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「宗教改革について」 甲斐慎一郎 一、教会史(教会の歴史)の区分 2000年に亙る教会史は、次のような三つに区分することができます(E・ケアンズ著「基督教全史」33~40頁、聖書図書刊行会、1962年)。1.古代教会史――紀元前5年から紀元後590年まで(約600年)2.中世教会史――紀元590年から1517年まで(約900年)3.近代教会史――紀元1517年以後(約500年) 最も長いのが中世の教会史で、900年以上もあります。 二、古代教会史 キリストの教会は、紀元30年の聖霊の降臨(ペンテコステ)の時に誕生しました。これが初代教会で、「使徒の働き」に記されています。やがてローマ帝国の大迫害を通りながら帝国を内側から突き崩し、ローマ帝国の国教として認められるようになりました。これが紀元313年です。その中でローマ教会が中心的な地位を占めました。 三、中世教会史 その後、教会は、西方教会(ローマ・カトリック教会)と東方教会(ギリシャ正教やロシヤ正教、日本は日本正教会)に分かれました。これが紀元1054年です。この分裂後は、西方教会であるローマ・カトリック教会は、かしらであるローマ法王の権力が世俗の王権をも圧倒するようになりました。このような状況の中で、教会は、聖書の教えから離れて行きました。 マルチン・ルターが宗教改革に成功したのは、ルターの前に改革者が出て、犠牲となり、土壌を肥やし、空気を作ったからです。これらの人々は、宗教改革前の改革者または宗教改革の先駆者と言うことができます。この宗教改革の先駆者の中にジョン・ウィクリフ、ヨハン・フス、サヴォナ・ローラがいます。 もう一つ、この中世に起きた出来事があります。それは1350年から1650年までの間にヨーロッパのおもな国々で起こった文芸復興(ルネッサンス)です。 「文芸復興は、人生に宗教的・団体的に近づく中世のやり方の代わりに、現代的な非宗教的な個人主義的な人生観を置き換えた文化的方針再決定の時代、と定義することができよう。注意は新しいエルサレムの街路ではなく、ローマとアテネとの街路に集中された。神がすべての事物の尺度であった中世の神中心の世界観は退いて、人間がすべての事物の尺度となった人間中心の人生観が力を得てきた」のです(前掲書、347頁)。 四、近代教会史 マルチン・ルターによる宗教改革は、このようなカトリック教会の中で起きた宗教改革の先駆者たち、そして世俗の世界で起きた文芸復興を背景に起こったのです。 近代は、霊的なものである宗教改革と、知的なものである文芸復興(ルネッサンス)によって誕生したということができます(E・ケアンズ)。 マルチン・ルターによって起こった宗教改革は、まずドイツから始まり、スイスのチューリッヒではツヴィングリ、おなじスイスのジュネーブではカルヴァンが宗教改革を起こし、フランスではジャック・ルフェーヴル、さらにデンマーク、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイルランド、ジョン・ノックスによるスコットランドに広がっていきました。 「宗教改革は宗教的な運動として、その大部分が北および西ヨーロッパの間で起こっている。南ヨーロッパのラテン民族は、宗教改革を受けつけなかった。却って彼らは、ローマ・カトリック制度にどこまでも忠実であった。おそらく文芸復興の合理的で批判的な精神が、南ヨーロッパの人々の心をとらえてしまって、彼らは霊のことには関心を持たなかったのであろう」(前掲書、381頁)。 しかしこのマルチン・ルターから始まった宗教改革は、「対抗改革というカトリック教会の内部改革をもたらし、ローマ教会を生き返らせた」のです(前掲書、462頁)。
2007.10.31
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「アサの宗教改革」 甲斐慎一郎 歴代誌、第二、15章 「アサは、正しいことを行う道を歩み、また彼と彼に従う民が呼び求めた主は、真実で、かつ祈りを聞かれる神であることを実際的に現しました。そもそもこのような良い踏み出しをした宗教改革とすでに現れた信仰復興の結果は、ただ主に帰ることだけで終わらず、過ぎ去った長年の間の患難も、これから起ころうとする患難もみな避けられるようになるのです。そしてこのようなことをユダに勧告する時は、神がユダに大勝利をもたらされた翌日が最もふさわしいのです」(A・イーダーシャイム)。 一、戦いに勝利を得たアサと民に主を求めるように励ました預言者アザルヤ(1~7節) アサとユダの軍勢は、意気揚々とエルサレムに凱旋しました(14章15節)。「勝って兜の緒を締めよ」という諺がありますが、大勝利の後は特に油断は禁物です。クシュ人の大軍を打ち破ったことで、彼らの中に慢心が生じ、先に始めた宗教改革も水泡に帰してしまう恐れがあるからです。それで主は、預言者アザルヤを彼らのもとに遣わされました(2節)。 アザルヤは、アサおよびユダとベニヤミンの人々に、主を求めるなら、主がご自身を示してくださるが、主を捨て去るなら、主に捨てられて、あらゆる患難が臨むことを警告し、心を強くして、先に始めた宗教改革を成し遂げるように励ましました(2~7節)。 「アザルヤの語ったことは、単に過去と現在のことだけでなく、将来のことにまで及んでいます。ですから彼の使命は、『ことば』とも『預言』とも呼ばれていますが、ともに当を得ています(8節)。……その当時における預言の目的は、ユダの罪と悔い改めに関して、また神の刑罰といつくしみとに関して、すでに始めていた良いわざを進めさせ、これを成し遂げるようにと、こんこんと諭すことでした(7節)」(A・イーダーシャイム)。 二、アザルヤのことばに奮い立ち、先に始めた宗教改革を成し遂げたアサ(8~15節) アサは、アザルヤのことばと預言を聞くと、奮い立って、忌むべき物を除き、主の祭壇を新しくして、前よりも熱心に宗教改革を行いました(8節)。以前にも異教の祭壇を取り除き、アシェラ像を打ちこわしましたが(14章3節)、さらに徹底的に行わなければなりませんでした。それほど祖父レハブアムと父アビヤの時代は偶像が満ちていたのです。 アサの行った熱心な宗教改革は、多くのイスラエルの人々を感動させました。「彼の神、主が彼とともにおられるのを見て」、南王国のユダとベニヤミンの人々だけでなく、北王国のエフライム、マナセ、シメオンの人々までアサをたよって来たのです(9節)。 こうして、アサの治世の第15年の第三の月に、彼らは、エルサレムに集まり、主にいけにえをささげ、偶像を礼拝して罪を犯したことを悔い改め、ただ主だけを神として信じ、その主の仰せられたことはみな行い、聞き従うという契約を結びました(10~14節)。 「13節は、日本語の訳によれば、だれでも信仰を持たない者は殺されるという意味ですが、このようなことは原文の意味ではなく、原文は、ただ偶像礼拝を始めるものは、だれでも殺されるという意味です(申命17章2~7節を参照)」(A・イーダーシャイム)。 こうして「主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた」のです(15節)。 三、偶像を造ったマアカを王母の位から退け、宗教改革の模範を示したアサ(16~19節) 「アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼は王母の位から彼女を退け」ました(16節)。このように家庭における誠実さと熱心さとの模範を民の前に示しました。また自分を主にささげた証拠として父がヤロブアムに勝った後、神のものとして聖別した物とともに、自分が今度のクシュ人との戦いで分捕った物の中から聖別した物、すなわち、銀、金、器類を神の宮に運び入れました(18節)。このような処置をとった結果として国内は一時的に太平になり、アサの治世の第25年まで続いたのです。
2007.10.29
