全10件 (10件中 1-10件目)
1
「回心直後の出来事」 甲斐慎一郎 使徒の働き、9章19~30節 サウロは、アナニヤの按手を受け、「目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようにな」りました(18)。その時、肉眼だけでなく霊的な眼も開かれたのです。 一、ダマスコの諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めたサウロ(19~22節) 回心したサウロが最初にしたことは、今までの考えと人生を方向転換させる主の救いを受けた者にふさわしいものでした。サウロがイエスは神の子であると宣べ伝えるのを聞いた人々はみな、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と言って、彼の予想外の変貌に驚きました(21節、ガラテヤ1章23節)。 それだけではありません。サウロがますます力を増し、イエスがキリストであることを証明したので、ダマスコに住むユダヤ人たちは、うろたえてしまったのです(22節)。 二、アラビヤに退き、旧約聖書と天からの啓示を黙想したサウロ(ガラテヤ1章15~17節) しかしサウロは、イエスのことを宣べ伝えれば伝えるほど、まだまだイエスとその福音を知らず、今までの聖書の理解では不十分であることを痛感したのではないでしょうか。 サウロはアラビヤに出て行きました(ガラテヤ1章17節)。そこで改めて旧約聖書を初めから終わりまで徹底的に読んで学ぶだけでなく、祈りつつ思い巡らして考え、新約聖書が教えている真理――御父、御子、御霊の三位一体の神をはじめ、キリストの降誕と生涯、十字架の死と復活、昇天、聖霊の降臨、教会の誕生と建設、再臨と終末など、神のご計画の全体――の深い意味を御霊の啓示によって示され、把握したのではないでしょうか。 三、ダマスコに戻ったが、殺害の陰謀が発覚して、そこをのがれたサウロ(23~25節) 多くの日数がたちました(23節)。サウロは三年近くアラビヤに滞在した後、ダマスコに戻って来ました(ガラテヤ1章17、18節)。あらゆる面において著しく成長して帰って来たことは言うまでもありません。ユダヤ人たちは、キリスト教に改宗しただけでなく、一路邁進しているサウロをどうしても赦すことができず、彼を殺そうとしました(23節)。 この時、ダマスコを治めていたアレタ王の代官もサウロを殺す陰謀に加わり、彼を捕えようとしたのでしょう(第二コリント11章32、33節)。しかし弟子たちが城壁の窓から彼をかごでつり降ろしたので、危機一髪のところで助け出されたのです(25節)。 四、バルナバが保証人の役を引き受けたので、エルサレムで伝道したサウロ(26~28節) ダマスコからのがれたサウロは、エルサレムに着き、弟子たちの仲間にはいろうと試みましたが、みなは恐ろしい迫害者であった彼のことを忘れることができず、弟子だとは信じないで、恐れていました(26節)。おそらく弟子たちは、教会を外側からどんなに迫害してもあまり効果がないと考えたサウロが、今度は弟子のふりをして教会の中に入り込み、内側からキリスト教を破滅させようと企てているのではないかと思ったのでしょう。 サウロは窮地に立たされました。この時、慰めの子と呼ばれていた人望のあるバルナバが保証人の役を引き受け、彼らに細かな経緯を説明したので、弟子たちの仲間にはいることができました(27節)。こうしてサウロはアナニヤに続いてここでも良い友を得、エルサレムで弟子たちとともに自由に出はいりし、大胆に伝道することができたのです(28節)。 五、またもや殺害の陰謀を企てる者がいたので、タルソにのがれたサウロ(29、30節) サウロはギリシャ語を使うユダヤ人たちと論じましたが、彼らはサウロを裏切り者とみなし、積年の恨みを晴らすために彼を殺そうとねらっていました(29節)。この時、主がサウロに現れ、人々が彼のあかしを受け入れないので、彼を異邦人に遣わすと言われました(22章18、21節)。エルサレムの教会の兄弟たちは、サウロを殺そうとする陰謀を知って、彼をカイザリヤに連れて下り、さらにタルソへ送り出したのです(30節)。拙著「使徒パウロの生涯」5「回心直後の出来事」より転載
2009.11.29
コメント(0)
「サウロの召命」 甲斐慎一郎 使徒の働き、9章10~19節 サウロは、天からの声に二つの質問をしています。二番目の「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」という質問に対して主は彼を異邦人への使徒として召されました。 一、幻の中でサウロというタルソ人を尋ねるように主に言われたアナニヤ(10~12節) ダマスコの諸教会は、幸いなことにサウロが回心したことによって恐ろしい迫害をまぬかれることができましたが、さらに幸いなことに、そこに住む弟子たちの中に回心したサウロを主の道に導くことができる人がいました。「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤという人」です(22章12節)。 アナニヤの存在は、ダマスコの教会だけでなく、サウロにとっても幸いなことでした。