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「自分の主張を正しい信ずる人達」 NO1 脱原発、原発再稼働を許さない、日本国憲法を護る、辺野古埋め立ては許さない。野党の再編成、現内閣の政策批判、戦争を望む国家に変貌する。 政権交代可能な野党再編を望むなどを妄想する人達。 今の日本にはこうした左翼的な考えをもつ人々が何と多いことか。 まさに被害妄想に取りつかれたとしか、言いようのない人達である。 何故、このような偏向的な考えを持つのか。 原発再開と言えば直ぐに、広島、長崎の原爆投下。さらに福島原発事故の話しを言いつのる。反論すると貴方は許せるのかと迫る。 そう詰め寄られれば違うとは言い難いが、自分の真の意味は違うのだ。 二度と核兵器の被害は受けたくはないし、戦争もご免である。 その上で日本人による日本国憲法の制定を成し遂げたい。 これを近現代史を少し勉強すれば今の憲法が日本人の価値観を失った憲法であることが理解できる筈である。 我が国の憲法は大東亜戦争に敗れ、戦勝国の米国のGHQの押し付け憲法である。そこには自由と権利を何回も書いてあるが、それを達成する人間としての責任、義務、そうしたものが確りと書き込まれているかご存じか? 今の憲法は米国的な価値観で作られ、日本人の持つ感性など無視したものである。日本民族は責任、義務、共助等を大切としてきた民族であった筈。 更に一木一草にまで心を配る日本人の感性が抜け落ちている。 そんな憲法を後生大事に70年も護り、その間は戦争がなかったと言う人達。 これは当たり前の事である。戦後、ソ連と言う新たな敵が現れ、冷戦という時代が長年渡り続いたのだ。 この冷戦という戦争は、お互いに核を持ち使用できない睨みあいの戦争である。これにより日本は戦争に巻き込まれる事無く過ごすことが出来たのだ。 勿論、日米安保のお蔭も確かにあった。 なにも憲法があったからではない、それを左翼思想の人は平和憲法があった為に平和に過ごす事が出来たと言いつのり、絶対的なものとし信じきっている。 日本人の手で新たに作りたい憲法を、戦争をするための憲法と決めつけている。まことに馬鹿な議論である。世界は大きく変貌しトム・クランシ―の小説のように「今、そこにある危機」を見ぬふりをして憲法改正に反対しているのだ。 現憲法前文には、このように書かれている。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民(中国)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 貴方は諸国民(中国、韓国)の公正と信義を信頼して安全と生存を任すことができますか? 細かい事を書きません。最近の中国の恫喝、韓国の捏造した歴史認識の押し付けをどう感じられますか? 最近の米国の外交スタンスの変化も見逃せません。最低の黒人大統領の許での米国は、尖閣諸島で中国と日本が戦火を交えた場合は日米安保の行使はしないでしょう。日本は自国を護る覚悟をしなければなりません。 そうした事態を想定すれば、貴方はどう成されます。 日本人として考えてみて下さい。これ以上は書きませんが、考えて下さい。
Feb 23, 2014
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「国連、中国、韓国に大金を貢ぐのか」 未だに日本は戦後から脱却出来ないのは何故なのか?わたしはこの事に大いに疑問を感じている。 まず国連分担金の問題である。国連分担金とは国連加盟国がその国力に応じて国連の通常経費をまかなうために負担する金額をいいます。 過去4年半の国民総生産の平均値を基準として分担率を計算します。 2001年以降はアメリカの強い主張により上限が22%に引き下げられました。 上位20カ国で約90%を占めます。 1946年に計71%を負担していた安保理常任5カ国の総計は2003年で約37%となっております。さて各国の分担金の額を下記に記します。 米国 6億2100万ドル。日本 2億7700万ドル。ドイツ 1億8200万ドル。仏国 1億4300万トル。英国 1億3300万ドル。 中国 1億3100万ドル。イタりア 1億1400万ドル。ロシヤ 6200万ドル。韓国 5100万ドル。 以上が2014年の分担金の八位までの金額です。韓国は参考までに記しました。不思議ですね、戦勝国のロシヤ、中国が日本より少ない金額とはね。 