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「知恵の霊的な教え、その2」 2013年10月9日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」「知恵の霊的な教え、その2」 甲斐慎一郎 伝道者の書、9章13節~10章4節 この箇所には、知恵と愚かさについての小さなたとえ話が記されていますが、これは、私たちに大切なことを教えています。 一、知恵の影響力について(9章13~18節) この小さなたとえ話は、私たちに知恵のすばらしさとその影響力を教えています。ここには対照的なことばがあります。それは「大きい」と「小さい」です。 「わずかな人々が住む小さな町があ」り、「そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた」が「その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放し」ました。「しかし、だれもこの貧しい人を記憶し」ませんでした(14、15節)。 これは、ホッヂキン女史の言うように「小さな町」とは「地球」を指し、「大王」とは「悪魔」のことであり、その町の人々を救った「貧しいひとりの知恵ある者」とは「キリスト」を表しています。 またこれを私たちに適用するなら、悪魔やこの世の勢力が、どんなに攻め寄せて来ても、知恵は私たち自身と人々を救うことができることを教えています。 聖書においては、「知恵」とは「神を恐れること」であり(箴言9章10節、詩篇111篇10節)、また「正しい信仰や敬虔」を意味しています。知恵とは、これほどすばらしいものであり、大きな影響力を持つのです。 二、愚かさの影響力について(9章18節~10章4節) これに対して「死んだはえと香油」のたとえ話は、私たちに愚かさの恐ろしさとその影響力を教えています。「死んだはえ」とは、「少しの愚かさ」のことであり、「香油」とは「知恵や栄誉」のことです(10章1節)。 聖書においては、「愚かさ」とは「神を信じない罪」のことであり(詩篇14篇1節)、それはまた「不信仰や不敬虔」を意味しています。死んだはえが調合した香油を臭くするように「小さい罪」も「正しいこと」や「良いこと」を破壊してしまいます。愚かさとは、これほど恐ろしいものであり、その影響力は、これまた大きいのです。 三、信仰の教えについて これらの知恵と愚かさのたとえ話から、私たちは、次のような大切な信仰の教えを学ばなければなりません。 1.事の大小についての教え 多くの人たちは、大きいことを重要視し、小さいことを軽視するものです。しかしこのたとえ話は、小さいことも、いかに大きな影響力をもつかを教え、小さいことも決してなおざりにしてはならないことを私たちに勧めているのです。 私たちは、「小さな善行」に励まなければなりません。なぜなら「大きな善行」も、それは「小さな善行」の積み重ねだからです。また「小さな罪」に注意しなければなりません。もし「小さな罪」を犯すなら、いずれ「大きな罪」を犯すようになるでしょう。 2.事の成否についての教え 私たちは、物事が成功するかどうか、また人格が完成するかどうかは、善いことに励むことは当然ですが、その前に善いことを破壊する罪や悪を取り除かなければなりません。そうしなければ、建て上げていくそばから破壊されてしまうからです。 3.事の真偽についての教え このたとえ話は、知恵はさげすまれたり、忘れられたりしていますが(9章15、16節)、愚かさは自己宣伝していることを私たちに教えています(10章3節)。事の真偽は、人々に受け入れられるかどうか、人気があるかどうかによってはわからないのです。 キリストは、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7章13、14節)と、真理に至る門と道、そしていのちに至る門と道も狭いと教えられたのです。次は10月16日(水)「人を用いられる神」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.26
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「知恵の霊的な教え、その1」 2013年10月2日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」「知恵の霊的な教え、その1」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、1章30節 「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義ときよめと、贖いとになられました」(第一コリント1章30節)。 新約聖書において、「知恵」とか「悟り(新改訳では理解力や思慮深さ)」と訳されている原語(ギリシャ語)には色々ありますが、代表的なものは次の三つです。 1.ソフィア--これは根本的な知恵または賜物としての知恵のことです。 2.スュネスィス--これは洞察的な知恵または識別力としての知恵のことです。 3.フロネースィス--これは実際的な知恵または実行力としての知恵のことです。 それで聖書が教えている知恵について、この三つの面から学んでみましょう。 一、根本的な知恵--賜物としての知恵 「知恵は呼ばわらないだろうか」という言葉で始まる箴言8章は、最後の36節まで読んでいくと、この知恵は、神の御子キリストであることがわかります(8章22~30節、30章4節を参照)。そして新約聖書には、「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり」(第一コリント1章30節)、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」(コロサイ2章3節)、「ほふられた小羊は、力と富と知恵......