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「謀略と合戦の日々」 (28章)にほんブログ村「お訊ねいたす。村上義清は出ては参らぬか?」 声の主は原虎胤である。信虎からの戦塵で暮らした彼は、年の所為で毛髪がすっかり抜け落ち、丸坊主の頭を光らせている。「衰えたと云えども村上義清、乾坤一擲の好機とみて出馬の危惧はござる。その備えを真田幸隆殿にお願いしております」 勘助がすかさず応じた。「それは・・・口数が多うござった」 原虎胤が傷跡の残る顔を緩めた。「軍師殿にお伺いいたす。我等の陣構えはいかようになります」 馬場信春が髯面の顔をみせ鋭く訊ね、山本勘助が破顔した。「別動隊として馬場殿は二千の軍勢を率い、十九日に出陣をお願いいたす」 「行き先は?」「佐久の小県郡まで先行願います」 「これは嬉しきかな、承知いたしました」 馬場信春が不敵な面で請け負った。「棒道を急行いたせば本軍到着まえに林城近くに進出できましょうな」「御屋形さまの本軍は諏訪に向かいますな」「左様、諏訪で陣構えをお下知なされる」 馬場信春が何事か悟ったようだ。彼は生涯、合戦で傷を負ったことのない武将として名を轟かした。「皆の者には異存はないの」 頃合いをみた晴信がゆったりとした口調で一座を眺め廻した。「ございませぬ」 一同を代表し、武田典厩信繁が答えた。「本軍は余と山本勘助が率い先行いたす。二陣は板垣信憲、三陣は飯富兵部、 残存部隊は信繁と原虎胤、甘利昌忠に任せる。後備えは小山田信茂と山県三郎兵衛が務めよ」 晴信が巨眼を光らせて命じ、脇息に小太りの身をあずけた。 それだけで粛然とし、張り詰めた空気が主殿を支配した。 それぞれ読み上げられた武将連が、確認の声を発している。「皆に異存がなければ戦評定は終りといたす。武田家念願の合戦じゃ、皆々、励むのじゃ。勘助っ、後刻、余の部屋に参れ」 晴信が一座の武将達に声を残して主殿から去って行った。 それぞれの武将連が笑い声をあげながら主殿を去って行く、勘助も例の如く肩をゆすりながら退席した。 その夜、晴信と勘助の二人が晴信の部屋で酒を酌み交わしていた。「漸く小笠原勢との決着が成るか」 晴信の顔に満足の色が浮かんでいる。「よく辛抱成されましたな」 勘助が杯を手にし、今迄の苦労を慰めるように晴信に声を懸けた。「合戦は、いかような策で遣る積りじゃ」「はい、林城と深志城は夜襲でけりを就けまする」 小笠原長時の居城は林城である。ここは現在の長野県松本市である。 信濃守護の館で山城造りであり、別名を金華山城とも呼ばれていた。 この林城の守りの強化の為に、支城として深志城があった。 この深志城址が後年、徳川家の治世と成り、松本城として復元されるのである。「勘助、余は皆に小笠原とは二度と合戦をせぬと言うた」「ご心配召されますな、夜襲で一気に小笠原勢を葬ります」 勘助が隻眼を光らせ断言した。 翌朝の五月十九日、馬場信春率いる別動隊が粛然と古府中の館から旌旗を靡かせ出陣した。先頭は武田産馬の黒馬に跨った馬場信春が桃形兜と黒糸嚇しの甲冑をまとい、右手を大きく突き上げ見守る勘助に合図を送っている。 勘助は満足の笑みを浮かべ腰を屈めた。彼の目前を堂々と二千名の軍勢が通り過ぎてゆく。 「見事じゃ」 先頭をゆく五十挺の鉄砲足軽が一際異彩を放っている。後尾が館の角に消え去るまで見送り、勘助は足を引きずり館に戻った。 此度の合戦の成否は、馬場信春率いる二千の軍勢が握っているのだ。 馬場勢は韮崎(にらざき)に出て佐久往還道(おうかんどう)に入り、野辺山を越え千曲川に沿って北上する筈である。そこには武田の誇る軍事道路の棒道が佐久盆地まで伸びている、明日には規定どおり林城の近くに陣を構えるだろう。 勘助は主殿に向かった、晴信に会い雑談を交わしたかった。 「勘助、馬場勢は発ったな」 黒々としたもみあげをみせ、晴信が待ち受けていた。「明日は我等の出番にございます」 勘助の異相が和んでみえる。 主殿の庭には芍薬の花が大輪を見せ、杜若が群生している。「御屋形さま、武田家は信濃への二つの道を確保いたしました、この戦いから頻繁に使う事になりましょう」 「諏訪口と佐久口じゃな」「左様、諏訪口は地形がよろしゅうございます。北進すれば北信濃、南進すれば伊那、木曽に向かいまする。いずれ木曽は武田家が貰いうけましょう」「美濃が望めるの、しかし佐久口は良い。上田から一気に北信濃に出られる」 晴信の脳裡には、これからの武田家の進むべき道が見えるようだ。「この度は小笠原勢の息の根を止めますが、余勢をかって村上義清の戸石城だけは叩きたいものですな」 「珍しいの、そちが勇むとは」 晴信が興味深げに勘助の隻眼を覗きみた。「拙者は一日も早く駿河に討って出たいのです」 「・・・・」「駿河は肥沃の地、しかも京への道と塩の道が確保できます。そこで水軍を作りましょう」 「急くな、駿府には父上が居られる」 晴信にも勘助の熱い願いは判る。「良いか、我等は北信濃の村上勢を叩き信濃全土を支配する。そこから越後勢との長い戦いが待っておる、それを制せねば京に向かうは無理と言うものじゃ」 二人の会話は常と異なり、晴信が勘助の血気を抑えている。 まるで逆であった。二人が恐れた北信の勇、村上義清は攻め寄せる素振りもみせなかった。もし万一、攻め寄せて来る場合は、真田幸隆が対応するように手筈を整えていたが、村上義清は武田家の動きを知らなかったか、北の高梨勢との合戦で、手が回らなかったかのどちらかも知れない。 いずれにしても武田にとり、有利に事が進んでいたのだ。「ところで御屋形さま、先日、駿府の大殿の忍びと会い申した」 「なにっー」 「大殿はご立腹のよし」 「何をお怒りじゃ」 晴信の顔つきが厳しくなった。 「遅いとお怒りだそうです」 勘助の脳裡にお弓の狂態が蘇った。 「遅いと申されたのか?」「今川家は岡崎衆を完全に掌握いたしましたな、それは御屋形さまも承知の筈。 駿河、遠江、三河の三国を版図といたしました、我等が手間取れば今川が先を こします」 「そのことで父上はお怒りか」 瞬間、晴信の顔が曇った。 改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 29, 2014
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「女忍の本性」 (27章)にほんブログ村 お弓の温かい手が、勘助の悪い方の太腿を撫でさすっている。「矢張り片方は細いのじゃな」 お弓が愛しそうに囁いた。「仕方があるまい、使うてはおらぬのじゃ」 荒々しい呼吸が平静にもどり、二人は自然と躯を離した。囲炉裏端でお弓は豊満な裸身を隠そうともせず、愛おしそうに勘助の股間を愛撫している。 一方の勘助は、豊かな乳房の柔らかな感触を楽しでいる。 掌の中で形を変え、男の理性を狂わせる乳房、その肉感に溺れた。 小さめな乳首が隆起し、視線が下腹部へと移り隻眼が驚きを示し止まった。 下腹部がなんとなくぽっちゃりとして見えたのだ。「お弓殿、そなた孕(はら)んでおるのか?」 「あい」 お弓が平然と答え、そっとお腹を撫でさすった。 「誰の子じゃ?」「駿河の大殿のお胤じゃ」 「何と-」 さしもの勘助も仰天し、叫び声を堪えた。まさに青天の霹靂である。「この事は二人だけの秘密じゃ、わたしは大殿に内緒でややを産みます」 流石の勘助も言葉を失った。「勘殿、忍びのわたしも女子じゃな、今宵は燃えましたぞ」 お弓が勘助の異相を見つめ微笑んだ、ぞっとする色気が滲みでている。「お願いがありますぞ、産んだややを武田家の忍者の頭領に育てて下され」 「・・・」 「武田の御屋形さまの良き、忍び者になりますぞ。甲斐には何度も参ります、ややが産まれたら知らせます。お頼みいたします」 珍しく、お弓が手を合わせている。「判り申した」 勘助の声が驚きでかすれた。 「お酒をくだされ」 勘助が囲炉裏に粗朶を足し、お弓の湯呑みに酒を注いだ。 「美味しいー」 またもや屋外から木枯らしの音が響いた。「勘殿、貴方にお願いじゃ。ややは貴方の子として養育して下され」 切れ長で濡れぬれとした眸子に、見つめられ勘助が肯いた。 肯いたというよりも、肯かざるをえないお弓の眼の色であった。 「良かった」 嬉しそうなお弓の声が聞こえたが、物に動ぜぬ勘助も完全に気が動転し返す言葉を失い、沈黙の世界で二人は酒を酌み交わした。 ふっと気づくと二人とも全裸のままである。 「寒くはないかの」「忍者が寒さに弱くては務まりませぬ」 お弓がにっと微笑を浮かべた。 判らぬ女子とは、まして女忍ともなると全く勘助の理解を超えていた。「勘殿、今夜は何度でも抱いて下され」 お弓が再び勘助に挑んできた。 「おう、何度でも抱いてやろう」 二人はまたもや獣のようにお互いの躯を求めあった。 傷ついた者の同士が慰めあうような優しい愛撫から、相手をむさぼり喰らうような烈しい求めあいが続いた。まどろみ覚めては求め、明け方近く二人は、 獣の皮にくるまって泥のように眠った。 勘助が目を覚ました、気だるく心地よい疲れが身内に宿っている。傍らに眼を転じ愕然とした、お弓の姿が忽然と消え、脇差と書状が残されていた。『勘殿参る。昨夜は女の身を知らされました、勘殿とは肌が合うようです。女忍者から、ただの女子として燃えました。これも勘殿のお蔭じゃ、ややが産まれたら知らせます。女子ならお麻、男子なら勘兵衛と名付けて下され。またお逢い出来た時には、口吸いましょう。 お弓 』 水茎の跡が紙の上で躍るような、見事な筆跡が残されていた。 勘助は呆然となった。烈しいお弓の息遣いが今も聞こえるようである、乳房も女陰の感触も、まだ生々しく勘助の躰に残っている。 天文十九年(一五五〇)五月、甲斐は新緑につつまれている。続々と重臣達 が館の主殿に集まり、定めの円座に腰を据えた。 一段高い座所に、やや肥満気味の晴信が眼を細め静かに座している。 右手上座には武田典厩(てんきゅう)信繁が、左上座には飯富兵部が座り重臣達が左右に居並んでいる。晴信が右脇に脇息を引きよせ躯をもたせかけた。 開け放たれた廊下越しより、小鳥のさえずりが心地よく聞こえてくる。 勘助は一人晴信と対面するかのように、重臣達を横に見て腰を据えている。「いよいよ機が熟した。我が武田は総力を挙げ、五月二十日に躑躅ケ崎館を出陣いたす。目指すは小笠原長時の籠もる、林城と深志城の二城じゃ、この合戦後は再び、小笠原勢と戦う事はなきものと知れ」 晴信の野太い下知が主殿に響いた。「おうー」「待ちかね申しましたぞ」 全ての重臣達が雄叫びをあげた。 晴信がこれほど明確に、合戦の下知を発したのは初めての事であった。 御屋形、見事な采配にございますぞ。勘助は心の底から、そう感じた。 晴信が厳かな挙措で座所から降り、中央の板の間に腰を据えた。 居並んだ重臣達も姿かたちを改め、正面の楯無しと御旗を仰ぎみた。「御旗、楯無しご照覧を」 晴信が野太い声を発し、重臣等もこれに唱和した。 一座に粛然とした空気が漂った。この儀式は武田家が連綿として伝え続けてきた合戦開始の行事であった。「さて戦評定にござるが、方々の忌憚のないご意見を拝聴いたしたい」 山本勘助が隻眼を光らせ口火をきった。 御屋形さまは総勢と申されたが、いかほどの兵力にござるか?」 各支城の将兵は全て出陣いたす。だが諏訪の高島城、上原城、桑原城の三城の兵は守兵をのぞき全て出陣いたします。よって甲斐からは総勢を発します」「さすればおよそ一万八千余の大軍にござるな」 「左様」 ここに武田勢は小笠原長時征伐の軍議を終えた。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 26, 2014
