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「神がともにおられる人生」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、2章1~11節 主イエスは、ガリラヤのカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇蹟を行われました。この出来事は、表面的には単純なことのように見えますが、その内容は実に深遠であり、私たちに人生の奥深い真理を教えています。 一、人生の喜びと悲しみ(1~5節) 婚礼というのは、人生の中で最も喜ばしい、めでたい日です。このような時、ぶどう酒がなくなるという不祥事が起きました。婚礼の時は、「順境の日」を象徴し、ぶどう酒がなくなった時は、「逆境の日」を象徴しています。人生の厳しい現実の第一は、晴れの日もあれば、雨の日もあり、悲喜こもごも至るということです。 伝道者の書の著者は、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」と教えています(伝道者7章14節)。順境の日は、大いに喜び、また楽しめばよいのです。しかし順境の日ばかりが続かないのが人生です。私たちは、逆境の日には、どうするでしょうか。ただそれを恨み、自暴自棄に陥るでしょうか。それとも逆境の中で反省し、それを自らの心と生活を変える手段とするでしょうか。実に人生の別れ道は、ここにあるのです。 逆境や苦難は、私たちがどんなに弱く、また罪深い者であるかという私たちの赤裸々な姿を教えるだけでなく、私たちを神に近づけるものです。詩篇の著者が「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのみことばを守ります」と述べている通りです(119篇67節)。私たちの苦難に対する態度は、どうでしょうか。 二、人生の苦役と報償(6~9節) このような危機に直面した時、主イエスは、手伝いの者たちに水を汲ませていますが、この仕事は、決して生易しいものではなかったにちがいありません。人生の厳しい現実の第二は、日々、仕事があり、労働があるということです。この労働や仕事は、人類の堕罪以後、「顔に汗して糧を得」る苦役になってしまいました(創世記3章19節)。 しかし私たちは、苦役をすることによって人々の陰の力というものを知るなら、どれほど自分が無知であり、そのために知ったかぶりをして人を冷たくさばいていたのか、その高慢と怠慢、また愛と知恵の無さを教えられ、へりくだるようになります。詩篇の著者が、「主は苦役をもって彼らの心を低くされた」と述べている通りです(107篇12節)。 もし私たちが神のために水を汲むなら、その水は、「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14章17節)という天のぶどう酒に変わりますが、自分のために水を汲むなら、それは、ただ苦役に過ぎず、その憂さと辛さを晴らすために、身近な楽しみや罪深い快楽にうつつをぬかす者になってしまうでしょう。 三、人生の行程と結末(10、11節) このように人は、だれでも苦難に会い、また苦役をしていかなければなりません。しかし私たちは、その度に「外なる人(からだ)は衰えても、内なる人(霊)は日々新たにされています」(第二コリント4章16節)と言って成長しているでしょうか。それとも「どうして、昔のほうが今より良かったのか」(伝道者7章10節)と、知恵のないことを言って退歩しているでしょうか。 もし私たちが逆境の日に反省しないで、それを心と生活を変える手段としないばかりか、毎日の苦役の意味も悟らず、ただ憂さ晴らしの快楽によって逃避しているなら、どうして日々前進していくことができるでしょうか。 しかし私たちの人生には、いつも神がともにおられ、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8章31節)。私たちが、「苦しむとき、そこにある助け」(詩篇46篇1節)となってくださる神を仰ぎ、「神がすべてのこと(苦難や苦役さえも)を働かせて益としてくださることを」信じるなら(ローマ8章28節)、あらゆる苦難を乗り越え、限りなく前進していくことができるのです。
2009.04.30
