全4件 (4件中 1-4件目)
1
「陶器師と粘土」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=59006&dreamon=Y「陶器師と粘土」 甲斐慎一郎 エレミヤ書、18章1~6節 聖書は、神を陶器師に、イスラエルを粘土にたとえて教えています(6節)。 一、陶器師である神 エレミヤは、「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」と自分の見たことを述べています(4節)。またパウロは、「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないでしょうか」と記しています(ローマ9章21節)。 この二つのみことばは、神は、みこころのままにわざを行われる主権者であることを教えています。しかしこれには人間に対して無条件的なものと条件的なものがあります。 1.無条件的な神の主権--神のわざは、バラエティー(差異や相違また多種多様や変化)に富んでいます。 神は、すべてのものを無条件に違ったものとして創造されました。人間は、それぞれ能力や賜物、性格や気質、そして環境や境遇が異なっています。私たちは、互いに違っているからこそ、愛と忍耐と寛容さなどの徳を養い、相互の欠点や短所を知って、助け合うことができます。自分と異なっている人間と多く接すれば接するほど、豊かで、円熟した品性や人格が形造られます。もし自分と同じタイプの人だけと交わるなら、偏狭で、わがままな人間になってしまうことでしょう。 2.条件的な神の主権--私たちの準備が整い、条件を果たすなら、神は私たちを尊くて優れた器にお造りになります。 そのために神は決して粗製濫造されることはありません。時間をかけても、少数でも、優れた立派なものを造られます。アブラハムをはじめヨセフ、モーセ、サムエル、ダビデなど、優れた神の器が一人前になるのに何年の歳月が流れたことでしょうか。 何事も準備しなければ完成しません。準備をせずに物事を完成させようとする人は、横着者で、怠け者です。物事でさえ準備しなければ完成しないのですから、その物事を行う人はなおさら準備が整うことが必要ではないでしょうか。準備のできていない人は、良い仕事はできず、役に立ちません。 私たちの一生そのものが天の御国にはいるための準備です。人間のなすべき分は準備であり、神のなさる分は完成です。私たちは、準備をし、条件を果たしさえするなら、神は私たちを尊くて優れた器に造られるのです。 二、粘土である人間 1.自分に対する心構え 粘土である人間は、神の定められた摂理の環境や持ち場や立場を象徴する「ろくろ」の上にいなければなりません。たとえ苦しくても辛くても、神がほかのところに導かれない限り、勝手に「ろくろ」の上から降りてはなりません。もし「ろくろ」の上から降りるなら、未完成の器になってしまうのです。 2.神に対する心構え 粘土である人間は、神に身をゆだねることが必要です。そのために神のなさることに不必要な干渉や指図をしてはなりません。神にゆだねることは、何も思い煩わないで、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じて、現在、置かれているところにおいて最善を尽くして神に仕えることです。 3.ほかの人に対する心構え 粘土である人間は、尊くて優れた器を造ろうとされる神に協力することが大切です。神は、その人の表面や現在の姿だけを見ず、その人の本質と有用性と将来性をご覧になります。神が忍耐をもって時間をかけ、手塩にかけて優れた器を造ろうとされるところを、間にはいって粗製濫造し、神のわざを妨害するのは、いつも浅薄で性急な人間です。 私たちは、互いに陶器師ではなく粘土であることを認め、自分も神の忍耐によって何年もかかって造られていくことを覚え、ほかの人に対して性急にならず、忍耐をもって接していくことが必要なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.02.26
コメント(0)
![]()
「どこまでも真実な神」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58910&dreamon=Y「どこまでも真実な神」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、3章4節 「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)。 一、疑惑と不信仰について 私たちが何かを信じるか信じないかという時、信じたいけれども信じられないという心と、信じたくないという心があります。前者は、真理を探求する「疑惑」で、知性の問題ですが、後者は、真理を拒否する「不信仰」で、意志の問題です。 主は、「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか......がわかります」と言われました(ヨハネ七章17節)。真理を探求する意志があるなら、疑惑は晴れて、信じることができるようになります。しかし「神を知ろうとしたがらない」なら(ローマ1章28節)、すなわち真理を探求する意志がないなら、疑惑を解くことができる証拠を示されても、決して信じないでしょう。これが不信仰です。 二、ハンナの心に疑惑を生じさせた苦難 ハンナが置かれた境遇は、実に多難であり、その心に六つ疑惑が生じたことでしょう。 1.なぜ神は、私の胎を閉じ、子どもを生めないからだにされたのか。 2.なぜ夫は、子どもが生めない私をあきらめて、ペニンナを妻として迎えたのか。 