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Life is like an onion:you peel off layer after layer and then you find there is nothing in it. 人生とは、玉ねぎに似ている。 一枚一枚皮をむいていくと、中には何もない。James Gibbons Huneker 1860-1921 (アメリカの批評家)
January 31, 2006
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Love is the delightful interval between meeting a beautiful girl and discovering that she looks like a haddock. 恋とは、美しい少女に出会ってから、 その娘が魚のタラに似ていることに気が付くまでの喜びに満ちたひとときである。John Barrymore 1882-1942 (アメリカの俳優)
January 30, 2006
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『ブス』とは、顔の醜い人。主に女性に対して使われる。【語源・由来】ブスは、漢字で「附子」と書き、トリカブトの塊根(かいこん)を意味する。漢方では、トリカブトの根を「付子(ぶし)」や「烏頭(うず)」と呼び、鎮痛・強心剤として用いられるが、猛毒となるアルカロイドが含まれているため、誤って口に含むと神経系の機能が麻痺し無表情になる。その無表情を「附子」と言うようになり、転じて醜い顔を「ブス」と言うようになった。ブスには、狂言を語源とする説もあるが、狂言に出てくる「附子」もトリカブトの毒薬のこと。
January 29, 2006
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ところで、テーマの投稿数、「洋楽」が「6380」「好きなクラシック」が「5194」で、「Jazz」はというと「3543」とほかに比べるとかなり少ない。これが人気度と比例しているかどうかは別として、「☆モー娘。あれこれ☆」は「10805」だ。_| ̄|○
January 28, 2006
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ユニバーサルミュージックから「モーツァルト大全集 」が発売された。値段は25万円。と聞くと「高い!」と思うかもしれないが、CD180枚のセットなので、CD1枚当たりは1389円ということになり、むしろ安い。CDも、まとまるとけっこうなお金がかかるということです。1000枚なんてたいした数ではないけれど、1枚2500円とすると250万円になります。廃盤になったものをさがして買おうとすると、1枚1万円以上するものもあります。私たちは年間にすると、CDに何十万円もかけているんですね。中には、何百万という人もいることでしょう。オネエチャンにかけるお金はないはずだ。トホホ_| ̄|○
January 28, 2006
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27日は市内のイタリアン・レストランでのソロ・ピアノの営業だった。店にピアノはなく、自分のポータブル・ピアノを持っていってセットした。特にソロなので、本物のピアノとは音も見た目も違いは歴然として、さえないなあ。_| ̄|○普通のピアノが弾きたい。店の雰囲気はよくて、ジャズをやってほしいということなので、グランド・ピアノさえあればすごくいい感じなのだが。なかなかピアノのある店自体がない。しかし、ホール・スタッフの女性が米倉涼子にそっくりなすごい美人だったのにはおどろいた。こんな美人に会ったのはうちのヴォーカルのかおりんに会った時以来か。(?)
January 28, 2006
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今朝の「目覚ましテレビ」で、「モーツァルトは主題だけ楽譜に記して、残りは即興でピアノを弾いてた」と言っていましたが、モーツァルトもアドリブをやっていたというのだろうか?ジャズはクラシック音楽の影響を多分に受けていますが、アドリブという点でも、すでにモーツァルトはやっていたのかもしれません。アドリブとは、音楽を演奏する場合に自然に発生する行為なのですから。
January 27, 2006
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今日は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の生誕250年の日だということです。モーツァルトは、最も有名な作曲家の一人で、1756年1月27日に、オーストリア(ウースタライヒ)のザルツブルク(サルツブルク)に生まれ、1791年12月5日、ウィーン(ヴィーン)で亡くなりました。モーツァルトはアマデウスという名でも知られていますが、テオフィロス(Theophilos:ギリシア語で「神を愛する」、「神に愛された」の意。Theophilusはラテン語形)をラテン語で意訳したアマデウス(Amadeus)を通称として使用していました。生誕250年ということで、日本でも昨年あたりから、またまたモーツァルトがブームになっていますが、没後200年にあたる1991年もモーツァルト・イヤーとして盛り上がりました。それから15年、今度はもっぱら「モーツァルト効果」が話題になっています。モーツァルト効果とは、簡単にいえば、「頭が良くなる(IQの向上」、「免疫力の向上」、「認知症の改善」など、音楽が人体に与える効果がモーツァルトの音楽において顕著に現れるというものです。しかし、そんなことはモーツァルトの音楽の最も大切な価値ではありません。このモーツァルト効果は、「高周波音」と「f/1ゆらぎ」が多く含まれるものであるからで、それだけを求めるのであればモーツァルトの音楽でなくても良いということになりますが、実際、そういう要素を多く含んだ音楽を作って売り出したとしても、それだけでは多くの人が求めるような音楽にはならないでしょう。要するに、何よりも大切なのは、モーツァルトの音楽は理屈抜きに人を引きつける魅力があるということです。200年を越える現代まで繰り返し演奏され、聴かれ続け、時代や地域を問わず聴き継がれてきたということは、それだけの魅力のある音楽だということです。----------まさに、この言葉が当てはまります。 If you have charm, you don't need have anything else; and if you don't have it, it doesn't matter what else you have. 魅力があれば他に何もいらないが、 それがなければ他にどんなものを持っていてもしょうがない。「ジェームズ・マシュー・バリー」の言葉James Matthew Barrie 1860-1937 イギリス、スコットランドの劇作家代表作「ピーターパン」、「あっぱれクライトン」----------私の父は、大のクラシック音楽ファンで、小さな家でしたから、私が物心ついたころから、父が家にいるときはクラシック音楽が聴こえないときはありませんでしたが、私はクラシック音楽には特に興味を持ちませんでした。しかし、私にとってモーツァルトは別格です。モーツァルトの音楽は、聴いていてさわやかな気分にさせられ、魅力的に感じます。モーツァルトの音楽は、クラシック音楽の「スタンダード・ナンバー」として永遠に愛され続けることでしょう。
January 27, 2006
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いつから使っているのか思い出せないくらいに、自然に使っている言葉に「シーチョー」という言葉があります。この「シーチョー」の意味は「調子いい」ということで、それは良い意味ではなく、「あいつは“シーチョー”だからな」というように使った場合は、「あいつは“調子いい”からな」ということですが、その本当の意味合いとしては「いいかげんなやつ」ということです。「シーチョー」とは「調子いい」⇒「いいかげん」ということになります。それではいったいこの言葉の語源は何でしょう。特にジャズ関係のバンド(音楽)業界用語では、言葉を入れ替えて言う習慣があるのですが、この言葉については誰が言い出したものか、バンド業界から出た言葉かどうかはわかりませんが、どうも「調子いい」という言葉の前後を入れ替えてできた言葉のようだという説があります。「調子いい」⇒「チョーシイイ」⇒「チョー、シイイ」⇒入れ替えて⇒「シイイ、チョー」⇒「シーチョー」また、音楽では、調(キー)がCの調(キー)(ハ長調)の場合、ピアノの白鍵盤だけの音階なので、一番簡単な調だということで、その安易なキーである「C調(シーちょう)」ということからきている、ということも考えられます。ちなみに、サザンオールスターズの曲に「C調言葉に御用心」というものがありますが、これの「シーチョー」はハ長調の「C調」という文字になっています。
January 26, 2006
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『Left Alone』(レフト・アローン)この曲は、ビリー・ホリデイの作詞、マル・ウォルドロンの作曲によるもので、楽曲登録は1961年になっていますが、実際に作られたのは、マル・ウォルドロンがビリー・ホリデイの伴奏をしていた1958年頃だと思われます。しかし、ビリー・ホリデイはこの歌をレコーデイングすることなく、1959年7月17日に、この世を去ってしまいました。この曲は、ビリー・ホリデイが亡くなる2年前の1957年から、亡くなる直前まで、彼女の伴奏をしていたピアニストのマル・ウォルドロンが、ビリー・ホリデイが死去してから1960年に彼女に捧げたアルバム『Left Alone』(レフト・アローン)で、サックスのジャッキー・マクリーンと、インストゥルメンタル・ナンバーでレコーディングしています。ビリーの鎮魂歌として出されたこのアルバムは、当時すぐにヒットしたというわけではありませんでしたが、徐々に人気が出てきて、現在ではこの曲はマル・ウォルドロンの代表曲になりました。日本でも、1986年にジャズメンが主人公の角川映画「キャバレー」で、マリーンの歌ったこの曲が主題歌として使われました。そういうことからも、この曲はジャズ・ナンバーの中では、日本で最もよく知られている曲のひとつだと言えます。しかし、この曲は有名なわりには歌っている人が少ないもので、それは、この曲の歌詞があまりにも悲しく寂しいもので、ビリー・ホリデイの人生そのものであるということから、「Strange Fruit」と同じように、そうそうだれもが歌える代物ではないということだからでしょう。下手に歌えばヤケドをしかねない怖い歌だということです。「私の心を満たしてくれる恋人はどこにいるのかしら?いつまでも私と一緒にいてくれる恋人はどこにいるのかしら?傷つけられ、やがて見捨てられ、私はたった一人ぼっち。私の家庭と呼べる家もなく、小さな街でも、大都会にいても、どっちにしても惨めだわ。私は一人寂しく取り残されてしまう、一人ぼっち・・・」歌手デビューして、名声を確立し大歌手になるものの、人種差別に苦しみ、恋に翻弄(ほんろう)され、麻薬と酒におぼれ、精神的にも、肉体的にもボロボロになって44年の生涯を閉じたビリー・ホリデイが、自分自身の心境を書きつづった歌がこの曲です。この曲は、まさに、ビリーホリデイの悲痛の叫びが歌になったものということです。マル・ウォルドロンのアルバム『Left Alone』の最後に、マル・ウォルドロンと、これをプロデュースしたテディー・チャールズとのインタヴューが収録されていて、その中で、この曲について語られています。それでは、マルがビリーの伴奏でサンフランシスコに行ったときに、時間が数時間あまってしまったので、その時、ビリーが曲を作ろうと言い、それは、ビリーが自分自身の人生そのものについて歌う曲にしたいということで二人で作った曲が、この「Left Alone」だということです。ビリーは、この曲をステージでは歌ったそうですが、レコーディングする間もなく亡くなってしまいました。マル・ウォルドロンは、1926年8月16日にニューヨークで生まれ、2002年に亡くなりました。最初はアルト・サックスをやっていましたが、大学で作曲を勉強してからピアノに転向し、1950年代から数々のジャズ史に残るレコーディングに参加しています。1954年から1956年にかけてチャールス・ミンガスのピアニストをしました。1957年からビリー・ホリデイが亡くなる1959年まで、彼女の伴奏を務め、1958年11月のフランスとイタリアのヨーロッパ演奏や、1959年2月のロンドン公演にも、一緒に行っています。1961年から1962年には、エリック・ドルフィー、ブッカー・リトルのコンボに参加し、ファイブ・スポットでの歴史的なライブ録音を残しました。その後1967年にミュンヘンに移住してからは、ヨーロッパを中心に演奏活動を行ないました。そして、特に日本での人気が高く、1986年に日本制作のアルバム『Left Alone '86』が作られ、「レフト・アローン」が再演されました。このアルバムの中には「ラヴァー・マン」など、ビリー・ホリデイの愛唱曲を中心に収録され、マル・ウォルドロンが再びビリーへの万感の想いをつづった作品になっています。*****●レフト・アローン Left Alone作詞:ビリー・ホリデイ作曲:マル・ウォルドロン1961年私の心を満たしてくれる恋人はどこにいるのかしら?いつまでも私と一緒にいてくれる恋人はどこにいるのかしら?だれもが初めは私を傷つけ、やがて見捨てていく私は一人寂しく取り残されてしまう、一人ぼっち・・・私の家庭と呼べる家もなく、私が一生いたいと思うところもない小さな街にいても、大都会にいても、どっちにしても惨めだわ私は一人寂しく取り残されてしまう、一人ぼっち・・・「求めれば愛は与えらる」と、いつもみんなは言うでも、今のところそんな風にはなっていないわ彼が私のもとを去って行ったのは、運命のせいでしょうねそれとも、死ぬまでにはまた会えるのかしらその時には二人の心が通じ合うわでも、それまで私は、一人寂しく取り残されてしまう、一人ぼっち・・・
