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「事の初めと終わり」 甲斐慎一郎 伝道者の書、7章1~9節 聖書は、事の初めや終わりに関して、私たちに何を教えているでしょうか。 一、聖書は、事の初めとともに事の終わりというものがあることを教えています まず「初めと終わり」という言葉が同格に並んでいる聖句から考えてみましょう。 聖書には、イザヤ書に3回(41章4節、44章6節、48章12節)、黙示録に5回(1章8、17節、2章8節、21章6節、22章13節)も、「わたしは初めであり、終わりである」という言葉が記されています。 この言葉は、少なくとも次のような3つのことを私たちに教えています。 1.神は万物の支配者であること 「万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」(黙示録1章8節)。 神こそ初めも終わりも御手の中に治めておられる万物の支配者また絶対的な主権者です。 2.神は万事の完成者であること 「わたしは、終わりの事を初めから告げ……わたしの望む事をすべて成し遂げる」(イザヤ46章10節)。 神こそ終わりの事を初めから告げて、それを成し遂げられる完成者です。 3.神は万人の審判者であること 「わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」(黙示録22章12節)。 神こそ私たちの生涯の初めから終わりに至るまでのしわざをさばかれる審判者です。 二、聖書は、事の初めも大切であるが、事の終わりはさらに重要であることを教えています 次に「初めと終わり」という言葉が比較されている聖句を考えてみましょう。次のような3つの御言葉が、その代表的なものです。◇「事の終わりは、その初めにまさり」(伝道者7章8節)。◇「あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくな る」(ヨブ8章7節)。◇「ヨブをめぐみて、その終わりを初めよりも善くしたまえり」(ヨブ42章12節、文語訳)。 これらの御言葉は、少なくとも次のような3つのことを私たちに教えています。 1.私たちは、事の初めが小さいことや貧弱なことを嘆いたり、恨んだりしてはなりません。大切なのは事の終わりであって、私たちは事の初めが小さいことのために失望したり、自暴自棄になったりしてはなりません。 2.私たちは、事の終わりを急ぐあまり、粗雑になったり、手を抜いたりしてはなりません。大切なのは事の終わりであって、私たちは、終わりに近づくほど慎重にしなければなりません。 3.このようなことから、初めは小さくても、終わりまでに大きくなることが最も大切であることが分かるでしょう。 三、聖書は、事の初めだけでなく、事の終わりをよく見るように教えています 私たちは、次のような3つの聖句から、事の終わりというものをよく見て、学ばなければなりません。 1.「主が彼になさったことの結末を見たのです」(ヤコブ5章11節)。 神のなさることは、今すぐ理解することができなくても、後で分かるようになります。 2.「彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」(ヘブル13章7節)。 私たちが人間や物事の真相や真価を見分ける最善の方法は、結末をよく見ることです。 3.「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(マタイ24章13節)。 私たちは、救いの完成だけでなく、何事に関しても、最も大切なことは、最後まで耐え忍ぶことです。忍耐こそ完成に至る最後の関門です。
2007.09.29
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「無自覚の成長と衰退」 甲斐慎一郎 士師記、16章15~22節 「他国人が彼の力を食い尽くすが、彼はそれに気づかない。しらがが生えても、彼はそれに気づかない」(ホセア7章9節)。 冒頭の言葉は、主がイスラエルについて語られたものですが、士師記に記されているサムソンの生涯から「無自覚の成長と衰退」について学んでみましょう。 一、力が与えられる秘訣 主の使いは、サムソンについて「その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」と言いました(13章5節)。 サムソンは、非常な怪力の持ち主でした。彼にこのような怪力が与えられたのは、イスラエルをペリシテ人の手から救うためです。しかしそのためには、一生の間、神に聖別されたナジル人として、ぶどうの木から生じるものはすべて食べてはならず、頭にかみそりを当ててはならず、死体に近づいてはなりませんでした(民数記6章4~6節、ただしサムソンの場合は、士師としての働きの性質上、3番目の規定については除外しています)。 このようにサムソンは、ナジル人としての立場とイスラエルを救うという使命に生きている間は、自覚するとしないとにかかわらず、怪力が与えられていました。 このナジル人としての立場とイスラエルを救うという使命を私たちに当てはめるなら、「きよめ」と「宣教」になるでしょう。私たちも、きよめられて宣教の使命に生きるなら、御霊の偉大な力が与えられます。そしてさらに恵みの手段と呼ばれている聖書拝読や祈祷、集会出席や奉仕などに励むならば、その与えられた偉大な力は日々増し加わっていくことでしょう。 私たちは、救いと同様に、きよめの体験も自分で自覚して知ることができます。これが聖書の教えです。しかしその後の成長については必ずしも自覚するとは限りません。すなわち知らない間に成長して、後で気づくことがあります。これは恐らく成長していることを絶えず自覚し、意識していたならば高慢になってしまうからなのでしょう。それよりも私たちにとって大切なことは、成長することさえ神にゆだねて、神に栄光を帰し、ただ謙虚に神に仕えていくことです。 二、力が失われる原因 聖書は、サムソンが力を失った時のことについて「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」と記しています(20節)。 サムソンから主が去られて、力が失われるまでの過程を見てみましょう。サムソンの怪力は、外側の偉大な働きをするためには非常に有効でしたが、内側の心の欲望に対しては全く役に立ちませんでした。心の欲望に負けたサムソンは、まず霊的な視力が衰えて見えなくなりました。霊的に見えなくなれば、当然の結果として正しい判断ができなくなります。サムソンは、デリラにすべてを明かしてしまい、主が去られて、ついに力を失ってしまいました。 サムソンは、誘惑に負けて内的な力が衰退しているにもかかわらず、外側の働きは今まで通りにできるという自負心によって内的な力の喪失を顧みなかったので、ついに外側の力の衰退をも招いてしまったのです。 私たちが神から与えられる力は、外側の働きのためだけでなく、内側の誘惑に勝つためのものでもあります。私たちは、不健全でいかがわしい雑誌や新聞やテレビを見たり聞いたりして誘惑に負けても、すぐに神に罰せられることはありませんし、また恵みの手段と呼ばれている聖書拝読や祈祷、集会出席や奉仕などをなおざりにしても、いつもの通りに外側の働きができると言うかも知れません。 しかし私たちは、自分で気づかないうちに力が失われていきます。このことは、まず霊的な真理に興味を失って世のものがよく見え、次に判断が世の人と同じようになり、遅かれ早かれ、外側の力も喪失してしまうのです。 私たちは、外側の働きをすることができるかどうかを成長しているかどうかを判断する目印にするのではなく、どんな時にも主を仰ぎ、御霊に満たされて歩みましょう。
2007.09.27
