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今日は、沼津で営業。ジャズ演奏のご要望ということで、ピアノ・トリオ+女性ヴォーカル。会場に楽器はないというので、ポータブル・ピアノと小型のPAを車に積んで持っていったが、搬入してから会場のグランド・ピアノが使えることが判明。ピアノがあるのとないのとではセッティングが大違い。音だって生のピアノと電子ピアノでは大違い。楽器を運んだので体中が痛い、腰も気をつけないとヤバイ。歳だ。
March 31, 2007
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バック・オン・ザ・ブロック / クインシー・ジョーンズBack On The Block / Quincy Jonesオリジナル盤発売日:1989年11月(アメリカ)レーベル:Qwest(Warner Bros.)[収録曲]1.Prologue (2 Q's Rap) プロローグ(2 Q's ラップ) 2.Back On The Block バック・オン・ザ・ブロック 3.I Don't Go For That アイ・ドント・ゴー・フォー・ザット 4.I'll Be Good To You アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー 5.The Verb To Be バーブ・トゥ・ビー 6.Wee B. Dooinit ウィー・ビー・ドゥーイニット 7.The Places You Find Love プレイス・ユー・ファインド・ラブ 8.Jazz Corner Of The Word ジャズ・コーナー・オブ・ザ・ワード 9.Birdland バードランド 10.Setembro(Brazilian Wedding Song) セテンブロ(9月、ブラジルのウエディング・ソング) 11.One Man Woman ワン・マン・ウーマン 12.Tomorrow (A Better You, Better Me) トゥモロウ 13.Prelude To The Garden プレリュード・トゥ・ザ・ガーデン 14.The Secret Garden (Sweet Seduction Suite) シークレット・ガーデン[参加ミュージシャン]Quincy JonesMiles DavisDizzy GillespieHerbie HancockGeorge DukeGeorge BensonElla FitzgeraldSarah VaughanBobby McferrinAl JarreauRay CharlesChaka KhanDionne WarwickNathan EastBill SummersIce TMelle MelBig Daddy KaneCool Moe DeeTevin CampbellSiedah GarretLuther VandrossSheila E.Take6Al B. Sure!Barry Whiteetc・・・・----------クインシー・ジョーンズが総力をかけて作り上げたアルバムで、参加ミュージシャンはトップ・アーティストが勢ぞろいした、実に豪華絢爛なものです。1989年に発表され、1990年度グラミー賞「アルバム・オブ・ザ・イヤー」など、6部門で受賞しました。ヒップホップ、R&B、ゴスペル、ソウル、ジャズ、アフリカン・ミュージックといった、さまざまなタイプのブラック・ミュージックが繰り広げられるもので、まさにクインシー・ミュージックの集大成といった感じのアルバムです。この中で、マイルス・デイヴィスは、8曲目と9曲目の2曲に参加しています。8曲目「ジャズ・コーナー・オブ・ザ・ワード」は、9曲目の主要メンバーが一人づつ紹介されて、それぞれ短いソロをとるというもので、9曲目のイントロダクションのようなものです。続く9曲目の「バードランド」はウェザー・リポートのヒット曲です。 テーマが終わったところと終盤でマイルスのミュート・トランペットが登場します。また、ディジー・ガレスピーやジョージ・ベンソン、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、Take6も参加しているという、まさにクインシーでなければ実現しないであろう豪快なセッションです。
March 31, 2007
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スペシャル・ゲストはマイルス・デイヴィスSpecial Guest Is...Miles / Miles Davisコンピレーション・アルバムレーベル:ユニバーサルクラシック [収録曲]1.Don’t Stop Me Now ドント・ストップ・ミー・ナウ(TOTO) 2.Sticky Wicked スティッキー・ウィッキド(チャカ・カーン) 3.In The Night イン・ザ・ナイト(キャメオ) 4.Big ‘Ol Head ビッグ・オール・ヘッド(ケニー・ギャレット) 5.You Won’t Forget Me ユー・ウォント・フォーゲット・ミー(シャーリー・ホーン)Music from “The Hot Spot” 映画『ホット・スポット』サウンドトラック盤より6.Coming To Town カミング・トゥ・タウン 7.Empty Bank エンプティ・バンク 8.Sawmill ソーミル 9.Bank Robbery バンク・ロバリー 10.Gloria’s Story グロリアズ・ストーリー 11.Harry And Dolly ハリー・アンド・ドリー 12.Murder マーダー 13.End Credits エンド・クレジット All tracks featuring Miles Davis----------これは、ジャズ界の帝王、マイルス・デイヴィスが、晩年の1986年~1990年に、他のアーティストの作品や、映画のサウンドトラックにゲストとして参加した音源の一部を、一枚にまとめた、コンピレーション・アルバムで、日本独自企画のものです。1960年代以降、マイルスは滅多なことがない限り、サイドマンとしてのレコーディングは行いませんでした。そんなマイルスが、1985年、30年間在籍していたコロンビア(現在ソニー)を離れ、ワーナー・ブラザーズに移籍してからは、1985年のアルバム『サン・シティ』を皮切りに、積極的と思えるほど、他人のレコーディングに参加するようになりました。それは、拘束がきついコロンビアを離れたことと、移籍する少し前から始まった、プリンスとの交流がきっかけで、マイルスは、さらに、幅広い音楽を実際に肌で感じようと思うようになったことなどが考えられます。1曲目は、絶大な人気を誇っていたロック・グループ「TOTO」のアルバムにゲスト参加したものです。この曲はフュージョン風バラードのインストゥルメンタル・ナンバーで、マイルスはテーマのバックでミュート・トランペットによる、オブリガードと短いソロを吹いています。2曲目は、チャカ・カーンのアルバム『C.K.』に収められているもので、オーヴァー・ダビングのようですが、正規にマイルスとプリンスが共演した形の、唯一のトラックになりました。マイルスが参加したのはアルバム中2曲で、スタンダード・ナンバーの「アイル・ビー・アラウンド」と、プリンスが作詞作曲とプロデュースをした、この「スティッキー・ウィッキド」。3曲目は、1980年代に高い人気を誇っていたファンク・グループ「キャメオ」のアルバム、『イン・ザ・ナイト』にゲスト参加したもの。4曲目は、当時バンド・メンバーだったサックス奏者のケニー・ギャレットのリーダー作、『プリズナー・オブ・ラヴ』の中の2曲に参加したうちの1曲です。5曲目は、1960年代初頭に、マイルスがデヴューに力をかした女性シンガー、シャーリー・ホーンのアルバム『ユー・ウォント・フォー・ゲット・ナウ』に参加したものです。1990年のこのアルバムで、恩人のマイルスをスタジオに招き、1曲だけですが、念願の共演をすることができました。マイルスは、久々のオーソドックスなスタンダード・チューンの中での演奏になりましたが、マイルスのミュート・トランペットは、かつてのリリカルなプレイを彷彿(ほうふつ)させるもので、この時期においても、やはり、マイルスは最高のジャズ・トランペット奏者であることを世に再認識させたトラックです。6曲目以降の8曲は、『イージー・ライダー』で主演したデニス・ホッパーが監督した映画『ホット・スポット』のサウンドトラック盤にゲスト参加したものです。マイルスのパートはオーヴァー・ダビングでしょうが、ブルースの大御所ジョン・リー・フッカーとの共演というのが聴きものです。このサウンドトラックにマイルスが加わったことで、確実に味わいが深まったと言えるでしょう。
March 30, 2007
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新しい方向性を示したポップ・スタンダード・マイルス・ミュージックユア・アンダー・アレスト / マイルス・デイヴィスYou're Under Arrest / Miles Davis録音日:1984年1月26日(7)1984年9月22日(4)1984年12月26、27日(1)~(3)、(8)、(9)1985年1月(5)、(6)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Sony[パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp / voice-1,synth-5,6)ボブ・バーグ(ss-1,ts-8,9)ジョン・スコフィールド(g / omit-4~6)ジョン・マクラフリン(g-4~6)ロバート・アーヴィング3世(synth)ダリル・ジョーンズ(b)アル・フォスター(ds-1,7~9)ヴィンス・ウィルバーン, Jr.(ds-2~6)スティーヴ・ソートン(perc,voice-1)スティング(voice-1)マレク・オルコ(voice-1)ジェームス・プリンディヴィル(handcuffs-1)ギル・エヴァンス(arr-7)[収録曲]1.One Phone Call/Street Scenes ワン・フォーン・コール~ストリート・シーンズ 2.Human Nature ヒューマン・ネイチャー 3.Intro: MD 1/Something's on Your Mind/MD 2 MD1~サムシングズ・オン・ユア・マインド~MD2 4.Ms. Morrisine ミズ・モリシーン 5.Katia Prelude カティア・プレリュード 6.Katia カティア 7.Time After Time タイム・アフター・タイム 8.You're Under Arrest ユア・アンダー・アレスト 9.Medley: Jean Pierre/You're Under Arrest/Then There Were Non ジャン・ピエール~ユア・アンダー・アレスト~ゼン・ゼア・ワー・ナン ----------このアルバムは、マイルス・デイヴィスが1984年から1985年にかけて録音したもので、ポップスの曲だけで1枚のアルバムを作ろうというコンセプトで新しい音楽表現を試み、これまでの作品に比べてポップな、またしても新しいマイルス・サウンドになっています。アルバム1曲目では、スティングが参加しています。ただし、楽器やヴォーカルの参加ではなく、フランス語を話す警官役としての声の出演で、しかも、そのトラックではマイルスもセリフをしゃべっています。当時のマイルスはヒップホップに強い関心を持っていました。ハービー・ハンコックを介してビル・ラズウェルと接触したり、ブルックリンで活動する無名のラッパーを家に呼んだりしていました。セリフ入りのこの曲は、そのことをうかがわせるものですが、それにしても、スティングの参加は偶然のものだったと言います。スティングが参加したのは、当時マイルスのレコーディングに参加していたベース奏者のダリル・ジョーンズの紹介によるものでした。マイルスは、麻薬所持の疑いで逮捕されるというセリフ入りのストーリーを、警官役は英語がわからない異国人という設定で考えており、当初は、以前のマイルス・グループ・メンバーのミノ・シネルや、今回のレコーディングに参加しているジョン・マクラフリンが候補に上がっていました。どちらもフランス語が話せるので、フランス語のセリフが用意されました。そして、そのレコーディングのとき、ダリルと一緒にスティングが顔を現しました。リハーサルの帰りに寄ったのだということですが、スティングは、そのフランス語のセリフを見て、自ら立候補と言います。そのとき、スタンバイしていたミノとスティングのヴォイスが録音されましたが、最終的に、マイルスはスティングのかもし出す雰囲気を取ることにし、フランス語をしゃべるスティングの警官役が使われました。しかし、そのため、ここでスティングのギャラの問題が発生することになりました。いくら好意による飛び入りとはいえ、そこはスーパースターのスティングです。彼の名前を使うならそれなりのギャラを支払うようにと、マネージメント側から通達され、かなり高額なギャラを要求されました。コロンビア側は、そんな突発的な出費は予算に計上できないと言います。そこで、マイルスは自腹を切ることにしたそうです。しかし、プライドの高いマイルスのこと、レコード会社のつれない返事に傷つき、プリンスとの交流も影響し、このアルバムを最後に、1955年からちょうど30年間在籍したコロンビア(現在のソニー)と決別し、プリンスと同じワーナー・ブラザーズに移籍してしまいます。(アルバムとしては、この時期に録音されていた『オーラ』がその後、発売される。)なお、このスティングが演じる警官が話しているのは「ミランダの条項」と呼ばれるもので、これは、逮捕されるにあたって1回だけ好きなところに電話がかけられるとか、不利だと思えば黙秘権が行使できるといった被疑者保護に関する説明のことです。曲名の「ワン・フォーン・コール」とは、そのことを表しています。また、続く「ストリート・シーズンズ」というのは、黒人ながらピカピカのフェラーリを乗り回すマイルスに、警官がしょっちゅう職務質問をすることからつけられたものだということです。そして、このアルバムの最大の特徴は、ポップス・ナンバーのカヴァーをしているということです。マイケル・ジャクソンのメガ・ヒット・アルバム『スリラー』に入っていた、2曲目の「ヒューマン・ネイチャー」、それに、7曲目のシンディ・ローパーの大ヒット曲の「タイム・アフター・タイム」が取り上げられています。そして、この2曲は1991年に亡くなるまで、マイルスがライヴで必ず演奏した重要なレパートリーになりました。したがって、このアルバムに聴かれるポップ・サウンドは、マイルス・ミュージックの集大成と言えるでしょう。この2曲は、いずれもちょうどこのアルバムが作られた頃、はやりのヒット曲ですが、それを取り上げたマイルス本人は、「これこそが現在のスタンダード・ナンバーだ」と語っています。「スタンダード・ナンバー」・・・、そう、ジャズは昔から当時のヒット曲を取り上げ、そして、それらをスタンダード・ナンバーに仕立ててきました。ここでマイルスがやったことは革新的なことでありながらも、それは、ジャズにとってはごく当たり前な、自然なことであるということを、改めて示したものであるということです。マイルスは、リズムを重視してきただけではなく、メロディーの大切さも忘れてはいませんでした。それもマイルスでなければできない表現として、マイルス・ミュージックに作り上げたものです。マイルスのカヴァーは単なるカヴァーではない、マイルス・ミュージックになり、そして、しっかり現代のスタンダード・ナンバーになるということを示したものとして、このアルバムは、ジャズ・シーンにおいても、ポップス・シーンにおいても、重視しなくてはならないものです。そういった意味で、これはジャズ史、音楽史における道しるべ的要素が隠されているという点を、私たちはしっかりと受け止めなければならないと思います。しかし、そんな重要なことを堅苦しく考えることなく、ジャズ・ファン以外の広い層の人々にも、それなりにわかりやすく受け入れられる、ごきげんなものであるところが、また、この作品のマイルスのすごいところです。
March 29, 2007
