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「神のことばと人のことば」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年7月4日放映「真の幸福」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=61911&dreamon=Y「神のことばと人のことば」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、2章13節 「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは信じているあなたがたのうちに働いているのです」(13節)。 「人間以外の動物にことばはなく、またそれを教えることもできない。ことばを語り、またそれを理解する能力は、ただ人間だけが先天的に与えられている」というのが現代の通説です。ですから人間の人間たるゆえんは、ことばの存在にあるということができます。 それで、ことばとは何かということを聖書から学んでみましょう。 一、三種類のことば 新約聖書の中で「ことば」と訳されている原語は、いろいろありますが、代表的なものは、次のような三つです。 1.ロゴス--これは、ことばの実体または実体としてのことばです。 2.レーマ--これは、ことばの表現または表現としてのことばです。 3.グロースサ--これは、ことばの音声または音声としてのことばです。 この三つのことばを人間の三つの要素である「霊」と「たましい(心)」と「からだ」に対応させるなら、次のようになります。 1.霊--実体としてのことばが宿るところで、人間の本質的な部分です。 2.たましい--表現としてのことばを思索し、また組み立てるところ(脳)です。 3.からだ--音声としてのことばを語り(口)、また聞くところ(耳)です。 人間は、霊にことば(ロゴス)が宿っているので、そのことば(ロゴス)を脳(たましい)において思索し、組み立てて、表現としてのことば(レーマ)となり、口(舌、顎、喉、声帯)によって音声としてのことば(グロースサ)を発声するのです。ですからことばの意味がわからず、思索できなければ、音声として発声することはできないのです。 二、人のことば 人がことばによって励まされたり、傷つけられたりするのは、なぜでしょうか。なぜことばには力があるのでしょうか。 1.「ことばは第二の人格である」と言われるように、それは私たちの心の表現です(マタイ12章34節)。私たちは、ことばの遣り取りによって心の交際をしているのです。 2.ことば以外の音は意味がないので、耳で聞いても、私たちの心に直接はいることはありませんが、ことばは、すべて意味があるので(第一コリント14章10節)、耳を通して私たちの心に直接はいってくるのです。 3.ことばは、人の心から出て、人の心にはいるので、それは私たちが考えている以上に、互いの心に大きな影響や感化を与えているのです。 私たちは、自分のことばが周囲にどのような影響や感化を与えているのかを知って、どれだけ注意深く語っているでしょうか。 三、神のことば 聖書は、「神は霊」(ヨハネ4章24節)であるとともに、「ことば(ロゴス)」(同1章1節)であると教えています。神のことばには、次のような働きがあります。 1.人のことばが人の心から出て人の心にはいり、その心に影響や感化を与えるのに対して、神のことばは、神の霊から出て人の霊にはいり、その霊を生まれ変わらせるのです。 2.しかし、そのためには、神のことばを人のことばとしてではなく、信仰によって事実どおり神のことばとして受け入れることが必要です(13節)。 3.人の霊を生かすのは、神の口から出ることばだけであり(マタイ四章4節)、人のことばは人の心にまでしか届かないのです。 私たちは、神のことばを信仰によって受け入れ、その霊が生かされているでしょうか。それとも人のことばとしてしか受け入れず、その霊が「罪過と罪との中に死んで」いるでしょうか(エペソ2章1節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.08.28
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「聞く、読む、語る、書く」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年5月31日放映「信仰の決断」 「聞く、読む、語る、書く」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、10章9~17節 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(17節)。 他の動物にはできず、人間にしかできないことがあります。それは、聞くこと、読むこと、語ること、書くことです。 この個所には、聖書(11節)、聞く(14、17、18節)、告白する、呼び求める、宣べ伝える(9、10、12~15節)、書く(15節)という言葉が何回も記されています。 犬(警察犬、盲導犬)や猿などは、人の言葉を聞いているように見えますが、実際はそうではなく、本能で動いているに過ぎません。 生まれたばかりの赤ちゃんは、聞くことも読むことも話すことも書くこともできません。しかし両親をはじめ、周囲の人たちの言うことを聞き続けているうちに、まず話すこと、次に読むこと、そして書くことができるようになります。信仰と信仰生活(キリスト者の生涯)も同じです。 この四つは、みな言葉に関係があることがわかります。心にとって言葉はいのちです。言葉を失うなら、人の心は死にます。「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによるのです」と記されているとおりです(マタイ4章4節)。 