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「神の恵みと自分のわざ」 甲斐慎一郎 詩篇、103篇1~22節 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2節)。 私たちは、一年を終える時、今までのことを回顧します。しかしその過去の出来事の中に何を見、何に心を留めるかによって、それは私たちの信仰の成長にとってプラスにもマイナスにもなるのです。 一、自分のわざに目と心を留める この103篇は、1~2節と20~22節において自分のたましいとほかの人たちに神への賛美を呼びかけています。その中間の3~19節には、ただ神のなされたみわざと、その恵みが記されているだけで、人間のわざや働きについては何も記されていません。 文化や文明と呼ばれるものは、進歩や向上を図る人間の営みであり、それは人間の偉大さや、その人間が行った偉大なわざを称賛するものです。確かに文化や文明は、人間の世界を向上させましたが、その反面、あらゆる罪悪の満ちている暗黒の社会をもたらしたことも否定することができない事実です。 これに対して真の宗教は、その暗黒の社会をもたらした罪悪から人を救うとともに、その救いを与えてくださった神の偉大さと、その神のなされた偉大な恵みのわざを賛美するものです。 聖書は、人間は生まれながらの罪人であると教えています(エペソ2章3節)。人は、神を全く恐れない不敬虔な者であり(ローマ3章18節)、「高ぶる者」、「ねたみ……でいっぱいになった者」です(ローマ1章30、29節)。この「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」こそ人間の代表的な罪です。 私たちが神のなされたみわざとその恵みを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執して、それを誇示するなら、私たちの心は、このような罪に満ちてしまうのです。 聖書は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」と教えています(ヤコブ1章17節)。 ですから自分のわざや働きにおいて、良いわざは、神にゆだねて、神に栄光を帰し、悪い行為は、悔い改めて反省し、そこから教訓を学んだならば、やはり神にゆだねなければなりません。このようにする時、私たちは、神と人の前において成長していくことができるのです。 しかしもし私たちが、自分のわざや働きに固執し、それを誇示するなら、神に栄光を帰さない不敬虔の罪に陥るだけでなく、良い結果の時は、有頂天になって人を見下げ、悪い結果の時は、失望落胆して神と人を恨むようになるでしょう。 どちらにしても神のなされた恵みのみわざを忘れて、人間のわざや自分の働きに固執し、それを誇示するなら、感謝の心を持つことができず、あらゆる罪に陥ってしまうのです。 二、神の恵みに目と心を留める しかし私たちが人間のわざや自分の働きを忘れ、神の恵みのみわざを見るなら、事態は全く一変し、「不敬虔」と「高ぶり」と「ねたみ」とは全く反対のものが与えられます。 ◇「敬虔さ」が与えられます。神の恵みを忘れず、それに心を留めることは、神に栄光を帰することであり、神を恐れ、敬うことです。「主を恐れる者」(11、13、17節)とは、神の恵みを忘れず、神を敬う者であることは言うまでもありません。 ◇「謙虚さ」が与えられます。人は、神の恵みのみわざに心を留める時、自分のわざや働きの小ささと卑しさを知り、「私たちがちりにすぎないこと」(14節)を悟るのです。 ◇「愛」が与えられます。私たちは、「あわれみ深く、情け深い」主、また「怒るのにおそく、恵み豊かである」神(8節)に心を留める時にのみ、その神の愛に応えて、愛が与えられるのです。 私たちは、大晦日に、救いを与えてくださった神と、その神の恵みのみわざを心から賛美して1年を締め括ろうではありませんか。
2009.12.30
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「モーセの祈りに学ぶ」 甲斐慎一郎 詩篇90篇1~17節 この詩篇の90篇は、40年間の荒野の放浪の終わり近くに書かれたモーセの晩年の作です。彼の愛した同胞の民イスラエル人は、「鉄の炉エジプトから」(申命記4章20節)出たものの、カデシュ・バルネアにおいて目的地のカナンにはいろうとせず、不信仰の退却をしたために神の御怒りを受け、次々としかばねを荒野にさらしてしまいました。しかも彼自身も小さな失敗のためにカナンの地にはいることを許されなかったのです(民数記20章12節)。 モーセの悲しみと心痛そして孤独感は、いかばかりであったことでしょうか。私たちは、このようなまれな境遇と立場に置かれたモーセが、この詩篇の記者であることを念頭において、この詩篇を読むならば、一つ一つに言葉に計り知れない重みがあることがわかるでしょう。 この詩篇は、永遠の神と有限な人間を鋭く対比させており、その構成は実に雄大であり、その内容は極めて厳粛なものですが、ただ冷たく観察しているのではなく、かえって神に対するほとばしり出るような祈りから、彼の熱い心情を察することができます。 一、モーセの黙想(1~11節) この箇所には3つ黙想が記されています。 1.