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沈黙と奇跡の復活、そして死1970年、マイルスはアルバム『ビッチェズ・ブリュー』を発表し、新しいジャズのスタイルを示し、そのスケールの大きさに、音楽シーンを震撼させました。その後マイルスは、ロック、ソウル、ファンクなど、あらゆるジャンルの音楽を取り込み、全く独自のマイルス・ミュージックを送り出していきました。しかし、マイルスは1975年に活動を一切やめてしまいます。それは、マイルスの健康状態が、とても演奏活動を続けられるものではなかったからです。その年には胃潰瘍、声帯にできたポリープの手術をしていましたが、交通事故の後遺症から股関節の状態が悪化して、再手術を受けることになります。交通事故は、3年前、1972年のこと、睡眠薬を飲んで愛車ランボルギーニを走らせていたマイルスが、居眠り運転をして、安全地帯のガードレールに突っ込んだものでした。そのときの手術の結果が思わしくなく、以来マイルスは、ときおり全身を貫く激痛に苦しめられ続けていたと言います。1975年9月9日のセントラルパーク内で開かれた野外フェスティヴァルを最後に、すべてのスケジュールをキャンセルし、再手術に備えることにしました。ところが、手術の前の9月下旬に肺炎になってしまい、緊急入院をします。その後、12月に入ってから下半身の手術を受けますが、退院したものの、音楽シーンに嫌気がさしていたこともあったようで、復帰する気配のないまま、この引退とも休養ともつかない期間は1年、2年と伸び、この間には、マイルスがカムバックするという噂も何度か流れましたが、結局彼は沈黙を守り続け、もうカムバックは無理なのではと言われるようになっていました。実はこの休止期間中はドラッグと酒と女にまみれ、元気に過ごしていたようです。マイルスの自叙伝によると、「時間がありすぎて退屈だったから、たくさんのコカインをやり、家に連れ込めるだけの女たちとやりまくっていた。パーコダインとかセコールとかの鎮静剤の類(たぐい)も常用していたし、ハイネッケンとコニャックを大量に飲んでいた。コカインはたいていは吸っていたが、ヘロインと混ぜて足に注射することもあった。そいつはスピードボールと言うんだが、ジョン・ベルーシはそれで死んだんだ。外にはほとんど出なかったが、出るとしたらハーレムの時間外営業の店ばかりで、めちゃくちゃハイになって、その場限りの楽しみに明け暮れていた。」ということです。どうあれ、この長期間の沈黙により、ますます伝説のイメージを強くしていき、結果的に、かえってマイルスの存在感は増していきました。「廃人同様になっている」「もう吹けない」「死んでいるのではないか?」「ドラッグの売人になっている」このような噂が飛び交い、それが真実味に帯びてきます。やがて空白期間が6年近くになろうという、1981年6月、マイルスは衝撃の伝説的な奇跡のカムバックを果たし、それこそ文字通り「生きる伝説」となります。マイルスは今回も無名の新人ミュージシャンたちを引き連れて、以前にも増して大胆で斬新な演奏を繰り広げました。当時のポピュラー音楽シーンはファンク・ミュージックの真っ只中、マイルス・ミュージックは、ハードなロックとファンクをベースにしたものになっていました。全米のメディアはこの話題に沸き、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などは、いまだジャズ・ミュージシャンとして扱われているマイルスを異例の扱いで取り上げ、復活ツアーは、かつてない成功を収めました。ちなみに、当時マイルスに支払われたギャラは、カムバック第一声のボストン「キックス」のコンサートが、4日で6万ドル(約700万円)、その直後のニューヨークのコンサートが2回で9万ドル(約1000万円)、その年の秋の日本ツアーは総額70万ドル(約8000万円)だったと言います。カムバック後1980年代のマイルスは、作品を発表するたびにブラック・ミュージックを追及していきました。それにはプリンスとの交流により、お互いを刺激しながら、それぞれの音楽を発展させていきました。プリンスに刺激されたマイルスは、1985年を最後に30年間在籍したコロンビア(現在のソニー)を離れ、プリンスと同じ、ワーナー・ブラザーズに移籍します。そして、マイルスはますますファンク色を強めヒップ・ホップの要素も取り入れたサウンドを作っていきます。1986年、ワーナー・ブラザーズの最初の作品『TUTU』には、それまでとは全く違うレコーディングの方法が取られました。コロンビア時代は、基本的にはミュージシャンが演奏する生の音で音楽を作っていましたが、ワーナーに移ってからは、マイルスのバンドのメンバーで、現在ではブラック・ミュージックの有能なプロデューサーの一人になっているマーカス・ミラーの協力を得て、サンプリングとオーバー・ダビングを多用した独自の音作りを行うようになりました。今では当たり前のように行われているこのような方法も、この頃のジャズの世界では一般的ではなく、ここでもマイルスは時代をリードしてきました。またワーナーに移籍してからは、ジャズ系ではない、ソウル、ロック、ヒップ・ホップ系のアーティストのレコーディングに参加するようになります。チャカ・カーン、キャメオ、TOTO、スクリッティ・ポリッティなどが代表的なものです。1987年の『シェスタ』はサウンドトラック・アルバムとなり、1988年の『アマンドラ』では、再び強力なファンク・サウンドを主体にしています。そしてマイルスの死後に発表された作品『ドゥー・バップ』では、ラッパーのイージー・モビーをプロデューサーに迎え、さまざまなサンプリングを駆使して、最先端のヒップ・ホップ・ミュージックを作ろうとしていました。しかし、このレコーディングの途中、マイルスは他界してしまったため、彼の夢は完成を見ることなく終わります。1991年の7月8日、マイルスはモントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルのステージに立ちました。それは、クインシー・ジョーンズの指揮で、総勢50名近いミュージシャンで結成されたオーケストラをバックに、マイルスは30年ぶりにギル・エヴァンスとの共演作を再現しました。今まで決して過去を振り返ることをしなかった彼が、ついに自分の足跡をたどるような、往年の曲をリリカルにプレイしたのでした。そして、その2日後のパリのコンサートでは、過去において節目になったグループや曲を、可能な限り当時のメンバーを集めて再演するという、これもまた、マイルスにとっては前代未聞のものでした。マイルスは、ジャッキー・マクリーン、ハービー・ハンコック、ウエイン・ショーター、チック・コリア、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリンといった過去共演してきた主要メンバーに囲まれて、往年の懐かしい曲を、嬉しそうに吹きまくったそうです。そして、7月末にアメリカに戻ったマイルスは、それまでも訴えていた体調不良がさらに悪化したため、いくつかのコンサートをキャンセルしました。そして8月25日に行われたロサンゼルスの「ハリウッドボウル」のコンサートではステージに立ちますが、その直後に意識不明になり、緊急入院してしまいます。その後、一時意識を取り戻し、トランペットを手にしたりしますが、再び意識がなくなり、関係者の見守る中で、1991年9月28日、午前10時46分、肺炎と呼吸不全、脳卒中の合併症をこじらせて、ついに帰らぬ人となりました。享年65。「肺炎でサンタモニカの病院に入院したんだ。数日間にわたって精密検査をしたあと、肺に水がたまってきたから、呼吸を楽にするために肺に管を入れることになった。医者はそのことをマイルスに知らせていなかった。目が覚めたら管が入っているので、マイルスはそれでパニックになってしまったんだ。管が入っているから声はちゃんと出ないが、泣きながら“死にたくない”、そう言った。そのパニックと恐怖が心臓発作につながって、昏睡状態に陥ってしまった。昏睡状態は1か月近く続いた。そして危篤状態になって、意識が戻らないまま逝ってしまった。」これは臨終に立ち会ったアシスタント・マネージャーのゴードン・メルツァーの言葉です。マイルスは最後まで、その創造力を最大限に発揮し、私たちに感動する音楽を聴かせてくれました。彼の音楽は、決して過去を振り返ることをしませんでした。常に前進すること、新しい境地を切り開くことを行動で示しました。「自分のレコードを聴いて何になる。次のアルバムこそ最高のものになるのだから。」~マイルス・デイヴィス~生涯にわたってマイルスの言葉通り、常に最高の作品を世に送り出してきたマイルス・デイヴィスは、まさに「帝王」と呼ぶにふさわしい、不世出のアーティストと言えるでしょう。マイルスは、ジャズをこんなにも素晴らしい音楽にしてくれたのですから。彼が言ったこの言葉は、私の心に深く刻まれています。「心に響いた音を出せ!」~マイルス・デイヴィス~
March 28, 2007
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マイルス・ミュージックの確立1940年代末から1950年代初め、クール・ジャズ・スタイルを推し進めていたマイルスは、ジャズ・シーンでかなりの影響力を発揮するようになってきました。しかし、一方で、麻薬に手を出したことで、徐々に体調を崩し、仕事にも穴を開けるようになり、クラブのオーナーやレコード・プロデューサーの信頼を失っていきました。そのため、1952年には、ほとんどレコーディングの仕事もなくなり、失業状態におちいってしまいます。そんな窮状(きゅうじょう)の中、あたたかい手をさしのべてくれたのが、ブルーノート・レーベルのオーナー、アルフレッド・ライオンでした。彼は、ほとんど仕事のないマイルスに、年に一度のレコーディングを行ってくれました。そうして1952年から始まったブルーノートへの吹き込みは、1954年まで続きます。このときの演奏は『マイルス・デイヴィスVol.1&2』で聴けます。マイルスは完全に麻薬中毒の状態になってしまいましたが、1953年のある日、偶然、クリフォード・ブラウンのプレイに接したことで大きな衝撃を受けました。そのことがきっかけで、マイルスは麻薬からの脱却を決意し、イースト・セントルイスの実家に戻り、一人で麻薬中毒の悪癖を断ち切ることができました。1954年の春、マイルスはニューヨークのジャズ・シーンに復帰し、その後、たて続けにブルーノート、プレスティッジで『ウォーキン』、『バグス・グルーヴ』のレコーディングを行い、見事なカムバックを果たしました。また、この年のクリスマス・イヴには、ジャズ史上語り継がれている“クリスマス・セッション”が行われました。これは、レコーディングのとき、マイルスがピアノのセロニアス・モンクに、「オレのソロのときにはバッキングをするな」と言ったことから、緊張感のあるスリリングなレコーディングになったというものです。そして、1955年の夏に大きな転機が訪れます。その年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルにオールスターの一員として登場したマイルスは、得意のリリシズムに溢れたプレイで満員の聴衆を魅了し、その一夜にしてスーパースターの座を獲得したのです。コンサートに居合わせたコロンビア・レコードのプロデューサー、ジョージ・アバキャンは、すぐさま、マイルスに楽屋でコロンビアとの契約の話を持ちかけました。しかし、マイルスにはプレスティッジとの契約が残されていました。そこで、両者の間で交渉が持たれた結果、プレスティッジへも残りの契約のレコーディングを行うという条件で、マイルスはコロンビアへ移籍することができることになりました。1955年秋、マイルスは、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズという、当時は、ほとんど無名のミュージシャンを集めて、初めてレギュラー・バンドを結成します。結成した直後に、コロンビアには『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』を、プレスティッジには『ニュー・マイルス・デイヴィス・クインテット』を吹き込みましたが、それでもプレスティッジの契約完了には足りませんでした。そこで行われたのが、これもまたジャズ史上名高い“マラソン・セッション”です。そのセッションは1956年の5月と10月に行われました。これは、ジャズ・クラブに出演しているときのように、立て続けに演奏を行って、それをそのまま録音してしまったものです。要するに、聴衆のいないスタジオ・ライヴ・レコーディングということです。この2回のセッションでクインテットは25曲をレコーディングしました。その多くはスタンダード・ナンバーで、1曲を除いて、『リラクシン』、『ワーキン』、『スティーミン』、『クッキン』の4枚のアルバムに分けて、1975年から年に1枚のペースで4年がかりでリリースされていきました。このいわゆる4部作は、ハード・バップの代表的な傑作として評されていますが、このレコーディングを行った時点では、マイルスは次の新しいサウンドのことを考えていました。それが、モード・ジャズです。コード進行にしばられたアドリブからの脱却を考えていたマイルスは、コード進行に影響されない自由なアドリブをする方法に、ギル・エヴァンスと共に取り組んでいきます。その最初の成果が、ギル・エヴァンス・オーケストラと共演した1957年の作品『マイルス・アヘッド』です。そして、その手法をコンボに置き換えたものが1958年の作品『マイルストーンズ』で、この中のタイトル曲「マイルストーンズ」はモード・ジャズにおける初期の傑作になりました。また、このレコーディングの直後から参加したピアノのビル・エヴァンスにも触発されて、マイルスは、さらにモード奏法の研究を推し進めます。そうして1959年に発表された作品が、歴史的大名盤になる傑作『カインド・オブ・ブルー』です。一方、ギル・エヴァンス・オーケストラとの共演作品でも、1960年の『スケッチ・オブ・スペイン』は、スパニッシュ・モードを駆使することで、コンボ作品の『カインド・オブ・ブルー』と共に、モード・ジャズのスタイルを示しました。マイルスは、これらの重要なレコーディングをコロンビアに行っている間にも、別の活動もしています。その一つが、不遇時代に助けられたブルーノートへの恩返しのためのレコーディングです。マイルスは、コロンビアとの契約上リーダーになれないので、自分のバンドのメンバーであったサックスのキャノンボール・アダレイをリーダーにして1958年に『サムシン・エルス』をブルーノートのためにレコーディングしました。これはブルーノートを代表するばかりではなく、ジャズを代表する名盤になりました。また、同年末には、単身フランスに渡り、ルイ・マルが初めて監督をした映画『死刑台のエレベーター』のサウンドトラックを担当し、これは、シネ・ジャズと呼ばれるムーブメントの発端になりました。一方、マイルスのコンボにも変化が起こりました。1960年春にコルトレーンが退団してから、メンバーがなかなか定着しないこともあり、スタジオ・レコーディングより、ライヴ・レコーディングを積極的に行うようになっていきます。しかし、1964年夏、ようやくマイルスが納得できるグループが結成できました。そのメンバーは、サックス=ウエイン・ショーター、ピアノ=ハービー・ハンコック、ベース=ロン・カーター、ドラムス=トニー・ウイリアムスです。彼らもまた1955年にクインテットが結成されたときと同じ様に、ほとんど無名の新鋭ミュージシャンでしたが、1955年の黄金のクインテットに続き、このニュー・クインテットは、第二期黄金クインテットと呼ばれるようになるのには、それほど時間を要しませんでした。マイルス・デイヴィスは、1959年のアルバム『カインド・オブ・ブルー』によって、1960年代のジャズ・シーンに大きな影響を与え、「ジャズ界の帝王」として、完全にジャズ界におけるリーダーに君臨することになりました。そして、この、第二期黄金ニュー・クインテットでモード・ジャズをさらに発展させました。ライヴ・レコーディングを減らし、スタジオ・レコーディングに専念するようになり、1965年に『ESP』、1966年に『マイルス・スマイルズ』、1967年に『ソーサラー』と『ネフェルティティ』という傑作を送り出します。これらの作品は「新主流派ジャズ」と呼ばれ、マイルスを初めとして彼のグループのメンバーや、その仲間たちが、このスタイルのジャズを演奏することで、1960年代のジャズの代表的なスタイルの一つになりました。しかし、この時期、1960年代の音楽シーンは、ロックが大きなブームになっていました。そこで、マイルスは、また、新しいジャズの方向性について考えていました。それは、ロックやソウル・ミュージックの要素をジャズに取り入れた音楽のことです。マイルスは、自分の音楽をロックと同じステージに立って演奏できる強力なものにしたいと考えたのです。マイルスは、1967年末のセッションで、エレクトリック・ギターの導入を試み、1968年にレコーディングした『マイルス・イン・ザ・スカイ』と、『キリマンジャロの娘』で、ロック・ビートとエレクトリック・キーボードの導入を試み、1969年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』と、1969年から1970年にかけてレコーディングされた『ビッチェズ・ブリュー』では、大胆にロックとジャズを融合させた音楽を作り出しました。『ビッチェズ・ブリュー』のサウンドは、いままでの音楽にはなかった衝撃的なもので、ジャズ・ファンのみならず、世界中の音楽ファンを震撼(しんかん)させました。このサウンドは、急速に浸透し、1970年代に巻き起こるフュージョン・ブームの発端になりました。以後のマイルスは、ロック、ソウル、ファンクを包括した形で、全く独自の演奏スタイルとサウンドのマイルス・ミュージックを推し進めていきます。マイルスという人物は、1955年に初のレギュラー・クインテットを結成して以来、常に有能な新人をジャズ界に送り出してきたことでも語られます。1970年代のジャズがフュージョン一色と言えるくらいのものになったことでも、マイルスの、ミュージシャンの才能を見抜く力が、いかに大きかったかがわかります。リターン・トゥ・フォーエヴァーを結成したチック・コリア、マハビッシュヌ・オーケストラを結成したジョン・マクラフリン、ウェザー・リポートを結成したウエイン・ショーターとジョー・ザヴィヌル、ヘッド・ハンターズを結成したハービー・ハンコック、ライフ・タイムを結成したトニー・ウイリアムスといったミュージシャンは、みんなマイルス・グループの出身者で、その後のジャズ・シーンをリードしていきました。そんなことからも、マイルスが、いかに偉大な人物であったかが伺えることでしょう。
March 27, 2007
