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●ジャズの音楽的基盤になったブルース「ジャズのルーツはアフリカにある」と言われるひとつの要素に、ラグタイムの特徴であるシンコペーションというリズムにありますが、もうひとつの大きな要素に、黒人の音楽であるブルースがあります。----------ブルース(blues)とは・・・・・・19世紀中ごろ、アメリカ南部でアフリカ系アメリカ黒人から生まれた音楽。または、その音楽形式のこと。アフリカ系アメリカ黒人が、奴隷生活や人種差別などの辛さからキリスト教に救いを求めたスピリチュアル(黒人霊歌)を経て誕生し広まった、哀愁を帯びた音楽。3行詞型の12小節を1コーラスとする音楽形式のもので、コード(和音)進行や音階にも特徴がある。のちにジャズの重要な音楽的基盤になった。また、リズム・アンド・ブルース、ソウル・ミュージック、ロックン・ロール、ロックなどの音楽的基盤にもなった。----------「ブルース(blues)」は、本来の発音は「ブルーズ」で、作為的に「bluez」と綴られることもあるということです。現在ブルースというと、黒人音楽と白人音楽のカントリーが融合してできた音楽のジャンル、または、ブルース形式という12小節を1コーラスとする演奏スタイルをさすのが一般的ですが、もともとは、アフリカの黒人の身体の中にもっている音楽的要素がブルースのルーツです。その大きな特徴は、ブルース・スケールというブルース独特の音階にあります。日本の義務教育の音楽で教えられる音階は、だれもが知っているように、ハ長調(Cメジャー・スケール)では「ド」「レ」「ミ」「ファ」「ソ」「ラ」「シ」の7音階ですが、これはヨーロッパ音楽(クラシック)の音階です。アフリカの音階はそれとは違い、「ド」「ミのフラット」「ファ」「ソ」「シのフラット」の5音階でした。これは、現在「ブルース・ペンタトニック・スケール」と言いますが、いわゆる、「ブルース・スケール」というものです。それが、後にアメリカの地でヨーロッパの音階(7音階)の影響を受けて、「ブルー・ノート・スケール」という独特の音階に発展していきました。C(シー)・メジャー・ブルー・ノート・スケール=「ド」「レ」「ミのフラット」(「ミ」)「ファ」「ソのフラット」「ソ」「ラ」「シのフラット」C(シー)・マイナー・ブルー・ノート・スケール=「ド」「レ」「ミのフラット」「ファ」「ソのフラット」「ソ」「ラのフラット」「シのフラット」ヨーロッパ音楽の音階の長音階(メジャー・スケール)と比較すると、「第3音(ミ)」「第5音(ソ)」「第7音(シ)」の半音下がった音が特徴音で、この音(ハ長調音階では「ミのフラット」「ソのフラット」「シのフラット」)のことを「ブルー・ノート(blue note)」と呼び、ブルースの哀愁を帯びた雰囲気を作り出しています。この独特の音階が使われたメロディーの黒人音楽が、ブルースの最大の特徴で、これが、のちにジャズの重要な要素のひとつになります。
January 31, 2007
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●ジャズはラグタイムから始まったラグタイム(ragtime)とは・・・・・・1880年代からアメリカのミズーリ州を中心におこったピアノ音楽。作曲家、演奏家に黒人が多く、*シンコペーションが多用された。19世紀末から20世紀初頭にかけ、音楽のジャンルとしてアメリカで流行した。ジャズの前身とされるが、即興演奏は行わない。----------19世紀末の1880年代ごろ、アメリカ合衆国中西部のミシシッピ川沿いの内陸で、ニューオリンズの北部に位置するミズーリ州を中心に、黒人ピアニストの間で発生したとされる独特のピアノの奏法をラグタイムといい、それは、ジャズの発祥に大きな影響を与えました。奴隷から解放された黒人たちが、しだいにピアノを手にして弾くことができるようになり、自分たちのワークソング、霊歌などをピアノで演奏するようになりました。そのときに生まれたピアノの奏法がラグタイムといわれる、それまでの西洋音楽(クラシック音楽)とは違ったスタイルの音楽で、のちにジャズになるもとになったとされる音楽です。ラグタイムの「ラグ(rag)」とは「ボロ」、「断片」、「不揃い」とか「デコボコ」というような意味ですが、音符を小節の中にきちんとはめ込まず、わざわざ伸ばしたり縮めたりして、リズムをずらしたようにして演奏します。これは*シンコペーションというもので、ジャズの特徴的なリズムを生み出すもとになっています。ラグタイム・ピアノは、メロディーは西洋音楽(クラシック音楽)的でありながらも、リズムは、このシンコペーションを効かせたアフリカン・アメリカン(アフリカ黒人)的なものという基本的な特徴をもち、特に、それまでの西洋音楽と比べると、このシンコペーションのリズムが重要な要素ということになります。ピアノ奏者で作曲家のスコット・ジョプリンは、1899年に「メイプル・リーフ・ラグ(Maple Leaf Rag)」という曲を作曲し出版しました。この楽譜は1年で100万部も売れるという大ヒットになり、ラグタイムが知れ渡ることになりました。これは、白人音楽と黒人音楽の融合が形になった最初の形式といえるもので、ラグタイムの完成形と考えられています。それにより、スコット・ジョプリンはラグタイムの確立者ということで、「ラグタイム王(King of Ragtime)」と呼ばれるようになりました。コルネット奏者のバディ・ボールデンも、ピアノレスでしたが、自らのバンドを「ラグタイム・バンド」と名打って、1890年代末にニューオリンズで大活躍し、初代のジャズ王(King of Jazz)と呼ばれています。ラグタイムは20世紀初頭のアメリカ全土で音楽のジャンルとして流行したため、このスタイルの楽曲や「ラグ」または「ラグタイム」と名のつく楽曲が、「ポピュラーソング」として第一次世界大戦後まで好んで歌われます。ラグタイムは、もともとはピアノの奏法として始まりましたが、それが大衆に広まってくると「ポピュラーソング」として歌曲も多く作られるようになり、当時、短時間しか録音できなかったレコードやピアノロール、短時間しか再生できなかった自動ピアノなどに取り入れられ、アメリカの20世紀文明とともに急速に広まりました。このラグタイムには、多くの作曲家やミュージシャンなどが影響を受けました。アメリカ全体のポピュラー音楽もラグタイムに触発されたために、それまでのヨーロッパ的ではない、真のアメリカン・ポピュラーソングが誕生することになり、その後の発展があるのだと言えると思います。---------- 【参考】*シンコペイション(syncopation)とは・・・同じ音程の弱拍と強迫がタイで結ばれることにより、本来の弱拍と強迫が逆になるリズムのこと。要するに、4拍子の場合、本来は1拍目と3拍目が強迫であるが、シンコペイションでは、2拍目や4拍目の弱拍であるところにアクセント(強い音)がくるようになる。言い換えれば、2拍、4拍目のウラというところにアクセントが来るリズムということで、これが「ジャズ」では基本的なリズムの要素ということになる重要なもの。
January 30, 2007
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●なぜニューオリンズか「ニューオリンズ(New Orleans)」とは英語読みで、もともとはフランス語「ラ・ヌーヴェル・オルレアン(La Nouvelle-Orléans)」として、1718年にフランス人によって設立され、ミシシッピー・ヴァレー一帯をフランスの植民地として、当時のフランス国王ルイ14世にちなんで「ルイジアナ」と名づけたと言います。ニューオリンズは、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となりました。1763年、パリ条約によりルイジアナはスペイン領になりますが、フランス系の住民が多くスペインの影響はほとんど見られませんでした。なお、オルレアンとはフランス中部地方の土地の名前で「ヌーベル・オルレアン」とは、「新たなるオルレアン」という意味合いからつけられた名前だということです。1801年、ナポレオンがルイジアナをフランスに返還させましたが、ヨーロッパでの戦争のための費用を捻出したいという財政上の理由から、1803年、アメリカ合衆国に格安の1500万ドルで売却しました。(ルイジアナ買収)ニューオリンズはメキシコ湾を目の前に臨む交通の要所で、貿易港として栄えました。商業が発達すれば、それに伴い歓楽街も隆盛するものです。いわゆるオトナの遊びの三要素「飲む・打つ・買う」=「飲酒・賭博・売春」のための店が増え、ニューオリンズはアメリカ国内でも有数の歓楽街になりました。そして、ここの大きな特徴として、アメリカで唯一、公(おおやけ)に売春が認められた場所でした。1857年、ニューオリンズ市役所は、場所を指定して娼婦(しょうふ)の営業(売春)を認める条例を出し、以後、1917年にこの公娼(こうしょう)制度が廃止されるまでの60年にわたって売春宿の営業が行われ、そのなかでは当然のごとく音楽がつきものになります。そういうところから、ジャズのもとになる音楽が芽生えてくることになります。1897年、街のあちこちにあった売春宿を一カ所に集めるという条例の改定を行い、その場所は「ストーリーヴィル」と名づけられました。フランスの支配が長かったこの地では、フランス系白人と黒人の間に生まれたハーフの家系が多く存在することになり、彼らは「クレオール」と呼ばれ、フランス語を話し、ヨーロッパの音楽であるクラシック音楽の演奏や鑑賞を趣味としていたので、ここでは、その影響を受けた音楽が奏でられるようになっていきます。そういった環境のなか、売春宿街の店の中では静かなムード音楽が演奏され、キャバレーやナイトクラブが建ち並ぶ歓楽街では派手なダンス音楽で、客を引き寄せるという演奏がされるようになりました。そうすると、演奏する場があるということで、音楽の得意な開放された黒人たちが集まってくるようになります。そうして、こうしたミュージシャンの家系のなかから2世、3世と何代かのミュージシャンが育っていくうちに、この地での新しい、ジャズのもとになる音楽も育っていくことになります。
January 29, 2007
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●ジャズのルーツ「ジャズのルーツはアフリカにある」と言われますが、それは、「ジャズという音楽は、19世紀末、アメリカのルイジアナ州ニューオリンズというところの、アフリカ系黒人から生まれた」ということから、そのように言われています。18世紀、アメリカには奴隷として毎年10万人ものアフリカ人が連れてこられていました。1861年、奴隷制度をめぐって南北戦争勃発。1865年、南北戦争終結で、奴隷解放となります。ニューオリンズはアメリカの都市となる以前はフランス領、次いでスペインの都市でした。そしてもう一度フランスの統治に戻っています。ですから、この地ではヨーロッパの音楽的影響がいろいろあったと思われます。またここには、クレオールというフランス系白人と黒人との間に生まれた混血の種族が多く存在し、そのクレオールのヨーロッパ的音楽も、ジャズの誕生に大きな影響を与えたと言われています。ニューオリンズはメキシコ湾を目の前にした貿易港として栄えました。開放された黒人たちは活気のあるこの土地に集まってきました。黒人たちは金も教養もなく、人種差別的扱いを受ける中、救いを求めたものが音楽でした。1897年に、ニューオリンズにストーリーヴィルという歓楽街(売春娼街)がオープンし、ジャズは、このストーリーヴィルで音楽をやる黒人たちによって生まれ、育っていきました。ニューイングランドからニューオリンズにかけてのすべての音楽=黒人奴隷の民族的音楽(民謡、賛美歌、黒人霊歌、ゴスペル、ブルース、ラグタイム、行進曲)や、アフリカの太鼓のリズムと、クレオールのヨーロッパ音楽(クラシック音楽)が混じり合い、後に「ジャズ(Jazz)」と呼ばれる新しいアメリカ音楽のもとが生まれました。ジャズは、アフリカ系黒人の本質的にもっている、リズムと旋律の感覚から生まれたと言えると思います。それが、「ジャズのルーツはアフリカにある」といわれるゆえんではないでしょうか。しかし、まだこのころは、この音楽は「ジャズ(Jazz)」とは呼ばれていない新しいスタイルの音楽でした。
