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「戦うキリスト者(3) 世との戦い」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、6章10~20節 第三に世との戦いについて学んでみましょう。主は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と私たちを励まされました(ヨハネ16章33節)。 一、教理的な面 日本語において「世」と訳されている新約聖書の原語は、おもに二つあります。一つは「アイオン」で、もう一つは「コスモス」です。「コスモス」には、4つほどの意味があるので、世には、次のような5つの意味があります。 1.時代や世代(アイオン、マタイ13章49節、ルカ16章8節、ローマ12章2節)。 2.宇宙や世界(ローマ1章20節)。 3.人間や人類(ヨハネ3章16節)。 4.世の事柄や所有物(マタイ16章26節)。 5.神と十字架と真理に敵対する原理(第一ヨハネ2章15節、ヤコブ4章4節)。 私たちが戦うべき世とは、これらの5つのうちのどれでしょうか。 私たちは、時代や世代と戦うのではありません。この時代や世代は、私たちが世の光として輝くためにあるのです。しかしこの時代と調子を合わせてはならいなことは、言うまでもありません(ローマ12章2節)。 私たちは、宇宙や世界と戦うのではありません。これは私たちが神のみこころに従って正しく用い、また大切に保護すべきものです。 私たちは、人間や人類と戦うのではありません。戦うどころか、かえって神の愛によって愛さなければなりません。 私たちは、世の事柄や所有物と戦うのではありません。私たちは、これを愛してはなりませんが、神と人のために有効に用いる義務があります。 私たちが戦うべき世とは、神と十字架と真理に敵対するサタンとその国の原理です。 二、心霊的な面 世との戦いの第一が、戦うべき世とは何かという識別についてであるのに対して、第二は、どのように戦うべきかという心構えについてです。 1.自覚――キリスト者は、この世の者ではなく、しかもこの世に生きている者です。このために必要なことは、私たちは天の御国に向かう旅人である(第一ペテロ2章11節)とともに、神からこの世に遣わされたキリストの使節であるという自覚を持つことです。 2.洞察力――キリスト者は、目に見えるものと戦うのではなく、目に見えないものと戦うのです。このために必要なことは、目に見えるものに惑わされず、目に見えないものを見抜く洞察力です。 3.装備――この世との戦いは、「この世の神」(第二コリント4章4節)である悪魔との戦いですから、素手で勝つことは不可能です。そのために私たちは、キリストの兵士として、霊的な神の武具を身に着け、霊的な神の武器をとることが必要です(11~17節)。 三、実際的な面 世との戦いの第三は、この世の悪い影響に染まらないだけでなく、かえってこの世に良い影響を与えることです。 1.聖い生活――キリスト者は、この世の流れに流されず、「この世と調子を合わせ」ることなく(ローマ12章2節)、「この世から自分をきよく守ること」(ヤコブ1章27節)が必要です。 2.忠実な管理者――「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3章20節)。しかし天の御国を受け継ぐためには、神のみこころに従って世のものを忠実に管理することが必要です(ルカ16章10~12節)。 3.福音の宣教――私たちは、神からこの世に遣わされたキリストの使節です(第二コリント5章20節)。それは福音を宣べ伝え、その福音によってこの世を教化するためです。 「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(第一ヨハネ5章4節)とあるように、世との戦いも、ただ信仰によってのみ勝つことができるのです。
2007.04.30
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「戦うキリスト者(2) 罪との戦い」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~14節 次に罪との戦いについて学んでみましょう。ヘブル人への手紙の著者は「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」と述べていますが(4節)、血を流すまで抵抗しなければならない罪との戦いとは、どのようなことなのでしょうか。 一、教理的な面 罪との戦いの第一は、罪とは何か、何がいったい罪なのかという「罪の定義との戦い」です。まずこのことがはっきりしなければ、「空を打つような拳闘」になってしまうでしょう(第一コリント9章26節)。 「罪とは律法に逆らうこと」であり(第一ヨハネ3章4節)、「律法のないところには違反もありません」(ローマ4章15節)。ですから罪との戦いは、まずどのような律法を信じるのかということから始まります。なぜなら良心の呵責は、その人が信じている律法を破った時にのみあるもので、信じてもいない律法を破っても何も感じないからです。「良心」は、その律法を土台として、その律法を守ったかどうかの「裁決を下すもの」です。すなわち、その律法を守れば「善」、破れば「悪」と裁決を下すのが良心です。 律法には、次のようなものがあります。 1.神の律法――これは聖書が教えている神のみこころであり、この中には信仰に抵触しない限り、人道主義の律法や国の法律も含まれています。 2.人間性の律法――これは神とその神への信仰を無視し、ただ人間性の尊厳を強調する人道主義(ヒューマニズム)の律法です。 3.異教の律法――これはキリスト教以外の他宗教の律法です。 4.思想の律法――これは右翼や左翼など何かの思想(イデオロギー)による律法です。 5.無律法――これは文字通り何の律法もなく、何をしてもよいという考えです。 キリスト教は、ただ神の律法だけを信じるものであることは、言うまでもありません。 二、心霊的な面 罪との戦いの第二は、「血を流すまで」という言葉に表されている「どれくらいか」という「罪の程度との戦い」です。程度には、次のような3つがあります。 1.性質――これは神の律法をどれだけ純粋に、また熱心に守っていこうとするかどうかです。 2.範囲――これは神の律法をどこまで忠実に守っていこうとするかどうかです。 3.期間――これは神の律法をいつでも忠実に守っていこうとするかどうかです。 「血を流すまで」というのは、「いのちをかけて」とか「たとい死んでも」という意味ですから、最高の程度です。神は、すべての人に同じ程度のことを要求される方ではありませんが、私たちに最善を尽くすことを求められるのです。 聖書は、律法を守ることによって救われるのではなく、ただ信仰によって救われると教えていますが、「私たちは信仰によって律法を無効にする」のではなく、「かえって、律法を確立する」のです(ローマ3章31節)。 三、実際的な面 罪との戦いの第三は具体的に次のような3つのものとの戦いです。 1.原罪との戦い――これは、パウロが述べている「私のうちに住みついている罪」との戦いです(ローマ7章17、20節)。 2.自己との戦い――これは、それ自体は罪でも悪でもない人間として自然な願望や欲求や傾向性をも犠牲にして神に従わなければならない自己を否定する戦いです。 3.誘惑や試練との戦い――誘惑は悪魔から、試練は神から受けるものですが、これは、私たちを訓練し、成長させるために、どちらも外側から私たちに襲いかかるものとの戦いです。 原罪との戦いは、聖霊による聖潔(きよめ)を信じることによってのみ勝利を得ることができます。自己との戦いも、誘惑や試練との戦いも、ただ信仰によってのみ勝つことができるので、すべては信仰の戦いなのです。
2007.04.28