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「三つの世界」 甲斐慎一郎 詩篇73篇1~28節 聖書は、「心が聖くて正義を行う者は幸福になり、心が汚れて罪を犯す者は不幸になる」と記しています(1節)。世の中の道徳や倫理も同じことを教えています。しかし現実の世界は、これとは反対に、この詩篇の著者アサフが述べているように「悪人が栄え、義人が苦しんでいる」のです。これはどのように考えたならばよいのでしょうか。 一、肉眼で見える世界の限界(2~12節) アサフは「誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見」て、つまずきました(3節)。私たちに目がある以上、悪人が繁栄し、義人が苦難を受けているという矛盾した現実の世界を見ずに済ませることはできないでしょう。しかしたとえこのことを見ても、すべての人がつまずくわけではありません。 どのような人が矛盾した現実の世界を見ると、つまずくのでしょうか。それは、肉眼で見える世界がすべてであって、目に見えないものは実在せず、真理ではないと主張し、目に見えるもの以外は信じない人です。 このような人は、良いことを見ている間は問題がありませんが、矛盾した悪いことを見ると、つまずいてしまいます。しかし私たちが肉眼で見える世界しか信じなければ、悪いことを見る度につまずいてしまうのは当然ではないでしょうか。 二、理性で考える世界の限界(13~16節) アサフは、心と行いを聖くし、まじめに生活しているのに(13節)、一日中、神の懲らしめを受けるだけで、何の利益もありませんでした(14節)。これに対して悪人は、罪を犯していながら、「いつまでも安らかで、富を増してい」ます(12節)。彼は、いくら考えても分からず(16節)、つまずいただけでなく、もしこのままを述べるなら、後世の人たちを誤らせてしまったであろうと述べています(15節)。 私たちに頭脳がある以上、悪人が繁栄し、義人が苦難を受けるのはなぜであろうかと考えずに済ますことはできないでしょう。しかしたとえこのことを考えたとしても、すべての人がつまずいて、後世の人たちを誤らせるわけではありません。 どのような人が矛盾した現実の世界を考えると、つまずいて、後世の人たちを誤らせてしまうのでしょうか。それは、理性や頭脳的な知識で理解できる世界がすべてであって、理性で考えられないものは実在せず、真理ではないと主張し、理性で理解できるもの以外は信じない人です。 このような人は、理性で考えられる良いことが起きている間は問題がありませんが、理性では考えられない矛盾したことが起きると、つまずいてしまいます。理性で考えられないようなことが数多く起きるのがこの世であり、理性で理解できる世界しか信じなければ、悪いことが起きる度につまずいてしまうのは当然ではないでしょうか。 三、信仰の世界による解決(17~28節) しかし幸いなことにアサフは、「神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟」りました(17節)。最も狭い「肉眼で見える世界」とそれより少し広い「理性で考える世界」よりも、もっと広く全体を教えてくれる神の世界、霊の世界、信仰の世界というものがあります。 信仰の世界には次の三つの特徴があります。 1.物事を近視眼的に見ず、最後まで見極める「永遠の世界」です(17~19節)。悪人の繁栄は長続きせず、その最後は滅びです。 2.物事の影や夢を見ず、本体を見極める「実体の世界」です(20節)。悪人の繁栄は影や一時的な夢に過ぎず、その実体は滅亡なのです。 3.神から与えられる祝福や恵みよりも、その与え主である神ご自身をとらえる「臨在(神がともにおられること)の世界」です(23~28節)。人間は、神をとらえているなら、すべてのものを持っているに等しく(ローマ八章32節)、反対に神をとらえていなければ持っているすべてのものも零に等しく、すべてを失ってしまうのです。 私たちは、どの世界に生きているでしょうか。昭島フリーブログの「説教要約 41」「三つの世界」より転載。「説教要約 41」は、2006年6月16日で、この日からブログを始めましたが、次の「説教要約 42」は、同年9月9日で、3か月後ですので、「説教要約 41」を「説教要約 342」に移しました。
2007.10.27
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「神に近づく幸い」 甲斐慎一郎 詩篇73篇1~28節 「孟母三遷の教え」というのがあります。これは、孟子の母が三度目の移転でようやく良い環境を得たという話で、子どもの教育には環境が大切であることを教えたものです。この環境の大切さは、子どもに限ったことではなく、大人にとっても同様です。 しかし環境と人間の関係は、私たちが環境によって形造られていくという受動的な面と、私たちが環境に打ち勝ち、それを乗り越えていくという能動的な面があります。 人間というものは、他の人と同じような環境に置かれても、おのおのがその環境をどのように見ていくか、またどのように考えていくか、そしてどのように対処していくかによって、それぞれ全く違った生き方になるのではないでしょうか。 一、物をすべてとする生き方の災い(1~12節) まず私たちを取り囲む環境には、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)でとらえることができる物質の世界があります。人が食べて生き、また生活するためには、ある程度、「物の豊かさ」が必要でしょう。しかしこの物の豊かさを求めることがすべてとなるなら、どうなるでしょうか。 物をすべてとする生き方とは、五感でとらえることができる物質の世界が全部であって、それ以外のものは存在せず、真理ではないという生き方です。 物をすべてとする生き方は、「どうして神が知ろうか。いと高き方(神)に知識があろうか」(11節)と、神の存在を否定し、物欲と肉欲を満たすことをすべてとする生き方に他ならず、それは、享楽的、官能的になり、その結果、欲望を満たすためには、善悪の区別を無視して堕落していくのです。 二、人をすべてとする生き方の間違い(13~16節) 次に私たちを取り囲む環境には、心(知性、感情、意志)でとらえることができる人間または精神の世界があります。物をすべてとする生き方の災いに気がついた人間は、「心の豊かさ」を求めるようになります。しかし、心の豊かさを求めることがすべてとなるなら、どうなるでしょうか。 人をすべてとする生き方とは、心でとらえることができる人間の世界が全部であって、人間の知性や感情や意志を越えたものは存在せず、真理ではないという生き方です。 人をすべてとする生き方は、「私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には苦役であった」(16節)とあるように、人間の無知や限界また罪深さや弱さという致命的な欠陥があることを見落としているため、真理を見失って懐疑的になるだけでなく、小さな罪さえ解決することができないのです。 三、神をすべてとする生き方の幸い(17~28節) 最後に私たちを取り囲む環境は、霊でとらえることができる神の世界があります。人間は、神の世界を知ることによってのみ、今まで分からなかった人生と永遠に関する真理を見いだすとともに、私たちを滅ぼす罪から救われることができるのです。 神をすべてとする生き方とは、信仰によって人間の五感および知性と感情と意志を越えた神とその世界を信じ、その神を何ものにもまさって心から愛し、従っていく生き方です。アサフは、「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」(25節)と告白しています。 神をすべてとする生き方は、「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。……私にとっては、神の近くにいることがしあわせなのです」(26、28節)とあるように、罪から救われ、神を住まいとして永遠の世界に生きるだけでなく、この地上にあっては、物と人を支配し、生殺与奪の権を握っておられる神とその摂理の道に導かれ、敬虔に神のみこころを行っていくのです。