生命のはかなさ(3~6節) ここには、「人をちりに帰らせて」とか、「あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます」とか、「夕べには、しおれて枯れます」という言葉が用いられています(3、5、6節)。20歳以上の男子だけで60万人もいたイスラエルの人々が、40年間のうちに次々とひとり残らず、しかばねを荒野にさらしていくのを毎日毎日、目撃したモーセにとって、まさに人の生命は、このように映ったのであり、これ以外に死を表現する言葉がなかったのでしょう。 2.人生のむなしさ(10節) イスラエルの民は、40年間も荒野を放浪しましたが、その中には熱い日があり、また寒い日があり、雨の日や風の日も多くあったことでしょう。周囲は殺風景なだけでなく、危険な荒野であり、そこを天幕をかついで毎日毎日死ぬために、あてどもなくさ迷ったのです。まさに人生は、「労苦とわざわい」としか言いようがなかったのでしょう。 3.人間の罪深さ(7~9、11節) ここには何回も何回も「神の怒り」、すなわち罪に対する神の刑罰が記されています。モーセは、放浪しながら死に絶えていくイスラエルの民を見ながら、それがみな民の不信仰の罪のためであることを思い、今さらのように人間の罪深さと罪の恐ろしさを知ったことでしょう。 しかし私たちは、永遠の神を私たちの住まいとする時、すなわち永遠の神が私たちの生命となり、私たちの環境となるとともに、私たちの心の中に住むならば、この「生命のはかなさ」も、「人生のむなしさ」も、「人間の罪深さ」も解決するのです。 二、モーセの祈り(12~17節) この箇所には3つの祈りが記されています。 1.知恵を祈り求めています(12節)。 「自分の日を正しく数える」とは、自らの生命のはかなさとともに、人間には必ず死と死後の審判があることを知って(ヘブル9章27節)、神を信じ、神を恐れることです。この神を恐れることこそ、知恵の初めです(箴言9章10節)。 2.救いを祈り求めています(13~15節) 罪深い人間に必要なことは、罪を赦され、神の祝福と恵みが豊かに与えられることです。 3.わざの確立を祈り求めています(16、17節) 私たちは、神のみわざが現わされることによって、私たちの手のわざが確立され、神に喜ばれることを行なうことができるように祈らなければなりません。 このような祈りをすることによって神に近づくことこそ、永遠の神を私たちの住まいとする秘訣なのです。
2009.12.27
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「降誕の意義(3)キリストについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、2章5~18節 ヘブル人への手紙の著者は、詩篇の第8篇を引用し、「人間が何者だというので……人の子が何者だというので……」と述べています(6節)。この個所における「人間」とか「人の子」というのは、文字通り私たち人間を指しています。しかしこの手紙の著者は、8節と9節の言葉から分かるように、これを真の人であるキリストに当てはめています。第8篇がメシヤ詩篇と呼ばれるゆえんです。 真の神であるキリストは、なぜ人となられたのでしょうか。 一、真の神がどのような方であるのかということを身をもって示すためです 真の「神は霊です」が(ヨハネ4章24節)、肉体の眼を持っている人間にとって、目に見えない神を正しくとらえることほど難しいことはありません。そうでなくても、「わたし(神)がおまえ(人間)と等しい者だとおまえは、思っていたのだ」(詩篇50篇21節)とあるように、「人間の神概念は、必然的に擬人的である」(G・C・モルガン)。まして人類の堕落以後、霊の眼が見えなくなった人間は、ますます神を正しくとらえることができなくなってしまいました。 それで肉体の眼でも見えるように、また霊の眼が見えない人間にも分かるように、目に見えない霊なる神が、目に見える肉体を持つ人間として現れてくださったのがキリストです。キリストは、人間が考えている擬人的で、歪んでいる、間違った神概念を正し、真の神がどのような方であるのかということを身をもって示されたのであり、私たちは、このキリストのうちに真の神を見るのです。 二、真の人がどのような者であるのかということを身をもって示すためです 人間の本質的な部分は霊ですが、それは肉体の中に宿っています。それで現実の問題として人間は、肉体を持っているために、独特な不自由さや不便さのみならず、色々な弱さや悩み、また痛みや苦しみ、さらに様々な欲望による誘惑や試練というものがあります。そのために多くの人々は、罪を犯さない生涯を送ることは不可能であると考え、罪と妥協しています。 しかし神は、人間をそのように創造されたのではありません。それで神が肉体を持つ人となり、罪を犯さない模範的な生涯を送られたのがキリストです。キリストは、私たちが考えている間違った人間観と生き方を正し、真の人がどのような者で、どのような生き方をするのかということを身をもって示されたのであり、私たちは、このキリストのうちに真の人とその生き方を見るのです。 三、真の仲介者がどのような者であるのかということを身をもって示すためです しかし実際問題として、生まれながらの罪人である人間が、キリストのように罪を犯さない生涯を送ることは不可能です。