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「十二使徒への訓戒(2)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章16~23節 イエスは、十二使徒への訓戒の第二回目として、彼らの「あるべき姿」を教えられました。使徒たちが世の人々の中に遣わされるのは、狼の中に羊が送り出されるようなもので、非常に危険なことです。ですから、彼らは、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおで」なければなりませんでした(16節)。 これは、世の人々の中にあっては、「賢明さ」と「純粋さ」を兼ね備えていなければならないことを教えています。なぜなら人は、賢明さだけを要求されると狡猾で不純になる傾向があり、反対に純粋さだけを求められると単純で愚かになる傾向があるからです。 しかし、なぜ使徒たちによる伝道は、狼の中に羊が送り出されるような危険なものなのでしょうか。どうして彼らは、議会(法廷)に引き渡されたり、会堂でむち打たれたり、また肉親に裏切られたり、死に渡されたりするのでしょうか(17、21節)。 キリスト教の伝道は、すばらしい福音の説教を語り、その福音によって救われたあかしをし、信じる者に与えられる聖霊によって愛の行いと奉仕をするだけでは、不十分なのでしょうか。決してそうではありません。 神は、使徒たちの語る説教やあかしの言葉、また行いや奉仕が、決して口先や見せかけではなく、真実なものであることをあかしするために、これらの苦難が彼らの身に降りかかることをあえて許されるのです。 それでは、これらの苦難の中で、彼らの持っている信仰や救いが、決して口先や見せかけではなく、本当で真実なものであることをあかしするものは、何でしょうか。イエスは、3つのことを語っておられます。 一、苦難の中における無言のふるまいによってあかしする(17、18節) 使徒たちは「キリストのゆえに投獄され」たり、法廷に引き渡されたり、会堂でむち打たれたりして、「義のために苦しむこと」があります(ピリピ1章13節、第一ペテロ3章14節)。 しかし、そのような中で使徒たちが、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず」、「心の中でキリストを主としてあがめ」る時、世の人々は、彼らの「神を恐れかしこむ清い生き方」と、「無言のふるまいによって、神のものとされるようになる」のです(第一ペテロ3章9、15、2、1節)。 二、苦難の中において語る言葉によってあかしする(18~20節) 使徒たちは、法廷に引き渡されたり、総督たちや王たちの前に連れて行かれたりした時、「どのように話そうか、何を話そうかと心配する」必要はありませんでした(19節)。 なぜなら、話すのは使徒たちではなく、彼らのうちにあって話される父の御霊だからです。このように「知恵と御霊によって語」る言葉は真実で力強く、だれも「それに対抗すること」はできません(使徒6章10節)。 三、家族の愛のきずなよりも強い神の愛のきずなによってあかしする(21、22節) この世において、血を分けた家族の者に理解されないばかりか、憎まれたり、恨まれたり、また迫害されたり、裏切られたりするほどつらく、悲しいことはありません。 使徒たちが家族の者に迫害されたり、裏切られたり、果ては死に渡されたりしても、神への愛のゆえに「死に至るまで忠実であ」る時(黙示録2章10節)、人々は、家族への愛よりも大切で人を動かす神への愛というものがあり、家族の愛のきずなよりも強い神の愛のきずながあることを知るようになります。 このようにして神は、福音が真理であることをあかしされるのです。拙著「キリストの生涯の学び」72「十二使徒への訓戒(2)」より転載
2009.03.30
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「十二使徒への訓戒(1)」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章5~15節 イエスは、12弟子を呼び寄せ、彼らを遣わして福音を宣べさせるために、汚れた霊どもを制する権威と訓戒を授けられました。 イエスは、12使徒への訓戒の第一回目として、彼らの「なすべき事」を教えられました。彼らのなすべきことは、「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝え……病人を直し、死人を生き返らせ……悪霊を追い出」すことです(7、8節)。 しかし、なぜイスラエルの家だけで、異邦人の道に行ってはいけないのでしょうか。どうして弟子たちを受け入れない町は、ソドムやゴモラよりも罰が重いのでしょうか。 このような疑問に対して聖書は、人に対する神のお取扱いには、次のような三つの原則があることを教えています。 一、恵みの原則――働きがなくても、ただで与えられる(8節、ローマ4章5節) イエスは、「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました(8節)。