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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「チベットの生と死の書」 ソギャル・リンポチェ 大迫正弘・三浦順子・訳 1995/10 原著1992 読書マラソンの途中で出会ってしまうような一冊でよかったのだろうか。あるいは、読書マラソンの途中だったからこそ出会うことができた一冊だった、ということもできるであろうか。私が漠然とした思いで「チベット密教」といいながら、どことなく期待しているもの、神秘的でありつつ、説得力にあふれ、公平にみても将来的な人類的ビジョンを示唆しているもの、そのような期待に見事にこたえてくれているような一冊だ。 このような一冊にであったら、もうそろそろチベットに関する無駄な彷徨はそろそろ終わりにしたほうがよいのではないか、とさえ思う。ソギャル・リンポチェはそれほど多作ではないようだ。日本語ではこの本一冊、英文でも3冊ほどしか出版されていないようだ。彼についてのページもいくつかネットでみることができる。 ソギャル・リンポチェはチベットに生まれ、今世紀のもっとも崇敬される精神的指導者のひとり、ジャムヤン・キェンツェ・チュキ・ロドゥに育てられた。中国によるチベット占領で、彼は師ジャムヤン・キェンツェとともに国外に逃れるが、師は1959年、ヒマラヤのシッキムにてこの世を去る。デリー大学、ケンブリッジ大学で比較宗教学を学んだ後、彼は、数人の指導的立場に立つチベット僧の通訳および補佐役を務める。1974年、みずからの指導活動を開始。 ソギャル・リンポチェは、「チベット死者の書」にもとづく修養方法を通じて、西洋にブッダの叡智を根づかせることを、自分の使命と考える。その修養方法は、日々の生活のなかで仏教の教えを理解し、体現し、競合できるようになることを目指すものである。 「チベットの死者の書」に依拠した教義の権威として、さらには、心理学、科学、浄化治療(ヒーリング)といった分野の指導者たちとのすぐれた対談者として、ソギャル・リンポチェの名は広く知られ、さまざまな国際会議や講演でも活躍中。また彼はリクパ(RIGPA)と呼ばれる世界的規模の仏教徒センター・ネットワークの創始者であり、指導者でもある。裏表紙・著者紹介 この本は1992年に英文ででて、95年に邦訳され、2001年には第四版(私はこれを読んだ)がでている。また翻訳者の一人は「チベットの娘」を訳した三浦順子である。彼女にはチベット関係の訳書が多いようだ。この本を読んで、700年前のチベット、というなら、やはり、チベット民衆のもっとも愛するミラレパを愛唱すべきなのだろうし、「チベットの死者の書」にこそ帰るべきなのではないか、と思い始めた。まさに、わが青春時代にであった、もっとも原点的な位置にある二冊である。 瞑想の紹介は実にさまざまな形をとる。わたしはおそらく千回以上瞑想を指導してきたが、その度ごとに異なり、その度ごとに直接的で新鮮だ。 幸いなことに、わたしたちは世界中の多くの人々が瞑想に親しみつつある時代に生きている。文化的・宗教的障壁を突き抜け乗り越えた修養法として、その道をたどる人々に自己の存在の真理との直接的なつながりをもたらす修養法として、瞑想は広く受け入れられてきている。瞑想は宗教の教義(ドグマ)を超越するものであり、それがために宗教の真髄たりえている修養法なのである。P108 ついついチベットというエキゾチックな面にとらわれてしまうし、そのエキゾチシズムゆえにチベット文化に魅入られてしまうのだが、実は、本筋は、まさにここにあるのだ。瞑想は宗教の教義(ドグマ)を超越する。これをなかなかチベット密教者たちからは、クリアに聞くことはできない。「チベット密教」のような、ある種、異端ともいうべきまがまがしさの中に何事をもとめようとしがちだが、ここでソギャル・リンポチェが言っていることは、まさに仏教の進化の他方の最先端、禅の思想だ。 東洋の叡智の伝統に対して西洋がその精神と心を開きはじめた。まさにそういう時代のさなか、1959年にチベットが陥落した。これはわたしには単なる偶然以上のものに思えてしかたがない。西洋社会がそれをうけいれるようになるのと時を同じくして、チベットの山岳地帯になかば孤立するようにして守り伝えられてきた伝統のこのうえなく深い教えが、全人類に向けて開かれたのである。チベットの人々が途方もない代償を払って世界に発したこの生ける知恵の伝統を、どんなことをしても守り抜くこと、それが今のわたしたちに課せられた役目である。P573 この辺あたりに、わがブログが期待する地球人スピリットの萌芽を見る。 人類の未来の相当部分は、チベットに自由が回復されるか否かにかかっている。あらゆる探究者や信仰者たちの聖地としての役割、世界の成長のための智慧の中枢としての役割、高度な洞察と神聖な技術が試され、飛び済まされ、確立される実験室としての役割、それらの役割をになうであろうチベットにかかっているのである。P574 その意気やよし。このちょっと愛国主義的な論調は気になるが、今は異議を挟まないでおこう。 OM MANI PADME HUM
2007.03.31
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「魔法と猫と魔女の秘密」 魔女の宅急便にのせて 正木晃 2003/3 春秋社 正木晃の一連の仕事が素晴らしかったので、こちらまで手を伸ばしてみたが、さてこのブログの現在の流れのなかで、この一冊を読むことが、正しい「乗り」だったかどうかは、微妙な感じがする。「魔女の宅急便」は大好きだ。ジブリ作品の中では、数少ない映画館の配給で「黒字」になった作品のひとつだという。また、この作品には原作者がいるという。私もこの作品なら、なんとかジブリ作品にはついていける感じがしていた。 もともと、このブログを始めた頃、手探りでテーマを求めていたが、うちに奥さんが勤務先である中学校の図書館から借りてくる中学生向きの図書、とくに「ハリー・ポッター」などの大流行をみながら、この兆候と私が体験してきた「瞑想」なるテーマが、どこかで接触するものであるだろうか、ということが、まずあった。そして、私なりにファンタジーを読んでみたりはしたのだが、どうやら私にはファンタジーを読み通す才能はないらしい。 そして、また私なりに体験してきたと思っていた「瞑想」の世界についても、まだまだ私の理解は、狭く、薄く、初歩的なところにとどまっているのではないか、という思いがふつふつと湧いてきた。だから、自然と、社会学や宗教学から麻原集団がらみの時事問題になり、やがて中沢新一や島田裕巳を読みながら、次第にチベット密教へと歩みを進めてきた。ここにきて、正木晃のこの一冊で、またいきなりこのブログのスタート地点の原点に引き戻されたような、ちょっとした「車酔い」のような感覚を味わった。 ところが面白いもので、どうやら私とは、一線を画す読書路線を行っているわが奥方が、この本に手を伸ばしてきた。私より先に読んでしまったのである。まぁ別にあとさきはどうでもいいのだが、どうやら、この本あたりが私と奥さんの接点というか、共通テーマのギリギリのところらしい。彼女は、いま現在テレビで上映されている「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」をヘッドホンをかけて見ている。私ときたら、それらのファンタジーは、どうも本気になってみる気はないので、こっちはこっちで、パソコンをいじっていたほうがマシという感じだ。 この本では、西の魔女、東の魔女、よみがえる魔女たち、猫の巻、とちょっと中沢新一ばりの、かといって初学者向きの宗教学的テーマが、おもしろおかしく書いてある。著者には、このほか「はじめての宗教学---『風の谷のナウシカ』を読み解く」や、「お化けと森の宗教学---となりのトトロといっしょに学ぼう」などがある。面白そうではあるが、私にはちょっと、年寄りの冷や水的なところがあるので、そろそろこの辺で、この路線からは、ひきかえそうかなぁ、と思う。 昨日読んだ「チベットの娘」が引用されているので、そこだけ抜書きしておこう。 20世紀の魔女 魔女はチベットの歴史のいちばん初めのところにいただけではない。ごく最近まで、チベットには魔女がいたらしい。 リンチェン・ドルマ・タリンという名の貴族出身の女性が書いた『チベットの娘』(中公文庫)には、恐ろしい「魔女(ドゥマ)のせいで自分の母親が早死にした話がでてくる。その事件が起きたのはリンチェン・ドルマさんが数え年で10歳のときで、彼女は1910年の生まれだから1919年のことのことになる。p108
2007.03.31
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「チベットの娘」 貴族婦人の生涯 リンチェン・ドルマ・タリン 三浦順子・訳 2003/2 中央公論新社 初訳1991中公文庫 原書1969? この本の原書はいつでているのか、と思って奥付やら巻頭を見たが、なかなか見つからない。推測するに、どうやら初版は英語版で1969年にでて、しばらく絶版になっていたが、第二版はそれからの17年間の著者と家族について加筆されて1986年に出た。その直後、その版をもとに、日本語訳が、1991年に文庫本として出版された。その後、この本は英語からチベット語訳が起こされ、チベット人向きに著者によって校正されて2000年に出版された。その直後に著者は91歳でなくなった。そして、今回読んだ本は2003年に日本語としてハードカーバー本で再出版されている。なんとも稀有な読まれ方をしている本だが、それだけの価値が十分あるからであろう。 リンチェン・ドルマ・タリン(1909~2000) チベットのラサの貴族の家柄に生まれる。2歳の時、大臣を務めていた父が暗殺される。12歳の時、チベット女性として初めてインドの英語学校に留学。18歳でダライ・ラマ13世の寵愛でチベット近代化の立役者であったツァロンと結婚するが、後にシッキム王家に連なるタリン家に嫁ぐ。50歳の時、ラサの決起と同時にインドに亡命。夫とともに堪能な英語を生かして近代的な教育をほどこす学校を設立するなど、チベット難民と孤児のため、最後まで働いた。見返し著者紹介 巻頭の30数枚のモノクロ写真がなんとも貴重な当時のチベットの風習を伝えていて胸を打つ。この本が貴重なのは、著者が辿った数奇な人生が克明に記録されているからでもあるが、その人生が、激動の20世紀のチベットの中枢にあったことにより、その目撃者としての証言がきわめて貴重であるっからだ。そして、そこに織り込まれたチベット文化の片鱗の数々が、当時のことを知ろうとする読者に、きわめて貴重な資料を提供するからだろう。 天然の要塞にまもられて奇跡的に20世紀半ばまで維持できた中世的封建社会も、東方より牙むく共産主義を前に風前の灯火、だがチベット政府の役人も貴族たちも、自らの足元が崩れかかっていることに気づこうとしない。変革を求める声にもあえて耳をふさぎ、繁文褥礼にこだわり、のんびりとパーティにあけくれるのみ。1950年10月、人民解放軍が東チベットに侵攻、チャムドは陥落する。1951年5月には北京で17条協定が締結され、チベットは独立を失い、中国に併合された。貴族にとっての旧きよき社会の終焉であった。p387訳者あとがき そういえば日本もまた、長い鎖国政策をとっており、マルコポーロの「東方見聞録」以来、東洋の神秘として、特異な文化とされていた。このようなところにチベットと日本の共通項があり、独自にそれぞれの完成度を高めた、チベット密教と日本禅との、共通した背景があったのかも知れない。 日本人女性であろうと西洋人のご夫人であろうと、もし、20世紀の地球上で生きた90年を超える人生の、克明な自叙伝を書いたとするなら、21世紀にいきる私たちには驚異にうつることがたくさんあることだろう。日本においてもまさに明治時代のことなど、昔の昔のお話となってしまっている。欧米においてもかならずしも、科学と合理性の謳歌する時代ではなかったはずだ。ましてや、ヒマラヤに隠された秘境チベットの生活記録である。驚かないほうがどうかしている。 ただ、このブログにおいては、チベットの異国情緒を楽しむことを目的としているわけでもなく、現代のチベット事情を探究しているわけでもない。出来得れば「700年前のチベット」に生きた16歳の少年であるわが身の前世の全ストーリーの再構成を試みつつ、そこから現在を通じて、さらに未来と伸びているはずの精神性を探ろうというのが、本来の意図だ。20世紀のチベット文化を学びながらも、さらに7世紀ほど遡ることを忘れることはできない。
2007.03.30
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「ドルジェのたび」 チベットの少年のはなし ぺマ=ギャルポ・話 金田卓也・文と絵 1985/5 偕成社 絵がとても素晴らしい。まさに夢に描いているようなチベット高原の風景そのままだ。透明感があり、すっきりと鮮やかだ。チベットの少年、ドルジェは弱虫だったけど、家族と一緒に巡礼のたびにでる。熊や盗賊にあったり、大きな川をこえたりしながら、ついにラサにたどり着きポカラ宮殿を拝むことができた、というお話。 9歳の時に中国に追われてインドにわたり、14歳の時に日本にやってきたペマ=ギャルポの自伝的ストーリーだという。乳歯の奥歯が抜けるころ、というから本当にこどもの時のこころが表現されていて、説得力がある。 日本の約3倍の広さがありながら、人口は約600万人というチベット。この本が書かれた1985年とは、まただいぶ変化していることだろうが、この本のなかにはチベットらしいチベットが表現されている。
2007.03.30
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「仏教と瞑想」 チョギャム・トゥルンパ 1996/4 UNIO 青雲社 原著 MEDITATION IN ACTION 1969 「チベットに生まれて」とこの「仏教と瞑想」の二冊をもって西洋社会に対峙したチョギャム・トゥルンパ。薄くて横組みで読みやすそうな一冊ではあるが、深い。1969年に英語版がでているのに、日本語訳はそれから27年後にでている。西洋、とりわけアメリカ社会では広く知られているというものの、日本においては、麻原集団からみでのチベット密教文化の見直しの中で、出版された、ということか。出版社UNIOからはOshoの本が何冊かでている。 この本がでた1969年という時代を考えてみる。日本社会においては団塊の世代を中心とした「政治の時代」だった。「70年安保」という「共犯幻想」と「敗北感」を通じて、日本のカウンターカルチャーは一気に「心の時代」へと変貌していく。その時代性を考えてみても、このチョギャム・トゥルンパの活動は、丁度時期を得ていた、ということもできるかもしれない。 チベットにおいて活仏の転生化身として、幼時から徹底した教育を受けながら、青年期に中国共産党に追われる形でインドに逃れ、ダライラマのもとで若い僧たちの教育にあたる。その後、英国オックスフォードで比較宗教学などを学び、ブータン王家の個人教師などをつとめながら、アメリカに渡って瞑想センターを設立した、という経緯は、それが30歳までの人生の中で行なわれた、とするなら、まさに怒涛のようなドラマチックな人生であったに違いない。 仏教と瞑想、というテーマは、2007年の現在なら、ごくごく普遍的なテーマであると思えるが、この本が出た当時はまだまだ一般的にはものめずらしいテーマであったかもしれない。日本社会においては、マジで「仏教と瞑想はべつものだ」という主張さえ見られた。瞑想、という言葉さえごくごく限定した意味で使われていた。そういった意味において、この本が西洋社会にあたえたインパクトは想像することは容易にできる。 山折哲雄は、「神秘体験」(講談社)の中で、「彼がもう少し長生きしていれば、第二の鈴木大拙になったのではないかとふと思う」と書いているという。実際の文脈で見なくてはならないが、たしかに、この本を読んでいると、西洋人たちの論理を使いながら、東洋の仏教を必至になって説こうとする青年トゥルンパの汗水が感じられる。 ふつう瞑想の教授は、クラスで教えることはできない。師と弟子のあいだに個人的な関わり合いがなくてはならない。そしてまた、”呼吸の気づき”のような基礎的なテクニックのそれぞれに、多少のヴァリエーションが存在する。だが、ここでは基本的な瞑想のありかたについて簡単にふれるべきだろう。もっと先に進みたいのであれば、あなたはそうすることができるし、瞑想の師からさらなる教授を受けることができると確信している。p111 プラジュニャー、とは知恵、wisdom。おそらくこの英語には、すこし違った意味あいがある。 だがチベット語で使われている「シェーラプ」という言葉はぴったりの意味を持っている。「シェー」は認識、知であり、「ラプ」は究極を意味する。つまり第一義的な、第一の認識、高次の認識だ。だから「シェーラプ」は、仏教の教学を知るとか、あるものごとをどのようにして行なうかを知るとか、教えの形而上学的側面を知るとかいったことの、専門的あるいは教養的な意味における特殊な知識などではない。 ここでの認識とは状況を知ることであり、実際の知識というよりは”知ること”といったほうがいい。それは自己のない認識だ。自分が知っているという自己中心的意識---それらはエゴに結びついている---のない認識だ。だからこの認識、プラジュニャーあるいはシェーラプは、広大であり遠くまで見通せる。それは同時にとほうもなく鋭く正確であり、私たちの生のあらゆる側面にゆきわたる。p119 なすべき唯一のことは、それを実行し、プラジュニャーという対象に瞑想をはじめることだ。ここにおいてプラジュニャーだけが、私たちを自己中心性から、エゴから解放することができるからだ。プラジュニャーを欠いた教えは、サンサーラの世界、混乱の世界を増すだけであり、依然として私たちを束縛することになる。p129 瞑想修行のすべてはこのような地盤の上に立っている。そしてここにおいて、あなたは瞑想が生から逃避しようとするものではなく、心の理想境(ユートピア)的な状態に達しようとするものではなく、また精神的な体操といったものでもないことを、まったく明晰に見ることができる。瞑想とは、ただ”在るもの”を見ようとすることであり、そこには謎めいたものなど存在しない。p134 これは少々漠然として聞こえるかもしれない。だが、それをそんなふうにしておくのはいいことだと思う。というのも、瞑想の細部に関するかぎり、一般化することが役にたつとは思わないからだ。テクニックは、その人が必要としてるものしだいなのだから、それらは個人的に論じることしかできない。瞑想の修行に関しては、集団(クラス)を指導することはできないのだ。p135
2007.03.30
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「チベットに生まれて」 <1> 或る活仏の苦難の半生 チョギャム・トゥルンパ 武内紹人・訳 1989/1 人文書院 原書 BORN IN TIBET 1966 「タントラへの道--精神の物質主義を断ち切って」だけではわからないチョギャム・トウルンパがここにある。誕生から生い立ち、活仏としての即位、教育、訓練、修行、ダライラマとの出あい、中国共産党からの圧力、インドへの亡命。ここに書いてあるのは、生々しいドキュメンタリーだ。後年アメリカでの彼の活躍だけをイメージしていた私には、天と地がひっくり返るようなゲシュタルトの転換さえ感じる。 これだけ活仏としての赤裸々な告白的ドキュメンタリーは、類書としてはダライラマの「チベットわが祖国」くらいしかないのではないか。ダライラマの自叙伝では、中国共産党のおこないは、福次的に書いてあったが、チョギャム・トゥルンパのこの本においては、むしろ、微にいり細にいり記録してある。この本すべてかなりの量のことが書いてあるが、著者生来の日記をつける習性がこれだけの記録を残すことができた要因となっているようだ。1939年生まれであるから27歳の時の出版ということになる。 インドに到着したチョギャム・トゥルンパは、青年僧研修所(Young Lamas Home School)において、四年間若いチベット僧の指導に当たった。その後、スポールディング奨学金をもらい、アコン・トゥルクとともに1963年英国オックスフォード大学に留学。大学で西洋哲学、比較宗教学、美術を学ぶかたわら、西洋文明のなかに仏教をひろめ根づかせる方法とその場を模索した。本書の初版を出版したのもその頃である。p329「訳者解説」 一時、1968年にはブータンに渡り王家の個人教師をつとめたりしたが、「西洋の科学物質文明のなかに仏教を真に根づかせるには、自らのなかの精神の物質主義を断ち切ることが必要だと悟る」。 イギリスにもどったトゥルンパは、精神の物質主義の根絶と慈悲の心の発展を通して西洋に仏教をひろめる方法の探究に没頭するあまり大きな交通事故をおこし、左半身麻痺におちいる。これが転機をもたらした。すなわち、僧衣のかげに安住して自己の精神的安定をもとめる暮らしを放棄し、俗世間に自己を投げ入れる決心をしたのである。p330 同 交通事故を起こしたのは知っていたが、左半身麻痺におちいっていたとは知らなかった。また、還俗したのも知っていたが、それほど早い時期だったとは知らなかった。 還俗したトゥルンパは、ダイアナ・ジュディスという英国夫人と結婚し、三人の息子をもうけた。トゥルンパの自己変革は、周囲のおおきな反対にあう。特に、長年の友アコン活仏との意見対立は大きく、ついにトゥルンパは英国における活動を断念し、新天地を求めてアメリカに移る決心をするに至った。p330 同 ここまでのプロセスを知らないと、彼の活動の意味がよくわからない、ということになるのだろう。今から読もうとしている「仏教と瞑想」の原著は1969年発行だから、この時期の彼の考えを表していることになるだろう。 アメリカに移ったトゥルンパは、1968年にアメリカでも出版された本書(「チベットに生まれて」)と引き続き翌年にでたMeditation in Action(「仏教と瞑想」)の二著書を通じて得た信者のバックアップにより、バーモント州とコロラド州に拠点を確保。さらに、アメリカ、カナダ各地に、Dharmadhatu「法界」とよぶ仏教瞑想所をおき、その中心としてコロラド州のボールダー(Boulder)に、Vajradhatu「金剛界」センターを設立する。p330 同 このセンターがあったからこそ、パンタ笛吹はボールダーに渡って「寿司三昧」を開いたのだろうし、ぺマ・チョドロンのような西洋人の弟子も多く誕生した、ということになるだろう。 西洋社会に仏教を根づかせたいというトゥルンパの願いは、その精力的な努力によって最初の大きなハードルを越えたのである。その半面、交通事故の後遺症は癒えず、過労と飲酒が重なってトゥルンパの健康は急速にむしばまれていった。長年の献身的な弟子であるオセル・テンジンを後継者に選んだトゥルンパ・トゥルクは、1987年その波乱に満ちた48年の人生を閉じた。p331 同 オセル・テンジンは検索してもでてこないので、現在どうなっているかわからないが、1987年没といえば、すでにOshoがオレゴンから退出してインドにもどっていた時期だ。ひょっとすると、新しい法の流れはインドからイギリス、そしてアメリカへとわたって花咲くとしていたOshoは、このチョギャム・トゥルンパの流れなどをひとつの参考にしていたかもしれない。宮内勝典などにいわせれば、すでにアメリカはチベット密教やインド神秘主義などには飽きてしまっていた時期、ということになろうか。 ここで気になるのは、チベット密教の独壇場である「活仏」制度だが、西洋で活動して、弟子の一人を後継者に指名してなくなった「活仏」の場合は、どのようにその法統(タントラ)は続いていくのだろう、という点だ。 高度な精神段階に到達したが、まだ解脱にいたる前に死んだ者が、その目的を成就するために転生することもある。また、「祝福のトュルク」(ママ)といわれる転生もある。ひとびとから敬愛された高僧(ラマ)が死んだとき、その弟子たちがラマと関わりのふかい他の(通常おなじ派の)高僧に、なくなったラマの精神を受け継いでくれるよう頼むことがある。それをうけて、死去したラマは、自分にかわって教えを遂行してくれる者のうえに祝福をあたえる。祝福をうけた者は、なくなったラマの精神の力を受け継ぎ、永続させることによって、転生化身となるのである。 上述した複数の転生化身のばあい、そのおおくは5人で、ひとりがなくなった専任ラマの姿[身]を、ひとりがことば[口]を、ひとりが思考[意]を、ひとりが活動を、そしてひとりが資質を具現するのである。p321 補遺2 「チベット仏教においてもっとも重要でありながらもよく誤解される転生活仏の思想」については、日本においては、山口瑞鳳「チベット」上巻に詳しいという。 一人の活仏が5人の弟子に継承されるということは、拡大してすべての弟子に継承されるということも有り得る可能性もゼロではないだろう。 補遺1にある「東チベットのカギュ派僧院の管理機構と役職名」は参考文献として貴重である。あるいは、中国共産党におけるチベットへの圧力については、この本においてもかなりの量が書かれているが、さてそれについて、このブログとしては、どう探りをいれていけばよいか、今のところはわからない。ただ、無視はできない。「人権・民主化・亡命政府関連 」というページには、おびただしい情報があるが、なかなか直視できない。 <2>につづく