January 25, 2006
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ビリー・ホリデイは、1952年から1957年の6年間は、ノーマン・グランツが設立したクレフ・レコードの専属アーティストとしてレコードを出してきましたが、この契約が切れると間もなくして、コロンビア・レコードのジョージ・アヴァキャンのプロデュースによって、1枚のアルバムが作られました。それは『Billie Holiday / Rady In Satin』(ビリー・ホリデイ/レディ・イン・サテン)というもので、このアルバムは、ビリー・ホリデイが亡くなる1年半前の1958年2月の録音で、彼女がレコード会社に行ったレコーディングとしては最後から2番目のものになりました。ビリーは、1933年に初めてレコードを出してから、膨大な数のレコードを出してきました。しかし、麻薬や酒によるものか、1950年代半ばから、ビリーの声の衰えは著しくなり、以前からの作品と比べると声のつやがめっきりなくなってしまっていることがわかります。また、不安定な声をカヴァーするためにヴィブラートが多くなったり、今までとは違う歌い回しをするようになったりして、歌うことへの執念だけで歌っているような痛々しさが伝わってくるようなものなので、酷評も多くありますが、このアルバムに収められた曲は、そんな状態の歌にもかかわらず、やはりビリー・ホリデイでなくては歌いえない、まぎれもない彼女の歌が聴ける素晴らしいものだと思います。*****つぎの曲は、この『Billie Holiday / Rady In Satin』に収められています。●I'm A Fool To Want You ⇒ この曲の説明は、こちら【December 28, 2005】の日記 ●You Don't Know What Love Is ⇒この曲の説明は、こちら【January 20, 2006】の日記●For All We Know ⇒この曲の説明は、こちら【January 21, 2006】の日記●Violets For Your Furs ⇒ この曲の説明は、こちら【January 22, 2006】の日記●But Beautiful ⇒この曲の説明は、こちら【January 23, 2006】の日記※すべて1958年2月の録音
January 24, 2006
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『But Beautiful 』(バット・ビューティフル)この曲は、ジョーニー・バークの作詞、ジミー・ヴァン・ヒューゼンの作曲によるもので、1947年に作られ、1948年の映画「Road to Rio(邦題:南米珍道中)」に使われました。この映画は「Road to・・・(珍道中)」シリーズの第5作目で、このあとも2作続きましたが、この「ロード・トゥー・リオ」が一番ヒットし、1938年の映画の中で一番の観客動員数を記録しました。この映画はビング・クロスビー、ボブ・ホープ、ドロシー・ラムーアが主演し、その中で、この曲はビング・クロスビーが月夜の甲板でドロシー・ラムーアに歌いました。この曲のほうはアカデミー主題歌賞には候補にもなりませんでしたが、ビング・クロスビーの歌がヒットし、その後も多くのシンガーによって歌われ、スタンダード・ナンバーになりました。ビリー・ホリデイは、コロンビアのジョージ・アヴァキャンのプロデュースによって作られたアルバム「Rady In Satin(レディ・イン・サテン)」の中で歌っています。この曲は、1958年2月にレコーディングされました。この曲は、どちらかと言うと歌詞の魅力からスタンダード・ナンバーになったと言えるでしょう。日本でも多くのシンガーによって歌われていますが、この歌の意味は、ほとんどのシンガーやジャズ評論家の説明や訳詞などでは、「恋とは楽しく、また悲しい、そして、静かなものだったり、狂おしかったりするけれども、“しかし、美しい”」と、最後にくる「But Beautiful」を「しかし、美しい」と言っています。しかし、この「But Beautiful」という言葉の解釈は日本人にとっては難しいものです。この歌詞全体の意味をよく考えてみれば「しかし、美しい」ではニュアンスが違うということです。「恋とは、楽しくも苦しくもあり、良くも悪くもあるけれども、“恋とはそんなもの”」といった意味のようです。このへんが英語を日本語に訳す場合に難しいところでしょう。作曲のジミー・ヴァン・ヒューゼンは、1955年頃から作詞家のサミー・カーンとコンビを組むようになり、おもにフランク・シナトラに曲を提供していきます。数多くの名曲を生み出し、スタンダード・ナンバーとして残っています。●ジミー・ヴァン・ヒューゼンについては、↓こちら【December 5, 2005】の日記 *****●バット・ビューティフルBut Beautiful 作詞:ジョーニー・バーク作曲:ジミー・ヴァン・ヒューゼン1947年恋は楽しくも、また、悲しくもありそれは、静かだったり、狂おしかったり良いものだったり、悪かったりでも、そんなものそんな恋に賭けることがいいのよ転んだら転んだでいいと思っているわ私は全く気にしないでしょうね恋は涙いっぱいのときも、陽気なときも真剣な恋でも、遊びの恋でもどっちにしても胸は痛くなるものでも、そんなものもし、あなたが私のものならばと考えてみたわそうならば、決してあなたを離しはしないと・・・恋とはそんなもの、私はそう思うわ
January 23, 2006
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『Violets For Your Furs』(ヴァイオレット・フォー・ユア・ファース)【コートにすみれを】この曲は、1941年に、トム・アディアの作詞、マット・デニスの作曲したもので、当時、マット・デニスが編曲をしていたトミー・ドーシー楽団のために作ったものです。トミー・ドーシー楽団でフランク・シナトラが歌ったものがヒットしました。ビリー・ホリデイは、コロンビアのジョージ・アヴァキャンのプロデュースによって作られたアルバム「Rady In Satin(レディ・イン・サテン)」の中で歌っています。この曲は、1958年2月にレコーディングされました。原曲の歌詞は、「I bought you violets for your furs」「私はあなたの毛皮のコートのためにあなたにスミレを買ってあげました」と、私があなたにスミレを買ってあげたというものですが、ビリー・ホリデイの歌っている歌詞は、「You bought me violets for my furs」「あなたは私の毛皮のコートのために私にスミレを買ってくれました」と、あなたが私にスミレを買ってくれたというものに変えて歌っています。普通女性が歌う場合は、「あなたが買ってくれた」というふうになるようです。それは、一般的に「furs」=「毛皮(のコート)」というのは女性のものであるということだからでしょう。しかしビリー・ホリデイの歌っている歌詞はなぜかほかのところも少し変えています。原曲の歌詞では、「And there was April in that December」「そして、12月だというのに4月のようだ」というのを、ビリー・ホリデイは、「And now its April and May, December」「そして、今は4月そして5月、12月」と、何だか意味がわからないものになっています。マット・デニスはもともとピアニストで、歌手で、トミー・ドーシー楽団で編曲の仕事をしたあと、空軍に三年半ほど所属し、退役してからはおもにラジオの仕事をするようになり、一時期、テレビで自分の番組を持ちテレビ出演をしていましたが、その後はクラブでの演奏が多くなりました。*****●ヴァイオレット・フォー・ユア・ファース Violets For Your Furs【コートにすみれを】作詞:トム・アディア作曲:マット・デニス1941年《ビリー・ホリデイの歌詞》あなたは私の毛皮のコートにつけるスミレの花を買ってくれたそして、あの春のことをしばらく思い出すわ(すると、しばらく春が来たような気がしたのを憶えているかしら?)あなたは私の毛皮のコートにつけるスミレの花を買ってくれたそして、今は4月そして5月、12月(そして、12月だというのに、まるで4月のようだったわ)雪が花に舞い落ちて溶けていくのそれは夏の日の花びらにたまったしずくのようあなたは私の毛皮のコートにつけるスミレの花を買ってくれたすると冬の空に青空が映し出されたあなたは私の毛皮のコートにスミレをつけて通りかかった人たちを楽しませてあげたわねあなたの微笑みが優しく私の胸にしみたわあのときからこんな気持ちになったのよ私たち、本当に恋に落ちてしまったのねあなたが私の毛皮のコートにつけるスミレの花を買ってくれた日から(注記)カッコ内のものは、その上の行が原詞の場合
January 22, 2006
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『For All We Know』(フォー・オール・ウィ・ノウ)その曲は、サム・M・ルイスの作詞、J・フレッド・クーツの作曲によるもので、1934年に、ラジオ番組に使われたのが最初だと言います。当時、ケイ・カイザー、ガイ・ロンバード、アイシャム・ジョーンズなどによってレコードが出されました。1977年にライザ・ミネリ、ロバート・デニーロ主演の映画「New York, New York(ニューヨーク、ニューヨーク)」にも使われました。この曲は、歌詞が味のあるいいものということから、たくさんの歌手によって歌われ、古くからよく知られているので、確実にスタンダード・ナンバーになっています。しかし、メロディーはぼんやりしていて地味なものなので、日本ではあまり目立たない曲と言えるかもしれません。「私たちはもう二度と会えないかもしれない。行ってしまう前に、このひとときを素敵なときにしましょう。私たち二人のために明日はやって来ない・・・」愛し合っているのに、その気持ちを抑えて別れていく二人。「For All We Know」の訳は難しく、普通には「私たちはすべてについて知っている」という肯定的なものになりますが、「私たちが知っているにもかかわらずに」という否定的な意味にとることもできます。まさにビリー・ホリデイにぴったりの曲と言えます。ビリー・ホリデイは、コロンビアのジョージ・アヴァキャンのプロデュースによって作られたアルバム「Rady In Satin(レディ・イン・サテン)」の中で歌っています。この曲は、1958年2月にレコーディングされました。作曲のJ・フレッド・クーツは、1920年から1930年代に多くの曲を書いている人で、1931年に書いた「Love Letters In The Sand」は、1957年にパット・ブーンが歌ってミリオン・セラーになりました。作詞のサム・M・ルイスは1929年のアル・ジョルソン主演の映画「ジャズ・シンガー」から、おもに映画の仕事を多くしています。ちなみに、1970年のカーペンターズのヒット曲「For All We Know」は、この曲とは違う曲で、曲名だけが全く同じ「同名異曲」です。*****●フォー・オール・ウィ・ノウ For All We Know作詞:サム・M・ルイス作曲:J・フレッド・クーツ1934年《ヴァース》愛しい人夜は更けていくわ愛しい人私の愛はまだ語られていない秘め事だわ一つのキスも知らないでときはいつも永遠に過ぎていくのよ《コーラス》私たちはみんな知っているわ私たちはもう二度と会えないかもしれないということを行ってしまう前にこのひとときを素敵なときにしましょう今夜私たちは「おやすみ」は言わないわ最後のときまで私の手をつかんでいてそして、この手には私の心がつながっているから私たちはみんな知っているわこのすべてが夢かもしれないということを私たちは小川のさざなみのように来ては去っていくものなのねだから今夜は私を愛してちょうだい明日は誰かほかの人のためにあるのよ私たちの明日は二度と来ないかもしれないということを私たちはみんな知っているわ
January 21, 2006
