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大聖人様御在世当時の御信徒である南条時光殿(法号大行尊霊)のお話をしようと思いましたので、『上野殿と水の信心』のお話を致します。上野殿はわずか19歳の時、特に大聖人様から、「(法華経を信ずる人には火の信心と水の信心があり、その中でも)火のように熱く信ずる人は仏法を聞いた時は燃えるように思うのだが、時が経つと信心を捨てる心が芽生えてくるのである。(それに対して)水のように信ずると言うのはいつも怠ける心を持たずに信ずることである。あなたはいつも常に日蓮をたずねてこられるので、水の流れのように信心しておられるのであろう(取意)」(上野殿御返事・1206)と賞賛された「水の信心」ということを学びたいと思います。上野殿は鎌倉時代の正元元年(1259)に、北条家の重臣で富士郡上野郷の地頭・南条兵衛七郎の次男として生まれ、名を南条時光と言います。「上野殿」という名称は上野の地頭職からつけられたものです。時光が生まれて間もなく、両親は大聖人様の教化を受けて入信し、強盛な信徒となっていきました。時光には兄1人、姉3人、弟2人、妹2人がいて、長姉・蓮阿尼(れんあに)は伊豆の新田(にいだ)家に嫁いで第3祖日目上人の母となった方です。時光はこのような恵まれた環境の中ですくすくと成長していきましたが、7歳の時父が亡くなり、その弔問のため南条家を訪れた大聖人様と初めてお会いしました。きっと大聖人様の尊いお姿に深い感動を覚えたものと思われます。さらに9年後、時光は大聖人様が鎌倉から身延に入山されたことを知り、御供養の品々を持って大聖人様にお目通りしました。この時、困窮(こんきゅう)されている大聖人様のお姿を見た時光は、今後ずっと大聖人様を外護していくことを誓ったのです。その日からわずか1ヶ月足らずの後、今度は時光の長兄が亡くなり、南条家一族の全てを16歳の時光が背負うことになりました。冒頭の御文はその数年後に賜わったものですが、大聖人様は若くして地頭となった時光が、信心ゆえの迫害を受けるであろうことを心配してお手紙を認められ、「自分が大事に思っている主君などが信心をやめさせようとしたり、大難が襲ってきたときにこそ(諸天善神の)守護の力が顕れるのであるから、いよいよ強盛に信心すべきである―中略―くり返し言うが、他人(ひと)が信心を制止しようとしたならば、かえって嬉しく思いなさい(取意)」(上野殿御返事・825)との、厳しい御指南をされています。この2つの御文から、周囲の圧迫に屈せず外護の誠を尽くす青年地頭・時光の姿が浮かんできます。又、時光は父の追善供養を怠(おこた)ることのない孝養第一の人でした。大聖人様も同じ御書で、「(大聖人様に対する供養は)亡き父のために釈迦仏・法華経へ御供養申し上げたものであろうか。孝養の御心であろう(取意)」(825)と、その志を賛(たた)えられています。亡き親には、お寺で追善供養することが最高の親孝行となるのです。さて、時光にとって最大の試練は弘安2年の熱原法難の時でした。大聖人様が本門戒壇の大御本尊御図顕契機ともなったこの出来事は、入信まもない農民信徒20名が捕らえられ、そのうち3名が斬首(ざんしゅ)されるという前代未聞の大法難でした。時光はこれに対し、一歩も退かず全力で法華講衆を護ったのです。そしてこの法難の直後、時光は大聖人様から「上野賢人」との称号を与えれました。しかしその反面、幕府の最高権力者に憎まれて重税を課せられた時光は、自分自身が乗る馬さえなく、妻子は着る衣類もないという状態に追い込まれましたが、この時も大聖人様の御指南通りに信心を奮い立たせ、大聖人様への御供養を絶やすことなく続けたのです。その後大病を克服した時光は、大聖人様が御入滅されてからは2祖日興上人にお仕えし、日興上人が身延を離山されるに際しては広大な自領を御寄進申し上げて、総本山大石寺開基の大檀那となりました。そして、大聖人様に対したのと同じく、日興上人への外護の御奉公は、実に51年に及んだのです。このようにして一生を通じて清純な水の如き信心を貫いた時光は、元弘2年(正慶元年・1332)5月1日、74歳の生涯を閉じました。尚、時光の自邸は現在の妙蓮寺として日蓮正宗寺院になっています。時光は弘安3年正月3日に大聖人様から、「人は善根を為せば必ず栄えるのである。その上元日から二日、三日と志を重ねれば(供養された)むし餅が満月に似ているように、功徳が満つるであろう(取意)」(上野殿御返事・1446)とのお手紙を賜わっていますが、私たちも1年を、上野殿の姿に習ってささいなことに一喜一憂することなく、水が流れるような不退の信行で功徳善根を積んでまいりましょう。
2009.04.30
妙教第198号の「よい子の仏教」より御住職様がみえて、お経が始まりました。お経が終わり、後ろを向かれた御住職様に、「こんにちは、今日はご苦労さま」と声かけられると、集まってきていた子供たちは元気よく、 「こんにちは」とご挨拶しました。御住職様は、「うん、元気でよろしい」と、嬉しそうに微笑まれて、 「ところで、みんな勉強は好きかな」と尋ねられました。でも、こんどはみんなシーンとしています。御住職様は苦笑されながら、 「とたんに静かになっちゃったな。じゃ今日は学ぶということが楽しいことなんだと知ってもらおうね」とおっしゃって、本題に入られました。「学ぶということはね、自分の可能性を広げていくことなんだよ。できないこと、わからないことを、できるように、わかるようにしていくのだから、わかるようにしていくのだから、最初はとっても辛かったりするけどね。でも、それを乗り越えると、楽しくなってくるんだ。そうだなぁ、何に例えたら、わかりやすいかな」と御住職様は少し考えられて、「そうだみんなはゲームは好きだろう」と尋ねられました。来ていた子供たちはすぐに、 「大好き」「今日もDS持ってきちゃった」「私はPSP」と、一辺に元気になりました。御住職様は苦笑されながら、 「ゲームになると、とたんに元気になったね。そう、そんなに好きなのか。そのゲームのキャラクターは、一生懸命学んでいるだろう」とおっしゃると、子供たちはみんなはっとしたようです。 「スキルやレベルが上がると、できることが増えてくる。強いモンスターを倒せるようになる。このレベルやスキルを上げるときに、修行や学ぶという行為をキャラクターはしているんだよ」と説明されました。そして、 「私たちもね、毎日怠け心というモンスターと闘って、勤行をし、勉強していくんだよ。そうすると、できなかったことができるようになる。自分の中の可能性が開けて、世界が広がっていくということがおこるんだ。