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「神の慰めと人の慰め」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、1章1~11節 「私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)。 この御言葉の前半には神から受ける慰め、すなわち神の慰めについて、後半には人から受ける慰め、すなわち人の慰めについて記されています。そこで神から慰めを受ける場合と人から慰めを受ける場合とは、どのような違いがあるのかということについて、3つの観点から考えてみましょう。 一、その行動の違いについて 私たちは、自分の心の寂しさやむなしさ、また悩みや苦しみをいやすために、神のもとに行き、神から慰めを受ける場合と、人のもとに行き、人から慰めを受ける場合とは、その行動において、どのような違いがあるでしょうか。 もし私たちが神のもとに行き、神から慰めを受けるなら――神に用いられている人を通して神からの慰めを受けることがあることは言うまでもありません――「どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)と記されているように、能動的また積極的な行動になるでしょう。 しかし私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとするなら、人を慰めるどころではなく、自分が人から慰めを受けるという受動的また消極的な行動になるでしょう。 ところが人から慰めを受けようとすることは、単に受動的また消極的な行動になるだけでなく、自分の心を慰めてくれることなら、何でもするが、自分の心を慰めてくれないようなことは何もしないということにならないでしょうか。 このことは、自分の心を慰めてくれるものが善であり、自分の心を慰めてくれないものは悪であると判断することにほかならず、それは行動の基準が道徳的な善悪から逸脱してしまうことになるのです。 二、その動機の違いについて 私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとする動機は何でしょうか。初めは自分の悩みや苦しみを打ち明けているだけですが、そのうちに言い訳や弁解をすることによって自分の罪を正当化し、相手にもそのことを認めさせようとしているのであり、それが認められることに自分の慰めを見いだすのではないでしょうか。 このように人から受ける慰めは、不純なものになる危険性があるのです。 これに対して私たちが神のもとに行くなら、どうなるでしょうか。もし私たちがほんとうに神の前に出るなら、自分の罪を認めて悔い改めざるを得なくなるのであり、そこに不純な動機のはいる余地はありません。その結果、罪の赦しと慰め主である聖霊が与えられるのであり、これこそ神から受ける慰めです。 自分の罪を正当化せず、神の御前に心が砕かれた人のみ、神からの慰めを受けることができるのです。 三、その救いの違いについて 私たちの心に真の慰めを与えてくださるのは神のみです。私たちは、神からの慰めを受ければ受けるほど、ますます強くなるだけでなく、聖くなっていきます。 兄たちにねたまれてエジプトに売られたヨセフは、人からの慰めを受けたことは一度もなく、ただ神からの慰めを受けて、強められるだけでなく、聖くなっていきました。 しかし神からの慰めを受けようとせず、ただ人からの慰めを受けるなら、神から受ける慰めから遠ざかるので、ますます弱くなるだけでなく、罪深くなっていきます。 このようなことから人から受ける慰めは偽りの救いであり、神から受ける慰めこそ真の救いであることが分かるでしょう。 それでは人から慰めを受けることが問題であるなら、人は何のために存在しているのでしょうか。ほかの人というのは、私たちがその人を通して神からの慰めを受けるか、それとも私たちの方がその人を慰めるかのどちらかのために神から遣わされているのです。
2009.02.28
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「ピリピ伝道に学ぶ」 甲斐慎一郎 使徒の働き、16章11~34節 「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちは、ただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである」(9、10節)。 これが後世のキリスト教の歴史の中で最も大きな役割を果たしたヨーロッパの教会の始まりであったことは、彼自身も知る由もなかったことでしょう。それでこのピリピ伝道から大切なことを学んでみましょう。 一、一人一人の人間の尊さを知ること――真の愛 使徒の働きの著者であるルカは、このピリピの伝道において3人の回心者について述べています。その三人とは、紫布の商人であるルデヤと占いの霊につかれた若い女奴隷と牢屋の看守です。