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ジャズへの道ジャズ界の帝王、マイルス・デイヴィス。半世紀にわたってジャズをリードし続けたトランペット奏者、マイルス・デイヴィス。マイルス・デイヴィスの足跡をたどってみると「マイルスがジャズだった」と言えるほど、彼が残した業績は、ジャズ・シーンに大きな影響を与えました。●マイルス・デイヴィス(Miles Davis)本名:Miles Dewey Davis 3(マイルス・デューイ・デイヴィス3世)1926年(大正15年)5月26日、アメリカ、イリノイ州アルトン生まれ。1991年(平成3年)9月28日、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス、サンタモニカで死去。享年65。----------マイルス・デューイ・デイヴィス3世は、1926年(大正15年)5月26日にアメリカ、イリノイ州のアルトンで生まれました。父親のマイルス2世は、アーカンソー出身の歯科医で、イースト・セントルイスとアルトンの2か所で開業していました。マイルスの祖父にあたるマイルス1世は、マイルス2世によると、「計算機もまだないころ、複式簿記ではアーカンソーで右に出るものがいないと言われた人で、白人たちは帳簿を直してもらいに詰めかけてきた」という人物で、これで成功した彼は、アーカンソーに1000エーカー(60万坪)の土地を持つ地主になりました。その財力と、社会的な認知があったことで、息子の2世は大学に進学でき、歯科医になれたのでしょう。マイルス2世は、やがて歯科医院を開業し、アルトンで黒人を診察し、イースト・セントルイスでは白人を診察するという生活を始めます。二つの歯科医院に加えて農場まで持っていたデイヴィス家は、地元の名士として、白人からも黒人からも親しまれていたと言います。マイルスが生まれて間もない頃に、一家は白人を診療しているイースト・セントルイスに引っ越します。子供を育てるのには、そちらのほうが良いと考えたからでした。彼の先祖には、芸術家、実業家、さまざまな分野の専門家、クラシックを演奏する音楽家などがいるという、あきらかに普通の黒人とは異なる血筋を引いており、利発で、ものごとを理論的に考えることを幼い頃から身につけていきました。両親はマイルスのことをあたたかく見守り、本人の考えを尊重する教育方針を取っていたと言います。家ではクラシック音楽も流れていましたが、マイルスの関心は、もっぱらラジオから流れてくるジャズでした。彼が7、8歳の頃に聴いていた「ハーレム・リズムズ」という番組を通して、ルイ・アームストロング、ジミー・ランスフォード、カウント・ベイシー、デューク・エリントンなどの音楽に夢中になっていきました。「最初のアイドルはルイ・アームストロングだった。あんな風にトランペットが吹けたらどんなに気持ちがいいだろうって思ったものさ。ヤツのセントルイス・ブルースなんか最高だった。7つか8つのガキが、それに合わせて口真似でアドリブまでやっていたんだから、オレがどれだけ入れ込んでいたか判るだろう?」。すでに何曲もソロを歌えるようになっていたマイルスは、13歳の誕生日にトランペットをプレゼントされると、すぐにそれに夢中になりました。ちょうど父親の患者であったエルウッド・ブキャナンが、きちんとした吹き方を教えてくれたことが、その後のマイルスの演奏スタイルにとって重要なものになりました。それは、ビブラートを付けないでトランペットを吹く奏法で、これがマイルスの特徴として、生涯にわたって持続されることになります。トランペットを吹き始めたばかりのマイルスにとって、ブキャナンとの出会いは極めて重要で、マイルスにクラーク・テリーを紹介してくれたのもブキャナンでした。クラーク・テリーもブキャナン同様にノン・ビブラートに特徴がありました。マイルスはクラーク・テリーの真似を懸命にすることで、ノン・ビブラート奏法を身に付けました。マイルスは15歳になった時点で、トランペット奏者のエディ・ランドールの率いるブルー・デビルズに加わり、プロとして活動することになったため、ミュージシャン・ユニオンに加入します。それから高校を卒業するまでの2年間は、学業に専念してほしいと願う両親と、もっと演奏活動をしたいというマイルスのせめぎあいで明け暮れました。そして1944年6月、高校を卒業したマイルスは、ニューオリンズのバンドで、2週間の仕事を行い、家に帰ってきたところに、ビリー・エクスタイン楽団がセントルイスのクラブに出演するというニュースが届きます。このビリー・エクスタインのバンドには、レコードを聴いて大きな関心を寄せていたチャーリー・パーカーと、ディジー・ガレスピーが参加していました。彼らが出演する当日、マイルスはエクスタイン楽団のサウンド・チェックを覗こうと、このクラブへ顔を出します。すると、ちょうど結核で急遽入院したバディー・アンダーソンに代わって、セントルイス周辺のツアーに参加するチャンスをものにしてしまいます。しかし、このニューヨークのトップ・バンドの中では若いマイルスは形無しでした。自分の実力を思い知らされたマイルスは、この体験によってニューヨークに出て行く決心をします。「もし、ビッグ・アップル(ニューヨークのこと)に来たら顔を出せ」。と言ったチャーリー・パーカーのひとことも、マイルスの心を強く刺激しました。マイルスはニューヨークに行くための口実として、ジュリアード音楽院に進学すると言い、両親を説得します。しかし、マイルスの頭の中には、パーカーの言葉しかありませんでした。マイルスは、当時のことを次のように語っています。「ニューヨークに出てきたその週に、オレはパーカーを探し回って、その月の生活費を全部使ってしまった。最初の2週間は、ディジーもパーカーも全く手がかりなしだった。ようやくパーカーに会えたのは、ニューヨークに出てきてから1か月くらい経ったころかな?“ヒート・ウェイブ”というハーレムのグラブに彼が出ているのを知って、行ってみたら、本当にパーカーが吹いていたんだ。」マイルスは再会を喜びましたが、その日の生活にも困っていたパーカーは、これ幸いとさっそくマイルスの部屋に転がり込んできました。こうして、マイルスとパーカーの奇妙なニューヨーク生活が始まりました。1944年10月のことです。このときのジャズ・シーンは、ビバップが誕生し、ブームになってきたころで、マイルスは、このビバップの中心へと身を投じていきました。ハーレムの「ミントンズ・プレイハウス」のジャム・セッションに、何度も参加しているうちに知り合ったエディ・ロック・ジョー・デイヴィスが、1945年の5月、同じハーレムのクラブ「スポットライト」に1か月間出演することになり、彼がマイルスに参加するように声をかけてきました。これがマイルスにとってはニューヨークに出て初めて行う正式なクラブ・ギグになりました。また、この年の夏に、チャーリー・パーカーは、ディジー・ガレスピーとのクインテットを解消しました。パーカーは引き続きクインテットでの活動を続けようと考え、マイルスを起用します。この時期のパーカーは破竹の勢いで、歴史的な名演も数多く残しています。その代表が11月26日に「サヴォイ」で行ったセッションです。その日に録音された「ビリーズ・バウンス」、「ナウズ・ザ・タイム」、「スライビング・フロム・ア・リフ」の3曲は、初期のマイルスにとっても重要な演奏になりました。そうして、マイルスは徐々にビバップ・シーンで知名度を上げていきます。しかし、マイルスは、アドリブ主体の熱いプレイが全てのようなビバップに、いま一つ馴染めないでいました。そんな思いから、ビバップ全盛期1940年代末に、彼はビバップの正反対を行くような形で、クールなスタイルの演奏を示してみせます。ギル・エヴァンスやジェリー・マリガンのアレンジの協力を得て、無駄な音を一切省き、アンサンブル主体のサウンドに焦点を絞ったマイルス9重奏団(ノネット)を作りました。1948年9月、このオーケストラで「ロイヤル・ルースト」に出演したときの評判は、あまり良いものではありませんでした。マイルスはその後も、このグループでいくつかのギグを行いますが、成功は収められずに終わります。しかし、1949年から1950年に行われた、マイルス9重奏団(ノネット)による、キャピトルへのレコーディングは、アルバム『クールの誕生』として発表され、ニューヨークを中心とするイーストコーストのビバップ・シーンに影響を与えることはなかったものの、ウエストコーストの白人ミュージシャンたちには強いインスピレーションを与えました。その結果、1950年代前半にウエストコースト・ジャズ・ブームが生まれることになります。ウエストコーストの好景気に少し遅れをとったものの、1950年代中頃になるとイーストコーストの景気も回復してきたことで、ニューヨークのジャズ・シーンも次第に活気に満ちてきます。それにつれて、多くの黒人ミュージシャンたちは熱い中にもメロディアスなプレイを試みるようになり、ビバップに続くエキサイティングなハード・バップが形を整えていきますが、ここでも、マイルスは重要な役割を果たしました。1951年にプレスティッジで行った『ディグ』のレコーディングのとき、マイルスはドラムスのアート・ブレイキーに、従来とは違うビートを叩くように指示しました。それは、シンコペーションを細分化させて、ピアノが弾くコードから生み出されたアクセントと、バス・ドラムをシンクロさせるというものでした。マイルスは、実はこのアイディアを、9重奏団(ノネット)で示したクール・ジャズを発展させる方法として用いました。しかし、結果的に、その試みがビバップの発展型で、よりホットなサウンドの展開となる、ハード・バップの誕生につながることになったのは、おもしろいことです。
March 26, 2007
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今日の昼間の仕事は『ベイサイド迎賓館 静岡』9時30分入り、2本。夜はそのまま『ジョージ・オーシャンビュー』へ。計3本
March 25, 2007
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天国への7つの階段セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン / マイルス・デイビスSeven Steps To Heaven / Miles Davis録音日:1963年4月16日(1)、(3)、(5)録音場所:アメリカ、ロサンゼルス録音日:1963年5月14日(2)、(4)、(6)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Sony[パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp)ジョジ・コールマン(ts)(2)、(4)、(6)ハービー・ハンコック(p)(2)、(4)、(6)ヴィクター・フェルドマン(p)(1)、(3)、(5)ロン・カーター(b)トニー・ウィリアムス(ds)(2)、(4)、(6)フランク・バトラー(ds)(1)、(3)、(5)[収録曲] 1.Basin Street Blues ペイズン・ストリート・ブルース2.Seven Steps To Heaven セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン(天国への7つの階段)3.I Fall In Love Too Easily アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー4.So Near, So Far ソー・ニアー、ソー・ファー5.Baby Won't You Please Come Home 家へおいでよ6.Joshua ジョシュア----------これは、マイルス・デイヴィスが1963年にレコーディングしたものですが、この1枚のアルバムの中で、録音場所とメンバーが違う2つのセッションがレコーディングされ、合計6曲のうち、それぞれ3曲づつのセッションが、1曲ごとに交互に収録されています。それは、1、3、5曲目は、ウエストコースト=ロサンゼルスのレコーディングで、サポート・メンバーは、ピアノ=ヴィクター・フェルドマン、ベース=ロン・カーター、ドラムス=フランク・バトラー、2、4、6曲目は、イーストコースト=ニューヨークのレコーディングで、サポート・メンバーは、テナー・サックス=ジョジ・コールマン、ピアノ=ハービー・ハンコック、ベース=ロン・カーター、ドラムス=トニー・ウィリアムスというものです。1960年代のマイルス・バンドは、夢の第二期黄金クインテットと呼ばれることになりますが、それは1964年の夏にサックスのウエイン・ショーターが加入することで完成します。1963年の春はマイルス、ジョージ・コールマン、ヴィクター・フェルドマン、ロンカーター、フランク・バトラーというメンバーにおちつき、ウエストコースト・ツアーを行い、ツアーを終えた直後に、ジョージ・コールマンを除いたカルテットの形で、ロサンゼルスのスタジオでレコーディングされたのが、(1)、(3)、(5)曲目のものです。このとき「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」と「ソー・ニアー、ソー・ファー」も録音されていましたが、それらは、このアルバムには収録されませんでした。従来のクインテットは決して悪いものではなく、マイルスも、特別不満はなかったようです。しかし、マイルスの頭の中では、このグループは将来的なものではなくなっていました。ロサンゼルスでのレコーディングの後、ニューヨークに戻って当時若手の新人、ピアノのハービー・ハンコックとドラムスのトニー・ウィリアムスに入れ代わったクインテットで、同じ、「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」と「ソー・ニアー、ソー・ファー」を再録音した方が、このアルバムに収められることになったというのは、ロスのグループより、こちらのグループに可能性を感じたからでしょう。ヴィクター・フェルドマンは才能あるミュージシャンで、「セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン」と「ジョシュア」は、ヴィクター・フェルドマンの作曲であるにもかかわらず、ここでは自分の作った曲の彼の演奏は、世に出なかったことになります。したがって、このアルバムに収められたニューヨーク録音の(2)、(4)、(6)の3曲は、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスというリズム・セクションによって、初めてレコーディングされたものを記録した、貴重なものになります。ロン・カーターはアート・ファーマー、ハービー・ハンコックはドナルド・バード、トニー・ウィリアムスはジャッキー・マクリーンのグループにいた、みんなほとんど無名の若手で、マイルスが自らジャズ・クラブをまわってスカウトしたと言います。そして、このニュー・リズム・セクションに、この後、サックスのウエイン・ショーターが加わり、夢の第二期黄金クインテットが誕生するのです。従来のリズム・セクションは、ハード・バップのビートとしては最高のレべルであったことは確かです。その点、ニュー・リズム・セクションはビート感覚が全く違い、ハード・バップ色は薄いものです。それは世代の違いからくる感性の違いとでもいうものなのか、ハード・バップというよりも、とにかく斬新なサウンドを感じさせるものです。この新メンバーを得たことで、マイルスの音楽が、やがて大きな発展を遂げることになる変化の過程が、このアルバムの中に感じられ、2種類のサウンドが聴ける、隠れた名盤と言えるでしょう。
March 25, 2007
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スケッチ・オブ・スペイン / マイルス・デイビスSketches Of Spain / Miles Davis 録音日:1959年11月15、20日(1)1960年3月10日(2)~(5)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Sony[パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp,flh)ギル・エヴァンス(arr,cond)その他、オーケストラ[収録曲]1.Concierto de Aranjuez アランフェス協奏曲 2.Will O' the Wisp ウィル・オ・ザ・ウィスプ 3.Pan Piper ザ・パン・パイパー 4.Saeta サエタ 5.Solea ソレア ----------このアルバムは、マイルス・デイヴィスが1959年から1960年にレコーディングしたもので、マイルスにとって初めてクラシック音楽とジャズの融合を考えた作品でした。マイルス・ディヴィスとギル・エヴァンスの共同作業は、『クールの誕生』のセッションなどで、1940年代から行われていました。そしてコロンビアでのコラボレーションは、1957年の『マイルス・アヘッド』を1作目として、1958年の『ポーギーとベス』の第2作でも絶妙なコンビネーションを聴かせました。 そうした過程を踏まえ、コラボレーション第3作として作られたのがこのアルバムです。マイルスは当時、スペイン音楽に強い関心を示していました。このアルバムの少し前にレコーディングした『カインド・オブ・ブルー』でもその傾向は見らましたが、ここでは本格的にスペイン音楽に取りくんでいます。16分余りにわたって演奏される冒頭の曲は、スペインの作曲家ロドリーゴの人気曲を、ギルの斬新なオーケストレーションで再構築した傑作です。木管楽器を多用したギル特有の深みのあるサウンドをバックに、マイルスが絶品のソロを聴かせるものです。3、4、5曲目はスペインを素材にしたギルのオリジナルです。ギルは、この作品を完成させるため、世界中の民族音楽を聴き、文献をさらったといいます。スペイン音楽というところにポイントが絞られているものの、この作品は、スパニッシュ・モードを使い、意図的にモード・ジャズを追求したものになりました。
March 24, 2007
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今夜は、JR島田駅の近くの『シェルブール』というお店でジャズ・ライヴを行いました。グランド・ピアノがあり、スペースもちょうどいい感じの、とてもステキなお店でした。ライヴに来られたお客様も、みなさん盛り上がってくださって、とても楽しかったです。50人ほどの集客数が超満員で、残念ながら入れなかった人も多かったと聞きました。これから定期的にやらせていただけるようなので、とても楽しみです。「シェルブールのほほ笑み姫さん」も、とてもステキな人で、このライヴの1か月ほど前に、偶然にもこの楽天ブログでお知り合いになれました。どうも、ありがとうございました。これからも、どうぞよろしくお願いします。♪シェルブールのほほ笑み姫さん♪
March 23, 2007
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ポーギー・アンド・ベス / マイルス・デイヴィスPorgy And Bess / Miles Davis発売日:1958年7月22日(3)、(4)、(9)1958年7月29日(2)、(8)、(10)、(11)1958年8月4日(1)、(6)、(7)1958年8月18日(5)、(12)、(13)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Sony[パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp,flh)ギル・エヴァンス(arr,cond)その他、オーケストラ[収録曲]1.Buzzard Song 禿鷹の歌2.Bess, You Is My Woman Now ベスよ、お前は俺のもの3.Gone ゴーン4.Gone, Gone, Gone ゴーン、ゴーン、ゴーン5.Summertime サマータイム 6.Oh Bess, Oh Where's My Bess? ベスよ、何処に7.Prayer (Oh Doctor Jesus) 祈り 8.Fisherman, Strawberry And Devil Crab 漁夫と苺と悪魔蟹9.My Man's Gone Now マイ・マンズ・ゴーン・ナウ 10.It Ain't Necessarily So ご自由に 11.Here Come De Honey Man ほら蜂蜜売りだよ 12.I Loves You, Porgy 愛するポーギー 13.There's A Boat That's Leaving Soon For New York ニューヨークへボートが ----------このアルバムは、マイルス・デイヴィスが1958年にギル・エヴァンスのアレンジにより、ガーシュウィン作のフォーク・オペラ『ポーギーとベス』の楽曲を扱った作品です。ジャズ史に残る大作になりました。マイルス・デイヴィスとギル・エヴァンス・オーケストラの共作、第2弾のものです。