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「きよめを求めなさい(4) 私のきよめのあかし」 甲斐慎一郎 第四回目は、「私のきよめのあかし」です。 四、 私のきよめのあかし 1.私のきよめの体験 私が神学院在学中に愛用した聖書の裏表紙には、新生日、受洗日、きよめの日、そして召命の日が記されています。新生日は、1961年3月19日、受洗日は同年4月23日、きよめの日は翌年の1月3日、召命の日は同年12月15日です。主を信じて罪を赦された私は、喜んで神に仕えていましたが、心の中の罪との戦いに悩んでいました。しかし翌年の新年聖会に出席した時、恵みの座が開かれ、そこで神にすべてをささげ、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1章7節)という御言葉を信じました。これが「私のきよめの体験」です。その後、生涯を神にささげるという直接献身へと導かれ、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい」(ヨハネ12章26節)という召命の御言葉が与えられ、4年後に神学校に入学しました。 2.私のきよめの歩み 私は、罪をきよめられたと信じたものの、ひとりのキリスト者として、いやひとりの人間としても極めて未熟な者で、いわゆる「青二才」でした。このような者が「きよめ」にふさわしく歩むためには、あらゆる面で神のお取扱いを受けなければなりませんでした。どのような神のお取扱いを受けたかを述べるなら、4つにまとめることができます。(1)人の評価を必要以上に気にすること。(2)他の人の過ちや失敗を赦せないこと。(3)自分の知識や能力や経験に頼ること。(4)十字架を避けて、楽な道を選ぶこと。 私が「きよめの体験」をしてから気がついたことは、自分の姿が、ほんの一部分しか見えていなかったことです。自分は、とても未熟で、至らない者であると思っていましたが、他の人はそれ以上に私のことを低く評価していたのです。自分では一生懸命に神に仕え、それなりに奉仕もできると思っていましたが、他の人から見れば、そうではないことが分かり、大きな衝撃を受けました。 このことを素直に認め、神の前に砕かれませんと、自分のことを低く評価する人を赦せないことになります。 また自分では無知で、無力で、未経験であると思っていても、そのことを他の人に言われると、それを素直に認めようとしないかたくなな心を発見しました。キリストを「離れては」私は「何もすることができない」(ヨハネ15章5節)にもかかわらず、あたかも何かできるかのように錯覚していたのです。それは神のみに信頼せず、自分の知識と能力と経験に頼っていることでもありました。 そして苦しいことに直面すると、そこから逃避し、楽な道を選びました。それは十字架を避けて栄光に至るという誘惑でした。 このような4つの誘惑を受ける度に、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2章20節)という御言葉を信じ、主を仰いで新しい歩みをして行きました。 3.私のきよめの整理 (1)きよめられたことは「内なる反省」では分からず、「内なる御霊の証し」によって分かります。「内なる反省」では、きよめられた後にも残る「人間的な要素(すなわち無知や過失や弱点や誘惑を受けること)」があるために、それにもすべて合格しなければ、きよめられたと確信することができないからです。御霊の証しこそ、きよめられたことの証拠です(ローマ8章16節、使徒15章9節)。 (2)現在の時点で神から示されたすべての罪を悔い改め、神にすべてをささげたなら、見るところがどのようであれ、罪がきよめられたと信じて歩み出すことです。そうすれば、きよめられます。もし将来より高い光が与えられて、今まで罪と思わなかったことが罪であると示されたなら、その時点でその罪を悔い改め、すべてをささげて信じることです。このように、より高い光に従って光の中を歩むなら、きよめられ続けていくのです(第一ヨハネ1章7節)。
2007.09.25
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「きよめを求めなさい(3) きよめられるための条件」 甲斐慎一郎 使徒の働き、15章9節 第三回目は、「きよめられるための条件」です。 三、きよめられるための条件 罪の赦し(救い)を受けるためには、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰(使徒20章21節)が必要なように、罪からきよめられるためには、神に対する全き献身と主イエスに対する信仰(ローマ6章19節、使徒15章9節)が必要です。「罪の赦し」も「罪のきよめ」も直接的な条件は「信仰」ですが、その信仰がほんとうのものとなるためには悔い改めや全き献身が必要です。 1.きよめの直接的な条件(1)神が、それを聖書の中に約束しておられると信じなさい。(2)神は、その約束されたことをなさることができると信じなさい。(3)神は、それを今なさることができるだけでなく、なさることが みこころであると信じなさい。(4)神は、今それをなしてくださると信じなさい。(J・A・ウッド「全き愛」より) 2.きよめられたことを知ること 罪がきよめられたことは、「内なる反省」では決してわからず、「内なる御霊の証し」によって分かります。「内なる反省」では、きよめられた後にも残る様々な「人間的な要素」があるために、それにもすべて合格しなければ、きよめられたと確信し、あかしすることはできないからです。ですから「内なる御霊のあかし」があるなら、「私は、きよめられました」とあかししてもよいのです。 3.きよめられた後にも残る人間的な要素 「きよめ」は、「キリスト者の完全」とも呼ばれますが、これは次に述べるような完全ではありません。 ◇「神の完全」ではありません。◇「天使の完全」ではありません。◇「堕落前のアダムの完全」ではありません。◇「栄光の完全」ではありません。 (1)知識的な完全を期待することはできません。 知識が不完全ですと、判断において過ちを犯します。 (2)過失から免除されないことではありません。 救いと実質的に関係のない事柄については、きよめられたキリスト者といえども、しばしば過失に陥ります。たとえば、行われたことを行われていなかったかのように錯覚したり理解したりすること、行ったと思ったことがしていなかったり、行っていなかったと思っていたことが実はしてあったりするような過ちはあり得るのです。 (3)弱点(人間的な弱さ)を持つという意味で完全ではありません。 聖書が教えている弱点は、道徳的な性質を帯びたものでなく、道徳と関係のない、内的、外的な不完全さです(肉体的なものだけではありません)。知識の足りなさや判断力の過ちからくる場合は弱点です。また、生まれつき物分かりが遅い、思想が一貫しない、共鳴性を欠いている、その結果として、非常に弁が遅い、ことばの選び方が不正確である、ことばの使い方が下手である、発音がきたない、態度が粗雑である、身ごなしがなっていないなど、です。(蔦田二雄講述「エプワースの流れ」144頁、日本ウェスレー出版協会、1963年)。 (4)誘惑から免れ得ないという完全ではありません。 「誘惑は最初に知性に訴えられます。瞬間のひらめきをもって、思いに訴えられます。これは誘惑の最初の段階です。それから誘惑は感覚のほうに移されます。そこで誘惑は、官能、肉欲、情欲、情感に働きかけるのです。これらが満足を得たいと刺激される危険があります。今や誘惑の危険な段階に来ているのですが、必ずしも罪責を生じるわけではありません。心が罪から全くきよめられていない人の場合は、誘惑は多かれ少なかれ内面の共鳴を得ますが、その悪の暗示を大事にし黙認しない限り、罪責を招くには至りません。今度は意志が挑戦を受ける番です。誘惑者が成功を収めるかどうかは、全く意志の決断にかかっているのです。もし、意志が誘惑に対して『ノー』と言えば、誘惑者は失敗し敗北します。そして、たましいは圧倒的な勝利者になるのです」(トマス・クック著「新約のきよめ」22、23頁、イムマヌエル綜合伝道団、1988年)。
