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「神の思いと人の思い」 甲斐慎一郎 イザヤ書、55章8~13節 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)。 数学者、物理学者であるとともに、キリスト教思想家であるパスカルは、その著書「パンセ」の中で次のように述べています。 「人間は一茎の葦にすぎない。自然の中で最も弱い者である。しかし、人間は考える葦である。……我々の尊厳のすべては、したがって思考の中にのみ存する。…だから、正しく考えることに努めよう。これこそ道徳の原則である。……思考は人間の偉大さをなす」。 またある人は、次のように述べています。 「思いを蒔けば、行為を刈り取る。 行為を蒔けば、習慣を刈り取る。 習慣を蒔けば、性格を刈り取る。 性格を蒔けば、運命を刈り取る」 一、三種類の思いについて 人間にとって何を、どのように考えるかということほど大切なことはありません。思考は、私たちの人格を形造り、ひいては私たちの永遠の運命を決定するからです。それでダビデは、「私の心の思いとが御前に、受け入れられますように」、「私の心の思いが神のみこころにかないますように」と祈っているのです(詩篇19篇14節、104篇34節)。 人は、様々なことを思ったり、考えたりする者ですが、その中で最も大切な基本的なものは、次のような三つではないでしょうか。◇物事の起源や原因に関するもの。◇物事の方法や手段に関するもの。◇物事の結末や結果に関するもの。 特に人間の最大の問題である罪に関して、この三つのことを当てはめて考えるなら、次のようになるのではないでしょうか。◇罪の起源や原因は、どこにあるのだろうか。◇罪の解決の方法や手段は、何であろうか。◇罪の結末や結果は、どうなるのであろうか。 この三つのことに関して考えてみましょう。 二、人の思いについて この三つのことに関して、人の思いや考えは、どうでしょうか。 ◇罪の起源や原因は、人間の無知や弱さ、また欠陥や不完全さではないかと考えますが、根本的には何も分からないと思っています。 ◇罪の解決の方法や手段は、人間の努力や修行しかないと思っています。 ◇罪の結末や結果は、恐ろしい刑罰があるかもしれないと考えることはありますが、根本的には何も分からないと思っています。 しかし何事も原因を究明しなければ、適切な対策を立てることができず、結果を予想することができなければ、綿密な計画が立てられないように、人生の対策も計画も同じです。 罪の原因や結果のことを思わず、ただ目先の「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」ということしか考えない人に、どうして人生の真の解決や罪からの救いを望むことができるでしょうか。 三、神の思いについて これに対して、神の思いや考えは、どのようなものでしょうか。 ◇聖書は、罪の起源は、人間を造られた神よりの離反であると明白に教えています(ローマ5章12節、コロサイ1章21節)。 ◇聖書は、罪の解決の方法は、神に立ち返り、キリストの贖いを信じることであると明白に教えています(使徒26章18節)。 ◇聖書は、罪の結果は、永遠の死と滅亡であると明白に教えています(ローマ6章23節、黙示録21章8節)。 聖書は、罪だけでなく宇宙や人間など、すべてのものの起源や結末を教えています。私たちは、物事の起源を知ることによって対策を立てることができ、物事の結末を知ることによって計画を立てることができます。救い主イエス・キリストを信じて罪から救われ、永遠に備えて、日々、神の前に歩むことこそキリスト者の生涯です。
2009.07.30
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「キリスト者と報い(2)」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、12章17~21節 私たちの人生は、毎日が喜怒哀楽の連続であるということができます。それは多くの場合、私たちが受ける報いと密接な関係があるのではないでしょうか。人は誰しも、良い報いがあれば、喜んだり楽しんだりするでしょうし、反対に悪い報いがあれば、悲しんだり怒ったりするでしょう。 それで報いということについて、別の角度から考えてみましょう。 一、報いの評価について 私たちは、自分が報われているとか、報われていないと考える時、その判断や評価を誰がするのかということは、非常に大切な問題です。これには、およそ次のような三者があるのではないでしょうか。 第一は自分です。多くの人々は、これではないでしょうか。