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「恐るべき罪性」 甲斐慎一郎 創世記19章12~38節 ロトの生涯から、聖霊によってきよめられない限り信仰者の心の「うちに住む罪(これを罪性という)」(ローマ7章20節)について学んでみましょう。 一、罪性――その恐るべき結末 ロトという人は、アブラハムとは対照的に肉的な人間の代表であり、信仰者の心の「うちに住む罪」(ローマ7章20節)の化身であるということができます。この19章でロトに関する記事は終わっていますが、この最後の出来事の中に、罪性を持った人間の恐るべき結末が極めて明瞭に記されています。 まずロトは、真剣に神の言葉を語っても、婿たちには冗談のようにしか思われないほど証しの力も感化力もない無力で結実のない人でした(14節)。 次にロトは、ソドムに代表される滅ぼされる世と妥協していたために、いままで神の恵みによって与えられていた土地や財産、また名誉や地位、そして妻まで失ってしまいました(25、26節)。 最後にロトは、不本意だったでしょうが、もともとは彼の蒔いた種である娘たちの不品行によって、モアブ人とアモン人という呪わるべき悪人の先祖になってしまいました(31~38節)。 このように信仰者は、罪性を持っているなら、結実がないだけでなく、その人の持っているものまで取り上げられ、ついには自分の蒔いた種によって悪者になってしまうのです。 二、罪性――その恐るべき表れ 私たちは、このように肉的な人間の恐るべき結末を見るなら、その人のそれまでの毎日の生活は、非常に悪い行いで満ちているのではないかと思いやすいことですが、必ずしもそうではありません。 ペテロは、ロトについて「この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです」(第二ペテロ2章8節)と記しています。ここから次のような3つのことが考えられるのではないでしょうか。 1.ロトがソドムに住んだのは、罪人を救うためという彼なりに純粋な動機でしたのではないかということです。 2.ロト自身は決して積極的に悪を行わない正しい人であったということです。 3.その結果、ロトはソドムにおいて成功を収め、高い地位に着くほど出世したということです(1節)。 このように信仰者は、心の中に恐るべき罪性を持っていても、ロトのように神のため、また人々の救いのためという純粋な動機で物事を行い、真面目な人間になり、世の中において成功を収めることは、いくらでも可能なのです。しかしここに心の中に罪性があっても、なかなか気が付かない恐ろしさがあるのです。 三、罪性――その恐るべき正体 ロトは、3回もアブラハムといっしょに出かけたと記されています(12章4節、13章1、4節)。このようなことから彼は、目に見えない神や神の言葉に頼っていたのではなく、目に見える人に頼っていたことが分かります。 またロトは、アブラハムと別れる時、祈りもせず、また神の導きも求めないで、ただ目に見える良い所や得になる物を選んでいます(13章10節)。 そして彼は、ソドムの町が滅ぼされようとする時でさえ、この世の目に見えるものが惜しくて、それに執着しています(16、17節)。 目に見えない神を信じながら、神だけに頼ることができず、目に見える人や物に頼り、また目に見える良いものや得なものを選び、そしてそれらの目に見えるものに執着する性質こそ恐るべき罪性であり、聖霊によってきよめられなければならないものなのです。
2007.06.29
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「豊かないのち」 甲斐慎一郎 詩篇23篇1~6節 B・F・バックストンは、「すべての信仰者は、この詩篇の1~3節を歌うことができる。しかし、ただきよめられ、聖霊に満たされた者だけが4~6節を歌うことができる」と述べています。 主は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10章10節)と言われましたが、これこそこの詩篇23篇を開く鍵の言葉です。すなわち1~3節には、羊がいのちを得る「救いの生涯」が、4~6節には、それを豊かに持つ「きよめの生涯」が記され、その中間の「死の陰の谷」は、「きよめの転機」です(B・F・バックストン)。 一、救いの生涯(1~3節) この詩篇23篇は、その前後の詩篇と密接な関係があり、一連の詩篇です。その主題は次の通りです。1.22篇――キリストの十字架の死2.23篇――キリストの復活の生命3.24篇――キリストの昇天の栄光 私たちは、キリストの十字架の死を自らの罪のためであると信じるなら、救われてキリスト者になります。 「主は私の羊飼い」(1節)――これは、まさに神から離れて迷っていた罪人が「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」(第一ペテロ2章25節)という救いを予表していないでしょうか。 「緑の牧場、いこいの水のほとり」(2節)――これは救いの恵みのすばらしさを予表しているのではないでしょうか。 「たましいを生き返らせ、義の道に導かれる」(3節)――これは救いの二つの面である新しく生まれる新生と、義と認められてその道を歩む義認とを予表しています。 二、きよめの転機(4節前半) キリスト者が実際に「死の陰の谷を歩く」なら、一体何を考え、どのようになるでしょうか。 1.過去のことに関して――実際の死に直面した人は、過去の出来事と一切の関わりを断たざるを得なくなり、その結果、それを神にゆだねるようになるのではないでしょうか。 2.現在のことに関して――実際の死に直面した人は、神と永遠に関する最も大切なことだけを求めざるを得なくなり、それ以外のことには見向きもしなくなるのではないでしょうか。 3.未来のことに関して――実際の死に直面した人は、自らの計画や予定を全部捨てざるを得なくなり、永遠に備えて神のご計画に添おうとするのではないでしょうか。 きよめられるための条件である全き献身と信仰、また自我の死というのも、実際の死に直面したのと同じような心境になることです。 三、きよめの生涯(4節後半~6節) 「頭に油をそそぐ」とか、「杯は、あふれる」という言葉は、聖霊に満たされる「きよめ」を予表していることはわかりますが、次の二つの言葉もきよめられた者の特徴をよく表しています。 「あなたのむちと杖」(4節)――これは神の懲らしめを表しています。罪をきよめられた人も、無知のために間違いや過失や失敗をすることがあり、神の懲らしめを受けます。しかし、その時、きよめられた人は、その神の懲らしめに反発せず素直に教えられて、慰めとさえなるのです。 「私の敵」(5節)――これは悪魔の誘惑や他の人からの誤解や非難また中傷や迫害を表しています。自分が無知であるように他の人も無知であり、そのために私たちを誤解したり、非難したり、中傷したりすることがあります。しかし、きよめられた人は、そこからも教えられて霊的な糧とするのです。 これこそ、いつくしみと恵みが追いかけて来るすばらしい「きよめの生涯」です。
2007.06.27
