く知るためのアンソロジー」という章の中にこんな文章があります。わたしは最後の鶴見俊輔ゼミの生徒でした ほとんど教室には出なくて夜昼なく遊びほうける まったくド阿保なバカ学生であって いまさらながら深く悔やまれるばかり どうにもなんとも教壇で説かれることに ほんとうにさっぱり理解が届かいないできた というようなできの悪い部分にかわらなくも こののちもずっと先生の教えのもとにありますShozu Ben waShozu Ben de aruKoto ni yotteBasserarete iru no ni(正津勉「京都詩人傳 1960年代詩漂流記」アーツアンドクラフツ二〇一九) 正津勉は詩人ですが、さすがですね。ここで戯れのように記された彼の4行が、鶴見の詩の読み方の一つを指し示してくれていて「そうですよね」とうなづきたくなります。あれこれ言いませんが、70歳を前にして、ようやく鶴見俊輔がどんな場所で、どんなふうに立っていたのか、少し気づけるようになったのかもしれません。 「鶴見俊輔、詩を語る」の方の面白さは、どこかで探してもらって、お読みいただくほかはないですね。
2022.09.13
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鶴見俊輔・佐々木マキ「わたしが外人だったころ」(福音館) 本棚をのぞいていて見つけました。福音館書店が今も出しつづけている「たくさんのふしぎ」という月刊の絵本がありますが、その傑作集の1冊、「わたしが外人だったころ」です。2015年に出版されているようですが、この棚にいつからあったのか、トンと記憶がありません。 「月刊たくさんのふしぎ」の方は、ゆかいな仲間がまだ小さかったころ定期で購読していました。数年分のバックナンバーが今も並んでいます。 で、「わたしが外人だったころ」ですが、ご覧のように、あの、佐々木マキの絵の上に、哲学者の鶴見俊輔の文章がのっかっています。小学校の高学年向きの絵本ということらしいです。 1938年、16歳の秋に渡米し、17歳でハーバード大学に入学し、19歳の年に「敵性外国人」として移民局の留置場に留置され、留置場の中で卒業論文を書いたこと。日米交換船に乗って帰国したいきさつ。帰国して海軍に志願し、ジャワ島に通訳として派遣され、病気になって帰国したこと。病床で敗戦を迎えたことなど、1922年生まれ、80歳を超えた哲学者が時代を追って思い出しながら書いています。こんな感じです。 1945年8月15日がきました。私は病気でひとりねていて、ラジオの放送で日本の敗戦を知りました。 どうして自分が生きのこったのか、その理由はわかりません。わたしが何かしたために、死ぬことをまぬかれたというわけではないのです。なぜ自分がここにいるのかよくわからないということです。そのたよりない気分は、敗戦のあともつづいており、今もわたしの中にあります。今ではそれが、あたしのくらしをささえている力になっています。 16歳から19歳の終わりまで英語を使ってくらしたので、敗戦までわたしは心の中では英語でかんがえてきました。日本にもどると、「鬼畜米英」(アメリカ人とイギリス人とは人間ではなくて鬼かけものだ)というかけ声がとびかっていて、それはわたしのことだと、いつもおびえていました。負ける時には日本にいたいと思って帰ってきた結果がこういうことでした。 不良怠学で、日本の小学校高等科を退学になり、英語もできない16歳が「外人」としてアメリカで暮らし、日米開戦のために帰国した日本では、敵国から帰ってきた「外人」として扱われて暮らした。それが子供たちに、哲学者、鶴見俊輔が語った、70年以上も前の思い出話で、絵を描いているのが、不思議な絵柄の佐々木マキです。 小学生に限らず、若い人たちが、こういう話をどう読まれるのか、想像するのも難しい世の中ですが、誰かが手に取ってくれるとうれしい絵本です。
2021.05.29
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水木しげる・鶴見俊輔対談「ユートピアはどこに」 (「学ぶとは何だろうか」晶文社) 「この世界の片隅で」というマンガを読んでいると、主人公の「すずさん」に「誰でも何か足らんぐらいで、この世界に居場所はそうそう無うなりゃあせんよ すずさん」 と「白木リンさん」が言うシーンがあって、その後、絵を描くことが好きな「すずさん」が爆弾で右手を失います。 「ペリリュー」という武田一義さんのマンガでは、マンガを描くことが大好きな主人公「田丸1等兵」が南の島で敗戦を迎え、数年後にようやく帰国するという物語が描かれています。 二つのマンガは、それぞれ戦後生まれのマンガ家の作品ですが、読みながら思い出しました。絵を描くことが好きな少年が、徴兵された戦地で左腕を失いながら、のちに「ゲゲゲの鬼太郎」で人気漫画家になった水木しげるです。「のちに」などと簡単に書きましたが、水木しげるが人気漫画家になったのは1960年代の終わりごろです。「週刊少年マガジン」に「墓場の鬼太郎」で掲載していたマンガの題名を「ゲゲゲの鬼太郎」と変えた頃からのことで、アニメ・マンガとしてテレビにも登場しました。 こう書いているぼくは、当時、中学生でしたが、アニメ化された「鬼太郎」をはじめから見ていて、主題歌のさわりなら今でも歌える世代なのですが、テレビの人気者になるのは、作者水木しげるが復員してから20年以上の時が経過しています。 まあ、その水木しげるは2015年、93歳で亡くなっているのですが、その年に哲学者の鶴見俊輔も亡くなっています。二人は1922年生まれで亡くなった年もおなじですが、日本での最終学歴が高等小学校卒というのも同じです。 もっとも、鶴見俊輔はアメリカに渡り、ハーバード大学を19歳で卒業していますから、別格なのですが、水木しげるは武蔵野美術大学を中退しています。 その二人が1970年に対談している「ユートピアはどこに」という記事が「学ぶとは何だろうか」(晶文社)に載っています。考えてみると、50年前の会話です。「あの戦争で水木さんが腕をやられたのは何年ですか。」「昭和20年です」「何月ですか。」「三月か四月ごろです」「なんでやられたんですか。」「爆弾です。」「アメリカが落としたのですか。」「ええ、しょっちゅう来るんですよ。意味もなく爆弾落とすことありますね。毎日です よ。だからアメリカの飛行機が来ると、じっとしてるんです。そのとき空が見えんくらいいっぱいきて、こわいなと思ったら二、三発落ちてからだが宙に浮いたんですね。」「ラバウルですね。治るのにだいぶかかたでしょう。」「麻酔かけられるまですごく痛かったですね。七徳ナイフみたいなもので切られた気がします。あくる日気がついたらなかったんです。ウジなんかわきますね。」「治ったときは終戦でしたか。」「そうですね。」「敗戦はどこでですか。」 「そこの野戦病院です。そこに1年か1年半いましたかね。めちゃくちゃ日本に帰りたかったです。それで日本に帰ってきて相模原病院に入ったですね。」「日本に帰ってきたのはいつですか。」「自分は年月を覚えないから。終戦はいつですか。」「昭和20年の8月15日。」「はあ、すると22年くらいじゃないですか。」「すると戦争終って2年間ラバウルにいたわけですか。」「ええ。相模原病院へ入れられて、トウキビの硬いパンですよね。コメの買い出しにも行きました。」「相模原におられたときに美術学校へ行かれたんですか。」「ええ。武蔵野美術大学に行きながら、傷痍軍人の連中と街頭募金とか月島で魚屋やったりしたわけですよ。おもしろ半分にその連中の仲間に入っちゃたんです。」「白衣着て学校へ行ったんですか。」「ええ、はじめのころは、白衣着て行ってましたね。無神経だったんですな、いま考えると。」「いや、それはいいことですよ。いまも白衣着て歩かれたらいいですよ。」「試験受けるときも白衣着ておったんです。彫刻の先生がえらく同情してくれましてね。自分は試験というのは落ちるものと決まっていましたけど、武蔵野だけはとおったです。白衣着ていたせいでしょうね。」(「学ぶとは何だろうか・ユートピアはどこに」) きりがないので、この辺りでやめますが、微妙に会話がちぐはぐなのが面白いですね。ぼくの世代だと、白衣を着て松葉づえをついて募金箱を首からぶら下げた「傷痍軍人」の姿を知っている人がいるかもしれません。子どもだったぼくには、不思議な光景の記憶ですが、水木しげるは、これを商売にして募金の全国行脚をしたこともあるそうです。 妖怪マンガが水木しげるの代名詞になっていますが、戦争を描いたマンガもあります。 マンガ家の目で戦場を見て、足りなくなった体で戦後を生きのびた水木漫画の世界が、最初にあげた、戦後生まれの二人のマンガの世界の生みの親ということも考えられそうです。そういえば武田一義も「タマちゃん」が足りなくなった人でした。 話し相手の鶴見俊輔という人がぼくは20代から好きだったのですが、彼は「座談の名手」として知られています。「鶴見俊輔座談」と銘打たれたシリーズは全部で10巻あります。 鶴見俊輔座談(晶文社刊)・全10巻リストというサイトに一覧表がありますが、没後、「昭和を語る 鶴見俊輔座談」(晶文社)というダイジェストが出版されましたが、この水木しげるとの対談は載っていません。対談の続きに興味をお持ちの方は図書館ででもお探しください。追記2022・08・25 まあ、個人的な事件ですが、新コロちゃん騒動にとうとう巻き込まれてしまってうんうん唸る暑苦しくも悲惨な2022年の8月も、あと1週間です。 当事者として、芳しくない「出来事」を体験するのは、多分「ひょっとして…」と想像する恐怖心のようなもののリアリティというか、実感というかとして残る、その残り方が、体験していない人と違うのでしょうね。 戦争という実体験について、その、残り方を「いかに面白く描くか」と、ひょうひょうとマンガに描いて生きた水木しげるから、体験談を聞く鶴見俊輔の立ち位置がぼくは好きです。 熱にうなされながら思い出したので修繕しました。
2021.01.02