2007.09.23
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「きよめを求めなさい(2) きよめられることの意義」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~11節 第二回目は、「きよめられることの意義」です。 二、きよめられることの意義 それでは、罪がきよめられるとは、どのようなことなのでしょうか。 1.私たちに聖霊を与え、罪をきよめるために十字架にかかってくださったキリスト イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天は、私たちに聖霊をお注ぎになるため「御父から約束された聖霊を受け」る準備であり、条件でした(2章33節)。イエス・キリストは、この箇所において3回も聖霊を与えるという約束をしておられます(4、5、8節)。しかし弟子たちは、地上の王国を夢みて、イスラエルの国の再興のことを質問しています(6節)。その時、イエスは、今すぐ知らなくてもよいことと、緊急に知らなければならないことを教えられました。後者は、聖霊が与えられることです。 イエス・キリストは、「罪のきよめを成し遂げ」られたので、天に上って「すぐれて高い所の大能者(神)の右の座に着かれ」たと聖書は教えています(ヘブル1章3節)。言い換えればイエスの昇天は、贖いのわざの完成です。そして聖霊の降臨は、その結果です。イエスが昇天されなかったなら、聖霊の降臨はなかったのです(ヨハネ16章7節)。 弟子たちは、目に見える頼みの綱であった主が取り去られたので、約束の聖霊を待ち望む以外になすすべがなかったのですが、これは私たちにとっても同じです。だれが一番偉いのかと争っていた弟子たちが、心を一つにして祈りに専念することができたのは、聖霊が必要であると深く自覚していたからです。 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた時、聖霊が弟子たちの上に臨まれました(1、4節)。この時、ペテロがエルサレム会議において述べているように、「神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、……彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです」(15章8、9節)。 聖書は、「御霊に属する人」と「肉に属する人」について教えています(第一コリント3章1~3節)。「御霊に属する人」とは、きよめられた人、「肉に属する人」とは、ねたみや争いがある、きよめられていない人です。 2.キリストの救いには、罪の赦しと罪のきよめがあります。 ヨハネの手紙、第一の1章には、二種類のことが記されています。(1)二種類の罪――罪の行為と罪の性質「罪を犯し」(10節)――罪の行為「罪はない」(8節)――罪の性質(2)二種類の条件――悔い改めと全き献身「罪を言い表す」(9節)――悔い改め「光の中を歩」む(7節)――全き献身(3)二種類の約束――罪の赦しと罪のきよめ「その罪を赦し」(9節)――罪の赦し「罪から……きよめ」(7節)――罪のきよめ それでは罪をきよめられた人とは、どのような人なのでしょうか。 「きよめられた人とは『キリストの心を心と』し(ビリピ2章5節、文語訳)、『キリストが歩まれたように歩』む人(第一ヨハネ2章6節)、『手がきよく、心がきよらかな者』(詩篇24篇4節)、『いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ』られた人(第二コリント7章1節)、その中につまずきがなく、罪を犯さない人を意味する。これをもう少し具体的に述べるなら、私たちは『きよめられた人』という聖書的表現は、『あなたがたは、すべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ』(エゼキエル36章25節)という神の誠実な言葉がそのうちに成就された人を言うと理解する。従って神が『霊、たましい、からだ』を『全く聖なるもの』(第一テサロニケ5章23節)とされた人とは『神が光の中におられるように……光の中を歩』んでいる人、『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ』た人であると理解する(第一ヨハネ1章7節)」(ジョン・ウェスレー著『キリスト者の完全』43、44頁 、日本ウェスレー出版協会、1963年)。
2007.09.21
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「きよめを求めなさい(1) きよめられることの必要性」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章1~14節 「聖(きよ)められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」(14節)。 冒頭の聖句から「きよめを求めること」について以下のような4つに分けて学んでましょう。 1.きよめを求めなさい(1) きよめられることの必要性2.きよめを求めなさい(2) きよめられることの意義3.きよめを求めなさい(3) きよめられるための条件4.きよめを求めなさい(4) 私のきよめのあかし 第一回目は、「きよめられることの必要性」です。 一、きよめられることの必要性 聖書は、信仰生活というものを競走にたとえています(第一コリント9章24~26節)。このヘブル人への手紙の12章もその一つです。競走ですから、出発点(スタート)があり、競走路(コース)があり、決勝点(ゴール)があり、規則(ルール)があります。 信仰生活の出発点は救いです。競走路は、私たちの家庭生活、学校生活、社会生活、教会生活、伝道や奉仕の生活です。決勝点は天の御国であり、栄化です(ピリピ3章14、20、21節)。規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません(第二テモテ2章5節)。信仰生活の規則は何でしょうか。この12章1、2節に4つの規則が記されています。この4つの規則(ルール)の中に、きよめられなければならないことが、明確の述べられています。 1.いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てる(1節) 走る時に必要なことは、身軽になることです。私たちは、思い煩いという重荷を捨てなければなりません。重荷の中で最大のものは罪です。まつわりつく罪とは、しつこくからみついて、なかなかとれない罪の意味で、罪の性質を表しています。罪がきよめられなければ、からまりついて、身動きがとれなくなり、身軽に走ることはできません。 2.忍耐をもって(1節) ヘブル人への手紙の10章35~39節には、信仰と忍耐とがほとんど同じ意味で用いられています。真の信仰は、必ず忍耐を伴うもので、信仰がなければ、忍耐することはできません。どんなに苦しくても「もうだめだと言って、さじを投げないのが信仰であり、忍耐です。そしてこの忍耐は、懲らしめのためであり(7節)、懲らしめは聖さにあずかるためにあります(10節)。また「罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とあります(4節)。