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『You Don't Know What Love Is』(ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ)【恋を知らないあなた】この曲は、ドン・レイとジーン・ドポールが作ったもので、1941年のミュージカル映画「Keep 'em flying(キープ・エム・フライング)(凸凹(でこぼこ)空中の巻き)」に使われ、その中で、キャロル・ブルースが歌いました。この映画は、この曲の内容とは全く正反対の、明るく他愛ないドタバタ喜劇だったと言います。「あなたは恋が何なのかわかっていない」という意味と「ブルースがわかるまで」をかけています。多くのジャズ・プレイヤーに好まれているスタンダード・ナンバーです。ソニー・ロリンズが1956年にレコーディングしたアルバム「Saxophone Colossus (サキソフォン・コロッサス)」の中のものや、ジョン・コルトレーンが1961年、1962年にレコーディングしたアルバム「Ballads(バラード)」の中のものがよく知られています。ビリー・ホリデイは、コロンビア・レコードのジョージ・アヴァキャンのプロデュースによって作られたアルバム「Rady In Satin(レディ・イン・サテン)」の中で歌っています。この曲は、1958年2月にレコーディングされました。ドン・レイは、作曲家、作詞家、ピアニストで、最初はダンサーでヴァージニア州の大会で優勝し、1926年からヴォードヴィルでダンサーをしていました。そのうち、自分の出し物のための曲を書き始めるようになり、1938年ごろからソング・ライターとして、おもに映画のための曲を多く書いています。ジーン・ドポールは、ダンス・バンドのピアニストをしていましたが作曲をするようになり、1940年代にレイと組んで、映画のための曲を多く書いています。*****●ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ You Don't Know What Love Is【恋を知らないあなた】作詞、作曲:、ドン・レイ、ジーン・ドポール1941年あなたは恋が何なのかわかっていないのねブルースの意味がわかるようになるまでは愛しつくして失ってみなければあなたには恋が何なのかわからないわあなたは唇がどんなに痛むのかも知らない熱いキスをして失ってみなければ胸が熱く燃え上がり、そしてすべてを失ってしまうまではあなたには恋が何なのかわからないわあなたは知っているかしら?失恋した心が過ぎ去った想い出の日々をさまようことをそして、涙をいやというほど味わった唇はキスの味がわからなくなってしまうということをあなたは心が恋のためにどんなに焼けこげるほど燃えてしまうかを知らない それは生きることも死ぬことも出来ない眠れない夜を過ごした目で夜明けを迎えてみるまではあなたには恋が何なのかわからないわ
January 20, 2006
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ビリー・ホリデイは、1952年にノーマン・グランツと契約し、彼のレーベルのクレフからレコードを出します。クレフはのちにヴァーブの一部になりますが、当時のクレフ時代の録音の中からアメリカの最も偉大な8人のソング・ライターの作品を集めた、『Billie Holiday / First Issue:The Great American Songbook』(ビリー・ホリデイ/グレート・アメリカン・ソングブック)という、CD2枚組みのアルバムがヴァーヴから出ています。これには、ビリー・ホリデイが、まだひどい声質になる前の1952年の録音から、ひどい声質になってくる1950年代中ごろの録音、そして、ビリーが亡くなる4ヶ月前の1959年3月の録音が収められています。*****つぎの曲は、この『Billie Holiday / First Issue:The Great American Songbook』に収められています。●Blue Moon :1952年の録音⇒この曲の説明は、こちら【September 1, 2005】の日記 ●Stormy Weather :1952の録音⇒この曲の説明は、こちら【September 15, 2005】の日記●Love For Sale ;1952年の録音⇒この曲の説明は、こちら【June 1, 2005】の日記●Easy To Love :1952年の録音⇒この曲の説明は、こちら【January 18, 2006】の日記●Yesterdays :1952年の録音⇒この曲の説明は、こちら【August 10, 2005】の日記●A Fine Romance :1955年の録音⇒この曲の説明は、こちら【August 11, 2005】の日記●Trav'lin Light :1956年の録音⇒この曲の説明は、こちら【November 13, 2005】の日記 ●But Not For Me :1957年の録音⇒この曲の説明は、こちら【July 21, 2005】の日記
January 19, 2006
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『Easy To Love』(イージー・トゥー・ラヴ)この曲は、コール・ポーターが作詞作曲したもので、1936年の映画「Born To Dance(踊るアメリカ艦隊)」に使われ、その中で、ジェームス・スチュアートが歌いました。この映画に使われた曲では「I've Got You Under My Skin(アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン)」のほうがアカデミー賞にノミネートされ、知名度も高いのですが、この曲も根強い人気があり、ジャズ・ミュージシャンにも多く取り上げられているスタンダード・ナンバーです。もともとこの曲は、1934年のミュージカル「Anything Goes(エニシング・ゴーズ)」で使うために書いたのですが、これを歌うはずだったウイリアム・ギャクストンが自分の声に合わないと不満を言ったので、「All Through The Night」という曲を使って、この曲は使いませんでした。それで、この映画の中で、夜のニューヨークのセントラルパークを散歩している最中に、ジェイムス・スチュアートが相手役のエレナー・パウエルに向かって、彼女への想いをうちあけるという形で歌われました。エレナー・パウエルはタップダンスの名人で、1935年に「Broadway Melody Of 1936」、1937年に「Broadway Melody Of 1938」と、ミュージカル映画に主演していて、この映画はその2つのものの間になる作品なので、最初は「Broadway Melody Of 1937 」という題名だったのが、パウエルのタップダンスがあまりにも素晴らしかったので、特別に「Born To Dance」という題名に変えられたと言います。この映画のあとも、1946年のコール・ポーターの伝記映画「Night And Day(夜も昼も)」に、1953年のミュージカル映画「Easy To Love」にと使われましたが、後者のものは、この曲と同じ題名なのですが、内容的にはあまり関係のないものだったようです。ビリー・ホリデイは、デッカ・レコードのあと専属契約を結んだ、ノーマン・グランツのクレフ・レコード(のちにヴァーブの一部になった)で、1952年にレコーデイングしています。*****●イージー・トゥー・ラヴEasy To Love作詞:コール・ポーター作曲:コール・ポーター1936年《ヴァース》私にはよくわかっているわあなたが私を好きになってくれるなんてありえるかどうか考えるのは貴重な時間をムダにしていると私があなたを好きだと言うのを聞くのはうんざりだろうけれどでも許して責められるのは私だけではないわというのはね《コーラス》あなたはすぐに愛したくなるような人だから誰よりも崇めたくなるような人だから想いこがれる価値のある人だからあまりにも素敵であなたと一緒なら暖かい家庭を築こうと誰にも思わせる人だから私たちは二人とも自由気ままにとても仲良くやってきたからここであなたが私との将来を考えないとしたらはずかしいことだと言えると思うわだってあなたはすぐに惚れたくなるようなそれはそれはすぐに愛したくなるような人なのだから
January 18, 2006
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『Crazy He Calls Me (Crazy She Calls Me)』(クレイジー・ヒー・コールズ・ミー(クレイジー・シー・コールズ・ミー))この曲は、カール・シグマンとボブ・ラッセルが1949年に書いたもので、映画かミュージカルか、何に使われたのかはわかりません。また、クレジットではカール・シグマンの作詞、ボブ・ラッセルの作曲となっていますが、二人とも作詞家として知られているので、曲を書いたのが本当にラッセルの方なのかということも、確かなところはわかりません。この曲を、ビリー・ホリデイは同年の1949年10月にデッカ・レコードでレコーディングしてヒットしたので、最初にこの曲をヒットさせたのはビリーだということになるでしょう。しかし、この曲名のクレジットは男性が歌うための歌詞なので、「Crazy She Calls Me(クレイジー・シー・コールズ・ミー)」となっていますが、ビリーは女性の立場で歌っているので、「Crazy He Calls Me (クレイジー・ヒー・コールズ・ミー)」という曲名になっています。「彼は私をキチガイだと呼ぶ」1983年に、リンダ・ロンシュタットが歌って若い人にも知られるようになりましたが、彼女も「Crazy He Calls Me」で歌っています。*****●クレイジー・ヒー・コールズ・ミー(クレイジー・シー・コールズ・ミー)Crazy He Calls Me (Crazy She Calls Me)作詞:カール・シグマン作曲:ボブ・ラッセル1949年あの山を動かしてみせると私は言うわあの山を動かして見せるわ彼がどけてくれって望むなら彼は私のことをキチガイだと呼ぶけれど、その通り正気ではないわ私は恋に狂っているのよ火の中を通り抜けてみせると私は言うわ火の中を通り抜けてみせるわ彼がそうしてくれと言ったら彼は私のことをキチガイだと呼ぶけれど、その通り正気ではないわ見ての通り、恋に狂っているのよ木々の枝をゆらす風のように彼の笑顔が私をそうさせる困難なことなら今すぐにやるわ不可能なことなら少し時間がかかるかもね私は永遠に愛すると誓うわもし、空を持ち上げなくてはならないとしても彼は私のことをキチガイだと呼ぶけれど、その通り正気ではないわ私は恋に狂っているのよ
January 17, 2006
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この曲は、ジョージ・ガーシュウィンが1935年に書いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」の中のものです。作詞は兄のアイラ・ガーシュウィンと、原作の小説「ポーギー」の作者のデュボース・ヘイワードです。ビリー・ホリデイが、この曲をレコーディングしたのは、1948年12月のデッカ・レコードのセッションでした。この曲は、発売当時「ダウンビート」誌上でマイケル・レヴィンから厳しい批評をされました。彼はこのビリーの歌唱について、「名曲を自分自身の解釈の意図にそったものに勝手に歌い変える歪曲したやり方にも限度がある」と非難しました。しかし、ビリーの歌うこの曲は、ビリーの淡々とした歌い方の中に、深い表現が感じられ、私は素晴らしいものだと思います。●この曲の説明は、↓こちら【July 26, 2005】の日記
January 17, 2006
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『Good Morning Heartache』(グッド・モーニング・ハートエイク)この曲は、アイリーン・ヒギンボサムとアーヴィン・ドレイクとダン・フィッシャーの3人の共作で、1945年に作られました。1946年1月のデッカ・レコードのセッションでビリー・ホリデイが最初にレコーディングし、その後、彼女の得意曲として愛唱されました。アイリーン・ヒギンボンサムは、1930年代にはすでに名をなしていたピアニストで、シガゴの一流クラブに出演していたそうです。1932年に、彼女はまだ無名だったピアニストのテディー・ウイルソンと結婚し、アイリーンの援助のもとで有名になると、テディーはアイリーンを捨てて別の若い女性と一緒になったと言います。ビリー・ホリデイは1930年代中頃にアイリーンと会い、大の親友になっていたので、この曲は、アイリーンが特にビリーのために書き下ろしたものでした。「Heartache」=「心の痛み」を擬人化して「おはよう」と語りかけているブルー・ソングです。*****●グッド・モーニング・ハートエイク Good Morning Heartache作詞、作曲:アイリーン・ヒギンボサム、アーヴィン・ドレイク、ダン・フィッシャー1945年おはよう、心の痛みさん、相変わらず陰気な顔をしているのねおはよう、心の痛みさん、きのうサヨナラを言ったと思ったのにあなたがいなくなるまで、うなされて苦しんだのよそれなのに朝になったらあなたが居すわっているなんてあなたのことを忘れたいのにテコでも動かないみたいね恋人がいなくなるとあなたに会うというわけねこれからは毎日が、あなたにこう話しかけることで始まるのねあはよう、心の痛みさん、お変わりありませんか?もう私に付きまとうのはやめてちょうだいどうしてもあなたを追い払えないみたいねとにかく私をほうっておいてほしいのこれじゃあ月曜のブルースから日曜のブルースまでずうっとだわおはよう、心の痛みさん、また今までのようにやっていきましょういい朝ね、あなたは私のことを一番よく知っているんだものねあなたが付きまとうのに慣れなくてはおはよう、心の痛みさん、座りなさい!
