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「イエスのお取扱い」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58910&dreamon=Y「イエスのお取扱い」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、21章15~23節 ペテロと六人の弟子たちは、イエスの温かいもてなしを受けているうちに、生前のイエスとの思い出がよみがえってきました。これは夢でも幻でもなく、正真正銘のまちがいのない事実であり、現実に起きた出来事であることがわかってきたのです。 一、イエスへの愛を告白し、主の羊を牧する任務を与えられたペテロ(15~17節) ペテロは食事を済ませました。するとイエスが「ヨハネの子シモン」と彼を名指しで呼ばれただけでなく、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と唐突に言い出されたので(15節)、彼は過去の失敗を思い出し、どんなに驚いたことでしょうか。 確かにペテロは、イエスを三度も否認しましたが、決して主に対する愛の心がなかったのではないことを述べ、いっさいのことをご存じの主に訴えて、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と言いました(15~17節)。イエスは、ペテロに「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊を牧しなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました(15~17節)。これは「わたしは、再びあなたを使徒の務めに戻し、わたしの羊を飼う牧者とします」という意味ですから、ペテロは、このことばによって罪を完全に赦されたのです。イエスが「わたしを愛しますか」と三度尋ねられたのは、ペテロに三度その愛を告白させ、三度主を否認した罪をぬぐい去るためではないでしょうか。 二、イエスに神の栄光を現す将来を示され、服従を求められたペテロ(18、19節) それからイエスは、ペテロに「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」と言われました(18節)。 これは、若かった時には思いのままに奉仕することができたペテロも、晩年は自分の意に反して福音のために捕えられ、投獄の憂き目にあい、殉教することによって神の栄光を現すことを示していますが(19節)、さらに深い意味は、次のようなことを教えています。 「あなたは若かった時は、わたしのために働き、心のままにあちこちに行き、自分の奉仕の方法を選ぶことができましたが、年をとると、わたしのためにより高尚で、困難なことを学ばなければなりません。すなわちわたしのために苦しむのです。自分でそのわざを選ぶのではなく、ほかの人が選びます。またそのわざは自分で奉仕するのではなく、ほかの人から苦しめられます。これはペテロだけでなく、一般のキリスト者の生涯も同じであり、常に奉仕に始まり、苦難によって完成します。そして奉仕によって学ぶことができない教えが、しばしば苦難によって教えられることがあるのです」(R・C・トレンチ)。 三、イエスに目移りすることのない完全な服従を求められたペテロ(20~23節) イエスに服従を求められたペテロは、後ろを振り向いて、ヨハネがあとについて来るのを見ました(20節)。おせっかいなペテロは、ヨハネのことが気になり始め、つい「主よ。この人はどうですか」と言ってしまいました(21節)。するとイエスは、「あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われたのです(22節)。 「これは、ペテロがヨハネの将来のこと、およびその生涯の結末を知ろうとしたことを表しています。......ペテロがこれを質問した精神が全く良くなかったことは、主の答えの中に警戒の意味があることによって明らかです。このような時または時期は、ペテロの知るところではありません。また主のみにかかわりのある事柄には、決してペテロは干渉してはなりません。キリストは、使徒たちにそれぞれ異なった務めを与え、またこの与え方に関しては、だれにも相談しないことを定めておられるのです」(R・C・トレンチ)。 ペテロは、神にすべてをゆだね、ただイエスを信じて従っていけばよかったのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.04.29
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「心の試験」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月7日放映「神に会う備え」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58799&dreamon=Y「心の試験」 甲斐慎一郎 箴言27章21節 「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる」(箴言27章21節) 人間にとって最も大切なことは神を知ることですが、そのためには自分がどのような人間であるかをよく知らなければなりません。なぜなら私たちが、ほんとうに自分の姿を知るなら、必ず神とその救いを求めるからです。