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渋谷の國學院大まで応援に行ってきました。結果は本学93中 相手校87中よって本学の二年連続優勝昇格が決定致しましたー!とにかく最後の最後まで手に汗握る接戦でした。出だしはいつものように調子が良く相手校と5本くらい差をつけて勝っていたんだけど、中盤うちの選手の二人が急にガタっと崩れはじめ、一本差まで迫られそのまま終盤へ。これまでの試合はある程度相手を引き離して、精神的に余裕のある勝ち方をしていたのでここまで競った試合に皆慣れてなかったんですよね。明らかにチームの雰囲気が変わったのに主将が動かないようなので、主将に言って選手を集めさせました。(若干出しゃばった真似だけど、その辺は去年まで主将やってたものの采配ということで…)以下のニ点を述べました。・調子悪い時ってのは、とにかく皆意識が内にこもってしまいがち、でもけして一人だけで戦ってるんじゃない。常に仲間と一緒に戦っているということもう一度確認しよう。・練習ではもっと気楽に楽しい雰囲気やってたはず、少なくともこんな暗い雰囲気では無い。もっといつもの弓を引く時の空気を思い出して楽しく引いて来い。まあ、とにかく暗い雰囲気だけは打開できました。団体戦において、現場でできる応急処置ってのは技術面の改善ではなくて、意識面の改善だけなんですね。でも相手もうちが一度コケたことに勢いづいていて、一本差に迫られたままお互いに極端なプレッシャーを引きずったまま最後の最後の立に(野球で言うところの9回。うちは後攻でした)最後の局面で相手校がプレッシャーに負けたのか、コケてくれて、なんとか勝ちあがることができました。その勝負の決まる最後の立の前の一場面。最も重要なポジション(落)をやっている三年生のG君と話しをしてたら、G君緊張のあまり、えずき出したんです「オエ」って。まあそんなひどくはなかったんで、緊張をほぐすのに巻藁を引き始めたG君に、以前テレビで見たイチローの話しをしてあげました。あんな大記録を打ち立てたイチローでも、プレッシャーを跳ね除けるのは不可能なんだそうです。下手にリラックスしようとしたり、プレッシャーをあえて無視したりして打席に立つことは自分を誤魔化しているに過ぎない。プレッシャーはそのまま受け止めるしかない、それを抱えながらも、その場の状況に試行錯誤しないと本当に上手くはなれないし、結果も残せない。という話。中盤に調子が一気に崩れた二人のうち一人は彼だったんですね。これまでの試合では絶好調で余裕ありすぎるほどだったんですが、やっぱ昇格のかかった試合での接戦、どんな名人でもいつも通り行くはずないんですよね。最後の最後彼はなんとしても中てて、勝って試合を締めくくらなきゃなきゃいけないポジションだったし、また彼自身もそれを良く自覚していたのでその緊張感は良くわかりました(更に言えば去年自分もそのポジションに居たので)いやあでも、イチローの話しが効いたのか、あるいは自分の中で開き直ったのか、最後はこれまでとは生まれ変わったように落ち着いた射で、全部矢を的に入れて帰ってきました。見事なまでに昇格に華を添えてくれましたね。休日返上で行った甲斐がありましたなあ。3部昇格おめでとうございました。というわけで、今日試合でG君をはじめ、皆の頑張りを観ていて哲学魂を刺激されてしましました。帰りの電車の中で携帯に速記したこと。(以下興味のある人だけ読んで下さい)弓道は理論のみでできるものではない。稽古を重ね、積み上げ練り上げた理論をもって、そして現実に向き合い続けていくものである。だが理論はどこまでも仮説的であって、仮説に寄り掛かりすぎるとその射はすぐに過去の時間に取り残され、新たな現実に凌駕されてしまうのである。百発成功の境地とは、何度も何度も仮説を立て続け、現実に向き合い続けること、その理論と実践の無限とも思える円環的プロセスにおいてそれらがいつか質的な変化を起こし、思惟や反省や作為が抜け去った時に初めて成功なのであろう。