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「時間の正しい用い方(2)」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、5章15~21節 三、時間の正しい選び方――信仰的な面 しかし私たちは、限られた一生の間に、何もかもすべてのことをすることはできないので、最終的には何を優先させ、何を選び取るかという信仰的(霊的)な判断が最も重要な問題になります。そのためには、次のような三つの原則があります。◇悪いことを捨て、良いことを選ぶ。◇良いことを捨て、より良いことを選ぶ。◇より良いことを捨て、最も良いことを選ぶ。 社会人ならば仕事をすること、主婦ならば家事をすること、学生ならば勉強することは良いことです。また余暇の時間にスポーツをしたり、旅行をしたり、健全なテレビ番組を見たりすることは悪いことではありません。 しかしキリスト者は、神と福音と教会のために、良いことを捨てて、より良いことを選び、そのより良いことさえ捨てて、最も良いことを選ばなければならないことがあります。これが神のみこころを優先させ、それを選び取るという信仰的(霊的)な判断です。 仕事や家事や勉強を一生懸命にすることによって神の栄光を現すことができることは言うまでもありませんが、集会に出席したり、奉仕したり、聖書を読んだり、祈りをしたりする時がないほど、これらのことに没頭することは、神のみこころではありません。 私たちは、時間という時や機会という時の大切さを身につけるなら、多くの無駄や損失を省いて能率や効率を上げることができます。しかし神は、この二つの時の大切さを十分に知っておられながら、それを犠牲にしてまでも、すなわち能率と効率を上げることを第一とする人間の目には、全く無駄であるだけでなく、かえって損失としか見えない苦難や逆境を用いてまでも、私たちを訓練して神とその救いを求める時を備えられます。次の3人は、その良い実例です。 1.ヨセフは、17歳の時、兄たちの憎しみによって血を分けた家族の者に捨てられる苦しみをなめ、ポティファルの妻の中傷によって真実に仕えた主人に裏切られる苦しみを受け、献酌官の忘恩によって無実の罪のために投獄された同じ仲間に忘れられる苦しみを味わいました。これは30歳でエジプトの統治者になるまで、それにふさわしい姿に変えられるために神の訓練を受けたのです。 2.モーセは、40歳から80歳までの40年間、ミデヤンの荒野において、自分の力や知恵に拠り頼んだり、ほかの人の理解や評価を当てにしたりすることに死んで、ただ神に拠り頼み、神からすべての必要なものが与えられることを学んで、イスラエルの民をエジプトから導き出すのにふさわしい指導者になるための訓練を受けたのです。 3.ダビデは、少年の時、王となるために油を注がれました。その後、サウル王にねたまれ、憎まれ、何回も殺されそうになりましたが、主を恐れて復讐せず、多くの悩みや苦しみに打ち勝ち、30歳で王となりました。その間、イスラエルの民を治めるのにふさわしい王となるための訓練を受けたのです。 このようにして私たちは、人間の目には、全く無駄であるだけでなく、かえって損失としか見えない苦難や逆境によって神から訓練を受ける時、神とその救いを真剣に求めるようになり、神のみこころを優先させ、それを選び取るという信仰的(霊的)な判断ができるようになるだけでなく、神のみこころを行う者に変えられて、神が私たちになさせようとしておられるわざを成し遂げて、地上で神の栄光を現すことができるのです。
2007.07.31
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「時間の正しい用い方(1)」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、5章15~21節 イエスは、「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかった」(マルコ6章31節)ほど忙しい方であられましたが、地上を去られる時、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ17章4節)と父なる神に報告されたのです。 キリスト者の地上における使命は、与えられた一生の時間内に、神が私たちになさせようとしておられるわざを成し遂げて、神の栄光を現すことです。そのためには、どのように時間を使ったならばよいのでしょうか。 一、時間の正しいとらえ方――論理的な面 まず時(時間)というものをどのように考え、どのようにとらえたならばよいのでしょうか。時(時間)には、次のような三種類の時があります。 1.時間という時(物理的な時) これは、日時や年月など、時計で計ることができる時です。 2.機会という時(社会的な時) しかし世の中には、時計では計れない大切な時というものがあります。それは、「機会を十分に生かして用いなさい」(エペソ5章16節)とある機会という時です。 3.神と救いを求める時(霊的な時)。 聖書は、もう一つの大切な時があることを教えています。それは、「眠りからさめるべき時」(ローマ13章11節)がもう来ており、「今は恵みの時、今は救いの日」(第二コリント6章2節)であると自覚して神とその救いを求める時です。 二、時間の正しい用い方――実際的な面 1.まず時間という時には、次のような三つの特徴があります。 (1)人は、過去、現在、未来という時の流れの中を未来に向かって前進するのみであり、立ち止まったり、後退したりすることはできないということです。 (2)人は、何事をするにも必ず一定の時間を要するものであり、時間を短縮するにしても限界があるということです。 (3)時間は、永遠に続いたとしても、一人一人にとっては有限であり、どのようなことにも必ず終わりが来るということです。 私たちは、二度と繰り返すことができない厳粛な人生を悔いのないように生きるために次のような心掛けが必要です。 ◇何事にも時間を厳守し、定められた期間内に物事を成し遂げること。 ◇計画を立てて規則正しい生活をすること。 私たちは、まとまった時間を自分の仕事をするためだけでなく、聖書を読んだり、祈りをしたりするために一日の計画を立て、聖日礼拝をはじめ諸集会に出席したり、奉仕したりするために一週間の計画を立てて、神と教会を中心とした規則正しい生活をしなければなりません。 ◇半端な時間を有効に用いること。 私たちは、まとまった時間だけでなく、人や物事を待っている間や電車の中、またちょっと空いた時間などを、聖書(本)を読んだり、祈りをしたり、福音を語るために人に話しかけたりして、無為に過ごさず、有効に用いなければなりません。 2.次に機会という時にも、次のような三つの特徴があります。 (1)機会は、自分でつくることができないということです。 これは世の中においては、いわゆる「時の運」であり、信仰の世界においては「摂理の時」です。 (2)機会は、いつ来るかわからないということです。 ですから私たちは、常に備えて良い機会を待っていなければなりません。 (3)機会は、いつまでも続くものではないということです。 ですから私たちは、決して良い機会をのがしてはならないのです。 私たちは、良い機会をのがさないために、次のような三つの心掛けが必要です。 ◇集会は、出られる時に出席するのではなく、定期集会や特別集会など、定められた良い機会をのがしてはなりません。 ◇聖書を読んだり、祈りをしたりする時も、朝の時間などの良い機会をのがすなら、後では仕事や雑用に追われて、なかなか良い時間がとれないものです。 ◇伝道のために人を訪問したり、奉仕したりする時も、相手の状態や境遇を見て良い機会を選ばなければ、相手の心をとらえることはむずかしいものです。次回の「説教要約 298」「時間の正しい用い方(2)」に続く
2007.07.29