2007.03.29
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「宇宙のダルマ」 ダライ・ラマ十四世 永沢哲・訳 1996/11 原著 THE WORLD OF TIBET BUDDHISM 1995 本書は英語本で1995年、日本語訳が1996年に出版されているが、その元となっているダライ・ラマの講演は、1988年にロンドンで行なわれている。チベット密教について、あるいはチベット密教という入口から見た仏教、あるいは仏教から見た地球精神というものについて、極めて誠実に説得力ある形で、しかもじつにコンパクトにまとめられている。この本の英語版の出版には、ギヤ基金、つまりチベット密教の擁護者で有名な映画俳優・リチャード・ギヤの援助があったようだ。 このブログのような読書マラソンの最中の一冊としてこのような深遠な本を読んでいいのかどうか悩むところもあるが、まったくこのような素晴らしい本があることを気づかずに一生を終わるよりも、すこしでも目を通しておいたほうがいいだろう。機会があれば再読・精読の必要な一冊である。 こうしてみていると、チベット密教にもいろいろな面があり、ダライ・ラマは、チベット密教の表の表を表しているのではないだろうか、と思う。そうすると、さしずめ、表の裏は、このブログで言えば、中沢新一あたりにつらなってくるニンマ派やその他のオーソドックスな伝統的チベット密教ということになるだろうか。では、裏の表は誰か、といえば、現代カギュ派の異才、チョギャム・トゥルンパあたりということになるか。さらに、チベット密教の裏の裏、まったく秘された部分の代表はといえば、意外にこのブログにおいては、Oshoということになるだろうと思う。それは、「チベット密教」という世界観で見れば、ということであって、逆にこの世界観の袋を全く裏返しにひっくり返してみれば、表の表は、意外や意外、ということになっている可能性もある。 仏陀が初めてかつての仲間達に説いた初転法輪、霊鷲山で「空の教え」を説いた第二転法輪、さらにつづく第三転法輪(如来蔵)には、様々な教えが含まれている。「タントラ」は連続性として知られ、輪廻はタントラだとみなされている。「その後」とは、越える、を意味し、涅槃はタントラの後にくる。 p42 このレトリックで言えば、このブログのテーマ「『彼』以降やってくる人々」とは、『彼』のエピゴーネンとしての追随者、という意味ではない。『彼』を超えてくるもの、という意味になる。タントラを超えてさらにやってくる涅槃、ということになるか。 最初の所作タントラでは、魅力的な異性を見つめることから生じる欲望を、道とします。残りの三つのクラスの密教は、それぞれ、異性に微笑みかけいっしょに笑うことから生れる欲望、手を触れたり握ったりするときに感じる欲望、セックスそのものの欲望を身とするのです。p141 このようなチベット密教、タントラにおいて、道は大変起伏に富んでおり、師の存在は不可欠とされる。一時かまびすしかったグルイズム(批判)の声も多かったが、チベット密教においては師のイニシエーションは不可欠である。 灌頂の儀式を行なうときには、マンダラが必要です。マンダラとは天上の神殿、本尊の浄土です。マンダラには、三昧の深い意識集中によって生み出されるマンダラ、布に描かれたマンダラ、そして色のついた砂で作られたマンダラというように、多くの種類があります。無上ヨーガタントラには、導師の身体のマンダラというのもあります。また、世俗菩薩心マンダラや、勝義菩提心マンダラなどもあります。p147 「マンダラ瞑想法」などという本もあったが、やはりマンダラは簡単にまとめて理解はできないようだ。 密教の灌頂の儀式を授ける導師は、これらの必要な資質を実際に持っていなくてはなりませんが、その一方で、弟子は、導師として教えを受けたいと思った相手が、本当にこれらの資質を持っているかどうか吟味することが必要です。この点について、密教では口を酸っぱくして強調します。たとえ12年かかっても、導師にすべきかどうか、しっかり吟味すべきだ、とよく言われています。p149 まぁ、そういった意味では、中沢新一の「虹の階梯」などのようなものは、最初から導師のイニシエーションを受けるための準備が本当に十分だったかどうか、を再検討する必要があるかもしれない。カスタネダの「ドンファンの教え」も確かに、ちょっとやそっとでは、イニシエーションを受けることはできなかった。あるいは、グルとしては83年から95年までしか存在しえなかった麻原は、自らの本性が12年で暴露されてしまった、ということもできる。しかしながら、95年の12年後の現在において、もし麻原のような存在に「帰依」する動きがいまだにごく一部とは言え存在するとすれば、人間の頑迷さには限りがない、ということになるだろう。 この本の日本語訳はとても素敵でとても読みやすい。ダライラマの人柄が、日本語の仏教文化を超えて、より分かりやすく親しみやすい。ただし、「宇宙のダルマ」という日本語訳のタイトルはどうかなぁ、と思った。せっかくのダライ・ラマの明瞭さが、曖昧な方向へ、押し戻されている感じがした。
2007.03.28
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「マンダラ瞑想法」 密教のフィールドワーク 立川武蔵 1997/9 角川選書 立川武蔵には「チベット密教の神秘」 や「チベット密教」 の共著がある。そのネットワークは、現在の日本においてチベット密教の情報を集めようとしたら、決して無視はできない存在と言えるだろう。しかし、「密教のフィールドワーク」という副題に比して、レビィ=ストロースの人類学的フィールドワーク風な手法を取っているようでもなく、カルロス・カスタネダの「ドンファンの教え」のような一貫性もないように思う。 この本を読んでの一番の違和感は、90年代初頭から1997年までにかかれた文章であるにも関わらず、麻原集団について一切触れていないことである。単語さえもでてこない。それは一つの求道者としての矜持である、と見ることもできるし、同時代に対する無関心、無責任、と見ることもできる。あるいは、ちょっとタイミングがずれている、と言っていいのかも知れない。 密教の観想法、修験の修法、憑依。どれも実際に体験することはすこぶる困難だ。しかし、それらを「内的に」観察できるほどに肉迫できなければ、宗教体験の本質はわからないであろう。ならば実際にそれらの修法や体験の「なかに身をおいて」理解してみよう、とわたしは思い立った。本書の副題が「密教のフィールドワーク」と名づけられたのはそのような理由による。p11 それはある意味、中沢新一の「虹の階梯」にも通じるところもあるのだが、どうも何かのピントがはずれているような感じがする。それは、立川自身んが「あとがき」で書いているように「不明なことは増えたが、明らかとなったことはごくわずかなようだ」p251と思える。既知、未知、不可知、という意味での「不明なこと」ではなく、ますます迷いの只中に押しやられてしまった、という感じがある。つまり「さとり」がない。 妻はこの数年のわたしをみながら「壁の向こうに行ってしまったら、離婚だ」といいつづけてきた。コントロールの利かなくなった気球のようなわたしと現実とを結びつづけてくれた妻にも感謝したい。p254 この文章は1997年5月の文章だ。チベットやアジアに遊ぶ立川自身は、まったく無視続けたとしても、(たぶん)日本社会に住む「妻」は、おびただしい量で流される麻原集団の情報にさらされ続けていたはずだ。同じようなフィールドワークの立役者・中沢新一はこの時代に、最大限に叩かれている。その辺の超時代性は、この著者の長所なのか、短所なのか、いまのところは判断がつかない。この辺の「鈍感さ」は、著者がインド・プーナ市のバンダルカル研究所を訪れていながらp148、Oshoに触れていないところにも現れているように思うのだが、どうだろう。 「第三章 文殊を見たツォンカパ---チベット仏教と観想法」p53において、チベット密教中興の祖ツォンカパに触れている。 ゲルク派の開祖ツォンカパは、チベット仏教の宗教改革を行なった人物であり、その後のチベット仏教の理論体系と実践形態とをかたちづくった人物といっても過言ではない。彼は比丘としては厳密な戒律を守り、インドより伝えられた論理学、認識論、世界観などの知の体系を重んじ、さらにインド後期密教の主要な経典に注釈を施している。「密教的ヨーガ」の実習の手引き書も著している。後世、ゲルク派の座主がモンゴルから「ダライ・ラマ」の称号を与えられて、ダライ・ラマ制度が生まれた。現在のダライ・ラマは14世である。p61 この本のタイトルは「マンダラ瞑想法」となっているが、必ずしも、完成された一貫した瞑想法が紹介されているわけではない。 マンダラは、当初は主として入門儀礼において弟子に灌頂を授ける場をつくるための手段であったが、後世には瞑想のための手段としての機能も重要なものとなった。ここでいう瞑想とは、マンダラ図を前にして、あるいはそれを思い描きながら、マンダラのなかの仏や菩薩たちと「一体となること」を体得する密教のヨーガのことである。この瞑想が、マンダラ瞑想法として仏教タントリズムの主要な実践方法として、長く伝えられてきた。p27 以上のように、言葉でいうのは簡単だが、一生かかってもできないものはできない。本書とは関係ないが、Oshoには「OSHOマンダラ・メディテーション」がある。チベット密教で使われる「曼荼羅図」とはなんの関係もないが、実際に行なってみると、相当にパワフルな瞑想法である。
2007.03.28
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「チベット密教新装版」 シリーズ密教2 <初読> 立川武蔵・頼富本宏・編 新装版2005/8 初版1999/8 春秋社 二人の編者のほかに、田中公明、正木晃、ツルティム・ケサン、などなど総勢15名の学者たちによるチベット密教研究のオムニバス。「インド密教」「チベット密教」「中国密教」「日本密教」という全4冊シリーズの中の、第二冊目ということになる。この一冊だけでも、相当にくわしいチベット密教の流れがわかるが、インド→チベット→中国→日本、という図式の中で、密教の流れを俯瞰することもいずれはしなければならないだろう。その時、この4冊を通して読んでみることは、チベット密教の「密度」を感じる上で有意義なことだろうと期待できる。 さて、この本において、分かったことがいくつかある。 チベットがインドで発達した密教を受け入れようとしていた13世紀初頭には、イスラム世界、インド、モンゴルでは決定的な変化が起きていた。1203には仏教の大僧院ヴィクラマシーラがイスラム教徒によって滅ぼされている。 インド大乗仏教が亡びるとほとんど同時に、インドは長いイスラム支配の時期に入る。一方、1207年にはチンギス・ハーンはチベットの首長たちを降伏させた。この頃からすでにモンゴルの脅威は現実的なものとなっていたのである。モンゴルは1211-1215年に金帝国を攻撃し、数年後には西夏帝国を亡ぼしている。つまり、カギュやサキャの宗派が成立して一世紀ほどで、すでにチベットは非常に危険な状態に置かれていたことになる。p20 700年前のチベットはこのような状態だったのである。そして、カギュ派が置かれていた状態も推測できる。モンゴルからの攻勢により、密教の密教たる部分が地中にもぐり、埋蔵経と化してしまったことは容易に判断できる。 モンゴルはしかしチベットを亡ぼさなかった。それはモンゴルがチベット人の文書作成能力と精緻な体系に仕上がっていた仏教システムを、自分たちの国のために役立てようと思ったからだ。モンゴルのゴダン・ハーンはサキャ派の指導者サキャパンチェン(サキャパンディタ)を強引にモンゴルに招いた。サキャパンチェンは「皆殺しになるのを避けるためにモンゴルに従ったほうがよい」とチベット人たちに手紙を書いている。 ともあれチベット人たちは知識人であったことが幸いして生き永らえることができた。モンゴルと結びついたサキャ派の勢力が衰えると、カギュ派の一派パクモトゥ派が権力を有するといったように、チベットはモンゴル(元朝)との友好関係を保ちながら、自国の中の抗争に終始した。p20 チベット密教史上数千年の歴史の中で、もっとも画期的人物とされるツォンカパは1357年生まれだから、それ以前ということになる。ツォンカパはゲルク派を開宗し、15世紀以降のチベットの歴史つまり「近世」の仏教史の方向を定めたp51される人物である。 ミラレーパは84歳で生涯を閉じ、残された8人の高弟のうち、5人までは教えを説かずに定に入り、残る二人は教えを伝えたという。 この二人の高弟とは、太陽のような悟りに達したといわれるタクポラジェ(Dvagas po Iha rie 1079-1153)と、月のような悟りに達したといわれるレーチュンパ(Ras chung pa 1084-1161)である。前者は若い頃、タクポ地方の医者(ラジェ)であったが、流行病にかかった妻と二人の子どもを救えなかったため、医術をすてて出家した。カダム派のシュワリパより具足戒を受け、カダム派の法を学んでいたが、32歳の頃、放浪の詩人ミラレーパの令名を聞きそのもとに馳せ参じて師事した。タクポラジェは13カ月の間ミラレーパから法を聞き、タクポ地方に戻って隠遁修行に入り悟りを開いた。主著「道次第、解脱の飾り」(Lam rim thar rygan)は、ミラレーパより伝えられたマハームドラーの法とカダム派の修行階梯とを結び付ける思想を説き、この教義を奉じた弟子たちの中から数々の教団が生まれた。p42 ここで気になるのは、ミラレパの8人の高弟のうち、その教えを伝えたとされる二人の弟子のうち、多くの流れを作った「太陽のような悟り」のタクラポラジェではなく、「月のような悟り」に達したとされるレーチュンパである。分派相関図をみるとレーチェンパの法統は継続者は途絶えているようだが、この後継者の位置にどのような動きがあったのかを探ってみるのも面白いと思う。とりあえず、このブログでは、ここに焦点をあてていってみよう。この時期に、他においては沢山のことがおきていた。 元来、密教者の中には教学の体系化や教団の組織化といった内的衝動は存在しないが、タクラポラジェがカダム派という顕教の教えを導入したため、カギュ派の教学の体系化や教団化の傾向が始まったのである。 タクラポジェの門下から生じたカギュ派の主な分派には、パクモトゥは、バロム派、ドゥク派、ツェル派、ディクン派、カルマ派、トブ派、マルツァン派、イェル派、シュクセプ派、ヤーサン派がある。 このうち最も規模が大きいのがカルマ・カギュ派である。カルマ派はタクラポジェの弟子であるトゥースムキェンパ(Dus gsum mkhyen pa) 1110-1193)によって創始されたもので、その本拠地は同人が1189年にラサの北東に建立したツルプ寺(mTshur pu)にある。本寺の座主はトゥースムキュンパの転生者によって継承され、歴代のカルマパは明の皇帝の帰依を受けて大きな政治勢力を誇った。また、その著名な弟子たちも転生を繰り返してカルマパと師弟関係を結びつづけている。 たとえば、カルマパ3世は弟子であるタクパセング(1283-1349)の転生者が紅帽(zhwa dmar)活仏系譜を、5世カルマパの弟子チューキギェルチェン(1377-1448)の転生者がシトゥ(si tu)活仏系譜を、6世カルマパの弟子ゴジペルジョルルンドゥプ(1427-1489)がギェルツァプ(rgyal tshab)活仏系譜を、8世カルマパの弟子チューサンルンドゥプ(1440-1503)の転生者はパオ(dpa bo)活仏系譜を織りなした。これらの四活仏は、カルマパが逝去してから時代のカルマパが成人するまでの間、摂政となってカルマ派の政務や宗務を代行する習わしがある。p43 後世においての歴史家達の分類というものが、新しい学説によって覆されたりすことは常にあることだし、また、その流れを文字通り読んでしまうことに、真実を見落とす可能性も常にあるのだが、一般的な流れとして、当時の状況を把握しておくことは大事なことだろうと思う。 カギュ派と総称される宗派には当初から二つの系統があった。ひとつはキュンポ(Khyung po 990-1139)を祖とするシャンパ・カギュ派と、マルパ(Mar pa 1012-1097)を祖とするマルパ・カギュ派である。マルパの弟子には有名なミラレーパ(Mi la ras pa 1040-11123)がいる。ミラレーパは宗教詩人としても有名で、彼が自伝風に綴った歌謡集の「十万歌謡グルブム」(mGur 'bum)はチベットの代表的な文学であり、手を顔の横にかざして朗々と即興詩を歌っている彼の姿を描いた絵画は、チベット人が最も好む画題でもある。 ミラレーパの重要な弟子にガムポパ(sGam po pa 1079-1153)がいる。それまでのカギュ派が山中での個人的な修行を伝えていたのに対して、ガムポパ以降は僧院で弟子を養成する大きな教団となった。ガムポパには数々の弟子がいたが、その中の一人であるトゥースムキェンパ(Dus Gsum mkhyen pa 1110-1193)から支派のカルマ派が成立し、別の弟子のパクモトゥパ(Phag mo gru pa 1110-1170)からはパクモトゥ派が成立した。両者とも強大な支持氏族を得て勢力をのばして、やがて大きな政治勢力にも発展した。 カルマ派には黒帽派と赤帽派があるが、黒帽派の祖師の中には有名なランチェンドルジェ(Rang byung rdorje 1284-1339)やミキュードルジェ(Mi bskyod rdo rje 1507-1554)がいて、師子相承を表した絵画が多く描かれた。p190 第9章の田中公明が担当した「チベット仏教美術」についての文章も、的確な指摘をしているので、長文だが抜書きしておく。 近年、チベットに対する関心の高まりにつれて、従来、わが国ではまたっく無視されていたチベット仏教美術も、しだいに世間の注目を集めるようになってきた。 チベット仏教美術、とくにタンカと呼ばれる軸装の仏画は、容易に持ち運びができたので、チベット動乱から文化大革命に至るチベット仏教の受難期に、多数の優品が国外に流出した。文化代革命の期間中、中国国内では多くのチベット寺院が破壊され、多数の文化財が失われた。亡命チベット人により、国外に持ち出された作品が難を逃れたのは、不幸中の幸いというべきであった。 しかしながら生活に困窮していた亡命者は、せっかく持ち出した美術品を処分せざるをえなかった。当時日本は昭和30年代で、外貨の持ち出しさえ規制されていた時期である。これらの美術品を購入したのは、主として第二次世界大戦の戦勝国であった。かくして1959年のチベット動乱以後、多量のチベット仏教美術が、欧米のコレクターに所蔵されることになった。 これに対してわが国は、バブル経済の時代から、チベット仏教美術が一部の美術愛好家の注目を集めるようになったが、すでに多くの優品が欧米のコレクターの所有に帰していたため、わが国に所蔵されるチベット仏教美術は、欧米の一流コレクションに比して、質量ともに遠く及ばないのが実情である。 このような状況の中、1997年に東京をはじめ全国3ヵ所を巡回した「天空の秘宝 チベット密教美術展」は、わが国におけるチベット美術の歴史上、画期的なイベントとなった。従来のわが国では、チベット仏教美術というと、「安物」「得体の知れない奇怪な美術」「いかがわしい作品」というネガティブな評価がつきまとっていたが、この展示を見て、従来の先入観を改めた美術愛好家も多かったのではないかと思う。p163再読 2008/08/31
2007.03.23
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「チベットの生きる魔法」 ぺマ・チョドロン えのめ有実子・訳 2002/2 はまの出版 原著THE PLACES THAT SCARE YOU 2001 チョギャム・トゥルンパに1974年に帰依したアメリカ人女性が、2001に書いた本ということだから、四半世紀にわたってその影響下で仏教を学んだ人の本ということになる。もともとの英文のタイトル「THE PLACES THAT SCARE YOU」と「チベットの生きる魔法」とでは、かなりのイメージの違いがある。しかし、どうも日本の出版不況のこの時代においては、マーケティングのためにこのようなタイトルになってしまうのは、いかしかたなかったのか、とも思う。 たしかにカギュー派の祖師たち、マルパ、ナロパ、ミラレパなどの逸話がでてくるが、これらの話は、ゴータマ・ブッタその人の逸話と同じほどに現在では一般的になっている。マザーテレサやキング牧師、ベトナム出身の禅僧テッィク・ナット・ハンなどの言葉が引用されたりしているので、かならずしも、チベット、と限定すべき本でもないような感じがする。ましてここで「魔法」とつけてしまったのは、さてどうなのかな。この本で言われるところのこの魔法とは、ボーディチッタののことであろうか? 「ボーディチッタとは何ですか」と仏陀に尋ねるとしたら、このままのほうがわかりやすいから翻訳するな、と答えられるでしょう。自分たちの生活の中にこの言葉の意味を見つけなさい、とおっしゃると思います。さらに、私たちを癒し、かたくなな心や、偏見と恐れで凝り固まった精神を一変させることができるのは、ボーディチッタだけだとおっしゃるかもしれません。どういうことでしょう。 チッタとは「精神」または「心」、あるいは「態度」のことです。ボーディとは「目覚める」、「悟っている」、あるいは「完全に開け放つ」という意味です。完全に開け放たれた心と精神であるボーディチッタは、「柔らかい所」と呼ばれたりもします。むきだしの傷のように、もろく感じやすい場所だからです。「愛する心」と言ってもいいでしょう。p14 カギュー派の痕跡を尋ねてこの本にあたっているのだが、その師のチョギャム・トゥルンパは、晩年還俗し、しかも87年に亡くなっている、ということだから、この著者にして、むしろ、チベット密教から入って、仏教のオーソドックスな教義にたどりついた、といえなくもない。この本で紹介されているチョギャム・トゥルンパの言葉も、極めて完結で、ごく日常的な言葉遣いがされている。 「無常」や「無我」、「苦」とうまくつきあうことが、自分にはできるだろうかと疑問に思ったとき、私はトゥルンパ・リンポチェが、「天気に文句を言うことはできないよ」と陽気に言った言葉を思い出して、元気を取り戻します。人生の現実に文句を言ったところで、はじまりません。p47 瞑想は、個人的な闘いから国家間の争いまで、あらゆる戦争状態を克服するための、有効で実に素晴らしい方法である。p49 トゥルンパ・リンポチェは生徒たちに、変わり者の戦士になりなさい、自分のエゴと戦いなさいと言っていました。シャワーを浴びるときは、ラジオを聴いたり鼻歌を歌ったりするかわりに、自分のエゴに話しかけなさいと教えました。「エゴ君、あんたはいつも僕にいい問題を出してくれた。おかげですごく賢くなった。だから、もう一日たりとてあなたの支持は受けないよ」p152 穏やかな庭でまどろむあなたに、目覚めのココナッツが降り注ぎますように。 p157 心の友の本当の役目は、侮辱することだ。p201 などなど、孫引きしただけでは、元の言葉の本来の意味が失われてしまう可能性もあるが、すくなくとも著者は、このような言葉にインスピレーションを感じてきたことに変わりはない。 1974年に、私がトゥルンパ・リンポチェに彼の生徒になってもいいかと尋ねたときも、無条件の関係を結ぶ心構えは、まったくできていませんでした。でも私は生れてはじめて、何ものにもとらわれない人、決して流されない心を持った人に出会ったのでした。彼の指導を受けながら、私もそんな人間になれるのだと思いました。 彼は魅力的でした。彼にはどんなごまかしも通らなかったからです。彼は人々の気持ちをとらわれから切り離す方法を知っていました。私もその切り離しを体験しました。はじめは恐ろしさをかんじましたが、実にさわやかな気分になりました。それでも、その関係に完全に身を委ねられるほどの信頼とマイトリを培うのには、何年もかかりました。エゴを脅かす人物に近づくには、時間がかかるのです。p202 彼女は、2002年現在、西洋人のために北米で最初に設立されたチベット僧院であり、カナダのノバ・スコシア州ケープ・プレントンにある「ガンポ・アピー」で教えているとのことである。
2007.03.22