なぜなら人間は、キリストのように生きるために必要な聖霊を持っていないどころか、かえって神の怒りを受ける罪を持っているからです。 神は、このような人間がキリストのように生きるために必要な聖霊を与えようと切に願っておられますが、人が罪を持っているために聖霊を与えることができません。 それでキリストは、「神と人との間の仲介者」(第一テモテ2章5節)として、身をもって次のような三つのことをされました。 1.キリストは、罪のためのいけにえとなられました(ヘブル9章26節)。 2.キリストは、神と人を結ぶ和解者となられました(第二コリント5章18節)。 3.キリストは、助け主である聖霊を遣わされました(ヨハネ16章7節)。 キリストが真の神でありながら真の人として、この世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて……大能者の右の座に着かれ」(1章3節)、すべての人々に「聖霊をお注ぎにな」るためです(使徒2章33節)。私たちは、この聖霊を受け、御霊に満たされることによってキリストのように生きることができるのです。
2009.12.24
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「降誕の意義(2)神について」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、1章1~3節 ヘブル人への手紙の著者は、この手紙を記すに当たって何の挨拶もなく、いきなり「神は……語られました」(1節)という言葉で書き始めています。彼がこれから書こうとしていることは、人間の考えや思想ではなく、神の啓示であることを強調するかのようです。 一、聖書が教えている真の神 聖書は、真の神について教えています。 1.万物の創造者である神 聖書は「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)と記し、神は「万物の創造者」であると教えています。 2.万物の統治者である神 神は、万物の創造者であるだけでなく、宇宙や地球、世界の歴史や人間の社会を自然界の法則や善悪の法則、また神の摂理の法則によって支配しておられる万物の統治者です。 3.万物の完成者である神 神は、初めに「天と地を創造した」だけでなく、それを「完成され」ました(創世記1章1節、2章1節)。神は、「わたしは、終わりの事を初めから告げ……わたしの望む事をすべて成し遂げる」(イザヤ46章10節)と仰せられる万物の完成者です。 聖書は、「神は霊ですから」(ヨハネ4章24節)と教え、次のようなお方です。 真の神は、被造物(大宇宙)がなくても、それを超越して存在される方で、これを「超越神」と言います。しかし同時に「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17章28節)とあるように、被造物の中に存在しておられる方で、これを「内在神」と言います。内在神だけの神は、すべてのものは神であるという「汎神論」になり、被造物がなくなれば、神も存在しないことになります。超越神だけの神は、被造物にはいっさい関わり合わない「理神論」になり、世界の歴史や個人の生活の中に入って来て、語ったり、事を行ったりすることもないことになります。真の神は、「超越神」であるとともに「内在神」なのです。 二、目に見えない精神や霊の優越性 なぜ目に見える物質よりも、目に見えない精神や霊のほうが優れているのでしょうか。 1.精神は、物質を支配するだけでなく、新しいものを生み出すことができるからです。 学問や芸術や道徳という精神文化は言うまでもなく、様々な発明や発見によって科学技術の進歩や生活水準の向上をもたらした物質文化も、みな精神の働きです。 2.精神は、物質のように時間や空間に拘束されずに自由に働くことができるからです。 精神は、探求や想像によって過去や未来の世界に、またどんなに遠隔な地にも一瞬にして行くことができます。 3.「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(第二コリント4章18節)。 物質の世界でさえ、目に見えないほど小型(高密度集積回路など)のほうが優れており、もともと目に見えないもの(電磁波)を利用したほうが、さらに優れているのです。 三、目に見えない霊である神 目に見えない精神と霊を比較するなら、霊のほうが優れています。なぜなら霊は精神をつかさどる人格の中心的な要素だからです。 人間の本質的な部分は、霊であることは先回、学びましたが、それは人間を造られた神が「霊」だからです(ヨハネ4章24節)。 使徒ヨハネは「初めに、ことばがあった」と書き始め(ヨハネ1章1節)、ヘブル人への手紙の著者も、冒頭に「神は……語られました」と書き記しています(1節)。「ことば」は心(霊)の表現、言い換えれば、人格を持つ者の表現です(マタイ12章34節)。 使徒ヨハネもヘブル人への手紙の著者も、真の神は、汎神論者が考えているような人格を持たない方ではなく、また理神論者が思っているような啓示のない方でもなく、人格を備え、ご自身を人に啓示される方であることを教えるために、このように記したのです。
2009.12.21