January 28, 2007
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今日は、アメリカの偉大な作曲家、ジェローム・カーン生誕122周年。ジェローム・カーンはアメリカを代表する偉大な作曲家で、数々のスタンダード・ナンバーの生みの親と言えます。その曲の数々が、スタンダード・ナンバーとして愛され続けています。また、この人の手によって現在の様な形のブロードウェイ・ミュージカルが作られたのです。●ジェローム・カーン(Jerome Kern)1885年1月27日、アメリカ、ニューヨーク生まれ。1945年11月11日、ニューヨークで死去。60歳。----------ジェローム・カーンは、1885年1月27日、ニューヨークの裕福な家庭で生まれます。父親はドイツ系ユダヤ人のビジネスマンで、息子にはビジネスの世界に進むことを望みますが、彼が興味を持っていたのは音楽でした。父親は、何回か彼をビジネスの世界に向けようとしましたが失敗し、とうとう音楽の道に進むことを認め、ドイツの音楽学校に行かせました。ジェロームはここで短期間学びますが、肌に合わなかったのか、ニューヨークに戻ってしまい、ティンパンアレーと呼ばれていたところで、音楽出版社が楽譜を売るために、その曲を実際に演奏するデモンストレーション・ピアニストの、ソング・プラッガーというものになりました。そして彼は、ソング・プラッガーをしながら、ポピュラー音楽の作曲家としての活動を始めました。彼が作曲家としてスタートした20世紀(1900年)初頭のブロードウェイでは、ウィーンのオペレッタや、イギリスで作られたミュージカル・コメディーが盛んに上演されていました。そして、それらはアメリカの作品よりも優れていると考えられていました。しかし、アメリカの上演に際しては、アメリカに合うようにアレンジが施され、新しいギャグや曲が付け加えられていました。 ジェローム・カーンは、そんなところで活動をし、1905年から1912年の7年間に、100曲にものぼる挿入歌を作曲しています。1914年のイギリス産ミュージカル『ユタから来た娘』のために書いた曲、「ゼイ・ディドゥント・ビリーヴ・ミー」の大ヒットで、作曲家としての名声を確立し、1915年より、脚本家のガイ・ボルトンと組んでプリンセス劇場のショーを始めました。この、プリンセス劇場のショーは、現在のブロードウェイ・ミュージカルの幕開けを示すものでした。歌やジョークが物語と密接に関係していることや、その題材が空想的な架空の世界ではなく、アメリカの日常的な物語であることなど、今から考えれば当たり前のことなのですが、当時としては斬新なものだったのです。つまり、ミュージカルは、それまでアメリカで上演されていた、ヨーロッパから持ち込まれたレヴューやオペレッタの形態でなく、どのような素材でも表現出来る、演劇の形態としての可能性があるということを示しました。そして、エドナ・ファーバーのベストセラー小説をもとに、オスカー・ハマースタイン2世が台本を書き、作詞をし、ジェローム・カーンが作曲し、1927年に上演された作品『ショー・ボート』が、その完成されたもので、これが、アメリカ独自の最初のミュージカルと言われています。人種問題、混血問題、離婚、アルコール中毒など、エドナ・ファーバーの小説の中に出てくる社会的諸問題を、ミュージカルとして、まったく新しい演劇形態でまとめてみせたのでした。また、この『ショー・ボート』は、舞台で黒人音楽であるブルースが採りあげられた最初のミュージカルでした。そういう意味でも、初めて白人の文化が黒人の文化に触れ、新たなアメリカ音楽が始まった瞬間とも言えます。カーンは、その後もブロードウェイやハリウッドのために多くの作品を書き続けましたが、1945年11月11日、『ショー・ボート』のリヴァイヴァルのため、西海岸からニューヨークへ来ていたときに、脳溢血のため路上でたおれ、そのまま帰らぬ人となりました。60歳でした。----------ジェローム・カーンを語るとき、同世代の音楽家には、ドイツやロシアなどからの移民者が多いせいか、彼が生粋(きっすい)のアメリカ生まれであることが強調されます。アメリカという国は移民が寄り集まってできた国であり、母国を捨てた人々にとって、独自の文化を作りあげることは、確かな自己の確立という大きな意味があります。アメリカで生まれた新しい文化を持つことで、よりアメリカ人らしく、「本当の独立宣言をしたい」という思いが強いのでしょう。その独立心の強いことは、「大統領はアメリカ生まれでなければならない」と、法律で規定していることでもわかります。ジェローム・カーンがアメリカで生まれた最初の作曲家として語られるのには、そのような時代背景があるからなのでしょう。そういうことで、彼の作ったミュージカルや、それらの音楽は、真のアメリカン・ポピュラー・ソングの始まりのものであると言われています。*****●代表作They Didn't Believe Me 1914Look For The Silver Lining 1921Who 1925Make Believe 1927Can't Help Lovin' Dat Man(Of Mine) 1927Ol' Man River 1927Bill 1927The Song Is You 1932Smoke Gets In Your Eyes 1933Yesterdays 1933The Way You Look Tonight 1936A Fine Romance 1936All The Things You Are 1939The Last Time I Saw Paris 1941I'm Old Fashioned 1942Long Ago 1944All Through The Day 1945
January 27, 2007
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【スタンダード・ナンバー】ウィスパー・ノット Whisper Not1956年作曲:ベニー・ゴルソン Benny Golson作詞:リーロイ・ジャクソン Leroy Jackson----------この曲は、1956年、サックス奏者のベニー・ゴルソンが、トランペット奏者のディジー・ガレスピー率いるディジー・ガレスピー楽団に在籍中に作曲したものです。私としては、ウィスパー・ノットというと、ピアノ奏者のジュニア・マンスの録音のものを一番耳にしたもので、彼の代表曲のようになっていますが、発表当時から、多くのジャズ・ミュージシャンがこの曲を取り上げています。ディジー・ガレスピー楽団のものが最初に録音されたのかと思っていましたが、ディジー・ガレスピーのアルバム『バークス・ワークス』は、1957年4月録音で、トランペット奏者のリー・モーガンのアルバム『リー・モーガンVOL.2』のほうが早く、1956年12月録音です。ピアノ奏者のウイントン・ケリーのアルバム『ウィスパー・ノット』は1958年1月録音。ベニー・ゴルソンが1968年から参加したドラム奏者のアート・ブレイキー率いる、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに在籍中のときのアルバム、『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』のパリでのライヴ盤は1958年12月21日の録音で、これは空前のベスト・セラーを記録し、今日に至るモダン・ジャズ・ブームの原点ともいえるものになりました。ギター奏者のウェス・モンゴメリーのアルバム『ザ・ウエス・モンゴメリー・トリオ』は1959年10月の録音。ジュニア・マンスがヴァーヴに録音したアルバム『ジュニア』は1960年7月の録音。最初、この曲はインストゥルメンタルの曲でしたが、後にリーロイ・ジャクソンによって歌詞がつけられ、ペギー・リー、アニタ・オデイ、メル・トーメなど、多くのシンガーにより歌われています。どういうわけか、ジャズ評論家のレナード・フェザーが作詞したとしているものもありますが、それは間違いだということです。「Whisper not(ウイスパー・ノット)」とは「Don’t whisper」の語順を変えただけで意味としては同じで、「ささやかないで」、「口にしないで」というようなことです。「ぴったり合っていた私たちの気持ちは壊れてしまったけれど、あなたはそれを許してくれた。私はもう忘れたの。すんだケンカのことなんて口にしないで(Whisper not)」と、絶望のささやきを否定する歌詞がつけられています。この曲はインストゥルメンタルの演奏では「セカンド・リフ」という、コーラス部分と同じコード進行で、別のメロディーがつけられているところがあり、普通のスタンダード・ナンバーとはちょっと違った凝ったつくりになっています。そのセカンド・リフにも歌詞がつけられていて、そのゴロは良く合っていますが、どうしても音符が細かいので英語だと早口で歌わなくてはならないため、シンガーにとってはかなりのテクニックが必要でしょう。この曲はスタンダード・ナンバーとして、多くのジャズ・ミュージシャンによって愛され、演奏され続けています。
January 26, 2007
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ベニー・ゴルソンは、アメリカのジャズ・テナー・サックス奏者で、作・編曲家。●ベニー・ゴルソン(Benny Golson)1929年1月25日、アメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。78歳。----------ベニー・ゴルソンは、9歳でピアノを始め、14歳のときサックスに転向。1953年よりタッド・ダメロン・グループやディジー・ガレスピー楽団などでテナー・サックス奏者として参加。1958年にアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのメンバーになりました。また、ベニー・ゴルソンはサックス奏者としてだけではなく、作・編曲家としても多くの楽曲を提供し、「ウィスパー・ノット」「アイ・リメンバー・クリフォード(クリフォードの想い出)」「キラー・ジョー」「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」「ブルース・マーチ」「ステイブルメイツ」「アロング・ケイム・ベティ」など、数多くの名曲を生み出し、現在ジャズ・スタンダード・ナンバーになっています。特に「アイ・リメンバー・クリフォード(クリフォードの想い出)」はベニー・ゴルソンの代表曲としてよく知られています。ゴルソンは、天才ジャズ・トランペッターであるクリフォード・ブラウンとも親交を深めましたが、ブラウンは1956年に26歳の若さで自動車事故死してしまいます。ゴルソンは卓越した演奏家で人格者でもあったブラウンの死に深いショックを受け、ブラウンの追悼曲として「クリフォードの想い出(I Remember Clifford)」を作曲しました。これは、しみじみとする大変美しいメロディーのバラード・ナンバーで、1957年にブルーノートから、トランペット奏者のリー・モーガンのアルバムで世に出て、たちまち有名になりました。MJQのピアニスト、ジョン・ルイスがジャンゴ・ラインハルトを追悼して、1954年に作曲した「ジャンゴ」と並んで、ジャズ・ミュージシャンを追悼した名曲として、多くのジャズ・ミュージシャンによって愛され、演奏され続けています。
January 25, 2007
