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「終末の説教(3)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、24章32~51節 イエスは、「終末の説教」において、終末の様相について弟子たちに教えられた後、終末の備えについて話されました。 私たちは、人間の生と死というものをどのように考え、またとらえているでしょうか。 ある人々は、できるだけ死を見ないようにし、縁起の悪いものとして死を避けて通り、ただ生きることだけを考えています。これは、多くの人たちの生き方ではないでしょうか。 ほかの人々は、死を当然の前提とし、その死を見つめて、死ぬまでの間をいかにして生きるかということを考えています。これは死から生を考えるという普通とは逆の発想です。 聖書の教えは後者です。なぜなら聖書は、個人の生涯の死はもちろんのこと、世の終わり(いわば死)である「終末」を当然の前として、その終わりに備えるように教えているからです。 一、世の終わりが近いことを知ること(32~35節)――終末に備える考え方 四季がはっきりしている国の人々は――日本人もそうですが――季節の移り変わりに敏感であり、12月にはいるならば、肌に感じる寒さや目に映る師走の風景、また耳にはいる年末のあわただしい物音によって、この年も終わりが近づいたことを知ります。 イエスは、「いちじくの……枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのこと(終末の前兆)のすべてを見たら、……人の子(キリスト)が戸口まで近づいていると知りなさい」と言われました(32、33節)。 私たちは、季節の移り変わりを肌で感じて年末が近づいたことを知るように、時代の移り変わりの中に終末の前兆のすべてを見たならば、世の終わりが近いことを知らなければなりません。なぜならイエスが語られた「ことばは決して滅びることが」なく(35節)、必ずその通りになるからです。 二、目をさまして、用心していること(36~44節)――終末に備える在り方 世の終わりが来て、キリストが再び来られるのは、何よりも確かなことです。ただし、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。……ただ父だけが知っておられます」(36節)。ですから私たちは、「目をさましていな」ければなりません(42節)。 「目をさましている」とは、「眠っていない」ことです。「眠る」とは、霊的に言えば不信仰に陥ることであり、それは、具体的には、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」ということを教えています(第二ペテロ3章4節)。 私たちは、目をさましていなければなりません。なぜならキリストは、「思いがけない時に来」られるからです(44節)。 三、忠実な思慮深いしもべとなること(45~51節)――終末に備える生き方 世の終わりが近づいていることを知って、目をさましている人は、いつ主人が帰って来ても、きちんと働いているような、忠実な思慮深いしもべとなります(45、46節)。このような人は、主人から全財産をまかされるように、神の国を相続するのです(47節)。 ところが、世の終わりが近づいていることも忘れて眠ってしまう人は、「『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い(これこそ不信仰のために眠るということです)、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたり」するような、不忠実な悪いしもべとなります(48、49節)。このような人は、厳しく罰せられて、偽善者たちと同じ報いを受けるのです(51節)。 私たちは、世の終わりに備える生き方をしているでしょうか。拙著「キリストの生涯の学び」172「終末の説教(3)」より転載
2009.10.31
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「終末の説教(2)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、24章15~31節 イエスは、「終末の説教」において、終末の前兆について弟子たちに教えられた後、終末の様相について話されました。 日本語において「世」または「世界」と訳されているギリシャ語には、「コスモス」と「アイオン」という二つの言葉があります。 ◇コスモス--宇宙とか秩序と訳しますが、空間に関する世界を表す言葉です(世)。 ◇アイオン--時代とか期間と訳しますが、時間に関する世界を表す言葉です(代)。 「ギリシャ人にとっては、世界は場所であり、位置であった。それに対してユダヤ人にとって、世界は本質的に歴史であり、創造によって始まり、終末に向かって進む一連の出来事であった」(ハービー・コックス)。 私たちは、世界というものを場所や位置として空間的にとらえるだけでなく、時代や歴史として時間的にとらえなければなりません。なぜなら聖書は空間的なとらえ方よりも時間的なとらえ方の大切さを教えているからです。 一、エルサレムの陥落と患難時代(15~26節) この個所に記されている言葉は、預言として、当時(紀元30年)から40年後の紀元70年に、エルサレムがローマ軍によって包囲されて陥落した時、文字通り成就しました。