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娯楽の楽園パスタイム・パラダイスPastime Paradise【邦題:楽園の彼方へ】この曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、スティーヴィー・ワンダーの1976年10月8日発表のアルバム、『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』に収録されました。スティーヴィーのものはシングル・カットされませんでしたが、1995年にクーリオとLVが「ギャングスターズ・パラダイス」としてカヴァーし、全米チャート1位になり、セールスも300万枚を超えるという大ヒットになりました。この曲は、独特のリズムと、メロディーの神秘的なサウンドで、「どこにもカテゴライズできないが面白い曲」という部類に入るもので、これも、まさにスティーヴィー・ミュージックといった印象深い曲です。直訳すると「娯楽の楽園」という意味のタイトルで、物質に取り付かれた現代を「娯楽の楽園」として批判した哲学的内容のものです。*****●パスタイム・パラダイス Pastime Paradise【邦題:楽園の彼方へ】作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1976年僕たちは人生のほとんどを娯楽の楽園で過ごしてきた彼たちは人生のほとんどを娯楽の楽園で過ごしてきた彼らは時間のほとんどを過去を賛美することで無駄にしてきた彼らは日々のほとんどを無駄にして古い賛美の無知な想い出にひたってきた教えてほしいその中の誰がそうなるのだろう?その中の何人が君と僕なのか?浪費人種関係慰安隔離支配孤立搾取断絶変異誤想像承認、世界の悪へと彼らは人生のほとんどを未来の楽園で過ごしてきた彼らは人生のほとんどを未来の楽園で過ごしてきた彼らは頭の中で時間から悲しみをななる日を探してきた愛の救世主が到来することばかりを彼らは話し続ける教えてほしいその中の誰がそうなるのだろう?その中の何人が君と僕なのか?人種関係の布告慰め統合事実の証明歓呼世界救済波動模擬確認、世界平和へと彼たちは人生のほとんどを娯楽の楽園で過ごしてきた彼たちは人生のほとんどを娯楽の楽園で過ごしてきた彼たちは人生のほとんどを娯楽の楽園で過ごしてきた彼たちは人生のほとんどを娯楽の楽園で過ごしてきた彼たちは人生のほとんどを娯楽の楽園で過ごしてきた未来の楽園を目指して人生を送り始めよう自分たちの人生をほめたたえて未来の楽園を目指して生きよう娯楽の楽園に住む者は恥を知れ!【ジャズ】人気blogランキングへ
June 30, 2007
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【スタンダード・ナンバー】彼女はなんて可愛いんだろう新しいスタンダード・ナンバーとして定着イズント・シー・ラヴリーIsn't She Lovely【邦題:可愛いアイシャ】この曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、スティーヴィー・ワンダーの1976年10月8日発表のアルバム、『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』に収録されました。原題は「彼女はなんて可愛いんだろう」というものですが、邦題ではどういうわけか「可愛いアイシャ」と、名前が入っているものになっています。この曲は冒頭、赤ちゃんの泣き声から始まりますが、このアルバム『キー・オブ・ライフ』を制作中、スティーヴィーに女の子が誕生しました。「アイシャ(Aisha)」とは歌詞の中で登場しますが、1975年の4月7日に誕生したスティーヴィーの初めての娘の名前で、スワヒリ語で「生命」、「永遠」を表す「ishi」から派生した人名だということです。1977年に、当時人気のジャズ・フュージョン・ギターリストのリー・リトナーがカヴァーしましたが、そのほかにも多くのジャズ・ミュージシャンによって取り上げられ、現在ではジャズのスタンダード・ナンバーとしても定着しています。ジャズのスタンダード楽譜集にも載っている、新しい時代のスタンダード・ナンバーです。日本では、1996年にホンダの「ロゴ」、2007年にKIRIN「午後の紅茶」のCMに使われるなどして、多くの人に知られている曲です。今では、こんなに多くの人によく知られているスタンダードな曲なのですが、なぜかアルバムがリリースされた当時はシングル・カットされませんでした。これもテーマのコード進行が延々と繰り返され、6分半もある長い曲です。冒頭に聞こえる赤ちゃんの泣き声はアイシャのものではなく、医者の協力を得て、子どもが生まれる瞬間の声を録音したものだということですが、曲の終盤で聞こえてくる声はアイシャちゃん本人のものだそうです。スティーヴィーのハーモニカのアドリブ・ソロがフィーチャーされる中、お風呂に入ったりしている声が録音されていて、とても微笑ましい雰囲気が出ています。*****●イズント・シー・ラヴリーIsn't She Lovely【邦題:可愛いアイシャ】作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1976年彼女はなんて可愛いんだろう彼女はなんて素晴らしい子なんだろう彼女はなんて可愛いんだろうまだ生まれて一分たらず僕たちが愛を通じてこんなに可愛らしい子に恵まれるなんて彼女は愛情から生まれた、なんと可愛い子なんだろう彼女はなんてきれいなんだろうまさに最高の天使さああ、僕はなんて幸せなんだ僕たちは天国に祝福されてきた神のしたことが信じられない僕たちを通して一つの命を与えてくださるとはでも、なんて可愛い子なんだろう彼女は愛情から生まれた彼女はなんて可愛いんだろう命と愛は同じことなんだ“アイシャ”とは生命それが彼女の名前ロンディ、君が命を宿してくれなかったらこれはありえないことだったんだ愛から本当に素晴らしいことが生まれたよ【ジャズ】人気blogランキングへ
June 29, 2007
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【ジャズ・スタンダード・ナンバーの作曲家】今日は、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の作曲者として有名な、アメリカの作曲家、リチャード・ロジャーズ生誕105周年です。リチャード・ロジャーズ(ロジャース)(Richard Rodgers)は、1919年、17歳のときに作曲した曲がミュージカルに使われてから、死の直前の1979年、77歳での作品『ママの思い出』までの、約60年間という長期にわたって作曲活動を行いました。1920年代から作詞家ロレンツ・ハート(Lorenz Hart)と組み「マンハッタン」のヒットで有名になり、次々と大ヒット・ミュージカル作品を世に送り出しました。中でも、1959年に作詞家オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein2)とのコンビによるミュージカル作品『サウンド・オブ・ミュージック』は、1965年に映画化されミュージカル映画最大のヒットを記録しました。ジュリー・アンドリュースと子供たちが歌う「ド・レ・ミの歌」は、日本でも子供たちが最初に歌う歌のひとつとしておなじみですし、「マイ・フェイヴァリット・シングス(私のお気に入り)」は、ジョン・コルトレーンの演奏で、ジャズ・スタンダード・ナンバーとしてもあまりにも有名です。そのほかにも、ロレンツ・ハートとのコンビのものでは、「ブルー・ムーン」、「マイ・ロマンス」、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、「スプリング・イズ・ヒア」、「恋に恋して(Falling In Love With Love)」、「魅惑されて(Bewitched)」、 1943年のハートの死後は、オスカー・ハマースタイン2世と組んで「マイ・フェイヴァリット・シングス(私のお気に入り)」、「春の如(ごと)く(It Might As Well Be Spring)」など、リチャード・ロジャーズの作品は、たいへん多くのものがジャズ・スタンダード・ナンバーとして演奏され続けています。●リチャード・ロジャーズ(ロジャース)(Richard Rodgers) 1902年6月28日、アメリカ、ニューヨーク州ロング・アイランド生まれ。1979年12月30日、ニューヨークで死去。77歳。----------リチャード・ロジャーズは、1902年6月28日、ニューヨーク州ロング・アイランドで、医者の息子として生まれました。彼の両親、ロジャーズ夫妻は音楽好きで、よく最新のブロードウェイのショーの楽譜を買ってきては、ホームコンサートを開いていました。ドクターがバリトンで歌い、妻がピアノを弾きました。そんな環境の中で、リチャードは6歳のころから、母親にピアノを習い、14歳の時に見た、ブロードウェイ・ミュージカルの虜(とりこ)になります。この夫妻は、他の親と違って、将来ミュージカルの作曲家になりたいという息子を、全面的にバックアップするのでした。コロンビア大学に進んだリチャードは、大学のショーのための作曲を数多く手掛けているうちに、1919年17歳の時、同じコロンビア大学の卒業生でもあるロレンツ・ハートと運命的な出会いをします。ロジャーズが作曲をし、ハートが作詞をするということで、早くもこの年には2人の曲が出版されました。その後もこのコンビは作品を書き続けるのですが、これといった反響もないまま時は過ぎて行き、ロジャーズは、サラリーマンになることを真剣に考え始めるのでした。そんな1925年に、『ザ・ギャーリック・ゲイティーズ』というショーのために書いた「マンハッタン」という曲が大ヒットしました。これによって、このコンビはガーシュウィンなどがいたハームス・ミュージックと契約し、次々とミュージカル作品を、ブロードウェイやロンドンに送り出すのでした。このコンビは1942年まで続きますが、そのうち、ハートのアルコール依存症がひどくなり、体調不良や失踪(しっそう)など、問題が多くなり、新しい作品が書けない状態になってしまいました。そして、ロレンツ・ハートは肺炎を患ったのが原因で、1943年に48歳という若さでこの世を去ります。ロジャーズは1943年、ハートと同じコロンビア大学の先輩でハートと同じ1895年生まれの、オスカー・ハマースタイン2世とコンビを組んで、ミュージカル作品の『オクラホマ』を作ります。ロジャーズとハマースタインは、少年時代に同じ地区に住んでいて顔見知りであり、アマチュア時代にはいっしょに曲を作ったこともあった仲でした。ハマースタインは、1920年代の始めからジェローム・カーンなどと組んで、すでにブロードウェイの中心的な台本作者、作詞家として有名でしたが、30年代に入ると失敗が続き、40年代になると誰もが彼の時代は終わったものと考えていました。『オクラホマ』はハマースタインもミュージカル化を考えていたもので、ジェローム・カーンのところに話しを持っていくと、カウボーイが出てくるような古めかしい題材では当たらないと言って断られたそうです。しかし、この『オクラホマ』は2212回という、それまでの記録を塗り替える最大のヒット作となったのです。これ以降、このコンビは次々と大ヒットミュージカルを世に送り出しました。1959年のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』はそのコンビの最後の作品となりました。この作品の完成間近のころ、2人ともガンに侵されていて、ロジャーズは病院と舞台を往復しながら、ハマースタインは余命宣告を受けながら、最後の「エーデルワイス」を書き下ろしたと言います。『サウンド・オブ・ミュージック』が上演された翌年の1960年に、オスカー・ハマースタイン2世はこの世を去りました。リチャード・ロジャーズはハマースタインの死後も作品を書き続け、晩年は卒中と心臓発作とガンとに苦しめられながらも、最後の力を振り絞って『ママの思い出』を完成させ、その作品が閉幕した3カ月後の、1979年12月30日、ニューヨークの自宅で77年の生涯を終えたのです。ウイットに富みシャレたハーツの詞と、どっしりとした演劇的なハマースタインの詞という、異なったパートナーにより、ロジャーズは2つのスタイルを持てたと言えるかもしれません。また、ロジャーズの作曲技法は、コール・ポーターやジョージ・ガーシュウィンに比べると、アメリカ的であるジャズ的サウンドの要素が薄いと言われますが、彼の多くの曲が、ジャズ・ミュージシャンにより演奏され続けていることを見ると、彼の曲が、いかにジャズの素材としても素晴らしいものかということがわかると思います。●ブロードウェイ・ミュージカル19世紀半ばヨーロッパで盛行したオペレッタなどを源流としながら、20世紀初頭に、アメリカで独自の発達を遂げたブロードウェイ・ミュージカルは、アメリカを代表する文化的所産の一つである。ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーター、そして、リチャード・ロジャーズはミュージカル5大作曲家(Mighty Five)と呼ばれています。*****●代表作【ロジャーズ&ハーツ】Manhattan(1925)Blue Moon(1935)My Romance(1935)My Funny Valentine(1937)Spring Is Here(1938)Falling In Love With Love【恋に恋して】(1938)This Can’t Be Love(1938)Bewitched【魅惑されて】(1941)【ロジャーズ&ハマースタイン】Oklahoma(1943)It Might As Well Be Spring【春の如く】(1945)Sound Of Music(1959)My Favorite Things【私のお気に入り】(1959)DO-RE-MI【ド・レ・ミの歌】(1959)Edelweiss(1959)【ジャズ】人気blogランキングへ
June 28, 2007
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ジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックが参加君が僕で、僕が君になる日まで・・・アズAs【邦題:永遠の誓い】この曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、スティーヴィー・ワンダーの1976年10月8日発表のアルバム、『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』に収録されました。このアルバムからのフォース・シングルとしてリリースされましたが、全米ポップ・チャート36位、R&Bチャートも36位と、あまりヒットしませんでした。これも、サード・シングルの「アナザー・スター」と同様に、アルバム・ヴァージョンでは7分にも及ぶ大作ですが、シングル・ヴァージョンは、当然収まりきらず、短縮されています。ジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックがゲスト参加していて、いかにもハンコックらしい、きらびやかなエレクトリック・ピアノがフィーチャーされています。ハンコックも、スティーヴィーには注目していて、スティーヴィーから新しいシンセサイザーを借りてレコーディングしたり、スティーヴィーもハンコックのアルバムでゲスト参加するなど、お互いに親密な交流がありました。リリース当時の36位というチャートは、まったく信じられないものです。これは、時代の耳が、スティーヴィーの感覚についていけなかったことの表れだと思います。当時の代表的フュージョン・バンドのスタッフは、1977年のアルバム『モア・スタッフ(More Stuff)』の中で、この曲を取り上げ、ジャズ・フュージョン・ファンの間で話題になりました。1999年に、メアリー・J.ブライジとジョージ・マイケルが、この曲を取り上げたときには、全米ポップ・チャート5位に入るという大ヒットを記録し、大きな話題になりました。*****●アズAs【邦題:永遠の誓い】作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1976年地球が太陽の周囲を回ることを知るようにバラのつぼみが5月初旬に咲くことを知るように憎しみの治療薬が愛であることを知るように君は安心していいよ僕はずっと君を愛するから今日は明日の神秘を解き明かすことはできないでも、ついでに毎日歳をとっていく生れるものは、すべて新しいように僕の言葉は真実だよ僕は君をずっと愛していこう虹が空の星を燃やし尽くすまでずっと海がすべての山々を覆うまでずっとイルカが飛び、オウムが海に住むまでずっと人生を夢見て、人生が夢になるまで本物の愛は何も求めないことを知っていたかい?代償は愛を受け入れることだけ人生に愛が保証されていることを知っていたかい?一生涯と一日と時間が最初から進むことを知るように季節が変わり目を正確に知るように僕はずっと君を愛する今日の僕は生きているけど明日が僕を過去のものにすることを恐れてはいけないなぜなら僕は胸の奥深くに知ることだから僕の愛は永遠だということをそう、僕はずっと君を愛そう(中略)昼が夜になり、夜が昼になるまでずっと木々と海が飛び去るまでずっと8x8x8が4になる日までずっとそれ以上日がなくなるまで地球が右を左にし始める日までずっと地球が自らを否定して太陽だけの存在になるまで僕は永遠に君を愛する母なる大地が仕事を終えるまでずっと君が僕で、僕が君になる日まで・・・君が僕で、僕が君になる日まで・・・【ジャズ】人気blogランキングへ
June 28, 2007