私たちに対する神のお取扱いの第一番目は、恵みの原則です。 受ける資格のない者に、価なしに与えられるものが恵みです。ですから、多く与えられていても誇ることはできず、少ししか受けていなくても、または全然なくても、不平を言うことはできません。恵みは、受ける資格のない者に与えられるものだからです。 イスラエル人が神に選ばれたのも、彼らが異邦人よりも先に様々な祝福を受けたのも、神の恵みによるのであり、彼らの行いによるのではありません(ローマ一一章6節)。それでは異邦人は神に見捨てられたのでしょうか。そうではありません。イスラエルは神にそむき、「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです」(同11章11節)。 二、報いの原則――働きにふさわしい報酬が与えられる(10節、ローマ4章4節) イエスは「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです」と言われました(10節)。私たちに対する神のお取扱いの第二番目は、報いの原則です。 受ける資格のある者に、当然の代価として与えられるものが報いです。ですから、良い働きと行いがあって、それにふさわしい人には良い報いがあり、何の働きも行いもなく、それにふさわしくない人には良い報いはありません。報いは、受ける資格のある者に与えられるものだからです。 しかし報いの原則は、一個人としては公平であっても、ほかの人との比較においては、先に恵みによって多く与えられた者のほうが、少ししか受けていない者よりも有利であり、不公平感をぬぐい去ることはできません。そのために第三番目の原則があるのです。 三、公平の原則――多く与えられた者は多く求められる(15節、ルカ12章48節) イエスは、弟子たちを受け入れない町に対して「さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです」と言われました(15節)。私たちに対する神のお取扱いの第三番目は、公平の原則です。 多く与えられた者と少ししか受けていない者とが、全く同じことを要求されるのは、不公平です。多く与えられた者は多く、少ししか受けていない者は少し求められることこそ公平ではないでしょうか。 ですから、数々の力あるわざを行って、福音を宣べ伝えた弟子たちを受け入れない町は、このようなことが行われなかったソドムやゴモラよりも罰が重くなるのです。 私たちは、このような恵みと報いと公平という三つの原則を知る時、人に対する神のお取扱いの正しさを理解することができます。拙著「キリストの生涯の学び」71「十二使徒への訓戒(1)」より転載
2009.03.27
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「人間の堕罪(2)」 甲斐慎一郎 創世記3章 「キリストは、私たちの罪のために死んでくださったので、このキリストの贖いを信じる者はだれでも罪から救われます」というのが福音であり、キリスト教の中心です。 しかしキリストの十字架の死は、今から2000年も前にエルサレムで起きた出来事です。それが、どうして2000年後の極東の日本に住んでいる私たちのためなのでしょうか。その時間的、空間的な隔たりをどのように考えればよいのでしょうか。このことについて使徒パウロは、ローマ人への手紙の5章12~21節において次のように述べています。 一 アダムの堕罪と死の支配 パウロは、キリストの贖罪による恵みが、時間と空間を超越して全人類に及ぶというすばらしい事実を示すために、アダムの堕罪によって生じた罪とその結果である死が、時空を超越して全人類に及んでいるという厳粛な事実を述べています(ローマ5章12節)。 上の図の赤い線の三角形は、人類の古い代表(かしら)であるアダム(第一の人)を頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 このように聖書は、アダムが罪を犯した時、すべての人は彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えています。 二 キリストの贖罪といのちの支配 上の図の青い線の三角形は、人類の新しい代表(かしら)であるキリスト(第二の人)を頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 パウロは、人類の真の代表であるキリストとキリストのひな型であるアダム(ローマ5章14節)を比較して、「本物に対してひな型であるアダムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、人類の真の代表であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの優越性を述べています(ローマ5章15、17節)。 三 死の支配からいのちの支配への移行 すべての人は、アダムの子孫として生まれるので(第一の誕生)、彼の堕罪による死の支配から逃れることはできませんが、だれでも罪を悔い改め、キリストを信じて新しく生まれるならば(第二の誕生)、主の贖罪によるいのちの支配下にはいることができるのです。拙著「創世記の聖徒たち」6「人間の堕罪(2)」より転載
