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「キリスト者と世」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、2章15-17節 「世」または「世界」と訳されている原語のギリシャ語は、「コスモス」ですが、この言葉は、新約聖書において全部で186回ほど記されています。 186回のうち、「ヨハネの福音書」には78回、「ヨハネの手紙」には24回、「ヨハネの黙示録」には3回、計105回記されているので、全体の半分以上はヨハネが用いている計算になります。 霊的洞察力の深いヨハネは、鋭い目をもって「世」というものが何であるかを見抜いていたのではないでしょうか。 一、世に対する考え方について 聖書が教えている「世」とは、いったい何でしょうか。「コスモス」という言葉には、次のような4つの意味があります。 1.「世界が存在する前に」(ヨハネ17章5節)、「世界が創造された時からこのかた」(ローマ1章20節)。――これは、宇宙や世界を意味しています。 2.「神は……世を愛された」(ヨハネ3章16節)。――これは、この世界に住む人間や人類のことを表しています。 3.「人は、たとい全世界を手に入れても」(マタイ16章26節)。――これは、この世の事柄や所有物のことを指しています。 4.「世をも世にあるものをも、愛してはなりません」(第一ヨハネ2章15節)。――これは、神を離れて堕落し、しかも神に敵対している人間の世界のことを教えています。 第四番目の世のことを少し詳しく考えてみましょう。この世界には神の国とサタンの国の二つがありますが(ルカ11章18、20節)、人類の堕落によって、この世はサタンの属国になってしまったようです(第一ヨハネ5章19節、ルカ4章6節)。サタンは、「この世の神」(第二コリント4章4節)としてこの世を支配する者ですが(ヨハネ12章31節、14章30節、16章11節)、その働きは、黒幕のように陰でこの世をあやつっているのです。 二、世に対する生き方について キリスト者は、この世において、どのような生き方をしたならばよいのでしょうか。 1.「この世から自分をきよく守ること」です(ヤコブ1章27節)。キリストは、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」と弟子たちのために祈られました(ヨハネ17章15節)。 2.世のものを忠実に、しかも賢く管理することです(ルカ16章10-12節)。私たちは、世に使われてはならず、かえって世を用いていかなければなりません。そのためには、世のものを浪費したり、死蔵したり、私物化したりしてはならず、神の国の発展のために有効に使うことが必要なのです。 3.この世を神と和解させることです(第二コリント5章18-20節)。この世は、神の愛も福音も知りません。ですから和解させるためには、まず神の愛と福音を知らせなければならないのです。 三、世に対する在り方について 私たちは、世に対してどのような心構えと自覚が必要でしょうか。 1.私たちにとって大切なことは、私たちの国籍は天にあり、私たちは、この世のものではないという自覚です(ピリピ3章20節、ヨハネ17章16節)。私たちは、この世においては、天の故郷に向かう「旅人であり寄留者」なのです(ヘブル11章13節、第一ペテロ2章11節)。 2.私たちは、この世に対して十字架につけられたのだという心構えが大事です(ガラテヤ6章14節)。言い換えれば、「自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思」うことです(ローマ6章11節)。 3.私たちは神の国から、この世に派遣されたキリストの使節であるという自覚が必要です(第二コリント5章20節)。私たちは、旅人や寄留者以上の者なのです。私たちは、このように自覚しているでしょうか。
2007.02.27
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「耕地を開拓せよ」 甲斐慎一郎 ホセア書、10章12節 「あなたがたは耕地を開拓せよ。今が主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」(12節)。 私たちは誰でも、個人に、家庭に、教会に、そして全地に「主が訪れて、恵みを注いでくださるように」(新共同訳)と願うのではないでしょうか。 しかし、これは結果であり、その条件や秘訣は、耕地を開拓することと、今、主を求めることであると聖書は教えています。 一、あなたがたは耕地を開拓せよ 開拓者精神(frontier spirit)ということばがあります。これは、もともとアメリカ人が国土を独力で開拓し、発展させようとする精神のことで、新しい分野や進路を切り開くことを意味しています。 インドの開拓者、ウィリアム・カーレイは、「神より大いなることを期待せよ。神のために大いなることを計画せよ」と言いました。北海道の開拓者、ウィリアム・クラークの残した「少年よ、大志を抱け」ということばは、あまりにも有名です。しかし私たちは、このことばを百度唱えても、人から何百回言われても、開拓者精神を持つことはできません。 それでは、どうすればよいのでしょうか。このホセア書の「耕地」ということばは、まだ耕されていない土地のことを指しています。聖書において土地というのは、人間の心を表しています。 「耕地」とは、耕されていない心、すなわち、自分に都合の悪いことや耳の痛い話を聞いても、また反省を促し、悔い改めを勧めることばを耳にしても、心を閉じ、自分はこれで良いのだと言い訳し、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」心のことです(エレミヤ6章14節)。 私たちは、心を耕さなければなりません。耕された心とは、神の前に「砕かれた、悔いた心」です(詩篇51篇17節)。パウロは、「神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう」と述べています(第二コリント7章11節)。このような耕された心の人は、熱心さと神からのヴィジョンが与えられて、開拓者精神を持つことができるのです。 二、今が、主を求める時だ 聖書において主を求めるとは、祈りを表しています。信仰の世界において祈りは、不可欠なものであり、また人が心を耕し、開拓者精神を持ち続けるためにも、祈りは非常に大切なものです。 1.祈りは、神との正しい関係を保つ秘訣です 私たちは、神に祈る時にのみ、神の前に砕かれて、神との正しい関係を持つことができるとともに人との関係も正しくなるのです。 2.祈りは、私たちを動かすものです メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、「祈りの目的は……必要感と……神への絶えざる依存感を定着させ……あなたがた自身を動かすことにある」と述べています。私たちは、祈り続ける時、私たちの願望が増し加わり、意志が強くされて、実行力のある人に変えられるのです。 3.祈りは、神の御手を動かすものです 前述したジョン・ウェスレーは、「神は、祈りに対する答えとしてでなければ、何事もなさらない」と言っています。 三、ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる このように私たちは、神の前に砕かれて、耕された心をもって、主を求め続けていくなら、ついに主は、私たちの祈りに答えて訪れ、「正義」(文語訳、新改訳)と「救い」(聖書協会訳)と「恵み」(新共同訳)を雨のように注いでくださるのです。
2007.02.25
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「神の恥と人の恥」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~4節 「彼は……恥をもいとわないで十字架を忍び」(ヘブル12章2節、聖書協会訳)。 「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」(ピリピ3章19節)。 この前半のみことばは、キリストの恥、すなわち神の恥について、後半のみことばは、人の恥について記しています。そこで神の恥と人の恥について聖書から学んでみましょう。 一、人の恥について アメリカの女流文化人類学者のルース・ベネディクトが、西洋は「罪の文化」であり、日本は「恥の文化」であると指摘して以来、西洋人は罪意識が強く、日本人は恥意識が強いと言われてきました。それは裏を返せば、西洋人は恥意識が薄く、日本人は罪意識が薄いということではないでしょうか。 しかし聖なる神の前においては、恥意識の薄い罪意識も、罪意識の薄い恥意識もおかしなものではないでしょうか。なぜなら恥には次のような3つの面があるからです。◇自らの欠陥と誤りを認めて恥じること◇人から非難と叱責を受けて恥じること◇神から非難と叱責を受けて恥じること すなわちこの3つのうち1つでもあるなら、それは私たちにとって恥になるのです。 ですから恥を受けないためには、この3つのすべてに恥じるところのない者とならなければなりません。しかしそのような人がどこにいるでしょうか。ひとりもいません。 罪人は、恥を恥とも思わないでふるまうだけでなく、「己が恥を光栄」(ピリピ3章19節、文語訳)とするのです。1.罪を恥じず、自分の恥を光栄とする者2.正しいこと、聖いこと、真実なことを恥じる者3.地獄において永遠の恥を受ける者 これが聖書の教えている罪人の姿です。 二、神の恥について これに対してキリストの恥とは、どのようなものでしょうか。先に述べた恥の3つの面に当てはめて考えるなら、次のように言うことができるでしょう。 1.キリストは「傷もなく汚れもない小羊のような」方です(第一ペテロ1章19節)。 2.しかしキリストは、人々から「ののしられ……苦しめられて」(同2章23節)、「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方」(同2章3節)であると聖書は教えています。 3.しかもキリストは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と、神からも捨てられたのです。何と恐れ多いことでしょうか。 キリストは、恥じるところは全くない方です。しかし私たちを罪から救うために、十字架の上で私たちの罪をその身に負われ、私たちの代わりに恥を受けてくださったのです。 三、私たちの救いについて 恥を恥とも思わない罪深い私たちのために、身代わりの恥を受けてくださったキリストに対して私たちは、いったいどうすればよいのでしょうか。 まず罪を恥じることです。恥じるとは、無益であるだけでなく、有害なものとして、卑しめ、軽蔑することです。 次に福音を恥じないことです(ローマ1章16節)。恥じないとは、無害であるだけでなく、有益なものとして、尊び、誇ることです。私たちを罪から救うことができる福音をどうして恥じることができるでしょうか。 このような人こそ、「恥辱を蒙りて限りなくはずる」(ダニエル12章2節、文語訳)ことなく、罪から救われて永遠のいのちを持つことができるのです。1.私たちを滅びに陥れる罪を恥じる者2.私たちを罪から救う福音を恥じない者3.地獄において永遠の恥を受けない者 これこそ聖書が教えているキリスト者の姿です。