ルデヤと牢屋の看守については、その家族も救われたことが記されているので、回心者の数は全部で十数人でしょう。 ピリピの教会は、ピリピ人への手紙に記されているようにすばらしい教会です。しかしこの教会は、最初にルデヤが救われ、次にその家族が救われ、また祈り場に通ううちに占いの霊につかれた若い女奴隷が教われ、さらにその時の事件がきっかけとなって牢屋の看守が教われ、そしてまたその家族が救われるというようにしてできたのです。 ルデヤという一人の女性が救われたことによって、次々と回心者が起こされました。このことから私たちは、一人の人間とその回心の尊さを知らなければなりません。一人の人間の生命は全世界の物よりも尊く、価値があるのです(マタイ16章26節)。このように一人一人の人間の価値を知って、その救いのために全力を尽くすことこそ、真の愛です。 二、苦難の中で神に祈り賛美すること――真の信仰 パウロとシラスが占いの霊につかれた若い女奴隷を救いに導いたために、彼女の主入たちは、彼らを捕らえて役人たちに訴えたので、彼らは牢獄に入れられ、足かせを掛けられてしまいました。これは2人にとって大きな試練でした。しかし彼らは、このような暗黒の中で神に祈りつつ賛美したのです(25節)。 このような牢獄や足かせは私たちにもあります。それは様々な苦難や試練、また思わしくない結果という牢獄です。さらにそれは四面楚歌や八方ふさがりという足かせであるかも知れません。どちらにしても暗黒の中で身動きができない状態です。 しかしこのような暗黒と束縛の中にあっても、パウロとシラスのように周囲の環境や目に見えるものに惑わされずに、神が最善をなしてくださることを信じて、神に祈り、賛美することこそ、真の信仰です。 三、神の摂理を信じて望みを抱くこと――真の希望 パウロとシラスが牢獄に入れられた理由を考えてみると、それは占いの霊につかれた若い女奴隷を助けたことによって彼女の主入たちに訴えられたからです。すなわち彼らは、神と人のために良いことをしたことによって、かえって苦難を招いてしまったのです。これは打算的な御利益宗教家には耐えられないことでしょう。神は、私たちの信仰や良い行いを純粋なものとするために。このような苦難が来ることを許されるのです。 しかしここでパウロとシラスが、このような試練の中でも気落ちせず、勇気を失わなかったのは、このピリピに渡って来たのは、自分勝手にしたことではなく、神が自分たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだと確信したからです。ですから彼らは、神は必ずこのような中から救って、道を開いてくださるに違いないという望みを抱くことです。これこそ真の希望です。 ヨーロッパの教会の始まりであるピリピの教会は、パウロとシラスの真の愛と真の信仰と真の希望によって生まれたのです。
2009.02.26
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「王とすべての高い地位にある人のために祈りなさい」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、2章1~3節 「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです」(1~3節)。 人間は、さまざまな生活をしています。すなわち家庭生活をはじめ、学校生活、社会生活、そして休息やレクリエーションまた趣味やスポーツなどの余暇の生活です。 私たちは、このような日常生活を送ることができるのは当たり前であると思っているかもしれません。しかしこれは、国の経済が安定し、社会の治安が維持され、戦争のない平和な国に住んでいるからこそ可能なのです。もし国の経済が破綻したり、社会の治安が乱れたり、外国との戦争や国内での内乱が起こったりすれば、日常生活を送ることはおろか、生きていくことさえ危うくなります。改めて健全な国家が建設されることの大切さを教えられることです。 この『ソロモンと王たちの生涯』は、イスラエルの王と民が真の神である主を心から信じて、その教えに従うならば、列強に取り囲まれて、たとえ戦争をしなければならないとしても勝利を収めて安全であり、社会の治安も維持されて、豊かな生活を送ることができるという神の恵みと祝福を教えています。 しかし主にそむいて罪を犯すなら、社会の治安が乱れるだけでなく、ききんが起こったり、戦争に敗北したり、疫病が流行したりするという神の刑罰を受け、それでもなお罪を悔い改めようとしなければ、ついに敵国に滅ぼされて、日常生活を送るどころか、生きていくことさえできなくなってしまうことをおごそかに警告しています。 イスラエルは神が民を統治される神政政治の国です。サウルからゼデキヤまでは王たちの政治のもとにあった時代です。神のもとにあって民を治めたとはいえ、世襲によって王位につく君主制の政治が行われていました。