2007.10.25
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「聞く、読む、語る、書くことについて」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、10章9~17節 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(17節)。 他の動物にはできず、人間にしかできないことがあります。それは、聞くこと、読むこと、語ること、書くことです。 この個所には、聖書(11節)、聞く(14、17、18節)、告白する、呼び求める、宣べ伝える(9、10、12~15節)、書く(15節)という言葉が何回も記されています。 犬(警察犬、盲導犬)や猿などは、人の言葉を聞いているように見えますが、実際はそうではなく、本能で動いているに過ぎません。 生まれたばかりの赤ちゃんは、聞くことも読むことも話すことも書くこともできません。しかし両親をはじめ、周囲の人たちの言うことを聞き続けているうちに、まず話すこと、次に読むこと、そして書くことができるようになります。信仰と信仰生活(キリスト者の生涯)も同じです。 この4つは、みな言葉に関係があることがわかります。心にとって言葉はいのちです。言葉を失うなら、人の心は死にます。「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによるのです」と記されているとおりです(マタイ4章4節)。 一、聞くことについて 人格の形成は、聞くことから始まります。神の言葉を聞くことは、心にとって最も大切なことです。幼子サムエルは、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と言いました(第一サムエル3章9節)。 二、読むことについて 新聞の声の欄に「活字で心を洗う」というのがありました。また同じ声の欄に、テレビを盗まれた人が、「文章を読むということは、読む前の自分に、何かが蓄積されて、数分前の自分とは違う自分になっているのだ。これに気づいた時、嬉しかった」と記しています。 さらに「本が死ぬところ暴力が生まれる」という本を書いた人がいます。 聖アウグスチヌスが、「取りて読め、取りて読め」という子どもの声を聞いて、ローマ人への手紙の13章11節から14節を読んだのは、有名な話です。 読む力、書く力の衰弱は、人間性の危機、社会の危機です。 三、語ることについて 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります(10節)。十分に聞き、十分に読むなら、語ることができるようになります。主イエスは、「心に満ちていることを口が話すのです」と言われました(マタイ12章34節)。正しいこと、良いことを語るというのは、非常に大切なことです。いい加減なことを言う人は、いい加減な人間になるでしょう。 四、書くことについて イエス・キリストは、使徒ヨハネに「あなたの見た事、今ある事、この後、起こることを書きしるせ」と言われました(黙示録1章19節)。書くことは、聞いたこと、語ったことを確実にすることです。 伝言ゲームというのがありますが、話すことは、どんどん変わってしまうので、正確に伝えるためには、聞くだけでなく、書き記すことがどうしても必要です。 聖書は、今から2000年以上も前に成立したものですが、ギリシャ語、ヘブル語で書かれていたので、現在、それを翻訳し、日本語で読むことができます。 この4つのことは、人間の心にとっていのちです。この4つのことをしなければ、心は死んで、神と人を苦しめ、自分をも苦しめることになります。しかし、この4つのこと、神の言葉を聞き、読み、語り、書くなら、自らの心は生き、人の心をも生かすことができるのです。
2007.10.23
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「見えないものに目を留める(3)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 三、現代科学と聖書の教えとの相違点 猪木正文氏は、「宗教は感じるままの物質世界は実在しないから、真に実在するものは心であると考えます」(猪木正文著、「物理学的人生論」33頁、講談社現代新書、1978年)と述べていますが、この考えは「唯心論」と言い、ある新興宗教の教祖の思想であっても、聖書やキリスト教の教えではありません。宗教がすべて、このようにとらえているわけではありません。 「科学は感じるままの物質世界は実在しないが、その背後に、心から独立して存在する心以外の『ある物』が実在すると考えます。……では、真に実在する『ある物』とはいったいなんでしょうか。……『ある物』とはエネルギーのことです」(前掲書、33、153頁)。 現代科学は、究極的な実在は非人格的なエネルギーであり、そのエネルギーが生命の粒子を作り、生命の粒子は一つの分子で、DNA分子を作り、すべての生物が誕生したと教えています。 聖書とキリスト教の教えは、科学と同じように「感じるままの物質世界は実在しないが、その背後に、心から独立して存在する心以外の『ある物』が実在すると考えます」(前掲書、33頁)。聖書とキリスト教の教えは、この「あるもの」は、人格を備えた全知全能の神であり、その神がすべてのものを創造したと教えています。 「ヒトの遺伝情報を読んでいで、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました。…… 実際に遺伝子の世界は、ふれればふれるほどすごいと感じてしまいます。目に見えない小さな細胞。そのなかの核という部分に収められている遺伝子には、たった4つの化学の文字の組み合わせで表わされる30億もの膨大な情報が書かれている。その文字もAとT、CとGというふうに、きれいに対をなしている。この情報によって私たちは生かされているのです。 しかも人間だけではない。地球上に存在するあらゆる生き物――カビなどの微生物から植物、動物、人間まで合めると、少なく見積もっても200万種、多く見積もると2,000万種といわれている――これらすべてが同じ遺伝子暗号によって生かされている。こんなことがあってもいいものか――。しかし現実にあるのですから、否定のしようがありません。そうなると、どうしてサムシング・グレートのような存在を想定しないわにはいかなくなります」(村上和雄著「生命の暗号」198~200頁、サンマーク出版、1997年)。 聖書の教えによれば、「サムシング・グレート」は、全知全能の神であることは、言うまでもありません。 「科学は事実を記述するもので、宗教はこれを解釈するものです。この相違は根本的な重要性をもっています。言葉をかえて言えば、科学が『何か』との問いに基づくのに比べて、宗教は『なぜか』の問いに立つものなのです。すなわち科学は、観察や実験をとおして自然現象の経過を正確に描述することに関係し、一方宗教は、その本質的な価値や意義の究明にかかわりをもっています。 この意味を一層明瞭にするために一例をあげてみましょう。まず読者自身、『わたしはどのようにして存在するようになったか』と、自問自答してみて下さい。その一面の解答は、生物学的方面からその経過を記述し、受胎時の単細胞体から現在の複合体に至るまでの、有機体の発展をたどることから得られます。それはみな実際に起こった現象にかかわるものです。ところでわれわれは、『なぜか』の立場に立って、科学が描述しているこれの経過の背後にあるものは何か、またその意義と重要性とは、いったい何であるかを考えてみましょう。宗教は、『神があなたがたを創造されたのである』(詩篇139篇13~16節)と答えます。さて、以上の二つの記述は、どう見ても相反するものではありません。現象の経過を描述する科学と、その究極的起源や意義を説明する宗教とは、少しもくい違うものではありません」(G・ロビンソン、S・ウィンワード共著「解決」109、110頁、聖書図書刊行会、1960年)。