なぜなら、後になってパウロは、ユダヤ人に捕らえられ、民衆に弁明しましたが、その時、このようなアナニヤからバプテスマを受け、彼を通して神の召しを受けたことを話すことができたからです(22章13~16節)。ここにも先へ先へと働いておられる主を見るのです。 サウロが回心してから三日目の終わりころ、祈っていると、「アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見」ました(12節)。それで主は(それもおそらく祈っていたであろう)アナニヤに、幻の中でサウロというタルソ人を尋ねるように言われました(11節)。主はふたりに祈りと幻の中で語ってくださったのです。 二、戸惑うアナニヤにサウロは選びの器として召されたことを告げるとともに、彼のもとに行くように命じられた主(13~16節) しかしアナニヤは、サウロを尋ねるように主に言われると、恐れをなして、戸惑いつつ深刻な状況を主に訴えました。彼がエルサレムで聖徒たちにひどい仕打ちをしただけでは飽き足りず、脅かしと殺害の意に燃えて、このダマスコに来たことをよく知っていたからです(13、14節)。ほかの人ならばともかく、よりによって最も恐ろしい迫害者に会いに行くように言われたのですから、尻込みするのも無理からぬことでしょう。 しかし主は、アナニヤの訴えを退け、「行きなさい」と命じられました(15節)。なぜなら彼は、三日前までは確かに迫害する者、暴力をふるう者でしたが、今はイエスと出会ったことによって全く新しく生まれ変わったからです。いやそれだけでなく主の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、主の選びの器だからです(15節)。それは主の名のために非常に大きな苦しみを受けることです(16節)。しかしパウロは、「それを恥とは思っていません」と告白しています。なぜなら、「その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信してい」たからです(第二テモテ1章12節)。 三 アナニヤによって使徒となる按手を受け、目が見えるようになり、聖霊に満たされてバプテスマを受けたサウロ(17~19節) アナニヤは、主のことばを聞くと、落ち着きを取り戻しただけでなく励ましを受けて、サウロのところに行きました。そして彼が再び見えるようになり、聖霊に満たされるために、主イエスが自分を遣わされたことを告げ、彼の上に手を置きました(17節)。 すると、その時、サウロはアナニヤが見えるようになっただけでなく、聖霊に満たされました。そしてアナニヤのことばによって主のために、すべての人に対し、自分が見たこと、聞いたことの証人とされることを知りました(22章13、15節)。 サウロがイエスと出会ったことによって回心し、今までの人生を方向転換しただけでも、それは彼にとって驚くべき出来事でした。ところが三日後には、まだ十分に考えを整理していないうちに異邦人への使徒としての召しを受けたのですから、頭の中は混乱し、ためらっていたのも当然のことでしょう。しかしアナニヤに促されて、気を取り直し、バプテスマを受けました(22章16節)。そして食事をして元気づき(19節)、使徒としての全く新しい人生を踏み出したのです。拙著「使徒パウロの生涯」4「サウロの召命」より転載
2009.11.27
コメント(0)
「サウロの回心」 甲斐慎一郎 使徒の働き、9章3~9節 サウロの迫害は、はたから見れば常軌を逸した行動です。しかしサウロは――イエスが弟子たちに前もって言われたことばのように――「あなたがた(弟子たち)を殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思」っていたのです(ヨハネ16章2節)。 一、ダマスコへの途中、天からの光に照らされ、天からの声を聞いたサウロ(3、4節) サウロは、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、ダマスコへ向かっていました(1、3節)。ところが愛とあわれみに満ち、しかも教会のかしらであるイエスは、ご自分のからだである教会を守るとともに、この迫害者を罪から救い、その救いを宣べ伝える「選びの器」(15節)とするために彼がダマスコに来るのを待ち構えておられました。 そのようなことなど何も知らず、激しい怒りに燃えてダマスコの近くまで来たサウロは、突然、まばゆい光の中で、死からよみがえり、栄光を受けられたイエスを目の当たりに見ただけでなく、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」(26章14節)と言われたイエスのことばを聞きました。 このことばを聞いた時、サウロの脳裏にステパノをはじめ多くの殉教者の顔が浮かんだことでしょう。殉教の死を目前にしながら御使いの顔のように輝いている彼らの姿を見て、自分の残酷な行為に疑問を抱き、良心がひどく痛んでも、それを否定し、なおも教会を迫害したことこそ、「とげのついた棒をける」ことであることに気がついたのです。 