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「タントラライフ」 変容のヴィジョン ラダ・C・ルーリオ著 澤西康史・訳 2003/10 和尚エンタープライズジャパン 原著2002 この本はOshoの側で永く暮らした女性サニヤシンの回顧録であり、ライフストーリーであり、彼女自身のセラピーへの招待状でもある。本の種類としては、「和尚との至高の瞬間(とき)」や、「一万人のブッダたちへの百話」、「和尚と過ごしたダイアモンドの日々」などと同じカテゴリーということになるだろうか。側にいた者しか書けない記録でもあるし、そこで生きた一人のサニヤシンとしての真摯な探究である。タントラ、というジャンルで言えば、「チベット密教」に始まるこのブログでのタントリズムの中で読まれることもあるだろうし、「和尚(ラジニーシ)、性愛を語る」のような本と合わせて読まれると、よりその重層さがかもしだされてくるかも知れない。 このような本は誰にでも書けるものではない。その特別な立場でなければ、このような貴重な体験はできなかっただろうし、その体験は多くの人々の関心を引くだろう。また、そのことに対してオープンで、詳しく自己開示しようとする姿勢がなければ、このような本は出来上がらなかっただろう。長い長いストーリーなので、簡単な録忘備録ですべてを書き残すことはできないが、感じたポイントだけを簡単にメモをしておこう。 最近、日本で話題になった石原真理子の「ふぞろいな秘密」を思い出しそうな、次から次へと現れる異性との交際録は、読まされるほうとしては、あまり快適ではない。これがまぁ、女性が書いたものだから、書かれた男性はお気の毒とは想うけど、仮に男性が、自分の遍歴した女性のことをニックネームとは言え、第三者にも分かるような形で書いたら、多分に一斉にパージされるに違いない。このブログで読んできた平野啓一郎や村上春樹の小説にしても、どうも、ながながと性愛のことが書かれて半分うんざりするし、瀬戸しおりのような若き女性が「早すぎた自叙伝」を書いていても、どこまでがどうなのかはわからないが、はっきり言って、ここまで書いてしまっていいのかなぁ、と思ってしまう。 この本の著者であるラダについても、前半で繰り返されるラブアフェアについての記録は、私にとってはあまり読みたくない部分だが、この本のストーリー、あるいは彼女自身のライフストーリーとしては、その部分を抜いてはワサビの利いていない刺身のようになってしまうのかもしれない。ましてや、この本のタイトルはタントラライフである。ひからびた教義ではなく、いきいきとしたバイタルな人生を生きようとする著者ならば、このようなことが、ストーリーのなかにちりばめられてこその一冊、となるのだろうか。 このような本として書かれるものは、どこまでが真実で、どこからは隠してあるのか(意図する、しない、に関わらず)は明瞭ではないが、Oshoとのラブアフェアめいた部分は、ちょっと、他で読んだことがないので、ドキッとする。 わたしは言葉にしがたい体験を内にとどめたい。内にとどめることで大きなパワーがもたらされる。和尚と何度か彼の私室で会ったときに、そのささやきによる伝授のなかで、彼はわたしに「体験を内にとどめること」を求めた。それがわたしのなかに今までになく大きなタントラの経験を生み出した。「この体験がなにかということではなくて、それを内にとどめることが大切なんだ」と和尚はわたしに言った。p335 この本のなかで、ラダは、アメリカにおけるロールスロイスについて、すなおに疑問を呈している。最初彼女がオレゴンのコミューンについた時は、約50台だったロールスロイスは、彼女の知る限り、最後は99台になったという。私は今まで、93台が最高だと思っていたから、ちょっとへ~と思った。彼女の口ぶりからすると、オレゴンのコミューンは「失敗」だった、というニュアンスが強い。勿論、そこで体験されたさまざまなことは、ひとつひとつが貴重なことであるが、実際に「まきこまれた」人々にとっては、理解しがたいことも多々あったようだ。 私は、自分の理解できる範囲でOshoとつきあってきたので、あまりオレゴン時代の「被害」というものがないので、ついつい「美化」しやすくなるが、この辺は素直にラダの意見も聞いておきたい。 この本の後半においては、ライヒの心理学やタントリズムの流れに触れていて、彼女なりのチベット密教やヒンドゥイズムについての見解がわかる。その見解は、一般に研究されているものと、それほど大きく変わるものではなく、このブログでもみてきた本などと重なる点が多い。しかしながら、その中にあって、このOshoの存在や、ラダ自身の体験を位置づけようとすると、それらが無関係ではないにも関わらず、ほとんど不可能であることに気づく。 内側と外側の二つの世界のバランスを取るには知性が必要だが、その挑戦は受けて立つに値する。そうでなかったら、タントラはタントラとは言えない。 タントラは過去に失敗したが、そこにはわたしたち全員にとっての教訓がある。今日、タントラはふたたび世界的なムーブメントになろうとしているが、わたしにの見るところ、何世紀にも前に失敗を招いたのと同じ過ちが犯されている。それはバランスの喪失だ。この過ちを理解することは、この貴重な変容の手法を守るために役立つかもしれない。p316 彼女がいう、この「内側と外側のバランス」については、続いて紹介されている彼女がリードするサイコセラピー・グループのプロセスを読むと、いくらかは理解することができるが、極めて感性的なものであり、明瞭に理論化や教義化されているものではない。しかし、その指摘は妥当なものであろうと思われる。 チベット密教やタントリズムを研究するだけでなく、現代人類に役立つものとして実践しようとする場合、カギュー派の技法をアメリカや欧米に最初に伝えたと言われるチョギャム・トウルンパの生涯や業績を振り返り、Oshoのそれと比較することによって、見えてくるものがあるかもしれない。この点については、私はあまり楽観的ではないが、そこに一縷の望みを託しておこうと思う。
2007.03.21
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「反逆のブッダ」 Oshoの軌跡 <1>ヴァサント・ジョシ著 プラブッタ訳 1984/10 めるくまーる社 原著1982 本日は、1953年3月21日にOshoがエンライトメントしたといわれている日から数えて、丁度54年目に当たる日である。かつてはその弟子達によって、エンライトメント・ディーとして盛大にお祝いされたものであるが、現在は、特にこの日を限ってお祝いすることもなくなり、弟子達もそういわれなければ、すっかり忘れてしまって(いるわけでもないが・笑)ご先祖さまのお墓参りにいったりしている。 54年前、21歳の青年の身の上に何が起こったのかは、このすでに絶版になっている「反逆のブッダ」からの抜粋を掲載してくれている、こちらのページに譲る。私の方は、このブログでこだわり続けている700年前のチベット、というところを、この本から抜書きさせてもらおうと思う。------------------------- ラジニーシの誕生はありきたりのものではなかった。それは真理を求めて以前にもこの地上を歩いた者の誕生だったからである。 彼は以前にもさまざまな流派、さまざまな体系(システム)を通じて数々の道を歩いたことがある。今回までの最後の生は700年前で、山中に神秘教団をひきい、遠国から多くの伝統や道に属する弟子たちを集めていた。その師(マスター)は106歳まで生きたが、死を前にして終了時には光明に至る21日間の断食にはいった。p41------------------------- これは本当の話だ。700年前、わたしの前回の生において、死の直前に21日間の断食をするという霊的(スピリチュアル)な修行がおこなわれていた。わたしは21日間の完全な断食ののち、肉体を捨てることになっていた。これはいくつかの根拠があるのだが、わたしはその21日間をまっとうすることができなかった。3日が残った。その3日間を、わたしは今生で終わらせなければならかった。今生はそのときからの続きなのだ。・・・・・ 前回の生であと3日間を残すばかりとなったとき、わたしは殺された。ほんの3日前に殺されたために、21日間を完了することができず、3日間がやり残しになってしまった。今生で、その3日間を完了したわけだ(4日目にはじめて乳を飲むことで)。p43 その殺人は重要なものとなった。死に際して、その3日間が残されたのだ。前回の生における光明をめざす大きな努力をしたおかげで、今生では、その3日間で達成できたはずのものを21年かかって成就することができた。前生のその3日間の一日について、今生では7年間を費やさなければならなかったわけだ。p45 この生において、死の瞬間に無意識におちいることなく、完全に醒めたまま死ぬことができれば・・・あなたは完全に意識を保ちつづける。死のあらゆる段階をすべて目のあたりにする。一歩一歩、その足音を聞きながら、しかも完全に醒めていて、肉体が死んでゆくこと、心(マインド)が消え失せてゆくことを見ている。それでもなおかつ、あなたは完全に醒めているのだ。・・・・すると突然、あなたは自分が肉体のなかにおらず、意識は肉体を離れてしまっていることに気づく。死んだからだはここにあって、あなたはその肉体のまわりを浮遊しているのだ。 もし自分が死んでゆくあいだも醒めていることができたなら、それはもう誕生の一部、その一側面にほかならない。もしこの側面について醒めていたならば、自分が受胎されるところにも醒めていられるだろう。あなたはひと組のカップルが愛を交わしているまわりを浮かび漂って、完全に醒めている。そして、完全に醒めたまま子宮のなかにはいる。その子どもは、何が起こっているのか完全に醒めたまま受胎される。 母親の胎内ですごす9か月間も、あなたは醒めているだろう。あなたが醒めているだけじゃない。仏陀のような子どもが胎内にいると、母親も質までかわってくる。彼女は以前よりもっと醒める・・・・母親は、たちまち意識が変化するのを感じるだろう。p46 わたしを信じてくれるなら、その苦痛は死よりも大きい。・・・・誕生は苦しみのはじまりであり、死はその終わりだ。だとすれば、誕生の方が苦痛でなければならない。そして、そのとおりなのだ! 9か月間の全面的な休息、リラクゼーション。なにも心配はなく、なにもやることはない。そうした9か月のあと、外に放り出されるのは、じつに突然の大ショックだ。二度とふたたび、神経組織がそれほどのショックに襲われることはない。二度とふたたびだ! p47 時間測定は肉体があってはじめて成立する。肉体を離れたところでは、700年だろうが7000年だろうがなんの変わりもない。その差は肉体を獲得してはじめてあらわれるのだ。 p49 たとえば、ある人を700年前にのわたしの人生で知っていたとしよう。そのときからいままでは、わたしにとってはギャップがあったが、その人の方は10回も生まれ変わったかもしれない。けれども、その人にはその10回んぼ過去生の記憶がある。その記憶をもとにしてはじめて、わたしは自分がどのくらい肉体をもたずにいたかを算出できるのだ。p49 それはだいたいつぎのようなものだといえる。 しばらくのあいだ、わたしは眠っている夢を見る。その夢のなかで、何年もの時がたったと思っている。と、そのうちあなたがわたしを起こして、わたしがうとうとしていたこを教えてくれる。 ・・・・夢のなかでは、数年間という長さを一瞬にうちに見れるのだ。夢のなかの時間尺度はこの現実とはちがう。もし、夢からさめてもいつ眠りこんだのかを知る手だてがなかったら、どのぐらい眠ったのかを決めるのは困難だろう。 それは時計でしかわからない。たとえば、眠る前は12時、いま起きてみるとまだ12時1分にしかなっていないというぐあいだ。さもなければ、脇にだれかいなければわからない。ほかに知る方法がないのだ。つまり、こういう方法ではじめて、700年という時間の経過を確定できたわけだ。p50 だから、わずかながらわたしが自分の過去生について話して聞かせたのは、それになんらかの価値があるからでも、あなた方にわたしのことを知ってもらうためでもない。この話をしたのは、あなた方が自分自身をかえりみて、自分の過去生を探ってみようと思い立てば、という気持ちからにすぎない。 自分自身の過去生を知った瞬間、そこにはスピリチュアルな革命と進化が起こるだろう。そうすれば、あなたは前回の生で立ち止まった地点から出発することができるのだ。さもなければ、無限の生のなかで、迷子になって、どこにもたどり着くまい。そこにはくり返しがあるばかりだろう。 p51 <2>につづく
2007.03.21
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「タントラへの道」 精神の物質主義を断ち切って<1> チョギャム・トゥルンパ 風砂子・デ・アンジェリス・訳 1981/10 めるくまーる社 原著 1973 Cutting Through Spritual Materialism この本は「虹の階梯」とほぼ同時期にでている。現代におけるカギュー派の現代の活仏というと、このチョギャム・トゥルンパを思い出さないわけにはいかない。このブログでは漠然とチベットというキーワードで本を読んでいくのではなく、とりあえず、このカギュー派にすこしこだわってみようか、と想い始めた。 1939年、東チベットに生まれ、生後まもなくスルマン僧院の院長という伝統ある座に11代目トゥルンパとして就任する。44年、大修道院長に任命され、以後徹底した仏教教育を受けた。58年には、西洋の神学博士号に相当するキャルポンの学位を授けられている。翌年、ダライ・ラマから、インド・ダルハウジーの青年ラマ僧研修所の精神的アドバイザーに任命された。63年から67年まで、イギリスのオックスフォード大学に留学、比較宗教学、哲学、美術を修めた。p4 大修道院長に任命されたとされるのが5歳の時。この本の講話をしたのが1970~71なので、著者31~32歳の時である。「精神の物質主義を断ち切って」というタイトルが斬新で、70年代の中盤には、星川淳(プラブッタ)訳で「なまえのない新聞」に連載されていたことがある。この本の「あとがき」で星川が「本書の出版のいきさつ」p316を書いている。翻訳を継いだのが風砂子・デ・アンジェリスである。彼女は、これ以降、単行本としての訳業はないようだが、「人間と自然」などに寄稿しているようだ。この雑誌には星川の名前も見える。チュギャム・トゥルンパについて、パンタ笛吹が書いている「グル巡り」が面白い。 さて、この本だが、実際に再読してみると、95年以降の、チベット密教の内奥を大胆に公開している本が続出していて、それらの一部に目を通してきたこのブログとしては、むしろ、とても初歩的な入門書的なニュアンスでしかないことに気づく。どことなく、Oshoの同時期の、たとえば「存在の詩」などとの雰囲気が似ているのは、同じカギュー派の流れの中にある本だからなのか、あるいは、出版社や翻訳者たちのネットワークがあまりに近すぎているからなのか。 「虹の階梯」が旧来のアカデミズムの中から、人類学や宗教学としての探究として、登場してきたのに対して、この「タントラへの道」は、西欧のカウンター・カルチャーの先鋭的な部分から登場してきたといえる。日本社会への衝撃はどちらも同じほどに重いものであったが、この二つの流れは、そう容易に合流はしなかったように思える。むしろ、これらの二つの流れを、戯画化して合流してみせたのが、ある意味、麻原集団だった、といえなくもない。 チョギャム・トウルンパの講話は今読んでみると、当時のアメリカの雰囲気を色濃く表しており、仏教やチベット密教に対するの紹介のしかたは、神秘主義への触れ方など、31歳の青年が、ぶりぶり言わせている、という感じがしないでもない。晩年に派還俗し、1987年に47歳でなくなったという。彼には、他にも多数の訳本があるので、少しづつ読んでみようと思う。沢西康史の翻訳もある。2008/10/10再読=<2>へつづく
2007.03.21
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「虹の階梯」 <1>ラマ・ケツン・サンポ+中沢新一 共著 1981/7 平河出版 チベット密教に触れ、中沢新一に触れ、出版物に触れるなら、この「虹の階梯」を外すわけにはいかない。日本における20世紀後期のチベット密教「ブーム」はこの本がもたらした、と言っても過言ではない。この一冊がアカデミズムにもたらした影響ははかりしれないものがあった。中沢にとってもほぼ処女作といっていいようなものだろうし、時には麻原集団の教則本のような変な持ち上げられ方をしてきた。 この本は図書館から借りてきたものではない。私の蔵書として、ほぼ積読になっている本である。私の蔵書は1983年の8月発行のものだ。1977年にインドのOshoのもとに滞在した私は帰国後、瞑想センターなるものをスタートした。農業をまなんだり、病気をしたりしたが、82年には、アメリカのコミューンに向けて仲間達と旅をした。すでにOshoワールドにどっぷりの時代であったといえる。この本の存在も瞑想仲間たちに教えてもらった。 しかし、当時の私はどうして、この本を出版直後にすぐ買わなかったのだろう。もちろん、当時1600円の本は、私にとっては安くはなかった。よほど思い込まないとなかなか買えない。それは分かる。それと、平河出版社というところに、どうも違和感を感じていたところがある。他のめるくまーる社やふみくら書房などというところかOshoの本はでていたけれど、ついに平河出版からはOshoの本はでなかったのではないだろうか。この出版社はいわずとしれた、阿含宗の桐山靖雄の経営だ。発行者は堤たち、となっているが、堤は桐山の本名、たち、は妻の名前だ。 私はどうもこの辺が素直に好きになれなかった理由だろう。でも、この本の記念碑的価値には抗しがたく、私も一冊もとめさせていただいた、ということになる。この83年当時、いくつかの挫折を繰り返しながら、東京でヨガ教室を始めていたのが麻原だ。この時期、初めて「麻原彰晃」と名乗っているという。やがて、オウム神仙の会、からオウム真理教となっていくのである。麻原、あるいは麻原集団に結集した青年達は、当時それほど多くなかった精神世界の本の中で、この本に影響された、と発言する者は多い。 私は、どうもオウムという言葉がもったいなくて、この集団のことを、麻原集団といい続けてきた。私にとってのタントラやチベット密教やオウムという言葉は、70年代初めから、とても馴染みのあるものだった。それは、おおえまさのりたちの「オームファンデーション」というグループを通してだっただろうし、サカキナナオや山尾三省の「部族」を通してのものだっただろう。だから、どうも中沢の出現は、私からみていると、ちょっと「遅れてきた青年」的に見えていて、ちょっとこちらは先輩ぶっていたところもあったかもしれない。(笑) だから、あまりオウムという言葉を使いたくなかったのだが、よく考えてみれば、この「虹の階梯」においてA-U-Mはオームと表記されている。オームとオウムは、もともと同じ音源なのだが、日本語表記になると、現在のところ、この二つは大きく意味が違ってくるようだ。オウムにはよけいな色合いが付きすぎてしまった。ついでにいうと、麻原集団はポア、と言っているが、この本ではポワとなっている。麻原がこの辺を意識して使ったかどうか、間違ったのか、独自性を出すために変えたのか、その辺は定かではないが、よく確かめないで、曖昧なままにしておくのもよくないようだ。 いずれにせよ、この本には「改稿」版もあるし、続編と目される本もある。この本の内容は今あらためて読むと、この基本線はおさえているが、現在では、すでにこれ以上にインパクトの強い本は山ほどでている。最近の中沢の著者紹介では、この本の紹介は省かれていることがおおい。この「虹の階梯」は、中沢がニューアカデミズム・ブームを通って、95年という時代性の激流にもまれながら、ついに「芸術人類学」や太田光との対談にいたったことを考える時、おおいなるメルクマールとして記憶しておかなくてはならない。 ところで今回、検索していて、松岡正剛が「千夜千冊」で中沢について触れていたことに気がついた。この二人、たしかに独特な、伸ばしや、くっつけや、すり替えなどがお得意だ。しかし、どうも松岡の文を読んでみると、二人の間には大きな距離があるようだ。漫才で言えば、突っ込みと突っ込みでダブル突っ込みでやればいいようなものだが、どうもそうはいかないらしい。確かにこの二人の漫才なら、面白そうではあるけれど、聞いているほうは、どこに落ちがあるのか、分からなくなるかもしれない。この二人は、それぞれにひとり漫才をやらせるか、大ギリで戦わせたほうがいいかも知れない。-------------------<再読>08/09/21につづく
2007.03.19
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「チベットの『死の修行』」 ツルティム・ケサン 正木晃 2000/1 角川書店 この著者二人によるちくま書房の「チベット密教」を、昨年、図書館の一般開架棚で手にとったは時は本当におどろいた。インドとチベット密教が生み出した最高度の成就法と言われる「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」がテキストとして紹介されていた。その著者コンビとほぼ同じテーマで、同じ時期に出版されているのが、この「チベットの『死の修行』」である。 本書の執筆者の一方であるツルティム・ケサン(白館戒雲)は、ダライラマ14世倪下の師にして当代最高の権威であった故ティジャン・リンポチェ(1901~81)から、1963年に「秘密集会聖者流」の灌頂を受けた。さらに、1969年には、ダライラマ倪下から、本書の原テキストである「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」の講義をたまわった。そのほかにも、「秘密集会聖者流」の生成のプロセス」ならびに「完成のプロセス」に関するさまざまな教えを、すぐれたラマたちから授かることができたのは、今生における最高の幸福とおもっている。p9 チベット密教、その神秘に魅かれたままの私であるが、その文化的風土といい、その伝統といい、そのシステムといい、ほとんど何の知識がないことに我ながら唖然とするだけである。そのような状態でありながら、「最秘かつ最難の修行」p9とされるものに触れていくというのは、はたしてどうなのだろうか。怖いものみたさとともにある、一時も早く逃げ出したい気分は、T・イリオンが陥った心境にさも似ているかもしれない。 この本は、「チベット密教界にあって最秘かつ最難の修行とされる『秘密集会聖者流』の『生成のプロセス(生気次第)』を、ツォンカパによるテキストから翻訳し、できるかぎりわかりやすく解説を加えたものだ」p9という。私はどうも、このような経典類とか術語などを覚えるのが苦手だ。私はどこか他の書き込みで「秘密集会タントラ」を他の経典と混同してしていたが、こちらは「一切如来金剛最上秘密大教王経」と訳されているようだ。 「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」というお経の名前はそうとうに長く、ちょっとすぐには覚えられないが、正式な名前はもっと長く複雑で『[すべての部族に遍く住する]遍主金剛菩薩垂を近修の四加行によって悦ばせる[秘密]集会の清浄瑜伽成就方便次第と名づけるもの』p30というらしい。フー。 正確ではない、しかも偏見に満ちた情報が、なにをもたらすか。それらの結果が、オウム真理教の暴走を生んだというのは、いいすぎだろうか。実際問題として、私たちは、オウム真理教に家族を奪われた方から、市場に流通するチベット密教礼賛の書物と、チベット密教を毛嫌いする専門家たちの書物の、その空隙が、多くの若者たちを迷わせたという批判を耳にしている。 こうした事態には、ダライラマ14世倪下も非常に心を痛めておられ、1998年に来日された際、日本において、あやまった理解が一掃され、正しいチベット密教が広まるようにと、ツルティム・ケサンに直接、本書の出版を依頼された。かつて、私たちは「チベットの『死の修行』」を出版することを、最終的に決意したのである。p11 ふう、ここまで読んだだけでも、ただごとではない。今回は一応ひととおり目をとおしたが、もともと目を通しただけでは、理解できるような代物ではない。たくさんの言語によるマントラがカタカナ表記されていたりして、それを黙読しただけで、その本来の意味がわかるものではない。例えばこういう一文がある。 オーム サルヴァ タターガタ プージャー ヴァジュラ スヴァバーヴァ アートマコハム(オーム 私は一切如来の供養金剛の本質そのものである) こう唱えて、一切如来の供養金剛の本質こそ、私である、という自負をかためなさい。 p180 その他、たくさんのことが書いてある。ちょっと気になることといえば、ここに書かれているタターガタ(如来)とアガータという言葉の類似性である。ある人が以前に、そのことを指摘してくれていたが、さて、今後、その距離は縮まるのであろうか・・? ここに来て、私はOshoの言葉を思い出す。 私は、こういったことすべてをすでにOshoに話しました。そして、チベット人たちについて、また彼らがここインドで私たちを助けることができるかどうかということについて、彼にたずねました。彼は答えました。 「いや、彼らは助けることはできない。現代にとって彼らの厳格さは過剰であるし、彼らの霊的精神的進歩の方法は時間がかかりすぎるのに、時間は短いからだ。現代ではすみやかに助けが必要とされるからだ。だから、彼らが大勢の人々を助けることは不可能だ」 「マイトレーヤ」p71 ここからは本当に、足元の怪しい、デリケートな旅路となる。私はOshoのサニヤシンであり、Oshoの瞑想に導かれていることを、明確に自分に明記しておくことが必要になってくるだろう。------------------<再読>2008/09/11