2007.02.23
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「見抜く力と気力を与える信仰」 甲斐慎一郎 申命記、34章1~8節 「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)。 このモーセの臨終の記録において、彼の目とか気力というのは、肉体の眼と気力を指していることは言うまでもありません。しかしこのような旧約の出来事に新約の光を当てるなら、モーセは百二十歳になっても、霊的な目はかすまず、霊的な気力も衰えていなかったことを教えられるのです。新約の光というのは、ヘブル人への手紙11章24~27節のことばです。 一、霊的な目がかすまない秘訣 ヘブル人への手紙の著者は、モーセの生涯を次のように述べています。 「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(ヘブル11章24~26節)。 このみことばの中に、パゼット・ウィルクスは、モーセは3つのものを見ていたと述べています。その3つとは、「神の道」と「神の民」と「神の報い」です。 まずモーセは、世俗の地位と罪の楽しみと世の富を捨てましたが、それは信仰によって、これが神の道であると見ていたからです。 またモーセは、神の民の悲惨と窮状を見ましたが、それと同時に信仰によって、神の民とともに苦しむ幸いを見ていたのです。 そしてモーセは、世の報いに目もくれませんでしたが、それは信仰によって、神の報いを見ていたからです。 これこそモーセの目がかすまなかった秘訣です。もし私たちが世俗の地位と罪の楽しみと世の富に目を奪われたり、神の民の苦しみに目をつぶったり、自分の苦しみだけに目を留めたり、神の報いに目もくれず、世の報いにばかり目を向けたりしているなら、私たちの霊的な目はかすんでしまうのです。 確かにモーセは、「神の道」と「神の民」と「神の報い」を見ていましたが、彼がほんとうに見ていたのは目に見えない方でした。すなわちモーセは、「目に見えない方を見るようにして、忍び通した」信仰のゆえに(ヘブル11章27節)、神の道と神の民と神の報いを見ることができたのです。 二、霊的な気力が衰えない秘訣 人間にとって最も大切なものは、気力とかやる気です。弱さや未熟さはあっても、気力さえあれば、それらを乗り越えることができますが、気力のないことは致命傷です。信仰者にとって霊的な気力ほど大切なものはありません。 それでは霊的な気力は、どこから来るのでしょうか。霊的な目がかすまないことこそ、霊的な気力の原動力です。具体的には、次のような3つにまとめることができます。 1.二心を持たず、心を神に定めること 私たち人間にとって心の分裂は大敵です。神と富とに兼ね仕えたり、神と世の間をさ迷ったりしている者にどうして気力が出てくるでしょうか。 2.見るところではなく、信仰によって歩むこと 私たちは、物事の結果だけを見て、一喜一憂してはなりません。思わしくない結果を見て、失望落胆している者にどうして気力が出てくるでしょうか。 3.思い煩わないで、神にゆだねること ジョン・ウェスレーは、「あなたは、もっと多くのことをすることができるように、一時にはわずかなことをしなさい」と興味深いことを述べています。私たちは、すべてのことを神にゆだね、思い煩うことなく、今この時、神から与えられた使命を果たし、奉仕に励めばよいのです。神にゆだねず、あれこれと思い煩っている者にどうして気力が出てくるでしょうか。
2007.02.21
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「神の目と人の目」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、16章6~8節 「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(7節)。 これは預言者サムエルが、イスラエルの2代目の王となる人に油をそそぐためにエッサイの家を訪れ、長子エリアブを見て、彼こそ王に選ばれる者だと思った時、主がサムエルに語られた言葉です。 この言葉は、神の見るところと人の見るところが違っていることを私たちに教えています。それで神の目と人の目は、どのように違っているのかということを考えてみましょう。「人はうわべを見るが、主は心を見る」というのは、その違いの典型的な一例です。 一、人は外面を見るが、神は内面を見る 人がどんなに外面しか見ていないかということは、この偉大な預言者サムエルでさえ、エリアブの容貌や背の高さといううわべに気をとられたことによって分かります。しかし私たちが人の外面しか見ていないなら、次のような3つの間違いを犯すようになります。 ◇正しい評価ができない――うわべに気をとられて、間違って人を見てしまいます。 ◇正しい対応ができない――間違った見方のために接し方も間違ってしまいます。 ◇正しい解決ができない――間違った接し方は、事態を悪化させてしまいます。 人のうわべしか見ていないなら、人間関係に問題が絶えないのは当然のことでしょう。しかし神は私たちの心をご覧になる方です。 ◇神は正しい評価をされる――神は人の心を見て、その本当の姿を知っておられます。 ◇神は正しい扱いをされる――神は人の姿に応じて、慰めと懲らしめを与えられます。 ◇神は正しい解決をされる――神は人の罪のために真の救いを備えておられます。 二、人は部分を見るが、神は全体を見る 私たちの人生は、人格という建物を生涯を費やして建築するようなものであり、その建物は一生を終えなければ全体が見えないほど大きなものです。しかし聖書は人の心について、「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている」(伝道者8章11節)と記しているように、何と人の視野は狭く、一部分しか見ていないことでしょうか。 これに対して神の視野は広く、いつも全体を見ておられます。私たちが数週間、良いことをしたからといって、すぐに全体が完成するものでもなければ、数週間、悪いことをしたからといって、すぐに全体が崩壊するものでもありません。しかしその結果は必ず刈り取ることになります(ガラテヤ6章7節)。 ですから私たちは、すぐに良い結果が出なくても、常に良いわざに励み、天に宝をたくわえていくことが必要なのです。 三、人は過去から現在を見るが、神は将来から現在を見る 私たちが人を見る時、その人の現在の姿しか見えません。しかもその人の現在の姿というものは、その人の過去の経歴の積み重ねであり、結果です。ですから人は、その人の過去の経歴を通して現在の姿を見ているということができます。 これに対して神も私たちの現在の姿を見ておられるということに変わりはありません。しかし全知全能の神は、私たちが現在の姿のままで生きていくなら、これから先どうなるのかという私たちの将来を知っておられ、その将来の運命から現在の私たちを見ておられるということができます。 神は、私たちが永遠の滅びに至る呪われた将来ではなく、永遠のいのちに至る祝福された将来を迎えることができるように、今この時、心から罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて救われ、恵みに成長しているかどうかを見ておられるのです。
2007.02.19
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「健全な信仰」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、1章3~14節 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(7節)。 「力と慎みとは両極端である。愛はその中間にあり、両者の結合帯また調和である」(ジョン・ウェスレー著「ウェスレー著作集2新約聖書註解下」新教出版社、1979年、305頁)。言い換えれば、力に偏れば無謀になり、慎みに偏れば萎縮しますが、愛は、両極端の二つのものを均衡と調和が取れた状態にして、両極端の過ちを防ぐのです。 健全というのは、それ自体は良いものであっても互いに相反する二つのものが均衡(バランス)と調和(ハーモニー)を保っている状態のことを言うのです。 実際生活において私たちは、この健全さに欠けるなら、純粋な動機で物事を行っても極端に走ってしまうため、自分が失敗したり、他の人に迷惑を掛けたりして、様々な問題が起きてしまいます。神は、私たちに純粋な動機である愛を与えるとともに、均衡と調和の取れた力と慎みを与えてくださるのです。 一、健全な思想や考え方――神の恵みと人間の働きの調和(9節) 9節には、神の恵みと人間の働きとが対照的に記されています。ピリピ人への手紙にも神の側の働きかけと人間の側の救いの達成について記されています(2章12、13節)。 神の恵みは、神の力の表れであり、私たちを高い所に引き上げるものですから、いわば神の理想の方向と言うことができます。これに対して人間の働きは、人間の力の表れであり、神の力がなければ、弱く罪深い人間にとって、それは私たちを低い所に引き下げるものですから、いわば人間の現実の方向と言うことができます。 神は、私たちひとりびとりにふさわしい理想の姿を求められますが、同時に人間にもその人なりの現実の姿というものがあります。ですから私たちは、人間の現実を無視して、神の理想だけを追い求めたり、反対に神の理想を無視して、人間の現実だけを肯定したりしてはなりません。神の理想と人間の現実の両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な思想や考え方を持つことができるのです。 二、健全な品性や人格――喜びと悲しみとの調和(4節) 4節には喜びと涙、8節と12節には苦しみが記されています。喜びは私たちを高くし、高揚させますが、悲しみは私たちを低くし、謙虚にさせます。しかし何の悲しみもなく、喜びだけが与えられるなら、軽薄になるだけでなく、有頂天になり、ついには高慢にふるまってしまうことでしょう。反対に何の喜びもなく、悲しみだけが与えられるなら、陰気になるだけでなく、失望落胆して、ついには自暴自棄に陥ってしまうことでしょう。 神は、私たちに喜びと悲しみの両方を与えられます(ピリピ1章29節)。ですから私たちは、神から喜びが与えられたなら、遠慮することなく心から感謝することが大切です。また悲しみが与えられたなら、逃避することばかり考えず、神のよしとされる時まで耐え忍ばなければなりません。喜びと悲しみの両者が均衡と調和を保つ時、私たちのうちに健全な品性や人格が形造られるのです。 三、健全な行動や働き――大胆さと注意深さの調和(12節) 12節には神にゆだねて確信した大胆さが、14節には聖霊によってですが、自らを守る注意深さが記されています。ゆだねることは、私たちに確信と大胆さを与え、注意深さは、私たちに勤勉と責任感を与えます。しかし大胆さが行き過ぎるなら、無責任や怠慢や不注意になり、反対に注意深さが行き過ぎるなら、小心や臆病や不信仰になるでしょう。 神にゆだねた大胆さと自らを守る注意深さの両者が均衡と調和を保つ時、私たちは健全な行動と働きをすることができるのです。
