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「万物の歴史」 ケン・ウィルバー /大野純一 1996/12 春秋社 519p 単行本 原書 A Brief History of Everything 1996★★★★☆ ケン・ウィルバーを読んでいると、パソコンのマニュアル類などを最初のページから読んでいるかのような錯覚を覚える。通常は、あれほど分厚いマニュアル類の全文を読むユーザーもいないだろうし、読む必要もない。また、マニュアルを読まずとも、直感的に使えているものに関しては、あえて文章で確認する必要もない、というのが当たり前の感覚だ もちろん、どこかでつまづいたら、索引から探し出して、自らの不明な点を読み込み、操作しなおしてみるという作業には、マニュアルは不可欠だ。全部を読む必要はないけど、きっとすべてのことについて書いてあるに違いない、という信頼感、それに似たようなものがケン・ウィルバーの著書にはある。 あるいは、保険証券の細かい箇条書きにも匹敵するかもしれない。どこに重点があるというわけでもないのだが、均質な濃度と量をもって書き連ねてある。反面、文章化されているもの以上のものはなにもない、というようなちょっと高飛車な雰囲気がないわけでもない。 ケン・ウィルバーの著書にはスピリットという単語がたくさんでてくる。、例えば「科学と宗教の統合」などでは「スピリット」となっているものが、本書では「<霊>」となって「スピリット」というルビが振られている。二冊が発行された時期には2年の隔たりがあるが、語源は同じものだろう。訳者によっては、雰囲気がだいぶ変わるものだ。 私、私たち、それ、などのビック・スリーに関する部分は相変わらずだ。この本、1996年に英文で書かれ、翻訳も1996年に出ている。他書にくらべたら、異様な早さだといえなくもない。当時の日本の社会は麻原集団事件で右往左往していた時代だ。本書を出版する緊急性が、当時の担当者間にあったのかもしれない。 P461以降の「インターネット」に触れたあたりはちょっと興味深い。96年といえば、いかなアメリカといえど、Win95が発売になって、まだインターネットの幕開けもほんの始まりの時代だったにすぎない。Linuxの成果も十分評価される前であり、Googleでさえ、まだその予兆さえ感じられない時代だ。 ネットとはたんに新しい技術--基盤(右下)なのです。ですから、それを使用する意識に対しては中立的なのです。すべて右側の道にある構造は、中立的で、価値から逃れています。コンピューター・テクノロジー(と情報化時代)が意味するものは技術基盤が世界中心的な視点、グローバルな意識を支えうる、ということであって、それを保証するものではまったくないのです。認識的な手段の発達は、いつも拡大する近くの本来の梯子を昇ろうとする熱意の先を越してしまうのです。ネットは可能性を提供しますが、実現の保証はしません。 ネットがグローバルな意識と同じだと見ることができない理由はここにあります。道徳段階1の人三千万が自我中心的な道徳を拡大する手段を与えられたらどうなると思いますか。ナチスがネットを持って何かいいことがあるでしょうか。P461 ネットはそれ自体では内面的な変容を保証するものではなく、たんに外面的な社会構造にすぎません。グローバルな意識への変容については、言わずもがなです。ネットはたんに独白的(単一論理的)構造です。そこに流れているのは、さまざまなタイプの内面です。しかしこうした内面の質については、問題はまったく別になるのです。このことはネット自体の構造では触れることさえできません。p462 ほとんどの人々は、残念なことに、まだ前慣習的、習慣的な知覚様態にあり、自我中心、自民族中心的です。どんなシステム地図も、インターネットも自動的にこれを変えさせることはできない。内面的な変容を促進することはできないのです。むしろほとんどの場合、逆であって、退行または停止に力を貸してしまうのです。世界中心的な手段がそれ以前の段階の個人に提供された場合、そうした手段はたんにそれ以前の世界観を推進するために利用なし悪用されるだけです。ナチスがネットを持ったら狂気したでしょう。p463 ここにおける著者のネットの<統合性>に対する態度は、否定的だ。たしかにグローバルな知性や覚醒の統合には、ケン・ウィルバーのような研ぎ澄まされた感性と、実践される<善>によってこそ、可能であるといえるかもしれない。しかし、ここからすでに10年が経過した。著者がなんと言おうと、時代は<統合>の方へ動いている。ネット社会には、その必要とされる知性や覚醒が芽生えてきているのか。あるいは、ダークサイドにおちているのか。 本書は、Q&Aスタイルをとっており、話し言葉口調と、ですます調で書かれているので、その内容はともかくとして、読みやすい一冊となっている。
2007.08.31
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「熱きアラスカ魂」 最後のフロンティア・インディアンは語る シドニー・ハンチントン著 /ジム・リアデン編 和田穹男・訳 2000/05 めるくまーる 単行本 329p ★★★☆☆ 「リトル・トリー」や「ジェロニモ」を翻訳した和田穹男が、この本も訳している。表紙は、アラスカの大自然を撮り続けた星野道夫の写真が飾っている。「ベーリンジアの記憶」や「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」の星川淳が巻末に6ページほどの文を寄せている。 この本において、いつの間にか自分の中にできあがっていた、インディアンやネイティブ・アメリカンという安易な形でのプロトタイプ化した情景が壊される。南米の都市文明をつくった古代人や、北米大陸の大地にいきる人々と、また違ったアラスカの「インディアン」がここにいる。 ノンフィクションであり、1900年代のことでもあるので、現代史にも深く関わる描写がでてくる。アラスカの大自然についての表現も、力強いタッチで語られ、引き込まれる。実際にその人生を生きた本人の口から語られた記録として貴重なものである違いない。 しかし、ふと思う。このようないわゆるネイティブものなら、あえて、北米大陸やアラスカに求めなくても、もっと身近にあるのではないだろうか。ちょっと前までは、この弧状列島のあちこちの田舎や山村や島々に、これらの深い自然とのかかわりを持った古老達がいたに違いないのだ。 古老達とまでいわないまでも、小説としてなら、卑近な例でいえば熊谷達也の世界などは、かなり、この「熱きアラスカ魂」に通じるところがあるような感じがする。北山耕平の近著「ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ 」はまだ読んでいないけれど、やはり、「アメリカン」にこだわらず、ネイティブ・ジャパニーズとしての自分に目覚めながら、本当は、さらに「地球に生きる人」という原点に立ち返ることが大切なのだと思う。 そういった意味において、この本は、生きることの力強さを感じさせてくれる一冊だ。
2007.08.30
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「ナバホの歌」 スコット・オデール /犬飼和雄 1974/07 岩波書店 単行本 182p 原書1970★★★☆☆ 著者は作家であるので、自叙伝ではなく小説として読むべきなのだろう。原書は1970年に書かれていて、「リトル・トリー」1976年よりさらに以前の小説ということになる。特にこの「ナバホの歌」は日本語訳が1974年にでているので、現在のセンスで言えば、やや「今流」ではない。しかし、この両書とも、ネイティブの少年や少女を主人公とした青少年向きの小説ということでは共通項がある。 この本においては、時代性を反映してなんのためらいもなく「インディアン」と表記されている。ちょっとは違和感がないではないが、逆にその時代性さえ理解すれば、むしろのびのびとした文体が、大地の人々の生活ぶりを生き生きと表現していて、すがすがしい。 登場人物たちの名前も<シロイシカ><カケアシドリ><ノッポ><カワノコ><クマ><ニガイミズ><ビーバー>、あるいは<コソコソ><アカイイエ><ニワノコミチ><イッケンヤ><アカオデコ><アナノボウ>、はては<チイサイニジ>などなど、日本語の名前になっていて、一人一人のキャラクターが彷彿としてくるようなわかりやすい翻訳になっている。 主人公の女の子は<アカルイアサ>と自称はするが、生まれたときにつけられた名前は、また別にある、という。そのほか、<ロバタスワリ>や<タチネムリ><アナクグリ>なんて名前もでてきて、なんとも日本の童話のような感じさえして、親しみやすい。 この小説が、どこまで想像で、どこまでが事実に基づいたストーリーになっているのかはわからない。しかし、例えば、日本のテレビ番組「おしん」だって、小説ではあっても、多くの人々の共感を呼んだように、<アカルイアサ>の人生には、多くの人々の共感をさそうものがある。 「ナバホの歌」は、1863年から1865年の二年間におよぶナバホ族の歴史をもとにして書いたものである。これより以前に、ナバホと合衆国のあいだで、たくさんの条約がかわされた。だが、そのほとんどはやぶられてしまった。白人がやぶったものもあれば、ナバホ族がやぶったものもあった。p175 ネイティブ・ピーポーにはたくさんの歴史があり、にわかには理解できないけれど、すこしづつ立体的に見えてくるような形で、読み進めてみたいと思う。
2007.08.30
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「ナバホの国へ」 グレートジャーニー・人類5万キロの旅関野吉晴 1998/04 小峰書店 双書 119p ★★★☆☆ 何気なく「ナバホ」のキーワードで検索した一冊だったが、実にとてつもない本であった。著者は単にナバホの国を訪ねたのではなく、東アフリカで誕生した人類が、アジア、北アメリカを経由して南アメリカの南端にたどりつくまでの5万キロを旅しようとしていたのである。しかも、徒歩、カヤック、自転車など、自分の足と腕でたどろう、というのだが、とてつもない冒険家だ。 本業は医師でもあるようだが、よくそれだけの時間がとれるものだと思う。自転車といえば、冬季チベット高原6500キロを単独自転車横断した安東浩正の「チベットの白き道」を思い出したが、実は、関野吉晴は、モンゴルやチベットも旅をしていたのだった。 本書では、マヤの遺跡からナバホの国へ入り、カナダからアラスカへと旅を進めている。何が著者をして、これほどの旅へ駆り立てるのだろうか。途中、砂漠の中で人口的に地球環境をつくりだそうという「バイオスフィア2」という実験施設のレポートは面白い。また、あとがきになって分るのだが、写真家の星野道夫とも友人だったということだ。 カヤックでサックスマンに着いた翌日の夜、東京から電話が入りました。星野道夫君が8月8日にカムチャッカ半島のクリル湖畔でヒグマにおそわれ、亡くなったというのです。「まさか!」と思いました。だれよりもクマを知りつくしている彼が取材中にクマにおそわれ、死ぬなんてにわかには信じられないことでした。p116 本書は、「グレートジャーニー 人類5万キロの旅」として小学高学年~中学・高校生向けにシリーズ化されており、15巻のうちの第6巻。
2007.08.29
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「1941」先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見 チャールズ・C.マン /布施由紀子2007/07 日本放送出版協会 単行本 621p ★★★★★ 「いよいよ(14)国(92)が見えた!」で、コロンブスのアメリカ大陸発見は1492年ということになっている。だが、この本では、あえて、その前年、1491年を意味する数字をとって、コロンブスがアメリカ大陸に到る以前のインディアン(北米)やインディオ(南米)たちの世界や文化に焦点をあてる。もとより、呼称もさまざまな言い方があれど、この本ではあえてネイティブ・アメリカンとか、アメリンディアンなどを使わない。 ハリウッド映画の西部劇を見ると、1880年前後の北米西部に着想を得ていることが多く、その当時の文化を、開拓者達とインディアン達との比較でみることができる。その当時でも、インディアンたちの力はそうとう強く、開拓民たちの生活も、不安定で弱い基盤の中での暮らしぶりであることが多い。 1491年といえば、あの西部劇からさらに400年前のことである。大地に暮らしていた先住民達の生活や文化が、ヨーロッパから流れついた流浪の民達より、はるかに進歩した文化的生活を営んでいたことは、比較的容易に想像することはできる。しかし、それらの痕跡を、どのように描いたらいいのか。その点に、この本は力点を置いている。 わたしは、人類学、考古学、歴史学の研究者7人にこんな質問をしてみた。いまが1491年だとしたら、あなたはヨーロッパ人でありたいですか、それともホーデノショーニー族でありたいですか、と。尋ねられてうれしそうだった学者はひとりもいなかった。現代の価値基準で過去のよしあしを判断せよと言われたからだ。これは社会科学者が、"プレゼンティズム(現在中心主義)”と呼んで否定する誤った考え方なのである。しかしそれでも、7人は全員インディアンを選んだ。初期入植者のなかにも同じように考えていた者がいたようだ。p580 当時のアメリカ大陸を想像することは意外に容易ではなさそうだ。かなりの記録や記憶が失われてしまっているからだ。しかし、そうした中にあっても、様々な研究で新たな当時の姿がわかりつつある。「実際は、いくつもの都市が築かれ、ヨーロッパより大きな人口を擁し、さまざまな言語と文化」が繁栄していたとしたら、いままで、描いていた歴史観が、大きく変化せざるを得ない。本書は「新世界に欠けていたもの---それは旧世界の病気に対する免疫力」だったのだ。 本書においては、西部劇の西部ばかりではなく、東部、あるいは、北米、南米の、かなり広い地域における先住民達の痕跡を追う。時間軸もかならずしも1491年にこだわっているわけではないので、いままでもってきた「新大陸」に対するイメージが、揺さぶられつつ、抜け落ちていたパーツが、もうひとつ埋められたジグソーパズルのように、さらに明確になる。 インディアンではない読者のみなさまに想像していただきたい。1491年の世界からタイムスリップしてきたホーデノショーニー族の人がひとり、目の前に現れたところを。曲線模様の刺青や、左右非対称に刈った髪、派手に飾り立てた衣服の下に、どこかあなたに似た面影が見えはしないだろうか。あなたはある意味で、ご先祖さまよりその面影のほうによく似ていはしないだろうか。p583 このブログでも、1491年のホーデノショーニーという切り口ではないが、みずからを大地の先住民の末裔と見立てて旅を始めていたのだった。その旅は始めたばかりなので、以前五里霧中ではあるが、この本のような道標に出会うたび、さらに旅を続ける意欲が湧いてくる。
2007.08.29