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「神の奥義の管理者」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、4章1~5節 「こういうわけで、私たちを、キリストのしもベ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます」(1、2節)。 一、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者である伝道者(1節) パウロは、自分のことを「キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい」と述べています(1節)。キリストのしもべは、「キリストの命令に従って行動し、キリストに報告する者」です。管理者は、「所有者ではなく、すべてのものの所有者である神のものを忠実に管理し、有益に使用した後、神に報告書を提出する者」です。 キリストのしもべ、また神の奥義の管理者は、第一義的には伝道者ですが、伝道者とともに教会を建て上げるキリスト者も同様です。 二、神の奥義の管理者である伝道者、タラントの管理者であるキリスト者(1節) 私たちは何を管理するのでしょうか。パウロは「神の奥義の管理者」と述べています。神の奥義とは、「人間の理性や人の探求ではわからない神と神に関する真理」、すなわち「神の啓示」のことで、具体的には、「キリストの福音の真理」また「神のご計画の全体」(使徒20章27節)ということができます。 私たちは、神から与えられたタラント、すなわち信仰や祈りや預言などの御霊の賜物、金銭や財産などの物質的な賜物、体力や学力また才能や地位などの能力的な賜物、そして時間など、すべての賜物を管理する者です。 三、どこまでも忠実であることが要求される管理者(2節) 「タラントのたとえ」(マタイ25章14~30節)も、「思慮深い管理人のたとえ」(ルカ12章41~48節)も、「管理者には、忠実であることが要求され」(2節)、終わりの日には「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21節)と、主人である神から称賛を受けています。 「不正な管理人のたとえ」(ルカ16章1~13節)の中の「小さい事」(10節)や「不正の富」(11節)や「他人のもの」(12節)は、地上のものを表わし、「大きい事」(10節)や「まことの富」(11節)や「あなたがたのもの」(12節)は、天上のものを表わしています(R・C・トレンチ)。私たちは、この地上のものに忠実であるかどうかによって、天上のものを与えられるかどうかが決まります。すなわち、世の富を忠実に管理し、神と人のために正しく用いていくなら、天の宝が与えられます。しかし、それを浪費したり、乱費したりするなら、不正な管理人として、天の宝を失ってしまうのです。 四、他の人や自分のさばきではなく、神のさばきの前に生きる管理者(3-5節) 「タラントのたとえ」(マタイ25章14~30節)の中の言葉は、それぞれ次のようなことを表しています。◇旅に出ていく主人……昇天されたキリスト◇しもべたち……キリスト者◇自分の財産(タラント)……神からの賜物◇預かる……神から委託される◇商売をする……神に奉仕する◇帰って来た主人……再臨されたキリスト◇清算をする……神の審判を受ける◇もうける……役に立てて、実を結ぶ◇多くの物を任せられる……天の御国に入る◇地の中に隠す……役に立てないで死蔵する◇外の暗やみに追い出される……地獄へ行く 私たちは、キリストが昇天してから再臨されるまでの間、神から与えられた賜物を有効に用いるなら、豊かな実を結んで、神から報いを受けます。管理者にとって最も大切なのことは、神のさばき、すなわち神からの称賛で、他人や自分の評価など取るに足りないということです(3~5節)。「彼は他人のさばきに対して超然としているだけではない。自分についての自分自身の判断からも超然としているのである」(G・C・モルガン著『コリント人への手紙』118頁、聖書図書刊行会、1956年)。
2007.07.27
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「メソジスト教会の特色と働き(3)」 甲斐慎一郎 五、現代における日本の教会の社会活動 1.18世紀の英国と現代の日本の違い 18世紀の英国と現代の日本では、経済の状態も、社会の仕組みも全く違っています。同じ資本主義の社会でも、現代の日本は、高度に発達して安定しています。社会福祉も充実して、生活保護も受けられるようになっています。病院や学校も、まだ改良の余地はあるにしても、当時の英国とは比較にならないほど、数にしても質にしても整っています。また現在の日本は治安もよく、奴隷制度もありません。 18世紀の英国において初代のメソジストの人々がして来た社会活動は、現在の日本においては、キリスト教会よりも国や地方自治体、また民間団体や会社によって行われているのが現状です。確かに明治や大正そして昭和の前半は、欧米のキリスト教の宣教団体が設立にかかわってミッション・スクールやキリスト教主義の病院を建てましたが、国や地方自治体、また民間団体に比べれば、わずかなものです。 因みに2006年版の「クリスチャン情報ブック」(クリスチャン新聞発行、いのちのことば社発売)によると、メソジスト教会だけでなく、様々な教派が設立にかかわったキリスト教主義の学校・各種学校・専門学校(小学校、中学校、高等学校、短期大学、大学を別とする)、キリスト教主義の病院・診療所・ホスピス、キリスト教主義の老人ホーム・福祉施設などの数は、以下の通りです。 ◇キリスト教主義の学校・各種学校・専門学校――253 ◇キリスト教主義の病院・診療所・ホスピス――175 ◇キリスト教主義の老人ホーム・福祉施設など――406 2.時代によって形を変える社会活動 前に述べた初代のメソジストの7つの社会活動のうち、前の4つは、社会的な福祉に関する活動であり、後の3つは、人間の基本的な人権に関する運動です。前者の社会的な福祉に関する活動については、時代の変化によって、形を変えています。 キリスト教会が置かれている国や社会が未開で、文明が発達するまでは、特に欧米においては、教会が、福祉施設や病院や学校でもありました。これは、キリスト教会という柵の中に世と世の人を入れるという、いわば教会主導型の社会活動です。ところが教会は、社会的な福祉にのみ力を注ぐと、教会本来の霊的な奉仕が十分にできないということが起きてきます。 しかし文明が発達するなら、次第に分業化し、教会は、いままでして来た多くの奉仕を国や地方自治体や民間団体に委譲し、教会本来の霊的な奉仕が十分にできるようになります。そうなれば、教会の中で霊的な訓練を受けたキリスト者が、世と世の人々の中へ出て行って、社会活動をすることができます。これは、いわば個人主導型の社会活動です。 後者の基本的な人権に関する運動については、現代は奴隷はいなくても、社会的な弱者や差別を受けている人々は、いつの時代もいるので、教会は、これらの人々の人権を守る社会的な責任を果たす必要があります。 3.現代の日本の教会の社会活動 現代の日本のように文明が発達した非キリスト教の国において、前者の社会的な福祉に関する活動は、かつては欧米のキリスト教の宣教団体の援助によって教会主導型の社会活動をしてきましたが、現在においては、教会主導型の社会活動も多くありますが、それは、政教分離、また宗教法人法など、様々な法律の制約を受けるので、教会が社会活動をすることができるキリスト者を育てて、世と世の人々の中に出て行って社会活動をする個人主導型の社会活動が少しずつ増えているように見受けられます。 後者の基本的な人権に関する運動は、時と場合によって教会主導型と個人主導型の両者があるように思われます。 このようにして教会は、「空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢に」いる人々の世話をすることによってキリストに仕えていくのです(マタイ25章44、40節)。