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「戦うキリスト者(1) 信仰の戦い」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、6章11~16節 パウロは、若い伝道者テモテに「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」と勧め(12節)、彼自身も「私は勇敢に戦い、走るべき道を走り終え、信仰を守り通しました」とりっぱな告白をしています(第二テモテ4章7節)。 聖書は、キリスト者の生活というものを戦いにたとえて教えています。この戦いは、真理と虚偽との戦い、善と悪との戦いであり、だれでも参加して戦わなければならず、免除されることはありません。新約聖書には戦うキリスト者の姿が4つほど記されています。◇戦うキリスト者(1)――信仰の戦い◇戦うキリスト者(2)――罪との戦い◇戦うキリスト者(3)――世との戦い◇戦うキリスト者(4)――福音の戦い まず信仰の戦いから学んでみましょう。 一、教理的な面 私たちは、何のために、またなぜ戦わなければならないのでしょうか。 1.私たちの「敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回ってい」るからです(第一ペテロ5章8節)。私たちは、戦って勝たなければ、この敵に滅ぼされてしまうのです。 2.私たちは、互いに助け合って生きており、一人で生きていくことはできないからです。私たちは、自らの弱気によって戦友たちの心をくじいたり(申命記20章8節)、またアカンのように自らの罪のために戦友たちを戦死させたりしないようにすべきです。 3.この戦いは、私たちの戦いではなく、神の戦いであり(第二歴代誌20章15節)、私たちは、キリストの兵士だからです(第二テモテ2章3節)。私たちは「主の軍の将」である神のために(ヨシュア5章14、15節)、りっぱな戦いをしなければならないのです。 二、心霊的な面 信仰の戦いとは、いったいどのようなものでしょうか。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です(ヘブル11章1節)。ですから信仰の戦いは、目に見えるものにとらわれず、見えないものを求めて得る戦いです。 1.消極的、否定的な3つの信仰の戦い。(1)過去の経験や失敗がどのようなものであれ、(2)現在の事情や困難がどのようなものであれ、(3)将来の心配や不安がどのようなものであれ、 これらにとらわれず、またこれらに負けず、さらにこれらを振り捨てることです。 2.積極的、肯定的な6段階の信仰の戦い。(1)渇望――慕い求める事(マタイ7章7節)。(2)確信――堅く信じる事(マルコ11章24節)。(3)委託――任せる事(第一ペテロ4章19節)。(4)敢行――踏み出す事(ヘブル11章8節)。(5)忍耐――耐え忍ぶ事(ヘブル11章27節)。(6)獲得――手に入れる事(ヘブル10章36節) この第二番目から第四番目は、時と場合によって入れ替わることがあるでしょうが、神のことばを信じて求めたものを獲得していくのが信仰の戦いです。 三、実際的な面 これは、次回から3回に分けて学ぶ次のような3つの戦いです。 1.罪との戦い(ヘブル12章4節)。 これは堕落したアダムとエバから受け継がれた原罪または罪深い自我との内的な戦いであり、これに勝利を得ることこそ聖潔(きよめ)です。 2.世との戦い(エペソ6章12節)。 これは、世を支配している悪魔との戦いです。この戦いは、醜い罪との戦いとは違い、華やかな世という仮面をかぶっているので、表面的なものに惑わされない霊的な洞察力が必要です。 3.福音の戦い(ピリピ1章27節)。 これは罪と偶像と悪魔の奴隷となっている人々を、その手から奪い返して神の民とする戦いであり、伝道および教会の建設の働きです。 信仰の戦いに勝つことこそ、これらの3つの戦いに勝利を得る秘訣です。
2007.04.26
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「神を第一とする歩みの祝福」 甲斐慎一郎 ダニエル書、1章 ダニエルは、15歳前後の少年の時に、祖国ユダが滅亡し、敵国バビロンに連れて行かれてから、90歳近くの晩年に至るまで、異邦の地においてネブカデネザル王、ベルシャザル王、ダリヨス王、そしてクロス王という敵国の4人の王に仕えた政治家です。彼は、預言者ですが、今でいう伝道者ではなく、政治家として世の仕事に携わっている信徒で、信仰のゆえに何度もいのちの危険にさらされるという波瀾万丈の生涯を送った人です。 一、神を第一とする歩みの戦い パウロは、「信仰の戦いを勇敢に戦い」(第一テモテ6章12節)と述べていますが、神を第一とする歩みをする時、様々な戦いがあります。 1.ほかの人の善意や情による妨げ ダニエルは、神の教えを守り、神を第一とするために王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒を断りましたが(1章5、10節)、これは王の善意や宦官の長の情を退けることでした。私たちが神第一の歩みをしようとする時の妨げの第一は、ほかの人が世の常識的な考えのゆえに、その善意や情によって、私たちに神の教えを破らせようとすることです。 2.ほかの人の恩義や要求による妨げ ダニエルの3人の友は、神の教えを守り、神を第一とするために、金の像を拝むことを拒みましたが(3章12節)、これは王の恩義や要求を退けることでした。私たちが神第一の歩みをしようとする時の妨げの第二は、ほかの人が異教的な考えのゆえに、その恩義や当然の要求によって私たちに神の教えを破らせようとすることです。 3.ほかの人の悪意や謀略による妨げ ダニエルは、神の教えを守り、神を第一としたために、何の怠慢も欠点もありませんでしたが、ダニエルを憎む者たちは、彼が神の教えを守り、神第一の歩みをしていること自体を王に訴える口実に作り上げました(6章5節)。私たちが神第一の歩みをしようとする時の妨げの第三は、ほかの人が罪深い心のゆえに、その悪意や謀略によって、私たちに神の教えを破らせようとすることです。 二、神を第一とする歩みの祝福 神を第一とすることは、困難を伴うだけでなく、それを上回るすばらしい祝福が与えられます。主イエスは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と言われました(マタイ6章33節)。 1.からだや健康の祝福(1章15節)。 彼らは、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにし」たのです(第一コリント10章31節)。 2.頭脳や知識の祝福(1章17、20節)。 彼らは、神を第一としたので、二心にならず、心を集中して、学ぶことができました。 3.職業や地位の祝福(1章19節)。 彼らは、神によって良い仕事と地位が与えられました。 4.信仰の祝福(2章18、19節)。 彼らは、祈りによって偉大な神の力と知恵が与えられる秘訣を心得ていたのです。 三、神を第一とする歩みの条件 1.心に定めること 私たちは、神第一の歩みをしようか、それともやめようかなどと迷ってはなりません。神第一の歩みをすることを心に定めることです(1章8節)。そうすれば、神は私たちに、それを行う力を与えてくださるのです。 2.結果を神に任せること 私たちは、良い結果になりそうな時は、神を第一にするが、そうでない時は、やめようなどと考えてはなりません(3章16、18節)。神を第一とするなら、一時的には悪く見えても、最後は必ず良い結果になるからです。 3.環境に左右されないこと 私たちは、良い環境の時なら、神を第一とするが、そうでない時は、やめようなどと言ってはなりません。「いつものように」(6章10節)、何事があっても、少しも変わらず、神第一の歩みをすることこそ環境に負けないだけでなく、それを克服する秘訣です。
2007.04.24
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「三つの声」 甲斐慎一郎 詩篇、19篇1~14節 ヘブル人への手紙の著者は、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」と述べていますが(ヘブル1章1、2節)、聖書が教えている神は、私たちに語りかける神です。 この詩篇19篇は、3つのものを通して語りかける神について教えています。 一、自然を通して語りかける神(1~6節) まず神は、自然(界)を通して私たちに語っておられます。 1.「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(1節)。 2.「ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」(使徒14章17節)。 3.「神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1章20節)。 自然(界)は、「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれ」ませんが、「その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届い」ているのです(3、4節)。 神は、大宇宙によって、その存在を示しておられる(知性への訴え)だけでなく、自然の恵みをもって私たちの心を満足させる(感情への訴え)とともに、絶対的に従うように求めておられる(意志への訴え)のです。 二、聖書を通して語りかける神(7~11節) 次に神は、聖書を通して語っておられますが、これには次の3つの段階がありました。 1.第一段階――「神は声を出して、彼に答えられた」(出エジプト19章19節)。 神は民に直接語られました。しかしこれには人々が耐えられないので(同20章19節)、次のような方法が用いられました。 