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「アメリカ先住民の宗教」 シリーズ世界の宗教 ポーラ・R.ハーツ /西本あづさ 2003/12 青土社 単行本 188p 原書1997おすすめ度●●●○○ アメリカ先住民の宗教は、いわゆる「体系化された」宗教とは、いくつかの点で異なる。彼らの宗教は「組織的」ではなのだ。つまり、教会の建物もなければ、階層制度もなく、組織体そのものもない。確かに、一部の部族に伝わる物語の中で、部族の有名な人物の行為が回想されることはある。だが、ほとんどのアメリカ先住民の宗教は、例えばモーセ、イエス、アラー、釈迦のような歴史上の中心人物には依存していないし、キリストの礫刑や仏陀の悟りのような特定の歴史上の出来事とも結びついてはいない。 伝統的なアメリカ先住民の文化は常に口承で、大切なことがらは人々の口から口へ語り継がれてきた。信者が固く守らなければならない成文化された信条も道徳律も規則も存在しない。例えば聖書やコーランのような聖典もない。多くの点で、アメリカ先住民が精霊と交わる精神世界は、神道や道教のような民間信仰にルーツをもつ宗教と類似している。しかし、文字に書かれた信条がないということが、行動規範や倫理的価値基準がないということを意味しているわけではない。倫理的に正しいあるべき生き方をするための厳格なルールが、すべてのアメリカ先住民の文化を支配している。部族のメンバーは、手本となる実例を見ることでそのルールを学ぶ。つまり、そうした行動を規定する原理は、公式な教育の中で習得されるのではなく、幼少期から内面に刻まれて彼らの生き方の一部と化すのである。p21 この本は、コンパクトで分りやすい。シリーズ世界の宗教15冊の中の一冊、となっているが、はて、これでいいのだろうか、と思わないわけでない。キリスト教、仏教、イスラム教といったいわゆる世界宗教と同列にならべて「アメリカ先住民の宗教」を見てみることが、どれほどの意義があるのかは、にわかには判断することはできない。 アメリカ先住民、宗教、という言葉を、にわかに当てはめても、本当の実像は湧いてはこないのではないだろうか。しかし、じゃぁ、どのように真実に迫るかというと、もともとネイティブな生まれではない人間にとって、その方法も限られてくるか、あるいは不可能といってもいいことになる。 一部の部族---例えばチェロキー族では、先祖にチェロキー族の血が混ざっていることが確認できれば、誰でも正式なメンバーとして認められる。一方、少なくとも四分の一、あるいは八分の一の部族の血が流れていないとメンバーとは認めない部族もある。さらに、部族のメンバー資格を規定する別な規則を持つ部族もある。p26 文字によって記録されず、写真による撮影もできない儀式などで構成される部分については、推測するしかないし、類推に頼らざるを得ないことも多い。でも、次第次第にその部分への関心はたかまりつつある。 20世紀の終わりに、先住民の文化に対する関心が、得に保留地内やアメリカ先住民の子孫たちの間で、復活した。今日では、より多くの人々が、自らをアメリカ先住民だとみなすようになている。若者たちは、自分たちの文化的遺産についてより多くを学ぼうとし、踊りに積極的に参加したり、異なる部族の人々が一堂に会するバウワウのような集会に出席したりするようになった。 インディアン以外の人々もまた、先住民の文化や宗教についてより学ぼうとしている。アメリカ先住民の芸術家や職人の作品は、アメリカ・インディアン・ダンス・シアターのようなグループが、アメリカ先住民の文化を幅広い層の観客に届けている。p170 このブログでの読書はいささか、お気軽でおっちょこちょいな道筋を歩んでいるのだが、一市民が公共の図書館で活用できるような資料を通じて、どんなところまで行けるのか、もうすこし試行錯誤を続けてみようと思う。
2007.08.28
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<お>よりつづく<か>レイ・カーツワイル「スピリチュアル・マシーン」 コンピュータに魂が宿るとき 2001/05 翔泳社 単行本 408p 原書1999 The Age of Spiritual Machines: When Computer Exceed Human Intelligence「ポスト・ヒューマン誕生」 コンピュータが人類の知性を超えるとき 2007/1 NHK出版 原書 THE SINGULARITY IS NEAR : WHEN HUMANS TRNSCEND BIOLOGY 2005/9「レイ・カーツワイル 加速するテクノロジー」 NHK未来への提言 2007/05/徳田英幸 日本放送出版協会 全集・双書 92p<き><け><こ>アル・ゴア「不都合な真実」 枝廣淳子・訳 2007/1 ランダムハウス講談社小浜逸郎「オウムと全共闘」 1995/12 草思社 「人はなぜ働かなくてはならないのか」 新しい生の哲学のために 2002/06 洋泉社 「頭はよくならない」 2003/03 洋泉社「正しい大人化計画」 若者が「難民」化する時代に 2004/09「人生のちょっとした難問」 2005/07 洋泉社 「『責任』はだれにあるのか」 人間学アカデミー(4) 2005/10 PHP新書<さ>佐々木俊尚「ヒルズな人たち」 IT業界ビックリ紳士録 2005/5 小学館「検索エンジン戦争」 インターネットの覇権をめぐる興亡と争奪戦の物語 ジェフ・ルート 2005/8 アスペクト「グーグルGoogle」既存のビジネスを破壊する 2006/04 文藝春秋 「ウェブ2.0は夢か現実か?」テレビ・新聞を呑み込むネットの破壊力 2006/08 宝島社 「ネットvs.リアルの衝突」 誰がウェブ2.0を制するか 2006/12 文春新書「次世代ウェブ」 グーグルの次のモデル 2007/1 光文社新書「サイバージャーナリズム論」 「それから」のマスメディア 歌川令三・他 2007/07 ソフトバンククリエイティブ 279p 「フラット革命」 2007/08 講談社 単行本 286p 澤西康史「シャンバラの道」 ニコライ・レーリヒ 澤西康史・訳 1996/11 中央アート出版 原書 SHAMBHALA, THE RESPLENDENT 1930,1990「シャンバラ」勇者の道 <1> チョギャム・トゥルンパ 澤西康史 2001/6 めるくまーる 原書 SHAMBHALA The Sacred Path of the Warrior 1984 「タントラライフ」 変容のヴィジョン ラダ・C・ルーリオ著 澤西康史・訳 2003/10 和尚エンタープライズジャパン 原著2002「魂の科学」 OSHO /沢西康史・訳 2007/04 瞑想社 /めるくまーる <し>島田裕巳「宗教の時代とは何だったのか」 1997/3 講談社「『オウム』 なぜ宗教はテロリズムを生んだのか」 2001/7 トランスビュー「日本人の神はどこにいるか」2002/6 ちくま新書「創価学会」 2004/6 新潮新書「人を信じるということ」 2004/9 晶文社「不安を生きる」 2005/4 ちくま新書「宗教としてのバブル」 2006/3 ソフトバンク新書「オウムと9.11」 日本と世界を変えたテロの悲劇 メディア・ポート 2006/7「創価学会の実力」2006/8 朝日新聞社「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」 2007/4 亜紀書房「日本の10大新宗教」2007/10幻冬舎「平成宗教20年史」2008/11幻冬舎<す>スポンタ中村「サイバージャーナリズム論」07歌川版 「それから」のマスメディア 歌川令三 2007/07 ソフトバンククリエイティブ <せ><そ><た>へつづく
2007.08.27
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「統合心理学への道」 「知」の眼から「観想」の眼へ ケン・ウィルバー/松永太郎 2004/04 単行本 599p 原書The Eye of Spirit: An Integral Vision for a World Gone Slightly Mad 1997 改定2000★★★★★ この本も日本語版は2004年にでているが、原書は1997年にでており、2000年にでた改定版の一部を補記する形で翻訳されている。この本で重要なポイントはそう多くない。その補記された部分にこのような文章がある。 1983年、私は、自分を「トランスパーソナル」心理学者、ないし哲学者と呼ぶのをやめた。そして自分の仕事を「統合的」ないし「統合」と考えるようになった。そのため、まず統合心理学のテキスト『システム・自己・構造』を書き始めた。この二巻本は、様々な理由で出版されることはなかった。2000年、私はより簡略化した統合心理学のアウトラインを一巻本で出版した。それには『統合心理学---意識、スピリット、心理、セラピー』という適切なタイトルがつけられている。本章はその本の要約であり、したがって、現在の私の心理モデルの要約でもある。P446 なるほど、そういわれて初めて気がつくことも多くある。まず1986年当時、発売と同時に購入した『無境界』には、ウィルバーのプロフィールとして、「十年たらずのうちにトランスパーソナル心理学最大の論客となる。ニューエイジの潮流全体に対しても造詣が深く、最も良質なニューエイジの理論家でもある。」と紹介されている。あるいは、『アートマン・プロジェクト』のサブタイトルも「精神世界のトランスパーソナル理論」となっており、そもそも、ウィルバーが日本に紹介された時点から、ややゆがんだ角度でその人物像に脚光が浴びせられていた、ということになる。 『グレース&グリッド』の中で生前の妻トレヤも「ケンは日本で熱狂的に読まれているけれど、「ニューエイジ」派とみなされているらしい。そう聞いてケンはひどく憤慨した。」と述懐していたが、日本においてウィルバーが、ニューエイジの旗手のような売られ方をしていることに強い不快感を示していた。今回この部分を読んで、やはりそうだったのか、という思いがする。さらに原注では次のように補完している。 特にこのことが起きたのは『構造としての神』を出版したときのことである。それ以前の二冊の著書『アートマン・プロジェクト』と『エデンから』には、それぞれ「トランスパーソナルな視点」および「人間の進化のトランスパーソナルな視点」という副題がついていた。(二冊セットとして書かれたものである。『構造としての神』には「トランスパーソナル社会学への序章」という副題がついていた。しかし、その頃でさえ、トランスパーソナルという分野は問題性を帯びていた。私は、この分野に悪意を持っているわけではない。しかし私自身が行っていることが、いかなる意味でもトランスパーソナル心理学あるいはトランスパーソナルな何かに限定されているものではなかった。したがって、私は「超越社会学への序章」と副題を変え、1983年までにはトランスパーソナルという用語を自分の仕事の定義としては使わなくなったのである(むろん、超-意識的な領域を示す場合には使う)。p582 私は読んでいないけれど、ウィルバーの処女作の日本語訳『意識のスペクトル1・2』でさえ、1985年に発行されているのだから、最初の最初から、曲解された紹介のされ方がされていたのだ、ということができるかもしれない。訳者はあとがきでいっている。 このような形で風呂敷を広げてしまうと、それはもう、ウィルバーがはじめに意図したいわゆる「トランスパーソナル心理学」とはまったく異なったものとなる。しかし評論家の海野弘のような人はその著書の中で、ケン・ウィルバーをニューエイジの代表的な理論家をしている。こういうイメージは、ウィルバーというよりは、その訳者やら紹介者が撒き散らしたものとして、抜きがたく付きまとっているのである。事情は、おそらくアメリカも同じだったのであろう。p593 この辺を読むと、つくづくそうだったのか、と納得する。もっともこの訳者(松永太郎)と私が同じ視点からそう思っている、という確認にはならないが、すくなくともアメリカにおいてもそうだったらしい、というイメージを膨らませてみれば、ある意味、いろいろな経過を経て、ようやく一連の著作の翻訳が出揃った今こそ、ウィルバーという人の世界に触れるよいチャンスになるのかもしれない。少なくとも、私にとっては、そのようである。 また、第3章のタイトル「眼から眼へ」は、原書では“Eye to Eye”である。これはウィルバーの前著のタイトルと同じものであり、同書は「眼には眼を」という邦訳題名のもとに刊行されている。しかし、本文を読めばすぐわかるように、原題は「肉の眼」から「知の眼」、「観想の眼」へと発達・成長していくプロセスを意味している。特に「知の眼」から「観想の眼」への移行を表わしているのであり、「眼には眼を」という日本語で言われるような報復的な意味合いは、まったくない。そればかりか、ウィルバーの意図を損なっている。あえて原文の意味を生かして「眼から眼へ」とした次第である。p598 この辺は、けっこう手厳しい。「眼には眼を」を訳したのは吉福伸逸である。彼には、近刊に「トランスパーソナルとは何か 増補改訂版」がある。ウィルバーを日本に紹介したとされる彼の最近の心境が何か書いてあるかもしれない。すくなくともこのブログでも漠然とトランスパーソナルなラインをなぞってきたが、ここに来て、風雲急を告げる可能性も出てきた。 この本には、チョギャム・トゥルンパの『シャンバラ---戦士の聖なる道』が紹介されれているが、この辺はわが意を得たりという感じがする。トゥルンパもウィルバーもボールダーを活動の重要な拠点のひとつとしていたことを考えれば、その親近感もあるのだろうが、私は、実はチベット密教を考えるならトゥルンパとダライ・ラマだけで足りるのではないか、などと割り切った考え方をするときがある。もちろんいままでもチベット本をいろいろ読んできたし、まだまだ読み込みたいものがたくさんあるが、シンプルに考えるなら、それは決して間違いではないようだ。 また、現象や真実を内面と外面、個人と集団に分けp17、p21、「私」「私たち」「それ」「それら」にわけているところが、興味深い。ここは今後、深い意味でこのブログとつながってくる。
2007.08.27
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「科学と宗教の統合」 ケン・ウィルバー /吉田豊 2000/10 春秋社 単行本 278p 原書The Marriage of Sense and Soul: Integrating Science and Religion, 1998★★★★★ 妻トレヤがなくなったのが89年で、その経過を二人の日記などで綴った「グレース&グリット」が1991年にでたとすれば、この本が出るまで7年が経過したということになる。日本では1999年2000年と相次いで翻訳出版されているが、その間にある著者の心境には、大きな変化があったのではないだろうか、と推測する。 科学と芸術と宗教、時には科学と芸術と道徳、というビック・スリーの中から、科学と宗教という二つの要素を摘出し、タイトルにあるような感性と魂の結婚、というようなシンプルで分りやすい図式に置こうとする。このウィルバーの着想と努力は、必ずしも独創的とは言いがたいが、それまでに彼がつくってきたフィールドで、しかも彼のオーラに包まれながら進行すると、すっきりして分りやすいものとして見ることができないわけではない。 しかし、すっきりしているだけに、本当だろうか、という疑問も湧く。もう少し著者の一連の著書を読み進めないとなんとも言えないが、この時期はインターネットが台頭してきて、社会やビジネス、あるいは世界観というものが変わりつつあった時代だ。しかし、変化の兆候はまだまだ途上にあった。 そして9.11を経過して、宗教というものが、もう一度見直されなければならない。リチャード・ドーキンスのように「神は妄想である。宗教と決別せよ」という極論までしなくても、この書でとっているような「宗教」に対するウィルバーの「寛容」な態度は、本当に何事かの力になりうるのだろうか、という疑問を持つ。 芸術、道徳(宗教)、科学。あるいは、真、善、美。私、私たち、それ。このビックスリーのたとえは、ケン・ウィルバーの力を借りるととてもすっきりして分りやすいのだが、卓上の論理というか、書斎のインスピレーションというか、どこか青二才的弱さも感じないわけではない。とくに、この時の、私、私たち、それ、の「それ」に対応するであろう「彼」もまた、このブログの大きなテーマだ。しかし、まだそこまで思索が進んでいない。 余談だが、ウィキペディアにおいて、次のような表記があった。なんだか気になったので、メモしておく。 With Cornel West, commentary on The Matrix, The Matrix Reloaded and The Matrix Revolutions and appearance in Return To Source: Philosophy & The Matrix on The Roots Of The Matrix, both in The Ultimate Matrix Collection, 2004
2007.08.27
