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「多くのことと一つのこと」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章38~42節 「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(41、42節)。 これは、主イエスがマルタに言われた言葉ですが、ここに対照的な言葉があります。それは「いろいろ」と「一つ」です。このことに関して考えてみましょう。 一、多様な現実と人間形成 マルタは「いろいろともてなし」(40節)をし、主イエスも彼女が「いろいろなこと」(41節)をしているのを知っておられました。 私たちは、神が命じておられない余計なことをする必要はありませんし、また決してしてはなりませんが、現実の生活においては、一個人として、また一信仰者として、さらに家族の中の一員として、そして一社会人として、それぞれ神と教会と家族と社会に対して多くのなすべきことがあります。 それらは、私たちにとって確かに繁雑で、面倒なことですが、人間というものは、現実の「いろいろなこと」を避けることができないものです。私たちは、一般的に言うなら、年をとるにつれて、いろいろとなすべきことが増えてくるのも事実です。また人間が成長し、偉大な器になっていくということは、結果的に見て、より多くのいろいろなことに対処し、それらを成し遂げていくことができる者になるということを意味しています。 このように多くのいろいろなことは、私たちにとって繁雑ですが、実際問題としてそれらは不可避なものであり、また人間形成の上で不可欠なものであることがわかるでしょう。 二、多様な現実と霊的な敗北 私たちは、「いろいろなこと」に出会った時、このマルタのように心構えができていないと、これらに負けてしまいます。 私たちは、「いろいろなこと」に直面した時、次のような心の状態になるなら、それらに負けている証拠です。 1.「心いりみだれ」(40節、文語訳)。 これは、いらいらしたり、あせったりする心の錯乱や焦燥です。 2.「私だけに……させているのを、何ともお思いにならないのでしょうか」(40節)。 これは、自分を憐れむ自己憐憫です。 3.「思い煩いて心労(こころづかい)す」(41節、文語訳)。 これは、思い煩いと心労です。 しかし、これらの心の状態は、自らの心の中だけにとどまらず、外側にも出てきます。 1.「何ともお思いにならないのでしょうか」(40節)。 これは、他人に対する嫉妬や憎悪や八つ当たりであり、また神に対する忘恩や非難です。 2.「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」(40節)。 これは、神に対する傲慢不遜な態度です。 三、多様な現実と霊的な勝利 それでは、これらのいろいろなことに負けずに、勝つためには、どうすればよいのでしょうか。マルタの心の状態を一言で言えば、それは心の錯乱であり分裂です。彼女は、そのために物事に集中するとこができなくなってしまったのです。 ジョン・ウェスレーが「あなたは、もっと多くのことをすることができるように、一時にはわずかのことをしなさい」と述べているように、私たちは、多くのことをなそうとすればするほど、一つの目的や使命に徹することが必要です。すなわち、神と富とに兼ね仕えず、神にのみ仕え、神を第一にすることに徹することです。そのようにする時、私たちは、集中力が与えられて、より多くのことをすることができるのです。そして、この一つの目的や使命に徹するための秘訣は、私たちに一つの動機や純粋な動機、また意図の純潔を与える「罪からのきよめ」なのです。
2007.11.27
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「人の罪を赦す秘訣」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章21~35節 ペテロは「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか」と言いました(21節)。すると主は、「七度を七十倍するまで」(22節)、すなわち「どこまでも赦しなさい」と言われました。なぜ私たちは、人の罪をどこまでも赦さなければならないのでしょうか。また人の罪を赦す秘訣は、何でしょうか。もし私たちが互いに罪を赦し合わなければ、決して正しい人間関係を保つことはできないでしょう。 一、神が私たちの罪を赦してくださったので、私たちは互いに赦し合うのです 聖書は、すべての人は、神の前に返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者であると教えています。このたとえ話は、神に対する罪を一万タラントの借金に、人に対する罪を百デナリの借金にたとえており、その比率は、実に60万対1です。 しもべは、主人の前にひれ伏して、借金の猶予をお願いしました。すると「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」のです(27節)。 パウロは、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」と勧めています(エペソ4章32節)。私たちが人の罪を赦さなければならない理由は、神が私たちの罪を赦してくださったからです。 二、私たちが人の罪を赦さなければ、神は私たちの罪をお赦しになりません なぜ私たちは、人の罪をどこまでも赦さなければならないのでしょうか。私たちが、人の罪を赦すとか赦さないとか言っている間は、自分が罪を赦す権利を持っているかのように錯覚しているからです。 