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「神への信仰と感情」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」 http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57307&dreamon=Y 「神への信仰と感情」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、2章1~4節 「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは……私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした」(4節)。 パウロが使徒職を弁明しているこの「コリント人への手紙、第二」は、個人的な色彩が強く、その文章の端々に、外側においては、あのように理性的で冷徹なパウロですが、心の内側においては、激しく燃えている愛の感情を読み取ることができます。 一、感情は四種類あります(シェーラー) 1.感覚的な感情 肉体的な刺激によって起こる快感や苦痛の感情です。これは刺激がなくなると感情も消えてしまいます。 2.生命的な感情 からだの内部から湧き起こってくる充実感や倦怠感また緊張感などの感情です。 3.情緒(情動) 一般に喜怒哀楽と呼ばれている感情です。これは激しい感情なので、断続的です。 4.情操 情緒よりもいっそう高等で、芸術や宗教などで感じる感情です。これは穏やかな感情なので、持続的です。 感覚的な感情や生命的な感情は、「からだの感知器」として、からだを健康に保つ働きをしています。情緒は、説明を抜きにして感じで分かるという「直感」の働きをし、情操は、推理によらず直接知るという「直観」の働きをしています。前の三つは人間以外の動物にもありますが、情操は、人間だけが持っているものです。 二、感情には三つの目的があります 1.真の人間らしさを与えるためです 感情は、ことばでは表現することのできない微妙な表情をつくり、人に豊かさや深さ、またうるおいやこまやかさを与えるものです。もしこれがなければ、木石のような人間になってしまうでしょう。 2.人の喜怒哀楽を知るためです 私たちが、人の心の喜びや楽しみ、また悲しみや怒り、そして苦しみや痛みを知ることができるのは、自分自身もこのような心を持っているからです。もしこれがなければ、血も涙もない人間になってしまうでしょう。 3.直感や直観を与えるためです 感情は、理屈や思考によらない一種の知識です。理屈や思考は時間がかかるので、急を要する時や突発的な出来事には間に合いません。神は、私たちに理屈や思考による知性とともに、理屈や思考を抜きにして一瞬にして知ることができる感情を与えてくださいました。ただし直感や直観は不正確なことがあるので、知性によってそれが正しいものであるかどうかを確かめることが必要です。 三、感情には功績と罪過があります 1.その功績 信仰と信仰の対象である神は、人間の理屈や思考を越えたもの(方)ですから、理屈や思考によらない感情(情操)は、神をとらえるのに非常に役に立ちます。オットーは、絶対他者(神)の前における無力感を「ヌミノーゼ感情」と呼んでいます。 2.その罪過 しかし真の信仰は、見るところや感じによらず、ただ神にのみ拠り頼むものですから(第二コリント5章7節)、感情(感覚的な感情と生命的な感情と情緒)は、神をとらえるのに非常に妨げになることがあります。すなわち、何も感じなければ信じられず、また何かを感じて信じるなら、その感情を信じて、ほんとうは神を信じていないかも知れないからです。 エバは、善悪の知識の木を見た時、「食べるのに良く、目に慕わしく……いかにも好ましかった」ので(創世記3章6節)、取って食べました。彼女は、感情で判断して、罪を犯しました。人は、感情ではなく、「取って食べてはならない」(同2章17節)という神のことばに基づいた知性によって判断し、生きなければならないのです(マタイ4章4節)。 人間は、感情の与える豊かさや深さやうるおいを加味した聖書に基づく知性によって判断し、決断することが大切なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.06.25
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「心の一新(4)神を喜ぶ感情」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57307&dreamon=Y 「心の一新(4)神を喜ぶ感情」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章1~11節 この箇所には、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」(2節)、「患難さえも喜んでいます」(3節)、「神を大いに喜んでいるのです」(11節)と、「喜んでいます」という言葉が三回も記されています。 一、四種類の感情について シェーラーは、人間の感情には、四種類のものがあると教えています。 1.感覚的な感情 肉体的な刺激によって起こる快感や苦痛の感情です。これは刺激がなくなると感情も消えてしまいます。 2.生命的な感情 からだの内部から湧き起こってくる充実感や倦怠感また緊張感などの感情です。 3.情緒(情動) 一般に喜怒哀楽と呼ばれている感情です。これは激しい感情なので断続的です。 4.情操 情緒よりもいっそう高等で、芸術や宗教などで感じる感情です。これは穏やかな感情なので、持続的です。 