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アナザー・スターAnother Starスティーヴィーのジャズ・クロスオーヴァー・フュージョン・ミュージックこの曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、スティーヴィー・ワンダーの1976年10月8日発表のアルバム、『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』に収録されました。このアルバムからのサード・シングルとしてリリースされ、1977年に、全米ポップ・チャート32位、R&Bチャートで18位でした。アルバム・ヴァージョンは、8分以上もあるという大作ですが、シングル・ヴァージョンは短くなっています。独特のラテン調の曲で、ジャズ・クロスオーヴァー・フュージョン的なスティーヴィーの世界を作っています。印象的なメロディーの繰り返しによってグルーヴ感を生み出しています。ジョージ・ベンソンのギター、そしてボビー・ハンフリーのフルートといった、ジャズ・ミュージシャンのプレイをフィーチャーしています。スティーヴィー・ワンダーは、R&B、ソウル、ポップ・ミュージックの分野に限らず、様々なジャンルの音楽、例えば、ロック、クラシック、ジャズ、ラテン、ボサノヴァ、サンバ、レゲエなどを独自に解釈し、自分の音楽として自然な形で取り入れている、いわゆるクロスオーヴァー・ミュージックです。この曲も、そういうもので、そのためスティーヴィーの音楽は、ひとつの音楽ジャンルのカテゴリーに収められるようなものではありません。スティーヴィー・ワンダーの音楽は、まさに“スティーヴィー・ワンダー・ミュージック”という、スティーヴィー・ワンダーの世界が確立されたものと言えるでしょう。世の中の偉大なアーティストが最終的に到達する、どのワクにも入ることのない自分の世界を築き上げたのです。日本でも、この曲に影響を受けた人は多く、有名なものではサザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバット」、八神純子の「水色の雨」などは、この曲の影響を受けていると言います。スティーヴィーのステージでは、ラストナンバーとして演奏されることが多かったようです。*****●アナザー・スターAnother Star作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1976年【ジャズ】人気blogランキングへ
June 27, 2007
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サー・デュークSir Duke【邦題:愛するデューク】この曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、スティーヴィー・ワンダーの1976年10月8日発表のアルバム、『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』に収録されました。このアルバムからのセカンド・シングルとしてリリースされ、1977年に、全米ポップ・チャート、R&Bチャートともに1位を記録しました。スティーヴィー・ワンダーの曲は、あるひとつのジャンルのワクに入りきらないものですが、これは、ジャズのことを歌った曲なので、「ジャズ」に分類してみました。曲名の「デューク」とはジャズの巨人、デューク・エリントンのことで、これは、スティーヴィーが敬愛するデューク・エリントンに捧げた曲です。スティーヴィーは自身が尊敬するアーティストとして、以前から、デューク・エリントンとナット・キング・コールの名前を挙げています。1975年2月のグラミー賞授賞式では、最優秀アルバム賞受賞後のスピーチで、「賞を前年に亡くなったデューク・エリントンに捧げる」と発言しています。その、スティーヴィー自身のジャズへの思い入れが、この曲によって見られます。黒人の誇りで、崇拝の的である偉大なアーティストのデューク・エリントンや、そのほかのジャズのパイオニアたちのことを賛辞したものです。実際に、ジャズの影響は、スティーヴィーのあらゆる時期のあらゆる作品に顔を出しています。スティーヴィーのヴォーカルは、大部分がアドリブ・フェイクのように聴こえ、それは、偉大なジャズ・シンガーと同じ世界にいると言えるでしょう。そして、スティーヴィーのハーモニカ・プレイは、まさにジャズのインプロヴィゼーションであり、その、インプロヴィゼーションは、彼の作品のサウンドの、ほとんどすべてに当てはまります。この曲は、日本では最近、トヨタの「ノア」のCMに使われましたが、30年も前の曲だということをまったく感じない、真のスタンダード・ポップスと言えるでしょう。----------●サー・デュークSir Duke【邦題:愛するデューク】作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1976年音楽はそれ自体が一つの世界そこには誰もが理解できる言葉がありみんなに歌い、踊り、手拍子をとる平等の権利があるんだレコードにミゾが刻まれてるからってグルーヴがあるわけじゃないでも、最初の「A」の文字からみんなが動き始めればわかるはずさみんな全身で感じられるんだそこらじゅうに感じられるみんな全身で感じられるんだそこらじゅうに感じられる音楽は知っているそれが人生に切っても切れないものだとそして、そこには時がたっても忘れられることがない音楽の先駆者がいる(カウント・)ベイシー、(グレン・)ミラー、サッチモ、そして、すべての王者デューク・エリントンエラ(・フィッツジェラルド)のような声が鳴り響いてもバンドは絶対に負けることはないみんな全身で感じられるんだそこらじゅうに感じられるみんな全身で感じられるんだそこらじゅうに感じられる君はそれを全身で感じるみんな全身でそれが感じられる君はそこらじゅうにそれを感じる僕も全身でそれを感じているみんなそこらじゅうに感じるんだそれを全身に感じないかい?さあ、そこらじゅうに感じよう君も全身で感じられるさみんな、全身で・・・【ジャズ】人気blogランキングへ
June 26, 2007
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今日は、ジャズ・ファンなら誰もが知っているアメリカを代表する作詞家、ジョニー・マーサーが亡くなった日です。日本でも、たとえジャズ・ファンでなく、彼の名前をまったく知らなくても、ジョニー・マーサーの曲は、だれもが耳にしていることでしょう。●ジョニー・マーサー(Johnny Mercer)1909年11月18日、アメリカ、ジョージア州サバナ生まれ。1976年6月25日、カリフォルニア州ロサンゼルスで死去。66歳。「ミスター・アメリカ」と呼ばれたジョニー・マーサーはアメリカを代表する作詞家ですが、作曲家でもあり、歌手でもあり、レコード会社のキャピトル・レコードの設立者のひとりで初代社長を務め、音楽産業界にも多大に貢献した人でもあります。「ムーン・リバー」、「酒とバラの日々」などの作詞家、ジョニー・マーサー(1909~1976)【ジャズ】人気blogランキングへ
June 25, 2007
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アイ・ウイッシュI wish【邦題:回想】この曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、スティーヴィー・ワンダーの1976年10月8日発表のアルバム、『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』に収録されました。このアルバムからのファースト・シングルとしてリリースされ、1977年1月に、全米ポップ・チャート、R&Bチャートともに1位を記録しました。ここでは、スティーヴィー自身が叩いているドラムと、ネイザン・ワッツの弾くベースが独特で、気持ちいいグルーヴを生み出しています。バンドの一発録りのような、ライヴ感があります。子供のころを懐かしんで、「ああ、あの日々がもう一度戻ってくれれば・・・」と回想しています。最近では1999年、ウイル・スミス「ワイルド・ワイルド・ウエスト」で、この曲をサンプリングして全米1位を記録しました。なお、スティーヴィーは、この曲で1977年に行われた1976年度(第19回)グラミー賞で、最優秀男性R&Bヴォーカル賞を受賞しました。*****●アイ・ウイッシュI wish【邦題:回想】作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1976年僕にまだ産毛が生えていたころを振り返れば唯一の心配事といってもクリスマスのおもちゃのことだった時には、何ももらえなかったこともあったけどその日が運ぶ喜びだけで幸せな気持ちになったっけ裏戸からこっそり出て不良の友達とたむろしたり裏戸でそんなヤツらとおちあうと「外へ出てはいけないと言ったでしょ」必死で目に涙を浮かべようとしたっけ泣けば後ろにいるお母さんの怒鳴り声が止むと思ったからそんな日々がもう一度戻ってくれればいいのになぜ、そんな日々は去らなくてはいけないのだろうそんな日々がもう一度戻ってくれればいいのになぜ、そんな日々は去らなくてはいけないのだろう僕は大好きだったのに兄さんから聞いたよお前はあの娘(こ)とお医者さんごっこをしてるんだってねわからないのかいお前には世の中のすべてをあげてもいいんだよママが日曜学校の寄付金を渡してもお前は教会のあとにそれで飴を買ってしまうタバコを吸って、壁にひどい落書きをして先生は僕を廊下の先の校長室へ送る成長しながら、それがいけないことを学ぶでも、悪さをしてる最中はそんなこと全然感じもしなかったそんな日々がもう一度戻ってくれればいいのになぜ、そんな日々は去らなくてはいけないのだろうそんな日々がもう一度戻ってくれればいいのになぜ、そんな日々は去らなくてはいけないのだろう僕は大好きだったのに【ジャズ】人気blogランキングへ
June 25, 2007
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スティーヴィー・ワンダー黄金時代の最重要アルバムキー・オブ・ライフ / スティーヴィー・ワンダーSongs In The Key Of Life / Stevie Wonder●(その2)からの続きこれは、多くの人にとって重要なアルバムと言えます。2004年に、エルトン・ジョンは、『ローリング・ストーン』誌にこう語っています。「世界のどこに行くときでも、僕は『キー・オブ・ライフ』を持っていくんだ。僕にとっては最高のアルバムで、いつも聴いた後で“まいった”という気持ちにさせられるしね。」このアルバムにおいて、前作まですぐれたサウンドを作っていた、サウンド・エンジニアのセシルとマーゴレフの不参加による影響はどうだったのでしょうか。考えられることは、まず、ミックスが、もっとうまくできたということが言えるでしょう。要するに、サウンドが、もっとクリアになっていたはずだということです。それから、この二人だったら曲を減らすか、曲の長さを、もっと縮めて、作品を2枚のレコードに収めたのではないか、ということが考えられます。このアルバムが、アナログ・レコードで合計6面(4面がLPで、2面がEP)にも及んだのは、1曲の楽曲の時間が長いものが多い、ということがあります。21曲のうち5分を越えるものが8曲もあり、中には8分を越えるものもあります。これが絶対に必要な長さであるかということは、疑問に残るところです。しかし、これらの曲は、理屈では充分な長さを越えた後も、心地よいグルーヴ感が続いていて、その陶酔感はジャズの世界と同じものだと言えます。ジャズの曲も、よく長すぎると言われることがありますが・・・。それは、一般の人たちが、3分間のポップ・ソングになれてしまっているためでしょう。もともと、西洋ではハーモニー、和音がベースになって進んでいくため、普通は同じ繰り返しにより、とどまることはありませんが、アフリカではリズムがベースになって、同じことを繰り返すことによって高揚感を増していきます。それは、アフリカ黒人音楽に根ざしたジャズにも見られるものです。スティーヴーも、ここで、今までのポップ・ソングの常識にとらわれないグルーヴを大切にしていたのではないかと思います。レコードではやたら長く感じてしまう曲でも、ライヴでは、その真価が発揮できるものでしょう。全体的にすぐれた曲を集めた、この2枚半のレコードの、壮大なヴィジョンと、そのサウンドは、とにかく圧倒的です。「愛するデューク(Sir Duke)」の歌詞でこう言っています。「レコードのミゾ(グルーヴ)があるからって、グルーヴがあるわけじゃない」しかし、このアルバムには、しっかりとグルーヴが刻まれているものになったと言えるでしょう。『ビルボード』誌の全米アルバム・チャートで、14週連続1位になり、シングル「回想(I wish)」と「愛するデューク(Sir Duke)」は、ともに1位になりました。それに続く「アナザー・スター(Another Star)」と「永遠の誓い(As)」のシングル編集ヴァージョンは、チャートは、あまり振るわず、かろうじて40位以内に入りました。ポール・サイモンは、1976年(1975年度)にグラミー賞を受賞しましたが、授賞式でスピーチを求められ、1975年にアルバムを出さなかったスティーヴィー・ワンダーに、「僕たちみんなに受賞のチャンスをくれたことに感謝する。」とコメントしました。しかし、1977年(1976年度)の第19回グラミーでは、また、スティーヴィーが賞を総なめにしました。このアルバム『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』が、最優秀アルバム賞、最優秀ポピュラー・シンガー賞、最優秀プロデューサー賞を、「回想(I wish)」で最優秀男性R&Bヴォーカル賞の、合計4部門で受賞しました。こうして、新作を出さなかった1年間を含む4年間で、スティーヴィーは合計17のグラミーを受賞したことになります。この時点で、スティーヴィー・ワンダーはソングライター、およびパフォーマーとして頂点に達し、ポピュラー・ミュージック史に残る最高のソングライター、パフォーマーの座につきました。聴きかじりのポップス・ファンにとっては、スティーヴィー・ワンダーというと1980年代の、大ヒットこそしましたが、当たり障りのない、いくつかのバラードのイメージが、今なお不当に付きまとうかもしれませんが、コアな音楽ファンにとっては、1970年代のスティーヴィーには、神がかり的な何かがある、類(たぐい)まれなる、驚異的なソングライターであり、ミュージシャンであり、パーソナリティーである、いわゆるスーパースター的存在としてオーラを放っていました。1972年発表の『心の詩(Music Of My Mind)』、同じく1972年発表の『トーキング・ブック(Talking Book)』、1973年発表の『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』、1974年発表の『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness’ First Finale)』、そして、この1976年発表の『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』という5枚のアルバムこそ、スティーヴィー・ワンダーの全盛期であり、黄金時代の作品となりました。『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』リリース直後、スティーヴィーは『ロック・アラウンド・ザ・ワールド』誌にこう語っています。「僕が書いた曲やカヴァーした曲を聴いてもらえれば、僕の心がわかるよ。ときどき、ファンや僕の音楽を聴いてくれる人たちが、親しい知人よりも身近に感じることがあるんだ。」*****「スティーヴィー・ワンダーは世界が生んだ最も偉大な奇跡(ワンダー)のひとつだね。」~ポール・マッカトニー~「スティーヴィー・ワンダーの偉大な曲を聴いてなかったら、世界はまったく違っていただろうね。」~ハービー・ハンコック~「スティーヴィー・ワンダーは音楽界に足跡(そくせき)を残したんだ。つまり、ポピュラー・ミュージックを変えたのさ。」~ハービー・ハンコック~「数十年後、数百年後に音楽の歴史を語るときには、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、レイ・チャールズ、そしてスティーヴィー・ワンダーの名前が挙げられるだろう。」~エルトン・ジョン~「スティーヴィー・ワンダーは、コール・ポーターやガーシュウィンのような人物。」~エラ・フィッツジェラルド~「今の音楽に起きていることに、いろいろ思うことはあるけど、そのうち、すべてが片付くと思っているんだ」~スティーヴィー・ワンダー~「今日は昨日ではなく、すべてのものには終わりがある」~スティーヴィー・ワンダー~●終わり【ジャズ】人気blogランキングへ
June 24, 2007