2007.07.25
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「メソジスト教会の特色と働き(2)」 甲斐慎一郎 三、メソジスト教会の働きについて ウェスレーが行った運動は、「メソジスト運動」と呼ばれています。それは、もともと宗教的な「信仰復興運動(リバイバル)」、すなわち「聖書が初めから教えている信仰に立ち返る運動」でしたが、それが教会内にとどまることなく、18世紀のイギリスが直面していたあらゆる社会問題を解決する運動として、教会外にまで広く及んでいきました。 18世紀の半ばは、イギリスにおいて産業革命が起こった時期です。イギリスは資本主義の社会になり、大地主が現れ、貧富の差がはげしくなっていきました。1741年にロンドンをおそった不景気の時には、多くの失業者が町にあふれ、貧しい人たちは、飢えと寒さにふるえ、衰弱と病気に悩む人たちが大ぜいいました。治安は失われ、強盗をはたらく人がふえ、刑務所には囚人が満ちていました。このような状況の中で、ウェスレーは、聖書が教える福音を宣べ伝えるとともに、次のような社会運動をしました。 1.貧民救済運動 ウェスレーは、ニューキャッスルに孤児院を建て、ファウンドリーでは、余裕のある人たちから衣類を集め、貧しい人たちに分け与えました。ロンドンのウェスト・ストリート・チャペルの客間は、スープの給与所として用いられました。彼は、貧民を救済するために、定期的に献金を集め、自らも多くのものをささげたのです。 2.労働者救済活動 ウェスレーは、ファウンドリーの会の部屋を仕事場にし、最も貧しい会員たちを雇って紡績の仕事をさせました。また仕事のないすべての女性たちを雇って、編み物をさせ、賃金を支払って、生活を助けました。彼は、1746年には、「貧民の銀行」を設立し、貧しい労働者に貸すために公に訴えて、資本金を集めたのです。 3.病人の訪問と医療活動 ウェスレーは、訪問する人を任命して、病人を訪問させました。しかし医者にもかかれず、薬も買えない貧しい病人が死んでいくのを知った彼は、ファウンドリー、ウェスト・ストリート、ブリストルに無料診療所を設けて、病人を助けたのです。 4.学校の設立と教育活動 ウェスレーは、貧しくて教育を受けられない子供たちのために炭鉱夫の子供たちの学校を設立しました。キングズウッドには炭鉱夫の子供たちの学校、ロンドンには貧民の子供たちの学校、ニューキャッスルには孤児院を建て、また多くの日曜学校を設立したのです。 5.禁酒禁煙運動 ウェスレーは、多くのアルコール依存症の悲惨な姿を見て、酒の害毒を説き、酒類の販売を禁止することを提案しました。またかぎ煙草や巻き煙草などを避けるように指導したのです。 6.刑務所改良運動 ウェスレーは、ホーリークラブの時代から刑務所伝道をしていましたが、キリスト者になってからは、刑務所改良運動に力を尽くしたのです。 7.奴隷解放運動 ウェスレーは、初めのころは精神的な面から、奴隷の待遇改善に関心を持っていましたが、奴隷制度の廃止までは考えていませんでした。しかし次第に奴隷制度が社会制度として認められないだけでなく、福音に反することを知って、奴隷解放運動に尽力し、奴隷を非合法化する戦いをしていたウィルバーフォースに激励の手紙を書き送ったのです。 四、現代のメソジスト教会の特色について 前述したことは、初代メソジスト教会の特色と働きですが、現代のメソジスト教会の特色は、次の4つにまとめることができます。 1.ジョン・ウェスレーが行った7つの社会活動を生み出すもとになっている聖書をすべて神の言葉として信じ、救いを体験し、神の教えを実行していくことです。 2.神の教えを実行していくために、ホーリークラブの人たちのように「きよくなる」ことを追い求め、「几帳面(メソジカル)な生活」をすることです。 3.この「救い」と「きよめ」を自分たちだけが信じて、体験するのではなく、全世界の人たちに宣べ伝えて、教会を建て上げていくことです。 4.「救い」と「きよめ」を体験し、教会の中で信仰の訓練を受け、世と世の人たちの中に出て行って、社会活動をすることです。
2007.07.23
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「メソジスト教会の特色と働き(1)」 甲斐慎一郎 一、メソジス教会の起源について メソジスト教会の創立者であるジョン・ウェスレーは、次のように述べています。 「1729年、イギリスに二人の青年(ジョン・ウェスレーと弟のチャールス・ウェスレー)がいて、聖書を読んでいたところ、きよくなければ救われない、すなわち神の国にはいることができないことを知り、自分たちがそれを追い求めるとともに、ほかの人たちにもそのようにすることを勧めました。1937年になって、人は、きよめられる前に義(正しい)とされることを知りましたが、きよくなることが目標であることを悟りました。こうして神は、聖なる民を起こそうとして彼らを遣わされたのです」。 1729年に弟のチャールス・ウェスレーと二人の友人が「きよくなる」ことを追い求めて、ともに集まる「ホーリークラブ」を結成したので、ジョン・ウェスレーもこれに加わりました。彼らは、朝早く起き、時間を決めて聖書を読み、祈り、黙想するだけでなく、一日の時間をいろいろな活動のためにふり分け、予定に忠実に行動するという習慣を身につけました。祈りや会話、食事や睡眠、そして金銭に関してむだ遣いをしないように、すなわち、すべてのことが神の栄光のためになされるように、綿密な規則をつくりました。一日の思いや行動は、くわしく日記に記し、その中で自分を反省し、新しい決心をしました。そして週の終わりには、その日記をもちよって、互いに告白し、励まし合い、祈り合いました。 周囲の人たちは、彼らの几帳面な生活態度を見て、彼らのことを「几帳面屋」というあだ名をつけました。この「几帳面屋」というのが「メソジスト」という英語です。 ジョン・ウェスレーは、「英国国教会(日本では聖公会)」の牧師で、彼自身は英国国教会から出るつもりはありませんでしたが、周囲の様々な事情から「英国国教会」とは別に「メソジスト教会」を設立したのです。 二、メソジスト教会の特色について 「メソジスト」は、「几帳面屋」という意味ですが、「メソジスト」という言葉を直訳するならば、「メソッド(方法)を重んじる人(方法主義者)」となります。このことを「ウザ撃ちの事件」から学んでみましょう。 ダビデは、ここまで導いてくださった神を忘れることなく、感謝と喜びに溢れて、神の箱を運び上らせようとしました。彼の意図は正しく、その動機は純粋でした。私たちも、このような心を決して失ってはなりません。しかしダビデは「この方(神)を定めのとおりに求め」ず(第一歴代誌15章13節)、その方法が間違っていたために(民数記4章15節)、ウザは神に打たれて死に、喜びの行列は一瞬にして恐怖と悲しみの行列に変わってしまいました。このことを深く反省したダビデは、二回目の時は正しい方法で無事に神の箱を運び上らせたのです(第一歴代誌15章15節)。 私たちは、「動機さえ純粋であれば、方法なんか構わないではないか」と決して言ってはなりません。この恐るべきウザ撃ちの事件は、とかく動機の純粋さだけを強調し、神の定められた方法や手段などを七面倒臭いものとして軽視しやすい現代の私たちに、神を求める方法や神に仕える手段が、どんなに大切であるかを教えています。すなわち神には神の方法や仕方というものがあるのです。 聖書は、私たちキリスト者は、言葉や態度また行動や生活に関して、世のやり方や方法とは違ったキリストのかおりを放つキリスト者にふさわしい仕方や方法を教えています。このことは教会の一切の営みや働きに関しても同様であり、世のやり方や方法とは異なったキリストの花嫁である教会にふさわしい仕方や方法というものがあるのです。 「メソジスト(直訳、方法を重んじる人)」は、神の恵みを受けたり、神に仕えたりするための方法や手段を重んじる人たちの群れです。それは、目的のためには手段を選ばなかったり、手段を無視して良い結果を得ようとしたりする「熱狂主義者」とは正反対の歩みをする者なのです。次回の「説教要約 294」「メソジスト教会の特色と働き(2)」に続く
