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「イエスの十字架」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月25日放映「キリストの汗と涙と血」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=60510&dreamon=Y「イエスの十字架」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、5章19-21節 聖書は、「捨てられた」という言葉によってイエスの三つの姿を教えています。 一、人に捨てられたイエス イエスは、十字架につけられる半年以上も前に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ......なければならない」と弟子たちにご自分の受難を予告されました(マルコ8章31節)。 イエスは、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられたために、裁判において死刑の判決を言い渡され、十字架につけられることになったのです(ヨハネ19章15、16節)。 聖書は、一般の民衆と民の指導者と異邦人そして罪人という四種類の人たち、すなわちあらゆる階層のすべての人々に捨てられたということを教えています(マタイ27章39、41、44節、ルカ23章36節)。イエスがあらゆる階層のすべての人々に捨てられたことは、ただ一人、だれの助けもなく--すなわち孤立無援の立場に追い込まれ--最悪の罪人の位置にまで降りて行き、人類の罪のためのいけにえとされたということを教えています。 イエスは「ののしられても、ののしり返さず」(第一ペテロ2章23節)、最悪の罪人の位置にまで降りて行き、そこにとどまられました。こうすることによって人類の罪のためのいけにえとなられたのです。 二、自分を捨てられたイエス パウロは、「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」と述べています(ガラテヤ1章4節)。イエスは、私たちの罪のためにご自身をお捨てになるために十字架につけられたのです。 イエスは、自分を十字架につけた兵士たちの罪の赦しを祈られ(ルカ23章34節)、悔い改めた強盗に自分とともにパラダイスにいると言われ(同23章43節)、母マリヤを愛する弟子のヨハネに託されました(ヨハネ19章26、27節)。 イエスは、ご自分のためには口を開かず、ただ周囲の人たちのために語られました。このことは、イエスがご自分のことよりも、ほかの人のことを考えておられたことを教えています。これはイエスが、ご自分を捨てられたからこそ、おできになったことなのです。 イエスが自分を捨てられたことは--人によってむりやりに罪のためのいけにえとされたのではなく--ご自分から(自発的に)、私たちの罪をその身に負われたということを教えているのです。 三、神に捨てられたイエス 「十二時から、全地が暗くなって、三時まで続」きました(マタイ27章45節)。この暗黒の3時間は、話もなく、言葉もなく、その声も聞かれない不気味な沈黙の3時間でもありました。これは、子なる神イエスが父なる神に捨てられたことによって、父と子の会話と交わりが完全に絶たれてしまったことを教えているのでしょう。 そして3時ごろ、この恐ろしい暗黒と不気味な沈黙を破って、イエスは大声で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(46節)。それは絶望のどん底からの悲痛な叫び声でした。この叫び声は--私たちの想像を絶する誠に信じ難いことですが--イエスが父なる神に捨てられたことは、紛れもない事実であることを私たちに教えているのです。 イエスが、神に捨てられたことは、主が、「私たちのすべての咎を彼(イエス)に負わせた」ということ(イザヤ53章6節)、すなわち神が「罪を知らない方(イエス)を、私たちの代わりに罪とされ」たということを教えています(第二コリント5章21節)。 イエスは、神に捨てられることによって、「私たちの代わりに罪とされ」、私たちを罪から贖い出してくださいます。言い換えれば、イエスは--誠に恐れ多いことですが--神に捨てられる以外に、「私たちの代わりに罪とされ」て、私たちを罪から贖い出すことはおできにならなかったのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.03.25
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「主のことばを聞く」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月11日放映「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」「主のことばを聞く」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、10章17節 一、主のことばを聞くことのききん ききんは、人の生命を支える食物や飲物を欠乏させるものですから、人を死に至らせる恐ろしいものです。イスラエルには、ききんが多く(創世記12章10節、26章1節、43章1節、ルツ記1章1節)、イスラエル人は、その恐ろしさをよく知っていました。アモスは、この「ききん」ということばを巧みに用いて、人の霊的な生命を支える食物や飲物である「主のことば」を聞くことができず、人を死に至らせる恐ろしい神の審判のことを「主のことばを聞くことのききん」(アモス8章11節)と言って、預言しました。 