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岡部伊都子・鶴見俊輔「まごころ」(藤原書店) 岡部伊都子さんの「沖縄の骨」を案内したときに出てきたのがこの本です。2003年、もう、15年以上昔にになります。当時、岡部伊都子80歳、鶴見俊輔81歳。二人の老人が出会い、生きてきた道筋を「まともに」、今、思えば最後の火花を散らし合うように語り合った対談です。岡部 久しぶりに、先生、よう来てくれはりました。おおきにありがとう。鶴見 本当に久しぶりなんですけれど、体のことを考えて、遠慮してたんです。ところが奇跡的に回復されてびっくりしました。全くびっくりしました。岡部 自分でもびっくりしてます。鶴見 電話をかけるんだけど、いつも死にそうな声で・・・・(笑)岡部 ごめんなさい。岡部 私はね、先生と初めてお出会いしたのは神戸でね。戦士が講演しはった、あれは何年ぐらい前になります?鶴見 1960年です。だから四十三年前。岡部 ああ、そう。四十三年も・・・。あの時に先生のお話聞きに行って、そして司会の方が、なんかしゃべりって私に渡されたんで、やさしいええお方でしたけど、私、あれがはじめての先生との出会いでした。鶴見 いや私は岡部さんの名前は知っていたんですよ。おむすびの話でしたね。それを(「おむすびの話」)読んでるんです。だから呼ばれた人が岡部さんだったんで、大変びっくりした。岡部 なに言うたか覚えてへん。 こうして始まった会話が、「犀のごとく歩め」という言葉をめぐって、学校の話、病気で寝ていることの話。病弱だった岡部さんが初めて書いた作文の話へ。岡部 先生はお母さまがきびしくて、ご苦労なさったようだけど、私は体が弱いから、ほんで末っ子やから、甘かったんかわかりませんけれども・・・・。 小学校一年の時に学校へ行ったら、はじめて自分の思うこと、昨日あったこと、何でもいいから書きなさい言われたんです。で、それを書いて、二、三百字でしょうね、その頃初めて書く文章だから。それを先生に出して帰りますやろ。そしたら三重丸くれはった。鶴見 いいですね。三重丸なんて私はもらったことないですよ。岡部 三重丸もろうて、それが返ってきたから、お母ちゃんに見せてあげたら喜ぶかなと思って、帰って、母が縫い物をしてますわな、そのそばへ行って、「返してもろた、三重丸くれはったで」っていうたら、母がちょっとそこで読みなさいと言うんです。だからそれをこう持って、ちゃんと自分の文章を全部読んだわけです。そいたら母がな、それを渡したらな、戴くんです。戴いてな「もうこれはな、あんたが二度と書けないものやから、大事にしときまひょな」言うて、それできれいな箱を取り出してきて、そこへ入れてくれた。まあ、私は母が、自分の書いたそんな、生まれてはじめて書いた、幼い幼い綴り方を戴いてくれるなんて、なんやと思います。 だから、ああ、お母ちゃん、こんな喜んでくれはるんやったら、お父さんにいじめられてはるさかい、お母ちゃんを喜ばせたる、何もしてあげられんけど、文章書いて、お母ちゃんを喜ばそうと思うたんんが、はじめてのいま。ずっとそれが続いてます。 随筆家岡部伊都子の始まりの話から、文章の話へと続きます。引用した、岡部さんの「話し方」に惹かれた人は、どうぞお読みください。それで案内を終わるのも一つなのですが、どうしてもここに書き記したい話があります。とりあえずそれをここに紹介します。岡部さんが韓国に行った時の話が続いていて、その続きです。岡部 弱いから強いんだよ。私は弱い。だけどほんまに北の人も南の人もみんな会いたがってはるわな。韓国に行ったときに、私はハングル言われへんからな、私の言うたことはみんな朴先生が通訳してくれはりました。私が下手な話をしたら、あとで私に質問してくれはりますねん、聞いた人が。その時に、天皇をどう思いますかと。鶴見 いまの天皇(平成帝)は、自分の祖先に朝鮮人がいるということを、はっきり言ったんです。ところが日本の新聞はそのことをほんの小さくしか扱わなかった。いろんな連鎖が起こるから。朝鮮の新聞は大きくだした。岡部 そうですか。鶴見 だから今の天皇個人の思想というものは、なかなかのものですよ。岡部 やっぱり祖先を知ったはるねんな。鶴見 歴代の天皇の中ではじめて言ったんです。平安京の場合、桓武天皇の母親は朝鮮から来ています。岡部 そうですよ。京都だもの。この京都ですよ。桓武天皇のお母さんは高野新笠、百済の王族や。鶴見 だから長岡京に失敗して京都に来たのは、ここに朝鮮人の強い強い部落があったから、それに助けられて出てきたわけでしょう。 それからいまの皇后、これもびっくりしたね。彼女はね、竹内てるよの「海のオルゴール」という詩を引いた講演をやったんです。私はもう大変びっくりした。 竹内てるよというのは、昭和二年ごろ、カリエスになったものだから、婚家から追い出されて、子どもを婚家に置かされて、ひとりになって出てきて、東京でカリエスで寝てたんです、貧しい人がどんどん入ってくる家で。そこで彼女は詩を書き始めて、あの時代の一種のマドンナなんです。いろんな人が入ってきて、話をしてるんですよ。 そして彼女の最初の詩集は「叛く」というんです。これはもちろん、皇后は知ってて引用した。よくこれだけ大胆なことができるなと。私は天皇と皇后の両方に感心してるんですよ。 天皇制そのものはけしからんものですよ。今の天皇の父親には戦争責任があると、私は思っています。だが、個人としてみると、現在の天皇、皇后はそうとうの社会思想を持ってますよ。 朝鮮の話、沖縄の話、友達の話、鶴見さんは優等生だった自分の苦痛を振り返り、岡部さんは、病弱だった一生を振り返り、対談の最後の最後に、自らを戦争に「私は戦争に加担した女です」と言い切って対談は終えられています。 振り返れば、岡部伊都子さんは2008年、享年85歳、鶴見俊輔さんは2015年、享年93歳でこの世を去でられました。あっという間に、思い出の人になり、忘れられていくのでしょうか。 しかし、この対談に限りません。あの戦争から60年、「まともな人間でありたい」という痛烈な希求が書き記されているお二人の膨大な書物は、残されています。戦争や、差別や、あらゆる抑圧が充満する社会を生き抜いた人が、これだけハッキリと「本当のこと」を語っている本は、そうあるものではありません。読まない手はないのではないでしょうか。追記2019・10・21 文中の「犀のごとく歩め」は、お釈迦さんの言葉だったと思いますが、要するに、「犀」のように歩むということです。別に開き直っているわけではありません。ネットとかで引けば、いろんな解釈があります。でも、「犀のごとく」は、それだけで、喚起力ありますよね。こういう言葉はやはり、どこかすごいですね。 黒川創の「鶴見俊輔伝」はこちらからどうぞ。 にほんブログ村にほんブログ村【中古】 仏像に想う 上 / 梅原 猛, 岡部 伊都子 / 講談社 [新書]【中古】 仏像に想う 下 / 梅原 猛, 岡部 伊都子 / 講談社 [新書]
2019.10.21
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岡部伊都子「沖縄の骨」(岩波書店) 今から15年ほど昔のことです。三学期の最後の授業だったでしょうか、三年生は受験戦争の最中だったのでしょうね。ぼくはのんびりこんなことを書いていました。別れの挨拶のつもりだったようです。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 風邪をひいて寝ていました。参りました。3年ほど前、修学旅行の付き添いでインフルエンザにかかって以来でしょうか。まあ、あの時のほうがひどかったのですが。それに今回は自宅に居るのだから気がらくだったともいえます。 なんとなく本でも読もうかという感じで、岡部伊都子さんの「沖縄の骨」(岩波書店)というエッセイを読み始めて泣いてしまいました。 この作者の文章のモチーフは戦中体験に対する痛烈な自己批判と言っていいと思います。当時、高等女学校の生徒だった彼女が、婚約者の出征に際して放った、『私やったら喜んで死ぬけど』という、たった一言の言葉に対する責任。それが、彼女の60年にわたる戦後の「生き方」を決定したのです。 最近、岡部さんと鶴見俊輔との対談を記録した「まごころ」(藤原書店)という本が出ましたが、その中の彼女の言葉を紹介します。ここに「沖縄の骨」のモチーフが結晶していると、ぼくは思います。 木村のお母さんが、折(ヘギ)に扇子つけて持って来はった。結局、婚約したから、はじめて婚約したあとで来やった時に、それが最後でしたけど、それまで男の人入れたことのない私の部屋へ、婚約したから入れさせてもらえたわけですけど・・・。 入ってもろて、大阪の西横堀やから、窓からは「そごう」やら「大丸」やら、ちょっと遠いところは、「高島屋」やら、そんなん見えてますねん。 ほんならな、入ったとたん、邦夫さんはちゃんと襟を正して、『僕はこの戦争に反対です』いうて言いやって、私、びっくりしてな。そんな言葉聞いたことおまへんやん、それまで。相手は見習い士官でっせ。 『自分はこの戦争に反対です。こんな戦争で死にたくない。天皇陛下のためなんか死にたくない。君やら国のためなら死ぬけど』と言いました。 こっちはわかれへん。何でそんなこと言いやるのかわかれへん。ぜんぜん。それまでものがあんまり見えなんだ時代でしょう。びっくりしてな。『私やったら喜んで死ぬけど』と言うた。 なんという残酷なことを言うたかなと、いまになって、ずっと、邦夫さん、ごめんやで、ごめんやで、言いつづけてますけどな。あんな戦争まちごうてると言うた、二十二歳の若者が、そのころの大阪の西横堀にいてたということを知ってほしい、みんなに。 戦争や暴力に対する警戒心が風化しています。戦後六十年。1945年、敗戦当時二十歳だった人が2004年、八十歳。時とともし忘れられたり、美化されたり。人間の記憶の特性のひとつといえばそれまでなのですが、こと戦争や国家による暴力について詠嘆で済ませる事は得策でしょうか。 最近小熊英二という四十代前半の学究が「民主と愛国」(新曜社)という1000ページ近い論文を発表しました。戦後日本の思想の動向を丹念に描いて評判になっています。内容は高校生には少し難しいかもしれません。しかし、日本という国の現在の有様に関心を持つのであれば手にとって見て損はないと思いますよ。 ダグラス・ラミスという六十代後半の在日アメリカ人がいるのを御存知でしょうか。津田塾大学で教えていた人なのですが、最近は沖縄に住んで「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(平凡社ライブラリー)とか「なぜアメリカはこんなに戦争をするのか」(晶文社)という本で「有事法制」とか「日米新ガイドライン」について、とてもわかりやすく批判しています。 政治学をカリフォルニア大学で学んだ人らしいのですが、古代ローマやニュルンベルグ裁判を例に、また自らのアメリカ海兵隊体験も交えながらの現代日本社会分析と批判の明晰さは、なかなかお目にかかれないものだと思います。内なる外国人の目のクリアーさに一度触れてみてはどうでしょう。 特に「経済成長~だろうか」はボランティア活動や福祉活動の大切さを感じている人には、なぜ自分がそう考えているのかという疑問を解く鍵を与えてくれるかもしれませんね。私たちはただ経済的糧のためだけに働くわけではないし、食べるために生きるわけでもありません。そこから「生きる」ということを考える鍵の一つと出合える本かもしれません。 さて、岡部伊都子さん、八十一歳。十八歳の少女が『私やったら喜んで死ぬけど』という「人を殺す言葉」をまじめに口にした時代がありました。