ゲームのキャラクターだってそうだろう、強くならないと活けない場所があるよね。それと同じようなものなんだ。いろいろなことができるようになると、勉強も、勤行も楽しくなってくる。勤行以外にお題目の時間が取れるようになったり、信心の話しが人にできるようになったりするんだね。外国語を学んで話せるようになると、日本人以外の人が折伏ができたりね、そうなれたら、楽しいと思わないかな?」と話されたとき、ひとりの男の子が、「うわー、かっこいい」と、声を上げました。その言い方がおかしいかったので、みんな大笑いです。それで調子に乗ってその子は、 「ねえ、御住職様、白騎士(しろきし・キャラクターの名前)みたいに、変身できるようになれるの?」と尋ねました。御住職様は、 「そうだな、姿形は変わるようなことはないけど、仏様から智恵と力をいただけるようにはなるよ。それに諸天の加護も感じられるようになる。どんな困ったことでも、必ず解決していくんだよ」と答えられました。そして、 「私たいは、一生かけて、修行と教学を極めていくんだね、自分だけでなく、人にも勧めなさいと大聖人様は教えられているんだよ。お父さん、お母さんたちも、分かったかな。子供に勉強させたかったら、自分が学んでいる姿を子供に見せていこうね」 と、お話をまとめられました。 (妙教第198号より)私の子供の頃、テレビゲームは、スーパーマリオです。同じです。経験していく事により、ボスたるクッパを倒す事が出来るのです。 学ぶ、経験し、レベルを上げる。 日々の修行を怠ってはならないと思います。
2009.04.29
今朝、夜勤明けにて休憩時間にちょっとテレビを見てました。TBSの「がっちりマンデー」という番組を見てました。日曜公休日で必ず見てました。 毎回、いろんな社長や経済評論家等の話を聞けて、楽しい番組です。 今朝は「カシオ」でした。樫尾四兄弟により、設立された。会社だそうです。 経営、営業、技術を兄弟が振り分けて会社を大きくしたそうです。 カシオって言ったら、私はキーボードと、GShockです。後、デシタルカメラですね。 小型化をする技術、基礎がしっかりしていないと無理な事です。 また、経営も営業も基礎だと私は思います。単純でありますが、重要な事です。それがきちんとしないと、良い商品も作れませんし、信頼もありません。 これは、仏法にも私は言えると思います。 基本的な信仰をきちんとし、日々の修行をきちんとしないと、功徳はありません。 単純でありシンプルでありますが、基礎は重要です。家も外見はよくとも、基礎がしっかりしてないなら、意味ありません。 改めて、基礎をしっかりと思いました。
2009.04.26
1、魔の通力利根と通力【日淳上人全集】■宗教の利益はその根本に尊崇し奉る本尊の正邪により且つその説かれる教法の正邪によつて分かるるのである。本尊と教法が正法である時利益は期せずして現ずるは理の当然であつてその利益は又正しいのである。若し教法が不純であり邪法であるならば仮令利益をいふもそは必ず不純であり邪道の利である。故に宗教に入るには唯その利益を見て決するは冒険この上なしといはなければならぬ。故に宗教選択の道は利益を先とせず法の邪正をもつてなさねばならない。 日蓮大聖人は■「但し法門の邪正をもつてただすべし、利根と通力とにはよるべからず」と仰せられてあるが此れが宗教選択の要道である。利根とは人間の智慧才覚に任せていふその言葉によるを指し、通力とは不思議なる力のみを以て神仏を計ることである。此等は共に斥けなければならないのである。【日顕上人】■たしかにこの、いろんなおかしな利益・功徳というものを、新興宗教やいろいろな所で言っております。これは魔の通力ということもありまするし、いろいろな小さな功徳というものは、たしかにそういうものにおいてある場合があります。しかしそれは、根本の成仏という功徳ではないし、逆にその成仏の大益から見るならば、それをさえぎり、妨げるところの魔の通力であり利益となってしまうのでございます。成仏の根本は、仏法の正しい法というものにある。【文証】■実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。(唱法華題目抄 233)【解釈】実教=再往・元意の辺では戒壇の大御本尊である。つまり、ニセ本尊を拝んで戒壇の大御本尊へ身口意三業相具して参詣し信敬しない者は、魔にたぼらかされて通力を現ずる。つまりは利益らしき現象がでることもある。ということである。この利益らしきものはまさに魔の所為(しょい)であって、例えて言えば、パチンコで景品が出る時のようなものである。そのときの快感が忘れられずに更にのめりこんで行くと、最後は人生を駄目にする。また、麻薬に溺れる者のようなものである。麻薬を打ったときの快感に酔いしれていくと最後は心身ともに滅びる。 創価学会員や顕正会員などに感じる利益らしきものはこのようなものである。こんな一時の小事に目を眩まされてニセ本尊を拝んでいたら後々は無間地獄は疑いない。 私は、顕正会に入る前、某厄除けで有名な所で、おはらいをしてました。 厄除けで、仕事は順調!恋人は出来ると、スッゴい功徳のように見えますね! 本当に麻薬を溺れる姿ですね。 私の場合、二年間だけこの魔の通力に酔いしれてました。厄除けすれば、厄は無くなり、順調な人生になると!そう思ってました。 だが、仕事は段々上手くいかず、失恋(自分から別れを言ったが)、お金は無くなる。そして不眠症になりました。精神科に軽いうつ病だと言われました。 これが、魔であります。魔は、喜ばせて落とす。まさに、喜ばせてどん底まで落としました。 そして、顕正会に勧誘されて、正しいと言われてやってみたが、チョロとした魔の通力でした。 顕正会の間違えに気付き、私は日蓮正宗に帰依しました。 不眠症は、無くなりました。本当にありがたいです。 薬で治らなかった不眠症が、今はぐっすり眠れるようになりました。 一番の功徳は、毎日元気でいられる事です。 実は、今年は二回風邪を拗らせましたが、二日で関知しました。毎日元気で、仕事に信仰にと忙しくやる事が、沢山ある中で、頑張っていられる事が、本当にありがたいと感じております。 確かに、法華経の信心は大難がありますが、それを乗り越えていける。 まだまだ、信心はしっかりしておりませんが、頑張っていきたいと思います。
2009.04.24
