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「いのちのパン(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネ6章32~59節 イエスは、「いのちのパン」の説教をされました。このイエスの説教を学ぶ前に、「パン」について考えてみましょう。 人は、「霊と心とからだ」という三つの要素から成り立っていますが、それぞれに「食物」すなわち「パン」を必要としています。 1.「からだ」のためには、肉体の食物、すなわち物質のパンが必要です。 2.「心」のためには、心の食物、すなわち精神的なパン(心の糧)が必要です。 これには、広くて豊かな知識や教養を身につけること(知性的なもの)と、喜びを求めて情緒や情操を豊かにすること(感情的なもの)と、意欲的に行動し、様々な欲望を満たすこと(意志的なもの)の三つがあります。 3.「霊」のためには、霊の食物、すなわち霊的なパン(いのちのパン)が必要です。 人が罪を犯すのは、心が悪いからですが、それは心の奥にある霊が死んでいるからだと聖書は教えています(エペソ2章1節)。ですから人が罪から救われるためには、心の糧を食べているだけでは不十分であり、霊的な食物である「いのちのパン」を食べて、死んでいた霊が生き返らなければなりません。 一、イエスは、天から下って来られたいのちのパンです――受肉のイエス 群衆は、イエスを信じるために、モーセが彼らの先祖に天からのパンであるマナを降らせたように、イエスに天からのしるしを求めました(30、31節)。これに対してイエスは、「わたしは、天から下って来た生けるパンです」と言われました(51節)。 「天から下って来た」とは(33、38、41、42、50、51、58節)、「父のみもとから来られたひとり子」の神が、「人となって、私たちの間に住まわれた」ということを教えています(1章14節)。しかしユダヤ人たちは「あれはヨセフの子……ではないか」とつぶやき(42節)、父のみもとから来られたイエスを信じませんでした。 二、イエスは、私たちが食べるためのいのちのパンです――十字架のイエス イエスは、いのちのパンである「わたしを食べる」ということについて8回も語られました(50、51、52、53、54、56、57、58節)。イエスを食べるとは、イエスを信じるということです(47、54節)。 ところがユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに議論し合いました(52節)。 「食べること、飲むことの比喩は、一つの身体が他の身体によって同化されること、食べられるものから食べる者へ、生命が移される方法を表現し得る最上の象徴です」(M・C・テニイ)。これは、私たちの罪のために肉を裂かれ、血を流された十字架のイエスを教えています(マタイ26章26~28節)。 三、いのちのパンを食べる者は、永遠の生命を持つのです――救われたキリスト者 イエスは、「わたしは……生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」と言われました(51節)。いのちのパンを食べて永遠の生命を持つとは、次のようなすばらしい4つのことを意味しています。 1.信じた時に与えられる生命(53節)――聖霊によって新生する霊的な復活です。 2.死ぬまでの間、イエスによって生きる生命(57節)――いのちに満ち溢れた歩みです。 3.終わりの日に、よみがえる生命(39、40、44、54節)――死後の肉体の復活です。 4.復活の後、永遠に生きる生命(51、58節)――神とともに永遠に生きるのです。 これが救われたキリスト者の姿です。拙著「キリストの生涯の学び」79「いのちのパン(2)」より転載
2009.06.29
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「いのちのパン(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、6章21~31節 弟子たちは、湖の上を歩いておられるのがイエスだとわかると、「イエスを喜んで舟に迎え」ました。そして「舟はほどなく目的の地に着」きました(21節)。 この地において、イエスは、「いのちのパン」の説教をされました。これは、先に行われた「五千人の給食」の奇蹟の霊的な意味を人々に教えるために語られたものです。 私たちは、このような説教を通してイエスの奇蹟は、単に人々の当面の必要にこたえるためではなく、人間の根本的な必要である罪からの救いを与えるために行われたことがわかります。この「いのちのパン」についての出来事には、三つのことが記されています。◇いのちのパン(1)――説教のきっかけ。◇いのちのパン(2)――説教の内容。