2007.03.19
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「ダライ・ラマの仏教入門」 心は死を超えて存続する ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ 石濱裕美子・訳 2000/6 光文社知恵の森文庫 1995年光文社刊 原著 The Meaning of Life:Buddhist Perspecitive on cause and effect 1992 このブログは一体全体、何冊の本を濫読したら気がすむというのだろう。一冊を読めば、10冊の本を読みたくなり、10冊の本を読めば100冊の本を読みたくなる。次から次へ、読書の魅力は永遠に続いていって、魅惑の世界は限りない層へ連なっているかのようだ。 その中にあって、このような本に出会うと、もうこの本を最後にして、もういいのではないか、そろそろムキになってブログを書き続ける必要はないのではないか、と思えてしまう。もし、本当に縁を感じて、このような本を精読すれば、もうそれでよいのではないか。これ以上なにを望むのであろうか、一体何をこれ以上、探究しようというのか。 これはダライ・ラマの「仏教入門」である。しかし、このタイトルは日本語訳のタイトルに過ぎない。ダライ・ラマは「入門書」として書いているつもりはあるまい。ただ、分かりやすく、行ないやすいように仏教が説かれているのは間違いない。チベット密教と、いわゆる日本で理解されている仏教には、たしかにいくつかの違いが指摘されている。しかし、もともと源流が同じであるならば、たどり着く境地に違いはないはずなのだ。 もし、あなたがチベット人とまったく同じように修行をしようとすれば、このような修行の体系はあなたの心に馴染んだものでないこと、また、社会と関係することが困難となってくることから、じきにひどい障害が起きてくることでしょう。 現在、ラマに対して平伏して頭を下げる点まで、チベット人と同じように振る舞っている人もいます。しかし、このようなものまねをせず、あなたは自分自身の文化形態のなかに留まったままで、あなたが仏陀の教えのなかになんらかの効果的で有効な点を見いだしたとき、そのエッセンスを実践すべきなのです。社会の構成員として職責を果たしなさい。p203 非戦を旨とする地球人スピリットの探す旅の中で、チベット密教、そしてそれを象徴的に代表するダライ・ラマの存在はあまりに大きい。このブログでもますますその魅力のとりこになっていくに違いない。彼の世界を知ったら、もう他にいくことなど、ほとんど不可能なくらい魅惑的だ。そして、しかも実践的だ。 しかしながら、それは、私がいわゆる仏教国と見られている日本の国に住む、いわゆる仏教的家系に育ち、どちらかというと仏教的な嗜好を持っている人間だからそう思うのかもしれない。中国の共産党員たちや、9.11という事件の向こう側にいるとされるイスラム人たち、あるいは、他のさまざまな思想や宗教のもとにある人々にとって、必ずしもダライ・ラマが究極のスピリットの「イニシエーター」とは認められないかもしれない。それにはいくつかの理由がある。 ダライ・ラマが転生活仏であることは誰でも知っていることだが、現在の14世がなくなった時、15世はどのように登場してくるのだろうか。そして、世界は、その転生活仏をどのように迎えるだろう。チベット文化の中で、この1000年ほど続いてきたこの伝承は、世界の全人類を納得しきることができるだろうか。 仏教の魅惑は限りない。地球人スピリットとしての地球宗教としては最短距離にあるだろう。ましてやそのより純粋でピュアで深遠なものを持っているとされるチベット密教は、誰もがみんな一度はきちんと勉強すべきもののように思われる。そして、その指導者としてのダライ・ラマは限りなく適任者であるように思われる。 文化も意識も人間も、常なるものはない。すべてが流転する。このチベット密教も、次第に変遷していく必要が生じている。次なるものへ止揚されるのは必至の様相だ。しかし、本質が伝わるなら、それは当然、あって当たり前のことだ。 この本もまたあるSNSにおいてJ祐史裕が紹介文を書いていた一冊だ。大乗、小乗、金剛乗、などなど、さまざま語られる中で、ヴァジラヤーナからの撤退として、マハヤーナへの逆戻りなのか、擬似ヴァジラヤーナからのようやくの目覚めなのか。法門の広さには限りない。表からでも裏からでも、下からでも、上からでも信頼できる法門にたどりつくのならなんの違いもない。 密教において師というものは大変おおきな役割を有しています。これまで何度も強調したことですが、仏教において分析と研究は非常に重要なものです。あなたがある人物をラマと仰ごうとする場合、その教えを授けてくれる人を最初から導師と認める必要はなく、むしろあなたに教えを授けてくれる宗教上の友人(法友)であると、単純に考えるように説いています。それから時間を経て、あなたがその人の資質を吟味してみて、この人が導師であると真の確信を得るに至ったなら、そのときはじめてあなたは彼あるいは彼女をあなた自身の導師として認めればよいのです。これが正しい手順であると思います。 では、いったんラマと仰いだ人間に対して信仰を失ってしまった場合にはどうしたらよいでしょうか。もしあなたが、昔はラマに対して信仰があったけれども、今は信仰の念が起きず、むしろその人を嫌い始めているというのであれば、好きでも嫌いでもない中立的な態度をとることを勧めます。p195 現代の転生活仏であるダライ・ラマの言葉は深い。
2007.03.18
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「虚構の時代の果て」 オウムと世界最終戦争 大澤真幸 2006/6 ちくま新書 96年ということだから、当時のどさくさの中で、乱雑に提出されたさまざまな「解釈」の中の一冊、ということになるのだろう。全く何も知らない初学者が、この本一冊からオウム事件にはいるのは、いいかもしれないが、このブログのようにあちこち見たあとで、この一冊を読むと、そのつまみ食い的に網羅されたバラバラな情報が、ますますバラバラで皮相な組み合わせが、ますます皮相な世界を助長させているように思える。 「あとがき」で大澤は「オウムが、あるいはオウム的なものが、私自身もそうでありうる可能性を示している、という自覚なしには、このようなもの書くことはなかっただろう」p298と書いている。本当にそうだろうか・・??。それは当時、一方的にオウムが糾弾されている、と判断して、その野合集団からのさらなる追撃ではなく、私は、もっと独立した立場から「解釈」してみようという大澤なりの矜持だろうが、どうも真実性がなく、まったく嘘くさい。 あれだけ報道されていた麻原集団である。「オウム的なもの」が、「私自身もそうでありうる可能性」というなら、少なくとも、1995年3月20日以前に、何らかの評価を表明していなくてはならない。中沢新一や島田裕巳や吉本隆明のように、もっともっと麻原集団の「擁護」をすべきだったのではないか。かならずしも社会学者としてではなくても構わない。ひとりの人間として、あるいは一人の現代人として、もっと麻原集団よりの発言なり行動をしていてよかったのではないか。 この本を読んで思うことは結局、この社会学者は、いわゆる地下鉄サリン事件以後に、おっとり刀で情報を収集し、それなりに「解釈」を加えて、自らの学問的な枠組みの中に構造化した、ってことなんではないか、という感想だ。この学者には、いくつかの著作があるが、この事件に突っ込んだのは、この本が一冊のようである。このところからみても「私自身がそうでありうる可能性」は限りなくすくないと思う。 一体、この著者は、坂本弁護士一家事件や、松本サリン事件や、公証人殺人事件など、自分が生きていた同時代の同じ国内で起きていた事件の時、なにをやっていたのだろうか。これらの事件の全貌がほぼ明らかにされつつあった時、「私自身がそうでありうる可能性」なんてことを、うかつに言えるわけがない。もし本当にそんなことを言うなら、いわゆる「マインドコントロール」されて殺人鬼に仕立て上げられたとする麻原集団の構成員よりも、もっと悪質な要素をもっているということになる。 もし大澤が、大手を振って自らを「テロリスト」と名乗るのであれば、それはそれで構わないし、その時は、また議論は別個な始点から始めなくてはならない。しかし、1996年当時のスタンスとして「私自身もそうでありうる可能性」などと腑抜けたことをいうのは、よくよく麻原集団の全貌を把握していないからである。まぁ、そういう意味では、「1995年以降」であっても、集団に残った残留組との共感性があったのかもしれない。 地下鉄サリン事件以来の一年半程の間に、この問題について私と不断に議論して下さった多くの方々に感謝したい。とりわけ、長時間のインタヴューに応じて下さった、オウムの信者・元信者の方々に深く感謝したい。p300 この姿勢自体に問題があるわけではないが、ここにこう書くとするなら村上春樹の「アンダーグラウンド」的な視点がまったくないことが、とても気になる。これでは、学者としてはボケているとしかいいようがない。このブログでは、思い立って、いろいろこの95年当時にまつわる本を読んできたが、この著者の名前に気づくことはなかった。すくなくとも、これだけ激しいタイトルをもっているのに、当時としてもほとんど黙殺された一冊だったのではないか。 私が、この本に気づいたのは、最近、あるSNSに参加してきたJ祐史裕が、紹介本としてこの一冊を挙げていたからである。中沢ではなく島田でもなく吉本でもなく、ここでこの大澤の本を持ってきたところに、J祐自身が生来もっている狡猾な感性があるのではないか、と疑わざるを得ない。大澤にはほかに9.11やテロリズムを「解釈」した本もあるようなので、そちらも少しは読んでみようと思う。
2007.03.18
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<1>からつづく「憲法九条を世界遺産に」 <2> 太田光・中沢新一 2006/8 集英社 新書 170p 昨年の9月1日に、すでにこのブログでこの本について「爆笑問題・太田光にノーベル平和賞」というテーマで書いている。この本に関しての自分の印象メモとしては、誤字脱字、若干の誤解を除けば、ほぼ、いまでも私自身の感想にはなんの変わりもない。しかし、前回は書店での立ち読みで済ましていた。今回は、もうすこしゆっくり読みたいな、と思って、図書館に予約していたものだが、どうやらこの本はリクエストが多いらしく、なかなか私の番までまわってこなかった。 いま、こうして一晩かけてゆっくり読んでみて、本としての印象に変化はないが、細かいところをチェックする余裕があるのはうれしい。太田 実は僕も今回の対談で一番お聞きしたかったのが、宮沢賢治のことなんです。あれほど動物や自然を愛し、命の大切さを語っていた賢治が、なぜ田中智学や石原莞爾のような日蓮主義者たちの思想に傾倒していったのか、そこがわからない。 p20 この問題はこの本を立ち読みする前から、私自身も疑問だった。これに対する中沢マジックもなかなか冴えた反応をしては見せるが、根本的にこの問題は解決はされてはいない。このテーマはひとり賢治だけのテーマではなく、当時の軍国日本、世界の戦争的状況、ナチズムの台頭、ファシズムの横行、そして人間本来の本性、というところから、このブログでも再検討していく必要を感じている。中沢 たぶん宗教、国家、法という、現実を離れた大きな幻想が関わってくるとき、共同体というものがディスコミュニケーションを複雑に調整しながらできていることじたいが、非常に危険な作用を及ぼすことになります。国家も法も、単一の価値をたてようとします。宗教は、いっそう単一な価値を立てて、そこに人格全体を巻き込んだ意味づけをしようとする。p32 太田がいうまでもなく「中沢新一といえば、日本の思想界の巨人」p16だから、その「名前を利用させていただく」という、なかば芸人としてのくすぐりを込めた太田の狙いはあたっているといえるだろう。しかし、中沢といえども、磐石な構えで「巨人」たりえているわけではない。太田 以前、オウム事件が起きたときに、オウムのホームページを覗いてみたことがあるんです。そこで麻原が「最近は一般の人々が、愛情とエゴイズムを混同している」と語っていた。それを読んだ時に、いや、エゴイズムこそ愛だろうと反発を覚えたんですね。麻原は、おそらく自分が神になりたかったんだと思う。神の愛をもちなさい。憎しみは捨てて、もう一つ上のステージの愛を持ちなさい。その愛を持てない人間は、ダメな人間だと、否定した。だから、みんな殺せというところにつながっていったんです。p44 このブログでもみてきたとおり、中沢は麻原集団関連でミソをつけた。麻原集団擁護のインテリとしては筆頭格にさえ祭り上げられていたことがある。太田は「何年か前に、オウムにあたえた影響について、中沢さんに聞いたこと」p63がある。中沢は「自分のつくりだした思想や書物が、その先影響を与えたことに関しては気にしていない」と言っていた。でも本当は中沢は「傷だらけだった」と思う、と太田はいう。中沢 たしかに深く傷つきましたが、傷ついたということを表現することは、したくなかったですねえ。言い訳をするのもよくない。それよりも一貫性をもっていくにはどうしたらいいか、ということを考え詰めました。自分の思想の中の生き残れる部分は何か、それを探し出して細い糸にすがるみたいにして未来につなげていくしかない、というところまで、自分を追い詰めようとしたからね。p64 ここのポイントが、結局、麻原擁護(と見られて)で職を追われた唯一の学者・島田裕巳との際立った違いとなった。島田は近々「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」を出す。こちらも楽しみだ。太田 先住民を虐殺してしまったことを後悔し、傷ついたアメリカ人。日本国憲法をつくったときに、そのアメリカの心が繁栄されたんじゃないか。そんな思いもあって、僕は口で言うほどアメリカ人が嫌いになれないんです。p71 ネイティブ・アメリカンに関わらず、先住民や先住文化の虐殺については、このブログでもおいおい読んでいこうと思っている。中沢 小泉さんの「不戦の誓い」という表現で、ちょっとひっかかるのは「不戦」という言葉でしょうね。不戦という言葉は、俺はじつは戦えるよ、でもね今は戦わないでおくよというつよがりが含まれています。もう一つよく似た言葉で、まったく概念が違う言葉に「非戦」があります。非戦は、一貫して私は戦いませんということばです。p125 インターネットの進化した機能として「ブログ」というものがある。そのブログありきのなかで、はてこの道具をどのように使えばいいのか、という試行錯誤の中で進んでいるのがこのブログだが、現在のところ、「非戦を旨とする地球人スピリット」とは奈辺にあるかを探究しよう、というのが主テーマとなっている。太田 憲法九条を世界遺産にするということは、人間が自分自身を疑い、迷い、考え続ける一つのヒントであるということなんですね。P136 そういった意味では、太田のコメディアンとしての言葉のひらめきは、多くの日本人に大事なヒントを与えたし、中沢とのこの対談も、どこかで図星なところに風穴を開けている。中沢 日本人は、インドにいてもカッとなってボーイの胸ぐらをつかんじゃったりすることがよくあります。僕もテープレコーダーを盗まれたときに、「どうなっているんだ!」と相手の胸ぐらをつかむと、「そういうことはしてはいけない」とすずしげに言ってました。p137 いやぁ、ここは笑った。実は、私もインドでテープレコーダーを盗まれて、怪しいインド青年にすごい剣幕で迫ったことがあった。その時、たしかにインド青年は、すずしげに対応していたことを思い出した。私は胸ぐらをつかむことはなかったが、「盗む」インド文化と、「怒る」日本文化、どこかに通底ものがあるのだろうか。太田 さっき選挙の話が出たけれど、最近、よく言われるんです。「太田さん、そろそろ出馬したらどうですか。政治家になるんでしょう?」って。「そのうち」って適当に答えてるけど、僕の中では、冗談じゃない、そんなつまらないところに行きたくないと思っている。p149 さて、こんな考えかたをしていていいのかな、と私は思わないわけではない。政治は「つまらない」かもしれないが、現実社会では必要なものだろう。歯医者やガードマンや床屋さんやトーフ屋さんが必要なように、政治家は必要だと思う。しかし、それ以上のものにしてはいけないと思う。中沢 芸術と政治が合体したときに生れた最大の失敗作は、ナチでしょう。ナチズムの思想は、人間が人間を超えていこうとした。非人間的なものも呑み込んで、人間を前進させるんだという考えが、現実の政治とつながっていったとき、とてつもない怪物が生まれた。それ以来、政治の中に芸術や芸術的な思想を結びつけるのは危険だということで、ヨーロッパでは政治と芸術を分離させた。p151 この小さな新書本のなかにたくさんのヒントと、深い世界への入口がちりばめられている。ひとつひとつについては、私なりに異論はあるが、このようなヒントと入口があればこそ、こちらの思考や想いが活性化されるというものである。太田 自己嫌悪とジレンマの連続ですが、今が踏ん張りどきです。僕なりに、世界遺産を守る芸を磨いていきたいと思います。p163 最近、田原聡一郎の日曜朝の番組より、たしかに爆笑問題がでている「サンデー・ジャポン」のほうが面白い。中沢 私たちはどのような結論であっても、それを他人に押しつけようとは思わない。しかし憲法九条を「世界遺産」のひとつとして考えてみるときにははっきりと見えてくるこの国のユニークさだけは、明瞭にしめすことができたのではないかと思う。p170 この対談は、日本思想界の「巨人」中沢新一を追いかけていく上で重要な一冊であろう。単著としては「芸術人類学」が最新刊だが、共著としてはこの本が最新刊である。<3>につづく
2007.03.18
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「マイトレーヤ」 瞑想社 1988/3 この本、すでに出版社のホームページにも掲載されていない。当時、出版社(翻訳者・編集者)の強い意向があって、日本独自で出版された一冊で、独特の経緯を経過している。当時販売されたのは、ほとんどがその瞑想ネットワークの手売りであって、書店の店頭に並んだものは少なかったのではないか。傾向性を持った目的をもって、意識的に編集されているため、ある意味分かりやすく、ある意味、要注意本。私にとっては、とても貴重な一冊。 内容はかならずしもこの本にしかない、というものではない。あちこちに散見されていたものを一冊にまとめたものだが、逆に言えば、散見されているものをひとつひとつ目を通していくのは至難の業だ。この本は、秘されていてこそ価値があるのかもしれない。ネット上にも、ほぼこの本についての詳しい紹介はないようだ。今後の展開を期待する。この本の存在を記録しておくとともに、今回、気になるところだけ、転記しておく。 カルマ派 Karmapa チベット仏教カーギュ派の分派のひとつ。カーギュ派の始祖マルパ(1012~1097年)の孫弟子ガンポパの高弟のひおりであるドゥススムケンパ(1110~1193年)が始めた宗派で、彼が1189年に建立したラサ北西のツゥルプ寺がその本拠。この派の特色は、カーギュ派の流れを受けつぎ、数学の学修よりもタントラの実践を重んじ、また後にはその相承形式に転生による化身ラマの制度を取り入れ、チベットにおける転生ラマの観念を確立した点にある。この派には黒帽派と紅帽派の二系統が生じたが、教義そのものにはそれほどの相違はない。カルマ派は一時、ツァン(西部チベット)地方の豪族と結んで大いに勢力を延ばし、新興宗派ゲルック派とたびたび勢力争いを演じたが、1642年蒙古のグシ汗と結んだゲルック派に敗れ、その政治勢力はもとより、多くの寺院、寺領をゲルック派に吸収されてしまった。佐和隆研編「密教辞典」(法蔵館)98頁 p188 ラマ・カルマパ Lama Karmapa カルマ派の管長。前項で述べたように、カルマパは個人名ではなく、「カルマ派」を意味する宗派名である。したがって、ラマ・カルマパとは「チベット仏教カルマ派の活仏、管長」を意味し、チベット仏教のもう一方の雄であるダライ・ラマと同じように、歴代の複数のラマ・カルマパが存在する。チベット仏教では、この歴代のラマ・カルマパもダライ・ラマも、ともに観音菩薩の化身とみなされている。 なお、本書の「高僧謁見記」の序文では、ラマ・カルマパはサンスクリット語で観音を意味するAvalokitesvaraの化身、ダライ・ラマはチベット語で観音を意味するsPyan-ras-gzigsの化身、という表現がとられている。 p189 Oshoに関して、聖下は言いました。光明を得たあとでは、もし光明を得た魂が自分自身の選択によって自分たちの仲間以外のどこかに再臨するとしたら、それをくいとめることはできない、と。Oshoの場合は過去世において自分たちとともにいた、とラマは言うのです。彼は私にこう語りました。 「Oshoは過去世に神性の化身として何回か現れたが、そのうちの一つの生ではチベットにいた。もし彼を見たければ、あなたはチベットに行って、そこで神堂のなかに保存されている彼の黄金の像を見ることができる」 バグワンのひとつ前の誕生は約700年前に起こったと言われています。聖下は、それよりもうひとつ前に起こった誕生のことに触れたのです。彼は、Oshoは現在の生から二生前の生においてそういう偉大な化身たちのひとりで、それゆえに彼の像が保存されているのだ、と言います。 p62 聖下によると、チベットにはこのような偉大なる神の化身たちの黄金の像が、99体あります。それらのうちのひとつが、二生前のOshoの像です。中国人たちはまだそれを破壊していません。できないのです。なぜなら、これらの像はチベットの人里離れた場所に移され、極秘のうちに隠されているからです。 本物の像が移されたのは、これらの像が強力な、超自然的な力をもったものだからです。もし誰かそれらにちょっとでも触れようものなら、その人には強烈な霊的な体験が起こりかねません。だからそれらが保存されている部屋のなかには、たとえ僧たちでさえ入ることは許されません。特別な人々しか許されません。なぜなら、これらの像に触れるだけでも強烈な反応を受けるからです。p64 私は聖下にOshoは誰の化身かとたずねましたが、彼は言いました。「いや、それは秘密だ。ある者がわれわれの僧院のひとつの長でないかぎり、われわれは彼が誰の化身であるかを明らかにしない」 しかし、彼はあるひとつのことをじつにはっきりと教えてくれました。それは---「Oshoは、みずからの仕事がおわるやいなや、消える。完全に消える。そうなればわれわれが彼を見いだすことはできなくなる」p66 彼は語り続けました。「世界はOshoを知るであろう。しかし、彼のほんとうのすがたに気づくのは少数の人々だけである。彼は現代において、<世界教師>となって世界を正しく導くことのできる、ただひとりの人間である。そして彼が誕生したのはただこの目的のためだけである」p68 私は、こういったことすべてをすでにOshoに話しました。そして、チベット人たちについて、また彼らがここインドで私たちを助けることができるかどうかということについて、彼にたずねました。彼は答えました。 「いや、彼らは助けることはできない。現代にとって彼らの厳格さは過剰であるし、彼らの霊的精神的進歩の方法は時間がかかりすぎるのに、時間は短いからだ。現代ではすみやかに助けが必要とされるからだ。だから、彼らが大勢の人々を助けることは不可能だ」p71 Oshoは私に、「おまえがそこに行ったのはとてもいいことだ」と言いました。けれども、私には、はたして自分が行ったのか、それとも私が気づかないうちに神秘的な方法で彼が私を遣わしたのか、わかりません。 Oshoは、直接的には、前世で聖下を知っていたとは言いませんでした。でも、私には彼の顔や身振りから、彼は知っていたということばわかりました。だからこそ、彼は特に「おまえがそこに行ったのはとてもいいことだ」と言ったのです。p71-------------------------再読 2007-11-30 <2>につづく関連エントリー 2008/09/08