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「キリスト者の受洗」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章37~47節 ペテロの説教を聞いた人々は、神が主ともキリストともされたイエスを十字架につけた罪を知って、心を刺されました(37節)。聖霊に満たされて語ったペテロの説教は、聞いた人々の心に深い罪の意識を生じさせ、彼らの心を刺したのです(ヨハネ16章8節)。 一、心を刺された人々に悔い改めてバプテスマを受けるように勧めたペテロ(37~40節) 人々は、イエスを十字架につけた罪の恐ろしさに震えおののき、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言って(37節)、救いを求めました。確かに彼らの罪がイエスを十字架の死に追いやりましたが、そのイエスの死は、彼らの罪を贖い、救いを与えるものでした。 それでペテロは、罪を悔い改めてバプテスマを受けるように勧めました。そうすれば罪が赦され、賜物として聖霊を受けることができるからです(38節)。私たちは、罪を悔い改めてイエスの贖いを信じ、バプテスマを受けるなら、罪を赦されて聖霊が与えられるだけでなく、公にキリストの弟子として教会の交わりに加えられます(41、42節)。 二、キリスト者の受洗 イエスを信じてバプテスマ(洗礼)を受けることは、何を表しているのでしょうか。聖書は次のような3つのことを教えています。 1.神に対して――イエスは、弟子たちに、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」るように命じておられます(マタイ28章19節)。キリスト者は、父なる神が計画され、子なる神が実行に移された贖いのわざによって注がれた聖霊なる神の証印を押された者です(エペソ1章4~14節)。私たちは、父と子と聖霊なる三位一体の神のものとされたしるしとしてバプテスマを受けるのです。 2.自分に対して――パウロは、「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また……キリストとともによみがえらされたのです」と述べています(コロサイ2章12節)。私たちは、古い人が死んで葬られ、新しい人が誕生したしるしとしてバプテスマを受けるのです。 3.人に対して――ペテロの説教を聞いて「彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受け……弟子に加えられ」ました(41節)。私たちは、公にキリストの弟子に加えられるしるしとしてバプテスマを受けるのです。それは、以下のところで述べるように、「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしてい」る教会の一員とされることです(42節)。 三、バプテスマを受けて弟子に加えられたことによって誕生した最初の教会(41~43節) ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受け、その日、三千人ほどが弟子に加えられました(41節)。こうして最初の教会が生まれました。五旬節は教会の誕生日です。新約聖書における教会は、パウロが述べているように、キリストのからだであり(エペソ1章23節)、神の家族であり(同2章19節)、そして聖霊の宮(神殿)です(第一コリント6章19節)。 彼らは4つのことをしましたが(42節)、一般的には、次のようなことを教えています。 1.使徒たちの教えを堅く守る――聖書を学んで、その教えを実行する。 2.交わりをする――神を礼拝するために集まり、主にある交わりをする。 3.パンを裂く――パンを食べ、主の杯を飲む主の晩餐(聖餐式)にあずかる。 4.祈りをする――願い、祈り、とりなし、感謝をささげる(第一テモテ2章1節)。 彼らは救われた喜びと感謝にあふれて、主にある者として互いに助け合い(45節)、宮に集まって主を礼拝し、神を賛美するとともに、交わりと奉仕をしました(46節)。その結果、「すべての民に好意を持たれた」だけでなく、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」のです(47節)。
2007.06.25
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「神の祝福を受ける道(2)」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、20章1~30節 四、祈りの結果としての行動(20~30節) 翌朝、ヨシャパテと民は賛美の部隊をつくり、それを武装した者に先立たせました。彼らが賛美の声をあげ始めた時、主は伏兵を設け、また同士討ちをさせて、ユダに大勝利をもたらされました(21~23節)。ユダの民は、たくさんの分捕りものを得、ヨシャパテの治世は平穏でした(24~30節)。祈りは行動に移ることによって勝利の結末を見るのです。 五、私たちへの適用と教訓 しかしユダの民が、このような勝利を得る前は、次のような深刻な状態にありました。1.王と民は、無力の悲しみに沈んでいました(12節)。2.王と民は、恐れに満ちていました(15、17節)。3.王と民は、気落ちしていました(15、17節)。 これは、私たちも苦難に会ったり、物事が思うように運ばなかったりした時に陥りやすい心の姿ではないでしょうか。このような心は、彼らが賛美によって打ち勝っていったように、私たちも克服することができます。 無力の悲しみを取り除くものは喜びです。しかし私たちが悲しみに沈んで喜べない時、それを助けてくれるのが賛美です。私たちは、とても賛美することができないような時こそ賛美しようではありませんか。そうする時、賛美は私たちに喜びを与えるものであることを知るでしょう。 私は28年前、神学校にはいるために献身生活をしていましたが、自分の無力さに打ちのめされ、悲しみと憂いに満たされていた時がありました。そのような時、「御声とともに海はなぎぬ、風にあるる海も、苦しみもがく胸も、よろずのものを御手に治め給う主なれば、静め得ざることは絶えてあらじ、ことごとく御旨に従わん」(聖歌691番)という賛美によって、どんなに励まされ、力づけられてきたかわかりません。その後、神学校を卒業して牧師になってからも、この賛美によって何度も苦しみを乗り越えてきました。 恐れを取り除くものは信仰です。しかし私たちが恐れに満ちて容易に信仰を持てない時、それを助けてくれるのが賛美です。私たちは、とても賛美することができないような時こそ賛美しなければなりません。そうする時、賛美は私たちの信仰を呼び起こすものであることを体験するでしょう。 落胆を取り除くものは希望です。しかし私たちが気落ちして容易に希望を持てない時、それを助けてくれるのが賛美です。私たちは、とても賛美することができないような時こそ賛美しましょう。そうする時、賛美は私たちに希望を与えるものであることがわかります。 神学院の同期生のM牧師から16年前に手紙をもらいました。そこには、苦心して建て上げた教会が道路の拡幅のために移転しなければならないことが書かれていました。しかし彼は、そのことに関して神に感謝し、ハレルヤと賛美していました。それから10年後、M牧師の教会は駅の近くにすばらしい教会堂を建てたのです。まさに信仰の勝利です。 多くの人々は、祝福とは苦難のないことであり、苦難とは祝福のないことであると考えています。しかし苦難の伴わない祝福はなく、祝福の伴わない苦難はありません。「苦難は変装した祝福である」と言われますが、それならば、「祝福は変装した苦難である」と言えないでしょうか。なぜなら真の祝福とは、あらゆる苦難を乗り越えることができる恵みのことだからです。 ユダの王ヨシャパテと民は、祈りと賛美によって勝利を得、ベラカ(祝福、ほめたたえること)の谷に集まったのです(26節)。(この説教は、1992年6月14日付けの「クリスチャン新聞」の中の「みことばレストラン」という欄に掲載されたものです。ですから、五、私たちへの適用と教訓の「28年前」と「16年前」は、それぞれ1992年現在の年月ですので、ご了承下さい)。
2007.06.23