January 16, 2006
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13年前の1993年1月15日はアメリカの有名な作詞家、サミー・カーンが79歳で亡くなった日です。●SAMMY CAHN サミー・カーン↓こちら【November 21, 2005】の日記
January 15, 2006
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『Don't Explain』(ドント・エクスプレイン)この曲は、ビリー・ホリデイが作詞、作曲し、アーサー・ハーズォグ・ジュニアの協力で仕上げたもので、1946年に作られました。この曲も、1941年に作られた「God Bless The Child」と同じように、ビリーの怒りと悲しみの実体験から生まれました。それは、当時のビリーの夫、ジミー・モンローがカラーに口紅をつけて帰宅。なんだかんだと弁解をする夫に対して「Hush now, don't explain!」「黙って、言い訳しないで!」と叫んだことからできたと言われています。ジミーは1940年代初めから半ばにかけてのビリーの夫で、この曲ができたいきさつについてビリーは次のように語っています。「口紅を見つけたわ。彼は私が見つけたことに気づくと、くどくどと言い訳を始めた。立っていられなかったわ。私にウソをつくなんて、彼がどこかの売女としてのける、どんなことより勘弁ならなかった。私は彼の言葉をさえぎって、こう言ってやった。“風呂へ入んなよ、あんたの言い訳なんてたくさんだよ”ってね。“言い訳なんかするな”という言葉が、私のいまいましい頭の中をいつまでも駆けめぐった。私は何とかして、それを頭から追い払いたかったのだと思う。考え続けているうちに、それはみっともない光景から悲しい歌へと変わっていった。じきに私は頭の中でフレーズを歌い始めていた。すると、突然、曲全体ができあがってしまった。ある晩、私はダウンタウンに出かけ、アーサー・ハーズォグの隣に座った。彼はピアノでこの曲を弾き、歌詞を書きとめ、2フレーズか3フレーズ手直しして、ほんの少しソフトに仕上げた。」オリジナルのビリー・ホリデイは、1944年にデッカ・レコードでレコーディングされますが、それは当時発売されず、(のちに別テイクとしてアルバムに入れられます)1955年にレコーディングされたものがマスター・テイクとして発売され、同年にヒットします。このレコーディング当時、ビリーと夫ジミー・モンローとの夫婦生活は、すでに破綻していて、ジミー・モンローはマリファナ密輸の罪を問われ刑務所に入れられており、この間にビリーは新進トランペッターのジョー・ガイとの仲を深めていたときで、このセッションにはそのジョー・ガイが参加しています。この曲は、ほかに、ヘレン・メリルなどが歌っています。*****●ドント・エクスプレインDon't Explain作詞、作曲:ビリー・ホリデイ、アーサー・ハーズォグ・ジュニア1946年黙って、言い訳しないで!ただ、ここから出て行かないって言ってあなたが戻ってきただけで、私は嬉しいの、言い訳はやめて!静かに、言い訳はやめて!何の得があるの?口紅のことはもういいの・・・言い訳しないで!あなたはわかっているはずよ私があなたを愛してるっていうことを愛しているからどんなことにも耐えるということを私の心はすべてあなたのものだから私が想うのはあなたのことばかり周りの人からあなたの噂を聞くと泣けてくるわあなたが私をだまそうとしているからでも、ホントでもウソでもどっちでもいい愛するあなたが私のそばにいてくれるなら黙って、言い訳しないで!あなたは私のよろこびと苦しみなのあなたの愛こそ私の人生、言い訳はしないで!
January 15, 2006
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『Lover Man (Oh,Where Can You Be?)』(ラヴァー・マン (オゥ・ホエアー・キャン・ユー・ビー?))若い陸軍兵のジミー・デイヴィスという人がビリー・ホリデイに捧げた詩を送り、それをビリーは気に入り、ピアニストのロジャー・“ラム”・ラミレスとジミー・シャーマンが曲をつけ1941年に版権登録をしました。1942年からアメリカ・ミュージシャン連盟のレコーディング・ストライキに入っていて、ビリーが在籍しているレーベルのコロンビアに対してはストライキを決行中だったので、レコーディングをすることができませんでした。その時、「Strange Fruit」をレコーディングしたコモドア・レーベルのミルト・ゲイブラーはデッカ・レコードに在籍しており、そこはレコーディングを行っている唯一のメジャー・レーベルだったので、ビリーはデッカ・レコードと契約し、1944年にレコーディングして、1945年にヒットしました。「その時、ジミー・デイヴィスはすでに戦死していた」とビリー・ホリデイは自伝で語っています。しかし、ジミー・デイヴィスは戦死しておらず、ヨーロッパで生活していることが1960年になって判明したのですが、その時には、すでにビリーは他界していました。この曲は、暗いイメージのある曲ですが、「Lover man, oh, where can you be?」「私の愛する人よ、ああ、あなたはどこにいるの?」という「Lover man」は、今はまだいないので、恋人たちがする多くの楽しいことが私にはできないと嘆いていますが、失恋などとは違い、恋人の出現を待つ期待、希望の未来がある分、さほど不幸な歌ではないと思います。*****●ラヴァー・マン (オゥ・ホエアー・キャン・ユー・ビー?) Lover Man (Oh,Where Can You Be?)作詞:ジミー・デイヴィス作曲:ロジャー・“ラム”・ラミレス、ジミー・シャーマン1941年なぜだかわからないけれど、ひどい気分だわ今まで一度もしたことがないことあをやってみたいのキスさえしたこともないなんて、私は何と多くのことをやれないでいるのかしら私の愛する人よ、あなたはどこにいるの?夜は寒いし、私は一人ぼっちあなたがわたしのものになるのなら、私の魂だってあげてしまうわ空にはお月様がいるけれど、私を愛してくれる人はいない私の愛する人よ、ああ、あなたはどこにいるの?恋の喜びは天国にいるような夢心地だって人が言うのを聞いてきたわ私はベッドに入る前にあなたが愛の言葉をかけてくれないかと祈るのまだ、あなたを見つけてさえいないんだから変なはなしだけれどもいつか私たちは会って、あなたは私の涙を乾かしてくれるでしょうそれから優しい言葉を私の耳にささやいてくれるでしょう抱いてくれたり、キスしてくれたり、私は何と多くのことをやれないでいるのかしら私の愛する人よ、ああ、あなたはどこにいるの?
January 14, 2006
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『On The Sunny Side Of The Street』(オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート)【明るい表通りで】この曲は、ドロシー・フィールズの作詞、ジミー・マクヒューの作曲によるもので、ルー・レスリーの1930年のレヴュー「International Levue(インターナショナル・レヴュー)」のために作られたものです。その中で、ハリー・リッチマンとガートルード・ローレンスが歌いました。このレヴューは失敗しましたが、この曲は多くの人に演奏に歌にと取り上げられて、スタンダード・ナンバーとして残りました。「コートをつかんで、帽子をとって、悩み事は玄関に置いて、通りの日向(ひなた)に足を運ぼう。パタパタという足音が聞こえてくるでしょ?その幸せそうな調べはあなたの足音。人生はこんなに素敵、陽の当たる方の通りではね。」「明るい表通り」というものと「明るい表通りで」というものと2種類の邦題が見られますが、「明るい表通り」だと「表通りが明るい」という歌のよう思えて、ちょっとニュアンスが違ってしまいます。これは、この曲名の大事なところを省いてしまっているもので、「on」というのは「~で」「~に」「~に向かって」といった意味を持っていますから、「通りの陽の当たる方に向かって行こう」ということになります。歌詞の最後の部分は、「Gold dust at my feet “on the sunny side of the street”」「私の足元には金粉が塵が舞っている “on the sunny side of the street”」太陽のサンサンと輝く様を「金粉」に例えています。太陽の輝きは金にも価する素晴らしいもので、それはだれにでも与えられ、得ることができます。「だから、通りの陽の当たる方に行きましょう」要するに「物は考えようだ」ということを言っているのですね。「くよくよしていてもしかたがない、楽しくいこうよ!」という明るく陽気な曲です。しかし、この曲が作られた1930年は、1929年に起こった世界大恐慌のまっただ中の時。そんな、どん底の世の中だからこそ、この曲によって暗い人々の心が励されてヒットしたと言えるでしょう。トミー・ドーシー楽団のレコードが最初にヒットしました。ビリー・ホリデイは1944年にコモドア・レーベルのセッションでレコーディングされました。*****●オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリートOn The Sunny Side Of The Street【明るい表通りで】作詞:ドロシー・フィールズ作曲:ジミー・マクヒュー1930年《ヴァース》いっしょに歩く人もなく、私には影しかなかったそしてある朝あなたが通り過ぎたおかげで、やっと私は明るくなれたわ今では朝は挨拶で迎え、心に太陽を抱いて一日を終えることができるわもう悩みなんかみんな飛んでいってしまったわあなたのおかげでこんなことが言えるようになったのよあれこれ将来のことを考えたり、夢を描いたり虹を追いかけたりしても始まらないわ陰気な顔をしていてもしょうがないじゃない行きあたりばったりでいきましょう人生なんてお祭り騒ぎの一日だと思って、遊んで笑って陽気に過ごせばいいわその楽しみを分けてほしかったら、することは一つしかないわね《コーラス》コートをつかんで帽子をとって悩み事は玄関のところに置いていきましょうただ、道の陽の当たる方に足を運ぶのよほら、パタパタという足音が聞こえてくるでしょ?その幸せそうな調べは、あなたの足音よ通りの陽の当たる方では人生はそんなにも楽しいものよ私も前は悩みをかかえて日陰ばかりを歩いていたわでも、もう何も怖くはない根無し草だった私でさえ考え方を変えたのよお金が1セントもなくても私は*ロックフェラーのように金持ちよ通りの陽の当たるところの私の足元には、金粉が舞っているのよ----------【参考】*ロックフェラー石油などで財閥を築き上げたアメリカ人で、大金持ちの例えとして歌によく出てくる。
January 13, 2006