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「女忍の本性」 (26章)にほんブログ村 今川勢の戦勝の知らせが早馬で駿府城にもたらされたのは、十一月中旬であった。義元は上機嫌で信虎を呼び出した。 義元からの呼び出しで信虎は安祥城の落城を知った。「晴信よ、今後のわしの標的は雪斎じゃ。奴が死ねば義元をけしかけ上洛を進言する積りじゃ」 信虎は大広間に向いながら、呪文のように呟いていた。 その信虎の姿を見るや、義元が喜び溢れる言葉を懸けた。 「織田信広を捕らえ申したぞ、流石に舅殿のご思案は見事じゃ」 笑顔の鉄漿が禍々(まがまが)しく、信虎が視線を外した。 「義元殿、早う人質の交換をなされ」 「今頃は雪斎のことじゃ、織田信秀と交渉しておりましょう」 義元が確信ある口調で断言した。 ほどなく雪斎から、事のあらましを伝える早馬が駆けつけてきた。 織田信秀は無念の思いで安祥城と、松平竹千代を今川家に引き渡す条件をのんだ。太原雪斎はこれを了解し、虜囚の信広を織田信秀に反した。 ここに織田信広と松平竹千代の交換が無事に済んだ。 今川は安祥城を確保し、岡崎城にも城代を派遣し三河の殆どを乗っ取ることに成功したのだ。織田家はこの合戦で三河の地で決定的な敗北をきっした。 今川家の目的は、飽くまでも松平竹千代の身柄の確保にあった。 十一月二十七日、松平竹千代が人質として駿府城に入った。これで今川家は 磐石な態勢となった。 松平竹千代は十二年間の長きに渡り、駿府で人質生活を送り、その間の岡崎城は主人不在のまま、三河一帯の要として今川の属国となるのであった。 (女忍の膚) 甲斐は冬を迎え、躑躅ケ崎館も城下も雪におおわれ静まりかえっている。 そんな宵に山本勘助の屋敷に、女忍びのお弓が漂然と訪れてきた。 山本家の小者がびっくりして勘助の許に駆けつけて知らせた。 玄関に駆け付けた勘助の前に、雪まみれの蓑を纏った女性が佇んでいた。「お弓殿か?」「あい」 間違いなく女忍びのお弓の声である。彼女は勘助の異相な顔を見つめ、嫣然とした笑みを浮かべた。「この冬の時期に・・・寒かろう、まず屋敷の奥に入られよ」 勘助が珍しく狼狽えている。 勘助は人払いをし、囲炉裏端にお弓を誘(いざな)い久闊を懐かしんだ。「駿河の大殿さまは、きついお怒りじゃ」 お弓が囲炉裏の粗朶(そだ)の炎を見つめ信虎の言葉を伝えた。 炎に照らされた、お弓は別人の女のように勘助には思えた。「お弓殿、また一段と美しゆうなられたの」「勘殿のお上手なこと、わたしは女忍者じゃ。化けることはお手のものじゃ」 勘助の躯の奥に欲情が湧き揚がった、己にも判らぬ唐突な感情である。 「昔、一度そなたを抱いた。今宵はどうじゃ」「抱かれても良いが、わたしの問いに答えてからじゃ」 お弓が妖艶な笑みを浮かべ、挑発するように勘助の隻眼を凝視している。「甲斐は前にもまして力を蓄えた。来年、田植えが終ったら、信濃に攻め込み小笠原長時を攻め滅ぼしますと、お伝え下され」「林城、深志城も陥すと言われますのか?」 「左様じゃ」「御屋形さまの晴信さまは、今年で二十八才となられましたな」「頼もしき御大将に成長為されました。これも大殿にお伝え下され」 囲炉裏の粗朶がはぜ、屋外から風音が室内まで聞こえてくる。「真にございますな」 「山本勘助、嘘は言わぬ」 「法螺吹き勘助と異名をとった貴方がな」 お弓がけたたましい笑い声をあげた。まるで勘助が赤子のようにお弓にあしらわれている。「拙者も今は武田家の軍師じゃ、御屋形さまの信任もあつい約束いたす」「あい、判りましたぞ、そのように大殿にお伝えいたしましょう。じゃが宿老の板垣さま、甘利さまを亡くされ武将のお方は大丈夫ですか?」「若い武将が数多く育っております、ご安心下され」 「本当ですか?」「軍制を変えたのじゃ。御親類衆には武田信繁さま、葛山(かずらやま)信貞さま、御譜代衆は、飯富兵部殿、原虎胤殿、小山田信茂殿、馬場信春殿、若手では板垣信憲殿、甘利昌忠殿、山県三郎兵衛殿、更に豪族のなかで真田幸隆殿も我等の味方じゃ。その下にも有能な将が育っておる」 「・・・・」 珍しく勘助が饒舌である。 「鉄砲隊も作りましたぞ、それにな礫隊もな」「礫(つぶて)隊とは聞いた事がありませんぞ」「鉄砲とは不便な武器じゃ。雨では使えぬ、そこで小石を使う隊を考えた」「可笑しな勘殿じゃ」 お弓の眸子が黒々と輝いて見える。 「お弓殿、どうじゃ。これは拙者とお屋形さまとで練った軍制じゃ」 「騎馬武者は?」「黒馬を育てておる、まだまだ増やす。お弓殿、飲みながら語ろう」 勘助が自ら立ち上がり肩を左右にふり、足を引きずって戸棚から大徳利と湯呑みを取り出し、なみなみと注ぎ勧めた。「ああー、美味しい」 お弓が舌鼓をうった。「武田は兵だけでわない領民も一丸じゃ。それは御屋形さまの治世のお蔭じゃ」「勘殿もう良い、わたしもこの目で見て参った、暫く飲みましょう」 お弓が挑発するように艶然と微笑み、勘助の背筋に鳥肌がたった。矢張りくノ一じゃ、正体が何処にあるのか判らぬ。 何時の間にか、お弓がしどけなく勘助に身をあずけ湯呑みを啜っている。 暖かく柔らかな女体の感触が勘助の理性を狂わした。 「「勘殿、口移しで飲ませて下され」 外の木枯らし同様に勘助が獣となった、完全に理性が麻痺し口移しでお弓の口中に酒を注ぎ込んだ。 お弓が襟元をはだけた、豊満な乳房が炎に照らされ青い静脈が勘助の隻眼を射抜いた。覚えず唇を這わせ、お弓が微かに呻き声をあげた。「お弓殿、そなたに頼みがござる」 「わたしに出来ますか?」 答えながらお弓の手が勘助の股間を撫でさすった、そこは怒張していた。「拙者は武田に忍び集団を置きたいと考えておる」 勘助の声がうわずった。 お弓が衣装を脱ぎ捨て全裸となった、それは見事な裸像であった。 贅肉のない女体は妖しげな曲線を見せ、勘助を魅了した。、お弓が勘助の男のもとを愛撫しながら訊いた。「わたしに何が望みです」 二人は睦言を交わし愛撫の手を休めずに、低い声で囁きあっている。「まずは駿府じゃが、太原雪斎、大いに邪魔になる」「それは駿河の大殿にお任せなされ」 お弓の熱い裸体が蛇のように勘助の躰にまとわりついた。勘助が思わず呻いた、手が勝手に女の下腹部の秘毛の下の敏感な箇所を探り出した。「そこじゃ、・・・いいっー」 お弓が顔を大きく振った、さらさらと長く乾いた黒髪が勘助の太腿に流れた。「大殿に申しあげよ、信濃平定後の甲斐の次なる獲物は駿河じゃ、京への道が何としても欲しい」 勘助の躯がお弓に重なり、二人が獣のように繋がった。 「あっー」 お弓の白い腕が勘助の首に巻かれ、豊かな腰が微妙にうねった。 「話は後で・・・いいっー」 二人は快感の激流に翻弄され、男の熱い迸りのなかで果てた。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 24, 2014
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「謀略の裏の裏」 (25章)にほんブログ村「洩れたな」 太原雪斎は敵城の変化を捉え瞬時に悟った。 我等は大軍である。何も慌てることはない、軍議どおり本陣から大太鼓が打ち鳴らされ、碧海台地に法螺貝の音が炯烈に響きわたった。 打ち合わせどうり、敵城包囲の合図である。 この戦術は雪斎の大いなる誤算であった。これまで今川勢は安祥城を単独で、攻撃した事がなかったのだ。この城を巡っての合戦は専ら三河勢と織田勢が激戦を繰り返してきたのだ。 そうした事で安祥城が要害の地にあることを十分に知らずにいた。 安祥城は、西三河を流れる矢作川西岸の碧海台地西部にある舌状台地の先端に位置していた。碧海台地周辺、特に南部は安城ヶ原と言われ、雑木林が生い茂り、湿地や沼などが点在する荒地だった。 安祥城の周りは雑木林と湿地に囲まれ、森城とも云われた。 そうした意味で安祥城は、雑木林と沼地に守られた自然の要害であった。 そのため小城ながら攻めるに難く、碧海郡の刈谷を除き、ここに点在する松平家の諸城の要とし、本城である岡崎城防衛の最前線でもあった。 織田家にとり尾張に今川家の力が及ばぬよう、今川家の三河領有を阻止する足がかりであり、松平家にとっては岡崎城防衛のために失ってはならぬ城だった その為に何度となく両家は、この城の攻防を繰り返してきたのだ。 今は織田勢が城の主であり、織田信秀は平手政秀を将とし援軍を派遣していた。 城内の将兵は信虎の放った小十郎により、今川、松平の連合軍の攻撃を知り、頑強に守りを固め、待ち構えていた。 案の定、早朝を期して大軍が雲霞のように城に迫ってきたが、城内の将兵の戦意は旺盛で、喊声を挙げで敵勢を迎えたのだ。 守将の織田信広は南方の守りを平手政秀に命じた。 