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「御霊に属する人(御霊の人)」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、5章16、17節 パウロは、「御霊に属する人と肉に属する人」について述べ(第一コリント3章1節)、また「御霊の人であるあなたがた」という言葉を用いています(ガラテヤ6章1節)。そして「私たちは今後、人間的な標準で(直訳、肉によって)人を知ろうとはしません」と記しています(第二コリント5章16節)。 そこで、人を正しく理解し、人と正しく接し、人を正しく導くために、「御霊の人(御霊に属する人)」とは、どのような人なのかということを学んでみましょう。 一、人の過去の姿についての考察 肉に属する人は、浅薄で、人を見る時、その人の現在の姿だけを見て、批判したり、非難したりします。しかし、これは決して正しい態度ではありません。なぜなら、その人の過去の姿を知らなければ、現在のその人を正しく理解するができないからです。 御霊に属する人(御霊の人)は、思慮深く、長い目で人を見ます。すなわち、その人の過去から現在に至るまでの生涯の経歴や背景、また信仰生活の過程を正しく知ろうとします。それは、その人の現在の姿だけを見て、人間的な標準で(肉によって)、人を批判したり、非難したりして、人をつまずかせることをせず、その人の過去の姿を正しく知って、霊的な救いと建て上げに導こうとするからです。 二、人の現在の姿についての考察 キリスト者も、人間である以上、霊的なものだけでなく、人間的なものも持っています。すなわち前者は、信仰と神の恵みによって与えられた性質や性格、また賜物や才能であり、後者は、先天的な性質や性格、また賜物や才能、そして育った環境による後天的な性質や性格、また賜物や才能です。 肉に属する人は、人を見る時、その人の霊的なものと人間的なものとを区別することができず、次のような二つの誤りに陥ります。 第一は、実際は信仰が薄い人であるにもかかわらず、その人が人間的に良い賜物を持っているので、篤い信仰を持っているかのように見てしまうことです。これは、人につまずく原因になります。なぜなら私たちが人につまずくのは、その人の信仰の実質以上のことを相手に要求するからです。 第二は、その反対で、実際は信仰が篤い人であるにもかかわらず、その人が人間的に良い賜物を持っていないので、信仰が薄い人であるかのように見てしまうことです。これは、人を見下げて、高ぶる原因になります。なぜなら私たちが人を見下げて、高ぶるのは、その人の信仰の実質以下に相手を思うからです。 しかし御霊に属する人(御霊の人)は、その人の霊的なものと人間的なものとを正しく区別することができるので、人につまずいたり、人を見下げたりすることはありません。なぜなら信仰者は、自分より信仰の薄い人につまずいたり、反対に自分より信仰の篤い人を見下げたりすることはしないからです。 信仰の世界では、人間的なものよりも霊的なもののほうが大切です。霊的なものが先行するなら、人間的な賜物も生かされますが、人間的な賜物が先行するなら、それは信仰の妨げになるからです。 三、人の将来の姿についての考察 肉に属する人は、過去と現在の姿が思わしくないと、将来を絶望的に見て、さじを投げてしまいます。しかし御霊に属する人(御霊の人)は、主イエスがあの現在の未熟なシモンの中に、将来の輝かしいペテロの姿をご覧になったように(ヨハネ1章42節)、過去と現在において芳しくない人に対しても、将来に期待と希望を持つのです。私たちが相手に対して希望を抱いて接する時にのみ、その人は立ち直れるからです。 御霊に属する人は、神のように広い心と長い目をもって人を見ます。すなわち過去の姿には、その人への理解と同情を表し、愛をもって接し、現在の姿には、その人の霊的な賜物と人間的な賜物とを区別して信仰をもって接し、将来の姿には、その人の将来性と有用性を見て、希望をもって接するのです。
2009.04.26
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「神の奴隷と人の奴隷」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、7章22、23節 「自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(22、23節)。 この御言葉の前半にはキリストに属する奴隷、すなわち神の奴隷について、後半には人間の奴隷について記されています。そこで、「キリストに属する奴隷」とは、どのようなことなのか、また「人間の奴隷となってはいけません」とは、どのような意味なのかということについて聖書から学んでみましょう。 一、三種類の奴隷について 聖書は、奴隷について次のような三種類の奴隷がいることを教えています。 1.強制的(または義務的)な奴隷 これは、文字通りの奴隷のことで、経済的に、または身分や立場の上で拘束され、自由がない状態のことです。 2.精神的(または霊的)な奴隷 これは、経済的、また身分や立場の上では自由ですが、その心が、ある人間やある物事の「とりこ」になっている状態です。