まさに「石がくずされずに、積まれたまま残ること」なく(2節)、エルサレムの神殿は、完全に破壊されました。その「ひどい苦難」と「悲惨」さは(21、19節)、言語に絶するものでした。 しかし、このエルサレムの陥落の苦難は、上の図に記した終末における7年間の患難時代のひな型であり、この個所に記されている預言のほとんどは、まだ成就していない未来に関するものです。 二、キリストの地上再臨(27~31節) キリストの空中再臨と教会の携挙は、「主は……ご自身天から下って来られ……私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一拳に引き上げられ、空中で主と会う」というものです(第一テサロニケ4章16、17節)。 しかし、この個所で述べていることは、上の図に記したようにキリストの空中再臨と7年間の患難時代の後に、「主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れ」(第二テサロニケ1章7節)、「主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」(ゼカリヤ14章4節)というキリストの地上再臨、すなわちキリストの顕現を教えています。 この時は、空中再臨と違って、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子(キリスト)が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(30節)。拙著「キリストの生涯の学び」171「終末の説教(2)」より転載
2009.10.27
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「終末の説教(1)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、24章1~14節 弟子たちは、イエスに「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と言いました(3節)。そこでイエスは、世の終わりのことを話されました。 このイエスの語られた「終末の説教」には、次のような三つのことが記されています。◇終末の説教(1)――終末の前兆◇終末の説教(2)――終末の様相◇終末の説教(3)――終末の備え 一、聖書の終末観 聖書は、世の初めだけでなく世の終わりについて教えています。それは上の図のように私たちの現在の「ありのままの姿」や「あるべき姿」また「なすべき事」というものは、初め(すなわち天地創造の時)から現在に至るまでの「過去を記録した歴史」を知るとともに、終わり(すなわち世界の終末の時)から現在に至るまでの「未来を展望した計画」を逆算しなければわからないからです。 二、終末の前兆 ここには、8つの前兆が記されています。1.にせキリストが現れる(5節)。2.戦争のことや戦争のうわさを聞く(6節)。3.ききんと地震が起こる(7節)。4.キリスト者が迫害を受ける(9節)。5.キリスト者が大ぜいつまずく(10節)。6.にせ預言者が多く起こる(11節)。7.不法がはびこり、愛が冷たくなる(12節)。8.福音が全世界に宣べ伝えられる(14節)。 この8つの中で、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」という第八番目の前兆は(14節)、世の終わりにしかあり得ない独特のものですから、きわめてはっきりしています。しかし第一番目から第七番目までのものは、程度の差こそあれ、いつの時代にもありました。それなのに、なぜ終末の前兆なのでしょうか。 「この世の神」として(第二コリント4章4節)、全世界を支配しているサタン(悪魔)は(第一ヨハネ5章19節)、福音が全世界に宣べ伝えられて終わりの日が来るならば、捕えられ、地獄で滅ぼされる運命にあることを知っています(黙示録20章2、10節)。ですから福音が全世界に宣べ伝えられないように必死になって邪魔をするのです。 サタンは、にせキリストやにせ預言者を起こすことによって福音におおいを掛け(第二コリント4章3、4節)、キリスト者を迫害したり、つまずかせたりすることによって伝道を妨げます。また戦争や天変地異や不法な社会は人心を荒廃させます。このようなことは、いつの時代にもありましたが、特に世の終わりが近づくと、サタンは最後の抵抗を試み、死に物狂いで妨害してくるのです。拙著「キリストの生涯の学び」170「終末の説教(1)」より転載
2009.10.24
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「みことばを悟らせてくださる聖霊」 甲斐慎一郎 使徒の働き、2章14~21節 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(17節)。 一、聖霊に満たされるまで聖書の真理が全く分からなかったペテロと使徒たち ペテロと使徒たちは、イエスが地上におられた間はイエスが語られた十字架と復活のことも、イエスにおいて成就した預言のことばも全くわかりませんでした(マタイ16章22節、ヨハネ12章16節)。いやイエスが復活された後でさえイスラエルの国の再興のことしか念頭にありませんでした(1章6節)。 