敗戦を経験し、出征した婚約者の死を知った時、自らの言葉がもっとも大切な他者である恋人を殺す言葉であったことに気づきます。その体験が彼女のその後の60年の人生を決定しました。 「あんな戦争まちごうてる」 この言葉が物狂いのように彼女に化身している文章です。 自分自身が「人を殺す言葉」を発していないか、そう自問する力をぼくたちはどこで育てるのでしょうか。世間に向けてかっこよく振舞っている自分自身を疑う力はどうやれば育てる事が出来るのでしょうか。 戦争や国家という遠くて大きな「問い」に向かうアプローチに歩みだそうとしている諸君に限らず、ぼくのような役立たずな老人にとっても、必要なことは「ひょっとして、ぼくは・・・」という小さな「問い」ではないでしょうか。 ということで、今日はひとまずグッド・ラック!お元気で!(S)2005・1・27 15年前の18歳、今は、30歳を越えて、一人前の社会人として活躍しているのでしょうか、実際、どうしているのでしょう。ここに案内した鶴見さんも岡部さんも、もう、この世の人ではありません。かくいうぼく自身も、これと言ってしなければならないことがあるわけではない徘徊老人です。 その徘徊老人が、「何でも見てやろう」式に覗いた元町映画館の小部屋で見たフィルムに心が騒ぎました。それは影山あさ子さんたちが撮った「ドローンの眼」という。短いドキュメンタリーでした。そこには、ぼくたちの眼には隠されている「沖縄」が映し出されていました。そして、何よりもぼくの心を騒がせたのは、そこには「戦争が露出」していたことです。 そのフィルムを見た帰り道、ザワザワするぼくの心が、繰り返し思い浮かべていたことは、あの頃、生徒さんたちに書いたことを「ひょっとして、ぼくは、忘れようとしている」のではないかということでした。 「あんな戦争まちごうてる」と岡部伊都子が、一生かけて書き遺した言葉は、やはり、忘れてはいけない。誰かに伝えていきたい。今、そう思っています。追記2020・05・19 沖縄の南、小さな島々がこっそりミサイル基地化されつつあるそうです。中国を仮想敵にした戦争の準備を、「現実的」な情勢判断だと口する「戦争屋」がこの国にもいて、金が、税金が動けば儲かる「利権屋」がいるのでしょうね。 コロナ騒動の影響でつぶされたり、瀕死の状態に陥っている小さな事業者を見殺しにしながら「国」を守るというような御託を並べる政治家を見ていると暗澹とします。 とはいうものの、古いやつだと思われながら、岡部さんや鶴見さんを紹介していくほか手立てはなさそうです。追記2022・09・08 この国の近代史における侵略戦争の事実を歴史として認識することや、後世に伝える良識を「自虐史観」と称して批判する、まあ、ぼくから見ればインチキなデマゴギーをこととする言説集団が存在しているのですが、そのお先棒を担いでいた、これまたインチキな政治家の一人が、夏の始めに狙撃され、死亡するという事件で暑い夏が始まりましたが、インチキな政治家たちがインチキな宗教団体と結託していた事実の暴露へと話は広がり始め、暑さはとどまることを知りませんが、岡部伊都子さんや鶴見俊輔さんが生きていらっしゃったら、この様子を何とおっしゃるのでしょうね。 沖縄では、ちょうど今、県知事選挙が行われている最中のようです。なぜか、インチキ宗教団体がはびこっている地域の一つでですが、潮目が変わることを祈るばかりですね。にほんブログ村ボタン押してね!
2019.10.17
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鶴見俊輔 「詩と自由」 (思潮社) 黒川創の「鶴見俊輔伝」をこのブログで案内していますが、じつは鶴見俊輔その人は、文句なしに信用している「哲学者」、「思想家」、いや「人間」というのが一番ぴたりと来る、そういう人です。 その鶴見俊輔について書いて、2004年ですから15年も昔になりますが、高校生に配っていた「読書案内」がありました。書いていることは、ぼくにとっては、いまでも違和感のないことです。イラク派兵が問題になっていた当時ですから、古いといえば古いのですが、逆に、今、現在に対しては案外リアルかもしれないと思います。ほぼ、そのまま再録します。 ※ ※ ※ 現代文の授業に鶴見俊輔の「石の笑い」の話が出てきました。彼は、ぼくが文句なしに信用している哲学者です。 世の中にはいろいろなことをいろいろにいう人は、当然、様々いるわけで、こうやって「読書案内」などと柄にもないことをやっているぼくなどもその一人。たとえ、三百人あまりの高校生相手であっても、もっともらしい講釈をたれていることにちがいはありません。 問題は読者として、あるいは、聞き手としての態度ではないかと、ぼくは考えています。大切なことは疑うことです。疑うためには、それ相応の修練もいるかもしれませんが、直感でも、怪しいものは怪しいともいえるかも、とも思います。 ずっと、そう思ってきましたが、逆に、この人はと鵜呑みにして、そのまま理解したいと思ってしまう人と出会うこともあるかもしれません。 宗教的な出会いや、社会的な出会いや、ほかの人から見ると、ちょっとおかしいとか、危ない、そんなふうに見える出会いかもしれませんが、高校生を過ぎたころに、そういうふうに出会ってしまった場合は、とにかく騙されてしまうのも、一つの出会いといえるかもしれません。 大学生の頃、その人の本と出合って、以来、鵜呑みにしてでも、その人のいうことを受け入れたい、わかりたいというふうに思い続けた人の一人が、ぼくにとって鶴見俊輔という人でした。 その鶴見の『詩と自由』という新刊を読みました。思潮社が「詩の森文庫」というシリーズで出している一冊です。そこで、以前に発表された記事ですが、次のような文章に出会いました。ぼくが鶴見俊輔を信じている理由の一つがここにあります。しようがないので、全文無断転載しようと思います。直接読んでください。 宮柊ニのこと A「人のものをぬすむのは、よくないことだ」 B「おまえも、ぬすんだことがあるじゃないか」 A「・・・・」 Bの発言は、C・L・スティーヴンスンの『倫理と言語』では、「弱め」、という型にあたり、Aの倫理的主張の反証をあげたことににはならない。しかし、Aの主張の気勢をそぐ役割は、果たしている。 気勢をそがれた倫理の主張は、どうなるか。どのように主張をつづけることができるか。これは倫理にとって、また倫理学にとって大切な問題だ。 歌人宮柊ニがなくなって、追悼の記事が、十二月十三日付「朝日新聞」の「天声人語」に出ていた。 一兵士として中国大陸にいた時の歌。 ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声もたてなくくずをれて臥す 二十歳ほどの中国女性が密偵としてひきたてられてきて、「私は中共軍の兵士です」とだけ言って、みずから死をえらんだ。「その短い言葉は詩のような美しさに漲ってゐた」という回想もあるという。 三十一年前から関節リューマチにかかり,脳血栓でたおれた。しかし、歌をえらぶ仕事(宮氏は朝日新聞の投稿短歌欄「朝日歌壇」の選者のひとりだった)をつづけた。一日がかりで五十首えらんだ、それを夫人が書きうつし、その中から十首えらぶ。もとの五十首は大切に保存していたという。晩年の宮氏の歌に次のものがある。 中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思う戦争は悪だ 享年七十四歳だった。 「婦人之友」新年号をみていると、最後の歌のひとつだろう、次の一首があった。 白樺も桜もすべて落葉して時移りつつ目の前に立つ はじめにかかげたスティーヴンスンの問題は、『倫理と言語』でその定式に出会う前から、私にとって問題だった。私だけでなく、戦争にとらえられた多くの人たちの問題だっただろう。 宮柊ニのような運命に私が出会わずに終ったのは偶然である。戦後になって私の達した解答は、自分が血刀さげ、自分の手が血でよごれていようと,その手をはっきりと前にひろげて、「自分は人を殺した。しかし戦争は悪い」と言い得る人になろうということだった。 私は短歌の世界に暗い。敗戦後の四十一年、どれほどの短歌を読んできたのか、こころもとない。たまたま「天声人語」による宮柊ニの作歌歴の要約を読んで、戦争中に自分のかかえていた問題を、この人は抱き、その問題を戦後のこの長きにわたってすてることなく抱きつづけたことを知った。 (「京都新聞」一九八六年十二月二十日) この記事に関連していえば、鶴見俊輔自身はフェミニズムの社会学者上野千鶴子、現代史学の小熊英二との対談集『戦争が遺したもの』(新曜社)の中で戦中に軍属として「従軍慰安婦」強制の現実とかかわりがあったことを告白しています。 ぼくは学生時代に鶴見の著書と出会いました。実は記号論理学の哲学者ですが、マンガから社会思想に至るさまざまな著書があります。それらは、「ぼく自身が考えたこと」を疑う時の指標でした。ぼくにはまだ、「彼の考えていること」を疑う力はありません。何とか理解したいと思うだけです。 歌人宮柊ニ。哲学者鶴見俊輔。歌人は、復員から40年、命耐えるその直前まで、老哲学者は戦争から50年、今もなお、そこで抱え込んでしまった「お前は生きながらえていいのか」という「問題」と苦闘していると思いませんか。 この人が言うこと、言ったことは誰かに伝えよう、ぼくは、今、そう思っています。(S)追記2019/09/18 若い人たちに、自分が思うことを、直接語りかけたり、プリントに刷って配ったり、そういうことが思うままに出来ていたあの頃は楽しかったと、最近よく思います。 ブログとかに書き込みながら、「いったい誰に向かってこんなことを言っているのか」という、疑いというのか、自己憐憫というのか、そういう気分が沸き上がってくるときがあります。それでも、書くことが楽しいと思えるようになりたいと思っています。追記2022・06・21 ゴジラブログとか、面白がって名前を付けて、書き始めて5年が過ぎました。上の追記にあるように「いったい誰に向けて、こんな浅はかな感想や思い付きを書いているのだろう?」という自問が、最近、頻繁に起こって、ワープロを打つ手が止まることがよくあります。経験したことのなかった流行病の蔓延があったり、海の向こうで戦争が始まったり、感じたり思いついたりすることの刺激やきっかけには事欠かない生活なのですが、何せ、毎日に生活の積極的なリアリティが、なんというか、遠ざかっていくような頼りなさにため息をつく毎日です。 たとえ、このブログのような、場所であっても、「書くことの楽しさ」を求めるなら、書き続けるよりほかに方法はありません。実際には、自分が想像しているより、ずっとたくさんの方が読んでくださっていることに謙虚に向き合い、元気を出していこうと思っている今日この頃です(笑)。今後ともご愛顧よろしくお願いします。にほんブログ村ボタン押してね!