二、天からの声に二つの質問をし、それぞれに応答が与えられたサウロ(5、6節) サウロは、反射的に、「主よ。あなたはどなたですか」と言いました。すると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」というお答えがありました(5節)。 この出来事は、サウロの考えと人生を方向転換させた驚くべき経験でした。彼が、からだである教会を迫害したので、教会のかしらであるイエスが痛いと言われたのです。 さらに二番目の質問としてサウロは、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねています。すると主は、「起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」と言われたのです(22章10節)。 「主よ。あなたは、どなたですか」(5節)と、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」(22章10節)というふたつのことばこそ、その後のサウロの生き方を決定づけたものです。パウロは、一生の間、キリストがどのような方であるのか、そのすばらしさを知り続け(ピリピ3章8節)、またそのキリストのすばらしさが現されるためには、どうしたらよいのかを求め続けた人です(同1章20節)。これはまた私たちの生き方ではないでしょうか。 三、ダマスコへ連れて行かれたが、三日の間、目が見えなかったサウロ(7~9節) サウロは地面から立ち上がりましたが、何も見えなかったので、人々に手を引かれて、ダマスコにはいりました(8節)。三日間、目が見えず、飲み食いもしませんでした(9節)。 この三日の間にサウロは、自分の身に起こったことを思い巡らし、考え抜いたにちがいありません。イエスと出会ったことにより教会を迫害した恐ろしい罪の刑罰を受けるどころか、かえってイエスを迫害したにもかかわらず罪の赦しを得たことを知り、イエスの愛の広さ、長さ、高さ、深さに感動し、感激に震えたのではないでしょうか。 そして「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知った」のです(ガラテヤ2章16節)。 18世紀の英国の政治家ジョージ・リトルトンは、「聖パウロが回心して使徒となったことだけでも、正しく考察するなら、それ自体からキリスト教が神の啓示であることを証明するのに十分な実例である」と述べていますが、まことにそのとおりです。拙著「使徒パウロの生涯」3「サウロの回心」より転載
2009.11.23
コメント(0)
「サウロの迫害」 甲斐慎一郎 使徒の働き、8章1~3節 サウロは、ガマリエルのもとでユダヤ人のラビとしての教育を受けた後、どこへ行ったか定かではありません。しかしその後、ふたたびエルサレムに戻って来ました。 一、ステパノの説教を聞き、神を冒涜していると憤慨したが、彼の姿を見て神聖さを感じ、二重の衝撃を受けたサウロ(6章9~15節) そのころ、教会が誕生し、年月の経過とともに主を信じる者はますますふえて行きました(5章12~14節)。恐れをなしたユダヤ議会の議員たちは、使徒たちを捕えたり、おどしたり、ついには殺そうとさえしました。しかし人から出たものならば自滅してしまうというガマリエルの忠告に従って、彼らから手を引き、放っておくことにしました(5章33~39節)。 しかし彼らは自滅するどころか、ますますふえて行きました(6章7節)。特にステパノの説教は、決して赦すことができないものでした。ユダヤ人には、彼の言うことはモーセと神とをけがすことばを語っているとしか聞こえませんでした。なぜなら彼らにしてみれば、彼の主張は神殿とその制度を廃止する以外の何ものでもないからです(6章11、14節)。 「キリキヤ……から来た人々」(6章9節)の中にサウロがいたのでしょう。彼もステパノの説教を聞いて、神を冒涜していると憤慨しました。しかし御使いのように輝いている彼の顔を見て、これが神をけがしている人だろうかと思ったのではないでしょうか(6章15節)。 二、ステパノの死に立ち会い、彼の神々しい姿を目の当たりにしたサウロ(7章58~60節) たとえ一抹の不安がサウロの心をよぎったとしても、そんなことで現実に背を向けることはできません。「サウロは、ステパノを殺すことに賛成してい」ました(8章1節)。 サウロは、人々がステパノに石を投げつけているのを平然たる態度で見ていました(7章58節)。きっとイエスの教えを信じたことを後悔し、その教えを十分に広めることなく殉教することに無念やるかたない思いで死んでいくにちがいないと想像していたことでしょう。 ところがサウロの目に映った光景は全く予想外でした。このように残酷な殉教の死を目前にして、平安な心で、自分を死に追いやろうとしている人たちの罪の赦しを祈っている愛に満ちたステパノの神々しい姿を見て(7章59、60節)、一瞬、目を疑ったことでしょう。こんなことはあるはずがないと懸命に心の中で否定したのではないでしょうか。 三、教会を荒らし、家々にはいって、この道の者を次々に牢に入れたサウロ(1~3節) 人間というものは、自分が今まで信じてきたものに疑惑が生じると、それを否定するためにこれまでより熱心に信仰の道に歩んだり、奉仕に励んだりするものです。