先日、会社のOBの方から要らないプリンターを貰いました。 ちょうど、プリンターが欲しく、ボーナスでって思っていたから、よかったです。 顕正会にいたときも、会社の上司から、プリンターを貰いましたが… 形古く、使えね~(怒) でした。エア功徳に喜んでましたが、顕正会の功徳にオチがありました(笑) 今回のプリンター、黄色のインク切れてるだけだからと言われてたので、インターネットからの資料を印刷を大量にしてたから、黄色だけでなく、黒まで切れました。(笑) 印刷やり過ぎでした~(笑) 日蓮正宗の機関紙のバックナンバーや破折資料を印刷してたら、紙は切れるわ、インク切れるわで(笑) 今月は、いろいろ出費がかさみました~ 急遽カートリッジで(笑) 昔のプリンターと違い、早いですね~(゜▽゜) 相変わらず、印刷してるとプリンター揺れるのは、昔と同じですね~(笑) 資料が大量なので、まとめるのが、ちょっと大変でありますが、日記にもいろいろ紹介していきたいと思います。
2009.04.22
生きていくために真の功徳を成就していくところに、皆様方が生きていく本当の値打ちがあるのです。そのことをしっかりとお考えいただきたいと思うのであります。よって、私は、冒頭において申し上げたように、この妙法を持たれるところの皆様方が本当に尊い方々どあると心から思うのであります。私は常に色々な方々から合唱の礼を受けておりますが、むしろ、私は皆様方一人ひとりの信心に対して心から合唱申し上げたいと思っておるのです。 ですから、皆様方一人ひとりが自分の信心の尊さをしっかりと自覚していただきたいと思います。この信心をさせていただいたこと、この信心を持つことは本当に尊いのであるということが解れば、今度は自分の周りにいる人々や、総本山に登山して色々な所で会う人々、末寺のなかの様々な会合等において会う人々の信心もまた、本当に尊いということが、おのずから解るはずであります。ところが、お互い信心を持っている人のなかで悪口を言い合ったり、「あの人は最近、少し出しゃばり過ぎているから足を引っ張ってやろう」などというのは、いわゆる仏法で言う”怨嫉”(おんしつ)なのです。信心の尊さということが解っていれば、そのような気持ちは絶対に起こりません。 したがって、信心の尊さを自分自身が解ることによって、他の方々の信心の尊さを本当に深く拝することができるのであり、そこにおのずから異体同心の真の和合僧の姿が現出し、先程の種々の体験発表にもありましたとおり、その方々の妙法の功徳によって、広布への前進の実証が必ず顕れてくると信じるのであります。 その意味から、本年は「平成二十一年『立正安国論』正義顕掲七百五十年」に向かって出発するところの最初の大事な年であります。ですから、皆様方お一人おひとりには、この大聖人の大仏法が本当に幸せになっていく道であることを確信していただき、そこに成仏への道、また広布への道が存することを信じていきたいと思うのであります。 (法華講連合会第四十回総会H15・3・30) 日顕御隠尊猊下の御指南であります。 妙法をもたれるところ、私は尊と思います。 信心をしてて様々な経験をいたします。 私は、その経験一人ひとつの積み重ねが、大切なんだと思います。 その経験の中で、怨嫉は生まれてしまいますが、怨嫉を無くす努力をしなければ、同じ繰り返しになってしまいます。 きちんと、努力をしていけば、私は必ず功徳があると思います。
2009.04.20
よく言う言葉ですね。 会社で新人さん達は、よく言われている事ではないでしょうか? 私は、いつも失敗だらけです(爆) さて、以前にも「責任」について書いたのですが、「責任」を持って仕事や物事をしていて、「失敗」は付き物だと私は、社会人として沢山経験をしてきました。ケアレスミス等、いくら注意しててもおきる事は、沢山あります。 そういう積み重ねが、社会人として、こつこつと成長する糧だと私は思うのであります。 それは、信仰上や布教上も私は、言えると思います。 辛い事やムカってくる事もしばしばあります。 私は頑張っているのに、他の人は何故、きちんとしないのか?とか、いろいろな事があります。人間関係もしかりです。 同じ信仰だからと、意見合う、合わないは必ず出ます。 それは、凡夫だから、人間だから、仕方ない事だと私は感じます。 よく、退転した人とか、他から見たら、学会や顕正会が事件や事故をするのは、本家本元の日蓮正宗が悪い!なんて言う人がいます。 日蓮正宗で、学会や顕正会みたいな団体が生まれたのは、事実ではありますが、だからと日蓮正宗の責任では無いと思います。 広宣流布するには、いろいろな経験が無いと無理だと思います。 日蓮正宗の歴史であのような団体が誕生してしまったのは、汚点ではありますが、これも正しい仏法を広める為の経験だと思います。 日蓮正宗内で、再び間違えた団体が現れないようにしたいと思うものであります。 私たち信徒は、きちんと指導教師の元異体同心でなければなりません。 一つ一つ、経験しながら、成長していく事、問題もみんなと協力していけば必ず解決はしていきます。 失敗したり、時にはくじけそうになりますが、やはり、そういう経験が、きちんとした布教活動に繋がり、正しい仏法を広める事になるのだと私は思います。
2009.04.19
これは支部役員と講員各位との関係においても、あてはめていくことができます。さらに日有上人の『化儀抄』第一条に、「貴賤道俗の差別なく信心の人は、妙法蓮華経なる故に何れも同等なり然れども竹に上下の節のあるがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」との御指南があります。御本尊の前には、僧侶・信徒の差別はなく、みな十界の命を持つ、妙法の信行で救われる衆生です。しかし、日蓮正宗という宗体を維持するために、あるいは寺院・法華講支部というまとまりを正常なものにしていくためには、住職と所属信徒間の礼儀は必要ですし、また信心の先輩・後輩という間でも、それなりの礼儀がなくてはなりません。すなわち日有上人は、「竹に上下の節のあるがごとく」と表現され、平等の中にも順序・次第があってこそ、秩序が維持されることを仰せられました。僧俗の関係について、日有上人はこれ以外にも様々御指南を残されていますが、僧俗それぞれの立場・役割の違いを正しく認識することが、寺檀の真の和合、信頼の絆を深める上で大切なことと思うのです。今回は、妙教平成10年3月号の中から、化儀シリーズより『寺檀和合』五回に渡り、寺壇和合について日記にコピペしました。本年は、立正安国論正義顕掲750年という大切な年です。様々な魔による難が、我々を襲います。きちんと、信心を持って乗り越えていけるようにしなければと、改めて思いました。
2009.04.17
