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「あなたの心を見守れ(2)人の心の働き」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章9~11節 「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり……キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり……ますように」(9、11節)。 一、たましいは、罪によって死んだ部分と、死なずに生きている部分があります 神は、アダムに善悪の知識の木の実を「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われました(創世2章17節)。人間は「霊」と「たましい」と「からだ」という三つの要素から成り立っていますので、罪によって、その三つの要素がすべて死んだのです。 ◇罪を犯した人間は、その霊が「罪過と罪との中に死」にました(エペソ2章1節)。 ◇霊が死んだ人間は、その心に刻まれた神の像を失って、神を知る知識も神を喜ぶ感情も神に従う意志もなくしてしまいました。 ◇女は、苦しんで子を産み、男は、苦しんで食を得、ついに土に帰る者となってしまいました(創世3章16~19節)。 二番目の「たましい」は、表面と奥に分け、心の奥にある「神を知る知識と神を喜ぶ感情と神に従う意志」は死にましたが、心の表面にある、一般的に「知識と感情と意志」と呼ばれるものは、死なずに生きていることができました。もし、これさえも死んでしまったなら、救いを受けることはできないでしょう。これは、ただ神の恵みによるのです。 二、たましいの救いは、罪によって死んだ知識と感情と意志が生き返ることです 罪のために死んだ霊とたましいが生き返るためには、死なずに生きている知識と感情と意志によって、神とキリストの贖いによる救いを知り(知識)、心から(感情)救いを信じて、神に従う決断(意志)をすることです。 1.神を知る知識 パウロは、この箇所において「真の知識」(9節)と述べていますが、他の箇所では、「神のみこころに関する真の知識」また「神を知る知識」(コロサイ1章9、10節)と記しています。これは、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ことです(ローマ12章2節)。箴言には「主を恐れることは知識の初めである」、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」、「主を恐れることによって、人は悪を離れる」と記されています(1章7節、9章10節、16章6節)。 「神を知る知識」とは、神のみこころを知る「知恵」であり、聖なる方を知り、主を恐れて「悪を離れる」こと(聖さ)です。 2.神を喜ぶ感情 パウロは「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」、「神を大いに喜んでいるのです」と述べ、「神の栄光を望んで大いに喜」ぶなら、「患難さえも喜」び、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と述べています(ローマ5章2、11、3、5節)。 「神を喜ぶ感情」とは、聖霊によって与えられる「神の愛」です。 3.神に従う意志 ダビデは、「私はみこころを行うことを喜びとします」と告白し(詩篇40篇8節)、パウロは、「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって……従順の奴隷となって義に至る」と述べ(ローマ6章16節)、「私たちの戦いの武器は……神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるもので……すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」と記しています(第二コリント10章4、5節)。 「神に従う意志」とは、自分の身を神にささげる献身、またキリストに服従することで、そのようにする時、神の御前で要塞をも破るほどの「力」が与えられます。まさに「福音は……信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」なのです(ローマ1章16節)。 たましいが生き返ることは、神のみこころを知る「知恵」と聖なる方を知る「聖さ」、また「神の愛」、そして神への献身と服従によって「神の力」に満たされることなのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 32」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.05.30
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「あなたの心を見守れ(1)人の心の深さ」 甲斐慎一郎 詩篇64篇6節 「人の内側のものと心は、深いものです」(詩篇64篇6節)。 箴言の著者は、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」と述べています(4章23節)。どうして私たちは、力の限り、見張って、心を見守らなければならないのでしょうか。 一、心の表面は意識があるが、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊だからです 聖書は、人間を霊、たましい、からだという三つの要素から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23節)。 ◇からだ(body)は、私たちを取り囲む外界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 ◇たましい(soul)は、「知性の面での心(mind)」と「感情の面での心(heart)」と「意志の面での心(will)」という三つの面があります。これは、人間の知性や感情や意志という内界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 ◇霊(spirit)は、信仰によって神とその世界を知り、それに対応する機能のことで、神の像に似せて造られた不滅の生命です。 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者であるフロイトです。 古代ギリシャの哲学者は、「何が一番困難だろうか」と尋ねられた時、「自分を知ることだ」と答えたと言われています。キリストが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。 ダビデは「人の内側のものと心は、深いものです」と記しています(詩篇64篇6節)。人の心が自分でも分からないほど深いのは、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊だからです。しかもこの無意識の霊と無意識の心が、意識している心の表面に、良きにつけ、悪しきにつけ、多大な影響を与えている、いやそれを支配しているのです。 二、心(たましい)は、からだと霊を結びつける懸け橋の役目をしているからです 人間が「霊」と「たましい」と「からだ」という三つの要素から成り立っているという三要素説は、一番中心の円が「霊」、中間の円が「たましい」、一番外側の円が「からだ」という三重丸で現すことができますが、もう一つは、「霊」と「からだ」という二つの円を描き、両者を半分ほど重ね合わせたものとして現すことができます。その重ね合わせた部分が「たましい」です。 