サウロのように律法について厳格な教育を受け、熱心な人はなおさらそうするのではないでしょうか。 エルサレムに対する激しい迫害が起こると、サウロは、それに便乗するかのように教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れたのです(1、3節)。 四、大祭司の権限と委任を受けて、この道の者を縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコに向かったサウロ(9章1、2) サウロの迫害は、とどまるところを知らず、「彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました」(26章11節)。それは神をけがす者を罰することは正しいことで、主に仕える道であるという彼の信仰から生まれたものでした。 このことを晩年において「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした」(第一テモテ1章13節)と深い悔恨の情にかられて述懐しています。しかし「こうした悲しむべき所行の中から、パウロの心のうちに、徹底したへりくだりの態度と、自分がひどいしうちにあわせた兄弟たちにはどんな卑しい人にでも仕えようという決意が生まれた。また、残された時を一瞬たりともむだにすることなく用い尽くして、失われた時をあがなおうとする熱心さが生まれた」のです(J・ストーカー『パウロ伝』50頁)。拙著「使徒パウロの生涯」2「サウロの迫害」より転載
2009.11.21
コメント(0)
「サウロの誕生と成長」 甲斐慎一郎 使徒の働き、22章3節 パウロはイエスの十二使徒のひとりではありませんが、イエス・キリストと父なる神により、「異邦人への使徒として」特別な召しを受けた人です(ガラテヤ1章1節、2章8節)。 パウロの生涯は、「使徒の働き」と、彼の書き送った13の手紙に記されています。 一、キリキヤのタルソで生まれ、この町で育てられたサウロ(3節) ユダヤ人はローマ時代以前から世界の各地に離散していました。このパレスチナ以外に散って住んでいたユダヤ人は、「ディアスポラ(散在ユダヤ人)」と呼ばれていました。小アジヤの南部にあるキリキヤ州の首都タルソに住んでいたひとりの「ディアスポラ」に男の子が生まれ、サウロと名づけられました。この人こそ後のパウロです(13章9節)。 サウロの正確な誕生の年はわかりません。しかしさまざまなことを考慮して推測するなら、「彼はイエスとほぼ同じころ生まれたのだという結論に達する。少年イエスがナザレの路上で遊んでおられたころ、少年パウロは、レバノン山脈の反対側、はるかかなたのタルソの路上で遊んでいたので」す(J・ストーカー『パウロ伝』27頁)。 サウロは、敬虔なユダヤ教徒である両親のもとで旧約聖書の教えに基づいた厳格な宗教教育を受けました。タルソは、アテネとアレキサンドリヤとともに学都として名高い町でした。それゆえ宗教的で敬虔な家庭で育っただけでなく、学問の水準が最も高い町で育てられたので、だれよりも深く真理を探求しようとする考えが心に芽生えていったのです。 二、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳格な教育を受けたサウロ(3節) サウロの父はローマの市民権を持っていました。それゆえサウロは、きっすいのユダヤ人でしたが、生まれながらのローマ市民でもありました(22章27、28節)。また天幕作りの技術も身につけていました(18章3節)。この二つのことが後になって伝道旅行をする時、どんなに役に立ったかは周知の事実です(16章37~39節、20章34節)。 サウロは、ユダヤ人のラビ(教師)となるためにエルサレムに上り、「すべての人に尊敬されている律法学者で」(5章34節)、優れた頭脳を持つパリサイ派の指導者である「ガマリエルのもとで……先祖の律法について厳格な教育を受け」ました(3節)。 そこで旧約聖書をすみからすみまで知り尽くしたからこそ、回心した後、神の啓示と聖霊の導きによって新約聖書の真理を正しくとらえて、キリストとその福音の奥義をわかりやすく説き明かすことができたのです。またフェストに「頭がおかしい」と言われたほどの博学と、アグリッパに「わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言われたほどの相手を説き伏せる説得力もこの時に身につけたのでしょう(26章24、28節)。 三、ユダヤ教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活したサウロ(26章5節) サウロは、回心する前においても卓越した人物でした。それは、旧約聖書をはじめ一般の学問において博学多才な人であっただけでなく、ユダヤ教の「最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活し」(26章5節)、「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者で」あったからです(ピリピ3章6節)。 