2007.02.17
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「臆病者から勝利者へ」 甲斐慎一郎 士師記、6、7章 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(第二テモテ1章7節)。 ミデヤン人を恐れて、酒ぶねの中で小麦を打っていたギデオンは、「私の分団は……最も弱く」(6章15節)と告白し、神の使者を見たので、死ぬのではないかと恐れ(6章22、23節)、また偶像をこわす時も、「町の人々を恐れ」(6章27節)、神にも「もし下って行くことを恐れるなら」(7章10節)と恐れの心を見透かされています。 このように臆病で、小心なギデオンが、なぜあのような勝利者になったのでしょうか。 一、ギデオンの心構え ここには3つのことが記されています。 1.同胞の悲惨な現状を憂える心 ギデオンは、「あの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨て」(6章13節)と言い、彼には、同胞の悲惨な現状を憂える心がありました。ギデオンは憂国の士です。過去におけるすばらしいみわざを思えば思うほど、あまりにも悲惨な現状を知って、他の人を責めず、主の御名のために嘆いた人でした。本来、あるべきではない姿をよく見抜き、信仰と愛の大敵である自己満足に陥らなかったのです。 2.自らの無力さの自覚 ギデオンは、「私の分団は……最も弱く」(6章15節)と言い、自らの無力さを自覚していました。自分が何か偉大な者であるかのように誇る人を神は決してお用いになることはできません。この無力さこそ誇りと自負心を打ち砕いて、ひたすら神に拠り頼ませる動力です。 3.自分の召命と信仰の確認 ギデオンは、「しるしを、私に見せてください」(6章17節)と言いましたが、自分の召命と信仰を確かめました(6章36~40節、7章9~14節)。ギデオンは、実に慎重に、用心深く行動しており、決して軽率ではありせん。大胆と軽率とは別なことであり、信仰は、人を大胆にさせますが、決して軽率にさせることはありません。聖霊は、力の霊であるとともに慎みの霊であることを聖書は教えています(第二テモテ1章7節)。ギデオンは、信仰を確かめていく度に、その信仰が強められていったのです。 二、神の懇ろなお取り扱い このようなギデオンの心構えがあったとしても、神の懇ろなお取り扱いがなければ、勝利者になることはできません。 1.約束によるお取り扱い それは、神がともにおられるという臨在の約束(6章12節)と、神が遣わされるという派遣の約束(6章14節)と、神が力を与えてくださるという勝利の約束です(6章16節)。「すべてのうちで最も良いことは、神がともにいてくださることです」(ジョン・ウェスレー)。神がともにおられるなら、「何も持たないようでも、すべてのものを持ってい」るのであり(第二コリント6章10節)、反対に他のすべてのものを持っていたとしても、神を失うなら、それらは無に等しいのです。 2.忍耐によるお取り扱い 主は、「あなたが戻って来るまで待とう」と仰せられました(6章18節)。神は、身を低くして、私たちと歩調を合わせ、「私たちの弱さに同情」されます(ヘブル4章15節)。神は私たちの要求にも耳を傾け(6章36~40節)、また私たちの心を見抜き、先手を打って励ましと確信を与えてくださいます(7章9~14節)。神は私たちの遅々たる歩みを知って、忍耐に忍耐を重ねて導いてくださるのです。しかし私たちの間違っているところや悪いところまで歩調を合わせることはできません。 3.試みによるお取り扱い 神は、まず家庭生活や個人生活における偶像をこわして(6章25~27節)、崩れた祭壇を築き直すかどうかを試みられます。次に三百人の精兵卒のように、ふるいにかけられます。この試練は、誇りを取り除き、どれだけ神を第一として、自分の使命と立場に忠実であるかどうかを試みるものです(7章1~8節)。この試験に合格しなければ、公生涯において勝利者になることはできません。 このような神の懇ろなお取り扱いに私たちが協力することこそ勝利者になる秘訣です。
2007.02.15
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「神への信仰と意志」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書7章17節 「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」 (ヨハネ7章17節) 聖書は、私たちが正しく神を知り、とらえるために意志が大切であることを教えていますが、どうして意志が必要なのでしょうか。3つの面から考えてみましょう。 一、神を信じる意志について 私たちは、人格を持つ者――すなわち神と人間と天使と悪魔――以外のものを知るためには、証拠があって証明されるならば、その人の意志に関係なく、信じるも信じないもなく、ただ認めればよいのです。 しかし人格を持つ者――すなわち知性と感情と意志を持つ者――を知るためには、ただ認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。このことを理解するために、次のような例話が分かりやすいのではないでしょうか。 ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(または娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、確かな証拠があって証明されるならば、認めざるを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知ることはできません。 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(G・C・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければならないのです。 二、罪を悔い改める意志について 聖書は、「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました」と教えています(ローマ1章28節)。 多くの人々が神を信じないのは、単に知性的に神を認められないからではなく、神を信じるならば、自分の悪い心と生活を悔い改めなければならないという恐れから、意志的に神と信仰を拒んでいるということを知らなければなりません。 神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つことはできません。 私たちは、「真理に逆ら」ったり、「真理から耳をそむけ」たりしているならば、「いつも学んではい」ても、「いつになっても真理を知ること」ができないのです(第二テモテ3章7、8節、4章4節)。 三、救いを信じる意志について 人類の始祖が堕落した時、人の意志は堕落し、すべてのことにおいて神を中心とすべき意志が、自分を中心とする意志に変わってしまいました。しかし神は、計り知れない恵みのゆえに、救いを信じることができる意志を与えてくださいました。 キリストが、目の見えないバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた時、彼は「先生。目が見えるようになることです」と答えました。これに対してキリストは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました(マルコ10章51、52節)。 受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。そして私たちは、この信仰によってのみ、罪から救われ、心の目がはっきり見えるようになって、神を知ることができるようになるのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 8」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.02.14