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ジャンルを超越したスティーヴィー・ミュージックジャズ・フュージョンの要素が大きく含まれているアルバムキー・オブ・ライフ / スティーヴィー・ワンダーSongs In The Key Of Life / Stevie Wonder●(その1)からの続きこのアルバム、『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』のリリースは遅れに遅れました。その理由は、スティーヴィーがミキシングで完璧を求めたからで、何度もミキシングを繰り返していたベリー・ゴーディのやり方を取り入れたため、レコードをリリースできる状態になりませんでした。スティーヴィーが手がけたアルバム制作期間は、これまでで一番長いものになっていました。そして、予定の締め切りが過ぎたため、モータウンは「We’re Almost Finished(完成間近)」と書いたTシャツを作って売ろうとしました。前作『ファースト・フィナーレ』から約1年が経った1975年半ばの、このアルバムのリリース予定のころから、ニューヨークには、縦1.8、横8.2メートルの、ニュー・アルバム宣伝用の掲示板が飾られていましたが、結果的に1年以上も飾ってあったことになりました。なかなか発表されないアルバムに、人々の期待は高まり、アメリカでの予約注文だけで130万枚にもなっていました。結局、モータウンが正式にこのアルバムを発表したのは、『ファースト・フィナーレ』から2年以上も経った、1976年10月8日でした。そして、この作品は、スティーヴィー・ワンダーの初めてのダブル・アルバムになりましたが、曲を通常のダブル・アルバムに絞りきれずに、パッケージは2枚組LPと4曲入りEP1枚という、かなり変則的なものになりました。とにかく、真っ先に気になることは、サウンドの鍵を握っていたセシルとマーゴレフ不在で出来上がったサウンドがどうなったかということです。それは、セシルとマーゴレフが去ったということは、このチームが使っていたシンセサイザー・システムに変わるものを使わなくてはならないということです。このアルバムでも、引き続き至るところにシンセサイザーが使われています。それは、新しいシンセサイザー・システムというより、電子オルガンの形のものでした。その楽器の商品名はヤマハの「エレクトーン」、モデルGX-1が使われました。これは、それまでのエレクトーンと呼ばれていた、普通の電子オルガンとは違い、中身は完全に、当時としては最先端の和音が出るシンセサイザーというものでした。スティーヴィーは、このGX-1を「ドリーム・マシン」と呼んだことからも、いかに、この楽器が、彼の夢をかなえてくれるものだったのか、よくわかります。さらに、スティーヴィーのバンド、「ワンダー・ラヴ」のメンバーや、そのほかの多くのセッション・ミュージシャンを幅広く起用したおかげで、このアルバムのサウンドは、それまでのものにも勝るとも劣らない、雄大なスケール感とグルーヴ感が生れました。スティーヴィーは、このアルバムのコンセプトに「人生のすべてを表現する」という、大きなヴィジョンを持っていました。しかし、彼は、こうした大きすぎる望みにつきものの失敗にも気づいていました。「人生のなんたるかを、すべてカバーするなんてことは不可能だけどね。」とも語っています。21曲を収めた、この作品は、あらゆる面で、かなり幅広い内容になっています。歌のテーマは、少年時代のノスタルジア(郷愁)、精神性と宗教について、黒人の誇り、音楽界・ジャズ界の偉人へのオマージュ(敬意)、失恋、新たな恋、永遠の愛、さらなる愛への欲望、宇宙への旅立ち・・・と続きます。本格的なレコーディングを始めたのは、1974年の7月頃と言われていますが、実際には10月に入ってからとのことです。このアルバムを発売するかなり前からスティーヴィーは、次作について、「(前作よりも)より内的な深さがある」と語っていました。1つのコンセプトが、ひとつの曲に集約されていき、また、新たなコンセプトがまたひとつの曲にまとまっていく・・・、そうこうしているうちに、2枚組LP、プラス、ボーナスEPという大作になりました。スティーヴィーは、このアルバムのために、実に多くの曲を作ったそうです。その数は、1975年3月に来日した時点で300曲と語っていましたが、実際には、1974年から1976年までに作曲されたものは、アイディアの断片のようなものも含めて、1,000曲にもなるとも言われています。そんな膨大なレコーディング・リストの中から21曲が厳選されたということです。そして、それは、まさにスティーヴィー・ミュージックの集大成といえるもので、ビートルズの『サージェント・ペパー』などと同様に、ポップ・ミュージックのワクを超越した、いわゆる“スティーヴィー・ミュージック”として、音楽史上、永遠の傑作と言えるでしょう。このアルバムは、史上3人目、全米アルバム・チャート初登場1位となり、14週ものあいだ、1位の座を獲得するという快挙を記録しました。このアルバムからのファースト・シングルの「回想(I Wish)」、そしてセカンド・シングルとしてリリースされた、彼の尊敬するデューク・エリントンに捧げられた「愛するデューク(Sir Duke)」が、それぞれ全米ポップ・チャート1位を獲得し、続けて「アナザー・スター(Another Star)」、「永遠の誓い(As アズ)」がシングルとしてリリースされました。娘の誕生を祝った「可愛いアイシャ(Isn't She Lovely)」、隠れた名曲「 今はひとりぼっち(Summer Soft)」、ミニー・リパートンの葬儀でも歌われた、しっとりとしたバラード「イフ・イッツ・マジック(If It's Magic)」など、全21曲という大作ながら、収録された曲のどれもが傑作です。●スティーヴィー・ワンダーとジャズサウンド的には、R&B・ソウル色の濃かった今までの作品よりの、ポップな感じになっています。しかし、このアルバムでのスティーヴィー・ワンダーの音楽は、どのジャンルの音楽にもカテゴライズできないものになっています。スティーヴィー・ワンダーは、モータウン・サウンドを代表する、R&B・ソウルの覇者として走ってきましたが、この作品では、そういったモータウン・サウンドとは違う、スティーヴィー・ワンダーの世界が確立されたと言えるでしょう。世の中の偉大なアーティストが最終的に到達する、どのワクにも入ることのない自分の世界を築き上げたのです。スティーヴィーは自身が尊敬するアーティストとして、デューク・エリントンとナット・キング・コールの名前を挙げています。1975年2月のグラミー賞授賞式では、最優秀アルバム賞受賞後のスピーチで、「賞を前年に亡くなったデューク・エリントンに捧げる」と発言しています。その、スティーヴィー自身のジャズへの思い入れが「愛しのデューク(Sir Duke)」という曲によって見られます。黒人の誇りで、崇拝の的である偉大なアーティストのデューク・エリントンや、そのほかのジャズのパイオニアたちのことを賛辞したものです。実際に、ジャズの影響は、スティーヴィーのあらゆる時期のあらゆる作品に顔を出しています。スティーヴィーのヴォーカルは、大部分がアドリブ・フェイクのように聴こえ、それは、偉大なジャズ・シンガーと同じ世界にいると言えるでしょう。そして、スティーヴィーのハーモニカ・プレイは、まさにジャズのインプロヴィゼーションであり、その、インプロヴィゼーションは、彼の作品のサウンドの、ほとんどすべてに当てはまります。私としては、このアルバムをむりやりカテゴライズするなら、一番適当な音楽ジャンルはジャズ・フュージョンであると言えるのではないかと思っています。ディスク1の4曲目の「Confusion 負傷(コンチュージョン)」は、インストゥルメンタル主体のナンバーで、まさにフュージョンそのもののサウンドです。さらに言うならば、このアルバムは、すべてのミュージシャン、音楽ファンはもちろんのこと、ジャズ・ミュージシャン、あるいはジャズ・ファン必聴のアルバムであるとも言えるでしょう。多くのジャズ・ミュージシャンが、スティーヴィー・ワンダーの楽曲を取り上げていることでも、彼の曲が、コール・ポーターやガーシュウィンなどのジャズを代表する作曲家の曲と同じように、ジャズとの相性が、いかに良いかということがわかるでしょう。ジャズ・シンガー、エラ・フィッツジェラルドも、「スティーヴィー・ワンダーは、コール・ポーターやガーシュウィンのような人物。」と語っています。エラ・フィッツジェラルドは、ポーターやガーシュウィンなどの偉大な作曲家の作品集を作っており、実現はしませんでしたが、スティーヴィーの作品集も作りたいと考えていたということです。私はこの作品を、リリース当時から聴いていますから、もうかれこれ30年以上の付き合いになります。しかし、30年も経った現在、どの曲を聴いても、決して懐かしいという感覚ではなく、自分でも信じられないくらいに新鮮に聴くことができるのです。しかも、当時は、中には「ヘンな曲だな」とか、「変わっているな」とか、印象が薄く、退屈に感じるような曲も、正直言って何曲かありました。しかし、時が経つにつれて、いろいろな音楽に触れ、私自身の音楽の感覚が成長してくると、そういう曲の良さが、不思議と、だんだんわかってくるのでした。これらの曲は、時が経つにつれて色あせていくものではなく、逆に、時が経つにつれ、輝きを増す、すばらしいものであるということに気が付きました。そしていかに、この作品がすぐれたものであるかが、身にしみてわかったのでした。いつも言っていることですが、本当に良い作品というものは、時間を超えているということです。事実、近年、スティーヴィー・ワンダーの再評価の動きが見られます。たとえば、このアルバムからシングル・カットされた「永遠の誓い(As)」の、当時、36位というチャートは、まったく信じられないものです。これは、時代の耳が、スティーヴィーの感覚についていけなかったことの表れだと思います。1999年に、メアリー・J.ブライジとジョージ・マイケルが、この曲を取り上げたときには、5位に入るという大ヒットを記録し、大きな話題になりました。私に、ちょっと極端で乱暴な発言をさせてもらえるのなら、「この作品の良さのわからない人=音楽のわからない人」ということが言えますね。スティーヴィーも言っているように、きっと「聴けばわかる」でしょう。どこか、なんとなくでも、良さがわかると思います。心地いいのです。●(その3)に続く【ジャズ】人気blogランキングへ
June 23, 2007
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今日は、大変うれしいことがありました。aobashoさん、本当にありがとうございました。私が最近、「JAZZを載せない」と嘆いておられましたが、今しばらく、おまちください。aobashoさんの「エデンのオヤジ」で「JAZZ」を載せてくれています。「エデンのオヤジ」ブログ⇒http://aobamaki.exblog.jp/
June 22, 2007
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スティーヴィー・ミュージックの集大成最高傑作ジャズ・ミュージシャン、ジャズ・ファン必聴のアルバムキー・オブ・ライフ / スティーヴィー・ワンダーSongs In The Key Of Life / Stevie Wonderオリジナル盤発売日:1976年10月8日(9月28日という資料もある)レーベル:Motownディスク:11.Love's In Need Of Love Today ある愛の伝説2.Have A Talk With God 神とお話し3.Village Ghetto Land ヴィレッジ・ゲットー・ランド4.Confusion 負傷(コンチュージョン)5.Sir Duke 愛するデューク6.I wish 回想7.Knocks Me Off My Feet 孤独という名の恋人8.Pastime Paradise 楽園の彼方へ9.Summer Soft 今はひとりぼっち10.Ordinary Pain 出逢いと別れの間にディスク:21.Isn't She Lovely 可愛いアイシャ2.Joy Inside My Tears 涙のかたすみで3.Black Man ブラック・マン4.Ngiculela - es Una Historia - I Am Singing 歌を唄えば5.If It's Magic イフ・イッツ・マジック6.As 永遠の誓い7.Another Star アナザー・スター*8.Saturn 土星*9.Ebony Eyes エボニー・アイズ*10.All Days Sucker 嘘と偽りの日々*11.Easy Goin' Evening (My Mama's Call) イージー・ゴーイン・イヴニング(*印の4曲は、オリジナルではボーナスEPに収録)----------全米アルバム・チャート1位(14週連続)1976年度(第19回)グラミー賞:最優秀アルバム賞、最優秀ポピュラー・シンガー賞、最優秀プロデューサー賞ファースト・シングル「回想(I wish)」全米ポップ・チャート1位、R&Bチャート1位1976年度(第19回)グラミー賞:最優秀男性R&Bヴォーカル賞セカンド・シングル「愛するデューク(Sir Duke)」全米ポップ・チャート1位、R&Bチャート1位サード・シングル「アナザー・スター(Another Star)」全米ポップ・チャート32位、R&Bチャート18位フォース・シングル「永遠の誓い(As)」全米ポップ・チャート36位、R&Bチャート36位----------スティーヴィー・ワンダーが26歳のとき、1976年10月に発表した、2枚組アルバム。このアルバムは、スティーヴィー・ワンダーのアルバムの中で1972年発表の『トーキング・ブック(Talking Book)』、1973年発表の『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』、1974年発表の『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness’ First Finale)』と続く、いわゆる「3部作」の後に発表されたもので、スティーヴィー・ワンダー絶頂期の一連の作品のため、これも含めて「4部作」と呼ばれることもある大傑作アルバムです。史上3人目となる全米アルバム・チャート初登場第1位で、14週連続1位という快挙を記録しました。1976年度(1977年授賞式)第19回グラミー賞を総なめにしました。*****1974年、スティーヴィーが21歳のときに結ばれたモータウンとの3年契約が、更新のときが来ました。スティーヴィーは、代理人を通して、そのとき会長になっていたベリー・ゴーディに代わって、モータウンの新社長になったイワート・アブナーに要求のリストを渡しました。その結果、新たに結ばれた契約では、むこう7年間分で、1300万ドル(1974年の為替レート:1ドル=約300円とすると日本円で約40億円)という、前代未聞の契約金が渡されました。ベリー・ゴーディは、いまだに口もとをひきつらせて「大金だ」と言っているそうです。『タイム』誌は、そのニュースの中で、スティーヴィーの契約金は、エルトン・ジョンやニール・ダイアモンドの契約金を足しても、さらに上回ると報じました。また、スティーヴィーは、将来的にモータウンを買収する人間が出てくれば、その人と交渉することができるという権利が与えられ、さらに20パーセントという破格のレコード印税も約束されました。その代わりに、モータウンは1年に1枚のアルバム、もしくは少なくとも7年間で7枚(ダブル・アルバムは2枚に換算)出すことを要求しました。結果的には、この後のスティーヴィーのアルバム4枚のうち3枚はダブル・アルバムで、最後の1枚は、ほとんどが古い曲を集めたコンピレーション・アルバムになり、契約はとげられました。契約に調印する際に、スティーヴィーはこう語っています。「僕は、モータウンに残る。レコード業界で黒人所有の会社として残っているのはここだけだからね。モータウンはベテランだけではなく、新人の黒人のパフォーマーやプロデューサーにとっても、希望とチャンスの象徴なんだ。モータウンがなかったら、僕たちの多くは、ここまでの成功と達成のチャンスはもらえなかっただろうしね。僕たちのビジネスに携わる人たち・・・特に、アーティストやライター、プロデューサーも含めた黒人のクリエイティヴなコミュニティー・・・にとって、大事なのはモータウンを安定させ、精神的に強く、経済的に健全な状態にさせることだ。」といっても、自分は1300万ドルも取ったくせに?スティーヴィーの新しい妻、ヨランダ・シモンズは、1975年4月7日、女の子を産みました。その子の名前はアイシャ・ザキヤ。このアルバムの中の曲、「可愛いアイシャ(Isn't She Lovely)」は彼女のことを歌ったものです。そして、そのころスティーヴィーは家を2軒持ちました。1軒はマンハッタン、もう1軒はカリフォルニアに構え、この2カ所を拠点にして、スタジオに入り、契約分の最初の、このアルバムの制作に取り組むことになります。その間に、スティーヴィーが自分の祖先がいたと彼が信じていたアフリカのガーナに移り住んで、そこで体の不自由な子供たちと一緒に活動をするという噂が、マスコミに飛び交いました。モータウンは、その噂を否定しましたが、結局、数年後にはそこに家を構えることになります。後年、南アフリカの反アパルトヘイト運動に参加するなど、スティーヴィーが支援するチャリティー、社会運動、政治キャンペーンなどが広大な範囲に及びます。そうこうしているうちに、スティーヴィーのビジネス業務は収集がつかないほどの混乱をきたし、企業も、彼をさまざまな方向へ引っ張りました。このころは、スティーヴィーにとって非常にストレスの多い時期で、その影響は、彼の身近にいる人たちにも及びました。1974年、すでに、今までスティーヴィーとチームを組んできたサウンド・エンジニアの、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルは、『ニューズウィーク』誌のインタヴューで警告するコメントを発しています。マーゴレフは、こう語りました。「ビートルズが60年代を変えたように、スティーヴィーには70年代を変える力があるが、彼にふりかかる重圧を理解してあげてほしい。彼にむらがる連中は、こっちがいちいち話しに取り合おうものなら、たちまち、彼の足を引っ張って、彼が築き上げたものを奪おうとするんだ。」セシルは、さらに率直に、こう語っています。「スティーヴィーは音楽面では天才だが、他の分野となると、すごく有能ではあるけれど、なんせまだ24歳だ。彼を取り巻くいろんな現実に向き合う際、大勢の他人の目や信頼を通さなければならない。彼の組織を通じて関わってくるくだらないことには、こっちもうんざりだよ。スティーヴィーが音楽面だけでなく、それ以外でも、すごく重要な人物になる力があるから、まだガマンしているけどね。彼がやることはレコードを何百万枚と売るだけじゃない。人の耳に届けて人種の壁を打ち破ることなんだ。たかが音楽とはいえ、突然、白人から黒人の懐に、お金が入ってくるんだから。」スティーヴィーを引きずり回し、迷わせ、くだらないことに首を突っ込ませたと、マーゴフやセシルが感じた、彼にむらがる連中や組織は、この二人にとっても大きな障害になり、前作『ファースト・フィナーレ』発表後に、このチーム・ワークは破綻し、解散してしまいます。そこで、スティーヴィーは、このアルバムは1人でプロデュースしなくてはなりませんでした。アルバム・タイトルは前回作品の延長線上のものという考えがあったので、『ファースト・フィナーレ2、We Are Seeing A Lot, Let’s The Way It Is(目の前には多くのものがある。人生をありのままに見つめよう)』というものでしたが、『Songs In The Key Of Life(“人生の鍵の歌”という意味)』というタイトルに変更されました。●(その2)に続く【ジャズ】人気blogランキングへ