【末寺住職と所属信徒】全国の末寺寺院を見渡せば、法華講所帯の多い所、少ない所様々です。支部結成の因縁も違い、それぞれの指導教師の指導方法も異なりますから、支部講中の雰囲気も様々です。しかし概して最初から大きな支部だったという所は無く、指導教師と講員折伏精進によって、支部は次第次第に成長していくものです。それとともに、住職と所属信徒個々の信頼関係も築かれていきます。支部講中にとって、また寺院としても、この信頼関係こそが何よりの財産です。『問注得意抄』に、「仏経と行者と檀那と三事相応して一事を就ぜん」(全178・新417)と説かれ、受持する三大秘法の教法(仏経)はもちろん、住職(行者)と(檀那)の三事が整えば、所願は必ず叶うのであると仰せです。つまりは、住職と法華講員の深い信頼関係を築いてともに妙法の題目を唱えていくことが、この意味に当たります。住職は信徒各々との信頼関係を築くため、様々な努力をしています。講員宅への家庭訪問もその一例です。盂蘭盆の頃に御経廻りという形で実施する寺院もありますが、時や形態はともあれ、住職訪問の時には、家族全員がそろって、ともに読経唱題することが望ましいあり方です。お寺に参詣した時には他の人もいて十分な話ができなくても、家庭訪問ではより詳しい話もできますから、当面の悩みや信仰上のぎもん等々、御住職に素直に伺うことができます。住職も、普段お寺で顔を合わせない家族とも会って、信心指導の上に反映させることができますし、さらに、折伏したい人がいる話が出てくるようになれば、非常に有意義な一時となります。また、世帯数の多い支部では、なかなか住職が戸別に訪問できない場合もありますが、それでも講頭や支部役員が住職の意向を受けて訪問する場合もあります。支部役員は住職と連携して、日夜支部運営のために様々な努力をして信頼関係を築いてきた人たちですから、意義において住職訪問と変わりなくうけいれて下されば幸いです。さて、こうして寺院住職と信徒各位との信頼の絆が深まれば、最初に述べた「あるべき姿」に近づいたと言えましょう。しかし今度は反対に、些細なことで住職信徒の間で意志の疎通を欠いたり、時に反目する場合もあります。信心の世界とはいえ人間同士ですから、そういう問題が起こっても不思議ではありません。しかしそのような時には、日有上人の次のような御指南を拝して、信頼回復の糸口にしたいものです。「末法今時は悪心のみにして善心無く、師弟共に三毒強盛の凡夫の、師弟相対して又余念なく妙法蓮華経を受持する処を即身成仏とも名字下種とも云われる也」(連陽房聞書)とあります。我々末法の衆生は、僧俗ともに三毒強盛の凡夫であるという前提のもとに、共に成仏を目指して信行を励ましていかなくてはなりません。住職と所属信徒とは、信心の上では師と弟子の関係にありますが、しかし立場の違いこそあれ、ともに三毒強盛の凡夫であれば、人間性云々の次元を本とするのではなく、御本尊に対する無二の信心をもって、互いに相手を理解しつつ信心を行じて行くべきです。
2009.04.16
今日において、法華講所属の意義を認めない人はもちろん、所属した寺院・支部を差し置いて、他の支部や総本山への直属を求める人がいるとすれば、この誡めに照らして考え直していただかなければなりません。【血脈法水を伝える寺院】宗祖日蓮大聖人の御法は水の流れに譬えることができます。功徳の法水は、本門戒壇の大御本尊に源を発し、時間的には七百年の時を隔てて、日興上人以下総本山の歴代上人の血脈相伝によって、当代御法主上人のところに流れてきています。そしてその時代時代において総本山より末寺へ、さらに末寺から信徒へと、空間的に功徳の法水の流れがあると考えることができます。すなわち寺院(末寺)とは、御本仏大聖人の御法が総本山より流れてきているところです。その寺院に流れきたった法水を、地域の所属信徒(法華講員)は参詣する中で汲み取り、我が身を益していくのです。『生死一大事血脈抄』に、「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(515頁)と「信心の血脈」の大切であることを御指南されていますが、正宗信徒にとって、所属寺院こそは「信心の血脈」を我が身に受けとめる道場なのです。あるいは日興上人は『遺誡置文』に、「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(1884頁)と遺されています。「極理を師伝」とは、僧侶が出家をして総本山や末寺で修行する間に体得していくのであり、教師となった僧侶は住職として末寺寺院に派遣され、師伝された御法を、所属信徒に伝えるという図式になります。さらに、日有上人の『化儀抄』には、「手続の師匠の所は三世の諸仏、高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし」(第四条)とあります。大聖人の法水が、歴代上人を通して、手続の師匠である末寺住職の所へ至る図式が明瞭です。(「手続の師匠」とは、この場合、末寺所属法華講員に対して、その寺院住職(指導教師)が「手続の師匠」となります。)このように、御本仏大聖人の御法は、末寺寺院に流れてきたっているのですから、所属信徒はその清水を自らの信心で受けとめられるよう、努力し精進することこそ仏道修行なのです。創価学会では「大聖人直結」「御書根本」という造語で、末寺や僧侶の存在意義を否定し、本宗の血脈相伝を否定せんとしていますが、教義も借り物、血脈も無い新興宗教の哀れさを、そのまま表しているに過ぎません。従来、創価学会に所属していた人は、あるいは組織の力で本宗の清水を飲ましてもらっていた場合があったかもしれません。多少怠けていても、組織の力で誰かが運んでくれれば、それは便利でした。しかし、運ぶ途中で不純物を入れられたとすればどうでしょう。知らず知らずの間に、体調を悪くするのは目に見えています。そして、今回の創価学会の大謗法の姿を考えれば、これまで学会組織に都合の良いように不純物を入れられて、それと知らずに飲まされていた人がどれほど多くいたことでしょう。このことに早く気が付いて法華講に入講できた人は幸いでしたが、まだそれと気がつかない大勢の人がいます。そういう人こそ寿量品に説かれる「毒気深入失本心故」の人々に譬えられるのです。このような反省に立ったとき、これからの法華講の信心においてどのようなことに注意を払ったら良いのでしょう。とりもなおさず、まずは自らの発心をもって、自らの手足で、大聖人の法水を求め寺院参詣できるよう、信徒各位が自覚し実践することです。信心を向上せしめるには、この求道こそ第一です。
2009.04.15