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「神への信仰と感情」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、2章4節 「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした」 (第二コリント2章4節) パウロが使徒職を弁明している「コリント人への手紙、第二」は、個人的な色彩が強く、その文章のはしはしに、外側においては、あのように理性的で冷徹なパウロですが、心の内側においては、激しく燃えている愛の感情を読み取ることができます。そこで神への信仰と感情について学んでみましょう。 一、感情の種類――人間の感情には四種類のものがあります(シェーラー) ◇感覚的な感情――肉体的な刺激によって起こる快感や苦痛の感情です。これは刺激がなくなると感情も消えてしまいます。 ◇生命的な感情――からだの内部から湧き起こってくる充実感や倦怠感また緊張感などの感情です。 ◇情緒(情動)――一般に喜怒哀楽と呼ばれている感情です。これは激しい感情なので、断続的です。 ◇情操――情緒よりもいっそう高等で、芸術や宗教などで感じる感情です。これは穏やかな感情なので、持続的です。 感覚的な感情や生命的な感情は、からだの感知器として、からだを健康に保つ役目をしています。また情緒は、説明を抜きにして感じで分かるという「直感」の働きをし、情操は、推理によらず直接知るという「直観」の働きをしています。前の3つは人間以外の動物にもありますが、情操は、人間だけが持っているものです。 二、感情の目的――それでは感情は、何のためにあるのでしょうか 1.真の人間らしさを与えるためです。 感情は、ことばでは表現することができない微妙な表情をつくり、人に豊かさや深さ、またうるおいやこまやかさを与えるものです。もしこれがなければ、木石のような人間になってしまうでしょう。 2.人の喜怒哀楽を知るためです。 私たちが、人の心の喜びや楽しみ、また悲しみや怒り、そして苦しみや痛みを知ることができるのは、自分自身もこのような心を持っているからです。もしこれがなければ、血も涙もない人間になってしまうことでしょう。 3.直感や直観を与えるためです。 感情は、理屈や思考によらない一種の知識です。理屈や思考は時間がかかるため急を要する時や突発的な出来事には間に合いません。神は私たちに理屈や思考による知識(理性)とともに、理屈や思考を抜きにして一瞬にして知ることができる感情を与えてくださいました。ただし直感や直観は不正確なことがあるので、後で冷静に考え、それが正しいものであるかどうかを確かめることが必要です。 三、感情の功罪――信仰にとって感情の功績と罪過は、どのようなものでしょうか ◇その功績――信仰と信仰の対象である神は、もともと人間の理屈や思考を越えたもの(方)ですから、理屈や思考によらない感情――ただし情操――は、神をとらえるのに非常に役に立ちます。オットーは、絶対他者、すなわち神の前における無力感を「ヌミノーゼ感情」と呼んでいますが、これも感情の功績のひとつでしょう。 ◇その罪過――しかし真の信仰は、見るところや感じによらず、ただ神にのみ拠り頼むものですから(第二コリント5章7節)、感情――特に感覚的な感情や生命的な感情また情緒――は、神をとらえるのに非常に妨げになることがあります。すなわち、何も感じなければ信じられず、また何かを感じて信じるなら、その感情を信じて、ほんとうは神を信じていないかも知れないからです。 私たちは、正しい知識と感情を持つ時、意志を働かせて、正しい行動をすることができるのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 7」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.02.13
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「神への信仰と知識」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章9~11節 「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れとが現されますように」(9-11節)。 パウロは、この手紙においてピリピの教会の人たちの「知識」と「愛」と「義の実」が増し加わるように祈っています。それでここでは、単なる「神への信仰と知識」ではなく、「神への信仰によって与えられる愛と知識」について学んでみましょう。 一、知識が増し加わることについて ペテロは、「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めています(第二ペテロ3章18節)。知識ということを特に愛と比較して考えるなら、それは識別力のことです。私たちは知識が増せば増すほど、物事を正確に見分けたり、区別したり、識別したりすることができるようになります。 これは具体的には、次のようなことです。 1.神に対して――私たちは、何が神に喜ばれ、何が神に悲しまれるかを、どれだけ明確に識別することができるでしょうか。 2.自分に対して――私たちは、神のために何が有益であり、何が有害であるかを、どれだけ明確に識別することができるでしょうか。 3.人に対して――私たちは、隣人が神のために何を獲得すべきか、何を放棄すべきかを、どれだけ明確に識別することができるでしょうか。 これこそ私たちがどれだけ知識に成長しているかどうかを計るはかりです。 二、愛が増し加わることについて このように大切な知識も、愛がなければ何の値打ちもありません(第一コリント13章2節)。しかし私たちが愛に成長しているかどうかは、どうしたならばわかるでしょうか。 「謙遜と忍耐は愛の増大の最も確かな証明である」(ジョン・ウェスレー著「キリスト者の完全」日本ウェスレー出版協会、1963年、171頁)。パウロは愛の現れを14ほど挙げていますが(同13章4~7節)、これをまとめるならば、「謙遜」と「真実」と「忍耐」の3つになるのではないでしょうか。 愛は、信仰によって与えられる聖霊なる神からの賜物ですが、人の側から見るならば、自分を捨てる自己犠牲です(ヨハネ15章13節)。ところが謙遜と真実と忍耐も次のように愛と同じ現れをするものであることがわかります。 1.謙遜――これは、神の前に自分をむなしくすることです。 2.真実――これは、自分に対して利己主義やわがままを許さないことです。 3.忍耐――これは、ほかの人に対して自分の意志や主張を通さないことです。 このようなことから謙遜と真実と忍耐こそ、愛の成長を計るはかりであることがわかります。 三、義の実が増し加わることについて しかし知識と愛は、それぞれ単独では成長することができません。もし私たちに知識があっても愛がなかったならばどうなるでしょうか。コリント人への手紙、第一の8章には、次のような3つのことが記されています。1.知識は、人を高ぶらせる(第一コリント8章1節)。2.知識は、自分を欺く(第一コリント8章2節)。3.知識は、ほかの人を性急にさばく(第一コリント8章11節)。 これらは愛の現れである謙遜と真実と忍耐とは正反対のものであり、知識にはどうしても愛が必要であることがわかります。 また愛というのは、知識を求め、知識によって成長していくものです。なぜなら私たちは、神を知れば知るほど神の偉大さと自らの小ささを教えられて、ますます「謙虚」になり、自分を知れば知るほど自分を欺くことなく、ますます「真実」になり、ほかの人を知れば知るほど、どんなに「忍耐」を必要とするかを教えられるとともに、よく理解することができ、「忍耐」深くなるからです。 このように愛が知識によって豊かにされることこそ、純真で非難されるところがなく、義の実に満たされる秘訣なのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 9」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.02.12
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「全人格的な救い」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙6章17、18節 「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(17、18節)。 一、人間の構造について 「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(第一テサロニケ5章23節)と記されているように、聖書は人間というものを「霊」、「たましい」、「からだ」という3つの部分から成り立っていると教えています。 ◇「からだ(body)」は、私たちを取り囲む外界の状態を知り、それに対応する機能のことです。それは人知を越えた「生きている有機体」であると言うことができます。 ◇「たましい(soul)」は、「知性の面での心(mind)」と「感情の面での心(heart)」と「意志の面での心(will)」という3つの面があります。これは、人間の知性や感情や意志という内界の状態を知り、それに対応する機能のことです。それは「からだ」という有機体を動かすための命令を下す中枢機能または司令室のようなものです。 ◇「霊(spirit)」は、信仰によって神とその世界を知り、それに対応する機能のことです。それは、神の像に似せて造られた不滅の生命で、他の動物にはないものです。人間の人間たるゆえんは、この霊の存在にあります。 二、人間の罪について しかし「霊」は、人類の堕落以後、神を離れ、罪のために死んでいます。言い換えれば、私たちが神を信ぜず、その結果、神の生命から離れている状態が罪なのです。ですから罪は、本来、霊に存在するものです。 このことを分かりやすく説明するために三重丸を描いて考えてみましょう。一番中心の円が「霊」ですが、罪人は、ここに罪が住んでいるので、中間の円である「たましい」は、罪のために「神を知る知識」と「神を喜ぶ感情」と「神に従う意志」を失い、その思いは汚れ、感情は狂い、意志は弱くなってしまうだけでなく、一番外側の円である「からだ」は罪を行う道具となるのです。 三、人間の救いについて それでは、どうすれば罪から救われることができるでしょうか。冒頭の聖句には罪から救われるための条件が記されています。罪から救われるためには、死んでいた「霊」が生き返ればよいのですが、「霊」は、見ることも、聞くことも、さわることも、感じることもできません。ですから、「たましい」の3つの面である「知性」と「感情」と「意志」に働きかけなければならないのです。「それは『服従した』生活である。――ここに意志がある。『心から』――ここに感情、情緒がある。『教えの規準』は思考力、つまり知性に関係がある」(D・M・ロイドジョンズ著、霊的スランプ、86頁、聖書図書刊行会)。 1.知性――「伝えられた教えの規準」 私たちは、福音によって人類を罪から救うという「神のご計画の全体」(使徒20章27節)を知らなければなりません。聖書は、天地創造から始まり、人間の堕罪、キリストによる救い、そして最後の審判について記しています。言い換えれば、神、人、罪、救い、次に来る世について教えているので、これらの真理をはっきりと悟ることが必要です。 2.感情――「心から」 私たちは、福音によって人類を罪から救うという神のご計画の全体を知るなら、深く感動し、自らの罪深さに嫌悪感を覚えるとともに、この救いを慕うようになるはずです。 3.意志――「服従し」 そして私たちは、その救いを受けて、神のみこころにかなう生き方をしたいという強烈な願望を抱き、その救いを得るために心から罪を悔い改め、キリストが「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」た(第一ペテロ2章24節)ことを信じる決断をするのです。 このようにする時、私たちは、すべての罪が赦され、「霊」には神が住まわれ、「たましい」は、聖霊の働きによって「神を知る知識」と「神を喜ぶ感情」と「神に従う意志」を取り戻し、「思い」は神を中心としてきよく、「感情」は正常になり、「意志」は強くされるだけでなく、「からだ」は義を行う道具となるのです。