June 22, 2007
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【スタンダード・ナンバー】ラヴィン・ユー(Lovin' You)が生れたアルバムパーフェクト・エンジェル / ミニー・リパートンPerfect Angel / Minnie Ripertonオリジナル盤発売日:1974年12月レーベル:Epic1.Reasons リーズンズ 2.It's So Nice (To See Old Friends) イッツ・ソー・ナイス 3.Take A Little Trip テイク・ア・リトル・トリップ 4.Seeing You This Way シーイング・ユー・ジス・ウェイ 5.Edge Of A Dream ジ・エッジ・オブ・ア・ドリーム 6.Perfect Angel パーフェクト・エンジェル 7.Every Time He Comes Around エヴリ・タイム・ヒー・カムズ・アラウンド 8.Lovin' You ラヴィン・ユー 9.Our Lives アワ・ライヴズ ----------1974年12月、スティーヴィー・ワンダーが全面バックアップした、ミニー・リパートンのアルバムで、全米アルバム・チャート4位を記録する大ヒットになりました。この中からシングル・カットされた「ラヴィン・ユー」は、全米ポップ・チャート1位を記録し、その後、多くのアーティストに取り上げられる永遠のスタンダード・ポピュラー・ソングになりました。この作品によってミニー・リパートンは「天使の歌声」と称され、多くの人々の耳に届きました。----------5オクターブの声域をもち、「天使の歌声」と称されながらも、1979年7月12日、31歳の若さでガンで亡くなった天才シンガーのミニー・リパートン。ミニー・リパートンは、その特徴的な歌声で、関係者の間での評判は高く、レコードも何枚か出していましたが、ヒットには至っていませんでした。1971年の「ブラック・エキスポ」という音楽イヴェントの会場で、スティーヴィー・ワンダーとミニー・リパートンは出会いました。ミニーは憧れの存在であったスティーヴィーに話しかけ、大ファンであることを語ります。そして、スティーヴィーは、彼女がミニー・リパートンであると知ると、大変驚きました。なぜなら、スティーヴィーは前からミニー・リパートンのレコードを聴いていて、スティーヴィーも、すでに彼女の大ファンになっていたのでした。これをきっかけに、ミニーはスティーヴィーのバック・アップ・シンガーとして、彼のレコーディングに参加するようになりました。このころ、クインシー・ジョーンズのレコーディングにも参加するようになり、ソロ・パートとしてかなりフィーチャーされていますので、そこでも、まだ無名のころのミニーの歌声を聴くことができます。そして、1974年に、スティーヴィー・ワンダーの全面的なバックアップで、エピック・レコードでのファースト・アルバムとしての、この作品、『パーフェクト・エンジェル(Perfect Angel)』が制作されました。このアルバムでは、スティーヴィーがプロデュース、アレンジ、ピアノ、キーボード、ドラムス、ハーモニカなどの演奏も行い、曲も「テイク・ア・リトル・トリップ(Take a Little Trip)」と、「パーフェクト・エンジェル(Perfect Angel)」の2曲を提供しています。また、その中にはミニー・リパートンと後に夫となるリチャード・ルドルフの作ったかわいらしい曲、「ラヴィン・ユー(Lovin' You)」も収録されました。1974年12月、このアルバムとほぼ同時にリリースされたシングル「ラヴィン・ユー」は、R&Bチャートだけでなく、幅広い層で支持され、1975年4月5日の『ビルボード』誌の、メインストリームである全米ポップ・チャートでも1位を記録する、大ヒットになりました。まさに「エンジェル」そのものの「パーフェクト・エンジェル」の誕生で、ミニーの歌声は「天使の歌声」と称されました。この「ラヴィン・ユー」でもステキなエレクトリック・ピアノを演奏しているのはスティーヴィー・ワンダーです。しかし、発売当時、このアルバムにはスティーヴィーの名前はクレジットされていなかったので、スティーヴィーがこのアルバムをプロデュース、そのほか、バックアップしたということは、あまり知られていませんでした。ちなみに、マライア・キャリーの、あの独特の驚異的な高音の声域は、少女時代にミニー・リパートンの「ラヴィン・ユー」を聴きながら練習していて身に付いたと言います。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 21, 2007
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●ミニー・リパートン Minnie Riperton1947年11月8日、アメリカ、イリノイ州 シカゴ生まれ。1979年7月12日、カリフォルニア州、ロサンゼルスで死去。31歳。----------5オクターブの声域をもち、「天使の歌声」と称されながらも、1979年7月12日、31歳の若さでガンで亡くなった天才シンガーのミニー・リパートン。彼女の才能を見い出し、成功に導いたのがスティーヴィー・ワンダーでした。ミニー・リパートンは、その特徴的な歌声で、関係者の間での評判は高く、レコードも何枚か出していましたが、ヒットには至っていませんでした。1971年の「ブラック・エキスポ」という音楽イヴェントの会場で、スティーヴィー・ワンダーとミニー・リパートンは出会いました。ミニーは憧れの存在であったスティーヴィーに話しかけ、大ファンであることを語ります。そして、スティーヴィーは、彼女がミニー・リパートンであると知ると、大変驚きました。なぜなら、スティーヴィーは前からミニー・リパートンのレコードを聴いていて、スティーヴィーも、すでに彼女の大ファンになっていたのでした。これをきっかけに、ミニーはスティーヴィーのバック・アップ・シンガーとして、彼のレコーディングに参加するようになりました。このころ、クインシー・ジョーンズのレコーディングにも参加するようになり、ソロ・パートとしてかなりフィーチャーされていますので、そこでも、まだ無名のころのミニーの歌声を聴くことができます。そして、1974年に、スティーヴィー・ワンダーの全面的なバックアップで、エピック・レコードでのファースト・アルバム、『パーフェクト・エンジェル(Perfect Angel)』が制作されました。このアルバムでは、スティーヴィーがプロデュース、アレンジ、ピアノ、キーボード、ドラムス、ハーモニカなどの演奏も行い、曲も「テイク・ア・リトル・トリップ(Take a Little Trip)」と、「パーフェクト・エンジェル(Perfect Angel)」の2曲を提供しています。また、その中にはミニー・リパートンと後に夫となるリチャード・ルドルフの作ったかわいらしい曲、「ラヴィン・ユー(Lovin' You)」も収録されました。1974年12月、このアルバムとほぼ同時にリリースされたシングル「ラヴィン・ユー」は、R&Bチャートだけでなく、幅広い層で支持され、1975年4月5日の『ビルボード』誌の、メインストリームである全米ポップ・チャートでも1位を記録する、大ヒットになりました。まさに「エンジェル」そのものの「パーフェクト・エンジェル」の誕生で、ミニーの歌声は「天使の歌声」と称されました。この「ラヴィン・ユー」でもステキなエレクトリック・ピアノを演奏しているのはスティーヴィー・ワンダーです。しかし、発売当時、このアルバムにはスティーヴィーの名前はクレジットされていなかったので、スティーヴィーがこのアルバムをプロデュース、そのほか、バックアップしたということは、あまり知られていませんでした。ちなみに、マライア・キャリーの、あの独特の驚異的な高音の声域は、少女時代にミニー・リパートンの「ラヴィン・ユー」を聴きながら練習していて身に付いたと言います。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 20, 2007
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死の淵からよみがえったスティーヴィー・ワンダーの最高傑作不滅の「3部作」最終章ファースト・フィナーレ / スティーヴィー・ワンダーFulfillingness’ First Finale / Stevie Wonderオリジナル盤発売日:1974年7月22日レーベル:Motown1.Smile Please やさしく笑って2.Heaven Is 10 Zillion Light Years Away 1000億光年の彼方3.Too Shy To Say トゥー・シャイ4.Boogie On Reggae Woman レゲ・ウーマン5.Creepin' クリーピン6.You Haven't Done Nothin' 悪夢7.It Ain't No Use 愛あるうちにさよならを8.They Won't Go When I Go 聖なる男9.Bird Of Beauty 美の鳥10.Please Don't Go プリーズ・ドント・ゴー----------全米アルバム・チャート1位1974年度(第17回)グラミー賞:最優秀アルバム賞、最優秀ポピュラー・シンガー賞、最優秀プロデューサー賞「悪夢(You Haven't Done Nothin')」全米ポップ・チャート1位、R&Bチャート1位プラチナ・シングル(売り上げ200万枚以上)「レゲ・ウーマン(Boogie On Reggae Woman)」全米ポップ・チャート3位、R&Bチャート1位1974年度(第17回)グラミー賞:最優秀ポップ・ヴォーカル賞----------この作品は、スティーヴィー・ワンダーのアルバム、『トーキング・ブック(Talking Book)』、『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』、『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness’ First Finale)』と続く、いわゆる傑作「3部作」の最終作として、ひと区切りつけたと言われるアルバムで、スティーヴィー24歳の、1974年7月22日にリリースされたアルバムです。全米アルバム・チャート1位を獲得しました。このアルバムは、1973年度(第16回)グラミー賞の前作『インナーヴィジョンズ』に続いて、1975年に授賞式が行われた1974年度(第17回)グラミー賞最優秀アルバム賞を受賞しました。ほかにも、最優秀ポピュラー・シンガー賞、最優秀プロデューサー賞も受賞しました。1974年、スティーヴィー・ワンダーは、他のアーティストのさまざまな作品を手がけました。スティーヴィー・ワンダーが全面的にバックアップした、元夫人のシリータの二枚目のアルバムが6月にリリースされました。12月には、スティーヴィーが才能を見い出し、自らプロデュース、曲の提供、バックの演奏を行ない、これも彼が全面的にバックアップしたミニー・リパートンのデビュー・アルバム、『パーフェクト・エンジェル』がリリースされ、この中から「ラヴィン・ユー」という名曲が生れました。また、ルーファス&チャカ・カーンには「テル・ミー・サムシング・グッド」を書きおろしサポート、この曲は、後にグラミー賞を獲得します。さらに、ジャクソン・ファイヴの曲もプロデュースしました。そして、その間にスティーヴィー自身のアルバムも発表しなければなりません。もちろん、そのための曲は前から準備してあり、彼は2枚組のアルバムとして考えていたので、当初の7月リリースという予定より時間が必要でした。しかし、モータウンはリリースの日を変えようとしなかったため、スティーヴィーは、とりあえず、今回は2枚組にしたいという考えを断念し、7月の発表に間に合わせました。スティーヴィーは、普段から数百曲ものストックをかかえていて、その中からアルバムのコンセプトに合う曲を厳選し作品を作っていくので、決して曲が足りなかったわけではありません。しかし、今回のアルバムにおいては、そのほとんどを拒絶し、自分がより新鮮で、納得のいく曲を新たに作っていくことを選びました。また、こうしたアイディアを表現する新たなサウンドを生み出そうとも思っていました。『ファースト・フィナーレ』は、そのアルバム・タイトルからもうかがえるように、スティーヴィーが事故前の人生の階段に区切りをつけ、第二のステージから第二の人生の階段を昇り始めようと考えた作品です。そのテーマは、ジャケット・デザインにも表れていて、そこにはスティーヴィーの過去の場面が描かれています。リトル・スティーヴィーから、彼が始めて手にしたドラム・セット、ハーモニカ、過去のアルバム・ジャケット、ツアー・バスなどが、鍵盤でできた階段に納まっており、その鍵盤の階段は、はるか天まで続いているイラストになっています。ジャケットのコンセプトはマネージャーのアイラ・タッカーで、イラスト・ワークはボブ・グリーンによるものです。これまでのアルバムから比べると、バラード・ナンバーが多くなり、歌詞も、より神秘性を増し、これまで以上に内省的な、精神性の高い作品になりました。8曲目の「聖なる男(They Won't Go When I Go)」の作詞のみがイヴォンヌ・ライトのほかは、作詞・作曲、すべてスティーヴィー・ワンダーによるものになっています。1曲目、「やさしく笑って(Smile Please)」は、ミッド・テンポでラテン調の、さわやかでやさしい雰囲気の曲で、“生きる”ということの喜びと幸せを表しているかのようです。マイケル・センベロの美しいギターがフィーチャーされています。2曲目は、「1000億光年の彼方(Heaven Is 10 Zillion Light Years Away)」という曲。スティーヴィーは、自動車事故によって“死”というものに直面したことによって、より霊的に、“神”の存在を深く認識するようになったと言います。この曲は、そんな彼の神に対する深いうやまいの気持ちを表したもので、そのサウンドは宇宙を感じさせるものになっています。バック・グラウンド・ヴォーカルには、ポール・アンカと、スティーヴィーの元夫人、シリータ・ライトが参加しています。3曲目、「トゥー・シャイ(Too Shy To Say)」は、美しいピアノ・バラードです。恋に気後れする気持ちを切なく歌い上げています。4曲目の「レゲ・ウーマン(Boogie On Reggae Woman)」は、このアルバムからセカンド・シングル・カットされた曲です。スティーヴィーがアフリカのジャマイカに休暇で旅行に出かけていたときに作られたという曲で、当時のアメリカン・ミュージックとしては新しい感覚のレゲエを取り入れたものです。レゲエの雄、ボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を取り上げた、エリック・クラプトンのアルバム『461オーシャン・ブールヴァード』がリリースされたのも、同じ1974年の7月のことで、レゲエが本格的に世界に知られるようになったのは、このときからです。このことからも、スティーヴィーが、いかに早くからレゲエに注目したかということがわかります。1975年1月に、全米ポップ・チャート3位、R&Bチャート1位を記録しました。1974年度(1975年授賞式)第17回グラミー賞の最優秀ポップ・ヴォーカル賞を受賞しました。5曲目の「クリーピン(Creepin')」と7曲目の「愛あるうちにさよならを(It Ain't No Use)」では、天使の歌声と称されながらも若くして死んだ天才シンガーのミニー・リパートンの歌声を聴くことができます。6曲目は、このアルバムのファースト・シングルの「悪夢(You Haven't Done Nothin')」で、「迷信」を彷彿させるファンキーなナンバーです。このアルバム発売から1カ月後にウォーターゲート事件で辞任することになる、リチャード・ニクソン大統領を非難する怒りに満ちた歌詞の曲です。この曲は、全米ポップ・チャート、R&Bチャートともに1位になりました。しかも、このシングルは、発売された当日に150万枚を売り上げ、一週間も経たないうちに200万枚を超えるプラチナ・シングルになったという、破格の大ヒットを記録しました。バック・グラウンド・ヴォーカルにジャクソン・ファイヴが参加しています。9曲目、「美の鳥(Bird Of Beauty)」は、ブラジル音楽に触発されて作られた曲で、歌詞の一部がポルトガル語で歌われていますが、セルジオ・メンデスのアドヴァイスを受けて完成されたと言います。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 19, 2007