2009.03.24
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「人間の堕罪(1)」 甲斐慎一郎 創世記3章 モーセは、創世記1章において「天地の創造」、2章において「人間の創造」について記した後、3章において「人間の堕罪」について述べています。彼は、人間の最大の問題である罪がどのようにして世界にはいって来たのか、それに対して神がどのようなことをされたのかということを記しています。 このように聖書は、創世記の初めの3章において、人が知らなければならない大切な真理を教えているのです。 一、罪の起源――誘惑に負けて罪を犯した人間(1~6節) 神は、人間を操り人形でもロボットでもなく、自由意志をもつ者として造られました。ストロングは、神が人を創造された時、「人間は堅うされた聖潔の状態ではなく、子供のような無邪気な状態にあった。それで誘惑によらなければ、全うされなかったのである。だからあの所に善悪の知識の木があったのである」と述べています。 エバは、禁断の木の実を「食べるのに良く(知性)、目に慕わしく(感情)、賢くする(知性)というその木はいかにも好ましかった(感情)」と思ったり感じたりしている間は、罪ではありませんでしたが、「その実を取って食べ」た時(意志)、罪を犯したのです(6節)。いっしょにいたアダムも食べた時、罪が世界にはいりました。なぜならアダムは人類の代表(かしら)だからです。 あるものを「食べる」とは、それを「信じて、それによって生きる」ということを意味しています(ヨハネ6章47、54節)。ですから、禁断の木の実を「取って食べた」とは、神のことばではなく、悪魔のことばを信じて、そのことばによって生きたということを教えており、これこそ罪なのです。 二、罪の結果――神から罪の刑罰を受けた人間(7~19節) 神は、アダムに善悪の知識の木の実を「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われましたが(2章17節)、そのことばのとおりに、罪を犯した人間は、罪の刑罰を受けて、死ぬべき者となってしまいました。 まず人は、霊的に死んでしまいました。罪を犯した人間は、その霊が「罪過と罪との中に死んで」(エペソ2章1節)、神との交わりを失ってしまったのです(8節)。 次に人は、精神的に死んでしまいました。霊的に死んだ人間は、その心に刻まれた神の像を失って、神を知る知識も神を喜ぶ感情も神に従う意志もなくしてしまったのです。 最後に人は、肉体的に死ぬべき者となりました。女は、苦しんで子を産み、男は、苦しんで食を得、ついに土に帰る者となってしまったのです(16~19節)。 三、神の備え――罪からの救いを備えてくださった神(9、15、20~24節) 罪を犯したため、主の御顔を避けて身を隠した人に、主は呼びかけ、「あなたは、どこにいるのか」と言われました(8、9節)。ここに「失われた人を捜して救」おうとされる神の姿を見ます(ルカ19章10節)。 神は蛇に「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と言われました(15節)。これは原福音と呼ばれ、キリストは十字架の苦難を受けるが、悪魔を完全に滅ぼされるということを暗示している救い主に関する最初の約束であり預言です。 そして神は、「アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださ」いました(21節)。この皮の衣は私たちの罪の身代わりとなられたキリストを表しています。 このように神は、人が罪を犯したと同時に罪からの救いを備えてくださったのです。拙著「創世記の聖徒たち」5「人間の堕罪(1)」より転載
2009.03.22
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「人間の創造(2)」 甲斐慎一郎 創世記2章 前章で学んだように聖書は、人間は神によって創造されたものであると教えています。これに対して多くの人々は、人間は猿から進化したものであると考えています。前者が「創造論」であり、後者が「進化論」です。人間は、どのようにして生まれたのかということについては、主にこの創造論と進化論の二つの考え方があります。この二つのうちどちらが正しいのか、信仰と科学の両面から考えてみましょう。 一 創造論と進化論の前提について 多くの人々は、人間が、どのようにして生まれたのかということについて、創造論は信仰的(または宗教的)なとらえ方であり、進化論は科学的なとらえ方であると思っています。 しかし事実は、どちらも信仰的なとらえ方なのです。なぜなら創造論は、神が人間を創造されたことを信じるものですが、進化論も、科学的に証明することのできない前提(ある物事が成り立つための前置きとなる条件)を信じるものだからです。