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『Lover, Come Back To Me』(ラバー、カム・バック・トゥー・ミー)【恋人よ我に帰れ】この曲は、オスカー・ハマースタイン二世の作詞、シグムンド・ロンバーグの作曲で、1928年の*オペレッタ「The New Moon(ニュー・ムーン)」に使われました。このショーはトライアウトでは、まったく客が入らなかったので、すぐに閉められてしまいました。そこで、この曲や「Softly As In A Morning Sunrise」などを入れ大幅に書き直し、その結果、ブロードウェイの公演では公演回数508回という成功を収めることができました。舞台ではイーヴリン・ハーバートがこの曲を歌い、この曲は人気がでました。このオペレッタは1930年と1940年の2回、「The New Moon」で映画化されていて、1930年版ではローレンス・ティベットとグレイス・ムーアが、1940年版ではジャネット・マクドナルドとネルソン・エディが、この曲を歌いました。また、シグムンド・ロンバーグの伝記に基づいた1954年のミュージカル映画「Deep In My Heart」では、トニー・マーティンが、この曲を歌いました。レコードやラジオでヒットしたものはルディ・ヴァレーのもので、当時27歳のサックス奏者だった彼が、リーダーとして彼のバンドで、まだマイクのない時代に、メガフォン片手にこの曲を歌って人気を博したと言います。1938年にレコーディングされたミルドレッド・ベイリーの歌が、古いものとして知られています。その後、多くの人が歌い、ジャズ・ファンにはよく知られる代表的なスタンダード・ナンバーになりました。日本では、“美空ひばり”が愛唱していたことでも有名です。ビリー・ホリデイは1944年の、コモドア・レーベルのセッションでレコーディングし、コンサートのたびに必ずといっていいほど歌っていた曲だと言います。あなたが現れてから「空は青く、高く、月は新しく、恋も新鮮だったところに、あなたが現れた。」と、始めはハーピーな歌かと思わせますが、やがて、しあわせな日々が過ぎ、あなたは去ります。「私はあなたのどんなことも、思い出すたびに寂しくなる」「恋人よ、私のもとに戻ってきてちょうだい!」という恋人への未練の、切ない失恋の歌ですが、映画では離れ離れになる恋人どうしが「カム・バック!」と歌うところが定番になっているようです。ハマースタインの詩は、いつも、時の流れの中で移り変わっていくものに対する感慨を表しているのが特徴で、地味ですが、格調高く、そういうところが彼の魅力だと言えるでしょう。 この歌を「船は出て行く 煙は残る 残る煙が しゃくの種」という、7、7、7、5調で歌う甚句(じんく)に例えた人がいます。ここでの「煙」とは「未練」を意味しています。「あなたは去ってしまったのに、煙だけが残る、“未練”と“後悔”の歌」離れていく船に向かって「恋人よ、私のもとへ戻ってきて!」と叫んでも、もう遅いのですね。こういう内容の曲なので、本来は浪々と歌うバラード・スタイルが自然なものではないかと思えますが、どういうわけか、32小節の1コーラスを倍の64小節にして、2倍の速さのリズムをバックに歌うのが定番になっています。しかし、ニコニコ笑って楽しそうに調子に乗って歌い飛ばすのは「違うだろう!」といえる曲だということです。----------【参考】*オペレッタ [(イタリア語) operetta] 19世紀中頃にパリで生まれヨーロッパ全般に広まった、せりふと踊りを含む陽気で風刺的なオペラ。軽歌劇。喜歌劇。オッフェンバック・スッペ・レハール・サリバンらの作品が有名。*****●ラバー、カム・バック・トゥー・ミー Lover, Come Back To Me【恋人よ我に帰れ】作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:シグムンド・ロンバーグ1928年《ヴァース》あなたは去ってしまったのに、私はあなたをひきとめなかった私たちは二人をつないでいた絆を切ってしまったそして、あなたのことを忘れたいと思ったわ過去は過ぎ去ったものとして追いやってしまいたかったでも、あなたと会った夜の不思議な興奮はいつまでも僕のこころの中にとどまっているようだわ《コーラス》空は青く、高く、月は新しく、恋も新鮮だった私の渇いた心は歌っていた「恋人よ、どこにいるの?」すると、あなたが現れて、恋がめぐってきたそしてその日が過ぎ、あなたは去ってしまったこの痛む心は歌っている「恋人よ、私のもとに戻ってきて!」私はあなたのどんなことも思い出すたびにとても寂しく感じてしまう今、一人で歩く道はみんなあなたと一緒に歩いた道だから寂しく感じるのは当然よね空は青く、夜は寒い月は新しいのに、恋は古くなってしまったそしてここで待ちながら、私の渇ききった心で歌っている「恋人よ、私のもとに戻ってきてちょうだい!」
January 12, 2006
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『As Time Goes By』(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)【注意】邦題の「時の過ぎゆくまま(に)」は誤訳なので使わないこと。この曲は、ハーマン・ハプフェルドの作詞、作曲で、1931年のレヴュー「Everybody's Welcome(エヴリバディーズ・ウェルカム)」のために書かれたもので、その中でフランセス・ウィリアムズが歌いました。そのときルディー・ヴァレーがレコードを出し、少しヒットしました。しかし、この曲を本当に有名にしたのは、1942年にハンフリー・ボガードとイングリット・バーグマン主演の映画、「Casablanca(カサブランカ)」に使われてからです。この映画の中でサム役になったドゥーリー・ウイルソンが歌い、話題になりました。ただ、当時アメリカ・ミュージシャン連盟が一切の録音を禁止するレコーディング・ストライキに入っていたので、RCAヴィクターはしかたなくルディー・ヴァレーの昔のレコードを再販したところ、これがミリオンセラーになってしまいました。日本では1970年代になって、この映画「Casablanca」をたびたびテレビで放映したために有名になったもので、その映画のイメージから人気がでた曲と言えるでしょう。「君の瞳に乾杯!」という名セリフ(名訳)が有名になり、男だったら誰もが憧れる言葉となりました。「どんなに時が経っても、恋人たちが愛することは変わらない」というストレートな愛の歌なので、結婚式で歌っても良い内容なのですが、何といってもこの映画「Casablanca」の気まずいイメージが強い曲なので、やや問題があるかもしれません。映画の中で、この曲は歌うことを禁じられていた曲になっていました。ワケあって恋人と別れたハンフリー・ボガードが経営するナイトクラブに、別れた恋人のイングリット・バーグマンが偶然訪れ、バーグマンと知り合いだったピアノの弾き語りのドゥーリー・ウイルソンに、この曲をリクエストして、歌うことを禁じられていたこの曲を無理やりウイルソンに歌わせてしまいます。店の奥にいたオーナーのボガードは禁じ歌を歌ったことをとがめるために出てきたところで、バーグマンと「気まずい再会」をしてしまうというシーンを、いやがうえにも思い出してしまいます。この曲は、この映画「Casablanca」のために作られたかのようにぴったりマッチしてしまったので、多くのシンガーは、この曲の説明に、この映画「Casablanca」を引き合いに出すでしょう。また、「時の過ぎゆくまま(に)」という邦題がつけられたために、この曲の意味が誤解されてしまうことになるので、こういういいかげんな邦題はつけないでほしいと思います。本当は「時が過ぎ行くとも“変わらない”」⇒「永遠に不滅」ということなのに、これでは「時の過ぎゆくままに“過去のものになる”」⇒「忘れてしまう」という、まったく逆の意味になってしまいます。そういえば、話は少し脱線しますが、外国の曲を日本で発売する時に、レコード会社の関係者が会議をやって日本語の曲名を決めるというのですが、あるスペインのクリスマス・ソングの曲名をどうするかといったときに、その曲を聴くと、「なあんだこれは日本語で“とんできたサンタクロース”って歌っているじゃないか」ということで「とんできたサンタクロース」という邦題になったという、「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」のようなことをやっていたという話を聞いて驚きました。「とんできたサンタクロース」と聞こえるところは、本当は「ドンデスタ・サンタクロース」と歌っていて、それはスペイン語で「サンタクロースはどこにいるの?」という意味だそうですよ。でもまあ、曲名は売れるか売れないかという大事なものなので、英題の「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」そのままではピンとこないので売りにくいということでしょう。しかし、本当に正しい訳になると「時が経っても」ということになるのですが、これではインパクトに欠けるということだったのでしょうか?もちろん、直訳的なものでなくてもいいのですが、それにしても、この曲や、ほかにも「You'd Be So Nice To Come Home To」を「帰ってくれたら嬉しいわ」とつけたり、「Softly As In A Morning Sunrise」を「朝日のようにさわやかに」とつけたりとかいうような、その曲のイメージをまったく変えてしまうような誤訳の邦題だけはやめてもらいたいと思いますね。この曲は歌に演奏にと、数多くのものがあります。ビリー・ホリデイは1944年に、コモドア・レーベルでレコーデイングしています。*****●アズ・タイム・ゴーズ・バイAs Time Goes By作詞:ハーマン・ハプフェルド作曲:ハーマン・ハプフェルド1931年《コーラス》これだけは忘れないでほしいキスはキス、ため息はため息だということをどんなに時が経っても、こういう当たり前のことは変わらないそして、恋人たちが愛し合うときは「私はあなたを愛してる」と言うだからいくら時が経っても、未来が何をもたらそうともこれだけは変わらない真実だ月の光も恋の歌も決して時代遅れにはならない恋人たちの心はいつだって情熱と嫉妬と憎悪に満ちている女には男が、男には伴侶が必要だこのことは誰も否定できない結局、話は昔から一つも変わっていない愛と栄光への戦い、命をかけて向かっていくものどんなに時が経っても世界はいつも恋人たちを歓迎してくれる
January 11, 2006
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『God Bless The Child』(ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド)【神よめぐみを】この曲は、ビリー・ホリデイが作詞、作曲し、アーサー・ハーズォグ・ジュニアの協力で仕上げたもので、1941年に作られました。この曲は、ビリー・ホリデイが自らが歌うために作ったもので、その歌詞はビリーの実体験に基づいています。それは、当時、彼女の母親はスナックかレストランのようなものを開いていて、そこにはミュージシャンたちがいつもたむろしたので、はやっていたように見えますが、彼らは金がなかったり、つけだったりで実際には儲かっていなかったそうです。ビリーがあるとき金に困って母親のところに金の無心に行くと、すげなく断わられたために、頭にきてこの曲を作ったと言われています。しかしもう一説あって、それはこの店はもともとビリーが金を出して母親に持たせてやったそうで、店は繁盛していて儲かっていたと言います。そしてビリーが金に困ったときに借金を申し込んだのですが、すげなく断わられたため、その怒りをこめてこの曲を作ったというものです。「神様は自分のものは自分で稼いでくる子を祝福する」「自分のものは自分で」「親でも甘えるな」という説教じみた内容の歌詞ですが、低俗的な怒りの気持ちから生まれた、この歌が、ビリーの歌によって驚くほど説得力のある芸術性の高い、素晴らしいものになっているのは、いかにもビリー・ホリデイの持っている天性の才能がよく出ているものと言えます。そういうわけで、なかなかビリー・ホリデイ以外の人は取り上げにくい曲ですが、インストゥルメンタルではソニー・ロリンズやキース・ジャレットに取り上げられています。曲名表記は「God Bless' The Child」というように「Bless'」が「Blesses」の省略形として「'」がついているものと、ついていていないものと両方ありますが、どちらでもかまわないようです。私の持っている楽譜には「'」がついていますが、CDの曲名表記にはついていません。*****●ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド God Bless The Child【神よめぐみを】作詞、作曲:ビリー・ホリデイ、アーサー・ハーズォグ・ジュニア1941年富める者はますます富み、貧しきものはさらに失う聖書はそう言ったけれど、それは今でも本当のことママはもっているかもしれない、パパももっているかもしれないでも、神様は自分のものは自分で稼いでくる子を祝福なさる自分のものは自分で強きものはもっと手に入れ、弱きものは消えていくポケットが空で成功したものなどいないママはもっているかもしれない、パパももっているかもしれないでも、神様は自分のものは自分で稼いでくる子を祝福なさる自分のものは自分でお金さ、お前は友達がいっぱい、ドアのまわりに群れをなしてでも、お前が行ってしまって、お金を使いはたしたら、もう誰も来ないさ金持ちの親戚がいたら、パンのかけらなんかはくれるだろうそれで何とかやっていけるけれど、あまり甘えてはいけないママはもっているかもしれない、パパももっているかもしれないでも、神様は自分のものは自分で稼いでくる子を祝福なさる自分のものは自分で