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ハイアー・グラウンドHigher Groundさらに高い場所へこの曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、1973年8月3日リリースのスティーヴィー・ワンダーのアルバム、『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』に収録されました。全米ポップ・チャート4位、R&Bチャート1位を記録。自身の第二の人生を「輪廻転生(りんねてんせい)」を歌った意味深い曲です。スティーヴィー・ワンダーは、このアルバム『インナーヴィジョンズ』発表後すぐに事故に合い、本当に死の淵から奇跡の生還をし、第二の人生を得ることになりました。作詞・作曲からトラック作りまでを3時間で仕上げたと、スティーヴィー自身が語っている伝説的ナンバーです。1989年にレッド・ホット・チリ・ペパーズ、2003年にエリック・クラプトンが取り上げています。*****●ハイアー・グラウンドHigher Ground作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダー Stevie Wonder1973年人々は学び続ける兵士たちは戦い続ける世界は回り続けるなぜって先が短いからさ人々が死に続ける中権力は嘘をつき続けるそして世界は回り続けるなぜって先が短いからさもう一度、よみがえるチャンスをもらえるのが嬉しくてたまらないよなぜって、この前地球にいたときの僕は悪いことばかりしていたからね今までより世の中のことを知っているから嬉しいんだ今度こそ、一番高いところにたどりつくまで頑張るんだ先生たちは教え続ける牧師たちは説教を続けるそして世界は回り続けるもうじき崩壊するからね恋人たちは愛し続ける信仰者は信じ続ける眠っている者は眠りを止めろなぜなら、世界はもうじき終わりになるのさもう一度、よみがえるチャンスをもらえるのが嬉しくてたまらないよなぜって、この前地球にいたときの僕は悪いことばかりしていたからね今までより世の中のことを知っているから嬉しいんだ今度こそ、一番高いところにたどりつくまで頑張るんだそう、高いところにたどりつくまで誰も僕をひきずり下ろすことはできないのさそうさ、高いところにたどりつくまで誰にも手出しをさせてはいけない(やつらはきっと邪魔をするぞ)神様が高いところに導いて下さる彼だけが信じられる友達なのさ【ジャズ】人気blogランキングへ
June 18, 2007
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スティーヴィー・ワンダーの神がかり的最高傑作死の予感と生死の体験インナーヴィジョンズ / スティーヴィー・ワンダーInnervisions / Stevie Wonderオリジナル盤発売日:1973年8月3日レーベル:Motown 1.Too High トゥ・ハイ2.Visions 愛の国3.Living For The City 汚れた街4.Golden Lady ゴールデン・レディ5.Higher Ground ハイアー・グラウンド6.Jesus Children Of America 神の子供たち7.All In Love Is Fair 恋8.Don't You Worry 'Bout A Thing くよくよするなよ9.He's Misstra Know It All いつわり----------全米アルバム・チャート4位1973年度グラミー賞:最優秀アルバム賞、最優秀録音賞「ハイアー・グラウンド(Higher Ground)」全米ポップ・チャート4位、R&Bチャート1位「汚れた街(Living For The City)」全米ポップ・チャート8位、R&Bチャート1位1974年度グラミー賞:最優秀R&Bソングライター賞----------この作品は、スティーヴィー・ワンダーのアルバム、『トーキング・ブック(Talking Book)』、『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』、『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness’ First Finale)』と続く、いわゆる傑作「3部作」の2作目にあたるアルバムで、スティーヴィー23歳の、1973年8月3日にリリースされたアルバムです。前作『トーキング・ブック』の大ヒットによって一躍脚光をあびたスティーヴィーが、前作からわずか9カ月の間に、さらに怒涛の快進撃を遂げ、まさに“神がかり的”としか言いようのない傑作を世に送り出しました。このアルバムのテーマは、「生きるということの美が終焉を迎える日について」だと言います。スティーヴィーは、さらに「このアルバムには、世界の恐怖と偽善についての、すべてが込められている。」と語っています。この時期の彼の仕事ぶりはすさまじく、睡眠時間が平均4時間ほどで、48時間ぶっ通しで作曲に没頭していたとも伝えられています。このアルバム制作における彼の行動は、何かにとりつかれたような、まさに神がかり的なもので、その作られた曲には、哲学的、宗教的とも言えるほど、ますます精神的、内省的になっていくスティーヴィー・ワンダーの音楽が表れています。1973年4月の『ローリング・ストーン』誌でのインタヴューで、スティーヴィーは、「自分はもうすぐ死ぬ」という驚くべき発言をしていていました。また、同じ頃、別のインタヴューでも、「僕は死ぬまでここにいる」という不吉な言葉を発しています。彼は、このアルバム製作中、「生と死」ということについて普通とは違う、何かを感じていたのかもしれません。このアルバムの中の曲「ハイアー・グラウンド」では、作者スティーヴィー自身の第二の人生と罪深いこれまでの人生について歌った曲で、「前より世の中のことがよくわかってうれしい、がんばっていくよ、一番高い場所に手が届くまで。」と繰り返され、仏教の輪廻転生(りんねてんせい)を暗示した哲学的な作品になっています。スティーヴィーは「第二の人生=蘇生(そせい)=輪廻(りんね)」を信じたいと思っていたそうです。スティーヴィーは、このことを予感していたかのように、このアルバムが発売されてからわずか3日後、大きな交通事故に遭遇し、本当に死の淵まで行くことになってしまいます。1973年8月6日早朝、コンサートに出演するため、いとこのジョン・ハリスが運転する車で移動中、運転を誤り、前を走っていた木材を積んだトラックに激突したため、積荷の木材が崩れ落ち、車のフロントガラスを突き破り、スティーヴィーの頭を直撃してしまいます。病院に運ばれたスティーヴィーは、頭蓋骨陥没と重い脳挫傷を負っており、手術は不可能だと診断されました。彼の頭は通常の3倍に膨れ上がってしまっていたと言います。5日間、意識不明のこん睡状態が続き、最悪の事態が考えられていました。スティーヴィーのマネージャーで、良き右腕のアイラ・カッターは、何のほどこしようもない医師に、大声で呼びかけることを提案します。そして、何度かスティーヴィーに叫びかけましたが反応はまったくありません。そこでアイラは「ハイアー・グランド」をスティーヴィーの耳元で目いっぱいの大声で歌いました。すると、わずかに彼の指が動き、歌にあわせて拍子をとり出したと言います。スティーヴィーは、7日間のこん睡状態から奇跡の生還を果たし、徐々に快方に向かいました。アイラは、スティーヴィーにクラヴィネットを渡し、ちゃんと演奏ができるかどうか確かめたところ、始めは、おぼつきませんでしたが、すぐに以前同様に演奏できるようになりました。脳の損傷のため、味覚や嗅覚の感覚を失ったり、疲れやすくなったり、頭痛持ちになるという、いくらかの後遺症は残りましたが、身体はみるみる回復していきました。この出来事は、スティーヴィーにとって、その後の人生に大きな影響を及ぼすことになります。暗い感覚にとりつかれていた後の、この事故に生還という一連の出来事で、スティーヴィーは自分が信じていた第二の人生を与えられた気がし、この体験を今後の人生に生かそうと決意するのでした。その間に、アルバム『インナーヴィジョンズ』と、シングル「ハイアー・グラウンド」は、ともに全米ポップ・チャートで4位、R&Bチャートでは1位なっていました。これは、事故をとりまく報道も影響したことでしょう。事故から7カ月後、スティーヴィーはグラミー賞の授賞式のステージの上にいました。彼は、5部門でグラミー賞を獲得し、人々の喝采を浴びたのでした。スティーヴィー・ワンダーは、1974年3月に開催された1973年度グラミー賞で、5部門を受賞しました。3部門は前作『トーキング・ブック』の中の曲で受賞し、このアルバム『インナーヴィジョンズ』で最優秀アルバム賞と最優秀録音賞の2部門を受賞しました。収録された曲は、どれをとっても、まさに名曲ぞろいで、スティーヴィーの最高傑作と言われています。シングル・カットされた「ハイアー・グラウンド(Higher Ground)」は、全米ポップ・チャート4位の大ヒット。そして続けて「汚れた街(Living For The City)」、「くよくよするなよ(Don't You Worry 'Bout A Thing)」もカットされ、ともに大ヒットを記録しました。その他にも美しいバラードの「ゴールデン・レディ(Golden Lady)」など、みんな永遠の名曲です。1973年9月27日付けの『ローリング・ストーン』誌の中で、音楽評論家レニー・ケイは、「『インナーヴィジョンズ』でスティーヴィー・ワンダーは、現代の音楽の重要な力を担うひとりであることを、またしても証明してみせた」とコメントしています。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 17, 2007
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ルッキン・フォー・アナザー・ピュア・ラヴLookin’ For Another Pure Love【邦題:アナザー・ピュア・ラヴ】もう一つの純粋な愛を探すんだこの曲は、スティーヴィー・ワンダーの作曲、シリータ・ライトの作詞によるもので、1972年10月27日リリースのスティーヴィー・ワンダーのアルバム、『トーキング・ブック(Talking Book)』に収録されました。隠れた名曲と言えるこの曲は、シリータとの結婚が破綻したことが、この曲にもその影を落としているようです。シリータとは、1970年9月に結婚しましたが、1972年に離婚しました。ギターにジェフ・ベックとバジー・フェイトンが参加していて、中盤でジェフ・ベックのおしゃれなギター・ソロがフィーチャーされています。*****●ルッキン・フォー・アナザー・ピュア・ラヴLookin’ For Another Pure Love【邦題:アナザー・ピュア・ラヴ】作詞:シリータ・ライト Syreeta Wright作曲:スティーヴィー・ワンダー Stevie Wonder1972年今まで涙も悲しみも知らなかったこれまで何の問題もなく過ごしてきたそう、何の心配事もなかったんだ今日以前の今までの人生はすべて良かったそう、君の電話がかかってくるまでは平和だったんだ君はさよならを言ったそして今、僕は新しい愛をさがしている僕の人生を明るくしてくれる純粋な愛を新しい愛をさがしているんだ僕の人生を明るくしてくれる純粋な愛を運命の車輪が回ったのさそして今、僕は君が新しく見つけた恋のことが心配なんだヤツが僕の人生の厄介者になったのさそう、僕は悩み事ができてしまったのさだから僕は新しい愛をさがしているそして今、僕は新しい愛をさがしている僕の人生を明るくしてくれる純粋な愛をそう、僕は新しい愛をさがしているんだ純粋な愛を僕の人生を明るくしてくれる純粋な愛を真新しい愛そうさ、僕の人生を輝かしてくれる純粋な愛を・・・【ジャズ】人気blogランキングへ
June 16, 2007
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【スタンダード・ナンバー】ユーヴ・ガット・イット・バッド・ガールYou've Got It Bud Girl【邦題:バッド・ガール】君は悪い娘になってしまったのさこの曲は、スティーヴィー・ワンダーの作曲、イヴォンヌ・ライトの作詞によるもので、1972年10月27日リリースのスティーヴィー・ワンダーのアルバム、『トーキング・ブック(Talking Book)』に収録されました。そのアルバムからのファースト・シングル「迷信(Superstition)」のB面に収録されました。恋人への、心狂おしいまでの嘆願といった曲で、ここでもシンセサイザーが効果的に使われて、官能的な雰囲気をかもし出しています。この曲は、クインシー・ジョーンズやハービー・ハンコックなどに取り上げられています。クインシー・ジョーンズの1973年のアルバム『バッド・ガール(You've Got It Bud Girl)』のタイトル・チューンとして収録されました。ハービー・ハンコックの1996年のアルバム『ザ・ニュー・スタンダード(The New Standard)』は、ハービー・ハンコックが「これが今のスタンダードさ!!」という楽曲を集めた内容のもので、このアルバムの中に、この「バッド・ガール」が取り上げられています。ハンコックは、この曲がお気に入りのようで、1996年8月に、山梨県河口湖で行われた「Live By The Lake 河口湖’96」でライヴ録音もされました。ハービー・ハンコックは、次のように語っています。「スティーヴィー・ワンダーは音楽界に足跡(そくせき)を残したんだ。つまり、ポピュラー・ミュージックを変えたのさ。スティーヴィー・ワンダーの偉大な曲を聴いてなかったら、世界はまったく違っていただろうね。」*****●ユーヴ・ガット・イット・バッド・ガールYou've Got It Bud Girl【邦題:バッド・ガール】作詞:イヴォンヌ・ライト Yvonne Wright 作曲:スティーヴィー・ワンダー Stevie Wonder1972年気まぐれで僕の愛から遠ざかりたいと思うなら君は悪い娘(こ)だきっと君は悪い娘になってしまったのさ僕の優しいキスをこばむというなら君は悪い娘だそう、君は悪い娘になってしまったのさ本当の気持ちと逆の気持ちを表したいのなら君の心は棚の上に乗っているつまらない置物のようなものさ出口をもっと広げれば逃げ道が見つかると思っているのだろうけど君は悪い娘だ君は悪い娘になってしまったのさ解決法が見つからないというのならどうしても僕のそばに来たくないというのなら君は悪い娘だ君は悪い娘になってしまったのさそうさ、僕の計画を知っているだろそれはね、君をつかまえるためのものなのさだから君は僕の計画を邪魔するためにわざとそんな反応を示すんだね愚かな人だそれは間違っている悪い娘だそんなことをしてはいけないよ僕のこの真心を避けるなんて何の得にもならないよ君の感じていることは僕にははっきりわかるんだよそう、手に取るようにはっきりとねその気持ちを見つける前君はそれを隠そうとした君は悪い娘だ君は悪い娘になってしまったのさ君の心の中のほんの小さな空間でいいんだ僕の愛の居場所を見つけてくれたならそれでいいんだよそういう君こそが正しい良い娘なんだそう、それこそ正しい、良い娘というものなのさ【ジャズ】人気blogランキングへ
June 15, 2007
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【スタンダード・ナンバー】ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフYou Are The Sunshine Of My Life【邦題:サンシャイン】「君は僕の人生の輝く太陽だ」全米ポップ・チャート1位、R&Bチャート3位1973年度グラミー賞:最優秀ポップ・ヴォーカル賞----------「君は僕の人生の輝く太陽だ」と歌うこの曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、1972年10月27日リリースのスティーヴィー・ワンダーのアルバム、『トーキング・ブック(Talking Book)』に収録されました。1973年2月に、このアルバムからの「迷信」に続くセカンド・シングルとして、この曲がリリースされました。1973年5月に全米ポップ・チャート1位、R&Bチャートでは3位になる大ヒットを記録し、1973年度グラミー賞では最優秀ポップ・ヴォーカル賞を受賞しました。スティーヴィー・ワンダーの代表曲になるとともに、この美しいメロディー・ラインは、多くのアーティストに取り上げられ、永遠のスタンダード・ナンバーになりました。最近では平井堅が歌い、ラジオやテレビなどで幾度となく流れていたので、耳にしている人も多いかと思いますが、大変広いジャンルのアーティストに取り上げられており、ジャズ・ミュージシャンでは、フランク・シナトラ、ステファン・グラッペリ、フィニアス・ニューボーン、シンガーズ・アンリミテッドなどのものがあります。個人的には、タワー・オブ・パワーと同じベイ・エリア・サウンドのバンド、コールド・ブラッド(Cold Blood)のアルバム『スリラー!(Thriller!)』に収められている、この曲が美しくて好きです。*****●ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフYou Are The Sunshine Of My Life【邦題:サンシャイン】作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1972年君は僕の人生の輝く太陽だからいつも君のそばにいるんだよ君はとてもかわいい人ずっとずっと僕の心の中にいておくれ君のことをずっと前から愛してきたけれどなんだか、これからすべてが始まるような気がする二人の愛が終わることを考えただけで僕は自分の流す涙でおぼれてしまいそうだ君は僕の人生の輝く太陽だからいつも君のそばにいるんだよ君はとてもかわいい人ずっとずっと僕の心の中にいておくれ君は僕が一人ぼっちだったことを知っていたんだねこうして僕を助けに来てくれたじゃないかまるで天国にいるような気分だよ君は本当に愛に満ちたステキな人・・・君は僕の人生の輝く太陽だからいつも君のそばにいるんだよ君はとてもかわいい人ずっとずっと僕の心の中にいておくれ【ジャズ】人気blogランキングへ