2007.10.21
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「見えないものに目を留める(2)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 2.現代科学は、五感で感じるままの物質世界は実在しないと教えている。 ある新興宗教の教祖は、「『宇宙に真に実在するものは心のみであって、物質世界は、わたしたちの心がつくった映像に過ぎない。心は真の実在であるから、不滅不変で永久的なものであるが、物質世界は心の映像に過ぎないから、生滅極まりない見かけ上のものである』。……この考え方によれば、超感覚的に巨大な宇宙も心の映像であり、物質を作っている基礎粒子である原子も、さらに、その原子を構成している物質の窮極的粒子である素粒子も心の映像です。したがって、これらはすべて、わたしたちの心を離れて独立的に客観的には存在しないものです。……このような宗教思想は、ちょっと考えるとまったくでたらめのようですが、すこし深く考えると、自然の根元的ななぞに触れていることがわかります。……物理学の創始者である有名なガリレオ・ガリレイは、『五感により感じられるものは、程度の低い実在か、または、たんなる幻影である』といっています。五感というのは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚ですが、ここでは、すべての感覚という意味です。実在ということばは……見かけ上の存在ではなく、真の存在という意味です。 ……あなたが美人の彼女とデートしているときの光景を想像してみてください。あなたは、五感を総動員して彼女を観察するでしょう。甘い匂いのただよう細い髪の毛、薄桃色の顔、チャーミングな口、形のよい白い歯、魅力的な曲線、弾力的で柔らかい触感などを知ったとしましょう。そのとき、あなたはきっと、彼女自身がそういう感じのものをもっていると思うでしょう。ところで、ここで前述したガリレイのことばを思い出してください。ガリレイのことばに従うとつぎのことがいえます。あなたが彼女について知ったものは、実はあなたの心がつくったものです。それは、極端な表現をすれば幻影なのです。 たとえば、桃色という美しい色は、わたしたちの心が桃色と感じるだけで、わたしたちの心を離れて、桃色という色自体が自然に存在するのではありません。また、甘い匂いというものも、わたしたちの心が作ったもので、匂い自体が心から離れて存在するものではありません。同様なことが、あなたが彼女について知った他のすべてのことについていえます。 また、わたしたちの周囲のけしきも、わたしたちの心がつくったものです。桜花が爛漫と咲きみだれ、花のかおりを含んだ暖かい風が吹き、小鳥がさえずっている春のけしきというものは、わたしたちの心を離れて実在するものではないのです。それはわたしたちの心が描いた像です。……つまり、見えるまま、感じられるままのけしきが心から離れて客観的に存在するのではなく、心でつくられた像や感じが外部に投影されて、それらが外部に存在するように思うのです」(猪木正文著「物理学的人生論」28~32頁、講談社現代新書、1978年)。 海の水は青く見えます。池の水も緑に見えるのがありますが、水は無色透明です。空は、晴天の空は青く見え、夕焼けの空は赤く見えますが、空気も無色透明です。水の青や緑の色、また空の青や赤の色も、わたしたちの心が青色や緑色や赤色と感じるだけで、わたしたちの心を離れて、青色や緑色や赤色という色自体が自然に存在するのではありません。 「音というものは耳で聞いてから、はじめて生じるものであって、したがって、人のいない所で音は存在しないというのです。防音壁で完全に密閉された無人の部屋でベートーベンの交響曲がステレオで演奏されても、そこにはわたしたちを感激させる、あの荘厳と神秘に満ちた交響曲はないのです。音もわたしたちの心の中で生まれるもので、心を離れては存在しないのです。 たいへん奇妙に感じられるこのような考え方は、ガリレイの考え方であるのみならず、実は現代科学が発見した重要な帰結です。そして、これが不思議にも前述の宗教思想とある点で一致するのです。一致している点は、五感で感じるままの物質世界は実在しないということです。ところが、そのことをいかに解釈するかという点で、宗教と科学は対立するのです。宗教は感じるままの物質世界は実在しないから、真に実在するものは心であると考えます(これは「唯心論」と言い、ある新興宗教の教祖の思想で、聖書やキリスト教の教えではありません。執筆者注)。これにたいして、科学は感じるままの物質世界は実在しないが、その背後に、心から独立して存在する心以外の『ある物』が実在すると考えます。……では、真に実在する『ある物』とはいったいなんでしょうか。……『ある物』とはエネルギーのことです。このように、エネルギーは現代物理学の基礎概念です」(前掲書、32、33、153頁)。次回の「説教要約 339」「見えないものに目を留める(3)」に続く
2007.10.19
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「見えないものに目を留める(1)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(18節)。 一、五感は、広大な宇宙からみれば、非常に狭い範囲のものしか感じることができない 「電磁波の種類」の表にあるように人間の目は0.38~0.76ミクロンの波長の範囲内のものしか見えず、人間の耳は、20~20,000ヘルツの波長の範囲内の音しか聞こえません。これは広大な宇宙から見れば、極めて狭い範囲のものしか見えず、聞こえないということです。嗅覚、味覚、触覚も同様です。 二、現代科学は、見えるものは一時的で、見えないものはいつまでも続くと教えている 1.現代科学は、物質の正体は、目に見えないエネルギーであると教えている。 ある人々は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感で知ることができないものは存在しないと思っていますが、これは非科学的です。現代科学の多くは、肉体的な知覚の範囲を越えた実在の質や量を扱っています。物質は、固体、液体、気体と分けていますが、それは物質の本質を示すものではなく、状態を示すものです。極微(ミクロ)の世界までいけば、固体というものは存在せず、すべての物質は、目に見えない原子から成り立っています。原子は、微粒子からなり、それはまた別な微粒子から成り立っています。固体はすべて、その中は、ほとんどからっぽで、その空間を取り除けば、後には、高倍率の顕微鏡で覗いても見ることができないほど微小なものが残るだけです。原子は、固体ではなく、物凄いスピードで回転し、巨大な力で結び付けられている無限に小さな粒子からなる小さな太陽系です。原子は、太陽系と同じように、ほとんど空間です。これが現代科学の教えている物質の正体です。 「科学においては、なにゆえに存在するか、という質問を続けていくと、かならず行きづまります。すなわち、質問に答えられなくなります。このことを物質について見てみましょう。物質はなにゆえに存在するのでしょうか。それは、すでに述べたように原子が存在するからです。原子はなにゆえに存在するのでしょうか。それは、素粒子が存在するからです。では、素粒子はなにゆえに存在するのでしょうか。現代物理学では、その理由はくわしくわかりませんが、すでに述べたように、しいていえば、それは、エネルギーが存在するからです。それでは、そのエネルギーはなにゆえに存在するのでしょうか。 ここまで質問を続けてくると、ついに答えられなくなります。エネルギーがなにゆえに存在するのかということは、まったくわからないのです。ただ、そういうものが存在すると考えざるをえないのです。それが存在しないと、地球・太陽、それからわたしたち自身も存在できないからです」(猪木正文著、物理学的人生論、190、191頁)。 現代科学も、科学的に証明することができない前提(エネルギーが存在すること)を信じるのであり、これは信仰にほかなりません。次回の「説教要約 338」「見えないものに目を留める(2)」に続く