これには、神に心を奪われている良い場合と、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」という悪い場合とがあります(ヨハネ8章34節)。パウロは、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから……しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と述べています(ガラテヤ5章1節)。 3.自発的な奴隷 これは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」とあるように(第一コリント9章19節)、完全に自由な者が、人々をキリストの救いに導くために、また愛のゆえに、自発的に人に仕えて奴隷となることです。 私たちは、一口に奴隷と言っても、三種類の奴隷がいることを知っているでしょうか。 二、人の奴隷について ここでパウロが「人間の奴隷となってはいけません」(23節)と述べているのは、三種類の奴隷の中で、どれでしょうか。 パウロは、第一番目の奴隷制度を決して承認していませんが、いつかは無くなる時代が来ることを信じて、神の御手にゆだね、その廃止を訴えるような表立った政治運動はしていません。もちろん第三番目の自発的な奴隷を禁止しているのでもないことは、言うまでもありません。 パウロがここで述べているのは、第二番目の精神的な奴隷のことです。これには様々なものがありますが、代表的なものだけ述べるなら、次のような三つです。 1.人を恐れる 私たちは、恐れている人の顔色をうかがったり、ご機嫌をとったりして、その人の言いなりになります。 2.人に甘える 甘えは、相手の好意を失うことを最も恐れるものですから、やはりその人の言うとおりになります。 3.人を憎む 私たちは、憎んでいる人のことが絶えず気にかかり、様々なことにおいて、その人に振り回されてしまいます。 これらはみな、精神的に人間の奴隷になっていることなのです。 三、神の奴隷について なぜ私たちは、人間の奴隷となってはいけないのでしょうか。それは、罪の奴隷となっていた私たちは、キリストの尊い血という代価をもって買い戻され(すなわち贖われ)、新しい主人である神の奴隷とされたからです。 神の奴隷には、三つの特徴があります。 1.義務的な奴隷 代価をもって買われた私たちは、神に仕える義務があります。 2.精神的な奴隷 しかし私たちが神に仕えるのは、義務からではなく、あまりにもすばらしい神の愛に心を奪われるからです。 3.自発的な奴隷 その結果、私たちは、愛のゆえに自発的に人に仕えていくのです。 そして私たちは、この神の奴隷になることによってのみ、罪から解放され、人間の奴隷となることからも解放されるのです。
2009.04.23
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「神の自由と人の自由」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、5章1、13節 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」(1節)。 「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(13節)。 この御言葉の前半には神が私たちに与えてくださる自由について、後半には人がその自由を濫用してはならないことについて記されています。そこで、神の自由とは「神が与えてくださる自由」、人の自由とは「人が求める自由」として考え、特に両者は、どのような違いがあるのかということについて聖書から学んでみましょう。 一、人が求める自由について 人類の歴史は、不自由な社会にあって自由を求め続けた歴史です。人が求める自由の代表的なものは基本的人権です。日本国憲法では、次のような自由が保障されています。◇奴隷的な拘束・苦役からの自由(十八条)◇思想と良心の自由(十九条)◇信教の自由(二十条)◇集会・結社・表現の自由(二十一条)◇居住・移転・職業選択の自由(二十二条)◇学問の自由(二十三条)◇生命の自由(三十一条)◇身体の自由(三十四条) 民主主義が確立した国は、基本的人権を獲得することができました。しかし生まれながらの人間は、この基本的人権だけでは飽き足らず、次のような自由を求めるだけでなく、そのように振舞っています。1.自らの欲望のままに振る舞う自由。2.他の人のことなど考えず、わがままに振る舞う自由。3.誰にも干渉されず、放って置かれる自由。 しかし、これらはみな、間違った自由ではないでしょうか。 二、神が与えてくださる自由について 神が与えてくださる自由は、どのようなものでしょうか。新約聖書の原語であるギリシャ語には、日本語で「自由」と訳される言葉が三種類ほどあり、その言葉の意味は、それぞれ次の通りです。1.奴隷として束縛されないこと(1節)2.