2007.03.17
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「密教」 知の教科書 正木晃 2004/9 講談社選書メチエ 正木晃の仕事は、一般に「秘」とされている内奥を、時代性を鑑みながら、一般図書として徐々に公の白日のもとに開け放ち始めているところにその特徴があるように思う。「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」 といい、「性と呪殺の密教」といい、「チベット密教の神秘」といい、一冊一冊が意欲的であり、かつアバンギャルドだ。 この本も、密教というキーワードでインド、ネパール、チベット、モンゴル、ブータン、中国、朝鮮、日本などの仏教を網羅する。その中にあって、現代まで生き延びているチベットと日本の密教というものを比較し、なおチベット密教の優位性と、日本密教の独自性などに言及する。 私がここに来て、チベット密教に魅せられて、その図書館曼荼羅の中に入っていこうとしているのには、それなりのわけがある。チベット密教に秘められた神秘性、身体性、あるいは現代性、というものも極めて魅力的だ。しかし、もっと私自身に引き寄せて考えれば、いつぞやの夢にでてきた「アガータ」(アガルタと類似だが、敢えてここでも別称としておく)という言葉の探求。そしてさらには、「700年前のチベット」ということにある。 700年前、つまりは13世紀におけるチベットに関心があるのは、Oshoの前世がここにあるとされているからである。また自分もその時代に生きていた、というかすかな深層意識からの便りをてがかりに、薄氷を踏む思いで、旅を始めてしまっているのである。この本においてもチベット密教の四大宗派として、ニンマ派、サキャ派、ゲルク派と並んでカギュ派も紹介されている。 カギュ派 カギュ派は、キュンポ(990~1139?)とマルパ(1012~1097)という二人の在家密教の行者がほぼ同じ時期にインドやネパールに留学して、かの地の密教をチベットに輸入したことから出発した。ただし、この両者の間にはほとんど交流がなかった。またキュンポ系の法統は早い時期に衰退したため、マルパからミラレパ(1040~1123)、さらにガンポパ(1079~1153)とつづく法統が主流派をかたちづくってきた。なお、カギュとは「教えの伝統」を意味する。 カギュ派は各地の有力氏族とむすびついて発展した。その教えはすこぶる密教色が濃く、地域に根ざした氏族たちの閉鎖的な性格とあいまって、独立独歩の傾向が強かった。その結果、次々に分派がつくりだされ、互いに対立と抗争を繰り返した。 そのなかでカルマ・ドゥスンケンパ(1110~1193)を祖とする一派は、他の分派との抗争を勝ち抜き、カルマ・カギュ派の名のもとに、一大勢力に飛躍する。この派が勝利をおさめて一因は、その独創的な相続法にあった。 カルマ・カギュ派では、悟りを開いた高僧はあえて解脱せず、何回でもこの濁世に生まれ変わって人々の救済にあたるという理論を展開して、いわゆる「転生活仏(トゥルク)」(てんしょうかつぶつ)の制度を創造した。 やがて、この転生活仏の制度は、カルマ・カギュ派の成功を目のあたりにした他の宗派にも採用され、近世になるとほとんどの宗派が転生活仏を擁するようになる。20000年、ヒマラヤ山脈を越えてインドに亡命したことで有名になったカルマパ17世は、まさしくこのカルマ・カギュ派の末裔に当たる。p36 私がこのカルマ・カギュ派に注目するのは、もちろんOshoに関わるものごとがあるからである。Osho関連にはさまざまな書物があれど、瞑想社から1988年3月にでた「マイトレーヤ」は、独特のヴァイブレーションをもった本である。すでに絶版となっている稀少本だが、Oshoに縁を感じる人ならぜひ一度は手にして読んでほしい(このような本は、絶版となって稀少本として秘されるにふさわしい)。 ここでみることができるのは、キュンポ149歳、マルパ85歳、ミラレパ83歳、ガンポパ74歳、ドゥスンケンパ83歳、と、それぞれに長命に属する生命を維持していることだ。キュンポの149歳は、15世紀の怪僧ドルジェタクの180歳と並んで、すでに強く「神話化」された傾向を見ることができるが、13世紀に生きたとされるOshoの前世の106歳も真実と神話のぎりぎり境目にあるように思われる。高山という環境と当時の衛生環境から、短命だったといわれるチベット民族のなかにあって、70歳を保つというのは一般民衆としては異例だったという。その時代に、74歳、83歳、85歳、さらに106歳となると、さて、そのままその数字を記憶すべきなのか、あるいは一つの数霊としての神秘を感ずればいいのか、そのことについてはここでは、触れないでおく。 ここのでてくる「20000年、ヒマラヤ山脈を越えてインドに亡命したことで有名になったカルマパ17世」は当時15歳であった。カルマパの大胆逃亡劇は世界のマスメディアをにぎわした。カルマパ黒帽派活仏となる。この少年の一世前の16世のカルマパに謁見したのが、Oshoの弟子であったゴービンド・シッダルタ、1972年のことである。この時の謁見記については、他所に譲る。13世紀に存在したのは、当時の派内の構成をみると、カルマパ黒帽派活仏と紅帽派活仏のみとなる。 ちなみに、チベット密教でも、密教者にして大乗仏教者という立場は、ツォンカパの構想において実現した。ツォンカパにとっても、神秘体験はただ単に神秘体験の領域に閉じ込められる問題ではなかった。神秘体験の積み重ねの彼方に、日常がそのまま神秘体験となる世界が開けてくる。それがホトケの真意なのだ。あまたの著作をとおして、ツォンカパはそう私たちに語る。p80 15世紀のチベット密教の中興の祖というべきツォンカパの業績は大きい。究極は、還相なのであり、meditation in the marketplace なのである。 この本「密教」の巻末には「さらに深く密教を知るためのブックガイド」が付記されている。そのリストもともかくとして、その紹介文も完結にして、示唆に富んでいる。
2007.03.17
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カイエ・ソバージュ<3>よりつづく「神の発明」 カイエ・ソバージュ<4> 中沢新一 2003/6 講談社選書メチエ この本、全編、「スピリット」のオンパレードである。「スピリットが明かす神(ゴッド)の秘密」、「神(ゴッド)にならなかったグレートスピリット」、「未来のスピリット」などなど、とにかくこの単語で埋め尽くされる。それでなくても、通常の本の中に、なんとかこの単語を見つけようとして血眼(とまではいかないが)になって本を読んでいる私としては、うれしい限りだ。だが・・・ さてここまでのところ、私たちはなんとなくわかったようなふりをして、「スピリットとともに暮らす世界」のことを語ってきたわけですが、本当のことを言うと、その世界に生きる感覚をまるごと理解するのは、ほとんど不可能に近いほど難しいのです。私たちが生きている世界をその世界との間には、厚いカーテンが下ろされていて、こちら側にいる私たちには、そのカーテンの向こう側のことを容易にうかがい知ることができないようになっています。こちら側と向こう側では、まるでまったく組成の違う地層が広がっているように見えるのです。p90 このあたりまで来ると、中沢は面白い。とても卑近な感じがする。しかし、彼のやろうとしていることは対称性人類学であり、芸術人類学である。中沢はもともと、「学」の人ではなく、チベット密教のイニシエーションを受けた「道」の人だったのではないだろうか。そこのところが、惜しいといえば、かぎりなく惜しい。彼の世界を、「道」として組みなおすことができるなら、こちら側と向こう側、という地層の違いはなくなるに違いない。 未来のスピリット その来るべきスピリットがどんな形をとることになるか、私たちにはひとつの重要なヒントが残されています。 手塚治虫が「鉄腕アトム」のイメージを造形しようとしたときに、そのイメージの源泉にもなったものは、昆虫の世界でした。子供の頃から親しんでいた昆虫の社会をとおして、彼は生命の世界の奥深い構造を垣間見てきたのです。地球上の生物の中でも、昆虫ほど種の多様性できわだっている生物もいません。小さな谷筋を捕虫網を手に蝶々を追いかけていくだけでも、20何種類ものめずらしい蝶々に出会うこともまれではありません。昆虫はひとつひとつの生物の存在が、巨大な「生命」なるものの自己表現の様式であり、その「生命の自己表現」は単調や均質を嫌って、多様性の産出ということを自ら楽しんでいるようにさえ、感じさせるのです。p202 ふう、ため息! ここで鉄腕アトムがでてくる。このブログを続けていて、大きく感動した本の一冊に田中伸和の「未来のアトム」がある。ここでこうやってつながってくることに、いささかの気恥ずかしさもあるが、やっぱりなぁ、という深い納得感がある。中沢ワールドもあまりに広大だが、このブログの不埒さにも限りがない、ということか。 私たちはいまではみんな「科学の子」です。アトムにあって、私たちに欠けているものがあるとしたら、それは野生状態の心なのでしょう。しかし、心配は無用です。私たちは三万年前の現世人類と少しも変わらない脳の組織をもち、そこにはいまも「超越性」の領域への斥候活動を続けるスピリットが住み、私たちが自分のほうに心を向けてくれるのを心待ちにしているのです。心の野を開く鍵は、いつも私たちの身近に放置されてあります。スピリット世界の記憶をかすかに保ち続けている私たちの身近に放置されてあります。スピリット世界の記憶をかすかに保ち続けている私たちには、「あらゆる宗教のあとに出現するもの」について、たしかなイメージを抱くことも不可能ではありません。宗教のアルファー(原初)でありオメガ(未来)であるもの、それはスピリットです。P204つづく
2007.03.16
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カイエ・ソバージュ<2>よりつづく「愛と経済のロゴス」 カイエ・ソバージュ<3> 中沢新一 2003/1 講談社選書メチエ 人類史としては、やはり経済は避けては通れない。マルクスがでてくる。キリスト教がでてくる。芸術がでてくる。 そして、キリスト教が整えておいた土壌の上に、資本主義が発達するようになってみますと、今度は精霊の活動を突き動かしていた贈与の原理は、しだいにこの社会からは後退しはじめるようになります。教会の権威も地に落ちます。 そこで登場してきたのが、芸術だったのです。キリスト教という宗教が、精霊の活動をとおして表現しようという贈与の原理、もっと正確なおとを言いますよ、贈与の原理に接触することで表現にかえられていく純粋贈与の実在感が、資本主義の発達とともにしだいに失われてきた社会で、今度は宗教に変わって芸術が、贈与の原理をなかだちにして生み出される純生産の役割を、果たしてきました。現代のすぐれた芸術家たちがこぞって証言しているように、芸術的な創造活動で、実際に芸術家の内部では「スピリット=たましい=精霊」が活発な活動をおこなっています。p181 ふう、ようやくこのブログの本題であり、もっとも革新的な部分にやってきた。つづく
2007.03.16
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カイエ・ソバージュ<1>より続く「熊から王へ」 カイエ・ソバージュ<2> 中沢新一 2002/6 講談社選書メチエ やっぱり、予想通り9.11から次に講義が始まった。文明の対称性を紐解きながら、ネイティブ・アメリカン、アイヌ、東北、熊にまつわる話、仏教などに話が及ぶ。ネイティブな話については、このブログでも、そのうち集中して読んでみようと思っているから、あまり深入りはしない。熊の話は、もっともだと思う。1991年のSPSで、民族文化映像研究所制作「イヨマンテ~熊送り」を見た。すぐれた作品だ。アイヌ人が熊に捧げる敬愛の情が記録されていた。 エコロジーな科学やエコロジーな哲学が語られる。もっともなことだ。人間の良心として、当たり前のことだと思う。しかし、わずか50年だけど、私が育った時代と、この時代では、エコロジーというもののありかたがまったく変わってしまった。 私の育った家は、築300年経過していた。家のほとんどは自然物でできていた。川原から拾ってきた大きな丸石にへこみのあるものを大地に並べて敷石とし、その上に付近の林や山から切り出した杉や樫などの自然系を生かした柱が立っていた。壁は、ワラや砂を土に練りこんだ泥でできていた。障子は、もちろんコウゾやミツマタを原料に、手作業で漉いたものをつかっていた。屋根は、近くの湿地帯に成長するカヤで葺かれていた。カヤで作った屋根は、一世代つまり30年はもつといわれていた。 日常生活も目に見えていた。種をまく。その大地には、家畜や人間達の排泄物からつくられた肥料がほどこされた。大地は、家畜が耕した。家畜の餌は、近所に自生している雑草やワラを刻んだものが与えられていた。味噌も醤油も自給した。野菜も米も、川魚や貝類も、周囲には豊富にあった。柿、イチジク、栗、梅、梨、ぶどう、あけび、グミ、りんご、ゆず、びわ、くだものも限りなくあった。 でも、あれからわずか50年だけど、もう、あそこの地平までは、もう戻れないだろう。いくつかの理由があるが、まず、それを支える家族が消えてしまった。地域のネットワークがなくなってしまった。社会がまったく変貌してしまったのである。当時は保険なんてなかった。だれかが病気すれば、みんなが手に手にお見舞いをもって慰めに行った。病人はみんなに元気付けられ、経済的困窮も救われた。保険の元型のようなものだ。ひとりは万人のため、万人はひとりのため。でも、今は、それらが、より個的に解体されてしまっている。 熊から王へ。しかし、王から熊へは、もう戻れない。つづく
2007.03.16
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「人類最古の哲学」 カイエ・ソバージュ<1> 中沢新一 2002/1 講談社選書メチエ カイエ(Cahier)は、フランス語で「ノートブック」、ソバージュ(Sauvage)は「野生の」の意である。大学の「比較宗教論」の講義録である。5冊シリーズの第一冊。2001年の4~7月の期間にはなされた「神話」に関する部分が収録されている。古事記や日本書記が学校で教えられなくなったことを惜しみながら、神話といわれる何万年もの間に積み上げられた人類の最古の哲学を紐解く。レヴィ=ストロースの「野生の思考」に触れ、アメリカ・インディアンの文化に触れる。 この講義の行き先が、すでに読んでしまったカイエ・ソバージュ<5>「対称性人類学」や「アースダイバー」を経て「芸術人類学」に流れていくプロセスを考えてみれば、このスタートは、まずまず穏やかで、行く手に夢を書き立てるスタートと言えるだろう。 ただ、この時期は、麻原集団事件の悪夢から解放された中沢が、ようやく次のステップに歩み始めたような雰囲気の時期でもあり、また、9.11前夜でもある。この次の<2>で、その新たに21世紀最初におきた大事件を、どのように捉えているかを見るのも、ちょっと楽しみだ。つづく
2007.03.16
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「フィロソフィア・ヤポニカ」 中沢新一 2001/3 集英社 初出「すばる」1999/6~2000/12 洒脱で饒舌で好奇心旺盛な冒険少年・中沢の探検譚は続く。そもそも日本哲学ともいうべきところを、鳥類の新種でも発見したごとく「フィロソフィア・ヤポニカ」となずける。西田幾多郎と田邉元の比較のなかから、西田が脚光を浴びているほどに田邉は厚遇されていないどころか、無視、黙殺されているのではないか、と中沢は危惧する。田邉の哲学的思考がすばぬけたハイブリットな現代性を備えているのではないか、というのだ。 中沢の著書のジャンルは多岐に渡る。突然に突入した中沢ワールドに長逗留する気はないが、当代きっての流行作家(?)の、ものごとを面白く見せる手法には、まなぶところが多い。このようなニューアカデミズムといわれる彼の手法が、学問的にどれだけ正当性があるものかわからないが、どんなジャンルや、どんなテーマでも、中沢新一、という名前を冠することによって、読ませてしまう、という力があるようだ。まるで剛速球投手だ。どんな悪球でも、そのスピードにごまかされて、ついつい空振りしてしまう。読者はストライクをとられてばかりいる。ーーーーーーーーーーーー2008.02.28 <再読>
2007.03.16
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「知恵の遙かな頂」 <初読> ラマ・ケツン・サンポ著 中沢新一・編訳 1997/7 角川書店 1990年前後に麻原は中沢新一にあっている。その中沢は、1979年にネパールのボードナートでラマ・ケツン・サンポに会ってイニシエートを受けている。このケツン・リンポチェは、1960年ヒマラヤの奥地のカリンポンで多田等観にあって、日本のチベット学のための協力を要請されている。多田等観は、1912年にダライ・ラマ13世にあっている。 ばらばらに読み進めていても、決して広すぎるということのないチベット・シンジケートのこと、どこかここかで接触がでてくる。ましてや、日本文化とチベット文化の交流となると、かなり範囲は狭まってくるといえる。チベット関係を読んでいると、カタカナ表記の人名や地名がおびただしい数で出てくるので、ひとつひとつは記憶する気力はないのだが、ふとそれぞれに重なる部分を追いかけていくと、意外と狭い範囲でオーバーラップしていることに気づかされる。 これほど私がチベット文化の歴史に無知なのは、別に特別なことではないかも知れない。中沢新一が、最初にケツン・リンポチェに会ったとき、このチベット僧が過去に、すでに10年間日本に滞在していたこと知らなかったのである。中沢の「虹の階梯」は20世紀の日本の精神文化に多いなるエポック・メイキングな登場の仕方をした。しかし、それはひとり中沢の才能や機縁に限られたものではなく、もっともっと大いなる見えざる神の手が、なにごとかのドラマを演出しているかのようにも見える。 それにしても、なんというあざやかな光景だろう。あたりはおびただしい光の滴(ティクレ)と虹の五彩(ジャツォン)に包まれ、その中に五色の光のマンダラが静かにあらわれる。海に底から際限もなく泡がわきあがってくるように、透明な空性からは、とぎれなく、光の滴がわきあがってくるのだ。「テクチュウ」の瞑想によって、人間という生き物の条件に縛られて、自分の本性を隠されていた裸の心が、ありありと体験される。そのまっただ中から、今度は「トゥカル」の瞑想が、空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。 なんという自由。なんという豊かさ。そしてなんという透明感だろう。日の出の前から日が沈むまで、私は完全にこのゾクチェンの瞑想に打ち込む日々を送った。そのときの幸福感といったらなかった。私は人として生れたことの本当の意味を、いまこそ丸ごと、直感によってつかみとることができるようになった! p150 1949年、ケツン・サンポ、29才の時、人里はなれたヒマラヤ山中で瞑想修行中の心境である。しかし、彼の語るチベットや、彼自身の人生は、決して薔薇色に彩られた幸せそのものだけではない。いや、むしろ、人間にとっての真理を求めようという真摯な姿があるからこそ、それを阻むかのよう次から次へと登場してくる障害や難問題は、チベットやラマたちが必ずしも理想そのものの人生を送っているわけではないことを教えてくれる。---------------------- <再読>2008/09/22 <2>につづく
2007.03.16
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「活仏たちのチベット」 ダライ・ラマとカルマパ <初読>田中公明 2000/4 春秋社 田中公明の仕事は注目に値する。この本において、この1000年ほどのチベットをとりまく、宗教、政治、文化、経済の概略が理解できる。とくに、「700年前のチベット」とはどういう環境であったか、ということが、極めて俯瞰的でしかも具体的な知名や人名に彩られて、分かりやすく説明されている。今回は、こまかいチェックはしないまでも、詳細を知る必要がでてくれば、再精読の価値はある。また、モンゴルとの関係性について、おりに触れて言及している。 かつてダライラマ13世と大谷光瑞の交換留学生として、チベットのセラ寺で学んだ多田等観は、チベットの僧院を構成する二大勢力として、チベット人とモンゴル人を挙げ、この両者が喧嘩すると、モンゴル人はチベット人を「猿」と罵ったと記している。これはソタン・コンポリの伝記に基づくものだが、これに対してチベット人は、モンゴル人を「犬」と呼んで罵った。これはモンゴル人が、「青き狼」の末裔とされるからであるが、モンゴルでは「犬」と呼ばれるのは、最大の侮辱であった。p30 犬猿の仲、という言葉を思い出す。民族によって文化は変わる。日本人においては、「馬」とか「鹿」とか、あるいは、これらを一緒に言われれば、最大の侮辱となるか。 チンギス・ハーンが没した1227年、モンゴルはついに西夏を滅ぼし、その版図はチベットと酒井を接するに至った。そして、1240年、西涼に駐留していたオゴタイ・ハーンの子ゴデン(太子は、武将ダルハンタイジ・トルダをチベットに派遣して服属を迫った。当時のチベットは各地に小士候が割拠しており、強大なモンゴルに反抗することはできなかった。p66 これが、700年前のチベットとモンゴルの関係だ。勇ましいモンゴルの攻勢に、知的なチベットが、静かに地下にもぐった、という構図が構成される素地はある。 今世紀のはじめに、チベットに入った河口慧海や多田等観の記録からもわかるように、チベットの一般民衆は、めったにダライラマに会うことができなかった。ところが「時輪の大灌頂」は在家信徒でも受けることができたため、庶民にとっては、ダライラマの姿を見、声をきくだけでなく、ダライラマと法縁を結ぶ唯一の機会ともなったのである。p108 その他、パンチェンラマ騒動の一端も伝えている。この本において、チベット密教を、チベットにおける最大の産業である、と捉えているところが、面白い。 ----------------<再読> 2008/09/10
2007.03.15
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「チベット滞在記」 多田等観 1999/2 白水社 多田等観(1890~67)秋田の僧侶の家に生れる。1912年1月インドに渡る。ヒマラヤ山中カリンポンにて13世ダライ・ラマに謁見。1913年7月、ブータンを経て、チベットの首都ラサに入る。以後10年チベットに滞在し、僧院生活を送る。1923年帰国、東北大、東大、慶応大講師を歴任。(著者紹介より)p230 1912年というのは、中沢新一がチベットに入るより、65年早く、T・イリオンより20年早く、レーリッヒより10年も早い。しかも、10年もチベットに修行僧として滞在している。河口慧海はさらに10年早くラサに入っているが、10年後に再入国したので、等観とは同時期にチベットに滞在していた、ということになるだろうか。それより以前となると、1891年に亡くなったマダム・ブラバッキーなどは、もっともっと秘境たるチベットと交信していたということになる。出口王仁三郎は、1871年~ 1948年の人生だから、多田等観は、王仁三郎より20歳年下ということになる。ちなみにグルジェフは1877年~1949年の生涯である。 この本には、ダライ・ラマが盛んに登場する。ただし、ノーベル賞を受けた14世ではなくて、1933年に亡くなった13世のダライ・ラマである。 ダライ・ラマは現在は14世であるが、この方にはお会いしたことがない。これまでのダライ・ラマのうち著名な人は、まず5代目のダライ・ラマで、政治にも宗教にも、そして一般学問にもすぐれていた。 6代目のダライ・ラマは詩人であった。この人は自由奔放な生活を好んだ変り種で、ダライ・ラマでいることが厭で早世した。自殺したわけではないが、死にたいと思うと死ねるようになるのである。p98 一般にダライ・ラマは転生仏とされているが、このようにしてみると、必ずしも、一つの同じキャラクターが転生していくのではなく、その時、その時のキャラクターは別々のようである。等観がチベット入りした所以は、本願寺法主・大谷光瑞の導くところがおおきいのだが、等観がダライ・ラマ13世に謁見したのは21歳の時、ということだ。この本には、当時の周囲の状況がよく克明に描写されており、当時のチベットの状況について、貴重なレポートとなっている。