確かに「霊」は「たましい」の中枢機能として「たましい」を支配し、「たましい」は、「からだ」の中枢機能として「からだ」を支配していますが、「霊」は、見ることも、聞くことも、さわることも、感じることもできません。ですから、その「霊」を変えるためには、「たましい」の三つの面である知性と感情と意志に働きかけなければなりません。すなわち「たましい」は、「霊」と「からだ」という二つの要素の懸け橋(橋渡し)の役目をしているのです。 三、たましいが救われるためには、心の奥にある霊が救われなければならないからです エペソ人への手紙の4章23節は、新改訳聖書では「心の霊において新しくされ」と直訳していますが、口語訳聖書は「心の深みまで新たにされて」、新共同訳聖書は「心の底から新たにされて」と意訳しています。ここから「霊」というのは、「心の深み」であり、「心の底」であることがわかります。 アダムが罪を犯した時、彼の霊は死に、その心に刻まれた神の像を失って「神を知る知識」も「神を喜ぶ感情」も「神に従う意志」もなくしてしまいました。しかし人がキリストを信じるなら、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことができます(エペソ4章23、24節)。この「神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことこそ、「神を知る知識」と「神を喜ぶ感情」と「神に従う意志」を取り戻し、「心の深みまで新たにされる」ことなのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 31」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.05.28
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「聖書が教える聖霊の働き(4)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章1~13節 百二十名ほどの兄弟たちは、エルサレムを離れないで、イエスから聞いた父の約束を待ち、「みな心を合わせ、祈りに専念してい」ました(1章14節)。それから十日目の五旬節の日に、その後の世界の歴史を変えてしまう驚くべきことが起こったのです。 一、聖霊に満たされた弟子たち 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた時、聖霊が弟子たちの上に臨まれました(1、4節)。聖霊は「霊」ですから、人間の耳で聞くことも目で見ることもできません。しかしこの時は、弟子たちの上に聖霊が臨まれたことが宮に集まっていたすべての人人にはっきりわかるように、耳で聞こえる「激しい風が吹いて来るような響き」と、目で見える「炎のような分かれた舌」というしるしが伴いました(2、3、6節)。 またこの時、「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでい」ました(5節)。それで彼らが「いろいろな国ことばで神の大きなみわざを語る」弟子たちの話しを聞くことができるように(11節)、弟子たちは、「聖霊に満たされ」た時、「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」のです(4節)。 聖書は、弟子たちが聖霊に満たされたことについて3つのことを教えています。 1.神は「彼らの心を信仰によってきよめてくださ」いました(使徒15章9節)。 2.「聖霊によって、神の愛が……心に注がれ」ました(ローマ5章5節)。 3.「聖霊が……臨まれるとき……力を受けま」した(使徒1章8節)。 聖霊に満たされるとは、きよさ(purity)と愛(passion)と力(power)という3つのPに満たされることです。そして力は、きよさと愛に基礎を置いたキリストをあかしする力です(使徒1章8節)。このような力こそ、暴走したり脱線したりしない健全な力です。 二 聖霊に満たされて、説教したペテロ ペテロと使徒たちは、イエスが地上におられた間は、イエスが語られた十字架と復活も、イエスにおいて成就した預言の言葉も全くわかりませんでした。いやイエスが復活された後でさえ、イスラエルの国の再興のことしか念頭にありませんでした(マタイ16章22節、ヨハネ12章16節、使徒1章6節)。 ところがペテロは、イエスが昇天されてから旧約聖書とイエスに対して目が開かれ始め、五旬節の日に聖霊に満たされた時、旧約聖書が教えようとしていることとイエスのことがはっきりわかり、すばらしい説教をしました。「真理の御霊が来ると……すべての真理に導き入れ」るのです(ヨハネ16章13節)。 三、三千人ほどが弟子に加えられて誕生した教会 ペテロは、聖霊の降臨はヨエルの預言の成就であり、それはすべての人が預言する、すなわち神の言葉を語ることであると説教しました(16~18節)。聖霊に満たされた人が神の言葉を語る時、地の果てにまでキリストの証人となります(使徒1章8節)。 こうして聖霊に満たされた弟子たちが神の言葉を語ったので、その言葉を受け入れた者は、バプテスマを受け、三千人ほどが弟子に加えられ、最初の教会が生まれました(4~47節)。このように聖霊に満たされることは、きよさと愛と力に満たされて神の言葉を語り、キリストをあかしすることなので、信じる人々が起こされて教会が誕生するのです。 「現代の教会は、過去の不思議な出来事の再現を試みるべきではありません。現代では、教会の責任は、教会員が聖霊に満たされることにあります。そうすれば聖霊は、教会員によって現代の人々を驚かすに足る不思議な事をなされるでしょう。それは教会にとって宣教と証しをするための好機会となるでしょう。町中が、聖霊に満たされた教会の生きた証しによって驚かされ、当惑し、批判さえもするに違いありません」(G・C・モルガン原著、F・ビヤバウト編『使徒行伝の研究』19頁)。
2007.05.26
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「聖書が教える聖霊の働き(3)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、12章1~4節 私たちは、主の祈りにおいて「天にいます私たちの父よ」と祈りますが(マタイ6章9節)、「天」とは、どこなのでしょうか。 パウロは「第三の天にまで引き上げられました」と記していますが(2節)、「第三の天」とは、どこなのでしょうか。 「『天』ということばは、三重の意味に用いられ、聖書は、第三の天のみを語っている。天ということばは、大気圏、これが新約聖書で言う第一の天、その上方に、広大な星の世界、これが第二の天である。そのかなたが第三の天で、聖徒や御使い(セラフィム)の住む所である。第三の天は、第二、第一の天を包み、そこに行きわたっていると考えることができよう」(G・C・モルガン著「祈りの実行」、いのちのことば社、1980年、64~66頁)。因みに三つの天を英語で言うなら、第一の天は、air、sky(空)、第二の天は、firmament(大空、天空)、第三の天は、heaven(天、天国)です。 「雲のように私たちを取り巻いている」「多くの証人たち(信仰偉人列伝の人たち)」のいる所、「生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会……天に登録されている長子たちの教会」のある所こそ第三の天です(ヘブル12章1、22、23節)。 聖書は、聖霊降臨について「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」と教えています(使徒2章33節)。 地上で起きた出来事、そして第一の天、第二の天、第三の天で起きた出来事の影響や感化の違いは、何でしょうか。 