二、聖霊に満たされた時、聖書の真理がはっきりと分かったペテロと使徒たち ところがペテロは、イエスが昇天されてからダビデが書いた詩篇のことばを引用し(1章16~20節)、旧約聖書とイエスに対して目が開かれ始め、五旬節の日に聖霊に満たされた時、旧約聖書が教えようとしていることとイエスのことがはっきりと分かり、聖霊が息子、娘、青年、老人、しもべ、はしため――老若男女、親子、主従の区別なく――すべての人に注がれて、預言する(すなわち神のことばを語る)と説教したのです。 「幻」や「夢」とは何でしょうか。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)、「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数記12章6節)、「アモツの子イザヤの幻」(イザヤ1章1節)、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29章18節、文語訳は黙示すなわち啓示、口語訳は預言)と記されているように「幻」や「夢」は神の啓示、すなわち神のことばです。聖霊に満たされると、聖書の真理が分かり、あかしをする力を受けて主の証人となるのです(1章8節)。 イエスは御霊の五つの働きについて教えられました(ヨハネ14~16章)。 1.「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(14章17節)。 2.「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(14章26節)。 3.「真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(15章26節)。 4.「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16章8節)。 5.「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(16章13節)。 ペテロは、御霊の働きによって聖書の真理が分かり、大胆に語ることができたのです。 三、聖霊に満たされることによって聖書のことばが身近になったペテロと使徒たち ローマ人への手紙の10章6節と7節は、どのような意味でしょうか。自分の力で努力して、天におられる神に至るまで向上しなければ救われないと思うことは、私たちのために天から下り、人となって十字架の上で贖いを成し遂げてくださったキリストの働きをむなしくすることです。なぜなら自分の力でキリストを天から引き降ろして、救いを成し遂げようとすることだからです。また自分が犯した罪のためには、地の奥底、すなわち地獄に下って刑罰を受けなければ赦されないと思うことは、私たちのために地の奥底にまで下り、罪の贖いを成し遂げてくださったキリストの働きをむなしくすることです。なぜなら、それは自分の力でキリストを地の奥底から引き上げて復活させ、救いを成し遂げようとすることだからです。 パウロは、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」(申命記30章14節)というモーセのことばを引用し、「信仰のことば」である福音は、だれの手にも届く身近な現実の中において説かれ、信仰によってだれでも到達することができると教えているのです。
2009.10.21
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「主のことばを聞くことのききん」 甲斐慎一郎 アモス書、8章11、12節 預言者アモスは、神にそむいて罪を犯しているイスラエルの民に神の審判が臨むことを次のような不思議なことばで預言しています。 「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである」(11節)。 一、主のことばを聞くことのききん――その意味と実例について ききんは、人の生命を支える食物や飲物を欠乏させるものですから、人を死に至らせる恐ろしいものです。イスラエルには、ききんが多く(創世記12章10節、26章1節、43章1節、ルツ記1章1節)、イスラエルの民は、その恐ろしさをよく知っていました。 アモスは、この「ききん」ということばを巧みに用いて、人の霊的な生命を支える食物や飲物である「主のことば」を聞くことができず、人を死に至らせる恐ろしい神の審判のことを「主のことばを聞くことのききん」と言って、預言したのです。 聖書は、エリの時代について「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」と教えています(第一サムエル3章1節)。この「幻」ということばは、口語訳、文語訳とも「黙示(すなわち啓示)」と訳され、同じ節の並行文では「主のことば」と記されていますから、神のことばのことです。エリがさばきつかさとして治めていた頃は、アモスの言う「主のことばを聞くことのききん」の時代でした。 二、主のことばを聞くことのききん――その状態と結果について 士師記の17章から21章には、読むに耐えないような醜悪で残虐が出来事が詳細に記されていますが、このようになった原因を聖書は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」からだと初めと終わりに鋭く指摘しています(士師記17章6節、21章25節)。 正しいと見えることを行いながら、なぜ醜悪で残虐な出来事が起きてしまうのでしょうか。