January 10, 2006
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『All Of Me』(オール・オブ・ミー)この曲は、セイモア・シモンズの作詞、ジェラルド・マークスの作曲で、1931年に作られたものです。ルイ・アームストロングの歌と演奏のものが1932年にビルボードのチャートの1位になり、彼の最初の大ヒット曲になりました。そのほかにも、ケイト・スミスやラス・コロンボの歌ったものや、ポール・ホワイトマン楽団でミルドレッド・ベイリーが歌ったものなど次々とヒットしました。その後、ビリー・ホリデイやダイナ・ワシントンなど多くのジャズ・シンガーに歌われ、ジャズのスタンダード・ナンバーの中でも最もよく知られている曲の一つになりました。1932年の映画「Careless Lady」など、映画にも多く使われています。だれもが覚えやすいメロディーのためか、日本のジャズ・シンガーが、まず最初にレパートリーに入れるほど好まれている曲です。私の知り合いの女性ジャズ・シンガーも、一番最初に覚えたジャズの曲がこの曲だと言っていました。そんなわけで、この曲は、星の数ほど歌われているでしょうが、私としては、ビリー・ホリデイの歌の印象が強烈で、これ以外は「All Of Me」らしく聴こえないと思えるほど、この曲は、ビリー・ホリデイのイメージが強いものです。ビリー・ホリデイは、この歌を1941年3月に、ビリー・ホリデイ名義のオーケストラで、オーケー・レーベルでレコーディングしました。そしてこれは、ビリー・ホリデイとレスター・ヤングのコラボレーションの真髄を伝えるもので、ここで二人は、最高のインタープレイを聴かせてくれます。ビリーは、いじらしく切々と訴えるように歌い、この雰囲気こそがこの曲であると思えるくらい「素晴らしい」としか言いようがないもので、とても言葉では言い表せません。これは、ビリー・ホリデイの歌の中でも「これこそビリー・ホリデイだ」と思えるもので、ビリー・ホリデイの作品の中で、私が最も好きな曲です。この曲は、ジャズを歌い始めたアマチュア・シンガーがまず最初に歌う曲ということで、ジャズの曲として歌いやすい簡単な曲と言うイメージがあるかもしれませんが、ビリー・ホリデイの歌を聴くと、それはまったく違うものであることがわかります。ビリーの歌うこの曲は、まったく違う曲ではないかと思えるほど、完全にブルースになっているのに驚きます。どうしたらこんな風になるのか、ビリーの歌は、まったくもって信じられないほどの魅力があります。レスターのソロや、からみもまた、このビリーの雰囲気によくマッチしていて素晴らしいものです。私としては、これがまさにジャズ・ヴォーカルだと思っているくらい困った偏見を持っています。このビリー・ホリデイのものは、「ジャズ・ヴォーカルとはこういうものだ」ということを示しているものだと思うのです。それは決してビリー・ホリデイの歌い方をマネすれば良いということではなく、上手に歌うという、うわべのテクニックを超えた、「体の中からしみ出るもので歌う」ということです。(ジャズにおいては、マネをしたものには何の価値もありません。)「どうして私のすべてを奪ってくれないの?サヨナラを言われたら私は泣くだけよ。あなたなしで、どうやって生きていけって言うの。あなたは私の心の一部をもっていってしまったのよ。だったら、どうして私のすべてをもっていってくれないの?」この曲は、決してハッピーなラヴ・ソングではなく、悲しく切ないトーチ・ソング(失恋ソング)です。しかし、この曲のウラには「誘惑ソング」とも言えるセクシーなものを隠し持っていて、この曲の邦題として「犯され志願」と名付けた人がいたようですが、それは、まさにこの歌の本当の意味の核心をついているのではないかと思います。実際、それだけ性的誘惑の露骨な曲と言ってもよい曲なのです。いずれにしても、この歌を歌うときはかなり心して歌わなければならない、難しい曲の部類に入り、処女には決して歌えない歌であることは確かです。女性シンガーが特定の男性を見つめて歌うときはそれなりの覚悟が必要だし、男性が女性シンガーに目の前で歌われたら、心を決めないといけないというわけです。まあこれは半分冗談ですが、難かしい曲だということは本当です。歌詞の内容からすると女性が歌う歌のように思えますが、英語の歌の場合は必ずしもそうとは限らず、フランク・シナトラなども愛唱しており、男性シンガーも数多く歌っています。この曲はヴァースがありますが、ビリー・ホリデイやフランク・シナトラなどみんな歌っていないので、私は、ヴァースを歌っているものを聴いたことはありません。*****●オール・オブ・ミー All Of Me作詞:セイモア・シモンズ作曲:ジェラルド・マークス1931年《ヴァース》あなたは私からキスを奪い、愛も奪ったあなたは私に愛することも教えてくれた私は片思いの恋の残り物になるだけなのかしら?あなたが奪ったものは、みんな私が喜んで捧げたものよだから、もう何も残ってないわ《コーラス》私の全てを、どうして私の全てを奪ってくれないの?わかるでしょ?私はあなたがいなくてはだめなの私の唇を奪って、いらないんだから私の腕を取っていって、そんなものもう使わないからサヨナラを言われて、あなたに去られてしまったら、私の目には涙がいっぱいにあふれて泣くだけよあなたなしで、どうやって生きていけって言うの?あなたは私の体から心の一部分だけをもっていってしまったのよだったら、どうして私のすべてをもっていってくれないのよ!
January 9, 2006
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『St. Louis Blues』(セントルイス・ブルース)この曲は、「ブルースの父」と言われたW・C・ハンディの1914年の作詞、作曲のもので、曲名の通りに、12小節で構成されている「ブルース形式」の曲です。ハンディは1903年に「The Memphis Blues」というブルースを書き、それが数年後にヒットしたことから、次々とブルースの曲を書くようになりました。この「The Memphis Blues」でハンディは、ある白人の出版者にだまされてしまいました。この出版者は、この曲の楽譜を2000部印刷し、1000部売れたところで彼には1000部印刷したのに全く売れないで1000部売れ残ったとウソを言い、さらに、この曲の権利を50ドルで売らないかと言ったので、ハンディは売ってしまいました。すると出版者はすぐに1万部を追加で印刷して丸儲けをしたと言います。ハンディは、このことにこりていたので、この「St. Louis Blues 」は自分で会社を作って出版しました。初めはあまり売れなかったようですが、彼の音楽出版の会社をニューヨークのティン・パン・アレーに移してから徐々に売れ始め、ボードヴィルで歌われたり、演奏のレコードが出されたりして有名になっていきました。その後は非常に多くのレコードが出され、楽譜も長い間売れ続けました。ハンディは1958年に亡くなりましたが、その晩年まで、この曲だけで毎年2万5000ドルの著作権収入があったそうです。ハンディは1941年に自伝を書き、それによって「ブルースの父」を自称しましたが、彼のブルースのメロディーは、セントルイスあたりのさびれた鉄道の駅などで黒人がうめくように歌っているメロディーを書き取り、それらを寄せ集めて作られたらしく、この曲の一部も、酔っ払いの女が歌っているものを書き取って作られたと言います。ビリー・ホリデイは、1940年10月に、ビリー・ホリデイ・ウイズ・ベニー・カーター・アンド・ヒズ・オールスター・オーケストラのセッションで、オーケー・レーベルでレコーディングしました。ビリーは淡々と、独特の雰囲気で歌っていますが、実にブルース・フィーリングがよく出ています。この曲の歌詞は、歌う人によって大きく変わっています。*****●セントルイス・ブルース St. Louis Blues作詞:W・C・ハンディ作曲:W・C・ハンディ1914年《ビリー・ホリデイ、1940年版》日が沈むのを見るのはイヤよ日が沈むのを見るのはイヤよだってあたしのあの人は町を出て行ってしまったんだものあしたもこんな気分だったらあしたもこんなひどい気分だったら荷物をまとめて出て行くわダイヤの指輪をしたセントルイスの女があの人をひっぱりまわしているのよ化粧をして、カツラをつけたあの女さえいなかったらあの人はどこにも行きはしなかったのにこれがセントルイス・ブルースよどうしようもないくらいに悲しいわ(ブルーだわ)あの人の心は海に投げ込まれた岩みたいそうでなければあたしを捨てて行きはしないわあの人を愛しているのよ子供がパイを愛しているみたいにミントが入ったとライ麦のウイスキーを愛するケンタッキーの爺さんみたいにあたしは死ぬまであの人を愛しているわ----------●ジャズのブルースについては、↓こちら【February 27, 2005】の日記
January 8, 2006