それは具体的に述べるならば、次のように言うことができます。 二 創造論と進化論の成立について 創造論は、天地万物を創造された全知全能の神が人間をも造られたことを信じればよいのであり、まことに単純明快です。これに対して進化論は、多くの前提(ここでは次に述べる7つのこと)をすべて信じなければ成り立たず、しかもこの7つのことは科学的に証明することができないだけでなく、現代の科学の教えに反するものです。 1.無から有を生じる自然発生があった――しかし現代の科学は、自然発生はないと教えています。 2.地質現象は、いつも同じように起きる――しかし化石や地層は、地球上に激烈な大変動があったことを示しています。 3.単純なものから複雑なものへ変化する――しかし熱力学第二法則(エントロピーの法則)は、自然の過程は無秩序が増大する方向へ進む、言い換えれば複雑なものから単純なものへ変化すると教えています。 4.突然変異によって生物は進化する――しかし現代の科学は、突然変異は有害であって、生物を退化させると教えています。 5.生物は、時間をかけて少しずつ器官を獲得していった――しかし現代の科学は、細胞の中にすでに、その生物を組み立てる遺伝の情報がすべてはいっていると教えています。 6.移行段階の中間形が存在する――しかし中間形の化石はなく、今も生きている生物と全く同じ形の化石が発見されるだけです。 7.進化の途上の不完全な生物が生き延びて繁殖する――しかし生物は、完全な姿の時にのみ生き続けて、子孫を残し、現在も存在していることができます。ですから、たとえ中間形の生物がいたとしても、存続することはできず、一代で絶滅するでしょう。 三 創造論と進化論の功罪について 創造論は、神が人間を創造されたことを信じるものです。ですから神の啓示によって、人間とは何であり、どこから来て、どこへ行くのか、また何のために生き、どのように生きるべきなのかということがすべてわかります。これは人間にとって最も大切なことです。 ところが進化論は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したことを信じるものです。すべては偶然の産物ですから、人間とは何であり、何のために生き、どのように生きるのかということが全くわかりません。これは人間にとって最も不幸なことです。 私たちは信仰と科学の両面から考えて、創造論と進化論のどちらを信じるでしょうか。拙著「創世記の聖徒たち」4「人間の創造(2)」より転載
2009.03.18
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「人間の創造(1)」 甲斐慎一郎 創世記2章 神は六日の期間で天地万物を完成して、第七日目に、すべてのわざを休んで、その日を祝福し、この日を聖であるとされました。これが安息日の起源です。ただし旧約における第七日目(土曜日)の安息が、創造のわざの完成であるのに対して、新約における第一日目(日曜日)の安息は、贖罪のわざの完成であるという違いがあります(C・H・M)。 モーセは創世記1章の「天地の創造」において、第六日に「人間の創造」について記していますが(27節)、この2章においてはそれを敷衍して述べているのです。 一 神のかたち(像)に創造された人間 人間の本質は何かということについては、おおよそ次のような3つの考え方があります。1.人間は、結局は物質である(唯物論者)。2.人間は、結局は動物である(進化論者)。3.人間は、神の像に似せて造られた不滅の霊をもつ者である(聖 書、キリスト者)。 ジョン・ウェスレーは、アダムにおける神の像を自然的な像(不死、人格、自由意志)と、政治的な像(支配する能力)と、道徳的な像(義と真と聖潔と愛)という三重のものとして考えていました。 キャンベル・モルガンは、「神は知性と感情と意志とをもっておられる霊である。人間もまた、知性と感情と意志とをもっている霊である」と述べています。 聖書は、人間は操り人形でもロボットでもなく、自由意志をもつ者として造られたと教えています。すなわち、人は、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んで神に従い、心で決めたとおりに最善のものを選ぶことができるものとして創造されたのです。 このように人間は、単なる物質でもなければ動物でもありません。人の人たるゆえんは神の像に似せて造られた不滅の霊をもつところにあるのです。 二 人類の代表として創造されたアダム 神が最初の人として造られたアダムは、新約聖書を読むと、彼から生まれた全人類とは異なる特別な人であったことがわかります。 パウロは、「アダムはきたるべき方(キリスト)のひな型です」と述べ(ローマ5章14節)、「最初の人アダム」のことを「第一の人」、キリストのことを「最後のアダム」、または「第二の人」と呼んでいます(第一コリント15章45、47節)。 このことをわかりやすく説明するならば、キリストが人類の新しい代表(かしら)であるのに対して、アダムは人類の古い代表(かしら)であり、すべての人はアダムの「腰の中にいた」(ヘブル7章10)、すなわち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えているのです。 