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「宗教と国家の建設」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録、11章15節 「この世の国は、私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(15節)。 昨日は、衆議院議員の総選挙が行われました。このような時、宗教と国家の建設について学ぶことは大切なことであると思います。 一、健全な国家が建設されなければ、国民は安心して暮らすことができません 私たち人間は様々な生活をしています。すなわち衣食住の生活をはじめ、学生が送る学校生活、社会人が送る社会生活、そして仕事をしなくてもよい時間に行うすべてのこと、たとえば休息や保養、旅行や娯楽(レクリエーション)、趣味や運動、音楽や芸術等々の余暇の生活です。 私たちは、このような日常生活を送るのは当たり前と思っているかもしれません。しかしこれは、社会の治安が維持され、戦争のない平和な日本に住んでいるからこそ可能なのです。もし社会の治安が乱れたり、外国との戦争や国内での内乱が起こったりするなら、日常生活を送ることはおろか、生きていくことさえできなくなります。私たちは、改めて健全な国家が建設されることがどんなに大切であるかを知らなければなりません。 二、健全な国家を建設するためには、外的規範と内的規範の両者が必要です 法律は、「個人の権利と利益」、また「公共の福祉と安全」、そして「国家の秩序と平和」を守るために制定されたもので、人間の外側に表れた行為を取り締まります。 ◇外的規範――人間の外側に表れた行為を取り締まるもので、具体的には法律です。 ◇内的規範――人間の内側の心を制御するもので、具体的には思想、信条、宗教です。 冒頭の図は、「法律」と「倫理・道徳」と「思想・信条・宗教」の関係を示したものです。 国家がどんなに優れた「法律」を制定しても、国民がその法律を守らなければ意味がなく、その法律を守るようにさせるものが「倫理・道徳」であり、その「倫理・道徳」を守るようにさせるものが内的規範である「思想、信条、宗教」です。人間は罪人ですから、何らかの思想や信条や宗教を持たなければ、法律を犯してしまうのです。 三、国家と外的規範、内的規範の関係には、基本的に三つのものがあります 1.国粋主義(右翼)の国家 国は法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために内的規範(思想や信条や宗教)を定めます。これは政教一致です。 2.共産主義(左翼)の国家 国は法律(外的規範)を制定するとともに、民を国家の意志に従わせるために、宗教を否定し、思想や信条を定めます。これも政教一致です。 3.民主主義の国家 国家は法律(外的規範)を制定するだけで、思想や信条や宗教(内的規範)は国民が自由に選ぶことができます。すなわち信教の自由があり、これは政教分離です。国家は内的規範には一切干渉しませんが、国民は法律(外的規範)を守る義務があり、それを犯せば罰せられます。 この三つは基本的なものであり、実際には「1」と「3」の中間や組み合わせ、また「2」と「3」の中間や組み合わせなど様々な形態があります。 四、聖書は、この世の国家とともに来るべき神の国の大切さを教えています 旧約聖書は、イスラエル民族の歴史が記され――政教一致の神政政治ですが――この世におけるイスラエルの国の建設について教えています。しかし新約聖書を学ぶなら、旧約聖書におけるイスラエルの国は、来るべき神の国のひな型であることがわかります。 キリストは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と言われましたが、新約聖書は、神の国(神が支配される所)はキリストを信じる者のただ中にあるという霊的な神の国について教えています(ルカ17章21節)。そして世の終わりには有形の神の国が建設されるのです(黙示録11章15節)。
2009.08.31
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「聖書に基づく確かな信仰」 甲斐慎一郎 使徒の働き、17章11、12節 「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。その中には、ギリシャの貴婦人や男子も少なくなかった」 (使徒の働き17章11、12節) 「ここのユダヤ人」というのは、ベレヤの教会の人たちです。この個所には、「聖書に基づく確かな信仰」が記されています。 一、はたしてそのとおりかどうかと アメリカの教会において日曜学校の先生が「信仰とは何ですか」と尋ねました。それに対して一人の少年が即座に「ほんとうでないと知っているあることを信じることです」と答えました。 多くの人々が、このように思っていることは非常に残念なことです。しかし聖書は信仰について決してこのようなことは教えていません。ある人が次のように述べています。 ◇何も信じないことは不幸です。 ◇しかし何でも信じることも不幸です。◇信ずべきことを信じ、信ずべきでないことを信じないことこそ真 の幸いです。 誠にこのとおりで、これこそ聖書が教えている真の信仰です。相対性理論を発表し、ノーベル物理学賞を受けたドイツ生まれのユダヤ人であるアインシュタインは、「宗教のない科学は凶器であり、科学のない宗教は狂信である」と言ったそうですが、誠にそのとおりではないでしょうか。 