March 23, 2007
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キャノンボールのアルバムが、なぜマイルスのアルバムなのかサムシン・エルス / キャノンボール・アダレイSomethin' Else / Cannonball Adderley 録音日:1958年3月9日録音場所:アメリカ、ニュージャージーレーベル:Blue Note[パーソネル]キャノンボール・アダレイ(as)マイルス・デイヴィス(tp)ハンク・ジョーンズ(p)サム・ジョーンズ(b)アート・ブレイキー(ds)[収録曲]1.Autumn Leaves 枯葉2.Love For Sale ラヴ・フォー・セイル3.Somethin' Else サムシン・エルス4.One For Daddy-O ワン・フォー・ダディ・オー5.Dancing In The Dark ダンシング・イン・ザ・ダーク----------このアルバムは、1958年に、マイルス・デイヴィス・バンドのメンバーのアルト・サックス奏者、キャノンボール・アダレイのリーダー作としてレコーディングされたものです。これは、ジャズの名盤として必ず取り上げられているものなので、ジャズ初心者が、かなりの確立で最初に手にするアルバムの一枚と言えるでしょう。しかし、そのときに、ほとんどの人は「なぜ?」という疑問が浮かぶことでしょう。それは、キャノンボール・アダレイのアルバムなのに、まるでマイルスのアルバムかのように紹介されているからです。しかも、ジャズ・ファンの間では、「キャノンボールのサムシン・エルス」ではなく、「マイルスのサムシン・エルス」と言われることのほうが普通なのです。それは、単にマイルスが参加しているからということだけではなく、マイルスのほうが有名だからということでもありません。このアルバムは実質的に、マイルス・デイヴィスのリーダー作だからです。マイルスは1952年から3年間、年に一度ブルーノートでレコーディングを行っています。これは、当時、麻薬により体調を悪化させたり仕事に穴を開けるなどをしたため、仕事を干されていたマイルスの窮状(きゅうじょう)を見かねたブルーノート・レーベルのオーナー、アルフレッド・ライオンの温情によるものでした。それが、1955年、マイルスはメジャー・レーベルであるコロンビアと契約を結んだため、ブルーノートでは、その後のレコーディングができなくなってしまいました。コロンビアで大スターになったマイルスでしたが、ライオンの好意を忘れず、いまや大人気のマイルスは、そのときのお礼として、自分はリーダーになれないものの、メンバーのキャノンボールをリーダーに仕立て、4年ぶりにブルーノートでの録音をしました。そんな、いきさつから作られたこのアルバムは、当時のマイルスのセクステットとは顔ぶれは違うものの、実質的にはマイルスのリーダー作と言えるものです。ブルーノートの倉庫に残されているマスター・テープのケースには、「マイルス・デイヴィスのセッション」と記載されているということです。マイルスのおかげで、このアルバムはキャノンボールの代表作になったばかりではなく、ブルーノートを代表する傑作として高く評価され、ジャズ史上に残る名盤の一つになりました。何といっても、マイルスのリリカルなトランペットが素晴らしいものですが、ほとんど同じ時期にレコーディングされた「マイルストーン」のモーダルな演奏とは違う、従来のハード・バップを主体にしたオーソドックスなサウンドが聴かれます。このアルバムの選曲にはキャノンボールの意見もあり、冒頭の曲「枯葉」は、彼のリクエストによるものだったと言います。ナット・キング・コールなどによりスタンダード・ナンバーになっていた曲ですが、この演奏は、ジャズの名演奏として支持され、広く知られるものになりました。これを機に多くのジャズ・ミュージシャンにより演奏されるジャズ・スタンダード・ナンバーになり、マイルス自身も、その後、何度もライヴで取り上げ、そのうちのいくつかはレコーディングされて世に残っています。2曲目も、コール・ポーター作のスタンダード・ナンバーを収録。そして3曲目のマイルス作のタイトル曲「サムシン・エルス」は、まさに“カッコイイ”というもの。マイルスは終生“カッコイイ”ことを追求し“カッコイイ”フレーズしか吹かなかったことが、この曲からもよくわかります。そんなことからも、このアルバムはジャズを代表する一枚と言えるでしょう。
March 22, 2007
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マイルストーンズ / マイルス・デイヴィスMilestones / Miles Davis 録音日:1958年2月4日(3)~(6)1958年3月4日(1)、(2)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Sony[パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp-omit[5])キャノンボール・アダレイ(as-omit[5])ジョン・コルトレーン(ts-omit[5])レッド・ガーランド(p)ポール・チェンバース(b)フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) [収録曲]1.Dr. Jeckle ドクター・ジャックル2.Sid's Ahead シッズ・アヘッド3.Two Bass Hit トゥー・ベース・ヒット4.Milestones マイルストーンズ5.Billy Boy ビリー・ボーイ6.Straight, No Chaser ストレイト、ノー・チェイサー----------これは、マイルス・デイヴィスが1958年にレコーディングしたアルバムです。テナー・サックス=ジョン・コルトレーン、ピアノ=レッド・ガーランド、ベース=ポール・チェンバース、ドラムス=フィリー・ジョー・ジョーンズという第一期黄金クインテット(5人編成)と称されるメンバーに、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイが加わってセクステット(6人編成)になりました。トランペット、アルト・サックス、テナー・サックスの3管効果でボリューム感が増したばかりでなく、キャノンボールが加わったことでスピード感も増した好演が聴かれます。この翌年にレコーディングされることになる歴史的名盤『カインド・オブ・ブルー』での、モード奏法の確立のための兆(きざ)しが見られる、マイルスの名盤の一つです。このアルバムは、全体を通して、これまでとは違ういくつかの変化が現れています。一つは全編を通して、マイルスがトランペットにミュートを用いずオープン・ホーンで吹いていること、もう一つは、リズム・セクションのみで演奏されている5曲目以外は、スタンダード・ナンバーが取り上げられていないということです。ミュート・プレイとスタンダード・ナンバーはマイルスのトレードマークとも言えるものだったので、それらがないということからも、このアルバムは、明らかに従来とは異なっているものです。そんなことからも、マイルスが新しいものを打ち出そうとしていることが伺えます。マイルスは別名「マイルストーンズ」と呼ばれていました。マイルス作のタイトル曲「マイルストーンズ」は、モード・イディオムの典型的な曲として、その後多くのミュージシャンに取り上げられ、マイルスの代表曲であると共に、ジャズ・スタンダード・ナンバーになっています。
March 21, 2007
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●クロスオーヴァーはフュージョン(Fusion)に改名●コンテンポラリー・ジャズの隆盛モダン・ジャズの衰退1960年代の後半より、電気楽器やロック的な奏法を取り入れた、新しい演奏スタイルのジャズが出現します。トランペット奏者のマイルス・デイヴィスが、1969年にアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ(In A Silent Way)』で、その新しいスタイルを模索し、1970年に発表したアルバム『ビッチェズ・ブリュー(Bitches Brew)』で、そのスタイルを完成させました。それは、1970年代中頃からは「ジャンルが交差して越える」という意味の「クロスオーヴァー(クロスオーバー)」と呼ばれ、こうしたマイルスのスタイルは、彼のバンドで活動したメンバー、いわゆるマイルス・スクールの卒業生たちによって、さらに広げられていくことになりました。サックスのウェイン・ショーターとキーボードのジョー・ザヴィヌルが1970年暮れに『ウェザー・リポート』を、キーボードのチック・コリアが1972年に『リターン・トゥ・フォーエヴァー』を、キーボードのハービー・ハンコックが1973年に『ヘッド・ハンターズ』を結成するというように、クロスオーヴァー・ジャズのグループが次々誕生していきます。ピアノ奏者は、アコースティック・ピアノからエレクトリック・ピアノやシンセサイザーといった、エレクトリック・キーボードを使うようになり、音色や奏法などに変化が見られましたが、同時に、ギターの分野にも変化が見られ、それまでのジャズ・ギター奏法よりも、よりロックっぽいエレキ・ギターの奏法が取り入れられ、ジョン・マクラフリン、リー・リトナー、ラリー・カールトン、スティーヴ・カーン、パット・メセニーといったギター奏者が人気を集めるようになったのも、そのジャズのスタイルが語る特徴と言えるでしょう。また、このシーンでは、デヴィッド・サンボーン、マイケル・ブレッカー、グローヴァー・ワシントン・ジュニア、ジャコ・パストリアス、スティーヴ・ガッド、ジョージ・ベンソンなどのスター・プレイヤーも生んできました。次々に、このようなスタイルのグループがジャズ・シーンの表舞台に出てくるようになりますが、1980年代に入ると、「ジャンルが交差して越える」という「クロスオーヴァー」という呼び方から、「他のジャンルと融合した音楽」として「フュージョン(Fusion)」という新たなジャンルで呼ばれるようになり、今まで「クロスオーヴァー」と呼ばれていたジャズ系ミュージシャンやグループは、さかのぼって「フュージョン」というジャンルの呼称に改名されるようになり、現在ではジャズのジャンルにおける「クロスオーヴァー」という名称は、事実上消滅した形になりました。1990年代より現在では、フュージョンから派生したもので、よりポップ性を持たせ、ソフィスティケイトされ、大衆により聴きやすくなった「スムーズ・ジャズ(Smooth Jazz)」というスタイルが、アメリカのラジオ局を中心に人気になっています。「フュージョン」は1960年代後半にリズム&ブルース、ソウルと融合した「ソウル・ジャズ」の表現から発し、ロックと融合した「ジャズ・ロック」、ファンクと融合した「ジャズ・ファンク」、CTIレーベルに代表される「イージーリスニング・ジャズ」、それら、すべてを包括したようなマイルス・デイヴィスの「エレクトリック・ジャズ」の表現であり、とにかく新しい感覚を自分の表現に加味しようとした好奇心豊かなプレイヤーたちの手によって、同世代のポップ・ミュージックと同じステージで受け入れられるものを求め、ジャズ・シーン全体がそうした方向へと進んでいくことが、商業的にも求められました。そのため、それまでのジャズの主流のスタイルだったモダン・ジャズは、ジャズ・シーンのみならず、音楽シーン全体の奥へと追いやられることになりました。アメリカの2大ランキング・チャートのうちの一つであるビルボードにおいては、「フュージョン」や「スムーズ・ジャズ」は、「現代風のジャズ」という意味の「コンテンポラリー・ジャズ(Contemporary Jazz)」に分類されており、ビバップ以降、フリー・ジャズまでの時期のジャズ・スタイルの「モダン・ジャズ」と区別しています。
March 20, 2007
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●マイルス・ミュージックの完成『ビッチェズ・ブリュー』フュージョンの誕生を告げる歴史的アルバムビッチェズ・ブリュー / マイルス・デイビスBitches Brew / Miles Davis録音日:1969年8月19日:ディスク1-2、ディスク2-2、4 1969年8月20日:ディスク2-3 1969年8月21日:ディスク1-1、ディスク2-1 1970年1月28日:ディスク2-5録音場所:アメリカ、ニューヨークオリジナル盤発売日:1970年4月(アメリカ)レーベル:Columbia [収録曲] ディスク:11.Pharaoh's Dance ファラオズ・ダンス2.Bitches Brew ビッチェズ・ブリューディスク:2 1.Spanish Key スパニッシュ・キー2.John McLaughlin ジョン・マクラフリン3.Miles Runs The Voodoo Down マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウン4.Sanctuary サンクチュアリ5.Feio フェイオ (ボーナス・トラック)[パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp)ウェイン・ショーター(ss)ベニー・モウピン(bcl)ジョー・ザヴィヌル(elp)チック・コリア(elp)ラリー・ヤング(elp)[D1-1][D2-1]ジョン・マクラフリン(elg)デイヴ・ホランド(b)ハーヴェイ・ブルックス(b)[D2-5]以外レニー・ホワイト(ds)[D2-3][D2-5]以外ジャック・デジョネット(ds)ドン・アライアス(ds,per)ビリー・コブハム(ds)[D2-5]ジム・ライリー(per)[D2-5]以外アイアート・モレイラ(per)[D2-5]----------これは、ジャズ史上に起こった「フュージョン誕生」のきっかけになったアルバムです。このアルバムが発表されたとき、それはものすごくショッキングな出来事だったことでしょう。『ビッチェズ・ブリュー』は、マイルス・デイヴィスが1970年に発表したアルバムで、これぞ、またしても、マイルスが今までのジャズの概念を覆(くつがえ)してしまった、ジャズの歴史的アルバムで、このアルバムが世に出た瞬間に一大センセーションを巻き起こし、その後の音楽に新しいジャンルのカテゴリーを作ってしまうことになるきっかけにもなるほど、ジャズのありかたをも変えてしまうことになる新しいサウンドでした。それは、ジャズというワクに収めておくことができないぐらいに飛躍したものであったため、ついに「ジャズをも超えた」とまで言われたものです。しかし、そのため、それまでのマイルスのファンや、ジャズ・ファンからは、「マイルスは気が狂った」とか「ジャズは死んだ」と大騒ぎになったことも事実です。サウンド的に今までのジャズと大きく違うところは、鍵盤楽器やギター、ベースなどはエレクトリック・タイプを使用することにより、いわゆるエレクトリック(電気)・サウンドというものになりました。そして、リズムは4(フォー)ビートというものはなく、8(エイト)ビートを基本に、複数のドラムにパーカッションを同時に多用していて、リズムの多元化(ポリリズム)というものを図(はか)っています。音楽ジャンルの話になると、音楽を聴くものの立場からすればどうでもよいことなのですが、ジャズの歴史的観点で見た場合に問題になるのは、これは今までのジャズと違うから、ジャズではないのでは?、ということがありますが、私は、これは立派にジャズであると思います。それは、この演奏は集団インプロヴィゼーション(即興)というべきものでできたもので、完成したサウンドは、この時の演奏メンバーですら予想がつかないものであったようです。マイルスの頭の中にだけは、ある程度の完成図が描かれてはいたものの、その全体像を把握しているのはマイルスだけであり、演奏は即興的に各パートが影響しながら、その場で展開していくといった、ジャズの最も本質的であるインプロヴィゼーションが、きわめて高いレベルによって行われた結果によるものだからです。リズムにしても、よりジャズの起源にもどったアフリカ的なビートになったものと言えます。マイルスには、すぐれた「トランペット奏者」という一面だけではなく、トータルな音楽表現を創造するという、すぐれた「サウンド・クリエイター」という面もあります。このアルバム『ビッチェズ・ブリュー』は、そうしたマイルスの、すぐれたアーティストという才能が見事に表現された傑作だと思います。このアルバムでのマイルスのトランペットの音自体、すばらしい響きを持っています。このアルバムの出現によって、後にフュージョンという新しい音楽ジャンルが誕生することになり、また、そのほかの音楽ジャンルにも大きな影響をもたらすことになりました。このサウンドがロック的であると思われたことから、ジャズとロックの融合ということで、当時ジャズ・ロックとも呼ばれました。これは、ジャズ史上に起こった「フュージョン革命」とも言うべきアルバムです。●ビッチェズ・ブリュー
March 19, 2007
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今日の昼間の仕事は『ベイサイド迎賓館 静岡』9時30分入り、1本。ファンだと言ってくれたプランナーの人が担当で、よろこんでもらえた。夜は『ジョージ・オーシャンビュー』。
March 18, 2007