【法華講への入講】法華講は、本門戒壇の大御本尊建立の機縁となった熱原法華講衆の不退の信心を源とする、日蓮正宗正統の信徒組織です。現在ではほとんど総ての正宗寺院に法華講が結成され、寺院外護と、所属信徒個々の信行増進のため、そして折伏を進める上で、無くてはならない存在です。平成9年秋に正宗信徒の規定が変更され、日蓮正宗以外の宗教団体に所属する人は、正宗信徒としての資格を失うという措置がとられました。すなわち、他宗・他教団と二股かけた信仰は、謗法厳誡の宗旨の上から認められないという大綱に則った意味があります。しかし破門以前のまだ正宗信徒であった創価学会時代でも、会員個々において、寺院への所属意識は非常に薄かったという事実は否定できません。一例を挙げれば、御授戒や諸法要を依頼する場合でも、近隣数ヶ所の寺院を、その時々の都合によって選んでいたという状況がありました。そこには所属寺院を末代まで外護していくという観念は、およそ持ち得なかったとしても不思議ではありません。したがって、謗法教団創価学会脱会の勧めとともに、信徒個々が所属寺院を定め、法華講に入講するようにとのこの度の呼びかけは、全信徒において、日蓮正宗本来の信心に立ち返っていただくために、重要な意義を持つ措置でありました。法華講入講こそは、所属寺院の住職を指導教師と仰ぎ、師弟相対の信心を行ずるために不可欠の要件です。日蓮正宗の信心をするには、必ず法華講に所属することなく、寺院直属の信徒という立場も仮に認められられていましたが、これでは師弟相対という正宗本来の信心を行ずることはできません。寺院には所属したいが、法華講という組織には入りたくないという考えの方もおられるようですが、一人の信心で広宣流布を進めることは不可能です。また、「行を去るの信は縁に遇(あ)っては便(すなわ)ち退す」(文底秘沈抄71)と日寛上人が示されるように、仏法の信仰には、修行が伴わなければなりません。個々における自行化他の信行を励ますために、法華講という組織は不可欠なのです。また、安易に他の法華講支部に移りたいと望む人があります。遠方へ転居した場合などの支部変更はやむを得ませんが、人間関係などを理由に移籍を望む人は、たとえ移籍ができたとしても、新たな支部でやはり同じ問題・悩みを持つケースがよく見られます。悩みの原因がその人の持っている業であれば、そこから逃れることを考えるよりも、正面から向かってこそ解決の道は開かれます。そのためには悩みを他人のせいにするより、まず自分自身の反省が第一であり、それによってこそ本質的に解決していくのです。あるいは、面倒な支部所属よりも、総本山へ直接の所属をしたいと願う人がなきにしもあらずですが、これも日蓮正宗の信心として、認めることはできません。日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』に、「自分は大聖人の直弟子だから」と主張する輩があったので、大聖人は本弟子六人(六老僧)を定め、あとの弟子は六老僧それぞれの弟子(大聖人の孫弟子)とされたとこの書に示されています。さらに、その筋目を違える輩は謗法であると厳しく仰せです。
2009.04.13
「寺檀和合」とは、寺院とその所属信徒(檀越)との関係が、有るべき姿で良好に保たれることを意味します。寺院住職にとっては、日々御本尊に向かう中で、「寺運興隆」とともに「寺檀和合」が大切な御祈念の一つになっています。御信徒にとっても、所属寺院との関係が良好であれば、安心して信心をすることができます。では、寺檀関係のあるべき姿、好ましい関係とはどのようなことか、今回は本宗寺院存在の意義等に立ち返って、考えてみたいと思います。 【寺院所属の意義】本宗における寺院の成り立ちは、どのような経緯があったのでしょう。日蓮大聖人御入滅の翌弘安六年、日目上人は、御自身の血縁関係にある奥州新田家の人々への布教を志して、一路奥州方面に向かわれました。この時、新田家有縁の人々の信仰の道場として、法華堂が二ヶ所に建立されました。弘安六年の開創ですから、総本山大石寺よりも相当早い建立です。少し後に建立された二箇寺とともに、奥四ヶ寺と称され、七百年の法燈を今日まで伝えています。また日興上人の弟子日尊師は、師より勘当された十二年間に三十六ヶ寺を建立したと伝えられています。これらも当初は法華堂という小規模の形で、教化を受けた地域の信徒守られつつ、後に寺院として規模・機能等発展していきました。現在でも、日尊師開基の正宗寺院として、相当数を数えることができます。寺院はすでにあるというものが、私たちの通常の感覚です。しかし当初の生い立ちに眼をやれば、日目上人をはじめ布教した僧侶にとっては、何とか当地の人たちの信心を根付かせたいという一念はたいへん強く、また帰依した信徒にも、「自分たちの信心の道場が何とか欲しい」という、切実な思いがあったことは言うまでもありません。そして当初は専任の住職が無く、布教の僧侶が時折出向く形であったのかもしれませんが、折伏が進み所帯が増えるにつれ、地元の要望で専任の住職が総本山より派遣されていったのは、当然の成り行きです。こうして寺院は建立され、次第に規模や機能も強化されて、地域信徒の自行化他の信心のために、無くてはならない存在となります。そして時代が下がっても、法統相続・折伏弘通の動きの中で、御本尊まします寺院は、その地域の信徒の信心が結集され、数十年・数百年の時を刻んで外護されてきているのです。このように、寺院とは地元信徒にとって、世代を越えて宗教的・精神的支柱となる大事な存在であり、寺院と所属信徒との間には、改めて述べることもないほど、密接不可分の関係があります。昨今入信された方、あるいは中途から法華講に入講された方には、なかなかこのことが理解できないかもしれません。所属することで安心してしまい、以後は参詣がなかなかできない人もいます。しかし、寺院に所属したということは、その寺院の御本尊は自分たちの信心でどこまでも外護するという、自覚を持っていただくことが大切です。
2009.04.11
