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「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」 2014年1月1日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年11月5日放映「神のことばである聖書」「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」 甲斐慎一郎 エレミヤ書、29章 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。--主の御告げ。--それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(11節)。 一、捕虜としてバビロンへ捕え移されたユダの人々(28章14節、29章1~4節) ユダの人々は、神に対する不信仰と反逆の罪のためにバビロンに滅ぼされ、生き残った民は捕虜になりました。捕囚の民は、その地に住むことを許されましたが、「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣」きました(詩篇137篇1節)。祖国を失った民の心中は、察するにあまりあるものがあります。 バビロンへ引いて行かれた捕囚の民は、過去における神への反逆の罪をどんなに悔やんだことでしょうか。また神に従って平和と祝福に満ちていた時のことをどんなに懐かしがったことでしょうか。しかし今となっては取り返しがつかず、今さらどうすることもできませんでした。捕囚の身として一寸先は闇であり、未来は不安と絶望に満ちていました。 二、バビロンに七十年の満ちるころ祖国に帰ることを預言したエレミヤ(5~14節) エレミヤは、このような捕囚の民に「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み......そこでふえよ。......わたしがあなたがたを引いていったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」と仰せられた主のことばを告げました(5~7節)。民は、このエレミヤのことばに従って生活し、その地でふえました。 ハナヌヤは、ゼデキヤの治世の初めに捕囚の民は二年のうちに帰るという偽りの預言をしました(28章1~4節)。それでエレミヤは、にせ預言者の誤りを指摘し、それに惑わされないように警告するとともに、捕囚の期間は七十年であり、その後に祖国に帰ることが主のご計画であることを記した手紙をエルサレムから送りました(1、8~10節)。 主は、捕囚の民にバビロンにおける七十年間の懲らしめの期間が終わるなら、悔い改めにふさわしい実を結ぶので、祖国イスラエルに帰ることができるという平安と希望に満ちた将来を約束されました(10、11節)。 また主は「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」と仰せられました(12、13節)。 このエレミヤの預言は、バビロンが滅ぼされ、紀元前五三八年にペルシャ王クロスが勅令を宣布し、ユダの民が捕囚から解放されて帰国した時に成就したのです(エズラ1章)。 三、私たちのために平安と将来と希望を与える計画を立ててくださる神(11節) 私たちも弱さのために何度も同じ過ちを犯して悩んだり、神に対する不信仰と不従順の罪のために苦しんだりするだけでなく、不安と絶望に満ちる時、主は私たちを顧みて、私たちに平安と将来と希望を与える神の計画を示してくださるのです。 それでは平安と将来と希望を与える神の計画が実現するための秘訣は何でしょうか。 1.過去を振り返って、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れ」ず(詩篇103篇2節)、心から神に感謝をささげるとともに、今まで犯してきたすべての罪を悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶことです。 2.現在を見つめて、にせ預言者に惑わされず(マタイ24章5、11節)、「締まりのない歩み方」をすることなく(第二テサロニケ3章11節)、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え」ることです(ローマ12章11節)。 3.将来を展望して、神が私たちのために、「平安」と「将来と希望を与える」計画を立ててくださっていることをよく知り(11節)、その神の計画が実現し、その預言が成就するために真剣に主を「呼び求めて歩き」、「祈る」とともに、「心を尽くして」主を「捜し求める」ことです(12、13節)。次は2014年1月8日(水)「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.12.31
