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2019.08.09
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​​​​ ​​井上光晴「明日 一九四五年八月八日長崎」(集英社文庫)


  ​ ​ 一九四五年八月九日、午前十一時二分。​​

 この小説のなかに、この時刻が出てくるわけではありません。
 空襲が続く戦火の中でとり行われる結婚式をめぐる苦労話や、並べられた祝いの膳のご馳走や、召集を免れている花婿をめぐるやっかみ半分の世間話。空襲警報で中断した披露宴。友人の式に参列しながら、式のあいだじゅう、音信を絶った恋人と妊娠三か月の我が身に思い悩む看護婦。
 戦争未亡人との関係を指弾された青年の失踪。後輩の行方を気に掛ける市電運転手と、その妻とのささやかな約束。
 何が配給されているのかも知らず、品切れになっていることにも気づかない行列の珍妙な大騒ぎ。
 産気づいた花嫁の姉と、そこに駆けつける産婆。庭に紛れ込んでくる小さな子供のあどけない声。
 二人になった新郎新婦の初夜の誓い。
 そのどれもが話の途中で終っています。彼らはその後どうなって、どうするのか、すべて明日、夜が明けてからのことなです。
 夜明け前に、ただ一つだけ、結果が出た時刻が記してありました。新しい命がこの世に生まれ出た瞬間です。

​​  突然、終わった。すべてが消えた。声にならない私の息は母の息と重なる。その時、鋭く空気を顫わせてひとつの叫びが湧いた。生まれたのだ。私はいま産み終えたのだ。はじめて耳にする声のなんと美しいこと。声は力強く放たれ、それから次第に甘い響きに変わっていく。

「よかった、ツル子」

母の手が私の腕を掴む。その手はとても熱い。

​「お手柄ですばい。」と、産婆さんがいう。「坊ちゃんですたい。どうですか。」「男ん子よ、ツル子。よかった。・・・・」​

「四時十七分やったですよ」産婆さんはいう。

八月九日、四時十七分。

​​​​​​​​ ここに初めて具体的に記された日時が出てきました。花嫁の姉、ツル子が男の子を出産した時刻です。
 ここまで読んで、この小説の一つ一つのエピソードの「底が抜けている」、その理由に気付かない人はいないだろうと思います。
 作家が、この作品で描いているのは八月九日の「昨日」の世界です。
 人々の些細な争いや、喜び、どこにでもありそうな言葉のやり取り。無残な戦場のうわさや、不条理に対する嘆き、人目を忍んだ勝手、勝手な行動。生きるためのずるさや、なにげない親しみについての丁寧な描写が、かえって読み手に異様な空虚を感じさせるこんな小説はそうあるものではないと思いました。
​​  井上光晴 にこんな作品がることをぼくは知りませんでした。ぼくにとって彼は 「ガダルカナル戦詩集」 「地の群れ」 で印象深い作家でしたたが、今では娘で、作家の 井上荒野 の方が有名かもしれない人でしょう。忘れられていく作家なのかもしれません。
 ぼくは知らなかったのですが、この小説は 黒井和男監督 によって、 ​「TOMORROW 明日」 という題名で映画化されているそうです。​子どもを産むツル子を 桃井かおり が演じているそうですが、ぼくは、偶然その資料をどこかで読んで、この小説を知りました。
 核武装などという、物騒な言葉がタブーであることの意味が忘れられつつある現在、思い出してもいい作家だと思いました。
追記2020・07・29
 現実の事件を、読者の前提として描いている作品です。​​​​​​​映画の脚本として書かれたのかなあという印象もあります。

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最終更新日  2021.01.05 23:54:26
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