2019.09.22
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黒川創「鶴見俊輔伝」(新潮社) 今回の案内は黒川創による「鶴見俊輔伝」(新潮社)という伝記です。この本は五百ページを超える分厚い本なのですが、三百ページを超えたあたりにこんな文章が引用されています。 今でも昨日のことのように思い出しますが、真っ白に雪の降り積もった二月の朝、陣地の後ろの雑木林に四十人の捕虜が長く一列に並ばされました。その前に三メートルほどの距離をおいて私達初年兵が四十名、剣付き銃を身構えて小隊長の『突け』の号令が下るのを待っていたのです。 昨晩私は寝床の中で一晩考えました。どう考えても殺人はかないません。小隊長の命令でもこれだけはできないと思いました。しかし命令に従わなかったらどんなひどい目に会うかは誰でも知っています。自分ばかりでなく同じ班の連中までひどい目にあわすことが日本軍隊の制裁法です。け病を使って殺人の現場にでないことを考えてみました。気の弱い兵隊がちょいちょいやる逃亡という言葉も頭をかすめました。しかし最後に私の達した結論は「殺人現場に出る、しかし殺さない」ということでした。『突け』の号令がとうとう下された。しかし流石に飛び出していく兵隊はありません。小隊長が顔を真っ赤にしてもう一度『突け』と怒鳴りました。五、六人が飛び出してゆきました。捕虜の悲鳴と絶叫と鮮血が一瞬のうちに雪の野原をせいさんな修羅場に変えました。 尻込みしていた連中も血に狂った猛牛のように獲物に向かって突進してゆきました。 私はじっと立っていました。小隊長近づいてきました。「続木!!行かんか」と雪をけちらして怒鳴りました。私はそれでもじっと立っていました。小隊長は真っ赤な顔を一層赤くして「いくじなし」というが早いか私の腰を力任せに蹴り上げました。そして私の手から銃剣をもぎ取ると、銃床で私を突き飛ばしました。 小隊長の号令に従わなかった男は私以外にもう一人だけいました。丹波の篠山から来た大雲義幸という禅坊主の兵隊で、二人はその晩軍靴を口にくわえ、くんくん鼻をならしながらよつばいになって、雪の中を這いまわることを命ぜられました。これは「お前たちは犬にも劣る」ということだそうです。 しかし大雲も私も「犬にも劣るのはお前たちのほうだ」と心の中で思っていましたから、予想外に軽い処罰を喜んだくらいでした。これを機会に二匹の犬は無二の親友になりました。 個人の戦争体験の記録として、今読んでも、実に印象的なこの文章は、京都の駸々堂というパン屋の社内報に、経営者の一族で専務であった続木満那(まな)という男性が「私の二等兵物語」という物語として連載していたらしいのですが、その1961年新年号の記事です。 本書はここまで、鶴見俊輔の出生からの家族関係、少年時代のアメリカ体験、軍属としての従軍、戦後の「思想の科学」という雑誌の発行、1960年の安保闘争との関わり、というふうに、時間を追って丁寧に記述されています。 特に、晩年の鶴見俊輔が、繰り返し語った、少年時代の母との関係や、アメリカ暮らしにおける「一番病」といった、人格形成におけるトラウマのような部分について、実に客観的で公平な視点で書き進めている点で、ぼくのような鶴見フリークの偏った理解をただしていく、冷静な好著として読み進めてきました。 ただ、著者が「何故この伝記を書こうとしたのか」という、執筆のモチベーションに対して、かすかながら疑問は感じていました。ひょっとして、よくいえば冷静だが、悪くすると平板なまま終わるのではないか。そういう感じです。 そこに、この引用でした。この伝記を通読すれば理解していただけると思いますが、この文章が、この伝記のちょうど峠を越したあたりで引用されているのには、結果的に二つの大きな意味があると、ぼくには思えました。 一つは鶴見自身を苦しめてきたアイデンティティ ― 自分とは何者か ― の問題を解くカギになる、生い立ちとは別のポイントを著者黒川創は示しそうとしているのではないかということです。 鶴見俊輔には戦地で体験した「人が人を殺すことを強いる国家」に対して、もしも、あの時、命令が自分に下っていれば、自分は引用文の続木二等兵のような抵抗の勇気を持つことができなかったのではないかという形で現れる自己否定的な疑いが終生あったと思います。 この疑いが、日米安保条約という軍事同盟・再軍備に抵抗する中で「死んでもいい」と考えるような極端な思い込み。例の樺美智子の死に対して、国立大学教員を辞職して抗議するという果敢な行動。少年時代の自己や家族に対してくりかえされる自嘲的発言。ひいては、再三苦しんできたうつ病の引き金を引いてきたという、鶴見俊輔の自意識の実像を、黒川創が、ここで再確認しようとしているという印象を強く持つ引用なのです。 若き日の鶴見が学んだ論理実証主義の哲学によれば、「もしも」の仮想に捉われて悩むのは妄想というべきことにすぎません。しかし、この「どうしようもない」妄想の中にこそ人間の真実が潜んでいると考える中から、「もう一度生き直す」という積極的な契機をつかむことを見出していく哲学者のターニングポイントとしてこの挿話があるというのが、本書に対するぼくなりの実感です。 続木二等兵の回想は、妄想に苦しんでいる哲学者にとって「救いの光」だったのではないでしょうか。その光は、マッカシーの赤狩りに抵抗した、リリアン・ヘルマンについて鶴見俊輔自身が、別の著書の中で、こんなふうに語っています。 リリアン・ヘルマンは、マッカーシー上院議員の攻撃にさらされた結果、米国知識人であると否とを問わず、何人もの人たちと彼女が分かちもっている彼女自身のまともさの感覚に寄りかかるようになりました。彼女は、いま私がここで述べたと同じような直観を持っていたのかもしれません。 生き方のスタイルを通してお互いに伝えられるまともさの感覚は、知識人によって使いこなされるイデオロギーの道具よりも大切な精神上の意味を持っています。 (「ふりかえって」1979年12月6日の講義) 「まともさの感覚(the sense of denncecy)」という、70年代に学生生活を送ったぼくにとって、吉本隆明の「大衆の原像」とともに心に刻み込んだ鶴見俊輔のキーワードが、この時点で実体を獲得し、「ベ平連」以後の彼の行動を支えていくという、この伝記の展開には、瞠目というような似合わない言葉を、思わず使いたくなるものがあります。 ここから、いわば、「後期鶴見俊輔」の始まりが予告されているのではないでしょうか。 さて、この引用の二つ目の重要なポイントは、この挿話の載っている冊子を鶴見俊輔の許にもたらした北沢恒彦という人物の登場です。 北沢恒彦は大学を出て駸々堂に勤めはじめたばかりで結婚し、1961年6月15日、樺美智子の一周忌の当日に、長男、北沢恒が生まれます。 その後、同志社大学で教え始めた鶴見俊輔とともに京都で活動し、やがて「思想の科学」に寄稿する評論活動へ進み、鶴見の晩年の著作を出版することになる「編集グループSURE」を始めた人らしいのですが、1999年に亡くなっています。「なぜ、この人物についてだけこんなに詳しく書くのだろう」と不思議に思って読み進めていると、なぞは解けます。 実は、61年に生まれた北沢恒こそが、のちに「鶴見俊輔伝」の著者となる黒川創、その人なのです。伝記にはここから、著者である黒川創自身と鶴見俊輔とのかかわりという、ここまでとは、すこし色合いの違う一本の横糸が張られます。 ここから、読者であるぼくは、この評伝の最後も読みどころとして、この少年が老哲学者の伝記を書くに至る動機に目を凝らすことになるのです。 やがて、最終章、残すは十数ページという所まで読み進んだところに、こんなエピソードが記されています。 心臓などに持病のある横山貞子は、自身も加齢する中、鶴見俊輔への介護を続けながらの暮らしに、体力の限界、そして不安を感じるようになっていた。そこで、夫婦揃って老人施設に入所しないかと鶴見に提案し、彼も同意する。だが、翌日、鶴見は同意を撤回、やはり自宅で暮らしたいと話した。「私はどうなってもいいの?」と、横山は夫に尋ねた。「すまないが」と、鶴見は答えたという。 これを書き付けた黒川創の真意を知ることは、もちろん、できません。しかし、ここに、筆者のモチーフが凝縮して表れているのではないかというのが、ここまで読み進めてきた、ぼくの感じたことでした。 このシーンは、生涯で初めて、老鶴見俊輔が他者に心をひらき、「もうろく」に身を任せ、甘えを口にしたシーンだったのではなかったでしょうか。 「まともである」ことの緊張し続けてきた自意識から解放され、意識的に自分を律しつづけることから、初めて自らを許した瞬間だということもできるかもしれません。 ぼく自身は、このシーンを読みなおしながら涙が止まらなくなりました。鶴見俊輔の書はぼくにとっては「青春の書」であり、その生き方は指標でした。その人物の「老い」を目の当たりにしたような感動でした。こういう読書体験はそうあることではありません。 おそらく、書き手黒川創は、書き手自身が備えている「まともな」目によって、「すまないが」という言葉の、鶴見俊輔にとっての重さを正確にとらえていて、この場面を書き残すことこそが、ここまで書き継いできた鶴見俊輔の生涯に、一人の「ただの人間」としての眸(ひとみ)を書き加えることだと考えたのではないでしょうか。 少年時代から見上げ続けてきた哲学者を「ただの人間」として描くことによって、90年間にわたる「一番病」の苦しみから彼を救うことができるのではないか。この「救い」こそが、書くべきこととしてある。黒川はそう考えたに違いないというのが、ぼくに浮かんだ思いでした。 黒川創が、鶴見俊輔という哲学者の苦闘の人生を冷静に描くことを目指しながら、「ただの人間として生きたかった男」を見事に描いた傑作評伝でした。(S)追記2020・02・09 「まともさ」などかけらもない人間が、大手を振って歩きまわる社会が始まっています。吉本隆明や鶴見俊輔を読み直す、あるいは、若い人が読み始めればいいればいいのになあとつくづく思います。名著だと思ます。 時々集まる、本を読む会の、次回の課題になってうれしいのですが、でも、鶴見俊輔の「ことば」に出会うのがつらくて読みなおし始めることができていません。まあ、ぼくは、そういうやつだということですね。追記2024・01・07 鶴見俊輔を読み直そうかと。まず、手始めは「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫)です。にほんブログ村にほんブログ村考える人・鶴見俊輔 (FUKUOKA Uブックレット) [ 黒川創 ]すぐ読めます。【新品】【本】日米交換船 鶴見俊輔/著 加藤典洋/著 黒川創/著図書館でどうぞ。