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「降誕の意義(1)人間について」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、2章5~18節 ヘブル人への手紙の1章には、天使に勝る真の神であるキリストについて、2章には、そのキリストが天使よりも低い人となられたことについて記されています(7、9節)。 天地万物を造られた真の神のひとり子イエス・キリストが、人類の罪を贖うために人間となられた、しかも幼子として生まれてくださったクリスマス! 私たちは、これをどのように考えたならば、よいのでしょうか。◇降誕の意義(1)――人間について◇降誕の意義(2)――神について◇降誕の意義(3)――キリストについて まず人間について学んでみましょう。 一、人間の本質について 「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう」(6節)とダビデは告白しています。 このことに関して人間を構造的に考えるなら、人間は、「霊、たましい、からだ」(第一テサロニケ5章23節)という三つの要素から成り立っていると聖書は教えています。 1.からだ これは、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と五体(筋・肉・脈・骨・毛皮、別に頭・首・胸・手・足、または頭・両手・両足)によって私たちを取り囲む外側の世界の状態を知り、それに対応する機能のことです。それは人知を越えた「生きている機械」であるということができます。 2.たましい これは、脳にあって人間の知性や感情や意志という内側の世界の状態を知り、それに対応する機能のことです。それはまた肉体という機械を動かすための命令を下す中枢機関や司令室の役目をしています。 3.霊 これは、たましいの奥にあって神とその世界を知り、それに対応する機能のことです。それは、神のかたち(像)に似せて造られた不滅の生命(すなわち永遠のいのち)を持つ人格で(創世記1章26、27節)、人間以外の動物にはないものです。 人間の人間たるゆえんは、この霊の存在にあるということができます。言い換えれば、目に見えない霊こそ、人間の本質的な部分です。神が私たちを顧み、私たちをみこころに留められるのは、私たちが神のかたち(像)に似せて造られた不滅の霊だからです。 二、人間の生き方について 私たちがどのような生き方をするかということは、人間を構成している三つの要素のうち、どれを優先し、何を第一とするかによって決まります。 1.からだを第一とする生き方 これは、五感でとらえることができる物質の世界に生きることです。この生き方は、物欲と肉欲を満たすことのみを追い求めるために、享楽的、官能的になり、その結果、善悪の識別を見失って堕落してしまいます。 2.たましいを第一とする生き方 これは、たましい(知性、感情、意志)でとらえることができる人間の世界に生きることです。この生き方は、人間に限界や弱さ、また罪悪という致命的な欠陥があることを見落としているので、小さな罪さえ解決することができません。 3.霊を第一とする生き方 これは、信仰によって五感や五体および知性や感情や意志を越えた神の世界に生きることです。それは「神の国とその義とをまず第一に求め」る生き方です(マタイ6章33節)。人間は、神の栄光を現すために創造されましたが(イザヤ43章7節)、霊を第一とする生き方こそ、神の栄光を現す生き方です。 人間は、罪を悔い改め、キリストの贖いを信じて、罪から救われ、永遠のいのちを与えられる時にのみ、神の栄光を現す生き方をすることができます。 それで神は、私たちが神の栄光を現す生き方をすることができるように、「そのひとり子をお与えになったほどに、世(人間)を愛され」ました。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」なのです(ヨハネ3章16節)。
2009.12.18
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「バプテスマのヨハネ(5)」 甲斐慎一郎 マルコの福音書、6章19~29節 神の御子イエスが「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(マタイ11章11節)と言われた偉大な人物にも最期の時が訪れました。 一、獄屋においてもヘロデに真理に基づいて神の道を教えたヨハネ(19、20節) ヨハネは、イエスが牢にいる自分を救い出してくださらないことに疑惑の念を抱き、使いを主のもとに送って質問しましたが(ルカ7章19節)、イエスの答え(同7章22、23節)を聞くと疑惑が晴れ、自らの不信仰を深く恥じたのではないでしょうか。なぜなら獄屋に閉じ込められている身であるにもかかわらず、ヘロデに神の教えを説いているからです(20節)。 ヘロデは、ヨハネに不法な結婚を叱責されるような罪深い王ですが(17、18節)、「ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていた」だけでなく、「ヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けてい」ました(20節)。ヨハネも王を悔い改めに導く絶好の機会が与えられたと思い、説教にも気合が入ったことでしょう。 