赦免されること(ルカ4章18節)3.行動する権利(第一コリント8章9節) これらのことから神が与えてくださる真の自由とは、次のようなものです。 ◇罪の奴隷となって罪に束縛されていた人が、罪から解放されることこそ真の自由です(ローマ6章17、18節)。 ◇永遠の死という刑罰を免れ、罪を赦されることこそ真の自由です(同8章1、2節)。 ◇善も悪も支配する力を持つことこそ真の自由です。なぜなら、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」(同7章19節)しまうことほど不自由なことはないからです。 三、自由の教訓について 神が与えてくださる自由と人が求める自由には、次のような違いがあります。 1.神が与えてくださる自由私たちを内側から束縛する罪から解放されることです。 2.人が求める自由私たちを外側から束縛する法から解放されることです。 「法」とは、「おきて」とか「定め」、また「きまり」とか「規則」のことですが、この「法」には「正しい法」と「間違った法」があります。人を外側から拘束する間違った法から解放されることは、基本的人権を獲得する正しいことですが、人を外側から規制する正しい法から解放されることは、間違った自由を求める罪です。 これに対して神が与えてくださる自由は、私たちを内側から束縛する罪から解放されることであり、これこそ十字架の贖いによるキリストの救いです。 私たちは、私たちを内側から束縛する罪から解放されて、「自分のしたいと思う善を行」い、「したくない悪を行」わない(ローマ7章19節)自由を持っているでしょうか。
2009.04.20
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「バラムの道」 甲斐慎一郎 ペテロへの手紙、第二、2章13~19節 「罪に関しては飽くことを知らず……その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです」(14、15節)。 聖霊によって、きよめられなれけばならない「バラムの道」について学んでみましょう。 一、貪欲の道 聖書は、「不義の報酬を愛したバラム」と記しています(15節)。 バラムは、主の預言者であり、神がイスラエル人を愛しておられることを良く知っていました。モアブの王バラクがイスラエル人をのろうように要請しても、直ちに断るべきであり、神にその善し悪しを問う必要はありませんでした(民数記22章5~8節)。 バラムは、主から「彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない」(同22章12節)という答えを聞いたのですから、「主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」と言うことは(同22章19節)、不必要であるだけでなく、罪深い行為でした。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません」と(同22章18節)、口では立派なことを言いながらも、心は貪欲に満ちていました。 バラムは、神に従いながら、自分の貪欲な願いを満たそうとしたのであり、「神にも仕え、また富にも仕えるということ」を敢えてしたのです(マタイ6章24節)。バラムが神に2回目の質問をし、それに対して神が「彼らとともに行け」(民数記22章20節)と仰せられたのは、「そんなに行きたいなら、勝手に行きなさい」と放任されたのです。これを「直接的な神のみこころ」に対して「許容的な神のみこころ」と言います。 バラムは、神に公然と逆らって自分の貪欲な願いを満たそうとしたのではなく、神の前に良い態度を見せつつ、自分の貪欲な願いをも通そうとしました。人は、神のみこころの遂行ということに事寄せて、自分の不純な野心を遂げようとすることがあるのです。 二、迷いの道 聖書は「利益のためにバラムの迷いに陥り」と記しています(ユダ11節)。 貪欲の当然の結果は迷いです。貪欲とは、悪いことを求めるだけでなく、神と富の両方を求めることです。バラムは、貪欲のために神と富との間をさ迷いました。ジョン・ウェスレーは「人は神に献身するか、悪魔に献身するかのどちらかである」と述べています。 神に献身するなら、神に導かれ、悪魔に献身するなら、悪魔に導かれます。人は自分で選択して何でも自由にしているように見えますが、実際はそうではなく、神か悪魔に導かれているのです。人間は、決して独立自存の存在ではないからです。貪欲な心がなくならない限り、人は必ず迷いに陥るのです。 三、滅亡に至る道 聖書は、「我汝の道の直ちに滅亡に至る」と記しています(民数記22章32節、文語訳)。 バラムは、遠くからイスラエル人をのろっても何にもならず、またのろうことは神のみこころにかなわないことをよく知っていて、イスラエルの民を祝福しました。