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「心の一新(6)善悪の規準」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月25日放映「キリストの汗と涙と血」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=60510&dreamon=Y「心の一新(6)善悪の規準」 甲斐慎一郎 申命記12章25~28節 聖書は、私たちに「善悪の規準」とともに、それを守ることができる道を教えています。 一、善悪の規準がなければ、民はほしいままにふるまい、暗黒の世界になります 箴言の著者は、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と記しています(29章18節)。この「幻」は、文語訳は黙示(啓示)、口語訳は預言と訳し、同じ節の並行文は、「律法を守る者は幸いである」と書かれているので、「律法」であり、「神のことば」です。 ダビデは、「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」と述べていますが(詩篇11篇3節)、この「拠り所」は、「正義と律法の基本的原則」(キッセーン)です。 善悪の規準は、一般的には「律法」であり、これがなければ、民はほしいままにふるまい、暗黒の世界になってしまうのです。 二、善悪の規準は、人の目ではなく、神の目であり、それは神の律法(ことば)です 士師記の17章から21章には、読むに耐えないような醜悪で残虐が出来事が詳細に記されていますが、聖書は、このようになった原因は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」からであると教えています(17章6節、21章25節)。 正しいと見えることを行いながら、なぜ醜悪で残虐な出来事が起きてしまうのでしょうか。問題は、「正しいと見えること」にあるのではなく、「めいめいが自分の目に」のほうにあります。すなわち何を善と見るか、悪と見るかということよりも大切なことは、その善悪を決める規準が何かということです。 聖書は、「あなたがたは主が正しいと見られることを行わなければならない」(申命記12章25節)と善悪の規準は神の目、すなわち神の律法であると教えています。 人間は、悪いことをする時、必ずしも悪いと思ってしているのではなく、かえって正しいと思い、正しいと信じて、悪いことをしているのです。人間は、主が正しいと見えることを行わない限り、「自分の目に正しいと見えることを行」い、それが神の目に悪いことをしていることになるのです。 三、善悪の規準は、神の律法(ことば)であり、心に記されて行うことができます ある人たちは、「律法」というと、「信仰」に対立するものとして、あたかも悪であるかのように考えていますが、決してそうではありません。確かに聖書が教えている救いは、「律法による救い」ではなく、「信仰による救い」です。しかしパウロは「私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって律法を確立することになるのです」と明白に述べています(ローマ3章31節)。 「律法」は、神のみこころを教える「神のことば」にほかなりません。主が「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)と教えられたように、私たちは、神のことばによって生きるのです。 それでは、どうすれば律法を確立することができるのでしょうか。「愛は律法を全うします」とあるように、律法を全うするものは愛です(ローマ13章10節)。そして「信仰によって......御霊を受け」、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とあるように、真の愛は、信仰によって受ける御霊によって与えられます(ガラテヤ3章14節、ローマ5章5節)。これこそエレミヤによって預言された「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ということばの意味であり、その成就です(ヘブル8章10節)。 パウロは「みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」という申命記のことば(30章14節)を引用し、「信仰のことば」(ローマ10章8節)である福音は、だれの手にも届く身近な現実の中において説かれ、信仰によってだれでも到達することができると教えているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.30
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「宗教と国家の建設2」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月11日放映「神の愛の広さ、長さ、高さ、深さ」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=60338&dreamon=Y「宗教と国家の建設2」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、13章1節 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13章1節)。 「宗教と国家の建設」の2回目は、初代教会から現代まで、特にヨーロッパの国々の歴史から学んで見たいと思います。 一、国家と対決した教会の時代--初代教会からミラノの勅令(紀元313年)まで キリストの教会は、紀元30年の聖霊の降臨(ペンテコステ)の時に誕生しました。これが初代教会で、新約聖書の「使徒の働き」に記されています。初代教会が飛躍的に成長するに従って、ローマ帝国はキリスト教を迫害するようになりました。