を受けるにふさわしい」(黙示録5章12節)と記されています。すなわち旧約聖書も新約聖書もキリストは「神の知恵」であると教えているのです。 二、洞察的な知恵--識別力としての知恵 主の兄弟ヤコブは、「あなたがたのうちで、知恵のある賢い人はだれでしょう」(ヤコブ3章13節)と私たちに問いかけ、二種類の知恵について教えています。 すなわち「苦いねたみと敵対心があ」り、その結果、「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがある」「地と肉と悪霊に属する知恵」と、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのない」「上からの知恵」です(同3章14~17節)。 聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と教えています(箴言9章10節)。 パウロは、「この世と調子を合わせ」--これこそ「地と肉と悪霊に属する知恵」--であり、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」--これこそ「上からの知恵」--であり、この知恵を得るために「心の一新によって自分を変えなさい」と勧めているのです(ローマ12章2節)。 三、実際的な知恵--実行力としての知恵 「神の知恵」であるキリストは、全人類を罪から救うために、真の人としてこの世にお生まれになり、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて......大能者の右の座に着かれ」(ヘブル1章3節)、「御父から約束された聖霊を受けて......聖霊をお注ぎにな」りました(使徒2章33節)。 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができ」ます(第二テモテ3章15節)。私たちは、罪を悔い改めて十字架の贖いを信じるなら、罪が赦されて聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることは、「わたし(神)の律法を彼らの思いの中に入れ」ることであり(へブル8章10節)、その「神の律法」は、「御霊による思い」であり(ローマ8章6節)、「隠された奥義としての神の知恵」です(第一コリント2章7節)。 聖霊に満たされることは、「上からの知恵」に満たされることにほかならず、その人は、「純真であり......平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち......義の実を結」びます(ヤコブ3章17、18節)。 これこそ「賢い人のように歩」むということで(エペソ5章15節)、その人は「成人の間で、知恵」を語り(第一コリント2章6節)、「知恵のある者は人の心をとらえる」のです(箴言11章30節)。 「知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすれば、きっと与えられます」(ヤコブ1章5節)。次は10月9日(水)「知恵の霊的な教え、その2」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.26
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「神が与えてくださる知恵」 2013年9月25日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年11月7日放映「神に会う備え」「神が与えてくださる知恵」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章14~17節 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」(15節)。 一般的に言うならば、「知識」が単に「知っている事柄」であるのに対して、「知恵」は、その「知識を上手に生かす能力」であるということができます。 これは世の中においては、「生活の知恵」とか「世渡りの知恵」という言葉に代表されるように、失敗したり、転んだりした実際の体験の中から身につけた人間的なものです。 これに対して聖書が教える知恵は、律法を定め、全世界をさばかれる全知全能の神が「転ばぬ先の杖」として私たちのために予め与えてくださる神的なものです。 「知恵」の反対は「愚か」ですが、聖書は「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9章10節)、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」(詩篇14篇1節)と記し、「知恵は、神を恐れること」で、「愚かは、神を信じないこと」であると教えています。 一、知恵--神を恐れることによって得られる正しい動機を教えるものです 人間の世界は、どのような時に腐敗、堕落し、暗黒になるでしょうか。それは、過去の未開の時代は、一部の圧制者や独裁者また専制君主が「何ものをも恐れず」に振る舞う時であり、現代のように民主主義になり、文明が発達し、文化が向上した時代は、一般の人たちが「恐いもの知らず」になり、あたかも何でもできるかのように錯覚して思い上がり、勝手気ままに振る舞う時です。 どちらにしても、恐れるものを失い、人が神より偉くなる時、どんなに社会が暗黒になり、人々が堕落するかが分かるでしょう。ですから聖書は、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9章10節)であり、「主を恐れることによって、人は悪を離れる」(同16章6節)と教えているのです。 