また、勝負とは何か。それはプレッシャーを跳ね除けることではない。プレッシャーの中に本当の自分を見つけることなのである。真に追い詰められ、一切の身動きが取れないと感じた時、そこで初めて本当の自分が姿を見せる。強烈な必然性を要求してくる厳しい外圧にさらされたとき、真の自分に対峙することになる。いや、対峙できれば大したもので、大抵は自分を見失う。プレッシャーに無理に抗ったり、力みすぎても、力を抜きすぎても、本当の自分を余計に見失うことになる。勝負をするということは、非情理な外圧に対して、さらに自分が自分自身に対して非情理になれること、それがプレッシャーを抱えつつも現状を突き破る強さであり決断である。外圧としての必然性を我がものとした時に初めて本当の自分にであうのである。(「本当の自分」というのは最近授業で読んでいる 中井正一『美学入門』朝日選書 参照)
2005.10.30
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うちの弓道部、昇格を懸けた入れ替え戦です。これに勝てれば二年連続優勝昇格。去年主将やってたオレにとってはロッテの日本一よりも嬉しい。(まあロッテのことも嬉しいんだけどさ)なんというかとにかく歴史的な局面なんですよ。入れ替え戦で当たる相手は的中率がうちの部よりも低い。でも、数字に惑わされたことは現役時代何度もある。油断はならんよなあ。明日は応援行ってきます。しかしネット環境が復活してから夜更かしするようになっていかんなあ。
2005.10.29
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仕事が終わってから上野にて。上野に向かう途中、駅前でホットッペパーを配布してたので何気なくもらったんだけど、これってクーポンマガジンだったのね。知りませんでした。というわけでさっそくクーポン持って居酒屋に行ったら1000円割引でしたwうーむ、こうゆう情報って大事なんですな。話は突然変わって、昨日から気になってる「自覚」の話。(以下興味のある人だけ読んで下さい)普段我々が考えている「私」とか「自分」というような個人的自己意識ってのは、意識現象の一側面であって、ある限定された意識下における一時の自覚を表現したものに過ぎないのであるんだよなあ。だからと言って「私」や「自分」が本当はないんだということが言いたいのではない。それが常に流動的に変化する側面も持っているということが、西洋個人主義に対する(というよりむしろ永井均の<私>にたいする)アンチテーゼとして言いたい。(和辻哲郎の主著の一つである『倫理学』における「間柄」という概念での人間の捉え方はもしかしたらそのアンチテーゼの最たるものかもしれない。若干全体性のみを強調し過ぎる極端な面も無きにしもあらずって感じだけどね)本質はまず、意識。意識ってのは、個人的自己意識に限定されるものではなく、たとえば状況に応じて集団意識とかになったり、社会的意識とかになったり、恋人がいれば恋人意識(?)という言い方は変だけど、その場に応じた意識がその場に応じた自覚の在り方をする。オーケストラの一員として楽器を演奏する時(まあ自分は経験無いけど)、練習通りに演奏して個人個人の音が完全に調和してうまくいった時、その状況で意識ってのは、個人的意識というよりは、集団として一つ意識になっているはずだ。個人的意識というのは反省的意識であることが多い気がする。前にも述べたけど、反省というのは意識の不完全な状態を表す。回りが上手く演奏できているのに一人だけ失敗してしまったとき、意識は自然と反省的になり、反省は個人にかえってくる。個人はなんとか修正してまたオーケストラに復帰するわけだ。個人は意識発展の重要な一段階である。オーケストラも、個人も同じ意識である。個人の意識がただ集まっただけではオーケストラは完成しない。個々人の意識が統一を果してこそ、調和としての演奏が生まれる。個人的意識ってのは、現代においては尊重されるべきものとなっている。