ルカは、その福音書の序文において(1章1~4節)、キリスト教は、まことしやかに捏造(ねつぞう)された作り話や、根も葉もない架空の話に基づいた怪しげな宗教ではなく、実際に起きた歴史的な出来事を初めから目撃した者が、そのとおりに伝えた正確な事実に基づいた信頼するに足る宗教であると教えています。 二、毎日聖書を調べた イエスは、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています」と言われました(ヨハネの福音書5章39節)。 聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれた誤りのない神のことばです。それは実際に起きた歴史的な出来事を正確に記録し、その事実をとおして神とその救いに関する不変の真理を教えています。 しかし聖書は、歴史的文書の形をとっているので、「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」「なぜ」「どのように」したかという物事の正確な観察と調査が必要です。そうする時、正しい解釈をすることができるとともに、聖書の真の解釈者である聖霊が私たちの心の眼を開き、神の知恵を与えて、聖書の中心であるキリストを見せてくださいます。 ですから私たちは、聖書を注意深く、正確に調べるならば、必ず聖書が教えようとしている真理を見いだすことができるのです。 三、そのため多くの者が信仰にはいった ベレヤのユダヤ人は、非常に熱心に神のことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べました。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいりました。 ルー・ウォーレスは、アメリカの偉大な将軍であり、天才的な文学者と言われました。彼は、過激な無神論者で、聖書と教会を撲滅するために、キリスト教を抹殺する本を書こうとしました。それから5年間、研究に没頭し、山のような資料に囲まれて執筆にとりかかりました。ところがキリスト教撲滅論を書いているうちにキリストを見いだし、信仰を告白してキリスト者になりました。そしてキリストの時代を取り扱ったものとしては比類のない不朽の名作と言われる「ベン・ハー」を書いたのです。
2009.08.29
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「神の祝福を受ける道(2)」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、20章1~30節 四、祈りの結果としての行動(20~30節) 翌朝、ヨシャパテと民は賛美の部隊をつくり、それを武装した者に先立たせました。彼らが賛美の声をあげ始めた時、主は伏兵を設け、また同士討ちをさせて、ユダに大勝利をもたらされました(21~23節)。ユダの民は、たくさんの分捕りものを得、ヨシャパテの治世は平穏でした(24~30節)。祈りは行動に移ることによって勝利の結末を見るのです。 五、私たちへの適用と教訓 しかしユダの民が、このような勝利を得る前は、次のような深刻な状態にありました。1.王と民は、無力の悲しみに沈んでいました(12節)。2.王と民は、恐れに満ちていました(15、17節)。3.王と民は、気落ちしていました(15、17節)。 これは、私たちも苦難に会ったり、物事が思うように運ばなかったりした時に陥りやすい心の姿ではないでしょうか。このような心は、彼らが賛美によって打ち勝っていったように、私たちも克服することができます。 無力の悲しみを取り除くものは喜びです。しかし私たちが悲しみに沈んで喜べない時、それを助けてくれるのが賛美です。私たちは、とても賛美することができないような時こそ賛美しようではありませんか。そうする時、賛美は私たちに喜びを与えるものであることを知るでしょう。 私は28年前、神学校にはいるために献身生活をしていましたが、自分の無力さに打ちのめされ、悲しみと憂いに満たされていた時がありました。そのような時、「御声とともに海はなぎぬ、風にあるる海も、苦しみもがく胸も、よろずのものを御手に治め給う主なれば、静め得ざることは絶えてあらじ、ことごとく御旨に従わん」(聖歌691番)という賛美によって、どんなに励まされ、力づけられてきたかわかりません。その後、神学校を卒業して牧師になってからも、この賛美によって何度も苦しみを乗り越えてきました。 恐れを取り除くものは信仰です。しかし私たちが恐れに満ちて容易に信仰を持てない時、それを助けてくれるのが賛美です。私たちは、とても賛美することができないような時こそ賛美しなければなりません。そうする時、賛美は私たちの信仰を呼び起こすものであることを体験するでしょう。 落胆を取り除くものは希望です。しかし私たちが気落ちして容易に希望を持てない時、それを助けてくれるのが賛美です。私たちは、とても賛美することができないような時こそ賛美しましょう。そうする時、賛美は私たちに希望を与えるものであることがわかります。 神学院の同期生のM牧師から16年前に手紙をもらいました。そこには、苦心して建て上げた教会が道路の拡幅のために移転しなければならないことが書かれていました。しかし彼は、そのことに関して神に感謝し、ハレルヤと賛美していました。それから10年後、M牧師の教会は駅の近くにすばらしい教会堂を建てたのです。まさに信仰の勝利です。 多くの人々は、祝福とは苦難のないことであり、苦難とは祝福のないことであると考えています。しかし苦難の伴わない祝福はなく、祝福の伴わない苦難はありません。「苦難は変装した祝福である」と言われますが、それならば、「祝福は変装した苦難である」と言えないでしょうか。なぜなら真の祝福とは、あらゆる苦難を乗り越えることができる恵みのことだからです。 ユダの王ヨシャパテと民は、祈りと賛美によって勝利を得、ベラカ(祝福、ほめたたえること)の谷に集まったのです(26節)。(この説教は、1992年6月14日付けの「クリスチャン新聞」の中の「みことばレストラン」という欄に掲載されたものです。ですから、五、私たちへの適用と教訓の「28年前」と「16年前」は、それぞれ1992年現在の年月ですので、ご了承下さい)。