しかしこれは多くの場合、余りにも主観的、近視眼的で、自分の狭い知識や浅い経験や変わりやすい感情にとらわれて、極めて不正確なものです。 第二は、他の人です。これは、いわゆる名誉や称賛です。しかし他の人の私たちに対する評価ほど、まちまちなものはありません。ですから他の人の評価によって自分の報いを計り、一喜一憂することは、賢いことではありません。 第三は、神です。神こそ私たちの報いを最も正しく評価することができる方です。しかし報いの評価というものは、多くの場合、最後の審判を受けるまでわからないものであり、私たちとしては「何についても、先走ったさばきをし」ないことが賢明です(第一コリント4章5節)。 二、報いの種類について 次に私たちが大切な問題として考えなければならないことは、いったい何を報いと思っているかということです。このことに関しては、様々な分類があるでしょうが、ここでは、次のように分けて考えてみましょう。 1.人間的な報い これは、誰の目にもわかる恵まれた環境や物質的な祝福による報いです。世の人々が汲々となって追い求めている報いは、これです。 2.信仰的な報い これは、信仰がなければ与えられない報いとともに、人間的には、悪い報いとしか映らないようなもの――たとえば苦難や患難など――も信仰のゆえに良い報いと見ることができる報いのことです。 3.来世的な報い これは、この世においては、殉教したり、人間的な報いがほとんどなかったりして、次に来る世において報われる報いです(ヘブル11章35~38節)。 私たちが考えている報いは、人間的な報いが多く、信仰的な報いや来世的な報いは、ほとんど考えていないのではないでしょうか。そして聖書は「 わたしは……あなたの非常に大きな報いである」( 創世記15章1節、英訳)と、神御自身が報いであることを教えています。 三、報いの応答について 私たちが善であれ、悪であれ、報いを受けた時、それに対してどのように応答するかについては、J・H・ジョウェットの言うように、次のような四種類の態度があります。◇悪をもって善に報いる――悪魔的です。◇悪をもって悪に報いる――獣的です。◇善をもって善に報いる――人間的です。◇善をもって悪に報いる――神的です。 私たちは、キリスト者として善をもって悪に報いるように求められています。しかし私たちの報いに対する考え方が変わり、人間的には悪い報いをも、信仰のゆえに良い報いと見ることができ、また神御自身を報いとするなら、もっと幸いではないでしょうか。そのような時、「我いかにして、その賜えるもろもろの恵みを主に報いんや」(詩篇116篇12節、文語訳)と、心から神に感謝することができるのです。
2009.07.26
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「キリスト者と報い(1)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、5章38~48節 私たちが人間関係において、悩んだり、苦しんだりする原因の一つに、報いの違いというものがあります。すなわち「自分は、他の人と同じように、いやそれ以上に努力しているのに、どうして報いられないのだろうか」ということです。それでこの報いということについて学んでみましょう。聖書は、私たちに三種類の報いについて教えています。 一、すべての人が受けなければならない報い(ローマ2章6~11節) パウロは「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」と述べています(ローマ2章6節)。すなわち、善を行う者に対する報いは、褒章であり(同2章7、10節)、悪を行う者に対する報いは刑罰です(同2章8、9節)。この報いは、すべての人が受けなければならない「当然の報い」(同1章27節)であり、「自分のしたことの報いを受け……るのだからあたりまえ」です(ルカ23章41節)。 しかしそれよりも、この報いがあるというのは、神の公平さと(ローマ2章11節)、神の正義(第二テサロニケ1章5~7節)の表れです。もしこの報いがなかったなら、公平も正義も成り立たず、また平和も幸福もあり得ないことになるでしょう。ですからこの世においては、その報いが不公平のように見えても、次に来る世(来世)においては、全く公平に報いられるのです。 二、私たち自身が選ばなければならない報い(ヘブル11章24~26節) ヘブル人への手紙の著者は、モーセは「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」と記し(ヘブル11章25節)、その理由として「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」と説明しています(同11章26節)。 