一、聞くことについて 人格の形成は、聞くことから始まります。少年院の若者たちの心には、「おまえなんか死んでしまえ」とか「だめ人間」などという人を殺す言葉が詰め込まれていると言われています。神の言葉を聞くことは、心にとって最も大切なことです。幼子サムエルは、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と言いました(第一サムエル3章9節)。 二、読むことについて 新聞の声の欄に「活字で心を洗う」というのがありました。 また同じ声の欄に、テレビを盗まれた人が、「文章を読むということは、読む前の自分に、何かが蓄積されて、数分前の自分とは違う自分になっているのだ。これに気づいた時、嬉しかった」と記しています。 さらに「本が死ぬところ暴力が生まれる」という本を書いた人がいます。 聖アウグスチヌスが、「取りて読め、取りて読め」という子どもの声を聞いて、ローマ人への手紙の13章11節から14節を読んだのは、有名な話です 読む力、書く力の衰弱は、人間性の危機、社会の危機です。 三、語ることについて 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります(10節)。十分に聞き、十分に読むなら、語ることができるようになります。主イエスは、「心に満ちていることを口が話すのです」と言われました(マタイ12章34節)。正しいこと、良いことを語るというのは、非常に大切なことです。いい加減なことを言う人は、いい加減な人間になるでしょう。 四、書くことについて イエス・キリストは、使徒ヨハネに「あなたの見た事、今ある事、この後起こることを書きしるせ」と言われました(黙示録1章19節)。書くことは、聞いたこと、語ったことを確実にすることです。 伝言ゲームというのがありますが、話すことは、どんどん変わってしまうので、正確に伝えるためには、聞くだけでなく、書き記すことがどうしても必要です。 聖書は、今から2000年以上も前に成立したものですが、ギリシャ語、ヘブル語で書かれていたので、現在、それを翻訳し、日本語で読むことができます。 この四つのことは、人間の心にとっていのちです。この四つのことをしなければ、心は死んで、罪を犯し、神と人を苦しめ、自分をも苦しめることになるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.08.27
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「善悪を決める規準」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年5月28日放映「父と子の交わり」「善悪を決める規準」 甲斐慎一郎 申命記12章25~28節 「あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(25節)。 神の創造された自然界の中で、人間が個人として、国民として、また信仰者として、あらゆる危険から守られ、正しく生きていくためには、神が定められた法則や人間が制定した規準を知り、それを守ることが必要です。 一、飛行機が安全に飛ぶための規準 昔の飛行機は、有視界飛行でしたので、安全に飛ぶことができるかどうかは、パイロットの操縦の腕にかかっており、雲の中や夜中は安全に飛ぶことは不可能でした。現在は、計器飛行ですから、雲の中でも夜中でも安全に飛ぶことができます。 ナポリからベンガジの基地に向かっていた飛行機が、基地から七百キロメートルも離れた所で遭難していました。調査した結果、計器飛行に未熟なパイロットが感覚に頼って飛んだために、目的地を通り過ぎて遭難したことがわかりました。 人間の感覚は当てになりませんから、私たちは自分を導いてくれる信頼できる規準を持たなければなりません。空を安全に飛ぶためには、自然法則を正確に示す計器と、パイロットが自分の感に頼らず、計器を信じることが必要です。 二、善良な国民であるための規準 私たちが住んでいる社会は、国民の意志によって制定された法律に基づいて政治が行われている法治国家です。ですから私たちが社会において善良な市民であるのか、それとも犯罪者であるのかということは、この法律を守っているかどうかによって決まります。 私たちは、自分は善良な市民であると、どんなに主張しても、法律を破れば犯罪者であり、反対に自分は悪人であると言い張っても、法律を守っていれば、善良な市民です。国の法律に関係なく、自分の考えで、善良な市民であるか、悪人であるかを判断しても何の意味もないのです。 三、人間が正しく生きるための規準 士師記の17章から21章には、読むに耐えないような醜悪で残虐が出来事が詳細に記されていますが、このようになった原因を聖書は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」からであると鋭く指摘しています(17章6節、21章25節)。 正しいと見えることを行いながら、なぜ醜悪で残虐な出来事が起きてしまうのでしょうか。問題は、「正しいと見えること」にあるのではなく、「めいめいが自分の目に」のほうにあります。すなわち何を善と見るか、悪と見るかということよりも大切なことは、その善悪を決める規準が何かということです。 聖書は、「あなたがたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記12章25節)と、善悪の規準は神の目であると教えています。しかし神のことばを知らなければ、必ず善悪の規準が神の目ではなく、自分の目になるにちがいありません。 人間というものは、悪いことをする時、必ずしも悪いと思ってしているのではなく、かえって正しいと思い、正しいと信じて、悪いことをしているのです。まさに聖書が教えているように人間は、主が正しいと見えることを行わない限り、「自分の目に正しいと見えることを行」い、それが神の目に悪いことをしていることになるのです。 私たちの人生は、一寸先は闇の中を歩む生涯ですから、自分の感に頼って歩むなら、どこへ行くのかわからず、必ずつまずいて、人生の落伍者になってしまうでしょう。 真っ暗な空を安全に飛ぶためには、自然法則を正確に示す計器と、パイロットが自分の感に頼らず、計器を信じることが必要であるように、人生も自分の感に頼らず、人間の正しい生き方を教えている神のことばを信じて生きることが必要なのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.08.01