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ザ・ケルン・コンサート / キース・ジャレットKoln Concert / Keith Jarrett録音日:1975年1月24日録音場所:ドイツ、ケルン、オペラ劇場にてライヴ録音レーベル:ECM Records GmbH(日本盤:ユニバーサル)[パーソネル]キース・ジャレット(p)[収録曲] 1.ケルン、1975年1月24日 パート12.ケルン、1975年1月24日 パート2a3.ケルン、1975年1月24日 パート2b4.ケルン、1975年1月24日 パート2c----------キース・ジャレットは、1970年にマイルス・デイヴィスに請われて、マイルス・グループに参加しました。初期はチック・コリアとのツイン・キーボードという形のなかで、おもにオルガンを演奏し、チック・コリアがバンド退団後は、ひとりでオルガンとエレクトリック・ピアノを担当していました。1971年に、マイルス・グループ在籍中のヨーロッパ・ツアーで、当時新興レーベルだったECM(Edition For Contemporary Music)のオーナー、マンフレート・アイヒャーと出会います。1971年、キースはマイルスの下を離れ、デューイ・レッドマン、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンらとレギュラー・グループを結成し、ライヴやインパルスへのレコーディングを行います。その一方で、アイヒャーのECMには、レギュラー・バンドとは異なる、さまざまな編成やアイディアによるレコーディングを試みました。その試みにより、1972年8月には、完全即興によるソロ・コンサートを実現します。それは、ローザンヌとブレーメンでの1973年のライヴ・レコーディングの『ソロ・コンサート』で形として残っています。そして、1975年に入るとアイヒャーは、キースのさらなるソロ・アルバムの制作に着手し、5度にわたって各地でのソロ・コンサートをレコーディングします。そのなかから、1月24日にケルンで行われた演奏がリリースされたものがこのアルバムです。LPレコードでは2枚組として発売されましたが、CD化に際して1枚に収められました。発売当時は「これはジャズか?否か?」といった論争もおこりましたが、これは完全な即興演奏、「インプロヴィゼーション」であり、キース・ジャレットの独自の美しい世界が、ジャズをもう一つの新しい境地へと誘ってくれた記念すべき作品と言えるでしょう。 キースは、完全な即興演奏のソロ・コンサートを開始する前に、しばしの瞑想を経て「無」の境地に入り、そこから最初の音をつむぎ出していくと言います。そして、そこから発展、展開されていく音楽は、あまりにも完成度が高く、それがまったくフリーなインプロヴィゼーションであるとは、このアルバムを聴いただけではわかりません。しかし、その演奏は、ステージごとに、まったく異なった演奏を繰り広げていたということなのです。ここに記録されている演奏は、本来は瞬時に消えてしまうべきものであり、音楽とはライヴで聴くべきものであるということを、つくづく実感させられるものです。音楽を学ぶ学生を始め、多くの人がこの演奏の譜面化を望みましたが、キース自身は、コンサートが完全な即興だったため、譜面化してしまうと、それを勉強する人が、即興で行われた演奏であることを忘れるのではないかと懸念し、長い間同意しなかったと言います。しかし、いずれにしても録音されているものであり、即興がそのまま再現できるのだからと説得され、最終的にOKを出したとのことです。これを聴くときは、「キースの即興演奏に身をゆだねるのだ」ということをほんの少し意識してみると、ジャズという音楽の、魅力的な、またさらなる一面が楽しめるのではないでしょうか。
January 24, 2007
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●ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt)本名:ジャン・バティスト・レナール(Jean Baptiste Reinhardt)1910年1月23日、ベルギー・リベルシー生まれ。1953年5月16日、死去。43歳。ジャンゴ・ラインハルトは、ジャズ・ギターの開祖と言われています。ジャンゴ・ラインハルトは、チャーリー・クリスチャンと並んでジャズ・ギターの開祖とされていますが、ジャンゴは、チャーリー・クリスチャンより10年も早くギターが主役のアドリブ演奏を行いました。ジャンゴが活躍した1930年代から1940年代は、アメリカではスウィング・ジャズが全盛の時代で、花形楽器といえばトランペットやクラリネット、サックスといった管楽器でした。ギターはリズムとコードを担当する伴奏楽器でしかなかったものでしたが、そのギターをソロ楽器として認めさせたのがジャンゴだったのです。ジャンゴ・ラインハルトはベルギーに生まれ、ヨーロッパを放浪するマヌーシュ(ジプシー)として、フランスのパリ郊外のジプシー居住区に育ちました。(マヌーシュとは大きくは移動民族のことで、一般的にはジプシーと呼ばれています。)幼い頃から音楽に惹かれていた彼は、12歳でギターを手に入れ、独学で練習に励み、短期間で上達し、13歳になる前にアコーディオン奏者の伴奏者としてダンスホールで演奏活動を始めました。当時のパリで流行していたアコーディオンを中心としたダンス音楽ミュゼットを演奏していました。若くして才能を見せていたジャンゴですが、1928年11月2日、彼が18歳のときに住まいのキャラヴァン(移動式住宅)が火事に遭い、やけどを負います。それは、約1年半も療養所にいたほどの重傷で、特に左手の薬指と小指の2本が動かなくなるというギタリストにとって致命的なものでした。しかし、ジャンゴは努力を重ね、人差し指と中指だけの独得な運指でギターが弾けるようになります。ジャンゴはアメリカのジャズに熱心に耳を傾け、自分の個性的なギター・スタイルを発展させていきます。ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、そしてジョー・ヴェヌーティ&エディ・ラングなどがお気に入りだったと言います。1934年に、パリ生まれのジャズ・ヴァイオリン奏者、ステファン・グラッペリとクインテット・オブ・ザ・ホット・クラブ・オブ・フランス(フランス・ホット・クラブ五重奏団)を結成します。主役の2人をリズム・ギター2本とベースがサポートするというこのバンド編成は、管楽器が主役を務めることが多いジャズの世界では異色でしたが、その弦楽器だけで軽快にスウィングする独創的な音楽は人々を驚かせ、たちまち人気を呼ぶことになりました。彼らの音楽は、ジプシーの伝統音楽とアメリカのスウィング・ジャズを融合させたもので、その独特の哀愁漂うメロディーはアメリカのジャズとはまた違う味わいのものでした。そしてその演奏スタイルは、ジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)とか、ジプシー・ジャズとも称されました。彼らは、ほとんどヨーロッパを拠点に活動しましたが、渡欧したアメリカのミュージシャンとの共演も多く、世界中に影響を及ぼしました。そして、ジャンゴは世界的に名を知られるミュージシャンとなり、フランスを訪れた本場アメリカのジャズ・ミュージシャンがこぞって彼との共演を望みました。第2次大戦が始まると、グラッペリはロンドンに住むことを選び、ジャンゴはフランスに留まったために、オリジナルの五重奏団は解散しますが、ジャンゴはグラッペリの代わりにクラリネット奏者を加えた新しい五重奏団を結成し活動を続けました。大戦後の1946年にはデューク・エリントンに招かれ渡米し、彼のバンドのゲスト・ソロ奏者として全米各地で演奏を行ないました。帰国後はパリ郊外のサモアに住み、演奏活動を続け、時折グラッペリとも共演しましたが、1953年に43歳の若さで急逝しました。ジャンゴはウェス・モンゴメリーなどのジャズ・ギタリストはもちろん、B・B・キングなどのブルース・ギタリストやクラレンス・ホワイトなどのカントリー・ギタリストなど、あらゆるジャンルのギタリストに強い影響を与えました。そして、彼の影響はギターという楽器のワクすらも越え、多くのミュージシャンに敬愛され、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)のピアニスト、ジョン・ルイスによりジャンゴに捧げて作られた曲、「ジャンゴ」は永遠のジャズ・スタンダード・ナンバーになっています。
January 23, 2007
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今日、1月22日は「ジャズの日」です。これはJAZZのJAがJanuaryに通じZZが22に見えるということから、2001年に東京都内のジャズクラブのオーナーたちにより提唱されました。2001年1月22日、日比谷公会堂大ホールにて第1回「JAZZ DAY」制定記念コンサートを開催。 この時期、毎年日比谷公会堂でのコンサートが開催され、今年で7回目をむかえました。
January 22, 2007
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E.S.P. / マイルス・デイヴィスE.S.P. / Miles Davis録音日:1965年1月21~22日録音場所:アメリカ、ロサンゼルスレーベル:Sony(日本盤:ソニーミュージックエンタテインメント)[パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp)ウエイン・ショーター(ts)ハービー・ハンコック(p)ロン・カーター(b)トニー・ウイリアムス(ds) [収録曲] 1.E.S.P. イー・エス・ピー2.81(Eighty-One) エイティー・ワン3.Little One リトル・ワン4.R.J. アール・ジェイ5.Agitation アジテイション6.Iris アイリス7.Mood ムード----------マイルス・デイヴィスが、1965年1月21日から22日に録音したアルバム。これは、1959年にマイルス・デイヴィスがモード・ジャズを確立したアルバム、『カインド・オブ・ブルー』を製作してから6年になろうとしているときの作品です。『カインド・オブ・ブルー』のあと、1960年代前半、マイルスはライヴ盤の傑作を多く発表してきました。そして、1964年7月、いよいよサックス奏者にウエイン・ショーターが加わり、ジョン・コルトレーンがいた1950年代の黄金のクインテットに続く、第二期黄金クインテットが誕生します。ウエイン・ショーターが加入してからマイルス・クインテットは西海岸をしばらくツアーして、それからヨーロッパを回りましたが、そのときのライヴ盤が前作『マイルス・イン・ベルリン』です。このとき、ウエインが加わったことで、マイルスは今までとは違う、何か新しいものを作り出せそうな気がしたようです。そのことについてマイルスは次のように語っています。「ウエインが加わって、バンドのサウンドが俄然フリーになった。最初の日からそうだった。オレが最初に「ジュシュア」のワン・フレーズを演奏した途端、ヤツが絡んできた。その瞬間、リズム・セクションが爆発したんだ。ぞくぞくするほどの興奮だった。リハーサルなんかやっていないのに、ウエインは演奏のツボを心得ていた。ハービーもロンもトニーも、それ以前にレコーディングやセッションで何度もヤツと共演していたから、やり方がわかっていたんだろう。オレだけが知らなかった。けれど、それがオレに火をつけた。こんなヤツと毎日演奏できるかと思うと、すっかり有頂天になってしまった。」マイルスはこのメンバーになって、バンドのサウンドが変わろうとしていることを実感し、久しぶりにスタジオ録音をしようと決意したのでした。そうして出来上がったのが、このアルバム『E.S.P.』ですから、ここにはその、「何か新しいもの」が詰まっている重要なアルバムなのです。今までは、スタンダード・ナンバーを多く取り上げていたのが一転して、このアルバムでは全曲、オリジナル・ナンバーです。マイルスは、このときようやく納得のできるグループを結成したのでした。これによって、しばらく続いたライヴ・レコーディングの時代が終焉を迎えます。