信仰には、神からの報いを信じるということが当然含まれているのであり(同11章6節)、キリスト者の生涯を報いと言う観点から述べるなら、次のようになります。すなわち、この世しか通用しない地上のはかない報いを捨てて、次に来る世(来世)まで通じる天上の永遠の報いを選び取ることです。 ですから、私たちが「人に見せるために人前で善行を」するなら(マタイ6章1節)、「すでに自分の報いを受け取っている」のであり(同6章2、5、11節)、永遠の報いは受けられません。これに対してキリストのために「ののしられたり、迫害されたり」するなら、天における報いは大きいのです(同5章11、12節)。 私たちの生涯は、一瞬一瞬、この選択を迫られています。私たちが永遠の報いを選び取るなら、日ごとに前進して行きますが、地上の報いを選び取るなら、日ごとに衰退して行くのです。これは、私たち自身が自分で選ばなければならない報いです。 三、キリスト者が求めなければならない報い(マタイ5章38~48節) キリストは、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」と言われました(マタイ6章46節)。これは、当然なすべき義務以上のことを行い、また自発的に行ったことによる報いです(第一コリント9章17節)。 言い換えれば、「返してもらうことを考えずに貸」すこと(ルカ6章35節)、すなわち報いや恩返しを期待しない善行です。これこそ真の愛です。 神の愛また十字架の愛は、まさにこれです。この愛がなかったなら、罪深い私たちは、罪から救われることはできなかったでしょう。ですからこの神の愛を追い求め(第一コリント14章1節)、この神の愛に応えて神と隣人を愛していくことこそ(マタイ22章36~40節)、キリスト者生涯のすべてなのです。
2009.07.24
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「神の報いと人の報い」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、6章1~18節 「マタイの福音書」の6章1~18節には、「報い」ということに関して三回ずつ二つの言葉が記されています。 「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(2、5、16節)。 「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(4、6、18節)。 この前半の言葉には人からの称賛、すなわち人の報いについて、後半の言葉には神からの応答、すなわち神の報いについて記されています。 しかし、ここでは人の報いは、「人が求める報い」、また神の報いは、「神が与えてくださる報い」として考え、特に両者は、どのような違いがあるのかということについて聖書全体から学んでみましょう。 一、人の報いについて 人が求める報いは、どのようなものでしょうか。 1.その期間――目先の報いを求める 私たちは、自分が何か良いことをした時は、直ちに良い報いを受けることを期待し、また他の人が私たちに何か悪いことをした時は、直ちにその人に悪い報いが来ることを願う心があるのではないでしょうか。 このように人は、自分に都合の良いことに関しては、できるだけ早く、できれば今すぐにでも報いが来ることを求めているのではないでしょうか。 2.その範囲――部分的な報いを求める 私たちは、自分のことに関しては、今までしてきた悪いことを棚上げして、一部の小さな善行に対して良い報いを期待し、また他の人のことに関しては、その人が今までしてきた多くの良いことに目をつぶって、その人の一部の悪行に対して悪い報いが来ることを願う心があるのではないでしょうか。 このように人は、自分に都合の良いことに関しては、すべての行為に対する報いではなく、部分的な善行や悪行に対して報いが来ることを求めているのではないでしょうか。 3.その性質――不当な報いを求める 良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがあるのが正当な報いです。私たちは、良いことをしている時は、良い報いを期待するのは当然のこととしても、悪いことをしている時も良い報いを期待する厚かましい心があるのではないでしょうか。 このように人は、良いことをしている時は、正当な報いを求めながら、悪いことをしている時は、不当な報いを求めているのではないでしょうか。 二、神の報いについて 神が与えてくださる報いは、どのようなものでしょうか。 1.その期間――永遠の報いを与える 神は、私たちが悪いことをした時は、私たちに悔い改めの機会を与えるために、また良いことをした時は、私たちが小成に安んじたり、高ぶったりしないように、良い報いも悪い報いも延ばすことがあります。 