なぜなら教会は、「国家の中の国家」のように見えたからです。これは、教会が国家と対決した時代です。「殉教者の血は、教会の種子である」(古代教父テルトゥリアーヌス)という言葉のように、教会は、迫害を受ければ受けるほど成長し、ローマ帝国を内側から突き崩し、ついにコンスタンティヌス皇帝は、ミラノの勅令によってキリスト教を公認しました。 二、国家と協力した教会の時代--ミラノの勅令(紀元313年)からフランス革命(紀元1789年)まで ミラノの勅令によってキリスト教が公認されてから、ローマ教会が中心的な地位を占めました。ここから教会は国家と協力する時代になりました。その後、教会は、西方教会(ローマ・カトリック教会)と東方教会(ギリシャ正教やロシヤ正教、日本は日本正教会)に分かれました。これが紀元1054年です。この分裂後は、西方教会であるローマ・カトリック教会は、かしらであるローマ法王の権力が世俗の王権をも圧倒するようになりました。これは、教会と国家の主導権争いを招き、国家も教会も世俗化するという弊害を生み出したのです。このような状況の中で、教会は、聖書の教えから離れて行きました。 紀元1517年にマルチン・ルターが起こした宗教改革が成功したのは、ルターの前に改革者が出て、犠牲となり、土壌を肥やし、空気を作ったからです。これらの人々は、宗教改革前の改革者または宗教改革の先駆者と言うことができます。この宗教改革の先駆者の中にジョン・ウィクリフ、ヨハン・フス、サヴォナ・ローラがいます。 もう一つ、中世に起きた出来事があります。それは、1350年から1650年までの間にヨーロッパのおもな国々で起こった文芸復興(ルネッサンス)です。 「文芸復興は、人生に宗教的・団体的に近づく中世のやり方の代わりに、現代的・非宗教的・個人主義的な人生観に置き換えた文化的方針の再決定の時代と定義することができよう。......神がすべての事物の尺度であった中世の神中心の世界観は退いて、人間がすべての事物の尺度となった人間中心の人生観が力を得てきた」のです(E・ケアンズ)。 マルチン・ルターによる宗教改革は、このようなカトリック教会の中で起きた宗教改革の先駆者たち、そして世俗の世界で起きた文芸復興を背景に起こったのです。近代は、霊的なものである宗教改革と、知的なものである文芸復興(ルネッサンス)によって誕生したということができます(E・ケアンズ)。 三、国家から自由とされた教会の時代--フランス革命(紀元1789年)から現代まで 教会は、国家が世俗化し、政治目的のために教会を利用するという弊害に気づき、「信仰の自由」と「政教分離」を求め、それを勝ち取ることができました。ここから教会は国家から自由とされた時代になりました。 キリスト教の2000年にわたる歴史において、国家と対決した教会の時代が約300年、国家と協力した教会の時代が約1500年ですから、宗教(キリスト教)と国家が正しい関係になり、健全な国家が建設されるまで、実に1800年もの長い歳月が流れ、しかも「信教の自由」があって「政教分離」の国家が建設されるようになった期間は、約200年間です。 因みに紀元前の時代は、どの国も国家と宗教が協力した「政教一致」です。それで日本では「政治」のことを「政(まつりごと)」と言い、「まつりごと」は「祭り事」すなわち「神を祭ること」で、「政教一致」を表しています。「政教一致」であれ、「政教分離」であれ、宗教なしに国を治めることはできず、古今東西を問わず、宗教(共産国の場合は、宗教の代わりに共産主義の思想)なしに国家を建設した国は、一つもないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.24
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「宗教と国家の建設」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2013年3月6日放映「聖書が教える真の人生」「宗教と国家の建設」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、13章1節 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13章1節)。 日本は、「国民の意志によって制定された法律によって政治の行われている法治国」です。それで「社会の法律」と「道徳の律法」と「思想・信条・宗教(神の律法)」の関係を知るために「宗教と国家の建設」について学ぶことは非常に大切なことであると思います。 一、健全な国家が建設されなければ、国民は安心して暮らすことができません 私たち人間は様々な生活をしています。すなわち衣食住の生活をはじめ、学生が送る学校生活、社会人が送る社会生活、そして仕事をしなくてもよい時間に行うすべてのこと、たとえば休息や保養、旅行や娯楽(レクリエーション)、趣味や運動、音楽や芸術等々の余暇の生活です。 私たちは、このような日常生活を送るのは当たり前と思っているかもしれません。しかしこれは、社会の治安が維持され、戦争のない平和な日本に住んでいるからこそ可能なのです。もし社会の治安が乱れたり、外国との戦争や国内での内乱が起こったりするなら、日常生活を送ることはおろか、生きていくことさえできなくなります。私たちは、改めて健全な国家が建設されることがどんなに大切であるかを知らなければなりません。 二、健全な国家を建設するためには、「外的規範」と「内的規範」の両者が必要です ◆外的規範--人間の外側に表れた行為を取り締まるもので、具体的には「法律」です。 ◆内的規範--人間の内側の心を制御するもので、具体的には「思想・信条・宗教」です。 国家がどんなに優れた「法律」を制定しても、国民がその「法律」を守らなければ、犯罪が多発する暗黒な無法地帯になります。その「社会の法律」を守るようにさせるものが「倫理・道徳」であり、その倫理を向上させ、道徳心を養うものは、「内的規範」である「思想・信条・宗教」すなわち「真の神への信仰また真の宗教(キリスト教)」です。