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「誰でも何か足らんぐらいで、この世界に居場所はそうそう無うなりゃあせんよ すずさん」 と 「白木リンさん」 が言うシーンがあって、その後、絵を描くことが好きな 「すずさん」 が爆弾で右手を失います。
「あの戦争で水木さんが腕をやられたのは何年ですか。」
「昭和20年です」
「何月ですか。」
「三月か四月ごろです」
「なんでやられたんですか。」
「爆弾です。」
「アメリカが落としたのですか。」
「ええ、しょっちゅう来るんですよ。意味もなく爆弾落とすことありますね。毎日です よ。だからアメリカの飛行機が来ると、じっとしてるんです。そのとき空が見えんくらいいっぱいきて、こわいなと思ったら二、三発落ちてからだが宙に浮いたんですね。」
「ラバウルですね。治るのにだいぶかかたでしょう。」
「麻酔かけられるまですごく痛かったですね。七徳ナイフみたいなもので切られた気がします。あくる日気がついたらなかったんです。ウジなんかわきますね。」
「治ったときは終戦でしたか。」
「そうですね。」
「敗戦はどこでですか。」
「そこの野戦病院です。そこに1年か1年半いましたかね。めちゃくちゃ日本に帰りたかったです。それで日本に帰ってきて相模原病院に入ったですね。」
「日本に帰ってきたのはいつですか。」
「自分は年月を覚えないから。終戦はいつですか。」
「昭和20年の8月15日。」
「はあ、すると22年くらいじゃないですか。」
「すると戦争終って2年間ラバウルにいたわけですか。」
「ええ。相模原病院へ入れられて、トウキビの硬いパンですよね。コメの買い出しにも行きました。」
「相模原におられたときに美術学校へ行かれたんですか。」
「ええ。武蔵野美術大学に行きながら、傷痍軍人の連中と街頭募金とか月島で魚屋やったりしたわけですよ。おもしろ半分にその連中の仲間に入っちゃたんです。」
「白衣着て学校へ行ったんですか。」
「ええ、はじめのころは、白衣着て行ってましたね。無神経だったんですな、いま考えると。」
「いや、それはいいことですよ。いまも白衣着て歩かれたらいいですよ。」
「試験受けるときも白衣着ておったんです。彫刻の先生がえらく同情してくれましてね。自分は試験というのは落ちるものと決まっていましたけど、武蔵野だけはとおったです。白衣着ていたせいでしょうね。」 (「学ぶとは何だろうか・ユートピアはどこに」)
きりがないので、この辺りでやめますが、微妙に会話がちぐはぐなのが面白いですね。ぼくの世代だと、白衣を着て松葉づえをついて募金箱を首からぶら下げた 「傷痍軍人」
の姿を知っている人がいるかもしれません。子どもだったぼくには、不思議な光景の記憶ですが、 水木しげる
は、これを商売にして募金の全国行脚をしたこともあるそうです。
妖怪マンガ
が 水木しげる
の代名詞になっていますが、戦争を描いたマンガもあります。
マンガ家の目で戦場を見て、足りなくなった体で戦後を生きのびた 水木漫画
の世界が、最初にあげた、戦後生まれの二人のマンガの世界の生みの親ということも考えられそうです。そういえば 武田一義
も 「タマちゃん」
が足りなくなった人でした。
話し相手の 鶴見俊輔
という人がぼくは20代から好きだったのですが、彼は 「座談の名手」
として知られています。 「鶴見俊輔座談」
と銘打たれたシリーズは全部で10巻あります。
鶴見俊輔座談(晶文社刊)・全10巻リスト
というサイトに一覧表がありますが、没後、 「昭和を語る 鶴見俊輔座談」(晶文社)
というダイジェストが出版されましたが、この 水木しげる
との対談は載っていません。対談の続きに興味をお持ちの方は図書館ででもお探しください。
追記2022・08・25
まあ、個人的な事件ですが、 新コロちゃん騒動
にとうとう巻き込まれてしまってうんうん唸る暑苦しくも悲惨な2022年の8月も、あと1週間です。
当事者として、芳しくない 「出来事」を体験
するのは、多分 「ひょっとして…」
と想像する恐怖心のようなもののリアリティというか、実感というかとして残る、その残り方が、体験していない人と違うのでしょうね。
戦争という実体験
について、その、残り方を 「いかに面白く描くか」
と、ひょうひょうとマンガに描いて生きた 水木しげる
から、体験談を聞く 鶴見俊輔
の立ち位置がぼくは好きです。
熱にうなされながら思い出したので修繕しました。
週刊 読書案内 鶴見俊輔「思想をつむぐ… 2024.01.14
週刊 読書案内 鶴見俊輔「身ぶり手ぶり… 2024.01.09
週刊 読書案内 鶴見俊輔「身ぶりとして… 2024.01.07