◇いのちのパン(3)――説教の結果。 一、世的(物質的)な救いを求めた群衆 「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は」「小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来」ました(22、24節)。「そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに」、「先生。いつここにおいでになりましたか」と言いました(25節)。 ところがイエスは、ご自分を熱心に捜した人々に、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言われました(26節)。 群衆は、イエスを熱心に捜しました。しかし彼らは、しるし(証拠としての奇蹟)を見て、イエスとその霊的な救いを求めたのではなく、パンを食べて満腹し、イエスを王とする世的(物質的)な救いを求めたにすぎませんでした。それでイエスは、そのことを鋭く指摘されたのです。 そしてイエスは言葉を続けて、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われました(27節)。「永遠のいのちに至る食物」とは、神とその救いのことです。 二、行いによる救いを求めた群衆 イエスの言葉を聞いた人々は、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」と質問しました(28節)。これはイエスが「……働きなさい」と言われたので(27節)、神の救いは何かを行うことによって得られると思ったのでしょう。 イエスは、彼らに、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」と答えて(29節)、神の救いは、信仰によって与えられるものであることをはっきりと語られたのです。 三、目に見えるしるしを求めた群衆 ところがこれを聞いた人々は、「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか」と言って(30節)、イエスを信じるために、「天からのしるし」を求めました(31節)。 「しるし」は、「五千人の給食」の奇蹟で十分に与えられています。ですから、それ以上の目に見えるしるしを求めるのは、イエスを「見ながら信じようとしない」不信仰な心になっているのです(36節)。 このように群衆がまちがった三つのものを求めたことが、イエスがいのちのパンの説教をされたきっかけになっています。しかし、この三つのことを裏から述べるなら、◇世的(物質的)な救いを求めないように、◇行いによる救いを求めないように、◇目に見えるしるしを求めないように、 ということになり、これは、いのちのパンの説教を聞く心構えを教えています。拙著「キリストの生涯の学び」78「いのちのパン(1)」より転載
2009.06.25
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「大いなる神」 甲斐慎一郎 詩篇46篇1~11節 マルチン・ルターやアイザック・ワッツが、この詩篇に基づいて作った賛美歌(267、286番)は、余りにも有名であり、今なお多くの人々に愛唱されています。私たちが大きな問題に取り囲まれ、八方塞がりの状態にある時、この詩篇を読むなら、必ずや大いなる慰めと平安を得ることができるでしょう。 この詩篇は、休止を表す「セラ」という言葉によって三つに区分することができます。 一、個人を助けられる大いなる神(1~3節) 「神はわれらの避け所、また力、苦しむとき、そこにある助け」(1節)というみことばほど私たちを慰め、そして励ましてくれるものはないでしょう。 避け所とは、言うまでもなく、安全な避難場所のことです。大地震や大洪水のような天変地異や、それに象徴される大きな苦難や患難があっても、神を避け所とするならば、絶対に安全です(詩篇91篇1~9節)。 しかし私たちは、避け所である神のもとに逃げ込めば、それでよいのではありません。避け所である神のもとにおいて、力を受け、失われたものは回復され、足りない所は補われ、弱い所は強くされなければなりません。 さらに私たちは、いつ、どこで、どのような苦しいめに会っても、すぐにまにあう「おりにかなった助け」(ヘブル4章16節)が必要ですが、神こそ、そのような求めに充分にこたえられる方です。 二、神の都を守られる大いなる神(4~7節) このように私たちの安全な避難場所であるとともに、また力であり、さらにおりにかなった助けを与えてくださる神は、神の民の住んでいる神の都を守られます。 この旧約聖書に記されている神の都や神の民は、新約聖書においては教会に当てはめることができます。