人間は罪人ですから、正しい「思想・信条・宗教」を持たなければ、倫理観が欠如し、道徳が退廃して、「法律」を犯してしまうのです。 三、国家と外的規範、内的規範の関係には、基本的に三つのものがあります 1.国粋主義(右翼)の国家 国は「法律(外的規範)」を制定するとともに、国民を国家の意志に従わせるために「内的規範(思想・信条・宗教)」を定めます。これは政教一致です。 2.共産主義(左翼)の国家 国は「法律(外的規範)」を制定するとともに、国民を国家の意志に従わせるために、宗教を否定し、「思想や信条」を定めます。これも政教一致です。 3.民主主義の国家 国家は「法律(外的規範)」を制定するだけで、「思想・信条・宗教(内的規範)」は、国民が自由に選ぶことができます。すなわち信教の自由があり、これは政教分離です。国家は、「内的規範(思想・信条・宗教)」には一切干渉しませんが、国民は「法律(外的規範)」を守る義務があり、それを犯せば罰せられます。 この三つは基本的なものであり、実際には1と3の中間や組み合わせ、また2と3の中間や組み合わせなど様々な形態があります。 四、日本国憲法が保障する「思想・信条・宗教」の自由 日本国憲法は、以下のような自由を保障しています。◆第十八条--奴隷的な拘束・苦役からの自由◆第十九条--思想と良心の自由 「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」◆第二十条--信教の自由 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教 団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはな らない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加す ることを強制されない」◆第二十一条--集会・結社・表現の自由◆第二十二条--居住・移転・職業選択の自由◆第二十三条--学問の自由◆第三十一条--生命の自由◆第三十四条--身体の自由 健全な国家が建設されるためには、国家は健全な「法律(外的規範)」を制定しなければなりませんが、国家は、「内的規範(思想・信条・宗教)」には一切干渉せず、すなわち「政治と宗教を分離」し、国民は、「思想・信条・宗教(内的規範)」を自由に選び、その「思想・信条・宗教」によって倫理を向上させ、道徳心を養うことによって国家の制定した「法律」を守ることです。これ以外に健全な国家を建設することはできないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.22
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「四つの法」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月23日放映「神の悩みと人の悩み」 「四つの法」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、8章10節 「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(10節)。 「法」とは、「おきて」とか「定め」、また「きまり」とか「規則」のことであり、それは、「法則」や「法律」または「律法」という言葉の総称です。「法」には様々な種類がありますが、基本的なものは次のような四つではないでしょうか。 一、自然の法則--自然的なもの これは、自然現象の中に見られる「常に変わらない一定の関係やきまり」のことで、天地万物を創造された神によって定められたものです。 二、道徳の律法--個人的なもの これは、人として当然行うべき行為や在るべき姿、また歩むべき道である「道徳に一定の規則やきまりがある」というものです。 三、社会の法律--社会的なもの これは、「社会生活を維持するために人によって定められた規律」であり、守るべき義務と負うべき責任の伴った強制的なものです。 「法律」は、「個人の権利と利益」、また「公共の福祉と安全」、そして「国家の秩序と平和」を守るために制定されたもので、人間の外側に表れた行為を取り締まります。 国がどんなに優れた「法律」を制定しても、国民がその法律を守らなければ意味がなく、その法律を守るようにさせるものが「倫理・道徳」であり、その「倫理・道徳」を守るようにさせるものが「思想・信条・宗教」です。 四、神の律法--神的(絶対的)なもの 神の律法は「自然の法則」と「道徳の律法」と「社会の法律」のすべてに及ぶ絶対的な規準であり、聖書は「自然の法則」と「道徳の律法」は神によって定められ、「社会の法律」も神の律法に準拠していると教えています。 1.律法は、神がどのような方であり、その神のみこころがどのようなものであるかを私たちに教えるものです(出エジプト20章1~17節)。 2.律法は、人間の心を照らし、私たちの罪深さと無力さを教えて、私たちに罪の意識を生じさせるものです(ローマ3章20節)。 3.律法は、人間に救い主の必要を示し、私たちをキリストへ導くための養育係の役目を果たすものです(ガラテヤ3章24節)。 神は、この三つの目的を果たすためにイスラエルに律法を与えられました。神が律法を与えられた目的を正しく知った少数の神の人や聖徒たちは、律法を守りましたが(詩篇40篇8節)、多くの人たちは、これを理解することができず、律法にそむいて、神との契約を守り通さなかったのです。 神は、律法にそむいて、契約を守り通さなかったイスラエルの民と「新しい契約を結ぶ日が」来ることを約束されました(ヘブル8章8節)。その新しい契約とは、石の板に記された神の律法を与えるのではなく、人の心の板に神の律法を記すこと、すなわち、神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(同8章10節)ことです。 パウロは、「愛は律法を全うします」と記し(ローマ13章10節)、律法を全うするものは愛であると教えています。また「信仰によって......