2007.07.21
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「聖書が教えている奇蹟(2)」 甲斐慎一郎 三、父と子と聖霊なる三位一体の神の漸進的啓示と奇蹟について 旧新約聖書の三位一体の神についての漸進的啓示には次のような特徴があります。 1.旧約時代――父なる神が天から「しるしと不思議」を示して、ご自身を現された時代であり、最も初歩的な段階です。 イスラエル人は多くの「しるしや不思議」を見ても、その信仰は長続きせず、神に逆らい、つぶやき、そして滅ぼされました。 奇蹟が頻繁に行われたのは危機の時代や邪悪な時代であり、かえって奇蹟が行われなかった時の方が良い時代です。ヘブル人への手紙11章の「信仰偉人列伝」に記されている前半の「信仰の勇者たち」(4~28節)が奇蹟を行っていないことは注目すべきことです。 2.キリスト在世時代――子なる神が地上に降り、人となってご自身を現された時代であり、第二の段階です。 イエスは多くの奇蹟を行われました。しかし「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(ヨハネ4章48節)とか「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12章39節)とかと言われ、「しるしや不思議」を求めるのは、悪い時代であり、不信仰であることを強調されたのです。 3.五旬節以後の時代――聖霊なる神が人の心に内住して、ご自身を現された時代であり、完成した最終的な段階です。 確かにペテロやパウロは、「使徒の働き」において、多くの「奇蹟と不思議と力あるわざ」を行っています。しかしそれは、「使徒としてのしるし」(第二コリント12章12節)のために行ったのであり、聖書は、このようなパウロでさえ絶えず奇蹟を行ったのではないことを教えています(同11章24~33節)。 「ローマ人への手紙」以後の書簡においても、確かに「奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者……異言を語る者」について記されています(第一コリント12章28節)。しかしパウロは、このような「いやしや異言」よりも大事なもの、いや最も大切で、これがなければ何の値打ちもなく、何の役にも立たないもの、すなわち「愛」(同13章1~13節)について教えているのです。 最も大切なことは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」ることです(ローマ5章5節)。言い換えれば聖霊によって私たちの中にキリストがおられ(コロサイ1章27節)、私たちの「うちにキリストが形造られ」て(ガラテヤ4章19節)、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(同5章22、23節)という御霊の実を結ぶことこそ何よりも重要なことなのです。 四、病の癒しより人の癒し、そして国いや全世界の癒しについて 「中国のことわざに『上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は病を癒す』というのがある。病気のことだけを見ているのは薮医者、病気のもとである心を癒して元気にさせるのがまともな医者、皆が元気を失うような社会の常識や価値観、ひいては社会のシステムまで本来化するように、と心を尽くすのが本当の名医だという意味であろう」(朝日新聞 1996年6月6日夕刊、経済気象台より抜粋)。 「使徒の働き」の3章には、まず1~10節に生まれつき足の不自由な男が歩いたという病の癒しが記されいます。しかしペテロは、その後の説教(11~26節)において病の癒しを強調したのではなく、キリストの十字架の救いについて述べ(13~18節)、「この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださる」(26節)という人の癒しについて語っています。そして彼は、この説教において「あの万物の改まる時」(21節)、言い換えれば「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられ」る(ローマ8章21節)という国いや全世界や全宇宙の癒しについて述べているのです。
2007.07.19
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「聖書が教えている奇蹟(1)」 甲斐慎一郎 聖書には旧約と新約とを問わず数多くの奇蹟が記されています。旧新約聖書に記されている数々の奇蹟を私たちはどのように考えたならばよいのでしょうか。 旧約時代においてはモーセとヨシュア、またエリヤとエリシャ、新約時代においてはイエスと弟子たちが奇蹟を行ったので、現代の日本に住んでいる私たちも彼らと全く同じように奇蹟を行うことができるのでしょうか。それとも奇蹟は旧新約聖書の時代だけで、現代においては行われないのでしょうか。これは非常に大切な問題です。そこで「奇蹟」について旧新約聖書全体から考察してみたいと思います。 一、旧新約聖書の中における奇蹟 確かに聖書には多くの奇蹟が記されていますが、よく調べるなら、5つの時代に集中しており、それ以外の時は行われていません。 1.BC1440年頃。「モーセとヨシュアの時代」――時代の転換期です。 2.BC850年頃。「エリヤとエリシャの時代」――危機の時代です。 3.BC700年頃。「ヒゼキヤの時代」――危機の時代です。 4.BC550年頃。「ダニエルの時代」――危機の時代です。 5.AD30年頃。「イエスと弟子たちの時代」――時代の転換期です。 このように聖書における奇蹟は、「時代の転換期」や「危機の時代」にのみ行われたのであり、決して無秩序に、またのべつ幕無しに行われたのではありません。 二、奇蹟の真意と目的について 1.旧約時代の奇蹟 「旧約時代は、神も神の助けも、また多くの霊的な事実もすべて目に見える形をもったものとして現された時代です。……エリシャの働きにおける奇蹟的な要素の真意と目的は、主がともにおられることとその大能の力をイスラエルに悟らせ、そしてこのような宗教的な復興によって、切迫している国民的な刑罰を免れさせようとしていることを示しているのです」(A・イーダーシャイム)。 これはモーセとヨシュア、ヒゼキヤとダニエルの時代も同じであり、神は周囲の異邦人にもこのことを示されたのです。 2.キリスト在世当時の奇蹟 イエスは、水をぶどう酒に変えられた時、ヨハネは、「このことを最初のしるし(欄外の訳は、証拠としての奇蹟)としてガリラヤのカナで行い」と記しています(ヨハネ2章12節)。イエスの奇蹟は、ご自身が神であり、メシヤである証拠として行われたのです。 イエスは悪魔の誘惑に負けて、石をパンにするような奇蹟は行われませんでした(マタイ4章4節)。かえって五千人の給食の奇蹟を行われた後、「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って」、退かれただけでなく(ヨハネ6章15節)、「いのちのパンの説教」をして、ご自分がメシヤであり、人はメシヤを信じるならば、永遠に生きることができるという霊的な救いと真理を語られたのです(同6章35~58節)。 3.「使徒の働き」における奇蹟 ペテロは、イエスの御名によって生まれつき足の不自由な男を歩かせました(使徒3章6~8節)。この男が歩いたり、はねたりしたことは「見る目のある人々には、メシヤの時代が来たことのしるしであった。なぜなら、メシヤの時代とは、古くから言われているように『そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね』る(イザヤ35章6節)時代であるからである。さきにイエス御自身の力あるみわざが暗示した事柄が、今や弟子たちの行ったこの力あるわざによって確証された。それは、イエスはまさしく主でありメシヤである、ということである」(F・F・ブルース著『使徒行伝』95頁、聖書図書刊行会、1958年)。次回の「説教要約 292」「聖書が教えている奇蹟(2)」に続く