エリがさばきつかさとして治めていた頃は、「主のことばはまれにしかなく、幻も示され」ず(第一サムエル3章1節)、また「主が正しいと見られること」(申命記12章25節)ではなく、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」ので(士師記17章6節、21章25節)、読むに耐えないような醜悪で残虐な出来事が詳細に記されている士師記の17章から21章は、まさに、「主のことばを聞くことのききん」の時代でした。 二、主のことばを聞くことの大切さ 聖書は、主のことばがどれほど大切であるかについて繰り返し教えています。 1.すべてのものは、神のことばによって造られました(創世記1章3、6、9、11、14、24節、詩篇33篇9節)。 2.神が創造された以外のすべてのものも、人の心から出たことばによって造られます。 ことばのない人間以外の動物は、ただ生きていくための営みをしているに過ぎず、何かを生み出すことはできません。 3.人の心は、ことばがなければ死にます。 人の心は、ことばによって生きているのであり、ことばがなければ死にます。 4.「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです(マタイ4章4節)。 人は、神のことばを信じなければ、その心は神の前に死んでいるのであり、神のことばを信じる時にのみ、人の心は生き返り、生き続けることができるのです。 5.「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10章17節)。 私たちは、主のことばを聞くことによってのみ真の信仰を持つことができます。 三、主のことばを聞くことの祝福 ペテロは、五旬節の日に聖霊に満たされ、聖霊の降臨は、「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(使徒2章17節)というヨエルの預言の成就であると説教しました。 「幻」や「夢」とは何でしょうか。 1.「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)。 2.「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数記12章6節)。 3.「アモツの子イザヤの幻」(イザヤ1章1節)。 4.「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29章18節、文語訳は黙示すなわち啓示、口語訳は預言)。 これらのことばから「幻」や「夢」は、神の啓示、すなわち神のことばのことです。 ペテロは聖霊に満たされて聖書の真理が分かりましたが、これは、エレミヤによって預言された「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」という言葉の成就です(ヘブル8章10節)。 神は、このことを主の十字架による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成就されました。罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じる者は、罪が赦されて、聖霊に満たされますが(使徒2章38節)、聖霊に満たされることは、主のことばに満たされ、その主のことばによって生きることなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.03.19
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「三つの創造」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」 「三つの創造」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、5章17~21節 聖書は、開巻第一ページにおいて神は万物の創造者であると記しています。この万物の創造者である神のわざについて、次のような「三つの創造」を教えています。 1.今の天と地の創造--「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)。 2.人間の新しい創造--「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5章17節)。 3.新しい天と地の創造--「私は、新しい天と新しい地とを見た」(黙示録21章1節、第二ペテロ3章13節)。 第一は過去、第二は現在、第三は将来における神の創造のわざです。もし私たちが、第一の創造のわざを信じるなら、第二と第三の創造のわざをも信じることができます。しかしそれを信じなければ、あとの二つも信じることができないでしょう。 一、私たちが新しく造られるという「人間の新しい創造」こそ最も大切なことです 人間が直面している最大の問題は何でしょうか。無知や無力でしょうか。短所や弱さでしょうか。病気や怪我でしょうか。苦しみや悩みでしょうか。老いや死でしょうか。確かにこれらのことも問題ですが、人間の最大の問題は罪であると、聖書は教えています。 それではこの罪を解決するためには、どうすればよいのでしょうか。学びや勉強をして高い教育を受けることでしょうか。運動や体操をしてからだと心を鍛えることでしょうか。倫理や道徳を守ることでしょうか。努力して苦行や修行に励むことでしょうか。しかしこのようなことでは決して罪を解決することができないことを聖書は教えています。 聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」と記し(第二コリント5章17節)、キリストによる「人間の新しい創造」こそ罪を解決する唯一の秘訣であることを教えています。 二、そのためには「今の天と地の創造」者である神の救いを信じることが必要です 聖書は、生まれながらの人は「罪過と罪との中に死んで......肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行」う罪深い者であると記しています(エペソ二章1、3節)。このような罪人が新しく造られるということなどあり得るでしょうか。そのような人に造り変えられるということなど信じられるでしょうか。 進化論者は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したことを信じる者です。もし私たちが進化論者のように「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」(使徒17章24節)全知全能の創造者である神を信じなかったなら、罪深い人間が新しく創造されるということなど決して信じることができないでしょう。 罪深い人間が新しく造り変えられるという「人間の新しい創造」は、ただ「今の天と地の創造」者である神のみがおできになることで、この方以外には絶対に不可能なのです。 三、すると「新しい天と地の創造」者である神とともに永遠に生きることができます 現在の地球は、公害や環境破壊によって汚染され、それがもたらす異常気象や天変地異によって狂いが生じ、もし核戦争が起きるなら破滅してしまうでしょう。罪深い人間が新しく創造されなければ、だれも地球の破滅を食い止めることはできないでしょう。 聖書は、「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と記し(第二ペテロ3章12、13節)、新しく創造された人間は、今の天と地が破滅しても、新しい天と新しい地に永遠に住むことができると教えています。 私たちが神とともに永遠に住むことができる「新しい天と地の創造」を信じることができるのは、神が「今の天と地の創造」者であることを信じているからであり、そうでなければ決して信じることはできないでしょう。拙著「聖書の中心的な教え」3 「三つの創造」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.03.14
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「天地の創造(1)」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57307&dreamon=Y「天地の創造(1)」 甲斐慎一郎 創世記1章 旧約聖書は、創世記から始まっています。この創世記から申命記までの最初の五つの書は、「モーセ五書」と呼ばれ、モーセによって書かれたものです。ブリンジャー博士は、「創世記は聖書全体の苗床です。すべての芽がここから芽ばえるのです。聖書の各部分を本当に理解するためには、欠くことのできないものです」と述べています。 一、啓示の神 モーセは、この創世記を記すにあたって、何の前置きも説明もしないで、いきなり「初めに、神が天と地を創造した」と書き始めています(1節)。彼は、自分がこれから書こうとしていることは、人間の考えや思想ではなく、神の啓示であることを教えるために、このように記したのです。 啓示ということばは、もともと「おおいを取る」とか「ベールをはぐ」という意味があります。それは、人間の理性や人の探求ではわからない神と神に関する真理を、神のほうからおおいを取って、私たちに明らかに教え示すことです。 聖書は私たちに次のように教えています。 「神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1章19、20節)。 二、創造の神 啓示の書である聖書は、神は万物の創造者であると教えています(1節)。「主が仰せられると、そのようになり」(詩篇33篇9節)とあるように(3、6、7、9、11、15、24節)、神は、権威のあることばによって、無から有を生むことがおできになる創造者です(ローマ4章17節)。 この創造者である神のわざについて、聖書は、次のような三つの創造を教えています。1.今の天と地の創造--「初めに、神が天と地を創造した」(1節)。2.人間の新しい創造--「だれでもキリストのうちにあるなら、そ の人は新しく造られた者です」(第二コリント5章17節)。3.新しい天と地の創造--「私は、新しい天と新しい地とを見た」 (黙示録21章1節、参照、第二ペテロ3章13節)。 第一は過去、第二は現在、第三は将来における神の創造のわざです。もし私たちが、第一の創造のわざを信じるならば、第二と第三の創造のわざをも信じることができます。しかしそれを信じなければ、あとの二つも信じることができないでしょう。 三 秩序の神 創造の六日間は次のようになっています。◆第一日、光 ◆第二日、大空 ◆第三日、地と植物 ◆第四日、太陽、月、星 ◆第五日、魚、鳥 ◆第六日、陸の動物、人 パウロは「神は混乱の神でなく、秩序の神だからです」と述べていますが(第一コリント14章33節、詳訳聖書)、この宇宙を造られた神は、秩序の神です。神は、形がなく、むなしく、やみがあったという混沌とした状態(2節)から、秩序正しい宇宙を創造されました。 このように混沌とした状態(カオス)を秩序のある世界(コスモス)に変え、おおいを取って(言い換えれば啓示の光によって)物事をはっきりとわかるようにさせるのが神の働きです。これに対して秩序のある世界(コスモス)を混沌とした状態(カオス)にしておおいを掛け、物事をわからなくさせるのが悪魔の働きです(第二コリント4章3、4節)。拙著「創世記の聖徒たち」1「天地の創造(1)」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.03.06
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