これは現在において世界の多くの国々が行っている民主政治と比べるなら、前近代的な独裁政治で、現代の私たちの目から見ると、時代遅れで、違和感を覚えることでしょう。 しかし世界史を学ぶなら、民主政治は、たとえばダビデの時代から数えた場合、約3000年の歴史の中で、長くても数百年、国によっては100年以下しか行われていません。いや現在でもなお民主主義が確立していない国々が数多くあることは周知の事実です。 この『ソロモンと王たちの生涯』は、ほぼ紀元前1000年から600年までの約400年の間に起きた出来事を記したものですから、王制や君主制の政治が行われていたのは当然のことです。しかしどのような政治の形態であったとしても、大切なのは国を治める者と国民が真の神である主を信じて、その教えに従っていくことであり、もし主にそむいて罪を犯すならば、国家も個人も存在することができないことを聖書は明記しています。 このように個人の人生だけでなく、国の運命をも左右してしまう信仰というものは、一国の王であっても、ひとりの国民であっても、基本的には家系や血筋に関係なく、どこまでもその人が神を信じるかどうかという個人的なものです。 しかし良きにつけ悪しきにつけ、父母や祖父母などの家族また側近の者たちなど周囲の人々の感化を受けるだけでなく、また周囲に影響を及ぼすということも厳粛な事実です。たとえばソロモンは、父ダビデの感化を受けて育ちましたが、また彼の罪によって王国が分裂しました。イスラエルの王ヤロブアムは、民に罪を犯させただけでなく、彼の罪は後続の王たちの中に生き続けました。すなわちその当時の人々だけでなく、子々孫々に至るまで悪い影響を与えました。しかしユダの王レハブアムやヨアシュのように周囲の人々の良い感化を受けただけの信仰は、長続きせず、罪に陥ってしまうことも、これまた厳しい現実です。 いずれにしても人間は、自分で意識しているかどうかに関係なく、互いに感化を受け、影響を及ぼし合っていますから、真の神に対する信仰ほど大切なものはないことを、この『ソロモンと王たちの生涯』は、教えているのではないでしょうか。拙著『ソロモンと王たちの生涯』の「まえがき」より転載
2009.02.22
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「きよめられた生活」 甲斐慎一郎 ペテロの手紙、第一、1章13~21節 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」(15節)。 この箇所において「聖なるものとされなさい」と言われているのは、「あらゆる行い」についてであって、単に心に関してではありません。もちろん心が聖くなければ、あらゆる行いにおいて聖なるものとされないことは、言うまでもありません。 しかし私たちは、「心さえ聖ければ、行いも当然聖くなるのである」と言って、自分の行いを吟味せず、自己流の「きよめの生活」をしていることがないでしょうか。 それで神が求めておられる真のきよめられた生活とは、どのようなものかということを聖書の中から学んでみましょう。 一、聖別された生活(献納された生活) 主イエスは「真理によって彼らを聖め別ってください」と祈られましたが(ヨハネ17章17節)、きよめられた生活の第一は、聖別された生活です。聖別とは「神の用途のために別にしておく」ということです。 それは、まず私たち自身が神の御用をするために、神によって汚れた世から召し出された聖なる民であるという自覚を持つことです。教会(エクレシヤ)とは、文字通り聖別された神の民の集まりです。 このような自覚を持つ者は、当然のことながら、すべてを神にささげるのです。それは具体的には、私たちの時間や金銭や労力のうち、最善のものを、まず神のために別にして分けておき、他の用途のために使わないことです。このように時間も金銭も労力も聖別している生活こそ、きよめられた生活です。 二、純化された生活(統一された生活) パウロは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と言っていますが(第一コリント10章31節)、きよめられた生活の第二は、純化された生活です。純化とは、純粋にするということで、すべてのことが神に集中されて、神のために統一されることです。神のために一つに集中されていないものは、不純であり、純粋なものではありません。 それは具体的には、私たちの生活というものが二元化しないことです。すなわち神は神、自分は自分とか、信仰は信仰、生活は生活とか、教会は教会、仕事は仕事というようになってはなりません。このように私たちの生活が二元化せずに、すべてのことが神と信仰と教会という一つのものに集中され、統一されている生活こそ、きよめられた生活です。 三、鍛練された生活(訓練された生活) パウロは「敬虔のために自分を鍛練しなさい」と言っていますが(第一テモテ4章7節)、きよめられた生活の第三は、鍛練された生活です。鍛練とは、訓練したり練習したりすることによって鍛えることです。 