2009.08.26
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「神の祝福を受ける道(1)」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、20章1~30節 神からすばらしい祝福を受けていないクリスチャンは一人もいないでしょう。 しかし現実の生活は、仕事や人間関係のむずかしさをはじめ、育児や教育の問題、また病気やからだの悩み等々において様々な苦しみをなめ、色々な困難にぶつかって、挫折感を味わい、「私は、これでも神の祝福を受けているのだろうか」と、打ちひしがれた気持ちになって悩むことが多いのではないでしょうか。 今から約2800年ほど前にユダの王であったヨシャパテとユダの民も、強敵の襲来という危機に直面して苦しみました(1~5節)。 一、ヨシャパテの祈り(6~13節) モアブ人とアモン人の連合によるおびただしい大軍が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た時、ヨシャパテは、ひたすら主に求めました。それは次のような模範的な祈りです。 1.まず神がどのような方であるか、特にその偉大さを言い表しています(6節)。 2.次に自分がその神とどのような関係にあるかを必死になって述べています(7節)。 3.そして祈るならば必ず救って下さるという神の約束を持ち出しています(9節)。 4.さらに現在の苦しい状況を神の前にさらけ出し、切々と訴えています(10、11節)。 5.最後に自らの無力さを正直に認め、神に目を注いで信仰を告白しています(12節)。 ハドソン・テーラーは、その生涯の終わろうとする前の数ヶ月間、非常に弱っていました。彼は、この時、愛する者に手紙を書いて、「わたしは弱って、書くことも聖書を読むこともできない。わたしは祈ることもできない。わたしは小さい子供のように、神の腕に横臥(おうが)して、信頼する」と言いました。 「私の祈る姿を見ることなしに、中国の地に太陽が上ったことがない」と言ったハドソン・テーラーは、中国の宣教において若い時から数々のすばらしい祈りの応答を体験して来ました。その彼が晩年においてこのようなことを書いているのは驚くべきことですが、これもりっぱな祈りです。なぜなら、「私たちが神の愛以外の対象を持たず、神を喜ばせようとする願いだけを持っている時には、神について考えたり、神に対して語ることも、あるいは神のために行動したり、神のために苦しむことも、すべては祈りである」からです(ジョン・ウェスレー)。 二、神からの祈りの応答(14~17節) このヨシャパテの求めは、本当にすばらしい祈りです。私たちも聖書を学ぶなら、このような模範的な祈りをすることができます。 しかし大切なのは、それから後です。この祈りの後に、ヤハジエルを通して祈りの答えがありました。それは気落ちせずに攻め下り、「主の救いを見よ」というものでした(15~17節)。私たちも次のような3つのものを通して祈りの応答を得ることが必要です。1.聖書を通して神の御声を聞くこと。2.人を通して神より教えられること。3.聖霊による確信によって納得すること。 三、祈りの答えに対する応答(18、19節) しかしこの祈りの応答の後に、もう一つの重要なことがあります。それは、この祈りの答えがあった時、民は、主を礼拝するとともに主を賛美したことです(18、19節)。 これは決して容易なことではありません。私たちは、どのような祈りの応答があったとしても、神への礼拝と賛美と感謝をもって祈りを終えなければなりません。これこそ私たちに勝利を与える真の祈りだからです。次回の「説教要約 568 神の祝福を受ける道(2)」に続く
2009.08.22
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「神の戦いと人の戦い」 甲斐慎一郎 歴代誌、第二、20章1~30節 「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」(15節)。 冒頭の言葉は「人の戦い」と「神の戦い」について記しています。この「人の戦い」と「神の戦い」というのは、「人自身の戦い」また「神ご自身の戦い」を意味しています。 神の戦いについては、出エジプト14章14節、申命記1章30節、322節、20章4節、ヨシュア10章14、42節、23章3節、ネヘミヤ4章20節にも記されています。 しかしここではもう少し意味を限定して、「人の戦い」は「人が自分の力だけで戦う戦い」、また「神の戦い」は「神が私たちのために戦ってくださる戦い」として考え、それぞれどのようなものであるのかということを聖書の中から学んでみましょう。 