問題は、「正しいと見えること」にあるのではなく、「めいめいが自分の目に」のほうにあります。すなわち何を善と見るか、悪と見るかということよりも大切なことは、その善悪を決める基準が何かということです。 聖書は、「あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記12章25節)と善悪の基準は神の目であることを教えています。しかし「主のことばを聞くことのききん」になれば、必ず善悪の基準が神の目ではなく、「自分の目」になるにちがいありません。 人間というものは、悪いことをする時、必ずしも悪いと思ってしているのではなく、かえって正しいと思い、正しいと信じて、悪いことをしているのです。まさに聖書が教えているように人間は、主が正しいと見えることを行わない限り、「自分の目に正しいと見えることを行」い、それが神の目に悪いことをしていることになるのです。ここに「主のことばを聞くことのききん」の恐ろしさがあるのです。 三、主のことばを聞くことのききん――その原因と対策について 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と記されているように(マタイ4章4節)、私たちは、神のことばによって生きるものです。 しかし私たちが、神のことばという「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために……真理から耳をそむけ」るなら(第二テモテ4章3、4節)、自分で「主のことばを聞くことのききん」を招いているのです。 主のことばがききんになれば、「捜し求めて」も「見いだせ」ず(12節)、取り返しがつかなくなってしまうでしょう。ですから私たちは「お会いできる間に」、「主を求め」、「近くにおられるうちに、呼び求め」ることが必要なのです(イザヤ書55章6節)。
2009.10.18
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「荒野の全行程の回顧」 甲斐慎一郎 申命記、1~4章 主は、民をカナンの地にいれるために民数記の26章から36章の11章に亘って彼らに周到な準備をさせました。普通に考えれば、これで準備が完了し、後はカナンの地にはいるだけです。しかし主は、申命記においてモーセを通して、まず荒野における過去40年間の全行程を民に思い起こさせ(1~4章)、次に神の律法を再び彼らに与えて懇々と教えさとし(5~26章)、最後にイスラエルの将来を預言して祝福されました(27~34章)。実に主は、さらに34章の長きに亘って彼らに用意周到な準備をさせたのです。 この申命記の1章から3章は、40年間の出来事が簡潔に記されています。モーセは、この申命記において六つのことを覚えていなければならないと述べています。 1.あなたはエジプトの地で奴隷であったことを覚えていなければならない(5章15節)。 2.主がパロと全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない(7章18節)。 3.奴隷であったあなたを主が贖い出されたことを覚えていなさい(15章15節)。 4.主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい(4章23節)。 5.あなたは荒野で、どんなに主を怒らせたかを覚えていなさい(9章7節)。 6.主が荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない(8章2節)。 申命記の鍵の語は「覚えていなさい」という言葉です。このことはイスラエル人がカナンの地にはいるために最も必要なことでした。なぜなら民が、この六つのことを忘れずに覚えているならば、その国は滅びることなく、神の祝福を受けて、いつまでも栄えることができるからです。これは罪の奴隷から贖い出されたキリスト者にとっても全く同じです。 「荒野の40年」ヴァイツゼッカー 1985年5月8日、ドイツ敗戦記念の日、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領がドイツの国会で行った「荒野の40年」と題する講演からの抜粋です。 「多くの国民がきょうこの日を記念しています。ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦が終結した日です。5月8日は、思い起こす日です。思い起こすとは、一つの出来事を正直に、混じり気なしに思い起こし、その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにするということです。これは、われわれの真実を問いただす大きな要求です。きょうわれわれは、悲しみをもって思い起こします。戦争と暴力支配の犠牲となって死んだ人人を。 罪責があろうがなかろうが、年をとっていようが若かろうが、われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。この過去のもたらした結末が、われわれすべての者を打ち、この過去にかかずらわないわけにはいかなくなっているのです。 この過去を清算することが大切なのではありません。それは、われわれには不可能です。過去をあとから変更したり、なかったことにすることはできないのです。しかし、過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのです。かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる罪の伝染力に負けてしまうのです。 ユダヤの人々は忘れることはないし、何度でも思い起こすことでありましょう。われわれは、人間として、和解を試みないわけにはいかないのです。まさにそれゆえに、われわれは理解しなければなりません。思い起こすことなくして和解は起こりえないということを。何百万の人の死の経験は、あらゆるユダヤ人の内的存在の一部になっています。それは、ただ単に人間というものは、そうした残酷なことを忘れないものなのだということによるだけではありません。そうではなくて、思い起こすことは、ユダヤの人々の信仰に不可欠なのです。思い起こすことが信仰の原点であり、思い起こすことが人類の未来を守り、今に生きる人間の知恵なのです」。
2009.10.15
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「執成しの祈り(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、17章20~26節 イエスは、「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」と祈られました(20節)。 これは、イエスが時間と空間を超越して、世の終わりに至るまでの代々にわたる全世界の教会のために祈られた祈りです。 イエスは、弟子たちのために祈られた後、全教会のために祈られました。 一、彼らがみな全うされて一つとなるように祈られたイエス(21~23節) イエスは、代々にわたる全世界の教会のために、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなる」ように祈られました(21節)。 この一つとなるというのは、意見や見解が合致することではなく、儀式や形式を統一することでもなく、組織や機構の上で団結することでもなく、父なる神とキリストが一つであるように、本質と霊性において一致することを教えています(M・C・テニイ)。 このようにイエスが、全教会が一つとなるように祈られたのは、そのことによって、父なる神がイエスを遣わされたことを、世が信じるためであり(21節)、また父なる神がイエスを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです(23節)。 二、わたしといっしょにおらせてくださいと祈られたイエス(24節) またイエスは、代々にわたる全世界の教会のために、「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」と祈られました(24節)。 「わたしのいる所」とは、父の家の住まい、すなわち天の御国です(14章2、3節)。イエスは、代々にわたる全世界の教会を天の御国にご自分とともにおらせてくださいと祈られました。 イエスが、このように祈られたのは、父なる神がイエスを世の始まる前から愛しておられたためにイエスに下さったイエスの栄光、すなわち「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光」(5節)を、彼らが見るようになるためです(24節)。 三、彼らにあなたの御名を知らせましたと祈られたイエス(25、26節) そしてイエスは、代々にわたる全世界の教会のために、「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます」と祈られました(26節)。 父の御名を知らせるとは、父ご自身を知らせるということです。この世は、父なる神を全く知りませんが、イエスは、父なる神をよく知っておられ(25節)、人々に「神を説き明かされ」ました(1章18節)。このようにして代々にわたる全世界の教会は、父なる神がイエスを遣わされたことを知りました(25節)。 イエスが、このように祈られたのは、父なる神がイエスを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またイエスが彼らの中におられるためです(26節)。 イエスは、全教会のための執成しの祈りを終えられました。そして、現在は、「神の右の座に着き、私たちのために」、すなわち、世の終わりに至るまでの代々にわたる全世界の教会のために、「とりなしていてくださるのです」(ローマ8章34節)。 神は、私たちも、このイエスの執成しの祈りにならって、全世界の教会のために、また世の人々の救いのために祈ることを願っておられるのです(第一テモテ2章1~4節)。拙著「キリストの生涯の学び」191「執成しの祈り(3)」より転載
2009.10.12