このように神は、私たちの善悪に対して近視眼的にではなく、長い目をもって、永遠の角度から報いを与えてくださるのです。 2.その範囲――総合的な報いを与える 神は、報いに関しては、私たちの一つの善行のために今までの多くの悪いことを見過ごしたり、また一つの悪行のために、今までの多くの良いことを忘れたりするような方ではありません(ヘブル6章10節)。神は、「善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて」(第二コリント5章10節)総合的な報いを与えられるのです。 3.その性質――正当な報いを与える 「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります」。「神にはえこひいきなどはな」く、どこまでも正当な報いを与えられる方なのです(ローマ2章9~11節)。
2009.07.20
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「キリストの汗と涙と血」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、9章17~22節 聖書は、イエス・キリストが真の人として、この地上におられた間、私たちのために流されたものを三つ記しています。それは「汗」と「涙」と「血」です。永遠の神の御子キリストは、人としてこの世に生を受けられただけでなく、私たちのためにその尊い「汗」と「涙」と「血」を流されたとは、何と驚くべきことでしょうか。 一、尊い汗を流されたキリスト 汗には次のようなものがあります。 ◇汗水――これは一生懸命に働く時、水のように流れる汗のことです。 ◇冷や汗――これは非常に恥じたり、恐れたりした時に出る冷たい汗のことです。 ◇脂汗――これは悶え、苦しむ時に出る脂の混じった汗のことです。 キリストは、30歳までは大工として「汗水」たらして働かれただけでなく、その後の公生涯においても、スカルの井戸においてサマリヤの女に水を求められたほど、「汗水」を流して巡回伝道と奉仕をされました。また十字架につけられることは、最も恥ずかしく、恐ろしいことですから、「冷や汗」をかかれたのではないでしょうか。そしてゲッセマネの園や十字架上の後半の3時間においては、悶え苦しんで「脂汗」を流されたのです。 二、尊い涙を流されたキリスト 涙には次のようなものがあります。 ◇悲しみの涙――これには悔し涙や悔い改めの涙、また罪を憂える涙や切なる涙があります。 ◇喜びの涙――これには感激して涙を流す感涙や嬉し涙、またありがた涙があります。 ◇愛の涙――これは喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く共感の涙のことです。 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られ(ヘブル5章7節)、またラザロが葬られた墓において「イエスは涙を流された」(ヨハネ11章35節)と聖書は記しています。キリストは、私たちの罪を憂えて「悲しみの涙」を流されるとともに「愛の涙」を流され、また私たちのために「切なる涙」を流して祈られた方なのです。 三、尊い血を流されたキリスト しかしキリストが私たちのために、どんなに汗水を流して働かれ、脂汗を流して苦しまれたとしても、また私たちのために、どんなに罪を憂えて涙を流されたとしても、もし血を流して私たちのために、「贖いの代価として、自分のいのちを与え」てくださらなければ(マルコ10章45節)、私たちは罪から救われることはできません。なぜなら「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」からです(ヘブル9章22節、口語訳)。 四、キリストの愛に応える道 私たちのために尊い汗と涙と血を流してくださったキリストに対して、私たちは、どうすればよいのでしょうか。聖書は、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」を教えています(使徒20章21節)。 私たちは、これほどまでに私たちを愛してくださったキリストの愛を知らずに生きて来た罪を心から悔い改め、そのキリストの尊い血は私たちのために流されたものであることを信じることです。そうするなら、私たちは、今まで犯して来たすべての罪が赦されて、新しく生まれ変わり、神の子どもとされます。 その結果、私たちは、キリストのために汗水を流して奉仕をし、恥を受けて冷や汗をかき、十字架を負って脂汗を流すだけでなく、人々のために悲しみの涙と愛の涙を流すことができるようになるのです。