何と三国同盟であった敗戦国の日本、ドイツ、イタリアが戦勝国のロシヤ、中国よりも多大な分担金を引き受けながら、何の見返りもないのですからね。 仕方がないのです。三国が経済的に二国よりも経済発展をしたのです。 こうした協力にも関わらず、中国に良いように文句を付けられる訳が分かりませんね。日本は云うべき事を国際政治の上で毅然と言っても良いと思います。 さてここから中国と韓国に対する、日本のODAの金額を示そうと思います。 ODAは開発途上国の安定と発展への貢献を通じて、国際社会の平和と安定に重要な役割を果たすものです。このことは、国際平和に依拠し、資源・食料を海外に依存する日本にとって、国民の生活を守り自国にとって好ましい国際的環境を構築するなど、国民の利益の増進に貢献しているのです。日本が国際協力を行うことは、国際社会の一員としての責務なのです。併し、軍備を増強し、尖閣諸島を自国に取り込もうとする、世界第二の経済大国の中国にも未だにODAを与え続けています。これが不思議で成りません。 先ずODAの種類から説明をします。 ODAは、低利で資金を貸す円借款、返済義務のない資金を供与する無償資金協力、技術や知識のある専門家の派遣や開発計画を支援する技術協力の3つに大別されている。中国に対するODA供与は昭和55年に始まった。以来、平成23年度まで、日本は円借款3兆3164億円、無償資金協力1566億円、技術協力1772億円を中国に対して供与している。 改めて外務省が出している24年版ODA白書をみてみると、23年の中国に対する無償資金協力は約1300万ドル、技術協力は2億8700万ドルの計約3億ドルに上る。1ドル100円で換算してみると、300億円にも及ぶ資金が未だに日本から中国に流れていることです。 低利で資金を貸し出す円借款は、中国が拒否しない限り、いずれ日本に回収される。だが無償資金協力と技術協力は「贈与」であり、日本には1円も返ってこない。これが悪化を続ける関係の日中のODAの真実であります。 しかも中国側には日本によるODA供与は、中国に対する戦争賠償の代替の意味合いを持っているとの認識がある。昭和47年9月の日中共同声明の第5項では、中国は日本に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言しており、中国が戦争賠償の代替という認識を持っているとすれば完全な誤りです。 併し平成12年5月に来日した中国の外相は、中国に対するODAは、戦後の賠償に代わる行為であるとの認識を示した。つまり日本がわれわれ中国に対し資金を提供するのは当然であり、むしろ義務といえる。という意識が彼等の根底にあると述べているのです。如何にも中国らしい言い回しです。 中国は国連分担金と日本からのODAで軍備を倍増し、米国も一目置く存在となり、とうとう靖国参拝までも文句をつけ、尖閣諸島まで狙っています。 こんな事が許されて良いものでしょうか? さてあの愚かで欺瞞に満ちた韓国への実態を述べようと思います。 国連では日本の五分の一にも満たない分担のみで、馬鹿な韓国の国連総長は中立を保っ義務を忘れ、韓国の歴史認識を押し付ける行為をなしました。こうした事には分担金の滞納などの措置で対抗しても文句を言う国はない、なぜなら米国もしばしば滞納するし、韓国は常習的な滞納国であります。 こうする事で国連の機能が低下し、国連総長の能力が疑問視されます。 韓国の問題で最大の懸案は戦後処理の問題であります、日本は韓国と戦争した訳ではありませんから、そもそも謝罪も金銭補償の必要もないのですが、日本は1965年の日韓基本条約で韓国の経済発展を願って無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款で3億ドルを支払っています。合計し8億ドルです。 この8億ドルという額は当時の韓国の国家予算の2.3倍であり、いかに高かったかが分かります。この賠償額は朝鮮半島全地域が対象であり、韓国政府は北朝鮮を統一したら北の人に支払うから北の分もくれ、と言って持って行った額であります。さらに日本は戦前韓国に残した資産を放棄しています、その額は軍用資産を除いても、53億ドルと言う巨費であったのです。 併し条約締結の後、韓国は日本からの清算金を個人の賠償対象者に支払うことなく、国家発展のために活用し「漢江の奇跡」と言われた韓国の経済成長が達成されたのです。この北朝鮮の人々への対象とした補償金までが原動力として使われたことは疑うべくもありません。 