血を流すまでというのは、たとえ死んでもとか、命がけでということです。これもきよめられなければ、不可能です。 3.私たちの前に置かれている競走(1節) 私たちは、右と左に白線のある自分の競走路を走らなければなりません。ペテロは、ヨハネがイエスのあとについて来るのを見た時、「主よ。この人はどうですか」と言いました。するとイエスは、ペテロに、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(ヨハネ21章22節)。私たちは、きよめられなければ、他の人の競走路に入ったり、他の人を自分の競走路に引っ張り込むことになり、失格者になってしまいます。私たちは、隣人と正しい関係を保ちながら、摂理の細道を走ることが必要なのです。 4.イエスを仰ぎ見ること(2節) この競走は、障害物競走です。困難の山、苦難のトンネル、悲哀の谷、誘惑という迷路があります。この障害物競走を完走するための秘訣は、次のような三つのことです。 (1)イエスから目を離さないことです。 私たちは、イエスから目を離してはなりません。なぜならイエスこそ信仰の創始者であり、完成者であるからです(2節)。 (2)イエスのことを深く考えることです。 しかし何も考えずに走るなら、イエスから目を離してしまうので、ご自分の前に置かれた喜びにゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたすばらしいイエスのことを深く考えなければなりません(2、3節)。 (3)イエスに期待することです。 私たちが障害物競走を走らなければならないのは、主が私たちを愛する子として扱い、私たちを懲らしめ、訓練して、私たちの益のため、また私たちをご自分の聖さにあずからせるため、そして平安な義の実を結ばせるためであることを知って(7、10、11節)、イエスに期待することです。 この4つの規則(ルール)のすべてに、きよめが必要であることがわかります。
2007.09.19
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「霊的で道にかなった礼拝」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、12章1節 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な(道にかなった)礼拝です」(1節)。 キリスト者は、毎週、日曜日に神を礼拝する時を持っていますが、神に喜ばれる真の礼拝とは、どのような礼拝なのでしょうか。ローマ人への手紙の全体から、神に喜ばれる真の礼拝について学んでみましょう。 一、ローマ人への手紙の内容の分類 大きく二つに分けることができます。 1.教理的な部分(1~11章) (1)神にそむいて罪を犯した人間(1章18節~3章20節)。(2)信仰によって罪が赦された人間(3章21節~5章21節)。(3)信仰によって罪がきよめられた人間(6~8章)。(4)イスラエル人の奥義(9~11章) 2.実践的な部分(12~16章)(1)献身と神に対する義務(12章1、2節)。(2)献身と自分に対する義務(12章3-21節)。(3)献身と世の人に対する義務(13章)。(4)献身と信仰者に対する義務(14章1節~15章13節)。(実践的な部分はパゼット・ウィルクスによる分類です)。 二、実践的なことについて 実践的なことの中で(1)は、第三番目の実践的なことを行う秘訣のところで述べ、(2)から(4)は、次のようなことを教えています。 (2)の自分に対する義務は、思うべき限度を越えて思い上がらない謙虚さと心から互いに愛し合う偽りのない愛と自分で復讐せず、神の怒りに任せる信頼の3つにまとめることができます。 (3)の世の人に対する義務は、上に立つ権威に従い、国民としての義務を果たすことであり、その根底になければならない最も大切なものは隣人を愛する愛です。 (4)の信仰者に対する義務は、信仰の弱い人を受け入れ、力のある者は力のない人たちの弱さをにない、人をさばかず、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めることです。 三、実践的なことを行う秘訣 この12章3節から15章13節まで教えている実践的なことは、私たちにとって最も必要で、大切なことであるだけでなく、神が私たちに求めておられることでもあります。 しかし私たちは、どうすれば、このようなことを行うことができるでしょうか。その秘訣を教えているのが冒頭に記したみことばです。私たちのからだ、すなわち、その目と耳と口を、そして手と足を、いやすべてのものを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげること(献身)です。 しかしこのような献身は、生まれながらの人間には到底不可能なことです。なぜなら私たちは、「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったので」(コロサイ1章21節)、神に受け入れられず、聖い者ではなく汚れており、生きた者ではなく死んでいるからです(エペソ2章1節)。 それではどうすれば、このような献身をすることができるでしょうか。その秘訣こそ、この手紙の1章から8章までの教理的な部分で教えている「罪の自覚と悔い改め」と「罪の赦し」と「罪のきよめ」です。 私たちは、神の前で罪人であることを認めて心から悔い改め、その罪のために死んでくださったキリストの十字架を信じて罪が赦されるとともに、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられ」て(6章6節)、罪がきよめられる時、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として自分のからだを神にささげることができます。それこそ、霊的で道にかなった礼拝です。そして、このような礼拝をささげる時、12章3節から15章13節に記されている実践的なことを行うことができるのです。
2007.09.17
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「きよめの標準」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、5章16~18節 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(16~18節)。 メソジストの創設者のジョン・ウェスレーは、この聖句を注釈して「これがキリスト者の完全(すなわちきよめ)である」と述べています(ウェスレー著作集2、「新約聖書註解 下」275頁、新教出版社、1979年)。 この3つの聖句に共通しているのは、「すべて」ということです。きよめられた人は、すべての時に喜び、すべての時に祈り、すべての事を感謝するのです。ですから、きよめられていない人は、ある時は喜んでも、ほかの時は喜べません。ある時は祈っても、ほかの時は祈れません。ある事は感謝しても、ほかの事は感謝できません。すなわち百パーセントではなく、これを妨げているものが心の中の罪、すなわち罪性です。 一、喜びを妨げる不信仰 この喜びは、世の楽しみ、世の宝、世の名誉から来る喜びでありません。これらは決して長続きしません。それは、「義と平和と聖霊による喜び」です(ローマ14章17節)。この喜びは、変化する世のものに根拠を置かず、不動の神を土台としているので、逆境や苦難に左右されません。 しかし実際は、不信仰のために常に喜ぶことはできません。