パウロは、「あくまで……続けなさい」「苦心している」「模範になりなさい」と勧め(第一テモテ4章16、10、12節)、反復すること、苦心すること、挑戦することについて述べています。私たちは、同じことを何回も繰り返さなければ、決して身に着きませんし、また苦心することや挑戦することもないでしょう。私たちは、反復する中で苦心し、さらに高い所に挑戦していくのです。実に挑戦は、苦心の賜物であり、苦心は反復の賜物です。 聖別され、また純化された人々が最後になすべきことは、自分を鍛練することです。なぜなら私たちは、鍛練されることによってのみ、余計が角がとれ、欠けたところが埋め合わされて、成長し、また円熟することができるからです。 真の敬虔さは、一朝一夕にしてできるものではありません。それは、信仰生活や教会生活をはじめ、個人生活そして社会生活のすべてにおいて鍛練されることによってのみ可能です。このように真の敬虔さを身に着けるために、すべてのことを鍛練される生活こそ、きよめられた生活です。
2009.02.20
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「神の熱心と人の熱心」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、3章14~22節 「私といっしょに来て、私の主に対する熱心さを見なさい」(第二列王10章16節)。 「万軍の主の熱心がこれをする」(第二列王19章31節、イザヤ37章32節)。 この前半の「列王記、第二」の10章にはエフーの熱心さ、すなわち人の熱心について、後半の19章には万軍の主の熱心さ、すなわち神の熱心について記されています。 熱心さとは、どのようなことでしょうか。それは文字通り「心が熱いこと」です。心は「知性」と「感情」と「意志」から成り立っているので、熱心さを分析するなら、次のようになります。◇知性的な熱心さ――識別する熱心さ◇感情的な熱心さ――燃える熱心さ◇意志的な熱心さ――成し遂げる熱心さ 一、人の熱心について これには、それぞれ次のような特徴があり、これらの3つのものに均衡がとれていることが何よりも大切です。 1.知性的な熱心さとは、評論家のように物事の善し悪しを識別する熱心さのことです。もしこの熱心さだけならば、ただ冷たく批評して実行しない者になりますが、一方これがなければ、分別を失って非常識になってしまうことでしょう。 2.感情的な熱心さとは、心が燃える熱心さのことです。もしこの熱心さだけなら、熱しやすいが冷めやすいために長続きせず、また分別を失って非常識になりますが、一方これがなければ、心の熱を失って冷たくなってしまうことでしょう。 3.意志的な熱心さとは、どんなことがあっても物事を成し遂げる熱心さのことです。もしこの熱心さだけならば、冷たくて厳しく、また非常識になりますが、一方これがなければ、最後まで成し遂げることができなくなってしまうことでしょう。 二、神の熱心について これに対して神の熱心とは、どのようなものでしょうか。 1.燃える熱心さ 聖書は、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(ヨハネ2章17節)という罪を罰する熱心さと、「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11章8節)という罪人を愛する熱心さを教えています。そしてこの罪を罰せずにはおかない燃える怒りと、罪人を愛してやまない燃える愛とが一つになったものこそ、キリストの十字架にほかならないのです。 2.成し遂げる熱心さ 聖書は、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ9章7節)と、神の成し遂げる熱心さを教えています。 3.識別する熱心さ このように神は、私たちが罪を犯し続けるなら、どんなに恐ろしいことになるのか、しかし罪から救われるなら、どんなに幸いであるのかということをよく知り抜いておられるので、「熱心になって、悔い改めなさい」(19節)と命じられるのです。 三、真の熱心について キリストは、「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」と言われました(16節)。キリストは、私たちが熱心であることを求めておられますが、私たちの姿は、どうでしょうか。 1.私たちは、善悪を識別して悔い改めることにおいて、なまぬるくないでしょうか。 2.私たちは、神と人を心から愛する情熱において、なまぬるくないでしょうか。 3.私たちは、神のわざを成し遂げることにおいて、なまぬるくないでしょうか。 私たちが神の前に熱心な者となるための秘訣は、この熱心な神を信じることです。もし私たちが、私たちを愛する余りいのちまで捨てて私たちの救いを成し遂げてくださるだけでなく、私たちの真の幸いが何であるのかを知って悔い改めを命じられる熱心な神を心から信じるなら、どうして不熱心であることができるでしょうか。