なぜなら教会は、世から選び出されたキリスト者の集まりであり、新約の神の民だからです(ガラテヤ6章16節)。 川は、いのちの水を象徴し(エゼキエル47章1~12節)、それはまた聖霊を表しています(ヨハネ7章38、39節)。キリスト者には、聖霊による喜びがあり(ガラテヤ5章22節)、神の国は義と平和と聖霊による喜びだからです(ローマ14章17節)。 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国がゆらいでも、神はそのまなかにいまして、その都はゆるがないように、世がどれほど教会を迫害しても、キリストが建てられた教会は、びくともせず、ハデスの門もそれに打ち勝つことはできないのです(マタイ16章18節)。 三、全地を支配される大いなる神(8~11節) 個人を助けられ、また教会を守られる神は、全世界を治められる万軍の主です。「国々は騒ぎ立ち……地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」ことでしょう(詩篇2篇1、2節)。しかし神は全地で崇められるのです。ここには三つの呼びかけが記されています。 1.「来て」(8節前半) 神がアブラハムを狭い天幕から外に連れ出されたように(創世記15章5節前半)、私たちも自分の狭い考えや自分の殻の中に閉じこもらず、そこを出て、主のみわざがよく見えるように、神のもとに行かなければなりません。 2.「見よ」(8節後半) アブラハムが神の声に従って天を見上げたように(創世記15章5節後半)、私たちも神の招きに応じて神のもとに行くなら、必ず数々のくすしい主のみわざを見ることができるでしょう。 3.「知れ」(10節) 私たちが血肉を静めて神を待ち望むなら、この方こそ真の神であり、全地を支配される万軍の主であることを知るようになるのです。
2009.06.23
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「神の質問と人の質問」 甲斐慎一郎 ヨブ記、38~42章 聖書には、「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」という言葉があります(箴言17章28節)。私たちは、人のうわべだけを見ている間は、決してその人の真の姿を知ることはできません。 「口あけて、はらわた見せる、ざくろかな」という言葉がありますが、人は、ひとたび口を開けば、その人の知性や才能また性質や人柄が現れてしまうものです。ですから的を射た質問ほど、相手をよく知るのに適切なものはないでしょう。 「さあ……わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(ヨブ38章3節)。 「おまえの神はどこにいるのか」(詩篇42篇3、10節)。 この前半のヨブ記の言葉には神の質問について、後半の詩篇の言葉には人の質問について記されています。 一、人の質問について 人がキリスト者に尋ねる質問には様々なものがあります。それは神の存在をはじめ聖書とその記事について、またキリスト教と教会について、そして次に来る世(来世)や永遠の運命について等です。しかしこれらの質問は「これこれについてどう思うのか、どうなのか」という私たちの知識を問う質問です。 これに対して「おまえの神は、どこにいるのか」という質問は、神の存在を尋ねているのではなく、「おまえの神は、ほんとうにおまえを救ったのか、おまえの信仰はどうなのか」という私たちの信仰を問う質問です。 人は、言葉においては私たちの知識を問う質問をするかもしれません。しかし心の中では、私たちの信仰を問う質問をしていることを忘れてはなりません。すなわち「あなたは、ほんとうに神を信じているのか」と尋ねているのです。 二、神の質問について ヨブ記の38章から42章までの間に、三種類の神の質問が記されています。 1.あなたは……(を)知っているか。 ヨブの「知識」を問う質問です(38章5、18、33節、38章1、2節、五回)。 2.あなたは……(した)ことがあるのか。 ヨブの「経験」を問う質問です(38章13、16~18、22節、39章1節、九回)。 3.あなたは……(する)ことができるか。 ヨブの「能力」を問う質問です(38章4、31~35、37、39節、39章2、10、20節、40章24節、41章1~5、7、10、13、14節、二十五回)。 これらの質問は、言葉においてはヨブの知識と経験と能力を問うものですが、その内容は、ヨブが「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」(42章2節)と告白しているように、神の全知全能を教えるものです。すなわち神は、ヨブの無知と未経験と無能力を教えることによって、ご自身の全知全能を示し、「あなたは、これでもなおわたしを信じないのか」と尋ねているのです。 