2009.07.16
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「きよめられた生活」 甲斐慎一郎 ペテロへの手紙、第一、1章13~21節 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」(15節)。 この箇所において「聖なるものとされなさい」と言われているのは、「あらゆる行い」についてであって、単に心に関してではありません。もちろん心が聖くなければ、あらゆる行いにおいて聖なるものとされないことは、言うまでもありません。 しかし私たちは、「心さえ聖ければ、行いも当然聖くなるのである」と言って、自分の行いを吟味せず、自己流の「きよめの生活」をしていることがないでしょうか。 それで神が求めておられる真のきよめられた生活とは、どのようなものかということを聖書の中から学んでみましょう。 一、聖別された生活(献納された生活) 主イエスは「真理によって彼らを聖め別ってください」と祈られましたが(ヨハネ17章17節)、きよめられた生活の第一は、聖別された生活です。聖別とは「神の用途のために別にしておく」ということです。 それは、まず私たち自身が神の御用をするために、神によって汚れた世から召し出された聖なる民であるという自覚を持つことです。教会(エクレシヤ)とは、文字通り聖別された神の民の集まりです。 このような自覚を持つ者は、当然のことながら、すべてを神にささげるのです。それは具体的には、私たちの時間や金銭や労力のうち、最善のものを、まず神のために別にして分けておき、他の用途のために使わないことです。このように時間も金銭も労力も聖別している生活こそ、きよめられた生活です。 二、純化された生活(統一された生活) パウロは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と言っていますが(第一コリント10章31節)、きよめられた生活の第二は、純化された生活です。純化とは、純粋にするということで、すべてのことが神に集中されて、神のために統一されることです。神のために一つに集中されていないものは、不純であり、純粋なものではありません。 それは具体的には、私たちの生活というものが二元化しないことです。すなわち神は神、自分は自分とか、信仰は信仰、生活は生活とか、教会は教会、仕事は仕事というようになってはなりません。このように私たちの生活が二元化せずに、すべてのことが神と信仰と教会という一つのものに集中され、統一されている生活こそ、きよめられた生活です。 三、鍛練された生活(訓練された生活) パウロは「敬虔のために自分を鍛練しなさい」と言っていますが(第一テモテ4章7節)、きよめられた生活の第三は、鍛練された生活です。鍛練とは、訓練したり練習したりすることによって鍛えることです。 パウロは「あくまで……続けなさい」、「苦心している」、「模範になりなさい」と勧め(第一テモテ4章16、10、12節)、反復すること、苦心すること、挑戦することについて述べています。私たちは、同じことを何回も繰り返さなければ、決して身に着きませんし、また苦心することや挑戦することもないでしょう。私たちは、反復する中で苦心し、さらに高い所に挑戦していくのです。実に挑戦は、苦心の賜物であり、苦心は反復の賜物です。 聖別され、また純化された人々が最後になすべきことは、自分を鍛練することです。なぜなら私たちは、鍛練されることによってのみ、余計が角がとれ、欠けたところが埋め合わされて、成長し、また円熟することができるからです。 真の敬虔さは、一朝一夕にしてできるものではありません。それは、信仰生活や教会生活をはじめ、個人生活そして社会生活のすべてにおいて鍛練されることによってのみ可能です。このように真の敬虔さを身に着けるために、すべてのことを鍛練される生活こそ、きよめられた生活です。
2009.07.13
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「豊かないのち」 甲斐慎一郎 詩篇23篇1~6節 B・F・バックストンは「すべての信仰者は、この詩篇の1~3節を歌うことができる。しかし、ただきよめられ、聖霊に満たされた者だけが4~6節を歌うことができる」と述べています。 主は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10章10節)と言われましたが、これこそこの詩篇23篇を開く鍵の言葉です。すなわち1~3節には、羊がいのちを得る「救いの生涯」が、4~6節には、それを豊かに持つ「きよめの生涯」が記され、その中間の「死の陰の谷」は、「きよめの転機」です(B・F・バックストン)。 