2.第二段階――「神は……預言者たちを通して……語られました」(ヘブル1章1節)。 神は預言者を通して語られました。しかしこれは時代や地域に制約されるので、普遍的な次の方法が用いられました。 3.第三段階――「あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ」(エレミヤ36章2節)。 神はご自身のことばを書物に記すように命じられました。これが聖書であり、私たちは聖書を読むことによって神のことばを聞くことができるのです。 三、聖霊を通して語りかける神(12~14節) 最後に神は、聖霊を通して語っておられますが、これには次の3つの段階がありました。 1.神は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、その「ひとり子の神が、神を説き明かされ」ました(ヨハネ1章18節)。 2.キリストがこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて……大能者の右に着かれ」、すべての人々に聖霊をお注ぎになるためでした(ヘブル1章3節、使徒2章33節)。 3.神は、聖霊によって私たちに神のことばを「思い起こさせてくださ」り、救い主キリスト「についてあかしし」、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ」、「すべての真理に導き入れます」(ヨハネ14章26節、15章26節、16章8節、13節)。 私たちが「きょう、もし(聖霊の)御声を聞くならば」、そして「心をかたくなにし」なければ(ヘブル3章7、8節)、「自分の数々の過ちを悟り」、「隠れている罪」に気づき、「傲慢の罪から守」られ、「大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう」(12、13節)。 そして私たちは、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」と心から祈ることができるのです(14節)。
2007.04.22
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「神への真の服従」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、21章15~23節 ペテロは、テベリヤの湖畔においてイエスのお取り扱いを受け、愛と服従を求められました(15~19節)。ところがヨハネがあとについて来るのを見て、「主よ。この人はどうですか」と言いました(21節)。するとイエスは、ペテロに「わたしが来るまで、彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(22節)。ここから神への真の服従について学んでみましょう。 一、服従の動機――神への至高の愛 イエスは、ペテロに「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と言われ、また服従を求められましたが、その直後、ペテロはヨハネが主に従うのを見ました(15~20節)。その時、彼は、あたかも「主よ。この人の愛はどうですか。私の愛とどのような関係にありますか」と質問したかのようです。 自分の愛と他の人の愛とどちらが多いか、誰が知ることができるでしょうか。また比較したところで、それが何になるでしょうか。もし自分は、あの人よりも神を愛しているのに、あの人よりも不幸せであると思ったなら、卑屈にならないでしょうか。反対に自分があの人よりも幸せなのは、あの人よりも神を愛しているからだと思ったなら、高慢にならないでしょうか。 私たちは、自分と他の人の愛を比較することに専念してはなりません。それよりも私たちの専念すべきことは、それぞれが神からの愛を溢れるばかりの感謝をもって受けるとともに、その愛に応えて、精一杯、神を愛していくことです。この神への至高の愛こそ、神への服従の正しい動機です。 二、服従の方法――自己否定の道 イエスは、ペテロに「ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」と言われました(18節)。ペテロは、この言葉を聞くと、自分が自己否定の道、十字架の道、自己犠牲の道を歩むことを知りましたが、その直後、ヨハネが主に従うのを見ました。その時、ペテロは、あたかも「主よ。この人の道はどうですか。私の道とどのような関係がありますか」と質問したかのようです。 自分の道と他の人の道とどちらがよいか、誰が比較することができるでしょうか。また比較したところで、それが何になるでしょうか。もし自分があの人よりも尊く用いられず、日陰の道を歩むと思ったなら、自己卑下のとりこにならないでしょうか。反対に自分は、あの人よりも尊く用いられ、日向の道を歩むと思ったなら、自負心のとりこにならないでしょうか。 私たちは、自分と他の人の摂理の道を比較することに専念してはなりません。それよりも私たちの専念すべきことは、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、主に従って行くことです(ルカ9章23節)。この自己否定の道こそ、神への服従の正しい方法です。 三、服従の目的――使命や奉仕の遂行 イエスは、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、彼に主の羊を飼うという使命を与えられましたが、その直後、ペテロはヨハネが主に従うのを見ました(15~20節)。その時、彼は、あたかも「主よ。この人の使命はどうですか。私の使命とどのような関係にありますか」と質問したかのようです。 自分の使命と他の人の使命とどちらがよいか、誰が比較することができるでしょうか。また比較したところで、それが何になるでしょうか。もし自分の使命や奉仕があの人よりも劣っていると思ったなら、それを軽蔑して怠慢にならないでしょうか。反対に自分の使命や奉仕があの人よりも優っていると思ったなら、高慢になって、出過ぎたまねをしないでしょうか。 私たちは、自分と他の人の使命や奉仕を比較することに専念してはなりません。それよりも私たちの専念すべきことは、神よりそれぞれに与えられた使命や奉仕を遂行することです。この神から与えられた使命や奉仕の遂行こそ、神への服従の正しい目的です。
2007.04.20
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「信仰の試練を受けたハンナ(2)」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、1章1~20節 二、ハンナの胸に生じた6つの疑惑 ハンナが置かれた境遇は、実に多難であり、様々な不利な条件に満ちていました。 ◇ハンナは、エルカナの二人の妻のうちの一人でした(2節)。 ◇ペニンナには子どもがありましたが、ハンナには子どもがありませんでした(2節)。 ◇もう一人の妻ペニンナは、子どものないことで、ハンナをいじめました(6節)。 ◇夫のエルカナは、人間的には善人でしたが、信仰的にはふがいない人でした(8節)。 ◇祭司エリは、柔弱な人で、人の心を見抜く洞察力がありませんでした(13節)。 ◇最も大きな試みは、胎を閉じておられるのが主であったということです(5節)。 このような境遇に置かれたハンナの胸に次のような6つ疑惑が生じたことでしょう。 1.なぜ神は、私の胎を閉じ、子どもを生めないからだにされたのか。 2.なぜ夫は、子どもが生めない私をあきらめて、ペニンナを妻として迎えたのか。 3.なぜペニンナに子どもが生まれ、私には子どもが生まれないのか。 4.なぜペニンナは、神を疑わせるように私をいらだたせるのか。 5.なぜエリは、私の祈りと酒の酔いとの区別がつかないのか。 6.私が子どもを欲しがっているのは、ペニンナを見返すためではないのか。 この6つの疑問は、実に深刻な疑惑です。私たちも、ハンナのように様々な疑惑に包まれているのではないでしょうか。 三、疑惑によって強くなったハンナの信仰 ハンナは、このような深刻な疑惑に包まれていたのに、なぜすばらしい信仰の人になったのでしょうか。夫のエルカナも、もう一人の妻ペニンナも、祭司エリも、信仰の人ではありません。その理由は何でしょうか。 この三人の人は、現実を現実のまま受け止め、現実に対して何の疑問も抱かなかったからです。厳しい現実に直面した時、「どうしてこうなのか。もっと良いことがあるのではないか」と現実を疑い、「どうしたら、この現実を変えることができるだろうか」と考えようとはしませんでした。いや疑問に思ったこともあるでしょうが、その疑問や疑惑に真っ正面から取り組もうとせず、いとも簡単にあきらめてしまったにちがいありません。 しかしハンナは、そうではありませんでした。彼女とてか弱いひとりの女性です。1.神は、私の胎を閉じられた。2.