1、信・行・学 「行学の二道をはげみ候べし。行学た(絶)へなば仏法はあるべからず。我いたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候」(諸法実相抄・668)この御指南に明確ですが、信心は必ず行学の実践となります。行の一道だけでも駄目です。学の一道だけでも駄目です。行学が車のごとくに実践されてこそ信心なのです。しかも、自行化他にわたる行学であるべきで、勤行唱題・折伏・教学研鑽が有機的に関連し合って精進していくところに信心があり、仏道修行が進展していきます。信と行と学の三つに問題はないかと点検することは、基本中の基本です。 2、十四誹謗(じゅうしひぼう)『松野殿御返事』(1046)に御教示される最も有名な点検項目です。「此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし、恐るべし恐るべし」(同)と仰せのように、この十四項目は常に点検し、厳しく戒めねばなりません。一、きょう慢 増上慢と同じ。慢心して正法を侮(あなど)る。二、懈怠(けだい) 仏道修行を怠ける。三、計我(けいが) 我見と同意。自分の考えで教義を判断する。四、浅識(せんしき) 浅はかな知識正法を批判、または求めない。五、著欲(じゃくよく) 欲望に執着して正法を求めない。六、不解(ふげ) 教義を理解しようとせずに自己満足している。七、不信(ふしん) 正法を信じない。八、顰蹙(ひんしゅく)(顔をしかめることから)正法を非難する。九、疑惑(ぎわく) 正法の教えを疑い(まど)惑う。十、誹謗(ひぼう) 正法を謗(そし)り、悪口をいう。十一、軽善(きょうぜん) 正法を信受する人を軽蔑(けいべつ)し、馬鹿にする。十二、憎善(ぞうぜん) 正法を信受する人を憎む。十三、嫉善(しつぜん) 正法を信受する人を嫉(そね)み妬(ねた)む。十四、恨善(こんぜん) 正法を信受する人を恨(うら)む。総本山第六十七世日顕上人猊下は、「このうちはじめのきょう慢と懈怠の二つが最もよくなく、この二つから他は出てくる(取意)」(大日蓮602号29頁)と仰せになっていますので、特にこの二つは厳重に点検しなければなりません。また、十一から後の四項は同信の者同士にも多発する謗法ですから要注意です。3、八風(はっぷう) 四条金吾殿に御訓戒された八風(四条金吾殿御返事・1171)も、十分に心すべきことです。八風とは人の心を煽動(せんどう)して正しい判断を謝らせていく八つのもので、八風に侵(おか)されると信心が次第に狂っていきます。利(うるおい) 欲しいものを得ること。誉(ほまれ) 陰で賛美されること。称(たたえ) 面前で賛美されること。楽(たのしみ) 心身を悦ばせること。以上を四順(しじゅん)という。 衰(おとろえ) 損失すること。毀(やぶれ) 陰で悪口されること。譏(そしり) 面前で悪口されること。以上を四違(しい)という。 「心の財」よりも「蔵の財」「身の財」に執着している人ほど八風に侵され易く、「侵されたら諸天の加護はない」と大聖人は仰せです。信心を狂わせる要因として、八風は厳重に警戒すべきでしょう。 4、知恩報恩 報恩は仏道修行の要諦ですが、特に仏祖三宝尊への御報恩謝徳の心は信心の眼目ともいうべき大事です。ともすれば忘恩の徒輩になりがちな私たちですから、常に自身に問いかけ、言い聞かせて御報恩の一念を堅持し、貫いてまいりたいものです。この点検は極めて大切です。 妙教平成10年1月号より仏法の視座から『信心の点検』 ある法華講の方が書いているメルマガのバックナンバーからのコピペです。 日々の修行をきちんとしなければならない事と考える次第です。
2009.04.10
私は、某運輸業で仕事をしております。やはり、点検は常日頃からしないと、一歩間違えたら大惨事です。 信心においても、やはり常日頃から、御本尊に向かい自分自身の信心を点検する意味でも、きちんと、日々の勤行と唱題は大切だと思います。 【魔は不断に競う】 「月々日々につよ(強)り給へ。すこしもたゆ(弛)む心あらば魔たよりをうべし」(聖人御難事・1397)との厳しい御指南があります。「魔競はずば正法と知るべからず」(兄弟抄・986)の御指南のように、正法受持には魔が必ず競い起こります。ゆえに、私たちの仏道修行は魔との闘いということになります。いささかも信心が弛(ゆる)めば魔に侵(おか)されて、功徳の道が断たれてしまいます。このことは肝に銘ずる必要があります。したがって、信心の点検には魔に侵されぬという視点が不可欠ですし、さらに大事なことは、年に一回や月に一回やればよいというような安易な問題ではなく、日々欠かしてはならない重要作業であることを、まず指摘しておきたいと思います。魔は一日も休むことなく常に私たちの信心を崩そうと働きかけていますし、信心を強盛にするほど魔がより強く競い起こってくるからです。魔に徹底して強い人こそが信心強盛の人といえましょう。そして強信の人は必ずその人なりに絶えず自分の信心の点検をしております。【点検は慙(ざん)の心から】「私は絶対に退転しません」と言う人が簡単に退転していった例がいっぱいあります。このようなことを軽々しく言い切る軽薄さが問題です。どうみても怨嫉(おんしつ)しているのに、「私は怨嫉なんかしていません」と言ってのける例をよく見受けられます。注意されても聞き入れずにはね返してしまう心根が問題です。この娑婆(しゃば)世界の人間は、とにかく貧・瞋・癡・慢・疑(とん・じん・ち・まん・ぎ)の三毒・五鈍使(ごどんし)が強盛です。過去世からの謗法の罪障(ざいしょう)によって、命の濁(にご)りの増幅された衆生が生まれ集まった世界です。自分もその一人であり、例外ではないまことに深く自覚しなければなりません。稀(まれ)なる宿縁によって、今生に三大秘法の御本尊に巡り会い受持することができたのですが、煩悩(ぼんのう)の障(さわ)りを免(まぬが)れることは容易でありません。命の濁り・煩悩があるかぎり、魔につけこまれて侵され、信心を弱めくるわされてまいります。ですから、自分も魔に侵される危険にいつもさらされているのだという強い自覚と、それに基づく戒(いまし)めと反省の心が絶対に欠かせないのです。すぐに退転状態になったり、信心を狂わせたりする人は、これらの自覚と戒めと反省の心が例外なく欠如(けつじょ)しています。また、信心年数が長いわりに成長しない人や境界がなかなか向上しない人にも、この傾向が顕著にみられます。信心していても、自分の命の濁りに無自覚な人、戒めと反省心が欠けた慢心の人は魔に対して無防備ということであり、魔の餌食(えじき)になり易(やす)く、したがって妙法の真実の功徳には無縁の道を辿(たど)りかねません。信心の点検は、まさしくこの自覚と反省の心より生じ、実行されるのです。【点検基準を自ら作る】この信心の点検の基準は、申すまでもなく、諸御書に数多く御教示あそばされています。自分の信心はどうあるべきか―この命題への答えを求めることこそが、教学研鑽(けんさん)の最大目的の一つなのです。御書をはじめとして大日蓮・大白法・御講の法話など、私たちの周囲には信心を正し、深め、戒めていく諸縁・諸資料がいっぱいあります。これらの善知識を求めて接し、学び、信心の糧(かて)を摂取(せっしゅ)していくことのなかに、おのずと自分の点検基準が組み立てられていくに違いありません。信心が深まるにつれ、この基準も厳しくなっていくでしょうし、浅い信心には甘い基準となるでしょう。基準らしきものがあっても漠然(ばくぜん)としている方は、この際基準を明確に定めて取り組まれることをお勧(すす)めいたします。