June 14, 2007
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【スタンダード・ナンバー】スーパースティションSuperstition【邦題:迷信】全米ポップ・チャート1位、R&Bチャート1位1973年度グラミー賞:最優秀R&Bソングライター賞、最優秀R&Bヴォーカル賞----------この曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、1972年10月27日リリースのスティーヴィー・ワンダーのアルバム、『トーキング・ブック(Talking Book)』に収録されました。そして、アルバム・リリースの3日前の、1972年10月24日、このアルバムからのファースト・シングルとして、この曲がリリースされました。もともとはジェフ・ベックのために書かれた曲ながら、スティーヴィー自身のもののほうが先にアルバム、シングルともにリリースされてしまい、1973年1月24日に全米ポップ・チャート、R&Bチャートともに1位という、大ヒットになりました。これは、スティーヴィー・ワンダーにとっては、1963年の「フィンガーティップス」以来の全米チャート1位でした。スティーヴィー・ワンダーは、この曲で、1963年度のグラミー賞の最優秀R&Bソングライター賞、最優秀R&Bヴォーカル賞を受賞しました。スティーヴィーがロンドンでジェフ・ベックと会ったとき、アルバムに参加してくれたお礼にと、最初、スティーヴィーは、「メイビー・ユア・ベイビー(Maybe Your Baby)」をベックにあげることにしましたが、その後、気が変わり、ニューヨークで再会したとき、その曲はスティーヴィーが自分で録音したくなったので、代わりに「迷信」をレコーディングするようにベックに持ちかけました。ジェフ・ベックの話では、もともと「迷信」のグルーヴが生れるきっかけを与えたのは自分で、スタジオでスティーヴィーのドラムキットで遊んでいたとき思いつき、それでスティーヴィーから、その曲をもらったということです。しかし、スティーヴィーはベックの演奏する「迷信」を聴いて、この曲の可能性を感じ、また気が変わり、自分でも録音してしまいました。それを知ったベック側は憤慨し、当然関係は気まずくなったようです。そこで、スティーヴィーは、「迷信」は最初のシングルにしないように、モータウンに頼みましたが、このへんで大掛かりなシングルを発表したいと考えていたモータウンは、強引に「迷信」をすぐにリリースしてしまいました。スティーヴィーは後に、こう語っています。「僕はモータウンに「面倒なことになるから、よしたほうがいい」、と言ったんだけど、向こうは「だめだ、シングルのリリースはこっちで決める」ってことになって、こういう結果になってしまったんだ。」ジェフ・ベックは、スティーヴィーの「迷信」が大ヒットしてしまったあとの1973年2月に、アルバム『ベック・ボガード&アピス(Beck Bogard & Appice)』の中で、自身のヴァージョンを発表しましたが、スティーヴィーのもののカヴァーとしか認識されませんでした。ジェフ・ベックは、これ以前にも、1970年にスティーヴィーの曲「歌がなければ(I Gotta Have A Song)」を取り上げるなど、スティーヴィーのファンだったのですが、この件でジェフ・ベックは気分を害し、二人は一時期、完全に仲たがい状態になります。結局、1975年のジェフ・ベックのアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ(Blow By Blow)』で、スティーヴィーが書いた曲「哀しみの恋人達(Cause We've Ended As Lovers)」と「セロニアス(Thelonius)」が収録され、二人の仲は修復されました。クインシー・ジョーンズの1973年のアルバム『バッド・ガール(You've Got It Bud Girl)』にも収録されました。このアルバムには、アルバム・タイトルになっているスティーヴィーの曲「バッド・ガール(You've Got It Bud Girl)」も収録され、この後、クインシーはスティーヴィーの曲を取り上げるようになります。1975年ごろのあるインタヴューで、クインシーは次のように語っています。「ポップ・ミュージックをやるなら、それとまじめに取り組まなければいけないと思うよ。良いものはやはり違うんだ。たとえばスティーヴィーの作品だ。彼はものすごく成長したね。」クインシーも、スティーヴィーの書く曲は良いということを、はっきり言っています。クインシー・ショーンズのほかにも、ジャズ・ギタリストのジミー・ポンダーや、ジャズ・シンガーのニーナ・フローリンなどのジャズ・プレイヤーにも取り上げられています。この曲は、ロックとソウルが見事に融合したファンキーな名曲として知られ、単なるヒット・ポップスではない、広いジャンルのミュージシャンに取り上げられるスタンダード・ナンバーになりました。----------●スーパースティションSuperstition【邦題:迷信】作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1972年とても迷信的壁に書かれた言葉とても迷信的そう、ハシゴが今にもはずされそうだ13カ月の赤ん坊が鏡を割った不運が続いて7カ月、幸運は過ぎ去ってしまった理解できないことを信じると被害をこうむることになるのさ迷信、そんなものに惑わされるなとても迷信的顔と手を洗う君僕から悩みごとを追い払ってくれできることは何でもしてくれ夢見心地でいさせてくれ僕を強くしておくれ僕を助けたくないって?そんな悲しいことは言わないで理解できないことを信じると被害をこうむることになるのさ迷信、そんなものに惑わされるなとても迷信的ただそれだけとても迷信的悪魔がやってくる13カ月の赤ん坊が鏡を割った不運が続いて7カ月、幸運は過ぎ去ってしまった理解できないことを信じると被害をこうむることになるのさ迷信、そんなものに惑わされるな【ジャズ】人気blogランキングへ
June 13, 2007
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スティーヴィー・ワンダーの傑作3部作の第1弾ニュー・スタンダード・ナンバーの誕生トーキング・ブック / スティーヴィー・ワンダーTalking Book / Stevie Wonderオリジナル盤発売日:1972年10月27日レーベル:Motown1.You Are The Sunshine Of My Life サンシャイン2.Maybe Your Baby メイビー・ユア・ベイビー3.You And I (We Can Conquer the World) ユー・アンド・アイ4.Tuesday Heartbreak チューズデイ・ハートブレイク5.You've Got It Bad Girl バッド・ガール6.Superstition 迷信7.Big Brother ビッグ・ブラザー8.Blame It On The Sun ブレイム・イット・オン・ザ・サン9.Lookin' For Another Pure Love アナザー・ピュア・ラヴ10.I Believe (When I Fall I Love It Will Be Forever) アイ・ビリーヴ---------- 全米アルバム・チャート3位「迷信(Superstition)」全米ポップ・チャート1位、R&Bチャート1位1973年度グラミー賞:最優秀R&Bソングライター賞、最優秀R&Bヴォーカル賞「サンシャイン(You Are The Sunshine Of My Life)」全米ポップ・チャート1位、R&Bチャート3位1973年度グラミー賞:最優秀ポップ・ヴォーカル賞----------スティーヴィー・ワンダーが、1972年10月に発表した通算17枚目のアルバム。このときスティーヴィーは22歳。このアルバムは、全米アルバム・チャート3位になりました。前作『心の詩(Music Of My Mind)』でアーティストとしてのアイデンティティーを確立したスティーヴィーが、その才能を存分に開花させた大傑作アルバムです。スティーヴィー・ワンダーの傑作「3部作」と呼ばれる3枚のアルバムの1枚目で、まさにスティーヴィーの“黄金期”の幕開けとなる記念碑的作品です。この作品『トーキング・ブック(Talking Book)』、次の1973年発表の『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』、そして1974年発表の『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness' First Finale)』の3枚のアルバムは、「3部作」と呼ばれ、そして続く1976年に発表した大作の2枚組LPアルバム『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』までが、スティーヴィー・ワンダーの才能が怒涛(どとう)のごとく爆発した“黄金期”の傑作群で、スティーヴィーのまさに驚異的な快進撃が、ここから始まります。前作『心の詩(Music Of My Mind)』において運命的な出会いをした二人のミュージック・エンジニア、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルとの共同作業の成果が大きく花開いた、初めての“傑作”になりました。成功したミュージシャンには、必ずといっていいほど、自身の音楽を的確に理解し、その才能を引き出してくれる「パートナー」といったものが存在するものです。例えばビートルズのポール・マッカートニーとジョン・レノンは、それぞれお互いにその才能を引き出しあい、刺激しあう最高のパートナー同士でした。マイケル・ジャクソンは、クインシー・ジョーンズという音楽プロデューサーのもとに、その音楽的才能を開花させ、それをきっかけに世界のスーパースターになりました。スティーヴィーにとっては、この二人のエンジニアがそういう存在だったと言えるでしょう。前作からチームを組んだスティーヴィーと二人のエンジニアは、この作品以降、続けざまに傑作を発表し、音楽シーンを快進撃していきます。このアルバム・タイトルの『トーキング・ブック』とは、目の不自由な人のために本を朗読してテープやレコードなどに録音した「音声図書」のことです。そして、そのタイトルは、マルコム・セシルが思いついたもので、スティーヴィーとちょっとした口論をしていた中から生まれたものだったと言います。スティーヴィーは、曲のアイディアを思いついては次々と多くの曲を作曲していき、録音していきました。そして、いろいろなアイディアが湯水のごとく湧いてくるので、スティーヴィーはあれもこれもと、実に多くの曲をアルバムに詰め込もうとしました。そこで、セシルはスティーヴィーにこう言ったのです。「スティーヴィー、いい加減にしろよ。これはアルバムなんだ。トーキング・ブックじゃない。」そして、「スティーヴィーが音楽を通して語りかける一冊の本」という意味のアルバムになりました。このアルバムに収録された曲はどれも素晴らしいものばかりで、まさに名曲ぞろいです。このアルバムの中から数々のニュー・スタンダード・ナンバーと呼べるものが誕生しました。まず、ロックとソウルが見事に融合したファンキーな名曲「迷信(Superstition)」がシングル・カットされ、1963年の「フィンガーティップス」以来の全米ポップ・チャート1位を獲得します。そして、ボサノヴァ・タッチの「サンシャイン(You Are The Sunshin Of My Life)も続けてシングル・カットされ、これも全米ポップ・チャート1位を獲得しました。これらの2曲でスティーヴィーは、1974年3月に開かれた1973年度グラミー賞の授賞式で、初めてグラミー賞を手にします。これ以後、スティーヴィーはグラミーの常連として、毎年のようにグラミー賞の授賞式に顔を出すことになります。またハービー・ハンコックやクインシー・ジョーンズにもカヴァーされた「バッド・ガール(You've Got A Bad Girl)」や、シンセサイザーを効果的に使ったラヴ・バラード「ユー・アンド・アイ(You And I)」など、どれもが素晴らしい名曲ばかりで、多くのアーティストに取り上げられています。それらは、新しいスタンダード・ナンバー、ニュー・スタンダード・ナンバーと呼べるものでしょう。また、ジェフ・ベック、デヴィッド・サンボーンといった、豪華ゲスト陣の参加も話題になりました。アルバム・ジャケットは、アフリカ衣装を着たスティーヴィーの写真が印象深いもので、これも話題になりました。「大地とのふれあい」がテーマとされていますが、このジャケットは、スティーヴィー自身の成長の跡と、この当時の心境を表しているものだと言います。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 12, 2007
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スーパーウーマンSuperwoman (Where Were You When I Needed You) この曲は、スティーヴィー・ワンダーの作詞・作曲によるもので、スティーヴィー・ワンダーの1972年のアルバム『Music Of My Mind(邦題:心の詩)』に収められ、シングル・カットされました。R&Bチャートで13位、ポップ・チャートでは33位と、振るいませんでしたが、それは当然といえば当然の結果と言えるでしょう。この曲は、アルバム・ヴァーションでは実に8分もある大作で、それをシングル・ヴァージョンに編集したのですから、ほとんど曲の持ち味が生かされていないものでした。しかも、このような壮大な曲は一般大衆に受けるはずはなく、シングルカットされたこと自体が不思議なくらいです。しかし、後にフィル・ウッズ、クインシー・ジョーンズ、ナジー、エリック・ベネエ(ボニー・ジェイムスをフィーチャリング)など、多くのアーティストにカヴァーされたり、ジャネット・ジャクソンの「ニュー・アジェンタ」にサンプリングされることにもなります。それは、この楽曲がいかに良いものかということを示しているものと言えるでしょう。アルバム・ヴァージョンでは、全く別の2つの曲を、歌詞のテーマを同じにし、シンセサイザー・システムを駆使して効果的につないだものです。妻シリータとのトラブルを反映して、第1部では、まず「現代的」な女性の野心について考えをめぐらせ、第2部では今さら修復は無理なのに、男のほうが彼女に対する未練を断ち切れない様を描いています。楽器の編成はシンプルで、エレクトリック・ピアノとベース・シンセサイザーが効果的に使われています。そしてバジー・フェイトンのギターをフィーチャーしており、なんともジャジーな雰囲気をかもし出しています。スティーヴィー・ワンダーの曲は普通、ソウル、R&Bにカテゴライズされますが、ジャズ的な雰囲気が多分にあります。そのため、この曲もフィル・ウッズやクインシー・ジョーンズなどによって、ジャズの曲として受け入れられています。*****●スーパーウーマンSuperwoman (Where Were You When I Needed You) 作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダーwords and music by Stevie Wonder1972年メアリーはスーパーウーマンになりたいと言う彼女は本当にそう思っているのだろうかだが僕は、ありのままの彼女を毎日愛したいんだメアリーは映画女優になりたいと言うだが本当にそんなことを考えているのだろうかすべての希望を彼女はすてなければならない僕は君をよくわかっているつもりだ君も僕をよくわかっていてくれたらと思うそして僕は君が頭に浮かぶあらゆる考えと付き合っていけると思う僕はちゃんと対処できると思うよ君も僕をよくわかっていてくれたらと思うそして僕は君が頭に浮かぶあらゆる考えと付き合っていけると思うメアリーはスーパーウーマンになって話題をさらいたいと言うだが本当に夢を達成できると思っているんだろうか僕の彼女はスーパーウーマンになりたいと言うそして僕はさよならを言わなければならなかったずっと泣いて過ごすことなどできないから僕は君をよくわかっているつもりだ君も僕をよくわかっていてくれたらと思うそして僕は君が頭に浮かぶあらゆる考えと付き合っていけると思う何よりも何よりも君が僕をよくわかっていてくれたらと思うそして僕は君が頭に浮かぶあらゆる考えと付き合っていけると思う僕は君をよくわかっているつもりだ君も僕をよくわかっていてくれたらと思うそして僕は君が頭に浮かぶあらゆる考えと付き合っていけると思う夏がやってきたとき、君は見当たらなかった夏が去っても愛は見つからない去年の冬、僕が求めていたときに君はどこに行ってたんだい?冬がやってきたら君はもっと南へ行ってしまった愛の巣を出て、僕に疑いを持たせて僕が求めているのに君はどこにいるんだ僕らの愛は終わりだ君は変わったと言うけれど明日になれば過去の愛が思い出されるだろう冬がやってきたとき、君は見当たらなかった厳しい風の中、愛は見つからなかった去年の冬、僕が求めていたときに君はどこに行ってたんだい?君が必要なんだ、必要なんだベイビーああ僕らの愛は終わろうとしている君は変わったと言うけれど明日になれば過去の愛が思い出されるだろう春の空気が満ちてくれば君はやってくるだろうだが夏には裏切られるんじゃないだろうか去年の夏、僕が求めていたときに君はどこに行ってたんだい?君が欲しい、君が必要なんだ【ジャズ】人気blogランキングへ