夫は、第二の妻をめとった。3.ペニンナは、簡単に子どもを生んだ。4.ペニンナは、私をいじめた。5.祭司エリは、私を酒酔いと間違えた。6.子どもを欲しがる私の動機は、不純ではないのか。 ハンナは、この6つの疑惑に包まれ、どんなに悩み苦しんだことでしょうか。この6つの疑惑を整理するなら、「1」は神への疑惑、「2」から「5」は人への疑惑、「6」は自分への疑惑です。「2」から「6」の疑惑の原因はすべて[1」にあります。もし「1」がなければ、それ以後の疑惑もなかったことでしょう。 多くの人たちは、「2」から「5」の人への疑惑にのみ心を奪われ、果ては、「夫が悪い」、「ペニンナが悪い」、「祭司が悪い」と言って、「彼らさえ悪くなければ、こんなに悩み苦しむこともないのに」と、人に疑惑をぶつけます。真の信仰を持つために疑惑は大切ですが、その疑惑も「人への疑惑」で留まってしまったならば、益になるどころか、害になってしまいます。夫もペニンナも祭司エリも、このような人であったのでしょう。 しかしハンナは、そうではありませんでした。彼女にも人への疑惑は、ありましたが、その原因は神にあることを知っていました。それでハンナは、「主に祈って激しく泣き」、「心を注ぎ出して」、「祈っていたのです」(10、15、16節)。これは、「なぜ、あなたは……」とハバククのように神に疑問をぶつけることでした(ハバクク1章3、13節)。 このように神に疑問をなげかける時、「このように神を疑っている自分は、いったい何者なのか。私は、いつも正しいことを行なっている人間なのか」と自分に対する疑惑が生じてくるでしょう。神は、ヨブに「自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」と言われました(ヨブ40章8節)。 おそらくハンナは、パウロが述べているように「私たちは真実でなくても、彼(神)は常に真実である」(第二テモテ2章13節)ことが分かったにちがいありません。このようにどこまでも真実な神を疑っている不真実極まりない自分に疑惑を抱く時、真の信仰を持つことができるのです。
2007.04.18
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「信仰の試練を受けたハンナ(1)」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、1章1~20節 信仰の試練を受けたハンナの姿から、真の信仰について学んでみましょう。 一、疑惑と不信仰の相違 私たちが何かを信じるか信じないかという時、信じたいけれども信じられないという心と、信じたくないという心があります。前者は、真理を探求する「疑惑」で、知性の問題ですが、後者は、真理を拒否する「不信仰」で、意志の問題です。 1.疑惑について ある人は、信仰は何も疑わずに、ただ信じることであると思っていますが、そうでしょうか。ある人が次のように述べています。◇何も信じないことは不幸です。 ◇しかし何でも信じることも不幸です。◇信ずべきことを信じ、信ずべきでないことを信じないことこそ真 の幸いです。 聖書が教えている信仰は、まさにこれです。 信仰にとって最も大切なことは、何を信じるかという「信仰の対象」です。しかし多く人々は、「鰯の頭も信心から」という言葉に表されているように、何を信じるかという「信仰の対象」よりも、信じる心、すなわち「信心」が大切であると思っています。 それで、「信じることは善で、信じないことは悪である」と思っている人もいます。しかしそれは、「服従は善で、不服従は悪である」とか「従順は善で、不従順は悪である」というのが誤りであるように、服従する相手が善であるか悪であるかによって善悪が決まるのであって、「服従」や「不服従」それ自体が善か悪かということはあり得ません。 そのように信仰も信じる対象が大切です。真の信仰は、偽りのもの、非現実的なもの、欺瞞的なもの、空虚なもの、無価値なものを疑って信ぜず、真実なもの、現実的なもの、不変の真理、実在するもの、価値のあるものを信じることです。 ルー・ウォーレスは、アメリカの偉大な将軍であり、天才的な文学者と言われました。彼は、過激な無神論者で、聖書と教会を撲滅するために、キリスト教を抹殺する本を書こうとしました。それから5年間、研究に没頭し、山のような資料に囲まれて執筆にとりかかりました。ところがキリスト教撲滅論を書いているうちにキリストを見いだし、信仰を告白してキリスト者になりました。そしてキリストの時代を取り扱ったものとしては比類のない不朽の名作と言われる「ベン・ハー」を書いたのです。 ルー・ウォーレスは、ベレヤのユダヤ人のように「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17章11、12節)結果、それが真実なものであることが分かり、信仰にはいりました。しかし疑惑の念を抱いたままなら、遅かれ早かれ、不信仰になってしまうでしょう。不信仰にならないために疑惑を解くことは非常に大切なことなのです。 2.不信仰について 主は、「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」と言われました(ヨハネ7章17節)。真理を探求する意志があるなら、疑惑は晴れて、信じることができるようになります。しかし「神を知ろうとしたがらない」なら(ローマ1章28節)、すなわち真理を探求する意志がないなら、疑惑を解くことができる証拠を示されても、決して信じないでしょう。これが不信仰です。次回「信仰の試練を受けたハンナ(2)」に続く
2007.04.16
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「証しの宗教」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~26節 「証し」とは証拠とか証明という意味です。キリスト教は、確かな証拠があり、証明することができる「証しの宗教」です。このことをキリストの復活から学んでみましょう。 一、主の復活は確かな証拠のある事実です ルカは、キリストの復活を述べる時、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」と記しています(3節)。 ある事柄を事実であり真理であると主張する時、当然のことながら、その証拠を求められ、証明することが要求されます。キリスト教は、数多くの事実と真理を主張していますが、それは確かな証拠があり、証明することができるからです。 私たちが何かを信じるか信じないかという時、信じたいけれども信じられないという心と、信じたくないという心があります。前者は、真理を探求する「疑惑」で、知性の問題ですが、後者は、真理を拒否する「不信仰」で、意志の問題です。 主は、「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」と言われました(ヨハネ7章17節)。真理を探求する意志があるなら、疑惑は晴れて、信じることができるようになります。しかし「神を知ろうとしたがらない」なら(ローマ1章28節)、すなわち真理を探求する意志がないなら、疑惑を解くことができる証拠を示されても、決して信じないでしょう。これが不信仰です。 主イエスは、「知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22章37節)と言われましたが、キリスト教は、知性と理性を持った人間が十分に納得することができる確かな証拠のある宗教です。 二、主の復活は確かな証言のある事実です それでは証明の方法は何でしょうか。キリストの復活は歴史的な出来事ですから、他の歴史的な事件と同じように科学の実験室において再現して証明することはできません。しかし裁判と同じように人的証拠(当事者本人と証人と鑑定人の証言)と物的証拠(検証物と文書)と心証(裁判官が心中に得た確信)による歴史的証明方法があります。 主の復活に関する人的証拠は、当事者のキリストの証言、証人である弟子たちの証言、鑑定人に相当するキリストに敵対するユダヤ人の証言があります。物的証拠は、検証物として空虚な墓、文書として聖書をはじめ多くの文献があります。礼拝の日の変更という傍証もあります。これらの本証に対して決定的な反証は一つもなく、当時の人々が復活は真実であるという心証を得たのも当然です。キリスト教は、確かな証言のある宗教です。 三、主の復活は確かな証人のいる事実です 証人とは、見聞きしたことを証しする人です。使徒たちは実際に主の復活を見聞きした「イエスの復活の証人」でした(22節)。パウロは、キリストが三日目によみがえられたことに関して、ペテロに現れ、それから十二弟子に現れ、その後、五百人以上の兄弟たちに同時に現れ、ヤコブに現れ、使徒たち全部に現れ、そして最後に月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいましたと述べています(第一コリント15章5~8節)。 しかしキリスト者も聖霊が臨まれる時、主の証人となります(8節)。なぜなら私たちが信仰を持つ時、「御霊ご自身が……あかししてくださいます」(ローマ8章16節)とあるように聖霊の証しが与えられるからです。 二千年前のイスラエルにおいて復活されたキリストが現在の日本にいる私たちのうちに住むようにさせてくださる方は聖霊であり、その聖霊を受ける条件は信仰です。言い換えれば、二千年前に復活されたキリストが聖霊によって信じる者の心の中に生きて証しをされるので、私たちは主の証人となるのです。 主の復活という客観的、歴史的な事実があるからこそ、このような主観的、神秘的な体験が可能であり、真実なのです。キリスト教は、確かな証人のいる宗教です。