人の罪を赦さないということは、言い換えれば、人を罪に定めることです。「律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとり」(ヤコブ4章12節)、すなわち神のみです。ですから神の前に返済不可能な罪という莫大な借金を背負った債務者である私たちは、「赦しについて何の権利もないのです」(R・C・トレンチ)。 それで主は、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」と言われたのです(6章14、15節)。 三、神の摂理の導きを知ることこそ、人の罪を赦す秘訣です ヨセフのように人の罪を赦すことのむずかしさを体験した人はいないでしょう。 1.ヨセフは、父に特別に愛されていたために兄たちに憎まれた(創世記37章4節)。 2.ヨセフは、夢の話をしたので、兄たちにねたまれた(同37章11節)。 3.ヨセフは、兄たちのたくらみによって殺されそうになった(同37章18節)。 4.ヨセフは、ルベンやユダのことばによっていのちだけは助かったが、エジプトに奴隷として売られた(同37章28節)。 5.ヨセフは、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられた(同39章20節)。 6.ヨセフは、献酌官長の忘恩によって二年間も忘れられた(同40章23節)。 ヨセフが兄たちに憎まれてエジプトに売られたのも、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられたのも、献酌官長の忘恩によって二年間も忘れられたのも、彼がエジプトの統治者となって人々のいのちを救うためでした(同45章5、8節)。 ヨセフは、神の摂理、すなわち「窮地に陥り、困難に直面している人間に対して、神がその無限の知恵と愛によって、その必要なすべてのものをあらかじめ知って備え、配慮してくださること」を信じて、兄たちの罪を赦すことができました。ヨセフは「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」(同45章5節)と述べていますが、これにまさる赦しのことばはないからです。
2007.11.24
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「真の生きがい」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章19~26節 「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(20、21節)。 「生きがい」とは「生きているだけの値打ちとか効力」また「生きている幸福や利益」と定義することができます。人間にとって生きがいほど大切なものはないでしょう。なぜなら、もし私たちに何の生きがいもなければ、それこそ、生きているかいがなくなってしまうからです。 しかし私たちにとって最も大きな問題は、生きがいがあるかないかということよりも、いったい何を生きがいにするか、または誰を生きがいにするかということではないでしょうか。このことに関してパウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(21節)と述べています。 ここでは、誰を生きがいにしているかという生きがいの対象を、人格に限って考えてみましょう。 一、自分自身を生きがいにする まず多くの人々に見ることができる生きがいの対象は、自分自身です。しかし自分自身を生きがいにするとは、どのようなことでしょうか。それは、金銭や快楽を貪ったり、名誉や地位を追い求めたりすることによって、ただ自らの欲望を満たすことに生きがいを見いだすことにほかなりません。 このような人の心の中には、ただ自分だけが生きていて、他の人のことは眼中にありません。自らの快楽や利益また主張だけを満足させようとする典型的な利己主義であり、彼らの最後は滅びです(ピリピ3章19節)。 このことを聖書の言葉を借りて表現するなら、次のようになるのではないでしょうか。 「私にとっては、生きることは自分自身、死ぬことは恐ろしい呪いです」。 二、他の人を生きがいにする 次に多くの人々に見ることができる生きがいの対象は、他の人です。しかし他の人を生きがいにするとは、どのようなことでしょうか。これには次のような表と裏の二つの面があります。 ◇表の面――これは、親が自らの希望や夢をその子に託し、その子を当てにして生きるとか、反対に子どもが親の権勢を笠に着て、その親を当てにして生きることなどです。 ◇裏の面――これは、好敵手(ライバル)や恨みのある人などを目の敵にし、復讐したり、見返したりすることに生きがいを見いだすことです。 このような人の心には、特定の人が生きていて、その人を支配しています。 このことを聖書の言葉を借りて表現するなら、次のようになるのではないでしょうか。 「私にとっては、生きることはあの人、死ぬことは甚だしい損失です」。 三、キリストを生きがいにする 最後に聖書が教えている真の生きがいの対象は、キリスト(神)です。しかしキリストを生きがいにするとは、どのようなことでしょうか。これに関しては、次のような聖書の言葉が最も良いでしょう。 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2章20節)。 このような人は、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって」生きているので(同二章20節)、死は恐ろしい呪いでも、甚だしい損失でもなく、征服された敵であり(第一コリント15章54、55節)、天の御国への入口です。 私たちの生きがいは、何でしょうか。
2007.11.21