January 21, 2007
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●ジェリー・マリガン(Gerry Mulligan)本名:ジェラルド・ジョセフ・マリガン(Gerald Joseph Mulligan)1927年4月6日、アメリカ、ニューヨーク生まれ。1996年1月20日、コネチカット州ダリエンにて死去。68歳。----------ジェリー・マリガンは、白人モダン・ジャズ・バリトン・サックス奏者で、トランペット奏者のチェット・ベイカーとともにウエスト・コースト・ジャズ・ブームの火付け役となりました。1940年代中ごろ、フィラデルフィアで活動を開始。アレンジャー、ピアニストのギル・エヴァンスとの出会いをきっかけにアレンジを手がけるようになります。1969年に、マイルス・デイヴィスのアルバム『クールの誕生(Birth Of Cool)』に参加し、バリトン・サックスの演奏のほか、「ジェル (Jeru) 」「ミロのヴィーナス (Venus De Milo) 」などの作曲や、アレンジも担当しました。1950年代初めにロサンゼルスに移り、1952年に、トランペット奏者のチェット・ベイカーらとピアノレス・カルテットを結成。これは、リズム・セクションとしてピアノは必要とされていたジャズの世界においては画期的なことでした。このバンドは1年間という短い活動でしたが、空前の人気を誇り、ウエスト・コースト・ジャズという新しいジャズ・スタイルの成立の中心的人物になりました。1960年代には「コンサート・ジャズ・バンド」と名乗るビッグバンドを率いて活動しました。1965年に、リーダー作『ナイト・ライツ(Night Lights)』を発表。これは、ジェリー・マリガンの代表作になりましたが、タイトル曲である「ナイト・ライツ」では、マリガンはバリトン・サックスではなく、ピアノとクラリネットを演奏しています。後年、マリガンはビッグバンドや様々なユニットで演奏活動を展開しました。
January 20, 2007
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アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクションArt Pepper Meets The Rhythm Section録音日:1957年1月19日録音場所:アメリカ、ロサンゼルスレーベル:Contemporary(日本盤:ビクターエンタテインメント)[パーソネル]アート・ペッパー(as)レッド・ガーランド(p)ポール・チェンバース(b)フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)[収録曲]1.You'd Be So Nice To Come Home To ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ2.Red Pepper Blues レッド・ペッパー・ブルース3.Imagination イマジネーション4.Waltz Me Blues ワルツ・ミー・ブルース5.Straight Life ストレイト・ライフ6.Jazz Me Blues ジャズ・ミー・ブルース7.Tin Tin Deo ティン・ティン・デオ8.Star Eyes スター・アイズ9.Birk's Works バークス・ワークス10.The Man I Love ザ・マン・アイ・ラヴ(日本盤CDボーナス・トラック)----------ウエストコースト白人ジャズ・アルト・サックス奏者の代表のアート・ペッパーが、1957年の1月19日に、ロサンゼルスでレコーディングしたアルバム。このアルバム・タイトル『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』の「ザ・リズム・セクション」とは、ピアノ=レッド・ガーランド、ベース=ポール・チェンバース、ドラムス=フィリー・ジョー・ジョーンズという、当時のマイルス・デイヴィス・クインテットの、イーストコーストを代表する黒人3人というリズム・セクションのことです。音楽を聴く上では、そのアルバムに収録されている音が一番重要だということは確かで結局は、好きな音楽を聴けばそれで良いのです。しかし、そのウラには、録音の状態や選曲、ジャケットのデザインなど、さまざま要素があり、それがすべて整って初めて一枚のアルバムになるのですから、その一枚一枚のアルバムには、さまざまな事情と背景があって生まれてくるものです。確かに音楽を聴く上ではそんなことは不要で、何も知らなくても音楽は聴けます。しかし、ジャズという音楽は多分に人間味があふれているものであり、いろいろなことを知っていたほうが、知らないより楽しくなってくるというところがあります。これを「伝説聴き」とか「エピソード聴き」とか言われています。音楽、特にジャズというものは、その「音楽だけ」を聴くものではなく、そのプレイヤーの人となりや、そのときのいろいろな状況とか背景などを知っていると、不思議なことに、その音楽までもが今までとは違って聴こえてくるものです。たとえば、このアルバムの場合はどうでしょうか。1957年、マイルス・デイヴィスのクインテットは、1月5日から、ロサンゼルスのジャズ・クラブ「ジャズ・シティー」に3週間にわたって出演していました。このときのメンバーは、トランペット=マイルス・デイヴィス、テナー・サックス=ジョン・コルトレーン、そして、ピアノ=レッド・ガーランド、ベース=ポール・チェンバース、ドラムス=フィリー・ジョー・ジョーンズ。コンテンポラリー・レコードのプロデューサー、レスター・ケーニッヒは、マイルスから、このリズム・セクションを借り、売り出しを図っていた当時31歳のアルト・サックス奏者、アート・ペッパーとの共演作を録音しようと考えました。そうして生まれたのが、このアルバム『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』ですが、アート・ペッパーの自伝によると、彼はこの録音の日のことをずっと忘れていて、当日の朝、電話がかかってきてあわててスタジオに駆けつけたといいます。そういうわけなので、曲の準備などもしていなかったために、演奏曲は普段よくやっていたスタンダード・ナンバーばかりになってしまったようです。しかも、それまでの数カ月間、ペッパーは楽器をまったく吹いていなかったともいいます。しかし、そこは天才的な彼のこと、やはり常人とは違います。天才ギタリストのパット・メセニーも、レコーディングの前は、逆に楽器をさわらないようにしていると聞いたことがあります。天才とはそういうものでしょう。1曲目は大スタンダード・ナンバーの「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」で、2曲目は、レッド・ガーランド作の「レッド・ペッパー・ブルース」という安直な感じのもの。これはレッド・ガーランド「レッド」と、アート・ペッパーの「ペッパー」を合わせて、「赤唐辛子」としたことが、このアルバムの雰囲気を出しているように感じてしまいます。そんなこんなのドタバタの中、しかも初めて会したセッションだとはとても思えない、ペッパーの音の良さ、リズム・セクションとのコンビネーションの良い素晴らしい演奏、それに加えて選曲の良さ、録音の良さ、好印象のジャケットなどが功を奏して、このアルバムが、モダン・ジャズを代表する名盤として知られる傑作になるとは・・・。逆に、用意周到に万全の態勢でレコーディングしたからといって、必ずしも良い作品が生まれるとは限りません。ジャズとは、そんな、何とも不思議でおもしろい音楽だということです。しかし、さすがにこのマイルス・リズム・セクションは素晴らしいことがわかります。
January 19, 2007
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クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス / クリフォード・ブラウンClifford Brown With Strings / Clifford Brown 録音日:1955年1月18~20日録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:EmArcy(エマーシー)[パーソネル]クリフォード・ブラウン(tp)リッチー・パウエル(p)バリー・ガルブレイス(g)ジョージ・モロウ(b)マックス・ローチ(ds)ストリングス:ニール・ヘフティ(arr,cond) [収録曲]1.Yesterdays イエスタデイズ2.Laura ローラ3.What's New? ホワッツ・ニュー4.Blue Moon ブルー・ムーン5.Can't Help Lovin' Dat Man 愛さずにはいられない6.Embraceable You エンブレイサブル・ユー7.Willow Weep For Me ウィロー・ウィープ・フォー・ミー8.Memories Of You メモリーズ・オブ・ユー9.Smoke Gets In Your Eyes 煙が目にしみる10.Portrait Of Jenny ジェニーの肖像11.Where Or When いつかどこかで12.Stardust スターダスト----------1955年1月18~20日に録音された、ブラウニー(クリフォード・ブラウン)のストリングス・アルバム。カウント・ベイシー楽団の名アレンジャー、ニール・ヘフティが編曲・指揮を務めたストリング・オーケストラをバックに、天才クリフォード・ブラウンがスタンダード・ナンバーのメロディーを歌うように吹く、「ウィズ・ストリングス」作品の名盤です。リッチー・パウエル、マックス・ローチも参加。
January 18, 2007
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リッチー・パウエル(Richie Powell 1931-1956)というジャズ・ピアニストは、才能がありながら、3つの不運が重なって、不遇のまま一生を終えてしまいました。まず1つ目の不運は、兄のバド・パウエルがあまりにも偉大だったことです。そのため、弟のリッチー・パウエルに関心を持つ人はほとんどいませんでした。バド・パウエルは、リッチーより7歳年上で、リッチーがプロとして活動を始めた1949年ごろ、兄のバドは、すでに天才的ピアニストとして脚光をあびているときだったで、リッチーにとっては手の届かない雲の上の存在になっていました。しかも、リッチーのピアノのスタイルがバドのものと同じスタイルだったので、バドのコピーのような存在になってしまったリッチーは、比較の対象になりませんでした。ですから、誰も弟のピアノになど、目を向ける人はいなかったというわけです。2つ目の不運は、1954年になってマックス・ローチのグループに参加して、多くの人に知られる存在になったのですが、ここにはスター・プレイヤーのクリフォード・ブラウンがいました。このときもマックス・ローチとクリフォード・ブラウンがあまりにもすごかったので、リッチーの素晴らしいプレイも、この2人の影にかくれてしまいました。そして3つ目の不運は、アルバム『アット・ベイズン・ストリート』でようやく独自のスタイルを確立し始めたとき、この録音の半年後の1956年6月26日、24歳の若さで自動車事故のため、この世を去ってしまいました。これは、クリフォード・ブラウンと一緒に亡くなったのです。バド・パウエルの弟、リッチー・パウエルは、あと数年長生きしていたら、もっと日の目を見ていたに違いない、才能のあるピアニストだったはずですが、この3つの不運のため、不遇のまま、この世から消えてしまったのです。●リッチー・パウエル(Richie Powell)1931年9月5日生まれ。1956年6月26日死去。24歳。