2007.04.15
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「死の支配といのちの支配」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章12-21節 「キリストは、私たちの罪のために死んでくださったので、このキリストの贖いを信じる者はだれでも罪から救われます」というのが福音であり、キリスト教の中心です。 しかしキリストの十字架の死は、今から二千年も前にエルサレムで起きた出来事です。それが、どうして二千年後の極東の日本に住んでいる私たちのためなのでしょうか。その時間的、空間的な隔たりをどのように考えればよいのでしょうか。 一、アダムの堕罪と死の支配 パウロは、キリストの贖罪による恵みが、時間と空間を超越して全人類に及ぶというすばらしい事実を示すために、アダムの堕罪によって生じた罪とその結果である死が、時空を超越して全人類に及んでいるという厳粛な事実を述べています(12節)。 冒頭の図の赤い線の三角形は、人類の古い代表(かしら)であるアダム(第一の人)を頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 このように聖書はアダムが罪を犯した時、すべての人は彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えています。 二、キリストの贖罪といのちの支配 冒頭の図の青い線の三角形は、人類の新しい代表(かしら)であるキリスト(第二の人)を頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代代にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 パウロは、人類の真の代表であるキリストとキリストのひな型であるアダム(14節)を比較して、「本物に対してひな型であるアダムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、人類の真の代表であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの優越性を述べています(15、17節)。 三、死の支配からいのちの支配への移行 すべての人は、アダムの子孫として生まれるので(第一の誕生)、彼の堕罪による死の支配から逃れることはできませんが、だれでも罪を悔い改め、キリストを信じて新しく生まれるなら(第二の誕生)、主の贖罪によるいのちの支配下にはいることができるのです。 四、キリストの贖罪が意味するもの 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです」。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所(すなわち天の聖所)にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9章24、12節)。 このようにイエスの十字架の死は、天にある「まことの聖所」において永遠の贖いを成し遂げて、天の御国への道を開いたのです。
2007.04.13
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「イエスの復活(3)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、15章20節 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(第一コリント15章20節)。 キリスト教は、「霊魂不滅」だけでなく、からだの復活による「肉体の不滅」をも教えています(ヨハネ5章29節)。そこでコリント人への手紙第一の15章から聖書が教えている復活に関する大切な真理を学んでみましょう。 一、過去におけるキリストの復活の事実について パウロは、キリストの復活は、誤って伝えられた根も葉もない架空の話ではなく、まことしやかに捏造された作り話でもなく、実際に起きた出来事に基づいた確かな実話であることを述べています。 G・C・モルガンはキリストの復活を証明する3つの事実を述べています。1.キリスト者の福音体験(第一コリント15章1、2節)。2.聖書の復活に関する預言(同15章3、4)。3.主の復活を目撃した証人(同15章5-8節)。 もしキリストが復活されなかったなら、信じて罪から救われるキリスト者もキリスト教会も存在しなかったでしょう。実にキリストの復活は、キリスト教会の存在という確かな証拠があり、聖書の預言という確かな証言があり、主の復活を目撃した確かな証人のいる事実なのです。 二、現在におけるキリストの復活の意味について ところがコリントの教会の中のある人たちは、次のような3つの疑問のゆえに、死者の復活を信じていませんでした。 1.死者はどうして復活するのか――復活の原因や理由に関する疑問。 2.死者はどのようにして復活するのか――復活の方法や手段に関する疑問。 3.死者はどのようなからだで復活するのか――復活の結果や様態に関する疑問。 これに関してパウロは、簡潔に、しかもきわめて適切に答えています。第一の疑問には、「キリストが復活されたのだから、死者の復活があるのは当然である」(第一コリント15章13節)と答え、第二の疑問には、「からだの復活といっても、死んだ種粒から新しいからだが生じるという秘義以上に大きい秘義ではないのだ」(同15章36~38節、G・C・モルガン)と答え、第三の疑問には、「血肉のからだがあるのだから、御霊のからだもあるのである」(同15章14節)と答えています。 このようにパウロは、疑問に答えながら、過去におけるキリストの復活は、現在の私たちにどのような意味を持っているかについて述べています。 ◇主の復活は私たちの救いの基礎であり、根拠です(同15章14~22節)。イエスの復活によって罪からの救いが成就するからです。 ◇主の復活は神の支配の基礎であり、根拠です(同15章23-28節)。イエスの復活によって神のご計画は完成するからです。 ◇主の復活は私たちの希望の基礎であり、根拠です(同15章42~49)。イエスの復活によって私たちも復活することができるからです。 三、将来におけるキリスト者の復活の奥義について 最後にパウロは、世の終わりにおけるキリスト者の復活について、次のような三重の表現によって述べています。 1.私たちの完全な変貌です(第一コリント15章51、52節)。 私たちは、永遠に眠ってしまうのではなく、終わりのラッパとともに、たちまち一瞬のうちに変えられるのです。 2.神の与えてくださる完全な住まいを着ることです(同15章53、54節)。 私たちは、天から与えられる住まいを着るのであり(第二コリント5章1~4節)、それは永遠に朽ちず、不死です。 3.死に対する完全な勝利です(第一コリント15章54~57節)。 死ぬべきものがいのちにのまれ、もはや死はなくなるのです。
2007.04.11