2007.10.17
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「祈らない罪」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、12章18~25節 詩篇の著者は、不法を行う者(罪人)の姿について「彼らは……主を呼び求めようとはしない」と述べています(14篇4節)。 それで、祈りの人であるサムエルの姿から「祈らない罪」について考えてみましょう。 一、祈りの人であるサムエル イスラエルの民は、長い間、士師としてのサムエルが行う政治のもとで生活し、その教えを受けてきました。その当時は、ペリシテなどの列強に囲まれ、いつ国が滅ぼされるか分からない状況にありました。しかしイスラエルの国は、偉大なサムエルの政治の力だけでなく、その熱心な祈りによって守られていたのです(第一サムエル7章8~10節)。 サムエルは祈りの人です。イスラエルの民は、「あらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えた」時、「あなたのしもベどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください」とサムエルに切々と訴えました(19節)。これに対してサムエルは、主に仕えるように民に勧めるとともに、「あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない」と民に答えました(23節)。 サムエルにとって祈りは、イスラエルの国と民を周囲の敵から守るものであり、それほど重要なものです。ですからもしサムエルが祈るのをやめるなら、イスラエルの国と民は滅ぼされてしまうでしょう。それは彼にとって主に罪を犯すことになるのです(23節)。 旧約聖書は、サムエルが偉大な祈りの人であったことを教えています。 「モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた」(詩篇99篇6節)。 「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない」(エレミヤ15章1節)。 二、祈りの人であるジョン・ノックス 2000年にわたるキリスト教会の歴史の中にも数多くの祈りの人がいます。そのひとりが16世紀のイギリスにおいて宗教改革を行ったジョン・ノックスです。 メリー女王がノックスと会見した時、彼女は彼に向かって、「わが国民は、われに従うよりもあなたに服従する」とつぶやいて、嘆きました。その時、ノックスは、「女王よ。私の考えでは、王も民衆も従うべきお方は、ただ神のみである」と言いました。 当時、ノックスは暴虐なメリー女王のためにひどい迫害を受けていましたが、いつも祈りによって勝っていました。ジョン・ノックスが「われにスコットランドを与えよ。しからずんば死を与えよ」と祈って、戦ったことはあまりにも有名です。さすがの暴君もジョン・ノックスの祈りを非常に恐れ、ヨーロッパの全軍隊よりも彼の祈祷の方がはるかに恐ろしいと言っていたのです。 ある晩、非常に激しい迫害の中で、もはや命も危ういと思われた時、ノックスは、多くの友とともに祈っていました。たちまち彼は叫んで、「救いは来た」と言いました。もちろんそれがどのようにして来るのか分かりませんでした。けれども、間もなく、女王のメリーが死んだという知らせが届いたのです。 三、教会のいのちである祈祷 聖書は、聖霊の働きが顕著に見られた初代教会でさえ、神に熱心に祈らなければ無力であることを教えています(使徒12章5節)。 ひとりの説教者がいつもの祈祷会に行きましたが、だれも出席していませんでした。そこで彼は、教会の鐘を鳴らしました。その当時、教会の鐘を鳴らすことは人が死んだことを知らせるものでした。すぐに12人ほどの人が走り寄ってきて、「だれが亡くなったのですか」と聞きました。するとその説教者は「教会が死んだのです」と言って、さらに鐘を鳴らし続けました。 祈祷会が盛んでない教会は、表面的に立派であったとしても、霊的には死んでいるのです。個人の祈りはもちろんのこと教会の祈祷会に励みましょう。
2007.10.15
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「言葉や形にとらわれない祈り」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、1章10~18節 聖書に記されている祈りは、模範的な言葉で言い表している祈りが多いことですが、言葉や形にとらわれない祈りも記されています。ハンナの祈りが典型的な例ですが(第一サムエル1章10~18節)、古の聖徒たちの中にも、言葉や形にとらわれない祈りをささげている人が多くいます。 一、ハンナの祈り 「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。……ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。……ハンナは答えて言った。『いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。……私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。……私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです』……それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」(第一サムエル1章10~18節)。 二、聖フランシスの祈り フランシスは、アッシジの町の富裕な家に生まれ、豪勢な享楽的な生活をしていました。その彼が突然悔い改めて神に身をささげ、あらゆる軽蔑と侮辱にもかかわらず、全く新しい愛と忍従の生活を始めた時、ベルナルドはこれを大いにいぶかりました。何かがあるにちがいない、と彼は考えました。とにかく普通の人間が、あんな愛と忍従に生きられるものではない。 二年たった時、ベルナルドはついにそのフランシスの「秘密」を見破ってやろうと決心しました。彼は、フランシスを自宅に招待して夕食を共にしました。夕食の後、しいてフランシスを泊まらせ、自分の寝室に並べて床をとらせ、あかりをつけっぱなしにして一晩中、かれを監視することにしました。この「聖人」みたいな男の隠れた「秘密」が見破られるだろう、と。ベルナルドはたぬき寝入りをし、高いびきまでかき始めました。やがて(ベルナルドが真に眠ってしまったと思っていた)フランシスは、床の上に静かに起き上がりました。べルナルドは今こそ、と監視しました。 フランシスは手を天に向けてさしのべ、小声で「わが神よ、わが神よ」と言いました。涙が両眼からあふれて、それ以上、祈りの言葉が出ませんでした。涙とともに彼は、ただ「わが神よ」という言葉だけをくり返して明け方に至りました。そして家の人々が起き出る気配がするころ、再び床に身を横たえ、人々に知られないようにしました。ベルナルドは翌朝起きるとともに、所有のいっさいを売り払い、その価をすべて貧しい人々に施してフランシスに従いました。