一、地上で起きた出来事の影響や感化 雨が降らず、ほこりが立つので、水をまいて、ほこりをしずめること(良い例)、火事や爆発などで被害を受けること(悪い例)など、地上で起きた出来事の影響や感化は、その周辺の狭い範囲にしか及びません。 二、第一の天で起きた出来事の影響や感化 雨が汚れた空気をきれいにし、空気中の成分を含んだ水滴によって大地を肥沃にし、生物を育てること(良い例)、原子爆弾や水素爆弾が上空で爆発すること(悪い例)など、第一の天(大気圏)で起きた出来事の影響や感化は、それぞれの国や地域に、長期間に及びます。 三、第二の天で起きた出来事の影響や感化 太陽の光と熱が地球のあらゆる生物を生かしたり、育てたりすること(良い例)、地上で排出されたフロンがオゾン層を破壊し、有害な紫外線によって皮膚ガンなどの重い病気を引き起こすこと(悪い例)など、第二の天(広大な星の世界)で起きた出来事の影響や感化は、地球全体に、そして非常に長い期間に及びます。 四、第三の天で起きた出来事の影響や感化 「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて……この聖霊をお注ぎになったのです」という聖霊の傾注は、第三の天で起きた出来事です。第二の天で起きた出来事でさえ、その影響や感化は地球全体に、そして長期間に及ぶとするならば、第三の天(聖徒や御使いの住む所)で起きた出来事の影響や感化は、全世界、そして全時代に及ぶのではないでしょうか。 今から2000年ほど前にエルサレムにいた120名ほどの弟子たちの上に聖霊が臨みましたが、この聖霊の注がれたことは、第三の天で起きた出来事ですから、それ以後、2000年後の現在に至るまで、いやこれから先も、日本に住んでいる私たちに、いや全世界のキリストを信じる者の上に聖霊は臨まれるのです。
2007.05.24
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「聖書が教える聖霊の働き(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、14~16章 十字架の死を目前に控えたイエスは、弟子たちに話さなければならないことをすべて披瀝し、彼らを懇々と教えさとす説教をされました。これがヨハネの福音書の14章から16章に記されている「訣別の説教」です。この「訣別の説教」は、力に満たされるために必要な聖霊の働きについて教えています。 一、聖霊の働きについて 1.誤りを認めさせる聖霊 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16章8節)。 人はだれでも、その人なりの罪観念というものを持っており、その罪観念に違反する時、罪意識を持ち、良心の呵責に苦しみます。しかし聖霊が来られないかぎり、この罪観念そのものが自分の都合によって変えてしまう極めて身勝手なものであることに気がつきません。それで聖霊は、神とキリストを信ぜず、身勝手に生きていることが罪であることを教え、その誤りを認めさせるのです。 2.イエスをあかしする聖霊 「真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(15章26節)。 今までの誤りを認めさせ、神の前に罪人であることを自覚させるのは聖霊ですが、罪を自覚した人に、その罪からの救い主キリストを指し示すのが聖霊です。サタンは、罪を責めるだけで、人を自暴自棄に陥れますが、聖霊は罪を自覚させるだけでなく、その罪からの救い主キリストをあかしします。聖書は、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と教えています(第一コリント12章3節)。 3.神のことばを思い起こさせる聖霊 「聖霊は……わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(14章26節)。 信仰の土台は神のことばです。私たちは信仰を持つために神のことばを信じなければならず、そのために神のことばを思い起こさなければなりません。救い主キリストを指し示すのが聖霊ですが、このキリストを信じて救われるために神のことばを思い起こさせるのが聖霊です。聖書は、「弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」と教えています(2章22節)。 4.真理に導き入れる聖霊 「真理の御霊が来ると……すべての真理に導き入れます」(16章13節)。 イエスは、聖霊にすべての期待をかけておられました。なぜならイエスでさえも聖霊が来られないかぎり、弟子たちを真理に導き入れることはおできにならなかったからです。聖書は、「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」と教えています(第一コリント2章11節)。 5.心の中に住まわれる聖霊 「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(14章17節)。 私たちを真理に導き入れるのは聖霊ですが、それとともに神が私たちのうちに住むようにさせるのも聖霊です。この聖霊が私たちの心を支配される時、私たちは、罪がきよめられ(使徒15章9節)、神の愛が心に注がれる(ローマ5章5節)とともに、キリストをあかしする力に満たされるのです(使徒1章8節)。 二、真のキリスト教 真のキリスト教は、「キリストの十字架と復活による福音」を「救いの土台」として、その上に「神のご性質(聖、義、愛、憐れみ、真実)にあずかる者とな」り(第二ペテロ1章4節)、「御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)」(ガラテヤ5章22、23節)を結ぶ者となるという品性や人格という家を建て上げるのです。 これが「内なる人」(第二コリント4章16節、エペソ3章16節)であり、その結果または現れとして、行い(善行)、奉仕(活動)、伝道(宣教)、修行、宗教儀式、宗教的な感情、知識、いやし、奇跡、預言、神の国、終末などがあるのです。 しかし前者を軽視して後者を最も重要なものとして優先したり、第一のものとして強調したりするなら、霊的ないのちを失い、聖書の真理からはずれてしまいます。それで「内なる人」が強められことが最も必要なのです。
2007.05.22
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「聖書が教える聖霊の働き(1)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章32~36節 一、旧約時代における聖霊の働き サムソンとサウルの姿から旧約時代における聖霊の働きについて学んでみましょう。 サムソンは、イスラエルをペリシテ人の手から救うという自分の使命を自覚して、情欲に負けず、ナジル人の誓いを守っている間は、「主の霊が激しく彼の上に下って」(士師記14章6、19節、15章14節)、驚くべきわざを行ったが、彼が自分の使命を忘れて情欲に負け、ナジル人の誓いを破った時、主の霊の力を失ったと聖書は教えています。 またサウルは、サムエルを通して語られた神の言葉を聞いた時、「神の霊が彼の上に激しく下」り、預言者の一団といっしょに預言する「新しい人に変えられ」たと聖書は教えています(第一サムエル10章10、6節)。しかしサウルの上に主の霊が激しく下り、新しい人に変えられたことは、新約聖書が教えている「新しく生まれ」る(ヨハネ3章3、7節)ことと全く同じではありません。 確かにサウルの「心、すなわちその感情と動機と意志の源は、ただちに一変し、彼は全く以前とは異なった思想と目的と希望を持つ新しい人に変えられました。