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「神の祝福を受ける道(1)」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、20章1~30節 神からすばらしい祝福を受けていないクリスチャンは一人もいないでしょう。 しかし現実の生活は、仕事や人間関係のむずかしさをはじめ、育児や教育の問題、また病気やからだの悩み等々において様々な苦しみをなめ、色々な困難にぶつかって、挫折感を味わい、「私は、これでも神の祝福を受けているのだろうか」と、打ちひしがれた気持ちになって悩むことが多いのではないでしょうか。 今から約2800年ほど前にユダの王であったヨシャパテとユダの民も、強敵の襲来という危機に直面して苦しみました(1~5節)。 一、ヨシャパテの祈り(6~13節) モアブ人とアモン人の連合によるおびただしい大軍が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た時、ヨシャパテは、ひたすら主に求めました。それは次のような模範的な祈りです。 1.まず神がどのような方であるか、特にその偉大さを言い表しています(6節)。 2.次に自分がその神とどのような関係にあるかを必死になって述べています(7節)。 3.そして祈るならば必ず救って下さるという神の約束を持ち出しています(9節)。 4.さらに現在の苦しい状況を神の前にさらけ出し、切々と訴えています(10、11節)。 5.最後に自らの無力さを正直に認め、神に目を注いで信仰を告白しています(12節)。 ハドソン・テーラーは、その生涯の終わろうとする前の数ヶ月間、非常に弱っていました。彼は、この時、愛する者に手紙を書いて、「わたしは弱って、書くことも聖書を読むこともできない。わたしは祈ることもできない。わたしは小さい子供のように、神の腕に横臥(おうが)して、信頼する」と言いました。 「私の祈る姿を見ることなしに、中国の地に太陽が上ったことがない」と言ったハドソン・テーラーは、中国の宣教において若い時から数々のすばらしい祈りの応答を体験して来ました。その彼が晩年においてこのようなことを書いているのは驚くべきことですが、これもりっぱな祈りです。なぜなら、「私たちが神の愛以外の対象を持たず、神を喜ばせようとする願いだけを持っている時には、神について考えたり、神に対して語ることも、あるいは神のために行動したり、神のために苦しむことも、すべては祈りである」からです(ジョン・ウェスレー)。 二、神からの祈りの応答(14~17節) このヨシャパテの求めは、本当にすばらしい祈りです。私たちも聖書を学ぶなら、このような模範的な祈りをすることができます。 しかし大切なのは、それから後です。この祈りの後に、ヤハジエルを通して祈りの答えがありました。それは気落ちせずに攻め下り、「主の救いを見よ」というものでした(15~17節)。私たちも次のような3つのものを通して祈りの応答を得ることが必要です。1.聖書を通して神の御声を聞くこと。2.人を通して神より教えられること。3.聖霊による確信によって納得すること。 三、祈りの答えに対する応答(18、19節) しかしこの祈りの応答の後に、もう一つの重要なことがあります。それは、この祈りの答えがあった時、民は、主を礼拝するとともに主を賛美したことです(18、19節)。 これは決して容易なことではありません。私たちは、どのような祈りの応答があったとしても、神への礼拝と賛美と感謝をもって祈りを終えなければなりません。これこそ私たちに勝利を与える真の祈りだからです。 次回の「説教要約 279 神の祝福を受ける道(2)」に続く
2007.06.21
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「行為の健康診断」 甲斐慎一郎 ペテロへの手紙、第一、3~5章 ペテロは、この手紙の1章と2章においてキリスト者の救いについて何回も述べながら、キリスト者の在り方について教えていますが、2章の後半から5章にかけては、苦難と迫害の中で、キリスト者は何をなすべきかということを私たちに教えています。 それで、この箇所から私たちの行為の健康診断について学んでましょう。どのような行為が霊的に健康なのでしょうか。 一、正しい行為(自分に対して) ペテロは、2章から4章において「善を行う」ということを8回も述べています(2章14、15、20節、3章6、11、13、17節、4章19節)。霊的に健康な行為の第一は、正しい行為です(2章24節、3章2、14、16節)。私たちの行為が正しいかどうかは、次のような四つの規準によって測ることができます。 1.自然の法則に従った行為 人間も動物である以上、自然の法則に逆らって生きていくことはできません。ですから私たちは、自らの健康を維持し、また自然界の現象に従って生きて行くことは正しいことです。 2.知性や理性に従った行為 しかし人間は、単なる動物ではなく、思慮と分別を持った理性的な存在です。ですから私たちは、教養や学識また常識を身に着け、それに従って行動することが必要です。 3.国の法律に従った行為 また人間は、社会的な存在です。ですから私たちは、国の法律や取り決め、また約束事を忠実に守っていかなければなりません。 4.聖書の教えに従った行為 しかし最も大切なことは、人間は神のかたち(像)に似せて造られた不滅の霊と人格を持った道徳的な存在です。私たちは、最後の審判において、聖書の規準によってさばかれることを決して忘れてはなりません(4章17節)。 二、愛の行為(人に対して) それでは、私たちの行為は、ただ正しければ、それでよいのでしょうか。語っていること、また行っていることは、確かに正しく、少しも間違っているところがなかったとしても、血も涙もないということいくらでもあり得ます。霊的に健康な行為の第二は、愛の行為です(4章8節)。 パウロは、愛の章において愛の特徴を14ほど挙げていますが(第一コリント13章4~7節)、これらをまとめるなら、謙遜と真実と忍耐の3つになるのではないでしょうか。 私たちの行為には謙虚さが伴っているでしょうか。真実さがこもっているでしょうか。忍耐深いでしょうか。もし私たちの行為に愛が伴っていなければ、せっかくの正しい行為も、何の役にも立たなくなってしまうのです(第一コリント13章3節)。それでパウロは、「愛は結びの帯として完全なものです」と述べているのです(コロサイ3章14節)。 三、信仰の行為(神に対して) しかし、これでもまだ不完全であり、これだけならば、心に確信も平安もなく、不安と疑惑が残るでしょう。もう一つのことが必要です。それは信仰の行為です。 信仰の行為の消極的な面は、いっさいの苦しみや思い煩いや重荷を神にまかせ、またゆだねることです(4章19節、5章7節)。いつまでもくよくよしていたり、仕事が手につかなかったりしていたならば、神にゆだねていない証拠です。 また信仰の行為の積極的な面は、自らの実力以上のことに挑戦し、それを成し遂げていくことです。自らの力の範囲内で、できることしかしないのは、決して信仰の行為ではないだけでなく、進歩することも向上することもないでしょう。 正しい行為と愛の行為と信仰の行為の3つがそろってこそ、霊的に健康な行為です。
2007.06.19