御霊を受け」、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とあるように、真の愛は、信仰によって受ける御霊によって与えられます(ガラテヤ3章14節、ローマ5章5節)。 ですから信仰によって聖霊と神の愛が与えられて、律法を全うすることこそ、エレミヤによって預言された「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ということばの意味であり、その成就なのです(ヘブル8章10節)。 神は、このことをキリストの十字架の死による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成就されました。罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じる者は、罪が赦されて、聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることこそ、神の律法が心に記されることなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.19
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「無意識の霊と心による歩み」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」「無意識の霊と心による歩み」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、7章15~25節 一、霊は無意識で、心の奥も無意識です 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者のフロイトです。 キリストが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。パウロは「私には、自分のしていることがわかりません。......私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」と告白しています(15、19節)。 この無意識の霊と無意識の心が意識している心を支配しています。言い換えれば、人の行いは、善であれ、悪であれ、意識して行うことと無意識のうちに行うこととの両者があり、しかも無意識のうちに行うことが意識して行うことを支配しているのです。 二、愛の行為は無意識に行います サマリヤ人は、強盗に襲われた人を見た時、愛のゆえに彼に近寄って行きましたが、それとともに彼を助けるにはどうすればよいのかということを即座に考え、一つ一つ適切な処置を施しています(ルカ10章34、35節)。 オズワルド・チェンバーズは、「愛は意識するものではなく、思わぬ仕方であふれ出るものである。パウロの愛に対する考えの基本には、計算高い確かさの要素など少しもない。......意識しないということが愛の特質である。......私たちの信仰生活を振り返ってみて、説明できない自発的で真実な愛の感情があるのに驚くことがある」と言っています。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」(ローマ5章5節)、当然のこととして、ごく自然に神と隣人を愛するようになります。それは意識しないものです。 三、罪の行為は無意識に行います 羊たちは、キリストに愛の奉仕をしたことを賞賛された時、「主よ。いつ......しましたか」と驚いて答えています(マタイ25章37~39節)。彼らは、この奉仕は、神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いが全くなく、当然のこととして愛の奉仕に励み、しかも無意識にしていたのです。 これに対して山羊たちは、キリストに愛の奉仕をしなかったことを叱責された時、「主よ。いつ......しなかったのでしょうか」と驚いて答えています(同25章44節)。彼らは、この奉仕は神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いがあり、その奉仕は押しつけがましいものでした。彼らは、結局は自分のためにしたのです。 もし私たちが、神と隣人を愛していることを意識的に感じることを求めるなら、もはや真の愛ではありません。それは、自分で自分を喜ばせる自己満足や、自分で自分を賞賛する自己礼賛ではないでしょうか。 四、人の歩みは無意識に行います 人間の内臓は、意志の力の及ばない「自律神経系(交感神経と副交感神経)」によって自動的に働いています。もしすべての内臓を意志の力によってからだを動かす「知覚と運動の神経系」によって働かすとしたら、仕事や勉強をするどころか、睡眠をとることも休むこともできず、死んでしまうでしょう。いのちに関わる大切なことは、無意識のうちに自動的に行うように造られているのです。 霊と心も、いのちに関わることは無意識のうちに行います。「肉の思い」を持つ人間は、意志の力で罪を犯すことをやめることも、愛の行いをすることもできません(19節)。私たちは、キリストとともに十字架につけられて「肉の思い」が取り除かれ、「御霊による思い」が心に宿り、神の愛と聖霊の力が与えられて無意識のうちに愛の行いをするのです。 そのためにキリストは、お生まれになり、十字架の上で私たちの罪をその身に負い、天に昇り、聖霊の降臨によって神の「律法(すなわち神の思い)を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけ」てくださったのです(ヘブル8章10節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.05