二、知恵--神を恐れることによって得られる正しい方法を教えるものです 次に人々が堕落していくのは、どのような時でしょうか。それは、何事にも手を抜いて安易な道を歩む時です。この安易な道は、 1.「得やすいものは失いやすい(悪銭身につかず)(諺)」。 2.厭きが来るため、より刺激的、より官能的なものを求めて堕落していく。 3.不正な手段や不健全な方法によって良い結果を得ようとする邪道に陥る。 このことを決して忘れてはなりません。 ほんとうに価値のあるすばらしいものは、容易に手にはいらないだけでなく、私たちは、あるべき姿になり、なすべきことをなし、歩むべき道を歩み、通るべきところを通ってこそ、ほんとうに良い結果が得られるということを知らなければなりません。これこそ神を恐れることによって与えられる知恵です。 三、知恵--神を恐れることによって得られる正しい結果を教えるものです 最後に人々が罪を犯し、堕落していくのはどのような時でしょうか。それは物事の結果がどうなるかということを考えない時です。 善を行った結果と悪を行った結果が同じであると考えている人は、ひとりもいないでしょう。それにもかかわらず、一生の間、善を行って死んだ人も、悪を行って死んだ人も全く同じであると、次に来る世(来世)を信じない人が多いのは、どういうわけでしょうか。 人間は、永遠の運命や次に来る世(来世)の存在を信じない限り、善を行った結果も悪を行った結果も同じであると、神を侮っているのです。しかしこれがどんなに人を堕落させるかは言うまでもないでしょう。これに対して神を恐れることによって、この善悪の結果の違いを明白に知ることこそ知恵です。次回は10月2日(水)「知恵の霊的な教え、その1」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.13
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「スマートの霊的な教え、その2」 2013年9月18日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」「スマートの霊的な教え、その2」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、12章2節 「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(エペソ5章15~17節)。 一、スマート(smart)の意味 「スマート(smart)」という言葉があります。これは「賢い、頭が切れる、洒脱(しゃだつ)、粋、高知能」という意味です。 二、洒脱(しゃだつ)の意味 国語辞典には、次のように記されています。 1.岩波書店、広辞苑 俗気を脱して、さっぱりしていること。 俗気(ぞっき)--いやしそうな気味、俗人の気風、俗臭。 2.明治書院、国語辞典(酒は、さっぱりする意)俗気がなく、さっぱりしている様子、垢抜けていて、嫌味がない様子。 3.三省堂、新明解国語辞典 何気なく振る舞う言動や軽いタッチの文章、書画の中に人を引き付ける脱俗の風格が感じ取られる様子。 4.旺文社、詳解国語辞典 世俗的なことにとらわれず、さっぱりとして、あかぬけていること。 三、知恵の霊的な教え 神への信仰を持たない世の中でさえ、「賢くて、知恵のある人」は、俗気を脱したり、俗気がなかったり、脱俗であったり、世俗的なことにとらわれたりしない人です。まして神への信仰を持っているキリスト者が「世俗的」「世的」であってはならないのは、当然ではないでしょうか。 使徒ヨハネは、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」(第一ヨハネ3章15、16節)と記しています。 主の兄弟ヤコブは、「あなたがたのうちで、知恵のある賢い人はだれでしょう」(ヤコブ3章13節)と私たちに問いかけ、二種類の知恵について教えています。すなわち「苦いねたみと敵対心があ」り、その結果、「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがある」「地と肉と悪霊に属する知恵」と、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのない」「上からの知恵」です(同3章14~17節)。 またヤコブは「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」と述べています(ヤコブ4章4節)。 使徒パウロは「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12章2節)--これこそ世俗的な知恵、すなわち「地と肉と悪霊に属する知恵」であり、これを否定し--「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ12章2節)--これこそ「上からの知恵」また「神の知恵」であり--この知恵を得るために「心の一新によって自分を変えなさい」と勧めているのです(ローマ12章2節)。次回は9月25日(水)「神が与えてくださる知恵」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.11