一、三種類の戦い 戦いには様々な戦いがありますが、ここでは人間を構成している三つの要素によって、次のような三つに分けてみましょう。 1.肉体的な戦い(現実の戦い) これは、生活や仕事上の様々な出来事をはじめ、経済的また健康的な課題、そして家庭や対人関係の問題等々の現実に直面している複雑で、厄介な問題をどのように乗り越えるかということです。 2.精神的な戦い(心の戦い) これは、現実の問題に直面した時に生じる恐れや不安をはじめ、心の動揺や葛藤、そして激しい苦悩や苦悶等々の精神的な苦しみをどのように乗り越えるかということです。 3.霊的な戦い(信仰の戦い) これは、現実の戦いと心の戦いに勝利を得るために、神の前においてどうすればよいのかということです。 二、人の戦い 人が自分の力だけで戦う戦いは、どのようなものでしょうか。 1.現実の戦い これは、能力や賜物、知恵や知識、血筋や家柄、富や権力、そして体力や腕力等々のある強い者や力のある者は勝つことができますが、それらのものがない弱い者や無力な者は敗北してしまいます。 2.心の戦い これは、次の信仰の戦いにおいて勝利を収めない限り、現実の戦いと同じように強い者や力のある者は、その自信によって精神的にも勝つことができ、弱い者や無力な者は、自信を喪失するので、精神的にも敗北してしまうことが多いのです。 3.信仰の戦い これは、次に述べるような神の戦いのためのものであり、人の戦いにはないものです。しかしそれは現実の戦いと心の戦いに勝つことができない人のためにあるということを忘れてはなりません。 三、神の戦い それでは神が私たちのために戦ってくださる戦いは、どのようなものでしょうか。この箇所には三つのことが記されています。 ◇「主は伏兵を設けて……襲わせた」(22節)。 思わぬ所からの助けです。 ◇「互いに力を出して滅ぼし合った」(23節)。 同士討ちによる敵の自滅です。 ◇「主はイスラエルの敵と戦われた」(29節)。 神ご自身による戦いです。 聖書は、このような神による大勝利の前に、ヨシャパテ王とユダの人々が何をしたかについて次のような順序で教えています。1.全員、主の前に集まった(4、13節)。2.ひたすら主に求め、祈った(3~12節)。3.神のことばを聞いた(14~17節)。4.主を礼拝し、賛美した(18~22節)。5.主を信じ、忠誠を示した(20節)。 私たちがこれらの五つのことをする時、神は私たちのために戦って大勝利を与えてくださいます。そしてこれらの五つのことをするかどうかということこそ、信仰の戦いにほかならないのです。
2009.08.19
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「神の味方か神の敵か」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章26~31節 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(31節)。 私たちは、「味方」とか「敵」という言葉を聞くと、すぐに人間同志の争いである「戦争」を連想します。人間同志の争い、特に戦争は、避けるべきものですが、私たちがどうしても避けることができない戦いがあります。それは、正義と不義との戦い、または真理と偽りとの戦いです。この戦いには、だれでも参加して戦わなければならず、免除されることはないのです。 一、神に敵対するということの意味とそのわざわい 新約聖書には、神の敵または神に敵対するものが三つ記されています。 第一は、悪魔です。悪魔は、神の敵であるだけでなく(マタイ4章10節)、人間の最も恐ろしい敵です(第一ペテロ5章8節)。 第二は、世です。ギリシャ語の「世」という言葉には、「宇宙や世界」(ローマ1章20節)、「人間や人類」(ヨハネ3章16節)、「世の事柄や所有物」(マタイ16章26節)、「神と十字架と真理に敵する原理」(第一ヨハネ2章15節、ヤコブ4章4節)という四つの意味があり、神に敵するのは、四番目の「世」です。 第三は、肉です。ギリシャ語の「肉」という言葉には、「肉体」(ガラテヤ4章13節)、「人間性」(第二コリント5章16節)、「神に逆らう罪の原理」(ローマ8章4~8節)という三つの意味があり、神に敵するのは、三番目の「肉」です。 この三つのものが神の敵ですが、私たちもこれらのものに従うなら、神の敵となります(コロサイ1章21節)。パウロは、罪人は、「この世の流れ」と「不従順の子らの中に働いている霊(すなわち悪魔)」と「肉の欲」に従って歩んでいる者であると明白に述べています(エペソ2章2、3節)。 二、神が味方であるということの意味とその幸い ここには三位一体の神が私たちの味方となって働いてくださることが記されています。 1.父なる神のご計画と摂理(28節) 神が味方であるということは、私たちが遠大な神のご計画の中に組み入れられるだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神の摂理に導かれることです。 2.子なる神の御姿と栄光(29、17節) 神が味方であるということは、私たちが御子のかたちと同じ姿に変えられるだけでなく、キリストとの共同相続人となることです。 3.聖霊なる神のとりなしと助け(26節) このようなことは分かっていても、私たちは弱く、迷いやすい者です。そこで御霊は、私たちの中に住んで、とりなしの祈りをささげ、弱い私たちを助けてくださるのです。 神が味方であるとは、このようなことであり、これ以上の幸いがあるでしょうか。 