2007.07.17
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「聖書を読むことの大切さ(2)」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章15~17節 二、聖書を読むならば、最も大切な愛と力を受けることができるからです 太陽は、光とともに熱を発しています。熱は愛であり、また力です。神のことばには、光だけでなく愛と力があります。エマオという村に行く途中の二人の弟子は、イエスと出会い、別れた後、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」とルカは記しています(ルカ24章32節)。 イエスは、バプテスマのヨハネのことを、「燃えて輝くともしび」であると言われました(ヨハネ5章35節)。ジョン・ウェスレーは「燃ゆる心の騎士」と呼ばれました。二人とも聖霊の火に燃やされ、御霊の力に満たされていたからです。 私たちには愛と力が必要ですが、その秘訣は御霊に満たされることです。五旬節の日に弟子たちは聖霊に満たされましたが(使徒2章1、4節)、この時、神は「彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです」(同15章8、9節)。 信仰こそ聖霊に満たされる条件であり、愛と力が与えられる秘訣です。そして信仰は、神と神のことばである聖書を信じることです(ローマ10章17節)。 イギリスの牧師で、孤児院を設立したジョージ・ミューラーは、「霊的生活の活力は生活と思想において聖書が占める位置に正確に比例する」と述べています。 アメリカの大衆伝道者のD・L・ムーディーは、「私は信仰を求めて祈った。しかし信仰は来そうになかった。ある日、『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです』(ローマ10章17節)という聖句を見いだした。その時から私は聖書を開き、学び始めた。そして信仰は日々成長し続けていった」と告白しています。 私たちは、聖書を読み、みことばを心から信じるならば、信仰は日々成長し、聖霊の火に燃やされ、御霊の力に満たされるという人間にとって最も大切な愛と力を受けることができるのです。 三、聖書を読むならば、最も大切な奉仕と働きをすることができるからです 私たちは、聖書の光に照らされて知恵と真理を知り、みことばを心から信じて聖霊に満たされ、愛と力を受けるならば、それは必ず私たちの行為と生活、そして奉仕と働きに現れます。パウロが「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」と述べているとおりです(第二テモテ3章16、17節)。 ユダの王ヨシヤは、主の宮で聖書を見つけた時、心から悔い改めて宗教改革を行いました(第二歴代誌34章14~33節)。 18世紀のイギリスにおける信仰の状態は、ジョン・ウェスレーがメソジスト運動によって信仰復興を起こすまで、さんたんたるものでした。特に聖書は全く見向きもされませんでした。その様子を女流作家のハンナ・モーアは、「チェッダー教区は、わずかに一冊の聖書があっただけである。しかもその一冊は、花瓶の台として用いられていた。教会の状態はさらに悪かった」と述べています。 2000年にわたる教会歴史の中で西暦1500年以後の400年は、各世紀において聖書の発見に基づいた顕著な宗教運動を見ることができます。 ◇16世紀――ルター、ツウィングリ、カルヴァン、ノックスらによる宗教改革。 ◇17世紀――清教徒革命とクロムウェルの共和制に見るピューリタン運動。 ◇18世紀――ジョン・ウェスレーとその後継者によるメソジスト運動。 ◇19世紀――世界の各地に起きたリバイバル(信仰復興運動)。 これらの宗教運動は、それぞれ時代と地域を異にし、その内容と特徴も違ったものですが、共通していることは、霊的な意味において聖書を発見し、神の教えに立ち返ったことです。そのことによって個人も家庭も、そして教会も社会もどんなに変えられたことでしょうか。 私たちは、ほんとうに聖書を読むならば、必ず私たちの行為と生活が変えられて、人間にとって最も大切な奉仕と働きをすることができるのです。
2007.07.15
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「聖書を読むことの大切さ(1)」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章15~17節 「幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(第二テモテ3章15~17節)。 メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、説教集の序文において、「わたしを一書(聖書)の人にしてください」と述べています。ジョン・ウェスレーは、東奔西走して伝道に費やした半生を振り返って、聖書を読むことの大切さをだれよりもよく知っていたのではないでしょうか。私たちは、なぜ聖書を読まなければならないのでしょうか。3つの理由があります。 一、聖書を読むならば、最も大切な知恵と真理を知ることができるからです ポンテオ・ピラトはイエスに「真理とは何ですか」(ヨハネ18章39節)と聞きましたが、これは古今東西を問わず、すべての人が最も知りたいことではないでしょうか。このような人間に対して神は、永遠に変わらない最も大切な真理を一冊の本に書き記してくださいました。それが聖書です。 聖書は、私たちに、おもに次のような3つの真理を教えています。◇第一は、神についての真理です。◇第二は、人についての真理です。◇第三は、救いについての真理です。 もし私たちが聖書を読まなければ、真の神がどのような方であるのかということも、また人は何者であり、どこから来て、どこへ行くのか、さらにそのありのままの罪深い姿も、そしてその罪から救われるためには、どうすればよいのかということも、何も分からず、暗闇に閉じ込められてしまうことでしょう。 ある老夫婦が毎晩、聖書を手にして読み続けました。数回読んでから「もしこの本の言うことが正しいなら、私たちはまちがっている」と考えました。なお読んでいくうちに、「もしこの本の言うことが正しいなら、私たちは滅びる」と述べ、さらに大いなる関心をもって読み続けるうちに、「もしこの本の言うことが正しいなら、私たちは救われるかも知れない」と叫びました。彼らは、まもなくキリストを信じて救われたのです。 パウロは、幼いころから聖書に親しんで来たテモテに、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができる」と述べ(15節)、ベレヤのユダヤ人は、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった」のです(使徒17章11、12節)。 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と記されているように(詩篇119篇105節)、私たちは、暗闇を照らすともしびとしての聖書を読むならば、人間にとって最も大切な知恵と真理を知ることができるのです。次回の「説教要約 290」「聖書を読むことの大切さ(2)」に続く
2007.07.13