2009.02.17
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「神の忍耐と人の忍耐」 甲斐慎一郎 ペテロへの手紙、第二、3章8~15節 「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(第二ペテロ3章15節)。 「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐は、ここにある」(黙示録14章12節)。 前半の「ペテロの手紙、第二」には、神の忍耐について、後半の「ヨハネの黙示録」には、人の忍耐について記されています。 それで忍耐ということについて、特に神の忍耐と人の忍耐とは、どのような違いがあるのかということについて聖書の中から学んでみましょう。 一、忍耐の意味について 忍耐という言葉の意味を日本語の辞書で引くと、「耐え忍ぶこと」、「辛抱すること」、「我慢すること」、「堪えること」と記されています。しかしこれらの言葉の意味を厳密に区別することは難しいでしょう。 新約聖書の原語であるギリシャ語には、日本語で「忍耐(する)」と訳すことができる言葉が10種類以上もありますが、その言葉の意味は、似通っているものを一つにまとめるなら、次のような五つに整理することができます。 ◇怒りを延ばすこと、怒りを遅くすること、容易に怒らないこと(第二ペテロ3章15節)。 ◇堂々たる態度をとること、平静沈着な態度をすること、言い換えれば何事もなかったかのように振舞うこと(エペソ4章2節)。 ◇自分の場に堅く踏み止まること、堅く立って動かされないこと(黙示録14四章12節)。 ◇(重荷や苦しみを)背負うこと、担うこと、支えること、運ぶこと(黙示録2章3節)。 ◇おおうこと、おおって代わりに受け止めること(第一コリント9章12節、13三章7節)。 「忍耐(する)」という言葉には、このような5つの意味があります。 二、人の忍耐について 生まれながらの人間は、自己中心で罪深い者ですから、このような人間の忍耐は、次のようなものではないでしょうか。 ◇真の忍耐は、自らの居るべき正しいところに堅く踏み止まり、そのために受ける苦しみを耐え忍ぶことですが、生まれながらの人間は、自らの居るべき正しいところを離れて逃避したり、悪と妥協したりし、そのために受ける正しい批判に堪えることが忍耐であると考えているのではないでしょうか。 ◇真の忍耐は、重荷を背負い、苦しみを担うことですが、生まれながらの人間は、重荷や苦しみが一刻も早く過ぎ去るのをじっと我慢して待つことが忍耐であると考えているのではないでしょうか。 ◇生まれながらの人間は、耐え忍ぶことは、自分にとって益があり、辛抱しなければ損であると考えて忍耐するのではないでしょうか。それは自らの利益のための忍耐です。 三、神の忍耐について これに対して神の忍耐は、どのようなものでしょうか。 ◇神が、罪深い私たちに「対して忍耐深くあられる」(9節)のは、神がどこまでも正しく、聖い方であるとともに、どこまでも愛と憐れみに満ちた方であり、その立場を絶対に譲ることができないからです。 ◇神の忍耐は、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ……あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う……なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ46章3、4節)という御言葉に表されています。 ◇神は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んで」(9節)、忍耐深くあられるのであり、それは私たちの利益のための忍耐です。 そしてこの神の忍耐によって救いに与かった者(聖徒)だけが、ほんとうの意味において忍耐することができるのです。
2009.02.13
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「神の赦しと人の赦し」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章21~35節 「神がキリストにおいて、あなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4章32節)。 この御言葉の前半には神の赦しについて、後半には人の赦しについて記されています。人間が生まれながらの罪人であり、また過失や間違いや失敗を避けられない以上、赦しを必要としない人間は、だれもいません。ですから神と人の前において「赦し」ほど大切なものはないと言っても決して過言ではないでしょう。 しかし一口に赦しと言っても、様々な意味があります。このことに関して新約聖書とその原語であるギリシャ語は、次のように教えています。1.知性的な面――思い出さず、忘れること2.