January 17, 2007
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バースデイ・コンサート / ジャコ・パストリアス The Birthday Concert / Jaco Pastorius録音日:1981年12月1日録音場所:アメリカ、フロリダ州フォート・ローダーデイルオリジナル盤発売日:1995年9月26日 レーベル:Warner Bros.[パーソネル] ジャコ・パストリアス(b)マイケル・ブレッカー(ts)ボブ・ミンツァー(ts, bass clarinet, ss)ピーター・アースキン(ds)ドン・アライアス(congas)etc.ワード・オブ・マウス[収録曲]1.Soul Intro / The Chicken ソウル・イントロ / ザ・チキン2.Continuum コンティニューム3.Invitation インヴィテイション4.Three Views of a Secret スリー・ヴューズ・オブ・ア・シークレット5.Liberty City リバテイ・シティ6.Punk Jazz パンク・ジャズ7.Happy Birthday ハッピー・バースデイ8.Reza レーザ9.Domingo ドミンゴ10.Band Intros バンド・イントロ11.Amerika アメリカ----------1981年12月1日、ジャコ・パストリアス30歳のバースデイを祝ったコンサートのライヴ録音からの編集盤。 フロリダのフォート・ローダーデイルのナイトクラブ「ミスター・ピップス」における、ジャコのバースデイ・コンサートのライヴを記録したもので、ジャコ・パストリアス・ビッグ・バンドのワード・オブ・マウスの演奏ですが、メンバーも演奏も録音状態も最高。ジャコ・パストリアスは、もちろんものすごいですが、このバンドに特別に参加したマイケル・ブレッカーのプレイもすごい。二人とも、この世を去ってしまったのは本当に残念です。
January 16, 2007
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ニアネス・オブ・ユー:ザ・バラード・ブック / マイケル・ブレッカーNearness Of You : The Ballad Book / Michael Brecker録音日:2000年12月18~20日録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Verve[パーソネル] マイケル・ブレッカー(ts)パット・メセニー(g) ハービー・ハンコック(p)チャーリー・ヘイデン(b)ジャック・ディジョネット(ds) ジェームス・テイラー(vo)[2,5][収録曲]1.Chan's Song チャンズ・ソング2.Don't Let Me Be Lonely Tonight ドント・レット・ミー・ビー・ロンリー・トゥナイト3.Nascente ナセント4.Midnight Mood ミッドナイト・ムード5.The Nearness Of You ザ・ニアネス・オブ・ユー6.Incandescence インカンデセンス7.Sometimes I See サムタイムズ・アイ・シー8.My Ship マイ・シップ9.Always オールウェイズ10.Seven Days セヴン・デイズ11.I Can See Your Dreams アイ・キャン・シー・ユア・ドリームス12.Say It セイ・イット~ジョン・コルトレーンに捧ぐ(日本盤のみボーナス・トラック)----------マイケル・ブレッカーのバラード作品集。マイケルが傾倒していたジョン・コルトレーンのアルバム『バラード』を意識したものだと言います。しかし、オーソドックスなスタンダード・ナンバーだけではなく、マイケル自身やハービー・ハンコック、パット・メセニーらのオリジナルも演奏し、さらにはジェイムス・テイラーが2曲ヴォーカルで加わっていて、新しい感覚の、ニュー・スタンダード・バラードというものになっています。
January 15, 2007
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アメリカのジャズ・フュージョン・テナー・サックス奏者のマイケル・ブレッカー氏が、13日に、ニューヨーク市内の病院にて、白血病により亡くなったとのことです。57歳でした。兄のトランペット奏者ランディとマイケルの兄弟が組んだバンド「ブレッカー・ブラザーズ」は、1970年代中ごろから、クロスオーヴァー・フュージョン界のパイオニアとして活躍しました。このバンドのかっこいいサウンドが大好きで、よく聴いたものでした。早すぎる死が惜しまれます。謹んでご冥福をお祈りいたします。----------●マイケル・ブレッカー(Michael Brecker)1949年3月29日、アメリカ、ペンシルヴァニア州フィラデルフィア生まれ。トランペット奏者の兄ランディとバンド「ブレッカー・ブラザーズ」を、ヴァイブ奏者のマイク・マイニエリ、キーボード奏者のドン・グロルニック、ベース奏者のエディ・ゴメス、ドラム奏者のスティーヴ・ガッドと「ステップス」(後に「ステップス・アヘッド」に改名)を結成。ピアノ奏者ハービー・ハンコックやギター奏者パット・メセニーら、著名ミュージシャンと数多くのレコードを制作し、グラミー賞を11回受賞しました。●マイケル・ブレッカー YouTube動画
January 14, 2007
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アワ・マン・イン・パリ / デクスター・ゴードンOur Man In Paris / Dexter Gordon録音日:1963年5月23日録音場所:フランス、パリレーベル:Blue Note[パーソネル] デクスター・ゴードン(ts)バド・パウエル(p)ピエール・ミシュロ(b)ケニー・クラーク(ds)[収録曲]1.Scrapple from The Apple スクラップル・フロム・ジ・アップル2.Willow Weep For Me ウィロー・ウィープ・フォー・ミー3.Broadway ブロードウェイ4.Stairway To The Stars ステアウェイ・トゥ・ザ・スターズ 5.Night In Tunisia ア・ナイト・イン・チュニジア{6.Our Love Is Here To Stay(輸入盤のみボーナス・トラック)}{7.Like Someone In Love (輸入盤のみボーナス・トラック)}----------1950年代不遇だったデクスター・ゴードンが、1960年代になってからブルーノート・レーベルに録音を開始し、完全復帰しますが、これは、デクスター・ゴードンがフランスのパリに渡って録音したものです。このころ、本場アメリカでのジャズに対する不遇から、多くのアメリカのジャズ・ミュージシャンはニューヨークでの暮らしを嫌い、ヨーロッパへ移りました。デクスターもまた、バド・パウエルやケニー・クラークを頼ってパリへ渡ります。モダン・ジャズ・ピアノの開祖、バド・パウエルはすでにパリにおり、パリにおけるバド・パウエル・トリオが旧友デクスター・ゴードンを迎えた、10数年ぶりの再会を記録したセッションということです。リラックスしながらも、久々に刺激しあい、名演が生まれた名盤として残っています。バド・パウエルのファンにとっても、1966年に亡くなった彼の晩年の名演が聴けるという、貴重なアルバムと言えるものです。しかし、この名盤誕生には実にヒヤヒヤものの、あぶない舞台裏があったのでした。レコーディング当日は、全曲デクスターのオリジナルを演奏する予定になっていました。しかし、体調が思わしくないバド・パウエルは、知らない曲をやるのは気が進まないので、やり慣れているスタンダード・ナンバーにしてほしいとごねるのでした。しかし、それではデクスターとしてはせっかくのオリジナルがムダになってしまいます。そんなこんなですったもんだしているうちにバドは酒を飲み始めました。このままではレコーディング自体が中止になってしまいます。しかも、前渡しにしてあったギャラがすべて酒にばけてしまったのでは、たまりません。そこでバドの意見を入れてスタンダードをやることで話がつきます。今度は、バドが酒で酔いつぶれる前に録音を終わらせなければならないというわけで、ほとんどがワンテイクで進めたと言います。しかし、出来上がったこのアルバムを聴いた限りでは、そんなきわどい舞台裏があったなど想像もつきません。デクスターは悠然と構え、バドも絶妙にグルーヴした、すばらしいものになっているのですから。こんな、レコーディング自体が危ぶまれた状況から傑作と名高いアルバムが生まれたとは、音楽とは、わからないものです。「ヒヤヒヤもので録音したんだよ」と、のちにデクスター・ゴードンが語ってくれたウラ話だということです。映画『ラウンド・ミッドナイト』は、パリでのバド・パウエルがモデルになっており、デクスター・ゴードンがバドの役をやっているので、あわせて見るとおもしろいですね。
January 14, 2007
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今日は、「ヴァーチュオーゾ(virtuoso)=巨匠」と称されたジャズ・ギタリストのジョー・パスが生まれた日です。●ジョー・パス(Joe Pass)1929年1月13日、アメリカ、ニュージャージー州ブランズウィック生まれ。1994年5月23日、ロサンゼルスにて死去。65歳。----------ジョー・パスは、コードの響きとそこから発展させたフレージングで、オーソドックスなビバップ・スタイルの代表格と言われるギタリストです。アルペジオやクロマティックをもちいたアプローチは決して派手なものではありませんが、そのテクニックは超絶な職人芸で、ジャズ・ギターの究極的な味わい深さを出しています。ジョー・パスは、子供のころから酒と博打が大好きな父親に、ギャンブル中のBGMとしてギターを弾かされていたといいます。なかば強制的に弾かされていたギターでしたが、それにより腕を上げ、ジャンゴ・ラインハルトに傾倒するギター・スタイルで、10代にはプロとして活動していました。学校を卒業すると、すぐにニューヨークへ進出して精力的な活動を始めますが、麻薬に手を染め逮捕され、20代のほとんどを療養所で過ごすことになってしまいます。結局、何度も入退院を繰り返し、その最後がサンタモニカのシナノン療養所でした。療養所内の仲間と彼が演奏していたところをパシフィック・ジャズ・レコードの社長の目にとまり、1960年代初頭にレコーディングをすることになったものが、30代半ばでのデビュー・アルバム『サウンド・オブ・シナノン』です。以後、歴史的名盤『フォー・ジャンゴ』(1964年)、『ヴァーチュオーゾ』(1973年)など、数多くのアルバムを世に送り出します。1970年代に入ってプロデューサーのノーマン・グランツに見出されてからは、多くのオールスター・セッションに起用されるようになり、共演もデューク・エリントン(p)、オスカー・ピーターソン(p)といった大物たちと行っていますが、ヴォーカルのエラ・フィッツジェラルドとのデュオでみせる歌伴の演奏は、まさに絶品です。どんなに崇められても決しておごることなく、自らを「ギターを弾く芸人」と言っていたそうです。
January 13, 2007