2007.02.11
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「救いを受ける条件」 甲斐慎一郎 使徒の働き26章18節 「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(使徒26章18節)。 イエス・キリストが宣教を開始して最初に語られた言葉は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」であり(マルコ1章15節)、パウロも、その伝道の生涯において、はっきりと主張したことは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした(使徒20章21節)。 冒頭に掲げたみことばは、パウロがダマスコの途上において回心し、その後、召命を受けた時、主イエスがパウロに語られたものですが、ここにも救われるための条件が明白に記されています。 一、彼らの目を開いて――認罪について 認罪とは、文字通り「罪を認めること」であり、これには3つの段階があります。 1.人に対する罪――まず私たちが罪と言われて、すぐに思い当たるのは、人に対する罪です。人を傷つけたり、人に害を与えたりしたことによって、自分の悪いところに気がつくことは、認罪の最初の段階です。 2.自分自身の罪――次に私たちは、たとえ誰をも傷つけず、また誰にも害を与えなくても、自分の中に悪い思いや罪深い心があることに気がつかなければなりません(マタイ5章22、28節)。これが認罪の第二段階です。 3.神に対する罪――しかし罪というものは、すべて究極的には神に対して犯したものであり(詩篇51篇4節)、その罪のために自分は滅びるしかないのだということに気がつかなければなりません(イザヤ6章5節)。これこそ聖霊による真の認罪です。 二、サタンの支配から神に立ち返らせ――悔い改めについて これには2つの面があります。 1.神に対する心の悔い改め。 (1)悪い結果を悲しむことではなく、その原因である罪そのものを悲しむことです。 (2)後ろを振り向いて悔やむ後悔ではなく、前向きに神と真理の方へ転回することです。 (3)神と罪との両者に着いたり、中立になったりすることではなく、神のみに着くことです。 2.自分と他人に対する実際的な悔い改め。 (1)偶像や異教的なものをはじめ、私たちを罪に誘惑するすべてのいかがわしいものを捨て去ることです(使徒19章19節)。 (2)人と和解することです。このためには人に恨まれていたなら、謝罪が必要であり(マタイ5章23-25節)、人を恨んでいたなら、赦しが必要です(マタイ18章21~35節)。 (3)だまし取ったり盗んだりしていたなら、弁償することです(ルカ19章8節)。 三、わたしを信じる信仰によって――信仰について 真の信仰は、次のような3つのものから成り立っています。 1.心に信じることです(ローマ10章9、10節)。 私たちはキリストが私たちの罪のために死なれたことを信じて、キリストを自分の救い主として心に受け入れなければなりません。 2.口で告白することです(ローマ10章9、10節)。 次に私たちはキリストを信じたことを人々に告白しなければなりません。そうする時、救われたという確信が与えられるのです。 3.信じた通りに歩み出すことです(コロサイ2章6節)。 信仰は敢行(悪条件や困難を押し切って行うこと)であり、信じた通りに歩み出す時、信仰は実を結び、不動のものとなっていくのです。 このように私たちが自分の罪を認めて、悔い改め、キリストを救い主として信じる時、罪が赦されて、新しく生まれ変わり、神の子どもとされて、天の御国を受け継ぐ者とされるのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 30」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.02.10
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「神に近づく道」 甲斐慎一郎 詩篇、139篇 この詩篇は、私たちに神の全知と遍在を非常に明白に、そして具体的に教えています。私たちがこの詩篇を真剣に読むなら、必ずや心の中にあるすべての欺瞞と偽善が取り除かれて、真実に神に近づかざるを得なくなるでしょう。 この詩篇は、一般的には神の側から見て、次のような4つに分けて学ぶことができます。1.神の全知(1-6節)――知識の十全性2.神の遍在(7-12節)――存在の十全性3.神の全愛(13-18節)――愛の十全性 4.神の全聖(19-24節)――聖さの十全性 しかしここでは視点を変えて、人間の側から見て、次のような4つに分けて学んで見ましょう。 一、知識や思いが神にとらえられる(1-6節) 神は全知の方です。神は、私たちの一挙手一投足だけでなく、ことばが舌にのぼる前の思いでさえも、ことごとく知っておられます。ダビデは、この神の全知に驚嘆しており、私たちは、ダビデの知識や思いが神に全くとらえられているのを見るのです。この神の全知を信じて、私たちの知識や思いが神にとらえられることこそ、まず神に近づく道です。 これに対して罪人は、「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか」と神を侮っています(詩篇73篇11節、10篇11節、94篇7節)。罪人の特徴の一つは、この神の全知を信じないことです。 人間は、神の全知を信じるか信じないかのどちらかです。もし私たちが神の全知を信じるなら、神に近づくことになるので、ますます神を知って、きよい人になっていきますが、神の全知を信じなければ、神から遠く離れていくので、ますます神が分からなくなり、罪深い人間になってしまうのです。 二、意志や行動が神にとらえられる(7-12節) 全知の神は、また遍在の神でもあります。人間は、全知の神の前に何も隠すことはできませんが(ヘブル4章13節)、また遍在の神の前を離れて逃げるところはどこにもありません。私たちは、ダビデの意志や行動が神に全くとらえられているのを見るのです。この神の遍在を信じて、私たちの意志や行動が神にとらえられることこそ、さらに神に近づく道です。 これに対して罪人は、何とかして神の前からのがれようとしますが、それは全く徒労に終わるだけでなく、ますます窮地に陥ってしまうことになるでしょう。 人間は、神のもとにのがれるか、神のもとからのがれるかのどちらかです。もし私たちが神のもとにのがれるなら、救われることができますが、神のもとからのがれるなら、滅びることになるのです。 三、生命や生涯が神にとらえられる(13-18節) 全知と遍在の神は、私たちを造られた創造の神です。ダビデは、自分が存在しているのは、その生命が神によって造られただけでなく、その生涯の一日一日が神の手の中にあるからであると述べています。この創造と摂理の神を信じて、私たちの知識や思い、また意志や行動にとどまらず、私たちの生命や生涯そのものが神にとらえられることこそ、ますます神に近づく道です。 四、心(魂)や霊が神にとらえられる(19-24節) 人間は、この全知と遍在の神、また創造と愛の神の前に出る時、心の奥底から「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と祈らずにはおられないでしょう(24節)。この神の前に聖く傷なく汚れなき者として立つことができるようにと、その心や霊が神にとらえられることこそ、最も神に近づく道です。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 14」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.02.09
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「聖い神に近づく道」 甲斐慎一郎 レビ記、1~10章 主は完成した会見の天幕にお住みになり、その天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました。この時、主の仰せられたことが記されているのが「レビ記」です。「レビ記は、贖われた民のために書かれたものであって、どのようにすれば神に近づき、神を礼拝することができるかを示したものである」(ロバート・リー著「輪郭的聖書」伝道出版社、1965年、12頁)。 一、聖い神に近づく道――幕屋において祭司がいけにえをささげる(1~10章) エジプトにおいて奴隷であったイスラエル人は、過越の子羊の血によって贖われましたが、彼らが聖い神に近づき、神を礼拝するためには、次のような3つのことが必要です。 まず主は、モーセを通してイスラエルの民に、幕屋を造るように命じられました。モーセと民は、主が命じられた通りに幕屋を建てました(出エジプト25~40章)。 次に主は、ささげ物をささげるように仰せられました。これには任意的なものと義務的なものがあります。前者は、「全焼のいけにえ」と「穀物のささげ物」と「和解のいけにえ」です(レビ1~3章)。後者には「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」があり(同4、5章)、どちらも犯した罪の贖いをするために、牛や羊などがほふられ、その血は祭壇に注がれました。なぜなら「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです(ヘブル9章22節)。 そして主は、アロンとその子らを祭司職に任命されました(レビ8章)。祭司は「罪のために、ささげ物といけにえとをささげるため」、「神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けた」人です(ヘブル5章1節)。