二、ヘロデヤの差し金で動いたヘロデに首をはねられて殉教したヨハネ(21~29節) 獄中のヨハネは、ヘロデを悔い改めに導くことこそ自分に与えられた使命であると確信し、神の道を教えることに努めていたにちがいありません。もし王が悔い改めるなら、釈放されるかもしれず、それを期待していたとしても、だれも責めることはできません。 しかし世間はそれほど甘くはありませんでした。ヨハネの知らないところで恐ろしいことが起こっていたのです。ヨハネは、ヘロデが自分の教えを聞く時、喜んで耳を傾けていたので、王が悔い改めることを期待したことでしょう。ところがこのことを快く思わなかった人がいました。「ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら」、「ヘロデが……彼を恐れ、保護を加えていた」ので、「果たせないでいた」のです(19、20節)。 ヘロデヤの恨みは日増しに深くなり、彼女がヨハネを殺す機会を虎視眈々とねらっていたことは想像に難くありません。ついに「良い機会が訪れ」ました(21節)。ヘロデの誕生日に、「ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせ」、王が「娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした」のです(マタイ14章6、7節)。 ヘロデヤは、思わずにんまりしたことでしょう。ヘロデが「自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって」、約束を反故にするようなことはしないことを知っていたからです。ヘロデヤは、娘をそそのかし、ヨハネの首を求めさせました。王が「牢の中でヨハネの首をはねさせた」ので、ヨハネは殉教の死を遂げたのです(同14章8~10節)。 三、教えを宣べている間、イエスについて真実な証言をしたので、殉教した後も人々を主に導いたヨハネ(ヨハネ10章40~42節) ヨハネにしてみれば、ヘロデの不法な結婚をきびしく責めたことで、ヘロデヤから恨みを買い、自分の教えに喜んで耳を傾けていた王に首をはねられて殉教するとは、夢にも思わなかったにちがいありません。これはヨハネが真理に基づいて神の道を教え、人の顔色を見ず、だれをもはばからないで、大胆に説教したからであると言うことができます。 イエスは、ヨハネについて「彼は真理について証言しました。……彼は燃えて輝くともしびであり」と言われました(ヨハネ5章33、35節)。実にヨハネは、真理をあかしする燃えて輝くともしびであり、燃え尽きるまでイエスについて真実な証言をした証人です。 ヨハネが殉教の死を遂げた後も、彼の証言を聞いた人々は、「ヨハネは何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言って、「多くの人々がイエスを信じ」ました(ヨハネ10章41、42節)。ヨハネは、「死にましたが、その信仰」と真実な証言「によって、今もなお語り(ヘブル11章4節)、多くの人々をイエスのもとに導いているのです。拙著「使徒ヨハネの生涯」41「バプテスマのヨハネ(5)」より転載
2009.12.15
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「バプテスマのヨハネ(4)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、7章18~28節 その後もヨハネは、イエスの先駆者としての使命感に燃えて、説教していました。 一、不法な結婚をしたヘロデ王の罪を責めたので、捕らえられたヨハネ(3章19、20節) そのころ、ガリラヤの国主であるヘロデ・アンティパスは、よりによって自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤに横恋慕し、自分の妻を離縁して、彼女をめとりました。それは主の律法によって禁じられている不法な行為でした(マタイ14章3、4節)。 ヨハネは真理に基づいて神の道を教え、人の顔色を見ず、だれをもはばからないで、大胆に説教する人ですから、たとえ相手が国主であっても、その罪をみのがすはずがありません。「あなたが彼女をめとるのは不法です」と、その罪をきびしく責めました(同14章4)。ヘロデは、激怒し、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのです(同14章3節)。 二、獄中からふたりの弟子たちを主のもとに送り、イエスがメシヤであるかどうかを尋ねさせたヨハネ(18~23節) 先駆者としての使命感に燃えているヨハネでも、牢に閉じ込められている間は説教することができず、人の話に耳を傾けるしかありません。ある時、獄中でイエスのみわざについて聞いたヨハネは、ふたりの弟子を主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と言わせました(19節)。 なぜヨハネは、このような質問をしたのでしょうか。彼にしてみれば、イエスが獄中にいる自分を救い出してくださらないことを疑問に思うのは当然です。事実、彼は最後まで助け出されず、ヘロデによって首をはねられて殉教しています(マタイ14章10節)。 