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モダン・ジャズ・ピアノの父と称されているジャズ・ピアニストのバド・パウエルは、酒や麻薬におぼれた破滅型ジャズ・ミュージシャンとして語られていますが、精神障害により、精神病患者として入退院を繰り返していたことでも知られています。当時の映像の中には、うつろな目をした精神異常者のようなバド・パウエルの姿があります。ある神経生理学者によると、バド・パウエルの精神障害は心理的なものではなく、神経的なもの、つまり、外傷的な原因によるもので神経発作を起こしていたのではないかと言います。バドは、1945年、フィラデルフィアで黒人人種差別から警官に暴行を受けるという事件があり、頭を強く打ち入院しますが、このとき、脳に永久的な損傷を受け、神経に異常をきたすことになったのではないかということです。このころから精神病院の入退院を繰り返すことになりますが、歴史的名作が創造されたのもこの時期で、『バド・パウエルの芸術』や『アメイジング・バド・パウエル』などの傑作を残しています。その神経生理学者は、レコード上のバドの演奏と、彼がうつろな目で、時おり、じっと一点を見つめていたという証言から、演奏中の倍音によって、それが発作として出現したもので、初めは軽度なものだったのが、しだいに強い発作になっていったのではないかと言います。それを精神分裂病(統合失調症)患者として扱われたため、入院させられたバドは、長期に渡って電気ショック療法をされるのですが、ついに正しい治療を受けることなく終わったのだと論じています。バド・パウエルは黒人故の差別により暴行を受け、それが原因の脳障害により精神病患者にされ、自らの奏でる音楽によって症状を悪化するという悲劇に見まわれたという見方があります。このような不幸な経過が、酒や麻薬にも依存する一因であったのではないかとも思えますが、いずれにしても、バド・パウエルは暗い不幸の影がつきまとう人生を送った人であったということです。
January 12, 2007
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10:30~説明会会場の説明。13:00~模擬シュミレーションピアノ演奏カ所を実際に演奏した。
January 11, 2007
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このアルバムは、歴史的名盤として名高いオールスターズ・セッションで、7日の日記で紹介しましたが、これには、多くのエピソードがありました。↓●ジャズ・アット・マッセイ・ホ―ルこのとき、チャーリー・パーカーは楽器を持たずに手ぶらで来て、近くの楽器店で白いプラスチック製のサックスを借りたという話は良く知られていますが、ほかにも、さまざまなエピソードがあったことがわかりました。当日は、ロッキー・マルシアーノとジョー・ウォルコットの、ボクシングのヘビー級タイトルマッチとかちあってしまったということもあり、客席数2500に対して入場者数はわずか700人ということでした。ディジー・ガレスピーは、試合が気になって演奏途中でもステージから離れてしまうし、バド・パウエルはといえば、統合失調症(精神分裂病)の治療で長期間、電気ショック療法を受けていた直後のときで、最初の曲から妙にハイになっていたといいます。休憩時間には会場の向かいにあるバーに酒を飲みに行ってしまい帰ってこないので、主催者に連れ戻されるという一件もあったそうです。その主催者は主催者で、入場料だけでは出演者のギャラが払えないということになり、それを知ったパーカーは、自腹を切ってでもメンバーにギャラを払えと掛け合い、全員が支払いを受けるのを確認するという騒ぎもあったといいます。しかし、そんな状況の中で行われたにもかかわらず、演奏は歴史に残る素晴らしいものであったことは確かで、やはり、彼らはみんな、ただ者ではなかったということです。
January 11, 2007
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ヘアカットした。
January 10, 2007
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ちょうど60年前の今日・・・バド・パウエルの芸術 / バド・パウエルThe Bud Powell Trio【1~8】録音日:1947年1月10日録音場所:アメリカ、ニューヨーク[パーソネル] バド・パウエル(p)カーリー・ラッセル(b)マックス・ローチ(ds)【9~16】録音日:1953年8月14日録音場所:アメリカ、ニューヨーク[パーソネル] バド・パウエル(p)ジョージ・デュヴィヴィエ(b)アート・テイラー(ds)レーベル:東芝EMI [収録曲] 1.I'll Remember April 四月の想い出 2.Indiana インディアナ 3.Somebody Love Me 誰かが私を愛している 4.I Should Care アイ・シュッド・ケア 5.Bud's Bubble バッズ・バブル 6.Off Minor オフ・マイナー 7.Nice Work If You Can Get It ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット 8.Everything Happens To Me エヴリシング・ハプンズ・トゥ・ミー 9.Embraceable You エンブレイサブル・ユー 10.Burt Covers Bud バート・カヴァーズ・バド 11.My Heart Stood Still マイ・ハート・ストゥッド・スティル 12.You'd Be So Nice To Come Home To ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ 13.Bags' Groove バグス・グルーヴ 14.My Devotion マイ・ディヴォーション 15.Stella By Starlight 星影のステラ 16.Woody'n You ウッディン・ユー ----------ちょうど60年前の今日。これは、今でこそジャズでは当たり前の編成である、ピアノとベースとドラムスというジャズ・ピアノ・トリオ編成で、ビバップ・スタイルが初めて形を成した歴史的演奏です。そのため、「モダン・ジャズ・ピアノの父」と語り継がれているバド・パウエル(1924.9.27~1966.7.31)が、1947年の1月10日に、ドラムスにマックス・ローチ、ベースにカーリー・ラッセルを起用して、初のリーダー・セッションを行なったものが、このアルバムの前半の8曲に収められています。バド・パウエルの演奏は、すべてのモダン・ジャズ・ピアニストに影響を与えたと言えるでしょう。 ジャズ・ピアノ・トリオの究極の演奏であり、ジャズ・ピアノのバイブルとも言える名作です。まさに「神がかり的」。ちなみに、この1947年1月10日は、マックス・ローチの23歳の誕生日でもありました。
January 10, 2007
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昨日の夜、スーパーに納豆を買いに行ったら、「今日仕入れの分は完売しました」と書かれてあった。なんてこった、まいったなあ。やっぱりテレビのせいかな。今日は今から買いに行こう!
January 10, 2007
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私の音楽のパートナーのシンガー・かおりんは、FMラジオのパーソナリティーをしていますが、番組のスポンサーに、老人介護や高齢者のための商品を販売している会社があり、今年は、高齢でも今なお元気に活躍しているミュージシャンを紹介していこうということで、70歳以上で活動している有名なジャズ・ミュージシャンは誰がいるかと聞いてきました。う~ん、ジャズ・ミュージシャンはみんな短命で、巨人と言われている人は今ではみんな亡くなってしまっていますからね。思い当たるところでは、最後の巨人と言われている「ソニー・ロリンズ」ですかね。●ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)1930年9月7日生まれ。今年(2007年)⇒77歳。しかし、最近引退宣言をしていたようですからね。私が大好きな人で、今もなお元気にライヴやレコーディング活動をしている人といえば、ジャズ・ハーモニカ奏者の「トゥーツ・シールマンス」です。●トゥーツ・シールマンス(Toots Thielemans)1922年4月29日生まれ。今年⇒85歳。ベーシストの「ロン・カーター」と「チャーリー・ヘイデン」は同い年で、今年70歳になるのですね。ハービー・ハンコック(67歳)やチック・コリア(66歳)、キース・ジャレット(62歳)などより年上です。マッコイ・タイナーは、おしいかな今年69歳でした。デューク・ジョーダンは去年2006年の8月に84歳で亡くなってしまいました。「トゥーツ・シールマンス」も「ハンク・ジョーンズ」も「オスカー・ピーターソン」も、みなさん長生きしてもらいたいです。有名な人で、思い当たる人を挙げてみました。●ハンク・ジョーンズ(Hank Jones)(p)1918年7月31日生まれ。今年⇒89歳。●デイヴ・ブルーベック(Dave Brubeck)(p)1920年12月6日生まれ。今年⇒87歳。●オスカー・ピーターソン(Oscar Peterson)(p)1925年8月15日生まれ。今年⇒82歳。●ジミー・スコット(Jimmy Scott)(vo)1925年7月17日生まれ。今年⇒82歳。●ヘレン・メリル(Helen Merrill)(vo)1929年6月21日生まれ。今年⇒78歳。●ジム・ホール(Jim Hall)(g)1930年12月4日生まれ。今年⇒77歳。●ジョー・ザヴィヌル(Joe Zawinul)(p,keyboard)1932年7月7日生まれ。今年⇒75歳。●ウェイン・ショーター(Wayne Shorter)(ts,ss)1933年8月25日生まれ。今年⇒74歳。●エディ・ヒギンズ(Eddie Higgins)(p)1932年2月21日生まれ。今年⇒75歳。●デイヴ・グルーシン(Dave Grusin)(p, keyboard)1934年6月26日生まれ。今年⇒73歳。●ジュニア・マンス(Junior Mance)(p)1928年10月10日生まれ。今年⇒79歳。●ホレス・パーラン(Horace Parlan)(p)1931年1月19日生まれ。今年⇒76歳。●レイ・ブライアント(Ray Bryant)(p)1931年12月24日生まれ。今年⇒76歳。●ラムゼイ・ルイス(Ramsey Lewis)(p, keyboard)1935年5月27日生まれ。今年⇒72歳。●ロン・カーター(Ron Carter)(b)1937年5月4日生まれ。今年⇒70歳。●チャーリー・ヘイデン(Charlie Haden)(b)1937年8月6日生まれ。今年⇒70歳。●ハーブ・アルパート(Herb Alpert)(tp)1935年3月31日生まれ。今年⇒72歳。●リー・コニッツ(Lee Konitz)(as)1927年10月13日生まれ。今年⇒80歳。●ジミー・コブ(Jimmy Cobb)(ds)1929年6月20日生まれ。今年⇒78歳。●秋吉 敏子(穐吉 敏子)(あきよし としこ)(p)1929年12月12日生まれ。今年⇒78歳。●渡辺 貞夫(わたなべ さだお)(as)1933年2月1日生まれ。今年⇒74歳。
January 9, 2007
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日曜日のテレビ(あるある)で、「納豆でやせる」というのをやっていた。納豆は身体に良いということは前からよく言われてたので、納豆だけは、毎日1パック食べるようにしていたのですが、納豆にはダイエット効果もあるという。ポイントは3つ。1.納豆はよくかきまぜる。(50回以上)2.そのまま20分放置してから醤油を入れて食べる。3.1日2パックを、朝晩に分けて食べる。う~ん、1日2パック食べないとだめなのか。夕方、スーパーに行ったとき、納豆がきれいに無くなっていた。テレビの効果なのだろうか?