喜びというのは、因果関係があり、喜ぶ原因があってこそ、結果として喜ぶのであり、喜ぶ原因がないのに、喜ぶことはできず、自分の思い通りにならないものです。きよめられない前は、結果である喜びにばかり目を向けて、原因である信仰を見失ってしまい、いつも喜ぶことができないことを悩みます。しかし不信仰を示され、ただ神を喜ぶことに目を向け、全く神に信頼するなら、きよめられて、心に絶えざる聖霊による喜びが与えられるのです。 二、祈りを妨げる高慢 ここでいう祈りとは、一日中、ほかのことをせず、ひざまずいて祈ることではありません。絶えず祈ることができる心の状態、または祈りの姿勢のことです。言い換えれば、絶えず神に向かい、神に期待している心のことです。私たちは、いつも神に期待し、神から供給を受けなければ、すなわち、神を「離れて」しまうなら「何もすることができない」のです(ヨハネ15章5節)。 しかし実際は、高慢のために何かできるかのように思い、神に祈らず、神に期待しません。その結果、散々、失敗し、自分の無力さをいやというほど示されます。そこで祈って恵みを受けますが、するとまた高ぶり、この繰り返しがきよめられていない状態です。この高慢を示され、全くむなしくなり、神に自分を明け渡して、神の御手の中に陥る時、きよめられて、自分に何かを期待することをやめて、ただ神にのみ期待するのです。 「私達が神の愛以外の対象を持たず、神を喜ばせようとする願いだけを持っている時には、神について考えたり、神に対して語ることも、あるいは神のために行動したり、神のために苦しむことも、すべては祈りである」(ジョン・ウェスレー著「キリスト者の完全」173頁、日本ウェスレー出版協会、1963年)。 三、感謝を妨げる自我 この感謝は、自分の思い通りに事が運ぶことによる感謝ではありません。もしそうならば、決してすべての事を感謝することはできないでしょう。この自分の思い通りにならないことによって、感謝せず、神と人につぶやく心こそ罪深い自我(エゴ)です。 私たちは、この自我を全く明け渡し、砕かれて、神に全幅の信頼を寄せる時、きよめられて、自分の思い通りに事が運ばなくてもよいのだ、いや、ただ神の思うようになればよいのだ、すなわち「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と言うことができるようになります(ルカ23章42節)。言い換えれば、私たちがきよめられて歩むなら、すべての事は神のみこころのとおりになるので、すべての事を感謝することができるようになるのです。
2007.09.15
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「神による歩み」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、9章51~56節 「イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか』しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた」(53~55節)。 冒頭のみことばの中に人の歩みにとって大切なものが三つ記されています。それは「向かう」と「進む」と「戒める」です。これを自動車の部品にたとえると、次のようになるのではないでしょうか。1.向かう――人生の方向(ハンドル)2.進む――人生の動力(エンジン)3.戒める――人生の自制(ブレーキ) 一、正しい人生のハンドル――神の道 イエスがエルサレムに向かうことは、神のみこころに添った正しい道でしたが、私たちにとって神のみこころに添った正しい道とは、どこでしょうか。 人間というものは、目隠しをすると、まっすぐに歩こうと思っても、必ず曲がってしまうものです。そのように人生の歩みも、ただ自分で正しいと思い込んでいる歩みは、目隠しをして歩くようなもので、決して正しく歩むことはできません。聖書は、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(箴言14章12節)と教えています。 私たちは、まっすぐに歩くためには目を開けて、自分以外のもの、それも動いていないものをしっかり見て、それに添って行かなければなりません。そのように人生の歩みも、正しく歩むためには、激動し、変動する世のものではなく、不動の神と不変の真理である聖書に目をとめて、それに添って行かなければ不可能です。これこそ正しい神の道です。 二、正しい人生のエンジン――イエスの愛 人は、様々なものを人生の動力にして歩んでいます。多くの場合、それは欲望や願望、情熱や熱心、また闘志や気力です。 火というものは、人間が制御することができなくなれば、人間を焼き滅ぼしてしまう恐ろしいものになります。 これらの人間が生まれながら持っている動力は、質の悪いエンジンのようなものです。すなわち欲望や願望は、過熱しやすく、人を欲の奴隷として身を滅ぼさせたり、情熱や熱心は、変質しやすく、憎悪や復讐に変わったり、闘志や気力は、火つきが悪かったり、消えたりしやすいというように、そのままでは使い物になりません。 イエスの動力は、人間的な欲望や願望ではなく神の愛です。私たちは、十字架によって現された贖いの愛を受け入れ、それを動力とするとともに、私たちの人間的な欲望や情熱もイエスの愛によって浄化されて、質の良いエンジンになることが必要です。 三、正しい人生のブレーキ――御霊の自制 エンジンは大切であり、エンジンがなければ動くことができません。しかしエンジンだけでブレーキがなければ、暴走し、果ては衝突してしまうでしょう。 多くの人々の心のブレーキは、規則や法律、また自らの体面や面子です。体面や面子というのは、結局、人の目ですから、これらは外側から人を縛るものです。走っている自動車を外から押さえても止まらないように、人生のブレーキも外側から押さえるのでは、効果がありません。 人生の真のブレーキは、強力な内側からのものでなければなりません。それは、御霊による自制です(ガラテヤ5章23節)。 罪人は、神、そしてある特定の人を敵として歩んでいますが、キリスト者の真の敵は悪魔です。しかし私たちが悪魔に負けるのは、自分に負けるからではないでしょうか。自分を制する人こそ勇者であり、悪魔にも負けない人です(箴言16章32節、25章28節)。しかし私たちは、自分の力で自分を制するなら、うぬぼれて、また自分に負けてしまうので、御霊の自制でなければならないのです。 私たちの歩みには、人生の方向と人生の動力と人生の自制の3つが必要なのです。
2007.09.13
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「前進の秘訣である十字架」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、13章31~35節 「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」(33節)。 これは、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています」(31節)と言った時、イエスがパリサイ人に言われた言葉です。イエスは、だれが、どのような方法で十字架への道を阻もうとしても、十字架につけられるためにエルサレムに向かわれる決意は少しも変わりませんでした。このみことばから私たちが前進するために十字架はどのような働きをするのかということを考えてみましょう。 一、前進を妨げる過去の問題の解決――十字架の愛に生きる 私たちの前進を妨げる第一のものは、忘れようと思ってもどうしても忘れることができない過去の罪や失敗また忌まわしい出来事です。この過去の問題は、何か事ある度に思い出されるため、私たちは、自己憐憫に陥ったり、過去の悪いことのゆえに自分を甘やかしたりして前進が妨げられるのです。 