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「人間を構成する三つの要素」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月7日放映「神に会う備え」 「人間を構成する三つの要素」 甲斐慎一郎 テサロニケ人への手紙、第一、5章23節 「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」(23節)。 一、人間の成り立ちの説 人間がどのように成り立っているかということについては、大きく「二分説または二要素説(ダイコトミー Dichotomy)」と「三分説または三要素説(トゥライコトミー Trichotomy)」の二つがあります。 二、二要素説(Dichotomy) 「二要素説」は、物質的な部分(肉体)と非物質的な部分(たましいと霊)の二つで成り立っているという説です。 三、三要素説(Trichotomy) 「三要素説」は「霊」と「たましい(または心、精神)」と「肉体」の三つで成り立っているという説です(日本ウェスレー出版協会、キリスト教神学概論、198、199頁)。 四、二要素説と三要素説の違い 「二要素説」も、非物質的な部分をたましいと霊に区別するなら、三要素説と本質的には変わりません。 五、三要素説について 「三要素説」を支持している聖書の言葉は、テサロニケ人への手紙、第一、5章23節の「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」という聖句です。この言葉は、文語訳は「霊と心と体」、口語訳も、「霊と心とからだ」と訳されています。新共同訳は、「霊も魂も体も」と訳されており、新改訳と同じです。 英語は、「Spirit and Soul and Body」となっており、ギリシャ語は、「プニューマ、プシュケー、ソーマ」と訳されています。 「プニューマ」は、「霊」と訳すのが、一般的で、日本語の聖書は四つともそのように訳されています。 「プシュケー」は、文語と口語は「心」と訳され、新改訳と新共同訳は、「たましい」と訳されています。英語はSoulです。 大阪聖書学院発行、織田昭編の新約聖書ギリシャ語小辞典には、「プニューマ」は、神のかたちに造られた人間のみが与えられている能力--神と「汝と我」の関係で人格的交わりを持ち得る能力、罪を悲しむ能力、神の愛、罪の赦しを受けて喜ぶ能力、人を真に人として生かしめる神よりの生命力をキャッチして生きる能力--であって、単に思考し感情作用をなす能力「プシュケー」とは別個に、さらにその奥深くにある能力ないし主体である、と記されています(前掲書279頁)。 「プシュケー」は、肉的人間存在の主体であり、人格の中心部分、自己、自我を形成するものであって、思考し、情緒を感じ、意志し、行動する主体です。それは、「psychology(心理学)」の研究対象となるものです。それは思想を生み、美を解し、文学・芸術・哲学を生み、そして味わう主体であるが、聖書的立場より見れば「肉」であって、人間をして人間たらしめる「神のかたち」ではない。それらの能力は、はなはだしい程度の差こそあれ、人間以外の動物にも備わっているものである、と記されています(前掲書388頁)。「一寸の虫にも五分の魂」という諺の通りです。 「プシュケー」は、「たましい(Soul)」と訳し、「たましい」をさらに分けるならば、「知性の面での心(Mind)」と「感情の面での心(Heart)」と「意志の面での心(Will)」の三つになります。因みに、英語のMind、Heart、Willに相当する言葉がギリシャ語にはあることが前述の辞典には記されています。 「ヌース」は人間の知の面、思考の面を、「カルディア」は情の面を、「セレーマ」は意志の面を代表すると見てよい」(前掲書171頁)。 「三要素説」に立てば、「たましい」と「心」は、ほぼ同じであると考えることができ(文語訳と口語訳はそれを教えています)、その奥に「霊」があるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.04
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「心の一新(5)神に従う意志」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57593&dreamon=Y「心の一新(5)神に従う意志」 甲斐慎一郎 詩篇40篇7~9節 「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」(8節)。 一、三種類の意志について 人は、「霊とたましいとからだ」という三つの要素から成り立ち、便宜上、「霊のいのち」と「たましいのいのち」と「からだのいのち」とに分けますが、三つのいのちがあるわけではなく、「肉体のいのち」は、「たましいのいのち」が支配し、「たましいのいのち」は、「霊のいのち」が支配していて、いのちの実体は霊にあります。 そのように意志も、霊の意志とたましいの意志とからだの意志という三つがあるわけではなく、からだの意志は、たましいの意志が支配し、たましいの意志は、霊の意志が支配していて、意志の実体は霊にあります。 しかしアダムが罪を犯し、全人類の霊が死んだ時から、人は神に従う意志を失い、霊の意志とたましいの意志が一致せず、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(ローマ7章19節)とあるように、霊の意志とたましいの意志が食い違ってしまったのです。 からだに関しては、意志の力の及ばない自律神経によって動く臓器がありますが、これは、からだを健康に保つ本能の働きです。しかし人類の堕落以後、人は、食欲や性欲を理性や意志の力で制御することができず、本能のままに行動する罪に陥りました。 このようなことから人類の堕落以後は、霊の意志とたましいの意志とからだの意志が食い違い、対立してしまったのです。 二、三種類の欲求(欲望)について 意志に働きかけて意志を動かすものに欲求(欲望)があります。ある人は、15の「肉の行い」(ガラテヤ5章19~21節)を分類して、最初の三つが「性欲」、次の二つが「礼拝欲」、次の八つが「社交欲」、最後の二つが「飲食欲」であると述べています。 1.