しかし、その後、「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせ」(黙示録2章14節)、卑劣にも民の中に入って罪を犯させ、神ののろいをもたらしました。バラムは、神に従ってすばらしい預言をしたにもかかわらず、貪欲な心にも従って、イスラエル人に罪を犯させ、皮肉にも同胞に殺されたのです(民数記31章8節)。 神のみこころを知り、神に従う良い心があり、神に尊く用いられながらも、神のみこころにかなわない貪欲な願いを通すなら、いのちに至る船から滅びに至る船に乗り換えているのです。この貪欲な心こそ、聖霊によって、きよめられなければならないのです。
2009.04.17
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「神の招きと人の招き」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、7章36~50節 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5章32節)。 「あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた」(ルカ7章36節)。 この前半の5章の言葉にはキリストの招き、すなわち神の招きについて、後半の7章の言葉にはパリサイ人の招き、すなわち人の招きについて記されています。 聖書は、招きに関する記事が多く記されていますが、この二つの言葉から神の招きと人の招きについて、特に両者は、どのような違いがあるのかということについて聖書の中から学んでみましょう。 一、三種類の招きについて 一口に招きと言っても、様々な招きがあります。どのような招きがあるのかということに関しては、何のために招くのかということによって分けるのが、わかりやすいのではないでしょうか。たとえば、商売や仕事のため、また募集や嘆願のため、あるいはお礼やお返しのため、さらに持て成しや贈与のため、そして交わりや愛のため等などです。 しかし、これでは余りにも多すぎるので、ここでは、「誰のために招くのか」と「招きの対象」に分けてみましょう。これには、次のような三つの場合が考えられるのではないでしょうか。 1.自分のために招くこれは商売や仕事、また募集や嘆願等のための招きです。 2.相手のために招くこれは歓迎や持て成し、また贈与や付与等のための招きです。 3.両者のために招くこれは交わりや愛、また理解や一致等のための招きです。お礼やお返しのための招きもこれではないでしょうか。 二、人の招きについて 人の招きの中で、最も多いのは、何と言っても商売や仕事、また募集や嘆願などのための招きです。交わりや愛、またお礼やお返し等の招きがこれに続き、持て成しや贈与等のための招きは、最も少ないのではないでしょうか。これらをまとめてみるなら、人の招きというものは、1.自分のための招きが第一です。2.両者のための招きが第二です。3.相手のための招きが第三です。 しかし人の招きというものは、第三番目に相手のためと言いながらも、その根底には自分の利益のためという心が潜んでいることを忘れてはなりません。なぜなら私たちがほんとうに招きたい人は、自分にとって有用なや有益な人であり、無用な人や無益な人、まして有害な人、この罪深い女のような、いわゆる「招かれざる客」は決して歓迎しないからです。 三、神の招きについて これに対して神の招きは、どうでしょうか。第一は、私たちに罪からの救いを与えるための招きであり(ルカ5章32節)、第二は、私たちを神との交わりに入れるための招きであり(第一コリント1章9節)、第三は、私たちに神の務めをさせるための招きです(マタイ4章19節)。すなわち神の招きは、1.相手のための招きが第一です。2.両者のための招きが第二です。3.ご自身のための招きが第三です。 しかし神の招きは、第三番目に神ご自身のためとありますが、結局は、私たち自身のためであることを忘れてはなりません。なぜなら神の務めを果たすことができるような者に変えられるのは、私たち自身にほかならないからです。神は、罪のために無用で無益なだけでなく、有害な者である私たちを招いて、神のために有用で有益な者に造り変えてくださるのです。
2009.04.14