平手政秀は手勢を引き連れ、南の守りに就いた。季節は十月半ばで雑木林は、紅葉で彩られ見事な光景を見せていた。 併し、前方を物見すると稀にみる堅固な地形である事が分かる。 大手門に進出した、先陣の松平勢から一斉に弓矢が放たれた。 矢が唸りをあげ城内に射ち込まれた。 手ぐすねを引いて待ち受けていた織田勢が大手門から突撃を開始した。 黒鹿毛に跨った織田信広が自慢の槍を振り回し先頭で突きかけてきた。 血潮が飛沫、血戦が繰り広げられた。今川勢は数を頼りに防戦に徹した。 「勢が鋭い」 これは織田兵の戦意と攻撃の烈しさが、今川勢を凌ぐという意味である。 本陣の雪斎は織田勢の猛攻を見て伝令を走らせた。「無理押しはならぬ、押されたら敵の攻撃の流れに身を任せよ」 彼我入り乱れた血戦が続いたが、寡兵の織田勢は出血を強いられ城内に退き。攻城戦は膠着状態を迎えた。 雪斎は吉田城主の伊東元実(もとざね)に五千の兵を授け、桶狭間の地に軍勢を派遣した。これは織田勢の救援部隊を阻止する為の策である。 流石は太原雪斎は稀代の軍師である、鮮やかに両戦の策を施したのだ。 案の定、織田信秀は加勢の勢を率い討って出たが、伊東勢に阻止され駆けつける事が出来ない。両軍は膠着したまま一ヶ月あまり睨みあいが続いた。 今川勢の本陣で戦評定が開かれている。太原雪斎は法衣を纏い床几に腰掛け、屈強な旗本衆が厳重な警戒を行っている。「このままでは出血を強いられる、よって戦術の転換を図ります」「どのような策にございます」 朝比奈泰能が興味を示している。 雪斎は前例の無い城の南方からの攻撃を松平勢に命令した。前述した様に安祥城周辺は荒地で、特に南側は攻撃が困難であり、織田勢に気の緩みがあった。 突然、今川勢の猛攻を受けた織田勢は、平手政秀が本城に逃げ戻り、南の守りが弱くなった。ここにきて漸く織田勢は不利な状況に陥ったのだ。 このとき今川勢は火縄銃を効果的に利用したとされる、この頃から火縄銃が合戦に使われるようになったのだ。 潮時を計っていた太原雪斎が軍議の席で重い口を開いた。「甲斐の古狸の申すよう、明朝、降伏の軍使を遣わす」「雪斎殿、使者は拙者にお任せ下され」 猛将で聞こえる朝比奈泰能である。「どなたを使者に為さる?」 「我が家の縁者の朝比奈元智(もとちか)を遣わします」「うってつけに御座るな」 雪斎の眼が柔和となった。朝比奈元智は勇猛な武者として聞こえていた。 今川勢の基本方針が決まった。翌朝、鹿角兜に黒糸嚇しの大鎧の朝比奈元智が、軍使として安祥城の城門に白旗を差し出向いた。「今川家の朝比奈元智と申す。使者の口上を申しあげる、織田殿は城を開き 降伏恭順なされよ。将兵の命は保証いたし国許への帰還をさし許す、さもなくば、数日後に甲斐より援軍到着いたし、我等は力攻めで城を磨り潰す。半刻後にしかるべきご返答をお聞かせ下され」「ご使者の口上、しかとお聞きいたした。ご返答は後刻必ず申しあげる」 織田信広が城壁に仁王立ちとなって返答した。 「さらば半刻後に罷りこします」 今川勢の本陣は静まり返り城の変化を見守っている。異変が生じる筈である。 「雪斎さま、城内より火の手があがりました」 物見の兵が大声を挙げた。 黒雲が城内の裏手から一筋、二筋と立ちのぼり始めた。城内から慌ただしい兵等の声が聞こえてくる。 大手門が八の字に開き、無念の形相をした織田信広が現れた。背後に一人の小男が、槍の穂先を信広の背にあてがっている。 「あの小男が信虎さまの言われた忍び者じゃな」 本陣の今川家の武将達が前方を見据えて話しを交わしている。「馬引けー」 太原雪斎が下知をし、騎乗しゆったりと大手門へと向かった。「汚し、今川勢」 織田信広が顔面を染め、喚(おめ)き声を投げつけた。「我等が汚しとは聞き捨てならぬ」 「そこもとは?」 「今川の軍師、太原雪斎にござるよ」 「そこもとが太原雪斎殿か? 開城を勧めながら、内応を計るとは汚し」 「信広殿、合戦とは汚いものにござる。勝利せねば国が亡びます」 太原雪斎が信広から小男に視線を移し声をかけた。 「そなたの名はなんと申す?」「小十郎と申します」 返答し槍の穂先を信広の背にあてがい、周囲を警戒の目で見廻している。 相変わらず抑揚のない声の持ち主である。 「信広殿、約束どうり兵等の命は保証いたす。降伏なされ、これも戦国の習え」 「誓って約定は守って頂けるな」 信広が無念の顔付をみせて訊ねた。 「ご心配めさるな、我等も武門に生きる者。小十郎とやら、お連れいたせ」 織田信広が今川勢の本陣に着くと安祥城から、続々と籠城兵が織田領に引き あげを開始した。ここに約一ヶ月半余の攻防戦が終焉したのだ。 ただ驚いた事に、今川の武将連が気づいた時には小十郎の姿は忽然と消えう せていた。ここに信虎の策が成った、彼は今川家の兵士と軍資金の消耗を望ん でいたのだ。微々たる事だが、これにより甲斐は一層強力となる。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 22, 2014
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「謀略の裏の裏」 (24章)にほんブログ村 この朝比奈泰能は氏親、氏輝、義元と今川家三代に渡って仕えた宿老であり、大永六年(一五二六年)に制定された「今川仮名目録」には、三浦氏満と並ぶ重臣として記され、今川家における外交文書などには、太原雪斎とともに名を連ねている。遠江の要衝で知られる掛川城を居城とし、義元の西方の遠江、三河への戦略を常に助ける働きを示した。その一環とし今年の三月の小豆坂の戦いでは、総大将の太原雪斎を補佐し副将として出陣した。 この時、織田は安祥城の守備を織田信広は任せていた。今川、松平連合軍二万の猛攻を受け追い詰められた信広は、深入りした松平の先鋒本多忠高を討ち取り、浮き足たった今川勢に対し、城内より打って出て撃退に成功したのだ。 そうした意味でも今川家にとり、朝比奈泰能は有能な武将で知られていた。「朝比奈殿のご質問には答えずば成りませぬな。三河の岡崎衆を手の内にいれ、今川勢の先鋒として活用せねばなりませんな」 信虎が魁偉な容貌をみせ質問に答えた。「我等今川家は先年より岡崎城に将兵を送り込んでおりますぞ」 三浦成常が今更何をというと顔つきをしている。「お味方と先鋒は違いますぞ、先鋒は烈しい戦いで損害も大きうござる」「成程」 義元が納得顔をしている。「信虎さま、ここは駿河にござる。駿河には駿河の方法もございますぞ」 三浦成常が小馬鹿にしたような言葉を懸けた。「この戦国乱世、何が起こっても不思議ではござらん。内応という手もござるぞ」 信虎が三浦の言葉に反発した。「岡崎衆が内応いたすと申されますか?」 三浦成常も声を荒げた。「わしは何が起こっても可笑しくないと申したまでじゃ」 信虎の巨眼が細まり、戦場往来の武将の迫力が身内から湧き揚がった。「そうじゃな、田原の戸田康光の裏切りの件もござればな」 太原雪斎と信虎の視線が絡みあった。 この男、戸田康光の謀反の元がわしと疑っておるなと、瞬時に悟った。「わしなれば再度、安祥城を攻めますな」 信虎が義元に視線を移し断言した。「織田の最前線、我等は三月に完膚なく敗れましたぞ」 義元が顔をしかめ、雪斎と朝比奈泰能が顔を固くした。「わしの策は城を奪うことではござらん。信広を捕虜といたすにあります」「なんとー」 義元と二人の宿老が顔を見つめあった。「信広と織田に人質となっておる松平竹千代と交換いたしますか?」 太原雪斎が信虎の真意を読み、小さく呟きみずから肯いた。 「雪斎、竹千代の交換が叶うならば駿府の人質といたせるの。そうなれば岡崎の者共は、我家に反抗する事は出来ぬな」 義元の眼がきらりと光った。 「拙僧もそう考えておりましたが、なかなか織田勢は頑強にござる」「舅殿は隅におけませぬな、だが内応者が居なくては事はなりませんぞ」 義元の疑問に三人の重臣が、一斉に信虎に視線を向けた。 「この信虎にお任せ下さるか?」 信虎の言葉に四人が顔を見合わせた。 「甲斐の古狸がお礼を致す。今こそ老骨を今川家のお役にたてましょう」 信虎が背筋を伸ばし、野太い声を発した。「何か策がございますか?」 雪斎の問いに信虎が破顔で応じた。「昔日の事にござる。わしがご当家と敵対関係にあった時期、岡崎城に忍びを入れておきました、それが役立ちましょう」「なんとー、忍び者を」「左様」 「雪斎、直ちに大軍で押し出せ」 流石は今川義元、凡庸の器ではない決断が早い。「信虎さま、忍び者との連絡方法はいかに?」「城を包囲し城兵の命と交換で信広を虜囚となされるか、忍び者を使うかは、雪斎殿のお考え次第。もし忍び者を使われるならば、武田家の軍勢の来援が近いと城内にお知らせなされ、必ず内応いたす者が出る筈にござる」「舅殿を駿府にお招きいたし助かったの、晴信殿ではこうはゆくまい」 義元の言葉に信虎が苦い顔をした。「ところで舅殿、晴信殿一向に動こうとはされませんな」「倅の奴、女色に溺れ合戦を忘れた模様にござる。面目もござらん」「子作りも兵事じゃ、そこのところが余には恐い」 義元の眸子の奥に、疑惑の色が浮かんでいる。「信濃平定まであと一歩で足踏みを致してござる」「いやいや、国内の地盤を固めて居ると余のもとに知らせがござる。すえ恐ろしい武将と成られましょう」 義元が歯牙にも掛けずいう態度で信虎を慰めた。 駿河は山深い甲斐なんぞとは違う、そう義元は思っていた。 今川勢が三河に大軍を向けたのは十月半ばの時期であった。藤枝から大井川を渡河し、掛川(かけがわ)城に着いたのが翌日の夕刻である。 総勢一万五千名、総大将は太原雪斎、副将は朝比奈泰能である。 更に軍勢を進め天龍川を越え引馬城で一泊し、浜名湖を右手に見て吉田城に軍勢を止め将兵の士気を鼓舞した。 翌日、一気に豊川を渡り矢作川の手前の岡崎城に着陣したのは四日後である。 この岡崎城の大広間に今川家、松平家の武将を集め部署割りを行った。 岡崎城からは安祥城は目と鼻の先である、早朝に総攻撃と決した。 軍議が終り太原雪斎と朝比奈泰能が、酒を酌み交わし戦術を練っている。「雪斎殿、古狸の申したとおりの戦を為さいますか?」「いや、我等は大軍じゃ。秘かに軍勢を発し安祥城を十重二十重に包囲いたす。 城内に乱れが見えれば、将兵の命と引きかえに信広の身柄を拘束いたす」 雪斎が自信を示し、ぐびっと杯を干した。 翌日、今川、松平勢二万が足音を忍ばせ、矢作(やはぎ)川を通過し夜明け前に城を包囲した。 だが城方は今川勢の攻撃を察知していたのだ、ここにも信虎の謀略が施され ていたのだ。小十郎は城に忍びこみ今川勢進攻の情報を城内に洩らしたのだ。 夜が明け染め今川勢、松平勢が息を飲み込んだ。城には旗指物がへんぽんと風に靡き、どっと嘲笑うような喚声が沸きあがったのだ。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 20, 2014