June 11, 2007
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私の心の音楽モータウンとの決別、そしてシンセサイザー、新しい仲間との出会いアイデンティティーの確立心の詩 / スティーヴィー・ワンダーMusic Of My Mind / Stevie Wonderオリジナル盤発売日:1972年3月3日レーベル:Motown1.Love Having You Around ラヴ・ハヴィング・ユー・アラウンド 2.Superwoman (Where Were You When I Needed You) スーパーウーマン 3.I Love Every Little Thing About You アイ・ラヴ・エヴリ・リトル・シング 4.Sweet Little Girl スウィート・リトル・ガール 5.Happier Than The Morning Sun 輝く太陽 6.Girl Blue ガール・ブルー7.Seems So Long シームズ・ソー・ロング 8.Keep 0n Running キープ・オン・ランニング 9.Evil 悪魔----------スティーヴィー・ワンダーが、1972年3月に発表したアルバム。ここからが、本当にスティーヴィー・ワンダーのすごいところが花開くことになる、岐路に立った作品になりました。同年1972年10月に発表される『トーキング・ブック(Talking Book)』、その次の1973年発表作『インナーヴィジョンズ(Innervisions)』、そして1974年発表作『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness' First Finale)』の3枚のアルバムは、「3部作」と呼ばれ、そして続く1976年に発表した大作の2枚組LPアルバム『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』までが、スティーヴィー・ワンダーの才能が怒涛(どとう)のごとく爆発した時期の傑作群として知られていますが、実質的に、このアルバムがその幕開けを告げるもので、クオリティー的には、それらの傑作に決して劣らない出来になっています。このアルバムをスティーヴィー・ワンダーの最高傑作と言う人もいるくらいです。しかし、スティーヴィーが本当にすごいのは、それだけではありませんでした。1961年、モータウンの創始者であり社長のベリー・ゴーディ・Jr.の目にとまり、若干11歳でモータウンと契約を交わしたスティーヴィー・ワンダーでしたが、1971年5月13日、スティーヴィー・ワンダー21歳の誕生日に、少年時代からのモータウンとの契約が切れました。この頃はレコード会社が歌手にどんな曲を歌わせるかということなど、すべて決めていて、アーティスト側には発言権がほとんど無いといった状況でした。そんな会社のやり方に以前から不満を抱いていたスティーヴィーは、この契約切れの日を迎えるにあたって、それからは自分のやりたいことを、周りから干渉されずにやりたいと考えていたようです。1971年5月13日の朝、会社に行ったゴーディは、机の上にあった、スティーヴィーの弁護士からの手紙を見ました。そこにはスティーヴィーがモータウンとの契約終了と未払いの金銭の支払いを望んでいると書かれてありました。そして、その手紙を見て激怒するゴーディに「僕ももう21歳だ。これ以上まわりの言うことには従わないよ。僕との契約は無効にしてほしい。」そう言い残すと、ステーヴィーは荷物をまとめ、妻のシリータとデトロイトを離れ、ニューヨークへと向かいました。ニューヨークへ移ったスティーヴィーは、次のアルバム制作に向けてスタジオを予約します。それまでに彼が稼いだお金のほとんどが、スタジオの使用料や新しい楽器の購入等、次のアルバムを制作する費用として注ぎ込まれました。モータウンのしがらみから解放されたスティーヴィーは、会社に口を挟まれることなく、従来のモータウン・サウンドから脱却した、全く新しいサウンド作りを目指します。そして、ただのヒット曲の寄せ集めのアルバムではなく、スティーヴィーが影響を受けたビートルズやボブ・ディランらが作るような質の高い、コンセプチュアルなアルバムを通して、自分自身の音楽を表現するようなアルバム制作に挑みました。また、この時期スティーヴィーは、後に彼の黄金時代を築き上げる礎となった運命的な人物と出会います。それは、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルの二人のミュージック・エンジニアです。マーゴレフとセシルは、シンセサイザーのパイオニアともいうべき存在で、彼ら二人だけのバンド、トントズ・イクスパンディング・ヘッド・バンドが、1971年に制作し、リリースしたアルバム『ゼロ・タイム(Zero Time)』は、当時まだ一般的ではなかったシンセサイザー一台だけで制作されたものでした。スティーヴィーは、そのアルバムを聴いて、すぐにその虜となります。そのアルバムの音が、たった一台の楽器だけで表現されているということに、大きな感銘を受けたようです。スティーヴィーは、以前からシンセサイザーに大変興味をもっていたので、自らその足で制作者の一人 マルコム・セシルに会いに行き、彼らを新しい音楽エンジニア兼共同プロデューサーとして自身のレコーディングに迎え入れます。シンセサイザーという新しい楽器のエキスパートに巡り会い、シンセサイザーの使い方を教わるにつれ、「この楽器こそ、自分が考えている音楽を思い通りに表現できる最高の手段だ」と確信し、アルバム制作にこの楽器を全面的に導入するようになります。スティーヴィーが曲のアイディアを出し、マーゴレフとセシルがそれに対して技術的なアドバイスするという形でレコーディングが進められ、三人の共同作業の中から、このアルバムが完成しました。アルバム・タイトル『Music Of My Mind(ミュージック・オブ・マイ・マインド)』『私の心の音楽』という意味のアルバム名。スティーヴィーは、このアルバム・タイトルについて、「シンセサイザーは、僕の頭に浮かんだイメージを直接表現する方法だと思う。だから、このタイトルになったんだ。」と語っています。また、このアルバムでは、スティーヴィーが自分ですべてを表現するため、ほとんどの楽器は彼自身による多重録音で演奏されています。そのことは、ポール・マッカートニーも大変興味を抱いたようです。スティーヴィーがデビューした当時から彼のユニークな音楽的才能に注目していたポールは、このアルバムで多重録音を駆使した、ほとんどすべての楽器を自分で演奏するというスタイルに感銘を受け、後のポールのアルバム制作に大きな影響を与えたとも言われています。ステーヴィーがモータウンとの契約を解消したということは、業界の知れるところとなっており、他のレコード会社はこぞってスカウトに出ていました。しかし結局スティーヴィーはモータウンに戻り、再契約を交わしました。そこで交わされた契約は、スティーヴィーが自らのプロデュース権を獲得し、何者にも制約されることなく、自分が作りたい音楽を自分の思うように作り上げることができるというもので、モータウンは、スティーヴィーが作ったアルバムを、“ありのまま”リリースしなければならないことになりました。つまり彼は、アルバムを制作する上で完全な“創作の自由”を獲得したことになります。スティーヴィーは、自分がレーベルを去ると、ほのめかしたおかげで、望む自由を手に入れました。「僕は基本的にモータウンに残りたかったんだ。最初から一緒にやってきたし、パイオニアの一人として会社が変わり、新しい方向に向かうのを見届けたかった。会社のことも、そこで働くみんなのこともわかっていたから、何とかゴーディを説得するだけでよかったんだけど、説得の一部は僕がいったん契約を打ち切ったときにすでに終わっていたんだ」と彼は語っています。このアルバムは大きなヒットはしなかったので比較的地味な印象を受けるアルバムです。しかし、アルバム制作の全権を掌握したスティーヴィーは、この作品を大きな足がかりとし、次の作品以降、怒涛の快進撃で傑作を発表し続けることになります。そういう意味で、このアルバムは、単にシンセサイザーを全面的に取り入れたり、多重録音などのレコーディング技術などのサウンド面の革新ということだけでなく、スティーヴィー・ワンダーの音楽そのものが大きく花開くことになる要素が詰まっているもので、自らの音楽的なアイデンティティーを確立した最重要アルバムということが言えるでしょう。このアルバム『心の詩』が作られなかったとしたら、この後に続く3部作や『キー・オブ・ライフ』のスティーヴィーは、存在しなかったのですから。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 10, 2007
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1891年6月9日、作詞・作曲家コール・ポーター誕生。生誕116周年。私にとって数多いアイドルの中でトップは誰かといえば、迷うことなくミスター、コール・ポーターです。彼の作った曲は、メロディー・歌詞ともに、実に「イキ」というもので、それらの楽曲はジャズのためにあるとも言えるほど、素晴らしいジャズ・ナンバーを生み出してきました。ジャズ・ミュージシャンは、だれもが彼の曲を演奏したことがあるはずです。そして、彼の曲の素晴らしさに魅了されるのです。●コール・ポーター(Cole Porter)アメリカン・ポピュラー・ミュージックの代表的作詞・作曲家。1891年6月9日、アメリカ、インディアナ州ペルー生まれ。1964年10月15日、カリフォルニア州サンタモニカで死去。73歳。----------1920年代末から1950年代終わり頃までにおいて、アメリカのスタンダード・ナンバーとなる音楽を、数多く世に送り出してきました。1891年6月9日、アメリカ、インディアナ州ペルー生まれ。1964年10月15日、カリフォルニア州サンタモニカで、73歳で亡くなりました。コール・ポーターはインディアナ州の大富豪の孫として生まれました。父は「Sam Porter」、母は「Kate Cole」で、両方の苗字をとって「Cole Porter」と名付けられました。母方のおじいさんが大金持ちで、何不自由なく育てられ、幼少の頃よりピアノとヴァイオリンを習っていました。イエール大学を経て、弁護士にしたいという祖父の希望でハーバード大学に進みますが、内緒で音楽ばかりやっていることを知り、音楽の方を学ばせることにしました。ポーターは、イエール在学中から学生ショーなどの作曲をしていました。イエール大学の応援歌は、彼が在学中に書いたものが歌われました。1916年、ブロードウェイで彼の初めての作品「シー・アメリカ・ファースト」が上演されましたが、わずか15週で打ち切りとなるという失敗作でした。この失敗の傷心を癒すために、フランスのパリへ行き、1928年、ブロードウェイのステージショー「パリ」の成功まで、彼はパリで過ごすことになります。パリにいる時に、8歳年上で離婚暦のあるアメリカ人女性のリンダと出会いました。リンダはポーターの才能に惚れこみ、ポーターから自分はゲイだと告白されながらも恋愛の末、1919年12月に結婚します。リンダは財産、教養、美貌の三拍子を兼ね備えた女性で、ヨーロッパの貴族や金持ち、バーナード・ショー、ウィンストン・チャーチルといった名士の取り巻きを従えており、ポーターを社交界の人物に紹介するのに大きな力となりました。1923年には祖父の死により、リンダの財産に加えて、祖父の莫大な遺産が転がり込みました。パリに住む、この裕福なアメリカ人は、それでも音楽に対しては情熱を持ち続け、ロンドンやニューヨークのために作曲を続けていましたが、大した成功はしませんでした。1928年、ブロードウェイのステージショー「パリ」の中の「レッツ・ドゥ・イット」が大評判となり、ポーターのアメリカでの人気が一気に高まりました。その人気は1934年のエセル・マーマン主演の「エニシング・ゴーズ」で確実なものとなりました。ポーターは押しも押されもしない大作曲家となり、1950年代終わりまで現役で活動を続けました。リンダとは、セックスレスの夫婦生活だったということですが、ポーターのラヴ・ソングは、そのほとんどがリンダのために書いたものだと言われています。1954年に、リンダが他界しました。ポーターも1937年の落馬による事故で両足をだめにしてしまい、30回以上の手術もむなしく1958年には両足を切断するなどして、創作の意欲もなくなったようです。そして次第に心も閉ざすようになり、1964年に、だれにもみとられることもなく、この世を去りました。同じ頃のアメリカを代表する作曲家のアーヴィング・バーリンより4歳若く、ジョージ・ガーシュウィンより6歳年上、リチャード・ロジャースよりは10歳も年上のポーターですが、アメリカで認められたのは一番遅かったということになります。ロジャースの話しによると、1926年にヴェニスで初めてポーターと出会った時、ポーターは「ヒットソングの作曲の秘訣を発見した」と真剣に話していたそうです。それは「ユダヤ風のメロディーを書く」ということだそうです。当時、ブロードウェイやティン・パン・アレイではユダヤ系の人の活躍が目立っていました。作曲家では、ジェローム・カーン、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシュウィン、リチャード・ロジャースなどは、みなユダヤ系でした。ポーターは短調と長調の入り混じったユダヤ風のメロディーを多用しています。ユダヤ人ではないポーターが、一番ユダヤ人的なメロディーを作っていたといえるのではないでしょうか。私は、彼の作るメロディー・ラインから、てっきりユダヤ系の人だと思っていました。それからこの人のすごいのは、作曲家だけでなく、優れた作詞家でもあったということです。コール・ポーターの曲は、そのほとんどが彼の作詞・作曲になっています。彼は、不朽の名曲を数多く残してくれました。偉大なソングライター、「コール・ポーター」の曲は、永遠に輝き続けることでしょう。You’re The Topあなたは最高!*****【代表作】コール・ポーターと言えば、『キス・ミー・ケイト』や、『上流社会』、『カン・カン』などのミュージカルにおいて、素晴らしい作曲と作詞を担当したミュージカル作曲家として知られていますが、コール・ポーターはミュージカルという枠の中だけでなく、ポピュラー音楽の偉大なる作詞・作曲家です。そして、ジャズにとっても大切な存在です。コール・ポーターの作り出した作品の数々は、チャーリー・パーカー、オスカー・ピーターソン、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロングなどから現在まで、数え切れない程のジャズ・ミュージシャンに愛され、演奏され、歌い継がれています。現在スタンダード・ナンバーとして親しまれている素晴らしい名曲の数々。時代を越えて愛される、真のスタンダード・ナンバーを残してくれました。----------●ウェイク・アップ・アンド・ドリーム (Wake Up And Dream) (1929) 【レヴュー】What Is This Thing Called Love? 恋とは何でしょう●ザ・ニューヨーカーズ (The New Yorkers) (1930) 【ミュージカル】Love For Sale ラヴ・フォー・セール●陽気な離婚 ゲイ・ディヴォース (Gay Divorce) (1932) 【ミュージカル】 I've Got You Under My Skin あなたはしっかり私のものNight And Day 夜も昼も ●エニシング・ゴーズ (Anything Goes) (1934) 【ミュージカル】Anything Goes エニシング・ゴーズI Get A Kick Out Of You アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー 君にこそ心ときめくAll Through The Night オール・スルー・ザ・ナイトYou're The Top ユア・ザ・トップ●ジュビリー (Jubilee) (1935) 【ミュージカル】Begin The Beguine ビギン・ザ・ビギンJust One Of Those Things ジャズト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス●踊るアメリカ艦隊 (Born To Dance) (1936) 【ミュージカル映画】Easy To Love イージー・トゥ・ラヴ●ロザリー(Rosalie) (1937/12) 【ミュージカル映画】In The Still Of The Night イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト 夜の静けさに●デュバリエは貴婦人 (Du Barry Was A Lady) (1939) 【ミュージカル】Do I Love You? ドゥ・アイ・ラヴ・ユー●サムシング・トゥ・シャウト・アバウト (Something To Shout About) (1943) 【ミュージカル映画】You'd Be So Nice To Come Home To ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ●メキシカン・ヘイライド (Mexican Hayride) (1944) 【ミュージカル】アイ・ラヴ・ユー I Love You●キス・ミー・ケイト (Kiss Me Kate) (1948) 【ミュージカル】So In Love ソー・イン・ラヴAlways True To You In My Fashion オールウェイズ・トゥルー・トゥ・ユー・イン・マイ・ファッション 私なりの真実を●カン・カン (Can Can) (1953) 【ミュージカル】It's All Right With Me イッツ・オール・ライト・ウイズ・ミーI Love Paris アイ・ラヴ・パリス●絹の靴下 (Silk Stockings) (1955) 【ミュージカル】All Of You オール・オブ・ユー●上流社会 (High Society) (1956) 【ミュージカル映画】True Love トゥルー・ラヴ【ジャズ】人気blogランキングへ