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「神は妄想である」 宗教との決別 リチャード・ドーキンス /垂水雄二 2007/05 早川書房 単行本 578p 原書2006★★★☆☆ ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」1885で「神は死んだ」と宣言してから、すでに120年が経過している。しかし「神」は死んではいないようだ。もっともニーチェが言う時の神と、本書の著者がいう神と、一般的な日本人のイメージする神とでは、それぞれに違った意味合いがあるだろう。「宗教との決別」というサブタイトルもついているが、この宗教という言葉もなかなか、共通理解に到るには困難な問題が待ち構えている。 科学、芸術、宗教、と並べてみた場合に、科学や芸術という言葉だって、カンタンなものではない。ただ、科学の場合は実証的であったり検証可能だったりするので、お互いの積み上げができる。芸術においては、基本的に表現として行われる場合は自由性が保障されているので、互いが互いを許しあうということは可能だ。 ところが宗教という言葉には、実証性がない場合が多く、また、二つの勢力が接触する場合、互いの自由性を損なってしまう場合が多いようである。なかなか共存できない。非常に重いものがある。 ニコライ・レーリヒなどは、この三つのカテゴリを極めてバランスのよい整合性で使い切ったようだが、現代社会では、なかなかそううまくはいかない。河合隼雄などもこのトリニティを使って何事か説明しているが、本当だろうか、とちょっと首をかしげるところもある。このブログでは、意識consciousnessをその分野の指標として使っている。 さて、この本の著者は、相当につよい論調で、神や宗教をこき下ろす。訳者は「テーマがこと宗教となれば、全人類を相手にすることになる」p551とさえ心配している。しかしながら、米国において本書はたちまちベストセラーになったということである。「米国の知識人が本書を待ち望んでいた」とも言う。 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教の世界においては、「神」概念や「宗教性」のあり方については、妥協性のない徹底的な態度を示すことが多い。排他的だ。もともと自然崇拝的であった日本人の神概念と、外来ではあるが、すでに日本的に理解された仏教文化の中で育った日本人には、分らない部分が多い。あるいは、彼らから見れば、日本人のほうが特殊なのかも知れないが。 「信仰における『中庸』がいかにして狂信を育むか」p442あたりに来ると、舌鋒はますますするどくなる。あいまいさを売りにする日本人的体質では、この本にはなかなかついていけない。もとより、9.11やその他の地域紛争を見て、実にその「宗教性」の裏面の醜さを見せ付けられて、本当は誰もが辟易しているのだ。「神は妄想である。宗教と決別しよう!」というスローガンで、地球から「宗教」がなくなり、「神」概念すら綺麗さっぱりなくなるとは思えないが、言わんとすることには賛成だ。 ところで、リサ・ランドールの5次元問題を考えながら、大槻義彦のことを思い出していた。最近おとなしいなぁ、と思って彼のブログをみてみた。そしたらなんと、最近はテレビや出版界から干されているという。しかもその原因は「江原スピリチュアル」に原因があるとか。 最近、反オカルト運動が阻害されているためか、その腹いせ、ストレス解消にゴルフざんまいです。オカルト、とくに『江原スピリチュアル』という、とんでもないインチキを批判すると、テレビ界だけではなくマスメディアからまで干されてしまいました。宜保愛子のときと違って江原には妙なイカサマ文化人が多数応援しているからです。名だたる出版社がどこもこれらの文化人に気を使って江原批判を受け付けません。大槻義彦のページ 2007-8-8 なんとそれは驚き。ありえることとは言え、時代の流れはすごい。 しかし、ごく少数の小さな出版社なら江原批判本を出してくれそうです。今、そのような出版社と出版契約が成立しました。近く、江原スピリチュアルのインチキ、それを取り巻く文化人のいかがわしさを滅多切りする新刊を準備中です。 同 2007-8-2 ということだから、これはこれとして楽しみにすることとしよう。
2007.08.26
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「天空列車」 青蔵鉄道で行くチベット長岡洋幸 /長田幸康 2007/06 集英社インターナショナル /集英社 単行本 111p ★★★☆☆ 河口慧海、多田等観やニコライ・レーリヒ、ハインリヒ・ハラー、はたまたT・イリオンという人びとだって、もし、空調の効いた清蔵鉄道でチベット入りしたら、そこで受ける印象はまったく別なものになっていたに違いない。2006年7月に、世界で最も高い場所を走る寝台列車として開通した清蔵鉄道は、標高4000メートル以上の高原を駆け抜け、聖なる都ラサへと旅人を導く。 この旅行ガイドには、真ん中に獅子が書かれたチベット国旗やダライ・ラマの写真、「FREE TIBETのTシャツ」などの話題はない。刻々と中国共産党のチベット支配は事実化していく。このような形で、「秘境」チベット入りするのは、どういうものなのだろうか。ある意味「パワースポット シャスタ山の歩き方」 のような軽いノリが許される時代になってきたというべきなのだろうか。 1977年に羽田から旅たってインドに行ったけど、78年に帰国した時は成田に到着した。あの時の気分にやや似ている。私は、ちかぢか清蔵鉄道に乗る予定もないし、チベットにいく予定もない。鉄道ができたからと行って、すぐ乗りたいとも思わないけれど、もし乗るチャンスがあったら、飛行機でいくより、こちらのほうが便利で、面白そうだなと思う。高山病になる危険性も低いそうだ。 この鉄道はアメリカの技術協力でできているという。宇宙衛星から制御されてもいるという。でも、どこかで素直に喜べない自分がいる。ダライ・ラマや祖国を追われたチベットの人々のことが、どうしても思い出される。この旅行ガイドもコンパクトでカラーページも多く美しい。そして、そこに映し出されている写真には、土地の人びとの日々の生活も紹介されている。 「オムマニペメフム」--- 観音菩薩を讃える祈りが、どこからともなく聞こえてくる。p94 オムマニペメフム
2007.08.26
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「ワープする宇宙」 5次元時空の謎を解く リサ・ランドール /向山信治 2007/06 日本放送出版協会 単行本 617p 原文 Warped Passages 2005★★★★★ 異次元や5次元という言葉は別に珍しいことではない。SF好きでも漫画好きでもなかった私だけれど、40年以上も前の小学生時代から、同級生などと話題にしていたものだ。しかし、それは単に他のおとぎ話やジョークの類と並列して語りあっていたことであって、深く思いをめぐらした結果ではないことは、当然のことである。 ところが時代は経巡って、いまや、アインシュタインの一般相対性理論の4次元を超えて、すでに理論的には5次元の存在は証明済みであるという。しかも、これから一年程度で、実験的に証明される可能性があるというのだ。これで驚かないほうが不思議だ。 「リサ・ランドール 異次元は存在する」は、若田光一宇宙飛行士との対談だったが、こちらは、2005年に出版された「Warped Passages」の日本語訳。夕べもNHKBSで特別番組を放映していた。「いま、物理学のニューヒロインと呼ばれ、最もノーベル賞に近いと注目されている」という。 仮にリサ・ランドールの業績が評価され、5次元時空の存在が証明されたとして、日常の私たちの日々の生活はどう変化するのだろうか。関心のあるところだ。考えてみれば、たとえばアインシュタインが4次元を証明しようがしまいが、世界そのものに変化はなかたのだから、5次元が証明されたからといって、急激になにかが変わるとは思えない。 しかし、相対性理論もアインシュタイン一人が証明したわけではなく、そのインスピレーションを理論家し現実化するには少なくない協力者が存在したわけだし、リサ・ランドールにおいてもまさに同じことがいえるはずだ。つまり、人類はすでに変化しているからこそ、5次元を理論的に証明することができ、また、実験的にも証明の可能性がでてきたということなのだろう。 いままでの私たちの生活空間における「謎」といわれるものは数限りなく存在してきた。いまだに解明されれずに残されている謎は多くある。たとえば、加藤直邦がアフリカの大地で偶然目撃した光り輝く飛行物体や、あるいはシャスタ山の地下に巨大な都市が存在するとか、地球自体が大きな空洞になっているなどという説も、ひょっとすると、この5次元時空の証明で、一笑に付すことができなくなってくる可能性もある。すくなくとも、これらの陣営では、何の理論的な証明もないが、「5次元」という言葉を多用しているようだ。 この本は、難解であるという理論物理の世界を、数式を使わないで「易しく」説いた、と評判になっているが、私には「易しく」はない。確かに読めることは読めるが、一時には説明されていることが理解できるわけではない。しかし、なにかもっと違う世界が、私たちのすぐそばにあるのかもしれない、という科学の進歩には、心底わくわくする。
2007.08.26
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「信頼」 アルフォンソ・リンギス 著 岩本 正恵 訳 2006/12 青土社 原書2004★★★★☆ 「何も共有していない者たちの共同体」 1994の10年後の旅。他には、「異邦の身体」、「汝の敵を愛せ」などがある。 信頼は人と人をより深く結びつける。そのエネルギーはどこまでも強まり、中毒性を高める。川岸でジャヴァルソンが私を置いていくのを見たとき、わたしは彼のことを深く知っていると感じた。だれかがわたしのわかる言語で、みずからの人生を一晩中わたしに語ったとしても、その人物よりもはるかに深く、彼のことを知っていると感じた! 信頼という行為は、未知なるもののなかへ跳びこむことだ。それはイデオロギー的、文化的、歴史的、社会的、経済的、あるいは民族生物学的決定論による結果ではない。だが、信頼はいたるところに存在する---協定や契約に、制度に、なにかを暴く、あるいは真実を明かすとされる会話に、経験主義科学や教学体系に。人は、人間の活動が織りなす網のなかで向きを変えるたびに、信頼せよという要求に触れる。コンピュータによる最大限の保護と保障を受けているいる個人ほど、信頼せよとたえず求められる。p95 熱帯雨林、砂漠、ムスリム圏、エチオピア、南米、リオ・デ・ジャネイロ、マダカスカル、サンパウロ、アルゼンチン、西部、ピッツバーグ、アンデス山脈、アフリカ、オーストラリア、イスタンブール、チベット、カトマンズ、モンゴル、アディス・アベバ、ロンドン・・・・・ 時間と空間が渾然となって怒涛のように漂う中にあっての私という意識。本にはそれぞれの性格がある。この本は、熱帯夜に身体的不快感と、みずからの体臭に困惑しながらも、どこからか流れてくる涼風を求めるような気分で、視線を集中させながら読むには、ちょうどよかった。
2007.08.26
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「丹田・肚・スタマック」 自分の中の天才を呼びさます 高岡 英夫 2005/11 ベースボールマガジン社 ★★★☆☆ 本書は、同じ著者の「センター・体軸・正中線」2005/07の続編にあたるものということなので、本来であれば、そちらからまずは読み始めるべきなのだろう。著者には70冊を超える著書があるようだ。もともとは、「肚」つながりで、加島祥造「肚 老子と私」のあとに読んでみたのだが、二冊には、ほとんど繋がりがないほど、全く傾向性の違う本だ。他には、「肚ー人間の重心」もあるが、こちらはドイツの哲学者の本だから、またまた全く次元が異なっているかもしれない。 この本は、著作権云々がつよく強調されているので、こまかい引用はしない。丹田・肚・スタマックはそれぞれ別個な表現だが、その3つには共通するものがある。ざっくりと丹田=肚として見たとして読んでみた。丹田には上・中・下と三つあるという。上中下と言っても、腹部に3つの丹田がある、というわけではなく、腹部、胸部、前頭部、にある、と著者は説明する。 著者の主張する「身体意識」と、ほかに流布する「身体感覚」はまったく違うもので、ここを混同すると、「社会が正しい認識に到達する流れを、数十年単位で遅らせてしまう危険性がある」p6とまで言っている。部分的に賛同するところもあるが、大時代的な表現には好き嫌いもでてくるだろう。 このブログでは、身体論を積極的にとりいれていくことはできないが、このような流れがあることは記録しておく必要がある。
2007.08.26
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(1)よりつづく「ミクロコスモス(2)」 中沢新一 2007/04 四季社 単行本 195p ★★★★☆ 短い、細切れの文集だが、断片的に興味深いところがいくつもある。 日本ばかりがそうなのかと思っていたら、じつはキリスト教文化圏でも事態は同じだったということが、この本(ロジェ=ボル・ドロワ『娘と話す 宗教ってなに?』現代企画室)を読むとよくわかる。たとえばフランスでも、70年代からの教育改革によって、子供たちが知っておかなければならない「キリスト教の知識」や、キリスト教的な思想家たちの書いたテキストなどは、どんどん教育課程からはずれていったために、この本の著者のように、ある日自分の娘がキリスト教はおろか、ユダヤ教についても、イスラム教についても、ほとんどなにも知らされていないことに気がついて愕然とすることになる。それにこの本の著者の世代の人間は、多かれ少なかれカウンターカルチャーの時代を体験しているので、人一倍神秘的なものや宗教的なものへの関心が深いのである。そこで、「こいつはまずい」と感じた父親は、その手のことが大好きな友人たちの力を借りて、娘に宗教を語るということになったのである。p175「宗教はほんとうはもっと面白い」 ロジェ=ボル・ドロワの著書はシリーズになっていて、以前このブログでは、「「娘と話す 哲学ってなに?」 を読んでいた。その中の一節にやたらと感動したのだった。 とにかく大事な点は、うんざりせずに、好きな著者の本も嫌いな著者の本も読んで、喜んだり怒ったりすることだね。それが、自分の考えが生まれるきっかけになると思うよ。「娘と話す 哲学ってなに?」p119 わがブログのモットーにしよう、なんてことまで思いたったことはすっかり忘れてしまっていたが、その後のわが行動をみると、まさにこの精神で突撃してきたのだった。「宗教」編は、どうなっているのだろう、機会があったら読んでみよう。 巻頭にある「369(小説)」も面白い。「インディオのシャーマンが調合してくれるあの奇妙な液体」p16を飲む体験は、確かに想像ばかりで書かれているとも思えないが、「小説」という形をとらないと、なかなか表現しきれないとことかも知れない。 「マルクスその人」の思想をかたちづくる三位一体」p105などもなかなか興味深い。「市民社会の構造 象徴的なもの」、「宗教・国家・法 幻想的なもの」、「(自然)哲学 現実的なもの」を三つの輪で表現している。これらのカテゴリ分けは、にわかには釈然としないものを感じるが、三位一体としたところがなにやら意味深げ。中沢の近刊「三位一体モデル」とどのように連なっていくのか、注目しておこう。 「芸術とプライバシー」p127~p143も面白い。長文になるので、一切引用しないが、「私」はどこにあるのか、など、人びとが瞑想体験の中で、味わっていく何かが、著者なりの理解で著者の表現の枠組みの中で語られている。 この本、(1)がレコードのA面で、(2)がそのB面である、という編者の印象が語られているが、私はあまりそういう感じはしなかった。むしろ、これは(3)以降にシリーズ化していくのではないか、と思ったのだった。
2007.08.25