パリサイ人は、旧約聖書に記されている律法を完全に守り行うならば、神に受け入れられ、救われると堅く信じていました。ですからこのモーセの律法に逆らう者は、神をけがす者であって、絶対に赦すことができないと考えていたことは言うまでもありません。タルソのサウロもそのひとりでした。このような人が行いと律法によってではなく、ただ信仰と恵みによって救われるということを体験するのは、至難のわざではないでしょうか。 しかしこのようなことでさえサウロがイエスに出会って救いを受け、「神のご計画の全体を、余すところなく」(20章27節)宣べ伝えるために神の摂理によって用いられるのです。拙著「使徒パウロの生涯」1「サウロの誕生と成長」より転載
2009.11.18
コメント(0)
「サムソンの最期」 甲斐慎一郎 士師記、16章 この16章には、サムソンが20年間、イスラエルをさばいた後のことが記されています。 一、ガザの町の門扉と門柱を肩にかついでヘブロンの山へ運んだサムソン(1~3節) サムソンはガザで一人の遊女と寝ました。「彼がペリシテの堅固な城塞の一つであるガザへ行ったのは、主の霊によって励まされてではなく、自分の力であると思っているものを信じ、かつ誇って自分の欲望を満たそうとしたのです」(A・イーダーシャイム)。 ガザの人々は、サムソンを殺すには今が絶好の時であると思い、彼を取り囲んで待ち伏せました。ところがサムソンは、真夜中に起き上がると、町の門扉と門柱をかんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、遠いヘブロンに面する山の頂へ運んで行ったのです。 町の人々は、彼の怪力を目の当たりに見て、あっけにとられ、声も出ませんでした。「ペリシテ人の領主たちは、サムソンが自分の罪によってその力を失わない限り、とうてい力をもって彼に勝つことはできないことを悟ったのです」(A・イーダーシャイム)。 二、デリラの誘惑に負けて力を失い、ペリシテ人に捕えられたサムソン(4~22節) その後、サムソンはデリラという名の一人の女を愛しました。そのことを知ったペリシテ人の領主たちは、デリラのところに行って、彼女にサムソンの力の秘密を探り出すように命じ、その報酬として(恐らく5人で)銀5,500枚を与えることを約束しました。 デリラはサムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのかを聞きました。サムソンは、彼女の質問を三回もはぐらかしていますが、三回目の答えは髪の毛のことに触れています。彼は、それが力の秘密を明かす一歩手前にあることに気づかなかったのでしょう。誘惑に負けない秘訣の一つは、できるだけ誘惑から遠ざかることです(箴言5章8節、6章27、28節)。 しかしサムソンは、自分を誘惑するデリラを遠ざけなかったために、ついに自分の心をみな彼女に明かしてしまいました。「サムソンが外側においてナジル人であることをやめる前に、彼はすでにその心中においてナジル人であることをやめていました」(A・イーダーシャイム)。髪の毛をそり落とされて力を失ったサムソンは、ペリシテ人に捕えられ、目をえぐり出されて、牢の中で臼をひかされ、ついに落ちるところまで落ちて行ったのです。 「サムソンの不幸は、神が彼によってなされたことを自分の功績であるとしていたことです。神は彼がその苦しみによって神がともにおられなければ、自分は数えるに足りない者であることを悟らせるために彼の力を滅ぼすことを許されたのです」(ドイツの注解)。 サムソンは、牢の中で臼をひきながら、主のためではなく自分の欲望のために力を用いていた誤りに気づいたのではないでしょうか。サムソンの頭の毛がまた伸び始めたのは、おそらく彼がこのことを悟って悔い改めたからでしょう。彼に再び力が与えられました。私たちも主のわざを成し遂げるために神からさまざまな能力と賜物が与えられています。 三、ダゴンの神殿を破壊して、大勢のペリシテ人とともに死んだサムソン(23~31節) ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しむために集まり、サムソンを見せものにしました。その時、サムソンは主に呼ばわり――屋上にも約3,000人の男女がいた――ダゴンの宮をささえている二本の中柱を渾身の力をふりしぼって引き、神殿を破壊してペリシテ人に復讐しました。このようにしてサムソンは、士師としてイスラエルをペリシテ人の手から救うために壮絶な死を遂げたのです。 このガザにおいて壊滅的な打撃を受けたペリシテ人は、数年後、エベン・エゼルにおいてサムエルの率いるイスラエル軍に敗北するのです(第一サムエル7章12、13節)。拙著「士師とサムエルの生涯」19「サムソンの最期」より転載
2009.11.14
コメント(0)