三、私たちの応答について 私たちは「あなたは、ほんとうに神を信じているのか」という人の質問に対して、「信じているつもりです」とか「信じているはずです」また「だいたい信じています」というようなあいまいな答えしかできないでしょうか。それとも「信じています」とはっきりと答えることができるでしょうか。 人の質問に対して、どのような答えをするかは、次のような神の質問に対して、どのように答えるかによって決まるのです。 もし私たちが「あなたは、これでもなおわたしを信じないのか」という神の質問に対して、「はい、信じています」と、はっきり答えるなら、人に対しても、「はい、信じています」とはっきり答えることができます。しかし私たちが神の質問に対して、あいまいな答えをするなら、人に対しても、あいまいな答えしかできないのは当然ではないでしょうか。 私たちの答えは、どうでしょうか。
2009.06.19
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「羊と山羊」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、25章31~46節 このたとえ話の中の「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」という言葉は(40節)、レオ・トルストイの「愛ある所に神あり」、またヘンリ・ヴァン・ダイクの「もう一人の博士」に引用され、これらの物語のテーマになっています。 しかしこの「羊と山羊のたとえ」は世の終わりに「すべての国々の民が、その御前に集められ」て、さばきを受けるという「諸国民の審判」を教えているのです(32節)。 一、諸国民の審判の時期について 聖書は、さばかれる人々と審判の時期の違いによって、次のような三つの審判があることを教えています(エーリヒ・ザウアー)。 1.「キリストのさばきの座」(第二コリント5章10節) これは、キリストの空中再臨と地上再臨の間において、あらゆる時代のすべてのキリスト者がさばかれる審判です。 2.「諸国民の審判」(31~46節) これは、キリストの地上再臨の後、千年王国の始まる時に、患難時代に生き残ったすべての国々の民がさばかれる審判です。 3.「大きな白い御座」(黙示録20章11~15節) これは、最後の審判と呼ばれ、千年王国が終わり、新天新地になる前に、前者の二つのさばきを受けなかったあらゆる時代のすべての死者がさばかれる審判です。 二、諸国民の審判の解釈について このたとえ話の中の言葉は、それぞれ次のようなことを表しています。◇人の子――キリスト。◇すべての国々の民――7年間の患難時代に生き残った人たち。◇わたしの兄弟たち――イスラエル、またはキリスト者。◇羊――キリストの兄弟たちに愛の奉仕をした父に祝福された人た ち。◇山羊――キリストの兄弟たちに愛の奉仕をしなかったのろわれた 者ども。 このように諸国民の審判を正しく解釈するならば、次のようになります。1.審判の時期は、キリストの地上再臨の後2.審判の対象は、患難時代に生き残った人3.審判の基準は、キリストの兄弟たちに愛の奉仕をしたかどうか によること。 三、諸国民の審判の適用について しかし、これでは現在のキリスト者には当てはまらないので、「わたしの兄弟たち」をすべての隣人に、「すべての国々の民」を私たちに適用して学ぶことが必要です。 まず羊の姿ですが、彼らは、この奉仕は、神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いが全くなく、当然のこととして愛の奉仕に励んでいます、彼らには、「愛によって働く信仰」がありました(ガラテヤ5章6節)。 これに対して山羊の姿はどうでしょうか。彼らは、この奉仕は神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いがあり、その奉仕は押しつけがましいものでした。彼らは、結局は自分のためにしたのです。 「意識しないということが愛の特質で」す(オズワルド・チェンバーズ)。ですから、私たちが、隣人への愛を意識的に感じることを求めるなら、それは真の愛ではなく、自己満足や自己礼賛になります。 「十人の娘のたとえ」が、聖霊(または信仰)が必要であることを教えているのに対して、「タラントのたとえ」は、奉仕(または行為)が大切であることを教えています。そしてこの「羊と山羊のたとえ」は、信仰と行為が混然一体となる「愛によって働く信仰」が大事であることを教えているのです。拙著「キリストの生涯の学び」175「羊と山羊」より転載
2009.06.16