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「ミクロコスモス(1)」 中沢新一 2007/04 四季社 単行本 201p ★★★★☆ 著者の最近数年の比較的短い文章を集めて、一冊の本になっている。カイエ・ソバージュ・シリーズ、「対称性人類学」、「アースダイバー」 を経て、「芸術人類学」 に到るプロセスの間隙を埋める文章群というところか。レビィ=ストロースの人類学に思いをはせながら、しだいに著者の新境地にいたる経過を細切れながら、一つ一つの文章の中にみることができる。 特記すべきところは最終章の「芸術人類学研究所を開く」p183だろうか。2006年4月に、多摩美術大学内に開設された同研究所の開所式にあたっての挨拶に加筆したもの。糸井重里や細野晴臣なども列席している。 教鞭をとっていた中央(総合)大学から5キロしか離れていない向かい側の丘にある多摩美術(単科)大学に移ることになった経緯を述べている。そして、自らの人生を振り返って述懐している。 ちょっと思い返してみるだけでも、人生で味わった挫折の数々が浮かんできます。幼稚園に入園するときがまず大変で、これは父親が共産主義の活動家だったからでした。それからというもの、付属中学の入学には落第する、大学に進もうとすると入試がなくなる、かわりに受けた京都の大学の試験には失敗するというありさまで、さらにすさまじかったのは、大学院に学んでいたときに受けた留学生試験の失敗でした。そのころバルートクの音楽にひかれていたぼくは、ハンガリーで民俗学を勉強しようとして、ハンガリー政府の奨学生に応募をしました。いままで2回続けて落ちた人はいないと言われていた、面接だけのそのゆるい試験に、なんと続けて4回も落ちて、新記録をつくたのでした。30代に入ってから体験した挫折の数々は、しばしばマスコミを舞台にして演じられましたから、みなさんのご記憶にもまだ新しいのではないかと思います。 p187 たしかに1950年生まれの著者が1980、1990年代を通じて、振りまいた話題は、かならずしも名誉なことばかりではなかった。つづく
2007.08.25
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「シビック・ジャーナリズムの挑戦」 コミュニティとつながる米国の地方紙 寺島英弥 2005/05 日本評論社 単行本 246p ★★★★★ この本の評価は難しい。このブログが今後どのように展開するかで、その意味が変わってくる。私は自分に関わるネットワークというものが、以前書いたように200人程度のおつきあいとアクティブな関係40人程度いれば、十分なのではないか、と思っている。さて、その時、その人びとをネット空間における、より共感性の強いグループへ特化して求めていくのか、あるいは、地域に根ざしたより共有性の高いグループへ特化していくのかで、だいぶ変わってくることになるだろう。 ジャーナリストという生き方は、やはり至高のものとは思えない。このブログではジャーナリストとプログラマとカウンセラーを典型的な現代の職業と見立てて、その三要素を持ちうるような存在を模索している。だから、「ジャーナリズム」一本というわけにはいかない。 しかし、地域に根ざしたジャーナリズムという視点で考えるなら、この本は☆5のおすすめ度ということになる。シビック・ジャーナリズムとパブリック・ジャーナリズムは、言葉として発生してきたプロセスは違うが、意味的にはほぼ同義と捉えて間違いないだろう。 著者は、地方紙に勤務するエディターだ。フルブライト研究員として2002年8月から半年ほどアメリカの大学に滞在し、そこで出会ったジャーナリズムを報告している。彼の地方紙とは、私の住む地方の新聞のこと。地方紙とはいうものの、政令都市をかかえる県としては大メディアだ。購読数では全国紙が及ぶところではない。ましてや夕刊という武器をもっている。展開の仕方によっては、ジャーナリズムとしての新しいスタイルを生み出す可能性もないではない。 しかし、地域に根ざしたメディアということなら、ここ10年ほどは、地元密着型の月刊誌などがにょきにょきと生まれ始まっている。文化誌、経済誌、観光誌、情報誌、フリーペーパーなど、地方紙の夕刊を脅かす存在はすこしづつ増えている。もちろん、長年の歴史に守られた地域一番紙が急に傾くことはないが、ただ、いままでのような紙面づくりでいいのか、という反省は当然なくてはならない。 今後、このブログが地域やジャーナリズムにより特化した方向をもつとするなら、この本は、とても重要な位置を占めることになると思う。すくなくとも地元紙にこれだけの視点をもつ記者がいるのだということは誇りに思えるし、何かの時には、頼っていきたいものだと、さえ思う。 しかし、もしジャーナリズムとは基本柱の一つにすぎず、そして、このブログがより共感性の高いヴァーチャル性のつよいネット空間に進行していくとすれば、この本はちょっとうざったいドンくさいテーマの本ということになる。 新聞なんて要らないのか。新聞は死んでいいのか。ブログはきちんと機能するのか。ブログや新しいメディアに未来はあるのか。最終的には、まだこのブログでは結論がでていない。もうすこし見てみないといけないだろう。
2007.08.25
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「アメリカのおいしい食卓」 徳井いつこ 2001/08 平凡社 単行本 198p ★★★★☆ 「スピリットの器」1992、、「ミステリーストーン」 1997、「インディアンの夢のあと」2000につづく著者4冊目の本。発行が2001年8月だから、わりと新世紀のオープニングにふさわしい晴れ晴れとしたアメリカの雰囲気も伝わってくる一冊。ネットで検索する限り、これ以降、彼女の本はでていないようだ。あの世界を震撼させた9.11同時多発テロ以降の彼女の心境などを聞いてみたいところだ。 タイトルから察すると、どことなくアメリカ食のレシピ集のようなニュアンスだが、ところがどうしてどうして、食文化を通じて、現代アメリカの側面をするどく抉り出している一冊になっている。中国系アメリカ人、フランス人、チョクトー・インディアン、黒人、アジア系移民、中東系、イラン人、アルメニア人、アーミッシュなどなどの話題が「食」つながりでどんどんでてくる。いわゆるアメリカという国の「多民族」性が、食を通じて鮮やかにあぶりだされる。 クッキーの中におみくじをいれたフォーチュンクッキーの製造元を尋ねる取材は面白かった。中国人系の工場で作られているが、もとは日本人が始めたのではないか、というあたり、さもありなん、と感じる。私も一回だけ、アメリカでこのフォーチュンクッキーを食べたことがある。その時クッキーの中からでてきたメッセージは「みんなで手をつないで大きな輪をつくる。誰が最初で、誰が最後か」という「公案」だった。ネットワーク時代のことを考えてみると、意味深いご宣託であった。 アーミッシュの人びとにふれたコラムも興味深かった。最近なにかの事件があり、にわかに脚光を浴びているアーミッシュの暮らしぶりだが、現実的に存在している地球上の文化のあり方として、珍妙でありながらも、なにかを現代に問いかけている感じがする。 著者は文学や映画にも造詣が深いらしく、たびたび映画の話題がはさまれている。いわく「恋はデジャ・ブ」、「ダイハード」、「ユー・ガット・メール」、「偶然の旅行者」、「フライド・グリーン・トマト」、「リストランテの夜」、「スモーク」、「LAストーリー」・・・。このブログでは、図書館の視聴覚資料もすこしづつ利用してみようと思っていたところなので、映画の世界になんらかの足がかりができていくのは、うれしい。 この本、多岐にわたった話題が込められているので、一括して感想を述べるのは難しいが、バークレーに集う人々のカウンターカルチャーの香りや、イスラム系の人びとの9.11前夜の雰囲気などもどこからとなく匂ってくる。やはり、著者の観察眼のするどさが光っている一冊といっていいだろう。 巻末には、「おまけのレシピ」がついていて、10数種の料理を紹介している。どこまでも女性らしいやわらかい視線が印象に残る。
2007.08.24
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「星野道夫の仕事(第4巻)」 ワタリガラスの神話 星野道夫1999/04 朝日新聞社 単行本 ★★★★☆ 図書館に行く楽しみのひとつは、いままで気がつかなかった素晴らしい本に出会うことである。新刊コーナーやいつも行くコーナーは大体目を通すのだが、返却本コーナーも意外と気がつかなかった本を見つけるいいチャンスになることがある。 先日も何気なく、返却されてまだ一般書架に戻される前の本を見ていて、この本に出会った。この大版の写真集が7冊返却されてきたところだった。以前から見たいと思っていたのだけど、ことさら思い出してはいなかった。7冊の写真集を一気にめくってみて、その写真という技術の高さ、アラスカの動物たちのすばらしさ、大自然の尊さ、そして短いコメントに込められた淡々とした描写。圧倒された。 何はともあれ一冊だけ借りようと思って、この第4集を借りてきた。どこが気にいったかというと、大自然の中の動物達とともに、地球の上に生きる人間たちもしっかり描かれていたところ。アラスカの地に43歳の命を散らした星野道夫。超絶した神々しさのなかに溶け込んでしまったような魂を感じる。 「星野道夫公式サイト」
2007.08.24
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「『書ける人』になるブログ文章教室」 山川健一 2006/11 ソフトバンククリエイティブ 新書 246p ★★★★☆ この人、1953年生まれで77年の「群像」新人賞をとっている。前年76年の「群像」新人賞は、「限りなく透明に近いブルー」の村上龍。山川健一という人も若くしてその頭角を現して、現在に到っているわけだから、立派な文学者・作家・「書ける人」ということになる。 この方に文章教室を開いてもらえるのだから、ありがたい。と、思うのだが、ブログについての感想や体験談は、各人が持っているイメージとそうかけ離れているわけではない。 「あなたのブログが続かない三つの理由」を挙げている。1)飽きる2)やる気を失う3)ブログ炎上 1)の飽きる、ということはあるだろうと思う。書くネタがなくなる。他にもっと面白いものと出会う。他の表現形態に切り替える。いろいろな理由があるだろうが、私の知り合いのブログも突然休止してしまっているものがたくさんある。かくいうこのブログもいつストップするかわかったものではない。今のところは1000冊の本を読む、という目標を立てているので、そこまであと100冊ほど、ジグソーパズルのパーツ集めをすることになるだろう。しかし、そこからは突然「飽きる」ことはあるだろう。 2)やる気を失う、ということだが、私の場合は人生のやる気を失うことはあるだろうが、ブログをやる気力を失うことは当然ありえるだろう。ただ私の場合は、他の表現形態を多くもっているわけではないので、当面は、ここからつながる何かを見つけながら生きていくことになる。ただブログという形態に限っていえば、やる気を失うことは当然ありうるだろう。 3)ブログ炎上 ブログが活況を呈するのはいいが、バトルや炎上は、できれば避けたいというのが本音。駄文悪文であったにせよ、できれば罵詈雑言に満ち満ちた表現になったり、逆にそれを浴びたりという立場にはなりたくない。でも、おとなしすぎて波風のないのも面白くない。「河豚は食いたし命は惜しし」というところか。ブログの醍醐味の部分ではある。 なかなか平易で奇をてらっておらず、分りやすい。いろいろな角度から、一般の人々がブログをどう書き続けていけばいいか、自らの体験をもとに、実践的に指南している。
2007.08.24
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エントリー1000記念 =このブログが読んだ本ワースト10= このエントリーでこのブログもちょうど1000を数える。スタート当時思いもつかなかった1000という数字にただ驚いている。方針もいろいろブレたので、正確ではないが、おおよそ900冊程度の本は読んで来たことになる。読むというよりメクったといったほうがいい本もあるので「読んだ」とは豪語できないが、自分にとってつまらない本は「精読」したからと言って、必ずしも残るものがあるわけでもない。 で、今回選んだのは好き嫌いで言えば、嫌いな本。本だけではなく、著者に対してどうも納得がいかない、と感じるということだ。もちろんひどい本は、他にまだまだある。今回は他にも30冊ほどあったのだが、同じ著者の本は一冊だけ代表して選び、また、できれば多くの著書をもっている強そうな人を選んでみた。 ワースト10ということだが、必ずしも順番どおりではない。整理上、順番をつけてみた。ワーストとは言いながら、今後読まないよ、ということではなく、何でこの著者に対して私は違和感をもつのだろうか、ということを今後それなりに探求したいので、機会があれば、関連でぼちぼち読んでいってみたいと思っている。 ベスト本は、できればそちらへこのブログも行きたい、ということであり、ワースト本は、できれば、その辺あたりを境界として、できればもうその辺でとどまりたいという意思の表れである。ただ、私の場合、食わず嫌いで結構あとからそのよさがわかったりする場合もなきにしもあらずなので、必要とあらば、まだまだその境界域を踏み越えて、これらの人々の存在域に闖入する可能性もある。NO.1 「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」 香山リカ 2006/11 幻冬舎新書 まずはこの人。今日も本屋にこの人の新刊が並んでいた。面白そうなタイトルで、けっこう目立つところに並んでいるのだが、ぺらぺらめくって、毎回がっくりしてすぐ書棚に戻す。一体なんでなのだろう。いまだに分らず。本を乱造しているために、内容がないのではないか、と思う。精読していないので、そこまで断定はできない。しかし、現在のところ、ワースト本を挙げろ、と言われたら、申し訳ないが、この人の存在がすぐ頭にうかぶ。NO.2 「江原啓之への質問状」スピリチュアルな法則で人は救われるのか 江原啓之 /丸山あかね 2005/12 徳間書店 この人の顔といい体形といい、なかなかの癒し系で、現在の潮流に乗っているのだろう。いやいや、乗っているというより、彼が作り出しているブームというものもあるのかもしれない。しかしこちらもあまり精読したくないタイプの本が多い。とにかく「癒されたい女性」あたりをターゲットにして、すべての江原プロジェクトが動いている。読者としての私はそこから大きく外れているのが、私がエグイ感覚をもつ大きな要因なのかもしれない。NO.3 「人類と地球のアセンション」 だからこれからこう生きよう 船井幸雄 2006/1 徳間書店 大御所ではあるが、言っている内容と自分の押し出しの仕方がちぐはぐで毎回、アレって思わざるを得ない。まぁ、その精力的な好奇心は見習うことも多いが、どこかなにかが違う。まずは、この人、自分を偉大なものに見せようとするお膳立てが長すぎる。普通のおじさんでいいのではないだろうか。また仮に偉大であったとしても、あまり誇示されると、こちらがシラける。探求が自分のためではなく、他人の商売のため、というところが欺瞞っぽい。 NO.4 「この国を支配/管理する者たち」 諜報から見た闇の権力 中丸薫+菅沼光弘 2006/2 徳間書店 この女性については、詳しくは知らないが、最近やたらと書店の店頭で目につく。そういうセールス・プロモーションをやっているのだろう。なかなかの女傑ということなのだが、その本をめくると、いわゆる「陰謀」モノの系列に入るようだ。90年代始めに私は陰謀モノを結構読んだ。でも一通り目を通しても、結局残るものはなにもなく、檻の中で走り続けるネズミのような心境になる。味付けは新し目だが、本質的には保守的なパターンを踏襲している。NO.5 「エイリアンズ」 論壇外知性体による「侵犯」的時評'03~'04 宮台真司 * 宮崎哲弥 2004/10 インフォバーン 宮台は一世を風靡したライターのようだが、私はその実力を体感するチャンスを失った。彼に関心をもったのは「マルチチュード」に触れていた点があったからだ。しかし、触れている、というだけであって、そこから何か新しい展開が生まれたわけでもない。他のテーマについても、宮台的発言とはこういうものか、というニュアンスはつかめたが、だからどしたの、という感じで、納得感がない。時代の狭間にさいた徒花、という感じがするのだが。NO.6 「ネイティブ・アメリカン 聖なる言葉」 宇宙の響きを聴け ロバート・ブラックウルフ・ジョーンズ /ジーナ・ジョーンズ 加藤諦三・訳 1998/5 大和書房 この本よりも、この訳者に違和感をもつ。