三 男と女とに創造された人間 神は、人をご自身のかたちに創造し、男と女とに彼らを創造されました(1章27節)。この男と女の関係について、聖書は、次のような二つのことを教えています。 1.神の創造された世界の秩序や、一つしかない立場という面から男女の関係を見るならば、女は、男にふさわしい助け手です(18、20節)。なぜなら、「女が男をもとにして造られ……女が男のために造られたのだからです」(第一コリント11章8、9節)。 2.神の前における心身の成長や人格の形成という面から男女の関係を見るならば、男女は互いに補い合う存在であり、二人で一体となるのです(24節)。なぜなら、アダムとエバは、もともと一体であったからであり、また「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものでは」ないからです(第一コリント11章11節)。拙著「創世記の聖徒たち」3「人間の創造(1)」より転載
2009.03.15
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[天地の創造(2)」 甲斐慎一郎 創世記1章 旧約聖書の開巻第一頁は、「初めに、神が天と地を創造した」ことが記されています(1節)。この神の存在と天地の創造こそ聖書が教えている第一の真理です。◆神は、ほんとうに存在するのか?◆天地は、どのようにして造られたのか?◆人間は、どのようにして生まれたのか?◆人は、どのように生きるべきなのか?◆人間は、死後どうなるのか? これらの質問を一つにまとめるなら、「真理とは何か」ということになるでしょう。この真理を知る方法については、全く正反対の二つの考え方があります。 一、人が真理を探究することについて 人が生きるためには、いわゆる「衣食住」が必要です。しかし、もし人が衣食住のためだけに生きているならば、他の動物と少しも変わりません。人の人たるゆえんは、「真理とは何か」、「人は、どのように生きるべきなのか」ということを考え、それを探究して生きるところにあるのではないでしょうか。このような人間の営みが、教育や科学であり、また倫理や道徳、そして哲学や宗教(異教)です。これらは、上の図のように現実の世界から究極の真理に向かって限りなく近づく赤い矢印として表すことができます。 この「人が真理を探究する」営みというのは、非常に大切なものですが、「科学の教科書は絶えず書き変えられる」ということばに代表されるように、これは、究極の真理に到達するまでの「部分的な真理」であり、「絶対的な真理」ではないという限界のあるものであることを決して忘れてはならないのです。 二、神が真理を啓示されることについて これに対して聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。これが「神の啓示」です。これは上の図のように、究極の真理から現実の世界に向かっている青い矢印として表すことができます。 「人は、どのように生きるべきなのか」ということについては、究極の真理に到達するまでの部分的な真理を教える「人の探求」では間に合わず、絶対的な真理を教える「神の啓示」がどうしても必要ではないでしょうか。聖書こそ「神の啓示」の書です。それは、神が「究極の真理」を時間と空間を超越して、一足飛びに私たちに示されたものです。 ですから、天地の創造を初め、永遠の生命や復活また奇蹟等、人間の理性では考えられないような不思議なことが聖書に記されているのも当然ではないでしょうか。なぜなら、「人が真理を探究する」という科学の発明でさえも、それが発明される前の人々には、全く不思議で信じられないものだからです。 たとえば、電話やテレビ等を全く知らない大昔の人々に対して私たちが、電話は地球の反対側に住んでいる人とも話をすることができるもので、テレビは彼らの姿をカラーで動く絵として見ることができるものであると説明しても、彼らは全く信じられないでしょう。 まして21世紀の科学の発明よりも、はるかに高度な「究極の真理」が時空を超越して一足飛びに啓示されるならば、それが信じられないようなことであるのも当然ではないでしょうか。聖書は、創世記の1章から、この「神の啓示」が記されているのです。拙著「創世記の聖徒たち」2「天地の創造(2)」より転載
2009.03.12