三、私たちは、神の味方か神の敵かのどちらかです キリストは、「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり」と言われました(マタイ12章30節)。この戦いには、局外中立はあり得ず、二者択一を迫るものです。 1.立場や位置 私たちは、神の側に着くか、神に敵する側に着くか、また神の友となるか(ヨハネ15章15節)、世の友となるか(ヤコブ4章4節)、さらに十字架を誇るか(ガラテヤ6章14節)、十字架に敵するか(ピリピ3章18節)のどちらかの立場しかないのです。 2.実質や性質 その結果、私たちは神に似て聖なる者になるか(第一ヨハネ3章2、3節)、神に似ず汚れた者になるかのどちらかの性質しかないのです。 3.働きや奉仕 キリストは、「わたしとともに集めない者は散らす者です」と言われました(マタイ12章30節)。私たちは、神の働きや奉仕に参加しなければ、その働きや奉仕を妨げてしまうのです。 私たちは、神の味方でしょうか、それとも神の敵でしょうか。
2009.08.16
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「計画に現れる愛」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章28~30節 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(28節)。 この有名なみことばから「愛」と「計画」ということについて考えてみましょう。 一、私たちに対する神の愛の現れ 聖書は「神は愛です」と教え(第一ヨハネ4章16節)、キリスト者は、この神の愛によって救われた者です。しかし私たちは、この神の愛をどのようにとらえているでしょうか。 エペソ人への手紙の1章には、「あらかじめ定め」るという言葉が二回(5、11節)、また「ご計画」という言葉が二回記されています(9、11節)。この箇所をよく読むなら、神の「愛」は、「計画」に現れていることがわかります。 すなわち「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」ただけでなく(4節)、その「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」り(9節)、さらに「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され」たのです(10節)。 このようなことから神の愛というのは、私たちのためにすばらしいことを計画してくださるだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神の摂理によって、その計画を実行に移されることに現れていることが分かります。ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています(詩篇31篇15節、139篇16節)。 私たちは、神の愛をこのように具体的な計画のあるものとしてとらえているでしょうか。もしそうでなければ、神の愛を何かつかみどころのない漠然とした、抽象的なものとしてしかとらえていないのです。 二、神に対する私たちの愛の現れ 私たちが神を愛するとは、どのようなことかということを述べる前に、その反対である神を愛さないということについて考えてみましょう。それは、一言で言えば、罪です。 聖書は、アダムから受け継いだ原罪を別にすれば、罪というものを決して無意識的また偶発的なものとして記していません。ダビデの姦淫と殺人の出来事(第二サムエル11章)から分かるように計画的なものであり、様々なことを考え、策略をめぐらしながら承知で犯すものであると教えています。言い換えれば、罪は、神のご計画、すなわち神の御旨を受け入れず、自分の計画や自我を押し通すことなのです(民数記22章32~34節)。 ここでパウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」と記していますが、この言葉から私たちが神を愛するというのは、愚かで罪深い自分の計画を捨て、私たちのために備えられた遠大な、すばらしい神のご計画を私たちが受け入れ、それに自らを当てはめていくことなのです。 三、人に対する私たちの愛の現れ 私たちは、神がこのような罪深い者をもそのひとり子をお与えになったほどに愛してくださったことを知る時にのみ、真にほかの人を愛することができるようになります(第一ヨハネ3章16節)。その神の愛は、計画に現れる愛です。ですから私たちの隣人への愛もそのようになるのです。 両親は、愛する子どものために様々なことを計画し、準備しないでしょうか。人間は、愛する人のために色々なことを計画し、準備するのです。人間の愛でさえもそうならば、神の愛を与えられたキリスト者は、なおさらそうするのではないでしょうか。 真の愛は、決して気まぐれでなく、行き当たりばったりでもありません。また無為無策でもなければ無責任でもありません。私たち自身が無計画でなく、良い計画をもって相手に接し、またその人の将来や永遠のことを考え、配慮することこそ真の隣人への愛ではないでしょうか。
2009.08.14