またその結果、多くの罪や過ちから救われて、神にさばかれることもないからです。パウロは、「もし私たちが自分をさばく(文語訳、自らおのれをわきまえる)なら、さばかれることはありません」と、暗示深いことを述べています(第一コリント11章31節)。 そこで自分の「心の試験」について、その方法と結果と対策について考えてみましょう。 一、試験の方法について 私たちの神の前における心の状態を教えてくれる物差しは、他人の称賛です。この他人の称賛ほど、私たちの心を正確に核心を突いて、しかも手っ取り早く教えてくれるものはないでしょう。これには4つの面があります。 1.文字どおりに、自分が他人に誉められることによってどうなるかということです。 2.その反対に、自分が他人に誉められず、無視されたり、けなされたりすることによってどうなるかということです。 3.立場を逆にして、他人が誉められることによって自分がどうなるかということです。 4.その反対に、他人が誉められず、無視されたり、けなされたりすることによって自分がどうなるかということです。 この4つが心を試験する方法です。 二、試験の結果について 自分が誉められた時、得意になって人を見下げるのは高慢な人です。このような人は、反対に誉められずに無視されたり、けなされたりすると、打ちのめされて、卑屈になったり、ひねくれたりします。しかし謙虚な人は、自分が誉められても得意にならず、神に栄光を帰して(詩篇115篇1節、第一コリント4章7節)、自分のことは忘れます。また反対に自分が誉められず、無視されたり、けなされたりしても、打ちのめされて、卑屈になったり、ひねくれたりしないのです。 他人が誉められた時、ともに喜ぶことができないのは嫉妬深い人です。このような人は、反対に他人が誉められずに無視されたり、けなされたりすると、ひそかに喜び、冷淡になります。しかし愛の人は、他人が誉められると、ともに喜び、反対に他人が誉められずに無視されたり、けなされたりすると、ともに悲しむのです(ローマ12章15節)。 人は、神に対する敬虔さを失うと、嫉妬と高慢の罪に陥ります。パウロは「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」と述べていますが(第一コリント13章4節)、人間関係の問題は、ほとんどこの嫉妬と高慢の罪が原因であると言っても過言ではありません。私たちが、ほんとうに罪からきよめられ、愛に満たされているかどうかは、喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむことができるかどうかによってわかるのです。 三、試験の対策について パウロは、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12章15節)と述べていますが、これこそ真の愛です。また「愛の章」と呼ばれているコリント人への第一の手紙の13章において、この愛がなかったなら、どのような素晴らしいことばも騒音に過ぎず(1節)、どのような素晴らしい賜物や知識や信仰も全く価値がなく(2節)、どのようなすばらしい行為も何の役にも立たないと教えています(3節)。 この愛は、生まれながらの人間は誰も持っていません(第一コリント2章14節)。パウロが「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5章5節)と述べているように、キリストの十字架による救いを信じ、聖霊を与えられた人だけに与えられるのです。 私たちは、この愛を神から与えられているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.04.22
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「永遠の霊的な教え」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」「永遠の霊的な教え」 甲斐慎一郎 詩篇90篇1~17節 ある人は、「過去のない人は、動物に近い。そうして未来のない人は、まさしく動物である」と言いましたが、「伝道者の書」の著者のソロモンは、神の霊感を受けて、次のように述べています。 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者3章11節、新改訳二版)。 このみことばは私たちに、人間だけが「永遠」とか「永遠の世界」、そして「永達なる神」を思うことができるということを教えています。そこでこの詩篇90篇から永遠について考えてみましょう。 一、神について(1、2節) モーセは、「まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」(2節)と記していますが、永遠とは、どういうことなのでしょうか。 このことに関しては、R・A・トーレーの次のような定義が最もよいのではないでしょうか。1.始めがなく終わりがない(無始無終)2.常に同一で全く変わらない(不変性)3.何にも依存せず独立している(自存性) 神は、モーセに対してご自身を啓示された時、「我は有りて在る者なり」(出エジプト3章14節、文語訳)と言われましたが、これこそ「無始無終」にして「絶対不変」なる「自存者」を表しています。 この定義に従えば、永遠なるものは神以外には存在しないことがわかるでしょう。ですから神は信じるが、永遠は信じないとか、永遠は信じるが、神は信じないということは、あり得ないのであり、神を信じるということは、必然的に永遠を信じるということを含んでいるのです。 