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「乱世の予兆」 (23章) にほんブログ村 信虎は朝の茶を喫している。甲斐と違い茶所の駿河の茶は殊の外に旨い、飲むたびに感心する信虎であった。「さて、もどき殿をけしかけて早う上洛の決意をさせねばならぬな」 と低く独語した。 信虎は翳で義元をもどき殿と言うようになっていた、訳は簡単である。 義元が城内に居る時は、何時も烏帽子、直垂を着用し、歯を鉄漿に染め京の公卿の真似をしている姿を、嘲笑し揶揄した言葉である。 事実、短足、胴長の義元には、どう見ても似合う姿ではなかった。 言い得て妙とはこの事である。 信虎の脳裡には最近はそればかりが過っている、その時がきたら織田家に味方をし、もどき殿の首級を織田信秀に授けてやる。信虎は遠大なる計画を練っていたのだ。 蹴鞠(けまり)を楽しみ武技を疎む、義元が肥沃の駿河、遠江、三河三国の太守を名乗り、東海一の弓取りと称している事に耐えられないのだ。 今にこの地は倅の晴信が手にする、甲斐は海を得る。これが夢となっていた。「小十郎に御座います」 唐突に信虎は夢を破られた、庭先から低い声が流れてきたのだ。 「お弓に雇われた忍び者じゃな」 信虎は気さくに濡れ縁に足を運んだ。 庭先に風采のあがらぬ、小柄な男が跪(ひざまず)いていた。「わしが信虎じゃ」 「存じあげております」 忍び者の言葉に信虎が不審そうな顔をした。「御屋形さまとお弓殿の閨ごとしかと拝見いたしました」「なにっー」 信虎の驚きの声に小十郎と名乗る小男は、表情も変えずに肯いた。 信虎の巨眼が細まり頬がひきつった。 「お弓に悟られずに覗いておったのか?」 声に怒気が含まれている。 「知れたら、今頃は三途の川を渡っておりましょう」 全く抑揚のない声の小男である、信虎がしげしげと凝視し哄笑をあげた。 彼はこのような奇妙な男を好む性癖があった。 もともとお弓との情事を他人に見られても、信虎と云う男は恥ずかしさなど微塵も持ち合わせた人物ではなかった。 男女が抱き合い交合することは、当たり前の行為と感じていたのだ。 「そちに仕事を命ずる。直ちに安祥城に潜りこめ」 「何をいたします」「近々、今川勢が安祥城に攻寄せよう。安祥城の守将は織田信秀の長男の信広(のぶひろ)じゃ、城が陥る前に織田信広を虜といたせ。殺すでない」「して信広殿はいかが計らいます」「今川の総大将は太原雪斎とみる」 信虎が太い腕を組んで思案している。小十郎はその間、無言で待っている。「今川勢から甲斐の援軍が直ぐに着陣すると、城内に声を懸けたら信広を捕虜に致し、太原雪斎にわしからの手土産と申して引き渡せ」「判り申した」「まだあるぞ、潜り込んだら、今川勢の攻撃が近いことを吹聴いたすのじゃ」「・・・・」 小十郎が無言で肯いた。信虎の策は織田、今川の兵力の消耗にあった。 両家が戦えば将兵も財力も消耗する。そうなれば武田家が得をする。「これからは、わしの下で働くのじゃ、じゃがお弓を抱いてはならぬ」 「はっ」 小十郎は抑揚のない声を残し庭先から消え去った。 ここで織田信広と言う人物を紹介しておく、信秀の長男として誕生したが、生母が側室という立場から家督の相続権はなかったらしい、母親の出自は不明である。側室とは言われているが、信秀が召使の女に手をだし、産まれたのが信広のようだ。信長の庶兄とは認識されておらず、織田弾正忠家の一族扱いであった。信長は正室から生まれ織田家の嫡男となった。随分と年が離れていたが、勇猛果敢な猛将として聞こえていた。 父の信秀は彼を信頼し、三河の最前線の安祥城の守将を任せていた。 信広は一度、父の死後に斎藤家と図って信長に反旗を翻したが、破れ、信長に許され、織田家連枝の重鎮とし尽し、長島一向一揆の際に討死を遂げた。「さて、わしの出番は暫くない。もどき殿に面会し上洛を焚きつけるか」 信虎は着替え駿府城の奥に向かった。小姓の川田弥五郎が信虎の愛刀の三尺余の兼光を携え従っていた。 「弥五郎、麻衣とは睦まじくしておるか?」「はっ」 川田弥五郎が顔を染めたが、年月と共に逞しい武者に育っていた。「早う子を為せ、わしが晴信に推挙してやろう」「大殿さま、拙者は何時までもお供つかまつる所存。我が子も大殿さまにお仕え させます」 その言葉に信虎の魁偉な顔が歪んだ。「わしはそれまでは生きてはおられまい」 信虎は既に五十五才となっていた。「弥五郎、そちの心根は嬉しい。甲斐の武田が天下を奪う。仕えるのは晴信じゃ」 大広間では義元と太原雪斎に二人の重臣が待ち受けていた。朝比奈泰能と三浦成常(しげつね)の宿老の二人であった。 「ご免こうむりますぞ」「舅殿、相変わらずご壮健の様子、義元、安堵いたしました」 相変わらず義元は、烏帽子、直垂を着用し、鉄漿で歯を染めている。 「何時もながら身形を整えられ感服いたす」 信虎が世辞を述べ定めの座に腰を据えた。小姓の弥五郎は廊下に控えている。 「織田が何かと五月蠅そうござる。信虎さまに良きご思案はございませぬか?」 雪斎が桜色の顔をみせ柔和に語りかけた。「織田と斉藤が手を結んだと小耳にいたした、厄介な事にござるな。この爺にも いささか考えがござる」 「なかなかと素早い事にございますな」 三浦成常の声に棘が感じられる、彼はなかなかの策謀家で知られていた。「舅殿、その考えとやらをお聞かせ下され」 義元が興味を示した。「甲斐の古狸の言葉なんぞ信じて頂けますかな?」「いやいや信虎さまは甲斐を統一された戦巧者、是非ともお聞かせ下さい」 朝比奈泰能が戦場焼けした顔で膝を乗り出した。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 17, 2014
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「乱世の予兆」 (22章) にほんブログ村 翌年の天文十八年、さらに不気味な事件が勃発したのだ。 前年の小豆坂の合戦で今川軍が織田軍を破り,松平家の状況も好転しはじめた。 その矢先、当主の松平広忠(ひろただ)が家臣の岩松八弥により殺害されるという事件が起こった。松平広忠は二十四歳の若武者であった。 この事変は衝撃となって今川家に襲いかかった。 松平家があってこそ今川家は、織田の脅威を真面に受けずに済んでいたのだ。 この広忠の殺害は謎の多い事件であった。 織田信秀、今川義元が関与した事件だと人々は、翳で噂をした。 織田家にとっては三河で今川家の先鋒となり、頑強に抵抗する広忠の存在は、大いに邪魔であった、今川家の本音も三河の地を自領とすべき野心はあった。 その兆候を裏付ける事が広忠の父、つまり家康の祖父である清康の死である。 三河を統一した清康は尾張に攻め込み、織田信秀の弟、信光の守る守山城を攻めた。この合戦の最中に家臣の阿部弥七郎に斬殺されたのだ、これによって松平勢は、森山崩れといわれる大敗を喫することに成った。 松平清康二十五歳の時である。 このように三河松平家の若い当主が、同じように家臣に暗殺されるとは如何にも出来過ぎており、この暗殺の裏に他国の魔の手が見え隠れすることは否めない。 まさに戦国乱世は一寸先は闇の世界であった。 今川家はこの機会を逃さず、直ちに三河の地に大軍を発し岡崎城に入城した。 駿河の今川家にとり、天から降って湧いたような幸運であった。 これまで何度となく大軍を送り込もうとしたが、三河松平家は頑として拒否をしてきたのだ。一度、領内に今川勢を入れたら本当の意味で属国となる。 こうした理由で拒んできたが、この事件から主が不在と成り、幼君の竹千代は織田の人質と成っていた。 こうして岡崎城は主を失い今川家の属城となり、三河岡崎衆の長い苦闘の日々が続く事になるのだ。 甲斐の武田家は前年の傷を癒し静まっている。来るべき小笠原長時を屠(ほふ)る策を秘かに練っていた、その一環として信濃各地の豪族をさかんに調略していたのだ。小笠原、村上方の豪族たちは武田家の威勢のまえに、続々と誼(よしみ)を通じ、武田家の軍門に降っていた。 晴信と勘助は軍勢の再編に乗り出し、若き武将の育成に意を注いでいた。 急速に武田家の傷は回復し、何時でも信濃に討って出られる態勢が整ったが、国主の晴信は動こうとはしなかった。彼は女人に興味を示し、人質として古府中に連れ帰った美貌な女人を、次々と側室にし子を為していたのだ。 特に諏訪の息女、衣湖姫に執着し、彼女の許に頻繁に出向いていた。 傍からは合戦を忘れたように見えるが、勘助のみは満足の笑みを浮かべていた。 甲斐源氏の武田家の血統を絶やさぬためにも、お子は何人でもいる。特にご息女は貴重であった。彼女等は武田家の犠牲者と成る運命であった。 男子ならば武将に育てあげ、武田勢の一翼を担ってもらうが、ご息女は家の為の犠牲と成って、他国の大名の正室、側室になる運命であった。 今の御屋形さまは種馬で結構である、それでいいのだ。ここ一年は動いてはならぬ。領内治世に意を注ぎ、強力な地盤を作りあげねばならない。 宿老達は一様に、「山本殿、御屋形さまは女子に現っを抜かされたか」 と苦言を呈するが、勘助は無視を決め込んでいた。「今に動かれる、武田家の御旗どうりにな。疾きこと風の如くでござるよ」 勘助一人が嬉しそうに胸裡で呟いていた。 こうして晴信が正式に側室とした女性は、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人ほか二名と云われている。 (三河荒れる)「お弓よ、久しぶりに抱くそちの女陰(ほと)は具合が良いの」 信虎が荒々しい呼吸を吐き出し、お弓の耳元に囁いた。「大殿さまも年のわりには元気者じゃ」 駿府の隠居所の寝所で信虎は、お弓の熟した女体を抱きしめ、睦言(むつごと)交わしあっている。 今も信虎の猛々しい一物が、お弓の秘所に埋め込まれている。 「大殿さま、口吸いましょうか?」 お弓が信虎の舌に舌を絡め喘いだ。「今度は、わたしを何処に行かせようとお考えですか?」 お弓も心得ている。信虎が抱いてくれると必ず仕事が待っている。「甲斐と信濃じゃ、晴信の奴めすこし悠長すぎる。未だに小笠原なんぞに振り回されておる、そちの推挙した山本勘助も同じじゃ」 「どういたせと仰せじゃ」「勘助のことでそちは、わしに隠し事はないか?」 「大殿さまは妬いておられますのか?」 お弓が信虎の乳首に舌を這わせ、媚びた痴態で笑い声を挙げた。「馬鹿め、何でわしが妬かねばならぬ」 信虎が荒々しく腰を突きあげ、お弓が歓喜の呻きを洩らし、信虎の動きにあわせ腰を蠢かした。 「第一の目的は晴信の側室、諏訪御寮人を労咳に似せて殺すのじゃ。晴信の奴めあの女に現っをぬかし合戦に身が入らぬ」 「あい」「勘助にも申せ。小笠原長時や村上義清なんぞ早う始末いたせとな」 「・・・良いぞ」 「こうかい」 お弓が女陰を小刻みに収縮させたのだ。 くノ一とは男を喜ばすこうした手管にも長けていた。 信虎が漸く果て、お弓の豊かな乳房を弄び、「いま申した事は忘れるでないぞ、さて刈谷城で雇った忍びは何処におる?」「小十郎と申す。一度わたしと抱きおうた。勘助殿とも一度じゃが寝た」 お弓が濡れぬれとした眸子で信虎を見あげた。「そちは誰とでも寝るのか?」 信虎が魁偉な眼を剥いた。「あい、仕事ならば何でもしますぞ」「先ずは諏訪の女に毒を盛れ、後で小十郎とやらをわしの元に来させえ」 暫くすると信虎は太い鼾をかいて寝込んだ、お弓がそっと起き上がり信虎の寝顔に見入いっている。「わたしが好いたお方」 女忍びは信虎を愛していたのだ。 愛情があるが故に、信虎を慕い甲斐から駿河に来たのだ、しかし務めとなれば誰にでも膚を許した。げに魔訶不思議な女忍びの感情の在り様である。 その日を境とし、お弓は駿府城から姿を消し去った。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 15, 2014
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改定・武田源氏の野望 (21P) (乱世の予兆)にほんブログ村 甲斐は四月を迎え、早咲きの桜が人々を楽しませる季節になっていた。 上田原の合戦で手痛い敗北をうけた古府中の、武田家の居館、躑躅ケ崎館の主殿で晴信と勘助の主従が、雑談を交え話し合っていた。 心地よい風が吹きぬけ、早春らしい柔らかな日差しが射し込んでいる。「勘助、余は慢心しておった。そのために板垣信方と虎泰を死なせてしもうた」 晴信はこの頃から言葉を変え、己自身を余と呼ぶようになっていた。「御屋形さま、拙者も軍師の資格がございませぬ。信方さまが危惧された時にお諌めいたしておれば、我等はこのような犠牲を出さずに済みました」「申すまい。勘助、今後じゃが信濃の動きをどう予見いたす」 晴信が隻眼の勘助に冴えない視線を移して訊ねた。「村上義清は最早、独力では立てませぬ。だが暫くは信濃は荒れましょうな」 勘助が遠くをみる眼差で答えた。 晴信が黒々としたもみあげを伸ばした顔をしかめた。「荒れる?」「小笠原長時が、またぞろ蠢動いたしましょうな」「あの山猿、またもや反抗いたすと申すか?」 「また諏訪の地を狙いましょう」「郡代の板垣信憲では心もとないか?」 「いや、あの激戦で父を討たれながら隊を纏めたるは非凡。しかし長時はそうは思いませぬ」「組し易(やす)しとみて諏訪を狙うか」 晴信の顔に生気が戻ってきた。「今度は生かしてはおけませぬ、奴の居城、林城も落としましょう」「今度の合戦で小笠原長時は最後と成るか?」「左様、ところで御屋形さま武田家の軍制を改める時が参りましたな」 勘助が唐突に言葉を変えた。「どのように改める?」 初めて晴信の顔に興味の色が浮かんだ。「合戦とは若い者の遣る事にございます。大殿と一緒に戦って参った武将達は、すべて年老いました、これからの合戦は若くて将器のある武将に任せましょう」 これは勘助の念願であった。 「合戦はそのように簡単なものではないぞ」 晴信が勘助の考えに注文を付けたのだ。「独自の軍制を作らねばなりません。それが御屋形さまの務めにございます。新しき戦術、新しき武器、新しき情報網、これらは武田家棟梁の御屋形さまが作りあげねばなりません」 勘助の血潮が躍り、晴信は無言で勘助の次ぎの言葉を待っている。「敵を知り己を知れば百戦危うからず、古来よりの言葉にございます。相手の弱点を知るには、忍びを敵地に潜り込ませねば成りませぬ」「判った。諸国に間者を出そう、誰よりも早く各地の動きを知る、それを成せと申すのであろう」 「御意、軍制もしかりにございますぞ」「勘助、先ずは間者の件じゃ、余にも考えがある」 晴信の顔に自信が漲っている。「望月千代女さまにございましょう」 一瞬、晴信の言葉が詰まった。「何故、分かった?」「これでも武田家の軍師にござるぞ」 勘助は平蔵から千代女の情報を得ていたのだ。 望月千代女は武田家の動きをみて、将来を見据えた動きをしていたのだ。 彼女は歩き巫女の養成のため、信州小県郡祢津村の古館に甲斐信濃巫女道の修練道場を開き、若くて美貌な女性を間者とすべく修業を行っていたのだ。 この会談から晴信は積極的に軍制改革に乗り出した。 勘助の案じたとおり、夏の暑い日に諏訪より早馬が駆けつけてきた。 小笠原長時が突然諏訪に軍勢を向けたのだ。七月十一日、晴信は武田勢の総力をあげ躑躅ケ崎館を出陣した。 武田の先鋒は諏訪郡代の板垣信憲で、信憲の抵抗にあい小笠原勢が塩尻峠に滞陣中との知らせをうけ、騎馬武者を主力とし秘かに攻撃の機会を窺っていた。武田勢の誇る騎馬勢が一気に塩尻峠の小笠原勢を強襲した。 小笠原長時は勝弦峠(かつつるとうげ)で態勢を建て直し、武田勢に当たったが、晴信の巧みな用兵で防ぎきれずに敗走した。 武田勢は追い討ちをかけ、小笠原長時は懸命に防戦しつつ居城の林城に逃げ戻り篭城した。晴信は力攻めを避け、再び武田家が信濃の主導権を取り戻した事に満足し軍勢を引いた。 この晴信の戦術を見た勘助が一番に感動した、悪戯に犠牲を出さない戦法に、晴信の成長を見たのだ。 この年は武田家にとっても各地の大名にとっても激動期に入る、前兆を示す年と成った。 織田家は二月に、小豆坂(あずきざか)で今川勢に二度目の戦いを挑み、太原雪斎が指揮する今川勢に完膚なく敗れた。尾張領内に不穏な動きを抱える信秀は戦略転換に迫られた、領内の豪族のきな臭い匂いをかぎ取っていたのだ。 その解消策として秋に、美濃の斎藤道三と講和を結んだ。美濃にも斎藤道三を快く思わない美濃三人衆が寝返り、領内平定を急いでいた道三にとり織田家との講和は望むところであった。 こうした両家の思惑の一致で、織田信長と斎藤帰蝶(濃姫)との婚儀が執り行われた。美濃の蝮と異名された斎藤道三が恐れた、美濃三人衆とはいかなる者か、美濃は複雑な地であった、歴代の国主は彼等三人衆を抑えねば、領内の統治が巧く行かなかった。彼等は西濃三人衆とも云われ、美濃西部に勢力をもった戦国武将、稲葉伊予守良通、安藤伊賀守守就、氏家常陸介直元の三名をさす。 土岐氏,斎藤氏に仕え西濃地方に、共同の独立的勢力を確立し、侮れぬ力を保持していた。 特に稲葉良通は三人衆筆頭とされ美濃曽根城主で、一鉄と号し、後年の一徹の語源となった、強情一徹者の武将であった。 この織田家の動きは駿府の義元にとり脅威となった。本格的に織田勢が三河攻略を示す動きと看破した太原雪斎は、翌年に大軍を三河に進攻させる準備を秘かに始めていた。 併し、この今川の策は危険を孕んだものであった。三河松平家の当主、広忠は若干、二十四歳の若武者であったが、三河を守るために今川家を頼り、従順な属国とし、今川家の先鋒となって織田勢と戦ってきた人物であった。 この当主を盛り立てんと岡崎衆は、一丸と成って結束していたが、今川家が三河に、大軍を派遣するようなことがあれば、織田家に寝返るかも知れない。 戦国乱世とは、明日をも予見させない非情な世であった。 さらに晴信にとり恐るべき人物が権力を握る事となった。それは越後の龍、長尾影虎である。彼は年の暮れに関東守護上杉定実(さだざね)の調停により、兄の晴景(はるかげ)の養子となり、春日山城で長尾家の家督を継いだ。 影虎十九才で越後一国の棟梁となった。ここに戦国大名として稀有な(けう)な武将が誕生をみたのだ。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 13, 2014