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「執成しの祈り(2)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、17章9~19節 イエスは、「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです」と祈られました(9節)。 ヨハネは、14章において心が騒ぐ弟子たちの姿を、15章において恐れる弟子たちの姿を、16章において悲しむ弟子たちの姿を記しています。ところが17章においては、このような心もとない弟子たちが、神を知らないだけでなく、彼らを憎むような世に遣わされることを述べています(25、14、18節)。 イエスは、このような心もとない弟子たちのために、父なる神が聖霊を遣わして、彼らを助けてくださるように祈られました。すなわち、このような弟子たちを立ち直らせてくださる聖霊に信頼し、期待しておられたからこそ、父なる神に祈られたのです。 イエスは、ご自分のために祈られた後、弟子たちのために祈られました。 一、あなたの御名の中に彼らを保ってくださいと祈られたイエス(9~12節) イエスの弟子たちは、父なる神のものですが、それとともに父なる神がイエスに下さった者たちでもあります(9節)。すなわち、イエスのものはみな父なる神のもの、父なる神のものはイエスのものです(10節)。 イエスは、弟子たちといっしょにおられた時、父なる神がイエスに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守られました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、聖書が成就するために、ただ滅びの子であるイスカリオテ・ユダだけが滅びました(12節)。 イエスは、まもなく世を去って、父なる神のみもとに行かれますが、弟子たちは世にいるだけでなく、彼らを憎むような世に遣わされます。ですからイエスは、「あなたの御名の中に、彼らを保ってください」と父なる神に祈られたのです(11節)。 二、彼らを悪い者から守ってくださいと祈られたイエス(13~15節) イエスは、まもなく父なる神のみもとに行こうとしておられます。その前に弟子たちの中でご自分の喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話されました(13節)。イエスの喜びこそ、彼らにとって最も必要なものだからです。 そのためにイエスは、弟子たちに神の言葉を与えられましたが、世は彼らを憎みました。神の言葉を信じた弟子たちは、イエスのようにこの世のものではないからです(14節)。 それでイエスは、弟子たちを、この世から取り去ってくださるようにというのではなく――なぜなら、彼らは世に遣わされるからです。ですから患難の多い世にあっても――悪い者と悪の力から守ってくださるように父なる神に祈られたのです(15節)。 三、真理によって彼らを聖め別ってくださいと祈られたイエス(16~19節) ただし弟子たちが、イエスのように世に遣わされ、神から与えられたわざを成し遂げて、神の栄光を現すためには、悪い者から守られるだけでは、不十分です。その罪がきよめられて、神のわざを行うために聖別されることが必要です。それでイエスは、「真理によって彼らを聖め別ってください」と祈られたのです(17節)。 そしてイエスは、「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」と祈られました(19節)。弟子たちを真理によって聖め別つために、目前に迫った十字架の上で人類の罪を贖い、「罪のきよめを成し遂げ」ることによって(ヘブル1章3節)、ご自身を聖め別たれるのです。拙著「キリストの生涯の学び」190「執成しの祈り(2)」より転載
2009.10.09
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「執成しの祈り(1)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、17章1~8節 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われ」ました(1節)。 このヨハネの福音書の17章は、「聖書の中の至聖所」と呼ばれているところで、ここにはイエスの大祭司的な「執成しの祈り」が記されています。私たちは、この祈りを学ぶ時、神の前にひざまずき、ぬかずくほどの敬虔な心をもって読まなければなりません。 ヨハネの福音書の14章から16章までの「訣別の説教」を語り終えられたイエスは、目を天に向けて、この大祭司的な「執成しの祈り」をされたのです。 このイエスの大祭司的な執成しは、次のような三つのことを祈っています。◇執成しの祈り(1)――ご自分のための祈り◇執成しの祈り(2)――弟子たちのための祈り◇執成しの祈り(3)――全教会のための祈り イエスは、執成しの祈りをする前に、ご自分のために祈られました。 一、わたしの栄光を現してくださいと祈られたイエス(1~3節) イエスは、目を天に向けて、「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」と祈られました(1節)。 これは、十字架の死を目前に控えたイエスが、神から与えられたわざを行って――すなわち十字架の上で罪の贖いを成し遂げて、唯一のまことの神と、その神が遣わされたイエスとを知る者に永遠のいのちを与えることによって――神の栄光を現すために、ご自分の栄光を現してくださいと祈り求められたことを教えています(1~3節)。 このようにイエスは、神の栄光を現すために、目前に迫った十字架の死と、それに続く一連の出来事を通して、ご自分の栄光が現れることを祈り求められたのです。 二、みそばで、わたしを栄光で輝かせてくださいと祈られたイエス(4、5節) またイエスは、「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」と祈られました(5節)。 