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「心の一新(7)信仰と良心」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年5月22日放映「真の生きがい」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=61335&dreamon=Y 「心の一新(7)信仰と良心」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、1章18~20節 聖書は、「信仰と正しい良心」(18節)は、ともに手を携えていかなければならず、もし「正しい良心を捨て」るなら、「信仰の破船に会」うと教えています(19節)。 一、良心の意味について 聖書は、ユダヤ人は「モーセの律法」を持っているが、異邦人は「モーセの律法」を持たなくても、「生まれつきの律法(自分自身の律法)」を持っており、良心は、その証人であると教えています(ローマ2章14、15節)。「律法」は、何が正しく、何が不正であるかを教える「規準」ですが、「良心」は、その律法を土台として、その律法を守ったかどうかの「裁決を下すもの」です。すなわち、その律法を守れば「善」、破れば「悪」と裁決を下すのが良心です。 「律法のないところに違反もありません」が(ローマ4章15節)、「律法」があっても「良心」がなかったら、裁決を下すものがないので、罪責を感じることもなければ、道徳的な責任もありません。それで神は、人間に「律法」と「良心」の二つを与えられました。これが人間と他の動物との根本的な違いです。ですから誰も道徳的な責任を免れることはできず、罪を犯した場合、言い逃れや知らぬ振りをすることはできないのです。 二、良心の任務について 良心は、日本語では「良い心」と書きますが、英語、ラテン語、ギリシャ語は非常に深い意味を持っています。英語で良心のことを「コンシェンス」と言いますが、これは「ともに知る」という意味です。 それでは誰と誰とがともに知るのでしょうか。北森嘉蔵は「私が他の人とともに知る」ということと、「私が神とともに知る」ということの両者が考えられるが、次のような理由で後者であると述べています。 「彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています」(ローマ2章15節)ということばから、良心には、責める(文語訳、口語訳は訴える)「検事」の役割と、弁明する「弁護士」の役割があり、弁護士の役割は自分であり、検事の役割は他の人や神です。しかし検事の役が他の人であるなら、自分と同じ人間ですから、手なずけることができ、真に検事の役を務めることができないので、検事の役は神でなければならない、すなわち「良心」は「私が神とともに知る」ことであると結論づけています。 三、良心の完全について 聖書は様々な良心について教えています。 1.正しい良心(第一テモテ1章5、18、19節、ヘブル13章18節、第一ペテロ3章16、21節) 2.きよい良心(第一テモテ3章9節、第二テモテ1章3節、ヘブル9章14節) 3.責められることのない良心(使徒24章16節) 4.良心を完全にする(ヘブル9章9節) 5.弱い良心(第一コリント8章7、12節) 6.邪悪な良心(ヘブル10章22節) 7.良心までも汚れ(テトス1章15節) 8.良心が麻痺して(第一テモテ4章2節) 「正しい良心」や「きよい良心」や「責められるところのない良心」とは、「神の律法」を良心の土台に据え、その律法を守っている良心、もし破った時は、そのことを責める検事役の神の声に従う良心であり、そのことをなし続けていく時、「完全な良心」となります。 これに対して矛盾する二つ以上の律法を良心の土台に据えるのが「弱い良心」です。人は、「神の律法」だけを良心の土台に据えるべきであり、これとは別に「神の律法」と矛盾する「自分自身の律法」や「思想・信条・宗教の律法」を良心の土台に据えるなら、一つの律法を守ったとしても、それは他の律法を破ることになるので、「良心の呵責」があり、反対に後者の律法を守ったとしても、それは前者の律法を破ることになるので、「良心の呵責」があり、互いに矛盾する二つ以上の律法を良心の土台に据えるなら、絶えず「良心の呵責」に悩まされることになるのです。 「良心」は、「自分が信じている律法」を守ったかどうかの「裁決を下すもの」ですから、良心の土台である「神の律法」を信じなかったり、たとえ信じていても、その律法を破った時、そのことを責める検事役の神の声を無視したりするのが「邪悪な良心」や「汚れた良心」であり、どこまでも神の声を無視するなら、「良心が麻痺して」しまうのです。 人は、「神の律法」だけを良心の土台に据え、「正しい良心」や「きよい良心」また「責められるところのない良心」や「完全な良心」を持ち続けなければならないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.08.01
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