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「タラント」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、25章14~30節 「ぶどう園の労働者のたとえ」は、人は行いや働きによらず、ただ恵みによって救われるということを教えています(20章1~16節)。また「ミナのたとえ」は、恵みによって救われたキリスト者は、行いや働きに応じて報いられるということを教えています(ルカ19章11~28節)。 この「タラントのたとえ」は、行いや働きに応じて報いられるにしても、人は、それぞれ違った賜物が与えられているので、「多く与えられた者は多く求められ」るということを教えているのです(ルカ12章48節)。 一、このたとえ話の解釈 このたとえ話の中の言葉は、それぞれ次のようなことを表しています。◇旅に出ていく主人――昇天されたキリスト。◇しもべたち――キリスト者。◇自分の財産(タラント)――神からの賜物。◇預かる――神から委託される。◇商売をする――神に奉仕する。◇帰って来た主人――再臨されたキリスト。◇清算をする――神の審判を受ける。◇もうける――役に立てて、実を結ぶ。◇多くの物を任せられる――天の御国に入る。◇地の中に隠す――役に立てないで死蔵する。◇外の暗やみに追い出される――地獄へ行く。 キリスト者は、キリストが昇天してから、再臨されるまでの間、それぞれ神から与えられた賜物を有効に用いるなら、豊かな実を結んで、神から報いを受けます。 ただし、五タラント預かって五タラントもうけた者も、二タラント預かって二タラントもうけた者も、主人から全く同じ賞賛を受けています(21、23節)。それは、人には能力の大小や賜物の多少による個人差があるので、多く与えられた者は多く求められ、与えられた賜物を用いるのに、どれだけ忠実であったかどうかによって報いを受けるからです。 二、このたとえ話の警告 ところが一タラント預かったしもべは、それを使わないで、そのまま地の中に隠してしまいました(25節)。この人は、神から与えられた賜物を罪のために浪費したのではありません。しかし「悪いなまけ者のしもべ」として(26節)、「そのタラントを……取り上げ」られただけでなく(28節)、「役に立たぬしもべ」として、「外の暗やみに追い出」されてしまいました(30節)。 神から与えられた賜物は、神と人のために有効に用いなければ、失ってしまうだけでなく、その人自身も役に立たない者として、神に捨てられてしまうのです。 三、このたとえ話の特徴 この「タラント」のたとえ話を、この前の「十人の娘」のたとえ話と比較するならば、次のような対照的な相違点があります(R・C・トレンチ)。 十人の娘 タラント◇再臨に備えて内的 ◆再臨に備えて外的 な生命を失わない な奉仕を怠らない ようにすることを ようにすることを 教えています。 教えています。◇五人の愚かな娘た ◆一タラント預かっ ちは、余りに信用 た者は、少しも信 し、大胆すぎて罪 用せず、小心すぎ に陥りました。 て罪に陥りました。◇彼女たちは、主に ◆彼は、主に仕える 仕えることは非常 ことは非常にむず にやさしいことで かしいことである あると思って失敗 と思って失敗しま しました。 した。 この二つのたとえ話は、キリストの再臨に備える私たちが、このような両極端の過ちを犯さないように教えているのです。拙著「キリストの生涯の学び」174「タラント」より転載
2009.06.13
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「十人の娘」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、25章1~13節 このマタイの福音書の25章には、「十人の娘」と「タラント」と「羊と山羊」という三つのたとえが記されています。これは、前の24章の「終末の説教」の続きとして語られています。イエスは、終末の備えについて弟子たちに教えられましたが(24章32~51節)、この三つのたとえは、それを敷延して述べているのです。 一、賢い娘たちと愚かな娘たちの信仰生活の心構えの違い(1~4節) このたとえ話の中の言葉は、それぞれ次のようなことを表しています。◇花婿――キリスト。◇十人の娘――キリスト者。◇ともしび――良い行為(5章16節)。◇油――聖霊(第一ヨハネ2章27節)。◇賢い娘たち――聖霊を持つキリスト者。◇愚かな娘たち――聖霊の必要性を感じていないキリスト者。 キリスト者は、「清純な処女として、ひとりの人(キリスト)の花嫁に定め」られた人です。ですから、「キリストに対する真実と貞潔を失うことがあっては」なりません(第二コリント11章2、3節)。 