2019.06.25
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杉山龍丸「ふたつの悲しみ その2」-鶴見俊輔「夢野久作」より さて、杉山龍丸です。彼は「ドグラ・マグラ」(夢野久作)の世界から、この世に生まれ出た男でした。 ところで、元号騒ぎが始まって、ほぼ一ケ月。「時代」という言葉がしきりに口にされ、堰を切ったようにうっとうしい空気が流れ始めています。 ぼく自身の中に不愉快の澱のようなものが滞っていくのが嫌で、不機嫌になります。なんか、昔見たホームドラマのじーさんみたい。それで、「あっ、そうだ」と膝をうった(うってませんが)のが杉山龍丸の「ふたつの悲しみ」でした。「変な世の中になりそうな空気充満してるけど、こういう文章が書かれていたこと忘れんといてほしい。」 それが「あっ、そうだ」の直接の理由だったのですが、書き始めて、もう一つ、知ってほしいことがあるのに気づきました。 杉山龍丸という人についてです。「この人のことは言っておかなくちゃ。」そんな感じです。というのは、この人の生き方というのは、ちょっとすごいんです。ココからはちょっと薀蓄ぽくなります。 話が古くなりますが、西南戦争の後、九州の博多に玄洋社という思想結社が生まれます。頭山満とか内田良平なんていう名前を御存知の方もいっらしゃるかもしれませんが、所謂、国粋主義の団体とされています。しかし「オッペケペー」で有名な川上音二郎もここの社員ですし、孫文やインドのボースを支援したことでも知られています。 で、杉山の祖父、杉山茂丸(1864~1935)という人は、この玄洋社という国粋主義者の団体の中心的人物の一人です。結構有名な話らしいのですが、明治天皇の教育係であった山岡鉄舟の紹介状(彼はそこの書生でした)を手に伊藤博文の暗殺にでかけ、伊藤自身に諭され北海道に逃げたなどという逸話の持ち主です。 結局、安重根によって暗殺される伊藤博文ですが、そっちは「鶴見俊輔伝」を書いた黒川創が「暗殺者」(新潮社)という小説で書いています。こちらも、なかなか面白いのですが、今日は紹介だけです。 暗殺者にならなかった杉山茂丸は台湾統治から満鉄にいたる時代に、政界の黒幕、国士と呼ばれるような活動家でした。またの名を「杉山ホラ丸」というそうです。 この杉山ホラ丸の長男が杉山泰道なのです。こう書いても、なんのこっちゃというわけですが、彼には別の名前があります。 今となっては知る人ぞ知るになってしまった怪小説(怪奇ではありません)「ドグラ・マグラ」(ちくま文庫・夢野久作全集9)・(角川文庫 上・下)の作家夢野久作(1889~1936)です。 夢野久作、本名「杉山泰道」は昭和初期に活躍し、父の後を追うように、三人の息子を残して、1936年に他界します。 一応ミステリー作家に分類されますが、たとえば「ドグラ・マグラ(上・下)」はとてもそんな分類におさまるような探偵小説ではありません。ぜひお読みください。なんというか、めまいがします。 明治から昭和の日本政治史、昭和の日本文学史に、祖父と父が、それぞれ奇怪な名声を残す家系の中に、杉山泰道の長男として杉山龍丸は生まれます。大正八年(1919)のことです。 福岡中学、陸軍士官学校、技術学校を経て軍人となり、フィリピン・ボルネオの戦場で従軍し負傷しますが、少佐として復員します。五年の療養生活の後、さまざまな仕事を転転とする苦しい生活を経験したようです。こうしてみると、この文章が書かれるにいたるには、軍人としての戦場での体験と復員後の苦しい体験という二つの水脈のあることを感じます。 しかし、話はここからなのです。 杉山龍丸は、上記のエッセイを書いた1960年代の中ごろ、インドに渡ります。父や祖父から受け継いだ全財産、田畑三万坪を売り払い、その金を砂漠の大地に木を植えるという事業に、すべて注ぎ込むという奇想天外な後半生をおくるのです。 祖父は独立運動に名を残しているボースの支援者でしたが、杉山龍丸の行動は、インド解放の父ガンジーの後継者ネルーとの出会ったことがきっかけだといわれています。以来、半世紀の時が経とうとしています。 彼自身は1980年代に亡くなっていますが、インドでは「グリーンファーザー」と呼ばれている偉人だそうです。日本人は誰も知りません。日本に残された家族さえ詳しいことは知らなかったそうです。ぼくが思い出したのはこのことです。 「ふたつの悲しみ」を書いた杉山龍丸が戦後を生きようとしたとき、心の奥であふれ、新しい水脈となって彼を驚くべき後半生へと突き動かしていった情熱の奔流についてでした。 この人のこのような行動について、哲学者鶴見俊輔は、あらゆる制度的な仕切りを飄然と越えてしまう生き方に注目し、「祖父から父へと受け継がれた杉山家に流れる“狂気”」と解説したことがあります。ぼくが、彼の名前を知ったのは鶴見俊輔が何度か書いている「夢野久作論」のどれかによってです。(手元に本がないので、申し訳ありませんが詳述できません。) ともあれ「私たちはなにをなすべきであろうか。」と自問した結果、子供も家族もある、五十才に手が届こうかという元軍人が、国家を超え、財産や名誉に見向きもせず、世界の最底辺の民衆を救うことを思い立つ非常識、狂気にも似た考え方がありえたのです。これはただ事ではないと思いませんか。 「ぼくたちの現在」に漂っているいやな空気には、この人の生涯と対極的な、何かが腐りはじめた匂いがただよっているように、ぼくには感じられます。制度化して根源性を失いつつある様々な考え方を問い直す、さわやかな力が、彼の行動にはあると思うのです。 ここで、もう一人、「ああ、この人もいた」と、ある人物のことを思い出しました。アメリカによる空爆下の、アフガニスタンで井戸を掘り続けた医者、中村哲です。 彼は、同じ九州、博多が生んだ、もう一人の小説家火野葦平の甥っ子です。映画の好きな方であれば、昭和二十年代の映画「花と竜」の親分玉井金五郎が、実際に彼の祖父です。 中村哲についてはまたいずれ。ということで、今日はここまでで失礼します。追記2019・11・18 「杉山龍丸その1」はこちらをクリックしてください。 中村哲さんについて、なだいなだの文章を投稿しています。こちらをクリックしてみてください。「中村哲にノーベル平和賞を」「医者井戸を掘る」(石風社)「空爆と復興」(石風社)ボタン押してネ!にほんブログ村
2019.05.17
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山田太一編「生きるかなしみ」(ちくま文庫) ところで、ぼくは「サンデー毎日」の日々を暮らす、自称、徘徊老人です。日々の生活で心配事は無駄遣いと太りすぎ以外にはありません。道端の花の写真を撮ったり、映画館で興奮する毎日を送り始めて一年が過ぎました。ところが、最近やたら「むかっ腹」がたってしようがないのです。当てもなく、相手も特定できずに腹を立てる。完全な老人化が進行中というわけでしょうか。 ブログとやらに文章を書いて載せることで、漸く脳内出血とか心筋梗塞を免れているのですが、それもいつまで続くことやら。今回も、腹立ちまぎれの投稿なのです。山田太一というと、「ふぞろいの林檎たち」とか「岸辺のアルバム」というテレビドラマの作家といえば、思い出される方もいいらっしゃるかもしれません。 その脚本家が、もう30年ほども前に「生きるかなしみ」(ちくま文庫)というエッセイのアンソロジーをまとめています。佐藤愛子とか、五味康祐、吉野弘なんて言う懐かしい作家や詩人の文章の中に、杉山龍丸という異様な名前の人物の、お読みいただければ、おそらく、忘れられないにちがいない短い文章があります。 とにかくそれを読んでいただきたいので、ここに掲載します。ブログ記事としては、少々長めかとは思いますが、お読みいただければ、納得していただけるのではと思います。「ふたつの悲しみ」 杉山龍丸 私たちは、第二次大戦から二十年たった今、直接被害のないベトナムの戦いを見て、私たちが失ったもの、その悲しみを、新しく考えることが、必要だと思います。 これは、私が経験したことです。第二次大戦が終り、多くの日本の兵士が帰国して来る復員の事務についていた、ある暑い夏の日の出来事でした。私達は、毎日毎日訪ねて来る留守家族の人々に、貴方の息子さんは、御主人は亡くなった、死んだ、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた。留守家族の多くの人は、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった。 そこへ、ずんぐり肥った、立派な服装をした紳士が隣の友人のところへ来た。隣は、ニューギニヤ派遣の係りであった。その人は、「ニューギニヤに行った、私の息子は?」 と、名前を言って、たずねた。友人は、帳簿をめくって、「貴方の息子さんは、ニューギニヤのホーランジヤで戦死されておられます」と答えた。その人は、その瞬間、眼をカッと開き口をピクッとふるわして、黙って立っていたが、くるっと向きをかえて帰って行かれた。 人が死んだということは、いくら経験しても、又くりかえしても、慣れるということはない。いうこともまた、そばで聞くことも自分自身の内部に恐怖が走るものである。それは意識以外の生理現象が起きる。友人はいった後、しばらくして、パタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。 私は黙って、便所に立った。そして階段のところに来た時、さっきの人が、階段の曲り角の広場の隅のくらがりに、白いパナマの帽子を顔に当てて壁板にもたれるように、たっていた。