しかしこの旧約における新しい人と新約における新しく生まれた人との相違は明白です。……前者は、ただ神の霊によって大きな感化を受けた人に過ぎませんが、後者は、聖霊が直接的に心の中に働かれて変えられた人なのです」(A・イーダーシャイム )。これはサムソンにおいても同じです。 二、新約時代における聖霊の働き それでは新約時代における聖霊の働きは、どのようなものなのでしょうか。 パウロは、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と述べています(ガラテヤ5章16節)。確かに旧約時代も新約時代も「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」ことは変わりませんが(同5章17節)、旧約時代における主の霊の働きと新約時代における御霊の働きは同じではありません。 新約時代における聖霊は、まず罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせ(ヨハネ16章8節)、次にその罪からの救い主キリストを指し示して、あかしし(同15章26節)、またキリストを信じて救われるために神の言葉を思い起こさせ(同14章26節)、さらに私たちを真理に導き入れ(同16章13節 )、そして神が私たちの心の中に住むようにさせます(同14章17節)。 新約時代における聖霊は、私たちを新しく生まれ変わらせ(テトス3章5節)、また罪をきよめて、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えてくださるのです(第二コリント3章18節)。 三、主の贖いのわざの完成によって注がれる聖霊は内なる人を変えることについて ペテロは、五旬節の日に御霊に満たされた時、聖霊によらなければわからない奥義を語りました。それは、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」と説教したのです(33節)。 イエスが真の神でありながら真の人としてこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて……大能者の右の座に着かれ」るためであり(ヘブル1章3節 )、それは、すべての人々に聖霊をお注ぎになるためでした。 私たちは、罪を悔い改め、キリストは私たちの罪のために死に渡されたと信じるなら、聖霊によって新しく生まれ、さらに「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(ローマ6章6節)と信じるなら、聖霊によって心の中の罪が「きよめ」られ(使徒15章9節)、「神の愛が……心に注がれ」(ローマ5章5節 )、キリストをあかしする「力を受け」る(使徒1章8節 )とともに、「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くのです(第二コリント3章18節)。
2007.05.20
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「神の息である聖霊」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、20章19~23節 キリスト教の教会暦における行事の中で最も大切で代表的なものは次の3つです。◇クリスマス(キリスト降誕節)◇イースター(キリスト復活節)◇ペンテコステ(聖霊降臨節) クリスマスは知らない人がいないほど有名な年中行事ですが、イースターは少数の人しか知らず、ペンテコステは世の中では、ほとんど知られていないようです。そこでペンテコステの意義について学んでみましょう。 一、いのちの息を吹き込まれた人間 人間の本質は何かということについては、おおよそ次のような3つの考え方があります。 1.人間は、結局は物質である(唯物論者)。 2.人間は、結局は動物である(進化論者)。 3.人間は、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者である(聖書、キリスト者)。 聖書は、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」と教えています(創世記2章7節)。「いのちの息」とは「霊」のことです。 人間は単なる物質でもなければ、動物でもなく、神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ者です。人間の人間たるゆえんは、この霊の存在にあり、人間が他の動物と根本的に異なるところです。 二、神の息である聖霊について キリストは、弟子たちに「息を吹きかけて……『聖霊を受けなさい』」と言われました(22節)。旧約聖書の原語であるヘブル語も、新約聖書の原語であるギリシャ語も、「霊」という言葉は、「息、風、空気」という言葉と全く同じです。 そこで聖霊がどのような方であるかという時、聖霊を「空気」にたとえることが最も適切であり、分かりやすいでしょう。 空気は、A・B・シンプソンが指摘しているように次のような特徴と性質があります。 ◇人は息をすることによって生きています。私たちは息を吸う(聖霊を受ける)ことによって、(霊的に)生きることができます。 ◇空気には音を伝播する働きがあります。私たちは空気(聖霊)のゆえに音(神の声)を聞くことができます。 ◇空気には光を拡散する働きがあります。私たちは空気(聖霊)のゆえに明るく光(神の真理)に照らされることができます。 ◇空気には熱を保温する働きがあります。私たちは空気(聖霊)のゆえに適度な熱(神の愛)の中に保たれています。 パウロの言うように、まさに「私たちは、神(聖霊)の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17章28節)。 三、聖霊の息を必要としている人間 人は、いのちの息(霊)を吹き込まれたことによって「生きもの」となりましたが、この人の霊は、神の霊(聖霊)がともにおられることによってのみ生き続けることができます(創世記6章3節)。ところが人間は、罪を犯し、堕落してしまいました。 人が堕落したということは、人の霊から神の霊(聖霊)が離れて、その人の霊が死んでしまったということです(創世記2章17節)。 そこで神は、人に聖霊(神の霊)を与えて、人の霊を再び生き返らせるように計画し、そのことを実行されました。これがイエスの十字架による罪の贖いとその結果である聖霊の降臨です。ペテロは次のように述べています。 「神はこのイエスをよみがえらせました。……神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(使徒2章33節)。 実にキリストが降誕されたクリスマスは、罪の贖いを成し遂げるイースターのためであり、そのイースターは、私たちに聖霊を注がれるペンテコステのためなのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 13」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.05.18