イエスは、罪からの救い主ですが、必ずしも苦難からの救い主ではありません。人々がイエスにつまずくのは、イエスを罪からの救い主としてではなく、苦難からの救い主として信じるからです。イエスが「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」(23節)と言われたのは、このような深い意味があったのではないでしょうか。 イエスの先駆者として、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」(3章3節)ヨハネ自身が、このことを学ばなければなりませんでした。ヨハネが獄中から救い出されずに殉教したのは、先駆者としての使命が終わったからです(使徒13章25節)。 三、バプテスマのヨハネが預言者よりもすぐれた神から遣わされた先駆者であることを群衆に話されたイエス(24~28節) ヨハネの使いが帰ってから、イエスは、群衆にヨハネについて話し出されました。「風に揺れる葦」(24節)とは、世の風潮に流される意志薄弱な人、「柔らかい着物を着た人」(25節)とは、世の栄耀栄華をまとった人のことを教えています。ヨハネは、このような人ではなく「預言者」です。いや「預言者よりもすぐれた者」、すなわち「主の御前に先立って行き、その道を備え」たキリストの先駆者です(1章76節)。 イエスは、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりはすぐれています」と言われました(28節)。 旧約時代の預言者は、聖霊に動かされ、神の霊感を受けてメシヤのことをつぶさに預言しました。これに対してバプテスマのヨハネは、先駆者として目のあたりにイエスを見ただけでなく、人々にメシヤを紹介したのですから、旧約時代における最大の預言者です。 しかし「神の国で一番小さい者」、すなわち主の救いを受けた最も小さいキリスト者でさえ、神の国を受け継ぐ「キリストとの共同相続人であり」(ローマ8章17節)、キリストの「花嫁に定め」られているので(第二コリント11章2節、エペソ5章31、32節)、「花婿の……友人」であるバプテスマのヨハネよりもすぐれています(ヨハネ3章29節)。 このように新約時代の特権は、旧約時代の特権よりもまさっているのです。拙著「使徒ヨハネの生涯」40「バプテスマのヨハネ(4)」より転載
2009.12.11
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「バプテスマのヨハネ(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、3章22~36節 ヨハネは、自分のふたりの弟子をイエスのもとに送りましたが(1章35~37節)、その後も、キリストの先駆者として「サリムに近いアイノンでバプテスマを授けてい」ました(23節)。 一、イエスがヨハネよりも弟子を多くつくっていることを見て、師であるヨハネに的外れな質問をした弟子たち(22~26節) ヨハネが宣教を開始し、悔い改めのバプテスマを説くと、いつもヨハネの回りは黒山の人だかりで、多くの人々がヨハネの弟子になりました(マルコ1章4、5節)。ところがイエスがニコデモと話された後、「ユダヤの地に行き、……バプテスマを授けておられ」ると(22節)、多くの人々がイエスの弟子になり、ヨハネの弟子よりも多くなりました(4章1節)。 これを見たヨハネの弟子たちは、ヨハネに「あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます」と言いました(26節)。 これは、「どうして先生は、人々にイエスを紹介するのですか。そんなことをすればみなイエスの弟子になり、先生の弟子が減ってしまうではありませんか」という意味です。弟子たちは、ヨハネの使命を知らなかったので、このような的外れな質問をしたのです。 二、自分の使命は人々にキリストを信じる備えをさせることで、その使命も終わろうとしていることを語ったヨハネ(27~30節) このような弟子たちの的外れな質問に対してヨハネが答えたのが、27節から30節までのことばです。これをわかりやすく説明するなら、次のように言うことができます。 「キリストは、天から来て、すべてのものの上におられ、いっさいの権威が与えられた方で、私は、その方から受ける者にすぎません(27節)。あなたがたこそ『私はキリストではなく、その先駆者である』と私が言ったことの証人ではないですか(28節)。花婿であるキリストは、花嫁である教会を迎えるために来られました。そのために準備した花婿の友人である私は、花婿であるキリストの声を聞いて喜んでいます(29節)。イエスはメシヤとして栄光を受けられる方であり、私は使命を終えて退かなければなりません(30節)」。 ヨハネは、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と言いました(30節)。これは、自分の名誉や栄光を求めず、イエスの先駆者としての使命を果たすことに徹し、ただ神の栄光が現されることを願う人のみ言うことができることばではないでしょうか。 ペテロやヨハネなどの十二使徒をはじめ、後から使徒になったパウロ、そして代々の弟子たちはみな、キリストの福音の働きを受け継ぐ「後継者」です。