四種類の感情について人間を構成している三つの要素、すなわち「霊、たましい(心)、からだ」に当てはめるなら、感覚的な感情と生命的な感情は「肉体的な感情」、情緒(情動)は「精神的な感情」、情操は「霊的な感情」ということができるでしょう。「神を喜ぶ感情」は、言うまでもなく霊的な感情です。 二、三種類の喜びについて 感情の中で最も大切で、代表的なものは喜びです。これには、三種類のものがあります。 1.自然の喜び これは、良いものが与えられ、良いことがあったならば喜ぶ人間的な喜びです。しかし、これは長続きせず、必ず慣れて飽き、しかも目的を果たすと消えてしまう刹那的、地上的、現世的な喜びです。 2.不自然な喜び これは、自然の喜びに満足できず、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」(箴言9章17節)とあるように罪悪や恐怖また間違ったものに喜びを見いだす罪深い喜び、常軌を逸した喜び、異常な喜びなど自然に反した喜びです。 3.超自然の喜び これは、神の栄光を望んで大いに喜び、患難さえも喜び、神を大いに喜ぶ喜び(2、3、11節)、「聖霊による喜び」(14章17節)、罪を赦された喜びなど、神的、天的、永遠的な喜びです。「神を喜ぶ感情」は、この超自然の喜びです。 自然の喜びに飽きた人間は、不自然な喜びを求めて堕落していくか、超自然の喜びを求めて向上していくかのどちらかなのです。 三、神を喜ぶ感情について 喜びは、知識の面からみるならば、好ましく思うことです。 感情の面からみるならば、嬉しく感じることです。このために必要なことは、不思議に思って、驚嘆することです。英語で「不思議」のことを「ワンダー」と言いますが、その「ワンダー」に満ちていることが「ワンダフル」、すなわち「すばらしい」ことです。不思議に思って驚嘆することこそ「すばらしい喜び」です。 意志の面からみるならば、進んですることです。これは、「歓迎する」、「喜んで……する」という言葉に表されているように、ある物事を意志的に受け入れ、乗り気になってすることです。 私たちは、いったい何を好ましく思い、何を嬉しく感じ、何を心から進んでするでしょうか。超自然の喜び、すなわち神を喜ぶ感情があるかないかは、私たちの信仰と霊性を計るはかりです。 1.この喜びは私たちの信仰が健全であることを教えるものです。なぜならこの喜びこそ私たちが神を喜んでいるという証拠であるとともに、私たちを「喜ぶ者といっしょに喜」ぶ(ローマ12章15節)愛の人に変え、喜んで神と人に仕えるようにさせるからです。 2.この喜びは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び」(ヘブル12章2節)とあるように苦しみを忍ばせるものです。 3.この喜びは、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」(ネヘミヤ8章10節、別訳)とあるように私たちに力を与えるものです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.06.23
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「心の一新(3)神を知る知識」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年5月31日放映「信仰の決断」 http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=61469&dreamon=Y 「心の一新(3)神を知る知識」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、1章9、10節 「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして……神を知る知識を増し加えられますように」(9、10節)。 一、三種類の知識とその関係について 知識には、三種類(三段階)があります。 1.第一段階――見聞的知識 「見聞的知識」とは、目で見たり、耳で聞いたりして知る知識です。すべての知識は、ここから始まりますが、これは、皮相的かつ浅薄な知識で、これで真相や真理を知ったと思ってはなりません。第二段階の「思考的知識」の入り口です。 2.第二段階――思考的知識 「思考的知識」とは、「見聞的知識」に基づいて、よく考えて真理に到達して得た知識です。パウロは、福音のことばを信じたコリントの教会の人たちに、「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら……この福音によって救われるのです」と述べています(第一コリント15章2節)。 3.第三段階――体験的知識 「体験的知識」とは、前者の二つに基づくか、またはそれらを超越して実際に体験したり、経験したりして知る知識です。目が見えるようになった生まれつきの盲人は、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」と言いましたが(ヨハネ9章25節)、これこそ、ほんとうに知っているということです。 二、この世の知識と神を知る知識について パウロは、「この世の知恵」と「隠された奥義としての神の知恵」について教えています(第一コリント2章6、7節)。 1.この世の知恵 知識には、三種類または三段階がありますが、どちらにしても、「一般的な知識」は、「この世の知恵」であり、この世のことしか分からず、神と永遠の世界のことを知ることはできません。 2.隠された奥義としての神の知恵 「神を知る知識」は、「隠された奥義としての神の知恵」であり、永遠の世界を知り、神から永遠のいのちが与えられて生きることを知っている知識です。 パウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」と教えています(ローマ10章17節)。