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「信仰の決断」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、5章25~34節 「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」(27~29節)。 これは12年間、長血をわずらっていた女がキリストに対する信仰によって、その病気が直った記事です。冒頭の聖句の中には、注目すべき言葉が3つ記されています。それは、「手でさわった」と「考えていた」と「感じた」という言葉です。この3つの言葉から私たちが神を信じて救いを得ようとする時、心しなければならない非常に大切な教訓を学んでみましょう。 一、考えること(思考)について この12年間も長血をわずらっていた女は、自らの不運を嘆き、様々なことを考えたことでしょう。「どうして私は、このような病気になったのだろうか。どうして私の病気は直らないのだろうか。どうして私は、医者からこのようなひどい目に会わされなければならないのだろうか」と。 このように人というものは、様々な苦しみに会い、不幸な境遇に置かれると、「どうしてだろうか。どうして私だけが」と考え始めるものです。そのような時、悲観的に考え、あきらめたり、逃避したりする人もいれば、ひねくれたり、恨んだりする人もおり、果ては絶望したり、自殺したりする人もいます。しかし反対に楽観的に考えたり、その苦難を踏み台にして成長したりする人もいます。 私たちは、様々な苦しみに会い、不幸な境遇に置かれた時、いったい何を考えるでしょうか。 二、感じること(感情)について しかし、この長血をわずらっていた女は、発病とその後の不幸な出来事の中で、様々なことを考えただけでなく、色々なことを感じたことでしょう。「世の中には、なんとひどい人がいるのだろうか。いざとなると、人はなんと身勝手で冷たいのだろうか。私のことを真剣に考えてくれる人など、ひとりもいない」と。 人というものは、多くの場合、良い環境の中や順境の時は、ほかの人の苦しみに気づかず、その感情は鈍感になりやすいのに対して、悪い環境の中や逆境の時は、その感情は異常なほど敏感になっているものです。それは、人間は、あまりにも身勝手なために、自分を中心にしか物事を感じることができないからです。 私たちは、良い環境や順境の時に感じること、また悪い環境や逆境の時に感じることを、どのように受け止めているでしょうか。 三、決断すること(意志)について 長血をわずらっていた女は、この12年間、様々なことを考え、また色々なことを感じたことでしょう。しかしイエスのことを耳にした時(27節)、思い切って、イエスの着物にさわるまで、何の救いも解決もありませんでした。直ったことを感じたのは、その直後でした。 私たちの場合、思い切ってイエスの着物に手でさわることは、信仰の決断を表しています。私たちに頭脳がある以上、特に苦しみに会うなら、なおさら様々なことを考えることでしょう。また私たちに感情がある以上、特に苦しみに会うなら、様々な悪い感じを持つことでしょう。 しかし私たち自身の罪からの救いと様々な問題の解決は、キリストに対する信仰の決断によってのみ与えられるます。救われたことを感じるのは、信仰の決断の後であり、決して前ではないことを忘れてはなりません。 私たちにとって最も大切で必要なことは、信仰の決断なのです。
2007.11.18
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「天の御国のたとえ(5)」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、4章26~29節 イエスは、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので」すと言われました(26節)。これが「人手によらずに育つ種のたとえ」です(27~29節)。これは、最初の「種蒔きのたとえ」と対になっていると思われます。 そしてイエスは、「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか」と弟子たちに言われました。彼らが、「はい」と言うと、イエスは、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す「一家の主人のたとえ」を話されました(マタイ13章51、52節)。 一、人手によらずに育つ種のたとえ イエスは、「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので……す」と言われました(26~28節)。 ここで言う「神の国」とは、聖霊降臨節(ペンテコステ)からキリストの再臨までの教会(時代)のことを指しています。「人」は、第一義的には、「かまを入れ」るという刈り入れのことを考えると(29節)、キリストのことです。しかし伝道するキリスト者にも当てはめることができるでしょう。「地」は人の心を、「種」は神の言葉を表しています。 キリストとその弟子たちによって蒔かれた神の言葉という種は、「朽ちない種」(第一ペテロ1章23節)であり、それ自体に、神の生命を持っています。ですから、それは「人手によらず」に「芽を出して育ち」、「実をならせる」のであり、人知をはるかに越えた神秘的なものです(27、28節)。 「生命」というものは、それが肉体的な生命であれ、精神的な生命であれ、そしてこのような救いをもたらす霊的な生命であれ、神に属するものであり、人の力の及ばないものです。 人が子どもとして生まれ、肉体的には大きくなり、精神的には知恵がついて成長していくことができるのは、その子ども自身に生命があるからであり、その子が与えられている生命の力によって自ら成長しない限り、ほかの人は、どうすることもできません。 