私たちは前進するために過去の悪いことを一切断ち切らなければなりません。パウロが前進するために「うしろのものを忘れ」(ピリピ3章13節)と言った通りです。 過去の悪いことを一切葬り去り、忘れさせてくれるものこそ十字架であり、それは、神の計り知れない愛の現れです。このように過去の悪いことを一切葬り去るために十字架の愛に生きることこそ、前進していくための第一の秘訣です。 二、前進を妨げる現在の問題の解決――十字架の力に生きる 私たちの前進を妨げる第二のものは、私たちを右や左にそらせようとする誘惑です。イエスは、エルサレムに行かずに、ほかの所に行くように誘惑されましたが(31節)、きっぱりと拒絶されました(33節)。 誘惑には次のような3つのものがあります。 1.第一は、手段や方法とともに目的や動機まで間違っているものです。これは誰にでも分かる最も初歩の誘惑です。 2.第二は、目的や動機は正しくても手段や方法が間違っているものです。これは、いわゆる「目的を得るためには手段を選ばない」ことであり、私たちが陥りやすい誘惑です。 3.第三は、手段や方法は正しくても目的や動機が間違っているものです。これは、アブラハムは妻のサラを妹と言いましたが、彼は、「誤った印象を与えることを目的として、真実を語る」という動機をうそをついた(F・B・マイアー著「信仰の高嶺めざして」227頁、いのちのことば社、1967年)ように、人の目には非難されないように正しく見せかけながら、密かに自らの不純な欲望を満たすことで、これも私たちが陥りやすい誘惑です。 私たちは、前進するために現在において私たちを右や左にそらせようとする誘惑に勝たなければなりません。 現在の誘惑を退け、罪に打ち勝つ力を与えるものこそ十字架です。このように現在の誘惑を退けるために十字架の力に生きることこそ、前進していくための第二の秘訣です。 三、前進を妨げる将来の問題の解決――十字架の愛と力に生きる 私たちの前進を妨げる第三のものは、将来に対して何の使命もヴィジョンも持たないために、過去の悪いことにとらわれて自己憐憫に陥ったり、現在のしていることで自己満足したり、小成に安んじたりすることです。 私たちは、前進するために将来において果たすべき使命と実現すべきヴイジョンを持たなければなりません。パウロは「私は、この天からの啓示にそむかず」と言って、異邦人にまで十字架の福音を宣べ伝え、その使命を果たしました(使徒26章19、20節)。 将来における使命やヴィジョンが何であれ、その使命を果たし、ヴィジョンを実現するための原動力は十字架の愛と力です。このように将来における使命を果たし、ヴィジョンを実現するために十字架の愛と力に生きることこそ、前進していくための第三の秘訣です。
2007.09.11
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「初めの愛から離れないようにしなさい」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、2章1~7節 諺に「始めが大事」、「始めに二度なし」、「初めよければ終わりよし」、「始めたことは半ばできたに等しい」という言葉がありますが、聖書も、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで……悔い改めて、初めの行いをしなさい」と、初めの愛の大切さを教えています(4、5節)。 一、悪魔の攻撃の目標 私たちは、悪魔の攻撃が長くて執拗であり、猛烈に激しく、非常に巧妙であることをどれだけ知っているでしょうか。悪魔は、何を誘惑し、どこを攻撃して来るでしょうか。枝葉のことではなく、最も大切で根本的なことを攻撃してくることは言うまでもありません。悪魔は、私たちが敗北したなら、致命的な傷を受けるところを攻撃して来るのです。 それでは、キリスト者の最も大切で根本的なものとは何でしょうか。聖書は「一番すぐれているのは愛です」と教えています(第一コリント13章13節)。もしこの愛がなければ、言葉においては、騒々しいだけでなく、たとい預言の賜物を持ち、あらゆる奥義と知識とに通じ、完全な信仰を持っていても、何の値うちもなく、どんなに大きな犠牲を払った行為も、何の役にも立ちません(同13章1~3節)。ジョン・ウェスレーも「宗教において愛より高いものはない。結局、宗教は愛以外の何物でもない」と述べています。 悪魔は、私たちにとって最も大切な愛、しかもその愛の根本である「初めの愛」を攻撃して来ます。しかし「初めの愛」とは何でしょうか。それは、神とキリストと聖霊によって与えられた最初の愛、その愛に応えて神を第一とする愛です。悪魔は、この初めの愛を攻撃して来るので、もし私たちが敗北するなら、致命的な傷を受けるのです。私たちは「罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがあ」るでしょうか(ヘブル12章4節)。 二、神の求めておられること 悪魔は、キリスト者よりも巧妙であり、私たちにとって最も大切で根本的なものを攻撃して来ます。しかし神は、悪魔よりはるかに賢いお方であり、私たちにとって最も大切で根本的なことを求められるお方です。 神は、エペソの教会の人たちの「行いと……労苦と忍耐を知ってい」ただけでなく「悪い者たち……の偽りを見抜いたことも知って」おられました。また主の「名のために耐え忍び、疲れたことがなかった」こともよくご存じでした(2、3節)。しかし神は、私たちが初めの愛から離れるなら、何もかも失ってしまうことを知っておられます。 それで神は「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば……あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう(世の光としての使命を果たすことができないという意味)」と言われるのです(5節)。 三、キリスト者として最も大切なこと キリスト者が一生の間、忘れてはならないことがあります。それは「初めの愛から離れない」ことです。私たちが最初に「これから神を信じていきます」と言った信仰、「これから神に従っていきます」と言った服従、そして「これから神にすべてをささげていきます」と言った献身こそ一生の間忠実に果たさなければならないものです。「初めの愛」とは、あの最初の信仰の約束、あの最初の服従の約束、あの最初の献身の約束です。この初めの愛を持もち続けていく時にのみ、神の豊かな恵みが増し加わり、成長していくのです。 もし私たちが途中で苦しくなったから、都合が悪くなったから、こんなはずではなかったからと言って、初めの愛から離れるなら、約束を破った不忠実な者として、神から刑罰を受けなければならないのです(5節)。 しかし「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」(ヘブル6章10節)。
2007.09.09