感情的な面――好意を示し、憐れむこと3.意志的な面――そのままにしておくこと 一、人の赦しについて 人の赦しには、次のような限界があるのではないでしょうか。 1.その期間――短い期間 私たちの赦しは、「仏の顔も三度」と言われように、そう何度も赦せるものではなく、ペテロが主に尋ねたように七度ぐらいが限度ではないでしょうか(21節)。 2.その範囲――狭い範囲 私たちは、この罪は赦せるが、あの罪は赦せないとか、この人は赦せるが、あの人は赦せないというように、一部の罪とか一部の人しか赦せないのではないでしょうか。 3.その程度――不完全 しかし、人の赦しというものは、そう何度も赦せないとか、一部の罪や一部の人しか赦せないという問題だけでなく、赦したと思っている罪でさえも、事ある度に思い出しては敵意を抱き、そのままにしておくことができないというように極めて不完全なものです。 二、神の赦しについて これに対して神の赦しは、どのようなものでしょうか。 1.その期間――永久 神の赦しは、「もはや、彼らの罪を思い出さないからである」(ヘブル八章12節)とあるように、永久的なものです。 2.その範囲――すべて 神は、キリストによる贖いのゆえに、「私たちのすべての罪を赦し」てくださるのであり(コロサイ2章13節)、「それはすべての信じる人に与えられ、何の差別も」ないのです(ローマ3章22節)。 3.その程度――完全 神の赦しに関して、ヘブル人への手紙の著者は、「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ」、「もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」(8章12節、10章17節)と記しており、これほど完全な赦しはありません。 そして、この完全な赦しこそ、キリストの救いに他ならないのです。 三、赦しの教訓について このようなことから赦しに関して、次のようなことを学ぶことかできます。 1.生まれながらの人間の罪の赦しは、極めて不完全なものであり、私たちは、自らの罪が神に赦されたという体験を持つ時にのみ、ほんとうの意味において人の罪を赦すことができるのです。 2.人間関係において最も大切なことは、互いに赦し合うことです。なぜなら私たちは、互いに相手に対して大きな罪を犯したとしても、互いに赦し合っていれば、問題はありませんが、小さな罪でも、互いに赦し合っていなければ、問題は絶えないからです。 3.神と人との関係において最も大切なことは、神から罪の赦しを得ることです。私たちは、大きな罪を犯したとしても、心から悔い改めて、キリストの贖いを信じるなら、赦されて神に受け入れられますが、小さな罪でも、赦されていなければ、神に受け入れられないからです。 私たちは、罪の赦しを受けたでしょうか。
2009.02.11
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「3つ期間の40年間(2)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、7章20~36節 「モーセが死んだときは百二十歳で」したが(申命記34章7節)、彼の生涯は、40年ずつ3つの期間に分けることができます。 一、人の教育を受けた40年間(22節) エジプトの王が幼子を捨てさせ、生かしておけないようにするという命令を出した時にモーセが生まれました。両親は、その子をかごの中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置きましたが、その子はパロの娘に拾い上げられ、大きくなった時、王女の息子になり、モーセ(引き出す)と名づけられました。 モーセは「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました」(22節)。彼は、地理、歴史、語学、数学、天文学、法律等々を学び、最高の教育を受けました。それが後になってイスラエル人を率いる指導者としてエジプトを脱出し、危険な荒野を旅する時、どれほど役に立ったことでしょうか。神の教育を受ける前に人の教育を受け、将来のために備えられたのです。 二、神の教育を受けた40年間(30節) モーセが40歳になった頃、自分のからだの中を流れているヘブル人の血のゆえに「パロの娘の子と呼ばれることを拒み」(ヘブル11章24節)、「兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました」(23節)。 モーセは、同胞のひとりを救うためにエジプト人を打ち殺しましたが、それを聞いたパロが彼を殺そうと捜し求めたので、ミデヤンの地に逃れました。その時のモーセがイスラエル人を率いる指導者としてふさわしくなかった理由が2つあります。 1.自分の力と知恵とに拠り頼んでいたからです(22、24、25節)。 2.ほかの人の理解や評価を当てにしていたからです(25、27節)。