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「イエスの復活(2)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~3節 「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され」ました(3節)。 このように聖書は、イエスが復活されたことは確かな事実であることを教えています。また聖書のほかに、イエスのからだの復活を信じていない人たちでも、否定することのできない4つの歴史的な事実があります。 1.イエスを埋葬した墓はからであり、イエスの遺体はどこにもなかったことです。 2.イエスを見捨てて逃げてしまった弱い弟子たちが、ある時を境にして迫害や死をも恐れない強い弟子たちに変わったことです。 3.弟子たちと初代教会は、イエスの十字架の死とともに復活を宣べ伝えたことです。 4.礼拝の日が、土曜日から日曜日(イエスが復活された日)に変更されたことです。 多くの人たちがイエスの復活を否定して、この4つのことを説明しようと試みましたが、だれひとりとして納得がいくように説明することはできませんでした。イエスが復活されたことは確かな事実だからです。イエスの復活は、3つのことを私たちに教えています。 一、イエスの復活は、イエスが公に神の御子として示されたことを教えています 「キリストは、神の御姿であられる方なのに……人間と同じようになられ」ました。キリストは、「私たちの神であり父である方のみこころによ」り、「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」ました(ピリピ2章6~8節、ガラテヤ1章4節)。 「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(2章24節)。 このようにしてイエスは、「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された」のです(ローマ1章4節)。 二、イエスの復活は、十字架による罪の贖いが確かなものであることを教えています 使徒パウロは、死者の復活はないと言っている人に、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」と述べています(第一コリント15章17節)。 これは、事実とは反対のことを記した仮定ですから、事実通りに述べるなら、イエスの復活は、十字架による罪の贖いが確かなものであることを教えているのです。 これを裏づけるかのようにパウロは、「主イエスは、……私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」と記しています(ローマ4章25節)。またぺテロは、「神は……イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて……くださいました」と述べているのです(第一ペテロ1章3節)。 三、イエスの復活は、イエスを信じる者が死んでもよみがえることを教えています パウロは「今やキリストは、眠った者の初穗として死者の中からよみがえられました」と言いました(第一コリント15章20節)。これは、イエスにあって眠った人々がよみがえるために、まずキリストがよみがえられたということを教えています。 イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました(ヨハネ11章25節)。主が再び来られる時、「キリストにある死者が、まず初めによみがえり」、主とともに永遠に生きるのです(第一テサロニケ4章16、17節)。拙著「キリストの生涯の学び」209「イエスの復活(2)」より転載
2007.04.09
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「イエスの復活(1)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、24章1~12節 イエスは、アリマタヤのヨセフとニコデモによって手厚く葬られました。その様子を見届けた女性たちにできることは、一刻も早くイエスのからだに香料と香油を塗ることです。 ところがイエスを埋葬した金曜日は、終わろうとしており、翌日の土曜日は安息日なので、遺体に触れることはできず、香油を塗るためには、週の初めの日(日曜日)の明け方まで待たなければなりませんでした。 週の初めの日の明け方に女性たちが墓に行った時、彼女たちは、その後の世界の歴史を変えてしまう驚くべきことを発見したのです。 一、女性たちが体験したこと(1~10節) 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていました(マルコ16章3節)。「見ると、石が墓からわきにころがしてあ」りました。「はいって見ると、主イエスのからだは」ありませんでした(2、3節)。そこへ主の使いが女性たちの近くに来て、イエスは「ここにはおられません。よみがえられたのです」と言ったのです(6節)。 この女性たちは――名前が記されているのは――マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとサロメでした(10節、マルコ16章1節)。ところが4人の福音書の著者たちは、彼女たちのその後の行動について、みな違ったことを記しています。 ◇「彼女たちは恐ろしくはあったが大喜びで……知らせに走って行った」(マタイ28章8節)――ヨハンナかヤコブの母マリヤ。 ◇女の人たちは、「すっかり震え上がって、気も転倒し……だれにも何も言わなかった」(マルコ16章8節)――サロメ。 ◇女の人たちは、「十一弟子とそのほかの人たち全部に一部始終を報告した」(9節)――ヨハンナかヤコブの母マリヤ。 ◇「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、……わかりません」(ヨハネ20章2節)――マグダラのマリヤ。 このように4人の女性たちはみな、からの墓を見、主の使いの語ったことを聞くという同じ体験をしましたが、その性質や性格の相違によってみな違った行動をしているのです。 二、主の使いが語ったこと(5~7節) 主の使いは、女の人たちに次のような2つのことを言いました。 1.イエスは「ここにはおられません。よみがえられたのです」(6節)。 2.「急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい」(マタイ28章7節)。 「このこと」とは、「イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして……あなたがたは、そこ(ガリラヤ)で、お会いできるということです」(同28章7節)。 三、使徒たちが確認したこと(11、12節) 「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので」、彼らは、女の人たちを信用しませんでした(11節)。使徒たちは、非常に醒めた眼をしており、イエスが復活されることなど全く期待していませんでした。ですからイエスの復活を熱望する余り、復活されていないイエスを見たという「錯覚説」は誤りであることがわかります。 11弟子の中で、ペテロとヨハネは、女の人たちが真剣に言うので、念のために墓へ行ってみました。「ふたりはいっしょに走」りましたが、ヨハネが「先に墓に着」きました(ヨハネ20章3、4節)。 ヨハネは、中にはいりませんでしたが、ペテロが後から来て先に墓にはいったので、ヨハネもはいりました。そして彼らは、亜麻布と布切れの置き方を見て、イエスの復活を信じたのです(同20章5~8節)。拙著「キリストの生涯の学び」208「イエスの復活(1)」より転載
2007.04.07
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「イエスの埋葬」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、27章57~66節 十字架の刑が終わり、ローマの兵士たちは、二人の強盗のすねを折って殺し、イエスのわき腹を槍で突き刺して、三人の死を確認しました。二人の強盗の死体は、おそらく近くのどこかに埋められたのでしょう。ところがイエスの遺体については、ピラトに下げ渡しを願い出る者が現れたのです。 一、イエスを埋葬した人たち(57、58節) 「ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った」のは(58節)、イエスの家族の者ではなく、またイエスの11弟子でもなく、そしてイエスに仕えた女の人たちでもありませんでした。意外にも、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」と、「前に、夜イエスのところに来たニコデモ」でした(ヨハネ19章38、39節)。 この二人は、サンヘドリン(70人議会)の議員であり、イエスの死刑には心の中で反対していました(ルカ23章50、51節、ヨハネ7章50節)。しかし、議会では、ほかの議員たちを恐れて言い出せませんでした(マルコ14章64節)。そしてイエスは、死刑が確定し、十字架の上で亡くなられたのです。 ヨセフとニコデモは、どんなに悩み苦しんだことでしょうか。しかし、イエスの死がきっかけとなって、隠れた弟子からイエスを告白する弟子になる決心をしました。この二人がイエスを埋葬したのです。 このようにイエスの埋葬の時は、いままでイエスを告白していた11弟子が隠れて出て来なかったのに対して、いままで隠れていた二人の弟子がイエスを告白する弟子となって出て来たのです。 二、イエスを埋葬した有様(59~61節) ニコデモは、「没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ30キログラムばかり持って、やって来」ました(ヨハネ19章39節)。