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「目に見える救いと目に見えない救い」 2013年12月27日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年10月3日放映「三つの選択」 「目に見える救いと目に見えない救い」 甲斐慎一郎 ルカ二章25~35節 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」(29~32節)。 これは、顔も知らないマリヤの腕に抱かれていた幼子イエスを、救い主キリストであると見抜いた老聖徒シメオンの言葉です。 もしシメオンが、幼子とその両親であるヨセフとマリヤの表面の姿だけを見ていたならば、決して救い主キリストであると見抜くことはできなかったでしょう。彼は、外面に現れた目に見える救いではなく、内面に隠れている目に見えない救いを見ていたのです。 そこで聖書全体から、目に見える救いと目に見えない救いについて、三つに分けて学んでみましょう。 一、物質的な救い(目に見える救い)と霊的な救い(目に見えない救い) キリストの周囲には、物質的な救い(水やパンの供給)や肉体的な救い(病のいやし)を求めて大ぜいの人たちが群がっていました。これを見てキリストは、人々の要求に応えて、このような目に見える救い(物質的または肉体的な救い)を彼らに与えられました。 しかしキリストが本当に彼らに与えたかったのは、「霊的な誕生」(ヨハネ3章5節)や「生ける水」(同4章14節)、また「いのちのパン」(同6章35節)や「霊的な開眼」(同9章37、38節)という目に見えない霊的な救いでした。なぜなら目に見える物質的または肉体的な救いというものは、その人の当面の問題を解決しても、その人自身の根本的な問題は、目に見えない霊的な救いが与えられなければ、何の解決もないからです。 二、外面的な救い(目に見える救い)と内面的な救い(目に見えない救い) キリスト教も宗教である以上、様々な宗教儀式や宗教行事というものがあります。またキリスト教倫理は、キリスト者の言葉や行動、また奉仕や働き、そして信仰生活や教会生活の規準になっています。これらは、いわば目に見える外面的な救いです。 しかし、この目に見える外面的な救いは、外側の行為の罪が赦され、内側の心の中の罪がきよめられ、「内なる人は日々新たにされてい」る(第二コリント4章16節)という目に見えない内面的な救いが伴ってこそ価値があるものです。 もし私たちが目に見える外面的な救いのみを求めるなら、私たちは偽善者です(マタイ23章28節)。また目に見える外面的な救いのために、目に見えない内面的な救いをなおざりにするなら、私たちは、本末転倒の誤りに陥っているのです(同23章26節)。 三、奉仕や働きの成功による救い(目に見える救い)と、神との正しい関係による救い(目に見えない救い) キリストは、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10章20節)と言われました。これは「伝道が成功したことを喜んではならず、神ご自身と正しい関係にあることを喜ぶべきである」(オズワルド・チェンバーズ)という意味です。それでは、神との正しい関係にあるためには、どうすればよいのでしょうか。「救いおよび聖化によって神との正しい関係に入れられ」ることです(オズワルド・チェンバーズ)。 私たちは、キリストが私たちの罪のために死んでくださったことを信じるなら、罪を赦されて救いを受け、また「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ」てくださる(第一ヨハネ1章7節)と信じるなら、罪がきよめられ、神との正しい関係に入れられます。 奉仕や働きが成功することは、目に見える救いであるのに対して、神との正しい関係にあることは、目に見えない救いです。神との正しい関係にあるなら、奉仕や働きも成功しますが、奉仕や働きの成功のみに心を奪われて、神との正しい関係になければ、すべてを失ってしまうことになるのです。次は2014年1月1日(水)「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」です 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.12.27
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「神の謙遜と人の謙遜」 2013年12月24日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年9月23日放映「三つの声」 「神の謙遜と人の謙遜」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、2章1~11節 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(3節)。 「キリストは......人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(6~8節)。 この前半の3節には人の謙遜について、後半の6~8節にはキリストの謙卑、すなわち神の謙遜について記されています。 一、人の謙遜について 人の謙遜について聖書は次のような三段階の謙遜を教えています。 第一段階は、身を低くする謙遜です。とかく人の世は、「出る杭は打たれる」ところです。それで人々に受け入れられるためには、「能ある鷹は爪を隠す」という謙遜なふるまいが必要になってきます。これは、自らの偉大さを自覚している謙遜です。 第二段階は、心の謙遜です。これは、「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」を認め(黙示録三章17節)、神の前に無一物で、何の良い物も持ち合わせていないことを意識することです。これは、自らの無力さを自覚している謙遜です。 第三段階は、霊の謙遜です。これは神の前に返済不能な罪という負債を背負った債務者であることを認め(マタイ18章24、25節)、救い主の必要を意識することです。これは、自らの罪深さを自覚している謙遜で、「心(原語は霊)の貧しい者」です(同5章3節)。 