そのように、人が福音を信じて新しく生まれ、キリスト者として成長していくことができるのは、その人自身に霊的な生命があるからであり、その人が与えられている霊的な生命の力によって自ら成長しない限り、ほかの人は、どうすることもできないのです。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによ」って生きる者です(マタイ4章4節)。ですから神の言葉を信じて、神から霊的な生命を与えられることほど大切なことはありません。 二、一家の主人のたとえ イエスは、「天の御国のたとえ」の締めくくりとして、「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」と言われました(マタイ13章52節)。 「学者」は、神の言葉を学んで、それを説き明かす者です。ですから、「倉」は聖書、「新しい物」は新約の教え、「古い物」は旧約の教えを指しているのでしょう。 旧約聖書 新約聖書◇準備 ◇完成◇萌芽 ◇開花・結実◇模型・ひな型・影 ◇実体・実物◇具体的な実物教訓 ◇抽象的な霊的真理 キリストの弟子は、天の御国の奥義を教えている神の言葉を学んで、それを説き明かす学者として、旧新約聖書の教えをとらえて、それを語ることが求められているのです。拙著「キリストの生涯の学び」63「天の御国のたとえ(5)」より転載
2007.11.16
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「天の御国のたとえ(4)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章44~46節 イエスは、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」と言われ、「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです」とも言われました(44、45節)。 「弟子たちは、種蒔きのたとえにおいて、蒔かれた種の中で四分の三は実を結ばず、ただ四分の一だけが実を結んだことを学び、毒麦のたとえにおいては、実を結んだと見える麦の中に毒麦が混じっていることを学びました。それでイエスは、弟子たちが失望しないように、からし種とパン種のたとえを語り、確かにその始めは小さくても、その終わりは、大樹のようにその枝を全世界に広げ、パン種のようにその感化は全世界に及ぶことを教えられたのです」(クリュソストムス)。 しかし人は、この大樹の陰に来ても、このパン種の感化を受けても、それだけでは天の御国にはいることはできません。 主は、「畑に隠された宝」と「良い真珠を捜している商人」のたとえを通して、天の御国という最も値うちのある宝や真珠を見つけた者は、持ち物を全部売り払ってそれを買うように、あらゆる犠牲を払っても「それを個人的に自分のものとしなければならない」と教えられたのです(R・C・トレンチ)。 一、畑に隠された宝――偶然に見つけた天の御国 このたとえは、「この世にあって望みもなく、神もない人」、すなわち「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」が(エペソ2章12、1節)、ふとしたことから神とその救いを見いだし、大喜びで信じ、何もかも捨てて神に従った人の姿を教えています。 このたとえの典型的な人は、サマリヤの女性です。彼女は、この世をすべてとして永遠のことなど考えず、神への渇きもなく、信仰には無関心でした。乱れた生活をしていたので、人目を避けて井戸に来ました。 ところが彼女は、そこでイエスと出会い、イエスがメシヤであることを知って、自分の水がめを置いて町へ行き、人々にあかしをしました。これは、「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現した」と教えている聖書の言葉の良い例です(ローマ10章20節)。 二、良い真珠を捜している商人――天の御国を捜し求めている人 このたとえは、「真理とは何か」、「永遠のいのちを得るためには、どうすればよいのか」と言って、救いを求め、ついに神とその救いを見いだして信じ、すべてを捨てて神に従った人の姿を教えています。 このたとえの典型的な人は、パウロです。彼は、「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者で」した(ピリピ3章6節)。 ところがパウロは、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」、自分「にとって得であったこのようなものをみな……損と思うようになり」、「キリストのためにすべてのものを捨て」ました(同3章8、7節)。これは、「神を求め……るなら、神を見いだす」と教えている聖書の言葉の良い例です(使徒17章27節)。 私たちが神とその救いを見いだしたのは、畑に隠された宝を偶然に見つけた人のようでしょうか。それとも良い真珠を捜し求めて、ついに見つけた商人のようでしょうか。前者は偶然に見え、後者は努力の賜物に見えますが、すべては神の摂理による導きです。 どちらにしても私たちは、あらゆる犠牲を払って、最も値うちのある宝や真珠を買うように、天の御国を自分のものとしなければならないのです。拙著「キリストの生涯の学び」62「天の御国のたとえ(4)」より転載
2007.11.14