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「良いサマリヤ人(2)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章25~37節 この律法の専門家は、永遠のいのちと律法に関するイエスとの問答において、学者として、正しく答えました(27節)。イエスは、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と言われました(28節)。「しかし彼は、自分の正しさを示そうとして」質問したのです(29節)。 これはおそらく、金持ちの役人のように、「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と自慢したかったからでしょう(ルカ18章21節)。しかしイエスは、彼の中に真の隣人愛のないことを見抜いておられました。そこで、彼との問答において、真の隣人愛について教えられたのです。 一、動機としての隣人愛――無意識の愛 この律法の専門家は、「私の隣人とは、だれのことですか」とイエスに尋ねました(29節)。これはあたかも、「私は、どのような人を私の隣人として愛すればよいのですか」と聞いているかのようです。しかしこれでは、ある人を隣人、ほかの人をそうではない人として、差別しているのではないでしょうか。 イエスは、山上の説教において、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と教えられました(マタイ5章45節)。これこそ、人を差別しない真の愛ではないでしょうか。 「愛は意識するものではなく、思わぬ仕方であふれ出るものである。パウロの愛に対する考えの基本には、計算高い確かさの要素など少しもない。……意識しないということが愛の特質である。……私たちの信仰生活を振り返ってみて、説明できない自発的で真実な愛の感情があるのに驚くことがある」(オズワルド・チェンバーズ著「いと高き方のもとに」127頁、いのちのことば社、1999年)。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」(ローマ5章5節)、当然のこととして、ごく自然に隣人を愛するようになります。それは意識しないものです。 もし私たちが、隣人を愛していることを意識的に感じることを求めるなら、もはや真の愛ではありません。それは、自分で自分を喜ばせる自己満足や、自分で自分を賞賛する自己礼賛ではないでしょうか。 二、方法としての隣人愛――愛による知恵 このサマリヤ人は、強盗に襲われた人を見た時、その愛のゆえに彼に近寄って行きましたが、それとともに彼を助けるにはどうすればよいのかということを即座に考え、一つ一つ適切な処置を施しています(34、35節)。 オズワルド・チェンバーズの言うように、「意識しないということが愛の特質で」すが、その逆、すなわち、人は愛のゆえに様々なことを考えるようになるだけでなく、最も良い方法と知恵を生み出します。 この愛が生み出す知恵は、心の中で考えるものですから、無意識ではありませんが、当然のこととして、ごく自然に、何が最も良い方法なのかということを考え続けるものなのです。 三、結果としての隣人愛――愛の行為 イエスは、律法の専門家に、「それを実行しなさい」(28節)、「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)と、二度も愛を実行に移すように勧められました。 このサマリヤ人は、その愛のゆえに強盗に襲われた者を助けるには、どうすればよいのかということを考えただけでなく、その考えたことを当然のこととして、ごく自然に実践に移しています。このように愛は、それぞれ人によって、その表れは一様ではありませんが、必ず実行が伴うものなのです。拙著「キリストの生涯の学び」112 「良いサマリヤ人(2)」より転載
2007.07.11
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「良いサマリヤ人(1)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、10章25~37節 ここは、「良いサマリヤ人」のたとえ話として、よく知られています。このたとえ話は、イエスと律法の専門家(律法学者)との問答の中で語られたものです。 この「良いサマリヤ人」のたとえ話は、次のような3つに分けることができます。◇イエスと律法学者との問答(25~29節)◇良いサマリヤ人のたとえ話(30~35節)◇イエスと律法学者との問答(36、37節) ここでは、イエスと律法学者との問答を理解するために、先に良いサマリヤ人のたとえ話を学んでみたいと思います。 一、強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、なぐられて、半殺しにされた人の姿(30節) 「ある人」とはユダヤ人です。「エルサレム」は神の都であり、「エリコ」は呪われた町でしたが、多くの祭司が住んでいました。「エルサレムからエリコへ下る道」は、多くの強盗がいて、殺人が行われたので、「血まみれの道」と呼ばれていました(ジョン・ウェスレー)。この道で一人のユダヤ人が強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、なぐられて、半殺しにされたのです。 私たちは、このような出来事の中に、神を離れて、罪のために堕落し、悪魔によって義と聖の衣をはぎ取られ、罪の刑罰を受けて、霊的に死んでいる悲惨な人間の姿を見ることができるのです(エペソ2章1~3節)。 二、強盗に襲われた者を見ても、隣人になれなかった祭司やレビ人の姿(31、32節) そこへ、祭司とレビ人が来ましたが、二人とも強盗に襲われた者を見ても、見ぬふりをして、通り過ぎて行きました。「祭司」は、神殿においていけにえをささげる人で、律法学者とともに、ユダヤの宗教的な指導者であり、「レビ人」は、その祭司に仕えて助ける人です。 神の律法を学んで、それを実行すべき祭司やレビ人が、知らぬ顔をして通り過ぎて行ったことは、当時のユダヤ教の姿をよく教えています。彼らは、イエスに、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」と言われるような人たちでした(マタイ9章13節)。彼らは、強盗に襲われた者を見ても、隣人になれなかったのです。 私たちは、このような出来事の中に、律法やいけにえは、罪のために堕落し、霊的に死んでいる人間を救うことができないことを教えられるのです(ヘブル10章1~4節)。 三、強盗に襲われた者を見てあわれみ、隣人になったサマリヤ人の姿(33~35節) ところが、「あるサマリヤ人」が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷の手当てをしただけでなく、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱しました。しかし、これで十分とは考えず、次の日、宿屋の主人に金を渡して、介抱を依頼し、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」とまで言ったのです。 その当時、「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをし」ませんでした(ヨハネ4章9節)。なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、サマリヤ人はユダヤ人を敵視していたからです。そのサマリヤ人が、強盗に襲われたユダヤ人の隣人になり、かゆい所に手が届く、至れり尽くせりの世話をしたのです。 私たちは、このような出来事の中に、「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」者をもあわれみ(コロサイ1章21節)、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」、その罪から私たちを救ってくださるキリストの姿を見ることができるのです(第一ペテロ2章24節)。前回の「説教要約 288」「良いサマリヤ人(2)」に続く拙著「キリストの生涯の学び」111「良いサマリヤ人(1)」より転載