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「アブラハムに学ぶ真の信仰」 甲斐慎一郎 創世記、12章1~9節 パウロは、「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」と述べていますが(ガラテヤ3章9節)。私たちにとって最も大切な信仰について信仰の人アブラハムから学んでみましょう。 一、神の声や神のことばを聞いて信じることが信仰の第一段階です(使徒7章2~4節、創世記12章1~4節) 「アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れ」ました(使徒7章2節)。これはアブラハムに対する最初の召命です。しかしアブラハムは、ウルを出たものの父テラヘの情にほだされたのでしょうか、カランに住みついてしまい、父と死別しました(11章32節)。 この12章1~3節には、アブラハムに対する2回目の召命が記されています。アブラハムは、最初の召命には父への情に流されて、従い通せませんでしたが、2回目の召命には、信仰によって「主がお告げになったとおりに出かけた」のです(4節)。 ある人々は、「鰯の頭も信心から」という諺のように何を信じるかということよりも、堅く信じて疑わない心、すなわち信心が大切であると言います。しかし聖書は、信心よりも何を信じるかという信仰の対象が大切であると教えています。アブラハムは、ウルにおいてもカランにおいても神の召命の声を聞いて出かけたのです。 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10章17節)とあるように、神のことばを聞いて信じることが信仰の第一段階です。無念無想で、神のことばを聞こうとしなければ、真の信仰を持つことはできません。 二、神の声や神のことばを聞いて偶像を離れることが信仰の第二段階です(使徒7章3節、創世記12章1節) アブラハムは、ウルにおいてもカランにおいても、「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け」(使徒7章3節、創世記12章1節)という神の声を聞きました。アブラハムは、この神のことばを信じて、偶像の町ウルを離れ、偶像を信じる親族を離れて出かけたのです。 アブラハムの故郷であるウルは、偶像の町です。ある人々は、金銭や名誉や快楽を偶像としています。パウロは、「むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と記し(コロサイ3章5節)、イエスは、「あなたがたは、神にも仕え、また富(偶像の神マモン)にも仕えるということはできません」と言われました(マタイ6章24節)。 神のことばを信じて偶像を離れることが信仰の第二段階です。偶像から離れようとしなければ、真の信仰を持つことはできません。 三、神の声や神のことばを聞いて、無から有を生じる創造を信じることが信仰の第三段階です(創世記15章1~6節) アブラハムは、神の召命を受け、生まれ故郷を出て、長い間、カナンの地に住んでいました。その間、家畜と銀と金とに非常に富み、多くのしもべたちを所有するようになりましたが、まだ子どもがなく、足の踏み場となるだけの地も与えられず、すべての民族の祝福の基となっていませんでした(15章2節)。 神は、アブラハムを外に連れ出し、彼に無数の天の星を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と仰せられました。「彼は主を信じ……主はそれを彼の義と認められ」ました(15章5、6節)。アブラハムは、「無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じたのです(ローマ4章17節)。 人間は、材料に手を加える「作る(造る)こと」しかできませんが、神は、何の材料もなく無から有を生じる「創造すること」がおできになります(創世記1章)。現在は何もなくても、無から有を生じさせることができる神とその約束のことばを信じることが信仰の第三段階です。神のみがおできになる無から有を生じる「創造」を信じなければ、真の信仰を持つことはできないのです。
2007.09.07
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「神との交わり」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、1章1~10節 このヨハネの手紙第一の1章には、「交わり」という言葉が5回記されています(3、6、7節)。この「交わり」という言葉からこの1章を学んでみましょう。 一、神との交わりの内容 神との交わりとは、どのようなものでしょうか。「交わり」という言葉のギリシャ語は、「コイノーニア」と言い、「分有」とか「分担」、また「共同」とか「互いにパートナーとなること」という意味を持っています。 「神との交わり」というのは、確かに神と交際すること、すなわち神への祈りや神との語らいを意味しています。しかしそれだけでなく、もっと深い意味と内容を持っています。それは原語であるギリシャ語から分かるように、神と「あるもの」を分有したり、分担したり、また共有したりすることです。諺に「朱に交われば赤くなる」という言葉がありますが、人は、神と交わるなら、神の持っておられるものを分有したり、分担したり、共有したりするのではないでしょうか。 それでは、この「あるもの」とは何でしょうか。新約聖書には、3つのことが記されています。 1.神のご性質にあずかる者(コイノーノス)(第二ペテロ1章4節) 神のご性質とは、神の聖、愛、義、憐れみ、真実等です。 2.キリストの苦しみにあずかる(コイノーニア)(ピリピ3章10節) キリストの苦しみにあずかるとは、キリストの生涯の特徴である十字架の生涯や自己否定の生涯を私たちも送り、その苦しみをともに受けることです。これは言い換えれば愛の生涯にほかならず、キリストが歩まれたように私たちも歩むことを意味しています。 3.やがて現われる栄光にあずかる者(コイノーノス)(第一ペテロ5章1節) やがて現れる栄光とは、天の御国の栄光のことであり、それにあずかるとは、「キリストとの共同相続人」(ローマ8章17節)になるということです。 以上のことから「神との交わり」ということの深い意味は、第一に神の聖、愛、義、憐れみ、真実という神のご性質が私たちに分与され、第二に私たちが十字架の生涯や自己否定の生涯を送ることによってキリストの苦しみをともに受けてキリストが歩まれたように歩み、第三に天の御国を私たちがキリストとともに相続することです。 二、神との交わりの根拠 このようなすばらしい「神との交わり」が実際に可能である根拠は何でしょうか。それはキリストの受肉と十字架の死です。キリストは、罪のために神と断絶状態にある私たちを「神との交わり」に回復させるために、手で触れることができる真の肉体を持つ人間となり(1節)、十字架の上で身代わりの死を遂げられました。これは誰も否定することができない歴史上の事実です。そしてこのことは「神との交わり」が空想話でも作り話でもなく、ほんとうのことである根拠なのです。 三、神との交わりの秘訣 それでは、このような「神との交わり」にはいるための秘訣は何でしょうか。 ◇二種類の罪――罪の行為と罪の性質「罪を犯し」(10節)――罪の行為「罪はない」(8節)――罪の性質 ◇二種類の条件――悔い改めと全き献身「罪を言い表す」(9節)――悔い改め「光の中を歩」む(7節)――全き献身 ◇二種類の約束――罪の赦しと罪のきよめ「その罪を赦し」(9節)――罪の赦し「罪から……きよめ」(7節)――罪のきよめ 私たちは、罪を犯していることを認めて、その罪を悔い改め、キリストの身代わりの十字架を信じるなら、罪が赦されます。そして私たちは、心の中に罪があることを認め、神に自分を明け渡して光の中を歩み、イエスの血はすべての罪から私たちをきよめることができると信じるなら、罪がきよめられます。 この罪が赦されるとともに罪がきよめられることこそ、神と交わる秘訣なのです。
2007.09.05