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「心の健康診断」 甲斐慎一郎 ペテロの手紙、第一、1~2章 このペテロの第一の手紙は、苦難と迫害の中にあるキリスト者を慰め励ますために書かれたものです。しかしペテロは、この手紙の1章と2章において、キリスト者の救いについて6回も述べています。1.キリストの復活とキリスト者の新生について(1章3節)。2.信仰とたましいの救いについて(1章8、9節)。3.キリストの尊い血とキリスト者の贖いについて(1章18、19節)。4.神のことばと新しく生まれることについて(1章23節)。 5.神のみわざと神の民について(2章9、10節)。6.キリストの十字架と救いについて(2章24、25節)。 苦難と迫害の中にあるキリスト者にとって最も大切なことは、自らの救いを確かなものにすることです。そこでこのキリスト者の救いということから、私たちの心の健康診断について考えてみましょう。どのような心の状態が霊的に健康なのでしょうか。 一、心の渇望(神に対して) 心の健康な状態の第一は、神への渇きがあることです。それは、「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか」という姿です(詩篇42篇2節)。ペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」と勧めています(2章2節)。 からだにとって食欲があるということが健康のしるしであるように、心にとって神への渇きがあるということが健康のしるしです。もし私たちがすべての悪いことを捨て(2章1節)、滅び去る世と世にあるものを求めないなら、神への渇きが与えられますが、反対にすべての悪いことを捨てようとせず、また世と世にあるものを求めて、これらのもので心が満ちてしまうならば、神への渇きはなくなるのです。 二、心の平安(自分に対して) 心の健康な状態の第二は、心に平安があることです。イザヤ書には、「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます」と記され(26章3節)、パウロは、「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と述べています(コロサイ3章15節)。 心に平安があるということは、罪が赦されて神と和解し(コロサイ1章20節)、また良心の呵責もなく、さらに恐れや思い煩いとともに不必要な重荷や疲れがないということを表しています(マタイ11章28、29節)。もし私たちの心の中に少しでも罪や良心の呵責があったり、また不信仰によって恐れや思い煩いが生じたり、重荷や疲れを感じたりしたならば、心の平安はたちまち失われるからです。 三、心の情熱(人に対して) 心の健康な状態の第三は、心に燃えるものがあることです。エレミヤは、「主のみことばは私の心のうちで……燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに、疲れて耐えられません」と言い(20章9節)、キリストは、「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」と言われました(黙示録3章16節)。 心の情熱は、愛であり力です。冷たい心は愛がないだけでなく、無力です。私たちは、私たちのためにいのちを捨てられたキリストによって神の愛を知らされた者ですから、今度は兄弟のためにいのちを捨てる情熱が必要です(第一ヨハネ3章16節)。 私たちの心には、渇望と平安と情熱があるでしょうか。
2007.06.17
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「あなたの心を見守れ(10)大人としての知恵」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、14章20節 私たちは、幼子のような「単純な心」、すなわち「純粋で、素朴で、素直な心」が必要です。しかし「単純な心」だけでは、互いにだましたり、だまされたりしている醜い大人の世界では生きていくことができません。 パウロは、「物の考え方(新共同訳は物の判断、文語訳は知恵)において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」と勧めています(20節)。 それで「大人としての知恵」について聖書から学んでみましょう。 一、知恵の必要性について イエスは、十二使徒に対して「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と教えられました(マタイ10章16節)。 これは、世の人々の中にあっては、「賢明さ」と「純粋さ」を兼ね備えていなければならないことを教えています。なぜなら人は、「賢明さ」だけを要求されると狡猾で不純になる傾向があり、反対に「純粋さ」だけを求められると単純で愚かになる傾向があるからです。 聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と教えています(箴言9章10節)。ヤコブは、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか」と私たちに問いかけ(ヤコブ3章13節)、二種類の知恵について教えています。すなわち、ねたみや敵対心があり、その結果、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いに至らせる「地に属する知恵」と、純真で、平和、寛容、温順で、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのない「上からの知恵」です(同3章15~17節)。 二、地に属する知恵 地に属する知恵(いわゆる世の知恵)とは、どのようなものでしょうか。 1.その源泉……これは失敗したり、転んだりした多くの人々の体験の中から身につけた人の教えであり、それは人間の努力の賜物であるということができます。 2.その用途……これは、どのようにしたら世間で暮らしていくことができるかという世渡りのためです。 3.その目的……これは競争に勝って人よりも優り、自分が得をすることです。 このように世の中において賢くて知恵があるというのは、世渡りが上手で、人に優り、得をすることであり、愚かで知恵がないとは、世渡りが下手で、人に劣り、損をすることです。この世の知恵は、「地に属する知恵」で、それは競争心をあおり、「ねたみと敵対心」を生じさせ、その結果、「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行い」に満ちた社会になることを避けることはできないのです。 三、上からの知恵 これに対して上からの知恵(すなわち神の知恵)とは、どのようなものでしょうか。 1.その源泉……これは、律法を定め、すべてのものを支配し、全世界をさばかれる全知全能の神が「転ばぬ先の杖」として私たちのために、あらかじめ備えてくださった神の教えであり、それは神からの賜物であるということができます。 2.その用途……これは、どのようにしたら神の前に正しい姿になることができるかという罪からの救いのためです。 3.その目的……これは、悔い改めの実をはじめ、御霊の実や奉仕の実など、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つことです。 このように神の前に、賢くて知恵があるというのは、キリストに対する信仰によって罪から救われて、良い実を結ぶことであり、愚かで知恵がないというのは、神を離れて罪を犯すことです。 私たちは「悔い改めて子どもたちのようにな」る時(マタイ18章3節)、「上からの知恵」すなわち神の知恵が与えられ、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つ人になることができるのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 40」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.15