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「天地の創造(1)」 甲斐慎一郎 創世記1章 旧約聖書は、創世記から始まっています。この創世記から申命記までの最初の五つの書は、「モーセ五書」と呼ばれ、モーセによって書かれたものです。ブリンジャー博士は、「創世記は聖書全体の苗床です。すべての芽がここから芽ばえるのです。聖書の各部分を本当に理解するためには、欠くことのできないものです」と述べています。 一、啓示の神 モーセは、この創世記を記すにあたって、何の前置きも説明もしないで、いきなり「初めに、神が天と地を創造した」と書き始めています(1節)。彼は、自分がこれから書こうとしていることは、人間の考えや思想ではなく、神の啓示であることを教えるために、このように記したのです。 啓示ということばは、もともと「おおいを取る」とか「ベールをはぐ」という意味があります。それは、人間の理性や人の探求ではわからない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに明らかに教え示すことです。 聖書は私たちに次のように教えています。 「神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1章19、20節)。 二、創造の神 啓示の書である聖書は、神は万物の創造者であると教えています(1節)。「主が仰せられると、そのようになり」(詩篇33篇9節)とあるように(3、6、7、9、11、15、24節)、神は、権威のあることばによって、無から有を生むことがおできになる創造者です(ローマ4章17節)。 この創造者である神のわざについて、聖書は、次のような三つの創造を教えています。1.今の天と地の創造――「初めに、神が天と地を創造した」(1節)。2.人間の新しい創造――「だれでもキリストのうちにあるなら、そ の人は新しく造られた者です」(第二コリント5章17節)。3.新しい天と地の創造――「私は、新しい天と新しい地とを見た」 (黙示録21章1節、参照、第二ペテロ3章13節)。 第一は過去、第二は現在、第三は将来における神の創造のわざです。もし私たちが、第一の創造のわざを信じるならば、第二と第三の創造のわざをも信じることができます。しかしそれを信じなければ、あとの二つも信じることができないでしょう。 三 秩序の神 創造の六日間は次のようになっています。◆第一日、光 ◆第二日、大空 ◆第三日、地と植物 ◆第四日、太陽、月、星 ◆第五日、魚、鳥 ◆第六日、陸の動物、人 パウロは「神は混乱の神でなく、秩序の神だからです」と述べていますが(第一コリント14章33節、詳訳聖書)、この宇宙を造られた神は、秩序の神です。神は、形がなく、むなしく、やみがあったという混沌とした状態(2節)から、秩序正しい宇宙を創造されました。 このように混沌とした状態(カオス)を秩序のある世界(コスモス)に変え、おおいを取って(言い換えれば啓示の光によって)物事をはっきりとわかるようにさせるのが神の働きです。これに対して秩序のある世界(コスモス)を混沌とした状態(カオス)にしておおいを掛け、物事をわからなくさせるのが悪魔の働きです(第二コリント4章3、4節)。拙著「創世記の聖徒たち」1「天地の創造(1)」より転載
2009.03.09
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「聖書の中心的な教え」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(16節)。 この言葉についてD・L・ムーディーは、「たとえ聖書の全部が失われても、ただこの一句さえ残っていれば、なお救いの道を知ることができる」と言い、マルチン・ルターは、「これは聖書の縮図であり、また小さな福音書である」と言っています。この言葉の中に聖書の中心的な五つの教えが記されています。 一、神について パウロは、「使徒の働き」の17章において真の神は、どのような方であるかということを分かりやすく述べています。 1.真の神は、すべてのものをお造りになった方です(24節) 人間が造ったのが偶像であるのに対して、人間をはじめすべてのものをお造りになったのが真の神です。 2.真の神は、すべてのものをお与えになった方です(25節) 人から与えられるのが偶像であるのに対して、人にすべてのものをお与えになるのが真の神です。 3.真の神は、すべての人をおさばきになる方です(31節) 人に品定めをされて、さばかれるのが偶像であるのに対して、すべての人をおさばきになるのが真の神です。 人間は、このような「神の中に生き、動き、また存在している」(28節)にもかかわらず、そのことを知らずに、偶像を拝み、罪を犯して来ました。そこで神は、「すべての人に悔い改めを命じておられ」るのです(30節)。 二、ひとり子について ひとり子とは、神の御子イエス・キリストのことです。このキリストについては、ヘブル人への手紙は、次のような2つのことを教えています。 1.真の神であるキリスト(ヘブル1章) 「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れです」(3節)。 2.真の人であるキリスト(ヘブル2章) 「子たちはみな血と肉とを持っているので、主(キリスト)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(14節)。 真の神であるキリストは、私たちを罪から救うために真の人となり、十字架につけられたのです。 三、世について 「世」とは、この世界に住む人間のことを指し、聖書は「神は……人をご自身のかたちに創造された」(27節)と記しています。 1.