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改定・武田源氏の野望 (20P) (宿老の討死) 村上勢は丘陵を巧に利用しながら、雲霞(うんか)のように殺到してくる。 武田勢の鉄砲足軽が前衛の守りに入り、銃が火蓋をきり辺りが硝煙に覆われた。それを合図に喚声が沸きあがり、板垣勢が突撃を始めた。 先頭はつねの如く板垣信方が愛馬に跨り、愛用の大身槍を小脇に抱えている。みるみる敵味方の距離が縮まった。 どっと敵味方が激突し、そこかしこに猛烈な闘いが開始された。「強いー」 山本勘助が唸った。 村上勢はせいぜい百名か二百名の騎馬武者の一団であるが、板垣勢は十倍はする軍勢を三段に構え、板垣信方を頂点として突き進んでいる。 当たるや敵の騎馬武者が馬上から落馬した、併し、村上勢もしぶとい蟻が群るように小集団となり、恐れもみせず果敢に反撃している。 その様子を見た、二陣の甘利勢が仕掛けた。 赤備えと黒備えの騎馬軍団が敵を突き崩し、怒涛の勢いで彼方の丘陵に消えた。武者の喊声と怒号、騎馬の嘶きのみが聞こえるのみである。 勘助に訝しい思いが湧いていた。今まで経験したことのない感覚である。 この上田原の台地は大軍を動かす地形ではない、そう悟った。 土地は広大であるが、所々に樹木が生え茂り、兵馬の前進を遮るような丘陵が眼につく。矢張り物見をすべきであった、その後悔が奔り抜けた。「お頭、敵の本隊が現れましたぞ」 傍らに勘助の槍を持った平蔵の声がした。 勘助の隻眼も新たな敵勢を捉えていた。 前方に見た事もない騎馬武者の一団が現われ、本陣めがけ押し寄せてくる。 刀槍の煌きがはっきりと見える。「信方と虎泰はいかがいたした?」 晴信が不審そうな声をあげた。 前方より母衣武者が、凄まじい勢いで駆け戻ってきた。「板垣さま、甘利さまお討死ー」 血塗れの騎馬武者が叫び声を挙げ同時に落馬した。 「なんとー」 勘助が仁王立ちとなり晴信に視線を廻した。 「二陣を固めよ」 床几に座った晴信がすかさず下知を下した。 百足衆が指物を翻し、本陣より駆けだした、二陣の諸将も異変を察知したようだ。真っ先に飯富兵部の軍勢が動き出し、原虎胤も負けずと陣形を固める様子が見える。左右に陣取っていた武田信繁と、小山田信茂の軍勢も鶴翼の陣刑を崩さずに押し出した。こうした事態と成っても些かも動揺をみせない。 流石は歴戦を重ねてきた武田勢だけはある。 二陣は三段構えである。味方が態勢を整えた時、敵勢は目前に迫っていた。 先頭に大兵の武将が大身槍を抱えている姿が映った。丸に上の字の旗印で敵将の村上義清である事は顕かである。 火のでるような猛烈な勢いでどっと飯富勢に突きかかった。兵の怒号と悲鳴、さらに軍馬の嘶きが湧きあがった。 彼方の敵勢も徐々に合流し、小さな一団から大きな軍団へと変化させ、武田の本陣をめがけて迫って来る。「敵ながら天晴れじゃ」 勘助が本陣から隻眼を光らせ、思わず呟いた。 練りに練った戦術としれる、村上勢は脇目もふらず正面から飯富勢を裂こうと猛烈果敢に襲いかかっている。「勘助、勝てるか?」 晴信が愛刀の和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)を抜き放っている。「勝てまする。我等には後詰の兵が居ります、今に戦機が変わりましょう」 「板垣勢、戻って参りますー」 本陣の百足衆が声をあげた。 遥か彼方に赤備えの一団が現われ、怒涛の勢いで本陣を目掛け駆けてくる。「あれは板垣さまの息子の弥次郎信憲(のぶのり)殿じゃな」「甘利勢も戻って参ります」 百足衆に喜びの声が満ち溢れている。「矢張り虎泰殿の倅、昌忠殿か」 勘助の隻眼にも黒備えの一団が見えた。 あきらかに村上勢に焦りとほころびが見えはじめたが、飽くまでも頑強である。 遮二無二味方の本陣を突こうとしている。飯富勢が堪えきれずに崩れ、雄叫びをあげた、村上勢が本陣めがけ殺到してくる。「御屋形さま、お引き下され」 勘助がすかさず晴信に本陣を移すように進言した。「いいや、わたしはここで村上と一戦いたす」 晴信が勘助の進言を言下に断った。宿老の両名を失い意地になっているのだ。「何のための後詰にござるか」 「勘助、山県勢を敵の横腹に喰らいつかせよ」「はっ」 ことここに至っては戦うしかない、勘助が騎乗し山県勢に出陣の下知を与え、 「百足衆、敵が崩れを見せたら後詰の二隊に総攻撃に移るよう伝えよ」 山県勢の五百騎が猛烈な勢いで村上勢の横腹を襲った。今一歩というところで形勢が逆転した。あおりで村上義清が落馬した、どっと山県勢が殺到し遮二無二に、義清を討たんと攻めかけたが、村上勢の旗本の一団が義清を馬上にすくいあげ、風のように戦場から引きあげて行った。 武田晴信は初めて大敗を喫した、それも武田家の重鎮である二人の宿老を失い、千名ちかくの犠牲者をだし、晴信自身も軽い手傷を負ったのだ。 合戦は申(さる)ノ刻(午後四時)頃にすべて終った。 板垣信方と甘利虎泰の最後の様子がもたらされた。板垣信方は先鋒として先頭で敵を蹴散らしていたが、敵の挟撃を受け軍勢を分断された。 村上勢の攻撃は蜂のように執拗であった。阿鼻叫喚の場面が展開された。「父上、お引き下さい」 信憲が手勢を引きつれ、懸命に引くように進言したが、「そちは軍勢をまとめ本陣に戻るのじゃ。わしは村上義清を捜す」「無理にございます」 信憲の声を無視し、兜の眉庇より不敵な笑みをみせた信方が、黒雲のような敵勢の中に躍り込み、三名の騎馬武者を槍先で突き落とした。 流石は板垣信方である、凄まじい膂力(りょりょく)を見せ付けたのだ。 その瞬間、敵の足軽が信方の騎馬の腹を槍で突き刺し、馬が暴れ体勢を崩した。 見逃さず二本の槍が、深々と板垣信方の躯を突き抜けた。 気力で槍の柄を斬り捨てたが、板垣信方の力はそこで尽きた。 かっと何かを叫ぶような素振りをみせ、仰向けに地響きをあげ転がった。 最後まで晴信の事を心配しての壮烈な最期であった。 一方の甘利虎泰は先頭を駆けている最中に、銃弾を眉間にうけ最後を遂げた。 武田の誇る両将は死を覚悟しての出陣であった、晴信の驕りを諫止するための討死であった。武田勢は悄然と板垣信方、甘利虎泰の遺骸と共に諏訪に戻り、 盛大な供養を執り行い、上原城を板垣信憲に治めさせ躑躅ケ崎館に戻った。 この合戦で武田家の威信が落ち、再び領地回復の為に小笠原長時が蠢きだすのであった。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 10, 2014
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改定・武田源氏の野望 (19P) (宿老の討死) 晴信と諸将が上原城内の大広間に集まり、明日の軍議が行われていた。 床には村上義清勢との予定戦場となる上田原の大絵図が広げられている。 武将達の横には、大蝋燭が点され黒煙を漂わせている。「お屋形さま、我等の軍勢には諏訪衆や郡内衆も集まっております」 それは諏訪郡代の板垣信方の報告であった。「信方、良くぞ郡内の者共を掌握いたしたの」「これも武田家の隆盛の賜物にございます」 信方が戦場焼けした野太い声で応じている。「信方、村上勢と当たるに何名の兵を出す」「我が赤備え、二千名の準備は出来ておりまする」「そうか、あの赤備えの強さを早うみたいものじゃの」 晴信が機嫌の良い声を挙げた。「申しあげます。我等は上田原の地形に疎(うと)うございます、拙者に兵百名を お授け願います」 甘利昌忠(まさただ)である。彼は甘利虎泰の息子で使番頭として軍中にあった。 「百名の兵でなにをいたす」 晴信が興味を示して訊ねた。「はっ、これより城を出て上田原の地形を探ります。我が軍の陣立ての箇所と村上勢の本陣を確かめたく存じます」 「昌忠、こたびは無用じゃ」 晴信の声が大広間に響いた。「御屋形さま、拙者も物見の必要を感じます。なにとぞ昌忠に兵をお与え下され」 「わたしは、こたびの合戦では上田原の入口に本陣を構える、物見は無用じゃ」 晴信は数々の合戦に勝ち、知らぬ間、心の隅に驕りが生じていたのだ。 父、信虎も成し得なかった信州を手に入れようとしているのだ。「日頃の御屋形さまらしくございませぬぞ、村上義清は必死にござる。地形も判らぬ土地での戦はなりません」 板垣信方が宿老らしく眼光を強め諌めた。「信方、わたしは村上との決戦を念願しておった、これ以上の口出しはならぬ」 晴信は己の考えのままの策で、村上義清との戦に決着をつけたかったのだ。「はっ」 平伏しつつ信方は過去の合戦を思い浮かべていた。この合戦は難戦となろう、そんな予感がしていた。 御屋形さまは慢心なされておられる、誰が諫言しても耳を貸されぬであろう。 板垣信方は決しの覚悟を固めた、明日の合戦で村上義清と刺し違える。 軍議を終え信方が廊下を伝って歩を進めている、背後に甘利虎泰が続いていた。「甘利殿、我等の死に場所は上田原かも知れぬな」「死んでなろうか」 甘利虎泰が声を強めた。「甘利殿、どちらが死のうと悲しむまいぞ」 信方が不敵な面構えを見せ呟いた。「板垣殿、貴殿は死ぬ気か?」 甘利虎泰にも板垣信方の心中は手にとるように分かっている。「わしにも夢がある、武田家の隆盛する将来が見たいものじゃ」 二人の宿老は胸裡に、昔日の思いでを秘め黙々と歩を進めた。 この宿老が強敵と感ずる、北信の村上義清とは如何なる武将なのか。 村上家は信濃の筆頭大名であり、村上義清が家督を継いだ頃は信濃東部から北部までの広大な領地を治めており、守護の小笠原氏を凌ぐ勢力となっていた。さらなる勢力拡大を目論んだ村上義清は、甲斐の武田信虎や諏訪頼重と結んで真田幸隆や海野一族を追いだし、北信濃一帯に勢力を広げて村上家最大の版図を築いた武将であった。 その後、武田信虎が次男の信繁に家督を譲ろうとする等して、甲斐を追放されると、後を継いだ武田晴信に絶縁状をたたきつけて両者は相対することなった。 この度の合戦の布石は昨年にあった。昨年の七月、晴信は佐久で唯一抵抗する笠原清繁の志賀城を攻めるために佐久に侵攻した。笠原清繁は上州平井城の関東管領の上杉憲政(のりまさ)に援軍を要請した。 上杉勢は八月に碓氷峠を超えて小田井原に布陣、八月六日に武田勢と激戦となり、武田勢は上杉勢の兜首十四、五と雑兵三千を討ち取った。その後に志賀城は陥落、城主笠原清繁はじめ城兵三百余が戦死、籠城していた多くの男女が生け捕りにされ、その多くは黒川金山の坑夫や娼婦、奴婢として人身売買された。 晴信にして珍しく苛烈な報復を行ったのだ、それには訳があった。彼は何度も笠原清繁に煮え湯を飲まされてきたのだ。それだけ清繁は勇将であった。 この笠原清繁は村上義清の属将であり、後詰ができなかった村上義清は面目を潰されたと怒り、武田との対決姿勢を鮮明にした。武田方も武田領となった佐久が村上領の小県郡と接することから、一気に主力決戦で埴科から北信濃への侵攻を画策したのだ。 翌朝、諏訪を発し大門峠を越え北佐久郡の小県郡を抜けた武田勢一万五千名は、千曲川支流、産川東方の倉升山の予定戦場の上田原に陣を張った。 一方の村上義清は北信濃の反武田勢を糾合し、葛尾城、戸石城の精兵七千名を率い、上田原の産川下流の西方の天白山を背に陣を敷いた。 武田勢の陣刑は第一陣の先鋒、板垣信方の二千と甘利虎泰の二千が先陣を受けもった。二陣は飯富兵部、原虎胤、武田信繁、小山田信茂率いる四千五百が本陣の前に鶴翼(かくよく)の陣で展開を終えていた。 本陣は山県三郎兵衛率いる、騎馬武者五百騎と旗本で固められた。 武田勢は常に後詰を重要視していた。