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「神のことと人のこと」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、16章13~28節 「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(23節)。 冒頭の言葉は、ご自分の十字架の死と復活を預言されたキリストを、事もあろうに引き寄せて、いさめたペテロが、そのキリストから受けた厳しい叱責の言葉です。聖書の中でサタンと呼ばれるほど強い叱責の言葉は他になく、これは何と恐るべきことでしょうか。 しかし、それにもまして恐るべきことは、その叱責された理由が、「神のことを思わないで、人のことを思っている」(23節)からであるということです。私たちは、どのような時に、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことになるのでしょうか。 一、思想的な面――神の言葉と人の言葉のどちらを重んじるか(13~17節) 人々はイエスについて、バプテスマのヨハネとかエリヤまたエレミヤだとか言っていますが、ペテロは、神の啓示によって「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えています(16節)。私たちが最も心を配らなければならないのは、神とその言葉です。 しかし多くの人々の最大の関心事は、人とその言葉です。彼らは、人の意見はどうか、人の考えはどうか、人の思惑はどうか、あの人は何と言ったか、この人は何と言うか、というような人の言葉ばかり気にしています。 私たちは、人の心を見て常に正しい評価をされる神の言葉と、うわべを見るために常に正しい評価をするとは限らない人の言葉のどちらを重んじるでしょうか。もし私たちが神の言葉を差し置いて、人の言葉ばかり気にしているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 二、体験的な面――神の救いと人の救いのどちらを信じるか(21節) 聖書は、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と教えています(ルカ24章26節)。十字架こそ栄光に至る唯一の道であり、「十字架なくして栄光なし(苦難なくして栄冠なし)」です。 私たちも救いにあずかり、神の栄光を受けるためには、罪を悔い改め、十字架の贖いを信じなければなりません。しかし、その十字架を避けて、ただ栄光だけを求めようとするのが人の考えであり、サタンが誘惑するところです(マタイ4章8、9節)。 私たちは、罪を悔い改めて、キリストの十字架による贖いを信じて神から栄光を受ける神の救いと、ただ人間の努力によって人からの栄光を勝ち取る人の救いのどちらを信じるでしょうか。もし私たちが、神が与えてくださる十字架による救いを退けて、ただ人の栄光だけを求めるなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 三、実践的な面――神の意志と人の意志のどちらを選ぶか(24、25節) この十字架による救いの体験を持ち続け、また信仰に成長していくために必要なことは、自己否定であり、十字架を負うことです。聖書は「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」と教えています(25節)。 これに対して世の人々は、自分を救うために、自分を主張し、自分の考え、自分の意見、自分の意志を通すように言うでしょう。しかしその行き着く所は死です。 私たちは、神の意志と自分の意志が対立した場合、いのちに至る神の意志と、死に至る自分の意志のどちらを選ぶでしょうか。もし私たちが神の意志を退けて、自分の意志を通すなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 私たちは、思想(思い)において、体験において、実践において、神のことと人のことのどちらを優先しているでしょうか。
2009.08.10
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「祝福に満ちた神の栄光の福音」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、1章3~11節 テモテへの手紙の第一の1章3節から11節には、パウロのテモテに対する命令が記されています。その命令を要約するなら、「祝福に満ちた神の、栄光の福音」(11節)を自らが正しく理解し、体験するとともに、人に正しく宣べ伝えるようにということです。 一、福音の正しい理解(3、4節) 福音を正しく理解するためには、真の福音が何であるかを知るとともに、異端や偽福音がどのようなものであるかを知らなければなりません。 異端は、聖書の正しい教えに反するものや非聖書的なものすべての総称です。その代表的なものは、父なる神と子なる神と聖霊なる神は、三つにして一つという三位一体の教理や、キリストは、真の神であるとともに真の人であるという神人両性の教理を信じないものです。またそれは、使徒信条を信じないものと言うこともできます。 真の福音は、人はキリストの贖いを信じる信仰によってのみ救われ、その結果、律法を守るようになるというものです(ローマ3章28、31節)。これに対して律法を守ることによって救われるという律法主義や、反対に救われた人は律法を守る必要はないという律法無用主義、また聖書の啓示ではなく、主観によって神と一つになるという神秘主義、そして目的のためには手段を選ばないという熱狂主義などは決して真の福音ではありません。 