現在、ネイティブ・ピーポー関連の本をすこしづつ読み進めているところだが、この人が少なからず、その関連に携わっているらしく、私はどうもそれが「許せない」。なんでか。この人のイメージが私の中でかなり早期の内にできあがってしまっている。だから、どうもその色づけから脱却できないのかもしれない。原因がこちらにあるとしても、著書ならしかたないが、翻訳なら、できれば他の人にお願いしたい。NO.7 「インド・アメリカ思索行」 近代合理主義克服の道 立川武蔵 1978/10 山と渓谷社 この人は、チベット密教関連の著書が多い。専門家の立場で私たちが知らない世界について研究しレポートしてくれるのはありがたいのだが、さて、突っ込んでその人格について考えてみると、さて、本当はこの人、どういう人なのかわからない。なんでこの人はチベット密教を研究するようになったのか。少なくとも、動機や魂の部分で、私はどうも納得いかないことがある。業績はともかくとして、人間的には、あやしい、と睨んでいる。NO.8 「オウム真理教と阿含宗」 桐山靖雄 1995/7 平河出版 この人についてはこまかく書くまい。特に現在の活動が私には全然わからない。新しい本もでているのだろうが、私としては読む気はまったくない。ただ、90年代にアレだけ大きな問題となった麻原集団事件の、一因は、まちがいなくこの人にある。その決着のつけ方がこの本のレベルでは納得がいかない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというけれど、彼の関連の出版社から出ている本は、もともといい本が多いのに、読む気が失せる。NO.9 「『神秘と超能力』の嘘」 大槻義彦 1997/5 講談社 同郷の科学者を悪く言っても私が得るものは少ない。むしろ郷土のほこりと思いたいが、時代の流れは、大槻教授の旗色を悪くしているのではないか。私はリサ・ランドールあたりの研究がとても素晴らしいものだと直感する。もともと科学者は錬金術や神秘主義に深い関心を寄せていることも多かった。大槻教授がなんといおうと、3次元4次元を超えて、科学の未来が動き出している可能性があるのだ。その時、彼がどのように発言するのか注目している。NO.10「金色の虎」 宮内勝典 2002/11 講談社 売られたケンカは買わなくちゃいけないか。あるいはさっさと無視して三十六計逃げるにしかず、といくか。ただ、この人の振り回す刃物はまったくいい加減のナマクラが多い。おいおい、「文学者」、なんとかしろよ、と激励したくなる。それほど多作ではないので、その半分くらいは読んだが、元々こちとら「小説」が苦手な上に、事実誤認の連続にはあきれ果てて、指摘してあげる親切心も失せてしまうんだよなぁ。次 点「『心の専門家』はいらない」 小沢牧子 2002/03 洋泉社 この方については、決して多作でもないが、なるほど言わんとしているところも、いいところ突いている。ただ、その論旨は微妙な味わいがある。味付け如何によっては、とんでもない保守主義に陥ってしまう可能性もある。長い実績の中で、淡々と自説を展開される姿には打たれるところもあり、説得力もある。しかし彼女の論旨は時代の潮流ではない。彼女のいわんとするところが、どのように今後生かされていくのか。薬味の生かし方、ってところだ。
2007.08.23
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「シンプルに使うパソコン術」 傑作フリーソフトでつくる快適環境 たくきよしみつ 2007/08 講談社 新書 217p ★★☆☆☆ 「いきなりですが、私はパソコンが嫌いです」p5と来る。こちらは「朝日新聞Be」紙に4年間連載されたコラム「ソフ得」のからの抜粋。著者には「パソコンで文章がうまくなる!」などがある。 私はパソコンは嫌いではないが、こんなにいっぱいのソフトは使いきれない。ほどほどでいい。 著者はトロンやリナックスにも想いを寄せている。でもついに「パソコンのOSだけはフリーにならなかった」と言っている。もちろん現在のところは、ってことだけど。ほんとに、一番フリーになってもらいたいのはパソコンのOSだよね。それも、あともうすこし、って感じがするのだが・・・。こちらの期待度が入りすぎているかな。--------2007/10/25再読
2007.08.23
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「賢者のデジタル」 山根一真 マガジンハウス 2007年08月 単行本 335p ★★☆☆☆ 著者は、NHK『ミッドナイトジャーナル』『ミッドナイトジャーナル』のキャスター。だから、この顔はみたことがあって、どうもNHK顔。でもその著作群をみると、なかなか頑張ってきた人なのだなぁ、と改めて認識。 この本は、著者が日本経済新聞に「デジタル・スパイス」として1997年4月~2007年6月に連載した530本のコラムにから選択した149本に「2007年の感慨」を付記して、一冊にしている。 著者も躊躇しているが、この世界についての情報は鮮度が大切で、10年前の新聞記事はさすがに古い。いや、ごく最近の記事でも、この本から得るものはそう多くない。敢えて特記しておくなら、「災害時にゲルマ・ラジオはどうだ」p243あたり。これはグッドアイディアだ。ゲルマ・ラジオは1000円弱で通販で購入できる。確かに、電池もいらず、安価でラジオ情報を得るにはぴったりだ。だけど、この話題は「デジタル」ではないなぁ。 ところで、デジタル、って言葉は、今日的にもまだ流行しているのだろうか。アナログVSデジタルという図式はだいぶ前のことだ。杉山知之などがデジタル・ハリウッドなどを商号にしているので、にわかには変更できないのは分るが、地上デジタル波とか、デジタルカメラとか、もう、デジタル、ってごく当たり前のことになっているようだが。 そういえば、「空洞地球」にでていたマイア・クリスチャンの肩書きは「デジタル・スピリチュアル・アーティスト」だった。思えば、科学・芸術・意識をうまくミックスした肩書きだ。 しかし、それにしても、デジタルって言葉、あらためて振り返って見るのも面白いかも知れない。
2007.08.23
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「X51.ORG THE ODYSSEY」 <1>佐藤健寿 2007/05 夏目書房 単行本 261p ★★★★☆「2004 Blog of the Year!」に選ばれたブログ「X51.ORG」があるということはごく最近知った。「謎の地下王国シャンバラは"実在"するか ― 視察チベット編」などというページもある。 さっそくこのブログから本ができている。雪男、イエティ、UFOなどについて、オカルト的に話題になったところに実際に出向いていって、写真を撮り、記事を書いている。北米編、南米編、アジア編、と分かれている。200pで「シャンバラの道」が引用されている。 「若き日本のコリン・ウィルソン」の呼び声もあるが、はて、どうなのだろう。本人は自らのことを「懐疑的肯定派」そして「肯定的懐疑派」と言っている。このブログと重なる部分もなきにしもあらずなので、今後、ウォッチングしていこうかな、と思っている。<再読>=<2>につづく
2007.08.23
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前よりつづく 「早期参入企業から学ぶセカンドライフビジネスの始め方」 ついに公開!最新日本語版に対応!! 月刊アスキー編集部 /浅枝大志 2007/08 アスキー 単行本 159p ★★★☆☆ 序章で浅枝大志が書いている。付録に「セカンドライフ・インタラクティブ・マップ」がついている。だが、それ以上に目立ったところがあるだろうか。「500円でわかるセカンドライフ」 学習研究社 2007/08 ムック 82p ★★☆☆☆ 値段だけでいうなら、480円の「セカンドライフのすべて」月刊アスキー臨時増刊号もなかなか素晴らしい出来だった。あちらは雑誌としての広告が入っているだけ、むしろ内容が充実していたというべきか。SLマニュアル本も、ここにきて、そろそろ出揃ったというべきか。ほとんど目新しい部分はない。そろそろ安値で勝負という時代か。「セカンドライフ成功マニュアル」 宝島社 2007/08 ムック 128p ★★☆☆☆ セカンドライフにおける「成功」とはなにか。なにをどんな形で意図するのか。たとえば、mixi成功マニュアル、とは存在するのか。ブログ成功マニュアル、HP成功マニュアル、googles成功マニュアル、・・・いろいろ考えてみるが、なかなかフィットしない。やはりセカンドライフじゃないと、この成功マニュアルという言葉が似合わない。 では、他のネットコンテンツの中で、セカンドライフを際立てているものはなにか。3Dというテクノロジーの当たらしい波、という以外に、積極的に「ビジネスモデル」を作り上げようとしている。コピーに「乗り遅れると致命的」とある。ああ、これは許せない。成功、をキャッチフレーズにしているが、平凡な入門書にしか見えない。「超カンタン!セカンドライフ」 「遊び」「仕事」「お金」のある仮想世界で第二の自分が生活する 東京メディア研究会 2007/08 工学社 ムック 95p ★★☆☆☆ 超カンタンといえば、実に超カンタン。なんだか、非常に超初歩的な一冊といえるか。セカンドライフ・ビギナーなら誰でもいきそうな非常にオーソドックスなところが紹介されている。これなら、立ち読みするまでもない。後に続く
2007.08.23
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「カラーパープル」 監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ダニー・グロ-バー/ウーピー・ゴールドバーグ 制作年 1985年 153分★★★★★ 1850~90年代の西部劇より、はるかに現代に近い1910~40年代。大地の中の農場の話ではあるが、主人公達は黒人である。あまりに惨たらしい少女期を送る主人公。目をそむけてしまう。同じひとりの男として、申し訳ないと謝罪したい気持ちになる。 転生魂・多火手にとってのチェロキー体験の風景は、西部劇の馬達との風景よりこちらのほうが近い。突如始まるジャズバンド。「セリーのブルース」が泣かせる。 1909年、南部ジョージアの小さな町で、少女セリーは2人の子供を出産するが、引き離され、ミスターという男の元へ嫁いでいく。奴隷のような生活を強いられ辛い毎日を過ごすセリー。心の支えであった妹ネッティの消息も途絶え、苦悩は深まるばかりであった。そんなある日、セリーはブルース歌手、シャグ・アヴェリの世話をすることになる。初めて人の愛に触れたセリーに、少しずつ明るい未来の予感が訪れる…。アリス・ウォーカーのピューリッツァー賞受賞作を、巨匠スティーブン・スピルバーグが壮大なスケールで描いたヒューマン・ドラマ。「ゴースト」「天使にラブソングを」のウーピー・ゴールドバーグの映画デビュー作でもある。 映画の紹介文より泣いた。
2007.08.22
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「コヨーテは赤い月に吠える」 ナバホ・インディアンと暮らして 本間正樹 1992/05 文藝春秋 単行本 246p ★★★★☆ 同じ著者による「大地とともに」と同時期に前後して発行されているため、同じような体験が描かれている。ただ、あちらは子供向けで、こちらは、大人向け、という感じか。 会社勤めを3年あまり体験した著者は、フラリと退社した。そして最初はインドへ旅にでるつもりでいた。ところが、知り合いのカメラマンの紹介で、ナバホのメディスンマン家族と一緒に住むことになる。 河合隼雄もナバホの地を訪れた時、「ジャパニーズ・メディスンマン」と呼ばれて、躊躇したという。著者もまた、若者でなにも知らないのに、「ジャパニーズ・メディスンマン」と呼ばれて、般若心経を唱えてあげたりすることになるくだりは多いに笑える。 ナバホとアパッチの祖先を含むグループが、この大陸南西部へ移ってきたのは、紀元1000年から1400年の間といわれている。アパッチの祖先たちがさらに南下していったのに対し、ナバホの祖先たちはこの地で近隣のプエブロ諸族からトウモロコシや豆、カボチャなどの栽培を習って定着するようになる。人びとはその後数百年はたいして邪魔されるものもなく暮らしたが、白人の出現がそれを変えた。16世紀末にメキシコから進出してきたスペイン人は、ナバホの村を襲っては婦女子を誘拐し、奴隷にした。その報復としてナバホの人びともスペイン人を襲撃し、馬や羊を盗んだ。こうして襲撃と報復、略奪が延々と繰り返されていく。p142 ナバホ・ファミリーと暮らしながら、著者は、ネイティブ・ピーポーの歴史や文化に想いを馳せる。特に後半は、19世紀のアパッチのリーダー・ジェロニモの生涯に想いを寄せる。 ジェロニモは青年期に、メキシコ兵によって最初の妻と三人の幼児、それに母親を一度に殺されており、その復讐心に燃えて毎年のようにメキシコ兵を襲撃していた。現在はアリゾナ州とニューメキシコ州は当時メキシコに属していた。アパッチとメキシコ人とのあいだにはさまざまな接触があり取り引きもあたが、争いのほうが多かった。ジェロニモの属するチリカワ・アパッチのグループも、メキシコ人を相手に互いに奇襲、略奪、報復を繰り返していたらしい。アパッチの行動範囲であったメキシコのソノーラ州とチワワ州では、アパッチに賞金がかけられてもいた。p163 ジェロニモについては、別な機会にもっと知ることもできるだろう。 1980年前後と思われる著者の体験は、なんともほほえましくも感動的だ。
2007.08.22
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「大地とともに」 インディアンとくらして 本間正樹 /菊池東太 1993/03 小峰書店 全集・双書 127p ★★★☆☆ 日本からナバホの大地に移り住み、インディアンの家庭の中でくらした著者が、少年少女向けに、やさしくネイティブ・アメリカンの暮らしを紹介し、実際に体験した仕事や儀式などをレポートする。環境汚染で悩む現代社会が、彼らから、大地や自然とともに生きる姿に学ぶべきことは多い。 何代も伝わってきた暮らしぶりに加えて、最近の変化、とくに若い世代に見られている都市文明などのへの憧れを指摘し、筆者はナバホの伝統が消えつつあることを惜しむ。文字のないネイティブ・ピーポーの中から、次第に独自の言葉もなくなりつつあるという。 「ナバホの言葉」神々 イエイおとうさん アタァおかあさん シマァ男の子 アシュキ女の子 アテェドあなた ニィわたし シィ空 ヤァ太陽 シャン月 オルジェ星 デベヤギ ヒィズィ犬 セイチァンネコ モスイコヨーテ マイィこんにちは。 「ヤァテェ」さよなら。 「アゴーネ」ありがとう。 「アッヒヒェ」はい。 「オウ」いいえ。 「ドーダ」だれが? 「ハェタ?」どこに?(どこへ?) 「ハァティシャ?」それはなに? 「ハァティシ?」はやく!(いそいで!)「ハーゴォ!」「ハッコ!」 p31
2007.08.22
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「許されざる者」 監督:主演:クリント・イーストウッド 130分 1992★★★★☆ こちらも「アメリカ・インディアン 奪われた大地 」のリストに載っていたのだが、どうやら、同じ日本語タイトルでの別映画らしい。もう一本のほうの「許されざる者」は1959年作。ストーリーもまったく違う。1959年作にはネイティブ・ピーポーも出演しているらしいが、1992年作には、ガンマンの妻として、ひとりのネイティブ女性がひとりでてくるだけだ。 しかし、1992年というと「ダンス・ウィズ・ウルブズ」1990年のあとにでた映画だ。それにしてもこの年代においても西部劇が作られている、ということに驚く。そのカテゴリに相当の人気があるのだろう。見ていても面白い。なんとも泣かせられる。現代の作品だけに現代人の心理を衝くような形の作品に仕上がっている。 19世紀末の西部。若い頃は、何も考えず、動くものは女でも子供でも撃ち殺した、と語るウィリアム・マーニーは、かって列車強盗などで名を馳せた伝説的なアウトローだった。しかし、11年前に妻に出会ったことで改心し、銃も捨て、酒もやめた。今では、その妻とも死別して二年、幼い子供二人を抱え、人里離れた土地で、貧しいながら自給自足の小さな牧場を営んでいた。 或る日、そんな彼のもとに、冷酷無比のマーニーの伝説を聞き込んだ、スコーフィールド・キッドと名のる若いガンマンが訪れ、賞金稼ぎの話を持ちかける。 映画の紹介文より