二、神の謙遜について 神の謙遜について聖書は次のような三段階の謙遜を教えています。 第一段階は、人となられた謙遜です。キリストは、「神の御姿である方なのに......人間と同じようになられました」(6、7節)とは、何と驚くべきことでしょうか。 第二段階は、仕える者となられた謙遜です。さらに驚くべきことは、キリストは、人に「仕えられるためではなく」(マルコ10章45節)、かえって「ご自分を無にして、仕える者の姿をと」られたことです(7節)。 第三段階は、罪の負債者となられた謙遜です。しかし最も驚くべきことは、罪の奴隷となっている私たちを救うために、「十字架の死にまでも従われ」(8節)、罪という負債を肩代わりする債務者となられたことです。 三、救いの道について これらのことを分かりやすくまとめるなら、上の図のようになります。この「V」の図において両者が接しているのは最下点のみです。キリストは、罪の奴隷となっている私たちを救うために罪という負債を肩代わりする債務者のところまで降りてくださったのであり、私たちも罪の債務者のところまで降りて行くなら、贖いの代価としてのキリストのいのちを受け、罪から救われることができます。 四、神の勝利と人の勝利について 神の謙遜について聖書は「この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて、何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上げられた方なのです」と教えています(エペソ4章9、10節)。キリストは、神の御姿である方なのに、人の姿という低い所に下られ、仕える者の姿というさらに低い所に下られ、罪の債務者という最も低い所に下られたのです。そして贖いを信じる人に神のいのちを与えると、復活という高い所に上られ、顕現(人々に復活されたからだを示す)というさらに高い所に上られ、昇天という最も高い所に上られました。これが神の勝利の「V」です。 人の謙遜については、高慢な人が身を低くする人にまで下り、心の謙遜な人にまで下り、霊の謙遜な人にまで下り、そこにおいて贖いの代価としての神のいのちを受けるなら、新しく生まれる(新生)という高い所に上り、罪をきよめられる(聖化)というさらに高い所に上り、次に来る世において栄光のからだに変えられる(栄化)という最も高い所に上ります。これが人の勝利の「V」です。次は12月28日(土)「目に見える救いと目に見えない救い」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.12.23
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「目に見える罪と目に見えない罪」 2013年12月18日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年9月12日放映「三つの創造」 「目に見える罪と目に見えない罪」 甲斐慎一郎 詩篇19篇12~14節 「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう、どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢(文語脈は故意)の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れてきよくなるでしょう」(12、13節) 。 ここには三種類の罪が記されています。 1.隠れている罪 これは、無意識の罪で、自分では全く気がついていない心の中の罪のことです。 2.傲慢(故意)の罪 これは、意識している罪で、自分で気がついている心の中の罪のことです。 3.大きな罪 これは、行為に表れた罪で、習慣的に犯し続ける罪のことです。 このような三種類の罪を心に留めながら、目に見える罪と目に見えない罪について、三つに分けて学んでみましょう。 一、目に見える行為の罪は、目に見えない心の中の罪の表れです 聖書は、行為の罪と心の中の罪の関係について、次のように教えています。 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」(第一ヨハネ3章15節)。 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5章28節)。 「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て......人を汚すものです」(マタイ15章19、20節)。 私たちは、聖書が教えているように、目に見える行為の罪は、目に見えない心の中の罪の表れであると思っているでしょうか。もし私たちが、心の中の罪のことなど考えず、行為だけ正しければよいと思っているなら、行為の罪の原因である心の中の罪が私たちを支配し、行為の罪を犯し続け、ついに大きな罪を犯してしまうことになるでしょう。 二、気づいている(見える)罪は、気づいていない(見えない)罪の表れです 「人間の心には自分では意識できない無意識の世界があり、人間の心の大部分はその無意識によって支配されている」ということを明らかにしたのは、フロイトです。 人間の心は、大海に浮かぶ氷山にたとえられます。意識している心は海面に姿を出している部分であり、無意識の心は水中に隠れている巨大な部分です。ですから意識している心は、いわゆる氷山の一角なのです。 このような無意識の世界を明らかにした学問が「深層心理学」や「精神医学」また「大脳生理学」です。