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●クロスオーヴァー(Crossover)の誕生ロック、ソウル、ファンクなどとクロスしたジャズ1950年代末頃から、ジャズは商業的な危機をむかえます。その頃のジャズは、一般大衆には、わけのわからないフリー・ジャズの時期になっており、また、それは、ジャズが一番発展した芸術だとして評されていたときでもありました。そのため、若い聴衆は、ロックやソウル・ミュージックを好み、年輩のジャズ・ファンだった音楽マニアの層でさえ、あまりにも抽象的で粗野な感情表現のものも多くなったジャズから離れていきました。ジャズは芸術性が高いとはいえ、大衆には受け入れられないものになってしまいました。そのころ、海を渡っていった「ロックンロール」は、イギリスの小さな港町で「ビートルズ」というグループによって大きく育ち、「ロック」という巨大な存在になって逆輸入されてきました。こうした刺激を受けて、アメリカのロックは、より強いアイデンティティーの確立のため、フォーク・ソングやブルース、ジャズ、カントリー・アンド・ウェスタンといった、様々な音楽を見直す動きを見せるようになりました。こうした動きは、ロックに体制批判的な「思想」を付加することにもつながり、黒人の公民権運動は白人も含めた学生運動に発展し、批判的なメッセージを強めていったロックは、その運動の象徴になっていきました。そのころは、すでにラジオやテレビが広く普及し、レコードも量産されており、アメリカ国民の音楽に対する意識も変わってきているときで、「ロック」は体制批判の象徴として受け入れられ、「ロック」を聴くことは、その意思表示につながることになりました。そして、次第に大規模なロック・コンサートが行われるようになります。1967年にカリフォルニアで開かれたモンタレー・ポップ・フェスティヴァルには、3日間で、のべ5万人、1969年にニューヨーク郊外で開かれたウッドストック・フェスティヴァルには、30万人から50万人の聴衆が詰めかけたというような現象は、音楽の形態自体も変えていくことになりました。この現象は音楽に娯楽以上の意味をもたせ、送り手側だけではなく、受け手側も音楽を作り出すことに参加できることを示しました。こうした、大規模なフェスティヴァル形式のコンサートでは、大音量が出せるロックが大きな支持を得ることになりましたが、そのことは、ジャズのスタイルや方向性にも大きな影響を及ぼすことになります。もともと淫売屋の音楽として生まれてきたジャズは、その楽器自体はアコースティックなものであるため、エレキ・ギターやエレキ・ベースを、アンプによって電気的に音を増幅させることが前提で演奏されるロックとでは、その音量の差は歴然とするものになっていました。そこで、まず音量の点でロックに引けをとらないものであり、そのうえ、強力なインパクトを持った新しいジャズの出現が待ち望まれるようになっていました。1960年代、多くのファンにそっぽを向けられたジャズが人気を回復するために、ロックやソウルなどに誘発されて、ジャズ・ミュージシャンたちは様々なことをしました。ロックのリズムである8(エイト)ビートを取り入れたもの、ソウル・ミュージックやファンクが用いた16(シックスティーン)ビートを取り入れたもの、異文化の音楽に学ぶものなどが出現し、そうしたジャズの中には、そこそこ人気を得るものもありました。そして1970年4月、マイルス・デイヴィスがアルバム『ビッチェズ・ブリュー』を発表しました。これは、参加メンバー15人中の12人がリズム楽器で、さらに電気楽器を前面に押し出した、実に斬新な音楽で、人々に鮮烈な印象を与える衝撃的なものでした。このアルバムの音楽は、今までの「ジャズ」とは全く異なったものであったため、はたして、この音楽をジャズと言って良いものかどうかという物議をかもすことになりましたが、ジャズ界の帝王、マイルスの音楽ということで、ジャズの新しいスタイルとして受け入れられ、急速に音楽シーンに浸透することになりました。マイルスは、その年の8月に、イギリスのワイト島で開かれた大規模な野外コンサートに出演しました。ジミ・ヘンドリクスやスライ・アンド・ファミリー・ストーンや、白人のロック・グループに交じって、約30万人の観衆の前で演奏し、マイルスの、その新しいジャズは、ロックと同じステージで演奏できるものであることを示しました。こうしたマイルスのスタイルは、彼のバンドで活動したメンバー、いわゆるマイルス・スクールの卒業生たちによって、さらに広げられていくことになりました。サックスのウェイン・ショーターとキーボードのジョー・ザヴィヌルが1970年暮れに『ウェザー・リポート』を、キーボードのチック・コリアが1972年に『リターン・トゥ・フォーエヴァー』を、キーボードのハービー・ハンコックが1973年に『ヘッド・ハンターズ』を結成するというように、エレクトリック・サウンド(電化サウンド)を導入したバンドが次々と誕生し、ジャズのエレクトリック化は一気に広まりました。この新しいジャズは、ロック、ソウル、ファンクなどのあらゆる音楽が、ジャンルを越えて交差(クロス)したものということで、「クロスオーヴァー(Crossover)」(当時の表記はクロスオーバー)と呼ばれるようになり、1970年の後半から、ジャズ・シーンにクロスオーヴァー・ブームが起こることになります。さらに、クインシー・ジョーンズのような優れたサウンド・クリエーターによって、電気楽器の音がポピュラー音楽として広く大衆に受け入れられるレベルにまで達してくると、もはや、電気楽器を使う、使わないということを問題にすること自体が意味のないことになっていきました。今となっては、このマイルスの『ビッチェズ・ブリュー』はフュージョンという音楽スタイルの始まりとされ、これ以降のエレクトリック・ジャズはフュージョンの分類に入れられるようになりましたが、1970年代初頭、そのような言葉すらなく、この種の音楽はどこにカテゴライズしたらよいか、レコード販売側は困ったことでしょう。本来、これはジャズでもなくロックでもない、マイルス・ミュージックと言うべきものですが、マイルスなど、ジャズ・シーンからのミュージシャンたちが作ったものはジャズとして分類されていました。しかし、新しいグループであるアース・ウィンド・アンド・ファイアーなどが出現すると、そういうものには「クロスオーヴァー」という新しい名称が使われ出しました。そこから、1970年代中頃からは、この種のジャズも「ジャズ・クロスオーヴァー」と呼ばれるようになりました。そして、その後1980年代になってから「フュージョン」という名称が使われるようになっていきます。
March 18, 2007
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●ソウル・ミュージックとファンク1950年代中頃から台頭してきた新しいアメリカ音楽であるロックンロールは、その後、アメリカの音楽シーンの上位をしめる、大ブームになっていきました。またしても、黒人音楽であったリズム・アンド・ブルースを、ロックンロールとして白人にすっかり乗っ取られた形になった黒人音楽側では、1940年頃にジャズが白人に乗っ取られた形のスウィングへの反発から生まれたビバップ革命や、1950年代の後半のジャズがファンキー・ジャズになり、ソウル・ジャズへと向かっていくのと同じように、さらに黒人らしさを表現していく傾向を強めていきます。それは、その頃に黒人が強く意識するようになった「ソウル」という言葉へとシンクロし、黒人音楽シーン全体を「ソウル・ミュージック(Soul Music)」の方向へと導くことになります。1959年に設立されたレコード会社「モータウン」は、黒人らしさを前面に押し出した音楽制作を行いました。1960年代には200曲近いヒット曲をアメリカのポップ・チャートに送り込み、「リズム・アンド・ブルース」は「ソウル・ミュージック」として、息を吹き返しました。そして、1960年代末頃、ソウル・ミュージックと同じ系統の黒人音楽の中から、16(シックス・ティーン)ビートのリズムとフレーズの反復を多用し、分厚くうねるベース・ライン、鋭いリズム・ギター、強いリズムのホーン・セクションなどで、ロックのリズムとは違う、より強烈に黒人らしいリズムを強調したものが、もともとジャズから生まれて定着した「ファンキー」という言葉で表現され、それは、黒人音楽を象徴する音楽ジャンルとして「ファンク(Funk)」と呼ばれるようになります。「ファンク」は、白人にも受け入れられるようなロックの要素も取り入れ、ブームになり、音楽シーン全体に影響を及ぼすほど大きな存在になっていきました。
March 17, 2007
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●ロックンロールの台頭1930年から1950年代前半までのヒットチャートには、ジャズ関係の歌手が名を連ねることも多かったのですが、それ以降になるとジャズ以外の音楽がチャートをしめ、ジャズ関連の音楽は、めっきり人気がなくなってしまいました。1954年に、ニューヨークのラジオ放送局で始まった新しい音楽番組は、あっという間に、聴取率1位になる人気番組になりました。それは「ロックンロール・パーティー」という名前の音楽番組でした。この番組の白人DJ(ディスク・ジョッキー)だったアラン・フリードは、それまでの数年、地方局で黒人音楽ばかりをかける番組を担当していた人物でした。それが、10代の若者層に圧倒的な支持を得たためにニューヨークのラジオ局に引き抜かれたのでした。フリードが興味を持っていたのは、黒人教会音楽のゴスペルと黒人労働歌であるブルースが融合して生まれたリズム・アンド・ブルース(R&B)という音楽でしたが、彼は差別的な意味合いを含むブルースという言葉を使うことを嫌い、「ロックンロール(Rock 'n' Roll)」という言葉を作り出しました。そして、このラジオ番組「ロックンロール・パーティー」が全米で話題になると、音楽業界もそれに乗り、ポピュラー音楽にリズム・アンド・ブルースの要素を取り入れるようになりました。1955年に公開映画『暴力教室』に使われた、ロックンロール・ミュージックであるビルヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットし、一挙に「ロックンロール」はアメリカ音楽界に認知されることになりました。そして、その後、エルヴィス・プレスリーという大スターの出現により、一斉を風靡する大ブームになります。リズム・アンド・ブルースから生まれた「ロックンロール」は、ジャズと同じルーツを持ちながら、ジャズとはまったく違う音楽として成長していきました。その最大の相違点は、ロックンロールはリズム・アンド・ブルースをポピュラー化するため、白人を中心に支持されていたカントリー・アンド・ウェスタンの要素を多く取り込んだ点です。要するに、黒人特有のリズム感を、白人にもわかりやすい、単純なリズムに変えることによって、「ロックンロール」は、一般大衆へと受け入れられ、大きく浸透することになりました。そして、「ロックンロール」はジャズに変わり、次世代のアメリカを代表する国民的音楽である「ロック(Rock)」に発展する基盤となりました。----------【参考】ロックンロール(Rock 'n' Roll)ロックンロールは、1950年代中頃に現れたアメリカの大衆音楽スタイルの呼称。語源については「rock(揺らす)」と「roll(転がす)」で、音楽的な躍動感という意味から生まれた、「ロック・アンド・ロール(Rock And Roll)」からということで説明されますが、本来はアメリカ英語の黒人スラングで、「性交」「交合」の意味で使われていたと言います。それをディスク・ジョッキー(DJ)のアラン・フリードが、ラジオ番組で定着させた言葉です。そして、その後、ロックンロールの略語として「ロック(Rock)」という言葉が生まれます。ロックという略語はロックンロール黎明期からしばしば用いられていましたが、1960年代にはロックという呼び方が一般化し、ロックンロールと呼ぶことは少なくなります。但し、アメリカでは現在もバンドサウンドであるロックのことを指して、総じてロックンロールという言葉を用いることがあります。ロックンロールの音楽的特徴としては、リズム・アンド・ブルースで使われていた、ほぼ均等なエイト・ビートや、シャッフルのビート、ブルースのコード進行や音階(スケール)を応用した楽曲構成を基に、カントリー・アンド・ウェスタンのスタイルを混じり合わせた音楽とされます。楽器編成としては、エレキ・ギター、エレキ・ベース、ドラムスという構成が代表的ですが、エレキ・ギターの代わりにアコースティック・ギターを使う場合や、ピアノを主体にする場合、エレキ・ベースの代わりにアコースティック・ベースを使う場合、ドラムスを使わないことや、サックスやオルガンを加えることもあり、楽器編成は多彩です。そのことは、ロックンロールという音楽が様々な音楽スタイルをルーツとしていることを示しています。なお、白人ミュージシャンによるロックンロールの中でも、特にカントリー・アンド・ウェスタンの要素が強いものを「ロカビリー」と呼びますが、実際には1950年代のロックンロールのうち、白人が演奏したものの大部分がロカビリーであり、そのため、「ロカビリー」と「1950年代のロックンロール」は同義語として使われます。
March 16, 2007
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チャーリー・パーカーは、「モダン・ジャズの創始者」とか「ビバップの創始者」などと呼ばれますが、彼は、真の意味でのジャズの革新者(イノベーター)だと言えます。パーカーはカンザスシティで育ち、ニューヨークに出てきて、ハーレムにあった「ミントンズ・プレイハウス」などの店のアフター・アワーズ・セッションで、ジャズを革新させたビバップを生み出しました。彼は「ビバップとは中西部のビートにニューヨークのスピードが加わって生まれたものだ」と言っています。彼の演奏が革新的だったのは、スタンダード・ナンバーと同じコード進行の曲を演奏するときでも、メロディーをまったく変えてしまったり、三連譜やオフ・ビートを多用し、スピード・アップをするなど、さまざまな点においてジャズを抽象化しました。パーカーは、従来のジャズにはなかった、これらのものを創造したため、「ジャズの革命者、革新者」と呼ばれるようになりました。パーカーに協力したり共鳴したミュージシャンは、ディジー・ガレスピー、ケニー・クラーク、セロニアス・モンク、チャーリー・クリスチャンなどです。さらに、もう一つ、パーカーがジャズの革新者であると言える重要なことは、精神面でもジャズの精神を革新したということです。彼は、「真実の心を持って演奏しなければ、楽器の真の響きを出すことができない」と言い、パーカーの有名な言葉として語り継がれていますが、「ジャズは人間の生き方そのものである」と、はっきり言い切ったジャズ・ミュージシャンは、パーカーが初めてでした。哲学的意識を持った芸術の精神をジャズに注ぎ込んだという点で、パーカーはジャズの精神の革新者とも言えるのです。酒と女と麻薬に明け暮れ、デカダンス(退廃的芸術至上主義)で奔放な生き方に徹したパーカーだったからこそ、真のジャズの革新者となり得たのでしょう。
March 15, 2007
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チャーリー・バーカーは“バード”というニックネームで呼ばれていました。1949年12月のクリスマスを迎える前の週に、ニューヨーク52丁目に開店したジャズ・クラブ「バードランド」は、パーカーの呼び名をそのままつけたもので、文字通り、ジャズの発信地として世界的に知られることになりました。店の名前に使われるほど“バード”の名前は有名な名前になっていたというわけです。この店をテーマにしたジョージ・シアリングの「バードランドの子守唄(Lullaby Of Birdland)や、ウェザー・リポートの「バードランド(Birdland)」といった曲もあります。1988年製作のクリント・イーストウッド監督の映画『バード』は、チャーリー・パーカーの生涯を描いたものです。しかし、なぜ“バード”になったのかは諸説あり、はっきりしたことはわかりません。彼の鳥が飛ぶような華麗な演奏から“バード”というニックネームがついたと聞いたことがありますが、これはどうも単なる憶測にすぎず、真実からほど遠いもののようです。パーカーに“バード”というニックネームがつけられたのは、彼がジェイ・マクシャン楽団に在籍していた1928年から1942年までの時期です。ある新聞記事では、パーカーは彼の名前が時間をかけて、「チャーリー」から「ヤーリー」になり、「ヤール」になり、「ヤードバード」、そして「バード」になったと説明しているものがあったそうです。しかし、ジェイ・マクシャンは、パーカーのニックネームについて次のように語っています。ジェイ・マクシャン楽団は、大学での演奏をするためにネブラスカ州のリンカーンに向かう途中、バンドの車の一台が路上でニワトリをひきました。するとパーカーは引き返して、その「ヤードバード」を拾い、後で夕食に調理しようと主張し、ホテルに持っていき調理させたことがあったと言います。また、パーカーはレストランに入ると、きまって食べたのがチキン料理で、それも「このヤードバードをもらおうか」と注文していたところから、とうとう“ヤードバード”という名前がつけられ、後に“ヤード”とか“バード”と縮められましたが、“バード”が定着したようだと言います。「ヤード(yard)」とは「囲った土地」とか「庭」で「ニワトリなどの囲い」のことを言い、「ヤードバード」とはそういう場所で飼われている鳥、いわゆる庭の鳥で、「ニワトリ」のことを指します。俗に「囚人」の意味もあるようです。ほかにも、パーカーがレストランでアルバイトをしていたことがあり、そのとき店でチキンが食べられたので、おそろしくたくさん食べたという話が伝えられており、パーカーは、そうとうのチキン料理好きだったことがうかがえます。しかし、パーカーのこの有名なニックネームの由来を正確にたどるのは難しいようです。ともあれ、“バード”というニックネームは、その後パーカーの生涯についてまわることになりました。パーカーは、1946年に「ヤードバード組曲(Yardbird Suite)」という曲を書いています。
March 14, 2007