ヨセフは、「きれいな亜麻布」と、「まだだれも葬られたことのない新しい墓」を用意しました(59節、ヨハネ19章41節)。 「彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻」きました(ヨハネ19章40節)。ヨセフは、イエスのからだを「岩を掘って造った自分の新しい墓に納め」ました。「墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った」のです(60節)。 「ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女の人たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届け」ました(ルカ23章55節)。 このようにしてイエスは、二人の弟子によって手厚く葬られたのです。 三、イエスを埋葬した墓の番(62~66節) さて、翌日の安息日(土曜日)に、「祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言」いました(62節)。 彼らは、イエスのことを「あの、人をだます男」と誹謗し(63節)、「弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言う」ことを恐れて、「そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことにな」ると訴え、「三日目まで墓の番をするように命じてください」と懇願しました(64節)。彼らのイエスと弟子たちに対する敵対心は、何とすさまじいものでしょうか。 ピラトは、「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言いました(65節)。「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をし」ました(66節)。このようにして、墓の番に関して、水も漏らさぬ備えをしたのです。拙著「キリストの生涯の学び」207「イエスの埋葬」より転載
2007.04.06
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「イエスの十字架」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、5章19-21節 聖書は、「捨てられた」という言葉によってイエスの三つの姿を教えています。 一、人に捨てられたイエス イエスは、十字架につけられる半年以上も前に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ……なければならない」と弟子たちにご自分の受難を予告されました(マルコ8章31節)。 イエスは、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられたために、裁判において死刑の判決を言い渡され、十字架につけられることになったのです(ヨハネ19章15、16節)。 聖書は、一般の民衆と民の指導者と異邦人そして罪人という四種類の人たち、すなわちあらゆる階層のすべての人々に捨てられたということを教えています(マタイ27章39、41、44節、ルカ23章36節)。イエスがあらゆる階層のすべての人々に捨てられたことは、ただ一人、だれの助けもなく――すなわち孤立無援の立場に追い込まれ――最悪の罪人の位置にまで降りて行き、人類の罪のためのいけにえとされたということを教えています。 イエスは「ののしられても、ののしり返さず」(第一ペテロ2章23節)、最悪の罪人の位置にまで降りて行き、そこにとどまられました。こうすることによって人類の罪のためのいけにえとなられたのです。 二、自分を捨てられたイエス パウロは、「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」と述べています(ガラテヤ1章4節)。イエスは、私たちの罪のためにご自身をお捨てになるために十字架につけられたのです。 イエスは、自分を十字架につけた兵士たちの罪の赦しを祈られ(ルカ23章34節)、悔い改めた強盗に自分とともにパラダイスにいると言われ(同23章43節)、母マリヤを愛する弟子のヨハネに託されました(ヨハネ19章26、27節)。 イエスは、ご自分のためには口を開かず、ただ周囲の人たちのために語られました。このことは、イエスがご自分のことよりも、ほかの人のことを考えておられたことを教えています。これはイエスが、ご自分を捨てられたからこそ、おできになったことなのです。 イエスが自分を捨てられたことは――人によってむりやりに罪のためのいけにえとされたのではなく――ご自分から(自発的に)、私たちの罪をその身に負われたということを教えているのです。 三、神に捨てられたイエス 「十二時から、全地が暗くなって、三時まで続」きました(マタイ27章45節)。この暗黒の3時間は、話もなく、言葉もなく、その声も聞かれない不気味な沈黙の3時間でもありました。これは、子なる神イエスが父なる神に捨てられたことによって、父と子の会話と交わりが完全に絶たれてしまったことを教えているのでしょう。 そして3時ごろ、この恐ろしい暗黒と不気味な沈黙を破って、イエスは大声で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(46節)。それは絶望のどん底からの悲痛な叫び声でした。この叫び声は――私たちの想像を絶する誠に信じ難いことですが――イエスが父なる神に捨てられたことは、紛れもない事実であることを私たちに教えているのです。 イエスが、神に捨てられたことは、主が、「私たちのすべての咎を彼(イエス)に負わせた」ということ(イザヤ53章6節)、すなわち神が「罪を知らない方(イエス)を、私たちの代わりに罪とされ」たということを教えています(第二コリント5章21節)。 イエスは、神に捨てられることによって、「私たちの代わりに罪とされ」、私たちを罪から贖い出してくださいます。言い換えれば、イエスは――誠に恐れ多いことですが――神に捨てられる以外に、「私たちの代わりに罪とされ」て、私たちを罪から贖い出すことはおできにならなかったのです。 この「イエスの十字架」を詳細に3回にわけて記したものが、説教要約の「228」から「230」の「十字架の刑」です。
2007.04.05
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「最後の晩餐(3)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、22章14~20節 先回は、ユダの裏切りの予告とほかの弟子たちのつまずき、特にペテロの否認の予告について、これらの三つのことを一つにまとめて弟子の裏切りの予告と題して学びました。 共観福音書の著者であるマタイとマルコとルカは、ペテロの否認の予告の前に、主の聖餐についての話を記しています。 「最後の晩餐」の第三回目は、聖餐式の制定について学んでみましょう。 一、最後の晩餐の目的 イエスは、過越の食事の準備が整って、最後の晩餐の食卓に着かれる時、その胸中に去来する思いがあったことでしょう。 イエスは、互いに足を洗おうとしない弟子たちに代わり、ご自分が彼らの足を洗うことによって、自分こそ人類の罪深い心を洗う救い主であり、その弟子たちは、へりくだって互いに仕え合う者であるという霊的な真理を彼らに教えようと考えておられました。 またイエスは、ユダの裏切りとほかの弟子たちのつまずき、特にペテロの否認を予告することによって、そのことが起こった時、弟子たちが自分を信じて(ヨハネ13章19節)、立ち直り、このような試練を通して彼らを訓練しようと思っておられました。 しかしイエスが何よりも考えておられたことは、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」という言葉に表されています(15節)。それは、翌朝の受難と死を目前にして、過越の食事において飲食するパンとぶどう液によって、十字架の意義を弟子たちに教えることでした。これが最後の晩餐の時をもった目的です。 二、聖餐式の制定 キリスト教の礼典には、洗礼式と聖餐式があります。「礼典」は目に見えない内的(霊的)な祝福(恵み)を、目に見える外的な形式(宗教儀式)に表したものです。 十字架の死を目前にした最後の晩餐の席において、イエスは、パンを取り、「これはあなたがたのために裂かれたわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい」と言われました(第一コリント11章24節、欄外注)。また、杯(ぶどう液)についても、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました(20節)。このようにしてイエスは、聖餐式を制定されたのです。 聖餐式に用いるパンとぶどう液は、3つのことを表しています(ロールストン『神学要綱』997ページ)。◇キリストの体と血の徴または象徴である。◇贖いの契約の保証である。◇キリストの苦難を記念するものである。 三、聖餐式の執行 聖書は、「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」と記しています(第一コリント11章27~29節)。 この言葉は、主の聖餐を受ける者の資格を教えています。私たちは、主の聖餐にあずかることによって、罪から救われるのではなく、罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じ、罪から救われたしるしとして主の聖餐にあずかるのです。 そして私たちは、「このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(同11章26節)。拙著「キリストの生涯の学び」179「最後の晩餐(3)」より転載