「サムソンの勝利」 甲斐慎一郎 士師記、15章 「サムソンは、自分の妻の裏切りを怒って、しばらく彼女を捨てましたが、妻の父もまた怒って、あたかもサムソンを侮辱するかのように彼女を彼につき添った客のひとりに与えました」(A・イーダーシャイム)。 一、自分の妻が他の人に嫁いでいたので、ぺリシテ人に復讐したサムソン(1~8節) 父の家へ帰ってからしばらく経て気持ちが落ち着いてくると、サムソンは妻が恋しくなってきました。何しろ一目ぼれし、しかも話し合って気に入った娘ですから(14章2、7節)、無理からぬことです。彼は一匹の子やぎを持って自分の妻を訪ねました。 ところがサムソンの妻は、あの30人の客の一人の妻になっていました(同20節)。これを知ったサムソンは、妹を代わりに与えようという彼女の父の申し出をはねつけ(2節)、怒りに燃えて、ペリシテ人に復讐することの正当性を主張したのです(3節)。 サムソンは、ジャッカルを300匹捕らえ、それらに細工を施してペリシテ人の麦畑とオリーブ畑を燃やし、甚大な被害を与えました(5節)。これを見たペリシテ人は激怒しましたが、サムソンに仕返しをすることができないので、彼の妻であった女とその父を焼き殺しました(6節)。するとサムソンは、烈火のごとく怒り、大勢のペリシテ人を虐殺したのです(8節)。 サムソンがペリシテ人の娘を妻にしようとしたことは、サムソンとペリシテ人との間で、このようなすさまじい復讐の応酬が続くという不幸な結果を招きましたが、主はこのようなことをも用いて、彼が士師としてイスラエルをペリシテ人の手から救う機会を彼に与えられました。しかしサムソンがペリシテ人の娘と結婚することは主のみこころではなかったので、彼はティムナの女と結婚式をあげたものの、彼女を正式な妻にすることはできなかったのです。 二、ユダの人々に捕らえられ、ペリシテ人の手に渡されそうになったが、主の霊によってペリシテ人に勝ったサムソン(9~17節) サムソンに散々な目にあったペリシテ人は、彼とまともに戦っても勝ち目はないと考え、一計を講じることにしました。それは、ユダの人々に脅しをかけ、サムソンを縛ってペリシテ人の手に渡さなければ、彼らを攻撃するという計略でした(10節)。ユダの人々はペリシテ人の支配に甘んじていたので(11節)、自分たちの平和を乱すサムソンを憎み、ことば巧みに話して彼を縛り、ペリシテ人の手に渡そうとしたのです(12、13節)。 ユダの人々に縛られたサムソンがレヒに来た時、ペリシテ人は千載一遇の好機を逃すまいとして攻撃してきました。「すると、主の霊が激しく彼の上に下り」(14節)、なわめが手から解け落ちました。サムソンは、生新しいろばのあご骨で千人を打ち殺しました。こうして主は、またまた民をペリシテ人の手から救う機会を彼に与えられたのです。 三、のどが渇いて死にそうになったが、主に呼び求めて答えられ、水を飲んで元気を回復して生き返ったサムソン(18~20節) その時、サムソンはペリシテ人との長く激しい戦いによる疲れと暑さのため「のどが渇いて死にそう」になり(18節)、主に呼び求めました。すると神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、水が出ました。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返りました(19節)。 「神は、レヒの岩を裂かれる前に、まずサムソンの心の岩を裂いて、信仰と祈りの生ける水を出されたのです」(A・イーダーシャイム)。私たちも主のわざに励むなら、心が疲れて渇きを覚えます。そのような時こそ、サムソンのように主に呼び求め、生ける水を飲んで生き返るという「エン・ハコレ(呼ばわる者の泉)」の体験が必要なのです。 サムソンは、このレヒにおける勝利によって士師としての不動の地位を築き、「ペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた」のです(20節)。拙著「士師とサムエルの生涯」18「サムソンの勝利」より転載
2009.11.12
コメント(0)
「サムソンの結婚」 甲斐慎一郎 士師記、14章 「ツォルアから西南の方向へ約8キロメートルを隔てた岩の多い谷間に、かつてはダンの領地でしたが、今はペリシテ人が占領しているティムナという町がありました。サムソンの最初の働きは、そこにおいて行われました」(A・イーダーシャイム)。 一、ペリシテ人の娘を妻にすることに反対する父母を説き伏せたサムソン(1~4節) サムソンはティムナに下って行った時、ひとりのペリシテ人の娘に一目ぼれしました。彼は、父と母に「あの女を……私の妻にしてください」と言いました(2節)。彼の両親が反対したことは言うまでもありません。彼らは、異邦人であるペリシテ人のうちから妻を迎えることは主のみこころではないと思ったからです(3節、申命記7章3節)。 しかしサムソンは、反対する両親を説き伏せました(5節を参照)。このことに関して聖書は、「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである」と教えています(4節)。 確かにサムソンの両親が反対したように、イスラエル人が異邦人と結婚することは主のみこころではありません。しかし主は、サムソンがペリシテ人の娘を妻にしようとするという私的な出来事をも用いて、彼が士師としてイスラエルをペリシテ人の手から救うという公的な機会を彼に与えようとしておられました。