これらの学問は、気づいている(見える)罪は、気づいていない(見えない)罪の表れであり、無意識の罪が、意識している心に悪い影響を及ぼしていることを私たちにはっきりと教えているのです。 三、行為の罪も気づいている罪も気づいていない罪もみな、原罪の表れです 前述したような学問は、無意識の世界を明らかにし、無意識の罪が意識している心に悪い影響を及ぼしていることを私たちに教えてくれました。しかし、それではなぜ、無意識の心に罪があるのか(または罪がはいったのか)ということについては、これらの学問では説明することはできません。 この無意識の心に罪がはいったことについて聖書は、「ひとりの人(アダム)によって罪が世界にはいり......全人類が罪を犯した」こと(ローマ5章12節)、人間は「咎ある者として生まれ、罪ある者として......みごも」ること(詩篇51篇5節)を教えています。これが人はみな罪をもって生まれ、生まれながらの罪人であるという原罪の教えです。この原罪が、すべての罪の根源です。 それで神は、人間の二重の罪、すなわち目に見える罪である行為の罪を赦し、目に見えない罪である心の中の罪をきよめるためにイエス・キリストをこの世に遣わし、キリストは十字架につけられることによって、目に見える罪と目に見えない罪からの救いを成し遂げてくださったのです。次回は12月25日(水)「目に見える救いと目に見えない救い」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.12.10
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「目に見える神と目に見えない神」 2013年12月11日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年7月24日放映「神の恥と人の恥」 「目に見える神と目に見えない神」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(18節)。 この御言葉から、目に見える神と目に見えない神について学んでみましょう。 一、目に見える神(偶像)は、真の神ではないことについて 目に見えるものの特徴を三つだけ述べるなら、次のようになります。 1.それは、本質の外面的な現れである現象です 2.それは、原因の外部的な表れである結果です 3.時間と空間に拘束されます 現象や結果として目に見えるだけでなく、時間と空間に拘束されるようなものは、決して真の神ではありません。その典型的なものが偶像であり、偶像について、聖書は次のように記しています。 「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても間こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである」(詩篇115五篇4~8節)。 「偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕える者は、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。......彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心はふさがって悟ることもできない」(イザヤ44章9、18節)。 二、目に見えない神こそ、真の神であることについて 聖書は「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」(ローマ1章20節)と記し、目に見える自然界の現象の背後に、目に見えない本質である神がおられることを教えています。 また聖書は、「この世界が神のことばで造られ......したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではない」(ヘブル11章3節)と記し、目に見える自然界は結果であり、その奥に万物を造られた目に見えない原因である神がおられると教えています。 この宇宙の背後にあって、時間と空間に拘束されない目に見えない本質や第一原因こそ真の神です。 三、目に見えない神が、目に見える神となられたキリストについて 目に見えない抽象的なものを目に見える具体的なもので表すことは、分かりやすくなる反面、次のような危険性と弊害があります。1.具体的なイメージ(像)に拘束される2.具体的なイメージで分かったと思い込む3.抽象的な本質を追求しなくなる 神が偶像を禁じている理由のいくつかはこれです。偶像ではありませんが、キリストは、目に見える神として現れてくださいましたが、なぜなのでしょうか。これには二つの理由があります。 1.目に見えない神が目に見える神として現れることは、前述したような危険性と弊害があることを神は十分に知っておられます。しかし人類に対する神の愛は、必ず具体的なものとなって現れるのであり、また霊的に盲目の罪人は、目に見える具体的なものでなければ分からないので、神はキリストを目に見える神として、この世に遣わされたのです。 2.しかし目に見えない神が目に見える神として現れても、目に見えないものを見る目、すなわち現象の背後にある本質や結果の奥にある原因を見る目が私たちになければ、結局は分からないということを私たちに教えるために、神はキリストを目に見える神として、この世に遣わされたのです。次は12月18日(水)「目に見える罪と目に見えない罪」です甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.12.10
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