瞬間、私は気分が悪いのかと思い、声をかけようとして、足を一段階段に下した時、その人の肩は、ブル、ブル、ふるえ、足もとに、したたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。その水滴は、パナマ帽からあふれ、したたり落ちていた。肩のふるえは、声をあげたいのを必死にこらえているものであった。どれだけたったかわからないが、私はそっと、自分の部屋に引返した。 次の日、久し振りにほとんど留守家族が来ないので、やれやれとしているときふと気がつくと、私の机から頭だけ見えるくらいの少女が、チョコンと立って、私の顔をマジ、マジと見つめていた。私が姿勢を正して、なにかを問いかけようとすると、「あたち、小学校二年生なの。おとうちゃんは、フイリッピンに行ったの。おとうちゃんの名は、○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。それで、それで、わたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことをきいておいでというので、あたし、きたの」顔中に汗をしたたらせて、一いきにこれだけいうと、大きく肩で息をした。 私はだまって机の上に差出した小さい手から葉書を見ると、復員局からの通知書があった。住所は、東京都の中野であった。私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島のルソンのバギオで、戦死になっていた。「あなたのお父さんは――」といいかけて、私は少女の顔を見た。やせた、真黒な顔、伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるをみつめていた。私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。 「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです」といって、声がつづかなくなった。瞬間少女は、一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。涙が、眼一ぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。それを見ている内に、私の眼が、涙にあふれて、ほほをつたわりはじめた。私の方が声をあげて泣きたくなった。 しかし、少女は、「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。おとうちゃまが、戦死していたら、係のおじちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、じょうきょう、じょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの」 私はだまって、うなずいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。少女は、不思議そうに、私の顔をみつめていたのに困った。やっと、書き終って、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。涙一滴、落さず、一声も声をあげなかった。肩に手をやって、何かいおうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血がでるようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。 私は、声を呑んで、しばらくして、「おひとりで、帰れるの」と聞いた。少女は、私の顔をみつめて、「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの」と、あらためて、じぶんにいいきかせるように、こっくりと、私にうなずいてみせた。私は、体中が熱くなってしまった。帰る途中で、私に話した。「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」と、小さい手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。 どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、なにが出来るのか?戦争は、大きな、大きな、なにかを奪った。悲しみ以上のなにか、かけがえのないものを奪った。私たちは、この二つのことから、この悲しみから、なにを考えるべきであろうか。私たちはなにをなすべきであろうか。声なき声は、そこにあると思う。 いかがでしょうか。 実は、この文章に出会うのは、この文庫が初めてではありませんでした。1970年代に出版された「戦後日本思想大系 14 日常の思想」(筑摩書房)の中に収められていた文章で、ぼくは学生時代に少なくとも一度は読んでいます。本文の冒頭の言葉で分かるとおり、ベトナム戦争が泥沼化した時代の文章です。 この文章が載せられている一番新しい書物は、イーストプレスという出版社の「よりみちパンセ」という中学生向きのシリーズに、小熊英二という社会学者が書いた「日本という国」という本です。 さて、それでは、この杉山龍丸とは何者なのでしょう。それは次回ということで、今回はここまで。「杉山龍丸その2」はここをクリックしてくださいね。 追記2020・08・31 村上春樹の「猫を棄てる」(文藝春秋社)というエッセイを読みました。戦争中、父が所属していた福知山歩兵第二十連隊と「南京陥落」とのかかわりについて、あの村上春樹が、執拗に事実関係を調べた様子をうかがうことができる文章なのですが、なぜ彼が、今になって、その父のことを書いたのかという、読者であるぼくの率直な疑問には答えようとしていません。 そのことを考えながら思い出したのが、この杉山龍丸のことでした。ブログに引用したエッセイも印象的ですが、杉山のその後の生涯も、ちょっと、簡単にはどうこういうわけにはいかないと思います。 戦争体験の風化が話題になることがありますが、記憶とは何かと考える時に、読み直すべき文章はたくさんあるのではないでしょうか。 村上がこだわっていたのも「父の記憶」ですが、今や曽祖父の記憶化しているからといって、うちやってしまうべきことかどうか。大切なことがあるように思いました。追記2023・04・24 作家の大江健三郎が亡くなったニュースを見ながら、ふと、山田太一という名前を思い浮かべました。「確か、似たような年齢だった。」 調べてみると1934年6月6日のお生まれでした。ボクはテレビドラマをあまり見ませんが、この人のドラマは見ていたような記憶があります。最近のドラマは、全く見ないので、今どんな人がどんなドラマを作っているのかということには何も言えませんが、上の記事で紹介した「生きるかなしみ」を読んだときにテレビドラマを作っている山田太一という人の誠実を実感したことは、はっきり覚えています。山田太一という人は都会育ちの人だと思いますが、多分、大江健三郎という作家の「書く」ことを支え続けてきた何かを共有していた人なのでしょうね。そういえば、倉本聰という人も同世代だったような気がします。ああ、小澤征爾もそうですね。 みなさん、お元気でいらっしゃることを祈ります。追記2023・12・03山田太一さんがお亡くなりになったそうです。2023年の11月29日のことですね。何だかショックでした。お誕生日が20年と1日違いなんですよね。ご冥福を祈るばかりです。 ボタン押してネ!ボタン押してね!ボタン押してね!ku
2019.05.16
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井上俊夫 「初めて人を殺す」 (岩波現代文庫) 「血みどろの銃剣は胸の奥底に」 井上俊夫 呑んでしもた 呑んでしもた 馴染みの居酒屋で 呑んでも呑んでも酔わない悪酒 呑んでしまいました えらいすんまへん 申し訳ござりまへん 教え子の女子大生に熱っぽい口調で わが従軍体験を語り聞かした日の帰り道。 呑んでしもた 呑んでしもた 小綺麗な女将がいる居酒屋で むっつり、しかめ面の黙んまり酒 呑んでしまいました えらいすんまへん 申し訳ござりまへん なぜか空しく淋しく悲しくて ひどい自己嫌悪に落ち入ってしもて。 呑んでしもた 呑んでしもた ビール二本に酒七本 それでも酔えない茶碗酒 呑んでしまいました えらいすんまへん 申し訳ござりまへん もう戦争の話なんかするもんか 敵兵を突き刺した 血みどろの銃剣は胸の奥底に。 70歳を越えた女子大教授で詩人である男が授業で自らの戦争体験を語ります。その帰り道、彼は呑まずにいられません。しかし、飲んでも飲んでも酔えないのは何故なのでしょうか。 教授は浪速の反戦詩人と呼ばれた人らしいのですが、2008年に亡くなっています。僕はこの詩人を知らなかったのですが、この詩人の「初めて人を殺す―老日本兵の戦争論」(岩波現代文庫)という、この本が、なぜか読まないままで我が家の本棚に転がっていました。 おそらく書名の過激さを喜んだ衝動買いの結果だと思うのですが、徘徊の暇に任せて、市バスやJRの座席で一気に読み終えました。文字通り「一気に」読めました。 この本をお出かけカバンに入れたきっかけはハッキリしています。黒川創の「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社)という本を読み終わったときに目の前の書棚にあったからです。 「鴎外と漱石の間で」という本には仙台の医学校で周樹人、後の作家魯迅が日本人に対して違和感を感じるシーンについての記述があります。 それは「藤野先生」という魯迅の小説の中で医学生たちが幻燈で日露戦争のニュース映画を見るシーンのことです。 ニュース映画の中で中国人のスパイが日本兵に殺される場面を日本人の同級生たちが拍手喝采するのを見ながら、主人公はとても強い違和感を感じ、日本で医者になる勉強を続けることを断念するというエピソードが小説にあります。 ここで魯迅は日本の医者の卵たちが「日本人が中国人を殺すシーンを喜ぶ」ことと、「人が殺されるシーンを喜ぶ」ことという、二つの問いを差しだしています。