これが4節のことばの意味です。 「ここに神が高尚な目的の原動力として人の個性および個人的な選択を用いられるのを見るのです。……神と人、主とサムソン、自然と超自然という二つのものは、聖書の歴史において、しばしば認められるように複雑に入り交じり、共に行動し、共に影響するのです」(A・イーダーシャイム)。「禍福はあざなえる縄のごとし」という諺がありますが、聖書は、「神のわざと人のわざは、あざなえる縄のごとし」と教えています。 二、結婚の祝宴の席上においてペリシテ人の客になぞをかけたサムソン(5~14節) サムソンは彼の父母とともに、その土地の風習に従って婚約のためにティムナに下って行きました。そのティムナのぶどう畑において一頭の若い獅子がサムソンに向かって来た時、「主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂」きました(6節)。「主の霊が激しくサムソンの上に下ったのは、突如として外部から抵抗することができない力をもって来る非常に大きな衝動的な力であったことです」(A・イーダーシャイム)。 その後、サムソンと両親は、結婚式のために再びティムナに来ました。その時にサムソンは、獅子の死体の中に蜜を見つけました。彼は結婚の祝宴の席上において、この蜜のことを思い出し、東洋の習慣に従ってペリシテ人の30人の客になぞをかけたのです。 三、卑劣な手段でなぞを解いたペリシテ人に怒り、家に帰ったサムソン(15~20節) ペリシテ人の30人の客には、獅子の死体の中にあった蜜にヒントを得て考え出したサムソンのなぞを解けるはずもありません。彼らがサムソンの妻を脅迫すると、彼女は泣き落とし戦術でサムソンからなぞの答えを聞き出し、それを自分の民の人々に明かしたのです。 町の人々がサムソンになぞを明かしたので、サムソンは妻に裏切られたことを知りました。「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下」りました(19節)。彼はアシュケロンの住民30人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちに晴れ着をやると、怒りを燃やして父の家に帰ってしまいました(19節)。 サムソンがペリシテ人の娘を妻にしようとしたことから始まって、アシュケロンの住民を打ち殺すに至るまでの一連の出来事を通して、ペリシテ人はサムソンに対して震えおののき、サムソンはイスラエルをペリシテ人の手から救う士師として用いられたのです。拙著「士師とサムエルの生涯」17「サムソンの結婚」より転載
2009.11.09
コメント(0)
「サムソンの誕生(2)」 甲斐慎一郎 士師記、13章 サムソンの生涯は、士師記の13章から16章まで4章にわたって記されています。サムソンは、ギデオン(6~8章)とともに、士師記を代表する士師であり、彼の波瀾に富んだ一生は、私たちに多くの信仰的な教訓を与え、まことに興味深いものです。 一、サムソンの名が信仰偉人伝の名簿の中に記されていることについて 「ヘブル人への手紙の11章に記されている旧約時代の信仰偉人列伝の名簿の中に、はたしてその人にこのような権利があるのだろうかと疑問を抱くひとりの人の名が記されています」(A・イーダーシャイム)。それはサムソンです(ヘブル11章32節)。 確かにサムソンは「信仰によって、国々を征服し……ししの口をふさぎ……戦いの勇士となり」ました(同11章33、34節)。しかし彼は、ガザでひとりの遊女と寝たり、デリラの誘惑に負けたためにその力を失ったりしています(16章1、19節)。 「サムソンの歴史は二つの時期に分けられます。第一は、彼が聖霊の感化によって働いた時期であり、第二は、自分の情欲に負け、しばしば罪に陥り、その務めをけがし、これに背いて、神に捨てられ、罰せられた時期です」(A・イーダーシャイム)。ヘブル人への手紙に記されているのは、第二の時期のことではなく、第一の時期のことなのです。 二、サムソンの歴史はイスラエルの歴史であるということについて サムソンは、ナジル人としての誓いを守っている間は、イスラエルをペリシテ人の手から救うという使命を果たすために神から特別な力が与えられていました。しかし彼がその使命を忘れて情欲に負け、ナジル人としての誓いを破った時、その力を失ったのです。 イスラエルは「ナジル人的な民」であり、「サムソンの歴史はイスラエルの歴史です」(A・イーダーシャイム)。すなわちサムソンがナジル人の誓いを守っている間は、神から力が与えられて強かったように、イスラエルも主との契約を守っている間は、敵国に負けない強い国でした。しかしサムソンがデリラの誘惑に負けて――彼女との姦淫に等しい罪を犯して――ナジル人の誓いを破った時、力を失ったように、イスラエルも偶像を礼拝して――霊的な姦淫の罪を犯して――主との契約を破った時、敵国に敗北したのです。 「サムソンとイスラエルとは、その最後の悔い改めおよび力の回復においてもまた同じです。……ですからサムソンは、イスラエルの模範であるだけでなく、イスラエルが彼によって自らの姿と歴史を見ることができる鏡なのです」(A・イーダーシャイム)。 