すなわち、人の目を恐れていたということです(12、14節)。 このミデヤンの荒野において、モーセは40年間、神の教育を受けました。 人跡まれな厳しい環境の荒野では、自分ひとりだけの力や知恵はほとんど役に立たず、ほかの人の理解や評価を期待することもできません。モーセは、このミデヤンの荒野において自分の力や知恵に拠り頼んだり、ほかの人の理解や評価を当てにしたりすることに死んで、ただ神に拠り頼み、神からすべての必要なものが与えられることを学んだのです。 三、神に奉仕した40年間(36節) モーセはミデヤンの荒野において、40年の間、神の教育を受けましたが、その間に彼の中に燃えていた自らの野心や情熱という火は消えていきました。このようなモーセに、神は柴の燃える炎の中に現れ、「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と、召命の声をかけられました(出エジプト3章10節)。 モーセは、神の召命の声を聞いた時、「私はいったい何者なのでしょう」と言って尻込みしました(同11節)。もし40年前に神の召命の声を聞いたなら、喜び勇んで従い、身のほど知らずの夢を抱いて過激な行動に走り、悲惨な結果を招いたことでしょう。40年間、ミデヤンの荒野で神の教育を受けたことにより、高ぶりと野望を打ち砕かれて、非常に謙虚な人になりました(民数12章3節)。 しかし神の前に砕かれてへりくだることと、神の約束の言葉を信じて立ち上がり、召命の声に従っていくこととは別なことです。神は恐れおののいているモーセに、「わたしはあなたとともにいる」と約束してくださいました(出エジプト3章12節)。 「自然は真空をきらう」という言葉がありますが、神の前に砕かれて、むなしく(真空に)なったモーセに必要なことは、周囲の空気がそこに満ちるように、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」が満ちてくださることでした(エペソ1章23節)。 「この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また40年間荒野で、不思議なわざとしるしを行」って(36節)、神に奉仕したのです。 これがモーセの生涯の3つの期間ですが、私たちの生涯の3つの期間は、どうでしょうか。
2009.02.07
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「苦しみの学課」 甲斐慎一郎 申命記、8章1~20節 この申命記の8章は、6章とともに、主イエスが荒野において悪魔の誘惑を受けられた時に引用された御言葉が記されている箇所として有名です。この章の中に3回も同じような御言葉が記されています。それは、「あなたを苦しめ、あなたを試みて……するためであった」という言葉です(2、3、16節)。 苦しみは、いったい何のためにあるのでしょうか。それは「人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練される」ためです(5節)。主によって訓練されること、これこそキリスト者生涯のすべてです。なぜなら私たちは、主に訓練されることによってのみ、信仰に成長して神のみこころにかない、天の御国にはいるにふさわしい者とされるからです。 一、訓練の基礎――私たちの心のうちにあるものを知ることです(2節) イスラエルの民が「この四十年間の間、荒野で……歩ませられた全行程」(2節)は、どのようなものであったでしょうか。それは、一言で言えば、神への背信と不信仰と反逆の歴史でした(詩篇78篇17節、106篇24、25節)。彼らは、荒野で苦しみを受けることによって、その心のうちにあるものが全部さらけ出されたのです。 私たちは、苦しみに会う時、二重にも三重にも隠れみのを着て繕っていた化けの皮がはがされて、最も醜くて、罪深い本性や地金が現れてきます。なぜ神は、このようなことをされるのでしょうか。それは、私たちにほんとうの姿や実質を教え、その実質にふさわしい訓練をするためです。これこそ訓練の基礎です。もし私たちが自らの実質や実力以上の訓練を受けたなら、それに耐え切れずに挫折してしまい、せっかくの訓練も逆効果になってしまうことでしょう。 二、訓練の目的――主の口から出るすべてのもので生きるためです(3節) 私たちが苦しみに会うことによって最も醜くて、罪深い自我を教えられたなら、その自我は全く頼りにならないことを知って、神のもとに追いやられ、神に近づかざるを得なくなるでしょう。「主を恐れなさい」(6節)、「主を忘れることがないように」(11節)、「主を心に据えなさい」(18節)という神の命令は、永遠に変わらないものです。 どのような理由であれ、私たちが主を恐れず、主を忘れ、主から離れるなら、私たちは必ず滅びるのです(19節)。ですから神の言葉によって生きること、神に拠り頼むこと、信仰によって生きることが人間にとって最も大切なことであり、訓練の目的もここにあるのです。 