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「主の復活による救い」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、15章 キリスト教は「霊魂不滅」だけでなく、からだの復活による「肉体の不滅」をも教えています(ヨハネ5章29節)。そこで聖書が教えている復活に関する大切な真理を学んでみましょう。 一、過去におけるキリストの復活の事実について(1~11節) パウロは、キリストの復活は、誤って伝えられた根も葉もない架空の話ではなく、まことしやかに捏造された作り話でもなく、実際に起きた出来事に基づいた確かな実話であることを述べています。 G・C・モルガンはキリストの復活を証明する三つの事実を述べています。1.キリスト者の福音体験(1、2節)。2.聖書の復活に関する預言(3、4節)。3.主の復活を目撃した証人(5~8節)。 もしキリストが復活されなかったなら、信じて罪から救われるキリスト者もキリスト教会も存在しなかったでしょう。実にキリストの復活は、キリスト教会の存在という確かな証拠があり、聖書の預言という確かな証言があり、主の復活を目撃した確かな証人のいる事実なのです。 二、現在におけるキリストの復活の意味について(12~49節) ところがコリントの教会の中のある人たちは、次のような三つの疑問のゆえに、死者の復活を信じていませんでした。 1.死者は、どうして復活するのか――復活の原因や理由に関する疑問 2.死者は、どのようにして復活するのか――復活の方法や手段に関する疑問 3.死者は、どのようなからだで復活するのか――復活の結果や様態に関する疑問 これに関してパウロは、簡潔に、しかもきわめて適切に答えています。 第一の疑問には「キリストが復活されたのだから、死者の復活があるのは当然である」(13節)と答えています。 第二の疑問には「からだの復活といっても、死んだ種粒から新しいからだが生じるという秘義以上に大きい秘義ではないのだ」(36~38節、G・C・モルガン)と答えています。 第三の疑問には「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(44節)と答えています。 このようにパウロは、疑問に答えながら、過去におけるキリストの復活は、現在の私たちにどのような意味を持っているかについて述べています。 1.主の復活は私たちの救いの基礎であり、根拠です(14~22節)。 キリストの復活によって罪からの救いが成就するからです(第一ペテロ1章3節)。 2.主の復活は神の支配の基礎であり、根拠です(23~28節)。 キリストの復活によって神のご計画は完成するからです。 3.主の復活は私たちの希望の基礎であり、根拠です(42~49節)。 キリストの復活によって私たちも復活することができるからです。 三、将来におけるキリスト者の復活の奥義について(50~57節) 最後にパウロは、世の終わりにおけるキリスト者の復活について、次のような三重の表現によって述べています。 1.私たちの完全な変貌です(51、52節)。 私たちは、永遠に眠ってしまうのではなく、終わりのラッパとともに、たちまち一瞬のうちに変えられるのです。 2.神の与えてくださる完全な住まいを着ることです(53、54節)。 私たちは、天から与えられる住まいを着るのであり(第二コリント5章1~4節)、それは永遠に朽ちず、不死です。 3.死に対する完全な勝利です(54~57節)。 死ぬべきものがいのちにのまれ、もはや死はなくなるのです(黙示録21章4節)。 ですから私たちの労苦は、主にあって決してむだになることはないのです(58節)。
2009.04.11
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「神の謙遜と人の謙遜」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、2章1~11節 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(3節)。 「キリストは……人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(6~8節)。 この前半の3節には人の謙遜について、後半の6~8節にはキリストの謙卑、すなわち神の謙遜について記されています。そこでこの言葉から謙遜について学んでみましょう。 一、人の謙遜について 人の謙遜について聖書は次のような三段階の謙遜を教えています。 第一段階は、身を低くする謙遜です。 とかく人の世は、「出る杭は打たれる」ところです。それで人々に受け入れられるためには、「能ある鷹は爪を隠す」という謙遜な振る舞いが必要になってきます。これは、自らの偉大さを自覚している謙遜です。 第二段階は、心の謙遜です。 これは、「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」(黙示録3章17節)を認め、神の前に無一物で、何の良い物も持ち合わせていないことを意識することです。これは、自らの無力さを自覚している謙遜です。 第三段階は、霊の謙遜です。 