3.なぜペニンナに子どもが生まれ、私には子どもが生まれないのか。 4.なぜペニンナは、神を疑わせるように私をいらだたせるのか。 5.なぜエリは、私の祈りと酒の酔いとの区別がつかないのか。 6.私が子どもを欲しがっているのは、ペニンナを見返すためではないのか。 私たちは、疑惑の念を抱いたままなら、遅かれ早かれ、不信仰になってしまうことでしょう。不信仰にならないために疑惑を解くことは非常に大切なことです。 三、どこまでも真実な神を信じる意志を働かせて疑惑を克服したハンナ ハンナの心には六つの疑惑がありました。1.神は、私の胎を閉じられた。2.夫は、第二の妻をめとった。3.ペニンナは、簡単に子どもを生んだ。4.ペニンナは、私をいじめた。5.祭司エリは、私を酒酔いと間違えた。6.子どもを欲しがる私の動機は、不純ではないのか。 この六つの疑惑を整理するなら、「1」は「神への疑惑」、「2」から「5」は「人への疑惑」、「6」は「自分への疑惑」です。「2」から「6」の疑惑の原因はすべて[1」にあります。もし「1」がなければ、「2」から「6」もなかったことでしょう。 ハンナは「主に祈って激しく泣き」、「心を注ぎ出して」、「祈ってい」ましたが(第一サムエル1章10、15、16節)、そのような中で彼女は、「すべての人(他人と自分)を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)、「私たち(他人と自分)は真実でなくても、彼(神)は常に真実である」(第二テモテ2章13節)ことが分かり、心からこの神を信じたにちがいありません。 ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(または娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、確かな証拠(DNAの一致など)があって証明されるなら、認めざるを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知ることはできません。 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(G・C・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。これこそほんとうの信仰なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.02.19
コメント(0)
![]()
「苦難と栄光」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月7日放映「神に会う備え」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58799&dreamon=Y「苦難と栄光」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章27~30節 人間の生涯や人生には「善と悪」「正義と不正」「聖さと汚れ」などの道徳や倫理だけでなく、「栄光と苦難」「祝福と災い」「利益と損害」などの先天的および後天的な賜物や境遇の違いというものがあります。キリスト教は前者には罪からの救いが与えられますが、後者にも救いと解決が備えられています。 多くの人たちは後者について「栄光や祝福や利益」はプラス(ポズィティブ)、「苦難や災いや損害」はマイナス(ネガティブ)としてとらえ、マイナスには目をつぶり、プラスだけを求めています。しかし世の諺でさえ「禍福はあざなえる縄のごとし(災いと幸いは寄り合わされた縄のように互いに表裏をなして変転する)」というのがあり、キリスト者は、このようにとらえてよいのでしょうか。 一、キリスト者は、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったと教えているパウロ(ピリピ1章29節) パウロは、ピリピの教会の人々に「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」と記しています(29節)。 キリストを信じる信仰によって祝福や栄光が与えられますから、これはポズィティブなもので、キリストのための苦しみはネガティブなものです。聖書は、キリスト者は、ポズィティブなものだけでなく、ネガティブなものも与えられると明白に教えています。 二、年をとると、キリストのためにより高尚で、困難なことを学ばなければならなかったペテロ(ヨハネ21章18節) キリストは、ペテロに「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」と言われました(18節)。 これは、「あなたは若かった時は、わたしのために働き、心のままにあちこちに行き、自分の奉仕の方法を選ぶことができましたが、年をとると、わたしのためにより高尚で、困難なことを学ばなければなりません。すなわちわたしのために苦しむのです。自分でそのわざを選ぶのではなく、ほかの人が選びます。またそのわざは自分で奉仕するのではなく、ほかの人から苦しめられます。これはペテロだけでなく、一般のキリスト者の生涯も同じであり、常に奉仕に始まり、苦難によって完成します。そして奉仕によって学ぶことができない教えが、しばしば苦難によって教えられることがあるのです」(R・C・トレンチ)ということを教えています。 三、苦しみを受けてから、栄光に入ると仰せられたキリスト(ルカ24章26節) 「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と言われました(26節)。