ところがキリスト者には、神を「離れて」は、良い行いはもちろんのこと、「何もすることができない」ことを深く自覚し(ヨハネ15章5節)、聖霊の必要性を痛感して、聖霊を持っている人と、聖霊の力ではなく、人間的な能力で良い行いができると思い、聖霊の必要性を感じていない人がいます。 前者は賢い娘たち、後者は愚かな娘たちを表しています。このように両者は、キリスト者として歩んでいても、信仰生活の心構えに違いがあるのです。 二、賢い娘たちと愚かな娘たちの信仰のとらえ方の違い(5~9節) 「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始め」ました(5節)。ここに記されている「みな、うとうとして眠り始めた」とは、「全員が不信仰に陥った」ということではなく、「準備万端ととのって、後はキリストの再臨を待つだけである」ということを意味しています(R・C・トレンチ)。 賢い娘たちが愚かな娘たちに油を分けてあげなかったのは、彼女たちが冷たくて不親切であったからではありません。飲食することや呼吸することや休息することなど、肉体的な生命に関わることは、ほかの人が代わりにすることができないように、信じて聖霊を受けるという霊的な生命に関わることも、ほかの人が代わりにすることはできません。 ですから賢い娘たちは、愚かな娘たちに、「店に行って、自分のをお買いなさい」と勧めたのです(9節)。 愚かな娘たちが油を用意しなかったのは、「油がなくなったら、人から分けてもらいましょう」と考えていたからではないでしょうか。このように賢い娘たちと愚かな娘たちは信仰のとらえ方が違っていたのです。 三、賢い娘たちと愚かな娘たちの究極の運命の違い(10~13節) キリストが再臨された時、「用意のできていた娘たち(賢い娘たち)は、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き(天の御国にはいり)、戸がしめられ」ました(10節)。「そのあとで、ほかの娘たち(愚かな娘たち)も来て」「あけてください」と言いました(11節)。しかし、時すでに遅く、愚かな娘たちは、天の御国から締め出されたのです(12節)。 このように賢い娘たちと愚かな娘たちの信仰生活の心構えと信仰のとらえ方の違いは、そのまま究極の運命に差が生じてしまったのです。拙著「キリストの生涯の学び」173「十人の娘」より転載
2009.06.10
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「神の働きと人の働き」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、1章21~29節 「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」(コロサイ1章29節)。 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章13節)。 この二つのみことばのそれぞれの前半には神の働きについて、後半には人の働きについて記されています。そこで神の働きと人の働きについて聖書から学んでみましょう。 一、神の働きについて これに関しては、次のような三つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.神の働きの範囲――すべて 万物を創造し(使徒17章24節)、万物を保っておられる(ヘブル1章3節)神は、(1)すべての自然の法則の中に働いておられる(2)すべての人類の歴史の中に働いておられる(3)すべての人々の心の中に働いておられる ということができます。 2.神の働きの期間――常に 聖書は、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121篇4節)、また「わたしの父は今に至るまで働いておられます」(ヨハネ5章17節)と教えています。 3.神の働きの程度――完全 聖書は、「主のみわざは完全」(申命記32章4節)、「神、その道は完全」(詩篇18篇30節)、「天の父が完全」(マタイ5章48節)であると教えています。しかし、私たちの目に、主のみわざが不完全に見えるなら、その原因は私たちの心にあります。なぜなら神は、「全き者には、全くあられ……曲がった者には、ねじ曲げる方」(詩篇18篇25、26節)であるからです。 二、人の働きについて これに関しても、次のような三つにわけて考えるのが分かりやすいでしょう。 1.人の働きの範囲――ごく一部分 みなで力を合わせるなら、大きな働きをすることができますが、ひとりひとりの働きは極めて小さなものです。特に心に関しては、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」(ローマ7章19節)しまうほど無力なのです。 2.