June 9, 2007
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シリータとの愛涙をとどけて / スティーヴィー・ワンダーSigned, Sealed And Delivered / Stevie Wonderオリジナル盤発売日:1970年8月レーベル:Motown 1.Never Had A Dream Come True 夢の中の君2.We Can Work It Out 恋を抱きしめよう3.Signed, Sealed, Delivered I'm Yours 涙をとどけて4.Heaven Help Us All ヘヴン・ヘルプ・アス・オール5.You Can't Judge A Book By Its Cover 表紙で本はわからない6.Sugar シュガー7.Don't Wonder Why ドント・ワンダー・ホワイ8.Anything You Want Me To Do あなたのためなら9.I Can't Let My Heaven Walk Away マイ・ヘヴン・ウォーク・アウェイ10.Joy (Takes over Me) ジョイ11.I Gotta Have A Song 歌がなければ12.Something To Say サムシング・トゥ・セイ----------スティーヴィー・ワンダーの1970年に発表されたアルバム。20歳を迎えることになったスティーヴィー・ワンダーはモータウンと交渉し、セルフ・プロデュース(自分自身のプロデュース)による作品を作ることができるようになり、父親のようなプロデューサーの顔色を気にすることなく、全て自分のアイディアによって作られた初めてのアルバムです。スティーヴィーは、それまで書き溜めていた曲を、このアルバムにまとめました。そして、このアルバム収録曲を書き溜めている時に、スティーヴィーはある女性と出会うことになります。それは、モータウンで秘書として働き、自らがシンガーになることも夢見ていたシリータ・ライト(Syreeta Wright)という女性で、後にスティーヴィーの妻となる人です。スティーヴィーは、彼女の才能を認めると一緒に楽曲を制作するようになり、そうして生まれたのが、このアルバムのタイトル曲「涙をとどけて(Signed, Sealed, Delivered I'm Yours)」です。この曲は、イントロにシタールのような音色を取り入れ、東洋的なエクゾチックな雰囲気を出していますが、これはビートルズにヒントを得たものだと言います。全米ポップ・チャート3位、R&Bチャートで1位という大ヒットになりました。映画『ユー・ガット・メール』に使用されたり、チャカ・カーンのカヴァーでも知られています。シリータとは、1970年9月に結婚しました。また、4曲目「ヘヴン・ヘルプ・アス・オール(Heaven Help Us All)」はポップ・チャート9位、2曲目のビートルズのカヴァー「恋を抱きしめよう(We Can Work It Out)」もヒットを記録し、セルフ・プロデュースは成功を収めましたこの作品の中でも、ビートルズの影響が随所にうかがわれますが、スティーヴィーは、もともと、多くのビートルズの楽曲に感銘を受けており、ポール・マッカートニーのようなメロディー・センスの作曲家を目指していたと言います。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 8, 2007
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【スタンダード・ナンバー】マイ・シェリー・アモールMy Cherie Amourスティーヴィー・ワンダー、ヘンリー・コスビー、シルヴィア・モイの共作曲。スティーヴィー・ワンダーが19歳のとき、1969年のアルバム『マイ・シェリー・アモール(My Cherie Amour)』に収録。最初、シングル「アイ・ドント・ノウ・ホワイ(I Don't Know Why)」のB面の曲として発表されながら、ラジオへのリクエストが殺到して、全米ポップ・チャート、ソウル・チャートともに4位にまで昇る大ヒットになりました。この曲はソウルフルなのに、「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」と同じく、泥臭い感じのするセヴンス・コードのソウル・ナンバーとは正反対の、メジャー・セヴンス・コードに乗ったメロディーが、実に美しい曲。ビートルズの「ミッシェル」に影響を受け、「恋人」との別れにインスパイアされ、もともとは「オー・マイ・マーシャ」という曲名で1966年に作られていたものを、曲名を変更してリリースしたと言います。クインシー・ジョーンズは、1975年のアルバム『メロー・マッドネス』で取り上げていて、レオン・ウェア、パウレット・マクウィリアムス、今は亡きミニー・リパートンのソロ・ヴォーカルという、凝ったヴォーカル・サウンドに、ジョージ・デュークのエレピ・ソロがフューチャーされるといったアレンジになっています。*****●マイ・シェリー・アモールMy Cherie Amour作詞・作曲:スティーヴィー・ワンダー、ヘンリー・コスビー、シルヴィア・モイwords and music by Stevie Wonder , Henry Cosby , Sylvia Moy1969年マイ・シェリー・アモール夏の日のように愛らしい愛するシェリー銀河のように遠い人マイ・シェリー・アモール僕の崇拝の的(まと)僕の心は君だけにときめくどんなに君を僕のものにしたいことかカフェでも街の雑踏(ざっとう)の中でも僕は君の近くにいたでも、君は気づきもしなかったマイ・シェリー・アモールどうして無視するのか教えておくれ笑顔の陰で君を自分のものにしたいと思っている僕なのさラララララ・・・いつの日か君は雑踏の中に僕の顔を見るだろういつの日か遠い雲の中で君と会いたいああ、愛するシェリー僕の崇拝の的僕の心は君だけにときめくどんなに君を僕のものにしたいことかラララララ・・・【ジャズ】人気blogランキングへ
June 7, 2007
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マイ・シェリー・アモール / スティーヴィー・ワンダーMy Cherie Amour / Stevie Wonderオリジナル盤発売日:1969年8月29日レーベル:Motown 1.My Cherie Amour マイ・シェリー・アモール2.Hello, Young Lovers ハロー・ヤング・ラヴァーズ3.At Last アット・ラスト4.Light My Fire ハートに火をつけて5.Shadow Of Your Smile いそしぎ6.You And Me 君と僕7.Pearl 真珠8.Somebody Knows, Somebody Cares 誰かが知っている9.Yester-Me, Yester-You, Yesterday イエスター・ミー10.Angie Girl アンジー・ガール11.Give Your Love ギヴ・ユア・ラヴ12.I've Got You あなたは僕のもの----------スティーヴィー・ワンダーが19歳のとき、1969年に発表されたアルバム。1960年代のスティーヴィー・ワンダーのラブ・バラードの代表的作品とされるタイトル・チューンで、全米ポップ・チャート及びR&Bチャートともに4位を記録した大ヒット曲「マイ・シェリー・アモール」や、ポップ・チャート7位、R&Bチャート5位を記録した「イエスター・ミー」などを収録。これまでのアルバムのヒットにより、スティーヴィー・ワンダーは、モータウンを代表するアーティストの一人になり、そんなときに、このアルバムがリリースされました。この年1969年、スティーヴィーはミシガン盲人学校での基礎過程を終了し、全ての時間をアーティストとしての活動に費やすことが可能になりました。このアルバムのタイトル・チューンの「マイ・シェリー・アモール」は、シルヴィア・モイ、ヘンリー・コスビー、スティーヴィー・ワンダーのチームによる共作で、スティーヴィーの代表的バラード・ナンバーの一つになりましたが、この曲は、実は「アイ・ドント・ノウ・ホワイ(I Don't Know Why)」というシングルのB面に収められていたものでしたが、リリースと同時に、このB面に収められた曲にラジオへのリクエストが殺到し、全米ポップ・チャート4位、R&Bチャート4位にまでに達する大ヒットを記録しました。そうした大衆の人気に押され、この曲をタイトル・ソングとしたアルバムが製作されることになりました。「マイ・シェリー・アモール」に続いて、ブライアン・ウエルズとロン・ミラーの「イエスター・ミー(Yester-Me, Yester-You, Yesterday)」がリリースされ、全米ポップ・チャート7位、R&Bチャート5位のヒットになりました。また、ドアーズの「ハートに火をつけて(Light My Fire)」をカヴァーしているのですが、そこには、あいかわらずロック好きのスティーヴィーの音楽性が現れています。【ジャズ】人気blogランキングへ
June 6, 2007
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今夜は、静岡市葵区常磐町のジャズ・ライヴ・ハウス「ボルゾイ」に、いっしょにやっているシンガー、かおりんとデュオで出演。この店は、今年で営業30年になる、ジャズ・ライヴ・ハウスの老舗。●6月の「ジャズ・ライヴ」のスケジュール1日(金)・・・「ハニーサックルローズ」静岡市清水区港町:かおりんとデュオ5日(火)・・・「ボルゾイ」静岡市葵区常磐町:かおりんとデュオ14日(木)・・・「ボルゾイ」静岡市葵区常磐町:かおりんとデュオ20日(水)・・・「ボルゾイ」静岡市葵区常磐町:大石俊雄(sax)バンド22日(金)・・・「シェルブール」島田市:大石俊雄(sax)バンド30日(土)・・・「ハーブ・バーン」吉田町:大石俊雄(sax)バンド【ジャズ】人気blogランキングへ
June 5, 2007
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牛乳は身体に悪いので、飲むべきではないと言われはじめた。タバコなどと同じ嗜好品として考えるべきだということだ。今まで身体に良いと思って飲んでいたのに・・・。全く逆だったのにはショックだ。もともと牛乳は好きだったが、飲むのをやめた。
June 4, 2007
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アーセンティア迎賓館・静岡:6月2日(土)、午後の披露宴のピアノ・ソロ演奏。 ベイサイド迎賓館・静岡:6月3日(日)、午前及び午後の披露宴のピアノ・ソロ演奏。今月はジューン・ブライドなので、結婚式が多い月だ。「ジューン・ブライドでよかった」という声が聞こえていた。June Brideジューン・ブライド直訳すると「6月の花嫁」これはヨーロッパからきた言葉で、ヨーロッパでは、6月に結婚すると幸せになれるという言い伝えがあるという。6月は、ヨーロッパでは一年中で最も雨が少ない月だということだが、日本では、梅雨の真っ最中になってしまうために雨が多い月。にもかかわらず、日本でも結婚式は、6月が10月に次いで2番目に人気の高い月になっている。また、人気のないのは、7月、8月よりも1月、2月なのだ。●未婚者に聞いた“結婚式を挙げたい「月」”1位・・・10月:19.0パーセント2位・・・6月:14.8パーセント3位・・・4月:13.7パーセント4位・・・5月:11.7パーセント5位・・・12月:7.2パーセント6位・・・9月:6.8パーセント7位・・・3月:6.7パーセント8位・・・11月:6.2パーセント9位・・・7月:4.5パーセント10位・・・8月:4.0パーセント11位・・・2月:3.0パーセント12位・・・1月:2.5パーセント2006年、オリコン調べ(20代、30代の男女各300人、計600人)【ジャズ】人気blogランキングへ
June 3, 2007
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竹内まりやのルーツ的洋楽集ロングタイム・フェイヴァリッツLongtime Favorites / 竹内まりやオリジナル盤発売日:2003年10月29日ワーナーミュージック・ジャパン1.悲しき片想い YOU DON'T KNOW(英語 / 日本語) 2.なみだの16才 IT HURTS TO BE SIXTEEN(英語) 3.ボーイ・ハント WHERE THE BOYS ARE(日本語) 4.そよ風にのって DANS LE MEME WAGON(日本語) 5.夢見る想い NON HO L'ETA(イタリア語) 6.悲しきあしおと FOOTSTEPS(英語) 7.ウォーク・ライト・バック WALK RIGHT BACK [Duet with 山下達郎](英語) 8.恋する瞳 L'AMORE HA I TUOI OCCHI(イタリア語) 9.ジョニー・エンジェル JOHNNY ANGEL(英語) 10.砂に消えた涙 UN BUCCO NELLA SABBIA (日本語) 11.いそしぎ THE SHADOW OF YOUR SMILE(英語) 12.風のささやき THE WINDMILLS OF YOUR MIND(英語 )13.恋のひとこと SOMETHING STUPID [Duet with 大瀧詠一](英語) 14.この世の果てまで THE END OF THE WORLD(英語) ----------竹内まりやが、1960年代の米・英・伊・仏の洋楽ヒット曲を歌ったカヴァー・アルバム。彼女自身のルーツだと言う、1960年代ポップスばかりを集めたもの。「私にとって、あらゆる意味で最も大きなインパクトを受けた音楽を挙げるとすれば、ビートルズに他なりませんが、彼らとの出会いに前後して日常的に聴いていた音楽の中には、今でも忘れられないほどの熱いときめきや、涙が出てきそうな感激を呼び覚ましてくれる、たくさんの素敵な曲がありました。思い起こしてみれば、歌を歌うということを職業に選んだ自分のルーツというべきものは、ほとんどがこの60年代に培われていたものだという事実に、改めて気づいた今回のレコーディングでした。シンプルで、ストレートな歌詞とメロディーが生み出す魔法に、幼い日の私はどれほど心を動かされたことでしょう。音楽が本当の意味で豊かだった時代が、確かにそこにはあったのです。私の選んだお気に入りの歌たちが、皆さんそれぞれの思い出を呼び起こし、せつなさや、なつかしさを共有していただけたり、あるいは、まったく未知の音楽として、新鮮な何かを感じて聴いていただけることがあるならば、ヴォーカリストとしてこれ以上うれしいことはありません。」竹内まりや【ジャズ】人気blogランキングへ
June 2, 2007
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今夜は静岡市清水区港町のライヴハウス「ハニーサックルローズ」に、いっしょにやっているシンガー、かおりんとデュオで出演しました。週末しか営業をしていないという、何とも隠れ家的なライヴ・スポット。コンディションの良いグランド・ピアノがある、素敵なスペースです。HONEYSUCKLE ROSE........................................ヴォーカル:かおりんピアノ:大関 敏夫【演奏曲目】●ステージ1M-1 Crystal Silence(piano solo)M-2 My Foolish HeartM-3 Sentimental JourneyM-4 It’s A Sin To TellalieM-5 Sophisticated Lady(piano solo)M-6 Beyond The SeaM-7 The Gift!M-8 My Favorite Things●ステージ2M-1 Stella By Starlight(piano solo)M-2 SkylarkM-3 Tea For TwoM-4 Bei Mir Bist Du SchonM-5 Night And Day(piano solo)M-6 Fly Me To The MoonM-7 Lullaby Of BirdlandM-8 Waltz For Debby●ステージ3M-1 What Is This Thing Called Love(piano solo)M-2 So In LoveM-3 Love For SaleM-4 'Round MidnightM-5 All The Things You Are (piano solo)M-6 Killing Me Softly With His SongM-7 Smoke Get In Your EyesM-8 Desperadoアンコール Love Letters【ジャズ】人気blogランキングへ
June 1, 2007
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