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Bird / Charlie Parker [Original Motion Picture Soundtrack]バード / チャーリー・パーカー(オリジナル・サウンドトラック)1.Lester Leaps In レスター・リープス・イン 2.I Can’t Believe That You’re In Love With Me アイ・キャント・ビリーブ・ユーアー・イン・ラブ・ウィズ・ミー 3.Raura ローラ 4.All Of Me オール・オブ・ミー 5.This Time The Dream’s On Me ディス・タイム・ザ・ドリームス・オン・ミー 6.Ko Ko コ・コ 7.Cool Blues クール・ブルース 8.April In Paris パリの4月 9.Now’s The Time ナウズ・ザ・タイム 10.Ornithology オーニソロジー 11.Parker’s Mood パーカーズ・ムード Charlie Parker(as)Charles Mcpherson(as)Jon Faddis(tp)Barry Harris(p)Monty Alexander(p)Walter Davis Jr.(p)Ray Brown(b)Ron Carter(b)Chuck Berghofer(b)John Guerin(ds)----------ビバップ革命を起こし、モダン・ジャズを創った人物、チャーリー・パーカー。彼の破天荒な生涯を、クリント・イーストウッド監督により1988年に映画化された『バード』。そのサウンドトラックの演奏は、1940年代、生前のパーカー・グループの演奏からサックスの音だけを抜き出し、1988年の新しいリズム・セクションの演奏と合成させたもので、パーカーの音は本物です。中でも「ローラ」は新たに演奏を引き伸ばし、オーケストラの時間をストップウォッチで計り、パーカーの吹いているコードに一致するようにストリングス・アンサンブルを書き換え、オリジナルのルンバをボサノヴァに近いリズムに換えているというものです。主演のフォレスト・ウィッテカーは演技の中でも実際にサックスを吹いていますが、この「ローラ」を演じ吹き終わったとき、音楽のあまりの美しさに感極まって思わず涙が流れたと言います。また、貴重なものに、パーカーが一度もレコード化していない曲が2曲含まれています。それは、ある日、パーカーが友人の伝説的なピアニスト、レニー・トリスターノの持っていた初期のテープ・レコーダーで録音した、「アイ・キャント・ビリーブ・ユーアー・イン・ラブ・ウィズ・ミー」と「オール・オブ・ミー」。このとき、ケニー・クラークが陰で、電話帳をブラシで叩きながらリズムを刻んでいたと言います。1988年度アカデミー賞録音賞受賞。ゴールデングローブ賞監督賞受賞。カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞。
March 13, 2007
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モダン・ジャズを創った人物が死んだ日●チャーリー・パーカー↓ジャズの歴史(その19)
March 12, 2007
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今日の昼間の仕事は『ベイサイド迎賓館 静岡』9時30分入り、2本。夜はそのまま『ジョージ・オーシャンビュー』へ。計3本20時からの1ステージ目に間に合った。今日は、ベイサイドで司会の方に「プロの方にこう言うのもなんですが、お上手ですね」と言われて驚いた。聴いていないようで、けっこう聴いているものなんだ。ブライダル・ピアニストは、Jポップを譜面でやっているだけの人が多くジャズ・ピアニストはいないようだ、ぜんぜん感じが違うと言う。ジャズはJポップなどとは雰囲気が違って、格調が上がると言われてうれしかった。その方は、ジャズがすっかり気に入ったようだ。ジャズ・ピアノのCDがほしくなったとおっしゃっていた。ジャズを身近に感じてもらえるとうれしい。
March 11, 2007
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●現在につながるジャズ・ピアノ・スタイルビル・エヴァンス、マッコイ・タイナー、セシル・テイラージャズは、それまでのバップ・スタイルのコード進行にそって行う即興演奏を、より開放的に自由にしたいということから、古いローマの教会旋法のモード手法を導入したモーダルなスタイルのモード・ジャズが生まれました。マイルス・デイヴィスがその先駆的なレコーディングを行いましたが、そのレコーディングにも参加したジョン・コルトレーンが独立し、マイルスと共に、モード・ジャズを開拓、発展させていきました。ピアニストでは、同じくマイルスとレコーディングを共にしたビル・エヴァンスが、モーダルなピアノ・スタイルの先駆を切っていきました。彼は、それと共に、独自のハーモニーを構築し、バップ以来の革新的なジャズ・ピアノ・スタイルを生み出し、さらに自己のトリオにおいて、「インタープレイ」と称する三者が緊密に一体化して対話する演奏を展開し、ピアノ・トリオ・フォーマットによる演奏スタイルに新しい境地を切り開きました。また、コルトレーンのグループで活躍したピアニストのマッコイ・タイナーは、コルトレーンのモード奏法に対応すべく、特徴的な4度重ねの和音などを用いて、独自のスタイルを築き上げました。この同時期に登場したピアニストのセシル・テイラーは、伝統的なジャズ・ピアノ・スタイルに加えて、西洋の古典や現代音楽にも通じたうえで、独創的な即興演奏を行いました。その演奏は、いわゆるフリー・ジャズと呼ばれる、音楽的な制約を取り払った自由なスタイルで、極度のパーカッシヴな鍵盤打法はもちろんのこと、ピアノの弦を直接かき鳴らすことや、鍵盤へのひじ打ちといった、楽器のあらゆる面を活用する演奏を行いました。この三人のピアニストは、1960年代前半に、そのスタイルを明確に表現し、後に続くハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットといった、ニュー・エイジのピアニストたちに多大な影響を及ぼす、重要な存在になりました。
March 11, 2007
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今日の昼間の仕事は『ベイサイド迎賓館 静岡』9時30分入り、2本。プランナーの方に大変気に入ってもらえ、ファンだとまで言ってくださったのがうれしかった。
March 10, 2007
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●新主流派ジャズ(New Mainstream Jazz)モード・ジャズは新主流派ジャズに1958年にリリースされたアルバム『カインド・オブ・ブルー』によって、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、ジョン・コルトレーンたちが示した『モード・ジャズ』は、マイルス自身にとっても、エヴァンス、コルトレーンらにとっても、それぞれの音楽を推し進めていくための重要なきっかけになりました。あまり多くの音符を使うことのなかったマイルス・デイヴィスのアドリブ・プレイが、モード手法を用いることによって、いっそう洗練された響きをもつようになりました。ビル・エヴァンスも、モーダルなピアノ演奏の先駆を切って独自のスタイルを築いていきました。一方、多くの音符を使って複雑なフレーズを吹いていたジョン・コルトレーンは、神業的なテクニックでスケールを使い分け、独自のスタイルでモード・ジャズを推し進め、1960年代中頃からは『フリー・ジャズ』へと進んでいきました。1960年代のジャズは、ハード・バップから生まれたファンキー・ジャズと、リズム&ブルースが融合した『ソウル・ジャズ』と、自由さを熱狂的に表現した『フリー・ジャズ』との2本柱になっていました。『モード・ジャズ』を示したマイルス・デイヴィスは、1960年代半ば(1964年)、テナー・サックスのウエイン・ショーターを迎え、ピアノのハービー・ハンコック、ベースのロン・カーター、ドラムスのトニー・ウィリアムスとクインテットを結成し、新たな方向を試みます。そしてこのクインテットによる演奏は、ハード・バップやモード・ジャズの良いところを取り入れ、また、フリー・ジャズの影響を受けながらも、マイルス流のフリー・ジャズとして、いわゆる理解し難い音楽とも異なるスタイルを作っていきました。そして、1960年代中頃から、後にマイルス・スクールの優秀な卒業生としてジャズ界を担っていくことになる、ハービー・ハンコックやウエイン・ショーターを筆頭に、フレディ・ハバード、ジョー・ヘンダーソン、マッコイ・タイナーなど、多くのジャズ・ミュージシャンがモード手法を展開していきました。このような、ハード・バップを推し進めたモード・ジャズをベースにクールでモダンな響きをもった、当時の斬新なスタイルのジャズを『新主流派ジャズ』と呼ぶようになりました。どうして今まで英語できたジャズのスタイルが、ここにきて日本語で「新主流」と呼ばれるようになったのかというと、もともとは、1966年頃、マイルス・クインテットのこの新しいスタイルのモード・ジャズのことを、アイラ・ギトラーが「New Mainstream Jazz(ニュー・メインストリーム・ジャズ」と名づけたことから、それを日本の音楽業界が日本語に当てはめた訳語が『新主流派ジャズ』だということです。この『新主流派ジャズ』は現在に至るまで、ジャズのメインストリーム(主流派)・ジャズとも言えるスタイルで、ここにジャズの発展における一つの完成形を見ることができます。
March 10, 2007
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●ソウル・ジャズ(Soul Jazz)ファンキー・ジャズはソウル・ジャズに・・・ジャズから始まったソウル・ミュージック1960年代初期の黒人ジャズ・ミュージシャンたちは、自分たちの音楽が白人の支配階級に乗っ取られていると感じていました。彼らの目から見れば、歴史は繰り返しているのです。つまり、黒人がラグタイムを作ると、白人がそれを盗んで巨万の富を得ました。黒人がビッグ・バンド・ジャズを作ると、白人はそれを盗み、スウィングと名前を変えてまた巨大な利益をあげました。ビバップやクール・ジャズも白人興行主が乗っ取り、好き勝手に商品化しました。どういうものを作るか、誰にレコーディングさせるか、どこに出演させるか、それらは完全に白人たちの胸先三寸にありました。要するに興行の場、マーケットは彼らの手中であったということです。そういう商売の仕方で得をしたのは白人ミュージシャンで、割に合わない目をみたのは黒人ミュージシャンでした。それは人気投票を見れば明らかで、ずうっと昔から変わらないことでした。黒人の目から見ると、同様な状況は他の分野にも存在します。そこで黒人たちは、アメリカ社会における自分たちの立場を考えだしました。黒人の意識の高まりは、自分たちの視点からそれを再評価しようとする動きが起こります。「黒人はこれまで何をしてきたか。」「差別廃止とは何か。」「それが黒人たちにとって伝統・習慣を捨てさせることで、その代わりに白人の意味のない伝統・習慣を押し付けることならば、統合とは一体何なのか。」「それでは何の解決にもならないのではないか。」黒人たちは自分たちの価値を見直し始めました。そして、一つの人種として自分たちが伝承したものをもっと良く理解しようとし、目を祖先の地、アフリカへ向けたのです。その結果、自分たちの一番大切なものは、「ソウル(魂)」だということを発見しました。この言葉「ソウル」は次第に広い意味で使われることになります。そして「ソウル」は、黒人であるということのアイデンティティーを意味するようになりました。ソウル・ブラザー、ソウル・シスター、ソウル・フード(食べ物)・・・、ソウルという概念は黒人社会のすみずみにまで浸透し、この時代の音楽にもはっきりと表現されたのです。それまで黒人音楽は、白人の音楽ビジネスの都合により細かくカテゴリー別に分割されていましたが、ここで、それらが緊密に結び合います。多才なピアニストでシンガーであるレイ・チャールズは、ビバップを弾き、リズム&ブルースを魂から歌いました。そして、同時に、この二つを結びつけました。ハーモニーとメロディーが複雑化したビバップと、黒人霊歌、ブルース、ゴスペルといった黒人のルーツに根ざした音楽、リズム&ブルース、この二つを結びつけたレイ・チャールズの音楽は、ジャンルを問わず多くの人の魂に訴えかけました。そのため、彼の影響はあらゆるジャンルの黒人音楽に見られます。こうして『ソウル・ミュージック』は生まれました。1950年代、強い黒人意識を表現した『ファンキー・ジャズ』は、1960年代には『ソウル・ジャズ』へと発展し、多くの支持を受けました。昔の黒人音楽をルーツに、その上に新しい黒人音楽を築いたそのジャズは、「ポスト・バップ」と「ネオ・ゴスペル」のスタイルと言えるでしょう。この頃、ジャズ・ピアニストはエレクトリック・オルガン(電子オルガン)に転向し、ベースもエレクトリック・ベースの使用が目立ちます。そして、ゴスペル、ブルース的要素を発展させたジャズを開拓していきました。代表的なミュージシャンはオルガン奏者のジミー・スミス、シャーリー・スコット、マーロー・モリス、リチャード・グルーブ・ホルムズ、ベイビー・フェイス・ウィレット、レオン・スペンサー、サックス奏者のルー・ドナルドソン、エディ・ハリスなど。ゴスペルに影響を受け、教会の外に向けて発せられたジャズが、こうして歩み始めました。1970年初頭の『ニュー・ソウル』の誕生は、『ソウル・ジャズ』がなくしては起こり得なかったことでしょう。『ソウル・ジャズ』は、この後の『フュージョン』の隆盛と共に、1970年代中期には、その中に吸収されることになります。
March 9, 2007
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●ボサノヴァ(Bossa Nova)ブラジルの新しい音楽がジャズと融合1950年後期、ブラジルでは、ボサノヴァという新しいスタイルのポピュラー音楽が誕生しました。ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ビニシウス・モライスといった人たちが、そのスタイルを確立し、ブラジルのミュージシャンたちがそれに続きました。独特の心地よいビート感にシンプルで、しゃれたメロディー、洗練されたコード進行の、ブラジルの新しいスタイルの音楽、ボサノヴァは、アメリカのジャズ・ミュージシャンを通じて世界に広く知られることになります。1960年代の初頭にブラジルと接点を持ったギター奏者のチャーリー・バードやフルート奏者のハービー・マンが、最初にボサノヴァ・テイストをアメリカに持ち込みました。そして、1962年にチャーリー・バードとサックス奏者のスタン・ゲッツとによって、アルバム『ジャズ・サンバ』が作られ、アメリカでもボサノヴァという音楽が、にわかに注目されるようになります。その翌年の1963年、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、アストラット・ジルベルトら、ブラジルのミュージシャンがアメリカに渡り、スタン・ゲッツとアルバム『ゲッツ=ジルベルト』がリリースされ、その中のシングル盤「イパネマの娘」が大ヒットし、ボサノヴァ・ブームは一気に高まりました。キャノンボール・アダレイ、ポール・ウインター、カル・ジェイダー、ポール・ディスモンド等ボサノヴァの要素を取り入れようとするアメリカのジャズ関係者が次々と続き、アメリカのジャズとボサノヴァは切っても切れない関係になります。また、アントニオ・カルロス・ジョビン、セルジオ・メンデス、エウミール・デオダート、モアシール・サントス、アイアート・モレイラなど、ブラジル側からアメリカの音楽シーンに進出したミュージシャンも見られました。1960年代初期にボサノヴァはジャズと融合し、ボサノヴァ・ナンバーがブームになりスタンダード化しましたが、ジャズでいうボサノヴァとは純粋なブラジルのボサノヴァではなく、あくまでもアメリカ・ジャズのフィルターがかかったものです。そして、ボサノヴァはブームが終わっても、同じブラジル音楽のサンバと共に、ジャズの重要なリズム・スタイルの一つとして残り、現在は一般化しています。また、以後ボサノヴァはジャズの世界にとどまらず、ポップスの世界においても、現在、重要な音楽的要素として定着しています。
March 8, 2007
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●フリー・ジャズ(Free Jazz)より自由を求めたジャズの出現1940年代以降の、ビバップやハード・バップといったバップ・スタイルのジャズは、コード(和音)進行に基づいたアドリブを行うスタイルで一つの完成形を作り上げました。そんな中で、1950年代半ばより、ジョージ・ラッセルや、マイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンス、ビル・エヴァンスらによって、コード進行にとらわれない、もっと自由なアドリブを行うことが研究され、1959年にレコーディングし、リリースされたマイルス・デイヴィスのアルバム『カオンド・オブ・ブルー(kind Of Blue)』で、具体的な形として提示されました。そして、それは『モード・ジャズ』と呼ばれ、新しいジャズのスタイルになりました。また、それと同じ頃、アルト・サックス奏者のオーネット・コールマンは、「コード(和音)そのものを否定することで、コードそのものに縛られない自由な演奏ができる」と考え、ジャズ的なスウィング感を保持しながらも、それまでのジャズの音階にとらわれない音符を並べることを研究し、1959年に、ピアノやギターなどの和音楽器なしで演奏したアルバム『ザ・シェイプ・オブ・ジャズ・トゥ・カム(邦題:ジャズ来るべきもの)』を発表します。このアルバムは当時のジャズシーンに衝撃を与え、大論争を引き起こし、ビバップ以来のジャズ革命とも言われました。彼は、それを『フリー・ジャズ(Free Jazz)』と呼び、インプロヴィゼーションの表現を広げる方法として、それまでの調性やリズムにとらわれない、より自由なスタイルのジャズとして提示しました。この時代の人種問題に対する怒りやベトナム戦争の激化などによる社会的ないらだちを背景に、社会運動の「自由」とジャズの表現そのものの「自由」とが連動するかのように過激性を帯びて、フリー・ジャズは1960年代の半ばから、アメリカのジャズシーンに浸透していきました。日本では、フリー・ジャズのことを『前衛ジャズ』と呼ぶこともあります。テナー・サックス奏者のアルバート・アイラーは、オーネット・コールマンの「フリー」の解釈をさらに広げ、メロディー、リズム、ハーモニーという音楽の三要素のすべてを無視して、感情のおもむくままの演奏を優先させる、形のない音楽へ向かっていきました。ピアノ奏者のセシル・テイラーは、クラシックの現代音楽のテクニックを、黒人音楽としてのジャズの中に生かそうとする試みを行います。それは無調性な音楽という中に、極度なパーカッシヴな打法や、ピアノの弦を直接かきならしたり、鍵盤のひじ打ちなどといった、楽器のあらゆる面を活用するプレイで表現しました。即興演奏という考え方を極限まで推し進めたテナー・サックス奏者のジョン・コルトレーンは、マイルス・デイヴィスの提唱したモード手法を用いたモード・ジャズを行っていましたが、この時代にフリー・フォームの演奏へと踏み出します。そして、それはフリー・ジャズというスタイルそのものさえも乗り越えようとするかのような、壮絶きわまりないものへ進んでいきました。そんなコルトレーンのプレイに共感するミュージシャンは数多く、中でも、アーチー・シェップ、ファラオ・ダンサーズ、マリオン・ブラウンなどは、まさにコルトレーンに追随するような形で、それぞれの音楽を発展させていきました。なお、サックスの絶叫奏法ともいうべき、叫ぶような音のことを「フリーキー・トーン」などと言い、この流れの中で出てきた演奏法です。1970年代以降、フリー・ジャズはポスト・フリーという時代になり、それまでのフリー・ジャズが、ただ既成の概念を否定していたのに対し、既成の概念を否定しつつ新しい秩序を模索するという試みが始まりました。そして一度否定されたコードやモードを、新しい秩序の中で利用する演奏が行われるようになります。