そして韓国政府は驚くべきことにこの条約のことを国民に知らせずに、反日教育を推進し、現在のような愚かで歴史を捏造する反日国家と成り下がったのです。因みに日本から韓国へのODAへも言及しておきます。 1965年の日韓基本条約にて日本から韓国へ支払った5億ドルは除きます。 単位・金銭はすべて、日韓基本条約締結後援助が開始された1966年当時のものそのまま。現代の価値に換算すると総額は2~3兆円規模になります。 明細は下記の通り。 韓国へのODA実績累計(98年まで) 贈与 政府貸与 無償資金協力 技術協力 支出総額 累計 233.84 913.72 3,601.54 単位は、100万ドル(一億円) このように莫大な援助を今も行っている日本は中国や韓国に歴史認識などで文句を言われ、縮こまる必要はありません。歴代内閣が全て謝罪外交を繰り返したつけが、顕著と成っただけであります。こうした中国、韓国の実態を日本政府の見解として、世界に公開すべき時期が来たと思います。 そしてODA、その他の援助は全て廃止すべきであります。そのお金は我々国民の汗の結晶であり、日本からのODAが軍事費に使われるような行為を止めさせる意味でも是非、廃止して欲しいものです。
Feb 16, 2014
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「何故、河野洋平と朝日新聞社長の証人喚問を拒否する」 安倍総理は当初、河野談話、村山談話の見直しに言及していたが、最近は前政権と同じく、これを踏襲すると発言を翻した。 これは推測だが米国の圧力に屈したと思う。特に村山談話は先の大戦を侵略戦争と認めた談話で、これの見直しは東京裁判を主導した米国の欺瞞を暴くことに成るからである。 一方の河野談話は大東亜戦争時、韓国の女性を日本軍が強制的に拉致し、慰安婦にしたと言う、捏造された韓国の一方的な情報が世界に喧伝される元凶と成った談話である。これは最初から証言者もなく資料もない信憑性に欠ける談話であったが、朴槿惠大統領が政権の座に就くや火種が大きくなった。 これに対し我が政府は、何のコメントも発信せず1965年の日韓請求権協定で全て完全に且つ最終的に解決済みと回答するのみであった。 併し、韓国は譲らず嘘も100回言えば真実と成るとばかり、慰安婦から性奴隷と表現を変え、世界に宣伝し米国に慰安婦像まで立てる始末と成った。 これに我国の外務省が対抗しようとすれば、河野談話がまことに邪魔と成る。 世界の諸国も米国も、河野談話で強制連行を認め、日本は謝罪したのではないのか、今頃に成ってその談話を覆すことは可笑しい。 これが世界の常識で、日本人が本来もつ謝りや労りの文化は通用しないのだ。漸く、日本もこの事に気付いたようだが遅きに失した感がある。 こうした時期、慰安婦問題で河野、朝日新聞社長の証人喚問要求の署名活動をすると維新の会が発表した。 この頃から河野談話がいかにまやかしであったか、産経新聞が慰安婦問題の、聞き取り調査の現状をスクープした。 元慰安婦16人の聞き取り調査が極めてずさんだったことは、産経新聞が入手した資料ですでに判明している。 さらに今回、政府関係者らの証言により、原案段階から談話を韓国側に提示していたことが分かった。韓国側から修正要求があり、慰安婦の募集にあたった業者について「軍の意向を受けた」を「軍の要請を受けた」と書き換えるなどした箇所があったという。 このような調査過程のずさんさは、談話がはじめに結論ありきで、事実より政治決着を優先させた日韓合作の虚構であることを物語っている。 当時の事務方のトップ、石原信雄元官房副長官も調査の杜撰を認めている。 新たにこうした情報が出たにも拘らず、国民から見れると政府は何の手もうった形跡がない。これはいったいどうした事であろうか。 併し光明が見えた。先の衆議院予算委員会で、日本維新の会の女性議員、杉田水脈(みお)議員が質問に立ち、政府が主張した海外への公報活動費の5億円が、米国では一切使われていない事を暴露したのだ。 更に岸田外務大臣には、慰安婦問題は政治外交化問題にしないと言わしめた。この答弁も可笑しな事だ、これだけ慰安婦問題と歴史認識で痛めつけられた我国の政府の不甲斐ない態度、こうした発言をする大臣は国賊ものである。 フランスでの慰安婦の漫画の件でも、日本は出展を拒否され、観たフランスの人々は、日本兵の乱暴な行為を本当と捕え、涙を流したと言う。 こうした事態でも政府は、この体たらくである。 