2007.03.15
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「三万年の死の教え」 <1> チベット「死者の書」の世界 中沢新一 1993/9 角川書店 「チベットの死者の書」をいちばん最初に知ったのは1972年頃だったと思う。おおえまさのりの翻訳が進んでいた。やがて特別装丁の本として、限定出版された。のちに通常の単行本になった。「チベットの死者の書」は、内容そのものについて深い理解はできないまでも、その意味するところは直感的にわかった。ただ、まだまだ一般的ではなかった。おおえの翻訳は当時のカウンターカルチャーに擦り寄ったスタイルをとっていた。その後、いくつかのバージョンの翻訳が他のひとびとの手によって著わされた。 この本、1993年にでている。中沢新一と麻原集団がいちばん良好な関係をつくっていた時代と言えるか。中沢にすれば、チベット密教思想を日本社会に現出させている実践的で未来のある集団と映っていたに違いない。しかし麻原集団はすでに、いくつもの凶悪犯罪に手を染めてしまっていた。その「死」をもたらしたことへの「罪悪感」を、この中沢のような「美しい」世界観でもって、装飾し、目をそらし、問題のすり替えをしようとしていたのだ。 この本、とても美しい。この本で書かれるような世界観や宗教観が、このまま「95年」という時代を経ないで、大きく大木に成長することはできなかったのであろうか。常に、人生というものにはチャレンジが必要となる。「95年」を嵐として、忌み嫌うことも可能だろうし、より豊かな成長を遂げるための、必要な通過点だった、と見ることも可能だろう。「95年」があった限り、それは歴史はもどらない。だから、ここで書かれていることが、また再び、何らかの形で、継続されていくことを望む。 いや、望む望まない以前に、もし人類に一つの方向性があるとしたら、これらの向こうにしか未来は見えてこないと思える。この本、沢山のカラーの図版が入っている。見た目にきれいな、ワクワクどきどきするような一冊だ。 <2>につづく
2007.03.15
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「カルトか宗教か」 竹下節子 1999/11 文春新書 どうもこの手の本はかなり苦手で、長い間手をださないできた。今だって、別に得意な訳じゃない。だが、しかし、最近の私のブログの進展から考えて、多少のバランスを考えて、このような本も少しは読んでおかなくてはならないだろうと思う。それはまるで、花火遊びをするなら、せめて、すぐそばに、バケツに水を入れて、万が一のために準備しておきましょう、というのと似ているかもしれない。 このような本に、まったく真実が語られていない、ということはない。読めば面白い。こういう視点があるのか、こういう団体があるのか、なるほど、表向きはこうでも裏ではこうなっているのか、と、いちいち納得することが多い。内面の世界は、恋愛に似ていて、あばたもエクボになりやすい。近すぎて対象の実態がよく見えなくなることもないとは言えない。 この本は1999年に書かれているので、地下鉄サリン事件の悪夢からまだ覚めきっておらず、また、1999年の「終末観」から逃げ切れていない段階の一冊である。だから、ことのほか「カルト」という事を強調する。まぁ、こういう見方がある、ということはきちんと記憶しておく必要があるだろう。 チベット密教の主流派ではラマ(指導僧)の教えは絶対だが、最初の十年は弟子がラマを取り替える権利がある。「真理の獲得」や「覚醒」などというものは一朝一夕に成るものではない。たとえ師が「真理」を掌握していたとしても、師弟のコミュニケーションの質によっては、方法の伝授が不可能なこともある。師は神ではない。人間同士は、じっくり観察しあい、よい関係を育てながらようやく何かに到達できる。p54 チベット密教については、最近やにわに読み始めただけで、全体像をまだとらえきれていないが、ちらちらとあちこち読んだ限りでは、チベット密教の関係者自身からそのような文言がでてきたという記憶はない。今後、注意深くみていこう。ただし、この十年、というのは、それなりの説得性があるように思う。 師のもとに十年いる、ということは、その十年が経過するわけだから、そこで師を変えるということは、その十年がまったくムダになるのか、あるいはステップアップとしての、精神的キャリアとして有効に働き始めるのか。 林郁夫は桐山靖雄のもとに十年いた。そしてそれから麻原へと「師」を変えていった。しかし林の人生は、隘路へと導かれてしまった。十年だろうが、師を取り替えたりだろうが、間違いは間違いとして起こる。人間の迷妄には限りはない。 伝統的なチベット密教が育まれた、4000メートルを超える高地での生活とか、悠久の時間が流れるヒマラヤ山脈という環境を考えなくてはならない。現代人においての十年と、過去における時代の十年では、その違いもあろう。 師弟関係というものとグルイズム、という言葉をなんのことわりもなくまぜこぜに使うことはできないが、その関係は、いずれは、上の方向に向かって解消されなくてはならない。師のもとを離れて、新しい師を求めるのではなく、師のもとを離れて独り立ちすることが大事になってくるポイントというものがあるはずだ。師と弟子が一体になる(なんてことはちょっと理想的過ぎるが)とか、あるいは師は師としての役目を終える(積極的にその相をとる)とか、互いに自立した友人たちとして存在する、というステージがあるはずなのである。 このような本が他にも図書館にあるのは、知っているが、「負」について、あまり読むのは気が進まない。もっと積極的な「正」の価値について知りたいものだと思う。この本のように「正」を伝統的な宗教団体に求める、というのは、あまりにも悲しく滑稽だと思う。このブログでも、いくつかの展望の萌芽のようなものは見えてきている。いろいろな道筋を楽しみながら、2007年の時間と空間はすすみゆく。
2007.03.15
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「『カルト』を問い直す」 信教の自由というリスク 櫻井義秀 2006/1 中公新書ラクレ この数日、あるソーシャル・ネットワーク・サービスに上祐が参加してきたようだ。(このブログでは、煩雑さを避けるため、ほとんど敬称を略しています。)紹介されて、ちらっとみただけだが、それなりに分かって付き合う分には、本人の声を聞く、ということでは貴重なことだと思う。私は林郁夫も早川紀代秀の本も読んだわけだから、上祐の声も聞いておくことはやぶさかではない。ただ、やぶへびになったり、ミイラ取りがミイラになるこの世界のことだから、深入りは何事につけても禁物かも。 私が最近、麻原集団についての本を集中して読んだのは、それほど他意があるわけではない。あちこち図書館をうろうろしていると、面白そうな本がたくさん並んでおり、ひとつひとつ借り出してきているに過ぎない。このブログも最初は「ウェブ進化論」に刺激されて始まったことであり、これまでもネットワークや、ロボットや、人工知能、など、あるいは心理学やチベット密教などにも関心を持ってちらちら読んできてみた。麻原集団についても、だいたい6~7割方、読みつくしたので、だんだんと次のテーマにうつりつつある。 散発的だが、私が麻原集団に関心を持ったのは、なにか肯定的なものを彼らの中にみつけようとしているわけでもなく、必要以上に否定的感覚を強めようというわけでもない。ただ、95年当時、Osho瞑想センターに関わりをもっていた身として、麻原集団との関連で、Oshoが「カルト」類似と報道されるにはたまらなかったので、それこそ「身に降る火の粉ははらわにゃならぬ」という感じで、報道とは付き合ってきた。最終的には、わが身と麻原集団の接点はなにもない。 ただ、その比較や対比、検証、というものは十分ではない、という感覚がいまだにある。誤解を恐れずに言えば、麻原集団問題は、私においては、90年代前半におけるSシンセンターの動向の解明に繋がっていく必要がある、と感じているのである。事実がどうの、というより、私はどのようなことをしたかったのか、そして、どのようなことをしたのか。さらには、これから、どのような方向にあるのか、その辺が自分なり整理できればよいと思っている。 この本は、比較的最近の出版だ。そして、「問い直す」というだけあって、一度、ある程度には討論されたものについて、あらためて著者が再検証しているかたちの本である。他の「カルト」と称されている団体や動きについては、ともかくとして、麻原集団については、資料として用いられているのは、このブログで読んできたものが多い。ということは、私なりに、これらの問題を次第次第にカバーしつつある、ということになろう。 ほとぼりがさめてしまえばそれでいい、なんてことはない。これまで10年以上の間、問われてきたことについては、今後も問われていくことになるだろう。そのような予感がするものとして、ナチズムもある。このブログでは、どのようなことが出来るのかわからないが、我が非才さを嘆きつつ、ブログの限界性も知りつつ、しかし、せいぜい自分にできる範囲のことは、地球人の一人分として、なにごとか「参加」し続けることができればよい、と思っている。
2007.03.14
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「チベット密教・成就の秘法」 ニンマ派総本山ミンドゥルリン寺制定・常用経典集 田中公明・訳注 コクチェン・リンポチェ/ペマ・ギャルポ 序文 2001/11 読んでみるというより、手にとってみると、チベット密教の経典が、チベット文字と対訳で表記されており、類書のすくない貴重なほんだとわかる。しかし、本のタイトルはちょっと、大げさかな、と思った。 本書をあえて「チベット密教 成就の秘法」と題したのも、商業主義的で売らんかなのタイトルではなく、その内容が、通常の日課経典の範囲を超えて、かなり高度な生起次第系の観相法を含んでいるからに他ならない。p298 この本は2001年にでている。「近年の不況により、いままで私の著書を出版してくれた出版社は、どこも本書の刊行には消極的であった」p297というところからみると、たしかにこのような書物は、なかなかベストセラーにはならないだろう。地味に扱えば、どこまでも地味になってしまうような内容だ。それでも、このような資料が出来上がっている、ということはとても貴重なことであるに違いない。 日本人における「般若心経」のようなものだから、それを発展させれれば、どこまでも飛翔するし、そのまま放置すれば、どこまでも埋没してしまうような内容だ。「チベット密教」と書かれているが「チベット仏教」としてもよいくらい、顕経的経典と言っていいように思う。なぜなら、このブログではすでに、激しいチベット密教の、もっと密教たる部分にもすでに足を踏み入れてしまっているからである。 日常的な生活の指針や、静かな信仰の継続のための一冊と言っていいのだろうが、そこに秘めている莫大な可能性というものを、切り開くことには、私のような凡夫には、考えおよびもつかない。せめて、このような文献が日本にもそろいだし、また、そのような資料を提供できる人たちが存在し、また、それを日常的に常用する人々が湧出している、ということだけは心にとどめておきたい。
2007.03.14
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「チベット永遠の書」 宇宙より遥かに深く <シャンバラ>極限の恐怖の果てに「生」の真理を見た T・イリオン 林陽 1994/7 徳間書店 初版1936~37 この本のマーケティングのせいか、私はず~とこの本を避けてきた。店頭でも手に取ったことがあるし、古本屋でも買うか買わないか、何度も悩んだ。でも、自分のそばにずっとこの本があることを考えると、ちょっと気味が悪くなるので、遠ざけてきた、ということか。でも、やっぱり読みたかった。図書館には、当たり前のように入っている一冊である。 この本は1936に発行された「In Secret Tibet」(秘密のチベット)と37年にでた「Darkness Over Tibet」(チベットの闇)の二冊が合本されている。「本書は、ナチス政権を掌握した(1934年)アドルフ・ヒットラーが毎年チベットに調査団を派遣する誘引になった本である。」p333とされている。ナチスに影響を与えたチベット本は、ディクホフの「アガルタ----虹の都---- 」や、ブルワー・リットンの「来るべき民族」など、複数言われている。 私はしかしながら、どうもこれらの小説(?)を素直に認めがたいと感じていて、ゆがめられたチベット像が展開されているような予感というか、先入観があった。例えば、オウム真理教のオウムという言葉が、なにか禍々しい事件と連動して語られることに常に違和感を感じていて、麻原集団と別称をつけて呼んできた。オウムはオウムとしての「聖なる音」として、清らかなヴァイブレーションを保ち続けて欲しかったのである。 しかし麻原集団の顛末を追いかけ、あるいは、チベット密教の「神秘」をわずかづつではありながら、一枚一枚その包みを開けていくと、私の潔癖さや頑なさは、ちょっと一面的過ぎるのではないか、と思うようになってきた。つまりは、チベット密教には(にも、というべきか)天国と地獄が内包されているのであり、オウム(A-U-M)という聖音にも、この世の始まりと維持と終わりが含まれているのである。チベット密教は即、聖なる世界一辺倒、でもなく、聖なるものを含みつつ、常にそれに対峙する負のエネルギーも抱えているのである、と思うようになってきた。 だから、麻原集団は、チベット密教を誤って用いてしまったのではなく、麻原集団は意味じくもチベット密教の「悪の側面」を色濃く表現してしまったのではないだろうか、と思うのだ。彼らが踏み入った領域には、善なるものが全くないわけではない。いや、全っき善と信じていたからこそ行なわれてしまった行為があるし、また、いまでもそう信じている流れもないわけではない。 このイリオンの本は、かつて出版はされたものの、原版が失われており、わずかに大英博物館に残っていたものが、なんと1991年になって、ようやく復刻されたもの、とされている。日本では、1994年に日本語訳がでている。地下鉄サリン事件の直前というタイミングがなんとも、禍々しい雰囲気をかもし出している。 今回、初めて、通して読んでみて、この本を「小説」と決め付けてしまうのは、なんだかおかしいな、と思う。この本はこの本でよいのではないか。特に、問題となる後半の部分「チベットの闇」が翻訳されている部分だが、これはこれとして、このまま読んでも、いいのではないか、と思う。まぁ、しかし逆に考えると、当時としては珍しかった白人による3年におよぶイリオンのチベット探検で、彼が得たものがこの程度のものであった、とするなら、まぁ、それはそれで、しかたないのかな、と思う。 同時期にチベットを探検しているレーリッヒや、その他、多田等観、河口慧海、あるいはいくつかのレポートの存在を知るにつけ、イリオンが「3日間」でみた「地下世界」でのことが、ちょっと短絡的で一方的な決め付けがはなはだしく、大いなる誤解を生じてしまっている趣もないではない。まぁ、しかしこのような見方があり、このようなレポートがあるのだ、ということは記憶しておく必要があるだろう。私は本文より、「訳者あとがき」のほうに興味をひかれた部分が多くあった。 伝説によれば、中央アジアの地底深くに「アガルティー」と呼ばれる超人たちの地底世界があり、首都シャンバラには「世界王」と名づけられる支配者が君臨しているという。 "Beast, Men & Gods"(1923)の著者でロシアの探検家フェルディナンド・オッセンドフスキーはこう書いている。「アムール河流域に住む古老たちは、あるモンゴル部族がジンギスカンの追跡を逃れるために地底の国に身を隠した、という古い伝説を語ってくれた。それから、モガン・クル湖近くから来た一人のソヨトが、アガルティーへの入口になっているという煙の立ちのぼる門をわたしに示した。かつて、この門から一人の猟師がアガルティーに入り、戻ってからそこでみたことを話し始めた。ラマは彼が秘中の秘を口外しないように舌を切ってしまったのである」p328 この辺はすべて孫引きだから、そのうち原典(といっても翻訳だが)あたろうと思っている。つづいて、レーリッヒの言葉も引用されている。 ロシアの有名な画家で神智学者のニコラス・レーリッヒは、イリオンの10年前に大規模なキャラバン隊を率いてチベット入りし、師と仰ぐマハトマ・モリアの足跡を辿り、シャンバラを探し求めたが、最後には挫折した。当時の克明な日記は400ページを越す大作"Altai Himalaya"となって1929年に出版された。彼はこう記している。「中央アジアのある伝説は、神秘な国、地下のアガルティーについて語り伝えている。この王国に至る入口に近づくと、あらゆる生物は動きをとめ、ひっそり静まり返る。ラサとココノル地区にある地底の住居について語る情報は多い。モンゴルからきたラマはこんな伝説を語った。14世紀、偉大なる師ツォンカパの時代、ゲンデン寺の礎が定められたとき、岩の隙間から香の煙が立ちのぼるのがみえた。ツォンカパが入口を開くと、下は洞窟になっており、一人の老人が身動きせずに座っていた。ツォンカパが老人を三昧から起こすと、彼は一杯のミルクを求め、どのような教えが地上で行なわれているのかとたずね、それから姿を消した」p330 14世紀のツォンカパ、という人物は、一つのメルクマールになるかも知れない。11世紀の怪僧ドルジェタクから300年後に現れた中興の祖、ともいうべき人か。 従来、オカルティストたちはシャンバラをアガルティーの首都として言及してきた。にもかかわらず、本書(イリオンの著作)が出版されて以後、アガルティーとシャンバラを別扱いし、アガルティーを悪、シャンバラを善とする考え方が主流になってきたのは興味深い。真実を覆い隠そうとする巧妙な言葉のすり替えであることは明らかだが、逆にいえば、イリオン氏の証言がいかにオカルティストたちに大きな影響を与えたかを物語るものであろう。p331 アガルティーとここでは表記されているが、日本語では一般にはアガルタ、本ブログではアガータも採用している。すべてが同じものか、わずかづつでも差異があるのか、今はあえて距離をつめないでおこう。
2007.03.14
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「体位の文化史」 アンナ・アルテール 藤田真利子+山本規雄・訳 2006/9 作品社 こちらも、十代からの知人Yシャの紹介の一冊。彼との出会いは私の人生の中では、かなり早い時期に属する。彼が16歳、私18歳くらいの時からの付き合いと言える。当時はおなじ「コミューン」ライフで暮らしていたが、その後は、お互い、どこに住んでいるのかは、あまり詳しくはないのだが、どうやら、精神的にはすぐそばに住んでいるらしい。魂の兄弟などというと意味不明だが、まぁ、そういう表現が一番近い感じだ。 その彼は、パソコンは持っていないのだが、どうやら、この長文で読みづらい私のブログをケータイで読んでいるらしい。数ヶ月前に、電話をくれて感想を言ってくれた。その話の中でこの本のことが話題になった。さっそく図書館に頼んでおいたのだが、なかなか私には回ってこなかった。だいぶ時間が経ってしまったが、Yシャと約束した以上、目は通さなくてはならない。 「体位」を「科学」「芸術」「宗教」の面から検討しようという一冊。全ページにちりばめられた図版は見事である。一般図書として、このような本が開架棚に並ぶのだろうか、と心配になるやら、おかしいやら。とにかく目を覆わんばかりの、見事な図版のオンパレードである。 しかし考えてみる。インターネット時代にあって、このようなモノクロでしかも、年代ものの「イラスト」は、一般的には、もう特に「刺激」的なものでもないかも知れない。いったい、彼は何に感動した、というのか。ケータイから、パソコンを切り替えて、もっと新しい時代のポルノグラフィーでも見たらよいのではないか、などと首をかしげてみる。しかし、人間のフェティシズムというものも、一筋縄ではいかない。セピア色の前時代的なアートに心と男根を打ち振るわせる嗜好も、ありはありだろう。 ふと思う。これは、西洋的なセクソロジーだなぁ。いかにも「体位」にこだわるところが、西洋らしい。これが東洋になると、チベット密教のようになるのかも知れない。まぁ、いずれにせよ、時代が変化すれば、このような本も流通するようになるのだなぁ、と感嘆。その筋の愛好者には垂涎の一冊か。
2007.03.13
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「気流の鳴る音」 交響するコミューン <1>真木悠介 初版1977/5 筑摩書房 小生にも、それほど多くはないけれど、ずいぶんと長く交流を保ってもらっている知人というものがある。その人々は、友人とか知人とか旧友とか、ありきたりの紹介を超えて、あるいは同志とか仲間とか朋友とか、いう言葉も超えて、なにやら、自分と一体化してしまっている場合がある。当然、恋人や伴侶でもないので、一定程度の距離は保たれているのだが、手を伸ばせば、いつもそこにいる関係というか、そのような存在である。 そのような貴重な存在の一人である、H倉女史の紹介にあった一冊。有名な、真木悠介=見田宗介については、当然のごとく名前は知っているし、その活動の一旦はとうぜんのごとく知っている。しかし、本来あまり本を読まない上に、面倒くさがりで、もの知らずの私は、この有名な本を今回初めて読むことになった。 読んで初めてわかったことは、ほぼ全編、カルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」にかかわる文章だった。1973~1976年に「展望」「朝日新聞」や「朝日ジャーナル」に掲載された文章を一つにまとめたものである。なるほど、この時期であれば、コミューン、というモダニズム、ドン・ファンの教え、という新潮流が、全編これ影響力が濃く反映されているのは、当然だろうと思う。 1980年初頭からでてくる中沢新一や村上春樹などを読むよりも、この真木悠介の方にノスタルジアを感じるのも、当然といえば当然のことだ。伊東乾の「さよなら、サイレント・ネービー」の中にも、真木(見田)はでてくる。あるいは、ドン・ファンは林郁夫の本の中にもさかんにでてくる。70年代中半にあっては、これらのことが、まだまだ発芽がはじまったばかりの、一体渾然とした未明の時代であったのかも知れない。 60年代~70年代の政治の時代から、カウンターカルチャーへの変換期としてでてきた真木の存在は、80年代の中沢や村上によってニューカルチャーとして社会の中に根ざし、成長過程において、林郁夫や早川紀代秀らの精神風土を育て、90年代においては、その名も鬼っ子にふさわしい松本智津夫によって、戯画化され、実践的に反証されたと言えるかもしれない。しかし、社会は、この問題をゆっくりと時間をかけて解決しようと努めており、21世紀初頭に起きた9.11をみるにつけ、かつての「全共闘」にもその類を発見しながら、これらの時代性を克服しようとしているかに、私には見える。 ないしは、そのように時代を捉えている私がおり、そのような展開にこのブログをもっていこうとしているのだが、はて、どうなるか。思うところの多い一冊である。コミューンという言葉の使い方が初々しい。<2>につづく
2007.03.13