イエスは、世界が存在する前から「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れで」す(ヘブル1章3節)。十字架の上で人の罪を贖うために、この世に来られましたが、その「罪のきよめを成し遂げ」るなら、再び「すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれま」す(同1章3節)。 それでイエスは、神から与えられたわざを成し遂げて、地上で神の栄光を現されたので、みそばで、世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてくださいと祈られたのです。 三、弟子たちに父の御名を明らかにしましたと祈られたイエス(6~8節) そしてイエスは、「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました」と祈られました(6節)。 父の御名を明らかにするとは、父ご自身を明らかにするということです。使徒ヨハネは「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と教えています(1章18節)。このようにイエスは、神を説き明かすために、この地上に人となって来られました。 イエスは、弟子たちに御言葉を与え、彼らは、それを受け入れ、神がイエスを遣わされたことを信じました(8節)。ですから、弟子たちに父の御名を明らかにしましたと祈られたのです。拙著「キリストの生涯の学び」189「執成しの祈り(1)」より転載
2009.10.07
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「正確な事実に基づいた宗教」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、1章1~4節 ルカは、この福音書を書き記すに当たって、まずテオピロ宛に序文を記しています。この序文は、もともとテオピロ宛のものですが、ルカの福音書を読む人々に、いや四つの福音書を読むすべての人々に宛てたものとして誠にふさわしいものです。ルカは、この序文において大切なことを述べています。 一、ルカの序文の背景 ルカには、テオピロ宛にこの序文を書かなければならない深い理由がありました。 テオピロがどのような人であったか詳細については不明ですが、おそらく身分の高い人で、使徒たちによって福音が宣べ伝えられた当初からキリスト者になっていた人ではないかと思われます。 その当時(今から二千年ほど前)のテオピロから見るならば、キリスト教は、古いユダヤ教を母胎としてはいるものの、まだ歴史の浅い新しい宗教でした。彼の周囲には、まことしやかに捏造された作り話や、根も葉もない架空の話に基づいたあやしげな宗教、またキリスト教とは名ばかりで、まちがった教えで人を誤らせる異端が数多くありました。 このような中でテオピロは、使徒たちの伝えた福音を信じてキリスト者になってはみたものの、その心にはキリスト教も新しい宗教である以上、あやしげな宗教や異端の一つではないかという一抹の不安があったにちがいありません。医者であるとともに歴史家でもあるルカは、このようなテオピロの心を見通してこの序文を書いたのです。 二、ルカの序文の内容 私たちは、ルカがこのような序文を通してテオピロに伝えたかったことを正しくとらえることが必要です。 この4節しかない短い序文においてルカは、言葉を選んで非常に大切なことを述べています。 ◇「私たちの間ですでに成就された出来事について」(1、2節、欄外別訳)。 ◇「初めからの目撃者」(1、2節)。 ◇「私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて」(1、2節)。 ◇「私も、すべてのことを初めから綿密に調べております」(3節)。 ◇「すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であること」(4節)。 これらの言葉は、キリスト教というものがまことしやかに捏造された作り話や、根も葉もない架空の話に基づいたあやしげな宗教ではなく、実際に起きた歴史的な出来事を初めから目撃した者がそのとおりに伝えた正確な事実に基づいた宗教であることを教えています。ルカは、このようなことを伝えたいためにテオピロ宛にこの序文を書いたのです。 三、ルカの序文の教訓 私たちは、この序文が私たちに教えようとしていることを知ることが大切です。 ルカはキリストの復活を述べる時、「数多くの確かな証拠をもって」と記していますが(使徒1章3節)、この序文を表現を変えて記すなら、次のように言うことができます。◇キリスト教は確かな証拠のある宗教です。◇キリスト教は確かな証人のいる宗教です。◇キリスト教は確かな証言のある宗教です。 次の例話は、真の信仰は事実に基づいたものであるという大切な真理を教えています。 「事実(ファクト)と信仰(フェイス)と感情(フィーリング)がともに旅をしました。まっ先に感情が疲れて休むと、次に信仰もふらふらして弱くなりました。しかし事実は少しも衰えず、変わりませんでした。これを見て信仰は強くなり、感情ももと通りになりました」(英語の詩、作者不詳)。拙著「キリストの生涯の学び」1「ルカの序文」より転載
2009.10.03
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