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「スマートの霊的な教え、その1」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」「スマートの霊的な教え、その1」 甲斐慎一郎 エペソ人への手紙、5章15~17節 「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(エペソ5章15~17節)。 「スマート(smart)」という言葉があります。これは「賢い、頭が切れる、洒脱(しゃだつ)、粋、高知能」という意味です。 一、スマートな道具をつくる人間 「人間は、道具を用いる動物である」と言われますが、人は、太古の昔から道具を造り、それを用いて発達してきました。最近は、次のようなものが造られています。 1.スマートエントリー 機械的な鍵を使用せずに車両のドア・トランクの施錠・開錠、エンジンの始動が可能な自動車の機能のこと。 2.スマートカー IT技術やスマート化技術により、高度に安全化、快適化、省エネルギー化された、近未来型自動車のこと。 3.スマートガラス 液晶層に加える電圧を制御することで電気的に透明度を切り替えられるガラス製品。 4.スマートカード キャッシュカード大のプラスチック製カードに極めて薄い半導体集積回路を埋め込み、情報を記録できるようにしたカード。電子マネーやテレホンカードなどに応用されている。 5.スマートグリッド スマートメーター等の通信・制御機能を活用して停電防止や送電調整のほか、多様な電力契約の実現や人件費削減等を可能にした電力網のこと。 6.スマートセンサー センサーとマイクロプロセッサーの機能を集積回路として組み込み、感知した光や音などの物理量を処理する機能をもったセンサー。 7.スマートシティ ITや環境技術などの先端技術を駆使して街全体の電力の有効利用を図ることで、省資源化を徹底した環境配慮型都市。 8.スマートドラッグ 人間の脳の機能や能力を高めたり、認知能力や記憶力を高める薬品や物質の総称。 9.スマートハウス 一九八〇年代にアメリカで提唱された住宅の概念で、家電や設備機器を情報化配線等で接続し、最適制御を行うことで、生活者のニーズに応じた様々なサービスを提供しようとするもの。 10.スマートメーター 通信機能を備えた電力メーターで、電力会社と需要者の間をつないで電力使用量などのデータをやり取りしたり、需要先の家電製品等と接続して、それを制御したりすることができるもの。再生エネルギー活用の要である。 11.スマートフォン インターネットとの親和性が高い多機能携帯電話(PHS)のことで、日本では「スマフォ」、「スマホ」と略されている。 二、スマートな社会をつくる人間 人間は、社会的な動物であり、社会をつくり、国家を建設しなければ、大勢の人が生きていくことはできません。専制君主や独裁者が治める国は、国民を不幸のどん底に陥れます。現在の日本は、国民の意志によって制定された法律によって政治が行われている「法治国」、また人民主権のもとに政治が行われている「民主主義の国」です。人は、道具を用いる動物であるだけでなく、幸福で住みやすい社会や国家、すなわちスマートな社会や国家を建設する者です。 三、スマートな人にならなければならない人間 しかし人がどんなにスマートな道具を造り、スマートな社会や国家を建設しようとしても、倫理観が欠如し、道徳を守らなければ、すなわちスマートな(知恵のある、賢い)人にならなければ、暗黒な社会や国になってしまいます。この道徳心を養い、倫理を向上させるものこそ真の神への信仰であり、真の宗教(キリスト教)です。 それでパウロは、「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」と勧めているのです(エペソ5章15~17節)。次回は、「スマートの霊的な教え、その2」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.06
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「心の一新(10)大人としての知恵」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」「心の一新(10)大人としての知恵」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、14章20節 私たちは、幼子のような「単純な心」、すなわち「純粋で、素朴で、素直な心」が必要です。しかし「単純な心」だけでは、互いにだましたり、だまされたりしている醜い大人の世界では生きていくことができません。 パウロは、「物の考え方(新共同訳は物の判断、文語訳は知恵)において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」と勧めています(20節)。 それで「大人としての知恵」について聖書から学んでみましょう。 一、知恵の必要性について イエスは、十二使徒に対して「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」と教えられました(マタイ10章16節)。 これは、世の人々の中にあっては、「賢明さ」と「純粋さ」を兼ね備えていなければならないことを教えています。なぜなら人は、「賢明さ」だけを要求されると狡猾で不純になる傾向があり、反対に「純粋さ」だけを求められると単純で愚かになる傾向があるからです。 聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と教えています(箴言9章10節)。ヤコブは、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか」と私たちに問いかけ(ヤコブ3章13節)、二種類の知恵について教えています。すなわち、ねたみや敵対心があり、その結果、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いに至らせる「地に属する知恵」と、純真で、平和、寛容、温順で、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのない「上からの知恵」です(同3章15~17節)。 二、地に属する知恵 地に属する知恵(いわゆる世の知恵)とは、どのようなものでしょうか。 1.その源泉 これは失敗したり、転んだりした多くの人々の体験の中から身につけた人の教えであり、それは人間の努力の賜物であるということができます。 