2007.08.21
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「ナバホの人たちに聞く」 「月刊たくさんのふしぎ」第163号 ぬくみちほ・他 1998年 福音館書店★★★★☆ ぬくみちほが少年少女むけにナバホを紹介する一冊。表紙の砂絵が珍しく、なんともパワーを感じる。原寸大のナバホの人びとの生活風景が親しみを込めて描かれている。視点が子供達だけに、肩肘こらない一冊。NHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」みたいな親しみ易ささえ感じる。
2007.08.21
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「幌馬車」(1923年度作品)監督(製作スタッフ): ジェームズ・クルーズ 出演者: ジョン・ウォーレン・ケリガン、ロイス・ウィルソン、他 67分 白黒 無声映画★★★☆☆ 「アメリカ・インディアン 奪われた大地 」の中で、「スクリーンのインディアン」p186西部劇の草分けとして紹介されている。なんせ製作が1923年(1924年とも)。白黒映画であるばかりか、無声映画であり、ストーリーや重要な台詞は英語版の文字がアップされる。 19世紀半ばのアメリカ西部。肥沃な大地を目指す幌馬車隊が、大自然の驚異や白人に恨みを抱くインディアンの待ち伏せなどの障害を乗り越えながら旅を続けていく様を、壮大なスケールで描く。アメリカ西部の雄大な自然の中に人間の愛憎劇を織り込み、無声映画史上に金字塔を打ち立てた西部劇の名作。映画の紹介文より インディアンたちも登場し、細かい民俗表現はないものの、彼らの立場を表明する映像もはさまれている。時代背景は1850年代。まだまだ、インディアンと白人が、空と大地の間で拮抗している時代であり、私達の2~3世代前までは、このような生活が行われていたのだ、という極めて貴重な資料ともなる映画だ。
2007.08.21
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<1>よりつづく「ポスト・ヒューマン誕生」 この本は、600ページを越す大書なので、一度に読みきることはできない。量的なこともあるが、主に主テーマとなっている科学技術的なことは、ちょっとやそっとの素養があったとしても、とても読みきれるものではない。ものごとの真偽を確かめるだけの力がこちらにはない。そして、もっとも重要なことは、著者であるカーツワイルは、よりいっそう人類を未来へと駆り立てるように、一歩先のことを指し示し続けようとするスタイルを自らのものとしているところにある。 ジャーナリストを「ニューヨーク・タイムス」の社是になぞらえれば、大衆の半歩先を歩く仕事ということができるかもしれない。「新聞は大衆とともにあってはいけないし、大衆より一歩先へ行ってしまってはいけない、新聞は大衆の半歩先を歩かなければならない。」という言葉はある意味名言だ。 あるいは、カウンセラーは対峙するひとりの人間とともに歩く姿勢を保つことが大切になる。たとえば河合隼雄などは、けっしてクライエントを急がせない。その人間の成長を待つ。あるいはともに成長しよう、という姿勢をどこまでも保つ。 それに比して、科学者であり、有能なプログラマー(広い意味において)であるカーツワイルは、常に自分の存在や自分の思想哲学を、人類より一歩先におくことを使命にしているかのようだ。 この本の「コンピュータが人類の知性を超えるとき」というサブタイトルは、実は、1999年にでた「スピリチュアル・マシーン」のサブタイトル「When Computer Exceed Human Intelligence」だった。翻訳チームもカーツワイルの「一歩先主義」についていけない。なぜにそれほど、彼は先に急ぐのであろうか。 それは、彼は、彼自身を「発明家」と定義づけているからだ。物事が具体化して、ちょうどタイミングの良いときに大衆に提供すること、そのことに賭けている。過去の発明品は、発明王トーマス・エジソンに比肩するかのように評価されている。彼の両親がホロコーストから逃れてきたp4人びとであった、という社会的背景も大きく影響しているのかもしれない。 しかし、この本では客観的に科学の技術の進歩が語られているが、ネットで検索すると、「著名発明家のカーツワイル氏、自身の冷凍保存による延命を計画」なんて記事にぶつかったりする。著者は健康的にも決して万全ではなく、中年時代から相当量のサプリメントなどで体調を維持している風にもとれる。 その彼が<特異点>を2030年代においていることは、自らの個的肉体の限界性をにらんで設定している可能性もある。ナノボットやサイボーグへの一歩踏み込んだ発言や行動は、大衆よりは「一歩先」に行ってしまっている。しかし、それは彼のスタイルなのであって、必ずしも人類がそのような道をたどると決定されているわけではない。 この本は、はっきり言って、私の貧弱な科学的知識では、「共感」して読むことはできない。微細なところにおいては、その技術の存在や真偽について確認することさえできない。 しかし、人類は、ともに歩いてくれる存在も必要だし、半歩先から手を引いてくれる友人も必要だ。そして、時には一歩先への可能性を指し示してくれる根拠も必要になる。 著者には新刊がある。「レイ・カーツワイル加速するテクノロジー」はちょっと薄い本で、もうすこし噛み砕いた上で、ダイジェストした本であるようなので、そちらの本でもうすこし理解を進めたいと思う。<3>につづく
2007.08.21
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「ネイティブ・マインド」 アメリカ・インディアンの目で世界を見る 北山耕平 1988/12 地湧社 単行本 352p ★★★★★ いまや日本を代表するネイティブ・スピリットの紹介者にして、実践者である北山耕平のほぼ処女作といっていいだろう位置にある一冊。著者は1976年に初めてアメリカにわたり、1979年2月、チェロキーのメディスン・マンである、ローリング・サンダーと出会っている。その出会いなどを1986~1988年に雑誌に連載し、その記事が骨子となって、本書ができている。 1991年には共訳書「ローリング・サンダー」がでており、このブログでも読書中だが、まだ読了していなかった。また著者にはブログ「ネイティブ・ハート」があり、最新刊「ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ」太田出版がある。 1970年代の著者は、当時では政治色を廃して、よりカウンター・カルチャー色を前面にだした月刊「宝島」の編集者として有名だった。1975年の日本は、ある意味、一つの分水嶺だった。反体制色のつよかった団塊の世代は、会社員や公務員という形で体制のなかに組み込まれていくか、それを良しとしない強い意志をもった「硬派」の青年達の多くは、アメリカへ、インドやネパールへ、ヨーロッパへと旅立った。北山は、アメリカに旅立った。かくいう私は、著者より5歳年下だが、77年にインドへと旅立つことになった。 あの頃の自分のことを思い出す。アメリカへ行く、という選択肢もあったのに、どうしてインドへと行ったのだっただろうか。もし、あの時、アメリカへ行ったら、著者のような縁で、ネイティブな人々との出会いの世界へと進んでいったのだろうか。しかし、歴史に「もしも」はない。私には私の縁の旅があり、因と果があった。 このブログのタイトルは、最初はいろいろ右往左往したのだが、結局現在は「地球人スピリット・ジャーナル」というところで落ち着きを見せている。今後もまた変わっていく可能性もあるのだが、このタイトルに多少でも整合性があるのなら、実は、そのイメージは、著者が紹介しているネイティブ・ピーポーの世界観に大きく依拠しているところがある。 こうやって私の、まさしく「人間になるための」勉強がはじまったのだ。 私がひとりの人間としてしっかりと地球の上に立つためには、なんとしてもそのやり方を知っている人と会わなくてはならない。ネイティブ・ピープルのなかでも私の知りたいようなことを知っている特殊な人たち。私はどうしてもメディスン・ピープルに会わなくてはならなかった。その人は私以上に私のことを知っているはずなのだ。私がなぜ、どういう経過を経て、今ここに存在しているのか。なぜかくもアメリカ大陸に大昔からいる、そしてけして消えない人びとのスピリットに惹かれるのか、その理由が知りたかったのだ。p32 私は、「ひとりの人間としてしっかりと地球の上に立つ」というイメージは大好きだ。いままで地球人というイメージはまさにこの通りだった。しかし、最近は、どうやら、ひとりの人間として地球の上に座っている」というイメージのほうが好きになってきた。「立って」いるのなら、地球と人は、「足」でつながっている。しかし、「座って」いるなら、地球と人は「肚(はら)」でつながっているのではないか。そちらのイメージが強くなってきた。 そして、本書でも見られる「母なる大地」「父なる大空」「グレート・スピリット」という時、著者が紹介する時には、人間そのものの外側に存在している大地や空のイメージがあるが、グレートかどうかはともかくとして、スピリットに関しては、人間の内部に存しているもの、というイメージを持っている。 著者においても、たくさんの変遷をたどってきているのであり、膨大な部族や氏族の中にはさまざまな表現形態があるのだから、一把ひとからげにはできるはずもないが、それらのイメージが近著においてはどのように変化しているのか知ってみたいと思う。 とくにネイティブな視点から、このブログでも大きなテーマとし取り上げているインターネットの発達やシンギュラリティについて、なんらかの言及があるだろうか、と期待しているところだ。 ネイティブ・ピープルの「聖なる道」を現代という時間のなかで理解するために、前節のなかで、宗教の定義をいま一度改めて考えてみた。その際私は、「スピリチュアル」という言葉を無意識に用いている。もちろんスピリチュアルというのは「スピリット(精霊)」が存在するという大前提から生まれ出た言葉である。しかしスピリチュアルという言葉が日本語になると「精神的」「霊的」といったふうに意味が二つに分けられてしまう場合がままあり、私はそれらを二つの意味するものをあわせる意味で、スピリチュアルという言葉をここでは使っている。p91 後半においてはスピリチュアルな実践の道である「ヴィジョン・クエスト」について、詳しく述べられている。青年向きの指導書の赴きもある。
2007.08.20
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「エルダー兄弟」 主演:ジョン・ウェイン 監督:ヘンリー・ハサウェイ 製作年 : 1965年 121分★★★☆☆ 映画の感想を書くのは難しい。特にコメントを記さなくても、その映画を楽しんだのなら、それでいではないか、と、そんな感じがしてくる。アメリカン・ネイティブ・ピーポーの姿を求めて、西部劇を見てきたが、必ずしも、その姿を見つけることはできない。この映画もそうだった。 しかし、何本もの西部劇を見ていると、それなりに面白さが分ってくる。最初は目をそむけていた銃撃戦も、いつものパターンだな、と分れば、そんなに深刻になるほどもでもなくなってきた。それにジョン・ウェイン主演ものを重ねて見ていると、彼のかっこよさ、ダンディズムに惚れ惚れとするようになってきた。身長193センチに達する大男。その身の軽さ、勇敢でデリケート。 もっと西部劇の視聴覚資料が残っていたら、懲りずにまた見たいな、なんて思っている。それに、何本も続けてみていると、すこしづつだが、英語が聞き取れるようになってくるから不思議だ。
2007.08.20
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「11人のカウボーイ」主演: ジョン・ウェイン 監督: マーク・ライデル 143分 The Cowboys (1972) ★★★☆☆ 1972年製作作品であり、子供達が主人公の映画だ。まさにカウ”ボーイ”映画。いままで見てきた「西部劇」は、当然ながら、すべて決闘や打ち合い、殺し合い。でもこの映画は途中まで、まるで「ハリーポッター」のような雰囲気で、ポエジーのように進行する。牛達を移動させる仕事のなかで少年達が成長していく。 最後までこのまま終わってほしかった。異色西部劇、という触れ込みなのだから、まるで童話のようなファンタジーのような西部劇が、あってもいいじゃないか。なんとかこちらの気持ちが伝わっているかな、と思うのも中ごろまで。ひとりの少年が事故で死亡する。そのあたりから、不吉な予感がし始める。 大体において、殺し合いとかピストル合戦やチャンバラが嫌いな人間が、なにも無理して西部劇を見なくていいのではないか。そう言われてしまえばそれまでのことなのだが、なぜか見ている。最後の最後の意外な展開。フィクションでしょう、物語でしょう、エンターテイメンでしょう、と言われればそれまでのことなのだが、割り切れないまま、見ている。
2007.08.19
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「OK牧場の決斗」 出演: バート・ランカスター, カーク・ダグラス, ロンダ・フレミング 監督: ジョン・スタージェス 製作1956 日本公開1957★★★☆☆ いまやガッツ石松の迷言「人生はOK牧場!」ですっかり定着した感のあるOK牧場だが、直訳すれば「OKコラルの銃撃戦」となる。wikipediaによれば「コラルとは、家畜の囲いを意味し、牧場の畜舎を指すこともあるが、ここでは、貸し馬や馬を預かったりするこの時代特有の商売所だった」ようだ。1881年10月26日、アリゾナ州トゥームストーンのO.K.コラル近くの路上で起こった銃撃戦。 1881年は日本で言えば明治14年。この映画で見る限り、日米の文化の違いは当然あるとしても、旧世代の人間達を見るような懐かしい気分になる。ネイティブ・ピーポーは出てこないが、インディアン姿の人形が引き倒されるシーンがでてくる。
2007.08.19
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<上巻>より続く「グレース&グリット(下)」 愛と魂の軌跡 ケン・ウィルバー /伊東宏太郎 1999/10 春秋社 単行本 364p ★★★★☆ この本以前の、どちらかというと尊大で高踏で孤高な雰囲気を携えていたウィルバーは、トレヤとの対ガン生活の中で、原寸大のなまなましい姿を見せる。死は、誰にもやってくる。死の前で、すべての人間は平等だ。 ニューエイジ運動のおよそ20パーセントはトランスパーソナル的(超越的かつ、真の神秘主義的)だが、残りの80パーセントは前個的(魔術的かつ自己愛的)である、と。トランスパーソナル的な集団を探すには、その集団が「ニューエイジ」と呼ばれることを好まないことを目安にすればいい。トランスパーソナルに「新しい」ことなど何もない。トランスパーソナルは永遠なものなのだから。p82 なんとも「80対20の法則」さえ思い出してしまうような表記だが、そう言われてもケン・ウィルバーの動きは、この本から類推するに、日本的解釈では立派にニューエイジ的だし、新しいトランスパーソナルという概念をもたらしたという意味では、「新しい」。 読書が終わると、わたしはちょっとヨーガをして、それから瞑想もします。瞑想するのは自分の時間と注意力を<スピリット>に捧げるため、そして、うまく表現もできない何ものかにたいする、わたしの信仰を深めるためです。これは、目的志向の努力という、常にわたしにつきまとう罠から私を遠ざける助けになります。p223 トリヤの日記 飾らず、ありのまま綴られるこの本は、二人と、周囲の家族や友人達の生活がまざまざと語れている。ガンと戦うため、彼女本人はもちろんのこと、ウィルバーや周囲の人々はあらゆることを試みる。 翌朝、トレヤは死ぬための姿勢に落ち着いた。つまり、枕で体を支え、両腕をわきに置き、マーラを手に握ったのだ。前の晩に眠る前から、彼女は「オーム・マニ・ペメ・フーム」と唱えはじめ、また「神に委ねます」と唱えていた。前者は慈悲の仏、観音菩薩のマントラで、後者はトレヤのお気に入りのキリスト教の祈りだった。きっと彼女はずっと、これらを唱えていたのだろう。p337 この本はケン・ウィルバーにとっての特別な本となるのだろう。この本の以前と以後では、きっと彼の著作に大きな変化がおきているに違いない。少なくとも私は、この本を読んだあとでは、以前のような距離を置いた緊張感ではなく、もっと友情に満ちたリラックスした態度で彼の一連の本に触れることができるようになるだろうと、予測する。 トレヤが亡くなったあと、叔母が送ってきた「好きな歌」は、今まさに日本で大流行している「千の風になって」だ。上下巻にわたるこの本は、この詩で締めくくられている。わたしの墓の前で泣かないでわたしはその中にいない。わたしは眠っていない。わたしは吹き抜ける幾千もの風わたしはキラッと光る雪の反射わたしは熟した穀物に降り注ぐ陽光わたしはやさしい秋の雨朝の静寂の中で、あなたが目覚めるときわたしは沈黙した鳥たちにさっと近づき空に舞い上がらせ、円を描いて飛翔させる気流わたしは夜を照らすやさしい星わたしの墓の前で泣かないでわたしはその中にはいない・・・p354オーム・マニ・ペメ・フーム