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「天の御国のたとえ(3)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章31~33節 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われ」ました(31節)。これが「からし種のたとえ」です。 この「からし種のたとえ」(31、32節)と「パン種のたとえ」(33節)は、対になっており、両者とも教会は、「始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる」という真理を教えています(ヨブ8章7節)。しかし両者には次のような相違点があります。 「からし種のたとえは、神の国(教会)は、公然と現れて、隠れることができないということを教え、パン種のたとえは、神の国(教会)は、人の目に隠れて、現れて来るものではないということを教えています(ルカ17章20節)。前者は、真理が内から外におのずから成長する力を示し、後者は、真理がこの世を感化する力と働きを示しています」(R・C・トレンチ)。 一、からし種――教会の現れた成長力 キリスト教会は、五旬節の日にエルサレムに集まった百二十人ほどの弟子たちに聖霊が臨まれた時に誕生しました。弟子たちは、聖霊によって力を受け、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」キリストの証人となって出て行きました(使徒1章8節)。その結果、全世界に福音が宣べ伝えられ、至る所に教会が建てられていったのです。 キリストの福音は、個人を罪から救う力がありますが、それは、さらに聖書に基づいた教育や芸術また倫理というキリスト教文化を築き、そしてキリスト教を背景にした医療や福祉また社会運動にまで広がり、ついにキリスト教国家を形成するほど発展する力を持っています。 これは、まさにキリストと弟子たちという小さなからし種が生長して、全世界的な宗教という大樹になることを教えているのです。 二、パン種――教会の隠れた影響力 しかしこのような教会の外側に現れた成長や発展は、教会の内側に隠れた感化や影響を及ぼす聖霊の働きがなければ、できるものではありません。なぜならキリスト教会の歴史は、外側からの迫害と内側からの腐敗との絶えざる戦いの連続だからです。 教会(キリスト者)は、「神のうちに隠されてある」いのち(コロサイ3章3節)というパン種を失って、内と外に良い感化や影響を与えることができなくなれば、外側からの迫害か内側からの腐敗(または両者)によって、存在することさえ危うくなるでしょう。 教会は、外側からの迫害と内側からの腐敗によって衰退と堕落の憂き目を見ましたが、そのたびに改革と復興がなされ、著しく発展していきました。これはパン種のように、教会の中に隠れた感化や影響を及ぼす聖霊の働きによってなされたことなのです。 三、からし種とパン種――教会の二面性 教会を構成している者が人間である以上、それが個人であれ、民族であれ、好き嫌いや得手不得手、また長所短所があります。そのために、ある人やある民族は、からし種のような外側に現れたものを重んじ、ほかの人やほかの民族は、パン種のような内側に隠れたものを重んじて、ともに反対のものを軽んじています。 しかし真の教会は、からし種のような外側に現れたものだけでもなければ、パン種のような内側に隠れたものだけでもありません。教会の現れた成長力(からし種)は、教会の隠れた影響力(パン種)があってこそ可能なのであり、教会の隠れた影響力は、必ず教会の現れた成長力になることを忘れてはなりません。拙著「キリストの生涯の学び」61「天の御国のたとえ(3)」より転載
2007.11.12
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「天の御国のたとえ(2)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章24~50節 「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われ」ました(24節)。これが「毒麦のたとえ」です。 この「毒麦のたとえ」(24~30節)と「地引き網のたとえ」(47~50節)は、対になっており、多くの共通点があります。しかし、次のような相違点があることを見逃してはなりません。 「毒麦のたとえは、この世において正しい者と悪い者とが混在している事実を強調し、地引き網のたとえは、次に来る世において正しい者と悪い者とが分離される真理を強調しています。前者は、人は正しい者と悪い者とをえり分けてはならないことを、後者は、神は必ず正しい者と悪い者とをえり分けられることを教えています」(R・C・トレンチ)。 一、天の御国について 天の御国のたとえ話に、なぜ毒麦や悪い者また悪魔が出てくるのでしょうか。天の御国または神の国とは、神が支配される所で、これには、次のような二つの面があります。 ◇現された天の御国――これはキリストの再臨後に実現する有形の神の国のことです。 ◇隠された天の御国――これはペンテコステからキリストの再臨までの教会のことです。 ここで言う天の御国とは、隠された天の御国、すなわち教会のことを指しています。しかし教会には、さらに次のような二つの面があります。 ◇目に見えない教会――全時代の全世界における真に罪から救われたキリスト者の集まりのことで、「聖く傷のないものとなった栄光の教会」です(エペソ5章27節)。 ◇目に見える教会――各時代における地域的な有形のキリスト教会のことで、正しい者と悪い者が混在している不完全なものです。 二、毒麦のたとえ(24~30、36~43節) イエスは、「この世界」に「良い種」、すなわち「御国の子どもたち」を蒔いて教会を建てられますが、この目に見える教会には、「悪魔」が「毒麦」、すなわち「悪い者の子どもたち」を蒔いていきます(37~39節)。 