二、福音の正しい体験(5節) 福音の正しい体験とは、どのようなことでしょうか。パウロは、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています」(5節)と述べていますが、これこそ福音の正しい体験です。 きよい心とは、罪という不純物を全く含んでいない交じり気のない純粋な心ということです。また正しい良心とは、不正や不義が全くなく、後ろめたさとかやましさがない良心のことです。さらに偽りのない信仰とは、演技をしない信仰という意味で、表裏がなく、飾らず、繕わず、変装せずに、ありのままの真実な信仰ということです。 真の愛は、このようなきよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出て来るもので、真の福音の体験は、この愛が日毎に深くなっていくことです。この真の愛こそ「きよめ」であり、もし私たちがこれ以外のものを求めるなら、福音から全く外れているのです。 三、福音の正しい実践(6~10節) 最後に福音を正しく実践し、宣教するためには、どうすればよいのでしょうか。そのためには、神の律法の目的と意義を知らなければなりません。 1.律法は、神がどのような方であり、その神のみこころがどのようなものであるかを私たちに教えるものです(出エジプト20章2~17節)。 2.律法は、人間の心を照らし、私たちの罪深さと無力さを教えて、私たちに罪の意識を生じさせるものです(ローマ3章20節)。 3.律法は、人間に救い主の必要を示し、私たちを救い主イエス・キリストのもとに導く養育係の役目を果たすものです(ガラテヤ3章24節)。 メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、神の「律法は、人間に向かって、あきらかにされた神の心である。……あなたがキリストに密着していようとするならば、律法に密着していなさい。かたくそれをつかんでいなさい。離してはならない」と述べています(ウェスレー説教集・中「律法の原形・性質・属性・用法」318、337ページ)。 私たちは、神の律法を学べば学ぶほど神のみこころを知るようになるだけでなく、律法は私たちを神のもとに追いやるとともに、私たちが神のもとから離れないように私たちを神のもとに引き留めてくれるのです。 私たちは、福音を正しく理解しているでしょうか。私たちの福音の体験は、日毎に深くなっているでしょうか。私たちは、福音を正しく宣べ伝えているでしょうか。
2009.08.07
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「人の思いの中に入る神の律法」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、8章7~13節 「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(10節)。 これは、神とイスラエルの家とが結ぶ新しい契約について、預言者エレミヤが述べた神の言葉です。神の律法を人の思いの中に入れるとは、どのようなことなのでしょうか。 一、旧約聖書に記されている律法の種類 旧約聖書に記されている律法には、次のような三つのものがあります。◇モーセの十誡に代表される道徳の律法◇いけにえやささげ物に関する儀式の律法◇現代の六法に相当するイスラエルの法律 第三番目のイスラエルの法律は、その国だけのもので、ほかの国は関係がなく、第二番目の儀式の律法は、キリストの十字架による贖いによって不要になりましたが、第一番目の道徳の律法は、永久に守るべきものです。 イエスは、律法を廃棄するためではなく、儀式の律法は十字架の贖いによって、道徳の律法は信仰と聖霊によって、二つとも成就するために来られたのです(マタイ5章17節)。 二、石の板に記された神の律法 ヘブル語の聖書は創世記から申命記までのモーセ五書を律法(トーラー)として区分しています。神はイスラエル人に律法を与えられましたが、そのことは彼らにとって誇りであり、また大きな特権でした(ローマ2章23節、3章2節、9章4節)。この時の様子を聖書は、次のように記しています。 「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた」(出エジプト31章18節)。 神は、この律法を守るようにイスラエル人に命じて、彼らと契約を結ばれました(同24章3~8節)。ところが彼らは、この神の律法にそむいて、神との契約を守り通さなかったので、神も彼らを顧みられなかったのです(ヘブル8章9節)。 三、神の心に記された律法の精神 それでは、神は何のためにイスラエルに律法を与えられたのでしょうか。 1.律法は、神がどのような方であり、その神の御心がどのようなものであるかを私たちに教えるものです(出エジプト20章)。 2.律法は、人間の心を照らし、私たちの罪深さと無力さを教えて、私たちに罪の意識を生じさせるものです(ローマ3章20節)。 3.律法は、人間に救い主の必要を示し、私たちを救い主キリストの許に導く養育係の役目を果たすものです(ガラテヤ3章24節)。 神は、このような三つの目的のためにイスラエルに律法を与えられたのですが、これこそ神の心に記された律法の精神です。この神の心に記された律法の精神を知った少数の神の人や聖徒たちは、律法を守りましたが(詩篇40篇8節)、大多数の人々は、これを理解することができず、律法にそむいて、神との契約を守り通さなかったのです。 