からだに関しては、飲食欲や性欲など、自らの生命と、その子孫とを絶やさずに保とうとする「保存欲」です。 2.たましいに関しては、他の人や物と交わり、それを知ろうとする「社交欲」です。 3.霊に関しては、人間よりも偉大な神を崇拝し、礼賛しようとする「礼拝欲」です。 欲求(欲望)は、神によって人間に与えられたもので、これ自体は善でもなければ悪でもなく、中性です。パーカイザーは、これを自動車のエンジンにたとえて、「自動車を動かしはするが、その方向を決定するものではない」と述べています。この欲求は、だれに対して、または何を求めるかという「対象」と、何のために求めるかという「目的」と、どのように求めるかという「方法」の可否によって善にも悪にもなります。そしてこの欲求の表現こそ「求め」であり「渇き」です。 三、神に従う意志について 人間にとって最も大切なことは、神に従う意志を取り戻すことですが、そのためには、次のような三つのことが必要です。 1.神を信じる意志 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(G・C・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。 2.罪を悔い改める意志 神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つことはできません。 3.救いを信じる意志 受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。私たちは、この信仰によってのみ、罪から救われ、心の眼が見えるようになって神を知るだけでなく、神に従うことができるようになるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.01
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「神への信仰と意志」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57447&dreamon=Y 「神への信仰と意志」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、7章10~53節 「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」(17節)。 聖書は、私たちが正しく神を知り、とらえるために意志が大切であることを教えています。私たちは、神を正しく知り、とらえるために、どうして意志が必要なのでしょうか。三つの面から考えてみたいと思います。 一、神を信じる意志について 私たちは、人格を持つ者――すなわち神と人間と天使と悪魔――以外のものを知るためには、証拠があって証明されるなら、その人の意志に関係なく、信じるも信じないもなく、ただ認めればよいのです。 しかし人格を持つ者――すなわち知性と感情と意志を持つ者――を知るためには、ただ認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。このことを理解するために、次のような例話が分かりやすいのではないでしょうか。 ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(または娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、確かな証拠(DNAの一致など)があって証明されるなら、認めざるを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知ることはできません。 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(キャンベル・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければならないのです。 二、罪を悔い改める意志について 使徒パウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され……た」と記しています(ローマ1章28節)。 多くの人たちが神を信じないのは、単に知性的に神を認められないからではなく、神を信じるなら、自分の悪い心と生活を悔い改めなければならないという恐れから、意志的に神と信仰を拒んでいるということを知らなければなりません。 神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つことはできません。 私たちは、「真理に逆ら」ったり、「真理から耳をそむけ」たりしているなら、「いつも学んではい」ても、「いつになっても真理を知ること」ができないのです(第二テモテ3章7、8節、4章4節)。 三、救いを信じる意志について 人類の始祖が堕落した時、人の意志は堕落し、すべてのことにおいて神を中心とすべき意志が、自分を中心とする意志に変わってしまいました。しかし神は、計り知れない恵みのゆえに、救いを信じることができる意志を与えてくださいました。 キリストが盲人のバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた時、彼は「先生。目が見えるようになることです」と答えました。これに対してキリストは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました(マルコ10章51、52節)。 受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。私たちは、この信仰によってのみ、罪から救われ、心の目がはっきり見えるようになって、神を知ることができるようになるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.07.01
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