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「あなたの心を見守れ(9)幼子のような心」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章1~6節 「真に偉大な人とは、おとなの経験と、子どものような単純で甘美な心をもった人である」と言った人がいます。これは醜いおとなの世界の中で、いつのまにか幼子のような心を失ってしまった私たちにとって、何と考えさせることばではないでしょうか。 主は、幼子たちを呼び寄せて、「天の御国はこのような者たちの国なのです」と言われただけでなく(19章14節)、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と語られました(3節)。これは、どのようなことを意味しているのでしょうか。 一、幼子のような心の特徴 幼子は、どんなに無邪気であっても、神でもなければ天使でもないことは、言うまでもありません。まして人類の堕落以後は、幼子といえども罪を持って生まれるために、様々な悪い心があることは衆知の事実です。 しかしここで「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」と言われているのは、幼子の心に代表される「単純な心」のことです。それでは「単純な心」とは、どのような心でしょうか。これは、マタイの福音書6章22節に記されている「健全」(原語は単純)ということで、三つのことを意味しています。 1.第一は、純粋で、二心ではないことです。これは透明で、澄んでおり、曇りのない心を持つことで、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりと識別し、判断することです。 2.第二は、素朴で、飾り気がないことです。これはありのままで、少しも繕わない心を持つことで、良く見せかけること(偽善)も、悪く見せかけること(偽悪)もないことです。 3.第三は、素直で、頑なではないことです。これは意地や強情を張らず、教えられやすい心を持つことで、良いものは受け入れて信頼し、悪いものは拒絶することです。 二、おとなの心の特徴 これに対しておとなの心は、どのようなものでしょうか。それは幼子のような心とは全く反対の単純さを失ってしまった心です。1.第一は、純粋さがなく、二心です。2.第二は、素朴さがなく、繕う心です。3.第三は、素直さがなく、頑固な心です。 私たちがおとなになるにつれて幼子のような心を失ってしまうのは、単純な心では、互いにだましたり、だまされたりしている醜いおとなの世界では到底生きていくことはできず、初めは不本意ながらも、ついには承知で世の汚れに染まってしまうからです。 このようになってしまう根本的な原因は何でしょうか。それは、私たちを決して裏切ることのない真実と愛に満ちた神とその世界を信じないで、私たちを欺いて懐疑的にさせる罪深い人間とその世界しか知らないからです。 三、幼子のような心を取り戻す秘訣 それでは、どのようにすれば、幼子のような心を取り戻すことができるのでしょうか。 1.第一は、「子どものように、自分を低くする」謙遜です(4節)。これは、神を「離れては、……何もすることができない」という無力感や(ヨハネ15章5節)、「心の貧しさ」を表しています(マタイ5章3節)。 2.第二は、「乳離れした子のように」神「の前に」いる信頼です(詩篇131篇2節)。神の前における無力感を自覚した者は、単純に神に信頼するしかありません。 3.第三は、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)とあるように、相反するものであっても、それが神からのものであるなら、一つのものとして受け入れる受容です。それは「主よ、飲むべき わがさかずき 選びとりて さずけたまえ 喜びをも 悲しみをも 満たしたもう ままにぞ受けん」という賛美歌の歌詞によく表れています(285番3節)。私たちは、へりくだって心から神に信頼するなら、神が与えてくださる喜びだけでなく、悲しみや苦しみをも受け入れることができます。 これこそ、幼子のような心を取り戻す秘訣です。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 39」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.13
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「あなたの心を見守れ(8)主のことばを聞く」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、10章17節 一、主のことばを聞くことのききん ききんは、人の生命を支える食物や飲物を欠乏させるものですから、人を死に至らせる恐ろしいものです。イスラエルには、ききんが多く(創世記12章10節、26章1節、43章1節、ルツ記1章1節)、イスラエル人は、その恐ろしさをよく知っていました。アモスは、この「ききん」ということばを巧みに用いて、人の霊的な生命を支える食物や飲物である「主のことば」を聞くことができず、人を死に至らせる恐ろしい神の審判のことを「主のことばを聞くことのききん」(アモス8章11節)と言って、預言しました。 エリがさばきつかさとして治めていたころは「主のことばはまれにしかなく、幻も示され」ず(第一サムエル3章1節)、また「主が正しいと見られること」(申命記12章25節)ではなく、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」ので(士師記17章記6節、21章25節)、読むに耐えないような醜悪で残虐な出来事が詳細に記されている士師記の17章から21章は、まさに「主のことばを聞くことのききん」の時代でした。 二、主のことばを聞くことの大切さ 聖書は、主のことばがどれほど大切さであるかについて繰り返し教えています。 1.すべてのものは、神のことばによって造られました(創世記1章3、6、9、11、14、24節、詩篇33篇9節、)。 2.神が創造された以外のすべてのものも、人の心から出たことばによって造られます。 ことばのない人間以外の動物は、ただ生きていくための営みをしているに過ぎず、何かを生み出すことはできません。 3.人の心は、ことばがなければ死にます。 人の心は、ことばによって生きているのであり、ことばがなければ死にます。 4.「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです(マタイ4章4節)。 人は、神のことばを信じなければ、その心は神の前に死んでいるのであり、神のことばを信じる時にのみ、人の心は生き返り、生き続けることができるのです。 5.「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10章17節)。 私たちは、主のことばを聞くことによってのみ真の信仰を持つことができるのです。 三、主のことばを聞くことの祝福 ペテロは、五旬節の日に聖霊に満たされ、聖霊の降臨は、「神は言われる。終わりの日にわたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(使徒2章17節)というヨエルの預言の成就であると説教しました。 「幻」や「夢」とは何でしょうか。 1.「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)、 2.「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数12章6節)、 3.