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「イエスの昇天」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~11節 「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられ」ました(9節)。 よみがえられたイエスが、使徒たちにご自分を現された目的について、聖書は、次のような4つのことを教えています。 1.使徒たちにご自分が生きていることを示すためです(3節)。 2.使徒たちにイエスの羊を牧する任務を与えるためです(ヨハネ21章15~17節)。 3.使徒たちに世界宣教を命じるためです(マタイ28章19節、マルコ16章15節)。 4.使徒たちに聖霊を待ち望むように命じるためです(4節、ルカ24章49節)。 復活されたイエスは、このために40日の間、彼らにご自分を現されましたが、これらの目的が果たされたので、天にお帰りになりました。これがイエスの昇天です。そして聖書は、イエスが天にお帰りになった目的について3つのことを教えています。 一、罪のきよめを成し遂げて、神の右の座に着かれるためです ヘブル人への手紙の著者は、神の啓示によってイエスの驚くべき姿を記しています。すなわちイエスは、万物の相続者、世界の創造者、神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、万物の保持者であると教えています(ヘブル1章2、3節)。 そして最後に、このようなイエスが、天から下って、人となり、十字架につけられて、「罪のきよめを成し遂げ」られたので、天に上って、「すぐれて高い所の大能者(すなわち神)の右の座に着かれました」と教えています(同1章3節)。 このようにイエスは、罪のきよめを成し遂げて、神の右の座に着かれるために、昇天されたのです。 二、御父から約束された聖霊を受けて、人々に聖霊をお注ぎになるためです 聖書は、私たちを罪から救う贖いのわざを父なる神が計画され、子なる神が実現され、「聖霊なる神が執行される」(H・オートン・ワイレー、P・T・カルバートソン共著、「キリスト教神学概論」日本ウェスレー出版協会、1977年、321頁)と教えています(エペソ1章9~14節)。これは、難病の治療を厚生労働省が計画し、医学者が実現し、臨床医が執行するということにたとえることができます。 イエスは、罪のきよめを成し遂げられましたが、聖霊が私たちのうちに働いてわざをなしてくださらなければ、十字架の贖いも私たちの救いにはなりません。聖書は、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて……聖霊をお注ぎになったのです」と教えています(2章33節)。 このようにイエスは、御父から約束された聖霊を受けて、人々に聖霊をお注ぎになるために、昇天されたのです。 三、天の御国に場所を備えて、神の子どもたちを天に迎えるためです イエスは、弟子たちに「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。……わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と言われました(ヨハネ14章2、3節)。 イエスの十字架の死は、天にある「まことの聖所」において永遠の贖いを成し遂げて、天の御国への道を開きました(ヘブル9章12節)。イエスは、その天の御国に多くの神の子どもたちが永遠に住む場所を備えるために、天にお帰りになりました。そして再臨の時に神の子どもたちを迎えに来られるのです。 このようにイエスは、天の御国に場所を備えて、神の子どもたちを天に迎えるために、昇天されたのです。拙著「キリストの生涯の学び」216「イエスの昇天」より転載
2007.05.16
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「主の証人の三つの姿」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~11節 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります 」(8節)。 このみことばは、主イエス・キリストが死からよみがえられてから、40日の間、多くの人々に現れた後、天に上って行かれる直前に使徒たちに語られたものです。 しかしここで主は、私たちに「わたしの証人となりなさい」と命令されたのではなく、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき……力を受け……わたしの証人となります」と言って、聖霊に満たされた人は、その当然の結果として、わたしの証人となるということを教えられたのです。 それで聖霊に満たされた主の証人とは、どのような人であるのかということを聖書の中から学んでみましょう。 一、ほかの人たちに福音を語る主の証人 「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません 」(使徒4章20節)。 これは、ペテロとヨハネが民の指導者や長老に、イエスの名によって語ったり、教えたりしてはならないと命じられた時、彼らに答えたことばです。まず聖霊に満たされた主の証人の姿は、ほかの人人に福音を語ったり、証ししたりすることです。 キリストとその十字架の贖いによって救われた人はだれでも、その救いの喜びのゆえに、人々にキリストを語らざるを得なくなるだけでなく、その後の信仰生活において、神から受けた恵みをはじめ、神に教えられたことや示されたこと、さらに神に取り扱われたことなど、そのすばらしい体験のゆえに、人々に神を証しせざるを得なくなります。これこそ主の証人の第一の姿です。 二、自ら無言のふるまいをする主の証人 「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです 」(第一ペテロ3章1節)。 これは、みことばに従わない夫を持つキリスト者の女性に対してペテロが語ったことばです。次に聖霊に満たされた主の証人の姿は、自ら無言のふるまいをすることです。 キリスト者は、ことばで福音を語ることが必要であることは言うまでもありません。しかしこのことばで語ることが真実であることを示し、しかも人々に受け入れられるためには、語ることばにふさわしい行いが伴っていなければなりません。これが無言のふるまいです。 この無言のふるまいは、あのシュネムの女性がエリシャに対して「あの方は、きっと神の聖なる方に違いありません」(第二列王4章9節)と言ったように、敬虔な品性や人格ということができます。これこそ主の証人の第二の姿です。 三、神に信仰の告白をする主の証人 「人に従うより、神に従うべきです 」(使徒5章29節)。 これは、福音を語ることを禁じた大祭司にペテロと使徒たちが答えたことばです。最後に聖霊に満たされた主の証人の姿は、神に信仰の告白をすることです。 モルデカイは、真の神への信仰を貫いたために、自分も自分の同胞も非常な危険にさらされましたが、決して神を裏切るようなことはしませんでした(エステル3章)。 このように聖書の記事をはじめ、教会の歴史は、キリスト者であるゆえに、また信仰を告白したために迫害を受けたり、殉教したりしている人々が大ぜいいることを私たちに教えています。このような人々は、自らのいのちを犠牲にしても、ただ神への信仰と忠誠を守り通しました。これこそ主の証人の第三の姿です。
2007.05.14