私たちは、なぜ毒麦を抜き集めてはならず、「収穫まで、両方とも育つままにしてお」かなければならないのでしょうか(30節)。三つほどの理由が考えられます。 1.初めは麦と毒麦を区別することは難しく、毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれないからです(29節)。 2.両方とも育つままにしておけば、「不正を行う者はますます不正を行い……正しい者はいよいよ正しいことを行」って、麦と毒麦の違いがはっきりとわかるようになるからです(黙示録22章11節)。 3.植物の麦や毒麦の場合は不可能ですが、人間の場合は、毒麦が悔い改めて麦になることも可能であり、反対に麦が堕落して毒麦になることもあるからです。 けれども、麦(御国の子どもたち)と毒麦(悪い者の子どもたち)が混在しているのはこの世のことであり、この世の終わりには、御使いたちが麦と毒麦をえり分け、毒麦を火の燃える炉(地獄)に投げ込み、麦を倉(天の御国)に納めるのです(30、39~43節)。 三、地引き網のたとえ(47~50節) この地引き網のたとえにおいても、目に見える教会には「あらゆる種類の魚」、すなわち「良いもの」と「悪いもの」が混在していることを教えています(47、48節)。 網がいっぱいになると岸に引き上げ、魚を選別するように、この世の終わりには、御使いたちが来て、人をえり分け、正しい者を器(天の御国)に入れ、悪い者を火の燃える炉(地獄)に投げ込むのです(48~50節)。拙著「キリストの生涯の学び」60「天の御国のたとえ(2)」より転載
2007.11.10
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「天の御国のたとえ(1)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、13章1~23節 「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられ」ました(1節)。すると大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは、舟に移って腰をおろし、多くのことを彼らにたとえで話して聞かされました(2、3節)。これが「天の御国のたとえ」です。 イエスは、まず「種蒔きのたとえ」を話されました。 一、種蒔きのたとえ(1~9節) 「種」は、動植物が発生するもとであり、生命の最小単位です。すべての動植物は、種から生まれるということができます。植物の種は、良い地に蒔かれるならば、「芽を出して育ち」、「実をならせるもので」す(マルコ4章27、28節)。すなわち種には、生命の力と発育する力と結実する力があります。 イエスは、このたとえを通して、このような力を持っている同じ種を蒔いても、その蒔かれた土地の状態によって、実の結び方が全く違うことを教えられたのです。 1.道ばたに落ちた種――「人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった」(ルカ8章5節)。 2.土の薄い岩地に落ちた種――「土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった」(5、6節)。 3.いばらの真中に落ちた種――「いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった」(ルカ8章7節)。 4.良い地に落ちた種――「芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」(マルコ4章8節)。 二、たとえで話された理由(10~17節) イエスは、「なぜ、彼らにたとえでお話しになったので」しょうか(10節)。 「たとえ」というものは、抽象的でわかりにくい真理を、具体的でわかりやすい事物をもって示すので非常に効果的です。しかし、聞く耳のない者、すなわち故意に真理に目を閉じて、罪を悔い改めようとしない人には、「たとえ」は、かえってわからず、悟ることができません(13~15節)。 なぜなら宗教的な真理(神と神の啓示に関する真理)は、科学的な真理と異なり、神の聖い性質のゆえに道徳性が含まれているので、悪い心や生活を悔い改めようとしなければ、知ることができないものだからです。それは、おそらく聞く耳のない者が神の真理をけがして、これ以上、大きな罪を犯さないようにするためなのでしょう(7章6節)。 三、たとえの説明(18~23節) イエスは「たとえ」の説明をされました。「種は神のことば」であり(ルカ8章11節)、「土」は人の心を表しています。 1.道ばたの土――これは、自らを守らず、この世の罪悪の影響を受けて踏み固められた心です。しかしこれでは種は育たず、しかも、悪魔という鳥に食べられてしまいます。 2.土の薄い岩地――これは、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる」感情的な信仰心、また「根がない」根拠を持たない信仰心、そして「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま」うという御利益信仰を表しています(20、21節)。 3.いばらのある土――これは「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」という「いばら」を取り除かないで、信じようとする心です(マルコ4章19節)。 4.良い地――これは、思慮深く、いばらを取り除いて、よく耕された砕かれた心です。 生命の力と発育する力と結実する力を持った神の言葉が蒔かれても、心の状態の相違によって、実の結び方も違ってくるのです。拙著「キリストの生涯の学び」59「天の御国のたとえ(1)」より転載