2009.04.10
つづいて法主上人と総監の読みあげにしたがって、大聖人御筆「紫宸殿御本尊」をはじめ、日興上人・日目上人などご歴代上人の御本尊が内陣と外陣の特設柱に奉掲されます。最後に大石寺が創建されたとき、日興上人から日目上人に授与された大幅の「お座替りの御本尊」が外陣中央に奉掲され、ここで読経唱題があります。このあといちいちの御本尊について上人名・年月日などわかりやすい解説がおこなわれます。総本山には大聖人から現在にいたるまで、代々の猊下の御本尊百二十幅余が秘蔵されていますが、普通実際にこの虫払会に奉掲されるのは大聖人から第九世日有上人まで六十幅あまりで、ちょうど半分位に過ぎません。 御本尊のお虫払がおわると、こんどはご真翰巻返えしに移ります。これは大聖人がお書きになった御書をはじめ、日興上人・日目上人などが書かれた書物やお手紙にお風入れをする儀式です。法主上人が中央の高座に登られ、読経ののち「身延相承・池上相承」(古写本)と、日興上人が譲状として日目上人に与えた「日興跡条々之事」をとり出してお読みあげになります。引続き「春の祝御書」「三三蔵祈雨事」「減劫御書」「宝軽法重事」「白米一俵御書」「閻浮提中御書」「衆生心身御書」「諌暁八幡抄」「莚三枚御書」など、日頃親しんでいる御書の名が次々に出てきます。これら大聖人御真筆の御書二十六巻は、去る昭和四十二年、国の重要文化財に指定されました。 このほか、日興上人書写の「立正安国論」「法華取要抄」「四信五品抄」「法華経八巻」、さらに「上野殿御返事」「窪尼御返事」などたくさんのご消息御書の写しや、他のお弟子に与えたお手紙、日目上人・日道上人のお手紙、あるいは大聖人の伝記のなかでもっとも古いものとして有名な、日道上人の著わされた「御伝土代」、日寛上人正筆の「六巻抄」など、七百年の歴史と伝燈の重みを示すかずかずの重宝が披露されるようすは、まことに壮観といえます。 参列者に披露された御書や文書は、僧侶の手によりお風入れがおこなわれます。内陣正面に置かれた長い机の前に大勢の僧侶が座り、巻物をひろげながら扇子で風を入れ、また巻返していきます。かけがえのない重宝を損なうことのないように、白手袋をはめ、細心の注意をはらっておこない、順次もとの長持に納めて、儀式は終了します。 大聖人がご入滅されたのち、本弟子六人のうち、日昭・日朗などの五人は、“大聖人が仮名文字で書かれた手紙は、御供養の返礼として愚痴の者を導くためのものであり、これを残しておくことは、大聖人の恥を後世に残すようなものだ“と言って、すき返したり、どんどん焼いてしまいました。これは、結局“大聖人は末法の一切衆生を救う仏様である、したがって大聖人のおおせられたお言葉、書きのこされた文字は仏様のご金言であり、尊いお経である“という、もっとも大事なことを、血脈相承のない五老達がよくわからなかったためといえます。正嫡第二祖日興上人は、その心得違いをさとすかたわら、つとめてあちこちに散らばっている御書を集めたり、重要な御書の目録を作り解説を書きのこされました。また、みずから筆をとって御書を書き写すなどして大聖人の尊い教えがなくなってしまうことを防がれたのです。 こうした日興上人の厳然たる令法久住のご精神を受け継いで、代々のご先師方が身をもって守り、信徒の人々が外護してこられたからこそ、今日我々は尊い聖教をまのあたり拝観することができるのです。 このお虫払法要の儀式を通して、大聖人の仏法を一分の誤りもなく正しく伝え来たった本宗の伝燈に思いをいたし、正法護持の大精神を学ばなくてはなりません。そしてこの唯一絶対の大白法を信じまいらせて、社会にじっくりと根を張り、妙法広布への前進を誓っていくところに大きな意義があるといえましょう。--------------------------------------------------------------------------------本證寺
2009.04.06
第二日目の七日は、午前零時から大客殿において勤行衆会(丑寅勤行)があり、法主上人の広布成就のご祈念に随従して、出仕の僧侶や参詣信徒も祈願をいたします。午前七時、法主上人はふたたび御影堂へ出仕され、例月の如く二祖日興上人のご報恩お講を厳修されます。ついで午前九時からいよいよ客殿において霊宝お虫払の行事が開始されます。これに先立って、ご宝蔵にしまわれているかずかずの重宝が大客殿へ運び入れられます。重宝は輪宝じるし・鶴丸じるし・亀甲じるしの三つの黒漆塗り長持に入っています。それぞれの長持を輦台に乗せ、金らんの打敷でおおって僧侶がこれをにない、法主上人のご先導される輪宝長持を先頭に鶴丸・亀甲の順に参列者の待ち受ける客殿にお移しします。ここで総本山の総代人が立合って長持の封印を切り、輪宝長持から大聖人の「ご生骨(お肉牙)」と「雨の祈りの三具足」がとり出され正面の御前机にそなえられます。
2009.04.06
毎年四月六日・七日の両日、総本山でおこなわれるお虫払法要は、秋のお会式とともに宗門の二大法要の一つです。宗祖日蓮大聖人よりこのかた七百年の長い間、宗門に伝えられてきたたくさんの重要な宝物を後世に永く伝えていくため、年に一度湿気を払い、害虫を除くなど保存に必要な手入れをし、あわせて多くの参詣者に披露して信行倍増に資する大事な儀式です。 このお虫払会は、遠く第二祖日興上人の法宝伝持のご精神に起源を求めることができましょうが、残念ながら文献としては残されていません。折々お弟子方を督励しては虫払をされたことと思います。記録にとどめられているものとしては、第十四世日主上人の時代(十六世紀)に、七月あるいは八月におこなったようすを記した正文書がありますが、これらが古い方といえましょう。そののち江戸時代以降は大体六月におこなわれてきたようです。しかし、当時は三年おき、または一年おきでした。現在のように、毎年四月に奉修するようになったのは大正時代になってからのことです。 現在おこなわれているお虫払の行事を大略記してみますと、まず四月六日、第一日目、最初の行事であるご開扉の時、読経のあと題目の最中に、法主上人がみずから奉書を以て戒壇大御本尊御煤払いの式をなされます。夜に入ってからは、あかあかとかがり火が燃えさかる参道を、大勢の僧侶を従えた法主上人がしづしづと御影堂へ向われ、内陣中央にしつらえた高座に登り、御書講をなさいます。また、このあと、僧侶による布教講演会も催され、初日の行事が終ります。