2.その用途 これは、どのようにしたら世間で暮らしていくことができるかという世渡りのためです。 3.その目的 これは競争に勝って人よりも優り、自分が得をすることです。 このように世の中において賢くて知恵があるというのは、世渡りが上手で、人に優り、得をすることであり、愚かで知恵がないとは、世渡りが下手で、人に劣り、損をすることです。この世の知恵は、「地に属する知恵」で、それは競争心をあおり、「ねたみと敵対心」を生じさせ、その結果、「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行い」に満ちた社会になることを避けることはできないのです。 三、上からの知恵 これに対して上からの知恵(すなわち神の知恵)とは、どのようなものでしょうか。 1.その源泉 これは、律法を定め、すべてのものを支配し、全世界をさばかれる全知全能の神が「転ばぬ先の杖」として私たちのために、あらかじめ備えてくださった神の教えであり、それは神からの賜物であるということができます。 2.その用途 これは、どのようにしたら神の前に正しい姿になることができるかという罪からの救いのためです。 3.その目的 これは、悔い改めの実をはじめ、御霊の実や奉仕の実など、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つことです。 このように神の前に、賢くて知恵があるというのは、キリストに対する信仰によって罪から救われて、良い実を結ぶことであり、愚かで知恵がないというのは、神を離れて罪を犯すことです。 私たちは「悔い改めて子どもたちのようにな」る時(マタイ18章3節)、「上からの知恵」すなわち神の知恵が与えられ、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つ人になることができるのです。次回は「スマートの霊的な教え、その1」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.06
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「心の一新(9)幼子のような心」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年7月24日放映「神の恥と人の恥」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=62199&dreamon=Y「心の一新(9)幼子のような心」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章1~6節 「真に偉大な人とは、おとなの経験と、子どものような単純で甘美な心をもった人である」と言った人がいます。これは醜いおとなの世界の中で、いつのまにか幼子のような心を失ってしまった私たちにとって、何と考えさせることばではないでしょうか。 主は、幼子たちを呼び寄せて、「天の御国はこのような者たちの国なのです」と言われただけでなく(19章14節)、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」と語られました(3節)。これは、どのようなことを意味しているのでしょうか。 一、幼子のような心の特徴 幼子は、どんなに無邪気であっても、神でもなければ天使でもないことは、言うまでもありません。まして人類の堕落以後は、幼子といえども罪を持って生まれるために、様々な悪い心があることは衆知の事実です。 しかしここで「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」と言われているのは、幼子の心に代表される「単純な心」のことです。それでは「単純な心」とは、どのような心でしょうか。これは、マタイの福音書6章22節に記されている「健全」(原語は単純)ということで、三つのことを意味しています。 第一は、純粋で、二心ではないことです。 これは透明で、澄んでおり、曇りのない心を持つことで、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりと識別し、判断することです。 第二は、素朴で、飾り気がないことです。 これはありのままで、少しも繕わない心を持つことで、良く見せかけること(偽善)も悪く見せかけること(偽悪)もないことです。 第三は、素直で、頑なではないことです。 これは意地や強情を張らず、教えられやすい心を持つことで、良いものは受け入れて信頼し、悪いものは拒絶することです。 二、おとなの心の特徴 これに対しておとなの心は、どのようなものでしょうか。それは幼子のような心とは全く反対の単純さを失ってしまった心です。1.第一は、純粋さがなく、二心です。2.第二は、素朴さがなく、繕う心です。3.第三は、素直さがなく、頑固な心です。 私たちがおとなになるにつれて幼子のような心を失ってしまうのは、単純な心では、互いにだましたり、だまされたりしている醜いおとなの世界では到底生きていくことはできず、初めは不本意ながらも、ついには承知で世の汚れに染まってしまうからです。 このようになってしまう根本的な原因は何でしょうか。それは、私たちを決して裏切ることのない真実と愛に満ちた神とその世界を信じないで、私たちを欺いて懐疑的にさせる罪深い人間とその世界しか知らないからです。 三、幼子のような心を取り戻す秘訣 それでは、どのようにすれば、幼子のような心を取り戻すことができるのでしょうか。 第一は、「子どものように、自分を低くする」謙遜です(4節)。これは、神を「離れては、......何もすることができない」という無力感や(ヨハネ15章5節)、「心の貧しさ」を表しています(マタイ5章3節)。 第二は、「乳離れした子のように」神「の前に」いる信頼です(詩篇131篇2節)。