まず神のことばを聞き(見聞的知識)、次に「よく考え」て(第一コリント15章2節)、それが真理であることを知り(思考的知識)、最後にその知った真理を「信仰によって結びつけ」る(ヘブル4章2節)、すなわち「信じること」によって、神を知るほんとうの知識(体験的知識)になるのです。 三、知識において成長することについて ペテロは、「キリストの……知識において成長しなさい」と勧めていますが(第二ペテロ3章18節)、「知識」というものを「愛」と比較して考えるなら、それは識別力のことです。 私たちは、知識を増せば増すほど、物事を正確に見分ける識別力が増し加わります。しかしパウロは、知識があっても愛がなければ、「人を高ぶらせ」、「自分を欺き」、「ほかの人を性急にさばく」と警告しています(第一コリント8章1、2、11節)。「知識」が物事の真相を見分ける「光(すなわち真理)」であるのに対して、「愛」は人を動かす「動力」であり「熱」です。パウロは、「愛」は「真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かにな」ると教えています(ピリピ1章9節) 聖書には、「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み」(創世記4章1節)と記されています。この「知る」というのは、「結合と一体」を意味し、「体験的知識」です。それは言い換えれば、「人が神を愛するなら、その人は神に知られている」(第一コリント8章3節)とあるように、「神を知る知識」とは、神を愛することにほかならず、神を知ることの最も深い意味は、神を愛し、神と結ばれ、神と一つになることなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.06.17
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「心の一新(2)人の心の働き」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月28日放映「父と子の交わり」 「心の一新(2)人の心の働き」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章9~11節 「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり……キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり……ますように」(9、11節)。 一、たましいは、罪によって死んだ部分と、死なずに生きている部分があります 神は、アダムに善悪の知識の木の実を「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われました(創世2章17節)。人間は「霊」と「たましい」と「からだ」という三つの要素から成り立っていますので、罪によって、その三つの要素がすべて死んだのです。 1.罪を犯した人間は、その霊が「罪過と罪との中に死」にました(エペソ2章1節)。 2.霊が死んだ人間は、その心に刻まれた神の像を失って、神を知る知識も神を喜ぶ感情も神に従う意志もなくしてしまいました。 3.女は、苦しんで子を産み、男は、苦しんで食を得、ついに土に帰る者となってしまいました(創世3章16~19節)。 二番目の「たましい」は、表面と奥に分け、心の奥にある「神を知る知識と神を喜ぶ感情と神に従う意志」は死にましたが、心の表面にある、一般的に「知識と感情と意志」と呼ばれるものは、死なずに生きていることができました。もし、これさえも死んでしまったなら、救いを受けることはできないでしょう。これは、ただ神の恵みによるのです。 二、たましいの救いは、罪によって死んだ知識と感情と意志が生き返ることです 罪のために死んだ霊とたましいが生き返るためには、死なずに生きている知識と感情と意志によって、神とキリストの贖いによる救いを知り(知識)、心から(感情)救いを信じて、神に従う決断(意志)をすることです。 1.神を知る知識 パウロは、この箇所において「真の知識」(9節)と述べていますが、他の箇所では、「神のみこころに関する真の知識」また「神を知る知識」(コロサイ1章9、10節)と記しています。これは、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ことです(ローマ12章2節)。箴言には、「主を恐れることは知識の初めである」、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」、「主を恐れることによって、人は悪を離れる」と記されています(1章7節、9章10節、16章6節)。 「神を知る知識」とは、神のみこころを知る「知恵」であり、聖なる方を知り、主を恐れて「悪を離れる」こと(聖さ)です。 2.神を喜ぶ感情 パウロは「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」、「神を大いに喜んでいるのです」と述べ、「神の栄光を望んで大いに喜」ぶなら、「患難さえも喜」び、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と述べています(ローマ5章2、11、3、5節)。 「神を喜ぶ感情」とは、聖霊によって与えられる「神の愛」です。 3.神に従う意志 ダビデは、「私はみこころを行うことを喜びとします」と告白し(詩篇40篇8節)、パウロは、「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって……従順の奴隷となって義に至る」と述べ(ローマ6章16節)、「私たちの戦いの武器は……神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるもので……すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」と記しています(第二コリント10章4、5節)。 