「アモツの子イザヤの幻」(イザヤ1章1節)、 4.「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29章18節、文語訳は黙示すなわち啓示、口語訳は預言)と記されているように「幻」や「夢」は神の啓示、すなわち神のことばのことです。 イエスが真の神でありながら真の人としてこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって「罪のきよめを成し遂げて……大能者の右の座に着かれ」るためでしたが(ヘブル1章3節)、それは、すべての人に聖霊を注がれるためでした(使徒2章33節)。 ペテロが御霊に満たされて聖書の真理がわかったように、私たちは、聖霊に満たされることによって神のことばの真理がほんとうの意味においてわかるようになるだけでなく、神と人の前で正しく、聖く、愛に満ちた生涯、すなわち主のみこころにかなった生涯を送ることができます。ですから聖霊に満たされることは、主のことばに満たされ、その主のことばによって生きることなのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 38」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.11
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「あなたの心を見守れ(7)善悪の規準」 甲斐慎一郎 申命記、12章25~28節 聖書は、私たちに「善悪の規準」とともに、それを守ることができる道を教えています。 一、善悪の規準がなければ、民はほしいままにふるまい、暗黒の世界になる 箴言の著者は、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と記しています(29章18節)。この「幻」は、文語訳は黙示(啓示)、口語訳は預言と訳し、同じ節の並行文は、「律法を守る者は幸いである」と書かれているので、「律法」であり、「神のことば」です。 ダビデは、「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」と述べていますが(詩篇11篇3節)、この「拠り所」は、「正義と律法の基本的原則」(キッセーン)です。 善悪の規準は、一般的には「律法」であり、これがなければ、民はほしいままにふるまい、暗黒の世界になってしまうのです。 二、善悪の規準は、人の目ではなく、神の目であり、それは神の律法(ことば)である 士師記の17章から21章には、読むに耐えないような醜悪で残虐が出来事が詳細に記されていますが、聖書は、このようになった原因は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」からであると教えています(17章6節、21章25節)。 正しいと見えることを行いながら、なぜ醜悪で残虐な出来事が起きてしまうのでしょうか。問題は、「正しいと見えること」にあるのではなく、「めいめいが自分の目に」のほうにあります。すなわち何を善と見るか、悪と見るかということよりも大切なことは、その善悪を決める規準が何かということです。 聖書は、「あなたがたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記12章25節)と善悪の規準は神の目、すなわち神の律法であると教えています。 人間は、悪いことをする時、必ずしも悪いと思ってしているのではなく、かえって正しいと思い、正しいと信じて、悪いことをしているのです。人は、主が正しいと見えることを行わない限り、「自分の目に正しいと見えることを行」い、それが神の目に悪いことをしていることになるのです。 三、善悪の規準は、神の律法(ことば)であり、心に記されて、行うことができる ある人たちは、「律法」というと、「信仰」に対立するものとして、あたかも悪であるかのように考えていますが、決してそうではありません。確かに聖書が教えている救いは、「律法による救い」ではなく、「信仰による救い」です。しかしパウロは「私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって律法を確立することになるのです」と明白に述べています(ローマ3章31節)。 「律法」は、神のみこころを教える「神のことば」にほかなりません。主が「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)と教えられたように、私たちは、神のことばによって生きるのです。 それでは、どうすれば律法を確立することができるのでしょうか。「愛は律法を全うします」とあるように、律法を全うするものは愛です(ローマ13章10節)。そして「信仰によって……御霊を受け」、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とあるように、真の愛は、信仰によって受ける御霊によって与えられます(ガラテヤ3章14節、ローマ5章5節)。これこそエレミヤによって預言された「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ということばの意味であり、その成就です(ヘブル8章10節)。 パウロは、「みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」という申命記のことば(30章14節)を引用し、「信仰のことば」(ローマ10章8節)である福音は、だれの手にも届く身近な現実の中において説かれ、信仰によってだれでも到達することができると教えているのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 37」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.09
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「あなたの心を見守れ(6)信仰と良心」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、1章18~20節 聖書は、「信仰と正しい良心」(18節)は、ともに手を携えていかなければならず、もし「正しい良心を捨て」るなら、「信仰の破船に会」うと教えています(19節)。 一、良心の意味について 聖書は、ユダヤ人はモーセの律法を持っているが、異邦人はモーセの律法を持たなくても生まれつきの律法を持っており、良心は、その証人であると教えています(ローマ2章14、15節)。「律法」は、何が正しく、何が不正であるかを教える「規準」ですが、「良心」は、その律法を土台として、その律法を守ったかどうかの「裁決を下すもの」です。すなわち、その律法を守れば「善」、破れば「悪」と裁決を下すのが良心です。 「律法のないところに違反もありません」が(ローマ4章15節)、「律法」があっても「良心」がなかったら、裁決を下すものがないので、罪責を感じることもなければ、道徳的な責任もありません。それで神は、人間に「律法」と「良心」の二つを与えられました。これが人間と他の動物との根本的な違いです。ですから誰も道徳的な責任を免れることはできず、罪を犯した場合、言い逃れや知らぬ振りをすることはできないのです。 二、良心の任務について 良心は、日本語では「良い心」と書きますが、英語、ラテン語、ギリシャ語は非常に深い意味を持っています。英語で良心のことを「conscience」と言いますが、これは「ともに知る」という意味です。 それでは誰と誰とがともに知るのでしょうか。