これは神の前に返済不能な罪という負債を背負った債務者であることを認め(マタイ18章24、25節)、救い主の必要を意識することです。これは、自らの罪深さを自覚している謙遜です。 二、神の謙遜について 神の謙遜について聖書は次のような三段階の謙遜を教えています。 第一段階は、人となられた謙遜です。 キリストは、「神の御姿である方なのに……人間と同じようになられました」(6、7節)とは、何と驚くべきことでしょうか。 第二段階は、仕える者となられた謙遜です。 さらに驚くべきことは、キリストは、人に「仕えられるためではなく」(マルコ10章45節)、かえって「ご自分を無にして、仕える者の姿をと」(7節)られたことです。 第三段階は、罪の負債者となられた謙遜です。 しかし最も驚くべきことは、罪の奴隷となっている私たちを救うために、「十字架の死にまでも従われ」(8節)、罪という負債を肩代わりする債務者となられたことです。 三、救いの道について これらのことを分かりやすくまとめるなら、下の図のようになります。この「V」の図において両者が接しているのは最下点のみです。キリストは、罪の奴隷となっている私たちを救うために罪という負債を肩代わりする債務者のところまで降りてくださったのであり、私たちも罪の債務者のところまで降りて行くなら、贖いの代価としてのキリストのいのちを受け、罪から救われることができます。 このように罪の債務者となってくださったキリストのところまで降りて行き、キリストのいのちを受ける時、私たちは、真の意味において謙虚な人になることができるのです。
2009.04.09
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「十二使徒への訓戒(4)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章34~42節 イエスは、十二使徒への訓戒の第四回目として、彼らの「動機」について教えられました。十二使徒への訓戒を順を追って述べるなら、次のようにまとめることができます。 1.なすべき事(5~15節) 彼らのなすべき事は、すばらしい福音を宣べ伝え、愛の行いと奉仕をすることです。 2.あるべき姿(16~23節) そのために、彼らのあるべき姿は、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであることです。 3.心構え(24~33節) そのために、彼らの心構えは、人を恐れず、神を恐れることに徹することです。 4.動機(34~39節) そのために、彼らの動機は純粋であることです。 そして最後にイエスは、ご自分の弟子たちを受け入れる者への報いについて述べておられます(40~42節)。 それでは、私たちの動機が純粋であるかどうかをためすものは、何でしょうか。イエスは3つのことを教えられました。 一、偽りの平和よりも真理の戦いを選ぶかどうかです(34、35節)――知性の面 キリストの弟子に求められることの一つは、「神のみこころは何か……をわきまえ知る」ことです(ローマ12章2節)。 もし一家五人が徒党を組んで悪事を働いているならば、互いに対抗することもなければ、分裂することもありません。しかし二人でも三人でも、罪を悔い改めて正しいことを行うならば、「一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります」(ルカ12章52節)。 このような時、私たちは、罪と妥協する偽りの平和と、罪と訣別する真理の戦いとのどちらを選ぶでしょうか。私たちは、偽りの平和よりも真理の戦いを選ぶ時、その動機が純粋であることがわかります。 二、家族への愛よりも神への愛を優先するかどうかです(36、37節)――感情の面 知的に理解して、偽りの平和よりも真理の戦いを選んでも、実際問題として、五人家族の中で、三人が二人に、二人が三人に対抗して分かれるようになるということは、情的には忍びがたいことです。そのため、ある人々は、家族への情にほだされて、再び罪と妥協する偽りの平和へ逆戻りしてしまいます。 この「情愛や肉親愛」(ストルゲー)、また「恋愛や夫婦愛」(エロース)は、善悪をわきまえず、見えないところがあり、これらの人間的な愛は、「聖愛や神的な愛」(アガペー)によって支配されなければ、暴走したり脱線したりする恐れがあります。 このような時、私たちは、家族への愛と神への愛とのどちらを優先するでしょうか。私たちは、家族への愛よりも神への愛を優先する時、その動機の純粋さが証明されます。 三、自己主張よりも自己否定を選ぶかどうかです(38、39節)――意志の面 現実の問題として、情にほだされず、家族への愛よりも神への愛を優先するということは、容易なことではありません。それは「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と言って、自己を否定し、自分の意志を神に明け渡さなければ、できません(ルカ22章42節)。 しかし信仰の世界では「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたし(イエス)のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(39節)。 私たちは、死に至る自己主張と生命に至る自己否定とのどちらを選ぶでしょうか。私たちは、自己主張よりも自己否定を選ぶ時、その動機が純粋であることがわかります。拙著「キリストの生涯の学び」74「十二使徒への訓戒(4)」より転載