このベルナルドはフランシスの最もすぐれた弟子のひとりとなりました(日本基督教団教育委員会編「キリスト教例話集」54、55頁、1975年)。 三、ハドソン・テーラーの祈り ハドソン・テーラーは、その生涯の終わろうとする前の数か月間、非常に弱っていました。彼は、この時、愛する者に手紙を書いて、「わたしは弱って、書くことも聖書を読むこともできない。わたしは祈ることもできない。わたしは小さい子供のように、神の腕に横臥して、信頼する」と言いました(C・E・カウマン著、「荒野の泉」151頁、福音文書刊行会、1968年)。「私の祈る姿を見ることなしに、中国の地に太陽が上ったことがない」と語ったハドソン・テーラーは、中国の宣教において若い時から数々のすばらしい祈りの応答を体験して来ました。その彼が晩年においてこのようなことを書いているのは驚くべきことですが、これもりっぱな祈りです。 四、ジョン・ウェスレ―の言葉 「私たちが神の愛以外の対象を持たず、神を喜ばせようとする願いだけを持っている時には、神について考えたり、神に対して語ることも、あるいは神のために行動したり、神のために苦しむことも、すべては祈りである」(ジョン・ウェスレー著「キリスト者の完全」173頁、日本ウェスレー出版協会、1963年)。
2007.10.13
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「祈りの四つの応答」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、12章9節 聖書は、信仰の祈りには、四つの応答があることを教えています。 一、「願い通り」という祈りの応答 信仰の祈りの応答の第一は、「願い通り」に答えられることです。 ◇「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11章24節)。 ◇「何事でも神のみこころにかなう祈りをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(第一ヨハネ5章14節)。 二、「待つこと」という祈りの応答 信仰の祈りの応答の第二は、すぐには答えられず、時期が来るまで「待つこと」です。 ◇「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(イザヤ30章18節)。 ◇「忍耐をもって熱心に待ちます」(ローマ8章25節)。 ◇「準備をなして汝の許諾を待てり」(使徒23章21節、文語訳)。 私たちは、待たされることによってのみ願望が増し加わり、忍耐が生じ、そして準備が整うからです 「遅延は、拒絶ではありません。モーセは、さらにまさるカナンにはいりました。エリヤは、えにしだの木よりもさらに栄光ある道から天に行きました。霊感された信仰の祈祷が拒絶されたことは決してありません。『否』とは、決して神の最後のことばではありません。もし祈祷が答えられないように見えたとすれば、それは応答のなされ方の栄光のまばゆさの中に見失われているからです。神はモーセをさらに良き道から、さらにすぐれた仲間とともにカナンに連れて行かれたのです」(サムエル・チャドウィック著「祈りの小径」190、191頁、日本ウェスレー出版協会、1975年)。 三、「答えない」という祈りの応答 信仰の祈りの応答の第三は、答えられないことです。聖書には、答えられない祈りが記されています。 ◇モーセがカナンの国にはいることを祈った祈り(申命記3章23~29節)。 ◇エリヤが死を求めて祈った祈り(第一列王記19章4節)。 ◇パウロが肉体の刺の除去を求めて祈った祈り(第二コリント12章8、9節)。 「これらの祈祷はどれも答えられませんでした。それらは認容されなかったのですが、答えられていたのです。『否』というのが答えでした。『ノー』とは『イエス』と同様に、真に答えなのです。ある要請が拒否された時、それは認可された時と同様に真に答えられたのです。拒絶こそが、愛と知恵と真理にとって可能な、唯一の応答であり得ることもあるのです。幼児はカミソリを持ちたがって泣くかも知れません。おとなも等しく、適当でなく、安全でもなく、賢明でないものを求めて叫ぶこともあります。多くの人たちが後になってある特定の時またはある特定のことで、不可欠と思えたことに対する切なる祈りと求めを神が答えてくださらなかったことを神に感謝しています」(前掲書、190頁)。 四、「別の答え」という祈りの応答 信仰の祈りの応答の第四は、願った祈りとは別の答えが与えられることです。 パウロは、肉体のとげを「私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」が、神はパウロに「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われました(第二コリント12章8、9節)。 「召天者の記念カードが出されましたが、そこには、私たちの不信仰を叱責する次の聖句が記されてありました。『彼は、生命を求めしに、汝これを与えてその齢の日を世々かぎりなからしめ給えり』。ですから、私たちは栄光の日に、私たちに祈れと命じられた私たちの父なる神の、無限の知恵と永遠の愛にしたがって、私たちの祈祷が解釈されていたことを見いだすことでしょう」(前掲書、192頁)。 信仰の祈りは、すべて答えられるのです。
2007.10.11
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「聖書が教える祈りの働き」 甲斐慎一郎 ダニエル書、10章10~14節 一、サタンは、この世の神であり、全世界は悪い者の支配下にあります パウロは、サタンのことを「この世の神」と呼んでいます(第2コリント4章4節)。またヨハネは、「全世界は悪い者の支配下にある」(第一ヨハネ5章19節)と述べています。そしてサタン自身は、キリストを誘惑する時、「この、国々のいっさいの権力と栄光……は私に任されている」と主張しています(ルカ4章6節)。 上の図の桃色の台形は、全世界がサタンの支配下にあることを示したものです。 二、しかし神は、その上にあって、すべてのものを支配しておられます 全世界がサタンの支配下にあることは、一面において事実ですが、それがすべてではありません。神はその上にあってサタンさえも支配しておられる方です。 上の図の青い線の三角形は、そのことを示したものです。 聖書は、ヨブのことについて神と天使たちがサタンと激しく戦ったり(ここでは白熱化した討議をしたり)(ヨブ1、2章)、イスラエルの王アハブのことについて、ひとりの霊が神に進言したり(第二歴代18章20、21節)するという天上の出来事と、その結果として起きる地上の出来事が記されています。 キリストが「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10章29節)と言われたように、この世の神であるサタンも、神の許しなしには何もできないのです。 キリストは、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」と言われ(ルカ22章31節)、弟子たちが自分のゆえにつまずいて散り散りになるのは、サタンのしわざであり、それは神が許されたことであることを知っておられたのです。 三、神とサタンとの激しい戦いに信仰者が言葉によって加わるのが祈りです このダニエル書の10章には、ダニエルが満3週間(21日間)、断食して祈った時(3節)、天上では、その祈りは、「初めの日から……聞かれてい」た(12節)にもかかわらず、「ペルシャの国の君」、すなわちサタンの使いが21日間も立ちはだかっていたので(13節)、地上にいるダニエルには、その祈りが聞かれていたことが分からなかったということを教えています。 「祈り……は神の前に立ち上って、覚えられ」(使徒10章4節)、神とサタンとの激しい戦い(白熱化した討議)の中に私たちの言葉も加えられます。もし私たちが祈らなければ、天上の出来事の結果として起きる地上の出来事はすべて、どうすることもできない運命として受け止めるしかないでしょう。 しかし私たちが祈るなら――それが神のみこころにかなったものであるなら――その祈りは神の前に立ち上って覚えられ、神のご計画の中に組み入れられるだけでなく、神は、サタンの恐ろしい企みを打ち破って、地上にそのみこころを行われるのです。