「神に従う意志」とは、自分の身を神にささげる献身、またキリストに服従することで、そのようにする時、神の御前で要塞をも破るほどの「力」が与えられます。まさに「福音は……信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」なのです(ローマ1章16節)。 たましいが生き返ることは、神のみこころを知る「知恵」と聖なる方を知る「聖さ」また「神の愛」、そして神への献身と服従によって「神の力」に満たされることなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.06.10
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「心の一新(1)人の心の深さ」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年5月22日放映「真の生きがい」 「心の一新(1)人の心の深さ」 甲斐慎一郎 詩篇64篇6節 ダビデは「人の内側のものと心とは、深いものです」と述べています(詩篇64篇6節)。それで「心の一新」の第一回目は、「人の心の深さ」について学んでみたいと思います。 一、心の表面は意識があるが、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊だからです 聖書は、人間を「霊、たましい、からだ」という三つの要素から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23、24節)。 1.からだは、私たちを取り囲む外界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 2.たましい(ソウル)は、「知性の面での心(マインドMind)」と「感情の面での心(ハートHeart)」と「意志の面での心(ウィルWill)」という三つの面があります。これは、人間の知性や感情や意志という内界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 3.霊は、信仰によって神とその世界を知り、それに対応する機能のことで、神の像に似せて造られた不滅のいのちです。 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者であるフロイトです。 主が十字架の上で語られた第一声は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」ということばです(ルカ23章34節)。パウロは、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」と告白しています(ローマ7章15節)。 人の心が自分でもわからないほど深いのは、心の奥は無意識で、最も深いところは霊だからです。しかもこの無意識の霊と無意識の心が意識している心の表面に大きな影響を与えています、いやそれを支配しています。言い換えれば、人の行いというのは、善であれ、悪であれ、意識して行うことと無意識のうちに行うこととの両者があるのです。 二、心(たましい)は、からだと霊を結びつける懸け橋の役目をしているからです 人間が霊とたましいとからだという三つの要素から成り立っているという三要素説は、一番中心の円が霊、中間の円がたましい、一番外側の円がからだという三重丸で現すことができますが、もう一つは、「霊」と「からだ」という二つの円を描き、両者を半分ほど重ね合わせたものとして現すことができます。その重ね合わせた部分が「たましい」です。 確かに「霊」は「たましい」の中枢機能として「たましい」を支配し、「たましい」は、「からだ」の中枢機能として「からだ」を支配していますが、「霊」は、もともと無意識ですから、「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」という五感で知ることはできません。 「霊」というのは、ただ「たましい」の三つの面である知性と感情と意志によらなければ、知ることはできません。すなわち「たましい」は、「霊」と「からだ」という二つの要素の懸け橋(橋渡し)の役目をしているのです。 三、たましいが救われるためには、心の奥にある霊が救われなければならないからです エペソ人への手紙の4章23節は、新改訳聖書は「心の霊において新しくされ」と直訳していますが、口語訳聖書は「心の深みまで新たにされて」、新共同訳聖書は「心の底から新たにされて」と意訳しています。すなわち「霊」は「心の深み」また「心の底」なのです。 アダムが罪を犯した時、彼の霊は死に、その心に刻まれた神の像を失って「神を知る知識」も「神を喜ぶ感情」も「神に従う意志」もなくしてしまいました。しかしうちに罪が住む古い人がキリストとともに十字架につけられるなら(ローマ6章6節)、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことができます(エペソ4章23、24節)。この「神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことこそ、神を知る知識と神を喜ぶ感情と神に従う意志を取り戻し、「心の深みまで新たにされ」ることなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.06.03
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