アロンは祭司の職務を忠実に遂行しましたが(レビ9章)、その子のナダブとアビフは、異なった火を主の前にささげたので、焼き殺されました(同10章)。これは、祭司職の神聖さを教えるためです。 二、聖い神に近づく道――幕屋と大祭司といけにえであられるキリスト このようにイスラエルの民が聖い神に近づき、神を礼拝するためには、幕屋において祭司がいけにえをささげることが必要でした。しかしこれらのことは「本物の模型にすぎ」ません(ヘブル9章24節)。 大祭司は、ささげ物といけにえをささげるために、地上の聖所(幕屋)に仕えていましたが、彼らは、「天にあるもの」、すなわち「真実の幕屋である聖所」の「写しと影とに仕えてい」たのです(同8章5、2節)。また大祭司は、「民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」でした(同5章3節)。 「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(同9章11、12節)。 このようにして「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができ」ます。なぜなら「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださった」からです(同10章19、20節)。 「まことの聖所にはいる」というのは、天の御国にはいることですが、それはまた私たちが聖い神に近づき、神を礼拝することを象徴的に表しています。ですからキリストは幕屋の垂れ幕として私たちの罪のためにご自身を裂かれ、また悪も汚れもない聖い大祭司となるとともに、傷のないご自身を永遠のいけにえとしてささげられたことによって、私たちが聖い神に近づき、神を礼拝することができる道を備えてくださったのです。
2007.02.08
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「主に感謝せよ」 甲斐慎一郎 詩篇107篇1~43節 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(1節)。 この詩篇は、冒頭に「主に感謝せよ」ということば記されていますが、このことばは、ほかに4回も記されています(8、15、21、31節)。さらに、「感謝のいけにえをささげ」ということばと(22節)、「主を賛美せよ」ということばも記されています(32節)。ですからこの詩篇の主題は「主への感謝」ということができます。 この詩篇は、全部で43節から成り立っていますが、次のような3つに分けることができます。◇序論――誰が感謝するのか(1~3節)。◇本論――何を感謝するのか(4~41節)。◇結論――なぜ感謝するのか(42、43節)。 一つ一つ順を追って学んでみましょう。 一、誰が感謝するのか(1~3節) 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(1節)と言うべき人は、いったい誰でしょうか。それは、この詩篇の記者が、そのすぐ後で「主に贖われた者はこのように言え」と述べているように(2節)、主に贖われたすべての者です。 「主は彼らを敵の手から贖い」(2節)とありますが、主は私たちを罪と世と悪魔という敵の手から贖ってくださり、たとえ、ほかに何の恵みも祝福もなかったとしても(そのようなことは実際にはあり得ませんが)、私たちは、主に贖われたことのゆえに、心から神に感謝しなければならないのです。 二、何を感謝するのか(4~41節) この個所は、ごく自然に次のような5つに分けることができます。特に最後の5番目を除いた4つのものは、同じことばが繰り返され、同じような形式になっています。 直接的な意味 教訓的な意味1.放浪の苦しみ(4~9節)―― 霊的な衰弱2.捕囚の苦しみ(10~16節)―― 精神的な束縛3.疾病の苦しみ(17~22節)―― 肉体的な苦悩4.強風の苦しみ(23~32節)―― 霊精身の無力5.飢饉の苦しみ(33~41節)―― 心の貧しさ これらの5つのものは程度の差こそあれ、すべての人に襲いかかってくる問題や課題であり、これが人生の厳しい現実であることを知らなければなりません。 このような苦しみに会った時、私たちは、いったいどうするでしょうか。神も人も信ぜず、ただ人生を呪い、人を恨んで、必死に苦しみから逃げようとするだけでしょうか。それとも、この詩篇の記者のように「この苦しみのときに……主に向かって叫ぶ」でしょうか(6、13、19、28節)。ここに人生の別れ道があります。 もし私たちが、この苦しみの時に、主に向かって叫び、ハンナのように主の前に心を注ぎ出して祈るなら(第一サムエル1章15節)、主は私たちを苦悩から救い出され、私たちは神への賛美と感謝に満ちあふれ、神をあがめるようになるでしょう。「なやみの日にわれを呼べ、我なんじをたすけん、しかしてなんじ我を崇むべし」とあるとおりです(詩篇50篇15節、文語訳)。 私たちは、順境の日だけでなく、逆境の日にも、このように主に向かって叫ぶことによって苦悩から救い出されるなら、神への賛美と感謝は絶えることはないでしょう。 三、なぜ感謝するのか(42、43節) このように苦悩から救い出された者は、すべて「主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝」するだけでなく(8、15、21、31節)、「その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟」ることによって知恵のある賢い者となるのです(43節)。
2007.02.07
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「かけがえのない人生」 甲斐慎一郎 詩篇71篇5、6節 「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています」 (詩篇71篇5、6節) 私たちの一生は、日々の生活の積み重ねであり、人がどのような晩年を送るかは、その人が若いころから、どのような種を蒔き続けてきたかによります。この詩篇71篇は、若いころから神を信じ、晩年に至るまで信仰に生きたひとりの高齢者が書いたもので、年老いた信仰者の祈りが記されています。 人はだれでも年を取り、高齢者の問題は他人事ではありません。ですから人生のあらゆる艱難辛苦をなめた高齢者、しかもこの人のように全生涯を信仰に生き抜いた人のことばに耳を傾けることは、何と大切なことでしょうか。 そこで詩篇71篇から、「かけがえのない人生」について考えてみましょう。この中には、詩篇の記者の生々しい人生の体験が克明に記されています。 一、厳粛な人生の現実 この詩篇の記者は、自分をなじり、痛めつけようとする者だけでなく、いのちをつけねらう敵や残虐な者に囲まれていました(1、4、10、13、24節)。しかも彼の肉体は、徐々に衰えていたのです(9節)。 人は、霊と心とからだという3つの要素から成り立っています。私たちは、年を取るにつれて次のようになります。◇からだは衰え、病気がちになります。◇心も衰えていきます。人は若い時と比べるなら、 知性――物覚えが悪く、忘れっぽくなる。 感情――新鮮な驚きや感動が失われる。 意志――何事も面倒で、おっくうになる。◇霊は、死が近づくため、人生の刈り入れと生涯の締め括りが求め られます。 このように人間というものは、年を取るとともに、様々な悩みと苦しみが増し加わり、死に備えて生涯の締め括りをしなければなりません。これが厳粛な人生の現実です。 二、幸福な人生の晩年 このような厳しい人生の現実に直面する時、多くの人々は、この悩みと苦しみに耐え切れず、年を取るに従って夢も希望もなくなり、不平と不満、またつぶやきと愚痴が多くなっていきます。 しかしこの詩篇の記者は、このような様々な苦難と迫害、また肉体の力が衰えていくような中にあっても、その口には一日中、神への賛美が満ち(6、8、14、22、23節)、神の義を言い表し(24節)、神の奇しいわざを告げ知らせています(15、17、18節)。 これらのことを私たちに当てはめるなら、次のような3つにまとめることができます。◇神に対して――神への礼拝と賛美と感謝。◇自分に対して――自らの救いの確信。◇人に対して――ほかの人への証しと伝道。 これは何とすばらしいことでしょうか。これこそ幸福な人生の晩年です。 三、必要な人生の土台 この詩篇の記者が、このような幸いな人生の晩年を過ごすことができた秘訣は何でしょうか。彼は、神を自らのとりでや岩とし(3節)、その神が信頼の的であるとともに(5節)、心を注ぎ出して救いと助けを祈り求め(2-4節)、謙虚に神に教えられています(17節)。 これらのことは、次のような3つに要約することができます。◇神が信頼の的である――神への信仰。◇神に救いを祈り求める――神への祈り。◇神に謙虚に教えられる――神への服従。 パウロが「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と述べているように(第二コリント4章16節)、私たちは、年を取るにつれて、肉体だけでなく、心も衰えていきます。しかし人間の本質的な部分である霊は、神への信仰と祈りと服従によって日々新たにされていくことができるのです。 これこそ幸いな人生の晩年であるとともに、すべての人に必要な人生の土台なのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 10」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.02.06