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「哲学の東北」 中沢新一 1995/5 青土社 およそ洒脱な中沢新一と「東北」は似つかわないミスマッチのようでいて、どこか独特な妙味があるような、さてどうなるのか、この勝負、なんて不思議な胸騒ぎがしていた。さっそくでてきたのは、宮沢賢治だった。そして、太宰治や寺山修司だった。うん、嫌いじゃないし、はずれてもいないよな。だけどちがうよなぁ、と、どこか胸の奥底で叫んでいる。途中で出羽三山の羽黒山の修験道がでてきて、ようやく、一息ついた、ということか。 しかし、本当は、キチンとしたルーツがあった。「踊る農業」森繁哉だ。山形県大蔵村の役場に勤めながら、「すすき野シアター」をやっている。私はこれでやっと安心した。ようやく中沢を東北に迎え入れたという感じか。こころ許すかんじだな。それまでは意地悪する(笑)。 私はもともと東北にあこがれていた。だから、学生の頃から、何度もこの地方は旅をしていた。しかし、この世界の魂のようなものに触れることはできなかった。私は扉を開くパスワードを知らなかったのである。それを、森さんがこっそりと私に教えてくれた。ちょっとした言葉の切れ端や、何気ないしぐさなどに、それは上手に隠されているから、案内の人の好意がなければ、なかなかそれとは気づかれない。私の前に、広大で、魅惑にみちた世界の扉を開いてくれた森さんに、私は心の底から感謝の気持ちをいだいている。p233 1991年12月に、環境心理学国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」(SPS)が開かれた。私もその主なるスタッフの一人だったのだが、その時の、ゲストの一人として呼んだのが、森繁哉だった。SPSについては、このブログでもなんどか再構成を試みているが、まだ出来ない。そのうちやろう。 東北はどこの世界にもある、というのが僕の考え方です。日本の東北だけではなしに、ヨーロッパの東北、世界の東北というのが存在しています。たとえばロシアなどは、ヨーロッパの東北地方でしょう。そのために、あそこでは、いつも魅力的な変なものが、生れます。だいいちあそこでなければ、レーニンのような変な人物は、生れなかったでしょう。それに、地理上のことだけではなく、映画の東北、音楽の東北、料理の東北、政治の東北、そして、哲学の東北というものがあります。p110 この辺は、饒舌なる中沢のいつもの常套手段だから、見逃しておこう。もともと、この本自体が、つまりは東北について書こうと思って書かれた本ではなく、編集者が東北に関連する文章をあとでまとめて一冊にしたものだ。不足感は、あって当たり前だろう。東北には「東北学」というものがある。土地のものではないとわからないことがある。沢山ある。あたりまえにある。あるいは、これは東北にかぎらず、どこでも同じなのだろうけど。 僕はね、東北の世界をひと言で言ってみろって言われたなら、前からこれは<あいさつの世界>だなぁと思っていたの。あんまり会話しないんですよ、だけど会うと必ずあいさつをする。その瞬間<開く>わけですね。それで十分なんだ。開いたあと、何か言葉で開きを埋めていく必要はないんだ、という。p93 うん、そうだね。その通り。うまいこと言う。さすが。よそ様だからそういう発見ができる。しかし、そういう発見をすること自体、まだまだ東北に慣れきっていないことになる。まぁ、中沢は東北人にはならないだろうし、なれない。最終的には理解できないのではないだろうか。だからこそ、うまく説明することができる。チベット人ではないからこそ、チベットをうまく解釈したように、中沢は東北人ではないからこそ、東北をうまく<誇張>して表現できる。 本当のこと言うと、北方日本というのは嘘の王国なんです(笑)。その象徴が「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)です。あの巨大なホラ話はどうだ。歴史はホラでできているって、その本は断言していますね。そのとおりで、歴史なんてみんな嘘なんじゃないかなぁ。p209 麻原が酒井勝軍ゆかりのヒヒイロガネの伝説を追って東北に入ったのが85年6月。中沢が森繁哉と出会って東北に入ったのが86年春。二人とも、「巨大なホラ話」の中に期を前後して入って行く図はなかなか愉快というか、可笑しい。考えてみれば、中沢がこの「哲学の東北」を脱稿したのが1995年3月、地下鉄サリン事件と同時期なのである。クロスしているようで、微妙にずれていた二人の時空は、またまたここでエンカウンターする。 中沢が「巨大なホラ話」の中で洒脱に「哲学」するとき、麻原は「巨大なホラ話」をヴァジラヤーナ的に現実化しようとしていた。麻原がもうすこし「哲学」していて、中沢がもうすこしヴァジラヤーナしていたら、あの90年代の「虚妄な高揚感」と「脱力する喪失感」は、体験しなくても済んだのではなかったか。歴史に「もしも」はないが、かえすがえすも念が残る。
2007.03.12
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「麻原彰晃の誕生」 <1>高山文彦 2006/2 文春新書 この本は2006年にでている。いわゆる地下鉄サリン事件から11年を経過してのノンフィクション作家の詳細な事実の再構成である。さすが、これだけの時間をかけると、かなり違うなぁ、と思って読んでいたが、実は、大部分は1996年5月から8月に「現代」に書かれたものであり、残りの終章は、2001年6月から8月にかけて「フォーカス」に連載されたものであるという。もちろん、今回一冊にまとめて新書として出す限りは、それ相当の加筆訂正されたことは間違いないだろう。 しかし、むしろそうだったとするなら、やはり高山の文章が私にとっては的を得ているように思える分だけ、当時の、吉本隆明らの言説は、やっぱりおかしいなぁ、と思わざるを得ない。高橋英利、林郁夫、早川紀代秀など、内部的な人間たちの告白、あるいは村上春樹たちによる事件の被害者たちの体験談などが明らかにされるにつれ、事件の全体像が切り取られるなか、麻原個人の全体像が見えないのは、麻原が口を閉ざしてしまったばかりでなく、あまりにそのかかわる事象が多岐にわたっているせいであろうと思われる。その中にあって、この高山文夫の本は、おちついて麻原の人生について考える、よい機会を与えてくれていると思う。 私はあまり本を読んでいなかったし、とくに麻原関係は避けていたので、見逃しているものもたくさんあるだろうが、麻原のライフストーリーの、特に生い立ちから集団形成前半期までの経過について、ノンフィクション的追求した本は、私にとって、この本が初めてだった。実に、こまかいディティールまで書かれていて、そのリアリティに胸を打たれる。 特に、その彰晃という名前の由来となる、「自念信行会」の西山毅夫(現・祥雲)という人物をこの本で初めて知った。1982年当時、世田谷祖師谷の事務所に現れた麻原は、この名前をもらったとされる。まだ麻原という名前はない。つまり松本彰晃と名乗り始めた、ということか。 あるいは、一度、上京したが、挫折して九州に帰った1976年当時、大分のY組系B組のAという人物のもとにいたのではないか、という「異聞」を伝えている。この辺を限りなくレポートしている資料は少ない。この辺から、村井殺害に及ぶなんらかのシンジケートがあるやなきやは、余人の推し量れる範囲の外だ。また、麻原という名前は、83年夏に、ヨガ教室の前身となる学習塾を開いたおり、生徒募集のチラシに初めて用いたとされる。麻原彰晃の誕生である。 この本の終わり方もなかなかユニークだ。「ヒヒイロガネ」で終わっている。ヒヒイロガネについては、詳細を避けるが、つまり、岩手県釜石周辺の自然界に存在する鉄分の多い丸石から生成された金属、ということになろうか。この研究を、酒井勝軍の文献から知った麻原は、現地に赴き、古老の研究家から大量に貰い受けたとされる。1985年6月のこととされる。 酒井勝軍のプロフィールを知れば、日ユ同祖論や「陰謀論」と容易に連想されていくのであり、島田裕巳のように、のちに井上や早川などの「弟子から教えられ、それを鵜呑みにしてしまった」とするのはどうかと思う。このヒヒイロガネでふたたび注目される東北の隠された神秘性だが、このような文脈ででてくることに、私は寂しさを覚える。 この本に書かれた麻原の人間像の真偽については、類書がでてくるとすればそれと比較することで検証していくことも必要だろう。しかし、書かれた部分より、まだ書かれていない部分が、今後なんらかの形で提出されることを望む。<2>につづく
2007.03.12
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「尊師麻原は我が弟子にあらず」オウム・サリン事件の深層をえぐる 吉本隆明 + プロジェクト猪 1995/12 徳間書店 島田裕巳、中沢新一、と並んで麻原擁護の立場を取ったと見られる作家に、吉本隆明がいたなぁ、と思い出した。騒がれた当時から、あまりに現実とかけ離れた論調だったので、私はまったく頓着していなかったが、ここに来て、一応、どんな調子だったのか、調べておこうと思って、検索してみた。そしたら、この一冊がでてきた。 「尊師麻原は我が弟子にあらず」って言われても、ダンテス・ダイジや桐山靖雄でもあるまいし、誰も麻原が吉本の弟子だなんて思いもしないが、当時としては、あらゆるマスコミが面白おかしく書きたてたので、そのような誤報なりひっかけ記事なども横行していたのかもしれない。この本では、吉本の文章は、全文で300ページ中で40ページたらずだから、かならずしも彼一人の本ではない。プロジェクト猪というグループなどほかの7名が対談なり補記なりしている。 いま、改めて吉本の文章を読んでみるのは、ある意味、フェアではないかもしれない。当時はまだ、地獄の釜のふたをあけたばかりの状況であっただろうし、世間の騒ぎ方も半端ではなかった。もちろん的をおおきくはずした「正義」感が大きく幅を利かせて闊歩しており、そのことを危惧した言論人たちが、積極的に加速する世間の「妄想」にブレーキをかけようとしていたこともわかる。 その中において、吉本も、麻原集団そのものよりも、「一般社会」の危うさについて語っていたこともわかる。しかしながら、今、こうして短文ながら、吉本の言説を読んみても、私には滑稽に思えることが多々ある。「私はだまされていた」発言の島田は言うに及ばず、麻原たちの教則本にさえされたという中沢にしたところで、地下鉄サリン事件後は逃げ腰だった。もちろん、桐山ごときは、「知らぬ存ぜぬ」で逃げおおせたのである。 その中にあって、地下鉄サリン事件後も、積極的に麻原を「麻原さん」と呼び、「良識派」を逆撫でした発言を繰り返した吉本の本質は、頑迷な固陋に過ぎなかったのか、あるいは、なにごとか再評価すべきものを内在しているのか、今の段階では、評価しかねる。少なくとも、この一冊ではなくて、この後、どのように吉本の発言が変化したのか、しなかったのかを確認すべきであろうと思う。 麻原を擁護する人々の中には、麻原集団ほど神秘体験を克明に書いている人はいない、という論調も目立つ。吉本もその一人だが、しかし、いざ、宗教的修行や瞑想をした人間なら、多かれ少なかれ、身体的あるいは心理的「体験」は必ず、ある。なければおかしい。しかしながら、それを他言するか、公表するか、となると別次元になるのである。通常は「秘」してしまうのが普通だと思われる。麻原集団の「体験」談は、その体験談はともかくとして、宣伝効果を狙ったものがほとんどである。しかも確認のしようのないことばかりだ。 文章などは何とでもなる。もちろん、吉本にようなプロ作家は、一字一字に「魂」を込めているかもしれないが、一般的な広告本など、ペテンそのものであることが当たり前のように横行している。少なくとも、私は、麻原集団の本を、そのまま鵜呑みにしたことは一回もない。空中浮遊の写真や「最終解脱」などという文言があること自体、すでに唾棄すべきと心得ていた。 だから、やはり95年の事件直後という状況の中にあったとしても、吉本の言説は大きく的をはずしたものであったと判断せざるを得ない。当時は、まだ容疑も定かではなく、結審もしていなかった。しかし、2004年2月に麻原死刑判決がでて、それが確定している現在、吉本はどのように「言い訳」しているのか、聞いてみたいような気もする。 百歩譲って、もし麻原たちが、いわゆるサリン製造や殺人行為、その他、犯罪を構成するような事実に一切かかわりを持っていなかったとして、麻原集団の「宗教」性は、「貴い」といえただろうか。確かにそのような論調はかなりある。歴史に「もしも」はないのであるが、もしも麻原集団が「無罪」だった場合、彼らの宗教性や精神性は、積極的に肯定的に評価されるべきものだったのか。 私はNONを言いたい。三宝と言われる仏法僧、そのものにおいて、新しい時代の地球意識のブッタ、ダンマ、サンガ、は、あのようなものであってはならなかった筈だ。「最終解脱」したようなモノに「帰依」すること自体、おかしい。その信徒たちに「番号」をつけること自体、おかしい。「法人」をとることだけに狂奔したこと自体、おかしい。擬似国家的な組織論を作り上げたこと自体、おかしい。 親鸞が好きだ、という吉本。往相と還相の、とらえ方の違いもある。なにも麻原憎しが昂じて吉本まで叩く必要もないようなものだが、やはり、自分の人生をどのように生きるのかを、真摯に考える時、何かを叩き台にして、自らの色合いを明瞭にすることも、時には必要となるだろうと思う。
2007.03.12
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「オウム真理教と阿含宗」 桐山靖雄 1995/7 平河出版 なにをいまさら、この本を引っ張り出してきて読む必要があるのだろうか、とふと、ひとりで笑ってしまった。一応当時のつながりを再現するための確認作業ということになるだろうが、事件直後の「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」p8という勢いが強いだけの、ほとんど桐山の宣伝文が載っているだけの本。多分、当時の私は、本屋の店頭でこの本を読んでいると思う。95年の後半までは、ほとんどマスメディアに現れる情報はチェックしていたので、大体の反応の仕方はわかっていた。 一般に麻原在籍3年と言われているが、桐山に言わせれば面識もなく在籍数ヶ月、ということになる。在籍10年と言われる林郁夫においては、彼の本に書かれるほど「重用」されたのに、桐山にしてみれば、あまり大げさに書くことはできないようである。まぁ、この辺はどっちもどっちなので、深入りはしない。 「チベット密教について」p237という文章もあるが、当時の緊急性や、事件の全体像の明確になっていない当時としては、靴の上から掻くような、なんの効き目のないような文章が載っているだけだ。一連の麻原関連本を読んでいて、この本を再読しようと思ったのだが、むしろ97年とか2000年になってからとかに、おちついて書いてある本があったら、むしろそちらを参考にすべきだろう。しかし、このブログではここをそれほど深堀りしてもあまり意味を感じないので、そこそこにしておこう。
2007.03.11
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「秘密と嘘と民主主義」 ノーム・チョムスキー 田中美佳子・訳 2004/7 原書1998 身近にこのような、なんでも教えてくれる「親切なおじさん」がいたらいいだろうなぁ。すべて正しいとは言いがたいが、なにか考えていて、よくわからないナァ、と思ったら、まずおじさんの意見を聞いてみる。おじさんなら大体なんでも知っている。そして気の利いたアドバイスをしてくれる。最初からなんでもかんでも聞いてしまうと、これは全部物まねになってしまうし、こちらの考える力が減退してしまう。でも、いろいろ考えてみて、どうしてもわからないことがあったら、聞いてみよう。そして、その意見を参考にして、自分なりにもう一度考えてみよう。 そんな思いにさせてくれる一冊。デビッド・バーサミアンという人が行なった一問一答式のロングインタビューがもとになっている。もちろん、インタビュー後に、丁寧に手が入れられていることは間違いない。だけど、その問い自体が非常にわかり易く、関心のあることなので、ついつい読んでしまう。さすが、アメリカの良心だ。 チョムスキーについては、ちょくちょくこのブログでも読んできたが、岡崎玲子との対談との対談のように、わかり易く、また、安心してその話を聞いていられるという不思議な魅力を感じる。この人、本業は言語学者、ということなので、いずれは、こちらのほうの仕事にも触れてみたいと思う。 この本は日本語訳は2004年にでているが、原書は1998年にでているので、インターネットの捉え方が、まだ当時のままだし、ましてや2001年9月におきた、いわゆる9.11にも触れていないので、逆にわかりやすい、と言えるのかもしれない。 マリファナは人びとのためになるか、ならないかといった議論は可能だが、少なくともマリファナの常用者が6千万人いるなかで、あやまって致死量を服用したという話は聞いたことがない。マリファナの使用を犯罪あつかいする背景には、薬物の取締まり以外の目的があるのだ。p041 子供のころの私は、フィラデルフィアの中心街にある公共図書館に入りびたっていた。まったく申し分のない図書館だった。つねづね私が引用している無政府主義や左翼マルクス主義の型破りな文献は、すべてこの図書館で読んだものだ。p083 インターネットは真剣に考慮されるべき技術だ。ただし他の技術と同様、インターネットも多くの可能性と危険をはらんでいる。「ハンマーは良いものだろうか、悪いものだろうか」という質問は意味がない。大工の手にかかればそれは役に立つものだし、拷問者の手にかかれば悪用される。インターネットも同じだ。さらにインターネットが良い目的に使われたとしても、それだけですべての問題が解決できるわけではない。p226 一問一答、それぞれに面白いが、難点といえば、そのほとんどがアメリカ的社会からみる世界観について語られていることだ。それでも、中丸薫的な世界観に引きずられるよりもましかな、と思う。日本人でこのようなおじさんがいればいいのにな。
2007.03.11
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「グリーンピース・ストーリー」 マイケル・ブラウン ジョン・メイ 中野治子・訳 1995/12 山と渓谷社 原書1989 星川淳がグリーンピース・ジャパンになってから、すこしこの団体も身近に感じられるようになったが、どうもその売り物である「直接行動」というスタイルに、率直に言って「エコ・テロリスト」的な過激さを強く感じていた。 特に、反捕鯨的運動には、私自身はあまり共感はしていない。私の地方では、鯨は、牛や豚よりも当たり前の食事として、食文化になじんでいたものだった。卵を産まなくなった廃鶏がたまに食卓に上ることもあったが、肉はあまり一般的ではなかった。魚や野菜、山菜を中心に食卓をにぎわしていた。牛や馬は、家畜として大事に扱われ、むしろ家族の一員として(いまのペットブームに似ている)同じ屋根の下で暮らしていたものである。 ところが戦後の農業改革の中で家畜が必要なくなるとともに、動物食も増えてきた。自家生産していた食事も次第次第に金銭的に購入するものになっていった。このような時代に、反捕鯨団体グリーンピースは日本のマスメディアをにぎわすようになっていった。 鯨は動物だから殺すのはやめよう、という主張は主張として、筋が通っていると思う。しかし、それでみんながベジタリアンになったわけではなかった。むしろ動物食が加速した。しかも、そのほとんどの食肉は輸入に頼ることになってしまった。鯨をウォッチングするのもいいが、大量の動物達をト殺し続ける文化を放置しているのはいかがなものか。動物愛護という視点でいえば、むしろ、アメリカのBSE混じりの牛タンを食べている現在よりも、ワラにまみれて一緒の屋根のしたで牛と暮らした生活のほうがよっぽど理にかなっている。 地域の港は、捕鯨基地としては日本で有数の水揚げ高を誇っていた。町全体が鯨で成り立っていたといってもいいくらいだった。ある友達は、水産会社に勤め、この鯨の解体作業の勤務についていた。結構朝早くとか忙しかったらしい。でも、家族からは「鉄砲さんにはなるな」といわれていたという。鉄砲さんとは、捕鯨船に乗って、縄の付いたモリを鯨めがけて打ち込む作業の人たちだ。この人たちは、それなりに賃金はよかった。 しかし、その友人が言うには、この鉄砲さんたちの末路は必ずしも幸せだったとはいえなかったという。真かどうかは知らないけれど、その家族には、健康的に障害が起こることがママあったという。高収入者に対するやっかみも会ったかもしれないし、治療代を稼ぐために、人から嫌われる作業についたかもしれないし、定かではないが、少なくとも私の友人は「鉄砲さん」にはなりたくない、と思っていたそうだ。 鯨を愛そう、ということはそれなりによさそうなことだ。しかし、その代わり、輸入肉に頼っているのもいかがなものか。さらに鯨の食物連鎖から言って、本当の意味で、自然環境保護の面からどうなのかは、専門家ならざる私には、一言では解決できないテーマだ。 グリーンピースも、いままでのような反捕鯨一本やりではなくなったとも聞く。私たちの食卓に鯨が上らなくなって、すでに久しい。もう30年くらいになるだろう。たしかに筋っぽいところは美味しくないが、でも、鯨の味噌漬けの焼いたやつなどは、たまには食べたいナァ、と思うときがある。 最近、害獣駆除で仕留められたイノシシを知人から譲り受けて、食べる機会があった。料理方法もよくわかないまま、サイコロ状にきった肉を圧力釜でやわらく甘露煮にして食べてみた。どことなく草原の味がした。「おいしい」という感覚ではなかったが、自然を食している、という感じはした。 なにもグリーンピースは、鯨問題ばかりやっているわけではないが、どうもグリーンピースと聞くと、どうしてもこの問題はさけて通れない。この本は原著が89年で、日本語訳は95年にでている。かなり古い情報になってしまうが、そのルーツを知るにはよい本だろう。
2007.03.11
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「がんばれマルチチュード」 ああ21世紀 荒岱介・編 2003/4 実践社 あちこちの著作に散見されたマルチチュードをいう単語を追いかけても、それほどの情報量があるわけではない。日本語でこの単語を用いた本のタイトルは、本家のネグリ&ハート以外には、この本くらいしかないのだろうか? この本は、60人からの作文集によって成り立っている。 もっと目線を下げた、ありきたりの人が等身大のところから職場を見ており、社会を見ている労働者の話はないのか。ふつうの人のふつうの営みの中にある喜怒哀楽に出会えないのか。 そんな編者らの期待にこたえてくれたのが、小さな業界新聞の「職場から」などの欄に掲載されていた投稿原稿の数々だった。人権と環境をテーマとするNGO集団の発行する新聞だが、もともとは極左過激派集団の機関紙である。それがヨーロッパはソ連での社会主義の体制的転覆を経て変遷し、いまのスタイルにおちついた。p4 なんと、自らが「極左過激派集団」などと表現する時代になったのかい、と検索してみると、「荒岱介のページ」とか「荒岱介」などの情報がすぐでてくる。しかし便利な時代なものだ。この人、ブント(共産主義者同盟)の関係者だったのね。 共産主義の20世紀的変遷の果てに、その「止揚」された概念としてのマルチチュードであるが、本体の共産主義自体の息の根がとまっているかに見えるので、どうもこちらのマルチチュードという概念も、はでな動きはないと見える。この本に書かれている60人の人たちの「職場から」のレポートだ。 このいくつもの体験記については、だから「がんばれマルチチュード」としか言えない。私たちの世代のように階級的対立から考えるなんてことは、これっぽっちも指向していない人達の文言である。だからそれはどう読んでも「がんばれマルチチュード」なのだ。p5 まぁ、しかしながら、書いている人たち自身「マルチチュード」とも思っていまい。ひとりひとりの職場からの体験記は興味深い。胸にぐっと来るものがおおい。なんとも言えず共感してしまうが、60人の人々の「悩み」を一手に引き受けるほど、こちらもタフな心理状態ではないので、つい目に蓋をしたくなる部分もある。 私は個人的には、「マルチチュード」という概念はすごく面白いと思っているのだが、そのルーツや扱われ方によって、どうも荒岱介が言うような「ふつうの人のふつうの営みの中にある喜怒哀楽」の中で出会えるような言葉や概念にはなりそうにない。将来的には大化けするかもしれないが、今はマイナーな細い水脈というところだろうか。 帯に宮台真司が推薦言を書いている。「有象無象の若者の中にこそ次世代のパワーがある」
2007.03.11