2007.11.08
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「人を救いに導く心構え」 甲斐慎一郎 使徒の働き、16章31節 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(31節)。 この言葉は、私が主イエスを信じさえすれば、家族が自動的に救われるとか、必ず救われるという意味ではありません。この御言葉のごく自然な意味は、主イエスを信じるなら――これが条件ですが――あなたも、あなたの家族も、あなたの友達も、すなわち誰でも救われることができるということです。 人間は、その人が信仰を持たないかぎり罪から救われることはできません。しかしその人が少しでも信じやすいようにすることは必要です。これこそキリスト者の義務であり、特権です。それで聖書全体から人を救いに導く心構えについて学んでみましょう。 一、人々の救いを心から願う愛の祈り パウロは、同胞であるイスラエル人のことを憂い、「私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」と述べています(ローマ10章1節)。人を救いに導く第一の心構えは、人々の救いを心から願う愛の祈りをささげることです。なぜなら人が罪から救われるということは、人間のわざでは不可能であり、神が働いてくださらなければならないからです。 しかし私たちは、心の底から人々が罪から救われることを願っているでしょうか。私たちの心の中に人々が罪から救われることを望んでやまない願いがなければ、心から祈ることはできないでしょう。 私たちにこの願いがあるかどうかを判断する試金石となるものがあります。それは、自分の生活やこの世の利益を犠牲にしてまでも人々の救いのために奉仕しようとするか、それとも人々の救いよりも自分の生活やこの世の利益を守ろうとするか、ということです。 パウロは、同胞であるイスラエル人の救いのために自分の生活やこの世の利益どころか永遠のいのちさえ犠牲にすることをいとわなかったのです(ローマ9章3節)。 二、キリスト者の品性と生活によるあかし 主は、「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と言われました(マタイ5章16節)。人を救いに導く第二の心構えは、キリスト者にふさわしい品性が備わり、主のみこころにかなった生活をすることです。これには積極面と消極面があります。 積極面は、暗黒の世を照らす「世界の光」となり、社会の堕落を防ぎ、人々に良い感化や影響を与える「地の塩」となることです(マタイ5章13、14節)。 消極面は、人々につまずきを与えないことです(第一コリント10章32節)。特に私たちが注意しなければならないのは言葉です。私たちは、世の人々につまずきを与えるような無神経な一言で、いままでの努力が台なしになってしまうことがあるからです。 三、正確な事実を教える聖書の真実性 ルカは、その福音書の冒頭において「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実である」ことについて述べています(ルカ1章4節)。人を救いに導く第三の心構えは、聖書の真実性を確信し、必要に応じて語ることです。 これは、あかしにならないキリスト者につまずいていたり、またキリスト者にはつまずいていなくても、キリスト教や聖書や福音そのものにつまずいていたりする場合に必要です。 キリスト教信仰は、迷信や狂信ではなく、その内容は理にかなっており、その経典である聖書は、確かな証拠に基づいている正確な事実が記されているのです。 第一の愛の祈りは、聖霊の働きによって人が罪を自覚し、救いの必要性を悟るためであり、第二のキリスト者のあかしは、その人の心が備えられるためであり、第三の聖書の真実性は、その人が救いを確信するためです。 人は、この三拍子がそろう時、福音を信じて罪から救われることができるのです。
2007.11.06
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「人を救いに導く秘訣」 甲斐慎一郎 使徒の働き、8章1~40節 聖霊に満たされた理想的な信徒であるピリポの姿から(使徒6章5節)、人を救いに導く秘訣について学んでみましょう。 一、人々を救うために働かれる聖霊 五旬節(ペンテコステ)の日に誕生した教会は、キリストの言葉のように、エルサレムやユダヤだけでなく、サマリヤの全土、および地の果てにまで伝道するはずでした(使徒1章8節)。ところが偏狭なユダヤ主義的な考え方に凝り固まっていたエルサレム教会の人たちは、なかなか異邦人にまで福音を宣べ伝えようとはしませんでした。 しかし人々を救おうとされる聖霊の愛は、サマリヤの全土、および地の果てにまで及んでいました。そこで聖霊は、「激しい迫害」(1節)という非常手段によってエルサレムのキリスト者たちを諸地方に散らし(4節)、その中でピリポを用いて、サマリヤに「大きな喜び」(8節)を起こされました。さらに聖霊は、地の果てのアフリカの人々を救われるために、「大きな喜び」の真っ只中で用いられているピリポを荒れ果てている「ガザに下る道」(26節)に遣わし、帰国中のエチオピヤの宦官を救われたのです。 人を救われる方は、聖霊ご自身です。聖霊は、人々を救うために先へ先へと働いておられます。私たちは、まずこのことを信じなければなりません。聖書は、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた」と教えています(イザヤ59章16節)。この世界も人材が不足しているのです。 聖霊は、神のご計画の通りに働かれ、人々を救うために迫害や荒野という非常手段をもあえて用いられます。