聖書は私たちに、「永遠の罪」、「永遠のさばき」、「永遠の刑罰」、「永遠の火」、「永遠の国」、「永遠の栄光」、「永遠の支配」、「永遠の贖い」、そして「永遠のいのち」について大胆に教えているのです。 二、人間について(3~11節) この箇所には、「人のいのちのはかなさ」(3~6節)と「人の心の罪深さ」(7~9節)と「人生のむなしさ」(10、11節)が記されています。もし私たちが永遠なる神と永遠の世界を信じなければ、いのちのはかなさと心の罪深さと人生のむなしさは、避けることができないことがわかるでしょう。なぜなら永遠を信じないことは、必然的に次のような人生にならざるを得ないからです。 1.刹那の人生 「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という刹那的な人生です(第一コリント15章32節)。 2.流転の人生 「移ろう草のよう」(5節)に、人生の土台も善悪の規準も定まらず、世と時の流れに流されている放浪の人生です。 3.盲目の人生 人生の目的も目標もわからず、どこに行く着くかを知らないで、さ迷い、「やみの中を歩む」(ヨハネ8章12節)人生です。 三、救いについて(12~17節) このように、はかなく、罪深く、むなしい人生から救われるためには、永遠なる神を私たちの住まいとするほかにはないことがわかるでしょう。それは、永遠なる神を私たちの心の中に迎え、その永遠の神のいのちに与かることです。まさに使徒ヨハネが「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と述べている通りです(ヨハネ3章16節)。 聖書が教えている救いは、この世において、すでに「永遠のいのち」が与えられて、「永遠の世界」に生きることです。それは、具体的には永遠の観点から物事を見、また考え、そして判断して、永遠に有益なことだけをすることです。それは、主イエス・キリストが言われたように「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働」くことを意味しているのです(ヨハネ6章27節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.04.16
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「永遠に存在する人間」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」 「永遠に存在する人間」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章28節 現代は、いのちの重さを知らず、いのちを軽視する風潮があるように見えますが、一昔前の戦争をしていた時代も同じではないかと思われます。それで人のいのちはどのようなものかについて考えてみましょう。 一、人のいのちの重さについて パウロは、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるため」と述べています(使徒20章28節)。この箇所にはキリストのことは記されていませんが、実際に血を流されたのはキリストです。父と子と聖霊なる神は、ご自身のいのちを捨てるほど私たちを愛し、私たちの救いのために贖いのわざを成し遂げてくださいました。言い換えれば、このみことばは、私たちのいのちは、三位一体の神がいのちをかけるほど重く、尊いということを教えているのです。 二、人間の不滅性について なぜ人のいのちは、それほど重くて尊いのでしょうか。それは神によって造られ、神に愛される無限の価値のあるもので、決して消滅することなく、永遠に存在するからです。 人間がほかの動物とは異なる根本的な特徴を述べるなら、次のような三つです。1.自由意志--人間は選択と決断をする自由を持っています。2.自己批判--人間は自分で自分を批判することができます。3.継続性--人間は永遠に存在し、消滅することはありません。 自由意志を持ち、自己批判ができる人間は、責任をとるべき自己というものが消滅することはありません。墓は、人が次に来る世に行くために通過するトンネルのようなものです。私たちの永遠の運命は私たちがキリストの贖いのわざを信じるかどうかによって決まります。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は......神の怒りがその上にとどまる」のです(ヨハネ3章36節)。 霊が不滅であることについては次のような四つの証明があります。 1.本能的な証明--正常な人間は本能的に霊が不滅であることを自覚しています。 2.心理学的な証明--霊は非物質的な存在で、分割することはできず、不滅です。エネルギー保存の法則は、物質であるエネルギーが不滅であることを教えています。まして霊が不滅なのは当然ではないでしょうか。 3.目的論的な証明--人間は、この世においては、その人の持っているすべての可能性や将来性、すなわち品性や人格、能力や賜物などがすべて花を開くということはありません。それがすべて十分に開花するためには、次に来る世の存在と継続が必要なのです。 4.道徳的な証明--この世は悪人が栄え、義人が苦しむことが多く、常に正義の取り扱いを受けているとは限りません。それで次に来る世においてすべての善と悪とが公平にさばかれることがどうしても必要なのです。 