人の働きの期間――短期間 次の世代の人が受け継ぐなら、長期間、働きを継続することができますが、ひとりひとりの働きは極めて短く、また休みを必要とするだけでなく、未完成のままで終わってしまうことが多いものです。 3.人の働きの程度――不完全 人の働きには、失敗や欠陥、また誤りや間違いが付きものであり、不完全極まりないものです。 三、働きについての教訓について このようなことから働きに関して次のようなことを学ぶことかできます。 1.人が働くことができるのは、神が働いてくださるからです。 まず最初に神が働いてくださらなければ、私たちは何もできません。しかし神は、常に私たちのうちに働いてくださるのであり、人の働きというものは、この神の働きに対する応答なのです。 2.人が休むことができるのも、神が働いてくださるからです。 神は、私たちを守るために休むことなく絶えず働いてくださるので、私たちは安心して休むことができるのです(詩篇121篇4節、127篇2節)。 3.人が罪から救われて、良い行いをすることができるのも、神が働いてくださるからです。 神は、私たちを罪から救うために、キリストの十字架による贖いのわざを成し遂げてくださったのであり、私たちは、行いや働きによらず、ただキリストの贖いのわざを信じることによって罪から救われるだけでなく、良い行いをすることができるのです(ローマ3章22~25節、エペソ2章8~10節)。
2009.06.07
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「信仰の質と信仰の量」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、11章 信仰の章と呼ばれている「ヘブル人への手紙」の11章は、「信仰によって」という言葉が実に21回も記されています。この章を読む時、私たちの日常生活のすべての問題は、信仰によって解決できるのであり、信仰によって解決できない問題は、一つもないということを教えられるにちがいありません。 物事には多くの場合、「質」と「量」というものがあります。このことは「信仰」に関しても同様であり、信仰にも「質」と「量」というものがあります。 一、信仰の質について 主は、「もし、からし種ほどの信仰があったなら」(マタイ17章20節)と言われましたが、これは、小さくても「いのちのある信仰」という意味です。これは、信仰の質(性質)を教えています。「いのちのある信仰」とは、どのようなものでしょうか。この手紙の著者は、信仰を定義して「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(1節)と記しています。 1.救いの達成 「まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り」(7節)。 「まだ見ていない事がら」とは、ノアの場合は、洪水による神のさばきですが、私たちの場合は、火による神のさばきです(第二ペテロ3章6、7節)。いのちのある真の信仰の性質の第一は、たとえ、まだ見ていなくても、確実に来ようとしている神のさばきを心から信じて、「聖い生き方をする敬虔な人」(同3章11節)となるために、「自分の救いの達成に努め」ることです(ピリピ2章12節)。 2.結果の委任 「相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(8節)。 「どこに行くのかを知らないで」とは、無計画や行き当たりばったりのことではなく、結果を神に任せてということです。いのちのある真の信仰の第二は、神の命令や言葉、また神のみこころに従って、結果は、神に任せて踏み出すことです。 3.苦難の忍耐 「目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです」(27節)。 しかし神のみこころに従って踏み出しても、その途上には様々な困難があり、モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させようとした時のように、かえって事態が悪くなってしまうことがあります。いのちのある信仰の性質の第三は、「報いとして与えられるものから目を離さ」ず(26節)、良い結果が出るまで、「目に見えない方を見るようにして、忍び通」すことです(27節)。 二、信仰の量について 主は、「信仰の薄い人たち」(マタイ6章30節)と言われましたが、このことから「篤い信仰」と「薄い信仰」があることが分かります。また弟子たちはイエスに、「信仰を増してください」(ルカ17章5節)と求めているので、信仰には「増減」があることが分かります。さらに「信仰を強められ」(使徒16章5節)と記されているので、信仰には「強弱」もあることが分かるでしょう。そして「大いなる信仰」(第一コリント13章2節、文語訳)とあるので、信仰には「大小」があり、「信仰に富む者」(ヤコブ2章5節)と記されているので、信仰には「貧富」もあることが分かります。パウロが「信仰の量り」(ローマ12章3節)と述べているように信仰には「量」の違いがあるのです。 私たちは、その質において「いのちのある真の信仰」を持っていたとしても、自分自身もほかの人も「信仰の量り」がみな異なるので、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方」(同12章3節)をするとともに、人に対しても一律に考えてはならず、「信仰の量りに応じて」、対応しなければならないのです。