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『Body And Soul 』(ボディー・アンド・ソウル)【身も心も】この曲は、ジョン・W・グリーンの作曲、ロバート・サウア、エドワード・ヘイマン、フランク・アイトンの三人の作詞により、1930年に作られました。ジョン・W・グリーンがガートルード・ローレンスの伴奏ピアニストをしていたときに彼女のために作った曲で、彼女がイギリスのロンドンに行ったときに、BBC放送で歌ったのがもとでイギリスでヒットします。ブロードウェイのプロデューサーのマックス・ゴードンがアメリカでの権利を買い、彼の1930年のレヴュー「Three's a crowd(スリーズ・ア・クラウド)(三人一(ひと)群れ)」の中で使われ、リビー・ホルマンが歌いました。その後、映画にも多く使われ、歌手にも歌いつがれて、有名なスタンダード・ナンバーになりました。ジャズ・ミュージシャンにも好まれ、よくインストゥルメンタルでも演奏されるジャズの名曲でもあります。「身も心も」という曲名から、この曲は感動的なラヴ・ソングのように思ってしまうかもしれませんが、歌詞の内容は「身も心も」捧げたのに「わかってくれない」「つらく当たる」「愛に背を向ける」という陰気なもので、これだけひどいことをされながらも「もう一度チャンスをください」などと諦めが悪いくせに、「私の人生をメチャクチャにした」と怨み節をはくという、まったくもって救いようのない、典型的な*トーチ・ソングです。*トーチ・ソング=片思いや失恋など、恋の痛み、悲しみを歌った歌のこと。この曲は、この曲名から結婚式でやりがちですが、絶対にやってはいけない曲と言えます。やはり、私が結婚式の演奏の仕事をしたとき、この曲が指定曲として入っていたことがありました。ビリー・ホリデイは1940年2月にビリー・ホリデイ名義のオーケストラのセッションで、ヴァカリオン・レーベルでレコーディングされました。テディー・ウイルソンのセッションの初めのころ、しばしばビリーが共演したトランペッターのロイ・エルドリッジが、このセッション以降再び参加するようになり、ここではスウィング時代最高と言われた彼のプレイが聴けます。*****●ボディー・アンド・ソウル Body And Soul【身も心も】作詞:ロバート・サウア、エドワード・ヘイマン、フランク・アイトン作曲:ジョン・W・グリーン1930年《コーラス》私の心は悲しく寂しいため息が出るほどあなたがほしいどうしてこのことをあなたはわかってくれないの?私はすべてあなたのもの、身も心も私は日々あなたを思って過ごしているわどうしてあなたが私につらく当たるのかと考えながら本当よ、本当に私はそう思っている私はすべてあなたのもの、身も心も信じられないわ考えられないわあなたが愛に背を向けるなんてそんなフリをしているだけなんでしょ?まだ、この恋は終ってないわもう一度私にチャンスをちょうだい私の人生をあなたはメチャクチャにしているのよわかっていると思うけれどつかまえてくれれば私はあなたのものよ私は喜んであなたに捧げるわ私のすべて、身も心も
January 7, 2006
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『Fine And Mellow』(ファイン・アンド・メロウ)この曲は、ビリー・ホリデイの作詞、作曲で、1939年に作られましたが登録は1940年になっています。ミルト・ゲイブラーが設立したコモドア・レーベルで、1939年にレコーディングされたもので、そのとき4曲がレコーディングされ、そのうちの1曲の「Strange Fruit」がA面で、この曲は、そのレコードのB面に入れられました。この曲は、ビリー・ホリデイの数少ないブルース・ナンバーのうちの一曲です。ビリー・ホリデイは1936年に「Billie's Blues」というブルースの曲を、ヴォカリオン・レーベルから出して成功していました。それで、ゲイブラーは前々からどうしてもブルースの曲を彼女に歌ってもらいたいと思っていて、彼女に頼んでありました。1939年4月20日のレコーディングの前日、ゲイブラーは、彼女が出演しているカフェ・ソサエティに行き、控え室で彼女が書いた歌詞を見て検討したと言います。ゲイブラーは「ありきたりのブルースとは違う何かが必要だ」と言って、歌詞に手を加えて、彼が思いついた歌詞を書き込んでいるうちに、そこからこの「Fine And Mellow」という曲名も考えついたそうです。そしてこのレコードが出ると、A面の「Strange Fruit」は放送禁止になったので、カフェ・ソサエティに行かないと聴けない曲として有名になり、この曲のほうはジューク・ボックスにも入れられよく聴かれる曲になったので、結局このレコードはビリー・ホリデイの最も売れたレコードになりました。「Strange Fruit」がこの曲のヒットに寄与しているとも考えられなくもありませんが、逆に、この曲がヒットしたので「Strange Fruit」がヒットしたというほうが通説のようです。「ヒットしたのは“Fine And Mellow”のほうだった」と、コモドア・レーベルのミルト・ゲイブラーも語っています。この曲の著作権登録は、この曲が発売されてしばらくしてから行われていて、ゲイブラーが経営していたレコード店にきているミュージシャンに頼んで楽譜を書いてもらい、作詞作曲をビリー・ホリデイ、出版をコモドア音楽店としてそれをワシントンへ送って著作権登録をしたので、登録は1939年ではなく、1940年になったようです。それにしてもゲイブラーは、この曲のクレジットに自分の名前を共作者として入れられるだけのことをしているし、この曲の作詞作曲を自分のものにすることすら可能な立場にいたと思われますが、彼はそうしていません。ソングライター、歌手、バンドリーダー、出版者など、自分が全く関与していない曲ですら、その権利を奪ってしまう者が少なくない醜いこの世界で、この曲の著作権料を全てビリーが手にできるように配慮したミルト・ゲイブラーは、ビリーにとって信用のできる、素晴らしい人物であったということがうかがえます。ビリーが出演していたナイトクラブのカフェ・ソサエティはビリーの歌で成功したので、オーナーのバーニー・ジョセフソンは1940年10月に、別の場所にもう一軒カフェ・ソサエティをオープンさせました。10月1日のオープニングでは、ビリーのほかアート・テイタム、シスター・ロゼッタ・サープ、ジョー・サリヴァン・セクステットといった豪華出演陣で客はおおいに期待していたところが、どういうわけかビリーは姿を見せなかったそうです。ビリーにはそういったルーズな面が多かったと言います。それに怒ったジョセフソンは「彼女なしでも充分やっていける」と言ってビリーとの契約を破棄したのでした。*****●ファイン・アンド・メロウFine And Mellow作詞:ビリー・ホリデイ作曲:ビリー・ホリデイ1940年あの人は私を愛していないから、ひどく邪険にするのよ私のことなんか好きじゃないから、恐ろしいほど冷たいのよあんな最低な男は今まで見たことがないわ派手な飾りのついたズボンをはいて、そのうえ黄色い縞が入っている派手な飾りのついたズボンをはいて、おまけに黄色い縞が入っているでも私のことを愛し始めるとすごく素敵でやさしいわ恋をすると飲んだり打ったりで、一晩中うつつをぬかしているわ恋をすると飲んだり打ったりで、朝までうつつをぬかしているわ恋は悪いと思っていることをなんでもさせてしまうのよでも、あなたがやさしくしてくれれば私はいつも家にいるわもし、あなたがやさしくしてくれれば毎日どこにも行かないのにでも、あなたは冷たくして、私を追っ払う気のようね恋は水道の蛇口のように出たり出なかったり恋は水道の蛇口みたいに出たり出なかったり時々うまく流れているなあと思っていると止まってそれっきりなのよ
January 6, 2006
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『Strange Fruit』(ストレンジ・フルーツ)【奇妙な果実】この曲は、ルイス・アランが1939年に作詞、作曲したものです。この曲はビリー・ホリデイの代表曲として知られているのですが、いろいろ異なった説明のされている曲です。まず、作者のルイス・アラン(Lewis Allan)はルイス・アレンと書かれているものがありますが、英語をカタカナで表記するのはむずかしいところで、どちらかというとアランのほうが正しいようです。ルイス・アランというのはペンネームで、本名をエイベル・ミーロポルといい、白人ではありますが、ユダヤ人です。彼は妻とともに共産党に入党していて、ルイス・アランというペンネームで「作家」「詩人」「作曲」などの仕事をして、その収益を共産党に寄付していました。当時、高校の教師をしながら数多くの詩やミュージカルや芝居の台本などを書いていましたが、その後、教師をやめ、おもに映画などの音楽を多く作っています。ピアノも少し弾けたようで、この曲は作曲もしています。ビリー・ホリデイがこの曲を歌うきっかけになったのは、バーニー・ジョセフソンがニューヨークに開いた「カフェ・ソサエティ」というナイト・クラブで、彼女が歌っているときのことでした。「カフェ・ソサエティ」の常連客は知識人、作家、各界の有名人、進歩的な学生、芸術家といった人たちで、黒人も自由に出入りできるという当時としては珍しく、進歩的で画期的な店でした。「カフェ・ソサエティ」は、そんな店だったので、アランはこの曲を、この店に持ち込んだのでしょう。1939年4月、バーニー・ジョセフソンと、このクラブのショーの担当のロバート・ゴードンが、この詩をビリーに見せ、アランがピアノで弾いて歌って聴かせたと言います。アランは人種問題にもともと関心を持っていて、ある日公民権運動の雑誌を見ていて大きな衝撃を受けました。それは、アメリカ南部のどこかで写された写真で、リンチをされて木にぶらさげられた黒人の無残な死体が写されていました。南部では、白人による黒人へのリンチが日常茶飯事で行われていて、女、子供までそれを楽しんだと言います。まだまだこういうことがアメリカ国内で行われていることを知った彼は、そのことを詩にしたものが、この曲のもとになったもので、「苦い(ひどい)果実(Bettet Fruits)」と名付けられたそうです。そして、それに自ら曲をつけて、彼の妻や黒人に歌ってもらうようにしていたと言います。ビリー・ホリデイの自伝では、この詩を初めて見た時に、すぐに感動し、自分と、アランと、ビリーのピアニストをしていたソニー・ホワイトとの三人で三週間かけてこの曲を作ったと言っていますが、実はそれは事実ではなく、ビリー・ホリデイもソニー・ホワイトもこの曲の作曲には携わっていないようです。それは、この曲の楽譜のクレジットにルイス・アランの名前以外は記されていないことでもわかります。ビリー・ホリデイの自伝は、かなりの点で事実とは異なり、あてにならないようです。この自伝のおかげで、この曲は、さもビリー・ホリデイが作ったように誤解されていることが多く、日本で発売されているレコードのライナーノーツにも、彼女の自伝をもとにして、そのようなことが書かれているものがあるような始末です。ビリーは非政治的で、この詩の意味も初めはよくわからなかったこともあり、アランには歌うかどうか少し考えてみると答えたそうです。また、彼女はエンターテイナーという点で、彼女の好きなルイ・アームストロングと似ていたので、こういうものは客が嫌がるのではないかということを思ったとも言っています。ビリーは「ある男がへんてこな曲を持ってきた」と言い、「私はこの曲を歌うことにしたわ」と言ったそうです。カフェ・ソサエティのオーナーのバーニー・ジョセフソンは次のように語っています。「最初ビリーは、この歌の意味が全然わかっていないようだった。アランは僕のところへ持ってきて、それから彼女のために弾いて聴かせ、彼女はこれを歌うと言ってバンドと一緒に練習した。彼女の態度は“評判がよければ歌おうかしら”てなもんだった。初めは彼女は何も感じていないようだった。しかし、客が敏感に反応し、涙が頬をつたわり、その衝撃がすごかったから、僕はビリーにもそれがわかったと思ったよ。そしてこれは、彼女と切っても切れない得意中の得意の曲になったから、自分で書いたと思い始めたんじゃないのかな。彼女は自伝でそう言っているね。でも、自分の曲だと思うくらいにこの曲に入れ込んだということさ。」そのうちこの曲は評判になり、雑誌社が訪れてきました。そのころまでアメリカで売られている雑誌には黒人の写真を載せていませんでした。しかしビリーの歌う「Strange Fruit」が評判になってくると雑誌の「TIME」が写真を撮りにきて、彼女の写真を載せ、この曲の歌詞まで載せました。それから、ほかのところにも黒人の写真が現れ出すようになり、これがそのきっかけを作ったようなもので、彼らに彼女の写真を載せさせたのは、まさにこの曲の力のおかげだったと言えるようです。しかし、この曲に否定的な人もいて、ビリーを見い出してこれまでビリーのプロデュースをしてきたジョン・ハモンドは、ビリーがこの曲を歌うことを嫌い、「彼女がこの曲を歌ったのは最大の間違いだ」と言ったそうです。それは、この曲を歌ったことで彼女をクラブ歌手にしてしまい、彼女の歌から新鮮さが失われてしまったからだと言います。また、この曲に気分を害して「これはエンターテイメントしゃないね」と言って帰っていく客もいたそうです。