2007.10.09
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「献堂の祈り」 甲斐慎一郎 列王記、第一、8章 列王記第一の8章は、66節もある長い章ですが、その内容は、ソロモンが建てた主の宮の献堂式の模様が詳しく記されています。私たちは、この章を注意深く学ぶなら、神に対するソロモンの信仰と愛の深さに驚嘆させられます。 一、献堂の準備をしたソロモン(1~11節) ここには3つのことが記されています。1.すべての民が集まったこと(1、2、5節)。2.主の箱を運び人れたこと(1、4、6節)。3.主の栄光が宮に満ちたこと(10、11節)。 これらの3つのことは、私たちにも同じように当てはまるのではないでしょうか。すなわち私たちも神の宮に集まり、主の箱を運び入れるように、私たちが神との正しい関係に入るなら、主の栄光が主の宮に満ちるのです。 ニ、献堂の辞を述べたソロモン(12~21節) ソロモンは、献堂の辞として「主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げ」(15節)と述べていますが、この言葉から私たちは真の信仰を学ぶことができます。 信仰は、主が御口をもって語られたことを、主が御手をもってこれを成し遂げてくださると信じることです。このことは自分が生きている間に成就しなくても信じ続けることを意味しています(19節、ヘブル11章13節)。 三、献堂の祈りをしたソロモン(22~53節) ソロモンは、祈りにおいて神の御住まレいが天であることを8回も述べています(30、32、34、36、39、43、45、49節)。これは特に神殿等の目に見えるものを造った時、それを偶像にしやすい人間にとって非常に大切なことです。「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません」(27節)。 さらにソロモンは、「この宮で」とか「この宮に向かって」または「この宮のほうに向いて」祈るならばということを実に8回も述べています(29、31、33、35、38、42、44、48節)。 これは、あたかもこの宮を通さなければ人間の祈りが神に届かないかのように教えています。すなわち、この宮は天におられる神と地上にいる人間を結ぶ唯一の管であることを教えているのです。 この宮は、霊的には何を意味しているのでしょうか。この宮こそ「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14章6節)と言われたキリストを表しています。イエス・キリストこそ天と地を結ぶ唯一の「はしご」だからです(創世記28章12節、ヨハネ1章51節)。 四、献堂の祝祷をしたソロモン(54~61節) ソロモンは、この祝祷において「しもベモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった」(56節)と述べています。ですからソロモンは、この神に向かって「私たちを見捨てられませんように」(57節)、「私たちが主のすべての……命令と、おきてと、定めとを守るようにさせてください」(58節)、「言い分を正しく聞き入れてくださいますように」(59節)と大胆に祈ったのです。 五、献堂の祭りをしたソロモン(62~66節) それから王とイスラエル人はみな「主の前にいけにえをささげ」るとともに(62節)、「主の宮を奉献し」(63節)、さらに「主の前で祭りを行」いました(65節)。 私たちは、信仰を学び、キリストを深く知り、祈りのすばらしさを体験し、心から神を礼拝する者となりましょう。
2007.10.07
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「神殿を建築するために必要なこと」 甲斐慎一郎 ハガイ書、2章1~9節 バビロンの捕囚から祖国に帰ったイスラエルの民は、神殿の礎を据えて定礎式を行い、神の宮の工事に取り掛かりました。しかしせっかく始めた工事も敵の妨害によって中止させられてしまったのです。 預言者ハガイとゼカリヤが神の御名によって預言し、ゼルバベルとヨシュアが立ち上がって神の宮の工事を始めたのは、それからおよそ15年後でした。イスラエルの人々は、神殿を再建することがこれほど困難な仕事であるとは夢にも思わなかったことでしょう。それで神殿を建築するために必要なことについて聖書から学んでみましょう。 一、神の言葉が与えられること ハガイ書には4回も「次のような主のことばがあった」と記されています(1章1節、2章1、10、20節)。神殿を建築するために必要な第一のことは、神の言葉が与えられることです。これには次のような3つの理由があります。 1.事を始め、またそれを導かれ、ついにそれを完成するのは神だからです。 ソロモンが「主は御口をもって父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて」と言った通りです(第一列王記8章15節)。 2.私たちが神と正しい関係を保つために必要だからです。 神は、神殿を建築している最中にソロモンに語りかけられましたが(同6章11節)、これは、外側の建物に心を奪われたり、自らの名誉に溺れたりしないためにどうしても必要なことでした。 3.私たちが様々な困難を乗り越えるための秘訣だからです。 イスラエルの民は、預言者を通して語られる神の言葉によって励まされ、奮い立たされなかったなら、敵の妨害に打ち勝って神殿を完成させることはできなかったでしょう。 二、神の霊が働いていること ハガイを通して与えられた神の言葉の中に「わたしの霊があなたがたの間で働いている」(5節)というのがありますが、神殿を建築するために必要な第二のことは、神の霊が働いていることです。これには次のような3つの理由があります。 1.人の心を動かし、また奮い立たせるのは神の霊の働きだからです。 神は、クロス王の霊を奮い立たせてイスラエルの民を解放し、また預言者と民とその指導者たちの心を奮い立たせて神殿を建てさせたのです。 2.自然界の現象や社会の出来事を摂理の御手をもって導かれるのは、神の霊の働きだからです。 神は、民の怠慢と利己主義を鋭く指摘し、また懲らしめるために、ひでりやききんをもあえて起こされるのです(1章9~11節)。 3.世界中の富や宝物を人々に与えたり、人々から取り去ったりするのは、神の霊の働きだからです。 「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」(8節)とある通りです。 三、神の目が注がれていること 「ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれてい」ました(エズラ5章5節)。神殿を建築するために必要な第三のことは、神の目が注がれていることです。これは、どのようなことでしょうか。 1.神の知識と知恵です。 神は、すべてのことを見抜いて知っておられるということです(エレミヤ16章17節)。 2.神の愛とあわれみです。 神は、私たちに関心をもたれ、常に私たちを心にかけてくださるということです(第一列王記9章3節)。 3.神の御守りと御助けと導きです。 神は、私たちをすべての危険から守り、おりにかなった助けを与えて、私たちを導かれるということです。 神の言葉が与えられ、神の霊が働き、神の目が注がれていることは、神の宮であるキリスト者が形造られるためにも必要なことなのです。
2007.10.05