迫害は外から来る苦難や問題を、荒野は心の中における苦しみや戦いを表しています。これらも神が人々を救われるご計画の中に含まれているのです。 二、人が救われるために必要な神の言葉 聖霊の声に従ってエチオピヤの宦官に近づいたピリポは、「口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝え」ました(35節)。彼は聖書をよく知り、その聖書の中心であるキリストとその福音を指し示しました。なぜなら彼は、人は聖書が教えているキリストとその福音を信じることによってのみ救われることができることを知っていたからです(ローマ10章9、10節)。 私たちは、キリストの十字架による贖いを信じて神からの救いを受けていたとしても、自分の救いや救いの喜びそのものを人々に分け与えることはできません。聖書とその聖書が証ししているキリストとその福音を人々に指し示し、信じるように導く以外に方法はありません。人は、キリストとその福音を信じることによってのみ救われるのです。 三、人々を救うために用いられる人間 ピリポは、使徒たちのいるエルサレム教会に後ろ髪を引かれる思いを持たずにサマリヤ伝道に没頭し(5~13節)、またその伝道の成功の甘い夢に酔って腰を下ろすことなく荒野で一人の宦官を救いに導き(26~38節)、その人に固執することなく主に委ねて次の働きをしています(39、40節)。彼は、人々の「信仰を支配しようとする者ではなく……喜びのために働く協力者」でした(第二コリント1章24節)。 ピリポは、働きや奉仕者や名誉心には全く愛着を持っていませんでした。彼は、もしこれらに固執するならば、それは偶像になり、神のわざと自分の成長の妨げになることを知っていたからです。彼が愛着していたのは、神が人を救われるご計画でした。その後、彼は伝道者となり、家族を救いに導いたことを聖書は教えています(使徒21章8、9節)。 聖霊は、人々を救うために先へ先へと働いておられますが、その人々が救われるために神はピリポのように聖霊の導きに従って神の言葉と福音を語る人を用いられるのです。
2007.11.04
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「実を結ぶ伝道の秘訣」 甲斐慎一郎 使徒の働き、17章16~34節 使徒パウロのアテネにおける伝道から実を結ぶ伝道の秘訣について学んでみましょう。 一、聖霊の力による伝道 死からよみがえられたキリストは、弟子たちに、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われました(使徒1章8節)。 その後、五旬節の日(ペンテコステ)に弟子たちの上に聖霊が臨み、彼らは力強く福音を宣べ伝え、教会が建てられて、多くの実を結びましたが、その秘訣は聖霊に満たされたことであることは、言うまでもありません。 二、神の知恵による伝道 パウロは、使徒の働きの13章から伝道旅行をしています。17章はアテネにおける伝道です。アテネは、知的なレベルが高いにもかかわらず偶像に満ちていた町でした。これは現在の日本と非常によく似ています。ですからパウロのアテネ伝道は、現在の日本伝道の模範として学ぶことができます。 「アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ」ました(使徒17章16節)。この憤りの心は神に対する熱心さを表しています。しかしパウロは、この憤りの心をそのままストレートに出してアテネの人たちを厳しく叱責するようなことはしませんでした。彼は、「あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と言いました(同22、23節)。 パウロは、アテネの人たちの自尊心を傷つけず、彼らが宗教心にあつい方々であると褒めながら、無知のために偶像を拝んでいる過ちを正すために、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と、実に賢く、知恵を用いて教えています。彼は「外部の人に対して賢明にふるまい、……あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」と勧めています(コロサイ4章5、6節)。 パウロは、ユダヤ人に対して、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」と述べています(ローマ10章2、3節)。 熱心さは、知識に基づくものでなければ、「自分を義とするために、わたし(神)を罪に定める」ことになってしまいます(ヨブ40章8節)。聖書は「知恵のある者は人の心をとらえる」と教え(箴言11章30節)、人をとらえるためには熱心さとともに知恵が必要であることを教えています。 三、キリストの愛による伝道 伝道は福音の真理を語ることです。しかし真理を語るためには知恵とともに愛が必要です。パウロは「愛をもって真理を語り」と述べています(エペソ4章15節)。ある人が、「愛は知恵を生み出す」と言いましたが、まさにその通りです。人間というものは、真理を聞いても、それを語る人に愛を感じなければ、心を開かず、信じようとしないのです。 エズラ記の9章には、イスラエル人が異邦人と結婚した罪を犯した時、エズラ自身は、その罪を犯していないにもかかわらず、自分の罪として神の前に罪を告白して悔い改めたことが記されています(6、15節、10章1節)。これこそ私たちの罪をその身に負われたキリストの愛の心であり、このようにした時、イスラエル人は心から罪を悔い改めて、神に立ち返ったのです(10章1~12節)。
2007.11.02
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