ただ、そのことは意識を個人という特別であるかのような概念で固定し、個人主義的傲慢に陥ることを助けているのは事実だ。意識は個人を脱するからこそ個人を自覚できる。そして我々にまず直接与えられているのは個人としての反省意識ではなく、主も無く客もない全的な意識としての純粋経験である。うーむ、書いてるうちになんか問題がずれてきてる気がする。個人の自己意識がなにか特別なあり方をしているように感じる時ってのが誰にでもあると思うけど、オーケストラの説明だけではそれを言い損ねてる気がする。それに「全的」な意識と言っても漠然とした抽象的な意識ではなくて、個人的で具体的な意識でもあることを上手いこと表現しないとなあ。意識って結局個人的実存的人生にかえってくるしなあ。ってこうゆう考え方が既に現代個人主義的思想に毒されているのかしら。…なんかややこしくなってきたので寝ます~。主客未分 全的なる純粋経験の世界に行ってきます。。。そうっ、だから結局、寝て、起きた時になんで「この」個人的自己意識にいつも返ってくるの?ってのが問題なんだよね~。はい、おやすみなさい。
2005.10.28
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6限(18:00~19:30)の授業と7限(19:40~21:10)のゼミに毎週出席しているんだけど、6限いつも時間ギリギリまで授業する先生がいつもより30分くらい早く終わって、?、と思ったら、先生に呼ばれて「今日体調悪いから帰るけど、7限のゼミ英治Aに任せたからやっといて☆」まあ学会の発表やら準備が重なって忙しかったらしいし、いつもの滲み出てるエネルギーが今日は見受けられなかったし、時々あることなのでので仕方ないかなと。先生がいないゼミってのも最初は若干不安だったけど、これはこれで良いもんだ。プロが一人いると自分で考えずに無意識に頼ってしいがちだってことがわかったし。素人なりに積極的な議論や意見交換ができ、文章の文脈(西田幾多郎『善の研究』を読むゼミなので)も皆で協力しながら読解していくということができた。次回の流れも全員で確認し、すっきりと終わり良いゼミでした。まあ、だからって今後先生いらないってわけじゃないけどねw 今日のゼミの収穫は「自覚」についての理解。(以下興味ある人だけ読んで下さい)ちょうど「神」についての箇所。一般に自覚とは、反省によって起こる。「私は教師である」とか「今日は木曜日である」とか。一方、神における自覚というのは反省の上にあるのではない。例えば「私」とか「今」とか反省によって生じる自覚は、「誰」が「いつ」それを自覚するかでその都度変化するものである。一方神における自覚とは、例えば「三角形の全ての角の和はニ直角である」というようにいつ誰が考えても変化の無いものをいう。反省によって生じる自覚とは真の自覚ではなく、かえって自覚の不完全性を表す。自覚が真に深まるというのは、「私は○○である」とか「今は○○な時である」というようにあらためて反省の生じる余地の無いほどに現実が理解されている状態をいう。だから真に自覚が深まると「我を忘れる」ということが起こる。だから我々の自覚即ち意識は、それの不完全ゆえに生じる、と言うこともできる。そして神は実在そのものであるから「…神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識は無い。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識は無いのである。」(P227)西田はわりと汎神論的な傾向で神をとらえているのだけど、汎神論からさらに一歩進んで、一元的実在論ともいうような神の捉えかたで、実在即ち宇宙や自己、自然や精神が、直接に神の思想であり、意志であり、その表現であるということを述べている。いやあ、「私」ってのは不完全故にあるもんなんですなあ。でもその不完全性ってのがなぜ現実に〈この〉不完全性でなきゃならないんだろ?