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「定礎式の意味するもの」 甲斐慎一郎 エズラ記、3章8~13節 バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民は、ペルシャ王クロスの勅令により、エルサレムに帰国することができただけでなく、神殿を再建する許可まで与えられました。聖書は、その時の彼らの喜びを次のように記しています。 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、 私たちは夢を見ている者のようであった。 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。主は彼らのために大いなることをなされた。主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ(詩篇126篇1~3節)。 祖国に帰ったイスラエルの人々は、いっせいにエルサレムに集まり、仮庵の祭りを祝うとともに、主の神殿の礎を据えたのです。 一、真の礼拝 建築師たちが主の神殿の礎を据えた時、イスラエルの民は、主を賛美しましたが、聖書は、主を賛美したことに関して3回も記しています(10節、11節に2回)。この主への賛美は、民の神に対する真の礼拝ですが、この真の礼拝の要素は何でしょうか。 1.真の礼拝は、すべてが神のものであることを認めることです。 ダビデは、「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです」(第一歴代誌29章11節)。 2.真の礼拝は、神がすべてのことをなさることを告白することです。 聖書は、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」と教えています(詩篇127篇1節)。 3.真の礼拝は、私たちが神にすべてをささげることです。 「私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません」とある通りです(第一歴代誌29章14節)。 二、真の喜び 主の宮の礎が据えられた時、民は主を賛美しましたが、それとともに「大声をあげて喜び叫んだ」と、これまた聖書は3回も記しています(11、12、13節)。彼らは、単に喜んだだけでなく、大声をあげて喜び叫んだのです。その理由は、いったい何でしょうか。 1.長い苦しみがあったからです。 イスラエルの民は、神殿が破壊された時から数えても50年間の捕囚の苦しみを嘗めたのであり、その苦しみが大きければ大きいほど、喜びもまた大きかったにちがいありません。 2.改悛の情があったからです。 最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、大声をあげて泣きましたが、これは過去の罪に対する改悛の情の現れであり、またその罪を赦して恵みに回復させてくださる神のあわれみに感激した嬉し泣きではないでしょうか。 3.神への渇きがあったからです。 イスラエルの民は、捕囚の懲らしめを受けることによって、そのたましいに生ける神を求める渇きが与えられ、何としても神殿において心から神を礼拝したかったのではないでしょうか。 三、真の感化 最後に聖書は、「民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた」と記しています(13節)。この声は、文字通り肉声のことであり、大ぜいの人々が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえたのでしょう。 しかしこのことは、福音を信じて罪から救われ、主の証人とされたキリスト者にとって何と象徴的な出来事でしょうか。なぜなら福音によって罪から救われ、大きな「喜びと聖霊に満たされ」たキリスト者は(使徒13章52節)、主の証人として「地の果てにまで」(同1章8節)、その証しの声を伝えるからです。私たちは、罪から救われて主の証人となっているでしょうか。
2007.10.03
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「神の宮の意味と歴史」 甲斐慎一郎 サムエル記、第二、7章1~18節 神の宮は、神がお住みになり、またその神への礼拝と賛美と祈りがささげられる神聖な場所です。その意味と歴史には、次のような8つの段階があります。 一、祭壇 祭壇は、神に香をたいたり、いけにえをささげたりするために、土や石や金属で造られた壇のことです。ですから祭壇は正確に言えば神の宮ではなく、その前身ですが、神の宮の中心的な部分です。 聖書の中で最初に「祭壇を築き」と明白に記されているのはノアの記事ですが(創世記8章20節)、カインとアベルがささげ物をした時、祭壇を築いたことは十分に考えられます(同4章)。アブラハムもイサクもヤコブもみな、祭壇を築いたことは周知の事実です(同12章7節、26章25節、33章20節)。 二、幕屋 幕屋は、契約の箱(あかしの箱、神または主の箱)や祭壇などを納める亜麻布で造られた天幕で、荒野を旅行するイスラエル人が持ち運んで移動できるものです。 この幕屋は、神がその民と会うところですから、「会見の天幕」(出エジプト40章2節)と呼ばれ、またあかしの箱が納められているところですから、「あかしの幕屋」(同38章21節)と呼ばれています。しかし一般には「主の家」、「神の宮」、「主の宮」(出エジプト23章19節、士師記18章31節、第一サムエル1章7節)として知られています。 三、神殿 神殿は、仮の住まいである幕屋を恒久的な建築物に建て替えたもので、広さは幕屋の四倍ほどありますが、その構造や機能は全く同じであり、幕屋の再現です。これは、最初はソロモンによって建てられ、破壊された後、ゼルバベルによって再建され、さらにヘロデ王によって改築されています。 四、会堂 エルサレムの神殿が破壊され、イスラエルの民が捕囚となった時、エルサレムの神殿における礼拝は、事実上、不可能になってしまいました。このような時に造られたのがユダヤ人の宗教的な集会場である会堂(シナゴグまたはスナゴーゲー)です。 この会堂は、いけにえをささげる所ではないので、神殿に取って代わるものではありませんが、神殿と同じように、聖書を教え、祈りをささげて、神を礼拝するところです。これは、実際的な集会所としてキリストも使徒たちも礼拝と伝道のために非常によく用いていますが、キリスト教の教会堂の前身として見逃すことができないものです。 五、キリスト 幕屋はキリストのひな型であり(ヘブル10章20節)、イエスは、ご自分のからだのことを神殿であると言われました(ヨハネ2章21節)。キリストご自身が神の宮なのです。 六、教会堂 キリスト教の教会堂は、神への礼拝と賛美と祈りがささげられる神の宮であることは言うまでもありません。聖書の中には、「家の教会」または「家にある教会」という言葉が4回記されています(ローマ16章5節、第一コリント16章19節、コロサイ4章15節、ピレモン2節)。これは、当時は普通の家を教会にしたことを教えており、現在のような十字架や尖塔がついた教会堂は、3世紀半ば頃から造られたようです。 七、キリスト者 しかし聖書は、私たち自身が神のお住みになる「生ける神の宮」で、そのからだは「幕屋」であると教えています(第二コリント6章16節、5章1~4節)。私たちは、真の神に対する偽りのない礼拝と賛美と祈りをささげることができるような聖い心の持ち主であることが求められているのです。 八、天の御国 地上の幕屋は、あくまでも「本物の模型にすぎない、手で造った聖所」で、本物は「まことの聖所」である天の御国です(ヘブル9章24、12節)。 このように「神の宮」は、祭壇から始まって「天の御国」まで8つの段階があり、「天の御国」において完成するのです。
2007.10.01
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