2009.04.05
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「十二使徒への訓戒(3)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章24~33節 イエスは十二使徒への訓戒の第三回目として、彼らの「心構え」を教えられました。 イエスは、弟子たちに「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」と言われました(ヨハネ15章18節)。また、彼らに、「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」と言われました(同15章20節)。 これが、「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」という言葉の意味です(24節)。 それでは使徒たちは、どのような心構えが必要なのでしょうか。それは、この個所に3回も記されている「恐れてはいけません」ということです(26、28、31節)。イエスは、使徒たちが恐れてはならない3つの理由を述べておられます。 一、隠されているもので、知られずに済むものはないからです(25~27節) 使徒たちが恐れることの第一は、人に正しく理解されず、中傷を受けることです。イエスは、「彼ら(人々)は家長(イエス)をベルゼブル(悪魔)と呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者(弟子たち)のことは、何と呼ぶでしょう」と言われました(25節)。完全無欠なイエスでさえ、悪魔と呼ばれて、中傷を受けたのですから、人に正しく理解されることを期待することはできません。 しかし「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかに」して(第一コリント4章5節)、すべてのことを正しくさばかれます(26節)。ですから使徒たちは、人に正しく理解されず、中傷を受けても、恐れてはならないのです。 二、人はからだを殺しても、たましいを殺すことはできないからです(28節) 使徒たちが恐れることの第二は、人に危害を加えられることです。人に正しく理解されず、中傷を受けるなら、最悪の結果は、これです。彼らは、むちで打たれたり、拷問にかけられたりしました。パウロは、石で打たれて殺されそうになり、ヤコブは剣で切り殺されました(使徒14章19節、12章2節)。 たとえ使徒たちが殺されたとしても、人は、彼らのたましいまで殺すことはできません。それよりも、もし使徒たちが人に危害を加えられることを恐れる余り、イエスを裏切るならば、神は、彼らの「たましいもからだも、ともにゲヘナ(地獄)で滅ぼ」されます(28節)。ですから使徒たちは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはな」らないのです(28節)。 三、雀の一羽でも、神のお許しなしには地に落ちることはないからです(29~31節) 使徒たちが恐れることの第三は、神に見捨てられることです。世の人々は、使徒たちが人に正しく理解されず、中傷を受けたり、人に危害を加えられたり、果ては殉教したりするのを見るならば、彼らのことを神に見捨てられた者だと思うでしょう。 使徒たちは、決して神に見捨てられたのではありません。神は、彼らの説教やあかしの言葉、また行いや奉仕が、口先や見せかけではなく、本当で真実なものであることをあかしするため、これらの苦難が彼らの身に降りかかることをあえて許されるのです。 しかし、二羽が一アサリオン(最少単位の銅貨)で売られている、「そんな雀の一羽でも……父(神)のお許しなしには地に落ちることはありません」(29節)。ですから「たくさんの雀よりもすぐれた者」である使徒たちは、どのような苦しみに会っても、恐れてはならないのです(31節)。拙著「キリストの生涯の学び」73「十二使徒への訓戒(3)」より転載
2009.04.02
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