三、サムソンの生涯から学ぶことができるキリスト者の歩みについて サムソンは、イスラエルをペリシテ人の手から救うという自分の使命を自覚して、情欲に負けずナジル人の誓いを守っている間は、主の霊に導かれていました。しかし彼が自分の使命を忘れて情欲に負け、ナジル人の誓いを破った時、主の霊の力を失ったのです。 パウロは、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」と言いました(ガラテヤ5章16節)。旧約時代における主の霊の働きと新約時代における御霊の働きは同じではありません。しかし旧約時代も新約時代も、「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」ことは変わりません(同17節)。 キリスト者には、神からの使命を果たすために御霊が与えられています。ですから私たちが御霊に拠り頼んで歩むなら、肉の欲望を満足させるようなことはなく、聖霊の力によって主のわざに励むことができます。しかし私たちが御霊に拠り頼んで歩むことをやめるなら、肉の欲望に負けて聖霊の力を失い、主のわざを行うことができなくなるのです。拙著「士師とサムエルの生涯」16「サムソンの誕生(2)」より転載
2009.11.06
コメント(0)
「サムソンの誕生(1)」 甲斐慎一郎 士師記、13章 イスラエルの東北の地域においてアモン人がイスラエル人を苦しめ始めたころ、西南の地域においてはペリシテ人が彼らを苦しめ始めました。主は、民をペリシテ人の手から救う士師としてサムソンを起こしてくださいました。 一、マノアの妻に現れて、彼女が産む男の子の育て方を告げた主の使い(1~7節) ダンの領地内にあるツォルアにマノアという人が妻とともに住んでいました。彼の妻は不妊の女でしたが、「彼らは、多くの人々が神を捨てていたにもかかわらず、なおイスラエルに残っていた謙遜と敬虔な心を持っていました」(A・イーダーシャイム)。 このマノアの妻に主の使いが現れ、彼女に驚くべきことを告げました。主の使いは、彼女がみごもっていて男の子を産み、彼はイスラエルをペリシテ人の手から救う者となるので、その子を神へのナジル人として育てなければならないと言ったのです(3~5節)。 ナジル人というのは、「主のものとして身を聖別するため特別な誓いをし」た者のことです(民数記6章2節)。その期間は、ぶどう酒や強い酒を断ち、頭にかみそりを当ててはならず、死体に近づいてはなりませんでした(同3~6節)。 民数記の6章には、ある一定の期間のみナジル人である規定について記されています。しかしサムソンの場合は、一生涯のナジル人である(7節)ということと、士師としての働きの性質上、死体に近づいてはならないという規定については除外しています。 二、再び現れた主の使いに、妻が産む男の子の育て方を聞いたマノア(8~23節) 夫のマノアは妻が自分に告げたことばを信じなかったのでしょうか。それとも彼女の語ったことを確認したかったのでしょうか。どちらにしてもマノアは、神の人がもう一度来て、自分たちに生まれて来る子の育て方を教えてくださいと主に願いました(8節)。すると神は彼の願いに答えてくださったのです(9節)。 主の使いがマノアに告げたことは(13、14節)、最初にマノアの妻に言ったことばと内容は同じです(4、5節)。そのことばを聞いたマノアは、妻が自分に告げたことが本当であったことを知りました。おそらく彼は、すぐ人の言うことをすぐ信じる単純な人ではなく、事実を確かめなければ信じない用心深い人だったのでしょう。 いずれにしてもマノアは、生まれてくる子どもの育て方について熱心に主の使いに尋ねています(12節)。また彼は、主の使いを引き止め、子やぎの料理を作って丁重にもてなそうとしたり(15節)、名前を聞いて、後でお礼を言おうとしたりしています(17節)。ここに彼の細かい心遣いが表れています。 マノアの妻は、子どもをナジル人として育てるだけでなく、彼女自身もナジル人のように節制しなければなりませんでした(4節)。また彼女は、「神を見たので、必ず死ぬだろう」(22節)と言って不信仰に陥り、弱きになっている夫を励ましています(23節)。 マノアは、生まれて来る子どもを神の前に正しく育てるためには、まず自分自身が神の教えを受けて、主のみこころにかなった者にならなければならないと痛感したのでしょう。よく「教育は共育であり、育児は育自である」と言われますが、彼ら夫婦は、まさにこのことばを地で行った人たちでした。 三、主の祝福を受けて大きくなり、主の霊に揺り動かされ始めたサムソン(24、25節) マノアの妻は男の子を産み、その名をサムソンと呼びました。「彼の天職はほどなく現れました」(A・イーダーシャイム)。すなわちサムソンは、イスラエルをペリシテ人の手から救うという神から与えられた使命を果たすために、主の特別な祝福を受けて成長しました。そして主の霊がサムソンに臨んで、彼を揺り動かし始めたのです(25節)。拙著「士師とサムエルの生涯」15「サムソンの誕生(1)」より転載
2009.11.02
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1