March 7, 2007
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六星占術運命星:金星人(-)霊合星:該当する十二支:酉金星人の基本的性格:明るく行動的な自由主義者。家庭運:家庭に落ちつかず、奔放な愛に生きる。お互い干渉しない方向を強く望む。財運:金は溜まるが、散財も多い。適職:派手で華やかで行動的な職業。性傾向:自由恋愛。結婚のような古典的な事より、奔放な性に走る。金星人の有名人渡辺謙篠山紀信瀬戸内寂聴
March 6, 2007
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●ジャズの新しい方向を示した『カインド・オブ・ブルー』カインド・オブ・ブルー / マイルス・デイヴィスKind 0f Blue / Miles Davis録音日:1959年3月2日(1~3)1959年4月22日(4、5)録音場所:アメリカ、ニューヨークレーベル:Columbia(コロンビア)[収録曲] 1.So What ソー・ホワット2.Freddie Freeloader フレディ・フリーローダー3.Blue In Green ブルー・イン・グリーン 4.All Blues オール・ブルース5.Flamenco Sketches フラメンコ・スケッチ [パーソネル]マイルス・デイヴィス(tp)ジョン・コルトレーン(ts)キャノンボール・アダレイ(as)[3]以外ビル・エヴァンス(p)[2]以外ウイントン・ケリー(p)[2]ポール・チェンバース(b)ジミー・コブ(ds) ----------1950年代末、それまでジャズの中心的な演奏スタイルだったハード・バップから、トランペット奏者のマイルス・デイヴィスなどの手によって新しいジャズの演奏スタイルが試みられるようになり、1959年に発表されたマイルス・デイヴィスのアルバム『カインド・オブ・ブルー(Kind 0f Blue)』が、それを確立したものとされました。そして、この革新的スタイルのジャズは『モード・ジャズ(Mode Jazz)』と呼ばれるようになります。これは、マイルス・デイヴィスが『モード・ジャズ』を具体的に提示したアルバムということで、1960年代以降のジャズの行方を決定するほどの大きな影響を及ぼすことになる、ジャズ史上に起こった「モード革命」を記録した重要な歴史的アルバムです。これにより、マイルス・デイヴィスは完全にジャズ界におけるリーダーに君臨することになります。それまでのジャズは、「すべてルイ・アームストロングに始まって、レスター・ヤング、コールマン・ホーキンスを経て、そしてチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーにつながる一本の線の上から生まれたものだった。」と、マイルスは自伝で語っています。当然、マイルス自身のそれまでの名作と言われるアルバム、『クールの誕生』や『バグズ・グルーヴ』も、それらと同じ線上のもので、もとにあったものをマイルス流に発展させたものでした。マイルス・デイヴィスは、それまでの演奏スタイルからの脱出を考えていたところ、それを実現するアイディアとしてモードという概念に着目したのでした。それを最初にアルバムの中で試みたのが、このアルバムのちょうど1年前の1958年の春にレコーディングされた『マイルストーンズ』でした。そして、それをさらに発展させて、より高いレベルで作り上げたのが、1959年春にレコーディングされたアルバム『カオンド・オブ・ブルー』で、ここに『モード・ジャズ』のスタイルが完成したというわけです。しかし、これはマイルス一人だけでは音楽として完成させることはできなかったでしょう。そこには、このアイディアを理解して発展させることのできるメンバーが必要でした。このアルバムでは、テナー・サックスのジョン・コルトレーン、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイ、そして、ピアノにはビル・エヴァンスという有能な人材を得たために、モード・ジャズの誕生に成功したと言えるでしょう。このアルバムの制作にあたって、ビル・エヴァンスの存在は大きいもので、ここではマイルスの作曲になっていますが、実質的にはエヴァンスが作曲した曲、「ブルー・イン・グリーン」を提供し、「フラメンコ・スケッチ」ではエヴァンスのアルバム『エヴリバディ・ディグズ・ビル・エヴァンス』に収録の曲、「ピース・ピース」を発展させたものだと思われるなど、多分にビル・エヴァンスのアイディアが表現されているということが伺われます。マイルスはもうひとつ、このアルバムで試みた新しい方法がありました。それは、曲のテーマを全部譜面にすることをしないで、5小節程度のスケッチだけ書いてスタジオに入ったと言います。メンバーそれぞれのスポンティニアス(自然発生的)な、完全なインプロヴィゼーション(即興)がほしかったからというもので、たとえば、「オール・ブルース」という曲は、マイルスが子供のころに聴いたゴスペルのサウンドが耳によみがえってきたものを元に、スケッチしたモチーフを全員でインプロヴァイズした結果誕生した曲だと言います。それに、一曲目の「ソー・ホワット」は、「だからどうなんだ」というマイルスの口癖がそのままタイトルになった曲ですが、これも、ベースが先にメロディー・ラインを弾き、それに対してマイルスたちが答えるということで、インプロヴィゼーションを行って完成した曲です。それから、特筆すべきことは、このアルバムは別格の名盤だということです。どこででも、このアルバムはジャズの名盤中の名盤と称されているので、ジャズを初めて聴く人が最初の1枚に選ぶということが圧倒的に多いものでしょう。それは、名盤だからということの安心感も大いにありますが、それと共に、なにしろ主役のマイルス・デイヴィスは超有名ミュージシャンであり、しかもジョン・コルトレーンやビル・エヴァンスという、マイルスと同じくらい有名なミュージシャンがクレジットされていれば、ジャズを聴きたいと思っている人にとっては最大の魅力になるでしょう。普通であれば、何枚ものCDを買わなければならないところ、このアルバム1枚で、コルトレーン、エヴァンス、キャノンボール、ケリーまでついてくるというのですから。そのため、この『カオンド・オブ・ブルー』は、現在まで全世界で数百万枚のセールスを記録し、ジャズ史上最も売り上げ枚数が多く、いまなお売れ続けているアルバムとされています。しかし、このアルバムでジャズと初めてふれた人は、これを聴いて、はたして感動するでしょうか?感動しないまでも「ジャズはいい!」と思えるでしょうか?それには大いに疑問があります。このアルバムは、難解とまではいかなくても、それまでのビバップやハード・バップと言われる、ジャズらしい熱いエモーションとはちょっと違ったところに魅力があるものだからです。要するに、極端な言い方をすれば、このアルバムは、初めてジャズを聴く人が期待するようなジャズ的要素を、真っ向より否定したところから生まれたアルバムだということです。ですから、初心者のジャズ入門に思われがちなこのアルバムですが、本当はジャズを聴きこんだ人にこそわかる奥深さがある名盤と言えるでしょう。それゆえに、時間がいくら経とうとも、このアルバムは輝きを失うことは全くないのです。
March 6, 2007
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●モード・ジャズ(Mode Jazz)現在のジャズの基本になっている「モード手法」の確立1950年代末頃、ファンキー・ジャズが「黒人っぽい」という要素を強調してブームになっていましたが、ジャズの根本的な要素である「自由さ」を追求して、より即興性を発展させた演奏を試みる動きがありました。そして、ジャズ史上、ビバップ革命の次に起こった革新的スタイルが誕生します。さらに、その影響はジャズのみならず、ポピュラー音楽全般にわたり、その後から現在に至るまでのロックやポップスなどポピュラー音楽すべてに応用されています。それは、古い教会音楽に使われていた旋法(チャーチ・モード)を用いることで、従来のコード進行にしばられたメロディー(フレーズ)よりも自由に展開できる方法が確立されました。1950年代半ばより、ジョージ・ラッセルや、マイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンス、ビル・エヴァンスらによって研究され、1959年にレコーディングし、リリースされたマイルス・デイヴィスのアルバム『カオンド・オブ・ブルー(kind Of Blue)』で具体的な形として提示されました。その自由さは世界中のあらゆる音楽をジャズに融合させること、または、その逆も可能にする道を拓いた、革新的かつ画期的なものでした。そして、この革新的なジャズのスタイルは『モード・ジャズ(Mode Jazz)』と呼ばれるようになります。『カインド・オブ・ブルー』は、マイルス・デイヴィスが『モード・ジャズ』を具体的に提示したアルバムということで、1960年代以降のジャズの行方を決定するほどの大きな影響を及ぼすことになる、ジャズ史上に起こった「モード革命」を記録した重要な歴史的アルバムとされています。この新しいジャズの演奏スタイルである『モード・ジャズ』は、「モード手法」を使った「モード奏法」という演奏スタイルを確立したもので、1960年代のジャズの方向を示す先駆的なものになりました。「モード(mode)」とは普通「旋法(せんぽう)」と訳されます。旋法とは、旋律の動き方に由来する諸音の機能・中心音・音程配列などの概念のことで、ヨーロッパでは一般に教会旋法(チャーチ・モード)をさし、その他、インドのラーガ、アラブのマカームなどが世界各地で異なるものがあり、中国の「調」も厳密には旋法の一種とみなされます。ここで言う「モード」は、特にチャーチ・モード(教会旋法)のスケール(音階)を形成する音組織のことを言います。チャーチ・モード(教会旋法)は中世から16世紀にかけてヨーロッパの教会音楽で使用されていましたが、長音階(メジャー・スケール)として確立したアイオニアン(イオアン)・モードと、短調階(マイナー・スケール)として確立したエオリアン・モード以外は淘汰(とうた)されてしまい、19世紀末になって再び用いられるようになるまでは忘れ去られていた存在でした。ここではそのチャーチ・モードにマイルス・デイヴィスが着目し、モダン・ジャズのコード・スケールとして用いて、それを「モード手法」として確立することに成功しました。以後、これはジャズのスタイルに積極的に取り入れられていき、現在では、ロックやポップスなど、さまざまな音楽の分野で、当たり前のように使われています。簡単に言うと、それまでのジャズのバップ的なアドリブは、頻繁なコード・チェンジごとにコードにそったフレーズをつなげていくことをしていたのですが、モード奏法では、それをもっと大きな流れでとらえ、コードは変わっても何小節かを、ひとつのスケールでまとめたフレーズのアドリブにするというもので、その結果、アドリブの自由度を広げることができました。それまでのジャズは、「すべてルイ・アームストロングに始まって、レスター・ヤング、コールマン・ホーキンスを経て、そしてチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーにつながる一本の線の上から生まれたものだった。」と、マイルスは自伝で語っています。当然、マイルス自身のそれまでの名作と言われるアルバム、『クールの誕生』や『バグズ・グルーヴ』も、それらと同じ線上のもので、もとにあったものをマイルス流に発展させたものでした。マイルスは、そんな、それまでのスタイルからの脱出を考えていたところ、それを実現するアイディアとしてモードという概念に着目したのでした。それを最初にアルバムの中で試みたのが、このアルバムのちょうど1年前の1958年の春にレコーディングされた『マイルストーンズ』でした。そして、それをさらに発展させて、より高いレベルで作り上げたのが、1959年春にレコーディングされたアルバム『カオンド・オブ・ブルー』で、ここに『モード・ジャズ』のスタイルが完成したというわけです。しかし、これはマイルス一人だけでは音楽として完成させることはできなかったでしょう。そこには、このアイディアを理解して発展させることのできるメンバーが必要でした。このアルバムでは、テナー・サックスのジョン・コルトレーン、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイ、そして、ピアノにはビル・エヴァンスという有能な人材を得たために、モード・ジャズの誕生に成功したと言えるでしょう。
March 5, 2007
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●ファンキー・ジャズの伝道師、ホレス・シルヴァー一世を風靡したファンキー・ジャズ・ピアノ・スタイルの立役者ホレス・シルヴァー(Horace Silver)1928年9月2日、アメリカ、コネティカット州ノーウォーク生まれ。----------ピアニストのホレス・シルヴァーは、1954年初め、アート・ブレイキーと第一期ジャズ・メッセンジャーズを結成し、ブレイキーと共にチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらが作ったビバップ・スタイルを発展させました。そのジャズのスタイルはハード・バップと呼ばれ、隆盛をきわめるようになります。しかし、両雄並び立たず、結局シルヴァーは1956年にジャズ・メッセンジャーズを出て自己のクインテットを結成、黒人ならではの*アーシー(土臭い)なブルース・フィーリングを強調し、『ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ』、『ドゥーイン・ザ・シング』といった、ファンキーなエッセンスにあふれた傑作アルバムを次々と発表し、そのスタイルはファンキー・ジャズと呼ばれ、1960年代初めにかけて一世を風靡します。そのため、ホレス・シルヴァーは、ファンキー・ジャズの立役者となり、「ファンキー・ジャズの“プリーチャー(伝道師)”」または「ファンクの伝道師」とか、「ファンクの教祖」とまで呼ばれました。シルヴァーのピアノは実にホットで小気味よく、ソリストをあおる強烈なバッキングと、熱狂的なソロ、それでいてどことなく哀愁がただよう雰囲気は、やはり彼ならではの素晴らしさです。そんなシルヴァーが日本に初めてやってきたのは1962年のことです。その前年に、シルヴァーが初代ピアニストを務めていたグループで、やはりファンキー・ジャズで人気のアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが来日していたこともあり、当時日本でも空前のファンキー・ブームになっていました。ファンキー・ルックと呼ばれるファッションに、ファンキー・ハットと呼ばれる帽子が大流行。現在、東京都知事の石原慎太郎氏がシルヴァーを主役のモデルにして、『ファンキー・ジャンプ』というジャズ小説を書いたのもこの頃です。そういうファンキー・ブームのまっただ中に来日したのですから、シルヴァーに対する歓迎ぶりはものすごいものでした。コンサートはもちろん連日満員、オフの日もパーティーの連続という熱狂的な歓迎を受けたので、日本がすっかり気に入ったのでしょう、帰国してすぐ『ザ・トーキョー・ブルース』という返礼アルバムを制作しました。このアルバムにはタイトル曲の「ザ・トーキョー・ブルース」をはじめ、「サヨナラ・ブルース」、「トゥ・マッチ・サケ」、「アー!ソー(ああ!そう)」といった曲が並び、ジャケットでは振り袖姿の二人の大和撫子が、シルヴァーをはさんでニッコリと微笑んでいます。また、シルヴァーはピアニストとしてすぐれていただけではなく、作曲家としても抜群の才能の持ち主で、親しみやすいリフのものが多くあり、彼の作曲した曲の数々は、モダン・ジャズのスタンダード・ナンバーになっています。黒人ならではの感覚にポルトガル系の血を引くこともあり、そのメロディーラインは独特の哀愁がただよっていて、そういうところが情感をくすぐり、親しみやすいものだと言えるでしょう。----------【参考】●*アーシー(earthy)とは・・・特に、ジャズなどの音楽の表現に「アーシーなサウンド」などといった言葉を聞くことがあります。「アーシー(earthy)」という言葉は、英語の、「アース(earth)」=「地球、大地」に[-y]をつけて、「・・・に似た」、「・・・のさま」という表現になります。アーシー(earthy)【意味】土(大地)を思わせるさま。土の香りのするさま。また、泥臭いこと。
March 4, 2007
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今日の昼間の仕事は『ベイサイド迎賓館 静岡』15:00入り。
March 3, 2007
