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「思いの霊的な教え」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月25日放映「キリストの汗と涙と血」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=60510&dreamon=Y 「思いの霊的な教え」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章1-10節 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考え……御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(5、6節)。 一、思いを蒔けば、運命を刈り取る 「神は、心と思いを調べられ」(詩篇7篇9節)、「私の思いを遠くから読み取られ」(同139篇2節)、「すべての思いの向かうところを読みとられ」る方です(第一歴代28章9節)。なぜ神は、私たちの心と思いを調べられるのでしょうか。「そはその心に思うごとく、その人となりもまたしかればなり」(箴言23章7節、文語訳)とあるように、「いのちの泉はこれ(心)からわく」からであり(同4章23節)、その人の人格を形造るものは、その人の心の思いだからです。詠み人知らずの作者は、次のように教えています。「思いを蒔けば、行為を刈り取る。 行為を蒔けば、習慣を刈り取る。 習慣を蒔けば、性格を刈り取る。 性格を蒔けば、運命を刈り取る」 パスカルは、パンセの中で、「人間は、考える葦である。……われわれのすべての品位は、したがって思考の中にのみ存する。だから、正しく考えるようにつとめよう。これこそ道徳の原則である」と述べています。 二、死に至る肉の思い 人間にとって何を思うかということほど大切なことは、ありません。なぜなら、それが人間の永遠の運命を決定するからです。 生まれながらの人間は、神のみこころにかなう良い思いを抱くことはできません。かえって「悪者……の思いは『神はいない』の一言に尽きる」のです(詩篇10篇4節)。それは、「この世の神(サタン)が不信者の思いをくらませ」(第二コリント4章4節)、その人は、「神を知っていながら、その神を神としてあがめず……その思いはむなしくなり……彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようにな」るのです(ローマ1章21、28節)。まさに「肉(神に逆らう罪の原理)の思いは死」なのです(同8章4~8節)。 三、いのちと平安に至る御霊による思い ダビデは、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように」と祈り(詩篇19篇14節)、パウロは、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために……心(思い)……を変えなさい」と勧めています(ローマ12章2節)。 神のみこころにかなう良い思いを抱くためには、どうすればよいでしょうか。だれでもすぐに考えることは、「あなた(神)のことばを心にたくわえ」る(詩篇119篇11節)ことであり、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(文語訳は、思う)」(同1篇2節)ことです。しかし、これだけでは、神のみこころにかなう良い思いを抱くことはできません。なぜなら、生まれながらの人間、すなわち「肉に従う者は、肉的なことをもっぱら考え」るからです(5節)。 神のみこころにかなう良い思いを抱くためには、神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことが必要です(ヘブル8章10節)。神は、このことを主の十字架の死による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成し遂げてくださいました。 罪を悔い改めて、主の十字架の贖いを信じる者は、罪が赦されて、聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることこそ神の律法(思い)が心に記されることであり、「御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考え」るので、それは、「御霊による思い」なのです(5、6節)。 このように聖霊が与えられ、御霊に従うことこそ、「恐れおののいて自分の救いの達成に努め」ることであり、このようにする時、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章、12、13節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.05.27
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「心の一新によって自分を変えなさい」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月11日放映「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=60338&dreamon=Y 「心の一新によって自分を変えなさい」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、12章2節 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(2節)。 一、心の一新の必要 なぜ私たちは、「心の一新」が必要なのでしょうか。消極的な面は「この世と調子を合わせ」ないためであり、積極的な面は「神のみこころをわきまえ知るため」です。 パウロは、この世は「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くな」るか、または「神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようにな」ると、鋭く指摘しています(ローマ1章21、28節)。 ですから人間にとって最も大切なことは「神のみこころ……をわきまえ知るために」、「神を知る知識を増し加え」ることです(コロサイ1章10節)。それでペテロは、「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めているのです(第一ペテロ3章18節)。 二、心の一新の意味 聖書は、人間は「霊、たましい、からだ」という三つの要素から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23、24節)。 たましい(ソウル Soul)には「知性の面での心(マインド Mind)」と「感情の面での心(ハート Heart)」と「意志の面での心(ウィルWill)」という三つの面があります。「心の一新」の「心」は、原語のギリシャ語は、「ヌース」で、「肉の思い」(コロサイ2章18節)の「思い」と同じ言葉です。英語の聖書は、「知性の面での心」を表す「マインド(Mind)」と訳されています。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、一瞬にして罪が赦される救いを体験します。これが「霊の回心」です。しかし、それがどのようなことかということは、長い間、聖書を読んで学ぶだけでなく、祈りつつ思い巡らして考え、聖霊に教えられなければ、理解することができません。これが「心(思い Mind)の一新」であり、「霊の回心」に対して「心(思い Mind)の回心」と呼ばれるものです。これは、一生の間、変えられ続けなければならないものです。 たとえ「霊の回心」があったとしても、この「心(思い Mind)の回心」がなければ、私たちの心には、神を知らない「世的な思い」また「知性の腐った」(第二テモテ3章8節)「肉の思い」があり、その「肉の思いは死であり……肉の思いは神に対して反抗」し、「それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」(ローマ8章7節)。 三、心の一新の秘訣 「心の一新」または「心(思い)の回心」の秘訣は、聖書を学び、神のことばを心にたくわえ、私たちの思いが神の思いになることです。しかし「肉の思い」を持っている私たちは、「神の律法に服従できないので」、ただ聖書を学び、神のことばを心にたくわえても「心(思い)の回心」にはなりません。 それで神は、律法にそむいて、契約を守り通さなかったイスラエルの民と「新しい契約を結ぶ日が」来ることを約束されました(ヘブル8章8節)。その新しい契約とは、石の板に記された神の律法を与えるのではなく、人の心の板に神の律法を記すこと、すなわち神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことです(同8章10節)。 神は、このことをキリストの十字架の死による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成就されました。罪を悔い改めて十字架の贖いを信じるなら、罪が赦されて聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることこそ、神の律法が心に記されることであり、その思いは「御霊による思い」になります(ローマ8章6節)。そしてそれが「心(思い Mind)の一新」また「心(思い)の回心」にほかならないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.05.20