しかしバプテスマのヨハネだけは、キリストが誕生される前に生まれ、キリストが宣教を開始される前に悔い改めのバプテスマを宣べ伝えて、人々に救い主を受け入れて信じる備えをさせる「先駆者」です。バプテスマのヨハネは、人々が旧約時代のユダヤ教から、新約時代のキリスト教に移行するために、両者の間を橋渡しするという大切な使命を果たしたのです。 三、地に属し、地のことばを話す先駆者ヨハネを通して、天から来て、神のことばを話される御子を信じて永遠のいのちを持つことができることを述べた使徒ヨハネ(31~36節) 31節と34節のことばは、「キリストは、すべてのものの上におられ、神のことばを話されるが、バプテスマのヨハネは、地に属し、地のことばを話す」という意味です。これがヨハネの弟子からイエスの弟子に変わらなければならない理由であり、イエスの弟子になる者、すなわち御子を信じる者は永遠のいのちを持つのです(36節)。 聖書は、人々がキリストを信じないのは、ヨハネの言うことを信じないからだと教えています。なぜなら地上のことを語るヨハネを信じない人は、天上のことを語られるキリストを信じることはできないからです(12節)。またヨハネという先駆者を通して罪を悔い改め、心が備えられなければ、キリストを信じることができないからです(使徒19章4節)。拙著「使徒ヨハネの生涯」39「バプテスマのヨハネ(3)」より転載
2009.12.08
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「バプテスマのヨハネ(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章6~40節 福音書の著者である使徒ヨハネは、神の御子が降臨されることを述べる前に、「神から遣わされたヨハネという人(バプテスマのヨハネ)が現れた」と記しています(6節)。 一、光とことばであるキリストをあかしするために来たヨハネ(6~8、14、15節) バプテスマのヨハネについて聖書は、次のような三つのことを教えています。 ◇ヨハネは、「光」であるキリストをあかしする「証人」です(7、8節)。 ◇ヨハネは、「ことば」であるキリストを紹介する「声」です(14、15、23節)。 ◇ヨハネは、「救い主」であるキリストを信じる備えをさせる「先駆者」です(23節)。 すべての人は、ヨハネという先駆者によって罪を悔い改め、心が備えられて、光とことばである救い主イエス・キリストを信じることができるのです(ルカ3章4~6節)。 二、ユダヤ人たちの質問に対してキリストの先駆者であると答えたヨハネ(19~28節) ヨハネが荒野に現れて、悔い改めのバプテスマを説いたので、ユダヤ全国の人々が彼からバプテスマを受けました(マルコ1章5節)。これを見た大ぜいの人々は、ヨハネのことをメシヤではないかと思っていました。それでユダヤの宗教的な指導者たちは、ヨハネがほんとうにメシヤであるかどうかを、彼自身から直接聞いて確かめる必要がありました。 ユダヤ人たちは、祭司とレビ人を彼のもとに遣わし、「あなたはだれですか」、「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか」という二つの質問をしました(22、25節)。 この質問に対してヨハネは、自分は「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもない」こと(25節)、自分の使命は、人々が悔い改めるために、水でバプテスマを授け、キリストを信じる備えをさせることであると答えました(23、26節)。 ヨハネは、自分の使命は、「主の道をまっすぐに」することであり(23節)、自分の立場は、そのために「荒野で叫んでいる」声に過ぎず(23節)、自分の実質は、「その方(キリスト)のくつのひもを解く値うちも」ないことをわきまえていたのです(27節)。 三、イエスを世の罪を取り除く神の小羊であると証言したヨハネ(29~34節) ヨハネは、自分のほうにイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました(29節)。ヨハネも初めは、この方を知りませんでしたが、この方が神の子であるとわかったのは、彼がこの方にバプテスマを授ける時、御霊が鳩のように天から下って、この方に上にとどまられるのを見たからであると述べています(32~34節)。 しかしヨハネは、どうしてその方が「世の罪を取り除く神の小羊」であるとわかったのでしょうか。言うまでもなく神の啓示によって知ったのですが、それとともに自分の使命と立場と実質をよくわきまえていたので、そのことがわかったにちがいありません。 ヨハネは、罪の告白と悔い改めを表す水のバプテスマを授けていましたが、これは、どこまでも世の罪を取り除く神の小羊であるキリストのもとに行くための心備えです。人は罪の告白と悔い改めだけでは真の救いは得られず、世の罪を取り除く神の小羊のもとに行く時、罪からの救いが与えられることを知っていたのではないでしょうか。 四、先駆者としての使命感に燃え、ふたりの弟子をイエスに紹介したヨハネ(35~40節) その翌日、ヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていましたが、「イエスが歩いて行かれるのを見て、『見よ、神の小羊』と言」いました(35、36節)。このふたりは、ヨハネの弟子で、後の使徒ヨハネとアンデレです(35、40節)。しかしバプテスマのヨハネは、このふたりの弟子に神の小羊であるイエスを紹介したので、ふたりはイエスについて行き、彼らはイエスの弟子になりました(36~40節)。キリストの先駆者としての使命感に燃えていたヨハネは、自分のふたりの弟子さえもイエスのもとに送ったのです(36、37節)。拙著「使徒ヨハネの生涯」38「バプテスマのヨハネ(2)」より転載