北森嘉蔵は「私が他の人とともに知る」ということと、「私が神とともに知る」ということの両者が考えられるが、次のような理由で後者であると述べています。 「彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています」(ローマ2章15節)ということばから、良心には、責める(文語訳、口語訳は訴える)「検事」の役割と、弁明する「弁護士」の役割があり、弁護士の役割は自分であり、検事の役割は他の人や神です。しかし検事の役が他の人であるなら、自分と同じ人間ですから、手なずけることができ、真に検事の役を務めることができないので、検事の役は神でなければならない、すなわち「良心」は「私が神とともに知る」ことであると結論づけています。 三、良心の完全について 聖書は様々な良心について教えています。 1.正しい良心(第一テモテ1章5、18、19節、ヘブル13章18節、第一ペテロ3章16、21節)。 2.きよい良心(第一テモテ3章9節、第二テモテ1章3節、ヘブル9章14節)。 3.責められることのない良心(使徒24章16節)。 4.良心を完全にする(ヘブル9章9節)。 5.弱い良心(第一コリント8章7、12節)。 6.邪悪な良心(ヘブル10章22節)。 7.良心までも汚れ(テトス1章15節)。 8.良心が麻痺して(第一テモテ4章2節)。 「正しい良心」や「きよい良心」や「責められるところのない良心」は、神の律法を良心の土台に据え、その律法を守っている良心で、もし破った時は、そのことを責める検事役の神の声に従う良心であり、そのことをなし続けていく時、「完全な良心」となります。 これに対して矛盾する二つ以上の律法を良心の土台に据えるのが「弱い良心」です。 「良心」は、「自分が信じている律法」を守ったかどうかの「裁決を下すもの」ですから、良心の土台である神の律法を信じなかったり、たとえ信じていても、その律法を破った時、そのことを責める検事役の神の声を無視したりするのが「邪悪な良心」や「汚れた良心」であり、どこまでも神の声を無視するなら、「良心が麻痺して」しまうのです。 「私たちは、心に」キリストの贖いの「血の注ぎを受け」る時、「邪悪な良心」が「きよめられ」るのです(ヘブル10章22節)。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 36」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.07
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「あなたの心を見守れ(5)神に従う意志」 甲斐慎一郎 詩篇、40篇7~9節 「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」(8節)。 一、三種類の意志について 人は、「霊とたましいとからだ」という三つの要素から成り立ち、便宜上、霊のいのちとたましいのいのちとからだのいのちとに分けますが、三つのいのちがあるわけではなく、肉体のいのちは、たましいのいのちが支配し、たましいのいのちは、霊のいのちが支配していて、いのちの実体は霊にあります。 そのように意志も、霊の意志とたましいの意志とからだの意志という三つがあるわけではなく、からだの意志は、たましいの意志が支配し、たましいの意志は、霊の意志が支配していて、意志の実体は霊にあります。 しかしアダムが罪を犯し、全人類の霊が死んだ時から、人は神に従う意志を失い、霊の意志とたましいの意志が一致せず、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(ローマ7章19節)とあるように、霊の意志とたましいの意志が食い違ってしまったのです。 からだに関しては、意志とは無関係に起こる条件反射や反射運動というものがありますが、これは、からだを健康に保つ本能の働きです。しかし人類の堕落以後、人は、食欲や性欲を理性や意志で制御することができず、本能のままに行動する罪に陥りました。 このようなことから人類の堕落以後は、霊の意志とたましいの意志とからだの意志が食い違い、対立してしまったのです。 二、三種類の欲求(欲望)について 意志に働きかけて意志を動かすものに欲求(欲望)があります。ある人は、15の「肉の行い」(ガラテヤ5章19~21節)を分類して、最初の3つが「性欲」、次の2つが「礼拝欲」、次の8つが「社交欲」、最後の2つが「飲食欲」であると述べています。 1.からだに関しては、飲食欲や性欲など、自らの生命と、その子孫とを絶やさずに保とうとする「保存欲」です。 2.たましいに関しては、他の人や物と交わり、それを知ろうとする「社交欲」です。 3.霊に関しては、人間よりも偉大な神を崇拝し、礼賛しようとする「礼拝欲」です。 欲求(欲望)は、神によって人間に与えられたもので、これ自体は善でもなければ悪でもなく、中性です。パーカイザーは、これを自動車のエンジンにたとえて、「自動車を動かしはするが、その方向を決定するものではない」と述べています。この欲求は、だれに対して、または何を求めるかという「対象」と、何のために求めるかという「目的」と、どのように求めるかという「方法」の可否によって善にも悪にもなります。そしてこの欲求の表現こそ「求め」であり「渇き」です。 三、神に従う意志について 人間にとって最も大切なことは、神に従う意志を取り戻すことですが、そのためには、次のような3つのことが必要です。 1.神を信じる意志 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(G・C・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。 2.罪を悔い改める意志 神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つことはできません。 3.救いを信じる意志 受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。私たちは、この信仰によってのみ、罪から救われ、心の眼が見えるようになって神を知るだけでなく、神に従うことができるようになるのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 35」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.05
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「あなたの心を見守れ(4)神を喜ぶ感情」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章1~11節 この箇所には「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」(2節)、「患難さえも喜んでいます」(3節)、「神を大いに喜んでいるのです」(11節)と、「喜んでいます」という言葉が3回も記されています。 一、三種類の感情(喜怒哀楽)について シェーラーは、人間の感情には、四種類のものがあると教えています。 1.感覚的な感情……肉体的な刺激によって起こる快感や苦痛の感情です。これは刺激がなくなると感情も消えてしまいます。 2.生命的な感情……からだの内部から湧き起こってくる充実感や倦怠感また緊張感などの感情です。 3.情緒(情動)……一般に喜怒哀楽と呼ばれている感情です。これは激しい感情なので断続的です。 4.情操……情緒よりもいっそう高等で、芸術や宗教などで感じる感情です。これは穏やかな感情なので、持続的です。 