神の前における無力感を自覚した者は、単純に神に信頼するしかありません。 第三は、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)とあるように、相反するものであっても、それが神からのものであるなら、一つのものとして受け入れる受容です。それは、「主よ、飲むべき わがさかずき 選びとりて さずけたまえ 喜びをも 悲しみをも 満たしたもう ままにぞ受けん」という賛美歌の歌詞によく表れています(285番3節)。私たちは、へりくだって心から神に信頼するなら、神が与えてくださる喜びだけでなく、悲しみや苦しみをも受け入れることができます。 これこそ、幼子のような心を取り戻す秘訣です。次回は、「心の一新(10)大人としての知恵」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.04
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「心の一新(8)主のことばを聞く」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年7月15日放映「世を愛された神」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=62069&dreamon=Y「心の一新(8)主のことばを聞く」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、10章17節 一、主のことばを聞くことのききん ききんは、人の生命を支える食物や飲物を欠乏させるものですから、人を死に至らせる恐ろしいものです。イスラエルには、ききんが多く(創世記12章10節、26章1節、43章1節、ルツ記1章1節)、イスラエル人は、その恐ろしさをよく知っていました。 アモスは、この「ききん」ということばを巧みに用いて、人の霊的な生命を支える食物や飲物である「主のことば」を聞くことができず、人を死に至らせる恐ろしい神の審判のことを「主のことばを聞くことのききん」(アモス8章11節)と言って、預言しました。 エリがさばきつかさとして治めていた頃は、「主のことばはまれにしかなく、幻も示され」ず(第一サムエル3章1節)、また「主が正しいと見られること」(申命記12章25節)ではなく、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」ので(士師記17章記6節、21章25節)、読むに耐えないような醜悪で残虐な出来事が詳細に記されている士師記の17章から21章は、まさに「主のことばを聞くことのききん」の時代でした。 二、主のことばを聞くことの大切さ 聖書は、主のことばがどれほど大切であるかについて繰り返し教えています。 1.すべてのものは、神のことばによって造られました(創世記1章3、6、9、11、14、24節、詩篇33篇9節、)。 2.神が創造された以外のすべてのものも、人の心から出たことばによって造られます。 ことばのない人間以外の動物は、ただ生きていくための営みをしているに過ぎず、何かを生み出すことはできません。 3.人の心は、ことばがなければ死にます。 人の心は、ことばによって生きているのであり、ことばがなければ死にます。 4.「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです(マタイ4章4節)。 人は、神のことばを信じなければ、その心は神の前に死んでいるのであり、神のことばを信じる時にのみ、人の心は生き返り、生き続けることができるのです。 5.「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10章17節)。 私たちは、主のことばを聞くことによってのみ真の信仰を持つことができるのです。 三、主のことばを聞くことの祝福 ペテロは、五旬節の日に聖霊に満たされ、聖霊の降臨は、「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」(使徒2章17節)というヨエルの預言の成就であると説教しました。 「幻」や「夢」とは何でしょうか。 1.「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(第一サムエル3章1節)。 2.「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数12章6節)。 3.「アモツの子イザヤの幻」(イザヤ1章1節)。 4.「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29章18節、文語訳は黙示すなわち啓示、口語訳は預言)。 以上の言葉から、「幻」や「夢」は神の啓示、すなわち神のことばのことです。 イエスが真の神でありながら真の人としてこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって「罪のきよめを成し遂げて......大能者の右の座に着かれ」るためでしたが(ヘブル1章3節)、それは、すべての人に聖霊を注がれるためでした(使徒2章33節)。 ペテロが御霊に満たされて聖書の真理がわかったように、私たちは、聖霊に満たされることによって神のことばの真理がほんとうの意味においてわかるようになるだけでなく、神と人の前で正しく、聖く、愛に満ちた生涯、すなわち主のみこころにかなった生涯を送ることができます。ですから聖霊に満たされることは、主のことばに満たされ、その主のことばによって生きることなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.09.01
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