2009.06.04
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「行いの伴う内的な宗教」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、5~7章 イエスは、「山上の説教」の締め括りにおいて「岩の上の家と砂の上の家」のたとえを話されましたが、そのすぐ前において次のような厳粛なことを語られました。 「『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか』。しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(7章22、23節) これはどういうことでしょうか。「山上の説教」の全体から考えてみましょう。 一、至福の教えと地の塩と世界の光(5章3~15節)――内側の心における幸福 5章の前半には八つの幸いが記されています。それは「心の貧しい者」を第一段階とし、「義のために迫害されている者」を第八段階とする「真の幸福の八段階」が述べられています。 この八つの幸いは、外側に表れた幸福というよりも内側の心における幸福です。この内側の心の幸いは、「塩」と「光」であり、それは必ず外側の行為に表れるのです。 二、旧約聖書の律法の精神について(5章17~48節)――内側の心における律法 5章の後半においてイエスは、殺人、姦淫、離婚、報復、隣人愛について、まず「外側の行為における律法」を引用し、次に「内側の心における律法」を宣言されました。 神がイスラエルの民に「外側の行為における律法」を与えられたのは、神の民に「内側の心における律法」を教えるためなのです。 三、三つの敬虔な行為について(6章1~18節)――内側の心における動機 6章の前半には、施しと祈りと断食という三つの「敬虔な行為」について記されています。イエスは、この三つの「敬虔な行為」において、「内側の心における動機」について述べておられます。それは、外側は人に敬虔な行為であると見えることも、それを行う動機や意図が純粋でなければ、偽善になってしまうことを教えるためです。 四、地上の生活について(6章19~34節)――内側の心における動機 6章の後半には、宝の蓄積と衣食の心配と明日の心配という「地上の生活」について記されています。主は、この「地上の生活」においても「内側の心における動機」について述べておられます。それは、「敬虔な行為」であれ、「地上の生活」であれ、神の御前において最も大切なことは、動機の純粋さであることを私たちに教えるためです。 五、二つの関係(さばきと祈り)(7章1~12節)――内側の心における在り方 7章の前半には、人との関係(さばき)と神との関係(祈り)という「二つの関係」について記されています。主は、この二つの関係において、「内側の心における在り方」について述べておられます。それは、何をなすべきかという行為は、どうあるべきかという在り方によって決まるということを教えるためめです。 六、二つの歩みについて(7章13~27節)――結果として神のみこころを行う 7章の後半には「二つの道」と「二つの結実」と「二つの行為」という「二つの歩み」について記されています。主は、この「二つの歩み」において、「神のみこころを行う者」について述べておられます(7章21、24節)。それは、これまで述べてきたような「内側の心における幸福と律法と動機と在り方」を正しくとらえているなら、その当然の結果として、神のみこころを行う者になることを教えるためです。 「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う」とは、心の貧しさから始まる山上の説教を聞いて、それを心から信じるなら、信じた通りに行うようになるということです。ですから、この信仰を持たなければ、イエスに向かって、「主よ。主よ」と言っても、イエスの御名によって多くの奉仕をしても、天の御国にはいることはできないのです。
2009.06.01
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