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「今あるは、ただ神の恵み(2)」 甲斐慎一郎 毎週、教会に通い、信仰生活を送りながら、この比類のない福音をだれかに語らずにはいられなくなり、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり」(エレミヤ20章9節)という聖書の言葉が心を占領し、人々に福音を語りたいという情熱が日々増し加えられ、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」(ヨハネ12章26節)という神さまの言葉が与えられ、牧師になる決心をしました。その後、教会において3年間、献身生活を送り、神学校に入学したのです。 神学校に入りましたが、吃音のためにずいぶん悩みました。聖書を朗読したり、お祈りをしたり、説教したりするのですから、言葉がすぐに出てこないことは、大変な苦しみです。しかし信仰によって心を落ち着かせ、少しずつですが、克服することができたのです。 「作家の井上ひさし氏は、吃音のために人知れず、どんなに苦しんだかを陽気にこう語っている。 上京してすぐアルバイトが見つかった。四谷駅前のカトリック系の出版社の書籍を週一回、国電に乗って立川市の教会へ運び届ける仕事で、友人たちは「電車に乗って往復するだけで百円になるんだからいいよなあ」と、わたしを羨しがっていたが、吃音者であったわたしには、これはなかなか難儀なことだった。というのは立川までの切符を手に入れるのが大事業だからで、「タ」や「チ」などタ行の音で始まる言葉は、ハ行の音で始まる言葉とともに吃音者の難関なのだ。「立川。往復一枚」と、これだけのことが、タ行に属する音で始まっているという理由で、切符売場の駅員に切り出せない。そこで立川の次の駅までの切符を買い求めようと考える。だが、立川の次は「日野」、これはハ行の音で始まっており鬼門だ。では、「日野」のさらに一駅向こうは?「豊田」で立川と同じこと。豊田の次は「八王子」でハ行。その次の「高尾」はタ行。結局わたしはその次かなんかの「裏高尾」まで買わざるを得なくなり、なんでこの中央線の立川あたりにはタ行やハ行の音で始まる駅名が多いのかしらんと腹を立て、腹立ちまぎれに立川では降りずに裏高尾まで行き、高尾山に登っておでん喰って帰ってきて足を出し、この仕事を友人に譲ったのだった」(多田道太郎著「日本語の作法」創拓社、1990年、19、20頁)。 井上ひさし氏は、自分の吃音をこのように陽気に語ることができるまで克服したのです。私も長い年月がかかりましたが、吃音を克服し、今、牧師として毎週、説教し、今日は、このようにラジオにおいてお話しをすることができるのは、まさに奇蹟としか言いようがありません。 神学校の在学中に家族を信仰に導くために、神さまにお祈りするとともに、手紙を書いたり、教会を紹介したりして、福音を伝えました。神学校の3年の時、私が洗礼を受けてから8年目に母とすぐ下の妹が、それから2年後に一番下の妹と父が洗礼を受け、家族全員が信仰を持ったのです。 1969年3月に神学校を卒業し、結婚して家庭を持ち、昭島市にある外人ハウスを借りて伝道を始めました。教会の土地もなければ、教会堂もない借家における伝道は、ほんとうに大変でした。毎週の集会には、わずかな人しか来ませんし、少数の来会者があっても、去って行き、二度と来ませんでした。その頃、私の家族は、千葉に住み、毎週、教会に通っていましたが、見るに見かねて、昭島教会の隣の外人ハウスが空いたので、そこに引っ越して来ました。そして教会の土地を購入し、教会堂を建てるために、千葉の家を売却し、土地を購入する資金の一部にあてたのです。 そのため両親は、3年前まで、28年間、教会の近くにある6畳と台所だけの1Kの賃貸の団地に住んでいました。人の目から見れば、私は親不孝な息子で、ほんとうに申し訳ないと思っています。しかし両親は自分の家を売って、家が無くなったことを悲しんだり、恨んだりすることなく、かえって立派な教会が建ったことを何よりも喜んでいます。それを見て、私は、両親を誇りに思っています。 現在まで37年の歳月が流れ、その間、このような教会建設に伴う艱難辛苦をなめましたが、私たちには2人の子、妹には、それぞれ、2人の子、3人の子が与えられ、みな洗礼を受けました。私が信仰を持ってから45年の歳月が流れましたが、今、心に通っているのは、次のような聖書の言葉です。 「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか」(第二サムエル7章18節)。 信仰を持ってから45年間、様々な苦しみを味わい、色々な困難にぶつかりましたが、その度に神さまは、折りにかなった助けを与えてくださり、あふれるばかりの祝福を注いで、私たちの家族を一歩一歩、導いてくださいましたことを、ほんとうに感謝しています。 2006年5月1日にFEBC(キリスト教ラジオ放送局、AM放送1,566キロヘルツ)から放送されたものです。
2007.02.05
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「今あるは、ただ神の恵み(1)」 甲斐慎一郎 みなさん、こんばんわ。 私は、FEBC(キリスト教ラジオ放送局)のスタジオの近くにある「横河電機株式会社」に4年間、勤務し、退職してから神学校に行き、現在は、昭島教会の牧師をしています。私の家庭は、牧師の家庭でも、クリスチャン・ホームでもなく、神棚や仏壇のあるキリスト教とは関係のない家庭で、両親と妹2人の5人家族で、杉並区の荻窪に住んでいました。 私は未熟児として生まれ、私が生まれた時、母は虫垂炎なり、私は母乳を飲むことができず、肺炎とジフテリヤに罹り、非常に危険でしたが、奇蹟的に一命を取り留めました。このような誕生でしたので、小さい頃から病気がちで、小学校5年生の時に結核になり、中学3年までの5年間、学校には行きましたが、全く体操はできず、ひ弱な子どもでした。 とても貧しい家庭で、父は印刷会社に勤め、母は内職をしたり、今でいうパートをして働いていました。母はリヤカーを引いて、パンを売り、雨の降る中を私とすぐ下の妹がリヤカーを押したのを今でも覚えています。遠足に行った時、隣の子が卵をむいても、崩れないのを見て、母にそのことを告げました。私は、ゆで卵を知らなかったのです。その後、母はパートで、和菓子屋に勤めましたが、和菓子は卵の黄身だけを使うので、パートの人は卵の白身を持ち帰っていました。それで母が和菓子屋に勤めている間、おかずは「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という言葉がありますが、私の家の場合は、「今日も卵の白身、明日も卵の白身」という食事でした。私が、ゆで卵を知らなかったので、皮肉な結果になったわけです。 このような貧しい家庭で、からだも弱く、どうしてこんな家庭に生まれたのかと、不平不満に満ち、腹立ち紛れに、よく兄弟喧嘩をし、両親にこっぴどく叱られたものです。父に対しても不平不満を抱き、心の底から見下げていました。というのは、私は小さい頃から吃音(どもり)のために、ひそかに悩んでいましたが、父も祖父も2人の叔父も吃音であったからです。 このように貧しい家庭でしたが、何とか高校までは行くことができました。3年生の時に、同じクラスに吉祥寺にあるHi-BA(高校生聖書伝道協会)に通っている友達がいて、私に聖書の言葉を読ませてくれました。その聖書の箇所は「ローマ人への手紙の1章」で、罪のリストが記されていました。「ねたみと殺意と欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、人を人と思わぬ者、親に逆らう者、約束を破る者、情け知らずの者」という言葉が目に飛び込んできました。その時、私は、表面においては、まじめそうにふるまっていましたが、このような貧しい家庭、ひ弱なからだ、吃音などのために、不平不満に満ち、両親に対して、妹に対して、また友人に対して、心の中は恐ろしい罪に満ちていることに気がついたのです。 その友達に連れられて吉祥寺にあるHi-BA(高校生聖書伝道協会)に出席しました。7、8人の集会でしたが、生まれて始めて説教を聞きました。その時の聖書は、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」という言葉でした。先生を通して語られる神さまの言葉は、私の心にぐいぐい食い込んでくるような力強さに満ちていたことを今でも覚えています。それは、今まで知らなかった全く新しい世界でした。 それから毎週、Hi-BA(高校生聖書伝道協会)に通い、2か月後に高校を卒業し、その友達とともに始めて教会に行きました。1961年の3月12日(日)のことです。2か月の間、Hi-BAにおいて説教を聞いていたこともあって、翌週の3月19日(日)に導かれるままに、これまでの罪を悔い改め、キリストは自分の罪のために死んでくださったことを信じました。それから洗礼準備会に出席し、4月23日(日)に洗礼を受けたのです。 洗礼を受けてから毎週の日曜日は、朝の高校生のクラスにOBとして出席し、その後、大人の礼拝、そして午後は青年会の例会に出席したり、野外子供会で奉仕したりし、夜は伝道会に出て、帰るのは、夜の10時頃でしたが、私を心から愛し、私の罪のために死んでくださったイエス・キリストに仕え、このキリストを宣べ伝えることは、何よりも大きな喜びでした。父と母と2人の妹は、私が手のひらを返したように変わったのを見て、驚いていましたが、いくら教会に誘っても、来ようとはしませんでした。 次回に続く。 2006年5月1日にFEBC(キリスト教ラジオ放送局、AM放送1,566キロヘルツ)から放送されたものです。
2007.02.04
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「私を導いてくださる神」 甲斐慎一郎 サムエル記第二、7章18~29節 「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました」(18、19節)。 一、神の家を建てることを預言者ナタンに相談し、彼の承諾を得たダビデ(1~3節) ダビデが主のために家を建てようとしたのは見上げた心がけであり、彼の動機は純粋でした。しかし彼は、このような良い志を持ったからと言って身の程をわきまえず、また神の導きも求めないで、勝手に神の宮を建てるようなことはしませんでした。 ダビデは、信頼のおける友である預言者ナタンに自分の心を打ち明け、どのようにすればよいか相談しました(2節)。ナタンは、ダビデのことばを聞いた時、王の志は神の栄光を現すものであると判断して、心から喜んで賛成したのです(3節)。 二、「わたしが、あなたのために家を建てる」とダビデに約束された主(4~17節) 「しかしナタンは、たとえ敬虔であっても神の導きではなく、ただ自分の感動によって語ったのです。私たちの考えにおいても、たとえ敬虔な動機から出ていたとしても、神のみこころにかなわないことがあります。……ですから事ごとに主観的な感情ではなく、客観的な啓示によってこれを試験しなければならないのです」(A・イーダーシャイム)。 主は、ナタンを通してダビデに次のような4つのことを仰せられました。 1.主は、神の家を建てるようにイスラエル人に仰せられたことは一度もない(7節)。 2.主が、ダビデのために家を建てる(11、27節)。 