2007.08.19
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「グレース&グリット(上)」 愛と魂の軌跡 ケン・ウィルバー /伊東宏太郎 1999/10 春秋社 単行本 399p 原書1991★★★★☆ ケン・ウィルバーは、このブログにおいていつかは読み込まなくてはならない一里塚として存在していた。過去に何冊か読んでいるし、そのイメージもすでに掴んでいる。あとは最近の彼の動向についてすこしづつ関知して行こうと思っていた。 ウィルバーについて、私がすこし敬遠気味だったのは、日本における翻訳者や出版社に対する違和感がまずあったからだ。それに、難解を極めるウィルバーの一連の著書だが、そのいわんとすることは、私が私なりにOshoや瞑想を通じて得てきたものを凌駕しているとは思ってはいなかったせいがある。 しかし、今回は、この一里塚をなんとか越えようと、思い立って、図書館に在庫してあったうちでも最近刊の部類に属する上下本を借りてみることにした。ああ、あの難解で回りくどい世界にまた突入か、とすこしは覚悟を決めたのである。 帰宅してその表紙をみた妻は、「あれ、今度は小説を読むの?」という。おいおい、ケン・ウィルバーを小説なんて言ってもらっては困る。いくら表紙がやわらかく装丁してあっても、中身はガリガリの理論家によるバリバリの理論書でっせ。ちょっとからかわれたようで腹ただしかった。 しかし、図書館の司書業務を務める彼女の眼に狂いはなかった。背表紙にある図書登録コードは「小説--英語--エッセイ」を意味していたらしい。読み始めてみて、あらためて彼女の指摘が正しかったこを確認した。そして、いままでケン・ウィルバーという人間にもっていたイメージが一変した。数行読んでから、最後のページに到るまで、ページをめくる指が止まることはなかった。 一度離婚歴のあるウィルバーは34歳の時に、36歳のトレヤと劇的な出会いをし、数ヶ月後に結婚式を挙げる。そしてその数日後、トレヤが体調の異常を訴え、やがてそれが乳がんだとわかる。それから、二人の新たなる内面的な葛藤、「旅」が始まり、その経過が、トレヤの日記とウィルバーの追記で綴られている。 この本は日本語訳は1999年だが、英語版は1991にでている。彼らの結婚生活は1983年11月から1989年にトレヤが亡くなるまで続いた。 Wikipediaによれば、最近のケン・ウィルバーついて、つぎのようにある。 著作活動以外では、インテグラル思想の研究組織であるIntegral Instituteの主催、そして、2005年には総合大学であるIntegral Universityを発足、現在同大学のPresidentとして運営の中核を担っている。トランスパーソナル心理学の代表的論客として、その発展に大きく貢献した(1990年代には、トランスパーソナル思想を構成要素として統合するインテグラル思想を提唱して、トランスパーソナルとの「訣別」を表明している)。 インテグラル思想とはなにか、という新たな疑問も湧いてくるが、過去にトランスパーソナル潮流の若き旗手と目されたウィルバーがすでにトランスパーソナルと決別していたとは、興味深い。「日本トランスパーソナル学会」や「日本トランスパーソナル心理学/精神医学会」の取り組みもあり、それを漠然と了と考えていた私だが、今一度、捉えなおす必要を感じた。 また、玉川信明がOshoをトランスパーソナル心理学との相関関係を論じた本なども、新たな視点で見直す必要もあるかな。トレヤの日記にはこうある。 ケンの著作が大きな衝撃を与えているのは、単にアメリカ国内だけのことではなかった。サム(引用者注・シャンバラ出版社長)の言うには、ケンは日本で熱狂的に読まれているけれど、「ニューエイジ」派とみなされているらしい。そう聞いてケンはひどく憤慨した。ドイツでは正統派の著作として扱われ、アカデミズムの世界で大きな流行になっているそうだ。p393 「意識のスペクトル」1977が日本において翻訳されたのが1985年。この直後、日本でもウィルバーは評判となるが、その直後、彼らは、この本に書き出されているような状況に囲まれたのだった。<下巻>につづく
2007.08.19
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「NHK問題」 武田徹 2006/12 筑摩書房 新書 251p ★★★☆☆ 多様な複線に脱線しながらも、「サイバージャーナリズム論」や、このブログでいうところでのジャーナリスト・カテゴリにかかわりを持つか、と思われる一冊。 NHKの特徴を一言でいえばその「公共放送」性ということになる。著者は、この公共性を、offical、common、openという三つの位相で考えている。以下は著者の言説ではないが、この切り口を借りて、自分のイメージをメモしておく。 officialという意味では、たとえば、区役所や都道府県から配られている「行政だより」のような定期刊行物は、officialなメディアということになる。民放や新聞には、NHKほどのofficial性はない。選挙公報や地震速報など、NHKが負っているofficial的公共性は小さくはない。 commonという意味では、たとえば、かつて方言と言われた地方語を駆逐してしまったのはNHKテレビであったとさえ思えるところがある。共通語というよりNHK言語が、次第に日本のcommonな会話用言語として定着してしまったことに、NHKは功罪、ともにあるはずだ。しかし、commonという尺度で考えると、NHKは、他の雑誌メディアや映像メディアも含めて考えてみた場合、ややofficialに偏りをみせているのは事実だ。 openという意味では、NHKは、インターネットには大きく引き離されている。新聞や民放だって、openという概念から考えれば、インターネットに追いつける日はないだろう。しかし、この新生メディアのopen性はまだまだか弱いものであり、そしてまたopenであるがゆえに、どこまでもoffical性やcommon性においては達しがたい領域が残る。 であるから、NHKにはNHKとして果たさなくてはならない責務がある。このブログでは成り行き上、公共図書館を利用して資料を調達しているのだが、視聴覚資料などは、圧倒的にNHKの企画制作になるものが多い。今後は、どのNHKのシリーズものに手をつけようか、と考えているところでもある。 最近読んだリサ・ランドールの「リサ・ランドール 異次元は存在する」 は、日本放送出版協会から発行されている。これがもし、VOICE社とか徳間書店あたりからでるとすると、この本の価値はまた違ったものになるだろう。 思えばアルビン・トフラーの「第三の波」も日本放送出版協会から出版されたのだった。たまたま体調を崩して入院中みていた「趣味の園芸」テキスト(これもNHKの発行だが)の巻末の広告を見て、飛びついた自分がいた。 たとえば、最近面白いなと思って読んでいるレイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン誕生」もNHKからでている。「レイ・カーツワイル加速するテクノロジー」も現在リクエスト中で、リサ・ランドールの本とシリーズになっているところがまた興味深い。これらの一連の著作群が、NHK関連で出版されているのだが、逆に、NHKのメディアミックスに私はまんまと引っかかっているかな、と反省もする。 NHKには他のブランドのもっていないcommon性があり、そこからさらにofficial性へ一気に持っていってしまう力技さえありそうな感じがある。 インターネットやブログにジャーナリズム性がある、といわれることもあるが、プロのジャーナリスト達が、その物量と技量を駆使して作り出す情報と戦うこと自体、無謀というか、意味の取り違えが発生していると思う。NHKには視聴料を払っているのだから、視聴者には、キチンとした情報の提供がされてしかるべきだ。インターネットやブログ・ジャーナリズムは、NHKが持ちようがないopen性、その特性を生かしたメディアの使い方を考えていく必要があるのだろうと思う。
2007.08.18
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「『いい人』でも人生に失敗しない方法」和田秀樹 2007/06 PHP研究所 単行本 190p ★☆☆☆☆ この著者の本を何冊か手にとったことがある。でも印象が薄いので、チェックしてみたら、過去にどうやらまともに読んだことがないようだ。借りてはくるものの、結局は読まずに返してしまたものが、何冊にもなってしまったらしい。だから、今回は、とりあえずは、メモだけしておく。 この人の本も、その著者プロフィールで書かれている人物像と、書かれている本の内容があまりにかけ離れていて、そのギャップを埋めようとさえしない自分がいる。ものごとをやさしく表現することも技術が必要となるのかもしれない。このような本は、このような本を必要とする人のところに渡っていけばいいのだ。不要と思うなら、とやかくいちいちクレームをつけることもあるまい。 一応、新刊本コーナーにあったので、旬であるべき一冊なのだろうと判断することにした。
2007.08.18
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「火星からのメッセージ」 ジム・ベル /寺門和夫 2007/05 ランダムハウス講談社 単行本 203p 原書 POSTCARDS FROM MARS 2006★★★☆☆ スピリットとオポチュニティ、双子の火星探査機が、火星から送ってきた映像を厳選してできた写真集。火星は、外惑星だから、地球より太陽から離れている。だから太陽も地球でみるより2/3の大きさになる。「グセフ・クレーターに沈む太陽」p98~p99は、もっとも人気のある写真の一つであるという。地球から見た場合、見かけの太陽と月はほぼ同じ大きさだ。その大きさが2/3になるということ自体、そこが火星であることを思い出させる。 著者のジム・ベルはカール・セイガンの学生だった人。 AI人工知能の進化によって、人間の身体とは何かが問われている。たとえば、手足を失った人が、まだそこにあたかもまだ手足があるように感じる感性は、それは身体かどうか。あるいは、視力が弱った老人が、杖によって、大地の感触を確かめるとするなら、その時の杖は、身体の拡大かどうか。 もしこの時の杖が身体の拡大と考えることができるとするなら、地球人は、みずからの「杖」を火星まで伸ばすことによって、自らの「身体」を火星まで送り込んだ、と同じような意義を持ったことになるかもしれない。 初めてみるありありとした火星の大地の写真をみながら、地球の40%ほどの地球の重力の中で、ああ、なんだか、ここでも暮らせるかもなぁ、と思う。だけど、写真の選択の結果でもあるのだろうが、なんとも淡々とした平原は、ある意味、非常に単調だ。 地球の風景では、このようなところは砂漠としか呼ばれない。緑もなければ、生命の痕跡さえない。日本の風景に比べたら、岩と砂漠と渓谷のようなネイティブ・アメリカンの大地も、火星の風景に比べたら、起伏にとんだ豊かな大地だ。 火星まで足を伸ばした、地球人の「スピリット」と「オポチュニティ」。その偉大な進歩を確かめつつ、それに比較しても、なんとこの地球の素晴らしいことよと、痛感することになる一冊だ。
2007.08.18
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「ハリーポッターと賢者の石」 <シリーズ第一作> 原作J・K・ローリング1997 2001年に映画化 152分 さすがに人気の大傑作シリーズの第一作。これを見ずして21世紀のファンタジーは語れない。ここから続く延々と長いストーリーも、これを見ておかないと、意味不明とある部分もある。しかし、原作との違いはどうなのだろう、とちょっと気になる。 今後私は原作の小説を読むということはないだろうから、その違いを自分で確かめることはできないのだが、映画は映画として、独立した作品として味わえばいいのだろう。 錬金術的シンボリズムの現代的復活と見れば、非常に興味深い映画だが、正直いうと、すこしストーリーが込み入りすぎている。こんなに重層的なエンターテイメントを人々は要求しているのだろうか。あるいは、この映画の多数を占めるだろう子供達も、ここまで丁寧に作ってくれなくちゃ、楽しめないのだろうか。 最近、ネイティブな人々の姿を求めて、20世紀中盤の西部劇映画をちょこちょこみてみるのだが、そのストーリー展開や思想的背景はともかくとして、ストーリーは非常に分りやすい。このくらいシンプルなほうが、より一人一人の心理的展開を追いやすい。これって、こちらがかなり老朽化しているよ、ってことなのだろうか。 瞑想などを通じて、無意識的闇に入っていくと、そこに展開されているのは、幾層に重なった迷宮の世界だ。あえて、映画などでさらに作られた迷宮を、なぜに必要とするのだろうか、などと、ちょっとは毒づいてみる。 チャンスがあれば、遅ればせながら、全シリーズをみてみたい。<第2作>つづく
2007.08.18
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「JFK 」監督: オリバー・ストーン ワーナー・ホーム・ビデオ 制作年度:1991 206分 制作国:アメリカ★★★★☆ 時は東京オリンピック前夜。国際衛星放送が最初にアメリカからの映像として伝えたのが、JFK暗殺のニュースだった。今から43年前。朝飯を食べながら、アメリカからの映像が繰り返し流されるのを見ていた。9歳、小学4年。その後、家族が定期購読していた「リーダース・ダイジェスト」誌や他の総合誌などで、繰り返し言及される陰謀説に、ものごとを相対的にみる癖がついた。 考えてみれば、あの事件のあとベトナム戦争は過激化し、世界の歴史にさらに暗い影を落とした。はるかに時代を経て、21世紀になって、9.11などの事件を見るにつけ、その裏にうごめく陰謀の全貌を知ることはあたわないまでも、常にそのような可能性が存在する可能性がある、ということに気づいていなくてはならない、と思う。 振り返れば、トラトラトラ、真珠湾攻撃だって、どのようにフレームアップされて歴史として記録されているのか、わかったものではない。その事件に関わった良識のある人々は立場立場でその真実を記録しようとしている。その最たるものはジャーナリスト達だろう。しかし、私のような一般ユーザーまで「真実」が伝わってくるまで、どのように加工されてしまうのか、そのことに十分注意深くなくてはならない。 いかにネットが進化したとしても、ものごとの「真実」がそうそう簡単に手にはいるとは思われない。ごくごく一部の優れたジャーナリストたちのブログがその役目を果たす場合もありえるだろうが、一般のブロガーがつくるブログがプロのジャーナリスト達がつくる情報を超えることは至難の業だ。しかし、情報の送り手ではなくても、ジャーナリスト的な感性と知性で、ひとつひとつの情報をデリケートな批判的精神で受け止めることが必要だ。 JFK事件が暗示しているものは多い。すくなくとも、あらゆる局面で、ひとびとの「無意識」を悪用しようという陰謀は、どこまでも続く。その対抗策はただ一つ。覚めていること。注意深く、柔らかい感性で、目を見張り続けること。そのこと自体がまた、来るべき地球人たちの本質に関わる重要な要素である。