January 8, 2007
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12カ月点検と修理代=51,349円
January 7, 2007
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ジャズ・アット・マッセイ・ホ―ル / チャーリー・パーカー:ザ・クインテットJazz At Massey Hall / Charlie Parker : The Quintet録音日:1953年5月15日録音場所:カナダ、トロント、マッセイ・ホールにおけるライヴ録音レーベル:Debut[パーソネル] チャーリー・パーカー(as)ディジー・ガレスピー(tp)バド・パウエル(p)チャールズ・ミンガス(b)マックス・ローチ(ds)[収録曲] 1.Perdido パーディド 2.Salt Peanuts ソルト・ピーナッツ 3.All The Things You Are - 52nd Street Theme オール・ザ・シングス・ユー・アー~52丁目のテーマ 4.Wee ウィー 5.Hot house ホット・ハウス 6.Night In Tunisia チュニジアの夜 ----------これは、 1953年5月15日、カナダ、トロントのマッセイ・ホールで行われたコンサートのライヴを収めたものということです。このアルバムは、何といってもメンバーがすごいんです。サックスのチャーリー・パーカー、トランペットのディジー・ガレスピーという絶妙のコンビに、ピアノはバド・パウエル、ベースがチャールズ・ミンガス、ドラムはマックス・ローチというからたまりまん。ジャズのことを少しでも知っている人にとっては、このメンバーを見ただけで感激ものでしょう。歴史的ビッグ・ネームが5人もいるのですから。この一枚で、パーカーもガレスピーもパウエルもミンガスもマックス・ローチも聴けるというわけです。しかも、この5人が一堂に会したアルバムは、これ一枚しかありません。この録音から約1年後のジャズ・シーンは、ビバップが、さらに新しい形になっていく、ハードバップというスタイルのジャズが現れることになります。また、約2年後の1955年の3月にはチャーリー・パーカーはこの世を去ってしまいます。そんなときのジャズの、ビバップが最も成熟した形がここにあるということです。しかし、このアルバムは、このときのメンバーのチャールズ・ミンガスがほとんど私的に録音し、自ら興したレーベルのデビュー・レコードから、自費出版に近い形で発表されたものだということです。そのため、チャーリー・パーカーはレコード会社との契約の関係でチャーリ・チャンという名前になっていたり、「オール・ザ・シングス・ユー・アー~52丁目のテーマ」は別の日の録音のものを持ってきたり、この曲のピアノはパウエルではないのではないかとか、拍手やベースがダヴィングされているとか、いろいろ言われています。しかも、パーカーもパウエルもボロボロの時期。パーカーはよく楽器を質に入れてしまったりして、レコーディングにも楽器を持ってこなかったことがあるという逸話がありますが、パーカーは、このとき楽器を持ってこないで、近くの楽器店で借りたというプラスチック製の練習用のサックスを吹いているということです。しかし、そんなことは演奏するほうにとって何のいいわけにはならず、聴くものにとっても関係のないことで、いいものはいい、悪いものは悪い、それだけです。確かにそう言われれば危なげなところも感じられますが、やはりこの人は信じられないくらいの天才的な感覚で、すばらしいプレイをしているのが伝わってきます。そして聴くものに興奮と感激を与えてくれます。こういうパーカーやパウエルのような人のプレイのことを、まさに「神がかり的」と言うのでしょう。もちろんガレスピーは言うに及ばず、まったくもってサエまくっています。それぞれのアドリブ・プレイはもちろんのこと、パーカーとガレスピーの絶妙なセンスのコンビネーション、そして、リズム・セクションのサポートのすばらしさ、そんなところからも、これこそがジャズだと思える一枚です。
January 7, 2007
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今日は、ジャズの革新的スタイル、「ビバップ」の創始者のひとりであるトランペット奏者、ディジー・ガレスピーが亡くなった日です。●ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)本名:ジョン・バークス・ガレスピー(John Birks Gillespie)1917年10月21日、アメリカ、サウスカロライナ州チーロー生まれ。1993年1月6日、ニュージャージー州イングルウッドの病院でスイ臓ガンの施療中死去。75歳。ディジー・ガレスピーは、アメリカのジャズ・トランペット奏者で、バンドリーダーで、作曲家。----------1940年代のジャズ・シーンでは、スウィングからビバップへの演奏スタイルの移行が起こりましたが、ディジー・ガレスピーは、それを主導したジャズ史上の重要人物のひとりです。それにより、それまでのダンス音楽としての低俗的な一面を持っていたジャズから、より高度で芸術的な鑑賞音楽としてのジャズへの転換を推し進めました。ディジー・ガレスピーは本名をジョン・バークス・ガレスピーといい、1917年10月21日に。ノースカロライナ州のチーローで生まれました。父親はレンガ職人でしたが、アマチュア・ミュージシャンでもあり、その影響で音楽に親しみ、14歳からトロンボーンを演奏するようになりますが、すぐにトランペットに転向しました。一家がフィラデルフィアに転居した後、18歳ごろから地元のバンドでプロ・ミュージシャンとして活動するようになります。スウィング・ジャズ時代の名トランペッターであるロイ・エルドリッジ(1911年-1989年)に影響を受けたと言い、ガレスピーは、より速くより高くを目標に、非常に高度な技術を追求していきました。1937年に、そのエルドリッジの後任者としてテディ・ヒルのバンドに入団しますが、従来からの演奏スタイルに物足りなさを感じていたガレスピーは変わった演奏の試みを繰り返し、また普通とは違う奇矯(ききょう)な振る舞いが目立ったことから、同僚とはたびたびトラブルを起こしていました。1939年にはエンターテイナーとして有名なキャブ・キャロウェイのバンドに参加しましたが、ここでもリーダーのキャブ・キャロウェイとケンカをしたあげく、キャブに怪我を負わせてしまい、1941年に退団します。ガレスピーは1940年ごろから、通常のバンドの仕事が終わった時間に、ニューヨークのジャズ・クラブに訪れては、そこでメンバーを固定しないで行われるジャム・セッションに加わって演奏をしていました。そこでは、ギタリストのチャーリー・クリスチャン、ピアニストのセロニアス・モンクや、サックス奏者のチャーリー・パーカーらと共に、従来のジャズであるスウィング・スタイルのリズムやアドリブを革新することを模索し、新しいスタイルのジャズを探求することを行いました。それはビバップという革新的なジャズのスタイルとして誕生することになり、これこそがモダン・ジャズ時代の幕開けとなります。1945年ごろからガレスピーは盛んなソロ活動を開始し、チャーリー・パーカーと共に、このビバップを推し進めていきました。1946年以降、何度もビッグ・バンドを組織し、リーダーを務めます。そして、彼はキューバ音楽にも傾倒し、ラテン・リズムをビバップに取り入れ、このリズムは、アフロ・キューバンという新しいリズムとしてジャズの形態のひとつになり、この新しいラテン・ジャズは、アフロ・キューバン・ジャズと呼ばれるようになりました。作曲家としては「チュニジアの夜」、「ビバップ」、「ブルー・ン・ブギー」、「ソルト・ピーナッツ」、「マンテカ」、「ウディン・ユー」、「アンソロポロジー」など、数多くの曲を作曲し、これらはジャズ・スタンダード・ナンバーになっています。公民権運動の旗手、マーチン・ルーサー・キング師が暗殺された後、すべての宗教、人種の融和を説くバハーイー教を信奉、生涯、反人種差別主義者でした。若い時は奇行もありましたが、麻薬や飲酒にも深くかかわらず、繰り返しビッグ・バンドを組織して海外公演を行い、モダン・ジャズ界の大御所として晩年まで長く音楽活動を続けました。1956年には米国務省初の親善大使として中東でツアーを行ったほか、世界の17の著名大学から名誉博士号を授与されました。途中から折れ曲がってベルが上を向いたトランペットと、トランペットを吹いているときに異常に膨らむ頬(ほお)は、ガレスピーのトレードマークでした。折れ曲がったトランペットを使うようになったきっかけは、あるとき、客に、いすに置いておいたトランペットの上に座られたためベルが曲がってしまったのですが、ガレスピーはそのトランペットが気に入り、その後特注で作らせ愛用するようになったと言います。また、トランペットを吹く時に膨らむ頬は特異体質によるもので、「ガレスピー・パウチーズ」という医学用語になり、この頬に対する医学的研究のための検査に、ガレスピーは自ら協力したそうです。そして、彼はエンターテイナー的な茶目っ気があり、ライヴ・ステージでは歌を歌ったり、コメディアン的な仕草をしたり、奇抜なファッションをしたりして聴衆に大きくアピールしました。「Dizzy(くらくらする)」というニックネームも、このキャラクターに由来するものだそうです。「音楽以上のものはない」が決まり文句でした。
January 6, 2007
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今日は、ジャズ・ベーシストであり、ジャズ界の巨人のチャールズ・ミンガスが亡くなった日です。●チャールズ・ミンガス(Charles Mingus)1922年4月22日、アメリカ、アリゾナ州ノガルス生まれ。1979年1月5日、療養中のメキシコで死去。56歳。----------チャールズ・ミンガスは、ジャズ・ベーシストであり、作・編曲家であり、バンドリーダーでした。幼いころにロサンゼルスに移ったミンガスは、6歳のときにトロンボーン始めますが、すぐにチェロを習い始め、スクール・バンドやジュニア交響楽団などで演奏するようになりますが、その一方でジャズにも興味をもち、楽器をベースに持ち替えます。1940年、ミンガスが20代始めのころからプロのジャズ・プレイヤーとして活動を始めました。1950年代からニューヨークに移り、チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスなどと共演したあと、1960年以降は、自己の強烈な独自な世界を表現していきました。ミンガスは、ジャズ界屈指のベーシストであったばかりでなく、常に未知の音の世界を目指す作曲家、アレンジャーとしても才能を発揮しました。ミンガスの音楽は表現によって編成も大きく変わり、それは、ピアノ・ソロであったり大所帯のグループになったりと、そのスタイルは多岐に及びました。そして、彼が敬愛するデューク・エリントンのサウンドを初めとしてゴスペルやメキシコ音楽など、さまざまな要素を取り混ぜた独自のミンガス・ミュージックと呼ばれるものを形づくりました。また、ミンガスはバンドリーダーとしても、すぐれた若い才能の発見者、育ての親でもありました。彼が1950年代を通じて行ったコンサートのためのグループや、このコンサートに対して、ミンガスは《ジャズ・ワークショップ》と名乗っていました。ワークショップとは仕事場、研修会という意味のことですが、ミンガスの音楽に対する姿勢をよく言い表しています。彼はリハーサルを重視し、リハーサルによって最良の演奏を引き出そうとしたばかりではなく、リハーサルによって何か新しいものを発見しようとしました。ミンガスのリハーサルは、その厳しさで有名で、そうしたリハーサルの風景を見た知人やジャーナリストの中には、ミンガスを気違いじみた暴君、狂気の男と呼んだりした者もいましたが、ミンガスは才能を認め、起用したプレイヤーたちから、そういう形で最良のプレイを引き出すことを行ったのでした。それから、音楽を通じて政治的なメッセージを訴えたのもミンガスの特徴で、ミンガスの代表曲のひとつである「フォーバス知事の寓話」は、人種差別に加担した当時の役人を名指しで糾弾したものでした。ミンガスは短気で怒りっぽい性格で、いつも怒りをあらわにしていたことでも有名でしたが、彼は、うつ病、もしくは双極性障害(そううつ病)の傾向にあったと言い、彼が怒りっぽいのは、そういうことによるものがあるのかもしれません。代表的なアルバムは『直立猿人』、『道化師』など。
January 5, 2007