十字架こそ栄光に至る唯一の道であり、「ノークロス・ノークラウン(苦難なくして栄冠なし)」という諺の通りです。パウロは「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と記しています(第二コリント4章17節)。 聖書は、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」と教えています(ヘブル12章11節)。 主の兄弟ヤコブは「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じ......その忍耐を完全に働かせ......れば......何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」と述べています(1章2~4節)。 ヨブ記の主題は、「完全な人の完成」です。苦難に会う前のヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」完全な人でしたが(1章1節)、この苦難を乗り越えることによってきよめられ、完成しました(42章1~6節)。「苦難は、変装した祝福である」と言われる通りです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.02.10
コメント(0)
![]()
「ハッピネスとブレッスィング」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57593&dreamon=Y 「ハッピネスとブレッスィング」 甲斐慎一郎 詩篇84篇1~12節 人がどんなに幸福を求めている者であるかということは、「幸福」という「青い鳥」を探し求めるチルチルとミチルを描いたメーテルリンクの児童劇をはじめ、カール・ブッセの有名な詩である「山の彼方の空遠く」、そして数多くの「幸福論」と名のつく書物が出版されているのを見てもわかるでしょう。 数多い「幸福論」の中で、次のようなカール・ヒルティーの言葉は、幸福を求めてやまない人の心を最もよく表しています。 「人間が意識に目覚める最初の瞬間から、意識の消滅に至るまで、最も熱心に求めるものは、やはり何と言っても幸福感である。そして彼が体験する最も苦痛に満ちた瞬間は、この地上では幸福は見いだすことができないのだと完全に確信した時である」。 英語において幸福と訳されることばには、「ハッピネス」と「ブレッスィング」の二つがあります。 一、ハッピネス--いくつかの偶然がうまく重なった幸運な出来事 英語の「ハッピネス」の形容詞である「ハッピー」には、「出来事などが巡り合わせのよい」という意味があり、「ハップン」は、「たまたま......である」という意味です。 日本語には、次のような諺があります。 1.禍福はあざなえる縄のごとし 禍は福となり、福は禍となり、常に相表裏して、変転することを縄のよれあうのにたとえたもの(広辞苑)。 2.人間万事塞翁が馬 人生の吉凶禍福は、縄をなうようにめぐってくるもの。禍が福になったり、福だと思っていると、禍になったりするものなので、禍も悲しむにあたらず、福も喜んでばかりいられないもの(ことわざ辞典)。 この諺に記されている「福」が「ハッピネス」であり、「いくつかの偶然がうまく重なった幸運な出来事」が「ハッピネス」です。ハッピネスは、「禍がたまたま福になったもの」で、「福だと思っていると禍になったりする」もので、極めて不確実なものです。 二、ブレッスィング--神が与えてくださる真の祝福 この詩篇には、「なんと幸いなことでしょう」という言葉が三回も記され(4、5、12節)、幸いの三つの段階を教えています。 1.神を求める幸い(1~4節) ここには、「慕わしい」とか、絶えいるばかり(死ぬほど)「恋い慕って」という言葉が記され、詩篇四二篇の記者のように「生ける神を求めて渇いてい」る姿が描かれています(2節)。すなわち全身全霊をもって神を慕い求めているのです。真の幸福の第一段階は、この神を求める幸いです。 2.神にある幸い(5~8節) このように神のみを慕い求める人は、「その力が、あなた(神)にあり、その心の中にシオンへの大路(すなわち神に近づく心)」があり(5節)、「シオンにおいて、神の御前に現れます」(7節)とあるように、ついには神にまみえ、神と一つになって、その力も、その心も神にあるようになります。このような人は、目に見えるものや周囲の環境に惑わされず、神のみを喜ぶことができ、神にある幸いを知っているのです。真の幸福の第二段階は、この神にある幸いです。この幸いを知っている人は、「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」(6節)とあるように、苦難と試練の涙の谷を過ぎるようなことがあっても、そこを祝福と恵みの泉がわく所とするのです。 3.神の与える幸い(9~12節) 最後にこの詩篇の記者は、「主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」と言っています(11節)。これは、神から恵みと栄光と良いものが豊かに与えられることです。真の幸福の第三段階は、この神の与える幸いです。この神の与える幸いは、神を求める幸いを体験し、神にある幸いを体得した者だけが、ほんとうの意味において得ることができるものなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.02.04
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1