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「真理に基づく愛(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第二、1~11節 愛の使徒ヨハネは、「われ真理に在りて汝らを愛す」(1節、新契約聖書)と記し、真の愛について教えています。 一、愛と真理(1~3節)――真の愛(アガペー)は、「神からの賜物」です 「好き」とか「好み」とか「嗜好」というのは、生まれながらの人間の心に初めから存在し、その人の神への信仰の有無、道徳的な善悪に関係なく、だれでも持ち合わせています。ですから、どんなに神を離れて罪深い人間でも、人を好きになることはできます。 しかし真の愛は、ただ信仰と聖霊によって与えられる神からの賜物であり、生まれながらの人間の心には決して存在しません。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5章5節)とパウロが述べている通りです。 ですから私たちは、真の愛を持っていないからといって決して失望してはなりません。なぜなら信仰と聖霊によらなければ、だれも真の愛を持つことはできないからです。また反対に信仰と聖霊によらなくても人を愛することができるといって安心してはなりません。それは、ただ人を好きになっただけであって、決して真の愛ではないからです。 二、愛と戒め(4~6節)――真の愛(アガペー)は、「自分の利益を求めないこと」です 真の愛は、神とその戒めを知ろうとする知性的なものであり、その戒めに従おうとする意志的なものです。そして戒めの中心は愛です(5節、ローマ13章10節)。 聖書は、「愛は……自分の利益を求めず」(第一コリント13章5節)と教えています。真の愛は、信仰と聖霊によって与えられる神からの賜物ですが、人は、その愛を与えられるなら、「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」るようになります(同10章33節)。 たとえ外側においてどれほど優しく愛らしくふるまい、また自分でも愛に満たされていると思ったとしても、「自分の利益を求め」ようとするなら、それは決して真の愛ではありません。このように「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」ようとするかどうかということこそ、真の愛があるかないかを計る試金石です。 ですから「これほど愛しているのに自分のことを少しも分かってくれない」と嘆いたり、相手の「真理に基づいた幸福」よりも自分の愛の報われることや、自らの体面を保つことのほうを優先したりするなら、それは決して真の愛ではありません。真の愛は、たとえ自分の愛が裏切られたり、自らの体面が傷つけられたりしたとしても、相手の真理を喜び、その人の幸福を願うものなのです。 三、愛と反キリスト(7~11節)――真の愛(アガペー)は、「不変」です 真の愛は、「不正を喜ばず」(第一コリント13章6節)、罪と世と悪魔に敵対して、旗幟を鮮明にするものです。それは、常に真理に属し、真理を喜ぶもので、決して悪に属したり、不正を喜んだりすることはなく、不変です。 しかし生まれながらの愛は、なんと変質してしまうものでしょうか。それは、自分の利益や都合さえよければ、真理に属したり、不正に属したりして、自分勝手であるだけでなく、変わってしまうのです。 聖書は、「愛は決して絶えることがありません」(同13章8節)と記し、真の愛は、常に変わらず、永続するものであることを教えています。 愛が永続するためには、「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍」ぶだけでなく(同13章7節)、すべての時にがまんし、すべての時に信じ、すべての時に期待し、すべての時に耐え忍ばなければなりません。なぜなら、途中で忍耐を失ったり、信仰を失ったり、希望を失ったりしたならば、愛は決して永続せず、従って不変ではなくなってしまうからです。 信仰と聖霊によって与えられる神からの賜物としての愛こそ、不変の愛です。
2007.05.12
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「真理に基づく愛(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第二、1~13節 新約聖書の原語であるギリシャ語には、愛と訳される言葉が4つあります。エロース(恋愛、夫婦愛)、ストルゲー(情愛、肉親愛)、フィリア(友愛、朋友愛)、アガペー(聖愛、神的愛)です。前者の3つの愛は、真理とは関係なく、相手を好きになることですが、アガペーは、真理に基づく愛です。そこで聖書が教えている真の愛(アガペー)について考えてみましょう。 一、愛と真理(1~3節)――真の愛(アガペー)は「好きになること」ではありません 「好き」とは、好みとか嗜好ということであり、理論や理屈に関係なく、またその対象の善悪や正邪や美醜を問わず、ともかく自分の心に適い、気に入りさえすればよいものです。それは「蓼食う虫もすきずき」という諺によく表われています。この「好み」は、神と真理に基づくものではなく、それらと何の関係もないものです。 聖書が教えている愛は、好きとか好みとか嗜好ということには全く関係がありません。それは、「真(まこと)をもて汝らを愛す」(1節、文語訳)と記されているように真理をもって愛することです。言い換えれば「愛は……不正を喜ばずに真理を喜びます」(第一コリント13章6節)とあるように、相手の不正を喜ばず、その人の真理を喜ぶ愛です。 ですから好きであるから愛していると思ったり、嫌いであるから愛していないなどと考えてはなりません。好きであっても愛していないことや、また反対に嫌いであっても愛していることはあり得るのです。私たちは、すべての人を好きになる必要はありませんし、また好きになってはならない人々も大ぜいいます。しかしすべての人を真理をもって愛さなければなりません。 もし私たちが好みによって人を愛するなら、自分の好みにあっている人の言葉には、間違っていても聞き従い、反対に自分の好みにあっていない人の言葉には、真理であっても聞き従わないという罪に陥ってしまうでしょう。 二、愛と戒め(4~6節)――真の愛(アガペー)は「感情が高まること」ではありません 私たちは、ある人々に対して、かわいそうに感じたり、哀れで、慕わしい感情の高まりがあったりしたので、愛があると思ったり、反対に何の感情の高まりもないので、愛がないと考えたりしてはなりません。 真の「愛とは、御父の命令に従って歩むことで」す(6節)。それは、第一に神とその戒め(命令)を知ろうとする知性的なものであり、第二にその戒め(命令)に従おうとする意志的なものです。その当然の結果として、「私は、みこころを行うことを喜びとします」(詩篇40篇8節)とあるように、神を知り、神の戒め(命令)に従う喜びや感情が伴うことでしょう。 ですから「神を知る知識」(コロサイ1章10節)と、その神の戒め(命令)に従う意志が先行しない単なる感情の高まりは、決して真の愛ではないのです。 三、愛と反キリスト(7~11節)――真の愛(アガペー)は「八方美人になる」ことではありません 愛は、清濁併せ飲んだり、すべての人に賛成したり、御機嫌をとったり、へつらったりして、すべての人の味方になることではありません。イエスは「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われ(マタイ6章24節)、ヤコブも「世を愛することは神に敵することである」(ヤコブ4章4節)と述べています。 この世は、神と悪魔、正義と不義の決戦場であり、人間はどちらかに属さなければならず、中立は許されません。私たちは、真理に属する者として罪と世と悪魔に敵対し、旗幟を鮮明にしなければ、決して真の愛を持つ者ではないのです。 愛の使徒ヨハネは、この夫人に対して偽教師を「家に受け入れてはいけません」と警告しています(10節)。これを私たちに当てはめるなら、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉のように、私たちは人を憎んではなりませんが、真理に属する者として、あくまでも罪を憎んでいることを何らかの言葉や態度で示さなければならないことを教えています。 しかし、この真理に基づき、神の戒め(命令)に従い、旗幟を鮮明にする愛は、ただ信仰と聖霊によって与えられるのです。
2007.05.10