一、救いの生涯(1~3節) この詩篇23篇は、その前後の詩篇と密接な関係があり、一連の詩篇です。その主題は次の通りです。1.22篇――キリストの十字架の死2.23篇――キリストの復活の生命3.24篇――キリストの昇天の栄光 私たちは、キリストの十字架の死を自らの罪のためであると信じるなら、救われてキリスト者になります。 「主は私の羊飼い」(1節)――これは、まさに神から離れて迷っていた罪人が「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」(第一ペテロ2章25節)という救いを予表していないでしょうか。 「緑の牧場、いこいの水のほとり」(2節)――これは救いの恵みのすばらしさを予表しているのではないでしょうか。 「たましいを生き返らせ、義の道に導かれる」(3節)――これは救いの二つの面である新しく生まれる新生と、義と認められて、その道を歩む義認とを予表しています。 二、きよめの転機(4節前半) キリスト者が実際に「死の陰の谷を歩く」なら、一体何を考え、どのようになるでしょうか。 1.過去のことに関して――実際の死に直面した人は、過去の出来事と一切の関わりを断たざるを得なくなり、その結果、それを神にゆだねるようになるのではないでしょうか。 2.現在のことに関して――実際の死に直面した人は、神と永遠に関する最も大切なことだけを求めざるを得なくなり、それ以外のことには見向きもしなくなるのではないでしょうか。 3.未来のことに関して――実際の死に直面した人は、自らの計画や予定を全部捨てざるを得なくなり、永遠に備えて神のご計画にそおうとするのではないでしょうか。 きよめられるための条件である全き献身と信仰、また自我の死というのも、実際の死に直面したのと同じような心境になることです。 三、きよめの生涯(4節後半~6節) 「頭に油をそそぐ」とか、「杯は、あふれる」という言葉は、聖霊に満たされる「きよめ」を予表していることはわかりますが、次の二つの言葉もきよめられた者の特徴をよく表しています。 「あなたのむちと杖」(4節)――これは神の懲らしめを表しています。罪をきよめられた人も、無知のために間違いや過失や失敗をすることがあり、神の懲らしめを受けます。しかし、その時、きよめられた人は、その神の懲らしめに反発せず素直に教えられて、慰めとさえなるのです。 「私の敵」(5節)――これは悪魔の誘惑や他の人からの誤解や非難また中傷や迫害を表しています。自分が無知であるように他の人も無知であり、そのために私たちを誤解したり、非難したり、中傷したりすることがあります。しかし、きよめられた人は、そこからも教えられて霊的な糧とするのです。 これこそ、いつくしみと恵みが追いかけて来るすばらしい「きよめの生涯」です。
2009.07.11
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「神の恵みの働き」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、15章10節 「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」(10節)。 この節には三回も「神の恵み」という言葉が記されていますが、この神の恵みは、私たちにどのような働きをするのでしょうか。 一、救いの土台 パウロは、「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。……私はその罪人のかしらです」(第一テモテ1章13、15節)と記していますが、このようなパウロが、すばらしい聖徒に変えられたのは、この神の恵みによるのです。 神の恵みとは、「受けるに価しない者に注がれる神の計り知れない顧み」のことです。罪に罪を重ねた罪人も「ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3章24節)。 私たちは、自分の姿を見て「最低、最悪の状態で、神から祝福を受ける資格は全くない。もうだめだ」と思う時にも、豊かに注がれるのが神の恵みです。どんなに罪が深くても、神の恵みの届かないところはありません。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とある通りです(同5章20節)。 神の恵みは、受けるに価しない者に注がれるものですから、私たちがどのような状態にあったとしても、神の恵みは、私たちを失望させることはなく、私たちに救いの希望を与えるのです。 二、奉仕の動力 このように神の恵みというものが、受けるに価しない者に注がれるとするなら、恵みを受けては堕落し、また恵みを受けては堕落するというように、罪人は神の恵みを悪用してしまい、逆効果になるのではないかと思う人がいるかも知れません。 