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●ファンキー・ジャズ(Funky Jazz)より黒人らしいジャズへ・・・1940年代初頭、ジャズは、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーといった黒人ミュージシャンにより、ビバップというスタイルとしてニューヨークを中心に沸き起こり、しだいにそれが洗練されていったものが、1950年代中頃にハード・バップという形になりました。そんな黒人ミュージシャンたちの演奏の中でも、より黒人音楽が持っているルーツに根ざした、泥臭いサウンドを強く打ち出したジャズが、1950年代後半にはさかんに演奏されるようになります。それは、もともとジャズがもっていたブルースや、ゴスペルといった黒人独特の要素をより強調したもので、黒人としての強い自覚にめざめ、黒人としての誇りと尊厳を高くかかげた、より黒人らしいジャズのスタイルが示されるようになりました。この黒人色の濃くなったジャズは『ファンキー・ジャズ(Funky Jazz)』と呼ばれるようになり、1950年代末に熱狂的なブームを巻き起こしました。スタイル的にはシンプルですが、パワフルでワイルドでエキサイティングなプレイは、黒人ジャズのエネルギーを感じさせるもので、多くの人々を興奮させたものでした。ワイルドな中にも、黒人ミュージシャンの美意識が見事に昇華されたファンキー・ジャズ。そんな意味からも、黒人ジャズの最も良き時代が「ファンキー・ブーム」の頃だったと言えるかもしれません。ファンキー・ジャズの代表的グループは「アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズ」で、そこに在籍していた初代ピアニストのホレス・シルヴァーは数々の名曲を書き、独立後は自己のグループを作ってファンキー・ジャズを推し進め、「ファンキー・ジャズの“プリーチャー(伝道師)”」または「ファンクの伝道師」とか、「ファンクの教祖」とまで呼ばれました。----------【参考】●ファンキー(funky)とは・・・ 現在では広く知られており、音楽用語としても普段使っている「ファンキー」という言葉は、もともとはジャズから生まれた流行語でした。ファンキー(funky)【意味】いやなにおいのする(悪臭のする)。泥くさいさま。土くさいさま。原始的であるさま。黒人の体臭のこと。↓ブルース調の。黒人らしい。(良い意味で)すばらしい。いかす。すすんでいる。派手なさま。----------1950年代中ごろ(1954年ごろ)に、ビバップをもとにして生まれたハード・バップと呼ばれるジャズから、より黒人らしいゴスペルやブルース色を強調したものが演奏されるようになりました。当時、そのジャズは、ファンキーなジャズと呼ばれました。そして、それは『ファンキー・ジャズ』という名前になりました。(現在も一部、ファンキー・ジャズというスタイル名でも呼ばれています。)ドラム奏者のアート・ブレーキーやピアノ奏者のホレス・シルバーがその代表的なミュージシャンです。「ファンキー・ジャズ」という言葉の発端は、黒人がジャズを聴いていて、陶酔状態になった時に「ファンキー!」と発する歓喜の声が初めとされ、とくにアート・ブレーキーらの演奏を通して、1950年代後半に流行語になりました。「ファンキー(funky)」という英語は、「悪臭」、「臭い」という「ファンク(funk)」に[-y]をつけて、「・・・に似た」、「・・・のさま」という「ファンクの状態」という表現になり、黒人の「体臭」のことを指して表現した俗語として使われていたものだということです。しかし、「ファンキー・ジャズ」では、逆にそれがアフリカン・アメリカンらしくてかっこいいと、肯定的な意味での「黒人らしい」という意味で使われるようになりました。それ以後「ファンキー」には、「すばらしい」とか「すすんでいる」という意味も加わりました。ジャズ演奏で黒人独特のフィーリングをさしたものでしたが、現在では「ファンキーなサウンド」のように、ジャズ意外の分野でも「黒人らしい」ということを形容する言葉として使われています。また、音楽以外でも使われます。たとえば、「ファンキーなやつだな」と言ったら、「すばらしいやつだな」といった意味だということです。1960年代初め、「ファンキー・ジャズ」の影響を受けて日本でも空前のファンキー・ブームになりました。ファンキー・ルックと呼ばれるファッションに、ファンキー・ハットと呼ばれる帽子などが大流行。現在、東京都知事の石原慎太郎氏がホレス・シルヴァーを主役のモデルにして、『ファンキー・ジャンプ』というジャズ小説を書いたのもこの頃です。「ファンク」という言葉も、この時代のジャズから広がった言葉で、のちに、黒人霊歌や黒人独特のブルース、黒人ジャズの要素を取り入れ発展していった黒人音楽を、「ファンク」とか「ファンク・ミュージック」と呼び、これも一般的に広く使われるようになります。
March 3, 2007
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ジャズ・ギターの開祖の早すぎる死●チャーリー・クリスチャン(Charlie Christian)1916年7月29日、アメリカ、テキサス州ダラス生まれ。1942年3月2日、ニューヨークにて25歳で死去。チャーリー・クリスチャンは、25歳という若さで亡くなってしまいましたが、ジャズ界に革命を起こした不世出の天才ギタリストでした。ジャズではそれまで、単にリズムを刻むだけであったギターを、メロディー楽器(ソロ楽器)として成立させたことから、ジャズ・ギターの開祖と呼ばれ、後のギター奏者に大きな影響を与えました。また、さらにビバップ革命のさきがけとして、その誕生に大きく寄与した功績は余りにも大きいものです。キング・オブ・スウィングとしてファンから親しまれているベニー・グッドマンは、自身がユダヤ系だったこともあるのでしょうが、良い音楽を作るために白人、黒人という差別をとりはらった人でもありました。ライオネル・ハンプトンにテディ・ウィルソンなど、数多くの大物黒人ジャズ・ミュージシャンが彼のバンドから巣立っていきました。チャーリー・クリスチャンもその中の一人です。1939年、大物プロデューサー、ジョン・ハモンドの目に止まり、彼のセッティングで飛び入りの状態でベニー・グッドマン楽団に参加し、その初顔合わせの時、グッドマンと延々45分のバトルを繰り広げたというエピソードがあります。そこでクリスチャンが繰り広げた音楽がいかに素晴らしかったかは、ケチで知られたグッドマンが破格のギャラで即座に契約したことでも、うかがい知れます。ベニー・グッドマン楽団で脚光を浴びたチャーリー・クリスチャンは、ニューヨークのクラブで夜な夜なジャム・セッションを繰り広げ、ビバップの誕生に立ち会うことになります。彼は仕事が終わると、レストラン・クラブ『ミントンズ・プレイハウス』に出かけていき、ピアノのセロニアス・モンクやドラムのケニー・クラークらと夜な夜なセッションに興じました。彼らがそのジャム・セッションから生み出した新しいジャズは「ビバップ」と呼ばれ、いわゆる「モダン・ジャズ」の礎となりました。こうした、まさに「ビバップ誕生」の瞬間を記録したのが、アルバム『ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン』として知られたセッションです。しかし当のクリスチャンは、過度の飲酒、麻薬癖などの不摂生がたたり、自らが生み出したビバップの隆盛を見ることもなく、1942年3月2日、わずか25歳の若さでこの世を去ってしまったのでした。
March 2, 2007
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●ハード・バップの誕生を告げるバードランドの夜1954年2月21日に録音された、アート・ブレーキーのライヴ盤『バードランドの夜Vol.1』と、『バードランドの夜Vol.2』(2枚に分けて発売)は、ハード・バップの誕生を告げるものとされました。----------バードランドの夜 Vol.1 / アート・ブレイキー A Night At Birdland Vol.1 / Art Blakey録音日:1954年2月21日録音場所:アメリカ、ニューヨーク、『バードランド』にてライヴ録音レーベル:Blue Note(ブルーノート)[収録曲]1.イントロダクション・バイ・ピー・ウィー・マーケット Introduction By Pee Wee Marquette 2.スプリット・キック Split Kick 3.ワンス・イン・ア・ホワイル Once In A While 4.クイックシルヴァー Quicksilver 5.チュニジアの夜 Night In Tunisia 6.メイリー Mayreh [パーソネル]クリフォード・ブラウン(tp)ルー・ドナルドソン(ts)ホレス・シルヴァー(p) カーリー・ラッセル(b)アート・ブレイキー(ds)----------このアルバムは、1954年2月21日に、モダン・ジャズの神様、チャーリー・パーカーの愛称「バード」から名付けられた、世界的に有名なジャズ・クラブ 『バードランド』で繰り広げられた、アート・ブレイキー・クインテットのクライマックス連続のエキサイティングなライヴを収録したものです。このときの演奏が、「ハード・バップの誕生」は1954年とされるゆえんとなったもので、ハード・バップ誕生のまさに歴史的な瞬間を劇的にとらえた、ジャズ史上最重要アルバムの一つになりました。この日、フロント・ラインのニュー・スターを全面的にフィーチュアしていて、若き天才トランペット奏者、クリフォード・ブラウンのニューヨーク・デビューの輝かしい演奏が聴けます。1曲目のクレジットは「イントロダクション・バイ・ピー・ウィー・マーケット」となっていますが、これはバードランドの専属司会者ピー・ウィー・マーケットのアナウンスのことです。 ピー・ウィー・マーケットは、身長120センチ、かん高い声でバンドの紹介をする名物司会者で、ミュージシャンの名前をわざと間違えってアナウンスして、正確に紹介してもらいたいミュージシャンからチップをせしめていたと言われています。ちなみに、このアルバムでピー・ウィー・マーケットはクリフォード・ブラウンのみ「ニュー・トランペット・センセーション!」と大賛辞をそえて紹介していますが、チップがはずんでいたのかどうかは定かではありません。このアルバムに収められている5曲のうち、(2)、(4)、(6)の3曲がピアニスト、ホレス・シルヴァーの作曲によるものです。最後にバードランドのテーマ曲である「バードランドの子守唄」が短く演奏され、『バードランドの夜』は終ります。この『バードランドの夜』のことについて、アート・ブレイキーは、次のように語っています。「クリフォード・ブラウンを私に紹介してくれたのはチャーリー・パーカーだった。1953年の終わりごろ、フィラデルフィアで演奏する仕事があり、パーカーに向こうにはだれかいいミュージシャンはいるかい?と聞いたところ、クリフォード・ブラウンという素晴らしいミュージシャンがいるから、トランペット奏者はニューヨークから連れていく必要はないよ・・・と教えられたんだ。クリフォードと初めて出会ったのはフィラデルフィアのクラブ『ブルーノート』でだった。パーカーが言ったとおり、素晴らしいミュージシャンだった。まるで天才ファッツ・ナヴァロの再来!という感じだった。それで、私はそのままクリフォードをニューヨークに引っ張り出すことにした。『バードランド』に出演する予定があったからだ。そのころピアノのホレス・シルヴァーやアルト・サックスのルー・ドナルドソンたちとは家族のような親密な間柄だった。それにベースのカーリー・ラッセルを加えてクインテットを結成して、『バードランド』に出演することになった。ブルーノートが録音した『バードランド』の夜は超満員だった。客席にはディジー・ガレスピーも聴きに来てくれたし、昔から仲間だった歌手のビリー・エクスタインやドラマーのバディ・リッチも来てくれた。クリフォードはジャズ界の注目を集め始めていたから、みんな期待していたんだ。クリフォードの演奏はセンセイションを巻き起こした。食べ物を口に運んでいたお客がクリフォードがトランペットを吹き出したとたん、電気に打たれたようになって、口をあんぐりと開けたままの状態になったんだ。中にはフォークを床に落としてしまった客までいた。・・・ステージは白熱した。ホレスもルーもクリフォードも名演奏を繰り広げたからね。私にとっても生涯忘れられないステージになったんだ。クリフォードはその直後にマックス・ローチとクインテットを結成することになるんだが、彼が一緒にやってくれたことに、今は感謝しているんだ。『バードランドの夜』というアルバムは、それがきっかけでジャズ・メッセンジャーズの誕生につながったんだ。そのときはジャズ・メッセンジャーズとは言わなかったけれど、まさに発火点だったんだ。このときの「チュジニアの夜」の演奏パターンは歴代ジャズ・メッセンジャーズの演奏のモデルになったんだよ。」この熱い演奏は、黒人の生んだジャズを継承したもので、それはハード・バップと呼ばれることになり、アート・ブレイキーが翌年1955年に結成し、一世を風靡することになるグループ、「ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」の原点にもなったものです。このアルバムは、「ハード・バップの誕生」を告げると共に、まさしく、「ジャズとはなにか?」というものを示しているアルバムだと言えます。ジャズという音楽のすべての本質、要素がここにつまっている、歴史的名盤の一つです。
March 2, 2007
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●ビバップからハード・バップへハード・バップ(Hard Bop)ウエストコースト(西海岸)の白人によってジャズが洗練され、そのスタイルが確立されていくに従って、ジャズの大きな特徴である「二面性」というものが、また大きく現れてきました。そのもとになったものは、黒人の公民権運動でした。1963年の奴隷解放宣言によって、アメリカの黒人奴隷制度は表向きには消滅しましたが、依然として人種隔離政策を続けるなど、実質的には黒人に対する差別はなくなりませんでした。1903年、デュボイは著書『黒人のたましい』の中で、「白人と同じ権利を黒人に保証するように」と訴えました。これに端を発して、黒人開放運動が起こり、1909年に全米黒人地位向上協会(NAACP)が設立され、公民権運動へと発展していくことになりました。南部黒人の北部への流れや、戦争兵力としての功績、高い運動能力を活かしたスポーツ界での活躍などで、20世紀の中頃には、黒人の地位は、実質的に、かなり向上してきました。さらに、第二次世界大戦後のソ連を中心にした東側共産主義との対立の、いわゆる「冷戦」において、アメリカを中心とする西側自由主義が共産主義側を批判するためには、自らの「自由、平等」を訴える必要がありました。1954年、アメリカの連邦最高裁判所は、公立学校における人種の分離を違憲認定しました。それは、1896年に連邦最高裁判所が公共の場での白人と黒人の分離を容認した判決を覆すもので、これ以降、黒人たちは、白人と同等の権利確立を要求する動きである、公民権運動が強まっていくことになりました。1955年のマーティン・ルーサー・キング2世によるアラバマ州モントゴメリーでのバス乗車ボイコット運動や、1960年のノースカロライナ州グリーンズボロでのショットイン運動など、次々に黒人の活動は成果を収め、1964年に「公民権法」が制定されました。こうした黒人の意識の高まりは、黒人ミュージシャンの意識にも大きな影響を与えることになります。1950年代初め、音楽理論を用いた編曲を重視したウエストコースト・ジャズが人気の高まりを見せていました。そこで、このウエストコースト・ジャズは白人が中心であったことに対抗するように、イーストコースト(東海岸)のニューヨークの黒人ミュージシャンが中心になって、ビバップを見直す動きが盛んになってきたのも、その黒人意識の現れの一つと言えるでしょう。ビバップはハーレムで誕生し、発展した黒人によるジャズの直系の流れをくむもので、それは、白人がアメリカの象徴に作り上げたスウィングと対抗して生まれたという、黒人意識が強く現れたジャズのスタイルであったということから、黒人ミュージシャンの公民権運動からの影響を強く受けた動きが活発になったということです。そのころのビバップは、やたらむずかしいテクニックを競い合うようになって、曲としてまとまりがなくなっていました。ビパップは自然発生的な、瞬間的、自発的アイディアの表現を、その場で即興的に、いかにまとめるかということだけに力を入れたため、メロディーやコード進行はどんどん複雑になり、演奏テクニックだけを競う面が強くなっていきました。そのため、楽曲の構成は単純化され、画一的なものとなり、作品としては、まとまりに欠けるものが多くなりました。そこで、『クール・ジャズ』スタイルを示したトランペット奏者のマイルス・デイヴィスや、テナー・サックス奏者のソニー・ロリンズ、ドラム奏者のアート・ブレイキーやマックス・ローチといった、ニューヨークの中心的存在となっていた黒人ミュージシャンたちは、ビバップのもともとの重要な要素であった、自由な発想を生かす即興演奏(インプロヴィゼーション)を主体にしながらも、楽曲としてはメロディーやコード進行は複雑にせずに、メロディアスでありながらも、メリハリのきいたパワフルで勢いのある、熱いジャズを展開するようになっていきました。それは、黒人ならではの、うねるようなリズム感覚を基に、彼らの根本的な哀愁を題材にしたメロディーラインを重視するというものです。そうして、ビバップのコンセプトである即興演奏(インプロヴィゼーション)のもとに、エキサイティングでメロディアスでブルージーな演奏のものが生まれてきたということです。こうして生まれたものが『ハード・バップ(Hard Bop)』と言われるジャズで、今日の『モダン・ジャズ』というものの中核を成すジャズのスタイルが確立されました。要するに、この『ハード・バップ』というジャズのスタイルは、黒人のパワーとエモーション(感情)といったものを前面に押し出したものと言えます。そして、それは、1950年代中頃、ニューヨークを中心にいっせいに広がりを見せ、『ビバップ(バップ)』は、そのコンセプトをもとに、黒人ミュージシャンの手により、より一層黒人色を出した方向で洗練された『ハード・バップ』へと変化していきました。1930年代末から1940年代初めに生まれ、その後、ジャズの主流になっていたビバップ・スタイルとの大きな違いとしては、曲の進行をコードだけに頼らずに、フレーズ(メロディー)にも重点を置くようにしたことです。それによって、ハード・バップはメロディアス(旋律的)なものになり、より楽曲作品としての完成度を高めました。1954年2月に録音された、アート・ブレーキーのライヴ盤『バードランドの夜Vol.1』、『バードランドの夜Vol.2』(2枚に分けて発売)が、ハード・バップの誕生を告げるものとされています。●ハード・バップの中心的なミュージシャンは、マイルス・デイヴィス(トランペット奏者)ソニー・ロリンズ(テナー・サックス奏者)アート・ブレイキー(ドラム奏者)クリフォード・ブラウン(トランペット奏者)セロ二アス・モンク(ピアノ奏者)チャールス・ミンガス(ベース奏者)マックス・ローチ(ドラム奏者)など、名前を挙げればきりがありません。
March 1, 2007
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