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「良いわざに励もう」 甲斐慎一郎 伝道者の書、11章1~6節 テトスへの手紙には「良いわざ」という言葉が6回も記されています(1章6節、2章7、14節、3章1、8、14節)。パウロは、キリスト者は「良いわざに励むことを心がけるように」勧めています(テトス3章8節)。この伝道者の書の11章には、具体的な例をあげて良いわざに励むことを教えています。 一、良いわざに励むこと この個所には「パンを投げること」と「受ける分を分けること」と「種を蒔くこと」について記されています(1、2、6節)。 1.パンを投げること。 パンを投げるということのごく自然な意味は、貧しい人々への施しでしょう。施しは、祈りと断食とともに大切な宗教的な営みの中にはいっています(マタイ6章1~4節)。私たちは、自分さえ豊かであればよいというような自己中心や貪欲や冷淡の罪から救われるためにも、施しをすることが必要です。 2.受ける分を分けること。 受ける分を分けるというのは、恐らく財産や資産の分配のことを指しているのでしょう。また家族や親族、また友人や知人の面倒をみることかもしれません。どちらにしても宝は地上にたくわえてはならず、天にたくわえなければなりません(マタイ6章19、20節)。 3.種を蒔くこと。 パンや受ける分が物質的なものであるのに対して種は目に見えない霊的なものを指しているのでしょう。すなわち模範的な行状や行動をすることによって人々に良い影響や感化を与えたり、また良い教育をしたりすることです。そして新約聖書の教えによれば、それは神の言葉を蒔く伝道や宣教のことです。 二、良いわざに励む心構え この良いわざに励むことは、すぐに報われないことがその特徴です(1節)。そのために次のような心構えが必要です。 1.パンを投げること。 この投げるという言葉は、捨てるという言葉と同じように、お返しを期待しないことを暗示し、打算的な心でしてはならないことを教えています。施しに打算は禁物です。 2.分けておくこと。 これは、不正な管理人のたとえ話(ルカ16章1~13節)のように、知恵を用いることの大切さを教えています。私たちは、打算的になってはなりませんが、かと言って無思慮で浅はかなことはしてはなりません。宝の管理人は賢いことが求められているのです。 3.朝夕に蒔くこと。 これは言うまでもなく常に行うことです。しかも風や雲ばかり見てはならないとあるので(4節)、時が良くても悪くても常に励むことを教えています(第二テモテ4章2節)。 三、良いわざに励む理由 それでは私たちは、なぜ良いわざに励まなければならないのでしょうか。この短い個所に5回も「知らない」とか「わからない」という言葉が記されています(2、5、6節)。 1.私たちは、どんなわざわいが起こるかを知らないからです。 人間の未来は、一寸先は闇であり、この地上においては、苦難や災いを避けることはできません。 2.私たちは、物事の過程がどうなるかを知らないからです。 人間は、自然界の力に勝つことはできず(3節)、物事を動かす神の力に逆らうことはできません。 3.私たちは、物事の結果がどうなるのかを知らないからです。 人間は、どれが必ず成功して、うまくいくかを全く知らない無力で無知な者です。 ですから私たちは、何も準備をしていなければ、災いが襲ってきたり、物事の成り行きや結果が思うようにならなかったりすると、恐れ惑って罪に陥ってしまうことでしょう。しかし神を信じて良いわざに励むなら、どのような災いが襲ってきても、またどのような成り行きや結果になっても、それに負けて罪に陥ることはありません。信仰によって良いわざに励むことこそ、あらゆる災いや成り行きや結果に対する最善の準備なのです。
2007.05.08
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「行いに表される信仰」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、2章14~17節 ヤコブは、信仰と行為とは切っても切れない不可分の関係にあり、真の信仰は、必ず行為が伴うことを私たちに教えています。 ヤコブの周囲には、律法学者やパリサイ人がいましたが、主は、「彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(マタイ23章3節)と言われました。ヤコブは、口先だけの、行いの伴わない、浅薄な信仰をいやというほど見ていたことでしょう。 主は、山上の説教において、「わたしに向かって『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7章21節)と説教されました。ヤコブは、小さい頃からそのようなことを教えられたにちがいありません。 この手紙を章毎に5つに分け、行いに表された真の信仰について学んでみましょう。 一、1章、境遇または環境の問題――みことばを聞き、素直に受け入れることに表される信仰 この章の前半には、試練や誘惑、また貧しい境遇や富んでいる境遇について記され、後半には、みことばを聞くことと、素直に受け入れること、そしてその結果、罪から救われて新しく生まれることと御言葉を実行することについて記されています。 真の信仰は、まずみことばを聞いて、素直に受け入れ、罪から救われて新しく生まれることに表れます。その結果、すべての良い贈り物は神から下り、悪の誘惑は、自分の欲に引かれるからであることを知って、私たちは、どのような境遇や環境の中でも、すべてのことを働かせて益としてくださる神によって喜ぶことができるようになるのです。 二、2章、対人関係または隣人愛の問題――神の律法を守ることに表される信仰 この章の前半には、人をえこひいきすること(1、9節)について記され、後半には、隣人を自分と同じように愛するという最高の律法(8、16節)について記されています。 次に真の信仰は、神の律法を守ることに表れます。対人関係の問題は、人に対して偏見を抱き、人をえこひいきして、隣人への愛がないことが、その原因だからです。 三、3章、ことばまたは舌禍の問題――神からの知恵を持つことに表される信仰 この章の前半には、舌の禍について記され、後半には、神からの知恵について記されています。イエスは、「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12章34節)と言われましたが、ことばは私たちの心の表現です。私たちは、舌がどんな禍を引き起こすかを知りつつも、黙っていることは許されず、神と隣人の前に正しく語ることが求められているのです。 真の信仰は、第三に神からの知恵を持つことに表れます。私たちは、心に神からの知恵を与えられることによってのみ、舌を制御して正しく語ることができるからです。 四、4章、世俗または自己愛の問題――神を恐れて、へりくだることに表される信仰 この章の前半には、神を無視し、神に敵対している世について記され、後半には、神を恐れて、へりくだることが記されています。神を無視し、神に敵対している世を愛することは、とりもなおさず、神を恐れず、自分で何でもできるかのように高ぶっていることです。 真の信仰は、第四に神を恐れて、へりくだることに表れます。このようにする時にのみ、私たちは、汚れた世俗を離れて、聖い生活を送ることができるからです。 五、5章、苦難または迫害の問題――忍耐と不屈の祈りに表される信仰 この章の前半には、苦難や迫害について記され、後半には、忍耐と不屈の祈りについて記されています。この世の中は、不可解な出来事や矛盾に満ち、主が来られて、すべてを正しくさばかれるまで、完全な解決はないでしょう。 真の信仰は、最後に忍耐と不屈の祈りに表れます。なぜなら最後まで耐え忍ぶ者のみ、救われるからです(マタイ24章13節)。 私たちは、真の信仰は必ず行いに表されることを知っているでしょうか。
2007.05.06