2007.07.09
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「神の真実と人の真実」 甲斐慎一郎 哀歌、3章22~24節 「それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い』」(哀歌3章23節)。 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(第二テモテ2章13節)。 「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」(詩篇51篇6節)。 冒頭の聖句は、神の真実は力強く、神は常に真実であること、そして神は私たちの心のうちの真実を喜ばれることを教えています。 一、真実さの意味について 一口に真実と言っても、漠然としているので、次のような3つに分けて考えるならば、はっきりするのではないでしょうか。 第一は、どういうつもりで、または何のためにするかという「動機に対する真実さ」です。これは、不純な動機や悪い動機でするか、純粋な動機でするかということです。「誤った印象を与えることを目的として(全部ではなく故意に一部の)事実を語る」という動機のうそをつくならば(F・B・マイアー)、私たちは真実ではありません。 第二は、どのようにするか、またはどのようなやり方でするかという「方法に対する真実さ」です。これは、「目的のためには手段を選ばない」でするか、常に正しい方法でするかということです。 第三は、起きた出来事に対してどのような態度を取るかという「結果に対する真実さ」です。これは、自分のせいで悪い結果になった場合、それに対して悔い改めるかどうか、また神の力と助けによって良い結果になった場合、自分のせいにしないで、神に栄光を帰するかどうかということです。 二、常に真実である神 聖書は、イエス・キリストについて「アーメンである方、忠実で、真実な証人」と記しています(黙示録3章14節)。この神の真実さは、どのように現われたでしょうか。 まず神は、そのひとり子を私たちにお与えになることによって私たちを限りなく愛しているという最も大いなる愛を現してくださいましたが、これ以上の真実さはありません(ヨハネ3章16節、動機に対する真実さ)。 次に神は、そのひとり子を死に渡すことによって正しい救いの道を備えるという最も大いなる犠牲を払ってくださいましたが、これ以上の真実さはありません(ローマ3章25、26節、方法に対する真実さ)。 最後に神は、そのひとり子の贖いによって私たちの罪をその身に負うという最も大いなる救いを成し遂げてくださいましたが、これ以上の真実さはありません(第一ペテロ2章24節、結果に対する真実さ)。 三、心のうちの真実を喜ばれる神 西洋の諺に、「一日だけ幸せでいたいなら床屋に行け。一週間だけ幸せでいたいなら車を買え。一か月だけ幸せでいたいなら結婚しろ。一年だけ幸せでいたいなら家を買え。一生幸せでいたいなら正直でいることだ」という言葉があります。 聖書は「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2章10節)、また「管理者には、忠実であることが要求されます」(第一コリント4章2節)、そして「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21節)と教え、キリスト者は、神の前に、忠実な者、また真実な者であることが求められています。 私たちが、神の前に忠実な者、また真実な者となるための唯一の秘訣は、どこまでも真実な神を信じることです。新約聖書の原語であるギリシャ語は、「信仰」と「真実」という言葉は同じです。また英語の「忠実(faithfulness)」という言葉は、直訳すると「信仰に満ちていること」です。このことは、信仰を持つことは、真実な人になるということを教えているのではないでしょうか。 もし私たちが、動機に対しては最も大いなる愛を現し、方法に対しては最も大いなる犠牲を払い、結果に対しては最も大いなる救いを成し遂げてくださった真実な神を心から信じるなら、どうして不忠実、不真実であることができるでしょうか。
2007.07.07
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「涙の種蒔きと喜びの収穫(2)」 甲斐慎一郎 詩篇、126篇1~6節 聖書は、「涙」について次のような4つのことを教えています。 一、真実な悔い改め 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(第二コリント7章10節)。 エサウの涙(ヘブル12章17節)は、後悔であり、ただ罪の結果を悲しんだにすぎません。後悔は、神への信仰と関係なく、ただ罪の結果を悲しむもので、良い実を結ぶことはありません。しかし悔い改めは、後悔とは異なり、罪そのものに対する敬虔な悲しみで、悔い改めの実を結ばせるものです。 バビロンの捕囚から帰国したイスラエル人は、荒廃した土地を耕しながら、過去の罪を思い、新たな悔い改めの涙を流しましたが、捕囚後は、偶像礼拝が全くなくなり、悔い改めの実を結んでいます。 私たちも、霊的に荒廃した祖国を見る時、伝道の足りないことを思い、心から悔い改めの涙を流し、悔い改めの実を結ぶことが必要です。 二、あふれるばかりの愛 「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。……それは、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした」(第二コリント4章4節)。 同胞への愛は、まだ帰国していない人たちの悲惨さと同時に帰国した者のすばらしさをよく知ることによってあふれてきます。私たちの場合、信仰を持つ前の自分の悲惨さと、信仰を持った後の自分の幸いの差が大きければ大きいほど愛はあふれてきます。しかし信仰を持っても、以前と余り変わらないようでは、愛があふれることもないでしょう。この差を大きくする秘訣は、明確な悔い改めです。そうする時、「私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされ」るのです(3節)。 三、心の伴った祈り 「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って激しく泣いた」(第一サムエル1章10節)。 イスラエル人は、同胞がネゲブの流れのように帰って来ることを祈っています(4節)。祈りは、神との会話であり、決して一方通行ではありません。神が私たちの祈りや願いを聞いてくださるのは、私たちが神の声に聞き従うからです。私たちが神の声に聞き従わないのに、神にだけ私たちの祈りや願いを聞かせることはできません。 祈りは、神に対する私たちの信仰と服従を表すもので、私たちは、祈れば祈るほど神に対して従順にならざるを得なくなります。祈らない人の神への服従は、口先だけのものにすぎません。人は、祈ることによって神への真の服従を培うのであり、真実に神の前に出る時、私たちは、神に聞き従うようなふりをすることはできません。これが口先だけではない、心の伴った祈りであり、このようにな祈りをささげる秘訣は、真実な悔い改めとあふれるばかりの愛です。 四、骨惜しみしない奉仕 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」(5、6節)。 収穫を得るためには、荒野を耕して種を蒔かなければなりません。「苦役をもって彼らの心を低くされた」(詩篇107篇12節)という言葉がありますが、高ぶりやすい人間に勤労は不可欠です。高慢の最も端的な表れは批判です。私たちは批判する時、自分を相手よりも高くしているのです。ですから批判することができる実質や実力や働きがあるなら、批判も許されますが、そうでなければ批判は高慢の表れです。 私たちが神の奉仕に肩をいれ、本気で重荷を担う時、謙遜にさせられ、同情こそすれ、批判など出てこないでしょう。真実な悔い改めとあふれるばかりの愛と心の伴った祈りこそ、骨惜しみしない奉仕をする原動力です。