四、人の心の板に記される神の律法 神の律法を守るためには、その精神を知らなければなりません。すなわち、神の律法の精神を知った者だけが、神の律法を守ることができます。聖書は、「人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」と教えています(第一コリント2章11節)。 それで神は、律法にそむいて、契約を守り通さなかったイスラエルの民と新しい契約を結ぶ日が来ることを約束されました。その新しい契約とは、石の板に記された神の律法を彼らに与えるのではなく、神の心に記された律法の精神を彼らの心の中に与えることです。これは言い換えれば、人の心の板に神の律法を記すこと、すなわち神の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけることです(10節)。。 神は、このことをキリストの十字架の死による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成就されました。罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じる者は、罪が赦されて、聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることこそ、神の律法が人の思いの中に入られることなのです。
2009.08.05
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「十戒の授与」 甲斐慎一郎 出エジプト記、20章 シナイ山は、「激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあ」りました(申命記4章11節)。主は、「十のことば」をシナイ山で、「火と雲と暗やみの中から」イスラエルの「全集会に、大きな声で告げられ」ました(同4章13節、5章22節)。「このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです」(ヘブル12章19節)。これは、神が民に「十戒」を授けられた時の光景です。 一、十の戒めをイスラエルの民に授けられた神(1~17節) 1.第一の戒め(3節)。 この戒めは、私たちが自分の人生を任せるお方として拠り頼み、仕え、そして礼拝する対象は、天地万物を造られた唯一の神でなければならないことを教えています。この神を信じることこそ正しい信仰と道徳の規準だからです。 2.第二の戒め(4~6節)。 この戒めは、私たちが偶像を造るなら、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしま」うという神をけがす罪を犯すことになり(ローマ1章23節)、また偶像を拝んだり、それに仕えたりするなら、自らを偶像以下の者として卑しめ、神の像に似せて造られた不滅の霊をけがす罪になることを教えています。 3.第三の戒め(7節)。 この戒めは、「ことばによると行いによるとを問わず」(コロサイ3章17節)、神の名をけがすことを禁じています(ローマ一章24節、参照)。なぜなら主の御名はあがめられなければならないからです(マタイ6章9節)。 4.第四の戒め(8~11節)。 この戒めは、すべての時間と金銭と能力が主のものであることを表すために、その代表として七日目を主にささげ、聖なる日として安息しなければならないことを教えています。 5.第五の戒め(12節)。 この戒めは、両親は神の代理人であるので、子どもは父と母を敬い、両親は子どもを「主の教育と訓戒によって育てな」ければならないことを教えています(エペソ6章4節)。 6.第六の戒め(13節)。 この戒めは、生命は神の賜物であり、生殺与奪の権を握っておられるのは主であることを教えています。 7.第七の戒め(14節)。 この戒めは、結婚は神が二人の男女を結び合わされる神聖な制度であることを教え、結婚による男女関係以外をすべて禁じています。 8.第八の戒め(15節)。 この戒めは、人は神から忠実に管理するように委託されたものを所有する権利を持ち、誰もその所有権を侵害してはならないことを教えています。 9.第九の戒め(16節)。 この戒めは、人は真実を語る責任と義務があり、偽りの言葉によって隣人を傷つけてはならないことを教えています。 10.第十の戒め(17節)。 この戒めは、「正当な方法で手に入れることができないものを欲しがること」を禁じています(G・C・モルガン)。それは、むさぼりの罪であり、偶像礼拝です(コロサイ3章5節)。なぜなら、「それは、欲しいと願ったものが私たちの神となり、生活を支配するようになるからです」(J・I・パッカー)。 二、恐れおののいている民に神が来られた目的を話したモーセ(18~21節) モーセは、恐れおののいている民に、「神が来られたのは……あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです」と言いました(20節)。 三、偶像を造ってはならないことと祭壇を造る時に注意すべきこと(22~26節) 主は、銀や金で偶像を造ってはならないと命じ、また主を礼拝するための祭壇についても様々な規定を設け、これらのことをモーセを通してイスラエル人に仰せられたのです。拙著「モーセとヨシュアの生涯」19「十戒の授与」より転載
2009.08.02
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