前衛が破られた時の予備兵力とし、また決戦兵力としての二つの任務をもっていた。 その武将は馬場信春、内藤昌豊(まさとよ)の二将で騎馬武者を主力とした二千である。残りの軍勢は山本勘助の命令であらゆる間道を押さえていた。 地形を熟知した村上勢の奇襲を恐れての陣刑であった。「勘助っ、刻限は?」 「辰(たつ)ノ刻(午前九時)になりましょう」 晴信は床几に腰を据え、諏訪法性の兜を深くかむり前方を凝視している。 赤備えの板垣信方と黒備えの甘利虎泰の二将が、ゆったりと本陣に姿をみせた。 両人とも戦場往来の猛将の気迫を漲らせている。「御屋形さま、先鋒を受け賜ります」 晴信が無言で二人の宿老に肯いた。 両人は拝跪(はいき)し、草摺りの音を響かせ本陣を離れた。その二人に肩を揺すった山本勘助が近づいた。「御屋形さま些か慢心気味、ご両所死なれるな。武田の合戦はこれからにござる。越後との長い勝負が待ち受けてござる」 勘助の隻眼が炎のように燃えている。「そちも死ぬなよ、武田家の旗を京に立てるまで生き延びよ」 板垣信方が勘助の肩を軽くたたき、鞍上にまたがり馬腹を蹴った。「敵勢、現れました」 百足衆の組頭が冷静な声で告げた。 広大な上田原の丘陵に点々と騎馬武者の群が姿を見せ始めている。「貝を吹けー」 本陣から士気を鼓舞する法螺貝が炯々と上田原に鳴り響いた。「御屋形さま、村上勢は決戦を挑んで参りますな。あれは捨て身の攻撃体勢です」 勘助が村上勢の進撃体形を見つめ、産まれて初めて胴震いを感じた。 続々と百騎前後の騎馬武者が何十もの集団となって押し寄せてくる。 ようやく馬蹄の音が聞こえはじめ、騎馬武者の背の旗印が見えてきた。「間違いなく村上勢じゃ」 勘助の隻眼にも、丸印の中に上と描かれた旗印が見えた。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 8, 2014
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改定・武田源氏の野望 (18P) (宿老の討死) この時期、織田信秀は越前の朝倉勢と和を結び。両家は計って二万の大軍を美濃に派兵した、原因は美濃の蝮、斎藤道三が最近、しきりと織田、朝倉領を侵略しだした事にある。これに業を煮やしての出兵であった。 その裏には今川家の軍師、太原雪斎の謀略があったのだ。 無類の戦巧者で知られる道三は、城に籠り小勢で討ってでて織田、朝倉勢を翻弄した。この戦法に織田、朝倉の連合軍は数百名を失い、敗走の途中に追撃され木曽川で、二千名ちかくの溺死者をだした。散々たる敗北を被ったのだ。 この合戦から織田家と斎藤家は宿敵となり、織田信秀は近隣諸国の全てを敵に廻すことになった。これが為に織田信秀は三河に手がまわらなくなり今川家は、領内治世に没頭できる態勢となった。 まんまんと太原雪斎の謀が成功をみたのだ。 (上田原合戦) 躑躅ケ崎館の主殿で晴信と三人の重臣が戦評定をしている。「御屋形さま、ここ数年よく我慢なされましたな」 声の主は山本勘助である。「漸く小笠原長時の諏訪の支配地も我等の手のうちとなりましたな」 宿老の板垣信方が感無量な顔つきをしている。「いよいよ念願の北信濃攻略が出来ますな」 甘利虎泰がしわがれ声で応じた。「そうじゃの、父の願いであった村上義清との勝負をつける時が参った」 晴信が応じた。彼もこの天文十七年で二十七才となり、髭跡が青々とした良い、武者面の武将に成長していた。 その間、晴信は領内治世に精をだし、天文十四年に高遠頼継、藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、四月十七日に武田勢は頼継の高遠城を陥落させた。 さらに長時の娘婿である福与城の藤沢頼親を攻めると、長時は北方の龍ヶ崎城において武田方に対抗したが、武田勢は同年六月一日に武田家の誇る、板垣信方の軍勢が龍ヶ崎城を攻撃、これを陥し、小笠原長時は敗退したのだ。 この合戦で武田家は小笠原長時が支配下に置いていた、諏訪全土を掌握し、信濃攻略を本格化できる体勢を整えたのだ。 「まずは戸石城、さらに進み村上義清の居城、葛尾城(かつらおじょう)を陥せば武田の敵は信濃からほとんど駆逐できますな。ところで御屋形さま信州の松尾城主、真田幸隆(ゆきたか)殿、なかなかの知将、我が家に与力いたしたいと申し出ております」 勘助が隻眼を細め晴信に報告した。「真田幸隆とは村上方の豪族の筈じゃ」 甘利虎泰が不審げな声をあげた。「真田が我家に与力したいと云うなら、良き拾い物じゃ。さし許す後日直々にわたしが会おう」 「早速のお赦し祝着、勘助より御礼申しあげます」「勘助っ、真田は無類の戦上手と聞く、お主とどちらが上じゃ」「板垣さま、そのような事にはお答えできませぬな、後日、遺恨の種となりましょう。じゃが武田家の軍師は拙者一人、そうお考え下され」「勘助、よう申した」 晴信がすかさず誉めあげた。 この真田幸隆と云う武将は、攻め弾正の異名をとる武将で名を馳せていた。 彼は武田家に仕官すると譜代にのみ、許されていた古府中の武家屋敷に住むことを許された。彼は感激し、ここで戦国時代で有名な六文銭を旗印とした。 三途の川の渡し賃と云われる、不吉な意味をもつ旗印である。 彼の息子が後年、関ヶ原合戦に向う、徳川秀忠の大軍を釘付けととした昌幸で昌幸の次男が、有名な真田幸村である。「ところで棒道は何処まで通じた?」 晴信の顔が引き締めて訊ねた。「申し上げます。八ケ岳から海ノ口更に北佐久郡近くまで完成をみております」 即座に板垣信方が報告した。「そうか、村上勢と顔を合わせる地点は上田原近郊になるの」「左様にございましょうな」 勘助が嬉しそうに答えた、己の考えと晴信の考えがぴったりと一致した事が嬉しかった。 天文十七年二月、古府中の躑躅ケ崎館から二流の御旗を先頭に、緋縅の鎧に諏訪法性の兜をかむった晴信が、黒鹿毛に跨り出陣した。 傍らには黒糸縅の鎧に、大角の前立て兜を被った勘助が騎馬を駆っている。 本陣は七名の百足衆と警護の旗本衆で固められている。続々と各武将に率いられた、武田の誇る精鋭部隊が姿を現した。 先頭の背負い太鼓が、軽快に打ち鳴らされ士気を鼓舞している。「飯富勢、先行いたす」 二千名の赤備えの勢が一気に駆けぬけた。「甘利勢、先行いたす」 黒備えの二千名も砂埃をあげ駆け去った。 武田家の猛将二人が先陣をきったのだ。直属部隊とし山県三郎兵衛率いる五百名の騎馬武者が轡を並べている。「見事じゃ」 思わず晴信が呟いた。今回の合戦は板垣信方は含まれていない。 彼の今の身分は諏訪郡代であり、居城の上原城で本隊を待っていた。 旗指物が数えきれないほど風に翻り、母衣(ほろ)武者が連絡のために引きもきらず駆け廻っている。直ぐに棒道に入った、武田の誇る軍事道路である。 道の両側には枯れ木が並び、一直線の道が延々と続いている。兵士と馬の息が白煙となって吐き出されている。甲斐の二月は殊のほか冷えるのだ。 総勢一万の武田勢は小淵沢(こぶちざわ)を抜け北上して行く。 今宵の宿営地は諏訪の上原城である、日暮れ前に全軍は板垣勢と合流した。 軍事道路、棒道の所為でこうした迅速な行軍が可能と成ったのだ。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 6, 2014
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改定・武田源氏の野望 (17P) (謀略には謀略で) 死去した水野忠政とは、いかなる武将であったのか。彼の娘は於大(おだい)と云う。彼女は父忠政の命で三河の松平広忠に嫁した。 当時の松平家は今川家に属し、侵攻する織田勢を三河の地で食い止めていた。 水野忠政は織田家を見限り、興隆する今川家に家の発展と存続を託した。 それが松平家との婚姻であった。その於大の産んだ男子が竹千代(家康)であった。忠政は三河の碧海郡刈谷に築城した刈谷城で、織田勢に睨みを利かせた。 今川勢の先鋒となり、三河の最前線で織田信秀(のぶひで)を抑え込んでいた。 その彼の死で三河一帯の重石がとれたのだ。 九月になるや、新しく刈谷城主となった倅の水野信元(のぶもと)は、父の死を契機とし、駿河の今川家から離脱し、尾張の織田信秀の許に奔った。 駿府城で義元と太原雪斎が対策を練っていた。義元は相変わらず烏帽子、 直垂の公卿姿である。 「御屋形、織田信秀にまんまとやられましたな」「三河の最前線は豊川までとなったの」 義元が苦い顔をした。「水野忠政の病死には、毒殺説が飛び交っております」 「なにっー」「忍び者の知らせにございますがな」 雪斎が色艶のよい顔色を見せ義元の反応を窺っている。「仕掛けた者は織田信秀か倅の信元じゃな、犯人は判らぬか?」 「そこまでは判りかねますが、いずれも利がございます」 流石の雪斎も、城内に潜む信虎の謀略とは思いせぬことであった。「雪斎、駿河、遠江(とおとうみ)は磐石じゃが弱点は三河じゃ。豊川の西の田原城、吉田城、野田城までは余も心配しておらぬがの」 「左様に、矢作川(やはぎがわ)の岡崎城が孤立しましたな。これからは松平家の動きが心配にございますな」 「松平広忠(ひろただ)いささか腺が細い、この度の水野信元との手切で折角 水野家から輿入れした、妻女を返したというが本当か?」 「真にござる。人質として取り押さえるが戦国のならい、それを離縁したとは理解し難い事にございます」 二人が話題にしている人物は、松平広忠に嫁いだ、水野忠政の娘の於大の事であった。広忠は忠政が病死し、倅の信元が水野家を継ぐと於大を離縁したのだ。 広忠はこの時、十七歳の若輩で彼には秘密があったと云われていた。 於大と結婚する前に、松平和泉守乗正の娘お久との間に勘六という子をもうけていたのだ。水野家と敵対関係に成れば、松平家の正室の於大の存在する意味はない。広忠はそう判断し、彼女を水野家に送り返したのだ。 若さ故の浅はかな行動であった。「これで水野信元、心おきなく織田信秀と同盟できるの」「御屋形、尾張の信秀いささかうるそうございます。独断で謀事を仕かけ申した」 雪斎の血色のよい顔色を眺め、義元のふっくらした顔に興味の色が浮かんだ。 「美濃の蝮(まむし)をけし掛け申した」 「斎藤道三にか?」 