2007.04.04
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「マリヤの香油注ぎ」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、14章3~11節 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられた時、ひとりの女の人がイエスの頭に香油を注ぎました(3節)。 この「マリヤの香油注ぎ」は、火曜日の日没後、ユダヤの水曜日に起きた出来事です。その後、イエスは、木曜日の午後に弟子たちを遣わして、過越の食事の用意をさせましたが、その時まで、水曜日はイエスにとって休息の日でした。 一、マリヤの姿 マリヤは、300デナリ以上(現在の日本円にして数百万円)もする「高価なナルド油のはいった石膏のつぼ」をあらかじめ用意しただけでなく、この日、「そのつぼを割り、イエスの頭に注」ぎました(3節)。「埋葬の用意にと」、イエスの「からだに、前もって油を塗っ」たのです(8節)。 聖書の中には、マリヤがイエスの十字架の死の予告を直接聞いたという記事はありません。しかし、それをどこかで耳にしたのでしょう。イエスは、この女の人は、「わたしの埋葬の用意をしてくれたのです」と言われました(マタイ26章12節)。これは、彼女の心の中の思いを見抜いて語られた言葉ではないでしょうか。 ともあれマリヤは、弟子たちでさえも信じなかったイエスの死を信じ、香油を注いで埋葬の用意をしました。それは、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となる」ほどのことでした(9節)。ここに彼女のすばらしい信仰と献身の姿を見るのです。 二、弟子たちの姿 弟子たちはこれを見て、憤慨して「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」と言って、マリヤを厳しく責めました(4、5節)。ここに彼らの悲しむべき姿が現れています。 ◇彼らは、マリヤのすばらしい信仰と献身の行為をむだなことにしか見えませんでした。 ◇彼らは、自分たちこそ、貧しい人たちを思いやる愛があり、正しくて賢いと思っていました。イスカリオテ・ユダは、公金を着服していたので、それを埋合せするという考えがありました(ヨハネ12章6節)。 ◇彼らは、埋葬のためにはイエスに対して何もしていないのに、埋葬のためにりっぱなことをしたマリヤを厳しく責めました。 その後、ユダにサタンがはいり(ルカ22章3節)、彼は、祭司長たちのところへ行き、銀貨30枚でイエスを売りました(マタイ26章15節)。マリヤは、すばらしい信仰と献身の行為をしましたが、弟子たちは、醜態をさらけ出してしまったのです。 三、イエスの姿 するとイエスは、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」と言われました(6節)。イエスは、マリヤを信任し、弁護し、賞賛されたのです。 またイエスは「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女の人は、自分にできることをしたのです」と言われました(7、8節)。 このようにイエスは、いつでもできる奉仕よりも、その時にしかできない奉仕を、また人を通しての間接的な奉仕よりも、神への直接的な奉仕を優先することの大切さとともにその人にできる精一杯の奉仕をすることの尊さを教えられたのです。拙著「キリストの生涯の学び」176「マリヤの香油注ぎ」より転載
2007.04.03
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「受難週のイエスの足跡」 下の図の丸で囲んだ数字は、説教要約234の受難週の出来事の個所です。
2007.04.03
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「エルサレム入城」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、19章29~44節 上の一覧表の丸で囲んだ数字は、説教要約235の受難週のイエスの足跡の個所です。 「オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出」されました(29節)。 ここからイエスの「受難週の出来事」が始まります。この「エルサレム入城」は、受難週の第一日目、日曜日に起きた出来事です。 一、イエスの姿 イエスは、エルサレムに入城する前に、ろばの子を連れて来るように二人の弟子に命じられました。向こうの村にろばの子がつながれているのをあらかじめ知っておられました。またイエスは、ろばの子に乗ってエルサレムにはいられましたが、これはゼカリヤの預言(9章9節)の成就でした。そしてイエスは、やがて滅ぼされる都のために泣かれましたが(41~44節)、これも将来に起きる出来事をあらかじめ知って、そうされたのです。 この日のイエスの行動は、聖書の預言と予知に基づいたものでした。キリスト者は、イエスのように聖書の預言が成就するという行動をとる者ではありませんが、聖書の預言を学んで、将来どのようなことが起きるのかということをあらかじめ知って、行動する者であることを忘れてはならないのです。 二、弟子たちの姿 弟子たちは、イエスがろばの子に乗ってエルサレムにはいられるのを見ていましたが、その時は、ゼカリヤの預言が成就したことに全く気がつきませんでした。ヨハネは「初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから(後になってから)、……彼らは思い出した」と記しています(ヨハネ12章16節)。 イエスは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」と言われました(同13章7節)。私たちも弟子たちのように、その時は、神のなさることがわからないことがありますが、わからなくても、マリヤのように「すべて心に納めて」いるならば(2章19節)、後でわかるようになるのです。 三、群衆の姿 イエスがエルサレムにはいられても、神の国はすぐには現れないことを教えるために、イエスはミナのたとえを話されました。しかし群衆はそれを理解できず、エルサレムに入城されたイエスを熱狂的に歓迎しました。 ところが彼らの中の大多数は、あれほどイエスを熱狂的に歓迎したにもかかわらず、五日後には祭司長たちに扇動されて、イエスを「十字架につけろ」と叫んだのです(マルコ15章11~14節)。 私たちは、心の底に何があるのかも知らないで、表面的な心の動きに従って行動するような軽薄な人間とならないために、人の心の計り知れない罪深さを知って、心の底から罪を悔い改めることが必要です。 四、祭司長、律法学者、パリサイ人の姿 祭司長、律法学者、パリサイ人たちは、イエスを殺すための計画を立て、その機会をねらっていました。しかし群衆がイエスを熱狂的に歓迎したので、パリサイ人たちは、「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった」と言って、いやというほど無力感を味わいました(ヨハネ12章19節)。 ところが五日後には、祭司長たちは群衆を扇動して、イエスを十字架につけてしまったのです。彼らは、何というしたたか者でしょうか。私たちは、彼らに扇動された群衆のような付和雷同する人間になってはならず、たとえ少数派でも、真理に従う者でなければならないのです。拙著「キリストの生涯の学び」152「エルサレム入城」より転載
2007.04.03
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