人間は、単なる物質や動物ではなく、神のかたちに似せて造られた不滅の霊と人格を持つ者です。 2.ですから人間は、神の前に当然あるべき姿や、なすべきこと、また歩むべき道が定まっています。しかし人間は、ここから離れてしまいました。これが罪です。 3.その結果、人間は、神に対してすべてを報告し、神のさばきを受けなければなりません。ですから人間は、この世において罪から救われることが必要なのです。 四、信じることについて 信じるというのは、「信用する」とか「信頼する」また「拠り頼む」ということで、それはすべての人々の根底にある、ごくありふれたことです。私たちは、一瞬一瞬、何かを信じて生きているのです。聖書が教えている信仰は、その信じる対象(相手)を、最も信頼できる真の神に置くことです。 五、永遠のいのちについて 永遠のいのちとは、神のいのちのことです。生まれながらの人間は、この神のいのちを持たないために、この世においては罪の中に死んでおり、次に来る世(来世)においては永遠に滅びるのです。しかし私たちが自分の罪を認め、キリストが私の罪のために死んでくださったことを信じるなら、今まで犯してきたすべての罪が赦されて、神のいのちが与えられて新しく生まれ、神の子どもとなることができ、次に来る世(来世)において天国にはいることができるのです。
2009.03.06
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「人生の目的を探る」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、18章33~38節 「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(37節)。 冒頭の言葉は、ピラトの質問に対して答えられたイエス・キリストの言葉です。私たちは、この言葉の中にキリストが何のためにお生まれになり、何のためにこの世に来られたかを明白に知ることができます。そして真理に属する者はみな、キリストの声に聞き従うのです。 このことは、とりもなおさず真理に属する者であるキリスト者は、キリストの声に聞き従い、キリストのように真理をあかしするために生きなければならないことを教えているのではないでしょうか。 人は、いった何のために生きているのか、またそのことをするのは何のためなのか、という人生の目的や行動の動機をとことんまで突き詰めて行くと、およそ次のような3つのものになるのではないでしょうか。 一、利のために生きる 「利」とは、「利益」や「利得」のことです。利のために生きるとは、行動の規準がいつも、これは自分にとって得であるか損であるか、ということしか考えない生き方です。一言で言えば、損得の原理によって行動する生き方です。 二、美のために生きる 「美」とは、「美しさ」のことです。これを広く一般的に考えるなら、「名誉」や「栄光」をはじめ、「体裁」や「見栄」や「面子」まで含まれるでしょう。美のために生きるとは、行動の規準がいつも、これは自分にとって美しいことであるか醜いことであるか、または誉れになることであるか恥になることであるか、ということしか考えない生き方です。一言で言えば、美醜の原理や栄辱の原理によって行動する生き方です。 三、真のために生きる 「真」とは、「真理」や「真実」また「正義」のことです。真のために生きるとは、行動の規準がいつも、これは自分にとって正しいことであるのか間違っていることであるのか、ということ考えて生きる生き方です。一言で言えば、真偽の原理や正邪の原理、また善悪の原理によって行動する生き方です。 人間が何かをしようとする時、その行動の動機は、これらの3つのものが入り交じり、どれを優先させようかと心の中で戦います。 もし私たちが利のために生きることを優先させるなら、どうなるでしょうか。それは結果的には、真理も名誉も捨てて欲望の奴隷になってしまうことでしょう。 もし私たちが美のために生きることを優先させるなら、どうなるでしょう。それは結果的には、真理も実益も捨てて、美名と格好の良さのみを求めて、形式と見栄に走り、体裁と面子の奴隷となってしまうことでしょう。 もし私たちが真のために生きることを優先させるなら、どうなるでしょう。これこそ何の危険性もなく、最も正しい生き方です。そしてそれは結果的には、最も有益なことになるとともに、最も美しいことになるのです。 このようなことから利得や美しさに関しては、これらのことを求めることが真理のために生きることに抵触せず両立させることかできたり、また真理のために生きたことによる結果として与えられたりするなら良いのですが、それらを優先させるなら罪です。 聖書は、人類の始祖アダムとエバは、「食べるのに良く(利)、目に慕わしく(美)、賢くする(利)というその木はいかにも好ましかった(美)。それで……その実を取って食べ」、罪を犯したと教えています(創世記3章6節)。すなわち神の真理の言葉、すなわち「真」ではなく、「利」と「美」を優先させ、それを選んで堕落したのです。
2009.03.03
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