そのようになる危険性もあるかも知れません。しかし「罪人のかしらであった私も、神の計り知れない恵みによって、あのような罪がすべて赦されたのだ」という体験をした者は、必ずや感謝の念と感恩の情にあふれて、「我いかにして、その賜えるもろもろの恵みをエホバに報いんや」(詩篇116篇12節、文語訳)と言わずにはおれないでしょう。 神の恵みは、私たちが奉仕をしたから与えられるのではありません。私たちの側で何もしなくても、先に与えられるのが神の恵みであり、この神の恵みこそ私たちを神への感謝の念と感恩の情にあふれさせて奉仕をさせる原動力となるのです。 三、聖潔(きよめ)の保持 ジョン・ウェスレーは、きよめられた者への忠告の第一に、誇りに対する警戒を述べています。人は、物質的なものであれ、精神的なものであれ、霊的なものであれ、多くの祝福を受けて様々なことができるようになり、色々なものが身に着いてくると、いつのまにか、最低、最悪で、無一物であった過去の自分の姿を忘れて、高慢にふるまってしまう危険性があります。 私たちは現在、豊かな祝福を受けていることにより、過去の貧しい時には言わなかったであろう贅沢な不平や不満や文句が出てこないでしょうか。また今、良い待遇を受けていることにより、昔の貧しい境遇の時にはなかったであろう優遇されないことによる怒りや憎しみや不機嫌な心が生じてこないでしょうか。これらのことはみな誇りから来ているのです。 すべては、神の恵みであって、私たちが誇れるものは何もないことを決して忘れてはなりません。神の恵みのみ誇りを取り除いて、私たちを謙虚にさせ、「聖潔(きよめ)」を保持させるものです。
2009.07.08
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「聖書に親しむ」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章14~17節 テモテは、使徒パウロによってキリストの救いを受け、彼に導かれて伝道者となり、エペソ教会の最初の監督に任命された神の人であり、パウロが最も愛した真実な子で、練達した働き人です(ピリピ2章22節)。 しかし肉体的にも精神的にも頑強とはいえない若い伝道者テモテが、ひしひしとせまる迫害と近づく困難な時代を前にして、偽りの教えと戦い、「真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人と」なり(第二テモテ2章15節)、教会を建設していくことは、至難のわざでした。このような事情の中でパウロがテモテに注意を喚起するかのように書き送ったのが次の言葉です。 「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです」(14、15節)。 「聖書に親しむ」とは、単に聖書を「読んでいる」とか「知っている」または「学んでいる」とか「研究している」ということではありません。これらを全部含んではいますが、なおそれ以上のことです。 「親しむ」ということばには、「懇意にする」とか「なじむ」また「睦まじくする」という意味があります。ですから聖書に親しむとは、聖書を心から愛して、聖書がその人の身についているということです。 私たちは、いったい何に親しんでいるでしょうか。「朱に交われば赤くなる」という諺のように、私たちは、自分が親しんでいるものに染まっていくものです。ですからある人が、どのような人であるかということは、その人がいったい何に親しんでいるかということを知ることによってわかります。 そこで私たちは、なぜ聖書に親しまなければならないのか、また聖書に親しむなら、どのようになるのかということについて、次のような三つのことを学んでみましょう。 一、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」(15節)。 知恵とは、何でしょうか。聖書は、「主を恐れることは知恵の初め」であり(箴言9章10節)、「主を恐れることによって、人は悪を離れる」と教えています(同16章6節)。 天路歴程の著者であるジョン・バンヤンは、「この本(聖書)は、あなたを罪から遠ざける。さもなければ罪があなたをこの本(聖書)から遠ざける」と述べていますが、まさにその通りです。私たちは、聖書に親しむことによってのみ、神を恐れることを学び、罪から救われることができるのです。 二、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(16節)。 「偽物を最もよく見分けることができる人は、本物を最もよく知っている人である」ということばがありますが、まさに至言です。