2009.12.05
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「バプテスマのヨハネ(1)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、3章1~17節 バプテスマのヨハネは、イエスの先駆者としての使命感に燃えて生きた人です。 一、イエスの先駆者としてこの世に生を受け、成長したヨハネ(ルカ1章5~80節) 主は、ご自身の御子イエスをこの世に遣わされるに先立って「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ……整えられた民を主のために用意する」先駆者を送られる必要がありました(ルカ1章17節)。 それで主は、「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた」ザカリヤとエリサベツに男の子を与えることを約束されました(同1章6、13節)。この子こそ神の御子イエスの先駆者に選ばれたバプテスマのヨハネです。 ヨハネが誕生するまでの間、ザカリヤとエリサベツは、主の訓練を受けなければなりませんでした。月が満ちて男の子が生まれました(同1章57節)。「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた」のです(同1章80節)。 二、荒野で罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いたヨハネ(1~12節) 「皇帝テベリオの治世の第十五年……神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下」りました。「ヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説」きました(ルカ3章1~3節)。 ヨハネは、燃えさかる火のように激しいことばで罪の告白と悔い改めを迫る説教をしました。その説教は、「悔い改めにふさわしい実を結」ばなければ、火に投げ込まれて滅ぼされることを警告するとともに(8~10節)、自分のあとから来られるキリストが「聖霊と火とのバプテスマをお授けにな」る備えをさせるものでした(11、12節)。 悔い改めを迫るヨハネの説教を聞いた群衆と取税人たちと兵士たちは、ヨハネに「私たちはどうすればよいのでしょう」と尋ねています(ルカ3章10、12、14節)。このような質問に対するヨハネの答えが三つとも、持ち物や金銭をどのようにして得るか、またそれをどのように用いるかということであることは注目に値します(同3章11、13、14節)。 パウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」と述べています(第一テモテ6章10節)。人は金銭を慕う時、そのために最も大切な人格や良心、純潔や正義まで売ってしまいます。金銭の魔力に負けている人は、決して真理と正義を行うことはできません。人は金銭に対して清廉潔白でなかったら、ほかのことにおいて正直であることはできないでしょう。金銭をどのようにして得るか、またそれをどのように用いるかということほど、人の心の姿が如実に現れるものはありません。主が「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と言われたとおりです(マタイ6章21節)。それでヨハネは、人々が悔い改めにふさわしい実を結ぶために、このように答えたのではないでしょうか。 三、イエスのことばに従って、イエスにバプテスマを授けたヨハネ(13~17節) ヨハネは、イエスがバプテスマを受けるために自分のところに来られたのを見て驚きました。自分こそイエスからバプテスマを受けるはずなのに、イエスが自分のところにおいでになったからです。それでイエスにそうさせまいとしました。しかしイエスが、「今はそうさせてもらいたい」と言われたので、ヨハネは承知しました(13~15節)。 ヨハネは、どうしてイエスがバプテスマを受けられたのか、この時はわからなかったことでしょう。しかし一つだけわかったことがありました。それは、イエスがバプテスマを受けられた時、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられる」のを見ました。ヨハネも、初めは、この方を知りませんでしたが、これを見て、「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」ことを知ったのです(ヨハネ1章32、33節)。拙著「使徒ヨハネの生涯」37「バプテスマのヨハネ(1)」より転載
2009.12.03
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