四種類の感情を人間を構成している三つの要素、すなわち「霊、たましい(心)、からだ」に当てはめるなら、感覚的な感情と生命的な感情は「肉体的な感情」、情緒(情動)は「精神的な感情」、情操は「霊的な感情」ということができるでしょう。「神を喜ぶ感情」は、言うまでもなく霊的な感情です。 二、三種類の喜びについて 感情の中で最も大切で、代表的なものは喜びです。これには、三種類のものがあります。 1.自然の喜び――これは、良いものが与えられ、良いことがあったならば喜ぶ人間的な喜びです。しかし、これは長続きせず、必ず慣れて飽き、しかも目的を果たすと消えてしまう刹那的、地上的、現世的な喜びです。 2.不自然な喜び――これは、自然の喜びに満足できず、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」(箴言9章17節)とあるように罪悪や恐怖また間違ったものに喜びを見いだす罪深い喜び、常軌を逸した喜び、異常な喜びなど自然に反した喜びです。 3.超自然の喜び――これは、神の栄光を望んで大いに喜び、患難さえも喜び、神を大いに喜ぶ喜び(2、3、11節)、「聖霊による喜び」(14章17節)、罪を赦された喜びなど、神的、天的、永遠的な喜びです。「神を喜ぶ感情」は、この超自然の喜びです。 自然の喜びに飽きた人間は、不自然な喜びを求めて堕落していくか、超自然の喜びを求めて向上していくかのどちらかなのです。 三、神を喜ぶ感情について 喜びは、知識の面からみるならば、好ましく思うことです。感情の面からみるならば、嬉しく感じることです。このために必要なことは、不思議に思って、驚嘆することです。英語で「不思議」のことを「ワンダー」と言いますが、その「ワンダー」に満ちていることが「ワンダフル」、すなわち「すばらしい」ことです。不思議に思って驚嘆することこそ「すばらしい喜び」です。意志の面からみるならば、進んですることです。これは、「歓迎する」、「喜んで……する」という言葉に表されているように、ある物事を意志的に受け入れ、乗り気になってすることです。 私たちは、いったい何を好ましく思い、何を嬉しく感じ、何を心から進んでするでしょうか。超自然の喜び、すなわち神を喜ぶ感情があるかないかは、私たちの信仰と霊性を計るはかりです。 1.この喜びは、私たちの信仰が健全であることを教えるものです。なぜならこの喜びこそ、私たちが神を喜んでいるという証拠であるとともに、私たちを「喜ぶ者といっしょに喜」ぶ(ローマ12章15節)愛の人に変え、喜んで神と人に仕えるようにさせるからです。 2.この喜びは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び」(ヘブル12章2節)とあるように苦しみを忍ばせるものです。 3.この喜びは「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」(ネヘミヤ8章10節、別訳)とあるように私たちに力を与えるものです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 34」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.03
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「あなたの心を見守れ(3)神を知る知識」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、1章9、10節 「神のみこころに関する真の知識に満たされますように……神を知る知識を増し加えられますように」(コロサイ人への手紙1章9、10節)。 「心を見守ること」の第一番目として「神を知る知識」について考えてみましょう。 一、三種類の知識とその関係について 「目がまだ見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(第一コリント2章9節)とあるように、知識には次のような三つがあります。 1.第一は、目で見たり、耳で聞いたりして知る「見聞的知識」です。 2.第二は、目で見たり、耳で聞いたりしたことに基づいて、よく考えることによって知る「思考的知識」です。 3.第三は、前者の二つに基づくか、またはそれらを超越して実際に体験したり、経験したりして知る「体験的知識」です。 1.見聞的知識について 「耳学問」という言葉があります。辞書には「自分で直接学習するのではなく、他人からちょっと聞いて得た雑学的な知識」と書いてありますが、これが「見聞的知識」です。 これは知識の第一段階です。多くの場合、知識は、ここから始まりますが、これは、皮相的かつ浅薄な知識で、これで真相や真理を知ったと思ってはなりません。どこまでも第二段階の「思考的知識」の入り口なのです。 2.思考的知識について 物事の真相は、ただ見たり、聞いたりしただけでは分からず、よく調べたり、深く考えたりすることによって分かります。パウロは、福音のことばを信じたコリントの教会の人たちに、「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら……この福音によって救われるのです」(第一コリント15章2節)と述べていますが、よく考えて真理に到達して得た知識が「思考的知識」です。 3.体験的知識について 主によって目が見えるようになった生まれつきの盲人は、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(ヨハネ9章25節)と言いましたが、実際に経験したことによって明白に知っているのが「体験的知識」で、これこそ、ほんとうに知っているということです。 二、この世の知識と神を知る知識について パウロは、「この世の知恵」と「隠された奥義としての神の知恵」について教えています(第一コリント2章6、7節)。 1.この世の知識について 知識には三種類、また三段階があるということができますが、どちらにしても「この世の知識」は、「この世の知恵」であり、この世のことしか分からず、神と永遠の世界のことを知ることはできません。 2.神を知る知識について 「神を知る知識」は、「隠された奥義としての神の知恵」であり、永遠の世界を知り、神から永遠のいのちが与えられて生きることを知っている知識です。 パウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ローマ10章17節)と教えています。まず神のことばを聞き(見聞的知識)、次に「よく考え」て(第一コリント15章2節)、それが真理であることを知り(思考的知識)、最後にその知った真理を「信仰によって、結びつけ」る(ヘブル4章2節)、すなわち、「信じること」によって、神を知るほんとうの知識(体験的知識)になるのです。 「人(アダム)は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み」(創世記4章1節)とあるように、体験的知識は、結合と一体を意味しています。それは言い換えれば、「人が神を愛するなら、その人は神に知られている」(第一コリント8章3節)とあるように、神を知る知識とは愛であり、神を知るということの最も深い意味は、神を愛し、神と結ばれ、神と一つになることなのです。 東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会のホーム・ページの「説教要約 33」より転載(ホーム・ページの説教要約は、コメントを書くことができないので、順次、転載します)。
2007.06.01
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