2005.10.27
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学生の頃は体育会本部という忌まわしき委員会に派遣されてたおかげで在学中四年間学園祭を満喫したことはありませんなあ。付き合ってた彼女と一緒に学園祭いきたかったよ。。。学祭期間は中大声出したり、走り回ったり、ライブのステージを作ったり、ずっと仕事しっぱなしになってしまうんですよね。今日その体育会本部から学祭の出欠席のハガキが届いてまして、なんか思い出してました。卒業した今、彼女とも別れてしまったし(泣)、学園祭にはもう特に思い入れることもないんすけど、大学の友人の誘いで千葉商科大の学園祭に行くことに。アンダーグラフのライブを観に行きます。学祭はともかくアンダーグラフは好き。というわけで彼女に頼まれてチケットを購入するのにさっきネットから「チケットぴあ」に行ってきたけど会員登録しなきゃチケット買えんのかいっ。まあ、登録しましたけどね。無料登録だったし。でも、登録した後にわかったのが、ネットで買うと手数料かかるらしい。うーむ、なんか逆に不便だね。直接出向いた方が良かったみたいです。。。
2005.10.26
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引越しして以来PCが調子悪くて、これまでチマチマと携帯からつないでたんだけど今日知人の方から新しくノート型のPCを頂きまして、快適なNet環境が久しく戻ってまいりました。最近は去年書いた卒論を書き直しています。仕事の後なんで、かなーりゆっくりなペースですけど。卒論の書き直しといっても、新しく一本の論文を書きあげるつもりです。毎週大学のゼミに仕事が終わってからモグリで出席しているんだけど(無論先生には許可いただいてますけど)、その先生に目次だけ添削して頂きました。起・承・までは構想がある程度ハッキリしているんだけど、どうしても転と結の部分がまとまらなくて、先生に相談したら余計わからなくなりました・・(無論、良い方の意味で)。とりわけ「転」と「結」の部分は、緻密な論理というよりは、より感覚的な哲学的なセンスというか、天啓のようなものが要求されると思うので、書こうと机に向かっていても、書いてる時間よりもテキストを精読してる時間のが長い。。。先生にはとにかく書いていけば自然と結論が出てくるとアドバイスを賜りました。でも、仕事の後なんかは、なかなか哲学的な文章を書くモードになかなか入れないのが現状。だからテキスト読んで天啓を待ってしまう。。。哲学の神様なかなか降りてこないんだよね。(泣)
2005.10.25
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充実した人生を送るってことは、つまり生活に「張り」を持たせるってことだと思う。普通生活ってのは一面的に成り立っているのではなく、例えば自分なんかは仕事、家、哲学、弓道のように多面的な場面で成り立っている。社会人になってから哲学や弓道がより深く広く理解したいと思えるようになったし、また家族に対してもより大切に思えるようになった気がする。つまり今まで弛緩してた意識がより緊張してきた。学生時代に比べて自由に使える時間は減った。だが限られた自由な時間をより緊密なものとして大切にするようになった。束縛される時間が増えたことで、自由な時間に自然「張り」が出てきた。これまで、より生産的な張りのある生活を送る方法を、自分自身のみで意識的に努力するしかないものと考えていたが、自分自身の努力だけではどうしても意識に張りを出せるわけではない。勉強してて集中力がでなかったり、仕事に対して積極的になれなかったり、人に対して配慮できなかったりする時、さらには人生に無気力になる時ってのは、生活のある場面のみが一面化されすぎて、他の場面との緊張関係が緩んでしまうんだろうな。そんなときは、総合的な広い視野で生活を見つめ直さないと良い緊張関係のバランスが保てなくなるんだろうな。生活の中の様々な場面は互いに刺激し合い微妙なバランスを取りながら生産性を高めて行くんだと思う。
2005.10.19
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今日男子リーグ戦優勝決定戦の応援行ってきました。結果は、男子弓道部二年連続優勝しましたー!立上がりが不安定でハラハラする接戦の場面もあったけど、なんとか逃げ切って勝利。立地的に大声出せない道場で、いつも通りのチームの応援ができず、選手も控えもなんともやりにくそうな試合でした。女子の方は今日の試合高的中で勝ったけど、結果的には惜しくも準優勝。ただ一年生の女の子が12射皆中したらしい。四年生も引退をかけた試合、頑張ってたということらしいで、いい終わり方できたんじゃないかな~ヽ('ー`)ノ~とりあえず今年も優勝&皆中賞が取れてよかった(^-^)後は二週間後の上位ブロックとの入れ替え戦に勝って二年連続優勝昇格を達成して欲しいです。試合の反省会の直後震度4の地震。ちょっとビビったヾ(^_^;
2005.10.16
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今日弓道部の後輩達の応援に行きました。20本以上の大差をつけて勝ちました。けどもうちょっと中てられたはずなんだよね。来週勝てば二年連続優勝!優勝してさらに上のリーグとの入れ替え戦に勝てれば二年連続優勝昇格!引退して部を離れた身ではあるけど、後輩達の活躍はうれしいものだね。昨年作り上げチームの雰囲気がしっかりと残ってること、さらに、昨年より実力(的中率)が一回りUPしてるってのは大したもんだ。
2005.10.09
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