2009.04.06
明日、四月六日、七日は総本山大石寺にて、二大法要の一つ、霊宝虫払会があります。 総本山大石寺には、日蓮大聖人のご真筆の御本尊や御書をはじめ、多くの重要な宝物が厳護されています。 霊宝虫払会は、これらの宝物を後世に伝えていくため、湿気を払い、害虫を除くなど保存に必要な手入れをし、参詣者に披露して信行倍増に資する儀式です。(法華講員の心得より) これは、代表登山なので参加したくとも参加は出来ないです。 参加出来る方々が、うらやましいです(:_;) 顕正会では、知らない事でしょう。 明日、詳しい内容を書きたいと思います。
2009.04.05
今月から始まりました! 国内の法華講約15万人が、一人一日五千遍(二時間)の唱題をする。 七百五十億遍唱題行の功徳で完全勝利を 私は、仕事柄夜勤があるので、中々出来ずです。 休日と日勤はやれるように努力をしなければ、と思います。 大聖人様は、唱題について 「深く信心を発(お)こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、是を磨くとは云ふなり」(一生成仏抄・御書46ページ) 「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深(じんじん)なり、是を信受(しんじゅ)すべし。」(聖愚問答抄下・御書406ページ) と、唱題を唱える事を仰せであります。 ただの思いつきとかではありません。 大白法に書いてありますが、今まで曖昧だった誓願が、自らの中でくっきりと際立つこと。自ら唱えた御題目によって菩提心が育まれ、救うべき人が自分にはいることを思い出し、一日一日がいかに大事だったかを思い出す。自身の立てた折伏の誓願であり、御命題達成に邁進するとの誓いを思い出すのである。 指導教師のもと、講中挙げての唱題行である。この尊い御指南により、講中が大きく変わる。全体で励んでいこうという流れに身を置ける中、人間関係までも変わり、共に励む仲間やよきライバルが出てくる。 私も、この唱題行により、講中が一致団結すれば変わると思います。 何故、唱題行か?唱題による功徳により、これからの発展が変わると私は思います。 御法主日如上人猊下は、本年の未曾有の記念事業が執り行われる時を 「こうした時には内外とも必ず三障四魔をはじめあらゆる困難が我々の行く手を阻みます」と、断言せられ、己の欲望に負けて信心が疎かになったり、物事の道理が判らなくなって正しい信心を妨げられたり、身近な人や権力者によって妨げられるようなことが出てくると御指南あそばされています。 他にも、組織の要として励んでいる人に病や家庭の事情といった事で手かせ足かせをかけたり、その動揺をもって講中に揺さぶりをかけよう等と、魔も必死である。そして、この障魔の起こってくるのが下種仏法である。そこに御法主上人猊下が、 「障魔が競い起きたときこそ、大難四ヶ度、小難数を知れずあらゆる難を身をもって乗りきられた大聖人の御一代の御化導を拝し、我らもまた、いかなる困難・障礙(しょうげ)にも負けず、強盛に信心を貫きとおす覚悟を一人ひとりがしっかりと持つことが肝要」と仰せのように、七百五十億遍の唱題の功徳をもってあらゆる障魔を打ち破り、後四ヶ月後に迫った七万五千名大結集総会の大成功をはじめ全講員により記念支部総登山、折伏誓願達成を推し進めていこう。(大白法より) 様々な魔が、襲う事は疑い無い事であります。 それを乗り越えていけるように、信心を強く持ち、折伏をしていかなければなりません。
2009.04.04
何回も書いてますが、個人的な責任について、またまた、書きたいと思います。 あるSNSサイトにて、ある少年が、私にいちゃもんをつけました。 「宗教のせいで家庭がおかしくなった」「宗教は、金を巻き上げるだけだ!」 等と、私に文句を言ってきました(;^_^A てか?それは~個人的な責任! ハイ!それしかありません。 私は、個人的責任だと思うのです。 家庭がおかしくなったと言うが、根本的な原因は、宗教でなく、個人的な事だと思います。 なら、”全ての宗教団体は家庭不和”か? (?_?) 違います。 金を巻き上げると言うが、それも個人的な責任です。嫌なら、出さない事です。ちゃうか?うん? きちんと、日蓮正宗の教義を理解しきちんと信仰をしているなら、個人的責任において、供養をしているはずです。 金を巻き上げる。個人的責任において、考えれば騙されてしまうなんてありません。 その少年に説明しても聞かずです。 まだまだ、世間一般を正確に分かっていないから、仕方ありません。 成人式を過ぎて、きちんと社会に出て、働いて稼いで、お金の有り難みを自然と学習していくでしょう。 しつこいですが、”個人的責任”です。 何でも、人に責任を押し付ける事、所属の団体の責任にする事は、”逃げ”でしかありません。 よく、負け犬の遠吠えと言いますが、個人的責任を他人のせいにし、気にいらないから、間違えた情報を鵜呑みにし、ネットを使い。誹謗する方々がまま見受けられますが? きちんと、個人的責任でやらなければならないと、感じます。 人に責任をなすりつける。私は社会人になって十年ですが、そういう人は、私は最低だと思います。 これは、信仰云々まったく関係は無い事です。 何だって、個人的責任において、やらなければならないと思います。他人の責任、他人に押し付ける事は、あってはならないと私は思います。
2009.04.03
今日は、エイプリルフールです。 前にも書いたと思いますが、嘘は直ぐにバレると、嘘はよくありません。 嘘つきは泥棒の始まりだと言うのですが? 泥棒は物を盗み事です。 では?嘘をつくと? まず、信用が失ってしまいます。 信用ってスッゴク大事な事ですよね?信用を無くしたら、信用回復が大変です。 一昨日、私の日記にいろいろ嫌がらせをした方、多重ハンネを使い。荒らす行為は、信用を完全に無くしてます。 書き込みした人のプロバイダや携帯電話の会社まで、分かってしまいます。 アクキンにしましたが、その方は、あるブログサイトで、日蓮正宗の事を悪く書いているようですが? 嘘は、よくありませんね! 嘘、顕正会や学会にも言える事です。 過去の発言を隠し、嘘をつく、その行為は世間から見ても正しくありません。 仏法から見ても同じです。 嘘は、直ぐにバレます。嘘をついても、信用が無くなるだけです。
2009.04.01
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