聖書に親しんでいる人のみ、聖書が霊感を受けた誤りのない神のことばであることがわかるのみならず、真理を教えられ、悪を戒められ、間違いを矯正され、すべてのことに義の訓練を受けることができるのです。 三、「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(17節)。 私たちの主イエス・キリストは、神のことばが肉体をとり、人間となられた方です(ヨハネ1章14節)。私たちが、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた神の人となるためには、人のことばや働きでは不可能であり、ただ聖書に親しむことによって、私たちのうちに神のことばが聖霊によって受肉するとともに、私たちの「うちにキリストが形造られる」(ガラテヤ4章19節)ことによってのみ初めて可能なのです。
2009.07.05
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「いのちのパン(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、6章60~71節 「いのちのパン」の説教は、32節から40節は、カペナウムの戸外において群衆に対して語られています。また41節から59節は、カペナウムの会堂においてユダヤ人に対して語られています。そして60節から71節の説教の結果は、十二弟子をも含めた多くの弟子たちの反応を記しています(M・C・テニイ)。 これはおそらく、イエスが「彼らの聞く力に応じて、みことばを話された」からなのでしょう(マルコ4章33節)。 一、イエスの説教は、弟子たちをイエスから離れ去る者と、イエスにつき従う者とに分けます イエスは、いのちのパンの説教を語り終えられました。弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と言いました(60節)。その結果、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩」きませんでした(66節)。 これを見て、イエスは、十二弟子に「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と言われました(67節)。するとペテロが「主よ。私たちがだれのところに行きましょう」と答えました(68節)。 このように弟子たちは、同じイエスの説教を聞きながら、ある弟子たちはイエスから離れ去る者になり、ほかの弟子たちはイエスにつき従う者になりました。 二、イエスを信じない者は、神に引き寄せられない者で、イエスから離れ去る者になります なぜ弟子たちのうちの多くの者は、イエスから離れ去って行ったのでしょうか。聖書は神の側と人の側との二つの理由を教えています。神の側は、「父が引き寄せられない」からであり(44、65節)、人の側は、彼らがイエスの言葉を「霊」ではなく「肉」として受け止めたからです(63節)。 「いのちのパン」の第一回目のところで述べたように、群衆は、世的(物質的)な救いと、行いによる救いと、目に見えるしるしというまちがった三つのものを求めました。それでイエスは、そのようなものを求めないように彼らに教えられました。 ところが彼らは、このように教えられても相変わらず、それらのまちがった三つのものを求める心を持ちながらイエスの説教を聞いていました。これがイエスの言葉を「肉」として受け止めるということです。それで、イエスの言われたことを信じることができませんでした(45節)。 このように(人の側から見て)イエスを信じない者は、(神の側から見るならば)父が引き寄せられない人であり、そのような人はイエスから離れ去る者になります。 三、イエスを信じる者は、神に引き寄せられた者で、イエスにつき従う者になります 聖書は、イエスにつき従う者に対しても、神の側と人の側との二つの理由を教えています。神の側は、「父が引き寄せられ」たからであり(44、65節)、人の側は、彼らがイエスの言葉を「肉」ではなく「霊」として受け止めたからです(63節)。 彼らは、イエスに教えられたように、まちがった三つのものを求める心を捨ててイエスの説教を聞きました。これが、イエスの言葉を「霊」として受け止めるということです。それで、イエスの言われたことを信じることができました(45節)。 このように(人の側から見て)イエスを信じる者は、(神の側から見るならば)父が引き寄せられた人であり、そのような人は、イエスにつき従う者になります。拙著「キリストの生涯の学び」80「いのちのパン(3)」より転載
2009.07.02
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