2007.07.05
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「涙の種蒔きと喜びの収穫(1)」 甲斐慎一郎 詩篇、126篇1~6節 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」(5、6節)。 この御言葉は、バビロンの捕囚から帰国したイスラエルの民が、荒廃した故国でも一生懸命に耕し、涙とともに種を蒔くなら、豊かな喜ばしい収穫があるように、先に帰国したこの一部のイスラエルの民が、涙の祈りと労苦をするなら、まだバビロンに捕らわれている残りの民も、必ず喜び叫びながら帰って来ることを預言しているものです。 この御言葉を次のような三者に当てはめて大切な教訓を学んでみましょう。 一、世の中の場合 世の中の故事や諺を調べてみると、有名なものだけでも、次のような味のある言葉が多くあります。 まず「苦は楽の種」または「苦あれば楽あり」という言葉があります。さらに「苦をせねば楽はならず」とか「苦するよかろう。楽する悪かろう」という言葉もあります。政治家の心構えとして「先憂後楽」という言葉も有名です。そして種蒔きに関しては「蒔かぬ種は生えぬ」という言葉を挙げることができます。 このような言葉から私たちは、長い歴史と多くの人々の豊かな人生経験から生まれた世の知恵を学ぶことができます。 二、キリストの場合 イザヤ書53章は、キリストの受難について預言しているところですが、その11節にある「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」という言葉は、まさに「キリストの涙の種蒔きと喜びの収穫」ではないでしょうか。 この個所にはキリストの三重の苦しみが記されています。 1.キリストの精神的な苦しみ(1~4節) キリストは、多くの人々の誤解と中傷を受けられました。彼は、さげすまれ、人々からのけ者にされ、尊ばれなかっただけでなく、彼自身の罪のために罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだとさえ思われたのです。 2.キリストの肉体的な苦しみ(5~9節)。 さらにキリストは、肉体もむちで打たれ、釘で刺し通され、痛めつけられて、しいたげとさばきによって取り去られたのです。 3.キリストの霊的な苦しみ(10~12節)。 しかもキリストを砕いて、痛めることは、神のみこころでした。ですからキリストは、神に捨てられるという最も苦しい霊的な苦しみを嘗められたのです(マタイ27章46節)。 しかしこのキリストの三重の苦しみという涙の種蒔きによって、多くの人々が義とされ、霊的な子孫であるキリスト者が生まれるという喜びの収穫があったのです。 三、キリスト者の場合 最後にこのことを私たちに当てはめるなら、次のような3つの教訓を学ぶことができるのではないでしょうか。 1.苦労する時にのみ、良い収穫がある。 何かを蒔けば、何かの収穫があるでしょう。しかし喜びの収穫を得るためには、涙の種蒔きが必要です。 2.苦労した者のみ、収穫の価値が分かる。 良い結果や収穫は誰の目にも分かります。しかしその本当の価値やすばらしさは、肩を入れて重荷を背負った者のみ分かるのです。 3.苦労して得た者のみ、収穫が身につく。 何もせずに受けたものは、ただ種を与えられたようなもので、受けただけでは成長することはできません。しかし祈りと信仰によって良い結果が出るまで労苦するという涙の種蒔きをする時、人間的にも信仰的にも成長するという喜びの収穫があるのです。 私たちは、秋に喜びの刈り入れをするために、この夏の間に涙の種蒔きをしましょう。
2007.07.03
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「きよめの生涯」 甲斐慎一郎 創世記17章1節 「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ』」(1節)。 アブラハムの生涯から、恐るべき罪性が聖霊によってきよめられるための秘訣について学んでみましょう。 一、その教理的な面――きよめの内容 「きよめ」とは、一言で言えば「罪性が取り除かれて、聖霊に満たされること」です。ロトの生涯で学んだように、この罪性は、神に頼らず目に見えるものに頼り、神を選ばず目に見えるものを選び、神に固着せず目に見えるものに執着する性質ですから、その罪性がきよめられるならば、これらとは反対の状態になります。 創世記からアブラハムという人物の特徴をあげるなら、次のような3つです。1.彼は信仰の人です(15章6節)。 2.彼は離別の人です(12章1節)。 3.彼は礼拝の人です(12章7、8節)。 信仰は、目に見えるものに頼らず、神に頼ることであり、離別は、目に見えるものに固着せず、神に固着することであり、礼拝は、目に見えるものをあがめず、神をあがめることですから、まさに信仰と離別と礼拝の人こそ、罪性をきよめられた人であるということができます。私たちは、きよめられる時、神と人への愛に満たされて、愛の人に変えられていくのです。 二、その体験的な面――きよめの条件 しかしアブラハムとて初めから罪性をきよめられた信仰の人や離別の人また礼拝の人であったわけではありません。彼は不信仰のために何回も失敗していますが、その失敗の中で最大のものは、女奴隷ハガルによってイシュマエルを生んだことです(16章)。 このことによってアブラハムは、13年間も霊的な暗黒の中に閉じ込められてしまいました。このような中で彼は、肉的な力の無力さ、また罪性の恐ろしさをいやというほど知ったことでしょう。 アブラハムの罪性がきよめられるためには、次のような3つのことが必要でした。 1.第一は全き献身です。 アブラハムが99歳になった時こそ、彼の肉的な力が全く尽き果てた時であり、ここにおいて初めてアブラハムは全き献身をすることができたのです。人は、自らの肉的な力が全く尽き果てないうちは、自分の力や神以外の何かに未練が残り、全き献身をすることができないのです。 2.第二は全き礼拝です。 アブラハムは、ここに至るまで何回も祭壇を築いて神を礼拝してきましたが、この99歳になって肉的な力が全く尽き果てた時、神を全能の神としてとらえて真の礼拝をすることができたのです。人は、自らの肉的な力が全く尽き果てないうちは、自分がどれほど無力な者であるかに気がつかず全能の神を必要としないのです。 3.第三は全き信仰です。 アブラハムが不信仰のために失敗したのは、人の前に歩もうとして人を恐れたからです。しかし肉的な力が全く尽き果てた時、彼は人の前ではなく神の前に全き者であればよいことを知ったのです。人は、自らの肉的な力が全く尽き果てないうちは、人の前に全き者となろうとするため、人を恐れて不信仰に陥り、失敗するのです。 三、その実践的な面――きよめの歩み きよめられた後のアブラハムは、様々な試練に会っていますが、その試練の中で最大のものは、イサクをささげることです。この試練は、彼の神に対する献身と礼拝と信仰が本物であるかどうかを試すものであっただけでなく、それらを新しくするものでした。 私たちも、きよめられた後において様々な試練に会いますが、それは私たちの神に対する献身と礼拝と信仰が試され、また新しくされることによって、日々、きよめられ続けて成長していくためなのです。
2007.07.01
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