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「罪の許しと罪の赦し」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=60281&dreamon=Y「罪の許しと罪の赦し」 甲斐慎一郎 詩篇130篇3、4節 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」(詩篇130篇3、4節)。 この言葉から「罪の許し」と「罪の赦し」について学んでみましょう。 一、罪の許しと罪の赦しの違い 「罪のゆるし」という言葉は、日本語において、「罪の許し」と「罪の赦し」という二つがあります。この言葉の意味を正しく解釈するならば、「許し」というのは、「許可すること、承認すること(permission)」であり、「赦し」というのは、「容赦すること、赦免すること(forgiveness)」で、全く異なったものです。 日本語の漢字は、「赦し」という言葉が難しいので、「許し」という言葉を代わりに用いていますが、本来は、全く違う意味の言葉ですから、混同せずに、明確に区別しなければなりません。そうしなければ、許可してはならない罪を許したり、反対に赦免しなければならない罪を赦さないという過ちに陥ってしまうことでしょう。 二、罪を許されない神のきびしさ 詩篇の著者は、「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と述べています(3節)。これをパウロが述べている「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(ローマ11章22節)ということばに当てはめるなら、罪に対する「神のきびしさ」です。 神は、どのような小さな罪でも決して許される(許可される)方ではありません。もし罪を許可するなら、神は、義なる方でも、聖なる方でもないことになります。神は、義なる方、聖なる方ですから、決して罪を許す、すなわち許可されることはないのです。 三、罪を赦される神のいつくしみ 詩篇の著者は、「しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」と述べています(4節)。これをパウロが述べている「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(ローマ11章22節)ということばに当てはめるなら、罪に対する「神のいつくしみ」です。 神はどのような大きな罪でも、私たちが罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、赦される(赦免される)方です。これは神がいつくしみ深い方だからです。私たちは神のいつくしみと神のきびしさが一つに溶け合ったキリストの十字架のゆえに、罪を赦されて救われることができるのです。 四、他の人に対する「罪の許し」と「罪の赦し」 神は、どのような小さな罪でも決して許されない、すなわち許可されない方ですが、私たちが罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、どのような大きな罪でも赦される、すなわち赦免される方です。 ですから私たちは、他の人の罪に対して、その罪は決して許さない、すなわち許可してはなりませんが、「神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、互いに赦し合」うことが必要です(エペソ5章32節)。 しかし私たちが、これとは反対のこと、すなわち許可してはならない人の罪を許したり、赦免しなければならない人の罪を赦さなければ、神との正しい関係を持つことも、正しい人間関係を保つこともできず、過ちと混乱を避けることはできないでしょう。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.05.13
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「三つの声」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=59006&dreamon=Y「三つの声」 甲斐慎一郎 詩篇、19篇1~14節 ヘブル人への手紙の著者は、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」と述べていますが(ヘブル1章1、2節)、聖書が教えている神は、私たちに語りかける神です。 この詩篇は、3つのものを通して語りかける神について教えています。 一、自然を通して語りかける神(1~6節) まず神は、自然(界)を通して私たちに語っておられます。 1.「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(1節)。 2.「ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」(使徒14章17節)。 3.「神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1章20節)。 自然(界)は、「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれ」ませんが、「その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届い」ているのです(3、4節)。 神は、大宇宙によって、その存在を示しておられる(知性への訴え)だけでなく、自然の恵みをもって私たちの心を満足させる(感情への訴え)とともに、絶対的に従うように求めておられる(意志への訴え)のです。 二、聖書を通して語りかける神(7~11節) 次に神は、聖書を通して語っておられますが、これには次の3つの段階がありました。 1.第一段階--「神は声を出して、彼に答えられた」(出エジプト19章19節)。 神は民に直接語られました。しかしこれには人々が耐えられないので(同20章19節)、次のような方法が用いられました。 2.第二段階--「神は......預言者たちを通して......語られました」(ヘブル1章1節)。 神は預言者を通して語られました。しかしこれは時代や地域に制約されるので、普遍的な次の方法が用いられました。 3.第三段階--「あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ」(エレミヤ36章2節)。 神はご自身のことばを書物に記すように命じられました。これが聖書であり、私たちは聖書を読むことによって神のことばを聞くことができるのです。 三、聖霊を通して語りかける神(12~14節) 最後に神は、聖霊を通して語っておられますが、これには次の3つの段階がありました。 1.神は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、その「ひとり子の神が、神を説き明かされ」ました(ヨハネ1章18節)。 2.キリストがこの世にお生まれになったのは、十字架の死と復活によって、「罪のきよめを成し遂げて......大能者の右に着かれ」、すべての人々に聖霊をお注ぎになるためでした(ヘブル1章3節、使徒2章33節)。 3.神は、聖霊によって私たちに神のことばを「思い起こさせてくださ」り、救い主キリスト「についてあかしし」、「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせ」、「すべての真理に導き入れます」(ヨハネ14章26節、15章26節、16章8節、13節)。 私たちが「きょう、もし(聖霊の)御声を聞くならば」、そして「心をかたくなにし」なければ(ヘブル3章7、8節)、「自分の数々の過ちを悟り」、「隠れている罪」に気づき、「傲慢の罪から守」られ、「大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう」(12、13節)。 そして私たちは、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」と心から祈ることができるのです(14節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.05.07
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