「我が策にのってくれれば儲けもの、織田信秀め美濃にも備えずばなりませぬ。我等への矛先が鈍れば、大いに助かりますな」「流石は雪斎じゃ」 義元が鉄漿を見せ満足そうに破顔した。 「ところで甲斐の古狸の倅はやりますな」 雪斎が珍しく汚い言葉を吐いた。「そうじゃな、先年には念願の諏訪全土を手に入れたの」「今年は動かず領内の治世に意を注いでおります。年若なれど侮れませぬな」「その為に思うように北条勢が動けぬのじや、感謝せねばならぬ」 同時に二人の哄笑が湧いた。 一方、隠居所では信虎とお弓が極秘の語らいを行っていた。信虎は昼から大杯を呷っている。「お弓、水野の件はご苦労じやった。・・・今度は田原城をなんとかいたせ」 お弓の切れ長な眼が魁偉な信虎に注がれた。「何とかせいと申されましても、御屋形さまの指図がなくば動けませぬぞ」「許せ」 信虎が皮袋を投げ出した、ずしっと鈍い音がした。「砂金じゃ。それで気のきいた忍び者を雇いいれよ」 「何をなされます?」「田原城主の戸田康光(やすみつ)強欲と聞く、織田方に寝返らせよ。三河が静かになっては晴信が困るであろう」「あい、判り申したぞ、躯が疼いて堪りませぬ、今宵は伽(とぎ)をいたしますぞ」「淫乱な女子じゃ」 信虎が淫蕩な顔をした、お弓の姿態をみつめ苦笑した。 「お屋形さま、水野忠政殿の毒殺のご褒美じゃ」 駿府城から岡崎に抜けるには、浜名湖の東の豊川との中間点の吉田城を通らねばならない。守将は今川家股肱の将である伊東元実(もとざね)であった。 その吉田城の西南に渥美半島があり、三河湾を見下ろす絶好の地に田原城がある。その城主の戸田康光の寝返りを信虎は策したのだ。 この地が織田に寝返れば駿府城と岡崎城は、緊密な連携がとれなくなる。 単純な考えであったが、この策が思いもせぬ効果をあげようとは信虎も予期せ ぬ事であった。 度々、織田信秀の襲撃に松平家は疲れ果て、今川家に救援の使者を遣わした。 これは今川家にとって願ってもない事であった、三河の地に念願の軍勢を入れる口実が出来たのだ。義元はその見返りとして広忠の倅の竹千代を駿府に人質として差し出すよう要求した。その竹千代が駿府に送られる途中の、浜名湖畔で織田方に寝返った、戸田康光に身柄を拘束され、尾張の熱田に送られたのだ。 これ以後、竹千代は二年間、熱田で織田家の人質として過ごす事になった。 この時に信長と運命の出会いをするのである。 信虎は、まさかこのような事態になろうとは思わず、戸田康光の裏切りを お弓に命じたのだ。調略には時間がかかる、その一点で早めに仕かけたのが功をそうしたのだ。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 3, 2014
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改定・武田源氏の野望 (16P) (諏訪家滅亡・・・) 甲斐は七月を迎え、蒸し暑い日々が続いている。 勘助は拝領した武家屋敷を棲家としていた。「お頭、・・・起きて下され」 寝室の勘助に忍び声が聞こえた。声で槍持ちの平蔵と知れた。「平蔵か、東光寺に異変が起こったか?」「はい、今夜も忍び者が諏訪さまの許を訪れております」「高遠頼継の手の者か?」「はい、忍び込み既に一刻(二時間)は経っております」 庭先の平蔵が低い声で報告した。「平蔵、暫くは泳がせる。そちには面倒を掛けるが見張りを続けよ」 勘助の命で、ふっと平蔵が気配を絶った。 勘助は武田家に仕官が成った時に、平蔵を槍持ちとして使うようになった。 この平蔵は勘助にとり、重宝そのものであった。 勘助がなにも命じなければ、平蔵は家事全般を行い、裏山に入りソダ類を集め、時折、鹿などを仕留めてくる。気の利いた小女を雇い入れたようなものであった。 この平蔵は望月千代女の紹介で知った人物であり、当然、彼は忍び者である。 それは梅雨の真っ盛りの時期であった。勘助は佐久の小県郡の望月家を目差していた。目的は望月家の当主、望月千代女を訪れることである。 望月家は樹木に覆われた場所にあった。樹木の間に細い道がくねくねと続き、下り道、登り道と迷路のようで、元豪族の屋敷だけある厳重な佇まいである。 勘助は青竹を杖として雨の中を歩んでいた。 漸く目的の屋敷の門前に辿り着き、手拭で首筋を拭っている勘助の前に若い女子が現れた。「山本勘助さまにございますな、主人がお待ちにございます」(流石は甲賀忍者の嫡流、望月家じゃ)勘助が声なく呟いた。 勘助は案内されるまま、奥の部屋に導かれた。そこには四十代の女人が待ち受けていた。目元の爽やかな女性が、柔らかな笑みを浮かべ、「わたくしが望月千代女に御座います。ご用向きをお伺いいたします」「全てお見通しのようにござるな、拙者が武田家の山本勘助にござる」 勘助が野太い声で名乗った。「存じておりました。隻眼で片足がご不自由なお方とお聞き致しております」「流石はくノ一を束ねる、歩き巫女の頭領にござるな」「御用を伺いましょう」「是非、貴女さまにお願いがござる。拙者に槍持ちを一人紹介願いたい」「ほほほー、槍持ちは表の顔、内実は忍び者にございますな」 千代女が涼やかな眸子で勘助を凝視し、低い笑い声を挙げた。「・・・・」 勘助が珍しく言葉に詰まっている。「そのようなお話があると存じまして、手練者を用意いたしておきました」「それは有難い」 千代女が軽く手を打つと、勘助の前に平凡な顔付の男が現れ平伏した。「平蔵と申します。ご一緒にお連れ帰り下さい」 こうした経緯で平蔵は、勘助の屋敷で同居することに成った。 天文十一年(一五四二)七月の真夏に山本勘助が、数名の屈強な家臣を引き連れ東光寺に姿を見せた。 この寺は臨済宗妙心寺派の寺で、本尊は薬師如来。甲府五山の一つして崇められてきた。仏殿には本尊の薬師如来像や十二神将像が安置されており、薬師堂とも称され。仏殿は檜皮葺きの禅宗様仏殿で知られていた。 「諏訪頼重さまをお連れいたせ」 勘助が警護の士に無表情に命じ、寺の佇まいに隻眼を這わせて待った。 頼重が姿を現した。既に勘助の訪れた用件を悟っている顔つきである。「山本勘助、我が命もらいに参ったか?」 「御意に」「余はそちに謀られようじゃな」 諏訪頼重は顔色も変えずに言い放った。「名門、諏訪さまにしては女々しきお言葉にございますな。夜ごと高遠頼継の忍び者と会合し、我が武田家に叛かれる相談を成されるとは笑止の沙汰」「・・・・」 諏訪頼重は言葉を失った。「その先を申し述べる必要もございませぬな」 先日の夜、寺から忍びでた男を平蔵が捕え、予想どおり高遠の間者であった。「武田家の悲願は上洛にござる、それには信濃平定が必要。なれど諏訪さまは、何度欺(あざむ)かれる、このままでは信濃平定はならず、ここにご自害を勧めに参りました」 山本勘助が非情ともとれる言葉を頼重に浴びせた。「貴方さまのご側室(小笠原長時の家臣、小見某の娘)がお生みなされた、ご息女は武田家が貰いうけます。名門諏訪家のお血筋は、甲斐と交わり永遠に残ります。この山本勘助が請負まする」「生まれた子が男子なら殺すか?」 頼重の顔色が心持ち青白くみえる。「武田と諏訪の結束の賜物、海道一の御大将にお育て申す」 「よう判った」 ここに諏訪頼重は自刃して果てた、享年二十八才であった。『おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ』 これが諏訪頼重の辞世の句である。 この一件は瞬く間に信濃全土に知れ渡り、諏訪郡の宮川の西を制した高遠頼継は、武田家の力に恐怖し戦備を整いだした。 これを武田晴信は待っていた。九月を迎えると高遠勢は俄(にわ)かに決起し、 武田勢の守る上原城に進攻してきた。 「勘助、高遠の奴め餌に喰らいついたは」 珍しく晴信が口汚い言葉を吐いた。「これで諏訪は武田家の版図となりましたな、直ちに高遠城に攻め上りましょう」「上原城はどういたす」 「小城ながら守りは堅うございます」「勘助、この合戦にはわたしも考えがある」 晴信が自信たっぷりの面持をしている。「何か良い策でも思いつかれましたか?」 晴信が目元を緩めて己の策を述べ始めた。 幼い寅王丸は甲斐に来て名を千代宮丸と改名していた。 高遠頼継と合戦する際に、武田勢はこの幼少の寅王丸を先頭にして戦えば、諏訪衆の者達は、武田勢に加担いたそう。寅王丸は頼重殿の遺児で正当な諏訪の血筋を引いておる、と晴信は云った。「お屋形さま、良きご思案かと思いまする」 こうして武田勢と高遠勢の両軍は宮川をはさんで対陣した。甲斐一国を支配した武田勢は大軍であり、合戦の火蓋は切ったのは武田勢であった。 先鋒の板垣信方率いる二千が猛烈果敢に宮川を渡河し、水飛沫を挙げて高遠勢の先陣と激突し、その勢いのまま本陣に突撃した。まさに鬼神のような働きである。本陣から晴信と勘助が板垣勢の働きを見守っている。「緒戦の強さは板垣信方さまが随一にございますな」 この攻撃に堪えきれず高遠勢が潰走し始め、高遠頼継は高遠城に逃げ戻った。 ここに武田家は念願の諏訪全土を手中に治め、信濃進攻の橋頭堡としたのだ。 こうして晴信と勘助は、いよいよ諏訪湖の北方の信濃守護職である小笠原長時の林城、深志(ふかし)城を次ぎなる標的としたのだ。 晴信は甲斐の治世にも意を配り、この年には暴れ川と異名をとる釜無川の洪水防止の堤防工事に手をそめ、さらに佐久郡までの棒道工事にも手を入れたのだ。これは機動力を重視した軍事道路で後に、信玄の棒道として北方の諸豪族の恐怖の的となるのだ。 武田家は甲斐と新しく得た諏訪の経営に意をそそぎ、合戦は小康状態を迎え ていた。この時期に晴信は諏訪頼重の息女の衣湖姫を側室とした。後年、諏訪御料人と言われ、勝頼を生む女人であった。 更に駒ケ岳山麓に大牧場をもうけ、騎馬隊の充実策として黒馬の繁殖に乗りだし、各支城に狼煙台(のろしだい)を設置し、情報網を構築しだした。 天文十三年の七月に刈谷城主、水野忠政(ただまさ)が病没した。 信虎の謀略が効をそうしたのだ、まんまとお弓は毒殺に成功した。改訂・武田源氏の野望(1)へ
May 1, 2014
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