まあ、解釈が間違っているかもしれませんが、ぼくにはそう読める場面が小説の中にあります。 黒川の本を読みながら、そのことを考えた時に、日本人が戦場でどんなふうに人を殺してきたのかが気にかかりました。それが、読まなかったこの本に手を出した理由です。 バスの中で読み始めてみると、井上俊夫は 人は何故、喜んで人を殺す存在になれるのか。戦場で人を殺した人間は、どう生きていくか。 という、思いがけない、実にとんでもない問いを突きつけてきました。 たとえば、上記の詩は、戦場から帰って50年以上たった大学教授が、戦争の本当の恐ろしさを現代の女子大生に語ろうとして、根源的な自己嫌悪に落ち込んでいる姿を描いています。 人が人を殺すことをなんとも思わないことがありうることで、それを自分の体験として平和の国の若い女性たちに語った結果、湧き上がってきた現在のおのれに対する疑いが見据えられている詩だと思います。 エッセイ集の中では、「初めて人を殺す」人になった、自分に対する怒りと悲しみが炸裂しています。ぼくの中で、井上俊夫が「藤野先生」で「施す手なし」と嘆いた魯迅の姿とオーヴァーラップしてゆきます。 ボンヤリ車窓の風景に目をやりながら「戦争は悪だ」、そう言いきった歌人がいたことを思い出しました。中国に 兵なりし日の五ケ年を しみじみと思ふ 戦争は悪だ 宮柊二 この歌を詠んだ宮柊二も上の詩を書いた井上俊夫も、とっくにこの世の人ではありません。 私たちの社会は、ひょっとすると、魯迅のような中国人がいて、お二人のような日本人がいたことを忘れたがっているのかもしれませんね。この国の今について、まじめに考えるとはどうすることなのでしょう。追記2019・某日 心の中では、きっと、戦争を待望しているバカが、偉そうな顔をして、あのあたりにいるに違いないだろうと疑ってはいましたが、さすがに口に出すことはしないだろうと思っていました。とうとう「戦争を!」という国会議員が現れました。 国際情勢について、国民にまじめに考えさせるために「徴兵制を!」と主張する、エラク上から目線の「国際政治学者」(?)を名乗るテレビタレントもいるようです。とんでもない時代が始まっているようです。 大切なことは「まともなこと」をまじめに考えることだと思います。 馬鹿につけるクスリはありません。この国のありさまについて、あまりのバカさ加減に日々関心が薄れてゆく自分がいます。 しかし、それでも「戦争は悪だ」と心に念じることから始めようと思っています。(S)追記2021.08・31 コロナが正体を露わにし始めています。もう、すでに大勢の人の命が失われていますが、一人一人の健康や命に対して、政治には責任があると感じさせる人の姿は見当たりません。ニュースの世界では自己保身とご都合主義が跋扈しているようです。おあつらえ向きというべきでしょうか。海の向こうで「戦争」が始まりそうです。歴史を振りかえれば、次にやってくるの偽物のヒーローか、インチキな救世主ということになりそうです。 騙されてはいけません、大切なのは「国家」や「正義」を標榜するお題目ではありません。一人一人の人間の命であり、生活です。「戦争は悪」です。追記2022・04・11ウクライナで戦争が始まって二月が経ちます。ロシア兵の中にも、井上俊夫さんのような経験を、否応なしにさせれれている人がいるに違いありません。「リアル・ポテリティクス」とかで、あれこれ憶測をいう人や、陰謀論を信じる人もいるかもしれません。対岸の火事を決め込んで論評して出演料や原稿料を稼いでいらっしゃる方もいるのかもしれません。他の人のふるまいに、あれこれ言う気はありませんが、忘れないでいてほしいことは一つです。井上さんが言い残された一言です。「戦争は悪」です。ボタン押してネ!にほんブログ村にほんブログ村【中古】 初めて人を殺す 老日本兵の戦争論 岩波現代文庫 社会105/井上俊夫(著者) 【中古】afb価格:602円(税込、送料別) (2019/5/14時点)
2019.05.14
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黒川創「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社) 不思議な出会いということがありますね。黒川創という人の仕事について、ここのところ読み継いでいるのは、彼の「鶴見俊輔伝」にたどり着く前の下調べ気分でした。サッサと読めばいいだろうということなのですが、肝心の「鶴見俊輔伝」が手に入っていないのです。そんなこんなしていますと、2019年の年明けですね、そのころ偶然、読んでいた佐伯一麦の「麦の日記帳」のおしまいのほうで、こんな記事に出会ったのでした。 一月某日 評論家で小説家でもある黒川創さんが、奥さんで編集者の滝口夕美さん、娘さんのたみちゃん(二歳)妹さんの画家の北沢街子さんと、その旦那さんで地球物理学者の片桐修一郎さんとともに来訪する。さながら黒川組といった面々。 二年前の六月に小樽で授賞式があった最後の伊藤整文学賞を、私は「渡良瀬」で小説部門、黒川氏は「国境 完全版」で評論部門の受賞者となった縁で、付き合いが生まれた。北沢街子さんは現在仙台に住んでおり、二月にご主人の勤務先が変わり、福岡県に引っ越してしまうので、その前に一度妹がすむ街を訪れたい、ということだったらしい。 実は、ここで佐伯一麦と同時に受賞したと紹介されている評論「国境 完全版」(河出書房新社)は、ぼくが「黒川創の仕事」と勝手に題をつけてシリーズで案内しようとしている作品群の中で、今のところトリをとる予定の著書です。今回は「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社)という、おそらく「国境」という仕事から生まれた一冊を「案内」しようと書きあぐねていたのですが、そこに佐伯のこの記事がやってきたというわけです。 この夏から関心をもって読み継いできた小説家の佐伯一麦と評論家の黒川創の二人が、偶然、伊藤整文学賞でつながっていたということ知って、「あわわ…」という感じで意表を突かれたのですが、一方で、「えっ、やっぱり、つながってるんじゃないか」と腑に落ちた面もありました。 佐伯一麦の「渡良瀬」(クリックしてみてください)という作品を案内しましたが、する中で、なぜ「渡良瀬」という題名なのだろうという疑問が上手く解けないという感じがありました。そこで、こう書きました。「日々のうたかたのような人の暮らしを描く小説の最後に、この風景を描くことで、人の命や生活を越えた時間が小説世界に流れ込んでくると作家は考えたに違いない。」 「渡良瀬」という、この小説作品を読み終えたときの、自分自身の感動の根にある表現に対する、精いっぱいの推測でした。 ところが、ここで案内している「鴎外と漱石のあいだで」のなかに、大正時代、中原淳一の挿絵とセットで一世を風靡した「少女小説」の作家、吉屋信子が父を語ったこんなエピソードが紹介されてがいたのです。 小学生の吉屋信子は、梅雨空の夕暮れどき、自宅のからたちの垣の前に立っていた。こちらに入ってくる人がいて、蓑を着て菅笠をかぶっていた。当時、それらはすでに古風な農村の雨具だったが、強い印象を受けたのは、この客人の顔だちだった。 老顔に白いひげが下がった。ぎろっとした目のこわいおじさんだった。あわてて逃げ出そうとすると、いきなり、おかっぱの頭をなでられた。節くれだった太い指の手で、なでるというより、つかまれた感触だった。 母親は、蓑笠姿のおじさんを平伏して迎えた。役所から帰っていた父親も、奥から現れた。母はお酒の支度をした。客の好物の青トウガラシをあぶるために、女中は八百屋へ走らされた。こうやって大騒ぎでもてなした客が、田中正造という天下の義人とされている人だった。 けれど、円満解決はえられなかった。やがて年を経て、谷中村を水底に沈めるために強制的に土地を買収、村民立退きの執行官吏として、父がその村に出張したまま一か月も帰宅できずにいる留守に、幼い弟は疫痢にかかって危篤状態に陥った。 弟が亡骸となってから、父はやっと帰宅した。夏で、白ズボン、脚絆、わらじ履きの土足のまま座敷に駆け込み、死児を抱き上げて、うろうろと畳の上を歩きまわった。それも束の間、小さな蒲団にわが子のの遺体を戻すと、待たせていた人力車に乗り込み、再び谷中村へと引き返してゆく。 夫を見送ると、母はその場で気を失い、しばらく動かなかった。父が急いで村にまた戻ったのは、強制立ち退きに最後まで応じない農家十三戸を、家屋を破壊しても追い立てる、残酷な仕事が残っていたからだった。やがて、さらなる父の転任で一家がその土地を去ったのち、一九一三年(大正二)、田中正造翁の逝去が伝えられた。 仏壇に線香をあげて、母は言った。 「人のために働いた偉い人だったねえ…」 その人の好物。トウガラシが色づく初秋だった。》 足尾銅山から流れ出した鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した対策として、鉱毒沈殿のために広大な遊水地が作られました。その過程で、全村水没の悲劇に抵抗した谷中村の戦いを支えたのが田中正造であり、政府から派遣された郡長として計画を実行したのが、吉屋の父、吉屋雄一だったというのです。 二人の出会いを、吉屋の娘、信子の著書から引いてくる、この手つきが黒川創の方法なのです。大文字で語られてきた歴史的事件のなかに、人の背丈をした人間を配置することで、歴史の姿が変化することを彼はよく知っていると思います。 佐伯の小説が時代の下流に立つ人間を描いているとするなら、ちょうど、それと反対の方角から、やはり人間の姿に迫ろうとする方法といっていいと思うのですが、同じ、渡良瀬の遊水地の話題で、今という時代を生きている二人の作家が別々の仕事の現場で、ほぼ同じ時期に遭遇していることは、ほんとうに、単なる偶然なのでしょうか。 ところで、ようやく肝心の案内ということになるのですが、これが難しい。話題が多岐にわたっていて、まとまりがつかないのです。 黒川創は「国境完全版」のあとがきでこんなふうに書いています。 夏目漱石という作家は、二〇世紀初頭のたった一〇年間を、創作に心血を注いでいき、そして死んでしまった。彼は時代への参加者でありながら、優れた傍観者でもあった。