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グルーヴとは・・・、そしてポール・チェンバースの代表作。グルーヴィー / レッド・ガーランドGroovy / Red Garland録音日:1956年12月14日(4、5) 1957年5月24日(6) 1957年8月9日(1~3)録音場所:アメリカ、ニュージャージーレーベル:Prestige[パーソネル] レッド・ガーランド(p)ポール・チェンバース(b)アート・テイラー(ds)[収録曲] 1.C Jam Blues Cジャム・ブルース2.Gone Again ゴーン・アゲイン3.Will You Still Be Mine ウィル・ユー・スティル・ビー・マイン?4.Willow Weep For Me 柳よ泣いておくれ5.What Can I Say, Dear? ホワット・キャン・アイ・セイ・ディア6.Hey Now ヘイ・ナウ----------これは、ジャズ・ピアノ・トリオを代表する名盤です。このアルバムはピアニストのレッド・ガーランドのリーダー作になっていますが、むしろリーダーはベースのポール・チェンバースではないかと思えるくらいに、彼の存在感が大きいもので、これは、ポール・チェンバースのリーダー作だと言ってもおかしくないものです。このアルバムはジャズ・ピアノ・トリオの代表作品と言えるものですが、ビル・エヴァンス・トリオのものもジャズ・ピアノ・トリオの代表作品だというものがたくさんあります。しかし、それは内容的に、どちらが優れているかというように比べられるものではなく、それぞれが違う個性のある、良い作品であるということです。ここには、レッド・ガーランド・トリオの独特のごきげんなノリがあり、それが、ジャズという音楽の持っている気持ちいいグルーヴ感なのです。「グルーヴ(groove)」とは、本来は「みぞ」という意味ですが、「in the groove」ということで、「最高調」とか「実にうまく演奏する」、「大いに楽しむ」といった意味になります。まさに、これは、このアルバムのタイトル通りグルーヴィー(ごきげん)なアルバムなのです。そして、このグルーヴ感に身をゆだねることで得る満足感こそがジャズの魅力だと言えます。これは、聴く人々を、そんなしあわせな気持ちにしてくれるという名盤です。グルーヴ感とはリズムのノリから生まれるもので、それは独特のものです。そして、それはいろいろな音楽で発生し、よくソウル・ミュージックやR&Bやブルースなどでもグルーヴということを言いますがこのリズムのノリの分野を理論的に表すことはいまだにできていません。しかし、古来からのアフリカなどの民族音楽などで自然に行われてきていることです。打楽器が中心になって同じリズムを延々と繰り返していくうちに、そのエネルギーが大きくなっていき、ある種の高揚感(こうようかん)が生まれてくるというもので、これがジャズの原点でもあるグルーヴ感だと言えるでしょう。ジャズを聴くときや演奏しようとするときに、アドリブのフレーズがどうのこうのなどと言う前に、一番大切なもの、それがグルーヴしているかどうかということです。このアルバムには、そんなジャズの本質であるグルーヴがあるのです。そして、それは、レッド・ガーランドのピアノの素晴らしさはもちろんですが、ポール・チェンバースとアート・テイラーの3人により生まれたもので、特に「Cジャム・ブルース」のグルーヴィーなプレイは傑作中の傑作です。そして、このアルバムは、特別に何か革新的なことをやろうとか、変わったことや、すごいことをやろうといったことはいっさい考えずに、だれかのレコーディングに参加したついでに録音されたものを集めたもので、普段どおりのリラックスした、ごくごく日常的な演奏から生まれたに過ぎないものです。そんなところからも、肩肘を張らずに「ジャズっていいなあ」と単純に感じられるものになっているのだと思います。
January 4, 2007
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38年前の今日は、アメリカのジャズ・ベーシスト、ポール・チェンバースが亡くなった日です。●ポール・チェンバース(Paul Chambers)1935年4月22日、アメリカ、ペンシルバニア州ピッツバーグ生まれ。1969年1月4日、ニューヨークで肺結核のため死去。33歳。----------ポール・チェンバースはジャズのハードバップ・スタイルを代表する名ベーシストのひとりで、1950年代後半から1960年代半ばにかけて最も多忙なベーシストとして、数多くのレコーディングに参加しており、そのころのハードバップのアルバムの多くには、彼の名が見られます。1955年から1963年まで、マイルス・デイヴィス・グループに在籍しています。まさに名実共にミスター・ベースマンと呼ぶにふさわしいベーシストと言えるでしょう。ポール・チェンバースは、アメリカ、ペンシルバニア州ピッツバーグで生まれました。最初はチューバやバリトン・ホーンなどの管楽器を演奏していましたが、その後ベースに転向したと言います。デトロイトで育ち、地元で演奏活動をしていましたが、1954年にニューヨークへ行き、ジョージ・ウォーリントンのバンドに加わりました。1955年から1963年の約8年間、マイルス・デイヴィス・グループに在籍し、同時に、ジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイ、ドナルド・バード、 ソニー・ロリンズ、フレディ・ハバード、ジャッキー・マクリーン、バド・パウエル、レッド・ガーランド、ソニー・クラーク、ウィントン・ケリーなど有名な多くのジャズ・ミュージシャンのレコーディングに参加しています。大量の飲酒や麻薬の常習者であったという彼は、1969年に肺結核により、33歳という若さで亡くなりました。ちなみに、ジョン・コルトレーンのアルバム『ジャイアント・ステップス』にも参加しており、その中に収録されているコルトレーン作曲の「ミスターP.C.」は、ポール・チェンバースのことです。
January 4, 2007
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ラー / マーク・マーフィーRah / Mark Murphy録音日:1961年9月、10月録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Riverside [personnel]マーク・マーフィー(vo)アーニー・ウィルキンス(arr,cond)クラーク・テリー(tp)ブルー・ミッチェル(tp)ジミー・クリーヴランド(tb)アービー・グリーン(tb)ウイントン・ケリー(p)ビル・エヴァンス(p)ジョージ・デュヴィヴィエ(b)ジミー・コブ(ds)and others[収録曲]1.Angel Eyes エンジェル・アイズ2.On Green Dolphin Street グリーン・ドルフィン・ストリート3.Stoppin' The Clock ストッピン・ザ・クロック4.Spring Can Really Hang You Up The Most スプリング・キャン・リアリー・ハング・ユー・アップ・ザ・モスト5.No Tears For Me ノー・ティアーズ・フォー・ミー 6.Out Of This World アウト・オブ・ディス・ワールド7.Milestones マイルストーンズ8.My Favorite Things マイ・フェイヴァリット・シングス(ショート・ヴァージョン)9.Doodlin' ドゥードゥリン10.Li'l Darlin' リル・ダーリン11.Twisted トゥスティッド 12.I’ll Be Seeing You アイル・ビー・シーイング・ユー 13.My Favorite Things マイ・フェイヴァリット・シングス(ロング・ヴァージョン)[CD追加曲] ----------男性ジャズ・シンガーのマーク・マーフィーが、1961年に録音した、名唱盤。日本盤は、現在品切れ状態になっているもので、中古CDが2万円近くの値が付いているものもあり幻の名盤になるのかと思っていましたが、今月(2007年1月)に再発売されるようなので、ほっとしました。こういう名盤がなくなってしまっては残念でしかたないですから。とにかく歌のうまさでは天下一品のマーク・マーフィーが、このアルバムではスタンダードなナンバーを思いっきりのバラードで歌ったり、マイルス・デイヴィスや、ホレス・シルヴァーのジャズ・ナンバーに歌詞をつけて歌ったりと、とにかく多彩でおもしろい、アドリブ・スキャットも聴かせてくれて、これこそがジャズ・ヴォーカルだという内容のものです。特に日本盤のものでは、「マイ・フェイヴァリット・シングス」は2種類のヴァージョンが収録されていて、ロング・ヴァージョンのものは、歌詞が追加されているのも興味深いものです。これは、もともとの普通の歌詞でひととおり歌ったあとに、マーフィーが自分で作った歌詞でもうワン・コーラスを歌っています。●「マイ・フェイヴァリット・シングス」オスカー・ハマースタイン2世の歌詞の意味バラの花びらにたまった雨のしずく、子猫のお髭ピカピカの銅のヤカンに毛糸の手袋ひもで結んだ茶色の紙包みこれは私のお気に入りのもののほんの一部クリーム色の子馬に、食べるとパリパリと音がするリンゴのシュトルーデルのお菓子ドアのベルやソリの鈴、そしてヌードルを添えた子牛のカツなんかもお月さんを翼にいだいて飛ぶガンの群れみんな私のお気に入りのものなの白いドレスに青いサテンの飾り帯をつけた女の子私のお鼻やまつげに積もった雪のかけらとけて春へと姿を変えていく白銀の冬こんなものも私のお気に入りなの犬に噛まれたって、ハチに刺されたって悲しくてどうしようもないときだって私はただ、こういう私のお気に入りのもののことを考えるのそうすると、もう私の気分は悪くはなくなってしまう●マーク・マーフィーが付け加えた歌詞の意味 ジョン・コルトレーンが語り、マイルスとギルが吹くマリガンはウォーキング・ビートで、ハイ・ロウズは上がったり下がったりレイ・チャールズ、B.C、弦楽つきのガーナーこれは、僕がお気に入りのもののほんの一部さごきげんなアニタにノッているペギー・リーキャノンボールの動きは大好きさモントレーでスウィングしているときのデイヴ、ジョン、アニー僕がお気に入りのものはまだまだたくさんあるさビリーの思い出とその心の痛み僕も入れてくれる夜明けのセッション大御所のアーニー・ウィルキンスを聴くと、まるで空を飛んでいるような気分さこれも、僕がお気に入りのもののほんの一部さ間抜けが事を台無しにしてしまったときブルースの気分になったとき僕がものすごく悪い気分になってしまったときそういうときには、ただ、僕のお気に入りのものを考えるんだそうすると、もう僕の気分は悪くなくなってしまうのさ
January 3, 2007
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マイ・フェイヴァリット・シングス / ジョン・コルトレーンMy Favorite Things / John Coltrane録音日:1960年10月21、24、26日録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Atlantic[personnel]ジョン・コルトレーン(ts,ss)マッコイ・タイナー(p)スティーヴ・デイヴィス(b)エルヴィン・ジョーンズ(ds)[収録曲] 1.My Favorite Things マイ・フェイヴァリット・シングス2.Everytime We Say Goodbye エヴリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ3.Summertime サマータイム4.But Not For Me バット・ノット・フォー・ミー----------このアルバムは、マイルス・デイヴィス・グループで名声を得たジョン・コルトレーンが、アトランティック・レーベルと専属契約を結んで録音した2枚目のアルバムであり、マイルス・デイヴィス・グループから独立後、最初のものになります。コルトレーンがモード奏法を自在に繰り広げた記念碑的アルバムと言えます。アトランティックでの1枚目、要するに前作のアルバムは『ジャイアント・ステップス』であり、こちらもジャズの歴史上、超がつく名盤のひとつです。コルトレーンのアルバムは、その全部が歴史的名盤と言えるものですが、ジャズを聴きなれていない人にとっては何がなんだかわからないと思ってしまうものが多いでしょう。そんな中で、このアルバムは親しみやすい部類のアルバムだと思います。収録曲は、いずれも、今では有名なスタンダード・ナンバーです。1曲目のタイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、リチャード・ロジャーズ&オスカー・ハマースタイン2世の曲で、ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入曲。2曲目の「エヴリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ」はコール・ポーターの作曲によるバラード。3曲目と4曲目はガーシュウィン作曲のスタンダード・ナンバーです。LPレコードの時代には、A面2曲、B面2曲という構成で、A面ではコルトレーンが初めてソプラノ・サックスをもちいたもので、B面ではテナー・サックスを演奏しているものになります。タイトル曲の「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、アカデミー賞受賞の名作映画『サウンド・オブ・ミュージック』で広く知られたナンバーですが、この映画ができるのは、このアルバムから5年後の1965年のことで、当時は、これがブロードウェイ・ミュージカルの曲だと気づく人はまれだったということです。しかし、この演奏が多くのファンに支持されたのは、この楽曲が素晴らしかったということで、この曲のメロディーとジャズ・ワルツのリズムのノリの心地よさと、そして何よりもコルトレーンの吹くソプラノ・サックスの音色が、このメロディーに非常に良くマッチしたからでしょう。コルトレーン自身も気に入り、生涯を通じてこの曲を愛奏曲とし、モードからフリーへと飛躍的変化をとげる過程のなかでも、数限りなくこの曲の演奏を繰り返していきます。晩年にはそれこそ凄まじい演奏になっていくのですが、コルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」の演奏を追いかければ、彼の音楽的変遷がわかるとまで言える、その記念すべき初演がここにあるというものです。
January 2, 2007
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あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。マリー・マクドナルドの『ザ・ボディ・シングス』のジャケットを眺めながら、今年もがんばりましょう。 ザ・ボディ・シングス / マリー・マクドナルドThe Body Sings / Marie McDonald1.エンブレイサブル・ユー 2.ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン 3.ユール・ネヴァー・ノウ 4.アイ・ガット・イット・バッド 5.ビル 6.パラダイス 7.ジーズ・フーリッシュ・シングス 8.ドント・ブレイム・ミー 9.イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー 10.ヒー・トゥック・ミー・バイ・ストーム 11.アイ・ドント・ノウ・ホワイ 12.恋に恋して
January 1, 2007
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