三、訓練の結果――ついに私たちをしあわせにすることです(16節) どのようなことが幸せなのでしょうか。◇自分の思い通りに何でも物事がは運ぶ。◇自分の欲しいものは何でも手に入る。◇自分がどんなに偉大な者であるかを知る。 多くの人々は、このようになることが幸せであると考えているようです。しかし、もしこのようになるなら、高慢で、自分さえよければ構わないという自己中心になり、手のつけられない人になるでしょう。このようになることは、罪深い自我が現れずに、心の底に隠れてしまうので、最も不幸なことです。 それでは、真の幸福とは、何でしょうか。詩篇84篇には、次のような三段階の幸せが記されています。1.神を求める幸い(1~4節)2.神にある幸い(5~8節)3.神の与える幸い(9~12節) 苦しみによっでも神を求めることが幸いなのであり、苦しみによってでも神にあることが幸いなのであり、苦しみであっても神が与えてくださるものが幸いなのです。なぜなら神こそ、すべての幸いの源だからです。
2009.02.04
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「3つ期間の40年間(1)」 甲斐慎一郎 申命記8章1~10節 「モーセが死んだときは百二十歳で」したが(申命記34章7節)、彼の生涯は、40年ずつ3つの期間に分けることができます。 一、3つの期間のモーセの生涯 1.人の教育を受けた40年間 モーセは、王女の子として「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました」(使徒7章22節)。 2.神の教育を受けた40年間 モーセは、ミデヤンの荒野において神の教育を受けました(使徒7章29、30節)。その間に彼の中に燃えていた自らの野心や情熱という火は消え、柴の燃える炎に象徴される神の聖なる愛の火によって燃やされる人になりました。 3.神に奉仕した40年間 モーセは、神の召命に従い、神によって遣わされてイスラエル人をエジプトから連れ出しました。 二、人の教育と神の教育 第一の期間は、人の教育を受けた期間、第二の期間は、神の教育を受けた期間です。 「教育する」という言葉は、日本語においては「教え、育てる」と書きますが、英語においては「引き出す」という意味であると言われます。どちらも教育とは何かということを非常によく表しています。 1.人の教育――三つの特徴があります。 (1)良いことを教え、良いものを引き出す。 良いことを教えるだけでは、詰め込み教育であり、真の教育ではありません。良いことを教えるだけでなく、良いものを引き出して育てるところに真の教育があります。 (2)性善説に立脚しています。 人の教育は、人間の本性は善であるという性善説に立脚しています。良いことを教えるなら、必ず良いものを引き出して育てることができると信じています。しかし現実は、そのような生易しいものではありません。 (3)道徳に対して全く無力です。 人の教育は、道徳的な善悪とは関係のない知能や能力に関しては極めて有効であり、文明の発達や文化の向上に貢献していますが、最も大切な人格や品性を形造る道徳に関しては無力です。 2.神の教育――三つの特徴があります。 (1)悪いものを引き出して取り除き、良いことを教えて育てる。 神が私たちを苦しめ、私たちを試みるのは、私たちの「心のうちにあるものを知るため」です(2節)。その心のうちにあるものとは、神を喜ばせるものではなく、神を怒らせるもの、すなわち神への不信仰と反逆という罪です(9章7、8、23、24節)。神の教育は、私たちに良いことを教えて育てる前に、まず私たちの心のうちにある悪いものを引き出して取り除くことから始まるのです。 (2)性悪説に立脚しています。 神が私たちに対してこのような教育をされるのは、人間の本性は悪であるという性悪説に立脚しているからです。神が私たちに毒を吐き出させるように罪を吐き出させるのは、私たちがその罪という毒のために死なないためです。ですから苦難や試練に会っても、それによって吐き気を催し、罪という毒を吐き出すなら、幸いなことであり、反対に幸福そうな境遇でも、罪という毒を飲んでいることに気がつかず、そのままにしているなら、恐ろしいことなのです。 (3)道徳に対して最も有効です。 神の教育は、単なる知能や能力に関するものではなく、私たちの人格と品性を形造る道徳に関するものです。それは言い換えれば、罪からの救いにほかなりません。 三、3つの期間の私たちの生涯 ヨセフは、17歳まで人の教育を受け、30歳まで神の教育を受けて、その後、エジプト全土の統治者として奉仕し、ダビデは10代の半ばまで人の教育を受け、30歳まで神の教育を受け、その後、王として奉仕し、パウロは、33歳頃まで人の教育を受け、アラビヤで3年間、神の教育を受け、その後、伝道の働きをしています。 私たちの生涯は、どうでしょうか。
2009.02.01
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