三、人間の不滅性を教えているみことば 聖書は、次に来る世が存在し、人は消滅することなく、永遠に存在すると教えています。 ヨブは、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」と述べ(ヨブ1章21節)、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は私の肉から神を見る」と告白しています(同19章25、26節)。 イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました(マタイ10章28節)。 ヨハネは、「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた」と神の啓示を記しています(黙示録20章12節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.04.08
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「神のいのちと人のいのち」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57307&dreamon=Y「神のいのちと人のいのち」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、11章17~26節 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません』」(25、26節)。 私たちは、人間の生と死について、どのように考えているでしょうか。生とは何か、死とは何か、という死生観ほど人間にとって大切なことはないでしょう。なぜなら、その人の死生観は、その人の人生観にほかならず、生と死をどのように考えているかが、その人の人生と永遠の運命を決定するからです。 冒頭に掲げたキリストの言葉は、私たちに聖書が教えている死生観、またはキリスト教死生観というものが、どのようなものであるかということを明確に教えています。 一、三種類のいのち いのちとは何か、またいのちには、どのような種類があるのかということを考える時、どうしても避けて通ることができないものに死があります。そこで聖書が教えているいのちを、死との関係で述べるなら、次のような三種類になるのではないでしょうか。 1.死につつあるいのち--人間の堕落以後、肉体のいのちは、生まれた瞬間から、後はただ死に向かういのちになっています。 2.死からよみがえったいのち--しかし聖書は、霊の復活(エペソ2章5、6節)とともに、肉体の復活(ヨハネ5章29節)を教えています。 3.死ぬことがないいのち--さらに聖書は、復活しても再び死んでしまういのちではなく、もはや死ぬことがないいのち、言い換えれば永遠のいのちというものを教えています(黙示録21章4節)。 私たちが考え、また現に持っているいのちは、この三つのうちのどれでしょうか。 二、人のいのち ここでいう人のいのちとは、神から離れている人のいのちのことを意味しています。 多くの人々は、生命にとって死は避けることができない定めであり、やむを得ないものであると思っています。しかし聖書は、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6章23節)と記し、「罪によって死がはいり」(同5章12節)とあるように、死は罪の結果であると教えています。 それは、神がアダムに禁断の木の実を「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2章17節)と言われた言葉が成就したのであり、その結果、人の霊は直ちに死に、肉体は、すぐには死ななかったものの、ただ死に向かういのちになってしまったのです。1.死は、罪によってはいったものです。2.その結果、霊はすぐに死んでしまいました。3.そして、肉体も死につつあるのです。 これが神から離れている人のいのちです。 三、神のいのち ここでいう神のいのちとは、神が私たちに与えてくださるいのちのことを意味しています。 この神のいのちは、死につつあるいのちではなく、死ぬことがないいのちです。しかし人間は、罪のために死ぬべき者となってしまいました。ですから、この死ぬことがないいのちを得るためには、まず罪が取り除かれなければなりません。 「キリストは......罪を取り除くために、来られたので」あり(ヘブル9章26節)、その結果、「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅とを明らかに示され」たのです(第二テモテ1章10節)。1.キリストは、罪を取り除かれました。2.その結果、キリストは死を滅ぼされました。3.そして、いのちと不滅が示されたのです。 聖書は、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし--あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。--キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と教えているのです(エペソ2章4~6節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2013.04.01
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