2007.08.18
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「真昼の決闘」【監督】フレッド・ジンネマン【出演】ゲーリー・クーパー/グレイス・ケリー 本編約84分1952 アメリカ★★☆☆☆ 思い立って、古い西部劇を少しづづ見ている。この映画にはネイティブ・ピーポーはでてこない。西部劇の小さな町は、「社会」という時の最小単位を現しているようだ。この映画は典型的な決闘劇。 最終的な決闘劇までもっていくまで、しだいしだいに舞台を整えて、最後の最後で一瞬の差で主人公が勝つというストーリーは「大いなる決闘」と同じだ。 製作されたのは1952年。「シェーン」や「宇宙戦争」と同じ年代。 この年代のアメリカが、自分達の社会のヒーローとして、どのような人物をイメージしていたのか分る。
2007.08.17
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「サステナブル・コミュニティ・ネットワーク」 共感と共鳴を呼ぶ 情報社会の地域マネジメント戦略 大江比呂子 2007/04 日本地域社会研究所 単行本 300p ★★★☆☆ この本のタイトルを聴きなれた日本語に訳せば、「持続可能な地域社会の繋がり」、とでもいうべきものであろう。著者は、推測するのは失礼だが、40代中盤の女性の官僚(あるいは元・官僚)だ。勤務先は(旧)郵政省。この本、別に英語で書かれた本でもないのに、なぜに、こんなカタカナのタイトルになってしまったのだろう。いや、タイトルばかりではない。本文の中にでも、懲りずにどこまでもカタカナ書きを通している。 彼女はインターネットについては前向きな姿勢をみせているので、ネット用語としてのカタカナ書きはやむを得ないところがある。しかし、一般的な日本社会に対する分析などは、もっともっと日本語で間に合わせてもらわないと、わけがわからないことになってしまう。 この本、最後の最後になってだが、「郵便局新生--地域間交流のハブ、カタリストとして潜在性」p234、あるいは、「郵便局の新マーケティング戦略を通じた地域秩序の形成・保全への貢献」、「社会的”マーケティング”と郵政事業」などというタイトルがでてくる。早い話が、地域社会における郵便局のあり方、について論じるというアウトラインが暗黙のうちにひかれており、それを欧米の研究などで肉付け権威づけしながら、論文形式にまとめられている、という一冊なのだ。 そういう論点から、日本社会のこれまでを論じるとするなら、もっと分りやすくなり、その中で郵便局が果たしてきた役割というものの重要性も際立ってくるはずだ。郵政民営化で、日本社会は変わりつつある。小泉の「改革」の真価は、もうすこし時代が経過しなければ、正しい評価をすることはできないだろう。 日本の社会は明治以降、神社や寺院を一方の核とし、交通至便な位置に行政の末端を置き、あるいは商店街が発生して、圧倒的に多数である農家を包括する形で発展してきた。持続可能な地域社会の繋がり、という意味ではまさに、理想的に機能してきたと言える。 しかし、1960年代以降の高度成長政策、そして90年代以降のデフレ経済の中で、さまざまな逆転現象がおきてきた。まず、農業が壊滅状況となった。日本から専業農家というものがなくなった。あるいはさらに進んで、いまや農業が「企業」化しつつある。地域の商店が家業であった時代から、中央の巨大資本のスーパーセンターが突然農村の郊外にできる。シャッター商店街として、地域商業はその命脈を絶たれてしまった。それと同じ道筋をいま農家がたどろうとしている。 そのような農家や農村が形づくってきた基礎が崩れてしまったのだから、いままでの「持続可能な地域社会」は変わらざるを得ない。郵便局もまた変化しつつある。かつて郵便事業は、地域の篤信家が委託される形で、そのネットワークを張り巡らせてきた。ボランティア的精神も要求されただろうが、また法的にも保護されてきた面が多かった。 その農家や郵便局のネットワークが変化し、あるいは崩壊した後に、何をもって「持続可能な地域社会の繋がり」を作ったらいいのだろう。かつて家族主義といわれた日本企業の就業形態は終身雇用スタイルがほとんどだった。しかし、現在は派遣社員制度がなければ企業は存在できなくなり、社員達は企業への帰属意識を失い、したがって、企業の中にも、「家族的」あるいは「地域社会的」な繋がりはなくなりつつある。 コンビニエンスストアが地域の核となるかに宣伝されている。酒たばこ、米や一般的な日用品が揃っており、郵便や銀行機能も備えつつある。しかし、企業の論理は、どこまでも冷徹だ。利益率が下がれば、数週間で撤退を決定する。かつての個人商店をシャッター商店街に追いやったコンビニやスーパーが、あらたなシャッター店舗として老朽化していく。 ここにITを駆使したネットワークが進出する可能性も当然あるが、まだまだ可能性が語られるだけで、本当のことは、これからの事態の推移を見てみないと分らない。町内会や自治会、PTAや同窓会、消防団や婦人防火クラブなどの、ゆるい地域のネットワーク的つながりも、かつてのような「持続可能」な形は保てなくなっている。 この事態を、悲観的に捉えて、反動的で保守的な先祖返りを望むことは、このブログの趣旨ではない。明確にいうなら、基本的には、一人一人の人間が「個」として存在しうる力強さをもつこと。制度的に、教育的に、経済的に、「個」まで解体された社会的存在としての人間が、あらたに繋がりなおす、という作業を経ないことには、持続可能な地域社会の繋がりは、見えてこないだろう。 「共感と共鳴を呼ぶ」、「情報社会の地域マネジメント戦略」、「サステナブル・コミュニティ・ネットワーク」。こざっぱりした机上の論議だけでは、動かない。本腰を入れて、自分自身の原寸大の生活を組み込んでいかなければ、単なる空想論議で終わってしまう。この話題について、私は決して楽観はしていない。むしろ悲観的でさえある。しかし、絶望はしていない。これからも機会をとらえて一人分の試みは続けていくつもりだ。
2007.08.17
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「ブロンド美女の作り方」 空想を実現する最先端テクノロジースー・ネルソン /リチャード・ホリンガム 2007/04 バジリコ 単行本 299p ★★★★☆ この本のタイトルのイメージは、セカンドライフ内での分身・アバターをつくろうという感じの乗りだ。「ガールズ・セカンドライフ 可愛くなくちゃ始まらない!」や「セカンドライフで作るリンデンスクリプト入門 」に連なる一冊か、と勘違いしそう。でも本当は、科学ジャーナリスト二人による、最先端科学を取材したもの。遺伝子工学やDNA、サイボーグやタイムマシンの作り方などについて言及しているが、ユーモアに満ちた文面は、決して「人体改造の世紀」のような悲観的姿勢はない。取材した情報は、専門家にチェックしてもらいより正確を期し、あとの判断は読者にまかせようという姿勢は楽でいい。 人口頭脳AIをロボットに組み込むことは夢ではあるが、AIもロボットもまだ完成したものはない。それぞれに超えなくてはならないハードルはまだまだある。その過程で、AIと3Dヴァーチャル空間が連動したら面白いかもな、と思う。ロボットもセカンドライフのアバターも人間が操作してあげないと動けない。もし、これがもうちょっと進んで、一人で動き出したら、と想像を掻き立てられる。 私は誰? これまであえて避けてきたが、そろそろ根本的な問題に取り組むとしよう。それは、意識とはいったい何かということだ。私たちを人間らしい存在にしているのものは、いったい何なのか。脳は1400グラムほどの湿った灰色のかたまりで、なかにはニューロンと呼ばれる神経細胞が1000億個も詰まっている。そんな入り組んだニューロンの回路のどこかで、思考や記憶、個性が生まれている。人間は、何らかの方法で意識---自分が何を、どのように、なぜしているかという自覚---を発達させてきた。我思う、ゆえに我あり、だ。 アメリカの哲学者ディヴィッド・チャーマーズは、「意識とは何か」という問いは「難しい問題」だと述べた。だがこれはずいぶん控えめな表現で、実際には深遠なる謎であり、科学者はこの疑問が「正しい」かどうかさえわかっていない。問題に取り組もうにも、何から手をつければいいのか、科学のどの分野で究明すべきかもわからない。私たちの心には何かが存在していて、そのおかげで主観的に考えたり、周囲の出来事を認識したりすることができる。では、それはいったい何なのか。 反対に、意識がない状態を考えたほうがわかりやすいかもしれない。どうして私たちは、ロボットやゾンビのように動き回るだけの存在ではないのか。自分がなぜ存在し、何が起きているかを問う能力を、どのように進化させてきたのか。この能力は人間にかぎられたものなのか、それとも程度に差はあれ、動物もみな意識的な思考をもっているのか。動物にないなら、イヌやネコは心をもたない生きた機械ということか。p276 さぁ、この問題はどこまでもつきまとう。私たちに残されている数少ない手がかりは「瞑想」だ。 意識の正体を突き止めることができたら、科学の本なんか書かずに、ノーベル賞の賞金と名声で一生暮らしていけるだろう。注目したいのは、意識の研究と人口頭脳の研究は重なる部分が多いということだ。実際、両方の分野にまたがって研究している科学者も多い。人口知能の研究者が意識をもつ機械を作りだせれば、意識とは何かという疑問も解決されるだろう。永遠の生命を手に入れるためには、何としても意識を理解しなければならない。意識の保存法を知る必要があるからだ。p278 このブログのトリニティは、科学--芸術--意識、だ。まだまだ手探りではあるし、決して勝算があるわけではないが、全く手がかりがないわけではない。敏感にアンテナをたてておく必要を感じる。
2007.08.17
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「イージー・ライダー」 ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン ほか 監督:デニス・ホッパーEasy Rider|1969年|アメリカ|95分★★★★★ 「風の民ナバホ・インディアンの世界」猪熊博行を読んでいて、久しぶりにこの映画を思い出した。見るのは37年ぶり。高校生だった。この映画は、ハーレー・ダビッドソンには乗ってはいるが、馬をチョッパーに変えたさすらいのガンマン主人公の西部劇のようなものだ。 コカイン、大麻、LSD、よくまぁ、これだけ、いろいろと登場させていたものだ。謝肉祭の部分は、撮影の日程上、一番最初に撮られたということだが、いわゆるサイケデリックな感じがでていて効果的というべきか。 アメリカの大地がいっぱいでてくる。このころ、自分は、サイクリングで佐渡まで行ったし、Z-プは、自転車をチョッパー型に改造して、となりの県からやってきた。この映画にでてくる長髪だなんて、かわいいものだ。あれで殺されちゃうんだものな。サウンドトラックもいい。ワイルドで行こう! なんの解釈もできない。あの当時のワイルドなハートがかきむしられるような、激情がわきあがってくる。
2007.08.17
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「江原啓之への質問状」 スピリチュアルな法則で人は救われるのか江原啓之 /丸山あかね 2005/12 徳間書店 単行本 341p ★★★☆☆ いわゆる一般的な江原に対する質問を、丸山あかねが代弁する形で、全部ぶつけてみる、という企画。どうやら丸山のほうから持ちかけた企画だが、辛抱強く答え続ける本書は、江原のよい宣伝本になっている。先日から江原の「類魂」という言葉が気になっていたが、ちょうどそれについての記述があった。 私達はは決して一人ではない。誰もが霊界というたましいのふるさとに強い絆で結ばれた、たましいの家族=類魂(グループ・ソウル)を持っている。これが「類魂の法則」です。 コップの中の水を類魂(グループ・ソウル)にたとえるならば、私達のたましは、一滴の水、現世でのさまざまな経験を通じて修行すを終えた私達のたましいは、霊界へ帰るとコップの中に戻り、類魂(グループ・ソウル)と交じり合います。こうしてそれぞれが学んだことは、類魂(グループ・ソウル)全体の叡智となっていくのです。現世で迷いや苦悩が生じた時には、自分のたましと向き合い、真剣に考えることが大切。なぜなら、その前向きな想念が鳴ければ、類魂(グループ・ソウル)とのプラグを繋ぐことができないからです。 広い意味で捉えれば、すべてのたましいが類魂(グループ・ソウル)。私達はみな、神の子どもなのです。p20 スピリチュアル・カウンセラーという肩書きについても応えている。 僕は霊能者になりたいと思ったことは一度もないんですよ。僕にとって霊能力というのは、人生哲学を学ぶための道具だったわけですから。つまり、僕が大事にしているのは、霊能力そのものではなく、霊能力を使って得た人生の指針なんですね。だから「スピリチュアル・カウンセラー」という肩書きは、拝み屋的存在としての心霊相談と同一視されたくないという気持ちの表れでもあるんです。p250 この肩書きは日本では一番最初に自分が使ったが、もともとはロンドンで出会った霊能者が使っていて、イメージがいいなと思ったという。 この本についてもう少し長めにメモしたが、またまた例によってミス・タッチ・キーにより、全文削除されてしまった。気力がうせたので、上記をメモするにとどめる。著者については、いずれまた再考するチャンスもあるだろう。
2007.08.17
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「デジタルの仕事がしたい」 杉山知之 2005/08 岩波書店 新書 181p ★★★☆☆ 著者には「デジタル書斎の知的活用術」2003/01や「クール・ジャパン世界が買いたがる日本」2006/02がある。この本は、05/08発行だから、もうすでに旬な時は過ぎている。すくなくとも現在のセカンドライフに入れ込んでいるデリハリの姿勢は見えていない。ここでは「デジタルな仕事」をしているクリエーターたちが11名、自分の文章で自己紹介している。 今後、若い人たちが、この業界に進みたいのなら参考にもなるかもしれない。ただすこし自己宣伝くさい本なので、別の類書と合わせて読んでみる必要があるだろう。幅を絞るのか、幅が狭まるのか、では、ちょっとニュアンスが違う。 スキージャンプ・ペア実行委員会会長の間島理一郎などの自己プロデュースのところなどは参考になった。テレビで映像を見て笑っている限りにおいては、軽いのりで通り過ぎてしまうけれど、この作品がトータルにブレークするには、作者のクリエーターとしての魂が炸裂していることを知った。そう簡単にあそこまでは行っていない、ということだ。 女性のクリエーターである矢野貴久子などのストーリーもなるほどと思う。大会社で自分の仕事をさせてもらえず、関連会社に出向して初めて納得のいく仕事ができた、という話しなどは、実際にその仕事をしてきた人でなければ、話せない内容だ。 このブログでは、ジャーナリスト、カウンセラーと並べて、プログラマーという職業を現代の象徴的生き方として眺めてみているのだが、かならずしもアルゴリズムと戦うプログラマーだけではなく、映像やプロモーション、編集やアートな仕事を含めて、これらのクリエイティブなデジタルな仕事にも今後も注目してみていきたい。 インターネットにおける3Dバーチャル空間セカンドライフは、新しい潮流、しかも巨大な潮流になるのかならないか、という論議も起こっている。いずれにせよ、このような創造的な仕事をしようとしている人々がおり、それを支えるニーズがあるのなら、今後もこの流れには必ず将来があると感じる。
2007.08.17
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2007.08.17
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