打開の道は元官房長官の河野洋平を国会に召喚し、真実を述べさせることである。又、嘘と知りながら新聞に載せた朝日新聞社の社長の喚問も必要である。杉田議員はこのように述べた。「慰安婦などの女性に関する問題は繊細な問題であります。超党派で国と地方の女性議員で国民運動として取組、河野洋平、朝日新聞社長、それに記事を書いた記者の証人喚問で、真実を明らかにしたい」「また日本のなかにも反日分子が多く居ります。この国会のなかでも反日の議員が、隠れ潜んで居ります。こうした人たちを排除せねばなりません」 まさに正論である。彼女はこうも言いました。「NHKさん、今日の私の動画を消さないで下さいね」と、まさに女傑です。 最後にわたしは日韓議員連盟、日中議員連盟などは即時、廃止せねばならないと思います。彼等は反日議員で、何の役にもたたない国会議員です。 天皇陛下と習近平の会談は、小沢一郎が中国訪問で画策した結果である。 安倍総理、東京都知事選に敗れたとは言うものの、貴方の強力な味方が60万もの支持者を集め、貴方の為に何かを成そうと待機してます。 今こそ韓国の捏造した慰安婦問題を片付け、米国にも河野、村山談話の撤回の了解を得て、強力なリーダシップを発揮して貰いたいものです。 これこそが安倍総理、貴方が言われる戦後レジームからの脱却である。
Feb 12, 2014
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「小栗上野介忠順」 (最終回) 上野介主従は運命の朝を迎えた。その日が慶応四年閏四月六日であった。 上野介は爽やかに目覚めた。昨夜、考えぬいた覚悟は固まり、何の迷いもなかった。勝負の時じゃ、東山道総督府に幕臣として痛烈な反論を述べる。 そう思いつつ部屋の障子戸を開け放った。心地よい春の風が吹きこんでくる。 彼は窓から見える遥か先の村里に視線を向けたが、春霞の所為で見通すことが出来なかった。 廊下に足音が響き官軍の兵士が二名、彼の部屋を訪れた。「小栗殿、軍監の原保太郎さまがお呼びにござる」 彼は兵士の案内で原保太郎の部屋に導かれた。 ピリピリする緊張感の漂う部屋に、床几に腰をかけた原保太郎が、うかぬ顔つきで待っていた。「総督府からは何方が我等の尋問に参られます」 上野介の問いに原保太郎が低い声で応じた。「誰も来ませぬ。・・・かわって拙者が総督府の命令をお伝えいたす」「何と・・・」 上野介が不審そうな顔をした。「小栗殿と家臣等は、即刻、斬首せよとの命令を受理いたした」 原保太郎の言葉に上野介が小首を傾けた。「総督府は何も尋問せず、我等の弁明も聞かずに斬首を命じられたと申されるか。原殿、そこもとなら何かを知っておられよう。我等の罪状は何でござる」「何も聞かされておりません。ただ、そこもと達の刑の執行を命じられたまで」 原の答えを聞いた上野介の体躯から、怒りが吹きあがった。剽悍な眼が天を仰いでいる。汚し新政府、わしに何も語らせずに葬る積りじゃな。「幕府閣僚のそれがしが斬首に御座るか、官軍はまさに烏合の衆じゃ。このような勝手な処分を行えば、この先、厳しい抵抗を受けますぞ」 上野介が原保太郎の肺腑を抉るような烈しい言葉を投げつけた。 その後の四っ半(午前十一時)、何の取り調べもないまま、烏川の水沼河原に家臣の荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎と共に引き出された。河原には大勢の村人が固唾を飲んで見守っている。 中には念仏を唱える者や、涙を流し別れを惜しむ村人もいた。「殿、このような片手落ちの処分には納得が参りませぬ」 大井磯十郎が精悍な顔で訴えた。 彼等の胸中は痛いほど分かるが、こうなってはいかんともしがたい。「許せ、わしが至らない所為じゃ。幕臣の意地を見せ官軍と一戦すれば良かったと後悔しておるが、遅きに失してしもうた」「黙れ、新政府に歯向かうような言葉は慎め」 官軍の兵士が銃を構え大声で静止した。「わしは小栗上野介じゃ。貴様らのような下っ端に何が分かる」 上野介の怒声が河原に響いた。家臣も改めて無罪を大声で主張した。「静かに致せ。もうこうなった以上は、三河武士として未練を残すのは止めよう」 上野介が一同を諭した。もう全てが終わったのだ騒ぐだけ未練じゃ。 上野介はそう思った。そこに軍監の原保太郎が歩み寄り訊ねた。「何か言い残すことは御座らぬか」 上野介が柔和な眼差しで笑みを浮かべた。「それがしは何も御座らんが、母と妻、娘を逃がし申した。これらの者に寛典のご処置をお願いしたい」 原保太郎が無言で肯いた。