私には、その人柄が、ほほえましく感じられる。森鴎外という人が、支配体制の枠組みの中に辛抱してとどまりながら、つい、時々は、崖っぷちのぎりぎりまで覗きに行って、また戻ってくる、そうした態度を示すことについても、また。「鴎外と漱石のあいだで」は1894年、日清戦争後の台湾軍事統治の現場にいる軍医、森鴎外の姿から書きはじめられています。鴎外は大日本帝国の東アジア進出の当事者としてそこにいるわけです。 面白いのは、50年の後1945年、鴎外の長男、森於菟は台北帝大医学部の解剖学の教授であり、箱詰めにされた鴎外の遺稿や資料のほとんどがこの大学の倉庫に眠っていたそうです。 森於菟は、なさぬ仲の義母、森しげとの確執からか、父、鴎外の遺品をすべて赴任地に持って行ったのだそうです。その結果、東京にあった森家の旧居が、空襲にによって、すべて灰燼に帰したにもかかわらず、現在の「森鴎外全集」(岩波書店)の資料はすべて無事だという奇跡が起こりました。資料の帰国事業を担ったのは台湾の「日本語文学者」だったそうです。 一方、1903年、英国留学から帰国した漱石を待っていたのは、現実の日本という社会でした。 1904年 日露戦争 1905年 ポーツマス条約 1907年 足尾鉱毒事件 1909年 伊藤博文暗殺 1910年 大逆事件・韓国併合 1911年 辛亥革命 日本のみならず、東アジアの近代史を揺るがす大事件が立て続けに世間を騒がせ続ける中にあって、洋行帰りの夏目金之助は1907年朝日新聞社に入社し、小説という新しい表現の「創作に心血を注ぎ」始めるのです。 「それから」・「門」という作品の中で大逆事件が、なにげなく話題になっていることは知られていることかもしれませんね。しかし、入社第二作「坑夫」が足尾鉱毒事件のさなかに書かれ、足尾銅山の坑夫の話だということに、ぼくは初めて気づいきました。前述した吉屋信子のエピソードは、漱石のみならず、近代の日本文学の社会とのかかわりをあざやかに示唆しているのではないでしょうか。 もう一つエピソードを上げるとすれば、第一作「虞美人草」の女主人公「藤尾」のモデルが平塚雷鳥というのは有名なはなしなのですが、入社の前年に書かれた「草枕」の女性「那美」のモデルは前田卓(つな)といい、辛亥革命の立役者、黄興、章炳麟、孫文が亡命地日本で集った「民報社」で働く女性であったということも、本書によって知りました。 1911年、鴎外、森林太郎が「大日本帝国」を代表する推薦人として名を連ねた文学博士号授与を、あくまで拒否する漱石、夏目金之助の立っていた場所。漱石は社会に対してタダの傍観者ではなかったにちがいないし、鴎外は文学者としては、想像を超えた崖っぷちに立っていたのかもしれない。そういう思いが、次々と湧いてくる一冊でした。 黒川創が描こうとしている「日本語の文学」の成立という大きな構図の背景に身の丈で立っている森林太郎、夏目金之助という二人の姿から見えてきます。そういうふうに配置して見せた黒川さんの手つき、ぼくにはそこがエラク面白かった。(S)追記2019・11・24「鶴見俊輔伝」はこちらからどうぞ。ボタン押してね!にほんブログ村にほんブログ村
2019.05.06
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黒川創 「日高六郎95歳のポルトレ」(新宿書房) 本書の主人公日高六郎について、その名前や業績について覚えていたり関心を持っている人が、今でもいるのだろうか。 今年、2018年の6月に亡くなったことが新聞に小さく出たように思うが、定かではない。101歳という長命だった。ぼくが高校生の頃だろうか、若干の揶揄も含みながらだったが、進歩的知識人という言葉があった。東大の先生だった人では丸山眞男と日高六郎の二人が代表選手のようだった。 「思想の科学」という、哲学者の鶴見俊輔が中心になって始めた雑誌や、作家の小田実と鶴見俊輔が中心にいた「べ平連」の活動に顔を出していた東大の社会学者というのが、大学生になったばかりのぼくの日高六郎で、「1960年5月19日」(岩波新書)という本で名前を知った。 じつは、その当時すでに東大をやめてフランスに移住していたということは、今回読んだこの本で初めて知った。数年して日本に帰ってきて、当時、京都に出来たばかり(?)の精華短大の教員をしていたのは知っていたが、この本を書いた黒川創は、その頃に日高六郎と知り合ったらしい。 ぼくがこの本を手にした理由は、その黒川創が「鶴見俊輔伝」(新潮社)という評伝をこの秋(2018年)に出版したのだが、そのことを気にかけていた時に、作家の高橋源一郎が書いた書評を読んだからだ。 もう一つ、わたしは、この評伝を読みながら、鶴見さんを言い表すことばは「まともであること(decency)」ではないかと強く思った。 鶴見さんは、「米国で吹き荒れた赤狩りのなか、下院非米活動委員会で喚問された劇作家リリアン・ヘルマン」に触れ、「魔女狩りに対して、はっきりと立ち向かった最初の人が女性であった」ことの意義を考えた。そして、多くのものを失ったヘルマンが、それでも獲得したひそやかなものを‘decency’ と呼んだことに注意を向けるよう書いた。そのdecency’を鶴見さんは「まともであること」と訳したのである。 わたしがうまく書けないと思うとき、鶴見さんの本を開くのは、そこに行けば、「まともであること」が何かを感じることができるからだろう。「まともであること」が、途轍もなく困難であるような時代であるからこそ、いま、この本の中の鶴見さんのことばに耳をかたむける必要があるのだ。わたしは心の底からそう思うのである。 鶴見俊輔の伝記の書評を読んで日高六郎のポルトレを読むというのは、すこし変だと思われるかもしれない。鶴見の伝記が、すぐに手に入らなかったという事情もあるが、要するに黒川創に対する下調べなのだった。 ぼくはこの人を、読売文学賞をとった「カモメの日」(新潮文庫)という小説を読んで知っていたのだが、その記憶がマイナスに作用していたということもあって迂回したという面もある。読み始めて驚いた。 「面白いのなんのって!」 ここにも一人、戦後を生きた「まともな」人がいた。 中国の青島(チンタオ)で生まれ育ったところから、95歳になった現在までを黒川が聞き、日高が答える。 こう書けばインタビューということになるが、どっちかというと対話か対談といった趣だ。聞き手も思ったことをどんどんしゃべる。結果、話し手の、特に日高六郎という人の人柄が実にリアルに浮かび上がってきて、読み手を飽きさせない。 戦前の中国での少年時代の生活、軍隊経験と学生時代の学問、べ平連の片棒を担いだ脱走兵の支援、紛争であらわになった東大教授たちの真の姿への嫌悪、金大中の拉致・監禁事件とのかかわり、日本赤軍との関与疑惑をめぐる顛末、そして老後の現在。 本書で語られている大きなエピソードを並べ上げればこうなる。どれもこれも、語られている内容のおもしろさはちょっと類がない。 1920年代の青島(チンタオ)暮らしから、戦中、戦後80年に渡って、国家と個人がアクチャルにぶつかっている事件の現場に当事者として立ち会ってきたということがまず驚きだが、その立ち姿が全くぶれていないことはもっと驚きだ。 老人の回想によくあるパターンで、ある種ご都合主義的にぶれているんじゃないかと疑う向きもあるかもしれない。そう思われる方には読んでいただくほかにないが、社会学者であった日高の学問の方法、ひいては生き方を説明するこんな会話がある。日高:自分の一生の七〇年なんり八〇年なり、それをものさしとして時代を見る。ふつう僕たちは、時代の流れを、自分の力ではどうしょうもないものとして見ている。たとえば、大正デモクラシーがあれば、その次は何が来る、というように。でも、それだけじゃなくて、歴史は、僕の寿命のものさしで測れるわけ。黒川:なるほど。ただ、それを自分の視野に収めるには、先生くらいの長生きをしないと‥‥。日高:うん、そりゃそうだ。はははは!あなたも長生きしてください。 現実の社会に対して「自分の寿命」の「ものさし」をあてる。そこからすべてを始める。「ものさし」の精度を上げるのは自分の責任だし、結果を尊重するのは、まず自分に対する「モラル」ということだ。 かれは、さまざまな組織に所属し、多くの学者や活動家と出会ってきたが、党派や主義に従うことはなかったし、偉い人の口真似をしていばることもなかった。だからといって、孤立した世捨て人ではなかった。黒川:子どものとき片言はできるというのは、ボーイとかアマとかから、口伝えにおぼえるんですか?日高:そう。それで、中国語を勉強したいって、家で言ったわけ。中学校の補習授業に中国語があるので、それをやりたいと。だけど、その時だけは、父が「ノー」と言った。中国語は勉強してはならない。中国に来たら、日本人は堕落する。この青島を見てごらんなさい。中国人にいばって、悪いことばかりしている。権力、武力のもとで人間は堕落していく、みんなそうだ。。中国で生活しないようにしてくれ。日本に帰って、日本で勉強しなさい、と。それも一つの見識だよ。 少年の頃の父の思い出を語ったところだが、ここには同じように「まとも」だった父がいて、90歳をすぎてその見識を記憶している「まともな息子」がいる。日高が、ここから「ものさし」の作り方を学んだことは間違いないと、ぼくは思う。 黒川はここでも「まともであること」を生き抜いた人の姿と言葉を書き留めようというモチーフで仕事をしている。多分、これが彼の仕事ぶりなのだ。この本で、ぼくは、彼のことをすっかり見直した。 さて、せっかく残されているまともな人の肉声、読んでみない手はないのではありませんか。 2018/12/31 追記2020・03・24黒川創の「鶴見俊輔伝」をその後読みました。感想は、題名をクリックして、どうぞ。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 かもめの日 新潮文庫/黒川創【著】 【中古】afbこれは、小説です。鶴見俊輔伝 [ 黒川 創 ]傑作評伝だと思います。暗殺者たち [ 黒川創 ]伊藤博文と安重根、暗殺者と暗殺者。
2019.04.16
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