3.主は、ダビデの世継ぎの子を起こし、彼が主の家を建てる(12、13節)。 4.ダビデの家と彼の王国とは、主の前にとこしえまでも続く(16節)。 主がダビデのために家を建て、主の前にとこしえまでも続くというのは、主がダビデの王国を永遠に確立されることを教えています。この「ダビデへの大いなる約束は(12、15、16節)、ソロモンにおいて一部分成就したが、完全な成就は、ダビデの最も偉大な子、キリストにおいてのみある(第一列王8章15~20節、ヘブル1章5節、ルカ1章31~33節、使徒2章29~31節、13章22、23節)」(A・M・レンウィック「サムエル記上・下」デヴィッドソン等編「聖書註解」キリスト者学生会出版局、1959年、279頁)。 ダビデは、大きな戦いをして多くの血を流してきたので、神の宮を建ててはなりませんでした(第一歴代22章8節)。それで主は、主の御名のために宮を建てようとしているダビデの好意を無にしないように、こまやかな心くばりをして、この時は宮を建ててはならない理由を告げて無下に断るようなことをせず、「わたしが、あなたのために家を建てる」と言って(27)、彼に希望を与えて励まされたのです。 三、主のことばに感謝して、約束どおりに行ってくださいと祈ったダビデ(18~29節) ダビデは、ナタンをとおして告げられた主のことばを聞いた時、自分の願いはかなえられないことを知りました。しかし神の宮を建てることができないことに対する不平や不満のことばなど一言も言いませんでした。 かえってダビデは、主の御目には取るに足りない者のために、はるか先のことまで告げてくださった主の心憎いまでの配慮に感激して、主の前にへりくだった心から満ちあふれる感謝のことばが口をついてほとばしり出ただけでなく、「あなたの約束どおりに行なってください」と大胆に祈ったのです(25節)。 ダビデ王が祈った「この祈りの特徴は、大いなる謙遜、神の顧みに対する感謝、神の意志への服従、主に対する信頼である」(A・M・レンウィック「サムエル記上・下」デヴィッドソン等編「聖書註解」キリスト者学生会出版局、1959年、279頁)。
2007.02.03
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「パウロのあかしに学ぶ」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、1章12~17節 「福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命された」パウロは(第二テモテ1章11節)、後輩の若い伝道者テモテに伝道と説教と牧会に関する様々な勧告をする前に、まず祈ることを勧めています(第一テモテ2章1節)。このようなところに「福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている」(ローマ1章9節)パウロの敬虔さをみるのです。 しかしパウロは、祈りを勧める前に自分自身の救いのあかしを述べています。これは誠に興味深いことです。13節には「以前」、16節には「今後」と記されています。ここに彼の過去と現在と将来の姿が描かれています。 一、パウロの過去の姿(13、14節)――罪人のかしら パウロは、キリストの救いを知らない以前は、「神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者で」あり、「罪人のかしらで」あることを痛感していました(13、14節)。 しかしパウロは、人の前においてはキリストの救いを信じる以前は優秀な人物でした。彼は、「律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者」でした(ピリピ3章5、6節)。このようなことを現在の私たちに当てはめるなら、教会の集会に励み、熱心に伝道し、品行方正な信仰者ということができます。 しかしパウロは、神の前に出た時、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者以外の何物でもなかったことがわかりました。まして神を知らず、教会にも行かず、善行にも不熱心で、品行の正しくなかった私たちは、パウロよりもさらに神をけがす者、人を憎み、迫害し、暴力をふるう者であり、罪人のかしらではないでしょうか。もし私たちにこのような自覚がなかったならば、ほんとうの意味において神の前に出ていないのです。 二、パウロの現在の姿(12、15節)――救いの感謝にあふれた信仰者 けれどもパウロのように神の前に出て、罪を深く自覚するなら、罪人を救うためにこの世に来られたキリストを信じて、罪を赦され、新しく生まれ変わることができます。 パウロは、ほんとうに謙虚で、感謝に満ちあふれた人でした。なぜなら罪の自覚と救いの自覚が極めてはっきりしているからです。14節の言葉は、ちょうどローマ人への手紙の5章20節を読むようであり、罪の自覚が深ければ深いほど、それだけ神の恵みに対する感謝が深くなることを教えています。 パウロは、自分のような罪人のかしらが赦されて、救いを受けただけでなく、「忠実な者と認めて」、福音を宣べ伝えるという「務めに任命して」くださった神に心から感謝をささげています(12節)。そしてこの感謝がさらに恵みを受ける秘訣であり、福音を宣べ伝える原動力になるのです。 三、パウロの将来の姿(16節)――人々の見本とされる信仰者 神のあわれみは、13節のように過去において罪人のかしらであったパウロを赦してくださったことですが、この同じ神のあわれみは、16節のようにパウロを今後キリストを信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようとしてくださるのです。 もし私たちが、これから救われる人々の見本となることができるとするなら、それは、ただ神のあわれみ以外の何物でもありません。 しかし私たちが神のあわれみを忘れ、自分自身の何かによって良いことができるかのように思うなら、高慢になり、人々の見本どころか人々を見下してしまうことでしょう。実に神の計り知れないあわれみこそ、すべての恵みと祝福の基です。 私たちは、これから救われる人々の見本となり、神があがめられるためにキリストの尊い救いを受けたのです。
2007.02.02
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「信仰による平和」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙1章19~23節 平和は全人類の悲願であり、誰しも平和を願わない人はいないでしょう。しかし醜い争いが絶えないのが人間の世界の現実です。それで聖書が教えている恒久的な平和について考えてみましょう。 一、神との平和――救い 使徒パウロは、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と述べています(ローマ5章1節)。 聖書が教えている真の平和の第一番目は、神との平和です。この個所においてパウロは、「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあった」と記していますが(21節)、ここに神に敵対している人間の姿を見ることができます。 私たちが誰かを敵としているということは、その人と対立し、その人を憎むだけでなく、その相手の人を打ち負かして、自分が天下をとろうとしていることを意味しています。人間が神を無視し、神の支配を認めず、神の代わりに自分が天下をとっていることは、まさに神に敵対していることにほかなりません。 それで聖書は、まず人間は神との和解が必要であることを教えています。人が神と和解するための条件には、神の側と人の側の両面があります。前者は、神の正義が満足されることであり、後者は、このような反逆の罪をも赦してくださる計り知れない神の愛を知って信じることです。そしてキリストの十字架こそ、この二つの条件を十分に満たして神と人を和解させるものなのです(20、22節)。 二、キリストの平和の支配――きよめ 使徒パウロは、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と述べています(コロサイ3章15節)。 聖書が教えている真の平和の第二番目は、キリストの平和の支配です。この平和は、キリストが地上を去られる時、弟子たちに残すと約束された平安のことです(ヨハネ14章27節)。これは、神との平和と異なり、苦しい環境や境遇、また対人関係の問題、さらに自分の罪や弱さや未熟さのために不安を覚えたり、心が動揺したりすることから解放される平和です。 聖書は、「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです」と教えています(ヘブル4章10節)。 私たちは無力で、罪深い者ですから、自分の力で神のわざを行おうとあせったり、もがいたりすることをやめなければなりません。かえって私たちは、神にすべてを明け渡し、「平和の神ご自身が」私たちを「全く聖なるものとしてくださ」ることを信じるなら(第一テサロニケ5章23節)、「人のすべての考えにまさる神の平安が」私たちの「心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」るのです(ピリピ4章7節)。 三、平和をつくる者――福音宣教 キリストは、山上の説教において「平和をつくる者は幸いです」と言われました(マタイ5章9節)。 聖書が教えている真の平和の第三番目は、平和をつくる者(peacemaker)となることです。平和をつくる者(peacemaker)の反対は、問題を起こす者(troublemaker)です。このために私たちは、忍耐と謙遜と柔和の限りを尽くして不必要な争いを避けるとともに(第二テモテ2章24、25節)、すべての良いことを追い求めて、それを実行することが必要です(ピリピ4章8、9節)。 しかしそれ以上に大切なことがあります。それはパウロが述べているように、人々に神との和解を勧める「キリストの使節」になることです(第二コリント5章20節)。十字架の福音を語って人々を神と和解させる人こそ、真に平和をつくる者であり、キリスト者は、神から遣わされた平和の使者なのです。 私たちは、「神との平和」を持ち、「キリストの平和が心を支配」する時、「平和をつくる者」となることができるのです。
2007.02.01
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