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「幼子のような心」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章1-6節 「真に偉大な人とは、おとなの経験と、子どものような単純で甘美な心をもった人である」と言った人がいます。これは醜いおとなの世界の中で、いつのまにか幼子の心を失ってしまった私たちにとって、何と考えさせる言葉ではないでしょうか。 主イエス・キリストは、幼子たちを呼び寄せて、「天の御国はこのような者たちの国なのです」(マタイ19章14節)と言われただけでなく、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」(3節)と語られましたが、これは何と驚くべきことでしょうか。 そこで「幼子のような心」とは、どのようなものであるのかについて、聖書の中から学んでみましょう。 一、幼子の心の特徴について 幼子は、どんなに無邪気であっても、神でもなければ天使でもないことは、言うまでもありません。まして人類の堕落以後は、幼子といえども罪を持って生まれるために、さまざまな悪い心があることは衆知の事実です。 しかしここで「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」と言われているのは、幼子の心に代表される「単純な心」を教えようとしています。神が私たちに求められ、また私たちが神に対して持たなければならない最も大切な心は、この単純さなのです。 二、単純さについて それでは「単純さ」とは、どのようなことでしょうか。これはマタイの福音書6章22節に記されている「健全」(原語は単純)という言葉から、3つの意味があります。 第一は、純粋で、二心ではないことです。これは透明で、澄んでおり、曇りのない心を持つことで、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりと識別し、判断することです。 第二は、素朴で、飾り気がないことです。これはありのままで、少しも繕わない心を持つことで、良く見せかけること(偽善)も、悪く見せかけること(偽悪)もないことです。 第三は、素直で、かたくなではないことです。これは意地や強情を張らず、教えられやすい心を持つことで、良いものは受け入れて信頼し、悪いものは拒絶することです。 これが「単純さ」に代表される幼子の心の特徴です。 三、おとなの心の特徴について これに対しておとなの心は、どのようなものでしょうか。それは幼子の心とは全く正反対の単純さを失ってしまった心です。◇第一は、純粋さがなく、二心です。◇第二は、素朴さがなく、繕う心です。◇第三は、素直さがなく、頑固な心です。 これが「単純さ」に代表される幼子の心を失ったおとなの心の特徴です。 四、幼子の心を失った理由について しかし私たちは、子どもからおとなになるにつれて、幼子の心に代表される単純さを失ってしまうのは、なぜでしょうか。それは幼子のような単純さでは、互いにだましたり、だまされたりしている醜いおとなの世界では到底生きていくことはできず、初めは不本意ながらも、ついには承知で世の汚れに染まってしまうからです。 それではこのようになってしまった根本的な原因は何でしょうか。それは私たちを決して裏切ることのない真実と愛に満ちた神とその世界を信じないで、ただ私たちを欺いて懐疑的にさせる罪深い人間とその世界しか知らないからです。 五、幼子の心を取り戻す秘訣について 私たちは、「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきで」あり(ローマ3章4節)、この限りなく聖く正しく、そして真実と愛に満ちた神を信じる信仰こそ、猜疑心が取り除かれて、幼子のような単純な心を持つことができる唯一の秘訣なのです。
2007.05.04
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「戦うキリスト者(4) 福音の戦い」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章1~30節 最後に福音の戦いについて学んでみましょう。 このピリピ人への手紙の1章には「福音」という言葉が6回も記され(5、7、12、16、27節)、「奮闘」または「戦い」という言葉が2回記されています(27、30節)。 一、教理的な面 福音の戦いの第一は、「福音を弁明し立証し」、「弁証する」ことです(7、16節)。これは、言い換えれば、どれが真の救いであり、何が間違った救いであるかということを見分け、真の救いを確認することです。なぜなら世の中には、聖書が教えているキリストの福音による救いのほかに、様々な救いを唱える人々が大ぜいいるからです。 これらの様々な救いを大きく分類するなら、前述した5つの律法と同じように、次のような5つの救いになるでしょう。 1.キリストの救い――これは、天地万物を造られた真の神のひとり子キリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架につけられ、私たちの罪を救ってくださる救いです。 2.人間性の救い――これは、人間性の尊厳を救いとするものですが、その人間性が罪深いものであることを見落としています。 3.異教の救い――これは、人間の罪深さを肯定し、その願望をかなえるものです。 4.思想の救い――これも、人間の願望をかなえるものですが、その罪深さを忘れています。 5.無宗教――これは、人間の罪深さを黙認し、救いの必要を認めないものです。 まさに「この方(キリスト)以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4章12節)と記されている通りです。ですから、私たちは、どうしてもこの福音を宣べ伝えなければならないのです(第一コリント9章16節)。 二、心霊的な面 福音の戦いの第二は、人間的な情や願いや思いよりも、キリストとその福音が宣べ伝えられることを、どこまでも優先させることです。 1.寛容な心(15~18節)――福音は、善意と愛、また純真な動機と真実さによって宣べ伝えなければなりませんが、たとえこのような心でなくても、キリストとその福音さえ正しく宣べ伝えられるなら、そのことを喜ぶ寛容な心が必要です(ルカ9章50節)。 2.キリストのために生き、また死ぬこと(10節)――私たちは「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられる」ため(20節)、言い換えれば、キリストとその福音のためであり、自分のために生きたり、死んだりすることは決して許されていないのです(ローマ14章6~8節)。 3.ほかの人の益となること(22~26節)――私たちがこの地上に残されているのは、豊かな実を結んで、ほかの人の益となるためです。 三、実際的な面 福音の戦いの第三は、福音ができるだけ広く、またどれだけ有効に宣べ伝えられるかどうかということです。 1.福音にふさわしく生活する(27節)――これは、福音が侮られることなく、かえって福音の価値が十分に発揮されるような聖い、敬虔な、そして良い実を結ぶ生活をすることです。 2.キリストのための苦しみを賜わる(29節)――これは、神と真理に従うことによって受ける苦しみのことであり、私たちの不純な動機を取り除き、信仰を純粋にするものです。 3.福音を広めることにあずかる(5節)――私たちは、キリストのために苦しみ、福音宣教のために祈り、ささげ物をし、労することによって福音を広めることにあずかることかできます。 福音の戦いの勝利の秘訣は、信仰です。そして信仰の戦いに勝利を得た者のみ、天の御国に凱旋することができるのです。
2007.05.02
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