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「信仰者の幸い」 甲斐慎一郎 詩篇、16篇1~11節 「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」(2節)。 「キリスト教は御利益宗教ではない」と言われていますが、これを聞いて、ある人々は、「御利益もなく、この世の楽しみも楽しめないキリスト教など真っ平ごめんだ」と言います。 それでこの御利益とか楽しみということに関して聖書から学んでみましょう。 一、人間の本能について 人間が生まれつき持っている本能や性質には、どのようなものがあるでしょうか。ここでは専門的なことは避けて、だれにでもわかる範囲内で分類してみましょう。次のような3つの本能が考えられます。 1.生命を維持し、自己を防衛する本能 人は、自らの生命を維持し、様々な危険から自己を守ろうとするものです。 2.人生や生活を楽しむ本能 人は、自分の生命を維持しているだけでは、面白くないために、様々なことを楽しみ、人生や生活をエンジョイするものです。 3.自らを向上させようとする本能 人は、人生や生活をエンジョイしているだけでは能がないと思い、より高く向上しようとするものです。ギリシャ語では人間のことをアンスローポス(上を仰ぐ者)と言うそうです。 これらのものは人間らしく生きるためには必要なものでしょう。しかしこれらは、もともと中性であって、善にも悪にも染まりやすいものではないでしょうか。 二、幸いの種類について 人間の幸いにも、次のような3つのものがあるのではないでしょうか。 1.自然の幸いです。 これは、先に挙げた3つの本能が十分に満たされることによって与えられる幸いです。これは、その人の神に対する信仰の有無にかかわらず、順境ならば、だれにでも与えられる幸いです。 2.不自然または反自然の幸いです。 これは、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」(箴言9章7節)という言葉によく表されているように、罪を犯したり、身の危険を冒したりすることによって喜びを味わう恐ろしいものです。 3.超自然の幸いです。 これは、自然の幸いが失われ、逆境の最中にあっても、周囲の境遇や環境に左右されず、それらを超越して神から与えられる幸いです。 西洋の諺に「一日だけ幸せでいたいなら床屋に行け。一週間だけ幸せでいたいなら車を買え。一か月だけ幸せでいたいなら結婚しろ。一年だけ幸せでいたいなら家を買え。一生幸せでいたいなら正直でいることだ」という言葉があります。 聖書は「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5章8、9節)と教えています。 三、信仰者の幸いについて この詩篇の16篇には、5つの幸いが記されていますが、これこそ神から与えられる超自然の幸いです。(1)神による守りと身の安らか(1、9節)(2)神こそ私たちのゆずりの地所(5、6節)(3)神と聖徒との深い交わり(3、7、8節)(4)神による永遠の喜びと楽しみ(9、11節)(5)神から与えられる永遠の生命(10、11節) 信仰者は不自然(または反自然の幸い)を求めてはならないことは言うまでもありませんが、自然の幸いはどうでしょうか。 聖書は、自然の幸いでも、それがいっそう神に近づくための助けとなるなら、求めることを必ずしも否定していません。しかし自然の幸いは、長続きせず、一時的であって、この地上しか通用せず、しかも慣れて飽き、超自然の幸いを求めなければ、不自然の幸いを求めてしまうので、それが神と超自然的なものを求めるのに妨げとなる場合は、潔く捨てなればならないことを教えています。 しかし人は、自己防衛のためであるとか、楽しみであるからとか、向上するためであるということにかこつけて、自然のものを求めて、それで満足したり、不自然なものを求める誘惑に陥ったりしやすい弱い者です。ですから、超自然の幸いとそれを与えてくださる神に満たされることが必要なのです。
2007.09.04
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「山上の説教(6)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、7章13~27節 イエスは、7章の前半の「二つの関係」では「内側の心における在り方」について教えられました。7章の後半には「二つの歩み」について記されています。 イエスは、この「二つの歩み」において、「神のみこころを行う者」について述べておられます(21、24節)。それは、これまで述べてきたような「内側の心における幸福と律法と動機と在り方」を正しくとらえているなら、その当然の結果として神のみこころを行う者になることを教えるためです。 一、二つの道(13、14節) イエスは、「狭い門からはいりなさい」と言われましたが、なぜ、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれ」なのでしょうか。どうして「滅びに至る門は大きく、その道は広」く、「そこからはいって行く者が多いので」しょうか。 一言で言えば、真理には排他性があるからです。それは一たす一の正解は二だけで、ほかの答えはすべて誤りであるように真理は一つしかないということを意味しています。 ほかの例をあげるなら、健康であるとは、すべての病気がないことであり、安全であるとは、すべての危険がないことであり、純粋であるとは、不純なものが少しもないことであると言えば、よくわかるでしょう。 いのちに至る真理の道は、どのような罪や不正をも許容することができないために狭くなります。これに対して、滅びに至る罪の道は、真理の道以外のすべてを含んでいるので広いのです。 二、二つの結実(15~20節) イエスは、「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます」と言われました(17節)。「心に満ちていることを口が話すのです」とあるように、「木」は心を、また「実」は、教えや行為を表しています(12章34節)。 「にせ預言者」や「にせ教師」は、サタンが光の御使いに変装するように(第二コリント11章14節)、羊のなりをして来ます。彼らの言葉の表現はたくみで、品性は柔和で、行動は熱心にふるまいますが、その教えは、聖書の真理から遠く離れています。 私たちは、聖書の教える真理を信じて、良い木(心)になるなら、「御霊の実」という良い実を結ぶことができます(ガラテヤ5章22、23節)。しかし、そうでなければ、悪い木であり、悪い実しか結ぶことはできず、切り倒されて、火に投げ込まれます(19節)。 三、二つの行為(21~27節) イエスに向かって、「主よ、主よ」という者がみな天の御国にはいるのではなく、またイエスの御名によって多くのすばらしい奉仕をしても、天の御国にはいれない者がいるのは、なぜでしょうか。それは、心と行為、または信仰と行為とは表裏一体であり、決して切り離すことはできないものであると教えているからです(ヤコブ2章17、26節)。 イエスは、天の御国は「父のみこころを行う者がはいる」と言われました(21節)。また岩の上の家と砂の上の家のたとえにおいても、イエスは、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」とか「それを行わない者」と言われました(24、26節)。 「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う」とは、心の貧しさから始まる山上の説教を聞いて、それを心から信じるならば、信じた通りに行うようになるということです。ですから、この信仰を持たなければ、イエスに向かって「主よ、主よ」と言っても、イエスの御名によって多くの奉仕をしても、天の御国にはいることはできないのです。拙著「キリストの生涯の学び」51「山上の説教(6)」より転載
2007.09.01
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