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「この国を支配/管理する者たち」 諜報から見た闇の権力 中丸薫+菅沼光弘 2006/2 徳間書店 書店でチラッと見かけた時は、ああ、この手の本はいまでも闊歩しているのだなぁ、と想う程度であったが、公立図書館にも何冊かは入っているようなので、戯れに借りてきてみた。中丸薫という女性については、ネットに情報が溢れているようなので、私が認識不足であった、ということなのだろう。今まで知らなかった。 しかし、彼女が展開しているような論旨は、彼女の「出自」以外に関しては、特に目新しいものではなく、ある意味、すべてはある種のパターンの焼き直しであり、情報のモザイク張りということになる。一口に言ってしまえば、彼女は否定するかも知れないが、いわゆる「陰謀論」である。この陰謀論は、90年代初めにも、盛んに書店をにぎわしていた。これらの陰謀論が、裏に表に、麻原集団を暴走に駆り立てた一つの要因であることは間違いない。 陰謀論にも、いくつかのパターンがあり、日本とユダヤの流れに注目した日ユ同祖論、すべての悪を一元化しようとするユダヤ禍的視点、国際金融や人脈からその闇を追っていく人脈的手法など、さまざまあれど、中丸は、それらをすべてモザイク状に張り合わせて、一つの世界観をつくりあげていく。 その中にどれだけの「真実」や「真理」があるのかは、にわかには判断できないが、かつての「陰謀論」にふれた限りは、私はいつも徒労に終わり、重い疲労感だけが残るという体験をしてきた。なにか、回転檻に入れられた実験用ラットが、永遠に走り続けているような、終わりのない「脱走」を強いられているような感想がつねに残る。 この本においては、9.11などの裏側の「真相」を追求しようとするが、その視点には注目すべき視点は当然あるわけだが、その視点の根拠となるものの提示のされ方が、私にはどうも納得感がない。同じテーマについては、このブログでも次第に探究していくつもりだが、アプローチの仕方や方向は、また別個なものになるだろう。 ネグリ&ハートにおける「<帝国>」と「マルチチュード」という対峙の中でみようとすれば、この闇の権力というものは<帝国>ということになるだろうが、ネットワーク化し流動化する世界権力というネグリのその範疇に対して、中丸の場合は、具体的な事例や人物を列挙するだけ、一見、説得力を増しているかに見えるが、実は煩雑さを助長しているだけで、物事の本質が次第に見えなくなってしまっている。 ネグリ&ハートにおける「マルチチュード」という概念も、必ずしも十分に書ききれた実在性のあるものになっていないが、中丸においては、このマルチチュード的視点がない。中丸達は煽るだけ煽って、「迷える羊」たちを、あちらこちらに追い散らしているだけのようだ。出口のない恐怖を撒き散らしている。このブログにおいては、様々な哲学や陰謀論などがあることを認知しつつも、それらから、「個人」としての自立した、一人の地球人としての精神の在り方、とは何かを追求していこうと思っている。 さまざまな言説があれど、「科学」「芸術」「宗教」のバランスのよい三位一体の視点とライフスタイルを探究しようとするこのブログとしては、いたずらに恐怖を煽るような陰謀論は、深入りしたくない領域である。この辺が、このブログでの展開での限界である。
2007.03.11
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく 「性と呪殺の密教」 怪僧ドルジェタクの闇と光 正木晃 2002/10 講談社選書メチエ とてつもない本だ。「チベット密教の神秘」にでてくる11~12世紀のチベットで180歳(?)の長命を誇ったと言われる怪僧ドルジェタクの生涯とその仕事を切り口として、地球人類史上の中でもまれなる精神文化の成長を遂げたチベット密教を、長い間、封印されていたタブーも含めて、なまなましい迫力で、白日のもとに差し出している。 この本については想うところがいっぱいありすぎる。少なくとも、ここには、ノーベル平和賞のダライ・ラマによって語られる大乗的フランクさと気さくな形で語られるチベットとは、まったく別なチベットが語られている。どちらが真実とは言いがたいが、少なくとも、表面的な観光地チベットの面だけをみていたのでは、あきらかに最も大事な何かを逃してしまっていることになる。 宗教学者としての正木は、麻原集団の出現のあと、強い衝撃を受けながら、宗教性、とりわけチベット密教にまつわる闇の部分、性と呪殺の部分について、最新の研究と綿密なデータをもとに、ヒマラヤの麓で暮らす民衆の中に静かに受け継がれてきた、独特で精緻に構築されたその密教の世界を、淡々と、しかしながら、みずみずしい感動とともに描き続ける。 この本は再精読を要す。チベット密教とのつながりの中で、今後、わずかづつでも理解していきたい項目を列挙しておく。1、麻原集団とそのチベット密教、ヒンズー・タントリズムの関係1、宗教性に潜む、性と暴力と、その源泉1、11~12世紀のドルジェタクから、ゲルク派の開祖ツォンカパの15世紀までの300年の間に、何があったのか、特に13世紀のチベット内外の情勢と宗教的環境1、チベット密教とモンゴル勢力とのかかわり1、21世紀における人間意識に、タントリズムはどのような貢献をするのか1、人類意識の進化に伴う現在とは何か
2007.03.10
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「チベット密教の神秘」<1> 快楽の空・智慧の海 世界初公開!! 謎の寺「コンカルドルジェデン」が語る 正木晃・立川武蔵 1997/3 学研 図書館のコンピュータで検索をかけると、本のタイトルに「チベット」が含まれているもの約400冊ほどが抽出されてくる。実際に手にとってみることができないのが残念だが、旅行記風のものもあり、小説風のものもあり、もちろん宗教書もある。その中にあって、この本はカラーグラビアをふんだんに使った豪華版である。隠されたチベット寺院の長い間、非公開とされてきた秘仏たちの世界初公開である。 正木晃の仕事は注目に値する。私は以前、正木の共著について「この本を読んだ時のショックは、また格別である。この本を入り口として、膨大な世界がぽっかりと穴をあけて待っている。」と書いている。まさにその印象が、このグラビア本をみているとますます強くなる。彼には共著を含む20冊以上の著書があるようだ。禅やアニメなどに関わる本もあるが、チベット密教に関する本も多数ある。宗教学者としての、新たなる存在感をかもし出しているといえる。 最近のチベット密教に対する関心の高さは、目を見張るものがある。こうした現象はなにも日本だけにとどまらず、むしろ世界的な広がりをもつといったほうがいい。 欧米の書店で宗教書の棚をのぞくと、そこには驚くほど多くのチベット密教関連の書籍が並べられている。同じ仏教といっても、日本仏教のほうはいたって低調で、書籍の数からすれば、おそらくチベット密教の百分の一くらいしかないだろう。 なぜ、そうなのか。一つには、1959年のチベット動乱の結果、故郷を脱出し亡命生活を余儀なくされたチベット人たちが、その悲劇を逆手にとって、チベット密教が世界に広まる絶好の機会に転じてしまった歴史がある。だが、それだけではない。チベット密教こそ、世界史上、最も完成度の高い神秘主義であり、その理論も、その実践方法も、比類なき水準に達していることが、今日の隆盛をもたらした最大の理由なのである。p25 チベットの四大宗派として、庶民の支持が強い--ニンマ派、密教色の強い--カギュー派、戒律の厳しい--ゲルク派、中世チベットに君臨--サキャ派、などと基本の基本から紹介されているが、そういえば、中沢新一はニンマ派で修行し、Oshoの前世はカギュー派だっけ? ダライ・ラマはたしかゲルク派で・・・などと、もともと関心はあるものの、とてもとても覚えたてられないチベット語の、さらに独特の密教用語に圧倒されてしまうのである。 8世紀の中頃、インド仏教はまったく新たな段階を迎えようとしていた。それは、ある一つの経典がこう宣言したときに始まった。 「そのとき、世尊は、一切の如来たちの身・語(口)・心(意)の三密の心臓たる金剛女陰において、真実の法を説き始められた。」 ここにいう「金剛女陰」とは女性器のこと。すなわち、ブッタは女性パートナーとの性的ヨーガ(性瑜伽)を行ずる最中、法を説きはじめたというのである。しかも、女性器こそ、ありとあらゆるホトケたちにとって根源的意味をもつとすらいう。p57 現在、ゴータマ・ブッタ直伝の仏教は消えてしまっているといわれるが、時代とともに変遷を遂げて、インド密教はチベットへと渡る。 チベットには、ヤマーンタカ=ヴァジュラバイラヴァに関して、忌まわしい記憶がある。11世紀から12世紀にかけての時期である。 この頃、インドから伝わった新しいタイプの密教をチベットに根づかせるうえで、大きな役割を演じた人物にドルジェタクがいた。彼はきわめて有能な仏典翻訳家であった。しかも、ただ単に翻訳家にとどまらず、彼自身がすぐれた霊的能力の持ち主であり、実践を何よりも重視する密教の導入に欠かせない逸材といってよかった。p77 ドルジェタクについての詳しい内容は他書に譲る。現代20世紀の怪僧にして破戒僧となってしまった麻原に通じる、デリケートな部分である。 仏教では、その時期に応じて、最もふさわしいものが、あたかも計画されていたかのごとく出現することを「時熟」という。文字通り、時が熟すのである。そうおもってみれば、私たちが、この日本でコンカルドルジェデンのイダム堂を主題にした書物を出版することも、見えざる手によって、あらかじめ歴史の中に組み込まれていたのかもしれない。p134 このブログの主題もまた、チベット密教やそれに連なるリンク上になにごとあらんと探索していることになる。見えざる手によって組み込まれた時間と空間が熟す時を待つことにしよう。 2008/10/07再読 <2>につづく
2007.03.09
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「絶対無の戯れ」 ダンテス・ダイジ 1990/7 森北出版 「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」、「アメジスト・タブレット・プロローグ」に続く、雨宮第二の第三冊目。この本もダンテス・ダイジの死後にでている。この本では、誕生日が1950年2月12日となっているので、結局、これが正解なのだろう。この本は、彼が自分の「悟境」を自由詩にして歌った詩を一冊にしたものと思われる。 本だけ読んでも、実際の人柄やその悟境のすべてについてわかるものではないが、しかし、その表現物だけを手がかりに、何事かを知る、ということも有り得るだろう。彼の本を三冊読むと、それなりにアウトラインが見えてくる。 この本には、前二作にあった「当社の許可なく本書の全面または部分的な複写・転載を禁じます。」の文言がなかったので、あえて一つだけ、引用させていただく。私はクリシュナ私は一人のサニヤーシン現代文明は私を不適応者と呼び時に生活無能力者と唾棄するだが私は一人のサニヤーシンにすぎない私の目的は生活を便利にまた豊かにしたりすることではなく人間が人間である限り決して避けるすべのない人間生命の不如意と不条理をまた病いと老衰と死の虚無とを超えること離脱すること久遠の愛という至福を生きること何かに対しての自由ではなくすべてのものから自由を実現することだそれゆえ私は私の衣食住に執着することなく因縁に従って出で来る一切を受容し祝福する私の世界への愛情は人々への深いやすらぎと不滅の智慧とを示唆するばかりだ私の眼には肉体の死は映らずそれゆえ私はこの慈愛に生かされて餓死も十字架上の死も毒盃もいとうものではない愛と自由の顕現は自己保存のあらゆる合理性を無視し私自身の思いのままに大宇宙のいとし子なる私を生かしめる偉大な社会人達よ時に私の生き方に見られる非常や狂気を許したまえあなた達偉大な社会生活者がいなければ私はないのだからただ私は私の道を行く以外にないそれは私だけの道であり決してあなたの道ではない私は一人のサニヤーシンにすぎない (後略) p14「ダンテス・ダイジについて」というサイトでの情報もある。
2007.03.09
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「チベットのモーツァルト」 中沢新一 2003/4 講談社学術文庫 初版第一刷1983/11せりか書房 図書館から借り出して私が読んだのは、初版本であるが、1995年8月で27刷となっている。なんと「27刷」である。いままでこのブログで読んできた本は500冊程度だと思うが、その中で、27刷を数えているものはないのではないだろうか。とてつもない数である。しかも、2003年にはあらたに講談社から文庫化されている。いかにこの本が異彩を放っているか、という証明でもあるような気がする。 しかも、この図書館から借り出してきた本が95年8月となっているところが、また、なんとも時代性を感じるではないか。そう、それはあの麻原集団と中沢が関連付けられて盛んにバッシングされた時代である。多分、この時代に中沢本のリクエストが急増したのかも知れない。そんな想像さえしてしまうのである。 本文はカスタネダの「ドンファンの教え」からスタートする。この本、確か日本では1970年代の中盤から翻訳シリーズがでて、6~7冊のシリーズで出版されたと思う。ただ、それは、次がでるかどうかわからないというようなあやふやな感じで、途中で、出版社や翻訳者、装丁が急に変わって面食らったことがある。 いずれにせよ、中沢においては、カスタネダの著書は、ネイティブ・アメリカンとチベット密教をつなぐ重要な位置を占めるシリーズとなっているようだ。もともと、このドンファンというヤキ・インディアン(だったかな)は実在するのかどうか、と疑問が持たれており、すべては、カスタネダの作り出したフィクションではないか、とさえ書かれていたことがある。 後年、たしか北山耕平だったかが、実際にドンファンに会ったというレポートを読んだ覚えがあるが、定かではない。あまりにいきなりドンファンの話がでてきて面食らってしまった。あの林郁夫も、一般病院に勤務しながら、阿含宗の修行をしながら、毎回そのカスタネダの著書の出版を心待ちにしていたという。 この「チベットのモーツァルト」は81~83年に「現代思想」「思想」「海」などに散発的に発表された文章を一冊にまとめたものである。「あとがき」319pにあるように「1978年にはじまるぼく自身のチベット体験が色濃く反映されている」。そういえば、この時代に私も一年間インドに渡りOshoの元に滞在したのだった。当時としては、それなりの時代背景があり、私は私なりの経緯でインドに渡ったのだが、中沢には中沢の必然があった。 ぼくは、いわゆる精神世界とも神秘主義ともほとんど無縁の方角から、チベット仏教の世界に出会っていった。とりたててカリフォルニア文化から影響をうけたという記憶もなく、もともと仏教の素養すらあやしいものだったぼくをチベット仏教の世界に押し出していったのは、むしろ構造主義以後の思想的展開がもたらしたインパクトのほうだった。そのため、この本にあらわれている言葉づかいも思考の身振りも、どちらかというとポスト構造主義の思想的コンテクストに属するもののように見える。p319 この本は、ほとんど中沢のルーツの原点に属するものだが、これよりさらに以前の著書というと、「虹の階梯」~チベット密教の瞑想修行 (ラマ・ケツン・サンポとの共著 1981.7 平河出版社→中公文庫) がある。この本は、以前より所蔵しているので、近日中に読もうと思っている。95年には、「哲学の東北」がでている。これらを総合していくと次第に中沢の全体像が見えてくるだろう。 この鬼才の繰り出すワールドには、目を見張るものがあるが、特に「マンダラあるいはスピノザ的都市」p205は、このブログとの関連ではなかなか面白い位置を占める一文であると思う。その書き出しはこうだ。 スピノザの思想が現代知のなかでしめる重要性と異質性は、こんにちますます輝きを増しつつある。イタリアの哲学者アントニオ・ネグりはスピノザ哲学はぼくたちの未来に属する哲学だと書いてその重要性を強調し、またそれを「野性的な異例者」であると呼んで、ほかのどんな西欧哲学の体系にも還元することのできないその異質性に注目している。p205 また「夢見の技法」という文章の最後はこうまとめられている。 この地球上にいまだ消え去ることなく伝承されている人間の知恵(その多くは夢見の技法のように身体をなかだちにした知恵である)をつうじて、それを学んでいるぼくたち自身のほうが変わらなければならない。そうでなければ、人類学はいつまでたっても西欧知の一変種にすぎないだろうし、それがかたちづくる循環論から抜け出すことは不可能だろう。人類学というものが、夢見の技法のようにぼくたちの知のあり方をほんとうに変えてしまうことができたrならば、そのときはじめてぼくたちは人類学をつうじて、21世紀の知にめぐり会えるかもしれない。p233 この四半世紀前に書かれた文が、現在の「芸術人類学」に連なってくるとすれば、興味深い一文である。------------------------2008/09/08 <再読>
2007.03.09
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カイエ・ソバージュ<4>よりつづく。というより、このシリーズは連作としては続いているが、読書の順番としては、シリーズでいちばん最初に読んだのは、この<5>の「対称性人類学」だった。3・16記------------------------------------「対称性人類学」 カイエ・ソバージュ5 中沢新一 2004/2 講談社選書メチエ 現在の「芸術人類学」 にいたる道筋としての「アースダイバー」があり、さらに遡ればこの「対称性人類学」がある、という認識だった。しかしこの「対称性人類学」は「カイエ・ソバージュ」という大学や大学院での講義録に加筆したシリーズがあり、そのシリーズの第5冊目を構成するものだったのである。 だから、これから、そのシリーズ、「人類最古の哲学」、「熊から王へ」、「愛と経済学のロゴス」、「神の発明」などを、次第に読み進めていくことになるだろうが、それらを順番に読んでいく、という必要性をあまり感じてはいない。むしろアトランダムに、出会いがしらに読み合わせていったほうが面白いだろう。 というのも、もともとこのブログが、体系的なものではなく、アトランダムに彷徨しながら、次第次第に形作られるものがあれば、そのことを良しとしようという流れできているので、多くの著書や作家について、最近作に触れてから、過去に遡る、ということを多くやっているからである。また、あらゆるジャンルに手を伸ばしつつも、どうも私向きじゃない、あるいは私の理解を超えるなど、このブログに適さないものもだんだんわかってきた。だから、中沢新一においても、ばらばらに、それこそ適当に読み進めていくしかないな、と思ったわけである。 といいいながら、実は、この著者の本には共感する、というか親和する部分が多い。どういうことかというと、知識や論理性、情報性には圧倒されるが、それらに対して違和感とか威圧感がないのである。とりつくしまもない、ということもない。だから、読んでいて気楽だし、リラックスして読んでいる自分に気づく。それは、多分に著者の技量のなすところの妙であるだろうが、いちばん大きなことは、その方向性や方法論の親和性にあると思う。 科学、芸術、意識、を通じた、来るべき時代の、人としての精神性、の探究。しどろもどろに言えば、著者の思考するところは、そちらの方を向いているはずだ。そして、もちろん、このブログはその方向に向いている。そして、著者の方法論としては、かなり乱雑なジャンルを経巡っているようではあるが、根底としての基軸には「仏教」が頑としてある。その辺に、私は、一方的な片思いながら、かなりの親和性を感じるのである。 このブログは、「ウェブ進化論」に刺激されて再スタートを切ったのであったが、そのウェブ2.0的な今日的ネット社会の広がりと可能性を横軸として、例えば、この中沢が書くところの「芸術人類学」的視点などが縦軸となって、これからもこのブログは展開していくはずだ。 この本も相当におもしろい。中沢ワールドである。精読したら精読する価値があるだろう。しかし、現在、このブログにおいては、ほぼ一日一冊の割合で「多読」化が進行中である。だから、あまりこの本一冊に長逗留しないで、俯瞰的視点のモザイクづくりに、邁進することになる。 ところで、「カイエ・ソバージュ」という意味は、この本を一冊読んだだけでは分からなかった。それもいいだろう。急ぐことではない。次第にわかるだろう。-----------この項<完>
2007.03.09
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「成就者たち」 佐木隆三 2000/5 講談社 この手の文章をなんと呼べばいいのだろう。単行本としては2000年5月にでているが、初出は1998年3月から1999年12月まで「群像」に連載されている。公判をとおして見えてきた麻原集団の全貌を元に、作家達が競って物語に再構成しているようで、半分は興味深かったが、半分は、あまりいい気持ちはしなかった。いわゆるノンフィクションでもないだろうけど、まったくの独立した小説ともいいがたい。人物の名前や事件名などは微妙にぼやかされているが、日時やストーリーの動きからすると、間違いなく実際の人間界の動きをストーリーとしてまとめ上げられているものである。 主人公として登場するのは、14歳の少年、坂東孝明、教団名キサッチャ師、15歳で自己ポアするというストーリーだ。実名でもなければ、実在もしていなかった人物を登場させて、実際にあった事件を語らせた、という「小説」なのだと思う。そもそも、「少年」の名前などが公表されるはずがない。私はこのような「小説」をどのように読むべきなのだろうか。まったくのフィクションならフィクションとして読むのだが、実際に書かれている内容は、大体がマスメディアを通して知っている実在した団体の実際の事件の内容だ。どこまでが事実なのであり、どこからがフィクションなのか、ちょっと量りかねる。 全部フィクションなのだとして読んでしまえば、それでいいのかも知れないが、それは不可能に近い。なぜなら、かなりの部分で、実在のストーリーの展開に酷似しているからだ。だから、逆に、いくら作家が想像したものといえ、読者に対して、実在の人物像や事件像に対して「予見」を与えることになり、かなりのイメージづけになってしまうと思われる。第三者として「読み物」として「消費」される分には特に問題もなかろう。しかし、実際にそのストーリーに関わっている人々がいたとするなら、勝手にそういうストーリーを貼り付けられたら、大変な迷惑だろう、と思う。良い書き方にせよ、悪い書き方にせよ、迷惑なのではないだろうか。 もともと、現実と文章では、同じことであるはずはない。現実は、時間と空間として次から次へと進展しているのであり、それを切り取って文字化して残すわけだから、すべてにおいて文章は「事実」ではない。手法として「ノンフィクション」であろうが「報道」であろうが「小説」であろうが、「事実」では有りえない。「事実」から「文章」として切り取った立場の人間の大いなる恣意が含まれてしまうのは当然だ。そういう意味からも、この本は、フィクション、小説、として読み飛ばしてしまったほうがいいのだろう。 佐木隆三のほかの作品、例えば「慟哭」などとは、別個なものとして読むべき本なのだろう。しかし宮内勝典の駄作といい、この作品といい、「群像」という雑誌に連載された、ということになっている。一体、このような「ノンフィクション」まがいの「つくりばなし」を大量に消費するマーケットというものは一体なになのだろうか、と思う。なにか事件があると、「善意の第三者」ぶったワイドショー的なマスメディアが、加害者も被害者もなんの区別もなく取り囲み、あることないこと「血祭り」にしてしまうマスメディアたちに「良心」なんてあるのだろうか。 読み手の私としては、物陰から出演者たちの「演技」を楽しんでいるだけでいいのかも知れないが、もし私が、突然「出演者」に仕立て上げられて、一人スポットライトに照らされて、物陰からの無数の視線に晒されたとして想像してみた場合、とてもおだやかな気分ではいられないだろう。この小説においても、事実が事実として書かれており、フィクションがフィクションの効用してその効果を最大に発揮しており、書き手も読み手も、書かれた「成就者たち」も納得しているなら、それでいい。しかし、私は、良き「読み手」でもない、まったくの通りすがりの「第4者」でしかないが、どこかで納得しないものを感じる。
2007.03.08
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「Dreams」 ~夢は大空へ、努力は足元へ~ 近藤太香巳物語 2004/7 現在、就職活動中の学生たちに配られている漫画本。株式会社ネクシィーズという名前は、私は残念ながら知らなかったが、どうやら、ソフトバンクのケータイ戦略の中で、その販売実績で頭角を現している人物&会社らしい。もうほとんど、なんともいいようがない、ひとつの若者サクセスストーリーであり、67年生れの高校中退の若者が、株式を上場したというお話である。もちろん、山あり谷あり、まともな大人の感覚では、ちょっと就職活動中の学生にはお勧めできない会社であるような感じがする。 しかしながら、梅田望夫などに言わせれば、こういうベンチャー会社にこそ、お父さん、お母さん、子供さんたちをどうぞ就職させて欲しい、ということになるかもしれない。最終的には、本人の才覚と希望次第、ということになるだろう。 ITベンチャーというと「ヒルズな人たち」や「僕が六本木に会社をつくるまで 」などを思い出す。 ドッグイアーと言われるIT業界のこと、3年前の本を学生たちに配っているベンチャー企業というものも、私にとってみれば、なんだかなぁ、という気がしないでもないが、まずは、このような「若者」たちが生きている現代日本、というものを、すこしでも意識しておきたいと思う。
2007.03.08
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