鳥川河原には四枚の筵が敷かれ、その前に穴が掘られている。そこに首が落ちるようになっている。 処刑の順は荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された。いずれも立派な最期であった。河原の光景は凄愴なものであった。「お気の毒に」 最後と成った上野介が筵に座し、空を仰いだ真っ青な空が広がっている。 昔、遣米使節として渡米した時のポーハタン号から見た太平洋の空の色であった。背後に原保太郎が佇み、刃に水をかける音を聞いた。「ご足労をお掛けいたす」 上野介が首を伸ばし、さっと冷たい感触を感じ時が上野介の最期であった。 処刑が終わると主従の首は青竹に刺され道端の土手に晒され、無実の罪状をつげる高札が建てられた。「小栗上野介 右の者朝廷に対して奉り大逆企て候事明白につき 天誅を知らしめるなり 東山道鎮撫総督府」 こうして切腹の名誉もなく家臣と共に斬首された、小栗忠順は享年四十二歳であった。翌七日、養子の又一と塚本真彦が、高崎城内で罪なくして斬首された。 こうして男達の生涯は終わったが、遺族の女衆は中島三佐衛門と農兵、村人に護られ、道子、母のくに子、鉞子は村を脱出した。目指すは会津で、坂上村、六合村、秋山郷、十日町、新潟と昼は隠れ夜を歩く苦難な旅を続けた。ことに秋山郷の山道は険しく、江戸育ちの道子にとっては官軍に追われ逃げまどう境遇は、身重の躰にどれほど辛い旅であったかと推測される。 母はのくに子は新潟で亡き夫、忠高の墓参が叶うことに成った。 農兵はその夫人達を支え、新潟からさらに会津若松へと至る。 まもなく会津戦争が始まると農兵も会津藩に加わって戦い、塚越冨五郎と佐藤銀十郎を戦闘で失う。二人とも二十代の若者であった。会津藩家老横山主税の許にに身を寄せ、まもなく生まれた上野介の実子国子を加え、中島等は敗戦の会津若松で苦難の日々を過ごし。明治二年の春に江戸に出て、さらに静岡まで夫人達を送り届けて村に帰った。まさに乞食同然の姿であったという。 道子等も暫くし江戸に出たが、戻るべき屋敷もなく、彼女達の世話をしたのが、かつての小栗家の奉公人であり、上野介に恩義を感じていた三野村利左衛門であった。利左衛門は日本橋浜町の別邸に上野介の家族を匿い、明治十年に没するまで終生、上野介の家族の面倒を見続けた。その間、小栗家は忠順の遺児、国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。 利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治十八年に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟、貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した。 こうして小栗忠順が亡くなり、四月十一日には江戸城の無血開城。 五月十一日には越後長岡藩と政府軍の北越戦争が勃発。 五月十五日には上野で彰義隊の上野戦争が勃発する。 更に会津戦争、奥羽戦争と続き、翌年の五月十八日に漸く北海道の五稜郭の戦争が終結する。 このように上野介の死を契機に戊辰戦争が拡大し、一年後に漸く終息するのであった。 小栗忠順は幕府再建の為の戦争ならば反対をしなかったが、このような革命の為の戦争を望んではいなかった。早く平和となって西洋列強に劣らない国造りを望んでいたのだ。(逸話) 大隈重信・・・明治政府の施策は全てが小栗上野介の模倣である。それ故に 上野介は殺される運命にあったと述べている。 福澤諭吉・・・福澤は勝海舟を嫌っていた。初めは遣米使節の護衛とし咸臨丸 の勝海舟の行状を見て軽蔑した。後に福澤は痩せ我慢の説で勝 を批判する文章を書いている。何故、戦わなかったのかと、戦後 は、慶喜の十男の精を養子に貰い官位を得ていることも批判した。 東郷平八郎・・彼は日露戦争が終結すると小栗の家族を屋敷に招き、貴方の父、 小栗上野介殿が、横須賀製鉄所を作ってくれたお蔭で日本は勝利 しましたと礼を述べている。 最後に上野介の横須賀製鉄所の、スチーム・ハンマー(マザーマシン)は平成の世まで百三十年間もの長い間、稼働を続けていた言います。 これを以て小栗上野介は瞑すべきかー 完 小栗上野介忠順(1)へ
Feb 4, 2014
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