ビリーは、当時レコード会社はコロンビアと契約していましたが、コロンビアはこの曲に恐れをなしてレコーディングをする気が全くなく、この曲のレコードを出したいと思っていたビリーは困りました。そのころ、近くにレコード店を開いていたミルト・ゲイブラーはビリー・ホリデイの大ファンで、ビリーがコロンビアでレコーディングをしていたときの伴奏をしていたテディー・ウイルソンが、このゲイブラーの店に彼女をつれて来てから、ビリーとゲイブラーは大の仲良しになっていました。このゲイブラーの店は「コモドア」と言い、彼は店と同じ名前の「コモドア」というレコードのレーベルを持っていて、そこからジャズのレコードをちょくちょく出していました。そこで、ビリーはゲイブラーのコモドア・レーベルで「Strange Fruit」を録音させてくれないかとコロンビアに話をすると、なんとオーケーの返事がもらえたために、「カフェ・ソサエティ」のバンドの伴奏で、1939年4月20日にコモドア・レーベルによるレコーディングが実現しました。そして、この曲は発売され、ラジオ局はこの歌詞のために、放送しようとしなかったにもかかわらずヒットし、ビリー・ホリデイの人気は高まりました。ただし、正確には、このレコードのB面に収められた『Fine And Mellow(ファイン・アンド・メロウ)』という曲のほうがヒットしたことによって、この曲も評判になったということのようで、そのことはミルト・ゲイブラーも、そのように語っています。このあと5月に、ビリー・ホリデイは、この曲のレコーディングにも参加したピアニストのソニー・ホワイトと婚約をしますが、結婚にまでは至らず、この年の末には破局しました。*****●ストレンジ・フルーツ Strange Fruit【奇妙な果実】作詞:ルイス・アラン作曲:ルイス・アラン1939年南部の木々は奇妙な果実をつける葉には血が、そして、根にも血があちこちで黒いからだが南部の風にゆれているポプラの木にぶら下がった奇妙な果実雄大な南部の牧歌的な風景見開いた目に、もだえる口甘く新鮮なモクレンの香りすると突然の肉体を焦がす臭いここにカラスが突っつく果実がある雨がしみこみ、風が吸い取る太陽が腐らせ、樹木が倒れる奇妙で、つらく、ひどい作物がここにある
January 5, 2006
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『Easy Living』(イージー・リヴィング)【気ままな暮らし】この曲は、レオ・ロビンの作詞、ラルフ・レインジャーの作曲で、1937年の映画「Easy Living(街は春風)」の主題歌として使われました。この映画も曲もあまり評判にはなりませんでしたが、ビリー・ホリデイの歌によって、この曲の方は広く知られるようになり、スタンダード・ナンバーになりました。ビリー・ホリデイの歌は、1937年6月にテディー・ウイルソン名義のオーケストラの伴奏でレコーディングされました。この演奏にもレスター・ヤングが参加していて、それはビリーとレスターの恋の絶頂期に行われたものでした。ビリーのけだるいレイジーな雰囲気がよく出ていますが、これはビリーの独特な雰囲気で、意図的にはなかなか作り出せない、ビリー独特のものであると言えます。「あなたのために生きるのはたやすいこと。私は、あなたに恋しているのだから。」*****●イージー・リヴィング Easy Living【気ままな暮らし】作詞:レオ・ロビン作曲:ラルフ・レインジャー1937年あなたのために生きるのはたやすいことよ恋をしていればそう、私は恋してる私の人生にはあなたしかないの後悔はしてないわあなたに尽くした年月をそれは簡単なことよあなたにに恋をしているのだから私はあなたのためなら何をするのも幸せよあなたは私がバカな女に見えるでしょうけれども私はそれでも楽しいのよみんなは、あなたの手招きひとつで私は言いなりだと言うけれどそれは素晴らしいことよ、ダーリンただ、みんなにはわからないのよあなたのために生きるのはたやすいことよ恋をしていればそう、私は恋してる私の人生にはあなたしかないの
January 4, 2006
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『Why Was I Born?』(ホワイ・ワズ・アイ・ボーン)【何故生まれてきたの】この曲は、オスカー・ハマースタイン二世の作詞、ジェローム・カーンの作曲で、1929年の作品です。ビリー・ホリデイの歌は、1937年1月、テディー・ウイルソン名義のオーケストラの伴奏でレコーディングされました。この時のメンバーは、レスター・ヤング、バック・クレイトンといったカウント・ベイシー楽団のメンバーのサポートを得たもので、このセッションはビリーが音楽的に成長するきっかけとなった重要なレコーディングと言えます。*****●ホワイ・ワズ・アイ・ボーン Why Was I Born?【何故生まれてきたの】作詞:オスカー・ハマースタイン二世作曲:ジェローム・カーン1929年私はなぜ生まれたの何で生きてるの何を手に入れたの何を与えてきたのどうして欲しがるの望んでもいないものを何を求めればいいの私にはわからないどうして私は、あなたをつかまえようとしているのなぜ私は泣くのあなたに聞こえはしないのに私は哀れな愚かものでも仕方がないわ私は、あなたを愛するために生まれたのだもの
January 4, 2006
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『Summertime』(サマータイム)この曲は、ジョージ・ガーシュウィンが1935年に書いたフォーク・オペラ「ポーギーとベス」の中の曲です。作詞は原作の小説「ポーギー」の作者のデュボース・ヘイワードです。「Billie's Blues」と同じ録音で、1936年7月に、ビリーのリーダー名義でレコーディングされたセッションに入れられました。トランペットのバニー・ベリガンがダーティー・トーンを駆使したジャージーなイントロで始まり、演奏自体はリズミックなサウンドになっています。ビリー・ホリデイの歌は、本来ならレイジーに、けだるい雰囲気の中で歌われるところが、リズムに乗ったサウンドの中で独特のけだるい雰囲気を出すという大胆な歌い方によって、この曲が全く新しいブルース・フィーリングあふれるものになっています。これは、ビリー・ホリデイでなくては出しえない独特のサウンドであると思います。●この曲の説明は、↓こちら【July 23, 2005】の日記
January 3, 2006
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『Billie's Blues』(ビリーズ・ブルース)この曲は、ビリー・ホリデイが作ったブルースの曲です。この曲は、1936年7月にビリーのリーダー名義でレコーディングされた最初のセッションに入れられました。このセッションは黒人白人混合でありながら、黒人はビリーとコージー・コールの二人だけで、あとはみんな白人プレイヤーでした。この曲は、数少ないビリーの本当のブルース形式の曲としての最初のものです。しかし、ここではブギウギのルズムで、ブルース本来の重苦しい雰囲気にならないように、スインギーなものになっています。これは、当時の白人志向に合わせたものであると言えるでしょう。*****●ビリーズ・ブルースBillie's Blues作詞:ビリー・ホリデイ作曲:ビリー・ホリデイ1936年あいつを愛している、本当だわあいつに参っている、本当よだけど、あいつが辛く当たればあたしはブルーになるわあの人は朝ごはんもくれないの晩ごはんだって食べさせてくれないそのことでけんかしてあたしを追い出した黒い土であたいの服は汚れたわそんなにたくさんはない服なのにまだまだ先は長いのに楽しそうにしゃべるあたしを好きなやつもいるそれを元気がいいと思うやつもいるあたしをハニーと呼ぶやつもいるあたしが金持ちだと思っているやつもいるお前は運の良い子だという者もいるさあ、これを全部合わせたらあたしだって、ましな男に好かれてもいいはずだわ
January 2, 2006
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『What A Little Moonlight Can Do』(ワット・ア・リトル・ムーンライト・キャン・ドゥー)【月光のいたずら】この曲は、ハリー・ウッズの作詞作曲によるもので、1934年のイギリス映画「Road House」に使用されました。ハリー・ウッズはマサチューセッツ生まれのアメリカ人ですが、イギリスの映画会社ゴーモンで音楽の仕事をするためにイギリスに渡り、そのときにこの曲を作りました。ウッズは多くの曲を書いていて、その中の曲が何曲もミリオン・セラーになっていました。ウッズの書いた曲でスタンダード・ナンバーとしてよく知られているものは、 1927年の「サイド・バイ・サイド (Side By Side) 」と1933年の「トライ・ア・リトル・テンダネス (Try A Little Tenderness) 」があります。彼は、生まれつきの奇形で左手の指がなかったと言いますが、バーなどでピアノを弾いていたそうです。 この曲は、1935年7月に、イギリスのジャック・ジョンソンのオーケストラのものがチャートの16位までのぼりました。1935年7月に、ビリー・ホリディの歌がテディー・ウイルソンの伴奏でレコーディングされたものが、同年10月に、チャートの12位までのぼりました。このビリーのレコードはジョン・ハモンドのプロデュースによるもので、レコード会社のブランズウィックの重役は彼女の歌をまったく理解していなかったのですが、ハモンドの説得によって出されたものでした。ヒット・チャートに入ったビリー・ホリデイの最初の曲になり、以後、この曲はビリー・ホリデイの曲として定着し、クラブに出演するときは、どの日も必ずこの曲を歌ったと言います。ドイツの著名なジャズ評論家のヨアヒム・E・ベーレントは、著書『ジャズ』の中で次のように書いています。「ビリー・ホリデイが示したものは、何を取りあげるかということではなく、取りあげたものをどう歌いこなすかということであった。数え切れないほどの名唱の一例に「What A Little Moonlight Can Do」がある。原曲は安っぽく、とるにたりぬ小唄であったが、1935年のテディ・ウイルソンのコンボで歌ったレコードは素晴らしい芸術となっている。」この曲が「とるにたりない曲」というのはちょっと言いすぎのような気がしますが、それくらい、どんな曲でもビリー・ホリデイが歌うと素晴らしいものになると言うことです。また、ビリー・ホリデイは、その時々によって歌詞をいろいろ変えて歌っているようです。この曲はヴァースがありますが、ビリーはヴァースを歌っていません。*****●ワット・ア・リトル・ムーンライト・キャン・ドゥー What A Little Moonlight Can Do【月光のいたずら】作詞:ハリー・ウッズ作曲:ハリー・ウッズ1934年《コーラス》あ~、あ~、あ~(Ooh,ooh,ooh)月の光は何ということをするのあ~、あ~、あ~(Ooh,ooh,ooh)月の光は何てことをするんでしょう恋しているあなたは一日じゅうどきどきそわそわしてしまっている言葉がのどにつかえてしまって“あなたを愛してる”なんて言えないあ~、あ~、あ~(Ooh,ooh,ooh)月の光は何てことをするのかしら月の光がのぞきに来るまでしばらく待っててごらんなさい彼は退屈してくるからあなたは彼を拒めないわそして、あなたが彼にキスをしたときにあなたはこう言うだけよあ~、あ~、あ~(Ooh,ooh,ooh)月の光は何ということをするの
January 1, 2006
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